25、大村由己、古田織部
(1)太田和泉守という表記
(1)−1、太田という姓
〈前著〉から「太田和泉守」はペンネームといってきています。そんなことをいえば、最盛期に
本人が使った本当の名前はなにかと、いうことになってきますが、それはわからない、という
ことですから、その作品を読んでいるのに、「太田和泉守」を作中の主人公の名前として
使ってきています。これは著者が自分の名前だといっているので、もっとも確実性があり、
信頼を得られやすいからです。あまり筆者の使用頻度が多いので、その表記について、一応
出所だけでも確認して、最大限利用が計られたという側面から少し触れたいと思います。
「太田和泉守」という名前は〈信長公記〉各巻の初めだけに出てきます。巻頭だけにあり、書いた
と出ているからペンネームといってよく、「太田和泉」「太田和泉守」の二通りです。
首巻 『太田和泉これを綴る』
巻一 『太田
和泉守(ルビ=
いづみのかみ)これを綴る』
巻二 『太田
和泉守これを綴る』
巻三 『太田和泉これを綴る』
巻四 『太田和泉これを綴る』
巻五から巻十五
『太田
和泉守これを綴る』
で、合計では16回
「太田和泉」3回、「太田和泉守(いづみのかみ)」1回、「太田和泉守」12回、
となっています。これは〈信長公記〉は首巻プラス15巻構成、で計16巻になっているから、それに
対応するもので、このはじめの「綴る」とある部分だけにあるのが「太田和泉」「太田和泉守」と
いう表記です。とにかく巻が16あって、そのはじめに「太田和泉」が16あって、「太田和泉」は
全体でも16しかない、というトータルからの押さえもあることが重要です。
〈信長公記〉の文中の「太田」は
「太田又介」「太田又助」「太田平左衛門」「太田孫左衛門」
であり、何故かはじめの二つだけがあの「太田和泉守」を表わすということになっています。これは
「太田平左衛門」は相撲だから太田和泉ではないだろう、「太田孫左衛門」は織田にもう一人
太田がいたらしいということになってそのままになっています。しかし
「太田孫左衛門(ルビ=太田牛一)」〈武功夜話〉
という表記もありますので、太田和泉を表すこともあるわけで太田和泉守とみてもよさそうですが
そうなっていません。まあこの四つの「太田」は「太田」だから、全部あの太田和泉守を表現する
ものとみなければならないのでしょう。太田和泉守が相撲を取るなどはおかしいとストーリーが
気になる場合もありますが、「太田」という表記の、相撲や周辺人物への接近は、もう一つの語り
を進めていきます。とにかくこの四つの「太田」は、とくに「太田又介」「太田又助」があることは、
@作品の中に、著者が登場するという暗示がある、
ということを表わしているという見方ができます。しかし一方で
A「太田又介(助)」だけであれば、また四人の登場回数が多ければそういえるが中途半端
でありそれは考慮されていない
という見方ができます。現代感覚ではAが合っていそうです。しかし登場回数で言えば、英雄、
「黒田官兵衛」、盟友「前野但馬守」も一回で、また人名索引を作ると「太田」は六つになりますから
これだけ場所を占める姓は余りない、目立つという面では、「平左衛門」「孫左衛門」は役に立って
いるといえます。とくにこの「
平左衛門」「孫左衛門」という漠然とした表記には悩まされます。
孤立表記、「石田孫左衛門」〈信長公記〉でも念頭にあると、
太田孫左衛門
石田孫左衛門
で、5/6が同じだから、悩ませられるものです。(松尾芭蕉・松井芭蕉)、(石田佐吉、太田佐吉)
のように、1/4が違っていても一応見間違いか、とか余分なことを考えてしまいます。Aも全体から
見れば、あながち否定できないものがあります。芭蕉は〈奥の細道〉で「大石田」を出したのも
この「孫左衛門」を見ていたのかもしれません。〈曾良日記〉では「大石田
平右衛門」も出して
います。芭蕉が戦国時代の本は読まなかったというのは考えられないので ここが大石田
の記事に反映されたと見るほうが、それはありえないというよりも、通説とするに足るのではない
かとも思われます。一方の「和泉守」も余りなく〈信長公記〉でも
「池田和泉守」「原和泉守」「平田和泉」「宇
喜多和泉守」「
朶石(もといし)和泉守」
くらいが思い出される程度です。「池田」は親類であり、「池田勝三郎」がおり、「原」は「大田原」
「田原(俵)」「原田備中」の「原」であり、「平田」は「平手」を近づけるものかもしれません。
「宇喜多」は関ケ原の大将、備前浮田秀家の家の宇喜多で、「もといし」は無名の人物です。
宇喜多の宇は「由
宇喜一」〈信長公記〉の「宇」でしょうが、「喜多」は、「北」でもあり、「和泉」
とここで直結したといえそうです。和泉守というのは「太田」「石田」とかの姓が、実際存するか
どうか、という制約があるのと違って、手軽さがありますが、これも限定されていますので、狙いは
きびしく、ここにも「(もと)
石和泉守」というのが出ました。「朶」は(えだ)とも読むようですが類書
にある「孕石和泉(はらみいしいづみの)守」の変形のようです。
以上のことを〈甫庵信長記〉で確認しますと、甫庵は
「左府の士に
大田和泉守牛一(ぎういち)と云ふ人あり。」
として、この人物が「史」(ふみ)を書いたことを、はじめに紹介しています。ここで「大田」となって
いるのが重要です。〈甫庵信長記〉人名索引をみますと、原則は「大田」表記で
大田和泉守牛一
太田和泉守
大田五右衛門尉
大田甚兵衛
太田孫左衛門尉
となっています。〈甫庵信長記〉では2番目の
「太田和泉守」
という表記が文中に一回だけあり、もしこれが〈信長公記〉にあれば、自画像がありますよと
いえたわけです。ここでそれを出した、つまり〈信長公記〉に出していたら完成されすぎになり
ますので、〈信長公記〉の「太」というのに合わせて、ここに出したといえます。太田孫左衛門
尉というのも〈信長公記〉にありましたので、「太」というものをもってきていますが、〈甫庵信長
記〉にも「石田孫左衛門
尉」という表記があり、今度は
太田孫左衛門尉
石田孫左衛門尉
となるので、6/7が同じや、と昔の寺子屋の小僧はいったかもしれません。とにかく〈甫庵信長記〉
の索引も「太」「大」がまぜったことにより数が増えました。
「大田五右衛門」〈甫庵信長記〉
は周りの人名からみると味方のようですが敵か味方かよくわかりません。「太田又介」もそういう
ところがあります。表記を利用するためにそういう場違いの出し方をしていますが、何で出てきた
のか問わなければならないのでしょう。〈名将言行録〉という本の名前を借りていえば、大田五右
衛門に言行があればそれは太田和泉守のものを表わす、そうでなくてもその存在が周囲に影響
を及ぼすという読み方になるといえそうです。
「・・・・大田五右衛門尉、魚住与八・・・・」〈甫庵信長記〉
という一回限りの登場は「魚住」に影響が及びそうです。魚住の解説をしているかもしれないのです。
戦国武将千人の絵柄の大織布も太陽の光にあてれば千の太田和泉守の像が浮かび出てくる、そう
いう織布を昔織り上げた人がいたということです。「大田甚兵衛」は〈信長公記〉では
「大屋の甚兵衛」「甚兵衛と云ふ庄屋」
があるので直感的にはこれと繋げていると取れます。それはどこからくるか、とよく見ますと
「甚兵衛」のほかに「屋」と「大」が共有されている
大田
庄
屋
と結びついているからと思われます。あとで「
庄田原」でも出てきますと「原和泉守」までが
出てきて、庄屋甚兵衛=大田和泉守まで行ってしまいます。類書でこの庄屋が猛威を振るい
「屋」も動き出して「田原屋」も出てきます。
「太田和泉」が、ペンネームということであれば「太田」というのは創られたのではないか
というのがあります。結果的に
「森」、「明智」、「遠山」、「斎藤」、「池田」
などが時期をずらして比較的多く出てくるので、これらが本命であるといってきましたが「太田」は上の
四表記(太田又助、太田又介、太田平左衛門、太田孫左衛門)が一回ぐらいしか出てこず、顔見世
という感じとなっているので、作られたという感じです。
実際、今まで、読者は「太田又介」「太田又助」という表記が文中に出ているおかげで、著者と
著者の臨場を捉えることができたということですから氷山の一角作戦の大成功ということができ
ます。現在「市川大介」などの一匹狼の表記は読まれておらず、「森三左衛門」なども太田和泉守
で読まれていないので
和泉守 →
太田
又助 →
太田
だけから、和泉守=又助を導き出しているので、学問の上でも驚異的な推理力を働かせて通説に仕
上がっているということでもあるわけです。〈信長公記〉だけから「和泉守」=「又助」は出てこないの
は確実です。
現に「太田平左衛門」や「太田孫左衛門」はその地位を与えられていません。決め手はないのに
他書との根気よい積み上げで「又助」は本人に間違いないとなっているもので、こういうのが「太田」
を創った効果の一つであるといえます。つまり、「太田」姓を利用して本人のことを述べる枠を広め
ようとする、意味がありそうです。例えば各地に散点する「太田」という地名をさりげなく投入し、
周辺の登場人物を 意味づけるといったものに使うというができます。すなはち「太田又介」など
四つの「太田」は大きな役割を果たしますし、また江戸城を創建したと伝えられる類書の
「太田道灌」「太田{道灌}」
も起用できます。
また北条泰時Aと貞永式目を作った〈吾妻鏡〉の「太田康連」(三善氏)の継承もあるとすると、歴史の
流れを受け止めるという側面も出ます。一応「太田」「大田」だけをペンネームの「おおた」として
やってきていますが、●「小田垣」に「太田垣氏」が住んでいる、というところから
太田→小田
までいってしまいます。表記で述べる立場のものは、ペンネームを作ることは重要な仕事
ですが、太安万侶の「太」、〈吾妻鏡〉の「大田」などを考慮して太田、大田を選んだので、その
段階で利用範囲が相当な域に達しているかもしれないのです。
太田→小田→「こだ」→「古田」
となります。●のようなものはもう設定してあるから古田は小太田といっていそうです。
「太田」の本拠が「山田」で「山田」を「太田」がわりに使っています。「太田+山田」で大山田
で小(こう)山田→高山が出てきます。「石山(近江)」〈信長公記〉という表記がありますので
石山+太田=石田+山田
となり太田に接近した石田が出てきます。こういう準備がすでにされているので 今後探って
いこうとしています。
なお、太田にルビがありません。
はじめのもの再掲
首巻 『太田和泉これを綴る』
巻一 『太田
和泉守(ルビ=
いづみのかみ)これを綴る』
巻二 『太田
和泉守これを綴る』
巻三 『太田和泉これを綴る』
巻四 『太田和泉これを綴る』
巻五から巻十五
『太田
和泉守これを綴る』
において、巻一で「和泉守(いずみのかみ)」にルビをつけたのであれば、どこかで「太田」
にもルビを振るのは常識ですがそれがありません。これは案外重要かもしれません。「太田」という字
に「太田(おほた)」というルビを付し、先ず、「おほたいづみのかみ」とルビを付すと「太田」独自に
展開力がなくなるといういうのがあったかもしれません。「おほたいづみのかみ」と通しにすると「太田
和泉守」という個人の面に力点が移り易いというのもあると思います。武田信玄、徳川家康となると
一つのイメージが出来上がってしまって手を加えられないというものになるのと同じです。しかし
武田信玄には
「武井」の「武」
「太田」の「田」
「信長」の「信」
「玄以」の「玄」
という側面があり、現に太田和泉を表していそうな例もあります。武田信玄の言とされる
「人は城、人は石垣、人は堀 (情けは味方、あだは敵なり)」
についても、人材の養成こそ肝要、またここにあるように寛容の精神で事に当たれば戦争施設
などいらないというような意味のものと取られています。武田信玄の発言としてふさわしいという
ので、それはよいのですが、これは物を書く人の発言で、両様の意味で引っ掛かっているのでは
ないかと考えると表記のとり違えで太田和泉があると思われます。擬人法というか、動物や物体が
人の感情を表わしたりするという表現の仕方があります。山上憶良の
「人こそ知らね 松は知るらむ」〈万葉集〉
などがありました。
「松は知る」などはおかしいのですが、書く立場にある人は気になることでしょう。これを逆にして
「城は人、石垣は人、堀は人」
で城などが語る場合がある、そのような表現の仕方があるということもいっていると思います。
太田牛一にも主語がはっきりしないのがあるのでそれらしいものがでてきます。
「左は多芸山茂りたる高山なり。」
「河内長嶋も過半相果て迷惑仕候。」
「忘国(ばうこく)迷惑を致し、」
などが、一見わかりにくいものです。「人は城・・・」は「武田信玄」の発言というのに疑問が出
されていますが、「人は城・・・」は書き方の悩みを抱えた、古典に通暁した
太田和泉守の語りといえそうです。
徳川家康も徳河家安に変わるから
「徳」は「日向玄徳斎」(信長公記)の「日向」「玄」「斎」の中の「徳」
「河」は「ごう」で「江」「枝」
「家」は「飯田宅重(いえしげ)の「宅」、「宅」は「たく」で「沢」、「沢」は「たけ」
「安」は「庵」
という側面もあります。家康のショボクレタ肖像画があり、味方が原の戦いで負けた、その反省を込
めて書かせた、さすが家康だ、という挿話つきで残っているようです。あれは表現に容赦がない
ものですから、下手な戦いをした家康を、皮肉った絵とも取れます。家康の絵ということをいいたけ
れば誉め言葉をつけておくということでしょう。家康に源君という表記でも使えば「森」は源氏です
(武功夜話)から、誉め詞の対象は太田和泉守にすりかわってしまいます。太田和泉守こそ、文句
をいいたい、また嘆く理由があるわけです。つまり桶狭間の
「長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾守・賀藤弥三郎」
が身方が原の戦いで「手前比類なき討ち死になり。」で戦死してしまっています。怒るのも当たり
前ですから、太田和泉守が絵の中の人物として顔を出すのもありえます。一方これで桶狭間の
四人の表記が消されて作品上はすっきりしたともいえるのでょう。つまり、身方が原の〈信長公記〉
の解説が、絵と挿話によってなされたといえるのではないか、絵もすぐれた作品でないと成り立た
ない話でしょうから、かなり高次の一手が打たれたものといえそうです。
太田が作られた姓ということであれば、必然的に「
おほたいづみのかみ」となっていないことが
重要でしょう。「いづみのかみ」は本物であるといういうことの表れといえそうです。これを一つの
ものとすると、これは著者の太田和泉守という個人を表わしてしまいますが、
「太田 和泉守(いづみのかみ)」
となりますと、太田を変えうる、かえるつもりと思っていることのヒントともなります。先に
「内藤」を、登場回数が少ないので「太田」代わりで使われていそうな例として挙げましたが、まあ
いえば「太田」と「和泉守」は切り離して使おうとする意思が出たともいえそうです。
「岩手和泉守」〈甫庵信長記〉
ともなれば、一方に「石田」の「石」と、「平手」の「手」があり、竹中半兵衛の菩提山城が不破郡
の岩手にあり、そこには喜多村十助直吉が登場したということなどで、姓の「岩手」がかなり
語っている上に、「和泉守」が付いているわけですから「岩手」に「太田」的な働きをさせた、と
いえます。「岩田」となって「石田」に近づいたという働きです。
一見突飛なものが「太田」に代わるというものがあります。先ほどの
「孕石和泉(はらみいしいづみの)守」
はルビが通しとなっており、分けて理解しにくいものですが太田牛一、小瀬甫庵はなんと字と読み
方を変えて、これを
「朶石(
もといし)和泉守」〈信長公記〉
「朶石(
えだいは)和泉守」〈甫庵信長記〉
としてしまっています。これは同じ字で読み方を変えてしまったという希な例で、人名索引があっ
ても役に立たず、本人が完全に出てこない、他書との対照もできないという珍しいものです。登場場面、
や周辺の登場人物で二人は同一人物であるのは明らかです。こうなれば「孕石和泉守」も
「孕石・和泉守」と いうことで使いたい、姓を別の面で活用したい、というものがみえてきます。
孕石にも太田の影響が及ぶのか、なぜこういう表記になったのかという難題に直面することになります
が「孕石」にも「太田」的な意味がある、「和泉守」というものが「太田」に及ぼす大きな働きがみてきて、
和泉守の重みをよく考慮しなけれ ばならない、そのサンプルといえそうです。すこし立ち入ってみますと
「孕石和泉守」が「朶石和泉守」
になって通しのルビが消えたわけで、ほかならぬ二書がそんなことをしたわけで、二書は
「孕石=乃+子(こ)+石」→→「乃+木(こ)+石」
としたのですから「孕石」という人物がいるのは、認識していて「朶石和泉守」というものを作ったとい
えます。
この人物と、今川の人質になっていた後年の徳川家康と確執が生じ、大久保彦左衛門や〈三河後風土
記〉が大きく取り上げたので〈戦国〉でもとりあげざるを得なかったものです。大久保は
「原見石主水」
としていますから、もとは「孕石(はらみいし)」が合っていて、「和泉守」というのも「主水」が合って
いるのでしょう。
「孕」という字を二書は「乃木」という字で作っています。つまり「乃木石」ですが「のぎ」は
「野木次右衛門」〈信長公記〉
があり、この「野」は「次」と組んで「野村肥後守」「野々村
主水」などにも行き着くものですが、それは
「和泉守」の太田の代わりとなりうる「野々村」でもあります。「和泉守」は重要表記なので
「池
田和泉守」「和
田和泉」「平
田和泉」「宇喜
多(浮田・宇喜田)和泉守」〈信長公記〉
などに、「太田」の「田」が取り入れられているのでしょう。「池」「和」「平」・・・・「大」という字
でそれらを包摂している「太田」という姓はたいへん適切なものと思ってよいようです。「田」外れの
「和泉守」に
「
原和泉守」〈信長公記〉
があり、これが先ほどの「朶石(
もといし)和泉守」でしょうが、この対応関係が容易に掴めないので
大久保が「原見石」を作ったわけです。もし「太田」という名にしなければ、この「原」と「石」があるから
「原田」にしようか、「原石」にしようか、「孕
石」ではどうかと迷ったことになったかもしれませんので
この「孕石和泉守」というのはよほど重要な表記であるといえそうです。語感もあるのでしょう。
ここで〈甫庵信長記〉ではこの「石」を「いは」と読ませており、湯浅常山にも「石」(ルビ=いは)が
