7、森蘭丸と後藤又兵衛

(1)木下長嘯子のこと
 芭蕉で「挙白」という人物が出てきました。これが木下長嘯子という人で、その著、「挙白集」は芭蕉の愛読書だそうです。「木の下」というのは藤吉郎でお馴染みですが、芭蕉でもよく出てきました。「木の下」が出るたびに、この人物が常に芭蕉の頭の中にいたと思われます。ネットで木下長嘯子を見ていましたら稗田浩雄という人の文がありました。そこに謎の人物「天正記」など重要文献を書いた大村由己の名前が出ていましたので、この記事を参考にして、長嘯・由己という大物に触れてみたいと思います。以下の本稿の引用(『』)は稗田氏の文からのもので、これをテキストと呼んでいます。
はじめに
     『その風聞などから漠然とその人となりを懐かしみ、詳しくその人となりを知るに及んで直感が誤ら
     なかった会心の喜びを覚えることがある。古人の書を読む悦びのひとつであろう。木下長嘯子はま
     さにそのような人であった。』〈テキスト〉

 とあります。なんとなく知れば知るほど、思っていた以上であったことが分かってくるという人物という感じがします。ただ本稿は、そこまで深く作品を読んで論じるというわけではなく、この記事に書かれている片言隻語から読み取れる範囲の手抜きしたことを書こうとしています。このような好意的な風聞が伝わっていることは長嘯子をよく伝えようという記録者の集積の結果であることはいうまでもないのですが、あいまいなところが多くて評判がよいということにはなっていないと思います。実際の姿は、かならず分かるように述べられていてその結果を知っていての評判と思われます。長嘯子は晩年、京都西の小塩山の山間にある勝持寺に隠棲しましたが、この寺は

    『俗に「花の寺」と呼ばれ西行が剃髪し庵を結んだ所であり桜で古来知られている。』

となっています。空海や西行は神出鬼没で、芭蕉もいろんな人と重ねてきていますが、それと同じように長嘯子は、後世には西行と重ねられて理解されてきたと思われます。

    『木下長嘯子は(1569〜1649)名は勝俊、長嘯又は天哉の号がある。近世初頭の歌人として文
    学史上に令名高い大名であった。豊臣秀吉の正室北政所の実兄木下家定の養子である。関ケ
    原の役で東軍に寝返り西軍敗走の原因を成した小早川秀秋のほか利房、延俊が同じ家定の子に
    いた。豊臣政権下にあつて十九才のとき播州龍野の城主となり若狭小浜の領主となつたのは二十
    五才の時である。
     慶長五年、関ケ原に先立ち徳川家康麾下の武将鳥居元忠と共に伏見城を守っていたが、石田三
    成の軍勢に攻撃され伏見城を放棄し脱出した。これを咎められ小浜六万八千石を没収された。
    後慶長十三年、家定没後、家康は足守二万五千石を長嘯と弟利房二人に分知させる意向であった
    が、家定の妹高台院が長嘯に与えたといわれる。しかし家康の怒りを買い十五年領地を没収され
    た。ここに剃髪して京都東山のち西山に隠栖し世を終えた。』〈テキスト〉

 というのが長嘯子経歴の概要ですが、下線の部分によって卑怯な武将というレッテルを今に貼られています。城を放棄したことについては多くを語っていないのですが、手紙があるようです。

    『長嘯が伏見城を放棄した理由について自らは多くを語っていない。連歌師里村昌叱あての手紙で
    伏見城の攻防で都に戦禍が罹ることを恐れ
         「しばし蝸牛のあらそいとどめ侍りし、思う所なきにあらねど」
    と豊臣、徳川の抗争を蝸牛角上の争いとみなし、世の誹りを覚悟の上で決然渦中から去ったのであ
    る。長嘯にとつて豊臣・徳川の抗争よりも守るべきは朝廷の都すなわち文化であった。この点武将
    の枠からはみ出ていたといえる。あるいは伝統のなせる業かもしれない。』〈テキスト〉

伏見城の守備を命じられいて、石田勢に攻められて脱出したということのようですが、関ケ原の戦い自体に非常に複雑な背景があるので、そのことを書いている資料の細かい読みが必要ですが、いまその資料がわかりません。慶長記では家康は伏見城玉砕など考えていなかったという印象をうけます(前著)。とにかく結果、城主の地位を失ったのは家康の戦勝後の処置なので、理屈はあとから出てくるの類でしょう。
今の通説は、徳川は、伏見城を落城させる積もりだった、徳川の将士が玉砕することにより士気の向揚をはかったということでしょうが、この説のような見方からすれば、そこに配属されたものは、徳川の将士の取る行動の道連れにさせられてしまいます。その指揮下で動くことが当然の前提とされているといってもよいかもしれません。
 北の政所や長嘯子などは情報のよく集まる位置にいたから、それが人よりよく見えていたはずと思われますので、そういう状態を避けることは選択技としてはありえることではないかと思います。つまり長嘯が城を明け渡すことについては通説的な見地からいっても根拠があります。周囲の状況は、弟という小早川秀秋も一番の大軍をもって攻撃側にいたわけですから、その誘いがあったとまではいえないにしても、敵味方判然としない状況なのです。
 伏見城を攻撃した立花宗茂や島津義弘、小早川秀秋などは東軍だったとみてよく、島津義弘などは城へ入って籠城を申し入れたが城内から拒否されてやむなく攻撃側に回ったというような挿話があるほどで、成り行きで石田方についてしまったという通説自体がたいへん怪しいのです。まあすべてが迷っていたということではなく、攻撃方・守備側に徳川方・石田方・どちらでもないというのが混じっていたということがいえるだけだと思います。
 肝心なことの一つは長嘯は寝返ったわけではなく、つまりあとで本領を安堵された、島津や小早川や立花のように徳川を攻撃しなかったということ、兄ともされる小早川秀秋のいる攻撃側にも回らずその場を去ったのは、どちらでもない立場にいたことがまずはっきりしています。
 長嘯は、味方同士が争うという愚を主張し、その意見の物別れの結果退場したということなのかもしれません。これはテキストにある本人の言い分
           「蝸牛のあらそいをとどめ侍りし」
 が一つのポイントでもあるのでしょう。この文のとどめ侍りは意味がわからず、問題です。「とどめ」というのが「蝸牛のあらそい」につきるといっているのか、鳥居元忠などを止めたという意味かわかりませんが、両方の意味を込めたものではないかと思われます。いずれにしても勝俊が中立を貫き無駄な犠牲をさけたわけで勇気のいることだったと思います。蝸牛のあらそいという面では、経過や結果からみても豊臣・徳川の争いというのは当たっておらず、秀頼、淀殿を大阪城の主にしたのが徳川の意向だったわけです。
豊臣は北の政所が主権者として長年君臨してきたということが重要で、権力者が一旦手に入れたその座を放棄することは考えられないことです。政所が大阪城を去る道理がなく追放されたわけです。これがわかりにくいことになっているのは淀殿に子があり、政所には子がなかったということから当然のことだと解釈されているからです。つまり徳川内部の主導権争い、暗闘があったというのが真相で、両者がこの時点ではまだ、お互いを必要としていたという勢力のバランスが崩れていなかったときにあたります。加藤・福島・毛利などが、秀頼を立てるのも、一方で豊臣家の安泰を願うというのも、いずれ両者の顔が立つように処理されるだろうからとみているからでしょう。結果一番利益を得たものをまず疑えといわれますが、それが最もあざやかに現出されたのが徳川の政権樹立の場合です。
関ケ原の戦いは徳川が挑発した、徳川と反徳川の戦いで、石田方が豊臣を担いだというならばその徳川の弱みを突いたことになります。結果的に伏見城を攻撃した島津・立花・小早川などにそのあと弱みを持たせるようなことになったので家康は伏見落城を利用できたとはいえますが、伏見城が攻撃されることは知っていたような話だったことから考えるとこれも策謀だったかも知れません。それだと伏見城の将士には余りに酷なことになってしまい、また長嘯を殺そうとしていたことにもなります。関ケ原の合戦は、作戦が一本でない、家康が自軍を二つに分け、その上秀忠の大軍の合流を待たずに戦ったという根本的におかしいことが起こっているので、案外伏見城のことなどなおざりになっていたのかもしれません。
 まあここまでのところは、長嘯子が改易になったから卑怯といわれるのではないか、と思われるので一言入れたものです。脇坂と赤座・小川は同じことをしたのに、脇坂は本領安堵になったから、はじめから内応を約していた、先見の明あり、となっている、真田は助けられたから、はじめから家を残す作戦だった、先見の明があった、というのと同じようなことが、長嘯子にもあったかもしれない、と思います。
長嘯子が「逃げた」といわれるのは、二つの意味があるのでしょう。本来的に逃げる体質が備わっている人間
というものがある、というのと現場を去る勇気があったというものでしょう。味方と思っている小早川らと
戦って大勢の家臣を道連れにするのはばかげています。
芭蕉が尊敬した人だから、その考えと行動がそれなりのものであったということでもよいのかもしれません。

(2)出 自@(表向きの出自)
  (a)武功夜話系図
長嘯を述べる場合、まず秀吉室である北の政所の身内ということが語られることになります。すなわち長嘯が北の政所のの子(養子)ということになっているのですから政所の甥です。小早川秀秋も同じ「甥」のようですから、その意味では兄という人は重要な役割を果たしていることになります。
北の政所の家系図は一般にいわれているものと、武功夜話のものとがあります。(〈戦国〉)
武功夜話によれば下記の通りで一般には無視されているものです。これによれば、父は信長公記に出てくる林弥七郎で、兄は林孫兵衛です。この人の夫人が朝日(旭)といい、秀吉が家康と和睦するために家康に嫁いだという人です。この朝日の実家が杉原氏です。
             
         林弥七郎ーーーーーおね(秀吉室)
                      |
                      ●林孫兵衛
                        ‖ーーーー▲木下家定ーーーー★木下勝俊
         杉原家利ーーーーー朝 日
                      家次
 
