13、森可成と丹羽長秀


 前稿で、重要な一匹おおかみの話をしましたが、太田牛一の記事には別人を表すようで自分のこ
とを語っているものが多々あるということにも触れてきました。市川大介、森二(次)郎左衛門、木村
二(次)郎左衛門、などのことです。ここで、そのややこしい話に触れてみたいと思います。重要なこと
で世界の文献と共通している問題なのでおろそかにできません。

一、森三左衛門

(一−1)下人禅門
次のような記事がありますが、この怪しい人物は太田和泉を指しているとみてよいものでしょう。
いなふ(稲生)の戦い、での場面です。この戦いは尾張の国内戦、弟織田信行を擁した宿老の
柴田・林などを相手にした戦いです。

   『此の時(織田)造酒丞下人(げにん)禅門と云う者、かうべ平四郎を切り倒し、造酒丞に
   頸を御取り候へと申し候へば、いくらも切り倒し置き候へと申され候て、先を心がけ御通り候つ
   る。★』〈信長公記〉 

 この文はおかしいということはすぐにわかります。普通は、禅門は造酒丞の下人で、かうべ平四郎
を切り倒した主語であると取るので、そのまま読めば織田を代表する名士である造酒丞が、その家臣
それもかなり下の人に、「かうべ平四郎という『歴々』を切り倒したので、首をとってあなたの功績にし
なさい」、といわれている状況です。「はいありがとう」といって造酒丞がそうするかということは、期待
出来ない話です。
 禅門は造酒丞に話しかけているので地位は高いようです。いいたいことの趣旨は織田造酒丞は、
首に拘るようなことはしない、常に、個人の功績よりも、織田が勝つように行動することを心がけて
いる人だということで、現にそう読まれています。これは文節を移動させて読まねば何のことかわか
らないものです。つまり
           「かうべ平四郎を切り倒し、」
 を他へ移して読むようになっていると思います。

   『此の時(織田)造酒丞かうべ平四郎を切り倒し下人(げにん)禅門と云う者、造酒丞に
   頸を御取り候へと申し候へば、いくらも切り倒し置き候へと申され候て、先を心がけ御通り候
   つる。★』〈信長公記〉 

と読むと、すつきりいいたいことを読み取れるものです。 「下人(げにん)禅門」が、今、殿は一人
討ち取られたので、その頸を取られたらどうかといったわけです。造酒丞に聞いたのは太田和泉
で自分の見聞きしたことを記録するとともに、織田造酒丞とも親しい、その武勇や考えなどをあわせ
て述べたと思われます。
しかしもう一つ読めると思います。

   『下人(げにん)禅門と云う者、かうべ平四郎を切り倒し、此の時(織田)造酒丞、造酒丞
   (下人(げにん)禅門と云う者)に頸を御取り候へと申し候へば、いくらも切り倒し置き候へと
   申され候て、先を心がけ御通り候つる。★』〈信長公記〉 

もう一つの方では、「造酒丞に」のところの「造酒丞」が「下人禅門」を省略した形になっている、これ
で、かうべ平四郎は和泉が討ち取った、ということも述べていると思います。あとの続き具合で、こう
したいと思われます。自分に敬語を使うのはおかしいではないかということも感じますが、これは他で
たくさん例があります。すなわち、織田造酒丞も下人禅門を褒めた、お互いにその武勇と心がけを讃
えあったということだと思います。念のため〈甫庵信長記〉を見ますと

    『造酒丞、森三左衛門尉、彼ら両人は、或いは下知に心を懸け、或いは突き伏せ切り伏せ
    しけれども、更に頸には心を縣けざりけり、是をこそ大志ある忠者とは申すべけれ。』
    〈甫庵信長記〉

 となっていて、ここの森三左衛門は太田和泉を指していると見てよいと思います。これは甫庵と
いう人物が太田和泉もそういう積りでやっているということをいいたかったのでしょう。この〈甫庵信
長記〉のものが元で、〈信長公記〉の加工となったとみられます。
 もう一件、太田和泉にまつわる例を出してみますが、★の続きです。

    『信長は南へ向って林美作口へかかり給う処に、黒田半平と林美作数刻切り合い、半平左
    の手を打ち落され、互いに息を継ぎ居り申し候処へ、上総介信長、美作にかかり合い給う。
    其の時、織田勝左衛門御小人(こびと)のぐちう杉若、働きよく候に依りて、後に杉左衛門
    となされ候。▲信長、林美作をつき臥せ、頸をとらせられ、・・・・・』〈信長公記〉

この「ぐちう杉若」が「杉左衛門」になりました。これが曰くありげな人物であるのは、「下人禅門」
と並んで出てきたことでも察せられます。これは誰か、もちろんいまではよくわからない、そういう人物
がいたのだろう、ということですまされています。この一節は信長英雄譚として理解され、下線▲のと
ころだけが過大に取り上げられ、信長の武勇を表すものとして引き合いに出されているものです。
しかしこれは信長を必ずしも武勇抜群という意味での引き立て役として、書いているものではないで
しょう。
もう林美作は黒田半平と闘って「互いに息を継」いでいたところで、まあ疲れきっていて、手をやら
れた半平をも倒せない状況にありました。
  これは甫庵でも確認できます。

    『黒田半平は、美作守に渡し合わせ、切つつ切られつ暫し切り合いけるが、半平左の手を打ち
    落とされたり。去れども引き組んで上を下へとしける所を、此の者、討たせては叶わじと、信
    長卿つつと走り縣り、美作守をば鑓付け給いければ、御中間にてありける口中杉若(ぐちう
    すぎわか)、林が首をぞ打ち落としける。此の時の勧賞(けんじょう)に名字を許され、黒田
    杉左衛門にぞなされける。かくて林が手をば追い崩しぬ。』〈甫庵信長記〉

 これが闘いの現実で、太田和泉は冷静に成り行きを見ており、その通り書いています。公刊される
甫庵では、信長の個人的武勇については、とくに精彩を放つているというものがみあたりりません。この
場面でも、甫庵は〈信長公記〉よりトーンダウンさせており、林を討ったとは必ずしもいえない描き方を
しています。
 信長は半平を助けようと鑓を付けたと書いていおり、すなわち、大いに褒められのがぐちう杉若です
から、そのあと引き受けて実際格闘して首を取ったのは杉若というのが合っていそうです。この

      「口中杉若(ぐちうすぎわか)」=「●黒田杉左衛門

とは誰か、ということになります。突然でてきた前後に関係のなさそうな〈信長公記〉の一匹おおかみは
甫庵の追記により、〈信長公記〉の「杉左衛門」に、「黒田」が付いて、やや具体的になってきました。
 これは森三左衛門可成のことで、自分と対(つい)だ、と二人をここで出してきたわけです。「下人
」とか「小人」、「中間」というのは謙遜で、一見ではそのまま通り過ぎそうな身分のものを出してきま
したが、名前が胡散(うさん)臭い、一癖ありげで、しかも強そうです。これは、池田・織田・森・明智
は親戚ということを表している一節で、織田造酒丞は太田牛一の(義理の)親にあたる、池田も織田
一族であるという意味のことなどをいいたいのでしょう。
●がなぜ森三左衛門なのかということになりますが、もちろん現代の筆者では誰かに宛てるのは荷
が重くて無理な話です。そうはいっても、これだけみても、「黒田」は半平がらみで付いたもので、
「杉」は「杉山杉風(さんぷう)」というように「三」と読み、木篇に三つということにもなり、「森」の意
味も出てこないとは限りません。が、これはまあコジツケとして物笑いになるでしょう。しかし、「黒田」
と「杉左衛門」の二つを合成して一つにした「対」という直感はやはり大事にせねばならないと思います。
また武勇を誉めているのは明らかです。これは江戸の学者が

           「黒田左衛門可成(ルビ=よしなり)」

というわけのわからない人物を作っていますので、これは〈信長公記〉のこの部分の解説として作った
人名ではないか、とみるのは一応自然なことです。中身をみればそうであるのは明らかなようです。
湯浅常山の〈常山紀談〉の記事の一節に、
    『○後藤又兵衛決断の事』
というのがあり、ここで関ケ原の合戦、藤堂高虎の要請で軍議に出た「黒田家の士大将後藤又兵
衛」の進言により、黒田勢も合渡川(ごうとがわ)を渡ることになりました。この次節の

    『○合渡川合戦黒田(くろだ)三左衛門毛付(けづけ=馬の毛色で狙いをきめる)の功名の事』
という題目で黒田三左衛門が出てきて、内容では
   『合渡を渡す時、(黒田)長政の士大将黒田(くろだ)三左衛門可成(よしなり)、川の東より遥か
   敵を見渡して・・・・・・可成(よしなり)耳にも入れず・・・・・遂にかの武者を切って落とし・・・・・
   可成(よしなり)が此の功を、むかしより毛付けの功名とてたぐいすくなき誉れなり。』

 というように「可成」が出てきます。これはルビが完全に入っているので印刷ミスとか勘違いでな
いことがわかります。これは「士大将」ですから名前は前節と違っていても、後藤又兵衛であることが
わかります。太田和泉・森三左衛門は後藤又兵衛と濃厚な関係にあり、かつ黒田も出てきています
から、〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉のわからない部分の解説をしていることがわかります。
 江戸期の学者も、今の人と同じ問題意識をもっていたでしょうから、わかりにくい、おかしいと感じ
ているものがあったはずです。彼らは、戦国期に近いところにいる、同じ武士の感覚がある、深く
文献を読んでいるから、理解は早かったはずですが、今日と違うところは「表記」で読んでいたとい
ことです。今の時代の感覚では、仮にこの「可成」で、信長側近の豪勇、森三左衛門を想起しても
関ケ原は家康の時代、森三左衛門可成が活躍したのは信長の初期の時代、時代がごっちゃになって
いる、常山の資料は信用できない、ということになります、また、三左衛門とは書いていない、黒田
三左衛門可成だから、それにあてるわけにはいかない、あやかって名前を付けることもあるではな
いかというようになってしまいます。
          黒田三左衛門可成
 などは「表記で語る」ということの典型的な例です。そういう手法を伝えていこう、としていますので
誰もが自分が「わかりにくい」、と思ったところは、後世の人が同じ轍を踏まないように、親切に、わ
かりやすい解説を残してきています。
森可成と後藤又兵衛に「黒田」がくっ付いたとしますと、別のこともいっていないか、一応網をはって
おいて、待っておればなにか出てくるのかもしれません。今は後藤又兵衛が黒田に仕官したいきさつ
というものもわからず、また又兵衛の夫人のこともわかっていないような状態ですが、このとき黒田
半兵衛と接近していますので両家は親戚であるかもしれない、など出てきたら儲けものです。
今この稲生の戦いの一つの大きな眼目、森夫妻の登場のことはわかりましたが、先ほど述べかけた
信長武勇の話もあることですから、あと他にもテーマがあるかもしれません。たいへんな事件の連
続した時代、述べたいことは山ほどあるのが、〈信長公記〉という料理されつくして最小の分量となっ
た書物に詰め込まれているわけですから、その積りで当たってみなければならないと思います。

(一−2)柴田退却
 この稲生の戦いは、織田信長が大音声を発して敵が怯んで逃げたという場面がある(〈信長公記〉)
ので有名なところです。「音」「耳」の戦いの様子も語っていると思います。
信長公記では

   『爰(ここ)にて、上総介殿大音声(だいおんじょう)を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすが
   に御内(みうち)の者共に候間、御威光に恐れ立ちとどまり、終に逃げ崩れ候キ。』

となっております、これを受けたのが
〈武功夜話〉の話です。

  @『信長公御馬を寄せなされ大音を上げ御叱咤あり。(味方の)佐々衆、柏井衆足もなえんばかり
  その場に立ちすくみ候』〈武功夜話〉

  A『信長公馬上より大音にて申されけるは、皆の者、柴田の鑓先如何ほどやある。我に続け続け
  末代までの高名を揚げ、武門の面目立つるはこの刻ぞ、と御自ら三尺五寸の大太刀ふりふり
  駆け出られ候』〈武功夜話〉
  
  B『信長公、常に陣前におわして御下知なされ、敵味方鬼神の再来かと眼を見開き感嘆候。・・
  ・・柴田権六郎、、陣前にて采配致し候ところ、信長公と面を合わせ心苦しく候か、陣後に姿を
  隠しあらわれ出でぬを、信長公大音に呼び返しなされ候。その声や雷の如し。やよ権六汝いか
  なる面目あって余にまみえんや、名を惜しむ武者なれば、早々余と鑓を合わせよと、威高々に
  申されければ、柴田権六面を伏せ、そぼそぼと引き退り候由。』〈武功夜話〉

 音を主役の持ってきているのが、特徴ですが、これは信長公記の一節を受けているようで重要で
す。それでも信長は戦闘においては抜群の力量があるようです。この頃は戦略で戦うというよりも
体で戦うというようなところがあったようでもあります。甫庵でも「声」が重要なのは同じです。

    『後(うしろ)より、信長卿大音声を上げて、林美作守をば討ち取りたるぞ。柴田もらすな討ち
    取れや者共といなり給えば、味方是れに力を得、縒(よ)られつる夏野の草の夕立の雨に逢
    えるが如し。柴田は信長卿の怒らせ給う御声を聞き、さしも剛なる心も弱げになり、足手も弛
    (たゆ)んでぞ覚えたる。』〈甫庵信長記〉

鬨の声で勝負する戦は吾妻鏡の世界だけではないようです。「いなり」は「うなり」か甫庵は林にも
使っています。下線は音高しというところ、桶狭間でもこの雨がありました。柴田がこの声で足手が
緩んでしまいました。

(一−3)太田牛一の肉声
 この稲生の戦いの一節は、太田牛一(明智重政)の肉声が聞ける貴重なところではないかと思いま
す。 

   『早や(佐々)孫助、(山田)治部左衛門は討たれにけり。(林)美作守いよいよ勝にのって誇る
    @気色を森三左衛門尉遥かに是を見て、
           今日の合戦は御勝にて候
    とぞ申しけるが、果たして御勝にぞ成りたりける。昔元弘年中に大多和平六左衛門義勝が、
    敵の将の誇るを見て、源義貞(新田義貞)に軍の勝負を評論するに、楚の将宋義(項羽を
    諌めた将)が事を引きて、味方治定(じじょう)勝つべしと云いしも、実(げ)にもと思い知られ
    たり。
    A味方勢爰(ここ)を先途と戦う処に河村助右衛門と云う者、御馬の先五段口計にして討たん
    とするを見給いて、今縣からでは叶わぬ所なりとて、鑓おつ取り懸からんとし給いしを、
    総角(あげまき=鎧の背の板)に取り付いて、
           今しばらく御待ち候へ、兎も角も我に御任せ候え
    
とて、押しとどめ奉る。
    B美作守いよいよ勝ちに乗って、旗本の勢を崩し、懸かれ懸かれと下知していなりける(声を
    あげる)程に、皆▲孫助等が討ち死にせし方へと懸かり行く三左衛門尉
           すわ今こそ究竟の所よ、切って懸かれ
    という儘に、鑓おつ取りおつ取り、鬨を作り懸け作り懸け、美作守が本陣へ切って懸かる。』
    〈甫庵信長記〉

 @ABのの太字が森三左衛門の発言で、これは太田和泉のものです。この表記は桶狭間に
も出ました〈前著〉。ここから派生して、森次郎(二郎)左衛門として出てきたことなども触れました。その
言動が重要人物のものであることは、ここで元弘(南北朝)の戦いや、漢楚の攻防の故事が引き合いに出
されていることでわかります。
  「今日の合戦は御勝にて候。」というのは、予言をしています。〈吾妻鏡〉における頼朝卿の予言
や世界の重要文献に出てくるそれと同じです。小瀬甫庵は森三左衛門尉の予言をここで出して来まし
たので、これはよほど重要人物とみなければならないものです。いいかえれば
 @の部分の言動とその例えは、森三左衛門尉が太田和泉であるということを特定したものとみて
よいと思います。
 またBも同じです。Bの下線▲も問題のところで、皆が「懸かり行く」ところですから、その意味はな
にか、ということになります。戦において、「孫助等」が討ち死にしたところへ懸かるという必然は全
くありません。これは「孫助等」に接近していこうとしています。この戦いで山田治部左衛門尉と佐々
孫助が討ち死にしています(信長公記・甫庵)から、▲の「孫助等」はこの二人で、それを重視してい
る人物は誰かというのが眼のつけどころになります。
 「山田治部左衛門尉」というのは〈吾妻鏡〉の「山田左衛門尉」で、治部というのは「今川治部大
輔義元」、「石田治部少輔三成」というような「治部」をくっ付けたと思われ、これは山田庄の太田和
泉を頭に浮かべています。佐々孫助は「武井夕庵」に宛てられていることは〈前著〉でも触れま
した。明智三兄弟の存在を示すポイントのところでした。〈甫庵〉のあの一節へ関心を向わせるため、
山田庄の地位の高い人物と佐々孫助(イメージは夕庵)を描いたと思われます。実際孫助はこの戦い
で討ち死にしている〈武功夜話〉のは間違いないことですが、詳しく書いてある〈武功夜話〉には
山田相当の人物の死は載っていません。Bも森三左衛門尉が太田いずみということを示している
と思います。
 またその動作も、@で「遥かに是を見て」、
            Aで「(信長の)総角に取り付いて、押しとどめ奉る」、
            Bで「鑓おつ取りおつ取り、鬨を作り懸け作り懸け、美作守が本陣へ切って懸か
る。」などが出てきています。太田和泉が、信長の側にいてかなり重要な役割をもって補佐してい
る様子がよくわかります。@Bで人物が特定できますのでAの森も太田和泉であるのはもちろんで
すがこれがいろんな意味でポイントになる一文ではないかと思われます。「

(一ー4)部下思い
 しかし細かいところでは言いたいこともあったのでしょう。〈再掲〉

   『味方勢爰(ここ)を先途と戦う処に河村助右衛門と云う者、御馬の先五段口計にして討たん
    とするを見給いて、今縣からでは叶わぬ所なりとて、鑓おつ取り懸からんとし給いしを、
    総角(あげまき=鎧の背の板)に取り付いて、
           今しばらく御待ち候へ、兎も角も我に御任せ候え
    
とて、押しとどめ奉る。 』

爰(ここ)が出てきた、ここのところは重要ではないかと思います。特に下線のところは信長の
言動ですが、河村助右衛門を助けようとしています。このあとに続く記事が、先ほど出た

   『此の者、討たせては叶わじと、信長卿つつと走り縣り、』〈信長公記〉

 で黒田半兵衛を助けようとした場面になります。その場面の前景にこの河村のことがあるわけで
す。
信長は味方の兵士の危難が気になり、見過ごすことが出来ない様です。この稲生の戦いは後半、
柴田一千騎余、林一千騎で、信長は七百騎という不利な戦闘になってしまいました。勝ったからよ
かったもの危ない戦いでした。そこまでに至るまでは甫庵が述べています。河を隔てて名塚村の砦
に置いていた佐久間大学が信行方から攻められ、信長がそれを救援に行こうとして、林・柴田の先
ほど触れた有名な激突の局面が起こったわけです。この河村助右衛門と黒田半平を助けようとし
た話しの前段階でも同じ様子が描かれています。同じ稲生の戦いの場面(前段)です。

   『(狼烟を)信長卿御覧じて、大学難儀に及ぶと見えたり。明日はいかなる身ともならばなれ
   今日において信長合力せでは叶うまじとて、打って出で、やがて於多井河に着き給えども、
   水堤(つつみ)を越ゆ計り出でて、大いに滝波打ち、渡すべきようもなければ、信長卿手に汗
   を握り、駒の足をも一所にためず悶えさせ給うぞ、頼もしうは見えながら、一向渡るべうも見え
   ざりけるが、鉄砲矢叫の声、敵味方の時の声、隙なく聞こえければ、我爰(ここ)にありなが
   ら、大学を見捨つべきにあらず水に溺れば溺るるでこそあらめ。只爰(ここ)を渡せとて、
   御馬を川に打ち入れ給えば、相従う人々、われ先にと打ち入りたり。・・』〈甫庵信長記〉

 ここでも佐久間大学の救援が頭にあり、黒田、河村の前にもあるこの部下思いの信長はやはり、
取り上げようとしたものであると見る方がよいようです。信長は、後年も乞食(こつじき)にも施しをする、
ほどですから、本来的にやさしさがあり戦の場面でもそれが出てきます。このようにやさしいことは間
違いないようですが、この場合は戦局をリードする場面で出てきています。大学軍を気にするあまり、
下線部分二つ、明日はどうなっても仕方がない、水に溺れたらそのときのこと、ということで猛進した
わけですが、これでは少し総大将としはどうか、と思われます。 
この戦いは〈武功夜話〉によれば弘治2年(1556)で信長も満では20歳くらいのときです。まだ若く、
あの信長といっても成長するには過程があった、その時期では、太田和泉の指導も必要があったと
いうことを言っているのかも知れません。いずみは信長の七つ上で、戦経験や人生経験が豊富で
、親類ともいえる存在で・・・・など、平手にかわる人物として信長は太田牛一のいうことはよく聞い
たのではないかと思います。今からみれば、家臣筋といっても、大変な世界的、歴史的人物といって
よいのが太田牛一なので、本能的にそれがわかっていたのではないかと思えるからです。また信長
の師匠でもあったと本人がいっており、間違いないことのようで、それを実証したのが一つがこの
一節といってもよいと思われます。
 しかしこののち村木砦の戦いが描かれ
      「大学を見捨つべきにあらず水に溺れば溺るるでこそあらめ。」
とは全く異なって「「以外(もってのほか)大風候。」で反対があったのを
      「是非に御渡海あるべきの間、舟を出し候え」〈信長公記〉
に変質し大将としての器量は道三が嘆いたほどに成長しており、桶狭間の信長には、籠もって考
える姿が描かれ、
      「大学難儀に及ぶと見えたり。明日はいかなる身ともならばなれ、今日において信長
      合力せでは叶うまじとて、」
 といって佐久間の砦を救おうとしたものが変わって、二つの砦(鷲津・丸根)を救援せず見殺しに
して勝利しています。今川戦では武将としてトータル面で完成されています。
太田牛一は、まあ自分がその一端にも関わっていたという事実もここでいいたかったといっても
いいのかも知れません。それが事実だったら自分のことだといって余分な謙遜はいらないものです。
それもあるとしましても述べ方が集約的になっていることも見逃せません。つまりこのあと直ぐに信
行事件の顛末の叙述にはいっているのです。
味方を助けようとする、というやさしいところや太田牛一がその行動をいさめるというのをなぜ描い
たかということですが、これが柴田・林という織田最有力の武将との戦い、すなわち信長弟信行が
絡んだものであるという背景を考えねばならないと思います。 
      「兎も角も、我に御任せ候え」
といっていますので、任されることがよくあった、信長弟信行のことは信長の本意ではなかった、信長
の側近がやったということをいっていると思われます。
 このあと続いて信長卿の母公が出てきて、信長は武蔵守(信行)、柴田、林を許しますが、そこま
でが書かれたのが今まで述べてきた「稲生合戦の事」という一節です。
 この次の一節が「武蔵守殿生害の事」と題するものです。ここで、柴田が夜中に清洲へ謀叛を訴えてきて
信行を討つはめになった経過や、信長が誤魔化して信行を招きよせ討ち取ったことが述べられています。
信行の最期は