あり、もともと「石見」の国は「いわみ」と読むのでしょうから「岩」が出て来ています。これは「山」+「石」
ですから
石=岩=山・石
を表わすものです。
「石・岩・山・見・原・」=「和泉守」
「もと」「えだ」 =「和泉守」
が「太田」に繋がります。当面、「石田=「岩田」=「山田」は同じように見られます。
「石田」=「石太」=「太田」です。大久保からいえば「原和泉守」があるなら「石和泉守」というが
あってもおかしくないことになります。
本能寺の戦死者に「岩」という人物がいますが、これは「森岩」と書いたものがあったと記憶にあり
ますが、石田=森=山田という連関にも「太田」の「田」が出てきている、そういう意味なども含めて
「太田」という姓としたということであれば展開力を持たせる「太田」だからルビをつけて制約をもたせ
なかった、ルビをつけないほうが幅広いと感じたというのが太田についてはあると思います。結局
〈信長公記〉では「和泉(守)」というのに付いた姓は
「太
田」を含む 「
田」の字と、
「
石」が意識された「
原」の字
があり「太田和泉守」の「太田」は「太田原石」というようなものを意識した苗字であったといえそうで
す。つまり、和泉守とセットさせて
「石田」と「田原(俵)」
を引き出す、苦心の命名が「太田」といえます。
なお「孕石」に関して、 「朶石(
もといし)」〈信長公記〉
「朶石(
えだいは)」〈甫庵信長記〉
「 と読ませたのはいろんな意味で重要と思われます。これは本来「えだ」と読み「枝」「条」「條」という
字の読みと同じです。「条」「條」が「えだ」と読まれるのは、徳川光圀の跡継ぎに「綱條(つなえだ)」
という人物がいるので知られていると思われます。光圀が自分の子でなく本来水戸藩主に成るべき
兄がいたので、その子を養子跡継ぎにしたという話しです。普通は「えだ」とは読めないのでこういう
挿話を広めて知らしめたというのもあるかもしれません。「条」が「枝」なら「中条又兵衛」は「中江又
兵衛」にもなり、前野村の森は「中江」という地から出たようです〈武功夜話〉。近江商人、中江藤樹の
門弟、熊沢番山はこういうのは知っていたはずです。両書に「一条」氏が出てきますが公卿筋とみて
しまいますが織田信忠が「一条蔵人」屋敷に陣を構えました〈信長公記〉。「織田」と「一条」の接近は、
、この森の「枝」が仲立ちしているのかもしれません。あとで「今枝」が出ますが
今川→今河→今江→今枝→今条
というようなものを踏まえた突然の登場、というのがありそうです。もとはこの「孕み石」「和泉守」から
「朶石(
えだいは)和泉守」〈甫庵信長記〉
をもってきた甫庵のイタズラにあるといえます。
また 「朶石(
もといし)和泉守」〈信長公記〉の「朶」は「もと」とは読めませんが、太田牛一が何故
こんなルビを振ったのかも問題です。この人物についてニュートンプレス〈三河物語〉現代語訳では
「原見石主水(
元泰)」
となっており、これは徳川家康の前名とされる「元康」に似ています。それを受け止めたというのが、
第一に考えられることです。年齢が五歳も違った家康があり〈戦国〉、二人の元康の炙り出しをせねば
ならない太田牛一は「孕石元泰」という人物に「和泉守」を付け、実態を語ろうとした、その意思と、
語りの手段を暗示したのが「朶石(
もといし)」という表記といえます。「主水」としたのは大久保彦左
衛門ですが、これは「野々村主水正」〈甫庵信長記〉が確実に意識されていたと思います。
太田にルビを付さなかったのはこういう意味の「太田」の展開力がありますが、もう一つ大きな狙い
がありそうです。「太田」の読みが一通りではないので、ルビを付して限定しなかったというものがあり、
現に違った読み方のものの活用があります。
「太田」の読みは「ただ」でもありますから、読みを変えるだけで
「多田」「太多」「「田太」「「田多」「太々」「田々」・・・・
なども出てきます。すると「多(おほ)田」の「多」は、「多氏」、「太(おほの)安万侶」、「大伴氏」、「多田
神社なども想起させるものとなります。
『大高の城、沓懸の城
多太々々(
たぶたぶ)と入れ置く。』〈信長公記〉
ともなると、この二つの城は自分と余りにも関係が深い城だったというのもアピール出来ます。
大高城、沓掛城は桶狭間戦の語りに不可欠な城ですが、両方とも
「山口左馬助(介)」
が主役の城です。考証では山口教吉という人物が今川義元に提供した城ですが「山口左馬介」と
いう表記は「山口」も「左馬介」も重要表記です。とりわけ「山口」は、この「左馬助」の他に
「山口ゑびの丞」「山口勘兵衛」「山口甚介」「山口取手介」「山口小弁」「山口又次郎」
「山口九郎二郎」「山口半四郎」「山口六郎四郎」「山口太郎兵衛」「山口
飛弾守」〈信長公記〉
があり「又次郎」あり、「山口取手介・・・千石又一・・・森三左衛門」のからみ、「山口ーー長門」の
連関など、太田和泉守を呼び出しそうなものが目白押しです。「山口」には
「高山飛弾守」とセットになったような「山口飛弾守」
があり、これは太田和泉守を指しそうだというのは既述ですが「山口飛弾守A」が登場したのが桶狭間
です。「山口左馬介」というのは、織田から今川に鞍替えした「山口左馬介」だけでなく、もう一方の
側面から見ると、
山口飛騨守+明智左馬介=山口左馬助
という感じが出るのは否定できません。「左馬介」を介して明智につなげられているのだから、「山口」
に「和泉守」はなくても、 この「たぶたぶ」で「太田和泉守」の「太田」と「山口」が同じ機能をもつこと
になる、また太田和泉守のこだわりの「大高」「沓掛」というものも出てきます。沓掛城は簗田出羽守
の痕跡がある城です。
この「たぶたぶ」は他にもあり、意図的な使い方がされているようです。元亀二年(巻四)
『木下藤吉郎横山に人数
多太(たぶ)々々と申し付け置き、百騎ばかり召し列れ、敵かたへ
見えざる様に山うらを廻り、みのうらへ懸付け、堀・樋口と一手になり、わずかに五・六百には
過げべからず。
五千ばかりの一揆に足軽を付けられ、下長沢にて取り合い一戦に及び・・・』
〈信長公記〉
の一文があります。これは〈武功夜話〉にいう蓑浦中入りのところに出てくるものですが、これは太字
のところを下のように移動させるとわかりやすいようです。
『木下藤吉郎横山に人数
多太(たぶ)々々と申し付け置き、百騎ばかり召し列れ、敵かたへ
見えざる様に山うらを廻り、みのうらへ懸付け、堀・樋口と一手になり、
五千ばかりの一揆に
足軽を付けられ、わずかに五・六百には過げべからず。下長沢にて取り合い一戦に及び・・・』
「太田」姓使用による拡張効果が出ているといえます。この「多太」=「田太」は周りを染めています。
人名を染めるのもありますが桶狭間の山口左馬介登場の「多太(たぶ)々々」と連携が取れています。
太田和泉守の桶狭間作戦と直結したもの、うしろを撹乱する、10倍の敵というものにはこうしたという
ものがでています。これだけ人数が動いて、「追い崩し、数十人討
捕り、」となっていて敵味方最小
被害ですませよう、そのために頭をひねるというのが出ています。あと省いた『・・・』のところ樋口内の
者の二人の戦死者の名前が出ています。
「多羅尾
相摸守(さがみのかみ)」
「家来の
土川(ひぢかは)平左衛門」
で、無名の人なのでこの二人余分といった感じですが、ルビの付け方が特異です。
「太田
和泉守(いずみのかみ)」という冒頭のルビは、本来は「太田」にもつけないといけない、という
ことに著者が気付いていた、敢て省いたといっていると思います。つまり太田和泉守という表記の全体
は
「太田和泉守」「太田(おほた)和泉守」「太田和泉守(いずみのかみ)」「太田和泉守(おほたいずみのかみ」
の四通りにしたいというものがあったということを示しています。これがあとで効いてきそうです。
またここで「平左衛門」がでましたから「太田平左衛門」という表記がありましたので
「甲賀」ー「和泉守」や、「土田」ー「太田」
の線がボンヤリと出てきています。ついでですがここで
「堀」「樋口」「多羅尾」「
家来の土川」
が出ましたが、これは森の四兄弟を表していそうです。
「堀」は「堀久太郎」、
「樋口」は、「樋口三蔵」、これは桶狭間で最後に義元の首級をあげた人物で、〈奥の細道〉の樋口
次郎につながるもの、
「多羅尾」は甲賀佐々木の「後藤」、
とみると三兄弟になると思われます。「土川」を「家来」ということで脇に外した表現にしているのと、
「土川」の「土」の読み方を特異にしたということで、これは最強者をさりげなく裏で出したものといえそう
です。ここでこの人物を樋口の家来したのは山口飛弾守、山口左馬介の「山口」に絡めて重要だと
思われます。まあ
山口に絡めて重要
とでも覚えておけば役に立つかもしれません。「土川」というと宇喜多秀家の家老で明石掃部助
とも親しい「戸川肥後守達安」が想起されますが、
土川→平左衛門→太田 から 太田→土川→土田
はありそうです。
「堀」「樋口」は竹中半兵衛の極めて親しい浅井の重臣といえる家ですが、森乱丸、森坊丸が、その
家の養子にでも入って活動していたというのがあるのかどうか、そうであれば「堀」=「森」、「樋口」=
「森」というのも出てきて巾が広がってきます。「堀」は「(小)堀」でもあり、芭蕉も「樋口」を使った
ということなどは気になるところです。
また太田を「ただ」と読むと「太田」は「田太」でもありますから「田」という字が従たるものとは限らない
感じとなります。「石田」というのは「石・田」、「斎藤」というのは「藤・斎」ともなりますと、活用領域が
広まりそうです。そういうのは「おほた」というルビを付すと消えてしまいやすいことになります。要は
「太田」を姓に使うときに何かを説明する材料として使えるようによく考えたいうことがいえます。
(1)−2、和泉と和泉守
はじめのもの再掲
首巻 『太田和泉これを綴る』
巻一 『太田
和泉守(ルビ=
いづみのかみ)これを綴る』
巻二 『太田
和泉守これを綴る』
巻三 『太田和泉これを綴る』
巻四 『太田和泉これを綴る』
巻五から巻十五
『太田
和泉守これを綴る』
一見して和泉と和泉守が、雑然としているのでどういう積りかというのが、説明ができるか
どうかは別にして気になります。
これだけから感ずることは
(@)「和泉」と「和泉守」の両刀使いで、「惟任日向守」と「惟任日向」、「羽柴筑前守」と「羽柴筑前」
などがあるのを自分の例で示そうとしたとおもわれる
(A)一見でははじめの方に「和泉」があり、「和泉守」があとの巻五から全部なので、「和泉」
が「和泉守」に変わった、一応、同一人の出世名が「和泉守」かもしれない
(B)「太田」にはルビがなかったが「和泉守」に「和泉守(いずみのかみ)」というルビがついている。
「和泉守(ルビなし)」がある。この割合は1:12である。「和泉」にルビがない。
ということなどで (@)のことをいえば、やはり太田和泉守といえども二人ということでみないといけ
ないということを云っていそうです。それも関連しますが、(A)はこうではないということを、云って
いると取れます。和泉守が二つ、前半に割り込んで来ています。
全体に、和泉1・和泉守2・和泉2・残り和泉守と続いており雑然としたなかにもまとまりがあり
何かこうした意図がありそうです。(B)が重要なことのようです。
「和泉守」は本名を構成する表記かということですが、これは他と区別できる著者固有のもの
であるといえそうです。
○国名に「和泉」がある。この国に関わったかもしれない。とくに和泉国に「堺」がある
○個人名が「いづみ」「和泉」もありうる。〈大かうさまくんきのうち〉では「大田いつみ記」
としており、「そち」のあとの名前か「いづみ」かもしれない。
というのが出てきます。しかし後者は「又助」という名前が出ているので、考えなくてもよいかも
しれません。「綴る」が一つを除いて全部に出て来ていますので「糸」+「又」「又」「又」「又」です
から「又」へ飛べばいいのでしょう。堺は坂井もあります。
要は「和泉国」「堺」と関係があって、気に入ったので自分の名前にしたといえそうです。関わり
と、こだわりがあってきめ、利用はあとで考えたということでしょう。
巻一だけに、ルビの付いた「和泉守(いづみのかみ)」があります。
ルビで読み方がわかるというものはあります。「和泉」で ルビがないのは、「和泉守」に違った
読み方があるからでしょう。前の「和泉」というものに「守」をくっ付けて
「和泉+守」となったというのですが接合に強弱があるのでしょうか、
いづみ
のかみ
和 泉 守
という全体に及んだルビを付けているので、一つ名前になってしまっているという感じです。
類書には
の
山 城 守
というルビも多く、この場合は「守」が付けたりのような感じで、この「和泉守」「山城守」に付いて
いるルビの
「
の」
というのは厄介なもののようです。
例えば「和泉守」では
「孕石(はらみいし)和泉(
いずみの)守」〈三河後風土記〉
という表記があり、この和泉守のルビの付け方は、〈信長公記〉のものと違います。「守」にルビがない
から、和泉と切り離してとらえようとする意識もあるのではないかと勘ぐられます。大久保彦左衛門に
よればこの人物は「主水」という名前であり、「守」の字から受ける大名、国主(守)とかいう感じでは
ない、そうだとすると「孕石和泉」という「主」(あるじ)という方が適切な捉え方となるといえそうです。
太田和泉守のここの
「いづみのかみ」
というのは、
A 「いづみのかみ」という一個人、まあいえば「の」ぬきの「いづみかみ」
B 「いづみという主」
C 「いづみの国の太守」
というようなものを含んでいるとみてよいのではないかと思います。
、今まで漠然とさせて話を進めきてはいますが、本人のことに
なるのでこのままではいかなくなってきました。ここではAのことをいっていると思いますが、ペンネーム
ということであれば、影響が少ないので、Bもありうる、Cは堺の代官であったと高言したのかもしれない、
ということも出てきます。
ルビのことで
「太田和泉守(いづみのかみ)」と「太田(おほた)和泉守」
の二つをここで作らなかったのは「太田」に影響されないということでしょうか。また、
首巻の 「太田和泉」
一巻目の「太田和泉守」
は両方ないといけないと思います。今後使う表記の代表選手を1・2に持ってくるのは妥当です。
またこのように混ぜたのが同一性を認識させることにもなります。その上、巻五までみても3:3
のごちゃまでともいえないものにしてあるともとれます。思うに
●再掲 首巻 『太田和泉これを綴る』
巻一 『太田
和泉守(ルビ=
いづみのかみ)これを綴る』
巻二 『太田
和泉守これを綴る』
巻三 『太田和泉これを綴る』
巻四 『太田和泉これを綴る』
巻五から巻十五
『太田
和泉守これを綴る』(但し巻十四のみ「太田和泉守これを作る」)
、
において、巻一は自己紹介もあるし、読み方も知らせる必要があるから仕方がない、一つだけ
和泉守があるというのは許容できると思っているのに、巻二に「太田
和泉守」があるのが話しを
ややこしくします。これがあるために
「太田和泉」が「太田和泉守」になったいうことがいい難くなります。要は一貫性、斉合性がない
と思わせるのが、巻二にある太田和泉守です。しかし何となくそれにより二つ「和泉守」が揃い
巻三、巻四の、二つの和泉に対応しているという安定感もあるというものです。
要は、巻二を太田和泉としておけば、説明はしやすいのに「和泉守」(ルビなし)にしたのは
なぜかという方向で纏めますと、
@本来著者の頭にあったのは〈三河風土記〉の
「孕石(はらみいし)
和泉(
いずみの)守」〈三河後風土記〉
という「守」を殺した感じのものが必要で、その活用を宣言したかったというのがあると思います。
つまり、「ルビなしの和泉守」を、切断的にすぐ打ち出したといえます。全部、太田和泉守を続け
ますと「いづみのかみ」というルビが全部に生きてしまうので、漢字だけの「和泉守」だったといえ
ます。つまり
「和・泉・守」、「泉・守・和」
というような活用方法が頭にあったといえそうです。すると、計16回
つまり巻二を次のようなことにしたかったということになります。
再掲 首巻 『太田和泉これを綴る』
巻一 『太田
和泉守(ルビ=
いづみのかみ)これを綴る』
巻二 『太田
和泉(守)これを綴る』
巻三から四
『太田和泉これを綴る』
巻五から十五
『太田
和泉守これを綴る』
A巻一の一部変更を打ち出すというのがあったと思います。
一巻目 「太田和泉守(いづみのかみ)」
二巻目 「太田和泉守(□□□□)」
ということで、ルビなしとは(ナシ、ナシ、ナシ、ナシ)の積りであったと思われます。
一巻目の「和泉守」(ルビあり)を二巻目の「和泉守」(ルビなし)で取り消す働きがあると思われ
ます。 まあ二つの和泉守は違うということです。
この場合、似たもので二つの違うものを併記したのでわかりやすくなっています。
同じ表記ではあるが字の大きさで内容が違うというのがあります。タイトルと本文では人物が違っている
場合があります。例えば〈万葉集〉で
「近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代
・・・・・・・・・
天皇の蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌」
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 」
では、大小二人の天皇は同じとは限らないわけです。この場合は時代が違っまま理解されて
しまっています。
表記は同じで表現の違いによる否定、追記という例は、他にもあります。人名、地名などの場合、
普通の字、細字の場合などで出てきます。これは往々にしてか、全的かは別として意味が違って
きます。
「森三左衛門尉が二男乱丸」〈甫庵信長記〉
「森の乱
森三左衛門尉二男」〈甫庵信長記〉
がありますが、下の細字の方は、「森三左衛門尉」がいわゆる「森三左衛門尉」とは別人という
ことであり、太田三左衛門尉といってもよい存在で、また必要に応じて
森の乱{森三左衛門一男}
に変えて読むのが合っている、変えうることを表わしていると思います。いはゆる「森三左衛門尉」
と森三左衛門Aという存在があり、実際の言動はAの和泉守の方だというのが一般的なパター
ンとなっています。
これの応用が一巻目のと二巻目と微妙に違う「太田和泉守」でされたということです。
要は三つあった「和泉守」
巻一の「太田和泉守(いづみのかみ)」の「和泉守」