まずこの系図は基本的なところでは合っていると思います。ただ武功夜話の性格上これにも多少の操作があります。武功夜話の本文では●林孫兵衛に、(木下家定)というルビが付されているのが多々出てきます。これは武功夜話では、北の政所の実兄である林孫兵衛が木下家定とみられているといっています。しかるに、この系図では▲は林孫兵衛の子になっていますので、親子の木下家定が出てきていることを語っていることになります。要は木下家定二人というのが武功夜話の指摘です。これは次の(b)の通説によるものを頭に入れた上で、武功夜話が作った系図ですから、そういえると思います。
 現在、上の (a)の●が木下家定であることは通説です。
そこに▲も木下家定とされているといいたかったのが武功夜話の系図の意味だと思われます。
 同様に▲は、★木下勝俊の親だといっているのが重要です。先ほど 
     『木下長嘯子は(1569〜1649)名は勝俊、長嘯又は天哉の号がある。』
 とありましたように、木下勝俊というのは長嘯のことです。後に足守藩主となった人も木下勝俊ですが、それだと長嘯が一旦禄を奪われ、再起用されたということになりますので少しおかしいのです。武功夜話では、●の子の世代の木下家定については名前が出ておらず▲「木下家定」だけです。▲は長嘯子が該当しますから、★の木下勝俊と「木下勝俊」も二人いることになるわけです。

 (b)一般的な系図
今理解されている通説のようなものでは、武功夜話にはない子の世代のものも出てきて、それによれば
     
            杉原家利
              ‖ーーーーーおね
            朝日       |  
            家次       ■木下家定ーーーー秀秋                
                                    勝俊
                                    利房、延俊

のようになっています。
この■が「おね」からみれば、はじめの●に該当することは明らかです。問題は、朝日、家次が親の世代に入れられており、ここに操作がありそうな点です。
一つは「朝日」が出ているのに、それがおねの親の世代になっていることです。すなわち、「朝日」も二人で、(a)のものと世代が違わせて出ている書があるということです。これは既に予想されることで「朝日」は「旭」として知られている人もいます。徳川・豊臣の和解のため、あの家康と結婚した「旭姫」がそうですが、それはここでこの「朝日」であったことが隠されたようでもあり、これを武功夜話が明らかにしたといえそうです。
 どうも武功夜話のものが合っていそうというのは、この
      朝日が二人出てきたことと、
      おねの姉が「朝日」、あの秀吉の妹が「旭」(通説)
という挿話があることからも窺えます。(この政略結婚のことは余りに不自然で、同性の結婚ということが前提である社会でないと成立しないので、ここでは省略)
 こういう作られた感じは、この系図から「林」が抜けてしまっていることでも分かります。この通説では「おね」がいいたいことがはっきりします。まず自分は「杉原家」の出身だということです。林弥七郎の子であり、林孫兵衛の妹であることを隠そうとしているようにみえます。隠すために名前が変えられた、その結果、杉原も前面に出てきた、木下家定も出てきたということがわかります。
 実際「おね」が林氏であったことは信長公記が挿話をちりばめて述べていることから推察できます。林弥七郎に「弥」がついていて、林孫兵衛に「孫」がついていて、注目人物とされる材料もそろっています。利仁流の「林」ですから、「明智」にもつながっているはずで、それを信長公記がはっきりいわずに記述していると思います。太田牛一も林弥七郎とは橋本一巴を通じて親しい間がらです。
また両方の系図に有る「朝日」の兄弟の家次が重要人物で杉原七郎左衛門家次といい大村由己に洛中の情報を流しこのことを徳庵永種が書き残しています。これは〈戦国〉で触れました。家次はどちらの場合でも朝日姫の兄弟です。
 この二つの系図からいえることは、「二人」とか「世代を違わせる」とか「名前をかえる」とか、「ルビ」で示すとか、「おね」は家次にとっては姪であるとともに、妹でもあるという二つの立場になっていることなどの捉えどころないものが出てきている、すなわち吾妻鏡の手法が使われていることがわかることです。
 また「養子」とかいうのも出てきました。例えば「おね」でさえ浅野又右衛門の養女ということで、浅野長政とは兄弟でないことがあらかじめはっきり理解させられていることは周知のことです。シーザー(カエサル)の養子がオクタビアヌス(アウグスツス)というようなよくわからないのがあるのと似ています。
木下家定という人物は二人いることにしたい、一人目の家定は林孫兵衛と重なり、二人目の家定に木下勝俊という子がいる、長嘯も世代的にはここに位置をしめるしまたその名が勝俊だから、勝俊も二人いる、二人目の家定は、家定と勝俊と重なっているということがなどがわかります。系図(a)(b)を見て、▲と■の木下家定が作られいろんな操作の引き受け役のような感じとなっていることなどがわかってきました。

 (c)綜合系図
よくわからないのだから、別の資料が出てくるのを待っている、しばらくおいておくというのが支持される行き方となっています。しかしここまで資料が揃っているのだから、よく考えてみなければならないというのが行くべき方向です。武功夜話などの資料は頼りないなどといっている段階ではないようです。甫庵太閤記なども頼りない資料の代表のようにいわれますが、戦前桑田忠親博士は、その一部を削っているのです〈前著〉。また誤植だといってしまえば終わりですが、著書の中の一字を変えている例もあるようです。とにかくここで
(a)(b)図を綜合してみます。二つの系図を整合させてみなくてはなにも見えてこない、多少無理にでも記録者のいいたいことを探っていかなければ資料を生かせません。
 ●は「おね」の兄という位置にあります。したがって
       「おね」にとっては朝日も、家次も兄弟
ですが、一方で
       朝日はおねの生みの母でもあり、家次は叔父です。
二つの系図から、家利がおねの父、浅野又右衛門もおねの父、林弥七郎も父となって、一体この関係はどうなってくるのかというようなことが出てきます。
 杉原家利という人物が実在しながら、操作媒体となっていると思われます。、つまり家利は朝日・家次の親にすぎないのに、林弥七郎と重ねられているということかと思われます。すなわち浅野又右衛門と林弥七郎が当時でいう夫婦で、おねは弥七郎、浅野長政は又右衛門のそれぞれ実子で二人は義理の兄弟だったという線がでてきます。子の世代もいれると次のように整合できると思われます。林と杉原を入れ替えると木下家定は家次で語られたのではないか、武功夜話に、天正五年
       「杉原孫兵衛」という珍妙な名前が出ますので〈前著〉
それも根拠となると思います。これまでは林孫兵衛と杉原(浦)家次は並行して出てきていました。

浅野又右衛門
  |ーーーーーーおね
  |
杉原家利ーーーー杉原家次の木下家定(1)ーーー小早川秀秋(養子)
林弥七郎      林孫兵衛                 
            |     ーーーーーーーー−(1)の子の木下家定(2) 
            |                  木下長嘯子(養子) ーーーー木下勝俊
            |                   
            |
           (朝日)  ーーーーーーーーーー延俊
            杉原氏                利房 

おねにとって兄林孫兵衛は隠したい、自分を林孫兵衛の妹ではなく杉原の妹としたいのが本音ですから、家次が木下家定と改名したのを受けて、これをおねの兄としたのではないかと思われます。
 秀吉は北の政所の兄、家定に子がある(小早川秀秋のほか利房、延俊)というのに、なぜ木下勝俊を養子にしたのかまったくわかりにくいことです。しかも勝俊は十九歳で龍野の領主です。従来は比較的説明がしやすく、身寄りのない秀吉が北の政所の身内に期待して引き立てたとなっています。これは家次が長嘯を養子とした、長嘯を引き取ったのは朝日姫の実家の杉原氏の木下家定ではないか思われます。木下家定は杉原家次にもなりうる存在です。この人物は太田牛一につながっており、松の丸にもつながっているのです。
家定が林孫兵衛の位置にある世代の人と子の位置にある世代の人の二つあることから、前者を家次とすれば、後者は長嘯となることは述べましたが、ここから次の記事も理解できるのではないかと思われます。

    『家定没後、家康は足守二万五千石を長嘯と弟利房二人に分知させる意向であったが、
    家定の妹高台院が長嘯に与えたといわれる。しかし家康の怒りを買い十五年領地を没収
    された。』〈テキスト〉

この話は、長嘯を勝俊一人としたことで分かりにくくなっている、この家定は家次として、足守二万五千石は長嘯子の子息としてこそ理解できることだと思われます。これは長嘯子父子を注目させるための挿話でしょう。家康の与え方もおかしいし、北の政所が木下勝俊を立てる理由がみあたりません。
いろいろなことが複合していますから話がややこしくなります。太字の人は養子として仮に系図に編入した、この二人は他家の人で、事情があり、木下家定の子息にされているもので、そのため木下家定が一人作られました。皮肉なことにこの二人は、小早川秀秋に裏切り事件があり、勝俊も逃げたということで芳しくないレッテルが貼られています。要はまな板の鯉になったということですから、そこから操作のエッセンスが汲み取られてしかるべし、といえるようです。戦国が読み取れるキーとなる人物がこの二人と家定です。
 
(3)出 自A
 長嘯の出生に関しては古くから諸説があるようです。

    『その実母について国文学会で論争が続けられてもいる。・・・・・・・・・・・・・・・・若狭武田氏最後の
    武田元明は朝倉義景に同盟し織田信長に領地を奪われ。明智光秀に与した疑いで秀吉に謀殺さ
    れた。今でも悲運の武将元明は若狭の人にとって感慨を催されるものがあるという。・・・・・・・・・・
    ・・・・「仏国寺本武田家系図」は「小浜市史第三巻社寺文書編に収録された貴重資料であり、津田
    修造「木下長嘯子伝雑考その(二)」にも引用しているここには武田元明最期の思いが綴られてい
    る。』〈テキスト〉

  とあり、その文は

    『(前略)しかれども拙者の代に至り、武田家悉く滅亡す。武運極まるに至る。拙者時至り、此の所に
     於いて自殺せしめられし事今日にあり。其の方幼稚の源太彦次郎を深く相隠し、成長の後、右系
     図相渡し、武田の姓断絶これ無き様に取り計らい申さるべく候。もし幼稚の者不幸にして死すれ
     ば、武田家の武運是迄と存じられ、右一巻其の方了簡に任さるべく候。猶熊谷平右衛門にも申す
     べく候。恐々謹言   天正壬午年七月十八日孫八郎元明(花押)』

 です。武田元明の夫人は京極高子でのち秀吉の側室となったという松の丸です。この文中の「其の方」というのは夫人しかないと思われます。「熊谷平右衛門」にも伝えてほしいといっていますからそういえると思います。ここで源太・彦次郎という二人の子があったことがわかります。、一人が長嘯勝俊で、もう一人が利房のようです。それは次で表されています。