   『討手の人々には山口飛騨守、長谷川橋介、川尻青貝、彼等三人に兼ねて定められければ、
   小志津という業(わざ)よき刀を青貝に下されて、初太刀を仰せ付けらるるに、少しはやって伐
   つたるにや、母公の御方指して退き給うを、廊下にして池田勝三郎得たりとて引捕え、三刀つづ
   けてうつ伏しにして掻き伏せける。』〈甫庵信長記〉

 となっています。ここの「山口飛騨守」と「長谷川橋介」は、桶狭間と身方が原で出てきた小姓衆です。
この「山口飛騨守」は太田牛一の自画像くさいものです。策謀に関わり、現場に居あわせたのかも
知れません。著者にはこの事件は生涯における重荷の一つものであったと思います。信行の子が
織田(津田)信澄です。

(一−5)一家をなす
いま太田牛一で確実に分っていることを述べよというと、ほんの二・三行でこと足ります。しかるに
実際はそうではありません。その活動の軌跡は、一匹おおかみの名前が使われることにより、一層、
こまかく明かされていきます。徳川の世で明智一族の中心人物がシャシャリ出ては、本人も書物も、
たちまち一巻の終わりとなりますが、実はこのように白日の下にその全容が曝け出されていたのです。
 この森三左衛門が〈当代記〉の森二(次)郎左衛門、〈信長公記〉の木村二(次)郎左衛門になっ
ていくので重要なものとなります。
〈信長公記〉では森三左衛門は元亀元年に戦死しますが、おかしいことに元亀三年にまた出てき
ます。これはおかしいどうしたのか、頼りないものだ、ということになりますが、それに気がついて考
えてもらえばよいということで、これは二人を暗示したものといえるでしょう。甫庵では森三左衛門
と森三左衛門が出てきますが、これは一応二人が別行動していますからはっきり別けられるので
す。森が戦死したとき甫庵では、森三左衛門尉と森三左衛門の両方を使って、

      『・・・三左衛門・・・・相叶わずして遂に討ち死にす。・・・・・・・・・・北国勢森三左衛門
      を討ちしかば・・・・勝に乗って、きほいかかり・・・・』〈甫庵信長記〉

となって二つの表記を消しています。
 なお〈甫庵信長記〉の表記では、「森三左衛門」「森三左衛門尉」という二本立てになりますが、
〈信長公記〉では「森三左衛門」だけが使われているのが重要なことではないかと思います。
一般に甫庵だけ読まれますのでそこで二人がわかればよいということもあるでしょう。丹羽五郎左
衛門は〈信長公記〉でも丹羽五郎左衛門と丹羽五郎左衛門が出てくるので、適当にやられて
いるというのはないのではないかと思います。
坂井右近の嫡子の坂井久蔵も、大活躍して将軍家、信長卿にほめられましたが、森と同じ、元
亀元年のこれは姉川の戦いで

      『いまだ十六歳、容顔美麗人に勝れ心も優にやさしけるが、引き返し、向う敵に渡し合わ
      せ・・・・・終に討たれて失せにけり。』〈甫庵信長記〉

のように十六歳、武勇抜群、容顔美麗、心優し、を残すために出てきて消えていきます。坂井右近
もこのとき消していますが、坂井右近は一匹おおかみで蘭丸の父ということで登場してきた存在といえ
ます。この二人の身内も同じような感じの登場と退去をしています。
 森三左衛門と太田和泉が当時でいう夫婦であったことが、いろんな意味で織田信長の登場時期
の様子を理解するときの要となっています。こういう同性婚という制度であったことも主役がそれを
知らしめようとする身辺叙述から理解できることです。坂井右近の右近でいえば、講談では筒井家
を代表する偉物として二人の大将をことさら取り上げているのが思い出されます。すなわち島左近と
松倉右近という右近左近です。島左近の内儀も子の戦死にあたっての談話を残していますが、この
対の登場は夫妻であるといっていると取るしかありません。芭蕉の〈奥の細道〉のはじめ「まず松嶋
のこと心に残りて」という場合にはこれも頭に入っていると思います。 予想外に並べられる場合夫婦
の積りでいっている場合が多いようです。「鑓武藤小瀬修理大夫」なども匂うものです。

二、佐々内蔵介
先ほどの山口飛騨守は太田牛一を表していないかということをいいましたが、この人物は「禅門」と
違って桶狭間の初めに信長と清洲城を飛び出した人物として独立しています。いままで独立した個人
と思われるものが自画像に含まれている例がありますので少しそれについて触れて見たいと思います。

(二−1)稲生の勲功
この戦いで、討たれた人、討った人の名前が列挙されていますが〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉は
違っています。まずはじめに〈信長公記〉では、

    「林美作頸は織田上総介信長討ち取り給う」

というのがありますが、〈甫庵信長記〉では書いていません。あと違っているのは

                   相手        討手
〈信長公記〉         角田新五・・・・・・・松浦亀介
                 大脇虎蔵・かうべ平四郎、初めとして歴々頸数四百五十余あり。

〈甫庵信長記〉        角田新五・・・・・・・佐々内蔵介
                 大脇虎蔵・・・・・織田勝左衛門尉

となっており、「松浦亀介」と「佐々内臓介」の食い違いがあります。松浦亀介は佐々家中とするのが
妥当な解釈かもしれませんが、あの浦島の亀というジョークともとれます。松と亀が佐々と重なってい
る、佐々内蔵助の幼名が「亀介」であったとも教えているのかも知れません。いずれにしても、松浦と
佐々が討った人物は同じであり、広く知られるように仕向けた〈甫庵信長記〉が表記では合ってい
るとしてよく、松浦は佐々とみてよいでしょう。しかるに・かうべ平四郎、については書いていません。
 がうべ平四郎を討ったのは、下人禅門の「森三左衛門尉」です。甫庵では

   『造酒丞、森三左衛門尉、彼ら両人は、或いは下知に心を縣け、或いは突き伏せ切り伏せ
   しけれども、更には心を頸には心を縣けざりけり。』〈甫庵信長記〉

 となっていて〈信長公記〉だけでもそのように読めることは先述の通りです。
          かうべ平四郎、=角田新五
          松浦亀介=佐々内蔵介・下人禅門・森三左衛門尉
とするための当て馬がかうべ平四郎松浦亀介ではないか、つまりここの佐々内蔵介は太田牛一
といいたいのではないか、そのためにややこしい書き方をしたというのがいいたいところです。あと
自画像に繋がっていく話としてこのように思われるということです。
こういうのは頼りないではないかということになりますが、順序を追って述べていく関係でこうなり
ます。終わりから遡ってきている結果では、こういう操作は納得できるわけですが、それにしても
ここだけの感じでもどこかおかしいかき方をしている、変な名前を出してきていると感ずるなにかが
あるというのも重要だと思います。
 大脇虎蔵は織田勝左衛門が討ったのですが、これは何者か注目させるためのもので、すでに
池田ではないか、ということは述べました。池田=織田を強調するために出してきた表記と思われ
ます。
 〈甫庵信長記〉ではぐちう杉若は信長卿の「御中間」という表現ですが、〈信長公記〉では

   『織田勝左衛門御小人ぐちう杉若』

となっていて、信長卿=勝左衛門ということをいっていますので、「勝」の付く人物として、信長守役、
「内藤介」そこから「池田三郎」が出てくると思われます。
  初期の段階では太田和泉の行動に佐々内蔵介の名前を使用しているというのがあります。
佐々内蔵介あるところ太田牛一の姿が明滅しているといえると思います。太田和泉がここに出てこ
れないので内々その存在をアピールしたといえます。佐々内蔵介が〈武功夜話〉で織田の鉄砲担当
であったこと〈前著〉が出ていましたが、佐々となっているのは、太田牛一くさい、太田牛一に読み
替えてもよいというものでもあります。例えば先稿の三つの首を前において
     「元日酒宴の事」
がありましたが、ここで佐々内蔵助と武井夕庵が出てきました。しかし、これは太田和泉と武井夕庵
に置き換えて読まれるべきものだと思います。こうして二人の政治的な考えを述べたという苦心が
みられるものです。

(二−2)政談
事実はどうだったかを探る余り、中身を無視してしまいがちですが、こういう貴重な歴史事実の断
面とその主張があるのが日本の史書です。

     『信長公宣いけるは、何れも数年苦労を致し、勲功重畳するによって、かようの肴をもって酒
     宴に及ぶこと、まことに大慶之に過ぎずとて、刀脇差ども数多(あまた)取り出され下し玉わ
     りけり。
      佐々内蔵助末座に候いけるが、皆退出の後進み出て申しけるは、不肖の身を以って、
     かかる御座に列なること、蠅の馬尾に付いて千里を走る類なり。君恩の甚だしきこと、更
     に挙げて申すも恐れあるべし。この上一統の御世となって、四海の窮民を救い恩沢昆虫
     までに及ばしめんと思し召し玉うべし。後漢書に、王者は四海をもって家とし、兆民を以っ
     て子とす。同、天蒸民を生じ君を立てて之を牧(やしな)う。君道を得る則(とき)、人之を
     戴くこと父母の如く、之を仰ぐこと日月の如しと云えり。方々御手に属せざる国々ありしは
     徳の至らざる故と思し召し、不善なる所をも省み改め玉い候えと申し上げければ、御感斜
     めならずして、やわら手を引かせ玉いつつ、閑室に入り玉いて暫しがほど政道の利害をぞ
     評し給いける。
      手書きして候いける武井夕庵申し上げけるは、この内蔵助さすがに然るべし武士とは存
     じ候いつれども、加程までは存じよらでぞ候いつる。・・・・・君は臣に功を譲らせ給えば、臣
     は君に譲り奉る。かくの如くなるによって、上下世事を以って心とせず、義を以って利とし、
     只君は君たる徳を修め、臣は臣の職を守って臣道を尽くす。この故に日をおって人俗(にん
     ぞく)美にして、自ずから人の人たらんことを、幼少の者も、あやしの者までも願うと見えて
     候。・・・・・・大いに御得心ありけるにや内蔵助にも夕庵にも色々の引き出物給わりけり。』
     〈甫庵信長記〉

 佐々孫助ー武井夕庵、佐々内蔵助ー太田牛一の構図(イコールではない連想でつながるもの)
があり、この佐々内蔵助は太田牛一を暗に示しており、それは他に例があって佐々もこうだという
連関からくるもので納得しにくいところがあるのは仕方がないことです。
ここは信長を取り巻く二人の兄弟による政談といえます。 このように兄弟してこういう世にしたいという
ことを信長に話しています。たいへんまじめな諌言であり信長公もわかっているのですが、それは
それ、という不真面目なことになってしまったようです。これは明智立候補の企図を示す重要なもの
ではないかと思います。
トクガワ公がこういって信長公に助言してくれたらよかったのですが、それはその家、および個人の
意図があり、ビシビシやってもらった方があとが楽なので、助言が周囲を疲弊させて、信長公は強引
な武力行使という違った方向へ行ってしまったので、それなら明智が立とうということになったと思
います。
 かって実行されたことがなかったような理想論ではないかと取られますが、実社会の垢にまみれ
てきた牛一、夕庵の発言なので、その世がくれば、かなりの部分実践に結びついていったもの
と思われます。佐々の名前を使ったのはこの二人が目をつけられている張本人であり、これを書く
段階ではトクガワの世であり、すでに亡くなった佐々内蔵助で、いま生きている太田和泉を描いた
ものです。

(二−3)稲生の戦いの結末
先ほど、信行の最期は〈再掲〉

   『討手の人々には山口飛騨守、長谷川橋介、川尻青貝、彼等三人に兼ねて定められければ、
   小志津という業(わざ)よき刀を青貝に下されて、初太刀を仰せ付けらるるに、少しはやって伐
   つたるにや、母公の御方指して退き給うを、廊下にして池田勝三郎得たりとて引捕え、三刀つづ
   けてうつ伏しにして掻き伏せける。』

 ということでした。これで山口飛騨守を太田牛一ではないかと申しましたが、これは他の人物がここ
で別の名前で出てきていると思われるので、それを参考にした結論です。
これは〈信長公記〉では次のようになっています。弟信行が柴田権六を、ないがしろにしたので

    『柴田無念に存じ、上総介殿へまた(信行が)御謀叛思しめし立つの由、申し上げられ候。
    これより信長作病(つくりやまい)御構え候て、一切面(おもて)へ御出なし。ご兄弟の儀に
    候間、勘十郎(信行)殿御見舞い然るべしと、御袋様ならびに柴田権六異見申すについて、
    清洲へ御見舞いに御出、清洲北矢蔵天主次の間にて、
     ●弘治四年{戌午}霜月二日、
     河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ候。▲此の忠節仕候に付いて、後に越前大
    国を柴田に仰せ付けられ候。』〈信長公記〉

 となっています。信行は、柴田の意見で清洲城に出てきたようです。●は脚注では

    「弘治三年(1557)十一月二日の誤り。〈織田家雑録〉〈池田家譜〉〈寛政重修諸家譜〉
     〈享禄以来年代記〉などで立証される。」

となっています。基本的には前著で、数字・日付は〈甫庵〉といっていますように、〈甫庵信長記〉
に弘治三年と書いていますので、それによればよく、太田牛一は〈信長公記〉で間違わせていま
す。それにしても多くの書物が合っていることを述べているのには感心させられます。どちらが信
頼出来る資料かというと首をかしげたくなりますが、一つ違いは常用手段、〈吾妻鏡〉でも、貞永
式目五十条と五十一条と二つ書いている、こういうことをわざとやっているのを感ずればよいだけ
です。
 ここで人名が二つに分かれているのが重要です。甫庵でいう
          「川尻青貝」
 という人物が、〈信長公記〉では
          「川尻」と「青貝」に分解されて二人
 とされています。この「青貝」は誰かというと考えられる人物は、前後のことから
          「柴田権六」
 になると思います。▲のこの「忠節」というのが、この殺害役も含んでいると思われます。それなら
柴田が清洲にやってきたことは書かれているのかということになりますが、甫庵の描写は抜かりが
ありません・上の文の少し前、

   『・・・・(柴田疎外された結果)うらめしかりける次第なり。かくて柴田、清洲へ夜中に参じ、武
   蔵守(信行)こそ又謀叛にて候えとて、企ての用意を潜(ひそか)に申し上げければ、我虚病
   して命限りなる由申し送らん間、同道して来るべしと堅く約し給いて、柴田をば即ち夜中に
   帰し給いけり。・・・』〈甫庵信長記〉

 もう信長の計画をその場で聞き、本人を同道してくるように指示を受けて本人も承諾しています。
また、兼ねて討手ときめられたようで

      「小志津という業(わざ)よき刀を青貝に下されて」〈甫庵信長記〉

 となっています。これも、「柴田」と「志津」のつながりに言及しているといえます。〈甫庵太閤記〉
〈武功夜話〉で「賎ケ嶽」は「志津嶽」と表記され、たいへん目障りな感じがしましたが、これはここと
結びつけられているといわざるを得ません。〈信長公記〉注によれば、

   「〈姓氏家系大辞典〉では長野県安曇郡美麻(みま)村青具(あおぐ)から興った青具氏の誤り
   であろうとする。」

となっているようです。要は江戸時代にこれが考証察されている、ということが重要です。これを
なぜ人名としてもってきたのかも疑問ですが、川尻は甲斐を治め、本能寺後一揆によって命を落と
しますが、この地がたとえば終焉地といったような川尻と結びつくものがあるかもしれません。
とにかく、この表記は〈信長公記〉では、二人であるといっているのは確かです。
またもう一つおかしいのは〈再掲〉

   『討手の人々には山口飛騨守長谷川橋介川尻青貝彼等三人に兼ねて定められけれ
   ば小志津という業(わざ)よき刀を青貝に下されて、初太刀を仰せ付けらるるに、少しはやって
   伐つたるにや、母公の御方指して退き給うを、廊下にして池田勝三郎得たりとて引捕え、三
   刀つづけてうつ伏しにして掻き伏せける。』〈甫庵信長記〉

 でわかるように、三人となっているのに、四人おります。池田勝三郎も兼ねてから聞いていないと
こんな大それた行為は出来ないと思います。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉を綜合すると
    「川尻」・「青貝」・「池田」
 の三人が「彼等三人」といえます。すなわち始の二人は桶狭間の「山口」と「長谷川」を持ってきた
に過ぎないということにならないかということです。つまり池田勝三郎がこの中の山口飛騨守に宛てら
れていないか、その表記(山口と飛騨)は明智の姻戚であるのは感じとれますので、あの桶狭間小姓
衆の内、池田一人はわかりました、ということになります。そうなれば「長谷川」は徳川の匂いを嗅ぎ
取らせるものがあるのではないか、「長谷川橋介」何者かということに興味が移ることにもなります。
 この「長谷川橋介」の〈信長公記〉初出は首巻、「あら川又蔵」「あら川与十郎」「あら川喜右衛門」の
三兄弟らしい人物が出てきたときは「長谷川埃介」というやや人名にしてみれば冗談かというよう
な感じで出てきます。〈信長公記〉では、あと桶狭間と、既述の身方が原の合計三つです。甫庵では
桶狭間とここの信行討ち取りの役目の二箇所です。
 ここまで見てきたところ柴田権六の行為が少しおかしいように思われます。後ろに誰かいてその
サゼッションで動いていないかということです。▲のことをしたのは信長夫人の方ですからそれも
あって長谷川の匂いというのを入れたのではないかという疑問です。そんな早くから、徳川云々は
おかしいということと思われますが、この両書は関ケ原合戦の終わったあとに書かれていますので
、その企図がはじめから組み込まれていても不思議ではないわけです。志津嶽の話も出てきても
驚くことはないと思います。
ここから「青貝」というのが柴田なら、或いは山口は太田牛一もあるかもしれない、池田も検討対象
いれてもおかしくはない、長谷川橋介は丹羽長秀かもしれない、丹羽長秀、池田勝三郎なら清洲城
を飛び出しってもおかしくはないということになります。まあ桶狭間の5・6人については太田和泉が
いたことは間違いないことですが、まだ佐脇藤八の問題が残っており、確定も最後まで読みきって
なされるべきことで急ぐことはないのですが、ときどきで一応、こうではないか、と仮に決めておくこと
も必要でしょう。
 このように、ここにいなかったようでもある「山口・長谷川」で太田和泉と信長夫人が蔭で暗闘して
いるというのが感じられる、それらしい人名を使い、そこから自画像の範囲が拡大されてくることも
あるわけです。

四、市橋九郎右衛門

(四−1)市橋丸毛
〈甫庵〉で「市橋丸毛」というのが出てくる、これもこうなっているのはも何かあるのかもしれません。
「市橋九郎左衛門」と「市橋九郎右衛門」というのは〈戦国〉でも取り上げましたが、「左」と「右」の
二通り、出てくるのが印象的です。二人いるのか、一人を違わせているのか、というのが戸惑う
ところです。なにか表記上工夫がされていて、問題がありそうというあぶり出しであるとみて注意し
て見ておくことが必要ということを述べました。果たして表記上、太田牛一との関係が生じていました。
先ほど、佐々内蔵助が太田和泉を表していないかということをいいましたがこの市橋の場合もな
となく匂うものです。
 市橋九郎左衛門は天正六年、正月朔日、「御茶十二人に下さる。」のなかに入っている人物で
かなり重要な人物といえます。すなわち

  『中将信忠卿・二位法印・林佐渡守・滝川左近・長岡兵部大輔・惟任日向守・荒木摂津守・
  長谷川与次・羽柴筑前・惟任五郎左衛門・市橋九郎右衛門・長谷川宗仁、巳上。』〈信長公記〉

となっています。これは実際ではなく一部操作されていることは〈戦国〉でも触れましたが、〈甫庵〉
ではこれが

  『三位中将信忠卿・羽柴筑前守秀吉・二位法印・永岡兵部大輔・林佐渡守・長谷河丹波守・
  惟任五郎左衛門尉・滝河左近将監・荒木摂津守・市橋九郎右衛門尉・長谷河宗仁入道、以上
  十一人なり。』〈甫庵信長記〉

となっていて、一人違います。これは甫庵では「惟任日向守」を抜いています。光秀はこの会には
出ていなかったのではないかということになります。
また二つを比較すると、順番が違っているのと、「二位法印」と「荒木摂津守」「林佐渡守」以外は
皆、表記が違っています。
 このあと四日に万見仙千代所でお開きの会があり。そこでは九人出席します。御茶会からみて
中将信忠卿・長岡兵部大輔・荒木摂津守・(惟任日向守)が不参加となり、宮内卿法印が新たに
参加しています。すなわち

  『二位法印・宮内卿法印(友閑)・林佐渡守・滝川左近・長谷川与次・市橋九郎右衛門・惟任五
  郎左衛門・羽柴筑前守・長谷川宗仁、以上。●』〈信長公記〉

の九人です。甫庵では

  『羽柴筑前守秀吉・二位法印・宮内卿法印・林佐渡守・滝河左近将監・長谷河丹波守・市橋九
  郎右衛門尉・惟任五郎左衛門尉・長谷河宗仁、以上九人』〈甫庵信長記〉

となっています。
    同じ表記は
       「二位法印」「宮内卿法印」「林佐渡守」
    二字違い(追記)
       「羽柴筑前守」と「羽柴筑前守秀吉」、「滝川左近」と「滝河左近将監
    一字違い(1)
       「長谷川」二件で「長谷川」と「長谷」、「滝川」と「滝
    一字違い(2)
       「市橋九郎右衛門」と「市橋九郎右衛門」、「惟任五郎左衛門」と「惟任五郎左衛門」 
    確実な違い
       「長谷川与次」と「長谷河丹波守
 となります。これについて実際の出席者はどうだったか、というのが問題となりますが、多くのサンプ
ルから公式を見出して、またここへもどって来なければこのままではわかりません。まず第一に確実
に違っている「長谷川」をみなければどうにもなりません。

(四−2)芙蓉の絵
一つの重要な問題は〈信長公記〉だけ●のところだけ次の一文が入っていることです。

    『今度、市橋九郎右衛門に芙蓉の御絵、信長公より下され外聞面目の至りなり。』

 これはどうしても一人を特別に取り上げたといえます。
     @絵画がわかる、狩野永徳などと接近して出てくる人物、
     A信長公ーー芙蓉(はす)ーー市橋というモデルの大もの、
     B全部「九郎右衛門」ということで、「右」に統一されている、
     C森三左衛門尉の例からもう一人を予想できる、
     D甫庵が「市橋丸毛」という表記を使って姻戚を暗示している、
すなわちこの市橋九郎右衛門はここでは実在の「市橋九郎左衛門」という人物の名前を借りて
太田和泉であるということをいっています。こういう手法も使っているといっているので極めて重要なところでは
ないかと思います。〈信長公記〉脚注によれば、「市橋九郎右(左)衛門」について

     「市橋氏は岐阜県揖斐郡のうち、もと市橋荘の地頭で、今の池田町市橋の豪族。
     「利尚は斎藤氏に仕え、子長利は信長に仕える。」

となっています。これは系図では「丸毛」と関係があるような感じです。明智の姻戚とみてよくこの
名前を拝借して自分を表したと思われます。ここでここまでの地位にありながら、それにしては出自
のはっきりしないのが市橋と長谷川ということでしたが、市橋についてはその不審が解消しました。
あと残された長谷川が問題です。長谷川は前稿でも出てきたように何となく丹羽五郎左衛門とセット
で出てくる感じをうけましたが、ここでもそうです。しかしもう一つの接近があります。