巻二の「太田和泉守」 の「和泉守」
巻五以後の「太田和泉守」 の「和泉守」
は違うということです。巻五以後のものは、「和泉」「和泉守」を包摂したような和泉守です。
まあここまで言ってきた段階で文句が出てくることになるでしょう。第一巻から太田和泉守
になっている、「いづみのかみ」はあの太田和泉守の意味としても、和泉堺の代官ぐらいになって
いればそれも納得できるということになるはずです。
「太田和泉」と「太田和泉守」の、ゴツゴツしたものが あるのは問題がある、ということでもあり
ます。これが二つ目の問題で巻一は「和泉守」でないといけない実態上のことがあったと
思われます。〈甫庵信長記〉に「芥川・・・」の一節があってそこの読みが、関わってくると思い
ます。
年次が省略されている「首巻」から、年月日の揃っている日記風の叙述となる「巻一」との間には
大きい断層があって、首巻のなかの大事件
桶狭間の戦いは、永禄三年、(1560)、
「巻一」は
永禄十一年(1568)
で8年間、ほとんど事件は空白、桶狭間以降は美濃斎藤戦の結末と将軍を越前より迎えたという
結果がすこし書いてあるだけです。この間は太田和泉守、33歳〜40歳の間で、天下布武の布石
は終わったというのが首巻の最終節の読みであるとすると、織田の興隆に最も大きな業績のあたのは
この時期といえますが、そこは外されている、太田和泉守の〈信長公記〉刊行の意図は自分の功績を
述べるということではなかった、織田信長の功業を語るというものでもなかったと取れるところですが
、これは別のこととして、
永禄十一年には早くも
『五畿内隣国皆以って御下知に任せらる。』〈信長公記〉
とあり、脚注では「五箇国は山城、大和、河内、和泉、摂津の5箇国に近江、伊勢などをいう。」
となっており、実質的にも、織田はもう第一人者です。ここで「五畿内
隣国皆」となっているのに注目
すべきではないかと思います。〈甫庵信長記〉では
永禄十一年「芥川」の一節があり、
「信長卿」が京都進出
「制札」「観察使、検見を出す」「制法が正しい」「近里遠教境穏やか」「罪を犯すもの一人もなし。」
などのことが書かれ
「上下安堵の思いをなし、悉く我が屋に返りつつ、此の君万歳々々万々歳と呼ばふ声洋々
乎として耳に満てり。」
と、罪を犯すものもない、まるで古代の入鹿の治世が再現したといわんばかりのことを書いて
います。しかし書き流されていますが具体性があり出された制札の写しも載っています。
『総じて此の度打ち随えられた国々、近江、山城、摂津、
和泉、河内、巳上五箇国なれども、
悉く割き与えられ、僅かに
和泉の
堺、江州の大津、草津、加様の所のみ代官を付けられけり。
国を取って
十分にして、其の
一分を収納せらるるとも尤もとこそあるべきに斯くの如くなれば
誠に周の武王の、殷のチュウ(王)が粟を散じて万民に与えられしもかくこそあらめとて上下感じ
けり。惟(おもん)みるに信長卿は、自然に心底正しかりけるにや、●万幸竜の雲に乗じ
虎の風を得るがごとく、聊か滞る事なし。』
となっています。近江は江北に浅井長政がおり、佐々木も健在ですがもう縁組などで対策済みと
いうのでしょう。ここで誰に割き与えたかが書かれていません。後年突然、高山飛弾守が摂津の領主と
して出てくる、和田伊賀守がこの前に登場してきて活躍しますが、もともと地もとの領主であったと
いうことですから、そういう多くの人に分け与えたと解釈されているのでしょう。気前よく分け与えて
諸侯を懐柔してしまったようです。「惟」もあり、●は竜虎の絵を想起しているのでしょう。
織田の領地としては
和泉の堺
などの直轄地だけにしたということですが、あとの文を矛盾なく読もうとすれば五カ国の十分の一は
織田のものとするというのが常識なのに、三つの都市だけ収納したというのが新しいやりかただった
といっているようです。このときはオールマイティだったのでこうしたのは自分の考えだったという、自画
自讃が入っていると思います。ここは周の武王を出してきたり、このあと
『万幸竜の雲に乗じ、虎の風を得る如く、聊か滞る事なし。』〈甫庵信長記〉
と天王寺屋竜雲が顔をだしたのかと思われる文もあります。
「和泉」の「堺」という「和泉」は上の「
和泉の国」を指しているのは明らかですが、もう一つ
「いづみ」の「堺」
というのがありえます。ここの長官というのは誰かが書かれていないのが問題でしょう。桶狭間の
の前に鉄砲担当の
佐々内蔵助ということでここにきている、この「佐々」は、「
佐々蔵佐」「又左
衛門」「井口太郎左衛門」が出てくる安食郷の蛇池に話の主役に結びついている、、つまり鉄と
其の加工技術が生かされる領域だから、太田和泉守の登場は必然です。
和泉の堺はこのとき、実質的に著者の統括下にあった、ここの代官になった、「和泉国の長」
として「和泉
の守」(いづみ の かみ)というものが、出てきた、
(和泉守)と(いずみのかみ)
‖ ‖
長官 個人
の合体したもの、自称したかもしれませんが、そういうことがあったというのが、反映したものが
「巻一」のものではないかと思われます。このあとも、たいへなことを書いています。
〈甫庵信長記〉のこの「芥川(芥河)」の一節の後半の登場人物は
「松永弾正・・・・今井宗久・・・・紹鴎・・・
・・・・・菅屋(すげのや)、或は堀久太郎、万見仙千世、村井長門守、福富平左衛門尉」
●「柴田修理亮、坂井右近将監、森三左衛門尉、蜂屋兵庫頭」〈甫庵信長記〉
ですが、●の四人が制札を出しました。前の部分も書き流されたものではないようです。
「菅屋(すげのや)」というのが後ろ名前がなく空いているのでここに紹鴎が入りそうです。
すると、「松永・・・今井」の二人の関係(例えば兄弟)がでないか、菅屋・紹鴎となると
菅屋が紹鴎ではないか、といっているかも知れませんし、菅屋・紹鴎をを前へもっていくと、
松永弾正・今井 ・菅屋紹鴎の三人は関係があるといっていそうでもあります。
菅屋と堀、堀と万見の関係とか
も問題かもしれないし、「或は」以後世代が変わるならば、菅屋以下の五人セットは桶狭間の
五人セットの切り口にもなるかもしれないというようなこともある、となるとやはり、よく考えられて
書かれたと見るべきで通説とは違った話、聞いていない話が出ても一概におかしいとはいえない
ものは秘めていそうです。
永禄11年の和泉守は自称ではあるが、実質でもあると思われます。
はじめの三人は前にも出ましたややこしい次の両書の文の三人です(以下、同じ芥川の一節より)。
『
松永弾正少弼は、天下無双の吉光の脇指を捧げ奉る。又堺の
今井宗久が、松島という茶壷、
詔鴎(ぜうおう)が菓子の画を進献す。』〈甫庵信長記〉
『
松永弾正は我朝無双のつくもかみ進上され、今井宗久是又隠れなき名物松嶋ノ壷、併に
紹鴎(ぜうおう)が茄子進献。』〈信長公記〉
結局この文は嵌め込んでみるとどうなるかということになるのでしょう。
「松永弾正少弼は、天下無双の吉光の脇指を捧げ奉る。
松永弾正は我朝無双のつくもかみ
進上され、又堺の今井宗久が、松島と云ふ
隠れなき名物松嶋ノ壷、併に紹鴎が茄子茶壷
進献、詔鴎が菓子の画を
今井宗久是又 進献す。」
となるのではないかと思います。このように嵌め込んでやってみると分けて見ていたときよりも
見えてくるものがあります。大松永がこのとき健在であったということもわかるし、松永の表記のことも
一筋縄でいかないこともわかってきそうです。例えば
「松永弾正父子」(甫庵信長記)
などの表記は三世代のことを語っているのかという疑問も出てきます。またテキスト脚注に紹鴎茄子
は「茶入れ」ということがありましたが、それも茶壷と絵があったというのがここではっきりしてきます。
また別々に読めば、両方とも詔鴎が献上の主体とも読めそうですが、これはないということが
はっきりします。句点のつけ方でこれはなさそうだというのがわかりますが、それを確認することも
できるといったほうがよいのかもしれません。つまり紹鴎が持っていた(作った)茄子茶入れ、と
紹鴎が画いた菓子の絵が進上されたのですが、太田和泉守が、
「武野紹鴎」
を「松永弾正」と分かち合っているかも知れない、太田和泉守に
菓子の絵
があったのではないかという疑問も出てきます。この菓子は隠居の「果士」かもしれません。
こうなると今井宗久に「是又」があるからその後の一文が気になってきます。
『寿永の古、源義経、一の谷鉄拐が峯を落としし時、かけられたる、鐙とて
捧げたる人もあり。』
〈甫庵信長記〉
『往昔判官殿一谷鉄皆(テツカイ)ががけ(銭の石篇)めされし時の御鐙
進上申す者もこれあり。』
〈信長公記〉
紹鴎と菅屋の間にあるこの文で、義経、判官が出てきたことは同時二人のことがここに出てくること
になるのは既述の通りですが、松永父子、詔(紹)鴎がそうだとすると、「今井宗久」もその気配十分
でしょう。これは「宗」の系譜の「久(休)」ですから、重要人物あの「八」の人で、「鉄」があるから、
鉄砲屋与四郎
というのがやはり姻戚としてでてくる、進上者として利休というのも出したのかもしれない、というの
がありえます。
また「菅屋(すげのや)□□」の「□□」として主体でない「紹(詔)鴎」で埋まるとすると、これは紹巴の
「紹」ですから、流れにおいて武井夕庵・太田和泉が「義経・判官」に比肩されることになる、二人の
登場があるということになるでしょう。
こういう堺にまつわる一文があるのが「巻一」というのがいいたいことです。「和泉守(いづみの
かみ)の登場がここにはじまります。巻三では、堺のからみで二人が出てきます。両書ともにあり、
『
泉州堺津名物の器寄せらるる事
・・・・・
友閑法印、
丹羽五郎左衛門尉長秀・・・
天王寺屋の宗及が菓子の絵、薬師院の小松島・・・・松永弾正少弼も鐘の絵進上申しけり。
・・・・・観世金春両太夫・・・』 〈甫庵信長記〉
『去る程に天下隠れなき名物
堺にこれある道具の事、
天王寺屋宗及 一、菓子の絵
薬師院 一、小松嶋・・・・・松永弾正 一、鐘の絵・・・
友閑・
丹羽五郎左衛門御使いにて仰せ出ださる。・・・・・・・・・』〈信長公記〉
これは巻は飛んでいますが、巻一の堺の記事と繋げようとするもので、
「菓子の絵」「(小)松島」「松永弾正少弼」「(小)松嶋」「隠れなき名物」
などでそれが窺えますが、上のほうの「観世金春」の記事が「巻一」にあり、この「観世金春」は
「
泉州堺津名物・・・」のテーマの中のものですから、堺がつながっており、巻一の記事に夕庵・
和泉を持ち込ませようとする記事です。後年、常山は「観世左近」は「安休」と号した、と突然
いい出しましたが、この「春」とか、「堺」とか、「謡い」などの息の長い伏線があって出てきたもの
でしょう。ここの「天王寺屋宗及」の絵は、前出の「竜の雲・・・虎の風・・」にも繋がるものです。
〈甫庵信長記〉で永禄十二年(巻二相当)で
『尾州西方長嶋城に北伊勢五郡を相添え滝河左近将監に下し
たぶ。』
となっていて、この「多太」からみると太田和泉守が堺から転出したといえそうです。もう今まで
の前提は崩れており、二人は織田の宰相然ということですから、堺での地位に影響を与えるものでは
ないはずです。地位が低い人物という認識では、堺長官になった記録がないということになりますが、
松井友閑はそういわれていますからこれはヒントを与えたといういうことが出来ます。
ここの義経(判官)に宛てる人物が誰かということになると、価値の高そうな物件なので「長」クラス
の人物の献上品、武井夕庵か太田和泉守のものかもしれないというのも出てきます。芭蕉は〈奥の
細道〉で、武井夕庵、太田和泉に義経と判官を接近させています。それはここに
「義経」と「判官」
が出ており、またこれが夕庵・太田和泉のことではないかと取ったからではないかと思います。
佐藤庄司の旧跡で
「
爰に義経の太刀・弁慶が笈」
を出しており、これは美濃加治田の「
佐藤紀伊守」「子息右近右衛門」の「佐藤」が意識され
「平和泉」、「和泉三郎」、「衣川は和泉が城」
で義経と、秀衡三男とされる、和泉三郎忠衡、と和泉守が結びつき、
「卯の花に兼房みゆる白毛かな」曾良
で締められています。〈義経記〉でみるごとく、この句は、判官を間接に語っているといえます。つまり
「兼房」は「判官」についてきた人物です。テキスト脚注(旺文社文庫、奥の細道)では
「兼房は増尾十郎兼房。義経の正妻、大納言時忠の娘の乳母(めのと)であった。老年ながら
義経に従って高館にこもり、義経の妻子の自害を見とどけた上で、猛火に入って壮烈な最期
を遂げた。折柄(おりから)咲き乱れた卯の花を見ると、白髪をふり乱して奮戦した兼房の姿
が髣髴として哀れを催す。」
となっています。「増尾十郎」とか「兼房」という名、平家の中心人物「時忠」とかが、あの武勇の義経
とは馴染めない感じがあるように、この兼房の主人の義経は京都の公卿の九条家の人です〈鎌倉〉。
「円首座」〈甫庵信長記〉
という孤立的な表記の人物が出ますが、これはこの表記だけをみますと、天台座主を4回も務めた
「慈円」(〈愚管抄〉著者)が脳裏にあると思います。これは「九条兼実」、「
兼房」の弟として知られる
人物で「吉水僧正」「慈鎮和尚」という別名もあります。ネット記事で「吉水神社」がありますが、これ
は義経、静御前伝説のあることで有名のようです。義経、慈円関係ありといいたい人物が「吉水」の
名を慈円に冠した、もしくは吉水という神社に、慈円の呼び名を知った人が義経伝説を埋設したと
いえるのでしよう。〈鎌倉〉では〈愚管抄〉からこの結論を導き出していますが、多くの道があるわけで
す。太田牛一は、「麟角和尚、円首座」と繋いで、「和尚」の意味付けや、粟田口の吉水に利用した
のかもしれません。〈奥の細道〉 のここに
「
兼房」
の名前があること自体が判官の正体を語る有力な証拠ともなります。太田牛一が〈義経記〉などの
解説をしたということがいえるところで芭蕉もそれを受けたものです。
ここの「卯の花」は〈奥の細道〉「白川の関」のところで
「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」
があり、これは「此の関は三関の一にして、風燥(馬篇)の人心をとどむ」とあり「清輔」も出てくる
ので、「卯の花」ー「関」ー「風」ー「清」で夕庵が出ていそうです。また
「わかふも見えぬ卯の花かさね 夕庵」〈三河後風土記〉
もあります。ここは重要と思われるのでもう少しつっこんでみると、湯浅常山は
『竹中重治の冑は一の谷、明智秀俊が冑は二の谷という。摂州一の谷二の谷相並べり。
又柴田伊賀守勝豊が冑は●
鉄蓋(てつかい)が峯(みね)といふ。是は一の谷より高く峙(そば
だ)ちたる
山なれば斯く名付けしとかや。』〈常山奇談〉
と書いています。この太字の●が先ほどの「巻一」の
『寿永の古、源義経、一の谷
鉄拐が峯を落としし時、かけられたる、鐙とて
捧げたる人もあり。』
〈甫庵信長記〉
の「てつカイがみね」と同じです。〈信長公記〉は
「判官殿一谷
鉄皆(テツカイ)ががけ」
ということでした。湯浅常山は両書のここの解説をしたのであろうと察せられるので、「一谷」「一の谷」
の並びが気になってきます。常山は一の谷の冑は竹中半兵衛、二の谷の冑は明智左馬助秀俊
といっていますから、一応
常山の「竹中重治」→太田和泉守→「武中」→武井夕庵=判官
「明智秀俊(左馬助)」を太田和泉守=義経
として、宛てることも出来そうです。「竹中重治」「明智秀俊」は表題に使われているし、本文にも
あります。いわば大小の表記があるといえますが、いわゆる「竹中半兵衛」「明智左馬助」と語りの
ための「竹中重治」「明智秀俊」があります。その一つがここの柴田勝豊でしょう。実際では柴田勝家
羽柴秀吉戦(志津ヶ嶽の戦い)で早くに秀吉方に味方したことで知られる人物ですが、名は知られ
ていません。なぜ●に繋げてこの
「柴田伊賀守勝豊」
を持ってきたかということですが、これが、はじめに既述の「武・田・信・玄」「徳・川・家・康」という
ものからうける感触が利用された例といえそうです。
「柴田」は先ほど巻一の人名羅列で「柴田修理亮」がありました。「坂井右近将監」「森三左衛門尉」
「蜂屋兵庫頭」と連記でしたので、三兄弟に安井氏を含むものといえるなかの「柴田」、「柴田日向守」
の一部というべき「柴田」といえます。
「伊賀守」は太田和泉守で、「伊賀伊賀守」野史では「藤堂伊賀守」「高山伊賀守」などがあります。
「勝」は池田勝三郎の「勝」
「豊」は「猪(伊)右衛門一豊」の「豊」、「(飯尾)豊前守」「(池田)豊後守」の「豊」
ということで、表記だけで煮詰めていけば太田和泉守が炙りだされてきます。もちろん坂井右近と
か森三左衛門からも確認できそうです。すなわち太田和泉守を、義経、一の谷、鉄「カイ」峯、と結ん
だわけです。その心はどこにあるかが問題です。二つばかりとりあげてみます。舞台はあくまで和泉
の堺です。
「鉄カイ」は「鉄皆」「鉄拐」に「鉄蓋」を加えたということですから、また「山」というべきものといって
いますから「鉄カイ山」という山を頭においています。筆者が俵屋宗達の風神雷神の絵のこととして
述べてきている次の一節にこの「開(かい)山」と「蓋」があり、そのことに常山の解説がありそうだとい
うのが前提です。天正五年
『三月廿三日・・・・・
一、化狄(クハテキ)天王寺屋竜雲所持候を召上げられ、
一、開山の蓋置(フタオキ)、
今井宗久(いまゐ そうきう)進上。
一、二銘のさしやく、是又召し上げられ、
三種の代物金銀を以って仰せ付けらる。・・・・』
つまり「開山」が「カイ山」、一の谷の鉄カイ山です。また「蓋」がこの「鉄皆」、「鉄拐」の「かい」だと
いうことをいったわけで、判官と義経(夕庵、和泉)を竜雲のこの一節へ持ち込んできたといえます。
このことは、前の「クハテキ」「天王寺屋」「竜雲」にも及ぶことですが、「今井宗久」に一番大きな
影響が及ぶのは視覚的にも明らかです。
一つはここの今井宗久のことで、表記に大きな工夫のあとが見られます。
○はじめの方に出てきたものには、ルビを付すべきなのに、ルビがないここでルビを付した
合成文再掲
「又堺の
今井宗久が、松島と云ふ隠れなき名物松嶋ノ壷、併に紹鴎が茄子茶壷進献
、詔鴎が菓子の画を
今井宗久是又 進献す。」
これを見ても、両書ともはじめに出てきたものにルビをつけていない。後にも先にもここだけである。
○「いまゐ□そうきう」とルビになっている、(「ゐ」が前詰まり)
ということです。「今居宗久」とされても文句は言えないというような感じのものです。
二書の世界でも「白井備後守」「白江備後守」に変えられており、今井も今江、今枝になるかも