    『津田修造前掲書では更に「稚狭考」を紹介している。これは部分的には疑問の箇所もあるが小浜
    の文書をもとに書かれたものとして重要である。
       (前略)武田元明の子二人あり。肥後守家定養うて子とす。松の丸殿のよしみといえり。
       母は京極氏の女松丸殿なり。二人の子、勝俊・利房なり、勝俊は小浜、利房は高浜、とも
       に本国を領せさせ給うも故ありし事なり。』〈テキスト〉

とあります。

   『この長嘯が武田元明の嫡流であることを「続群書類従」が収める「若州武田系図」でも記している。』

とされていますので、長嘯のことを知るにはこれこれだけで十分です。上のことからいえば
     木下家定(家次)ーーーーーーー秀秋
               |ーーーーーー 武田系の勝俊・利房
                ーーーーーー 延俊
のようになり、ここで「秀秋」と「勝俊・利房」と「延俊」という三グループに分かれることがわかります。すなわち武田の兄弟の「勝俊・利房」を木下家定の子とするのは小早川秀秋をそうするのと同じ事情があるようです。ただ武田兄弟は家次が自分の意思で二人を引き取ったというのが合っていそうです。
 太田牛一と杉原家次は懇意で、〈戦国〉で述べていますように杉原家次の名前が永種の文の中に出てきました。また先に引用した〈美濃国諸旧記〉では、武井肥後守直助・山田兵庫頭重正・井戸斎助頼重などと並んで、杉原六郎左衛門家盛が出てきているので、明智の筋に近いところに杉原がいたことが炙り出されていそうです。
 この書によれば、この家盛の子(家則)が美濃より尾張に出て、この人に一男二女があり、嫡子が家次です。女子は朝日と七曲で朝日は杉原七郎左衛門道松に嫁し、七曲が浅野又右衛門長勝の妻となり、「後に高台院と号す。」とされています。高台院は「おね」だけではないようですがこういうことになっています。(朝日の夫)助左衛門道松(後伯耆守家親)の子が肥後守家定,(秀吉から木下姓をもらって木下家定)で、家定の子は
     『木下若狭守勝俊、二男 宮内少輔利房、三男 筑前守延俊、四男 信濃守俊定なり。
     五男、金吾中納言秀秋、六男、出雲守と申しけるなり。』〈美濃国諸旧記〉

と書いています。四男までで一旦区切りあとは「申しける。」で締められていますので小早川秀秋はやはり別といいたいようですが、とにかくこの「助左衛門道松」という人が「林孫兵衛」と重ねられたといえるのではないかと思います。この「七郎左衛門」は「林弥七郎」の「七」にも通じるのでしょう。
表向きがこのようなことで紆余曲折しましたが、参考記事に書かれていることで大体推定が出来てきました。長嘯の母も推定できそうです。次の〈テキスト〉の補足で十分わかるのではないかと思います。一つは継母がわかることです。

       『長嘯は継母松丸殿の縁で木下家定の養子になった(豊臣一族ではない)』

といわれています。また

       『文武双方のの点で室町屈指の名門である若狭武田の嫡流であったとみられることは、長嘯
       の生涯と生きる姿勢を考える核心である。』

ということで嫡子といっても間違いないようです。松の丸の継子にあたり、嫡流ということは、本来武田を継ぐ人であったわけです。実母は武田元明の夫人ということになりますがこの人の名前が出てきませんので永久にわからないということに帰着しますが、社会の仕組みが今と違うのです。
また松の丸が秀吉の妾になったという意味がかなり変わります。世粛のいう妻妾の位置にありますから松の丸は政所のブレーンという意味も出てくることです。政所も秀吉の名で多くの歌を作っているようにこの道の達人であり、京極、武田という公家文化を引き継いだ人脈が必要であったとも考えられます。
もう一つあると思います。太田牛一が晩年松の丸の護衛をしたということからみるように関係者の接近があったということが特に重要です。例えば、太田牛一は林孫兵衛と杉原家利と家次、松の丸、武田元明などとも親しいということがわかります。そのように張り巡らされている広い人脈の網が、長嘯を庇護し、本来の才能を開花させたというのが長嘯を語る場合の見逃せないポイントです。
 
(4)長嘯子の内室
長嘯子の生まれはこのように二面で語られています。家庭はどうだったかということですが、ここで森蘭丸が登場します。太田牛一の継子かもしれないことはすでに述べました〈戦国・大河〉。しかし実子であったようです。
   『長嘯は本能寺の変で殉じた森蘭丸の姉、於梅を内室とした。森家は織田家中で武勇の誉れ高い
    一門であり、父森可成は戦死、兄長可も武蔵守の称号から鬼武蔵と恐れられた猛将で小牧・長久
    手で戦死した。於梅の弟蘭丸、力丸が本能寺の変で殉じたことは有名である。余談ながら林鵞峰
    の門人で会津藩学形成に努めた服部安休は森蘭丸の子孫である。』〈テキスト〉

 ここで長嘯子の室が出てきました。太字の部分が本稿を書き出した動機となったものです。森蘭丸の姉は歴史には出てきていません。普通いわれるのは、森氏は可成の子として、
         長可・蘭丸・坊丸・力丸
 がいます。これでいえば、蘭丸の姉というのは女だから家系図に出てこないのでわからないとされていてそれで終わりとなっています。しかしここでは姉がいることになっていますので挿話があるか見なければなりません。森家というものが明智と密接に関わっているから吾妻鏡式の文書が各書にちりばめられていることが考えられるからです。
こういう話はまず当時の社会制度がどうだったかでみなければなりません、それを前提とすれば今よりはるかに話が進むことになります。蘭丸の姉というのは、太田牛一に関わるとして描かれた四人以外に、そういう人の話が残っていないかと探してみることが一つあります。
 もう一つは蘭丸の上が長可ですから(甫庵信長記は森長可は勝蔵といって蘭丸の「兄」といっている)、姉とは長可の妻、つまり兄嫁のこともいうのかもしれないとみることも出来ないことはないのです。ただ長可の妻の名前は於梅とはいわれていないことはもちろん名前すらわかりません。長可は、普通、池田恒興の娘婿といわれているだけですし、また兄嫁まで入れると広がりすぎますので、これはないとは思いますが、これも一応、みないといけません。これはあとで触れるとして、まず前者として、姉の記録を当たってみます。
前者でいえば、森可成には嫡子として可隆という人がいます。通常はこの人一人しかいないということで、この人に決まりです。ただその挿話の解読が重要で、ネットで森家を確認してみましたら、この可隆は嫡男ですが、早く朝倉・織田戦で戦死(19歳)したということです。厳密に言えばこの可隆の妻女も森乱丸の姉ということができますが、話をコンパクトにまとめようとするのがこういう手法の特徴でしょうから、これは拡大されすぎですので問題外でよいはずです。
 森可隆をネットで引いて見ますと、かなり件数もありますが、,一つ「ukikimaru/ran/」「森伝兵衛可隆(1552−1570)」を参考にさせて戴きます。挿話が入っていますがここから相当なことが出てくると思います。

   『◎もり でんべえ よしたか◎幼名/? ◎合戦/浅井・朝倉戦◎ 命日/元亀元年4月25日 ◎法   名/至(?)芳宗理禅定門(大徳) ◎墓所/美濃可成寺・位牌が大徳寺三玄院にあるという。・・・・・・・   ・・・・・・(可隆は)早く死んでしまうため、あまり資料もなく、世に知られてないものの、森一族にふさわし
   く、勇猛果敢な人物であり、●千利休とも交流のある茶道もたしなむ風流人でもあった。
   可隆は天文21年(1552年)美濃羽栗郡蓮台おいうところで誕生。元亀元年(1570年)四月、越前
   国手筒山の城に朝倉義景が立てこもったのを、織田信長が攻めたときに、可隆も父可成に従って出
   陣。この初陣が最期の戦い・・・・。』

 これがこのネット記事にある可隆の生涯の概要です。●は19歳にしては、しかもこの戦死の時期にしてはなんとなく早すぎる感じがします。次に他愛ない話が入っています。

   『家来の武藤五郎右衛門が可成に語っていた。
   「今朝、久蔵殿(坂井右近政尚のせがれ)が手筒山の朝廻りに敵を討ち取ったとの事です。」
   可成は(武藤に)怒った。
   「士たるものが16・7にもなって功名を立てたのが何で珍しいのだ。仰々しい事をいうものだ。」
   それを武藤が、
   「自分の子が年若いのに朝寝坊した事を責めずに、久蔵殿の功名を妬んで人を叱りやがる、十九(負
   傷して指が1本足りなかった可成のあだ名らしい)めが!」
   と言い捨てて帰っていった。・・・・可隆はこの武藤の雑言を聞き捨てならぬと手打にしようとした。乳母
   子の勝三郎が袂に取りすがって差し止めた。
   「武藤は常々大口を叩く奴です。明日合戦が始まるので、その時に武藤の鼻をあかすような功名をお
   たて下さい」
   といさめてその場は治まった。しかし悔しくてたまらない可隆は、翌朝一番乗りして比類なき働きをし
   て勝三郎と共に戦の園に散った。可隆19歳。どこに葬られたかは不明と「森家先代実録」にある。』

となつています。
結論的にいえばこの話は、事実ではないが、別の形で真実を述べるために作られたものです。
まず可隆は亡くなる必然があります。ここで勝三郎を道ずれにしています。この「勝三郎」というのは池田勝三郎(勝入・恒興)を指していて(勝三郎をこのようにとるのは他の人物もそれぞれ意味があるから)、池田と森との濃厚な関係を出してきたと思います。すなわち死んだということにしたのは池田勝三郎と同じだということです。
 もう一人、この挿話の武藤五郎右衛門は、信長公記に出てきます。肥田彦左衛門と組んでいるので明智と近いようですが、そのままの名前で出てきています。
 若狭武田の有力武将に武藤氏があり、これはそいう意味でも重要人物ではないかと思います。信長公記では、信長公が浅井長政が裏切ったので退却したというときに、武藤上野が母を人質にして織田に降っています。このとき明智十兵衛と惟住(丹羽)長秀が若狭に人質を出すように派遣されました。若狭は武田の本拠です。のち武藤は若狭に入ったらしく、天正三年、信長公が「武藤宗右衛門所に御居陣。」というように書かれているほどで、信任の厚い人でした。こういうことを匂わせる意味が武藤にあります。 すなわち他愛ないことで名前が出てきているのではないようです。それが明らかになるのは、ここで出てきている坂井久蔵(16・7歳)です。森家の兄弟をネットで調べてみますと概ね次のように集約されます。ただ通説となっているのは森長可の生年と没年だけです。(角川版信長公記人名注索引)
                   生年         没年   享年
         森 可隆   1552    〜  1570   19歳
         長可     1558   〜   1584   26歳
         蘭丸     1565    〜   1582   17歳
         力丸     1567(1566)〜1582    15歳
         坊丸     1567(1566)〜1582    15歳
森蘭丸の姉という場合、まず森蘭丸のことから固められなければならないのに、この調子ではあとが進められません。