五、関加平次・関与兵衛

(五−1)長谷川
「長谷川与次」と「長谷川丹波守」は人数の対比から見て同一人とせざるを得ません。特に違いの
あぶり出しがされたものです。
「長谷川与次」と「長谷川丹波守」はおかしいことに「山田三左衛門」とセットで出てくる場合がほと
んどです。
長谷川与次・丹波
   〈信長公記〉  伊勢陣     山田三左衛門    長谷川与次(郎=甫庵) 
   〈信長公記〉  坂本陣     長谷川丹波守    山田三左衛門
   〈信長公記〉  長嶋陣     長谷川与次      山田三左衛門
   〈信長公記〉  長嶋陣     山田三左衛門    長谷川丹波
  
   〈甫庵信長記〉 伊勢陣    長谷川丹波守    山田三左衛門尉 
   〈甫庵信長記〉 坂本陣    長谷川丹波守    山田三左衛門尉
   〈甫庵信長記〉 長嶋陣    山田三左衛門尉  長谷川丹波守
   〈甫庵信長記〉 長嶋陣    長谷川丹波守    山田三左衛門尉      

連続して表記されているのが印象的です。〈吾妻鏡〉でもこういう配列は意味がありました。
 山田三左衛門は山田庄の三左衛門で,これは太田和泉を暗示しますから、基本的な捕え方とし
ては長谷川丹波(与次)は太田和泉の登場を示す役割が一つあります。次のものは「山田三左衛門」
を伴っていませんが、太田牛一が暗示されているでしょう。

    〈信長公記〉  
     大坂陣  『平手監物   平手甚左衛門  長谷川与次  水野監物  佐々蔵介
            塚本小大膳  丹羽源六  佐藤六左衛門  梶原平二郎  高宮右京亮 』
     
    〈甫庵信長記〉
            『平手監物   舎弟平手甚左衛門  長谷川与次  水野監物  佐々内蔵助
            塚本小大膳  丹羽源六  佐藤六左衛門  梶原平次  高宮右京助 』

 ここの水野、佐々、塚本、佐藤などが明智に関係があるかもしれない、おそらくこの佐々内蔵助が
太田和泉を表すか、とも思われます。〈戦国〉で触れたように塚本も油断がなりません。
ここは重要な名前の羅列で見逃すと〈信長公記〉がよくわからないということになりかねないと思い
ます。例えば梶原平次は梶原源太景季の弟で、宇治川の合戦が関係し、弥三郎の弟(中の又兵
衛)を指していると思われます。このあと坂本合戦で森三左衛門が戦死する、その間に〈信長公記〉
では信長公の河渡りがあります、から、ここで出てきたと思われます。
また上の坂本陣のセットは

     「平手監物・長谷川丹波守山田三左衛門・・・・・丹羽源六・水野大膳、」

の一部ですから、「丹羽源六」が何者かよくわからないにしましても、丹羽五郎左衛門の「丹羽」です
から、丹羽の登場が同時に予告されているとも見られます。「丹羽源六」の「六」が次の佐藤の「六」
とつながってきているという推察も可能です。〈吾妻鏡〉長狭六郎で見るように「六」も重要です。
「水野」と「佐々」の組み合わせは重要な局面で出てきます(信長公記首巻、蛇がえ)し、首巻では
「佐藤」という土地(美濃)の領主が、丹羽五郎左衛門とセットで出てきます。水野は村木砦の場でも、
桶狭間でも出てくる、家康卿の母の出身の家とかいわれるので重要なものですが、ほかに平手甚左
衛門は監物の弟、とかの多くヒントを与えている、このあたりの人名羅列はやや作為的なところがある
といってもよいようです。まわり明智に囲まれていることが気にならないと親戚とかの重要な事実を
を見逃していないかというようなことになってしまいます。
 こうはいっても、次の▲▼のように単独で出てくる場合があるので迷うところがあります。しかしこれも
結局は同じこと(仲介役)です。

 (五−2) 関
武田陣、天正十年三月十一日、田子(たご=田野)でのこと

    『(武田)四郎父子の頸、滝川左近かたより三位中将信忠卿へ御目に縣けられ候の処
     に、可平・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。』

三月十四日、なみあい(浪合村)

    『爰にて武田四郎父子の頸、兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に縣けられ候。』

三月十六日

    『十六日(信長公)御逗留・・・・・典厩(勝頼の甥)の頸、御忠節として下曾禰(武田の武将)
    持ち来たり、進上仕候。則ち、▲長谷川与次もたせ参る。
    三月十六日、飯田御逗留の時、典厩の首(こうべ)、信長公へ御目に懸けられ候。仁科五郎
    乗り候秘蔵の芦毛馬、武田四郎乗馬大鹿毛、是又、進(まいらせ)られ候処、大鹿毛は三位
    中将信忠卿へまいらせられ、武田四郎勝頼最後にさされたる刀、滝川左近かたより、信長公
    へ上(のぼ)せ申され候。使いに伺候の稲田九蔵に小袖下され、忝き次第なり。
    武田四郎・同太郎・武田典厩・仁科五郎四人の首、■長谷川宗仁に仰せ付けられ、京都へ
    上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。』〈信長公記〉

 これより少しあとの四月三日と思われる恵林寺の事件、

     『(廿)去る程に、今度恵林寺において、(江州)佐々木次郎隠し置くについて、其の過怠と
     して三位中将信忠卿より仰せ付けられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、
        織田九郎次郎・▼長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉 巳上・・・・・・』
     〈信長公記〉

 の▲▼がそれで、ここで長谷川与次が単独で出ているではないか、太田牛一の登場の予告と
はいえない、といわれるはずです。
 まず▲の長谷川与次については、二つの「関」、「関可平次」と「関与兵衛」を受けています。
この両人は同一人物であるのは明らかです。この二人を対比してみると「与次」が浮かび出てき
ます。
             「関可平」(甫庵では「関加平次」)
             「関兵衛」
で長谷川与次はこの「与次」を出すためのものとわかります。この「関氏」の原型は実在の▼のあと
に出てくる関十郎右衛門です。「長谷川与次  山田三左衛門・・・・・・関十郎右衛門 佐藤六
左衛門・・・・」という「与次」との抱き合わせ登場が過去にあります。表記が少し違っていますが、あ
ぶり出しで同一人物です。ただ二人がいるかもしれないという暗示があるかもしれません。
〈信長公記〉注では『「関可平次」は「関与平次」の兄〈尾張志〉」』と書いてありますが「関与平次
というのは〈信長公記〉では載っておらず「関与兵衛」となっています。
      「関与兵衛」は「関与平次」の兄
と言い出した真意は、
      「関可平」(甫庵では「関加平次」)
      「関兵衛」
の対比より
      「関平次」 
      「関可平」(甫庵では「関加平次」)
 の方がいっそうポイントが鮮明になってきます。また兄だから文の順番に拘わらず上下を逆にした方
がよい、与・次という順番にしたいと思った、〈尾張志〉の著者が、わざと間違っていて「関
単独でも「与次」が織り込まれていますからこの「与次」注意と間接に解説したものといえます。
「関」というのは、
   とき(土岐)は今あめが下知る五月哉        光秀
   水上(みなかみ=瑞浪)まさる庭のまつ山     西坊
   花落つる流れの末をとめて             紹巴
 と明智ゆかりの地名が織り込まれた「関」ですから「関(小)十郎右衛門」は太田和泉がよく知ってい
る人物といえます。(すなわち関可平次)の名前を借りて、関はこの陣で別にいたのにも拘わらず
太田牛一の存在を予想させたのが▲です。▼のあとの「関十郎右衛門」は本当の関で、ここに太田和
泉はいなかった、いたら「関可平次」の名前になるはずです。その次の、赤座七郎右衛門尉を導き
出すためではないかと思います。これは明智光秀の存在を暗示するのかもしれません。明智光秀は甲
州の戦いで信長から満座の席で扇子で打たれ、謀叛に至ったという動機説がありますが、それに
しては〈甫庵信長記〉〈信長公記〉とも明智光秀の痕跡を見出すことがむつかしく終わった段階で一回
顔を出すだけです。
赤座七郎右衛門が出てくる局面は、明智光秀が意識され、二人の密接な関係設定が、読みにあたって
多くのヒントを与えてくれていると思います。

(五−3)赤座助六
永禄十二年正月六条の義昭館が三好三人衆などに襲われた事件があります。ここで明智光秀が
明智十兵衛として〈信長公記〉に初登場します。六条に立て籠もる人数

    『細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門赤座助六・津田左馬丞・・・・・明智十兵
    衛・・・・・・』

など13名です。このうち明智十兵衛だけが〈甫庵信長記〉に出てきません。したがってこれは太田
牛一の作為が濃厚です。すなわち赤座兄弟(甫庵は兄弟といっている)と明智光秀と結びつける意図が
一つあると思います。武田陣さきほどの記事、一部、再掲

  天正十年三月十一日、田子(たご=田野)でのこと

    『(武田)四郎父子の頸、滝川左近かたより三位中将信忠卿へ御目に縣けられ候の処
     に、可平・桑原●助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。』

  三月十四日、なみあい(浪合村)

    『爰にて武田四郎父子の頸、兵衛・桑原◎介六、もたせ参り、御目に縣けられ候。』

  三月十六日

    『十六日(信長公)御逗留・・・・・典厩(勝頼の甥)の頸、御忠節として下曾禰(武田の武将)
    持ち来たり、進上仕候。則ち、長谷川与次もたせ参る。
    三月十六日、飯田御逗留の時、典厩の首(こうべ)、信長公へ御目に懸けられ候。・・・・・
   滝川左近かたより、・・・・・・・(物件を)信長公へ上(のぼ)せ申され候。使いに伺候の
            稲田九蔵
   に小袖下され、忝き次第なり。
    武田四郎・同太郎・武田典厩・仁科五郎四人の首、長谷川宗仁に仰せ付けられ、京都へ
    上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。』〈信長公記〉

  これより少しあとの四月三日と思われる恵林寺の事件、

     『(廿)去る程に、今度恵林寺において、(江州)佐々木次郎隠し置くについて、其の過怠と
     して三位中将信忠卿より仰せ付けられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、
        織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門★赤座七郎右衛門尉 巳上・・・・・・』
     〈信長公記〉
   
ここまで再掲ですが、六条の館13名の中の赤座助六は終わりの武田陣での●◎〇、兄は★に
繋がります。すなわち
    赤座助六ーーー桑原助六ーーー桑原介六ーーー稲田九蔵ーーー赤座七郎右衛門
の流でこれは本能寺の戦い討ち死の衆の

   『赤座七郎右衛門・桑原助六・桑原九蔵・・・・水野九蔵』〈信長公記〉
   『赤座七郎右衛門・舎弟助太郎・・・・・桑原吉蔵・舎弟九蔵』〈甫庵信長記〉

の姓と名の切断の例を出して来ています。すなわちこれが
     「明智日向」
光秀にあらずという古典からの読みを教えている一つの材料であると思います。またたとえば
わかりにくい▼の前の「織田九郎次郎」などは13人のうちの「織田左近」「津田左馬丞」というよ
うに二人を表すものだということを教えている、と思われます。▼はそういう意味で太田牛一とか
明智光秀を誘導する役目があり★は光秀の在甲州を示していると思います。ここで重要なことが
一つ出てきます。★の記事の前の人物は、関可平次などとは違った名前なので太田牛一を指して
いない説明紹介の一文と思われます。ここの関十郎右衛門は既述の、太田牛一ではなく、本当
の関十郎右衛門であるというならば、すなわち太田牛一はここにいなかったといえるかということ
になってくると思います。このことを明らかにしようとすると以下の珍妙な話に入ってきます。
長くなってしまいますが仕方のないことです。以下のことは結論から入っていきますからそんなこと
は考えられないと頭から否定されないようにお願いします。

六、丹羽(惟住)五郎左衛門

(六−1)有給休暇
次の記事が重要で先ほど再掲の、(廿)の記事の前にあり、(十九)の終わりの文として異彩を
放っています。

    『爰に惟住五郎左衛門・堀久太郎・多賀新左衛門御暇下され、くさ津へ湯治仕候なり。』
    (廿)去る程に、今度恵林寺において、(江州)佐々木次郎隠し置くについて、其の過怠と
     して三位中将信忠卿より仰せ付けられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、
        織田九郎次郎・▼長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉 巳上・・・・・・』
     〈信長公記〉

のようなつなぎ具合になります。
この「惟住五郎左衛門」は有給休暇という特殊事情のものですから、あの丹羽長秀のこととすると
意味をなさず、本人から聞いて書いた、もしくはまわりで見聞したことを書き記したというものになって
しまいます。本人だから意味がいろいろ出てきます。著者が草津の温泉に入ってゆっくり酒食を
楽しんだということをいっています。丹羽が太田和泉などなるのは考えられないといわれるでしょう
が市橋九郎右衛門の例からいってもありうることです。
このことは登場回数からいっても頷けるものです。信長(信長公)についで二番目で、羽柴筑前守
明智光秀、徳川家康よりもはるかに多いのです。これは丹羽(惟住)五郎左衛門が二人、一人は
著者、一人は本当の丹羽五郎左衛門となっているからです。〈信長公記〉人名注登場ページ数に
よれば
    
      丹羽(−五郎左衛門)    件数 38件(尉が付いたものも含む)
      惟住(−五郎左衛門)    件数 48件(同上)
      惟住または五郎左衛門   件数 10件
          計                96件

 となつていて、羽柴秀吉70件(藤吉郎14件含む)、光秀64件、家康33件、柴田42件、で羽柴
筑前56、明智光秀64よりも多いのですから丹羽長秀を重視しなければ話になりません。。そんなことになるとややこしくて困るというものでもありません。そういう必然があることもわかってきます
公刊される〈甫庵信長記〉では書きようが特色を示しています。〈甫庵信長記〉人名索引によれば
   
      丹羽五郎左衛門長秀    10件
      丹羽五郎左衛門尉      11件
      惟住五郎左衛門尉長秀    2件
      惟住五郎左衛門尉      11件
      惟住または丹羽         8件
         計              42件

ということになっています。ここから原則長秀と書いてあるものはあの「丹羽長秀」とすればよく
その他のは著者とすればよいとも感じられます。実際はそうはいかず敷かれた伏線から判断しな
ければなりません。本人属性として説明がとくに入っているものは上記に関係なく区分すればよい
ということになるのでしょう。登場回数は、戦場での布陣の人名羅列が多いのですが、こういうのはどちら
かわからないではないかということになりますが、与えられた最大限の情報でやってみて、わから
ないのは実害がないようになるのでしょう。要はこの甫庵の書き方から二人いる、「尉」付だから
太田和泉が潜んでいると直感できればよいわけです。あの丹羽長秀はは柴田勝家より登場は少
ないはずですから半分以上は太田牛一を表すものです。
芙蓉の絵を貰ったとか「爰にて」 有給休暇を貰ったというのは、風が少しあるというような情景と
同じですから著者独自のもので、〈甫庵信長記〉ではもう少し詳しく書いて、本人しか知らない事情
が出ています。まず〈信長公記〉は

   『爰に惟住五郎左衛門・堀久太郎・多賀新左衛門御暇下され、』

となっていますが〈甫庵信長記〉では順番が変わり二人に「尉」が付いています。

   『惟住五郎左衛門尉・多賀新左衛門尉・堀久太郎・養生として草津湯治仕り度き旨申し上げ
   ければ、早々湯浴仕り養生せしめよとて黄金百両宛(づつ)、ならびに馬の飼料等まで下さり
   けり。』

となっていて、いい調子です。この「黄金百両」は〈甫庵〉では3・13に関加平次と桑原助六郎が
それぞれ信長公から頂戴しており、太田牛一大もうけといえるのかもしれません。

(六−2)安土城
 次のようなものはどうでしょうか。天正四年正月、

    『江州安土山の御普請、惟住五郎左衛門に仰せ付けらる。・・信長・・・御褒美として御名物の
    周光茶碗、五郎左衛門に下され、忝き次第なり。』

余りに唐突な安土城の話が出てきてびっくりするところですが、トクガワ公の御意見に従ったので
しょう。琵琶湖東岸ですから、上杉、武田、徳川などから攻めやすい場所にあります。天守は太田牛一
の奉行だと〈前著〉でいっていますがこれなら総奉行を仰せつかったといえるでしょう。甫庵の属性
で築城術というものがありますからこの話と結びつくものです。この茶碗には後日譚があり、翌々
天正六年、六月

    『先年惟住五郎左衛門拝領の周光茶碗召し上げられ、その御かわりと御定候て鉋切(カン
    ナキリ)の御腰物下さる。作(さく)長光。一段出来物(できもの)。系図これある刀なり。』

 安土城の普請を命じられて、貰った茶碗を返してほしいといわれて代品を貰って返したようですが
これは著者が丹羽に聞いて書いたという話ではないようです。代品の細かい目利きもしています。
天正六年の正月が12人の幹部社員が御茶を供応された年ですが、このとき飾りとして周光茶碗が
床にありました。したがって家にもって帰ったのではなく引き続き信長公の手もとにあったようです。
五郎左衛門にくれたのは信長であったからこうなったのでしょうか。
ここの〈甫庵信長記〉

    『奉行として先ず惟住五郎左衛門長秀を遣わさるべき旨、天正四年丙午正月上旬に仰せ出され
    しかば、長秀大形(おおかた)の指図様体(さしずようだい)承って、同十七日に安土山に至って
    先ず普請に入るべき具足、或いは鍛冶番匠をも召し集め、或いは石を取るべき山、持ち運ぶ
    べき通路、沼沢ともいわず、阻(山篇)崖(そばがけ)とも云わず、此方彼方走り廻って夜を日に
    続いで急ぎける。二月廿三日に信長公安土に御座を移され、精力を励ますこと神妙なりとて、
    光茶碗ならびに駿馬二引疋、長秀に下されけり。さて近習、外様、馬廻り以下の屋敷割りあり
    ければ、さしもに広き山上山下も空地更になかりけり。』

 丹羽長秀は武功を積み上げた大将で、下線のような部分はその属性ではないようです。終わりの
ところ、天下布武の姿勢からいえば、もう始めから敷地が狭過ぎると思いますが、とにかく総奉行
が太田牛ということです。
次のものもそうでしょう。

 『七月朔日より重ねて安土御普請仰せ付けられ・・・今度名物市絵(いちのえ)惟住五郎左衛門
 上意を以ってめし置き申され、大軸の絵、羽柴筑前取り求められ、両人名物取持(しょじ)仕られ
 候事、御威光あり難き次第なり。』〈信長公記〉

〈信長公記〉の首巻は最後終わってから考えてよく書かれたものということは、今までの掘り起こしで
分ってきましたが、首巻の丹羽五郎左衛門は太田牛一であることが顕著に出ていると思います。

(六−3)佐藤六左衛門
美濃での信長の戦いの場での丹羽五郎左衛門は太田和泉です。一人大活躍で、読んだことのあ
る人は著者がよほど丹羽に好意をもっていると取るでしょう。最後まで読んでから遡ってくれば著者
は丹羽長秀を攻撃しているのですが・・・。

   『(四十)山中北美濃の内加治田・・・・佐藤紀伊守・子息右近右衛門と云いて父子あり。或る時、崖
   良沢(きしりょうたく)使いとして差し越し、(上総介信長に随身のこと)丹羽五郎左衛門を以って
   言上候。・・・・・・
   
   (四十一)或る時、犬山の家老、(和田新介、中島豊後守)この両人御忠節として、丹羽五郎左
   衛門を以って申し上げ、・・・・・・
   
   (四十二)・・・・猿はみの城、飛騨川へ付いて高山なり。大ぼて山とて猿はみ(啄)の上にはえ茂り
   たるカサ(山の下に則という漢字=嵩?=高処)あり。或る時大ぼて山へ、丹羽五郎左衛門
   懸(さきがけ)にて攻めのぼり、御人数を上げさせられ、水の手を御取り候て、上下より攻められ、
   即時につ(詰)まり降参退散なり。
   
   (四十三)猿はみより三里奥に加治田の城とてこれあり。城主は佐藤紀伊守・子息右近右衛門
   父子御身方として居城候。・・・・廿五町隔て、(美濃方)堂洞と云う所に取手(とりで)を構え、岸
   勘解由左衛門・多治見一党を入れ置き候。・・・・・・信長御馬を出され、堂洞を取り巻き攻めら
   れ候。三方谷にて東一方尾つづきなり。その日は風つよく吹くなり。・・・・・二の丸を焼き崩し
   候えば、天主構え取り入り候を、二の丸の入口おもてに高き家の上にて、太田又助只一人
   あがり、黙矢(あだや)もなく射付け候を、信長御覧じ、・・・・御感有りて、御知行重ねて下され
   候キ。
   ・・・・既に薄暮に及び河尻与兵衛天主構へ乗り入り、丹羽五郎左衛門つづいて乗り入る処、
   ・・・・・暫(しばし)の戦いに城中の人数みだれて、敵身方見分かず。大将分の者皆討ち果たし
   おわんぬ。
   その夜は信長かぢた(加治田)へ御出で、佐藤紀伊守・佐藤右近右衛門両所へ御出候て御覧
   右近右衛門所に御泊。父子感涙をながし、忝なしと申す事中々詞に述べ難き次第なり。』

 この戦場は太田又助が出てきたので当然のことですが、出てきていなくても、「カサ」というルビの付
いた場所はどういうところか本人独自の当て字であるし、天候のこと、佐藤父子がないて喜んだこと
など実際見たものしか書けない話があり、著者がその場にいたことは間違いないことです。ここの丹
羽五郎左衛門は、その名を借りて著者の活動を述べていることは納得してもらえることと思います。
 〈武功夜話〉のこのあたりも丹羽五郎左衛門は太田和泉になっているのでその積りで読まないと
語りが拡散して物語として纏まらなくなってしまいます。すこし触れますと、
永禄七年のこと

    『栗巣(くるす)渡し口より、丹羽五郎左殿に相随い、祖父孫九郎(小坂雄吉)猿啄(さるばみ)
     へ押し入り候の覚え。
     蓮台寺坊主の道案内、間道へ相動き栗巣越え難儀の次第。隘道につる草路地を塞ぎ、
     馬乗りの者馬を乗り捨て、徒歩(かち)立ちの山越え道、あって道無きにひとし。闇夜を
     行くが如し。山越え二刻有半飛騨川岸に相達す。峨々たる岩山河中より天にそびえ立
     ち、眼下の飛騨川白浪渦巻き、烈風砂塵を飛ばし聞きしに勝る難所、馬を寄するに険阻
     なる急坂、御大将丹羽五郎左殿思案に余ってその場に立ちすくみ声相無きところ、坊主
     衆先に立ち馬を曳き立て一町ばかり川上へ御案内申し候。一町ばかりの間、岩石併び立
     ち川幅せまく水は淀みて深渕なり。川幅は凡そ五間ばかり御座候。
     御坊主衆申しけるに、渡るに舟無く、用意の太綱を岩につなぎ、素肌と成って河中へ飛び
     入り、三ケ所命綱相懸け一刻の猶予も成らず候。猿啄の城は二町先にあり、万一敵方に聞こ
     え候わば、矢玉の的と成るは必定なり。急げや急げやとせき立て綱を頼りに対岸へ取り付
     き候なり。祖父物語候こと。栗巣渡し越しに候。
     御坊主どもこの度の忠節は申すに及ばず、なお五郎左殿下知宜しく、猿啄水の手口の責め口
     の臨機の応変。後日信長様御賞賛あり。水の手一番の高名は、福富平左衛門、丹羽覚
     左衛門、比類なき働きあり。猿啄の城兵は水の手より不意に責め立てられ、あわてふため
     き大井戸へ退散なり。美濃猿啄の城責めのこと。巳上。』〈武功夜話〉