しれません。「今川」も「今河」だから→「今江」「今枝」もありうる、二書の間では「今」→「令」の
炙り出しもあるほどですから、「宗久」を「宗・久」とでもすると太田和泉守が乗ってきたということも
出てきます。つまり、先ほど合成文で今井宗久二人のようでしたから、それの@があって
今井宗久(ルビ付き)@−−−−今井宗久(彦八郎)A(えびな)
|
今井宗久B
松永弾正ーーーーーーーーー(松永(右衛門佐?=永徳)
というのもありえるでしょう。太田和泉守は世代的には大松永の子、松永久通と同じでしょうから、
その子が「今井宗久」ABに関わってくるのでしょう。要はこのファミリーから戦国の巨大な文・芸が
開花する、巻一で、そのもとが描かれていたといえます。珍宝の献上者から松永と太田の姻戚関係
が打ち出されている、巻一は、太田和泉守(いづみのかみ)という表記にしなければならなかった、
和泉国という、いづみという、守(主)もふくむ、(いづみのかみ)という「の」の意味が重視されたもの
にするつもりと察せられるものです。二つ目は「クハテキ」に関わるものです。
この「フタオキ」というのは機能をそのまま表わす和読みです。したがって宋の「開山圓悟」
の名が入った「ふたおき」というものでしょうが、ルビが「蓋置」(かいち)とでもされていれば何が何
やらわからないわけです。上の「クハテキ」の読みが、そうなっていますからこれを和読みにしない
といけないというのが改めてわかってきます。一方「天王寺屋竜雲」というのは一回限りの孤立表記
で「宗及」でもなし、脚注では「天王寺屋了雲」のことだということですが、堂々巡りで不親切なこと
かぎりないことで、「竜雲」が固有名詞ではないとみるのが行き着くところです。「化狄」はテキスト
脚注では
「貨狄。床の間の上につる舟形の名物花入れ」
となっていますが、これに惑わされないようにすればよいようです。「狄」は「えびす」とか「身分の
の低い役人、「下士」とか、「犬」とかあり、「化けえびす」とか「花のえびす」とか、にしておいて内容
は、問わない、極端に言えば「クハテキ」だから「桑・荻」でもよいということでよいのでしょう。
「是又」は前に「
今井宗久是又」がありました。最後の手段として入れ替えて
「三月廿三日・・・・・
一、
竜雲の化狄(くはてき)天王寺屋所持候を召上げられ、
一、
是又二銘のさしやく、召し上げられ、
一、開山の蓋置(ふたおき)、今井宗久(いまゐ そうきう)進上。
三種の代物金銀を以って仰せ付けらる。・・・・」
「竜の雲に乗じ、虎の風を得る」という言葉もでいますから、こう入れかえると、「雲」は「雨」に化ける
というような語句の相関による意味の理解の変化も出てきます。「竜雲の化けえびす」という読みも
ありえます。「ふたおき」−「くはてき」の関係がおかしいから、「竜雲」は「了雲」ということですから、
竜雲と虎雲の両雲があるのでしょう。
「是又」というのを前にもってきましたが、「さしやく」と「二銘」の両方に掛けていそうでそのように
しましたが、「クハテキ」と「さしやく」(テキストでは「茶杓子」となっている。)の二つなら「是又」という
のはいらない感じです。これは「クハテキ」にも「茶杓子」にも「二銘」があったということでもありえます。
「指し役」、「さしやく」は「指し役」「差し役」でもありますから、二つのものの作者などの名を明らかにする例えば
由来を書いた収納箱のようなものも考えられます。「三品」となっていないので
箱も粋を凝らしたものであれば買い取る可能性はあります。ネット記事によっても「俵屋宗達」も「風神
雷神図」もよくわからないとなっているのに、この絵は「宗達」の作品であるのは判っているということ
のようです。信じなさいということになっていて、全く学問的でないのが非常に不満なところです。
作品には箱がある、寺に伝承がある、こういう文献がある、今までの研究が結論を示している、なん
でも結構ですが、一般にもわかるものがほしいのに知らん顔です。
筆者のもっている〈万葉集〉は「旺文社」の対訳古典シリーズで判りやすいので引用をここから
していますが、人名索引
「舒明天皇(じよめいてんわう)」
をみれば
「田村皇子・・・・息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇(すめらみこと)・・・・高市天皇
・・・岡本天皇・・・・・天智天皇・・・らの父。●蘇我氏との血縁はない。・・・・・蘇我蝦夷の擁立
を受けて即位・・・」
) ●のところズバリ議論の余地がないという追記があります。こういうのが時々権威の書いたもの
に出てきます。これは若い人にはそのまま受け取られます。文献がどうもよくないから色々説が
出てどうも決め難いという印象があるなかでの断定ですから、それで行こうということになるでしょう。
次世代にツケが行く言い方です。ミヅラは男性の髪形である、と決め付けられていますが、それで
終わったと思っていても、当時の女性は、今より世の中危険だから、髪形かえるぐらいのことは
簡単、強そにみせたら得な場合はやってしまうから肖像絵みてああだこうだといってもはじまりませ
ん。人名索引では、一方でこの次に、
「神功皇后」→息長足日女命(おきながたらしひめのみこと)
があって、ここでは説明しないから、「息長・・・・・」をみてほしいということです。「お行」を又見ますと
」 「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかすめらみこと)→舒明天皇」
(息長足日女命{おきながたらしひめのみこと}(足日女・帯姫・足姫・神功皇后)
という見出しになっています。つまり、
「おきながたらしひ・・・みこと」
が同じで重ねてみれるということのヒントがあるとみられている、といえます。時空を飛ばして
語るのもあるし、時代を場所を工夫して語るというのもあります。
先の話の戻りますが、今井宗久の「ふたおき」にも開山の銘があったということで、この三つとも
銘があった、とみるのが妥当でしょう。「
ほかにこの若江というのは「江」が利いてくるのかもしれません。今井→今江、今枝などのことです。
「今若」(信長公記)
の表記がありますから、
今江
若江
がありそうですが、江から絵にもならないか、ということです。「今井」というのは「いまゐ□」ですから
変な字同志の付き合いで、また「今江」に変わり易いもので「いま
ゐゑ」になり「ゑ」「絵」、ルビつき
の今井宗久は全部に懸かるので「クハテキ」は絵といっていないか、ということも出てきます。しかし
これはそんなことはないというのも正解でしょう。しかし一方で川角三郎右衛門や芭蕉などはここの
「七月廿三日」から「宗達」を導き出してくるのかもしれません。そうなったら屁理屈も生きてくることも
あります。つまり、この一節の最後に「伊達」が出てきます。
「(三)・・・・三月廿三日、若江迄御帰陣・・・・(その日、天王寺屋の竜雲などの話)・・・
次日三月廿四日、・・・・・・・・・廿五日、・・・・
三月廿七日、安土に至って御帰城。
七月三日、奥州
伊達御鷹のぼせ進上。」
となっています。「伊達政宗」をだしてきたわけですがこれは
「宗達・伊政」
になり、「宗達」が出てきます。おまけに「伊政」は「(和田)惟政」です。これで天王寺屋竜雲の
雲竜の絵をだしたといえるのです。ここで
「七月三日」
は唐突な感じがするので、「伊達」は思い入れをもって出してきたといえます。これだけの説明でもよいと
思いますが、あとの日付けがおかしいから一言ふれますと「七月三日」のあとの日付けは
「(四) 後七月六日、御上洛。二条御新造・・・・
「(五) 後七月十二日・・・・・・
後七月十三日御下り。其日は勢田・・・。次日■安土御帰城。」
となっています。(三)節は三月のことばかりだから「七月」が入ってきたらおかしいというのが
事の発端ですが、次の「(四)」(五)」は7月に飛ぶのでそうでもなさそうという感じがして見逃が
されてしましまいそうです。ただ「(四)」「(五)」の七月の日付けには「後」がはいっています。
正確に云うと「□後」と「後」です。
アプロ−チの仕方はいろいろありそうですが、簡単に言えば太田牛一が間違っていそうでだから
修正しようとすると、「三月廿七日」を間違ったというのは無理で、「其日」と書いてよいはずです。
七月十四日が■のところに「後七月十四日」と一旦入れたのを語りのために「七月三日」として
前へもって来たというのではないかと思われます。こういうのは原本と異本があって違っている
のが見つかれば面白いと思いますが、それほどあの絵にコダワリがあるようです。いろんな意味で
和泉の堺
は太田和泉守の属性としてよく、巻一に出てくる必然がありました。
のちに石田三成の兄、石田木工頭正澄が堺の長官になりますが、これは「澄」が付いた人物なので、
光秀子息のうち、織田信澄と連れ合いになった人物が浮かび上がってきます。芭蕉の「大石田」は
「太石田」で「孕石和泉守」を介して、石田と太田を付けたといえそうです。
太田 大石田
石田 石田
田
というものになる、芭蕉はその地名を見つけ出して利用したといえるでしょう。すなわち
『大石田と云(いふ)所に日和を待(まつ)。
爰に古き俳諧の種こぼれて・・・・・わりなき一巻残し
ぬ。このたびの風流
爰に至れり。』
大石田のあとにしては突然出てくるこの文は、締めくくりに当たるものを持ってきたといってきました。
ただここにあることは、大石田にも掛けた心があると思います。ここの「古き俳諧」は、脚注では
「芭蕉の新風に対して、貞門談林の古風を云う。」
なっています。芭蕉は、松永貞徳などの旧風に飽き足らず、新風を確立したなどという説を前提と
した説明で片付けられています。学問的ということから慎重であるべきとする専門家が不用意に
下す結論は、不完全な貞門談林、完成した芭蕉という発展形態として捉えてしまうので、芭蕉を読めば
古風はわかると貞門談林を飛ばしてしまう結果となってしまいます。松永貞徳は太田和泉守をよく知
っており、戦国の気風さながら、戦闘的なものがあり、芭蕉より、むき出しでストレートに気持ち
が出ているとみるのが合っていそうですが、芭蕉は時代がもっとあとなので、やわらいでいると
思いがちです。しかし、芭蕉はそれを継承して、弱めたのではない、あらゆるものを利用するという、
もっと戦闘的なところがあるのではないか、と思われます。大石田もその例ではないかと思われ
ます。地名が探された、適当なものがなければ作られたと考えたほうがよいようです。
「太田」というのがそこから「石田」までも出てくるような巾広さをもっていると思われますので
ペンネームとして採用した過程というのが相当なものが考量されたと感ぜられます。
なお、巻一に
太田和泉守(おおたいづみ
の かみ)
としてありますが、こだわってきたのは、ルビの付け方で気になるのが多いのです。〈常山奇談〉
の
「山中 山城 守 長俊
の の
「明智 左馬 助 」 「左馬 助 秀俊」
となると明らかにその後の「守」「助」は軽い感じ、山中氏は「山城守」とはかならずしもいえない、
左馬助も左馬丞、左馬頭でもよさそうといえます。自他共に認めた表記といえなさそうと湯浅常山
がいっていそうです。それは
ごとう もとつぐ ほり ひでまさ
「後藤
又兵衛基次」 「堀
久太郎秀政」
でもいえるところでしょう。太字の部分にルビはありません。豊臣秀頼が後藤又兵衛を城へ招く場合
の書状の宛名は「後藤又兵衛基次殿」とはならないはずで、堀の「久太郎」も「九太郎」的なものとい
えるところでしょう。こういう疑問がもたれることは著者の案の中のことなので自分「太田和泉守」
でこういうことを解説しようとしているはずだということでこの巻冒頭の「太田」の「和泉守」をみてき
ました。
(1)−3 森という姓
一巻目の「太田和泉(いずみのかみ)」は和泉の国守という意味の、和泉国の堺の意識が強い
「いずみのかみ」、名乗りの「いずみのかみ」、巻二はそれから人格性を取り去る意味の
和泉守、それ以降のものは、ルビのない、組み替えたりでき、幅広く
「和・泉・守」として使えるものとしての、語りのための和泉守ではないかというのが結論です。
つまり「和田」は内包しているから「和田和泉」は太田和泉守と同義です。
「森」も含まれており、名の「守」が特に重要です。
太 田
和 泉
守
和 田 泉 ‖
森
特に名乗りで「守就」「守景」「守久」などは「森就」「森景」「森久」の意味を込めていると
思われます。それを裏で援用できれば楽です。見逃されやすいのは
「和」
がこの中に含まれていることです。三輪ー三和ー美和ー神(かみ)−守とか聖徳太子の
「和」です。
このように「太田」は何かを述べるために巾を広げた表記ではないかといってきましたが、
結局太田和泉守の本当の呼び方は、当時の社会の仕組み制度によってきまるものでしよう。
一応主(あるじ)側の名を名乗るということになると、「森九兵衛」という表記もあり、
森和泉守
でしょう。これは二書に「森和泉守」という表記があってもよさそうなのに出てこない、
これは「森」四兄弟を出した以上、どうしても伏せておかなければならないということになるのかもしれ
ませんが、結局最後まで出てこないので、これが本当の名前であろうとしてもよさそうです。
「太田和泉守」の「守」に含まれている「森」というので確認できる、といいましたが、
基本的には、前著から積み上げてきた、
森三左衛門可成
‖
(明智)和泉守重政
という関係を見つけるということで明らかになることです。
「森三左衛門」、「山田三左衛門」、「生田の森」、「森蘭丸」、「森坊丸」、「三木」、「森寺政右
衛門」、〈武功夜話〉「前野村森氏の事」などでも捉えられるということでした。前稿では桶狭間
の出だしの部分を彩る、次の上段の人物の名前は、これを変訳すれば下段のようになるという
ことに触れました。
「長谷川橋介・山口飛弾守・佐脇藤八・賀藤弥三郎」
‖ ‖ ‖ ‖
森乱丸 森坊丸 森えびな 森力丸
これは、織田家の官僚組織が、従業員身分発生、変更届けとして受け付ける名前がどれか、
軍編成表、軍功帳に載る名前というのでしょうから、下の方の名前になるのでしよう。とにかく
ここで森四兄弟が出ましたが、森長可なども森ですからこのことも気になるところです。森乱丸の
近い兄弟は何人かということが次ぎに出てくる肝心な問題といえそうです。どこに述べられているの
か、ここぞというところにそれがあれば著者に重視されているということになる、つまり、森家と
いう 一家の一人として太田和泉守を捉えた今までの読みが合っているかどうかの試金石となる
のが森兄弟の発見ということになる、それを探ろうというのが本稿の趣旨です。
(2)年代ショック
古田織部の出自に関して、その基本的な属性は、ネット記事によれば
岐阜県「本巣郡本巣町山口」出身でここの「山口城」に関係がある。
名前は古田景安。
というものです。テキスト人名注では本巣は出ておらず名前が「重然」とされていますが「重然」
は弟というのもあり景安として探ってみます。「本巣」は安藤大将の故地であり、「山口」という
のは桶狭間「山口飛弾守」「山口左馬助」、小豆坂の「山口左馬助」しか手がかりがなく小豆坂
合戦から入ってみます。
桶狭間では上の四人衆は「御小姓衆」となっており、一般の今までの予備知識でも信長の小姓
といえば森蘭丸に決まっているから、あながち無理な引き当てともいえないものでもあります。しかし
桶狭間の戦いは、永禄三年(1560)
本能寺の戦いは、天正十年(
1582)
だからその間22年もあり、上のほうの人物は、22年前はすでに一人前の武者であり、22年後、蘭丸、
坊丸、力丸のような幼年らしい名前で登場してくるのではとても同一とは考えも及ばない話で素直に
受け入れ難いものとなってしまいます。上下反対であれば森家の子も独立して名前も変わるだろうから
あり得ないことではない思うかもしれません。しかしそれでも全員の名前がコロッと変わっているから
すぐには納得し難いということになります。このように一つのことを結論付けても根本的な「時空」の
面から納得できなければ、受け入れ難いという話が往々にして出てきます。
この場合上下違った名前にしたのは、下のほうの本音の部分、すなわち打ち出したい部分を和らげる
という意味があるからで上下とも森で通したかったのを辛抱したわけですが、これは表記の工夫に
よる辛抱といえます。より効果の上がる緩和剤を使うと、予想外の結果となるところがねらい目です。
太田牛一は叙述に迷彩を施すにあたって「時空」と「人・事件」というものが簡単に結びつかないように
しています。これはわかりにくさの元凶となります。
事実が重視される犯罪捜査の場合でも、先ずその人が、その時、その場所に居たか、ということを
決めようとします。不在証明があると別人による事件を想定しなければならないことになります。歴史を
述べるに当たっても事実の積み上げが最重要のことなので、時空と人・事件の一致を先ず考慮して
それではっきり黒白をつけさせて、そこから選ばれたものを通説という一般の理解の役立つ段階の
ものに詰めようとしています。
要は歴史というと「時空の一致」ですが、それが無視されているというのですから問題であるのは
否定できません。事実を述べるについて今と環境が違う過ぎるのですから、已むを得ないものがあり
ポイントとなる時空の一致を外してきた、暈(ぼか)してきたというのが日本の歴史叙述の根本を構成
したものといえます。例えば神話で出てくる人物は何時の時代の、どういう人かわかりません。
最もやってもらったら困ることを敢えてやったといえます。「敢えて」やったという著者自身の気持ちが
表白されているとこれに越したことはありませんが、そういうのはチャンと用意されているようでまとも
ともいえます。太田牛一は根本的におかしいということがありえることをところどころ垣間見せています。
例えば肝心かなめの年代でもそれが暗示されているのがあります。
太田牛一は桶狭間の戦いの年代を間違っている。
この戦いは永禄三年(1560)ですが太田牛一はこれを8年前、天文廿一年(1552)としています。
桶狭間のくだりに
「@天文廿一年壬子五月十七日」(今川義元沓掛参陣などのくだり)
「A天文廿一 {壬子}五月十九日」(桶狭間戦闘序盤)
「B天文廿一年{壬子}五月十九日」(桶狭間戦終盤)
{ }内{壬子}は細字
と大上段に振りかざしたこの間違いの年月日を堂々と書いています。
桶狭間の戦いが永禄三年でであるのは現在考証でそうなっているというよりも、広く一般の人向けに
書かれた〈甫庵信長記〉に
「永禄三年五月十七日」「翌日十八日」「翌日払暁」