(5)森乱丸
いまここに出てきた坂井久蔵は坂井右近の嫡男ですが、結論的にいえば、これは森蘭丸の経過名です。信長公記における森蘭丸のデビューは天正七年、塩河伯耆守への「御使森乱」と出ているものですが信長公記を締めくくった大スターがこれでは不自然でしょう。この森蘭丸に史書デビューの機会が特別与えられたといえます。甫庵信長記は長々と坂井久蔵を出してきました。この初陣「十三歳」のときは

          「信長卿御入洛并坂井久蔵感状の事」

という特別の一節があり、信長は褒め、将軍義昭までが久蔵の表彰をしています。久蔵は姉川の合戦で討ち死(16歳=甫庵信長記)して、物語上殺してしまいますが、甫庵信長記で年齢を二回述べているのはこの人物だけで、
      永禄11年(1568)13歳で、元亀元年(1570)16歳(戦死)
で出ます。ともに「未だ十三歳」「いまだ十六歳」という表現になっており、二回も出てきた上に、年少なのに強いという意味も込められ、よほどその役割が大きく、またその死を傷むというものがあるのでしょう。
 この父の森三左衛門と対で出てくる坂井右近というのも、したがって太田和泉の経過名となると思います。森三左衛門は元亀元年(1570)戦死した(信長公記)のに、元亀三年になって「森三左衛門・坂井右近」(信長公記)で生き返ったような不自然な形で出てくるのもこういうことを表すものです。(前著ではこの坂井を男系の名前とした)。
これで、すこし引っ掛かるのが、先ほどの森蘭丸の年齢と坂井久蔵の年齢の差です。
 逆算した坂井久蔵のの生年は、1568マイナス13=1555になります。これでいけば蘭丸の本能寺における死は27歳(満25歳)ということになります。上のネットでみた森乱丸の生涯(1565〜1582・享年17歳)に合っていません。今の一般の認識と十年おかしいことになりますが、一般にいわれる生年没年は江戸時代の資料によるものですから余り気にすることもないのです。これは年代が経っているからという意味ではなく、更に精緻な吾妻鏡式が展開されるのが江戸時代の資料だからです。日本の文献の江戸時代までは、古事記、日本書紀、万葉などの古典の解説をしているとして読むべきもので、太田牛一などはその対象になっているのは例えば芭蕉・世粛でも明きらかなことなのです。現にいろんなことが書いてあるのに、今の専門家のレベルに達しない程度が低いと決め込んで、目をつぶっているだけです。
森蘭丸らの年齢が長可より低く設定されているのは、長可が兄という甫庵の記事を受けるためで、長可が森家の嫡男とみなされているからこうなると思います。
こういう意味があるので、森一族の宣伝担当で可隆が出てきたといえます。
池田・武藤と森との関係は触れましたが、森乱丸に修正を要求して坂井久蔵(1570年16・7歳、1555生まれ)を出してきたことは19歳の可隆に大きな影響をあたえます。
 可隆の年齢は1570に19歳ということから逆算されて1552になったのではなく記録によるものでしょう。今までの表の面では長可は蘭丸の三つ上にあたり。誰かわからないが坂井久蔵16歳で出てきました。
坂井久蔵の、その三つ上、1552生まれはひょっとして長可の年齢に相当するのではないかという、間接に長可の年齢に疑問を提示したものということも出来ます。
いずれにしても調べなければならないと思うように仕向けたといえます。
信長公記(角川文庫版)人名注からみると森長可については1558が生年と記されていますが森乱丸以下は死亡年だけでしか書かれていません。どこかそのまま使えないというものがあるので、森長可だけが資料で認知されています。これは相当な人が書いた〈三河後風土記〉に27歳戦死で出ています。1584マイナス1558=26になり、長可についてはこの通説で間違いないところでしょう。修正後の表を下記します。
力丸・坊丸はこの書き方からいって同年度生まれと思いますが、蘭丸とは二歳違いで良いと思います。修正後は蘭丸以下は10年繰り上げになり(繰上げといっても元の年齢は牛一・甫庵が書いていない)、乱丸と長可とはこの表では七つ違いで蘭丸が下ですが、坂井久蔵という一匹狼の登場と補足によって、三つ違いの上に変わります。これによれば満年齢では享年は蘭丸満25歳、力丸・坊丸は23歳となり、子息がいてもよい年齢であったと思います。
         森 可隆   1552    〜  1570   19歳
         蘭丸     1555   〜   1582    27歳
         力丸     1557(1556)〜1582    25歳
         坊丸     1557(1556)〜1582    25歳
         長可     1558   〜   1584   26歳
これでいくと蘭丸の姉というのは可隆しかいないことになります。ただ蘭丸の姉というのは長可夫妻がありえるので調べねばならないということになります。

(6)於梅
可隆についてもう少し掘り下げてみると、ひとつは可隆が可成を宣伝している、つまり森一族は明智とセットされなければその戦国時代にしめる位置が認識されないわけですから、森可成を打ち出したと考えられます。この可隆というのはこれは何者と考えさせるから、そいう呼びかけと思うことがいいのかもしれません。

 @可隆は可成を表す。
父の森可成の没年は(1570)で、、元亀元年9月19日に戦死でその記事が信長公記にあります。死亡年が同じです。名前の違いは、可成と可隆はあぶり出しで同一人物を表しているととれます。大谷吉隆は大谷吉継であり、後藤基次は後藤政次もあります。
死亡を四月にしたのは四月の記事には明智十兵衛や武藤の記事が出てくるのでそうしたともとれます。十九歳というのは森可成の呼び方ですから「十九歳」は十九氏でもあり森可成のことです。

 A可隆は長可もあらわす。
また、森長可にも注意を喚起させる意味があったと思われます。勝三郎と共に亡くなったのは長可ですから、長可のことをいっているのではないかというものがみえてきます。隆は長のあぶり出しとして出てきたこともありえます。ただ森家は長可が可成のあとを次ぐことになったわけですが、それは中間の可隆が亡くなったのでそうなりました。 私見では可隆は可成を受け長可に引き継いだ存在ということがいえると思います。
 B可隆自身も自己を主張する。
この他に可隆登場は、どういう意味があるのかということになりますが、1552生まれの(可成と長可の)中間の人物はお梅といったことは、蘭丸の姉であったことは明らかであるので、一つその名前から後の梅庵との絡みでこれが大村由己を表しているとみて話を進めてみるとどうなるかということです。
これがおかしくないということをいえればよいわけですが、「三河後風土記」に長可の死は27歳と記載されているので満では25歳です、1584−1552=32歳生まれでは合わないことがわかり、別人であることは明らかにされています。また可隆の存在は、森可成の実子の可能性があること、すなわち太田牛一が森可成と一家を構成する以前に森可成に子がいたということも出していると思います。もう一つ可隆が表していることは、この人がここで森長可に地位を譲って別の道を歩んだといえないか、前著で縷々述べましたように話の上で人を殺してしまうことがあるのです。森可成にお梅という子がいたことはこの資料以外にも出ていますが、これが大村由己(梅庵)の梅につながると思います。大村由己は1552生まれだったのではないか、その正体は森一族ということであった、森乱丸の姉であり、これが長嘯子の室ではないかということです。これだと1569マイナス1522=17歳夫人が年長ということになります。年齢差は、妻女がかなり上ですが、これは同性の結婚では障害となるものではありません。(本当は梅というのが母子で重なっており、梅庵由己の娘婿が長嘯子といいたいところですが、森蘭丸の姉が室と書いてあるのですぐにはかえられない、また逆に長嘯子が親と重なっていて、蘭丸の姉の子が長嘯子かもしれないというのもありますが、これも無理かもしれません。まあここはこれでつっぱるしかありません。)
テキストの次の記事で長嘯と内室との葛藤が表われていますが、夫人の方がこうしたらどうかという局面をリードした格好となっています。

    『長嘯の内室は夫が伏見城を放棄し脱出したことを聞くと即座に髪を下ろし
        「命やはうき名にかえてなにかせんまみえぬために送るきりかみ」
    の一首を添えて髪を送り離別し仏門に入り宝泉院と号した。森家の嗣をついだ弟忠政を頼り、川中
    島海津城から美作津山に移り、長嘯と手紙のやりとりは続けていたが元和八年京都で死んだとい
    う。
    才気衆に優れたと伝えられる内室於梅が、命に代えて惜しんだのが部門若狭武田の名であるこ
    とは森家文書の長嘯伝から推測される。』

 この於梅という名が気になるところでここまで来ました。才気衆に優れたというのも気になるところで、すでにこういう定評があるということです。名がある人物といっているのでしょう。また千利休とも親しいわけです。甫庵太閤記では利休と由己がセットで出てきます。またあとでもでますが、由己が長嘯の山荘を訪れたことがテキストで出てきますので、これで大村由己と長嘯は、接近させられていると思います。
 ここの一文では長嘯が武田の嫡流なのに、武田の名を惜しんだのは夫人ということになるので少し疑問が残るところです。この夫人を誰と見るかによってこの文が変わってくるという感じがします。ここまでとにかくつながってきました。何も進めないのでは永久にわからず、宝の持ち腐れで古人に申しわけないことです。ネットで片言隻語が検索できるようになってきた、大部分学問の対象にはされないもので無駄とは知りながら寄稿している人があり、お互いに活用しないのではこれも資源を捨てていることになるのです。踏み込んでみることが必要です。 