 これを語ったのが、太田牛一と昵懇という前野孫九郎ですからこの丹羽五郎左衛門というのは
著者のことです。世界史を理解し直す鍵であると思われる太田牛一の、その本人の活動がこの名
文のなかに生き生き語られています。外から見れば、さすがの太田和泉も思案に余ることもあった
ようですがそれは僧衆と打ち合わせ済みのことでしょう。その下知がよかったようで、このことで
信長から褒められたといっています。また「福富平左衛門と丹羽覚左衛門、」が比類なき働きあ
り、となっているこの丹羽は文字通りの丹羽五郎左衛門と思われますから丹羽も活躍をしたのは
事実と思います。まあ丹羽が二つ出てきたということは二人を暗示するものとして捕えてもよいかも
知れません。この少し前の記事

    『小田井道より高雄へ向けこの手惣大将は丹羽五郎左衛門尉請け申し候。於久地衆中島
     豊後、
後改め左衛門尉事、高名あり、すなわち左衛門尉丹羽五郎左衛門殿へ御意見申
     候事あり。先日来降雨のため、前方高水越すべからずの節所なり。速やかに巾上(はばが
     み)へ道を取り、五郎丸(ごろうまる)道御案内申し候由。地理に詳しき中島左衛門尉の御意
     見聞き給い、巾上間道より犬山へ進み出で、町屋へ烟(けむり)を上げ候わば、一番に丹羽
     五郎左衛門殿
、信長公の覚え目出度く候由、雲球殿(生駒家長)の物語に候。』〈武功夜話〉

 これは中島豊後ー左衛門尉ー左衛門尉ー五郎という関連で丹羽長秀の前身は中島豊後といってい
るのではないかとも取れますが、とにかくここで、二人左衛門尉のやりとりがあります。
 太閤記の藤吉郎秀吉とのからみも出てきます。早くからの知り合いということも出てきます。美濃
戦で、藤吉郎が宇留摩(宇留間)城の大沢次郎左衛門を説得して味方につけたが、信長から許し
が出ず窮地に立ったという話は有名ですが、大沢主水は生駒八右衛門に事情を話し、相談します。
八右衛門は重臣衆に計り、

   『御重臣、歴々衆御意見、すなわち・・・・・・・・加治田、堂洞の佐藤紀伊守右近尉を見殺しも
   成り難し。丹羽五郎左先発、猿啄を取り抱え大ぶてへ進み出で、幸先(さいさき)好き戦い、
   一端の御怒りのために大機を失うこと、唐国の諺に曰く、九仞の功も一キに欠くというたとえ
   もあり、治郎左衛門の一命、木下藤吉郎へ御任せあってしかるべしと申しけるとぞ。信長公、
   ・・・・御聞き分けなされ候。』〈武功夜話〉

 ここにわざとらしく丹羽五郎左が出てきました。、信頼度が特に高い人物のこの発言が藤吉郎を救ったといえます。こういう唐国の諺で話すのは著者や夕庵の属性のようです。 ここ〈武功夜話〉で福富平左衛門が出てきました。この時期に出てきて本能寺で戦死しますので一体どういう人物かというのも気になるところです。天正七年では、「伊丹表在陣の衆、滝川・蜂屋・武藤・惟住・福富」が「五人衆」とされています。
人の名前を借りる例、この佐藤氏もそうではないかと思います。
元亀元年

   『六月廿一日、浅井居城大谷へ取る寄り、
    森三左衛門・坂井右近・斎藤新五・市橋九郎右衛門・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破河内
    丸毛兵庫頭、雲雀山へ取り上ぼり、町を焼き払う。』〈信長公記〉

これは明智一族の集まりです。
佐藤六左衛門は人名注では「佐藤正秋(?〜1594)」という岐阜武儀郡の領主とされています
がこれも事実だと思われます。そういう人物が居たことを踏まえながら、明智一族を暗示するために
使用したと思われます。全員に明智をつけると揉めますのでこういう苦心が払われたと思います。
あとで「明智」を「惟任」にしますが、表記を「明智」にするのと「惟任」にするのでは始の印象の度合い
やわらぎます。「斎藤新五」も「明智新五」を和らげたものかもしれないわけです。
 首巻はこのように丹羽五郎左衛門は太田牛一であるという構成になっていますがあとも少し当たっ
て見たいと思います。

(六−5)松井友閑とセット
永禄十二年

   『信長、金銀・米銭不足これなき間、此の上は唐物(からもの)、天下の名物召し置かるべきの
   由、御定候て、先ず上京
  、        大文字屋所持の  一、初花  
           祐乗坊の      一、ふじなすび
     ・・・・・・・・以上
   夕閑。丹羽五郎左衛門御使い申し、金銀・八木(米のこと)遣わし、召し置かれ・・・・』
   〈信長公記〉

この丹羽は夕閑とセットであり、これは価値がわかる人物であることがはっきりしている著者のこ
とのようです。
 元亀元年は松永が出てくるので更にはっきりします。

   『去る程に、天下隠れなき名物堺にこれある道具の事
      天王寺屋宗及    一、菓子の絵
      薬師院         一、小松嶋
      油屋常祐       一、柑子口(こうじぐち)
      松永弾正       一、鐘の絵
    何れも覚えの一種どもに候。召し置かれたきの趣、夕閑・丹羽五郎左衛門御使いにて仰せ
    出さる。違背申すべきにあらず候間、異議なく進上。即代物(だいもつ)金銀を以って仰せ付け
    られ候キ』〈信長公記〉

裏話ともいうべき細かいことまで、よく知っており著者がいたのでしょう。目利きでもありますが、自分
で書いたものもあるはずでしょう。この松永は久秀のことでしょうが表記で語るというのはその観点
から一歩踏み込むことがいると思います。「鐘の絵」などというのは太田牛一の表現としてはやや
ボヤケテいます。現に
甫庵は元亀元年(上の〈信長公記〉では去る程)、「泉州堺津名物の器召し寄せらるる事」という一節で
「和泉の国堺ノ浦にて」したこと「夕閑法印、丹羽五郎左衛門長秀」が、四人から同じ内容のものの
進上を受けたことを書いています。
 しかし、少し前の永禄十一年では松永は「天下無双の吉光の脇差を捧げ奉る。」と書いており、食い
違っています。堺の今井宗久は菓子の絵ではなく「松島という茶壷」で、詔鴎という人物が「菓子
の絵」を進献したことになっています。同じ甫庵の文ですから脚注にあるように、一題目で数種の
ものがあった、松島という茶壷も〈信長公記〉の「小松嶋」という表現では絵ともとれます。絵を意識
したのではないかと思います。
ここは唐物ではない、松永は当代きっての数寄物、信貴山城を建てた今でいえば大芸術家でもあ
りますから、自筆のものといっているかもしれないわけです。「伝未詳」などというのは文献がしっかり
しておいるからわかっているということのいいかえでしょう。まあ鐘の絵があって「未詳」という人が
書いたというのは松永作といえるかもしれないのです。あるいは太田牛一(木村次郎左衛門)と
近接して出てくる狩野永徳などという人の絵は名物という名に値するのかもしれません。
〈信長公記〉の注の「狩野永徳」には

    『安土城の障壁画(ふすめ絵)を製作するために起用されたのが三十四歳の狩野永徳(1543〜
     90)である。永徳は家督を弟宗秀に譲り(父松栄。五十八歳)、非常な決意で、直門だけをつれて安土      に行き四年間専念した。・・・』

と書かれています。これは松永を連想させる材料に事欠きません。父「松栄」は「松永」と変えられます。
弟「宗秀」の「秀」は「久秀」の「秀」で夫人の実子ともとれます。太田和泉は松永久秀と姻戚だから
とくに親しいといえると思います。松永攻め、惟任日向守、細川頓(トン)五郎などが出てくる一節
ですが

      『松永弾正一味として、片岡の城へ森のえびなと云う者楯籠もる。・・・・・・・爰をせんどと
       相戦い、城主(しろぬし)森・えびなを初めとして百五十余討ち死に候。』

 これが太田牛一の男性の子と思われますが、松永の家の城主クラスの人物の家に入ったようで
、松永貞徳が永種の子ということですから、この「えびな」の子あたりが松永貞徳で、「永徳」はこの貞
の「徳」と松永の松との合成ということからみると松永一族といえると思います。それが予想されるの
この丹羽五郎左衛門のことからで、とくに安土築城奉行というのは文化的成果の連帯が感じられる
ところです。永種というのは例の「禿筆を染め」という文言を書いた人物ですから、太田牛一しか考え
ようがありません。「徳庵叟永種筆」となった文章です。〈前著〉で意味不明と書いた〈甫庵信長記〉の
次の文は松永と庵叟を結ぶものかもしれません。

松氏予にこの一事を記せんことを需(もと)む。・・・・
   時永午夷則如意珠月  万年亀洋派下巣葉懶安叟

前半は、(時に永禄元年東方に如意珠のような月があがるとき。) と訳すとしても後半は全くわかり
ませんが松氏というのは(松永)ですから、安叟と結びつき「松永永徳」も出てきます。そんなこと
はない、といわれるかもしれませんが、その姿勢で来ていて、今永徳の出自などの謎がまったく
解けていません。松永だということで網を張っていると何かが引っ掛かってくるかもしれません。
次のものはどうでしょうか。
永禄十二年、伊勢大河内陣 

   『九月八日、稲葉伊豫・池田勝三郎・丹羽五郎左衛門、両三人西搦め手の口より夜攻めに仕
   るべきの旨仰せ出ださる。御請(ルビーうけ)申し、その日夜に入り、・・・雨降り候て・・・御身方
   (みかた)の鉄砲御用にまかり立たず候なり。
     池田勝三郎攻め口にて、御馬廻りの朝日孫八郎。波多野三討ち死に仕候なり。
     丹羽五郎左衛門攻め口にて討ち死にの衆
     近松豊前・神戸(かんべ)伯耆・神戸市助・山田太兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・斎藤五八・
     古川久介・河野三吉・近松久左衛門・鈴村主馬(カヅマ)
    初めとして、屈強の侍廿余人夜合戦(よかっせん)に討ち死。』

 大勢の大将記載されている中、戦闘の中での戦死者が書かれているのはこの池田と丹羽のと
ころだけです。またこの池田の二人は「朝日孫八郎。波多野三」で、この二人はほかのことを
述べる伏線として出されたに過ぎず、戦死は丹羽騎下の侍衆に限定されています。この丹羽は
著者のこととみてよいのでしょう。
 しかし実際そのように見ていっても、全部分けられられないのではないかという疑問をもたれる
のは当然のことで実際どちらともとれるというものがあります。例えば

 @  『(元亀元年)木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門在々所々を打ち廻り・・・・木下藤吉郎・丹羽五
    郎左衛門両人志賀へ罷越され候。・・・・藤吉郎・五郎左衛門是まで参陣仕候と言上候とこ
    ろ御機嫌斜めならず。霜月十六日、丹羽五郎左衛門御奉行として仰せ付けられ・・・・勢田
    に舟橋懸けさせられ、・・・・』〈信長公記〉

 A  『(元亀二年)河尻与兵衛・丹羽五郎左衛門両人に仰せ付けられ、高宮右京亮歴々一類
    佐和山へ召し寄せ生害なり。』〈信長公記〉

 B  『(元亀三年)志賀郡へ御出陣・・・・・・明智十兵衛・中原八郎右衛門・丹羽五郎左衛門
    両三人取手に置かせられ・・・』〈信長公記〉

 C  『(元亀四年)明智十兵衛坂本に在城なり。柴田修理・蜂谷兵庫頭・丹羽五郎左衛門
    三人帰陣致し候なり。』〈信長公記〉

 D  『(元亀四年)義景の母儀ならびに嫡男阿君丸尋ね出し、丹羽五郎左衛門に仰せ付けら
    れ生害候なり。』〈信長公記〉

 E  『(天正二年)蘭奢待御請け奉行
    御奉行
    塙九郎左衛門・菅谷九右衛門・佐久間右衛門・柴田修理・丹羽五郎左衛門・蜂屋兵庫頭
    ・荒木摂津守・夕庵・友閑。』〈信長公記〉

 F  『(天正三年)村井民部丞・丹羽五郎左衛門両人に仰せ付けられ、徳政として・・・・・』
     〈信長公記〉

 G  天正三年、長篠陣
    『滝川左近・羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人』〈信長公記〉

 H  天正三年、任官
    『御家老の御衆、夕閑は宮内卿法印・夕庵は二位法印・明智十兵衛は惟任日向になされ
    簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ忝きの次
    なり。』〈信長公記〉
 
 I  天正三年、北庄(きたのしょう)陣
    『滝川左近・原田備中・惟住五郎左衛門両三人として、北庄足羽山に御陣屋御普請申し
    付けられ、・・・・・』〈信長公記〉

 J天正五年、
    『柴田修理亮大将として北国へ人数出され候。滝川左近・羽柴筑前守・惟住五郎左衛門
    斎藤新五・・・・・・・・前田又左衛門・佐々内蔵介・・・・』〈信長公記〉

 このようなものは一見困難なようですが結果的には不満なく分けられることになると思います
途中ではなかなかそうだとうことが難しいものとなります。
問題は丹羽長秀と太田牛一は対立している関係にあり、まあ単純にいえば徳川系と明智系と
いったものがあります。したがって、分けると我田引水ということになつて、公平感から反発を
招きがちです。まして丹羽徳川系という見方自体が今までいわれたことがないわけです。
〈甫庵信長記〉からですが、これもわかりにくいものが多いようです。

 K 『(宇治橋をかける工事完成)惟住五郎左衛門尉、滝河左近将監に駿馬二匹宛(づつ)下され
   同廿一日に京都より摂津表へ御出陣有りけるがその日は大雨にて山崎に両日御逗留あり
   けり。』〈甫庵信長記〉

どちらかといえば雨という記録を持っている著者でしょう。しかしコジツケだといわれるとそうかも
しれないと引かざるをえません。

 L天正九年
   『倍臣溝口竹、御恩賞を蒙ること
   ・・・・・・五千石溝口竹に下さる。この溝口は受領して、伯耆守とぞ申せし。惟住五郎左衛門、
   幼少より使い立てたる者なり。』〈甫庵信長記〉

 これも、ご相手という意味の出世ですので当代記からみれば本当の丹羽の方と思いますが、悪
い方は丹羽に押し付けるといわれまねません。
 筆者からいえば、属性というのは、丹羽は武功の大将、太田牛一は武功の大将・いかさま師、と
いえますが、一方太田牛一はきわめてまじめな書紀という見方が一般的なので、ますます説明方
としては難しくなります。
しかし読みを進めていく段階でも、避けて通れないものが出てきます。

(六−6)佐和山城
 丹羽長秀は石田三成の居城として有名な佐和山の城主なのです。これは本能寺のときまで変わっていません。もしこれが丹羽違いということで、太田牛一の城だったとすれば、本能寺の戦略の前後におい
てやはり大きな影響があるということになってきます。つまり

 @ 元亀元年
   『爰に木下藤吉郎秀吉は小谷城の押さえに横山の城に去んぬ七月より入れ置かれ、丹羽
   五郎左衛門尉長秀佐和山の城の押さえとして百々(どど)屋敷にあって、・・・・』
   〈甫庵信長記〉
 
 A元亀二年
   『佐和山の城には近辺五万貫の所領を差し添えて丹羽五郎左衛門を居(す)え置かる。』
   〈甫庵信長記〉

 B元亀元年
   『木下藤吉郎定番(じょうばん)として横山に入れ置かれ、夫(それ?)より佐和山の城、相
   カカ(手篇に勾)え候キ。直ぐに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬をヨ(立の下、可が重なっ
   ている字)せられ・・・・・東百々(ルビ=ドド)屋敷御取出仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門
   かれ北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取ち
   詰めさせ、・・・・・・』〈信長公記〉

 C同じ元亀元年
   『木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、在々所々を打ち廻り、一揆共切捨て、大方静め、君の御大
   事この節と存知、大谷へ差し向わし候横山の城、御敵佐和山へ差し向わし候御取手百々(ル
   ビ=ドド)屋敷に人数丈夫に残し置き、木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門両人志賀へ罷り越され
   候処・・・・・・』〈信長公記〉

 D元亀二年二月廿四日
   『磯野丹波降参申し、佐和山の城渡し進上候て高島へ罷り退く。則、丹羽五郎左衛門城代と
   して入れ置かれ候キ。』〈信長公記〉

(六−7)宿泊
 このように丹羽五郎左衛門の属性として最も重要な佐和山五万貫の城主というのが出てきます。
したがって次のものおなどは佐和山や親密度合いという意味で影響度大きく、どちらかということ
の比定が避けられません。

 @天正四年、
    『十二月十日、吉良御鷹野として佐和山御泊。十一日岐阜迄御出。翌日御逗留。』
    〈信長公記〉

 A天正五年
    『九月廿八日  安土にて惟住五郎左衛門所に御寄宿。翌日御逗留。
    九月廿九日戌刻、西に当たって希(まれ)にこれある客星ほうき星出来なり。
    松永弾正一味として・・・・森のえびなと云う者・・・・』〈信長公記〉

 B同じく
    『十二月十日、三州吉良御鷹野に御出。・・・・・信長公惟住(これずみ)所に御泊。』
    〈信長公記〉

 C同じく
    『十二月廿八日、岐阜中将信忠卿安土に至って御出。惟住五郎左衛門所御泊。』
    〈信長公記〉
 
 D天正七年九月
    『それより塚口、惟住五郎左衛門所御成り、御休息なされ晩に及び池田へ御帰り。』
    〈信長公記〉

 E天正八年、安土
    『五月七日、江堀・舟入・道築、何れも御普請出来申すについて惟住五郎左衛長秀
    ・織田七兵衛信澄、永々辛労仕候間、御暇下され・・・帰るべきの旨、忝くも上意にて、七
    兵衛信澄は、★五郎左衛門佐和山に参り候なり。』〈信長公記〉
    脚注★のところは抜け、原本信長記は「七兵衛は高島」に作る。

 佐和山の城は、琵琶湖東岸、安土の東北にありますから、これは戦略に関わり 信長公の泊り
やすいところで、二人はともに美濃の人間です。これの比定をやっていかないと、途中前には進め
ません。しかしこういう疑問を抱いたまま最後まで行き着いて、そこからまた遡ってきてみると一挙
に解決されるいうのがこの手法で、それが期待されているところです。しばらく結論を保留します。
 もう一つ、この二人は本能寺の戦いの前後、どう動いたかということが、締めとして特に肝要な
ところです。それがどうかという点です。

(六−8)本能寺
そのところは本能寺です。佐和山の領主が誰であったのか、ということと、そのとき両者の動きがどうかということでそこがクリアされないと迂闊にこういうことをいえません。佐和山は本能寺の戦略企画全体に関わ
大事です。次のようにまあ分けられないものがあれば節所のところで大問題が出てきます。

 @ 本能寺変(六月二日)少し前、天正十年、信長公、家康領甲信回遊からの帰途、もどり
  『四月廿一日 ・・・・・・佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。・・・・・』〈信長公記〉

 A本能寺の前、東国から信長公に続き信忠がもどる
   『五月十四日、江州の内ばんば(番場)迄、家康公・穴山梅雪御出でなり。惟住五郎左衛門、
   ばんばに仮殿を立置き、雑掌を構え、一宿振る舞い申さるる。同日に三意中将信忠卿御上洛
   なされ、ばんばへ御立ち寄り、暫時御休息の処、惟住五郎左衛門、一献進上候なり。
   その日、安土まで御通り候なり。
   五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土至って御参着。御宿★大宝坊然るべきの
   由上意にて、御振る舞いの事、維任(ルビこれとう)日向守に仰せ付けられ、京都・堺にて珍物
   を調え、おびただしき結構にて、十五日より十七日迄三日の御事なり。』〈信長公記〉

 すなわち、御茶屋を立てたり、仮殿を立て置いたり、振る舞いもしなければなりませんから銭の
ない書記あたりでは無理で、五万貫の主であるはず、ということで、これは今ではあの丹羽長秀に
されている、頷けるものがあります。ましてここの「家康公」は、この回遊中少し前に出てくる 「家康
卿」と区別されている大もの、六人衆以来の因縁がある人物なのでバレタらたいへんです。光秀は
ここで接待していますが、★のところテキスト〈信長公記〉には脚注があり、これは

   『安土町所在。〈川角太閤記〉では、家康の宿所を明智光秀の屋敷と定めたが、信長が下検分
   をした時、生魚の悪臭が漂っていたため、堀秀政の屋敷へ所替えをしたと説いている。』

を補足されています。内容が違いすぎるのでおかしいということをいわれていると思いますが、弥三郎
は二人いたのが生きてきます。川勝は「明智日向守(惟任ではない)」のところが御宿として指定
されたと書いていることもあるし、次の文が入っているから、この川勝の文の考え方は明らかになり
ます。川勝は

   『その当時の古い衆の話では、右の通りと聞いております。〈信長記〉には大宝坊の所に家康
   卿の御宿を仰せ付けられた、とございます。この宿の様子は二通りに御心得なされたらよい。
   日向守は「面目を失いました」と言って・・肴以下を無残にも堀へ放り込んでしまいました。その
   悪臭は安土中へ吹き散ったということおでありました。一、家康卿は、同年五月十五日に、
   安土にご到着になった。』〈川角太閤記=勉誠社〉

と書いています。すなわち家康が二人いる、明智光秀も二人いる、もう一人を世話したのは自分だ
腐ったものでも食べればよい。人にも腐ったものをたべさせてきたではないか、安土の環境がわるく
なった帰ってくれ、と太田牛一が叫んでいると川勝がいっているようです。太字のところはっきり
    二通りに心得よ
と書いています。信長も二人、したがって本能寺での惟住五郎左も二人なので細心の叙述が惟住
でもなされるわけです。汚物を堀にほり込んだので「堀」の屋敷へくら替えにされたとしたのかもしれ
ません。川勝の読み方は表記が大きな役割をはたしています。ここの家康公との関連を川勝から
いえば、

   『長岡兵部大輔殿ーー但し、幽斎のことーーこの家が今まで続きましたことは、ひとえに臣
   下松井佐度守の分別と承っています。』〈川勝太閤記ー勉誠社〉

 いきさつは信長が細川に摂津・河内か、丹後を与えるといったときに、領主はじめ全員が中央に
近い摂津・河内に賛成したのに松井だけが反対して、その理由が本能寺のときに起こったようなこと
でした。
   『天下(いえやす)と西とが争いとなりましたときは二三年のうちに亡所となってしまいますので、
   丹後で日和見』
したほうがよいというような利点をあげて、『私におまかせ下さい』、と丹後を主張し
   『それならば佐渡守に任せよう』
ということで丹後に決めたのがこの佐渡守です。結果
   『これはひとえに佐渡守の分別がよかったため、今まで続き、ことに長岡の家が大名になりまし
   たことは臣下松井佐度守ゆえ、と聞こえ申しことであります。』
はじめの幽斎の但し書きも匂うし、松井に佐渡守という表記を与えなければこの文は何をいっている
のかわからないものとなります。家康公が早くからここえの関与している(計画を教えていた)という
ことをいっています。
   〈常山奇談〉では秀次事件のとき、秀吉に取り潰されそうになった細川の様子が書かれていま
   す。