とありますのではっきりしていますし、武井夕庵の願文に
「永禄三年五月十九日 平信長敬白(うやまってまをす)」
もあります。
この大きな狙いは、呆れてものもいえない、とビックリさせる、桶狭間の一節は首巻に「驚愕」という
楽章を作ったようなもの、といえそうです。年代だからそのショックが大きいといえます。信頼できる
〈信長公記〉といっても年代記述に問題があり、年月日に極端な欠落(とくに首巻)や、漏れ、飛び
前後など首をかしげさせるようなところが多いのは否定できません。そういうものの警鐘もあるのでしょ
う。ただここは具体的にも何か企図があってこうした、というものがありそうなのは、
年月日に干支まで揃った日付
考えられない年代の誤り
が同居しているおかしさがあります。企図があってそうされているなら、三つの日付について採用
基準のようなものがあるのかもしれません。既述ですが、この三つの日は、年を決める部分について
の書き様が全部違います。
(@)、一段目@は全部普通の大きさの字で完全なもの。干支も普通の大きさの字。
(A)、三段目Bは完全なものであるが、干支だけが細字になっている。
(B)、二段目Aは上のBに同じで干支は細字であるが年という字が抜けている。
というのがすぐ目に付くところです。したがって理論的にはもう一通りありうると思います。太田牛一は
★「天文廿一 壬子五月□日」
という年抜きのもので干支が普通のおおきさの字、のものが使えるのに抜いたと思われます。つまり
十八日の記事があればそれを使うことになるといえますが、下の■のところに現に十八日の記事
はあるわけです。下のように「
十八日」という日だけ入ったものです。
『(廿四)@天文廿一年壬子五月十七日、(この十七日のあとには文はなし)
一、■今川義元沓懸へ参陣。
十八日夜に入り、・・・・・(桶狭間戦前夜)・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
A天文廿一 {壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間戦闘序盤)・・・
・・・・・・・・・・
B天文廿一年{壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間終盤)・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』〈信長公記〉
この■のところに★を「十八日」として入れてもよいはずなのに抜いている、といえます。多分そう
したことに理由があり、それを入れるとここの「
十八日」を抜かねば日がダブルようになるからと思い
ますが、これはこの「十八日」の役割をみなければわかりません。
こうみてくると、このくだりの叙述体系がおかしいのに気付きます。@は枠組みとしては首巻の
(廿四)節のはじめにあり、ABはその中の「一」という括りの中にあります。この「一」は桶狭間の
勝利まで語っているものです。つまり戦いの次第を書いた中核的なところです。
テキストの脚注では@の日付に関し
「この日附は永禄三年(1560)庚申の誤記。またここでは義元がこの日に沓掛に陣したとあるが
〈三河物語〉ではこれは先陣のことで、本陣は池鯉鮒(愛知県碧南郡知立町)にあった。」
と書かれています。したがって義元が沓掛に参陣したのは、翌日十八日が合っていそうです。これは
@が「一、」の戦の記事の外にはみ出した位置にあって、@はそのあとに文がなく、何のために
日付を入れたのかわからない以上、それも無理からぬことです。さしづめ文のないところに
「今川義元知立へ参陣」
くらいの文があればよいと思います。勝手に入れるよりもこの際はやはり〈甫庵信長記〉との嵌め込み
が予定されているのではないかとみるのが第一です。甫庵は
『義元四万五千騎の軍兵を引率して、永禄三年五月十七日、愛智郡沓懸に
著きて、翌日十八日の夜に入り、・・・・・・・』〈甫庵信長記〉
と書いています。一応この文を上の〈信長公記〉の文にそのまま嵌め込んでみます。■の前に
先ほどの、四通りの表記の抜いていた一つ、★を入れて、できるだけ元の文に忠実にやってみる
と下のようになります。
『(廿四)@天文廿一年壬子五月十七日、(この十七日のあとには文はなし)
義元四万五千騎の軍兵を引率して、(永禄三年五月十七日)、愛智郡沓懸に
著きて、翌日十八日、
一、■(天文廿一壬子五月十八日)今川義元沓懸へ参陣。十八日夜(
の夜)に入り、
・・・・・(桶狭間戦前夜)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A天文廿一 {壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間戦闘序盤)・・・
・・・・・・・・・・
B天文廿一年{壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間終盤)・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』
太字が甫庵の文です。嵌め込むというが、(日付け)とか「(の夜)」というのは、宙に浮いている
恰好になりますが、これは、この二つには別の問題があるので、いい直した形の表現にしただけの
ことで「永禄三年」を、「天文三年」にしておまけに干支まで入れたものと、炙りだしたことがいずれ
問題になってきますし、「夜」の一つを前に持っていけば文章になりますが、こうしたほうが問題
点がわかっていいということです。
簡単に言えば(あとには文はなし)なっているところに義元の動作
「愛智郡沓懸に著きて」
という文が入るということです。ここに二つの沓懸が出てくることになります。
A、「愛智郡沓懸に著きて」〈甫庵信長記〉
B、「沓懸に参陣」〈信長公記〉
の二つです。沓懸は沓掛が前提になっていまので、一応二つの沓懸は違うかもしれないというのは
ありますが、この二つの沓懸が違うということが何となく判るのは、前後の文とか、布石とかによります。
A、の「愛智郡」は、今の「愛知県」の母体のようなものということですから、かなり大きな括りです。
竹中の菩提山城の住所はネット記事に拠れば
「岐阜県不破郡垂井町岩手」
というところですが、「愛智郡」はこの岐阜県不破郡よりは大きい感じで、この沓懸は不破郡と垂井
町の間のような範囲のものと取れます。
A、の沓掛は次の例もあるように平原という感じものでしょう。天文の織田信秀時代の、織田、今川戦
(小豆坂の戦い)の叙述に「原」というものがあります。
『駿河国今川義元・・・其の勢四万余騎、天文{壬寅}八月十日に三川国
庄田原へ
打ち出で・・・・・』〈甫庵信長記〉
〈信長公記では「沓懸」の登場は周到な準備の下にありました。
『熱田より一里鳴海の城、山口左馬助・・・・鳴海の城には・・・大高の城・沓懸の城両城
・・左馬助・・・大高の城・沓懸の城番手の人数多太々々(たぶたぶ)と入れ置く。』
桶狭間戦を語る上で、桶狭間周辺の今川の三つの城は、最低述べなくてはならないと思ったようで
少し前のここで紹介したと思われます。大高の城、鳴海の城、沓懸の城が二回づつあります。
大高城、沓懸城というものは知られていますが、ここでは大高台地にある城、沓懸の地にある城と
いう感じのものが出ています。
要は、沓懸に沓懸の地と沓懸の城があります。
A、の沓懸は、愛智郡という広いものとのセットなので、城ではないのは明らかで、岐阜県菩提山城
という書き方にはならないのと同じで、大軍団の動きのなかですから沓懸の広野という感じのもの
でしょう。これが17日にやってきたところです。
もう一つの「沓懸」は〈信長公記〉で準備されているように「沓懸の城」というもので、ここへ来たのは
18日ということです。
なお言葉使いとしては、広い場所へ来て陣を敷くというのは参陣という表現がよく、「庄田原へ」
というのと同じ「沓懸へ」がある「参陣」が妥当です。「著く」という場合は城の方がよいという感じです。
今川義元と義元の二つがありますが当然前の方が「今川義元」になる・・・・・・・・
というようなことでもう一回文を構成し直しますと
『(廿四)
永禄三年五月十七日、今川
義元四万五千騎の軍兵を引率して、
愛智郡沓懸(の地)へ参陣。
一、@天文廿一年壬子五月十七日
翌日、十八日(天文廿一壬子五月十八日)
■義元沓懸(の城)
に著きて、十八日夜に入り、
・・・・・(桶狭間戦前夜)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A天文廿一 {壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間戦闘序盤)・・・
・・・・・・・・・・
B天文廿一年{壬子}五月十九日」・・・・(桶狭間終盤)・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』
日付けだけ、しかも妙な日付けが、枠外にはみ出ているのは、叙述体系上極めて不自然なので
ショックを与えたといえますが、今川義元出陣という完結した文章になれば本来のこれが序となり
間違ったもの@ABは小項目に入ってしまうので、全く問題はなく、もう一つ「一、」というので
「山口左馬助」を述べた項があり、これはこの戦いのことに関することなので、体系上も問題が
なくなります。しかし、語りの中心であるのは(廿四)(一)・・・・(一)・・・というもので、これには
序文のないものがほとんどなので、それで経過をしるような形になるとうしても説明文がいると思い
ます。
一応ここで、天文の四っの年月日を一つの枠内に放り込んだということで問題がより鮮明に、浮き上がっ
てきた、つまり事実の把握しようとしている部分だから、一層目触りになってきたというのが、重要です。
追い詰めるということがまず解決の糸口となるのでしょう。
「一、@天文廿一年 壬子 五月十七日翌日、十八日
(★天文廿□ 壬子 五月十八日
A天文廿一□ {壬子} 五月十九日
B天文廿一年 {壬子} 五月十九日 」
この四とおりにおいて、十八日二つ、十九日二つ、の対となり、
「年」アリ二つ、「年」ナシ二つ、で、プラマイゼロ、(□は「ナシ」という命令で年の部分を消す)
壬子の大二つ、壬子の小二つ、でプらマイゼロ(小字は、違う!処理を変えよいう命令で一旦取り消す)
となって天文が削除されます。
したがってこの文は枠を設けることによりわかりにくくしましたが、これが目的を達成すれば取り払
えばよい、書きたいことは
『(廿四)
一、永禄三年五月十七日、今川
義元四万五千騎の軍兵を引率して、
愛智郡沓懸(の地)へ参陣。
翌日十八日
、■義元沓懸(の城)
に著きて、十八日夜に入り、
・・・・・(桶狭間戦前夜)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十九日、午刻・・・・・・・・・・(桶狭間戦闘序盤)・・・
十九日、旗本は是なり。是へ懸かれと下知あり。未刻東へ向ってかかり給ふ。
・・・・(桶狭間終盤)・・・・
一、山口左馬助・同九郎二郎父子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
となるのではないかと思います。
何故天文廿一年でないといけなかったのか、という問題はあとで出てくることですが、基本的に
こう書いてあれば誰でも一応天文廿一年はどんな年だったか、十年一昔として、その十年前の
天文十一年はどうだったか、ぐらいは調べてくれるだろうとみているということはいえることです。
それとは別にここで一つ重要なことが打ち出されました。相違の中の、類似ということに着目され
年代読みの決め手、両書における年代記述法則というものを出そうとしたということが考えられます。
すなはち
天文廿一年 壬子
天文廿一 壬子
天文廿一年 {壬子}
天文廿一 {壬子}
のどういう書き方をしても、結果的に永禄三年に宛てられました。仮に永禄三年かどうかはわから
ないとしても今川、織田のこの年の(太田牛一の)戦闘の書き方に使われたわけです。つまり両書
の年代については
「天文廿一年」
とフルに書かなくても、
「天文壬子」、「天文 {壬子}」、「天文廿一」
と書いてあれば天文21年、1552年を指す、ということがここでわかりました。これがわからないと
次の肝心の小豆坂の戦いの年代が確定できません。
再掲
『駿河国今川義元・・・其の勢四万余騎、天文{
壬寅}八月十日に三川国
庄田原へ
打ち出で・・・・・』〈甫庵信長記〉なわち日になったことはは
干支で表わそうが、これは天文では11年にきまっており、1542年に起こったものだ、というのがわか
ります。当たり前のことですが太田牛一は天文11年が1542年であったことは知っています。宣教師
に聞いたわけではなく、太安麻呂などが神武天皇即位の年をもって、いまでいう西暦元年に合わせ
せているからです。〈愚管抄〉に
「神武天皇 七十六年{元年辛酉歳・・・}」
があり、これは細字で、文中にある普通の大きさの「元年辛酉歳」とは意味が違うのでしょう。前者は
紀元前601年、いわゆる紀元二千六百年とかいう場合の「辛酉」の年を指し、後者は西暦の元年を
いっていると考えられます。在位76年は常識的に長すぎ、神武天皇の年齢も127歳はおかしい、
記紀の著者は、いい加減なことを書く、と第一印象で信用を落としている部分です。実際は三分の一に
して、25年でみてほしいと記紀の著者はいいたいのに、21世紀になってもそのことはいわないこと
になっていて、学者が引っ掻き回してその簡単なことにふれないという、漫画にもなかなか画けない
ストーリイのなかに今いるようです。
紀元前600、紀元後200で3:1、三分の一になった方の神武天皇の25年は(西暦)元年
からの200年の最初にあります。紀元前601の拡大神武天皇は別として、この普通の元年の神武
天皇を@とすると、神武天皇Aともいうべきものが201年からスタートいうことになるのでしょう。
昭和十五年1940年に紀元二千六百年の式典をやっていますが、1940+660=2600がその
根拠でしょう。
「紀元2600年、嗚呼一億の時来る・・・」というのは、2000というのが1940と60しか違っていないから
どうしても西暦が意識にあるのは明らかで1000とか3000は思い浮かびません。これは「600」年が
ポイントであるといっていそうです。あと60年辛抱して2000年になったら、もっとわかりやすい、2000年
に600年を足したら2600になるので、そこで式典をやるのが普通とは思うのですが、そうは思わなかった
ようです。60年の端数の大きさは紀元前600、紀元後200の3:1を逸らしています。
このときの1億は、一塊扱いで、みな国家のいうことを信じて祝いました。今は、荒唐無稽なことだっ
たと打ち捨てているので大人になったというのでしょう。しかし、日本が西暦元年の660年前を基準に
して歴史を語ろうとした、というのなら、スタートを決めようという大きな作業は、頼りない人間にしては
上出来だから、よほど評価しなければならないことです。その意味はどういう理解となっているのか。
2600年記念行事ではからずも出てきた2600年は大陸との調整に120年(60×2)いるとか、煙幕を
張るための端数の操作とか、三分の一の収束時期とその方法はこうされた、とかいうA4一枚の説明はほったら
かして、難しい話しばかりして、頼りない資料でここまでやっているというゼスチュアー続けているのが
戦後の姿です。いま年表みても西暦元年何もなしですが、(神武天皇即位)と書くと日本史の著者の
偉さが判るというものです。
太田牛一は、自分の著書では{壬子}と「壬子」は同じ扱い、年代の場合干支は年数
をそのままあらわす、といった、自分の著書における年代の不備(例えば天文の小豆坂の戦い)は
その積りで当たってほしいといった、また過去の歴史叙述も解説したのがこの年代ショックともいえます。
(3)五月十八日問題
五月十七日の今川義元の行動はこれで一件落着のようですが、そうはそうはいかないことがでて来ま
す。〈甫庵信長記〉がこの見解にケチをつけます。先ほど、はめ込みなど出来そうにない感じというの
が出てきた十八日がダブっていそうだという問題です。
A 『永禄三年五月十七日、義元四万五千騎の軍兵を引率して、愛智郡沓懸に著きて、
翌日▲十八日の夜に入り、
大高城へ兵糧を入れ、■爰に於いて軍評定しけるが、翌朝は
鷲津丸根両城を攻め干すべきにぞ定めける。』〈甫庵信長記〉
つまり「五月十七日」に「愛智郡沓懸(の地)参陣」についてはわかった、しかし十八日、沓懸(の城)に著
いたというのはおかしい、大高城(もっと織田方よりの海岸にちかいところ)へ行ったようにかいて
あるではないか、ということで覆されてしまいます。しかし
この文が不完全であるのは一目でわかります。軍評定をした場所が、きわめて重視されている(
爰に於
いて)、に関わらず、どこか判らないわけです。文脈では明らかに「大高城」です。しかし現実には
大高城はもっと織田砦に接近した南寄りにあり、丸根砦の近くにあります。現状から見て甫庵のこの文では
わかりにくいので、もう別の捉え方で読まれており、ネット記事、「沓掛城」をみても、沓掛城は義元が
軍議をした有名な場所と書かれています。もう確実な通説として扱われており、これで合っているから
いいじゃないのということになるのでしょう。大久保彦左衛門はここの「軍評定」は大高城とも解釈
しうると読んだから、〈三河物語〉に大高城で「長い軍議」があったことを入れたかもしれません。
「大高へ行く・・すこし長く相談・・大高城・・長い軍議・・こんな長評定・・・評定を長いあいだし・・」
があります。戦に軍議は付きもので、これを表に出す戦の叙述は、解釈を難しくするのでありが
たくなかったはずだから、そういえそうです。大久保は知立から大高城へ話を飛ばしており
沓懸城では他のことを書いています。 とにかく、■を大高と取れるという疑問自体がおかしい、位置関係
からこれは沓掛城に決まっている、当たり前だというのもあります。とにかく常識では「大高城」
ではないのは明らかです。ただここから、現代歴史学の見る目はたいしたものだ、甫庵はその
まま使えない修正しなければ駄目だということになってしまったのは駄目で、なぜ甫庵がこんな
文を書いたのかというということを見るのも要ることです。簡単にいえば■の戦評定の一文を、
沓縣に着きて、の後に入れるとうまくいくようです
これは、勝手に変えることだからと敬遠されそうですが、大久保の書き様も、荒唐無稽とほっておくと