(7)長可室
ここでもう一人の候補もあたってみなければなりません。太田牛一が取り上げているのは、長可・蘭丸・坊丸・力丸の四人で、しかも太田牛一は蘭丸を二男としているから、まあ姉といえば長可の妻もその対象になるかも知れません。この於梅を、長可夫人とすることは無理のようですが、引っ掛かることは解決しておかねばなりません。おかしいようでも一応やっておこうということから何かが出てくることもあります。
 まず1558は長可の生年ですから蘭丸より下になるのに兄といっているのは、森家を中心に考えねばならないからで、長可は森可成の嫡男です。これは可成の実子もしくは前夫人の実子を引き取ったものであることを示します。このために可隆を殺したといってもよいようです。
森可隆と坂井久蔵の登場で、森長可は森可成の実子で、蘭丸・坊丸・力丸は太田和泉の実子ということがわかりました。甫庵信長記では蘭丸は森三左衛門尉二男となっています、しかるに長可の倍の領地をもらったといっています。これは実質は乱丸が嫡男だったといっているのかもしれません。
 坂井久蔵を出してきたのは森蘭丸が信長公記の締めくくりである本能寺の戦いになくてはならない中心人物になっているから、その前歴の叙述がないと収まりがつかないからです。蘭丸が和泉の実子なので特別扱いになったと考えられます。
 本能寺の作戦は森乱丸の死がはじめから前提とされた作戦ということがいえるのです。すなわちその実子でないとできない役割が付与されたから、本能寺作戦は太田和泉が企画した、その後和泉が生き残りながら、そうしてほしいと皆の期待の中で歴史を書けた必然につながるものです。また力丸、坊丸らの生存も蘭丸の死があるから予想できるものです。結果的には大坂陣では実孫の木村重成まで亡くしてしまいましたが、これは力・坊の選択の問題でもあり、本能寺の段階では予想できないことです。
話は、長可にもどりますが、長可は池田勝入信輝の娘婿として有名で、最期は池田家の一員のような感じで、勝入と嫡子紀伊守とともに小牧長久手の戦いで戦死しました。しかるにその妻たる人は全然出てきません。池田勝入を調べても
        池田紀伊守元助が嫡男で、池田輝政が次男
ということで終わりです。元助・輝政で調べても同じことです。池田恒興の娘婿だというのにネットでも、諸解説でも池田恒興の娘などどこにも出てきません。
一体、長可夫人は誰かを予想させる材料がないのではないかと思ってしまいます。それなら完全性を期して述べているという前提が崩れることになるのです。太田牛一は長可より長生きしているから一層おかしいわけです。これは信長公記の読み間違いから来ています。

     『天正六年番衆「一、毛馬村  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
               一、倉橋郷  池田勝三郎・勝九郎・幸新。
               一、 原田郷  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  』
             
これがよく見なければならないところです。これは
            父勝三郎と「勝九郎」・「幸新」の三人だ、
 したがってこれが恒(経)興・元助(之助)・輝政(照政)を指すといわれると、池田父子はこれ以外に出ていないので、これはその通り納得させられる次第です。たしかにこれで池田勝三郎父子三人です。しかるに、天正七年定番では
 
               『一、毛馬  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                一、川端取出   池田勝三郎父子三人
                一、 田中  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
                     ・・・・・・七つ省略・・・・
                一、倉橋、      池田勝九郎  』

が出てきます。すなわち、前者では
            「池田勝三郎・勝九郎・幸・新」の四人
 だったのではないかということです。「これはポイントのところである」と著者がいいたかったいのは
            「倉橋
があることからわかります。角川版脚注によれば
            『底本・建勲神社本、ともに「椋橋」の付箋あり。』
 となっています。本当は「椋橋」なのに太田牛一が「倉橋」と替えました。筆者の言っていることに対する支援だとみればよい、つまり池田勝九郎は別になっているから、合計4人だととればよいわけです。
 しかも池田勝九郎は特別扱いだといっています。したがって天正八年の次の記事は読み替えが必要です。池田勢の勇猛さを現わすくだりです。

   『閏三月二日、御敵城鼻熊(花隈)より池田勝三郎取手へ人数を出だし候。則、足軽共取り合い候の
   処、池田勝九郎・■池田幸新兄弟、年齢十五・六、誠若年にて、無体に懸け込み、火花を散らし一
   戦に及ばれ池田勝三郎是れ又懸け付け、鑓下にて屈強の者五・六人討ち捕り、兄弟高名比類なき
   働きなり。』〈信長公記〉

この太字が池田の四人で、■は本当は池田幸と池田新の兄弟二人が大活躍したといっています。しかしここでは勝九郎・幸新の兄弟と読まれるだろうということも頭に入っていると思います。兄弟の年齢を、十五・六としたのは「幸新」は二人を表すといっているのでしょう。輝政を十五・六というのもおかしいことです。
 池田輝政の幼名は「古新」といいます(ネット)ので、年下らしい池田が輝政です。幸という人は幸親(角川版の人名注にある名前)というのかもしれません。「之助」という人もいて元助と同じとされています。
幸=之でもいいと思いますが池田輝政が左衛門ですから、前に勝九郎と幸の二人がいるのでしょう。
池田勝(庄)九郎が、、「庄」ではなく、「勝」を使っていますので「勝蔵」とつなげてもよい、すなわち長可という人は勝蔵という名で信長公記で出てきます。これが長可の名前とつながり、幸という人は池田紀伊守之助で長可の連れ合いらしいということがわかります。すなわち池田恒興の娘婿というのは嫡男の婿だったわけです。年齢は長可より一つ下、長可が亡くなった(27歳)とき、紀伊守は26歳です(三河後風土記)。(このとき輝政は21歳)
長可は池田氏の人として行動したような感じがしますが、これは最後が一緒だったのでこういう印象を与えたのではないかと思いますが、嫡男の嫁という地位もあったからかもしれません。ただ勝(庄)九郎がやや漠然としていますので、この少し前に信長から馬を拝領した「池田孫次郎」という人物が出ますので「孫」はキーワードですからこれが長可かもしれません。
他家の人だったので「次郎」、実際の総領は幸かもしれません。「次郎」は長隆がいるので「次郎」とも考えられます。結果こういうことですから、蘭丸の姉は長可夫人ではないことになります。長久手で戦死してしまいましたし、梅という記録もありません。もちろん長可もそれ同じで、蘭丸の姉は、可隆でしかありえないことになります。
したがって 江戸の資料はこういうことを集約した形で出してくるので無視できないと思います。長可にはたくさん挿話がありますが一件、有名なものがあります。長可が徳川戦の最中で書いたものですが、天正12年3月26日に書かれています。池田が三河中入れの提案をしたのは四月四日で、遺言というのは容易ならない戦いになろうという時期です。原文「ネットukikimaru/ran」による。

  『一、さわひめ(沢姫?)のつぼ、秀吉様へ進上。但、いまは宇治にあり。
   一、だいてんもく(天目茶碗?)、秀吉様へ進上。仏陀(寺?)にあり。
  一、もし、うちじに(討ち死に)はば、此の分に。母に人は、かんにんぶん、秀吉様へ御もらい、
     京に御いりべく。せんは、今のごとく、御そばに奉公の事。
  一、我々あとめ、くれぐれ、いやにて。此の城は、要にて間、たしかなるものを、秀吉様より、おか
    せられへと御申すの事。
  一、をんなどもは、いそぎ、大がき(大垣)へ御越しべく
  一、あしき茶の湯どうぐ、かたな、わきざし、せんに御とらせべく。いづれもいづれも、仏陀の如く、
    御とどけべく。仏陀のほかは、みな、せんにとらせ申し。但し、なり次第、此のよし、御申し
    候
べく

   天正十二 三月廿六日あさ
    尾藤甚右衛門さま 申し給へ           むさし

   又、申し。京の本阿弥のところに秘蔵のわきざし二つ御いり。せんに取らせ申し。尾甚に御申
   しべく。おこう事、京の町人に御とらせべく。薬師のようなる人に御しつけべく。母
   に人は、かまいてかまいて、京に御入りべく。せんここもとあとつぎ事、いやにて。十ま
   んに一つ、百万に一つ、総負けになりみなみな火をかけて、御死にべく。おひさにも申し
   候
。以上。』

一見、女性の手になる文ということがわかります。せんも秀吉もその色に染められてしまっています。このような繰り返しが多くて読みにくいものは用件をを伝えたいときのものではないでしょう。後世の人の造ったものです。意味を余り考えず(秀吉とか仏陀とか)同じ語句を集めて置き換えてみますと

A、 小道具と扱い者、地名など
   「あしき(特別すばらしい?)茶の湯どうぐ」、「かたな」、「わきざし」、「秘蔵のわきざし二つ」、「さわ
   ひめ(沢姫?)のつぼ」、「だいてんもく(天目茶碗?)」、「むさし」、「母に候人二回」、「京三回」、
   「秀吉様四回」、「宇治」、、「仏陀三回」、「せん四回」、「本阿弥」、「尾藤」、「尾甚」、・・・・・

B、「秀吉」と母と京     
   「もし、うちじに(討ち死に)候はば、かんにんぶん、御もらい、。せんは、今のごとく、御
     そばに奉公の事。
   「母に候人は」、「京に御いり候」、「母に候人は」、「かまいてかまいて、京に御入り候べく」
   「京の本阿弥」

C、城とその跡目のこと
   「此の城は、要にて、たしかなるものを、秀吉様より、おかせられ候へと、御申すの事。我々あとめ、
   くれぐれ、いやにて候。せんここもと(自分の)あとつぎ候事、いやにて候。をんなどもは、いそぎ、大が
   き(大垣)へ御越し候べく。」
  
D、せん
   「せんに御とらせ」、「いづれもいづれも、せんに取らせ」、「みな、せんにとらせ」
     
E、 又、申し候。▲おこう事、京の町人に御とらせ候べく。薬師のようなる人に御しつけ候べく。十ま
   んに一つ、百万に一つ、総負けになり候みなみな火をかけて、御死に候べく。おひさにも申し
   候。
以上。』