       『東照宮細川家の難を救い給いし事
       ・・・・・・・松井佐渡の守申しけるは、某(それがし)年頃徳川殿の御内(みうち)なる
       本多佐渡(ほんださどの)守正信と親しく相語らい候。彼に付きて徳川殿を頼み参らせ
       ん。・・・・・・忠興我日頃内府と親しくもなし。されども汝正信と親しからんには、試みに
       計りみよという。』

 こういう佐渡ーーーー佐渡の連携、この佐渡がユウサイを表すというような二人三脚を装わせる
表記があるということです。歌人で天下をも望んだという超英雄の「幽斎、玄旨斎」の複雑さもみ
なければならないようです。この細川と明智が六条で一緒かということが問題になるから述べて
みました。
横道に入りましたが、本能寺の続きです。
このあと羽柴筑前(秀吉)の中国戦線の記事と信長公の上意があり

   『任日向守・長岡与一郎・池田勝三郎・・・・、先陣として出勢すべきの旨仰せ出され、則、
   御暇を下さる。』〈信長公記〉

というありさまで、この出陣命令により

   『五月十七日、任日向守、安土より坂本に至って帰城仕り、・・・・御陣用意候なり。』
   〈信長公記〉

という慌しいなか五月十九日 『安土御山惣見寺』で家康公が舞を見物し

   『五月廿日、惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷久右衛門四人に、徳川家康公御振
  る舞いの御仕立て仰せ付けられ、御座敷は高雲寺御殿、家康公・穴山梅雪・石河伯耆・坂井左
  衛門尉、この外家老の衆御食下され、忝くも信長公御自身御膳を居えさせられ、御崇敬斜めならず。
  御食過ぎ候て、家康公・御供衆、上下残らず安土御山へ召し寄せられ、御帷(かたびら)下され、
  御馳走申すばかりなし。』

になりますが、ここの惟住五郎左衛門は重要な場所にいます。


(六−10)織田七兵衛
次の文からみてこの惟住だけは、どうやら丹羽といえると思われます。続き翌日、

  『五月廿一日、家康公御上洛。この度、京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨
   上意にて、御案内者として長谷川竹相添えられ、織田七兵衛信澄●惟住五郎左衛門両人
   は、大坂にて家康公の御振る舞い申し付け候えと仰せ付けられ、両人大坂へ参着。 』
   〈信長公記〉 

 本能寺後の動向で、いままで太田和泉が拘(こだわ)ってきている織田信澄(信長の弟信行の子、
光秀の娘婿とされる)に悲劇が訪れたことはよく知られています。大坂で織田の諸将に殺され丹羽
長秀がその大将格でした。
ここの●が太田和泉か、本当の丹羽五郎左衛門かは重要この上ない区分となります。
ここのところ〈甫庵信長記〉では天正十年五月

   『かくて廿一日には家康卿参内として御上洛あり。洛中残る所なく、心静かに一見し玉う様に
   と長谷川竹を案内者に相添えられ、織田七兵衛尉信澄、惟住五郎左衛門尉長秀も大坂にお
   いて振る舞い申すべきとて差上せられけり。』〈甫庵信長記〉

となっています。
 天正九年
   『五月十日、・・・・・織田七兵衛信澄・蜂屋兵庫・堀久太郎・宮内卿法印・■丹羽五郎左衛門
   長秀、各々・・・・・』〈甫庵信長記〉

天正九年、御馬揃い
   『第一番に★丹羽五郎左衛門長秀・・・・・・・同(織田)七兵衛信澄・・・』〈甫庵信長記〉

となっています。
ここで■のところ「長秀」までフルネームになっています。甫庵はそうでしたが〈信長公記〉で
   
 天正八年、安土
    『五月七日、江堀・舟入・道築、何れも御普請出来申すについて惟住五郎左衛長秀
    ・織田七兵衛信澄、永々辛労仕候間、御暇下され・・・帰るべきの旨、忝くも上意にて、七
    兵衛信澄は、★五郎左衛門佐和山に参り候なり。』〈信長公記〉

 この文★のところがどうみても抜けているので脚注では★のところは『原本信長記は「七兵衛
は高島」に作る』と書かれています。読みづらい、なにか抜けている、なぜ抜けたのか、という
ような注目をさせる手法です。万葉集にも、吾妻鏡でも信長公記でも誰でも埋められる語句・
文章が省かれているば場合があります。はじめの「下人禅門」のところでもありました。ここでは
★には「高島に参り候、」が抜けています。七兵衛信澄に対する拘(こだわ)りが出ています。

   天正七年五月
    『菅谷九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹・・・・・・・
    織田七兵衛信澄・菅谷九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹・・・・・』

というようになっています。この組み合わせはもう一回あり、堀と長谷川の組み合わせの中にも出て
きています。
一件おかしいではないかというのがありますが、よくみれば上のことを追認していることになりま
す。
 天正八年
   『二月廿七日、・・・・・爰にて津田七兵衛信澄・塩河伯耆・惟住五郎左衛門両三人、・・・・・』
   〈信長公記〉

天正六年を最後に津田七兵衛信澄は織田七兵衛信澄に変わっていますので・爰にては、一件
だけ間違って表記されています。したがってここの津田七兵衛は織田七兵衛にせねばならずそうす
れば惟住五郎左衛門も惟住五郎左衛門長秀にしなければならないところです。爰にてはその意
味があります。
やはり信行を殺害したことに悔恨があったといわねばならないと思います。徳川家康公と並んで
出て来たこともなにかありそうです。もうあらかじめ信澄殺害も視野にあったのではないかと思わ
れます。大坂住吉には織田三七信孝の四国向けの「一万五千余」〈甫庵信長記〉の軍勢がいた、
四国長曾我部と明智の親密度合いが高かったという挿話はたくさんあります。織田信澄は諸書
によって惜しまれている人物ですが、この信澄がなにかのはずみで丹羽長秀にやられたのは大
きい誤算となったと思われます。
ここ信澄のところだけは区別をはっきりしさせた、ほかのところの比定は適当にというあいまいな
ものでもないようです。どちらに比定しても間違いではないものがあるという事情があったのです。
つまり太田和泉と丹羽長秀はいまでいうのと違う一家をなしていたのです。この社会特有の制度に
いつまでも目をつむっているから、それが見えてこないわけです。

(六−11)森三左衛門死後
 森三左衛門可成は元亀元年九月に戦死しました。太田牛一の次の配偶者が丹羽五郎左衛門
となります。藤堂高虎のことは〈前著〉で少し匂わせましたが、その前に丹羽長秀との期間があり
ました。本能寺で織田が崩壊したので終わったと思われます。
 当時は家と家との結婚ですから、結婚するともう一家という後ろ盾がつきそのしがらみというも
のが、連帯身分保障という形になるので、一人でいることがおきてのようなものとして、排除され
ていたのかもしれません。まあ社会的信用があがるということで一家を構えなければならない
というようなことだったと思われます。特に同性結婚であれば恋愛感情といったものでない利害が
いっそう絡んだものになるのかもしれません。主君が口を利けば、成立してしまうようなことになっ
ていたとも考えられます。信長公の都合からそうなった、丹羽の武力が一層強力となり、織田の
利害に適うものとなったと思われます。同性結婚というと同性愛者だから、と決めてしまうのはどの
国にもあったこの制度を知らせないようにしているから起こることで、子供のためとか共同事業の
ためとか、精神的なものとかいろいろあり、社会的に認められた生活体として、通常の保護を受け
たいというためのものでしょう。同性結婚という言葉はこういう土壌があって、記憶されて出てきているということもあるわけです。頼朝卿などはこの制度を乱用して地盤を固めたような印象をうけます。
つまり、夫婦別姓で、太田和泉は、森明智三左衛門から丹羽明智五郎左衛門となった、本能寺で
離縁したということかと思われますからまあ十年間ほど二人三脚でやったということだと思います。
本能寺後の丹羽の行動は全く精彩を欠き秀吉に付いて柴田を滅ぼし利用だけされて最後は自殺
だったという語りもあり、子孫の行動もそれにつれて何かよくわからないものとなっています。
関ケ原で丹羽家ははどっちの味方なのかよくわからず、減封されて家だけ残ったということです。
元亀四年、すなわち月も日も不明で

  『柴田修理亮・明智十兵衛尉・丹羽五郎左衛門・蜂屋兵庫頭、四人に・・・・』〈信長公記〉

が出てきて、「尉」付き「丹羽五郎左衛門」が〈信長公記〉で初登場します。明智十兵衛も「尉」
付きですから「尉」が意識されています。
これがもう一回珍妙な形で出てきます。同年

  『・・・・・・・爰にて・・・・御和談・・・・
  四月六日、、・  信長公御名代として、津田三郎五郎御入眼(じゅがん)の御礼申し上げられ、
           異なる仔細なく候間
  ●七月七日、  信長公御帰陣。その日は守山に御陣取り。・
           ・・・二三日・・・・・・・・・・★丹羽五郎左衛門・・・・
  四月十一日  ・・・・
  五月廿二日  ・・・・
  七月三日・・・・・
  ■七月七日御入洛。二条妙覚寺の御陣を居(す)えられ、』〈信長公記〉

この●の日については脚注に『四月七日の誤写』と書かれています。
この誤写の七月七日に★の〈信長公記〉最後の「尉」付き「丹羽五郎左衛門・・・・」が登場します。
この二箇所しか「尉」付きがないので、ここで太田和泉の登場が暗示されていると思います。
前日の「津田三郎五郎」というのは、津田は織田家の親類を表し、「三郎五郎」は「対」を表します
から、「入眼」という語句もあり、この四月七日にこういうことになったと思われます。
  したがって引き当ての公式としてはここを境に、「尉」すなわち太田和泉が原則として丹羽となる、
これまで以前はとくに属性でわければよいということかと思います。なおついでながら●■の
     「七月七日」
については、両方「信長」の行動なのに居場所が違うという珍妙なことになっています。〈戦国〉
のときには誤写だろうといわれそうなのでここのところは差し控えましたが、丹羽五郎左衛門の
この件も懸かっていたということになれば著者および転写者、または出版社の誤写の嫌疑は
晴れるのではないかと思います。七夕も古典を受けているからここまでいえるでしょう。

(六−12)昇 官
比定上重要な次のこともありますが惟任については〈信長公記〉だけしか乗っていないので、事実
とはとりにくい、というよりもこの任官自体が、夕庵とか明智とか丹羽とか、簗田のような目障りな
表記を減らすための作為ともとれます。
 天正三年  御家人官位を進める記事では次のようになっています
 
        〈信長公記〉                  〈甫庵信長記〉
       友閑は宮内卿法印             友閑は宮内卿法印
       夕庵は二位法印               武井肥後守夕庵は二位の法印
       ●明智十兵衛は惟任日向          
       簗田衛門太郎は別喜右近       簗田衛門太郎は別喜右近
       ■丹羽五郎左衛門は惟住
                                 木下藤吉郎は羽柴筑前守
                                 河尻与兵衛尉は肥前守
                                 塙九郎左衛門尉は原田備
                                 ○山岡美作守(勢田橋懸け直し)
                                 □森次郎左衛門(勢田橋懸け直し)
                                 稲葉伊予守

 一般の人が見た〈甫庵信長記〉はこの一節で右の九人の人物が出てきました。何か待遇
(名前の名乗り面や役割、表彰など)があったというのも事実かもしれませんが〈戦国〉でも述べた
ように食い違いが歴然としています。●と■は注目させるために出てきたと思われますが。丹羽・
惟住が太田和泉ということがわかるだけで、別の疑問が浮かび出てきます。ひょっとしてぼんやり
と○□と対比していたのかも知れません。本能寺戦後のポイントは勢田の橋です。また簗田が重
視されている、原田もくさいとなってきて、〈戦国〉で挙げた二人の表記のトータルも再考の要が
出てきました。稲葉も出てきたので稲葉だけは例外ときめることはできまん。
 それはともかく今まで注目されなかったところが大きな意味を持って出てきます。例えば

(六−13)大船
元亀四年四月
   『・・・丹羽五郎左衛門・・・尤(もっと)もと申し上げ・・・・・・(信長卿)軍の行(てだて)大かた御指
   南あつて帰り玉いけるが、潜(ひそか)に五郎左衛門尉を召して仰せけるは、急ぎ大船十余艘
   作り置き候え。その故は室町殿御行跡・・・・・・・・長秀承って夜を日に継いで、大船の造営急ぎ
   けり。臣軌(しんき=則天武后撰)に曰く、明者は未形(みぎょう)を視、聡者は無声を聞き、能く
   謀る者は未兆を謀り、能く慎む者は未形を慎むと云うなるも、かようの事をや申すべき。』
   〈甫庵信長記〉

 大船は城建設の能力技術が転用されるものでしょう。中央日本から着実に新しい発想が現実化
されていったようです。ここの臣軌の考えなどは、甫庵という学者が書をひも解いて書き加えたという
ようにみられて重視もされませんが、こういう書物は太田和泉ら武将の血肉となって、活動に方向
を与え続けていたといえます。なんとなく、まあ政治でいえば、現に起こる目に見えることを追っか
けやすい、圧力団体の声を尊重して行動しやすい、というようなことをいっているのではないかと思
います。
次の記事も信長公政道への批判があります。

   『御鷹の事
  而るに信長卿御鷹を好き給いしこと、逸楽の業のみに非ず。万民百姓等が愁え申すことなんど
  を、しろしめさんが為なり。去れば尾張国海東郡のことかとよ。或る時唯一人侘びたる出で立ち
  にて、・・・・在々通り玉いしに、老いたる婦人の悲しむあり、故を問い玉うに、先祖より所持候いし
  田畠(でんばく)を、里の長に押領せられしに依って・・・・涙もそぞろなりと申しければ、かようの邪
  (よこしま)なることも、近年兵乱打ち続きつつ制法ということもなく、只明けても暮れても、武勇の
  事とするによれり。これ予が罪にあらずや。
古人の曰く、・・・・・・・云い伝うなど思召し合わされ
  政道の正しからざることを嘆き給いつつ、御帰城あって、人もこそ多きに丹羽五郎左衛門尉
  召し玉いて、・・・・・世のこらしめ又は式法になるように相計らうべしと仰せければ、・・・・先規の
  如く沙汰しければ、老婦悦びあえること限りなし。▼立ち帰ってその由申し上げければ
   彼の里の長は見懲らしめんがために長く先祖の所領を改易して彼の婦に取らすべしとて又遣わ
  されければ、重ねて沙汰しけり。かく計らわせ給いしかば、日を逐い、月をへて、下が下に至る
  まで、自ずから淳直に化しぬるように覚えけり。昔、時頼禅門の貌(かたち)を窶(やつ)しつつ、
  六十余州を修行して津の国難波の浦に至りしも、かくやと思い知られたり。』〈甫庵信長記〉

 この五郎左衛門は太田和泉といってよいでしょう。はじめの 而るには▼のところに移して読むよう
にする皮肉な文章と思われます。「重ねて」した部分は不公平が生じています。目に付いたことの
過剰反応といってよいようです。信長ー丹羽ー時頼を重ねているのも意味がありそうです。それぞれ
二人というところまで進めているかも知れません。適当に書き流しているようですが海東郡は池田
勝三郎の火起請の話しとつながります。この一節は信長卿の処置があまりにお粗末なので事件は
なかった、信長や著者は制文法ということを考えていたということもいいたかったと思われます。
 要は小瀬甫庵というのも二人で、太田和泉と重なっている存在ですから甫庵が述べてることは
太田牛一の考えなどが現れていてどの一節も見逃せないものです。
 太田牛一と丹羽家との接近は、太田牛一の権威ある略伝に、太田牛一が丹羽家の家臣だったと
いうものがあることでもわかります。 そのあとの藤堂家はまったく出てこないのに丹羽にはこういう
権威も取り上げるような話があるのです。
丹羽と明智という結びつきを語る挿話をネットから借用して、わかりにくいことも、わかってくるということ
を話してみます。(tikugo.cool/ne.jp/osaka/busho/から引用)、ついでに丹羽の後は藤堂だったというの
もわかります。

七、藤堂高虎

(七−1)藤堂高吉
このネット記事の表題は藤堂高吉(とうどうたかよし)となっていいて、
「生没年:1579〜1670 藤堂家の家臣。宮内少輔」という前書きがあります。

   『〔期待された子〕丹羽長秀の三男。母は朝倉家の家臣・若杉越前守の娘で織田信長の姪
   にあたる。丹羽長重・丹羽長秀の弟。幼名、仙丸。1582に羽柴秀吉が柴田勝家に対抗する
   ため、丹羽長秀の抱きこみ政策として高吉を弟、豊臣秀長の養子として迎えた。
    当初は嫡子とする予定だったが、1588年に秀吉は秀保(三好一路の子)を改めて嫡子とする
   ことを決めた。しかし高吉の才覚を愛していた秀長はこれに反対し、二人の仲は嫌悪なものと
   なった。そこで秀長の家臣だった高虎は秀吉に高吉を養子にしたいと申し上げ貰い受けた
   この時、秀長から一万石を贈与され、秀吉からも宮内少輔に任ぜられ、名を高吉と改めた。』

 丹羽長秀に三人の子があるようですが、太田牛一との関係は継母・継子の関係とみるのが当面
は妥当でしょう。
 とにかく高吉が子であることは間違いないことで、太字の部分のように養子とするということは一族
なみの待遇ということでしょうから必然とするものがなければならないと思います。藤堂家の家系図
には「丸毛兵庫頭の女」という名もみられますから、藤堂・明智は姻戚であるのはヒントが一般にも
提示されています。「仙」という名も太田牛一に繋がりそうな名です(既述)。才覚があった人物で
あることも事実だったと思われます(それを示す挿話がたくさん残っている)。
  その後、高吉は朝鮮戦役、関ケ原、大坂の陣などで武功をあげ、「小藤堂と称された」ほどで
今治城主二万石の領主となったようですが、

  『〔家臣に、、〕1630年高虎が亡くなると江戸へ向ったが途中近江の水口で藤堂家の家臣に
  止められ「家督は実子の高次に決まったので江戸下向は必要ない」と言われ引き帰している。
  1631年7月に高次と一緒に京都へ行き徳川家光に謁見した。
  1632年8月、松平定房が今治へ移封となったので、伊勢国内に二万石で移封となった。その
  後、高吉は高次に半強制的に伊賀名張に移封され二万石は宗家の領土に加えられ、大名から
  家臣の地位に転落させられた。高吉の家臣たちはこれを不服としたが、彼はこれを押さえて
  300の家臣と共に名張に移った。その後、藩の政務からは距離を置いて過ごし、1670年7月
  18日死亡した。享年92歳。』

 なお名張移封の件として
    『高次は豪気な人だったんですが、高吉だけにはライバル意識があってそれで移封させた
    という説もあります。あと奥さんは溝口宣勝の娘と生駒俊正の娘の二つの話がありますが、
    どっちが先妻でどっちが後妻なのかな?』

という追記もされています。一見まあ追加してみたというような感じのものですが、これは重要な
ことをいっていると思います。

(七−2)荒木又右衛門
 ここで長谷川伸著の〈荒木又右衛門=徳間文庫〉の世話になりたいと思います。池田藩渡辺数
馬の弟、池田公の寵童、源太夫が河合又五郎に殺され、怒った池田公の意向もあって、数馬が
義兄の荒木の助太刀を頼み、旗本の庇護を受けた又五郎と助太刀の河合甚左衛門・桜井半兵衛
を苦心の末討ち取ったという話です。 この事件は寛永十一年で、大坂落城から19年、松尾芭蕉が生
まれる10年前くらいのときに起こっており年表にも載っている事件です。

   『荒木又右衛門の伊賀越仇撃の時の上野城主は藤堂高清で藤堂高虎の腹違いの弟とされ
   る。』

この人物は下手人荒木渡部が仇撃に成功した寛永11年から、埒が明くまでの五カ年間押し通
して二人を庇護して、その三年後寛永17年八月15日に死亡したそうです、旗本などの圧力を受け
る当局に屈しなかったわけです。

   『出雲高清は和戦両様の才能がある、のみならず、藤堂家には人材が多い、たとえば
   仁右衛門を代々名乗る鈴木藤堂、高吉藤堂多羅尾藤堂、隼人を名乗る藤堂、縫殿を
   名乗る藤堂をはじめ、渡辺勘兵衛のごとき名士、梅原勝右衛門のごとき人物、と挙ぐれば
   かぎりなく、内外に、異彩のあるものが、雲のごとく、林のごとくあった。出雲はこれにはさま
   って揉まれ、かつ磨かれた。』〈荒木又右衛門〉

 要はそっくりそのまま幕閣を構成してもらいたいというほどのものでした。

   『松平伊豆守は、(荒木事件の最終段階で)藤堂家の家老を招いた。招きに応じて出たものは
   先代の和泉守高虎の養子で、丹羽五郎左衛門の三男、藤堂宮内(少輔)高吉と、藤堂監物で
   ある。▲藤堂高吉と藤堂監物にあらず、別人なりという説がある
   宮内高吉は、養父高虎に、高次、高重の二人の男子が生まれたので、▼臣列に進んで下がっ
   た人丹羽五郎左衛門は後の奥州二本松藩の藩祖で、高虎の親しき友であった。』〈同書〉
 
 最後の太字のところは、今まで本稿で述べてきたことがあって始めて理解できることで、長秀が
高虎と親しい友であることも知られていないし(前野長康やそのまわりの人であれば〈武功夜話〉でわかっている)、また親しいだけで相続に悶着が起きそうな人を迎え入れることは考えにくいことです。
 下線▼は先のネットの話の、著者長谷川氏の解釈が出ているもので、原資料のニュアンスはネッ
トの記事の通りであったと思われます。大学頭高次については

   『・・・・・気象は藩祖高山公再来といわれたくらい、英雄の大名である。・・・讃岐の生駒壱岐守
   高俊の叔父である。生駒家に内訌(ないこう)が起こり、そのために寝食を忘れて尽瘁(じんすい)
   した事件のごとき、高次の才幹の一面をみることができる。』〈同書〉

と書かれており、当然高清の幕府に対する態度も高次の意向によるものです。こういう人だから、
高次は高吉に気を遣ったものとみてよく、筋としては、高次が後継となるのは当然のことで、家光
に二人で会ったとき、臣籍となることを申し出たと思われます。生駒が出てくるこういう話にも太田
和泉の存在の大きさが反映していると思います。要は幕府にも、天海や大久保彦左(この物語に顔
をだす)などもいたので高次の独断専行には制約もあったはずです。

 下線▲の部分は入力は合っており、意味不分明ですが、二人は同一人という説があることが前提
になっていると思いましたが、そうでもないようです。先の場面に出てくる人物と、あとで出てくる人
物が突如変わっているのです。
最後、幕府に藤堂家の意向を述べるため二人の人物が使者に選ばれます。