わけにはいきません。大久保が沓懸城の■の文をおかしいと感じたというのは合っていそうです。
この様にいろいろやってみて、両書の文やらをみて綜合的に判断するのは、当然のことでそれで
合っていると思いますが、一方不完全な場合は、嵌め込んでみる
ということもやってきました、嵌め込むなんてことは通説でもないし、そんなことしなくてもよいというのは
その通りで両書をよくみて突き合わせたらよいことですが、二つの文を合わせて一つの筋の通った
文を作るというむつかしい作業をしていくと漏れがないということで、やってみる価値があるようです。
この不完全文書もなかなかのもので、「軍評定」のこともありますが、
愛智郡ー沓懸ー着く
の「沓懸」がどっちつかずで、「(大高)城」という具体的な「城」が突然でてきているので、二回目の
沓懸が城としたいというものに適うことになりそうです。
五月十七日・・・・翌日▲十八日夜
というのも「翌日」が、どっちつかずで、「翌日(十八日) ▲十八日夜」と読みたいということできまし
た、つまり「翌日」を単独で「十八日」としたいということですが、そうなるか、ということも周囲との相関
による微妙な表現となるはずです。
嵌め込んで読んだ方がよいというのは、これに対応すべき〈信長公記〉の叙述が名手にしては不完
ということで気付きます。太田牛一はここで軍議があったことは書いていません。この対応部分〈信長
公記〉では次のようになっています。
B 『今川義元沓懸に参陣。
▼十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助け(織田からの援軍)なき様に、十九日朝
潮の干満を勘がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候の由、
十八日夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候処・・・』
この文の一番の欠点は「大高の城へ兵糧入れ」であり、主語は今川軍でしょう。現在兵糧を入れ
たと解釈されて入るようですが、大高城の位置と、沓懸へ参陣という大きな構えとの間に落差があり
そう読むのは無理、というよりも文の内容が省略されすぎています。また「十八日」が多いのにまた
ここで「十八日夕日に及んで」というものが出てきていることです。
一方、ここで▲▼の太字の文、みごとに似た文であるのが関連性、操作性に気付くヒントといえるでしょう。
甫庵「▲十八日
の夜に入り、大高城へ兵糧入れ、」
牛一「▼十八日夜に入り、大高
の城へ兵糧入れ、」
どちらも「の」「の」がポイントです。
○▲▼の文に加えて、あと二つの文ができる
「十八日夜に入り、大高城へ兵糧入れ、」
「十八日の夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、」
太田牛一と小瀬甫庵はこの四通りの文を前提として文章を選択したといえる。この二つより
まぶした感じの文にしており、連携はより密であることがわかる。
○「十八日の夜」と「十八日夜」とは違うといっている。話し言葉としては、相手の意向を汲む、
とか、状況判断によって咄嗟の解釈をするから同じになるかもしれないが、書かれた場合は
違うと思われる。
「十八日夜」というのは「十七日」「十九日」など他の日を意識した遠くから眺めた時間帯と
いえるが「十八日の夜」となると「十八日の朝」とか「十八日の日のある間」などとの対比が
入ってくると思われる。十八日に身を置いている語るということになる。
「十八日夜」は重点が日か夜かわかりにくいが、「十八日の夜」は夜に重点が移る、物語は
「十八日夜」で話し言葉は「十八日の夜」となるようである。
また大高の城と大高城は違う。大高の台地にある城は大高城だけとは限らない。
二書の間にこういうニュアンスがある類似のものがあり、十八日がダブっているような感じのものです
から、嵌め込んでみるとこのようになります。
A 『永禄三年五月十七日、義元四万五千騎の軍兵を引率して、愛智郡沓懸に著きて、
翌日▲十八日の夜に入り、大高城へ兵糧を入れ、爰に於いて軍評定しけるが、翌朝は
鷲津丸根両城を攻め干すべきにぞ定めける。』〈甫庵信長記〉
B 『今川義元沓懸に参陣。
▼十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助け(織田からの援軍)なき様に、十九日朝
潮の干満を勘がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候の由、
十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候処・・・』
A+B
『 永禄三年五月十七日、
今川義元四万五千騎の軍兵を引率して、愛智郡
沓懸へ
参陣。
翌日
義元沓懸(城)に著きて、爰に於いて軍評定しけるが、
▲十八日の夜に入り、大高城へ兵糧を入れ、翌朝は鷲津丸根両城を攻め干すべきにぞ
定めける。
十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたより、
▼十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助け(織田からの援軍)なき様に、十九日朝
潮の干満を勘がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候の由、
(十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたより)御注進申し上げ候処・・・』
▲の文章は今川義元が軍議で決めた内容で、これは判りやすいと思います。ただ固執するわけでは
ないことですが〈信長公記〉の「▼十八日夜に入り、大高城へ兵糧入れ」の文を上にもってきたい、入れ
替えをしたいと思います。「十八日の夜」は「十八日」「の夜」と分解できないので、分解できる方、
「十八日」「夜」を持ってきて、
『永禄三年五月十七日、
今川義元四万五千騎の軍兵を引率して、愛智郡
沓懸へ
参陣。
翌日▲十八日
義元沓懸(城)に著きて、爰に於いて軍評定しけるが、
夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、翌朝は鷲津丸根両城を攻め干すべきにぞ
定めける。
十八日に沓掛城について、軍議があって、その夜と翌朝の行動を決めた、元文も意味があって
十八日の(朝に)沓掛城に入る、十八日の夜に行動する、という十八日の長さのようなものを出してい
感じがあると思います。また味方の城と敵の城との区別がある方がよい、ということもあります。
下の▼の文章は(・・・・・)のものを上に移動させましたが、そうしなくても文意はかわりません。
つまり、十八日の夕日のきれいなときに現地司令官から注進がはいったということです。その内容は
義元の出した結論
十八日の行動=十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、
十九日朝の行動=助け(織田からの助勢)なきように、十九日の朝塩の満干を勘が
取手を払ふべき
という趣旨のものです。 元文において
「
十八日夕日に及んで」
「
十八日夜 に入り」
の対置があります。夕日と夜の違いです。前者は「日」のあるうちという意味で、後者は暗くなって
からという意味のものでしょう。夕日と夜は紙一重のことですから、どっちも暗くなってからの意味ではないか
ということにされてしまいますが「十八日」に身を置いてミクロで捉えますと、この二つはちょっと違って
きます。第一二つは表記違います。芭蕉が見れば前者は
「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」〈奥の細道〉
の「あかあか」のときです。この解説では
「真蹟自画賛の中には赤く丸い太陽を背景に萩や薄を画き添えた図柄のものがあり、
あかあかとはやはり夕陽のさまであろうと考えられる」
とあり、また正岡子規は
「あかあかと日の入る山の秋風」
とするほうが「或いは可ならんか」と述べているようです。(〈芭蕉全句〉)
夕日あかあか、夜は黒々で、この対照が際立って描かれていますから、時間的には十八日のうち
佐久間らが信長に注進した時刻が、夜大高城への兵糧入れよりも、先きなので、兵糧を入れたという
実績は報告できないことになり、したがって▼以下の文章は義元の
指示内容、今川軍は十八日夜
こうする、19日朝にはこうしようと考えている、ということを
信長に報告したといえます。
説明の仕方がまずいので何をいってるかわからないということになりましたが、いいたいことは
義元の会議での指示内容がキャッチされて信長に報告された、ということを太田牛一が言っている
ということです。短い文章でそんなことがいえるか、ということになりますから細いところを見ない
としょうがないのです。もちろん介在した人物がわかっていての話です。
これで少し文句が出そうなのは、入れ替えられるというならば、「夕日に及んで」を大高城の兵糧入れ
の時刻にすれば、今川軍の実績の報告をしたということになるではないかということです。つまり
「▼十八日夜に入り(実際は十八日の夜に入りとしたい)佐久間大学・織田玄蕃かたより、
(今川軍は)夕日に及んで、大高の城(大高城としたい)へ兵糧入れ、
十九日朝、助け(織田からの援軍)なき様に、潮の干満を勘がへ、取手を払ふべきの旨
必定と相聞こえ候の由、
御注進申し上げ候処・・・』
▼の、十八日の夜に入りを、報告の時期とし、その前(夕日のころ)に敵は兵糧をいれた、明日以降
の予定だけを報告したというものです。
これは結論では採用できませんが、事実義元の決定事項だから兵糧が入れられたのは確実な
ことで太田牛一はそうとってもらってもよい、事実を表わしている、というのはあると思います。しかし
これは嵌め込んでやっていればその段階で気付くことですが
『
十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたより、・・・・・・』
太字が引っ付いていて、「十八日夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃・・・」と句点が入って離れて
はいないので無理だ、ということです。それでは何故、作戦の報告でないといけないのかということ
ですが〈桶狭間〉の冒頭にいっていますように、桶狭間のくだりは、織田信長がどう戦おうとしていたか、
ということを述べて実際の進行は、それを語っているに過ぎないということになっています。〈桶狭間〉
では
『太田牛一はこの戦いの経過を正確に叙述しました。彼はこのなかで作戦はいっさい述べていま
せん。しかし経過と思われているそのものが信長の戦略の叙述だったわけです。』
太田牛一は、戦いの計画の部分を重視しています。実戦は、ハズミが生じて違った結果になるこ
とは確実ですから、どうもっていこうとしたかいろんな意味で重要で、ここで心魂をすりへらしている
からそれを述べるのが一つの義務です。例えば、結果の大勝は、案の内ではなかったということも
判るかもしれないし、戦死者のことも織り込まれて組まれていることもわかるかもしれません。
だから今川義元の計画、その計画内容を伝える佐久間らの報告というものが、非常に重要になります。
行動実績ではない予定の報告とは言いながら、それで緊迫した前日の夜と翌日の朝の全体が最小
の語句で述べられたといえます。
もう一つ重要なことは、義元の決定事項
▲十八日の夜に入り、大高城へ兵糧を入れ、・・・・
佐久間報告
▼十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、・・・・・・
の二つが、一字違い、話し言葉としては同一と言ってもよいほどのものであるということです。しかも
十八日当日の決定、夕日の報告
という短期間な間における両軍の情報の共有があることです。つまり、今川の軍議の情報が織田に伝
わった、今川会議の出席者から織田は情報を入手できていたということが重要です。したがってそれを
いいたいから両方実績でない、計画予定という積りで書かれたということがわかります。
以上が嵌め込みが解決する、困難と見える「十八日」の問題です。
(4)「五月十七日」問題
桶狭間の記事枠外で「(廿四)天文一年壬子五月十七日、(文言はなし)」がありました。こう
いう大上段にふりかざした年代の記入例は首巻では余りありません。桶狭間の一節のかなり前
ですが、同じ天文なので、何か出てくるかもしれません。
『天文弐十弐年{癸丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年の事に候。』〈信長公記〉
があります。これに関しては
『織田上総介信長公十九の御年・・・・・・』〈信長公記〉
『織田上総介信長、御年十九の暮八月、・・・・・・』〈信長公記〉
の合計三つがあり、一見して四月十七日にコダワリがあります。つまりこれは信長の生年月日を表わした
ものではないかというのは既述です。桶狭間で大上段に振り上げたのは一つはこれと関係がありそうです。
まず「信長」の表記ですが
「織田上総介信長
公十九の御年の事」
「織田上総介信長公十九の御年、」
「織田上総介信長、御年十九の暮八月」
が出たから、もう一件
「織田上総介信長、御年十九、・・・」
というのが「上総介信長」が出てくる所に入れてもよいはずで、これは「信長公」と「信長」という
二つの表記のことをいっている面もあります。表記が二つだから、二人といえますが、この年「19」と
いうのは同一人であることを示しています。「信長公」を消している「信長」という表記があります。
「信長公」というのは尊敬語というものであるということもいえますが、実際の引き当て問題のない場合
同一人ともとれるかなと、わからないようにしておく部分も必要です。
桶狭間の叙述で
「(廿四)天文廿一年壬子五月十七日、(文言はなし)」
というものも、枠外でちょっと引っ掛かりましたが、ここの
「天文
弐十弐年{癸丑}四月十七日、」
太字の部分の表記が特に不自然であるといえます。この二つは意識して対応させた思います。
その一つは、22年は21年の翌年だということで、これも年表記はおかしくても干支は正確だと
いうのがあると思います。五月十七日と四月十七日は一ヶ月違いだといっているようでもあります。
今織田信長の生年は1534とされています。ここの天文22年は1553年でこの年19歳ですから、
この「十九」の御年というのは信長の満年齢ということになりそうです。
1553−19=1534
信長桶狭間27歳といわれているのは1560−27=1533でこれは1534と違いますから数えの
ようです。
ただ先ほど「御年十九の暮八月」がありましたので、八月で19歳ですので1534の4月生まれとすると
19歳4ヶ月となります。桶狭間、五月十七日と誕生日四月十七日は一ヶ月違いでおもしろく織田
信長は桶狭間戦、26歳1ケ月であったといいたかったのかもしれません。そうすると逆に四月十七日
の誕生日というのは合っていそうです。要は太田牛一は満年齢の数え方があるのも、それが合理的
なのは知っていた、〈吾妻鏡〉でも実年齢を例示したものがありました。数えを主体として採用した
のは、年代と同じように煙に巻く式の効果大であろ叙述の巾を広げたものといえそうです。
(5)小豆坂の戦い
桶狭間で天文21年の表示がされて驚かされましたが、天文を桶狭間に持ちこんできたのは、小豆
坂の戦いと桶狭間の戦いを関係付けようとしたという点もあると思います。どちらも今川織田戦であり
今川義元はそれぞれ四万、四万五千の大軍を率いてやってきたという類似はありますが、それに
しては小豆坂の叙述は少ないので、両度の戦いの内容比較のようなものではない、といえます。
年代の話に関するものは一部ふれましたが、この二つの戦い(1542と1560)の18年間の間隔
(一世代)を利用して語ろうとするものなどがあるようです。
年代のことに関しては〈信長公記〉の年代の記入の省略の問題が根底にあります。
〈信長公記〉では端(はな)から年代の記入がありません。なぜか首巻の出だし第一節は
「(一)去程(さるほど)に尾張八郡なり。・・・・・・」
からスタートしています。まあこれはいつかわかりません。織田信秀をとりまく状況を簡単に述べている
だけ一切何時ごろのことというのがありません。年次記入ゼロの一節で、「或時」という語句が一つ
あるだけです。
はじめて日付けが出てくるのは、次の文、第二節のはじめですが、これが何と「月」から始まって
おり「年」がありません。
★『(二)八月上旬、駿河衆三川の国正田原へ取り出し、七段に人数を備え候。』〈信長公記〉
これは小豆坂の合戦の一節ですから首巻といえども、どうしても年が要ります。これではどうみても
歴史書としては、信頼できるものとはいえません。しかるに〈甫庵信長記〉では
『今川義元・・・・其の勢四万余騎、天文{壬寅}八月十日に三川国生田原(しやうだはら)
へ打出で・・・・』〈甫庵信長記〉
となっていて、チャンと述べられています。この「八月十日」は、〈信長公記〉の「八月上旬」に入る
から、カスッテイル、まあ同じ時期を別の表現をしたといえそうです。この{壬寅}の年は天文11年
(1542)です。これは既述の通り〈信長公記〉桶狭間における4通りの天文の日付けは、当たり前の
ことですがどれも天文二十一年を表し、どれにも表現は違っていても壬寅が入っていました。
天文21年=壬寅、{壬寅}
でしたから、甫庵の「天文{壬寅}」は1542年となる、という解釈が出来るというのが桶狭間天文の
登場の一つの狙いということをいってきました。これは拡大してもよく太田牛一の世界では、年代を
表わす干支は絶対的なものとして採用してもよい、年代の場合は普通の大きさの字と細字で書いた
ものは同じという扱いでよいいうことになるのでしょう。人名とか地名の場合は、往々の場合か、全的
かは別にして意味が違っています。たとえば
「太田道灌」「太田{道灌}
の場合などです。太田三楽も、いはゆる三楽と、無楽、有楽などに関係のありそうな「太田氏」の
存在もありうることになります。
ここまでくどくどと述べましたのは「小豆坂合戦」について実際に年表には書いてありますが、これは
起こらなかった事件という説があって、一般には確定してはいますが専門的にはどうかというのが
現にあるからです。年表によれば小豆坂の戦いは