分類は適切かどうかわかりませんが、Aは背景の色と思います。、ポイントB〜Eの四つあるのでしょう。

@おこう
もっとも関心のある、Eの部分これは、▲以下は前の文から、一応夾雑物を取り払ったわけですが、下線のところ、長可が夫人にわが子の行く末について「武士をやめて、医者にでも嫁がしてほしい」というようなことを遺言したことはよく知られています。おこう事(子?)の「おこう」は今は誰かわからないとなっているところです。まあ、この「おこう」が子息の名前だろうということになっています。しかし「こう」が夫人とも読めるのは事実です。すこし見直せばわかってくると思います。これは最後の「おひさにも申し候。」がほんの付けたりと思うところに読み間違いがあるのではないかと思います。▲の文は、「おひさ」にも下線の話をしたわけですから、同じ文を二回入れてみるとわかりやすいと思います。この文少し入れ替えては、
 「 又、申し候。▲おこう事、おひさにも申し候(おひさにも同じことをいっていますが)京の町人に御
 とらせ候べく候。薬師のようなる人に御しつけ候べく候。」
となり、ここの「おこう」という人は「幸」という人で、幸新兄弟の上で、長可のつれあいにあたる人です。妻に宛てた遺書ということは合っているわけで、ここでいう「おひさ」の「母に候人」になると思います。「おこうに申したい事、というような意味と思います。ここから「おひさ」が長可の実子の名前ではないかと思われます。

A忠政
またDも問題です。森家は忠政が継ぎますが、四回出てくる「せん」は誰の子かというのが重要でありながら判っていないことです。森可成の五男とか六男、すなわち蘭丸らの弟ということになっていますが、これは太田牛一が書いていませんのでみとめるわけにはいかないことです。長可か蘭丸のどちらかの子ではないかと思います。

B城と跡目
C、のことがAを決める重要な部分とおもわれます。ここの天正十二年三月廿六日あさ現在の森武蔵守の本拠は濃州金山です(三河後風土記)。ここは森蘭丸が信長から拝領した城です。Dからせんに全てを譲るということで、長可の子は継がせてはいけない、みな大垣(池田の城)に移れといっています。これは「せん」が継げばよい、蘭丸の子が森仙千代すなわち忠政だと思います。

C母と京と秀吉
Bについて「母に候人」と「京都」と「秀吉」の意味するところ、「幸」は生き残って秀吉を頼れといっていると思います。
以上。遺言はこのように解せられるのではないか思いますが、「母」が考えさせられるところです。「森三左衛門」と「太田和泉」というビッグネームを思い起こすのは無理かもしれませんが、母は誰か随分頭をひねらされたことは事実です。「おひさ」も「久蔵」の「久」に結び付けたらどうなるかも考えさせられましたが結論はこの辺の話となりました。
 とにかく森長可室=池田家から森氏=池田氏が深く結びつくことになりますが、実際はもっと前から姻戚だったのではないかと思います。知られていて活用されていないものが多すぎます。
例えば恒興の母(養徳院)は信長乳母だから、恒興は信長乳兄弟として織田家中で重きをなしたということは大体誰でも知っていることですが、それでは森・明智との接近は掴めないのではないかと思います。
 ネットの「養徳院」のところ/~isamm/「織田氏(弾正注家)」をみますと、養徳院(1515〜1608)は織田信秀(信長の父)の側室として出ています。これなら恒興は信輝という別名を持つように織田一族扱いともなりかねません。織田を名乗れるかもしれない、首巻には森家との接近もみられますので、森可成も池田恒興も織田の要人と繋がっている、両家が、例えば姻戚関係があったということさえ考えられるわけです。可隆が形は森だが池田の筋かもしれなくなります。長可が池田の家中になるほどの必然がどこかにあるかといえばこういう推測も成り立つかなといったところです。

(8)大村由己
可隆から由己が導きだされたとすると、池田家と森家は、長可の筋からだけではない本来的な関係があったとすると、於梅が、長嘯と別れたあと、森忠政の世話になって生涯を終えた、というテキストの話に符合してきます。
 森忠政という人は池田と関係が深く、例えば森忠政の妻が池田輝政の先妻と姉妹というのは、ネットの「森長継」に出ております。可隆の話で池田勝三郎が出てきて若狭武田関連の人が出てきたので、それを利用して話を進めてきました。
池田は最期の戦いを徳川と行い、徳川から大被害をうけて終わりました。長嘯子も徳川の味方につくのを拒否して、現場をさりました。
於梅を森・池田関係の人とすれば長嘯子の態度は、於梅とベクトルが合っていることになります。長嘯子が取った態度から、長嘯が大名をやめる決意を読み取ったと思われます。もちろん切腹もありえますから大変な決断です。後顧の憂いをなくさせるように自分もこの地位に恋々とするものではないという覚悟をしめしたものと思われます。いま別れても、武士の世界におれば、結婚が社会的な信用をえられることだという半強制があってまた再婚もしなければならない、同性の結婚が普通であったことから家と家とが、また結ばれることもあるわけです。お梅の絶縁状は、この世の栄達から背を向けた、お互いに武士をやめてやりなおそうと決意をのべたもの、別れるという属性を演出したものと思われます。
この「於梅」というのが、「天正記」などを書いて秀吉を攻撃したあの大村由己ではないかというのはテキストの次の文に由っただけです。大村由己の号が梅庵で、お梅の「梅」、天満宮の「梅」に繋がっており、ここで長嘯子に接近しているからであり、由己が播州三木の出身というから「森」に関連するからです。

    『文禄二年二十五才の長嘯は若狭小浜の太守となった。・・・・・・・梅庵大村由己「温泉旅行」は文
    禄四年四月若狭の長嘯を訪ねた記録があり
        「茂りあひて木のまもみえず後瀬山いずれかわきてみねのしひ柴」〈梅庵〉
        「しばしなほ舟こぎとめてしほがまのいずくはあれとうらの松かげ」〈長嘯〉
    の歌がある。後瀬山は武田氏歴代の居城であり、言外の意味するところがあったとおもわれる。』
    〈テキスト〉

 文禄四年のこの時期ではもう長可も亡くなっており、森家は忠政が継いでいたとき、長嘯とも一旦わかれて、於梅は自由の身だったという可能性が大きいころです。大村由己は宝珠院というところにいたようですから、テキストの宝泉院と少し違っていますが似ています。。
この文の「言外の意味するところ」の意味をどう読むかということですが、単に昔を懐かしんで詠んだものでもなさそうです。
池田輝政の妻が徳川家康の娘であることは知られた事実ですが、この人の母があの長篠城の死守で有名な奥平信昌の娘ということです。この奥平の筋の人が反徳川といいってもよい「当代記」を表したとされる松平忠明です。松平忠明は大坂天満宮に関わっている人です。、
於梅は蘭丸から森家の人であることがわかり、森家と池田家は長可を通じても、ほかの面でも深く関わっています。また芭蕉の奥の細道で述べましたように「三木」は「森」です。「木村」も「森」の変形であり、「大村」も「木村」に近いものです。大村由己で重要なことは播州の出身ということです。大村由己は姫路にも関係があるような挿話もあります。姫路は池田輝政です。
本稿では大村由己をお梅としたわけですが、そうすれば大村由己は可隆の1552年生まれいうことになります。これをいいますとすぐ苦情がでるはずで、これはネットの大村由己の見出しの梗概をみただけでこれは駄目だとなってしまいます。
 ネットのものを集約した大村由己の生年・没年は以下のようになっています。ただ何もよくわかっていない謎の人物というのは一致した見解です。

              生まれ                       死亡
大村由己   (天文5年)1536年?もしくわ        文禄5年(慶長1)1596
         (天文6年)1537年 

となっていて、生まれは二通りの説があるようです。(享年は60才くらい)。
ただ、大村由己のところなのに秀吉の年齢が述べられています。これは大村由己が変なことをいったので秀吉の生まれが二通りになったからです。

              生まれ                    死亡
豊臣秀吉   (天文5年)1536年?もしくわ        慶長三年1598
         (天文6年)1537年

太字が大村由己が出した説でこのため二通りになりました。偶然自分の生まれも二通りです。これをみると大村由己は秀吉と自分を重ね合わせて述べていることがわかります。一方死亡年はここにある秀吉のものはオフィシャルのものです。大村由己はその二年前になっています。なぜこうしたか、は自分の1596を秀吉の本当の死といいたかったので、操作したと思われます。秀吉の享年はは公式では62ですが実際は60です。
先にテキストで於梅の死が元和八年と書かれていましたので1622マイナス1552(可隆の生まれ)=70が於梅の年齢となる、これが大村由己の享年になるのかも知れないというのが述べてきたことの結論です。秀吉の60に森蘭丸の調整10を加味して1542が生まれで70歳と合わせたのかもしれません。大村由己は謎の人物としてよくわからないとされていますが、森・明智・池田に関わっているのでこうされたと思います。必ず判るようになっているはずということのために踏み込んでみたものです。牛一・甫庵らはかならず一匹狼を配備しているはずです。