    『この使者が遠藤勘左衛門と藤堂高之助である。』
    『藤堂高之助も遠藤勘左衛門も、尋常の男ではない。』
    『江戸出府の藤堂高之助は、その時、年五十三、摂津渡辺の出身で、はじめは渡辺八左衛
    門重(しげる)といい、藤堂高虎の士となり、大坂冬夏両度の戦争に功を樹て、藤堂高之助
    と改めた、この時は徒士頭で六百石を給せられていた。・・・もう一人の遠藤勘左衛門は・・
    ・抜擢されて直臣となり、四百石を給せられていた。なんの事件のためか、憤って出奔し、
    帰参を許されて八百石を給せられた。また何事かかあって出奔し、そのまま生死不明に終
    わった。伊賀越え一件は、その四百石時代ではないかと思う。』

これが先の場面です。この両名が、松平伊豆守の応答をするのです。そこでは藤堂高吉と監物に
変身しています。 これが先ほどの。▲藤堂高吉と藤堂監物にあらず、別人なりという説がある
の意味のようです。
すぐあとの場面
 あと同書で、松平伊豆守と高吉・監物の会話が続きます。

    「荒木は元来どこの者だ」
    「又右衛門儀は伊賀の国●阿拝郡(あべごおり)服部郷荒木の出生にござります。」
    「上野の近くか」
    「東へ、わずかばかりにござります」
    「御家で、同人をお取立てになったことはないか」
    「ござります」
    「うむ」
    「又右衛門儀、本姓は菊山にござります。いつの世よりか帰農いたしましたれど、天正年間、
    伊賀の兵乱に、荒木村の菊山という者、戦場に働きたる旧記がござります。又右衛門儀は、
    右、菊山の一族にござります」
    「菊山か、ほう、して」
    「又右衛門の父を菊山主水(もんど)と申し、古くより、苗字帯刀を免許の家柄にござります」
    「先代(和泉守高虎=著者の挿入)が免許したのか」
    「は」
    「して、無足(むそく)か」    (無足とは無足人ということで扶持を与えぬかわり、一部の租税
    「は」                を免除し、そのかわり、戦争のときは、従軍の義務がある。)
    「して菊山主水が」
    「は。菊山主水に二人の男子がござります。長男は大和にて農に帰し、次男は幼名を
     丑之助といい、やや長じて、服部平左衛門の養子とあいなりました。すなわち又右衛門
     にござります。服部平左衛門は藤堂が家の者にござります」
    「と、又右衛門は御家の家臣だった、のう」

つまり下線の部分のあとがこの文章なので、藤堂高之助が藤堂高吉、遠藤勘左衛門が藤堂監物
と取っています。前の場面の二人の人物は、高吉、監物のある断面を語っているということだと思われ
ます。まあ「勘」という字、重(しげる)という一字の名前がある人物を想起させていることもあると思わ
れます。
 結果的に渡部荒木は鳥取池田家に引き取られますが藤堂家が荒木を召抱えたいと思っていた
という設定で、伊豆守がそれを察していたという内容を示す形で会話のおわりとなっていますが、
荒木・服部の出身が話されているところが伊賀兵乱に結び付けられています。著者の調査資料を知
りたいところです。藤堂資料はかなり揃っているのではないかという印象をうけるところです。
つまり、〈信長公記〉の内容がここに反映されているようです。太田牛一がこの事件の主役を予言
したかのような感じです。この事件は、河合又五郎(助っ人河合甚左衛門)と荒木又右衛門が主役
です。

(七−3)太田牛一の信長伊賀征討の記事

   『(天正九年)九月十一日 ・・・・爰にて郡々(「伊賀四郡」と書かれている)を請け取り(受け
   もち)手前切りに御成敗。・・・・阿加郡、・・・・山田郡・・・・名張郡・・惟住五郎左衛門・・・・
    以上、
   ■阿閉(ルビ=アヤ)郡、滝川左近・堀久太郎・永田刑部少輔・阿閉(ルビ=あつぢ)淡路守・
   不破河内守・山岡美作守・池田孫次郎・多羅尾・青木・青地千代寿・甲賀衆、
   右の衆として所々にて討ち捕る頸の注文(記録)
     河合の城主田屋・岡本、国府の高屋父子三人・糟谷蔵人、壬生野の城主、荒木の竹野屋
    左近、木興の城攻干し、撫で斬り、上服部党・下服部党
    以上。この外、数多切捨てぬ。』〈信長公記〉

●は、荒木仇討ち事件の現場の場所です。伊賀に四郡しかなく、「阿閉」のルビが二つあり、前の
「阿閉」のルビが特別な意味をもちますのでこれは当て字であり、■と同じ郡であることがわかり
ます。ここに「河合の」「荒木の」というのが出てきましたか河合又五郎・荒木又右衛門の両「又」が
出るよ、と予言しているようでもあります。また、〈信長公記〉の記事から、この対話にある、河合、
荒木の姓をもつもの、服部も、被制圧者の中にいる、徹底的にやられた方の武士の出でことが
わかるというものです。爰にてが出てきて、ここは太田和泉の臨場のはずですが、先の多羅尾
藤堂の「多羅尾」も出てきた「山岡美作守・池田孫次郎・多羅尾・・」のセットがあやしい感じで、
松平伊豆の発言は、徹底的に成敗したというが、「和泉守高虎」が多く家中に組み入れてしまった
のではないかといっているようです。
吾妻鏡式の叙述方法では、表向きは、実際とは違う担い手が強権をもってやっている、残酷に描く
のは、その手のものに、こういう危険性があるよ、という警告が含まれている、というのはよく使わ
れる手ですが、それがここにも出ているのかも知れません。
筆者はこの長谷川の〈荒木又右衛門〉が好きで二度読んで今使っているから三度目です。身辺
整理の時期が来て蔵書など買いすぎたものを書店に持ち込んで処分していますが、あせて来てい
るためもあり、何となくまだ残っていました。手元に在る間に、この本から太田牛一の藤堂での
存在感について少しを述べてみたいと思います

(七−4)伊賀の仇討ち
先ほどの名張移封の件で、ネットで〈再掲〉

  『高次は豪気な人だったんですが、高吉だけにはライバル意識があってそれで移封させたとい
  う説もあります。あと奥さんは溝口宣勝の娘と生駒俊正の娘の二つの話がありますが、どっち
  が先妻でどっちが後妻なのかな?』

という追記もされていることは触れましたが、ネット寄稿者の方もまあこれは余分な追記だろうと自
認しながら書かれたものと拝察しますが、ないよりあるほうがはるかによいのです。太字のところは
丹羽でも藤堂でも、先妻と後妻があって、どちらが先かというようなことをよく考えなければならない
、それが高吉にも影響するということでもあるということだと思います。溝口は丹羽系、生駒は明智系
という比喩がありそうです。
この長谷川著のものには藤堂高次についてもう一つの記述があるのです。

  『大学頭高次は、有名な藤堂和泉守高虎の男。どういうものか始め父高虎に疎まれ、廃嫡され
  そうな立場にあった。それがためかどうかは知らず、藤堂家の小姓三十六人が盟約して、高次
  を殺害しようと企て、こと発覚し、三十六人残らず死刑に処せられた事件さえあった。
   高次には弟の左衛門佐高重があり、妹も二人ある。この左衛門佐高重を、父の高虎が偏愛
  したので、嫡子の高次は、あわや悲劇の主人公で終わろうとした、が、寛永七年十月、七十五歳
  で高虎が死亡したので、家督を嗣いで、足掛け五年目がこの時である。』〈同書〉

まあ本当に好き嫌いがあったのか、実子とか継子の問題があるのかよく分かりませんが、この話が
荒木又右衛門三十六人切りの伝説と関係ありそうだとわかります。この高重の話が高吉のものと重
なっていそうだということがわかります。藤堂の系図では高重という人物がいないように思われます。
高重の重は重政の重なので、また丹羽長秀の嫡男が長重なので、重は丹羽系と藤堂系両方に作ら
れた、高吉とあぶり出しの違いとして高重が出てきたのかもしれません。

(七−5)事件の語り方

@「又」の字が登場、主役(河合五郎・荒木右衛門)
この事件は「又」の付く人物がよく出てきます。またなぜか本多平八郎が絡んできます。

  『荒木の生い立ちについては、いろいろの説がある。慶長年間に本多中務大輔忠勝が伊勢の
  国桑名に居城の節、家来に荒木又十郎という者があった。一宮八幡の社殿で捨児をひろい育
  てあげたのが後の又右衛門で、幼名を八郎といった。・・・荒木は伊勢山田荒木村の郷士の子
  で、父は彦大夫、慶長六年に生まれ、幼名丑之助といい、童子のとき宝蔵院楽伝に武芸を学
  び、名を又三郎と後に改め、柳生十兵衛に師事しというのがもっとも流布している説である。』

柳生十兵衛の名前は三(光)厳(みつよし)で、光秀の十兵衛と「光」で重なり、その父、柳生但馬
守は「又右衛門」です。幼名の八郎は平八郎の八郎、幼名の丑之助は牛之助の積りかもしれませ
ん。

  『又右衛門に守札を与えたものは沢庵和尚と、又右衛門の師十兵衛だという話がある。』

沢庵は但馬守の連想からでてきたのでしょう。但馬守は前野長康でもあります。次の又兵衛も師です。

  『又右衛門が刀を折ったことを上野にあ藤堂家の戸波又兵衛が非難した、と、又右衛門は又兵
  衛
を訪い、その説を聞いて門人になった。・・・この時の荒木の入門の起請文が現存している。
  又右衛門は、剣よりもはるかに人物が完成されていたと信じてよい。』〈同書〉

この又兵衛は柳生十兵衛三厳(みつよし)か柳生又右衛門(但馬守)と重なるのでしょう。十兵衛光厳
は十兵衛光慶にも意識が及んでいるのかもしれません。下線のところこういう実体資料も文献の
延長とみてよいものが多く、書き残す手法の一つであることが重要です。二宮尊徳の墓が東北に
あるのはおかしいと神奈川県が文句をいうと、多分それは合っていそうだ、通説もそのとおりだ、
贋物を造ってけしからん、となりそうですが、尊徳の書き物がそこに残っていたら、そこに行ったことがあることは通説になりやすいとかいうような話にも通ずるものでしょう。

  『多甲斐守政朝は、蜻蛉(とんぼ)切りの槍の伝説のある平八郎忠勝の孫・・・・荒木の主君は
  本多甲斐守政朝だ、その政朝が、上総の国大多喜五万石を領したのが慶長六年のことで・・・
  荒木が服部兵兵衛の養子になったのは、甲斐守政朝の上総大多喜時代とみなくてはならない
  が、そういう根拠は発見されずにある。』

時代が合うか合わないかはどうでもよいようです。真剣にやれば大多喜まで消息を求めて旅立た
ねばなりません。この本多の大多喜のことは森蘭丸の家族のことを考察したときに出てきて、このこと
は前に述べました。

 A改易された大名やいじめられた大名の物語がさりげなく出てくる
舞台の伊賀上野城は、藤堂高虎の前は筒井順慶の養子、筒井定次の城でした。家中の宿老、
中坊飛騨守秀祐が慶長13年、定次に非行ありとして告発し、このため定次は所領をことごとく除
かれ、元和元年大坂方に通じたということで自殺を命じられるという経過をたどっています。この中坊
氏や、死後家が断絶した最上義光の四男山野辺右衛門大夫義忠が、河合又五郎のからみで出てき
ます。これなどは圧迫の記憶を呼び起こそうとしているとみえます。
『水戸家には昨年九月、山野辺衛門大夫義忠が、将軍家の声がかりで、右衛門大夫の大夫を削り、
家臣になっている。山野辺義忠とは五ヵ年前、備前岡山の城下で渡部源太夫を暗殺した河合又五郎を
一時かくまった人である。』
というような、ことさら山野辺をもってきたような書き方です。あちこちの大名家の、戦国時代くらいから
のことが書かれています。この渡辺数馬弟、源太夫を寵愛した池田公(忠雄)の死は『毒殺であった
という説がある。この物語では、そのを採らなかった。が、そのころ、あり得ることだとはしている。
池田家には、大きな毒殺事件が、その以前もあった。・・・(利隆も忠継も)公表された死因は疱瘡
ということである。宮内少輔忠雄の死因もやはり疱瘡である。』
などの裏話が織り込まれています。
 公表された資料の原本が実体資料ということで珍重されるべきというのでしょうが、それなら一定
の公表公式に基づいてされているのはみえみえで事実は到底掴めるものではないということが
わかるはずです。詐述者の牛一の近い親戚だから池田家はダシになっているケースでしょう。家康の
周辺の毒殺の匂いの方が重要のようです。

 B食い違いを出してくる
(A)年齢のまちまちさは驚きです。事件当時の年齢が諸説あってまちまちです。
荒木又右衛門三十七歳。渡部数馬二十七歳。川合武右衛門四十三歳。森孫右衛門三十八歳が
標準のようですが、〔土肥経平説〕〔楢紫竹水説〕〔道中次第書説〕〔玄忠寺・鳥取市・墓碑〕〔又右衛門
自署「覚書」〕で荒木は30・38・37・36とあり、渡辺も一説では28、武右衛門は40説もある。孫右衛門
は異説がないようです。

(B)又右衛門死亡日もまちまちです。事件も決着がついて、鳥取に着いたその年、寛永十五年八月
二十八日、
『又右衛門が病死した。年四十一.鳥取へ着いて半月だけの生命でだった。・・・又右衛門の墓は・・・
鳥取市新鋳物師町(新品治町)の浄道寺土寺玄忠寺にある。・・・・この碑石は明治三十五年
八月、鳥取連隊の将校が協力して破損を修復したもので、伝うるところでは、藩主が建てた碑だという・・
・・・死亡の日も異説がある。・・・・二十八日死亡説・・・八月十五日死亡説、・・・・・・八月晦日説、土肥
経平氏は黙殺している。』
などあります。

(C)桜井半兵衛の家来で決闘の場にいた人物すら名前に異説があるようで
 『湊江清佐衛門の湊江は誤りで、正しくは、溝口で、伝写の誤りが伝わっているのだという。藤堂家の
 記録〈累世記事〉は溝口であって、湊江でない、名も清左衛門でなくして八左衛門だという。』
「溝口」「八左衛門」などはどこから出てくるのかが疑問です。また「半兵衛」は重要ではないかと思われ
ます。

(D)又右衛門が斬ったという人数もまちまちです。
 『諸説によると荒木が斬ったのは最高三十六人で四人六人三人などある。先代宝井馬琴が
 又五郎、半兵衛、甚左衛門、半兵衛家来の四つの墓をみて4×9(苦)、49,36番切りにした
 という説がある。』

(E)事実とも食い違う記事があるのか
『即死の河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、桜井の家来三助の四人の屍は、万福寺墓地
に葬られた。万福寺に現存する碑は、又五郎のみで、甚左衛門、半兵衛、三助のはない。』
のようなことも書いてあります。

C生存説もある
『又右衛門生存説があり、信ずる人が少ない。が、ここでは、豊臣秀頼、真田幸村の生存説、大塩
平八郎の生存説と同じく、同情の生んだ伝説だとする。』
この人名は長谷川氏が選んだものかどうかはわかりません。

D類似の事件を述べている
同じころに、池田家で勇名が高い村山越中という人物が、池田公の寵童を斬って立ち退き、池田公
は怒って、臼井十太夫に討つことを命じ、十太夫は、村山越中を松山藩(池田備中守長幸)で討ち
取ります。四年前のことです。この臼井(法師となって本覚)を村山越中の妻が幕府に訴え、幕府は池
田家に本覚を死刑にせよと命じたが、池田の荒尾但馬が代表して争い、本覚の生命を救うことに
成功した。かつ酒井雅楽頭忠世の声がかりで池田家へ本覚復帰となった、という話です。
 『臼井本覚の敵討ちは寛永八年十一月二十八日。誤り伝えて、十余年後の正保年間のこととし、
あるいは全く脱漏して記載を欠いたものがある。臼井本覚一件は、当時、諸家に広く喧伝されていた、
藤堂家でもよくしっている。』と書いてあります。荒木又右衛門が池田家に引き取られたという結論は
決まっていたのかもしれない、池田と幕府の戦いに、藤堂が入ってきた、家光・幕閣・天海・酒井忠世・
忠勝・大久保彦左・安藤治右衛門・兼松又四郎・阿倍四郎五郎などを巻き込んだ話しでおもしろくなって
いると思います。阿倍四郎五郎の発言などは、カタカナが入っているものがあります。

E無視できない話がある
(A)又五郎を匿った安藤治右衛門は、安藤重信・重長の一門。(又五郎の父は重信父子の家臣)。
この父の同じ治右衛門が大坂方の木村主計(きむらかずえ)と相打ちとなって死亡するのである。
その父の安藤治右衛門も関ケ原で戦死、いまの安藤治右衛門は定次である、ということですが、定
次という名前が「筒井」で引っ掛かりますが〈前著〉で出てきた木村主計というのは木村又蔵かとも思
える重要人物です。

(B)荒木村重の荒木か

   『そういう多くの話の中で、一段と面白いのは〈三国地志〉にある説である。〈三国地志〉というの
   は、伊賀上野の城代をしていた藤堂元甫(もとまさ)の編著で、・・・・元甫の死は宝暦12年で、
   寛永11年伊賀越仇撃からは130年の後代である。荒木又右衛門の本姓は菊山で、天正のころ、
   備州の大守に仕え、寛永年中、伊賀上野の城下外れ、小田村で復讐の後、再び備州に仕え
   た。その先は、歴世、又右衛門という名を襲ったものらしい。
   荒木村にその宅趾(たくし)がある。荒木は土着の豪家だった。これが〈三国地志〉の説である。
   荒木屋敷趾というのは、戦国時代に雄飛した荒木摂津守村重の住んだ趾で、また、荒木又
   右衛門の住んだあと趾だともいう。もし「天正のころ備州に仕え」というのを手がかりに捉えれば、
   又右衛門の先代は、勝入斎時代から、池田家の禄を食んんだと考えられることになる。が、そう
   いうことには深入りを避けることにする。』、

 荒木は荒木村重の荒木を連想した人物がいたようです。
「天正のころ」といえば岡山城は、宇喜多、小早川、池田となるから宇喜多がでますが坂崎出羽守
が登場します。
『坂崎出羽守は、直行、成正、直盛、重行、等々、或る説では八つの諱(いみな)が
あるという。』、島左近の名前の多さと共通しています。著者は資料を集めるのに五年間要したと
いうことで、調べたことは出きるだけ書かれています。深入りしたいことがあったというのはその端々
に窺われます。すなわち奥の深さを感じてしまいます。

(c)津島の服部
もう一人若党門人の武右衛門がいますが
  『武右衛門は荒木の生まれ故郷、伊賀の荒木村に近い川合村の生まれ。』
 となっていて敵味方包摂したような出身地となっています。
『又右衛門は服部平左衛門の次男、ここでは荒木河合が郷を異にしてはいれど、同じく伊賀阿
拝郡(あべごおり)の出身だと自由に構想することを控えておく。』
服部平左衛門は〈信長公記〉の一匹おおかみとして出てきます。首巻で敵の大将を討ち取っています。
    『長井甲斐守   津嶋の服部平左衛門討ち取る。』
 津島で堀田道空が出てきましたから、「又」が介在した服部と道空の組み合わせは道空が一族
的なものにならないか、とかいう疑問もでてきます。

(D)遠山登場
遠山という名は明智と縁深いものですが遠山才兵衛という人物が出てきます。
才兵衛は河合又五郎が渡辺数馬の弟源太夫が討たれたとき下手人の一人を居合わせて切った
人物です。(一説ではこれが三村孫右衛門という。)
 伏見で藤堂から池田へ渡部荒木の引き渡しがあり池田から派遣された引取り人員の中に遠山才兵
衛が入っている。第七隊。ちなみに第六隊隊長は松尾惣左衛門父子(伊賀者六人)です。

    『遠山才兵衛は前にいつたごとく、寛永七年七月二十一日、河合又五郎凶行の夜、行き合
    わせ今また渡部荒木を迎えの列中にある、奇なる縁である。
    遠山才兵衛は島原の役の戦功によって、五十石の加増を得た。・・・・才兵衛はこの論功
    行賞が不平で渡部荒木を伏見に迎え、役目を果たした後、池田家を去り、浪人中、出羽
    山形の城主保科(松平)肥後守正之へ召されて下士となり、正保二年、保科氏が会津に移る
    とき随って若松に赴いた。』

 この遠山才兵衛は、会津保科に仕官した、既述の森乱丸の子孫だという服部安休のいるところで
す。名前もよし、案内役として出てきた、と思われます。「又」「本多」「服部」「遠山」「森」と藤堂の
連鎖は、あの丹羽の三男高吉は、ひょっとして森蘭丸の子ではないか、と思わせるものがあります。
太田和泉は孫を引き取り養育していた、したがって丹羽のあと藤堂に引き取られたと考えられま
す。高次はそのことを知っていたため、より強く競争意識をもっていたという語りになった、と思われ
ます。ネットの語りの補足としてはこうなるのかもしれない、と思います。

(E)へんな当てもの 
『荒木又右衛門が菊山と、一時、姓を名乗っていたのは、菊永の誤伝ではないか、菊永兵部兵衛といって、朝鮮の役に戦死した名ある武士がある。その兄は服部出羽掾(はっとりでわのじょう)である。又右衛門の父は服部姓であるから、長男でなかった又右衛門が、養家の服部平兵衛方を去って名乗ったのは、この菊永だろうという異説がある。』
筆者はこの兄弟が誰を連想しているか、あてずっぽうでも述べることは可能ですが、こういうもの
で現代人は説得できない、述べ手が苦しくなるだけです。したがって長谷川氏の「述べないことに
する」というのが本人の気持ちであろうと思われるものです。作られた「国民感情」が立ちはだかる
ものでもあります。

F一番無視できない話 
荒木又右衛門の従僕は因幡岩本村孫右衛門父子の子六助で、摂津八部(やたべ)郡丹生の
山田村が荒木の本拠です。

    『この孫右衛門の本姓は酒井にあらずなりという説がある。寛永十年までは岩本という
    説を使わず、酒井、または、森なりしという説もある。』

これは〈信長公記〉を受けている、太田和泉を意識した物語ということについて決定打に近いもので
す。特に「孫」は重要というその「右衛門」に「酒井」と「森」という相対峙する名前が帰属していると
いうことが重要です。 「 稗田阿礼」が相対峙する稗田と阿礼の合成であるのと同じでしょう。
女と見えるような「源太夫」が殺されたのが事件の発端で〈信長公記〉でトリックのキーワード「宮」
で出てきた、熱田の「源太夫」宮からのスタートとなっている感じだから、荒木又右衛門物語は太田
牛一を受けた物語となるのでしょう。
太田牛一は
         森三左衛門ー丹羽五郎左衛門ー藤堂高虎
の連れ合いであったことを話してきたわけですが、丹羽五郎左衛門という個人名で、太田牛一が
もう一人いるなどということは考えられない、といわれるかもしれませんが過去にも例は多いのです。
例えば「義経」という個人名で「九郎義経」「判官義経」「義経朝臣」というものがあることも述べて
きました。それは通説化した話ではない、またそうであっても太田牛一がそうしたかどうかわから
ないということをいわれるかもしれないので、同時代の有名武将について少し触れてみます。一つ
あれば、ほかにもあるのです。