「天文11年(1542) 壬寅 八月 今川義元、三河小豆坂で織田信秀に敗れる(甫庵、信長記)」
「天文17年(1548) 戌申 3月 今川義元・・・織田信秀と三河小豆坂に戦う(三河物語)」
と二回あったことになっています。一応通説と云うものでしょう。まず〈甫庵信長記〉の{壬寅}が
採用されています。ネット記事を見ても、どれもこう書いて、通説として出来上がっていてそれを書かれ
ている感じです。これは〈信長公記〉の「八月上旬」とあるのも同じ「8」だから何となく支援しているので、
そう取るのは妥当ですが、信頼できる〈信長公記〉には年を書いてないから、何か異説があってしかる
べしと思っていましたが、ウイキペデアでは上の方については
「一説に12月」
というのがありました。また
「この戦いは織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田の勝利に終わった
とされる。しかしながらこの第一次合戦については虚構であるという説もある。」
となっています。こういうのが欲しいわけで固めていくには、確認することがまだある、ということがわか
ります。
またテキスト〈甫庵信長記〉の脚注にはこの甫庵の「天文{壬寅}」についてのコメントがあります。
これをみるとたいへんです。
「天文{壬寅} 天文十八年(1549)」
となっています。天文の壬寅は間違いなく天文11年です。これは年表をみても載っていることです。
脚注の単純ミスということも考えられますが、はっきり1549と書かれており調査研究の結果も小豆
坂の戦いは天文十八年の「己酉」の年、つまり、{壬寅}を「己酉」に変えて読むべきだということ
かもしれません。
それなら小豆坂の戦いは「天文十八年」一回ということになります。実際天文十八年には
「(11月)今川義元、三河安祥城に織田信広を攻め捉え、松平竹千代と交換」
という記事があり、17年の翌年にも義元は攻めてきています。すなわち第一次が虚構だというので
あれば天文18年一つだけというのもありうるということになります。天文17年という〈三河物語〉も、大久保
彦左衛門は、三河では小豆坂の合戦といっている、と書いており、〈信長公記〉と同じように17年とは
書いていないということなので、問題ではあります。
なおここで、間違いかどうかは別として、このお蔭で、天文十八年を見るようになりますが、ここに
たいへん重要なことがた書かれています。
『天文{己酉}二月中旬の比より、備後守疫レイに冒され給ひ・・・三月三日に・・・逝去し給ふ。』
となっています。この「己酉」は1549、天文十八年です。〈信長公記〉では例によって年の記入が
なく、「三月三日・・・・御遷化。」となっています。脚注では「天文廿一年」(1552)とされています。
年表では天文廿年(1551)となっておりまちまちです。これは甫庵の己酉を使うことが合っており
織田信秀の死去は天文十八年であったというのが、桶狭間の布石でいえることです。亡くなった日
と葬儀との間が三年あったということになるのでしょう。とすると、困ったことが出てきます。
天文十八年の今川・織田戦は、織田信秀は確実に一方の当事者ではないということになります。
ここで登場するのは「織田三郎五郎」という人物であり、織田一族のことはあとまわし、としていって
きていると、この小豆坂の問題が浮いてしまうことになる、なによりもこの人物比定ができないという
ことになってしまう。この人物二人かどうかも含めて難問のひとつといえそうです。
しかし天文十八年の小豆坂の合戦は否定できません。これは「天文壬寅」(天文11年)で結論
はでているいわゆる第一次のあとの合戦、まあいえば第二次ともいえるものの合戦のことです
その以前に、戦い自体があったことは〈甫庵信長記〉に
「小豆坂合戦の事」
というタイトルそのものがあって何故そうよばれるか、小豆坂という場所で合戦があった、七本槍と
謳われる勇士が出たということを書いているからはっきりしています。また年代が、確実な数字のある
ものからいえば、〈甫庵信長記〉では、おかしいことに
「天文十五年吉法師十三の御歳・・・」
の文が出てくるまで、「十五年」というような年数が出てきていません。それまでは「天文{壬寅}」
が出ているだけですから、天文{壬寅}は、天文15年より前であるのは明らかです。それより
古い年号は「建久七年」だけですが、年数が入っていますから年数表示にすべきだという意識が
あることは事実です。書いている順番は
建久七年
天文{壬寅}(「今川義元・・・小豆坂へ押し寄する・・・」
天文十五年(「吉法師・・・」)
となっています。〈信長公記〉では「(三)吉法師十三の御歳(天正15年)・・・・」の前の「(二)」の
一節が小豆坂の記事ですから、小豆坂の戦いは天文11年は大枠では合っていそうです。もちろん
間接的なものからいえば十五年まで延ばさなくてもよいのですが近代以後の科学的合理的な
歴史の見方に慣れている人を満足させられないので確実という意味でいえばこのあたりです。
大久保彦左衛門も「三河の小豆坂の合戦」の年を、この間接方法で語っており「松平広忠(徳川家康)
の父)の死」を基準に述べており、
「安祥(今の安城)に弟の織田三郎五郎殿をおき、弾正之忠は清須へ引き上げられた。三河で
小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ。
大久保忠俊と田中義綱の会話
広忠は
その年二十三にて病死なさったので・・・・・・」
と書いてあり、テキスト脚注では「病死なさった」について、
「天文十八年(1549)三月家臣に暗殺されたとも伝えられる。」
とあり、「その年」は広忠を媒体として「天文十八年」ともなりうるものです。年表では、天文十八年
己酉三月に「松平広忠没(24)」とされており、結局は通説の17年も間接的ということです。
。
現代からいえば、年代があやしいというのはおかしい、基本的なことではないか、ということで
批判しやすく、大久保けしからん、といって切り捨てますが、まあこれは1年くらいのことです。実態
面からみて通説でもどうしても納得できないことは、ここぞというところでもかなりあります。
秀吉に子がなく最晩年に二人の子に恵まれた、というのは、赤ん坊を借りてこれる、権力者
だからそれができるし隠せる、とみる方が合理的です。現在の企業活動、政治行政の透明度は
昔のそれと比較にならないといういうほどのなかでも起こっている、過去終戦の時期のことさえ
、密約のことさえほとぼりが冷めるまで隠してしまえで通っている、そういうのは同じでしょう。
織田信秀の死がこの時期にあったら、隠し通すことはありうる、というのは考えられることですが
それが現に示されると、それはないといいたいことです。政府の公式発表ではないか、という
信頼感があります。昔は今と違いますから一概に言えないことです。まあ大久保のこれだけみても、
「弾正之忠」に「三郎五郎」という弟がある
というのはどこに書いてあるのか、という疑問も出てきます。
織田信秀の弟は、「織田与二郎」「織田孫三郎」「織田四郎次郎」「右衛門尉」であるのは、はじめに
両書に書いてあることです。反面テキスト人名注をみれば、三郎五郎
「織田信広 三郎五郎。信長の別腹の兄、津田を称した。大隅守。」
となっています。すると「弾正忠」というのは、織田の今の当主ではないか、信長当主と仮定して
考えてみればどうなるかというのもでてきます。表記で読むということは、極めて接近した段階の
仮説を立てられる、また細部積み上げたものの確認ができるということになる、実際は積み上げたもの
によるわけでこれが主といえますが、ダイナミックに
検証方法がかわるのは、何か根拠があると確信
できる仮説があることにもよります。表記が両用の働きをするようです。
これを信長と解釈すれば天文十八年風雲の年というのが予感
できますが、これも天文壬寅、天文己酉の二つの細字での表現がみちびくところのことです。つまり
天文十八年説はたいへん鋭いが、両書ではそれを小豆坂合戦とはいっていません。
天文11年
は今までみてきたような積み上げと壬寅で合っている、名前もチャンと「小豆坂合戦の事」とい
う題名が付いているのでそれをなかったとするように解釈を変えるのは、おかしいと思います。
そうはいっても異説を無視することは出来ません。
いずれにしてもこういうことが起こったのは、太田牛一が
「八月上旬」
と書いているだけで、年をはっきり書いていないことにより起こることです。積み上げだから、異論は
消えますが異論の出た理屈のもとをキャッチできればこれに越したことはありません。そうすれば
筆者のいいたかったことの支援材料として逆にやくだてることにもなります。
「天文11年の十二月説」
がネット記事に出ていました。これはいうまでもなく、天文11年は許容しているということですから
〈甫庵信長記〉の{壬寅」というのはどうしようもなく認めたということにもなります。あと十二月が何故
出てきたをさぐればよいことです。これは結果的に八月と言っているのはすぐわかります。太田牛一は
『織田上総介信長、御年十九の暮八月、・・・』〈信長公記〉
これは 「織田上総介信長公十九の御年、」という表現もありました。これは力点が二つある
からこういう表現になったものでしょう。一つは「信長十九歳」というものに重点をおいた場合で
その19年の「暮」、多少満年齢を意識した感じのものです。これは
「十九の御年八月暮れ・・・」
の意味その読み方をするのが普通と解説した、といえます。
(十九の)年の暮は十二月なのに八月というのはおかしい、という人物が出てきたのでしょう。
これを認めれば、太田牛一の「八月上旬」
は十二月のことになるではないか、とまぜ返したといえます。この説を出した人物は相当のものではない
かと思いますが、芭蕉にこういう表現はありました、「弥生も末の七日」でこれは脚注では、三月二十七
日とありましたので筆者は四月七日は確実にない、と説明してから進めなければならないといっていま
が、ここのそれと同じで19歳の暮、というならばどうしても満年齢の数え方を前提とすることになります。
したがってこの八月があったため満年齢の話ができたということ、また19歳の年は天文二十二年と
思われ、この年は天文弐拾弐年というおかしい表記が出てきており、これは、桶狭間の天文廿一を
受けている、またこの「弐」が他で利用されるというたいへん大きい年でもあります。
天文11年否定説が出てきたのはなぜかということについては、太田和泉守の小豆坂の叙述が、
あまりに目的的に利用しすぎたため、事実ではないのではないかという文句を出したいということ
と思われます。それについては以下二つだけ触れたいと思います。第2節で、はやくも、いいたい
ことが出てきた点が重要で、無駄な一章は全くないことを示すものです。
(6)正田原
再掲、小豆坂の戦い
『(二)八月上旬、駿河衆三川の国正田原へ取り出し、七段に人数備え候。』〈信長公記〉だい
『天文{壬寅}八月十日に三川国生田原(しようだはら)へ打出で・・・・』〈甫庵信長記〉
ここで今川義元は「正田原」に出てきました。〈信長公記〉テキスト脚注では
「正田原は庄田原で三河額田郡作岡の付近」
となっていますから、「大屋」の「甚兵衛と云ふ庄屋」の「庄」の字が実際のようです。これからみると
「庄田原」(実際)
「正田原」(信長公記)
「生田原」(甫庵信長記)
という炙り出しがされているのがわかります。著者の頭の中には、異字を出すことによって何かいいたい
ことがあるのだろうというように見るのは普通でしょう。これは「しやうだはら」という読みですから
「小田原」
もあります。湯浅常山は「大関夕安(ルビ=せきあん)」と「小田原」を結び付けました。
『那須・・・大関夕安・・・宇都宮・・・那須・・・那須・・・大関夕安・・・宇都宮・・・・夕安・・・
宇都宮・・・・小田原・・・・那須・・・那須・・・宇都宮・・・小田原・・・那須・・・・小田原・・・』
那須は〈信長公記〉の那須久右衛門、〈奥の細道〉の那須、大関藩の黒羽につながり、、宇都宮は
宇津宮貞林、立川三左衛門、宇津は丹波宇津氏、宇津呂丹波・・という中での小田原との結びつき
ですが「小田原」は「お だわら」ですから「小谷」は「大谷」、「小田垣」は「太田垣」と同じ理屈で
「大田原」
に自然に変換されるでしょう。これは「太田原」でもあり、「太田」を使った効果で人名、地名などに
つながった太田はここで「田原」「俵」に繋がってきます。米百俵の「俵」です。〈曾良日記〉では
「鉢石・・・・奈須・太田原・・・・・今市・・・・五左衛門・・・」
「沢村・・・・沢村・・・太田原・・・・・太田原・・・・黒羽根・・」
があります。「今市」は「今令」であり、「沢村」は「才」「佐和」「宅」、後年では「朱」も付けられました。
〈信長公記〉の「大屋」の「甚兵衛」という「庄屋」は〈甫庵信長記〉の
「大田甚兵衛」
という表記と結び付き
大田=甚兵衛=大屋
となります。こうなれば「庄屋」ー「大屋」という「屋」が、「大」を介して「田」=「屋」にも行き着きそうです。
「庄田原」→「小田原」→「大田原」→「太俵」
「庄田原」→「庄屋原」→「大屋原」→「大屋俵」
となります。すなわち
○庄田原は大屋、庄屋の「屋」+「俵(田原)」で「俵屋」が出てくる
○正田原といえば「政」の「俵」である、
○生田原といえば「牛+一」の「田原」で、「牛一俵」が出てくる
田原といえば、この他に、〈信長公記〉では、伊賀陣で「東田原」「西田原」、本能寺で「宇治田原」が
出てきます。東西の田原は、「東」は「藤」、「西」は「斎」でもあり、この陣には「甲賀衆・滝川左近・
蒲生忠三郎・惟住五郎左衛門・・・・堀久太郎」などが登場します。蒲生氏郷の先祖は
「俵藤太秀郷」(平将門を破った武将)
であることは知られています。ネット記事では「田原藤太」という表記もあるようです。
宇治田原の宇治は戦国の宇治川先陣争いのあったところで太田和泉守が登場します。
「大俵」を念のためネットでみますと「会津高田町」の「大俵引き」の行事がでてきます。ネット記事
「会津高田町勢要覧」によれば、ここは森蘭丸の子孫(ネット記事では孫が確定的のようである)と
されている服部安休と、会津太守保科正之の接点がある土地です。「日本記神代巻」の講義を正之
が安休から受けたそうです。保科正之は、秀忠の隠し子、家光の弟とされていますが、この「三公」
「会津の神公、水戸の義公、備藩(池田)の芳烈公」として讃えられている人物です。三人並べるのは
共通のものがあるからでしょう。
〈信長公記〉の
「星名弾正」(これは脚注ではのち徳川家に仕えた保科正直とされる)
の「星」を冠した名前だから、保科正之が服部安休を登用したのは必然があるのかもしれません。
とにかくこの二人の土地で残っている大俵の行事は、会津蒲生の地と重なって俵藤太、太田俵を
呼び出そうとするものといえそうです。
熊本玉名の大俵ころがしの行事も、熊本、加藤清正、細川忠利、「玉」と重なると無視できないと
いえるのでしょう。
要は戦場の名前ににそんな「俵」のような不純なものをおり込むなどのことは、ありえないといいたい
人が出てくるのは避けられませんが、しかし三つとも表記を違わせたのはなぜかという説明は
要ります。
人名を当たらなければその答えは出てきません。
要は、「俵」は、この小豆坂の戦いに登場する人物に関係があるといっているようです。太田和泉が小豆坂
の戦いに顔を出すのか、ということになりますが、年代的には可能だが状況ではどうなのか、次第に
よっては小豆坂の合戦を別のことに利用するために出してきたのではないか、という疑問が虚構説
に繋がりやすいと思われます。小豆坂合戦は、太田和泉守が
「中野又兵衛(幼名は「そち」)
で登場してきます。小豆坂合戦の人名は、古い時代のことで名前に馴染みがない、述べ方が整然と
していない変な名前の人物が入っていることなどから思い出せるところから適当に書きなぐった、両書
間に連携はないだろうとして読むのと、よく考えて書かれたと読むのととくに大きな違いが出るところです。
(7)小豆坂合戦の群像
小豆坂の一戦を飾る人名全体は下の通りです。A、B、C、Dに区分したのは説明をしやすいように
線を入れただけのことです。登場の順番なっています。全体人数は左15人、右は22人で、小豆坂
七本鑓というのはCゾ−ン、■のあるところ@〜Fの番号が入った人物です。
■の人物に年齢が入っており、これが三兄弟で太田和泉が「又兵衛」で出ているものです。
逆にいえば、年齢が入っているから三兄弟といえます。
7 全体の数が左右7人違うのは、Bゾーン四人衆が甫庵だけが書いていて、七本鑓のところ〈信長公記〉
が四人しか書いていないということによります。
小豆坂合戦の人名表
区分 〈信長公記〉 〈甫庵信長記〉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Aゾーン 織田備後守 織田備後守殿
織田与二郎殿
織田孫三郎殿 舎弟孫三郎殿
造酒丞(さけのじよう)
備後守殿、御舎弟織田与次郎殿
織田四郎次郎殿 同織田四郎次郎殿
織田造酒(サケノ)丞 □□□
▼赤河彦右衛門(造酒丞関連とみる)
▼神部市左衛門(同上)
内藤勝介 内藤勝介
▼河尻与四郎「十六歳」(勝介関連とみる)
▼永田四郎右衛門(同上)
那古屋弥五郎 那古野弥五郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Bゾーン ◎鑓武藤小瀬修理大夫
◎河崎伝助
◎大窪半介{俗異名ハンカイと云)
◎土肥孫左衛門
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Cゾーン @織田孫三郎
A織田造酒丞
★下方左近 ■B下方左近{其の時は弥三郎十六歳}
C岡田助右衛門(子は助三郎)
★佐々隼人正 D佐々隼人正
★佐々孫介 ■E其の弟孫介十七歳
★中野又兵衛 ■F中野又兵衛十七歳(そち)
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Dゾーン ▲赤川彦右衛門
▲神戸市左衛門
▲永田次郎右衛門
▲山口左馬助
15人 22人
大枠からみた感じでいえば、
Aゾーンが太田和泉守世代の先代、
Cゾーンが当代の三兄弟中心のもの
Dゾーンは中野又兵衛のあとの羅列なので、Cの次世代、「又兵衛」(太田和泉守)の子息四人
を表わすといえます。これは結論でもあります。
Bゾーンは馴染みのない人物群が配置されており、A・B・Cゾーンの人物に付着してそれぞれに
独自の働きをさせる世代中間子的な存在といえます。ちがった能面、衣装をもち場合に応