(9)後藤又兵衛
後藤又兵衛が三木に関係があることはすでに述べましたが、池田家に関係が深いわけです。ネットで後藤又兵衛を調べますと、兵庫県(播州)山田郡山田村に又兵衛の跡があるようです。この山田は、太田牛一との関連を示す名や場所として使われてきています。「山田三左衛門」や「山田左衛門尉」などあやしげな名があり、安食郡山田村などは太田牛一の本拠といってもよいところです。これは兵庫県姫路の東北、加西郡のあたりと思いますが、後藤又兵衛の伝説があっても不思議はないところです。これに関する有名な挿話もあります。
後藤又兵衛が旧主の黒田長政からを再就職の道を閉ざされた話です。細川・福島に仕官が決まったのに干渉され退散しました。池田家でも輝政が迎え入れましたが、またまた家康から干渉が入りました。しかし輝政は頑張っていうことを聞かなかったようです。そのうち輝政が亡くなったので庇護する人がなく又兵衛は退散したという話です。これは子息などがその地で就職したという挿話をいっているはずで、伝承が合っているはずです。福島の芸州は浅野家に関係があり夕庵と浅野は親戚です。地方でも平井や後藤やらの家が残っているという話と無縁ではないようです。太田牛一が信長公記を池田家に献じたのも森と池田の関係が深かったからでしょう。
後藤又兵衛が大阪城で馬揃えをやったという話があり、これは後藤又兵衛の大阪城でのナンバーワンの位置を確認できるものとして援用されています。普通、後藤又兵衛は陪臣だということで、元大名と身分が違うから地位は低かった、真田幸村の方が上という印象を受けますがそういうことはなかったのではないかと思います。それなら長曾我部盛親とか、大谷吉継・増田長盛の子息とか、毛利勝永はもと大名の子息ですから真田幸村と同じで、とくに大谷・増田氏などは幸村と違って直臣ですからもっと重要人物としての話があってもよいはずですがそうでもありません。幸村は戦後、戦ぶりなどから有名にされて後藤又兵衛と肩をならべるようになったとみれるのがこの馬揃えの話と思われます。明智直系として後藤又兵衛の位置がすでに高かったといってもよく、負傷したとき大坂にとっては痛い話だと史書もいっています。
これはあの明智光秀のやったという馬揃えを受けて明智一族ということを間接に呼び起こそうというしたものだと思われます。幹事役が明智光秀であったということでもよいのですが、もう一つつっこんだ話だったのではないかと思います。すなわちあの馬揃えは「惟任日向守」がやったのですが、この「惟任日向守」は太田和泉の積もりであったのではないか、実際この馬揃えは太田牛一が命ぜられたのではないかと思います。これだと後藤又兵衛の馬揃えが一層意味をもってきます。そんなことは重要なことではないといわれればそれまでですが、史書が遊び心ももっているということを知ることは必要です。
名前が「太田牛一」では「書記だからそんな重要な仕事が与えられるはずがない」という印象を与えてしまいますが、「太田和泉」という感じであれば信長公において引き続き参謀でもあり、やはり側にいる重要人物という感じになります。幹事役を命じられたのは太田和泉であったというものがあるのかということですが、次が馬揃えの命令が出されたときの叙述です。「御馬揃」は本能寺前年、天正九年二月廿八日に行われました。信長公記では

   『正月廿三日維任日向守に仰せ付けられ、京都にて御馬揃なさるべきの間、各々及ぶ程に結構を
   尽くし罷出づべきの旨、御朱印を以て御分国の御触れこれあり。』

となっています。この文では日向守に何を命じたのかわかりません。御触れを命じたとも読めます。甫庵信長記に「御馬揃の事」の一節があり

   『去る正月廿三日に惟任日向守に仰せ付けられて、京都に於いて二月廿八日に御馬揃有るべし。近
   国の面々、思い思いの出立ちにて、馳せ参ずべしと兼ねて御定ありければ・・・・・』

となっていて、まあこれが幹事役のようなものと解釈されているわけで、明智の存在感を示すものであるのは間違いないことです。これに先立つ正月八日に行われた御爆竹(さぎつちよう)は御馬廻りが用意をしたと書かれていて、これが予行演習のようなもので道はついていたのかもしれません。ここでいいたいのは二月廿八日がその予定日なのはわかりますが、両著とも信長が命じた日が書かれています。通常開催日がいつかということは重要だからそれだけを載せます。指示があった日はおそらく文書発信日と同じでしょうがこれが両方に書いてあることです。これは明智光秀とすると少し不自然です。どちらのことにしても著者当人が役目を命じられたからで少なくも著者が発信をしたのは確実だと思います。当時、書記であったとしても本人がタッチしていることがみえてきます。かつ馬揃えのときの信長の細部の衣装まで書いてあるのですから着付けを手伝ったのではないかという感じさえします。
太田和泉が信長の側近くにいるのですから信長公は太田牛一に式次第を命じたようで、実際の本番では太田和泉が大きな顔をしているのです。次の当日の様子で見ても惟任日向守は三番で余り目立ちません。しかるに中野又兵衛平井久右衛門は有名でもないのに出すぎた感じで出ています。これはおそらくこういう設えをやった、森乱丸と太田和泉の親子を並べた、これは実際もそうであったということかと思います。
森蘭丸を出すためにいろいろ伏線が敷かれていることが気になります。当日信長と内府公が二人いたような感じですがこのことは除外して、馬揃えは
      一番に惟住丹羽長秀と摂州衆など
      二番に蜂屋兵庫守と河内衆など
      三番に維任日向守と大和衆など
      四番に村井作右衛門と根来衆など
      御連枝の御衆
      公家衆
      御馬廻り御小姓衆
      越前衆  柴田修理亮
      御弓衆百人、
         ●平井久右衛門・▲中野又兵衛両人
      御馬一番〜六番
      七番、夕庵
      ・・・・
      御内府
となっていて有名人ではないが得体のしれない独立人●▲が出てきます。太田牛一がこの晴の場面に出てこないはずはないようです。
 この年の八月一日にも安土で「御馬揃」をやっています。
この前の日(暦の前日ではない)の記事で「御使、森乱」が出てきます。
このあとの八月六日の記事は
     「会津の屋形もりたかより音信。(奥州でにて隠れなき稀有の名馬献上)」
があります。これは「盛隆」か「盛高」か、名前ではないので「森隆」か「森高」か、など真剣に読もうとする人には悩ましい話です。行き詰って〈甫庵信長記〉をみますと「鳥取城打ち囲む事」という関係のなさそうな一節の文中に

     「八月六日に奥州会津の屋形高より駿馬三匹蝋燭千挺之を上(たてまつ)る」

という記事に出くわします。とにかく馬揃えが「」に挟まれました。
原本現代訳である、ニュートンプレス〈信長公記〉は全訳なので貴重ですが、ここでは「もりたか」を「平盛隆」と訳されています。これは根拠がないと、こうは訳せず、あちこちでこの「もりたか」に苦労をした人というか、混ぜ返した人というか、そういう人がいることがわかります。ただこの「もりたか」は「平盛隆」にしても「森高」にしても、完全な一匹狼なので誰かに宛てつけられているかもしれません。送ったものが大きすぎるようです。柴田勝家が京都の馬揃えに帰ってきて献上したなかに「蝋燭千挺」があり、それほどの量です。
その翌年
天正十五年正月二十五日、伊勢神宮遷宮に「平井久右衛門御奉行にて・・・・」が出てきます。この直前の日の記事、正月二十一日

    「備前国、宇喜多和泉、是も(佐久間に続いて)病死候。」

があり、その直後正月廿六日の記事に「森乱」が特別わかりにくい文のなかで出てきます。

      『正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に先年鳥一万六千貫入れ置かれ候
      定めて縄も腐り候らわんの間、三位中将信忠より御奉行を仰せ付けられ、繋ぎ直し、正
      遷宮入り次第御渡しなされ候へと御諚なり。』

これは「森乱」を使いに出して、過去、下線の部分のことをした、ととれます。また、次のように信長から信忠への指示ともなります。

      『正月廿六日、、濃州岐阜御土蔵に先年鳥一万六千貫入れ置かれ候。
      定めて縄も腐り候らわんの間、三位中将信忠より御奉行を仰せ付けられ、繋ぎ直し、正
      遷宮入り次第御渡しなされ候へと、森乱御使にて御諚なり。』

この場合奉行については信長は言っておらず、誰か「適当な人」ということでしょう。この場合「平井久右衛門」しか思い浮かべることはできません。まあ森乱を奉行と解釈するにはすこし無理があります。先年のことにすればできないこともありません。

      『正月廿六日、先年森乱御奉行を仰せ付けられ、濃州岐阜御土蔵に鳥一万六千貫入れ
      置かれ候。
      定めて縄も腐り候らわんの間、繋ぎ直し、正遷宮入り次第三位中将信忠より御渡しなされ
      候へと御使にて御諚なり。』

くらいになりますが、甫庵では、が「三千貫相渡し候えと、森の乱丸にぞ仰せ出されける。」となっていますので奉行かもしれないわけですが要はどちらでもよいのでしょう。結局この記事が天正十五年本能寺の年正月十五日の安土でのデモンストレーション「御爆竹(さぎっちょう)」の記事に続くものであり、平井久右衛門和泉森乱に挟まれたことです。まとめると

 予行演習の安土の馬揃え     天正 9年8月 1日  前後森乱と森高に挟まれた。
 有名な京の馬揃え          天正 9年2月28日 中野又兵衛・平井久衛門登場。
 安土でのデモ             天正10年1月15日 このあと「宇喜多和泉」と「森乱」に
                                    平井久右衛門が挟まれた。
ということになっています。
 これであの京での馬揃えの主役●と▲は太田和泉と森蘭丸を表したものだということがいえます。また惟任日向守は太田和泉の場合もありえたということになります。これは宇治川の合戦で「弥三郎」が二人出てきて一人は足利双子兄弟忠綱になぞらえたもう一人の「弥三郎」を出してきたりしている〈前著〉ことでもありえることです。また「惟任日向守」を「柴田日向守」としたいたずらもありました。これは永禄十一年、上洛の年九月、信長公記に

    「廿八日、・・・・柴田日向守・蜂屋兵庫守・森三左衛門・坂井右近、此四人に先陣仰せ付けられ・・
    ・・・・・」

となっていて、甫庵ではこれは柴田修理亮ですから、柴田と斉藤・明智とが近い親戚であることを示すものでしょうが、日向守の使われ方が一人でないこともいっていると思います。この柴田は甫庵信長記の記事ではあの京都での馬揃えの節の一番初めに出てきます。太田牛一の馬揃えに彩を添えている感じがします。惟任日向守=太田和泉で、後年の後藤又兵衛の大阪城での馬揃えは、誰かがあとで入れた挿話でしょうが太田牛一の仕組んだことが読まれていたといえると思います。筆者などは、逆に後藤又兵衛の故事から太田牛一が馬揃えをやったというように読めるかもしれないと思ったものです。
 宇喜多和泉は、たまたま「和泉」といっただけで挟まれたというのは無理だといわれるでしょうが、これも甫庵のものをはめ込んで理解されねばならないのです。甫庵信長記の最後、巻十五の冒頭部分の甫庵の記事には

    『(天正十年正月)廿七日に備前国宇喜多和泉守、病死せしむるに依って、羽柴筑前守秀吉卿は
    宇喜多家老の者共を召し連れ給いて安土に参じ、此の由申し上げられ、吉光の脇差、黄金千両、
    宇喜多和泉守進上申したきと遺言仕つて候とて披露有りければ、・・・・家老の者、所領安堵の御
    書を戴き、歎きの中の喜びにて帰国の道すがら偉なる哉天下の主、公なる哉明智の君と、口号
    (くちずさみ)してこそ帰りけれ。・・・・・・・森の乱丸・・・・』〈甫庵信長記〉