八、柴田修理亮 

(八−1)柴田日向
柴田勝家の表記は人名索引では
    〈信長公記〉・・・・・・柴田・柴田権六・柴田修理・柴田修理亮
    〈甫庵信長記〉・・・・柴田権六・柴田修理亮勝家・柴田修理亮・勝家
となっていて丹羽五郎左衛門の場合と似ています。
ただ、このほかに、柴田角内・柴田三左衛門・柴田日向守・柴田左馬允などどういう人物かよくわか
らないとされているのもあります。
〈信長公記〉の人名索引には「柴田」が二つあり、計五件
    一つの「柴田」、二件
    もう一つの「柴田」、三件
前者において「勝家とも断定しかねる。」とされています。筆者もこれは別人で確定できると思いま
すが現にこういうことが指摘されているわけです。
柴田修理亮が明智光秀を表す場合があることについて兆候が一つあります。

 @永禄十一年、〈甫庵信長記〉の文

i   『 岩成主税頭降参の事
    同日(9・28)に柴田修理亮、蜂屋兵庫守、森三左衛門尉、坂井右近、その勢一万余騎に
    て・・・・』〈甫庵信長記〉

があります。、ここの柴田は、今まで述べてきたことからみるとなんとなくおかしい、明智一族の中の
一人としてははみ出しているのです。まあしかし、今まで述べてきたことがおかしいという証拠だと
いうのも正解でしょう。
著者が指摘してくれると、筆者だけの独断でもないことがわかりますが、このところ〈信長公記〉では
 永禄十一年九月廿八日

   『柴田日向守、蜂屋兵庫守、森三左衛門尉、坂井右近この四人に先陣仰せ付けられ・・・』
   〈信長公記〉

 となっていて柴田は明智と読まねばならないというのが出てきます。これは指示がありますが
この少しまえには前触れなく

   『柴田修理亮、森三左衛門尉、坂井右近、蜂屋兵庫守を召して仰せられけるは・・・』
   〈甫庵信長記〉

というのが出ます。これも読み替えられることが要求されるわけです。明智の溶け込んだ戦国史だ
といえるからです。但し区分しなおすのは、柴田勝家、明智光秀の生涯を通した属性を掴んでする
という面も不可欠といえます。
 現在では両書を対比して読んではじめて説得性が出てきますが、江戸期までの読者には、甫庵の
書だけでも、こう理解がされたと思います。甫庵の正体がバレテいて太田牛一と甫庵が重なってい
ると知られていたからこういえると思います。
 このあと、この年洛中洛外に禁制がでますがこのときも

     『柴田修理亮、坂井右近将監、森三左衛門尉、蜂屋兵庫頭、彼等四人に・・・・仰せ
     付けられければ、すなわち制札をぞ出しける。
        禁制
   一、当手の軍勢乱妨狼藉等の事
   一、猥りに山林竹木伐採るの言
   一、押買押売りならびに追立夫(おいたてぶ)等の事
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
   永禄十一年十月十二日
   加之(しかのみならず)観察使検見等を出され、誠に制法正しかりければ近里遠境穏になっ
   て、罪を犯す者一人もなし。・・・・・』〈甫庵信長記〉

 著者だから誰も褒めてくれる者がいないので自画自賛したようです。この柴田が明智十兵衛に
変わるものです。
 始めの〈甫庵信長記〉と〈信長公記〉の記事は名前の順番が一致しており対比しやすくなってい
ますが、あとの甫庵の記事は〈吾妻鏡〉であったように皆違っています。しかし、柴田修理亮の位
置だけは不動です。まあこうはいってもこの羅列に意味がないというわけにはいかないと思いま
す。一方で柴田と明智が古くからの親類だということも掛かっていると思います。斎藤道三が敗死
する記事で高名をあげた「柴田角内」は「斎藤角内」と替えて読まれることが期待されているのか
もしれません。もう少し触れますと

 (八−2)無理が通れば道理引っ込む
次の記事の前段の意味は何のために入れられたのかよくわからないはずです。武田の戦死者を
挙げているなかに、名和無理助と云う名があることに関しての話です。戦死の状況から

   『・・・・・爰に(徳川の)渡辺忠右衛門尉、小栗又一郎は、無理介と渡し合わせて撞き合い
   けるが、・・・・二人一人なれば遂に無理は討たれにけり。・・・・・・・・・件(くだん)の名和無理
   助と云う兵は、比類なき剛の者なりけるが、或る時、敵、鏃(やじり)を揃えて待ちかけたるに、
   堀無手右衛門と云う者、無理助殿いざゝせ玉え。あの勢の中へ懸け入り、さりぬべからん兵と
   引き組んで討ち取らんと云いければ、名和是を聞きて、かく数百挺揃えたる弓鉄砲の中へは、
   懸からぬ物ぞと云いければ、然らば向後(きょうこう)道理の介に成り候えとののしりければ、
   傍(かたえ)の人、一理は聞こえたりとて、目ひき鼻ひき笑いあえり。有夜誰が仕業おもなく
      名和殿は道理の介に成(なら)しませ 無理なる事をする身でもなし。
   かくて信長公大利を得給いて、・・・・・さざめき立ちて帰らせ給いけるが、また熱田大明神へ
   御参詣あって、御立願遂げらるべしと、官々造営の事、岡部又右衛門尉に仰せ付けらる。
    爰に柴田葦毛と云う名馬あり。事の急なる時は、足をかがめて乗する希代の馬なりとて、
   柴田修理亮奉りける。さてこそ柴田葦毛とは呼ばれけれ。今度の合戦にも召されたる物能
   き馬なりとて、明神に是を奉らる。・・・・・殊更に神明の加護を頼み玉いしに依り、この駿馬を
   神馬に引き給いしとなり。』〈甫庵信長記〉

 既述のとおり信長卿は宇喜多家の家老から明智の殿様といわれていました。ここの柴田は明智
に替えてよまなければ「駿馬を神馬に引き」も生きてきません。名前のことをいっているのは前段
のところで、はっきりしています。前段の存在意義を考えるときこういう解釈とせざるをえません。

 (八−3)殿(しんがり)の柴田
〈甫庵信長記〉の記事(元亀二年)

  『江州北郡在々所々放火ならびに勝家殿(しつぱらい
  信長卿・・・・●柴田修理亮勝家をとして、続くその勢五万余騎、御旗本をば陣として・・・・
  ・放火して翌日引き退き玉う。
  殿(しつぱら)い大事なりとて柴田にぞ相定められける。案の如く敵両城(小谷・山本山)より八
  千余騎を三手に分けて相付けたり。・・・・勝家も原田(備中守)と相計つて引き退く処に(敵)
  手痛く慕い付きければ勝家三度まで返し合わせ相戦って難なく追い払い引き退く、その間の
  道わずか五十町ばかりなりしが、進退(あざやかなので)いぶかしく思し召しけるにや、三度まで
  使いを遣わされしその中に、猪子兵介(助)駆け引きの体見計らい様子申し上ぐる。その次第
  少しも違わずとて御感あり。総じて今度に限らず大事の殿いをばこの柴田に仰せ付けられけ
  るに、毎度利を得ることのみにして失うことはなかりけり。』〈甫庵信長記〉

●柴田勝家だけが本来の勝家で、あとは太田和泉です。元亀元年にも太田孫左衛門の殿(しんが
り)の戦いの活躍が述べられています。ここの猪子・原田は太田牛一の属性といって良い人物(猪子
は道三の談話を引き出した)です。又〈信長公記〉で柴田は殿に失敗したことをことさら取り上げて
います。元亀二年六月長嶋表の戦い

    『柴田修理亮見合わせ殿(しつはらい)候の処、一揆どもドッと差し懸け、散々に相戦い、柴田
    薄手(うすで)を被り罷り退く。二番氏家ト全取り合い一戦に及びト全その外家臣数輩討ち死に
    候なり。』〈信長公記〉

西美濃三人衆の一人、ト全が討ち死にしたことで有名な戦いですが、ト全の死も柴田の失敗が原因
だ、といわんばかりです。したがって〈甫庵〉の文の柴田は明智(和泉)として読まねばならないと
ころです。
 柴田は武勇でよく知られていますが、著者は全然買っておらず、ここの「退く」という仕草は稲生の
戦いでも出てきました。「柴田権六・・・手を負い候てのがれ候なり。」という文を入れています。信長
に一喝され引き下がったことも知られています。賎ヶ嶽の戦いで先鋒隊長、佐久間盛政が暴走した
から負けたというような語りがされていますが、あれがなかったら、有名なこの戦いも柴田方は一矢も
むくえず敗退してしまったというのも明らかです。佐久間盛政は佐久間信盛の甥とされていますが、
甥は巾が広く、調べなければわかりません。が、盛政は中川清秀を討ち取り、高山右近を追い落とした
のですから、戦機は正確に捉えており、占拠地を固めるのが普通なのに、引き上げなかったのが
悪いということになっているのがよくわかりません。徳川が裏にあることが掴めれば、全体もうなす
すべがなかったといえると思います。明智の挙兵したあのときが唯一のチャンスだったといえます。
柴田の武勇では「亀割り柴田」の話しはよく知られています。
〈信長公記〉の人名注にも、

   『(〜1583)・・・信長の宿老守九郎・元亀元年(1570)六月近江長光寺(近江八幡市内)を
   守っているとき、六角承禎の包囲を受け、飲料水を絶たれて苦境に立ったが、よく戦い勝った。
   瓶割り柴田の称号を得たのはこの時のことである。・・・』

となっています。敵の使者がきたとき、水を惜しげもなく捨て、出陣にあたって貯蔵の水がめを割っ
決意を示したというものですが、これは類似の話はすでにあったかと思います。その逸話が出てく
る人物と織田の髭面、武張った柴田と重ねる、或いは故事で大瓶に落ちた児を、とっさに瓶を割る
ことにより救出した幼児=後宰相と重ねるという働きのある挿話を生いだした可能性が高いと思われ
ます。〈信長公記〉の人名注は一方で

   『佐久間信盛(〜1583)・・・右衛門尉、信長の老臣、近江長光寺城主。・・・・・』

というのも書かれております。偶然没年も同じですが、信盛は志津ヶ嶽の時に亡くなったのでしょう
か。ここに長光寺は柴田でなく佐久間とされています。どっちでもよいではないかということになりま
すが、そういう文献があるから、無視できないわけです。元亀元年五月、〈信長公記〉の記事

   『十二日に永原まで御出、永原に佐久間右衛門置かせられ、長光寺に柴田修理亮在城。・・』

 の記事がありますが、脚注に
   「十二日は十三日の誤り、(〈言継卿記〉)」
と書かれており、これは油断がなりません。このときは一揆相手の戦いで水の手を切るというような
組織的な戦いはなかったとおもいますが、あったとしてもそれは佐久間ではないのか、外の書物が
太田牛一間違っている、何か別のことをいいたいのか、といっているかもしれないわけです。
〈信長公記〉は、関ケ原戦が終わってから完成しており、最後から振り返って1本筋の通った人物像を
造形していますから、武勇を褒めるなら柴田ではない、佐久間を挙げたいというものがあることは
否定できないところです。

九、佐久間信盛

(九−1)馬印
佐久間信盛については知られている以上にもっと言及しているのではないか、と思われますので
柴田に絡んだ余分な話をしましたが、佐久間についても同じようなことがあります。〈甫庵信長記〉
のラストは次の馬印(うまじるし)の記事で終わっています。

    『・・・・・・・・・・・・・・
    一、金の杵             三七殿(信孝)
    一、瓢箪に金のきりさき     秀吉卿
    一、白き吹貫(ふきぬき) ※  佐久間右衛門尉信盛
    一、絵鶴竹に金の短冊     丹羽五郎左衛門長秀
    一、金の御幣           柴田修理亮勝家
    一、金の三ツ団子         滝川左近将監一益
    一、金の分銅            大和ノ太守筒井順慶
    一、菅笠三蓋(がい)        佐々内蔵助
    一、金のつり笠           河尻肥前守
    一、白紙のしでしなひ※     明智日向守
   此の外多数有りつれども、同篇※(脚注=同じ事)なるはこれを閣(さしお)く。信盛の吹きぬき
   さへに、爰に及ぶ事いかがなれども、大臣なれば之を記す。
 
 馬験(むまじるし)を後世の参考のために述べられたのだろう、ということになっているのでしょうが
下線のところは何のために入っているのでしょうか、またその意味がわかっているのでしょうか。
桑田博士は甫庵は頼りないといいながら検閲して削除したりしているから分っていたといえると思い
ます。一から考え直すのは時間が掛かるし、明治の時期にもどって、そこからスタートとなるから
学問の進歩をいうなら考察しておいてほしい、そうでないと甫庵は頼りないというものだけが生きて
きて学問を遅らせる方に貢献してしまうことにならないか、終戦で民主主義となって表現の自由も
可能となった、甫庵の強さを後進に引き継いでほしかったと思われます。一からなので筆者の見解
もこれから批判を仰ぐことになりますが、そうであればよい、そうならないかもしれないので書き流し
ておくだけです。
印 「※」が二つ、佐久間と明智に入っています。
「吹貫」というのは吹き流しといわれるように、円形のものに絹のきれなどを数条とりつけ風がふきぬ
け靡くようになっているものですが、佐久間のはこの全体をいい、明智のは、絹のきれの仕様をい
っているようです。まあ単純なかたちの長いきれではなく四手加工のしてあるものです。同篇という
意味はこの同じことという意味と思われます。
ここはしたがって、この二つは同じだから省くのが筋なのに、佐久間が大臣だからあえて書いた、
といっているのは間違いなさそうです。また「信盛の吹きぬきさへに、」という表現は「さへ(え)」
が読み泥む二文字で、頭をひねらされますが、結局わからないので「佐久間」の強調だろうという
あたりの結論で落ち着かせないと前へ進めません。しかし、このため何度もこの文を読まされるは
めになりました。そうすれば、ここの「明智日向守」は間違いではないか、というのが判ってきます。
惟任日向守になっていないので、一歩進めてもう一人の惟任、太田和泉というのがも出てきます。
〈戦国〉でも「明智日向(守)というのはおかしいということを述べていますが、それは思い込みの
結果でしかない、という向きもあろうかと思いますが、これは間違いとしなければならないものです。
それのヒントが外にたくさんあるわけで、そういう熟読の機会を提供してくれるわかりにくさです。
ここではそれは別として
 「佐久間」と表記されているのは「太田和泉守牛一」と読まねばならないということ示しています。
それは間違いなくあり、ここでは二件、説明がいらないものを紹介しておきます。

(九−2)意見具申
永禄十一年と思われるころ、入洛の前、

    『かくて三献の酒過ぎて、抑、御入洛の計略を致さんと欲すといえども、未だその可否を決
    せず、皆深く思慮を廻らして申さるべしと仰せければ、各、左右に相譲って申し出す人なし。
    重ねて疾々(とくとく)と仰せければ、信盛進み出で申しけるは、
    今度の御企て、至善の極みと存ずるなり。それを如何と申すに、一国一郡を正すさへに、
    況や天下をや。既に君は●美濃・尾張・伊勢・三河・遠江、五箇国を随え給えば天下へ打ち
    上がり、逆徒を平らげ給わんこと、何の滞ること候べき。まのあたり一統の御世となし給いて
    雑学を発揮し、真儒を興起し、すたれたる礼楽を興し、民の塗炭を救い、邪を退け、正を挙げ
    給わば、万民その化に浴し、御家運いと久しかるべく候と申し上げければ、信盛が諌言大い
    に感じ給いて、国土安全の寿(ことぶき)を始めんと宣い、色々の美酒佳肴数を尽くし、上下
    舞いうたい、夜半にこそ及びけれ。』〈甫庵信長記〉

 これは会議の発言の形式にしてありますが、上洛謀議の要の人物であったことの証左でしょう。
下線のところ、太田和泉の属性のようなものです。出発は次節で「美濃・尾張・伊勢三箇国の
軍勢を相具し打ち立ち給う」となっています。
 この入洛計略の節の前が、
      『義昭公越前の国より美濃の国へ御座を作(な)さる事』
ですが、義昭の前から下がったあと酒宴があり、次の文があります。

   『如何(いかん)してかその功を成すべきぞ。旨憚らず申さるべしと仰せければ、
        ★佐久間右衛門佐々内蔵助
   進み出て申しけるは、誠に武勇智謀に長じさせ給う故、この大節を奉(うけた
   ま)わらせ給うこと、幸慶忽ち純熟しぬ。然れば義兵を挙げ、大軍を率して攻め上らせ給わんに
   何の仔細か候べき。ただ日を移さず攻め上がらせ給うべしと衆口一同して申されければ、
         信長卿いとど御心快(こころよげ)に打ち笑(えま)せ給い、
   さらば先ず江州に出張し、佐々木を御味方に成し候わんと議せらる。』〈甫庵信長記〉

この★は本来の佐久間信盛と太田牛一でしょう。このあとのさえがあり一節から注意して分ければ
よいようです。ここで重要な戦略の話しがでています。すなわち下線のところが当初の戦略に入っていたものです。またこの前の節は
    『義昭公より信長卿へ御教書をなさるる事』
ですが、これは

    『彼(細川藤孝と上野清信)の両使に差し添えて不破河内守ならびに路次の便りよければ
    ■浅井備前守をも相添えられり。』〈甫庵信長記〉

という一文があるわけです。この■は浅井長政のことでありこのとき使者について美濃にきている
のです。だから太田牛一の考えは三箇国で上洛し佐々木・浅井と協力して入洛しようということで
あったことは明らかです。佐々木は桶狭間のとき援軍を派遣してきているし、織田信長の曽祖父
敏定は江州に足場を築き、このころ小坂久蔵・源九郎が活躍したのは既述しました。この戦略の
一節のあとが
           『信長卿御入洛坂井久蔵感状の事』
の一節であり、あの信盛が、和泉であるということも「坂井久蔵」との繋がりによりはっきりしたとい
えます。ついでですが、ここの「信長卿」についてもいいたいことをいっています。

       『信長卿御入洛坂井久蔵感状の事
     永禄戊辰(11年)九月七日に義昭公へ御暇申し給いて、近江の国攻め傾け、やがて
     御迎を奉るべしと仰せ上げられ、翌日美濃、尾張、伊勢三箇の軍勢を相具し打ち立ち
     給う。先陣は早や江州平尾近辺に充満せしかば、後陣は垂井赤坂辺にひかえたり。
     ●信長卿も高宮に着き給いて、両日人馬の息を休め、同十一日に・・・・・・』

 のようなことを書いています。この文の下線の部分の主語は「信長卿」と取れるので、●太字
部分の表現がおかしいわけです。前節では「信長卿」と「信長」の二通りが使われているので
下線の主語を「信長」としてもおかしいことになります。〈前著〉では〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の
対比において二人いることを述べましたが、誰でも見ていた〈甫庵信長記〉だけでもオヤッと思わ
せるものが打ち出されています。脱線しましたが、「信盛」が著者である例を、もう一つ挙げてみ
ます。
 元亀二年九月、 『延暦寺炎上、同僧徒悉く焼殺さるること』の一節です。

    『(信長公)同十三日に比叡山の堂社仏閣悉く焼失せしめ上方僧徒に至るまで皆焼亡すべしと
   徒の人々に仰せ付けられ、いささかも哀憐の御心なく唯急ぎ申すべし旨、しきりに下知し給
   えば、近習宗徒の人々、こはいかが有るべきと色を失い手を当つる様にふためき合われけれ
   ども、憤り甚だ強くして、中々制し難かりければ、各々力及ばずして、御請け申しけるところに
   又諌諍致し見んとて、信盛武井肥後入道両人進み出で申しけるは
    この山と申すことは、人王五十代桓武天皇(ルビ=わう)、延暦年中に伝教大師と御心を合
   わせ、御建立ありしより以来(このかた)、王城の鎮守として、既に八百年に及ぶまで、遂に
   山門のゴウ訴をだに用いずという事なし。然るに今世ギョウキ(末世)とは申しながら、かかる
   不思議を承り候こと、前代未聞の儀にて御座候と、強て諌め申す処に・・・・』〈甫庵信長記〉
 
 この信盛は、佐久間信盛ではなく、意見を述べるとき歴史から話をするくせのある人物でしょう。
これは信長公・夕庵・牛一の三人属性のようなものです。
朝倉陣のとき、佐久間信盛が信長に先をこされ、叱責を受け、口答えした一節がありましたが、こう
なるこれも匂ってきます。すなわち

   『信長へこされ申し、面目も御座なきの旨滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉初めとして謹んで
   申し上げられ候。佐久間右衛門涙を流し、さ様に仰せられ候えども、我々程の内の者はもたれ
   間敷く、と自讃を申され候。』〈信長公記〉

〈信長公記〉の人名では、ここの柴田は『勝家とも断定しかねる。』とされていますが、この佐久間も佐
久間と断定しかねるもので、柴田と佐久間が入れ替わるのではないかと思われます。佐久間信盛
は自讃をすることから、最も遠い存在です。ここは「越され申し、信長面目も御座なき」と読む
のでしょうから吾妻鏡の「てへれば」と同じような他愛もない話とみるほうがよいと思いますが、柴田
の涙の方が出したいことでもあろうと思います。

十、羽柴秀吉

(十−1)中入れ
丹羽・柴田・佐々もこういうことで、読み替えが必要なものがあるということを述べてきましたが、
秀吉もあるのです。天正三年八月十五日前後のごろの話です。光秀が惟任になった直後の話で
そのことと、本能寺の記事とを繋げるためのものでもあり、その意味では作文と思わせる一節です
が、それだけでなく太田和泉中入れの武功を長々と述べています。

   『信長秀吉を召して仰せけるは、今日の大雨に敵の城々さぞ油断して休むらん。かようの
   時こそ不意を撃つ便(たより)なれ。この辺に於いて彼の地案内の者を潜(ひそか)に拵え、
   海陸の安きに付けて、河野浦に至って若林等を攻め平げ、それより府中の要害を攻め破り
   在々所々放火せしむべし。左もあらば木目峠、所々の敵城ども自ずから退散すべし。とくとく
   と有りしかば、兵船に執り乗って急ぎけり。
   相随う人々には■明智日向守山崎源太左衛門尉、池田伊予守、敦賀を戊の刻に出で、
   子の刻に河野浦に至りつつ、
   秀吉下知せられけるは、船共悉く敦賀へ漕ご戻し候べし。若し残る舟あらば、水子(かこ)共
   一々射殺せとて、歩立(かちだち)の弓の者少々残し置き、士卒に向って、此の如く敵国へ
   して、二心(ふたごころ)あれば利を失うものぞとよ。唯心を一致にして一人の高名を存す
   べからず。功の成(じょう)ずるように励み候え、勿論下下濫妨等、或いは酒家に立ち入るべ
   からずとて案内を先に立て、要害へ忍び寄り、一度に鬨(ときのこえ)をドッとと挙げたるに
   夜中にてはあり敵あわてふためくところを・・・・・・・府中竜門の城に忍び入り・・・攻め破り・・
   近辺悉く放火しければ、木目峠その外近辺の城共、跡(脚注=後方)を焼き立てたるを見、
   叶わじとや思いけん、府中を指して引き退きける所を、●羽柴筑前守、惟任日向守待ち請け、
   余すな、洩らすな討ち取れと下知して、此こに追い詰め彼しこに追い詰め、・・・・』
   〈甫庵信長記〉