があります。甫庵の必要十分を述べうる文章力からみれば、二番目の「宇喜多和泉守」というフルネームは要らないものです。このあと、「森の乱丸」が出てきますので「和泉」と「乱丸」の間に明智が挟まれるという意識があるわけです。また、ここで信長公は
                「明智の君
 といわれていますので、これを見逃してはなんともなりません。ここ本能寺の年のはじめにおいて事件の本質的なところを出してきているのです。こういうのが江戸期に発禁されつつも一般に読まれ続けてきたのです。牛一が信用できるが甫庵は駄目だというのは、明治になってからでしょう。牛一の間違いだらけに気付きながら、甫庵の本の恐ろしさを知っていたからといえます。
このように江戸末期までの文献は、それまでの先輩の文献を解説してきているので、どの時代のものでも当時を知る参考になるわけですから、とくに文献を信頼して、片言隻語を見逃さないようにすることが必要です。幕末の名将言行録では、後藤又兵衛は
                「孫兵衛某の子」
 というようになっています。「某」はわかっているが述べない、「孫」は重要人物のキー−ワードで
「孫助(佐々)」・「孫左衛門(太田)」「孫右衛門(太田牛一)「孫七(堀田)」・「孫九郎(前野)」・「杉浦(原)孫兵衛」・「池田孫次郎」に、この「孫兵衛」・・・
でまだ出てきそうですが、歴史上重要人物でないと思われてしまっているような後藤又兵衛ですが、断片を繋ぎ合わせれば、このように大きな意味をもって出てきます。
 なお〈戦国〉でも触れましたが、この森長可は〈三河後風土記〉で「長一」という特別な名前で出てきます。長可が羽黒の戦いで酒井左衛門尉忠次に破れたことが、あの勝入の中入れ策の提案に結びついたことにされています。この酒井に本多忠勝がくっ付いて出てくるのが寛政版ですが、本多忠勝が役割を変えて出てくるのが天保版です。本多忠勝を日本一の武者に仕立てたのは小牧長久手の戦いにおける秀吉の賞賛です。この戦いは情報筒抜けの中で、池田に敵方がいたような中で行われたもので将の器量は関係ありませんが、敗北の森長一・勝者の酒井忠次・脇役の本多忠勝の接触が描かれています。つまり、長可の奮闘にかこつけて、一番年長(長一)の森蘭丸・酒井忠次の戦いを表しているものです。
ここまで乱丸が語られているのですから、あの森蘭丸は結婚していたか、子息がいたのかというふことを述べなければ収まりがつかなくなりました。

(8)森蘭丸の妻女
テキストで乱丸の子孫「服部安休」の名前が出てきました。まあ思い出したように付け加えられていて、この文章の文脈に関係なさそうな断片情報ですがこれが重要です。服部安休から、ネット「会津高田町」をみますと、「至福をもたらす鳳凰がこの町には住むという、」とあり、会津保科正之が安休に「日本神代巻」を講義させた、と載っています。
 安休が子孫であったかどうか、そんなのは根も葉もない話だというよりも安休は、森蘭丸に子がいたということをいっているのは確実なことです。
 保科正之は将軍家光と父が同じの弟ということですから春日局のいたころの話です。乱丸から余り年代が離れておらず、子といっても通りそうです。諸説あり、森忠政は森長可の弟といったり森蘭丸の弟といったりしています。同じことだからどちらでもよいというのは合っていないと思います。「長一」は誰かという面では、まず信長公記にしてからが少しおかしいのです。森蘭丸が取立てられたので森勝蔵がありがたいことだとあります。本能寺の年天正十年、

   「信濃国、タカイ・ミノチ・サラシナ・ハジナ四郡、森勝蔵に下さる。■・・・・・・」

がありこれはまあ意味がわかりますが、そのあと少し離れて出てくる次の文の意味がすこし理解しにくいものです。

  「金山よなだ嶋、森乱に下さる。▲是は勝蔵忝き次第なり。」

今は勝蔵が兄だから、弟のことを喜んだと理解されて問題ないように思います。そういう両者の関係を暗示したかつたためここに持ってきたといえるので目的は果たせていると思いますが意味がわからないのでは困ります。
 この▲は、この前の■のところに移動させて読むのかもしれません。すなわち甫庵信長記では領土は乱丸が大きかったので移動させるほうがよいと思われます。

   「信濃国、タカイ・ミノチ・サラシナ・ハジナ四郡、森勝蔵に下さる。■▲是は勝蔵忝き次第なり。・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・金山よなだ嶋、森乱に下さる。」
 乱丸が長可より上としますと乱丸の子が森家を継いでも良いと長可も納得できます。森蘭丸に子がいるということになりますと、乱丸に妻女がいなければなりません。結婚しておれば、実子と継子がいることになりますからほぼ確実に、記録に出ていなくてもいたはずです。妻女がいればそこからまた一子の記録がたぐれていくはずです。
注意すべきは〈大河〉で述べましたように本多忠勝の子息を「美濃守忠政」といっていることです。つまり森忠政も美濃であり、二人ぼんやり重ねられている感じがします。森蘭丸の夫人が本多忠勝の女である可能性があるのではないかということです。つまり太田和泉の子と、本多忠勝の子が、夫婦であったかもしれないということです。
 忠勝の子で有名なのは大坂陣で戦死した本多忠朝と、真田昌幸の子息、信幸(幸村の兄)の妻女です。この人の名は小松で、これを小松@とし、
奥の細道の小松は太田牛一の子息でもあります。これを小松A=乱丸としますと、
@もAも二人の子ですから、両者をつなぐため「小松」がつくられたのではないかと思います。すなわち、森蘭丸の妻女が、本能寺の戦いのあと真田信幸の妻女として再嫁したということが間接に語られていないかということで、そうなれば後藤又兵衛と真田幸村は姻戚ではなかったかということが出てきます。大坂の陣で後藤又兵衛・真田幸村・木村重成・毛利勝永らが大きくクローズアップされたのは明智・徳川の構図における戦いをいいたかった、当然それをクローズアップさせようとしたのではないかと思います。
名前が重要で名は体を表すのがこの吾妻鏡式の世界です。

      「森忠政」の「森」は「森可成」「森可隆」「森長可」の「森」
              「忠」は「本多忠勝」「本多忠朝」の「忠」
              「政」は「明智重政(正)」の「政・正」、「木村正勝」の「正」「後藤政(基)次」の「政」

となっているのではないか。

「森長一(乱丸の幽霊)」「森長可(勝蔵)」「森長定(乱丸)」「森長隆(坊丸)」「森長氏(力丸)」「浅野長勝」
「浅野長政」「浅野幸長」「森忠政」「森長継」「浅野長直」「浅野長友」「浅野長矩」

 という森忠政を挟んだ長い「長」の連鎖の中で、森家は忠政のあと、二代くらいで本家は断絶します。長継から浅野の「長」に繋がっていきます。
 年表では元禄11年
      「美作津山藩の農民、新領主松平宣富の年貢引き上げに反対して強訴」
 というのがありますがこの旧領主が森家のことかと思われます。この頃改易されていたようですが、あの事件が起こったのがこの三年あと元禄14年です。大石内蔵助の頭の中に、この長い「長」の連鎖や、森断絶のことがなかったのかどうか。
 大石は筆頭家老ですから、おそらく「長」の一門でもあるでしょう。ネット大龍門町というのを見ますと、
    「内蔵助の五代前の祖(大石久右衛門良信)は豊臣秀次に仕え、次男(曽祖父:大石良勝)は
    浅野家筆頭家老になり、」
 とあります。良勝の力量もさることながら、あのとき、秀次ー夕庵ー東殿ー浅野の関係からの組織的移籍もありえたかもしれず、明智がこの「長」の連鎖に関わっているかもしれません。要は大石は芭蕉の時代の人ですから、戦国の余韻がかなり残っていた、それが行動にも現れたのかもしれません。このスタートの森長一を作ったのが〈三河後風土記〉です。ネットで、森蘭丸は明智三羽烏の安田作兵衛に討たれたとされているのもあるようですが、これも重要な語りです。昭和になってからでも、ラジオで聞いた張り扇、南陵(なんりょう)夜話に、堂上の森蘭丸と討ち入った安田作兵衛の対決のくだりがあります。ここで、森蘭丸の繰り出した鑓は安田作兵衛の「いわれんところを突いた」という余分な話を入れていました。ここをやられても作兵衛はその後なんともないようです。もともとないものだったからでしょう。
 この話は蘭丸の「丸」、作兵衛の三羽烏、(乱丸・久蔵・長一・長定)と(安田作兵衛・天野源右衛門)という名前など伏線が敷かれた二人の対決がいいたいことだったようです。もちろんこの話は事実ではなく、信長公記の描いた信長の最期の姿が森蘭丸のものだったのでしょう。
他愛ないのがこの種の記録の語りで、それだけに素人にわかってもらうようにしてあります。長嘯子を調べようとすれば大村由己、後藤又兵衛まで出てくる、一つの踏み込みから、付随的にいろいろ出てくる、その結果から又、重要なことが出てきて、件数を重ねていくと、一般に認められる結論に至ると思います。よく考えて書かれているのが日本史・世界史の文献ですからやってみることが肝要です。
 ここはやってみても成果がすぐには出なかったようですが、大村由己ははじめから終わりまで大村由己で、おまけに信長公記に出てこないというものを相手にしてしまったのでこうなります。「大村」は「木村」に似ているいるという面から、「森池田」の出身だろうと見当をつけていたので、森可隆伝説に飛びついた結果ここまできましたが、なんとなく 
         ○  「可隆(よしたか)」は、「吉隆」とつながっていないか。
         ○  大村由己の死亡が慶長元年(1596)といっている人が多い。死亡年の一
            年前は秀次事件があった年である。            
         ○  森蘭丸の姉が長嘯子の「妻」というのは、「妹」が「母」となるべき例もあり
            長嘯子の母(継母もある)といっていないか。
         ○ 可隆の挿話のなかにあった武藤氏は越前の家であり、前の稿にあった蜂屋
            頼隆や武田氏などがからんでいるのではないか
 というようなことが消化不良の感じで残ってきました。
                                  以上

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