これでもかなり・・・・で省略しましたが、この「秀吉」が太田和泉で下線のところがその肉声です。
はじめに言った内容を受けて、弓の者を残すという、記述が細かく、「中入」という語句を本人が
言っていることは桶狭間に照らして重要です。信長卿の指示を具体化してあざやかな勝利へ導い
たのは太田和泉であり、●二人はは待ち受けて成果を挙げたに過ぎません。木下藤吉郎は羽柴
筑前守、明智十兵衛は惟任日向に変わった直後の一節ですから、秀吉と■明智日向守が出てく
る のがおかしいわけです。■のセットは本能寺を意識しており、

   『六月二日(本能寺当日)巳刻(午前十時ごろ)、安土には風の吹く様に、明智日向守謀叛
   にて信長公・・・・・』〈信長公記〉

 実体のないのが謀叛したというので表では、徳川が流したでたらめな噂話という意味もあり、
内容から見て皆徳川と思った、という意味もあり、いずれにしても明智ではないという肩すかしを
した表現です。『その日、二日の夜に入り、山崎源太左衛門は自焼して・・・罷り退かれ』は
「明智日向守」があるので、太田牛一の臨場が予想され、この表記はもう一人の光秀として、
光秀はいなかったが、太田和泉は安土にいたという証拠になるのではないかと思います。

(十−2) 明智日向 
先ほど「孫右衛門」が「酒井」・「森」という対立軸の両方一身に包摂させていることを述べました。
戦国でもこの例がある、ということを荒木又右衛門物語が教えている、つまり〈信長公記〉〈甫庵
信長記〉などの読み方を教えているものだということを感じさせるものでした。「孫右衛門」の例は
柴田・丹羽・羽柴などは太田牛一のとっては敵方という認識が露骨に出されているなかでの、表記
の共用という例があることも、示していると思われます。
先ほどの柴田の例では「柴田日向守」というのが出ましたがこれも「柴田」と「明智」という相容れな
い者同士の1本表示となっています。本能寺の重要場面で「明智日向」という表記がありましたが、
これがどうして対立となるのか、どうして徳川といえるのか、という命名の根本問題につきあたりま
す。なぜ「日向(守)」が使われたのかということです。
これは芭蕉に教えて貰わないと分らないことです。
     明智光秀の句、
           「ときは今 あめが下知る 五月かな」
     芭蕉の句、
           「日の道や 葵傾く 五月雨」
後世の芭蕉において「五月雨」と「葵」が結ばれています。この句について、加藤楸邨の解読に
よれば(抜粋)

   『「五月雨がしとしとと降り続いている中で、葵が一方に傾いている。定めしあの傾いた方に、雨に
  かくされた日の通り道があるのであろう」との意。「日の道」というものを感じとっていて、・・・・
  驚かされる。「日の道」は太陽の通る道。葵の類はすべて向日性があって、太陽のめぐりゆく
  方向を追う。』

ヒマワリは向日葵と書くように、葵は日が照ると「向日」、雨で傾くとその反対、「日向」という、徳川
の権威の象徴、「葵」を徳川と見立てたと思われます。明智の方は
           「五月雨の降り残してや光堂」
となるようです。
したがって「明智・日向」は「明智・徳川」の敵対者の合成例で、「稗田・阿礼」の真似をした、或いは
古典の読み方を教えたというものだと思います。 
 自画像、「下人禅門」「市川大介」のように、全く関係のない名前で表記される例は明智光秀にも
あります。
次は一般に読まれる〈甫庵信長記〉において「明智光秀」の表記を隠した例です。これは明智光秀
の謎を解く重要なところで出てきます。また主役における適用なので、読み間違いは致命傷となり
ますので納得できるような表記公式として検証できれば、古い文献・資料の読みの参考になると
思います。

九、野村越中

(九−1)六条の戦い
永禄十二年信長が足利義昭の後ろ盾となって上京し、岐阜へ帰った二ヶ月ほど後、義昭の六条の館が
三好勢に襲われました。もし義昭がやられてしまったら信長の面目まる潰れとなるような事件です。
ここに〈信長公記〉初登場として明智十兵衛がひょっこり顔を出します。

  『細川典厩・織田左近・野村越中赤座七郎右衛門赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・
   坂井与右衛門・明智十兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七、』〈信長公記〉

の13名の中にいます。小説などでは、ここで明智光秀が大活躍をしますが、肝心の〈信長公記〉で
は名前だけしか出てきません。おまけに、市販された〈甫庵信長記〉では、六条合戦の長い一節が
あるのに、明智十兵衛の名前が全くがみえないわけです。
おかしいということから、ここは〈信長公記〉の明智十兵衛だけでも問題となるところです。光秀は
永禄九年(武功夜話では十年ごろといっているようです)、39歳の頃信長に招かれて仕官したこと
になっていますが、全然このときまで出てこない、隠されていたといえるか、というのが知りたいと
ころです。。
 結局六条合戦における信長公記メンバー

    『細川典厩・織田左近・野村越中赤座七郎右衛門赤座助六・津田左馬丞・・・・・
    明智十兵衛・・・・・・』

など13名の内、ここの野村越中が明智十兵衛を表しているという関係がありました。すなわち野村
越中を、明智十兵衛が長谷川与次の役割で指し示しているとして読むというのがポイントです。
野村越中の発見は、その後ろの赤座七郎右衛門赤座助六とのセットになっていることもあり
ますが、首巻、斎藤戦の丹羽五郎左衛門と同じで、一人大活躍で出てくる人物が野村越中です
から容易にそうだとわかるのです。大将としての言動が細かく述べられています。
甫庵信長記の記述

   『細川左馬頭、三淵大和守両人、承って、先ず軍評定致しけるに、義昭公、細川三淵は惣
   門を固め申すべし。野村越中守は、縣引の大将とぞ御定め有りける。・・・・・(加勢に駆け
   つけた連中)を開けさせたまえと申しける。野村意得(こころえ)て・・・・・皆此方(こなた)へ
  入らせ給え、いしうも(よくぞ)来る物かな。君臣の礼儀重んじたるは、和殿原(わとのばら)にしく
  者やあるべき、急ぎこの由申すべしとて・・・・・・・ 野村是を見て、よき透間ぞ、を引き取れ
  と下知しければ、もとより物馴れたる兵共なれば各々さつと引いたりける。・・・・・・野村越中
  守
・赤座兄弟・森弥五八郎・丹波国住人内藤五郎等数十人そこをば打ち捨て(三好)山城守
  下野守が旗本指して、面もふらず撞き懸り息もつがせず、一揉み揉みければ先陣後陣一同に
  敗北して、稲荷伏見を指して落ちければ、味方勝ちに乗って、追い討ちに討つて行きけるを、
  野村是を見て余りに長追いなせそ。六条には人少なにておわすなり。只引き返せと下地知し
  ければ、実(げ)もとや思いけん、皆引き返し討ち捕りし首共を、御目にこそは掛けにけれ。・・・・
   また(敵方)下野守が手の者に古兵ありしが、その時の有様ども、よく見置きて云いけるは、
  六条寺内より打ち出で、軍の下知して物の大綱と思しきは、野村越中守とやらんが挙動ぞか
  し。・・・・』

とその詳細が述べられています。これが光秀以外には考えられないようです。六条合戦攻め手
一万、京側二千で、一般に光秀大活躍の語りがされていますが、その根拠はこの野村の活躍に
求めなければ信頼ある書物からの語りというわけにはいきません。
しかし確実にそうだといえないではないかといわれるかもしれませんが、予告が〈信長公記〉にあり
ます。首巻

   『此の外討死、
    坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老(えび)半兵衛・乾(いぬい)丹後守・山口勘兵衛・
    堤伊予、初めとして・・・・・・』〈信長公記〉

ここに「野村」が単独で出ています。ここは、「堤源介」という組み合わせも出来るということで重要
だということを〈前著〉で触れました。
ここは「海老(えび)」もあり、「乾」も荒木又右衛門の本では池田がらみで出てきます。また
〈三河後風土記〉では「野村兵庫頭(ルビ=丸毛)」という人物が出てきますが、これは「夕庵」から
「明智」「兵庫」「野村」を示唆したものであると思います。
 前に関ケ原で「黒田三左衛門可成」が出てきて年代違いだからインチキではないか、ということ
でしたが、野村越中でも同じことがあります。この野村がもう確定されているから、まあ次のことは
聞き流しにして下さい。〈常山奇談〉から

   『野村(ルビ=のむら)越中才覚の事
   大坂落城の日、興国公{池田利隆朝臣}は城の北に陣したまう。・・・・・・・・野村越中に、見て来れ
   と仰せらる。野村・・・・・先陣伊木(ルビ=いぎ)長門、池田(ルビ=いけだ)出羽が陣に馬を
   かけよせ、とく川を渡して攻め入り候へ。仰せぞ、といいければ、先陣すなわち攻め入り、首六百
   余を得しは野村が功なり。』〈常山奇談〉

この野村越中は六条の戦いの「野村越中」といっているのはあきらかでまあ光秀を指しているいう
わけです。(そうでなくとも、野村越中の子か孫かと取るしかない)
「伊木長門」の「伊木」は常識的に大坂方、「池田出羽」の「池田」は関東方でしょう。野村が木村
長門の長門に繋がっています。野村は間接に明智一門の人といっていると取れます。
この興国公というのは注では{池田}とされています。この六条の戦いは摂津の池田、荒木村重
と関係の深い池田が参戦していますので、そのため池田が出てきたと思います。尾張の池田が
村重滅亡によって、この摂津の池田のあとへ入り込んでしまったとみえます。
 興国とか利隆というのは細川を連想できる字でもあります。野村越中が野村と越中(細川越中)
の合成かもしれないというのが出てきます。これも対立当事者の一本化になっているようです。
まあ、こうはいっても「長門」だけはわかったが、それなら「池田出羽」の「出羽」はどうかといわれ
るでしょう。これも「野村」と繋がっているはずです。

(九−2) 出羽
出羽は印象に残る太田牛一の戦いに出てきます。桶狭間で作戦を述べた人物がこれです。

    『信長卿すわ首途(かどで)はよきぞ、敵勢の後(うしろ)の山に至って推廻すべし。去る程
    なれば、山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかかれと下知し給いけり。
    簗田出羽守進み出でて、仰せ最も然るべく候。敵は今朝鷲津丸根攻めて、その陣を易
    (か)うべからず。然ればこの分にて、懸からせ給えば、敵の後陣は先陣なり。是は後陣
    懸かり合う間、必ず大将を討つことも候わん。唯急がせ給えと申し上げければ、いしくも
    申しつる者かな、と高声に宣うを、各々聞きて実に左もあらんとて、弥(いよいよ)軍の機を
    励ましけれる。』  〈甫庵信長記〉

 この二人のリードで快勝したわけですが、予想の中の一つにぴったりと合致した情況が現出した
といえると思います。信長の言の中の「去る程」は外の書で述べられているのが前提とされ、その
とおりの時間、距離をいっていると思います。すなわち簗田も二人だったわけです。これは〈戦国〉
で表記を全部出していますが、説明できないところがありましたから、予想されうることでもしあり
ました。

(十)読み直し
   
(十−1)あの十二人

ここで再掲します。

  『先ほど、佐々内蔵助が太田和泉を表していないかということをいいましたがこの市橋の場合も
  なとなく匂うものです。
  市橋九郎左衛門は天正六年、正月朔日、「御茶十二人に下さる。」のなかに入っている人物
  でかなり重要な人物といえます。すなわち
  
   「中将信忠卿・二位法印・林佐渡守・滝川左近・長岡兵部大輔・惟任日向守・荒木摂津守・
  長谷川与次・羽柴筑前・惟任五郎左衛門・市橋九郎右衛門・長谷川宗仁、巳上。」〈信長公記〉
  
  となっています。これは実際ではなく一部操作されていることは〈戦国〉でも触れましたが、
  〈甫庵〉ではこれが
  
  「三位中将信忠卿・羽柴筑前守秀吉・二位法印・永岡兵部大輔・林佐渡守・長谷河丹波守・
  惟任五郎左衛門尉・滝河左近将監・荒木摂津守・市橋九郎右衛門尉・長谷河宗仁入道、以上
  十一人なり。」〈甫庵信長記〉
  
  となっていて、一人違います。これは甫庵では「惟任日向守」を抜いています。光秀はこの会に
  は出ていなかったのではないかということになります。』

この両者をみて実際はどうだったかというの問題が残ります。実際は甫庵の十一人から長谷川与
次を取り除くから10人になるのでしょうが、その
内訳は〈信長公記〉の記事から、(六条の細川越中、明智十兵衛のやり方から)市橋九郎右衛門惟任日向守に変わり、太田和泉の登場を予告する役割の長谷川与次を取り除く、同時に、惟住五郎左衛
門に、もう一人の五郎左衛門を付け加える、つまり

  「中将信忠卿・二位法印・林佐渡守・滝川左近・長岡兵部大輔・惟任日向守・荒木摂津守・
  ・羽柴筑前・太田惟任五郎左衛門・長谷川宗仁、巳上。」〈信長公記〉

の10人ではないかと思われます。11といえばそれも間違いではないことになります。

  このあと四日に★万見仙千代所でお開きの会があり。そこでは九人出席します。御茶会からみて
中将信忠卿・長岡兵部大輔・荒木摂津守・(惟任日向守)が不参加となり、宮内卿法印が新たに
参加しています。すなわち

  『二位法印・宮内卿法印(友閑)・林佐渡守・滝川左近・長谷川与次・市橋九郎右衛門・惟任五
  郎左衛門・羽柴筑前守・長谷川宗仁、以上。●』〈信長公記〉

の九人です。甫庵では

  『羽柴筑前守秀吉・二位法印・宮内卿法印・林佐渡守・滝河左近将監・長谷河丹波守・市橋九
  郎右衛門尉・惟任五郎左衛門尉・長谷河宗仁、以上九人』〈甫庵信長記〉

九人となっています。

ここは(惟任日向守)が両方にありませんので、市橋九郎右衛門に代わって、★の万見仙千代が
入り、これも 長谷川与次を取りのぞき、太田和泉を加えると10人になるのではないかと思います。
万見仙千代を忘れるなといっていると思います。

  『二位法印・宮内卿法印(友閑)・林佐渡守・滝川左近・万見千千代・太田和泉・惟任五郎
   左衛門・羽柴筑前守・長谷川宗仁、以上。●』〈信長公記〉
の九人です。

(十−2)万見仙千代
万見仙千代は〈戦国〉で表記も全部表示していますように細工がなされていた人物です。これは
明智光秀と細川越中の関係と同じで森蘭丸のある断面を表すために出された一匹おおかみの表
記です。最後伊丹陣で戦死するとき「平井久右衛門」と「中野又兵衛」が出てきました。馬揃の
ときは、この二つの表記の引き当ては「太田和泉」と「森蘭丸」となると思います。こういう戦死に
よって今までの表記が消されるのは外にも例がありますが(坂井久蔵の例など)、先ほどの「野村
越中」も戦死で消されています。 元亀元年九月
     『爰にて野村越中討死なり。』〈信長公記〉
があります。このとき中野又兵衛・金松又四郎(甫庵の名前は又四郎)なども出てきました。

(十−3) 又助大将
今まで述べてきたことでわかりにくかったことがわかってきました。太田又助あるところ、別表記の
太田又助が大活躍していました。次の柴田も読み替えが必要です。この太田又助は柴田という字に
取って代わろうとしています。
 天文二十三年

   『一、七月十八日、柴田権六清洲へ出勢
      あしがる衆
    我孫子(あびこ)右京亮・藤江九蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎、
   此等として、■三王口にて取り合い追い入れられ、▲乞食村にて相支え叶わず。▼誓願寺
   前にて答え候えども終(つい)に町口大堀の内へ追い入れらる。・・・・・・・武衛様の内、
   ★由宇(ゆう)喜一、未だ若年十七・八・・・・・・・』〈信長公記〉

の記事が今まで述べてきた太田牛一の地位とあわなかったわけです。
 ▲は脚注に「安食村であろう。今の名古屋市北区味椀(金篇)にある。」とされていて太田牛一の
属性、▼は「成願寺。今の名古屋市北区成願寺町にあたる。太田又助は、ここで成長し壮年で還俗
(〈尾張名所図絵〉)」とされています。
この一節は、〈戦国〉でも触れましたように、敵と味方、どちらのことを述べているのかよくわからない
注意喚起があり、〈清洲合戦記〉では、安食九郎兵衛も入っており、▲▼で太田和泉一色となって
いる一節ですから、「柴田」のところに太田和泉が入ればよいわけで、大将だったということです。
■三王口も脚注では「山王口」とされていますが、これはわざと「三」にしてあり、地名索引から、
「三」と連鎖していそうな「三の山」を調べると、次の人物につきあたります。

(十−4)山口左馬助
三の山の戦いの相手は、山口左馬助・山口九郎二郎父子です。明智一族「山口」と「左馬助」の連想
から、この一節の直ぐ後に出てくる★の人物を「明智左馬助」に引き当てています。〈戦国〉

(十−5)乞食村
安食村をなぜ「乞食村」にしたのか、〈清洲合戦記〉でも「乞食村」となっているから、「乞食」と
したかったのだろうと思います。すなわち「古事記」を、太安万侶を受けている話といいたかった
と思います。

@一人名で二人が出てきた。
  森三左衛門・・・・・・・・・・・・・・  森可成と太田和泉、
  丹羽五郎左衛門長秀・・・・・・・・・丹羽長秀と太田和泉
  市橋九郎左衛門・・・・・・・・・・・・・市橋九郎右衛門と太田和泉
  佐久間右衛門信盛・・・・・・・・・・・佐久間信盛と太田和泉
  柴田修理亮勝家・・・・・・・・・・・・・柴田勝家と惟任日向守・太田和泉
  岩本村孫右衛門・・・・・・・・・・・・・酒井孫右衛門と森孫右衛門

これらは義経が九郎義経・判官義経の二人になっているのと同じです。律令時代も全く同じです。
例えば「蘇我入鹿」も二人かもしれないわけです。本来の入鹿ともう一人です。上で見るように
丹羽長秀と太田牛一、柴田勝家と明智光秀・太田牛一、酒井孫右衛門と森孫右衛門・・・・などは
相容れないもの同士の包摂されたものですから、本来の入鹿と、入鹿を殺した中大兄皇子が
「蘇我の入鹿」を構成させているのではないか、ということもここから容易に推察されるわけです。
 聖徳太子の子とされる山背大兄王を攻め殺したのは、「蘇我臣入鹿」ですが、あの入鹿は

   『大臣の子入鹿(いるか){更の名、鞍作(くらつくり)}、自分で国政を執し、威は父に勝って
   いた。これによって、盗賊はおそれおじけて、道に遺(のこ)っていても拾わなかった。』
   〈日本書紀・ニュートンプレス〉

下線はよく治まった世の褒め言葉ですが日本ではこの評価をあたえられたのは入鹿一人ではない
かと思われます。盗賊が千円でも百万円でもわなかった、というのは威令がよく行き届いていた
というのもありますが、もとの持ち主へもどった、ということで道義もあったといっているのかもしれません。
「鞍作」と記載されてあれば、この入鹿と断定せざるをえませんがそうではないのです。読み方を太田牛
一が教えているというのが感じられるところです。

A「野村越中」、「万見仙千代」などは、表記が「表したい人物」とはまったく別であるという例です。
ある人物の断面を示すために出てきて戦死などして表記が消され、事実の断片を語る、という
例を〈記紀〉から学んだのではないか思われます。
例えば山背大兄王は、捨身の考えを実践した人です。これは聖徳太子の最後の場面を描くため
に出てきたのではないかと〈前著〉で述べましたが、攻められて死亡し、表記が消された存在とし
て「野村越中」の場合などと同じです。

B明智日向、川尻青貝などの例
この例は対立する両者の目的持った合成です。
稗田・阿礼の礼がこれに当たります。
    稗田は柿本人麻呂
    阿礼は藤原不比等
という対立を表しますが、これが包摂されるのは二人の祖父の聖徳太子においてです。
この二人(稗田・阿礼)に聞いて史書を書いたというのは、焼けたと伝えられている聖徳太子の国記を
参考にして史書を書いたといっているのではないかと思います。焼けたとか、失われたとかいうのは
安心させるためのもので実際はあったということをいうのではないかと思われます。明治の芸術大作
についてもこういう挿話は多いようです。
聖徳太子を描くのに今は両極端があって、聖徳太子伝説の一方で、それを否定しようという説もでてき
聖徳太子はよけいにわけのわからない存在として混乱しています。
しかし確実な実像、蘇我の馬子といわれる人物の子というものがあるのですから、それを明かさず
、語らずしていたずらに引っ掻き回すのはどうかと思われます。

C一表記二人がいる。信長・秀吉・家康、頼朝など二人が原則で複雑な事象を描いています。
蘇我馬子ー蘇我蝦夷ー蘇我入鹿の系統において、当然、馬子二人、蝦夷二人、入鹿二人
などが考えられることで、馬子・聖徳太子合体とかいうのが述べられています。太子は国記
をつくっていたということですから、太子・入鹿の時代に、身は大陸の人で、この地、統治の実力者
であるに拘わらず、この国は、大陸の遠隔統治でやるよりも独自でやればよいのではないか
という一つの国としてのまとまりを意識して行動し成果を挙げだしたのではないか、と思われます。
大化改新などというのは、国家としてまとまりつつあったときの政変・政権交代にすぎないもの
でしょう。

Dただ太安万侶の世界の方が、その後の時代より描きにくいことは事実だと思います。過去資料
の蓄積の問題もあるでしょうが(中国大陸・朝鮮半島に資料がある)、もう一つの世界があるから
です。
 表題で、天皇名が、大陸名と和名と思われる二つ出てきます。
     豊御食炊飯屋姫天皇〔推古〕
     息長足日広額天皇〔ジョ明〕
 とかなっていて〔ジョ明〕天皇の場合などは筆者の機械では漢字を捜すのが困難で、「ショメイ」
とも読むというようです。
ただこれで、中の叙述は天皇が主語でされています。
 「頼朝」という表記がはじめに出てくるだけで、あとは「武衛」とか「将軍家」とか「二位家」とか
ややこしい表記で語られるのと同じです。引き当てをしていかなければならないわけです。天皇も
同じようになっている可能性が大です。
市販の本では推古天皇は蘇我馬子、ショメイ天皇は聖徳太子と当然の如く宛てて論述されている
ものもあります。聖徳太子が入鹿だという説もありますが、これは合っているわけです。すなわち
「ショ明天皇」が「入鹿父子」の二人を表している、ということを述べているわけでしょう。ショ明天皇
が二回亡くなっているような感じも受けるところがあります。同様に推古天皇も、馬子と太子父子の
二人かもしれないというのが出てきます。ただこれは日本式天皇の話で、もう一つふりかなが
なければ読めない長い方の名前の大王の世界がありますから、これも描かなければならない、
というのがありうると思われるます。天皇も二つかもしれない、天皇は別だ、というのでいつまでも
論ずるのを避けていては、多くの遺産を捨てていることになると思います。

戦国期の安食村が乞食村というのは、やはり貧しさも表していると思いますが、そういう中、戦国乱
世を憂いつつ、ここで牛一、夕庵、天沢など若き有志が集まって、古事記などを読んで議論をして
いた、ということをいっていると思います。そういう努力の結実が遺産として残ってきています。
確実にそれを受け継ぎ(読み)、伝えていかなければならないのではないかと思います。
                                     以上
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