じて相手にそれを貸したりする、役者というようなものでしょう。すなわち、このBゾーン◎四つは、四つ同志で、
Aゾーンの▼四つ、
Cゾーンの★四つ、
Dゾーンの▲四つ
と対応していそうですから、その特徴を示すことに使われそうです。
またAゾーンの▼四人物と、Dゾーンの▲四人物とは表記が極めて似ているということです。その中
で一つ違っているのは重要でしょう。▼▲において
▲河尻与四郎「十六歳」=山口左馬助
ということになりますから、炙りだされた意味があるはずです。この「山口左馬助」は桶狭間の主役の
一人で、〈桶狭間〉〈戦国〉でも取り上げざるをえませんでしたが、まだ、なぜ織田を捨て今川に付いた
のか、孫世代の山口左馬助はどう取るのか、などの謎が残ります。これがわかるのはこの炙り出しかも
しれません。なにより「古田織部」の「本巣」の「山口」はこれしか心当たりがないわけです。
また、この「河尻」の年齢記入は三兄弟の枠にも入れてもよいほどの人物でもあるという意味があり
そうですから、例えば明智三兄弟に義兄弟があるのか、ということなどが出てきます。要は曰くありげな
人名配置ではないかと感じさせようとしている、のが汲み取れるということです。
(8)年齢の記入
ここで三兄弟の年齢が出てきましたが、年齢を書いても基準がわからなければなんともならない
はずです。西暦何年で何歳かというのが、年齢の意味です。甫庵の小豆坂合戦
「天文{壬寅}八月十日」
というのは不確かであるはずはなく、これは天文十一年(1542)です。これは全体を通しであたって
みて、また戻ってきて検証できることでもありますが、ここでもそれが出て来そうです。太田和泉守の生
まれが、大永七年(1527)というのが一応通説となっていますから、それでやってみますと、
1542−1527=15
となります。中野又兵衛17歳ではニアリーイコールとなっています。17歳は原則の数えのカウントの
ようですから、合っているといえます。こういうのは数えというものの採用による許容範囲の拡大という
ものがあるので、濁せるというものがあって、著者にとってはやりやすい方法といえます。ただ大永
26年説も出てくれば、それも捨てがたいということはいえます。年齢と{壬寅}の組み合わせは、合って
いそうだということになると相互に証明しあったことにはなります。
第一次の「小豆坂の合戦」は天文11年で問題ないはずで、甫庵がそう名付けた合戦ですから、
これは虚構だというのはおかしいのですが、こういう説が出されたのが重要で、一見して感ずる
おかしい記述があるわけです。三兄弟がこの合戦で武名を挙げ得るはずがないではないか、第一
織田信秀に仕えているかどうかわからない、与力大名の子息だから出てきたということかもしれないが
『小豆坂の七本鑓として、児童の口まで止(とどま)りけるこそ勇々(ゆゆ)しけれ。』
〈甫庵信長記〉
というようなことはことは出鱈目だ、この分では全体もインチキ臭いという方が合っています。
それは、Bゾーンの見慣れない名前の人物をみても感ずることです。講釈師の話に出てくるような
ものです。特に
「大窪半介{俗異名に樊膾(はんかい・月篇は口篇)と云}」
とある人物は、「大窪」は「大久保」をもじってそうですが、漢楚の攻防、鴻門の会において劉邦を
救ったという史記にある歴史的豪傑の異名をもつから知らてれいなければおかしいのに、その説明
がないという不完全さもあります。
これは「半介」は「はんかい」とも読むから、「樊膾」というのだ、ちゃんと「勇名」ではなくて「異名」
と書いてあるといいたいところでしょうけど、ふざけているといいたいところです。
(9)語りのための人物
とにかくBゾーンの人物は豪傑でしょうから当時の七本鑓を構成した人物かもわかりません。
まずこの面からいえば、7人を一応はまとめてみないといけませんが、
再掲、Bゾーンの四人はAゾーンの四人に引き当て、Cゾーンの浮いた三人をもってきます。
Bゾーン
◎鑓武藤小瀬修理大夫 → ▼赤河彦右衛門
◎河崎伝助 → ▼河尻与四郎「十六歳」
◎大窪半介{俗異名に樊膾と云)→ ▼神部市左衛門
◎土肥孫左衛門 → ▼永田四郎右衛門
@織田孫三郎
A織田造酒丞
C岡田助右衛門(子は助三郎)
4人 7人
甫庵のCゾーンは7人なので、7本鑓と考えたいわけですが、7本鑓というにはとあの4人は
若すぎるという批判も出るので、四人を嵌め込む前の原型の七本鑓はありえたと思いますので
古い世代から▼の四人をもってきたということです。この▼四人は〈信長公記〉のAゾーンに
ない人物で浮いているからもってきたということでもよいでしょう。
▼は、〈信長公記〉Cゾーンの親世代の人と一応考えてこうなるわけですが、要は▼のわかりにく
い人物にが◎これでおきます。
まず、Aゾーンを見ますと、中心の織田造酒丞・内藤勝介は次の織田四郎次郎の内訳です。
★『織田備後
守・織田与二郎
殿・織田孫三郎
殿・織田四郎次郎
殿、
織田造酒(サケノ)丞、是は鑓きず被(こうむ)られ、
内藤勝介、是はよき武者討ち取り名。
那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。』
この文の、はじめから4番目までは敬語が入っており、二人は敬語がなく、四郎次郎二人
の説明となります。この場合(犬山城の)那古屋弥五郎は「四郎次郎」の次の「五郎」つまり五番目の織田五郎右
衛門のことを暗示する役目もあるようです。これは〈信長公記〉で四郎次郎二人の読みですが、〈甫
庵信長記〉でも四郎次郎が二人と読める工夫がしてあります。
●『織田備後守
殿・・・・
舎弟孫三郎
殿・・・・
造酒丞(さけのじよう)・・・備後守
殿、
御
舎弟織田与次郎
殿、
同四郎次郎殿、・・・・・
内藤勝介能き武者討ち捕りぬ。・・・』
〈甫庵信長記〉
織田備後守の兄弟には全部「殿」「舎弟」が付いていますが、「造酒丞」と「内藤勝介」にはそれが付
いていません。「造酒丞」を先に持ってきたことで順番がくるったわけですが、これは織田与次郎殿
の位置の変化となって表われています。これで「舎弟」が書けなくなりましたので、もう一回備後守
を織田次郎の出番のところに持ってきて「舎弟」を入れられるようにしています。これは「造酒丞」を
前に持ってこようとした、備後守の関係者の中にほり込もうとした、造酒丞は「織田造酒丞」としなけ
ればならない存在だといえます。「造酒丞」を前の方に持っていきながら、つまり織田兄弟の流れの
中に入れながら(織田兄弟と認めながら)、舎弟、殿をいれないことは、「同四郎次郎殿」を「造酒丞」
、「内藤勝介」で挟む恰好にしているわけで、二人が四郎次郎の内訳といいたい、と取れます。
織田造酒丞と内藤勝介は特別のピックアップ、〈信長公記〉の「是」が非常に効いてきて、これは
「惟」にも当たるものですからどうやらこのわけのわからない「織田四郎次郎(二郎)」の二人が太田
和泉守の著書を読み解く鍵となるようです。ここで見逃せないのは
「織田与二郎」
を動かしたことと、織田与次郎と織田備後守を「舎弟」で結びつけたことの強調があるということ
ですが、これも大きいのではないかと思います。この★と●の文から、羅列したのが先ほどの
Aゾーンで、それを子細にみるのも同じですが、やはり嵌め込む積りでやてみると少し違って出てくる
かもしれません。★に●を入れてみる
★●『織田備後
守・(織田備後守殿)・織田与二郎
殿・織田孫三郎
殿・(舎弟孫三郎殿)
(
造酒丞)・・・(御舎弟織田与次郎殿、同四郎次郎殿)、織田四郎次郎
殿、
織田造酒
(サケノ)丞、是は鑓きず被(こうむ)られ、
内藤勝介(内藤勝介)是はよき武者討ち取り
名。那古屋弥五郎、(能き武者討ち捕りぬ。)清洲衆にて候、討死候なり。』
これで「内藤勝介」の坐り具合がよくないので、念のため●に★を入れてみる
●★『織田備後守
殿(織田備後守)、(織田与二郎殿)・
舎弟孫三郎
殿(織田孫三郎
殿)
造酒丞(さけのじよう)・(織田四郎次郎
殿)・・備後守
殿、御
舎弟織田与次郎
殿、
同四郎次郎殿、・・・
内藤勝介、(
織田造酒丞、)是は鑓きず被られ、(
内藤勝介、)
是はよき武者討ち取り名。那古屋弥五郎、能き武者討ち捕りぬ。清洲衆にて候、討死候なり。』
・ 織田与次郎を動かすことから、この「与じろう」の次郎(二郎)が四郎次郎(二郎)の「じろう」、内藤
勝介の位置付けなどで、三者のクローズアップもされてきました。内藤勝介は織田与二郎との関係
を探れというサインも出ていそうです。
織田与二郎は、「与」があるから「青山与三右衛門」と関係がありそうですが、この青山与三右衛門
と内藤勝介、平手政秀は、幼い信長の後見人で当然知り合いです。与二、与三の関係は普通兄弟
ですから、ふたつ考えられるのでしょう。
織田与次郎の義弟が、青山与三右衛門とするのがあります。するとこの人物は織田と関係がある
ことになりますから、この三人は織田の一族の内といってもよいようです。
森三左衛門可成は「与三」で、「青地駿河守」の「青」と接近しますので、可成は青山与三右衛門
の子息とすると、内藤勝介は森可成をよく知っている、織田与次郎と青山与三右衛門が信秀が
斎藤戦で大敗した戦いで戦死したあとは、よく面倒もみたというような普通以上の関係がありそう
です。すると森はどういう意味かというのが出てきそうですが、二書だけである程度は、理解
に必要なことが語られているという、完結性があることが大きな柱の一つであるので、推測を広げて
必要があるということです。
もう一つは次郎・二郎も二人だから、というのもあるはずで、知りたいことの最低のことが出ている
であろうということです。ここの「四郎次郎」のことが二人で連れ合いを表わしているとすれば、織田
備後守殿の連れ合いも出ているはずだということもある、織田孫三郎の連れ合いは出ていないのか
ということも出てくるわけです。四郎次郎については
織田造酒(サケノ)丞
‖ーーーーーーーーー□□□□
内藤勝介
の関係が基本で表向きは
織田造酒丞
‖
内藤勝介(二郎)
○○○○(次郎)
ということになりそうです。□□□□についてはAゾーン内藤勝介の下は
内藤勝介
▼河尻与四郎「
十六歳」
▼永田
四郎右衛門
那古野弥
五郎
と続いているから、この「十六歳」の働きは大きく、Cゾーンの十六歳{弥三郎}に連結される、
内藤勝介
十六歳の総領の弥三郎
十七歳の佐々孫介
十七歳の、五郎、又兵衛
と見当をつけておくのも必要かもしれません。直感の領域のことですがあとこれで繋がっていきそう
です。「内藤勝介」も突然の登場ですから芸名であろうと考えると、「織田」「池田」「森」とか何が
出てくるかわからない、○○○○もどこの誰かということにもなります。ここの重要度は当代のCゾー
ンの方から出てくるものでしょう。
(10)佐々兄弟
Cゾーンの4人と7人は、この小豆坂の合戦の中心人物です。で、再掲下の人名表に載ってい
る人物は、今川義元四万の大軍を動員した小豆坂合戦を背景にした、「庄田原」、「生田原」、
「正田原」=太田田原(俵)の意識下における登場です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
信長公記 甫庵信長記
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Cゾーン @織田孫三郎
A織田造酒丞
★下方左近 ■B下方左近{其の時は弥三郎十六歳}
C岡田助右衛門(子は助三郎)
★佐々隼人正 D佐々隼人正
★佐々孫介 ■E其の弟孫介十七歳
★中野又兵衛 ■F中野又兵衛十七歳(そち)
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この表の原型の元文は、〈信長公記〉では、
●『・・・織田造酒丞・・・内藤勝介・・・那古屋弥五郎・・・討死候なり。
下方左近・佐々隼人正・
佐々孫助・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。』
〈信長公記〉
の羅列の太字の部分であり、甫庵では、天文{壬寅}八月十日の戦いにおける七本鑓で
『大将孫三郎殿・・・織田造酒丞、下方左近、その時は弥三郎とて十六歳、岡田助右衛門尉、
佐々隼人正、其の弟孫介十七歳、中野又兵衛十七歳、その時は未だ童名にてそちとぞ
申しける。』〈甫庵信長記〉
という羅列になっているものを書き出しただけのものです。甫庵のこの文を見て誰でも感ずる違和
感というようなものがあります。
○年齢の書いてあるものとそうでないものがある。整合されていない
○年齢の書いているものが連続していない、下方左近から二つ飛んで孫介に至っている
○佐々隼人正は有名だが、下方左近・岡田助右衛門尉の二人について説明がない
といったことです。一応この文は「その時は弥三郎とて十六歳」を異動させて
■『大将孫三郎殿・・・織田造酒丞、下方左近、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、その時は弥三郎
とて十六歳、其の弟孫介十七歳、中野又兵衛十七歳、その時は未だ童名にてそちとぞ
申しける。』〈甫庵信長記〉
と変えておきます。そうすると、孫介が一番上の弟、ということになりますのでおかしい、といわれるから
元文は十六歳を離したと思われますが、これは明智の特殊事情だからあとで修正されますのでここで
変更しておきます。この弥三郎はおどり張行(行事)で鷺を舞った弥三郎と同じ表記だから、一応
この際に対応するのは明智光秀とみてよく「天文{壬寅}」(1542)では十六歳だったといっています。
これは総領だから一番先に書いたものでしょう。桶狭間の賀藤弥三郎も弥三郎ですから、太田和泉
守もありえます。それは切り口としても役に立てばよいことですが、この際は光秀がピッタリします。
姫路城の「白鷺」=弥三郎=和泉守というものにも効いてくる「弥三郎」ですが、本能寺で利いてくる
弥三郎があり、「下方弥三郎」が本能寺戦で戦死してこの表記が消されます。そのとき
『・・・・下方
弥三郎・其の弟武田喜太郎・・・』〈甫庵信長記〉
という連記がありますので、まあ、これは「弟」「武井」という繋ぎ方で間違いでもないといっている
ようです。結果漏れを見逃さないようにするのは嵌め込みをやってみると、■に対応するものは●の
太字四人の連記、「
下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛」ですから、これを■に嵌めると、
■●『大将孫三郎殿・・・織田造酒丞、下方左近、
下方左近岡田助右衛門尉、佐々隼人正、
その時は隼人正、弥三郎とて十六歳、其の弟
佐々孫介十七歳、中野又兵衛十七歳、又兵衛
その時は未だ童名にて中野そちとぞ申しける。』
申しける。』
これで「下方左近」の坐り位置がややこしくなってきますが、それに悩まされないと
「下方左近中将小一郎」〈甫庵信長記〉
という表記があるのを見逃してしまいます。これはテキストの人名索引に出ている人物で、一人前
の扱いになっています。〈吾妻鏡〉で「糟屋乙石左衛門尉」という二人があるように、これも二人の
表記です。したがって「下方左近岡田助右衛門」というのは不自然ではなく連れ合い「下方左近」で
ある岡田助右衛門尉、助右衛門の属性が下方左近といえます。もう一つBゾーンで
「鑓武藤小瀬修理大夫」
という表記がありましたが、これも同じような感じでので、これを生かしてやりますと
■●『大将孫三郎殿・・・織田造酒丞、下方左近、
下方岡田助右衛門尉、佐々隼人正、隼人正、
左近、その時は、弥三郎とて十六歳、其の弟
佐々孫介十七歳、中野又兵衛十七歳、又兵衛
その時は未だ童名にて中野そちとぞ申しける。』
これは、佐々隼人正が、下方左近と岡田助右衛門の子としたいので、左近Aの積りで入れたわけ
ですが嵌めこんでみようとした場合、下方左近が浮いてきて岡田助右衛門助と佐々隼人正に影響
を及ぼしそうになります。
この関係はすでに伏線が敷かれ、
『・・下方左近、岡田助右衛門、其の子助三郎、・・・・』〈甫庵信長記〉
が用意されています。念のため甫庵のこの小豆坂での羅列と対置しますと、
「下方左近、岡田助右衛門尉、其の子助三郎」
‖ ‖ ‖
「下方左近、岡田助右衛門尉、佐々隼人正・・佐々孫助・・中野又兵衛・・」
となり、岡田助右衛門=佐々隼人正に当てられていそうです。
「助三郎」の「助」は「弥三郎」の「弥」と同じように「三郎」の接頭字とみるのが普通で、意味
はどうかというのは別として「孫三郎」「彦三郎」「甚三郎」「平三郎」・・・・・「助三郎」「弥三郎」という
ものが同じようで、同じでないいう微妙なものを表わしていそうですが、類似ということから
岡田助=「助三郎」=「佐々隼人正」=「弥三郎」
といっていそうです。すなわち「佐々隼人正」はここでは幼名「弥三郎」の「明智光秀」といっている、
つまり「岡田助右衛門」の子が明智光秀といっているようです。
一方「岡田助右衛門」には「□三郎」という子があるということですから、桶狭間の「賀藤弥三郎」も
そうですから、「太田和泉守」をも表わすといえます。
下方の「弥三郎」も「岡田助右衛門」の「子」ということであれば
岡田助右衛門A=太田和泉
岡田助右衛門@=明智光秀・太田和泉の親
となります。結局、ここの「岡田助右衛門」は@であって「内藤勝介」を表わしているといえます。
これは「弥三郎」をベースにしたアプローチだけで、それだけでも十分ですが、他の面からも可能
でありそうと直感できます。そんな辛気臭いことができるか、もっと効率的に書けるはずだなどと
いっているのでは近寄れません。戦国の語り手は一般の人が根気よく解けば判るように書いて
いる、それが優れた語りの手法を生んでおり、「宗教」とか「哲学」とか 「教育」とかいう言葉を使わ
ずに宗教の、哲学の、教育の本質を語ろうとしているのに似ている、寺子屋でまなぶ、チビ公を
対象として書いている、というのが〈信長記〉などの特長です。戦国の天才の業の結集されたもの
といっても、こういう志向を内蔵したものだから、織機の扱いを教えてもらえば誰でも職布を得られ
るごとく、筆者でも戦国の史物語を紡いでいける、というのが今やっていることです。
結局次のようになるのでしょう。
造酒丞 明智光秀(佐々隼人正)
‖ーーーーーーー 武井夕庵(佐々孫助)
内藤勝介 太田和泉(佐々内蔵助ただし中野又兵衛)
実在の佐々三兄弟に、語りのために三兄弟が乗ったといえる構図です。しかしこの三兄弟が、
〈戦国〉でもすでに触れているように、同じ両親の三兄弟といえないのではないかというのも、ここの
語りだと思います。
造酒丞 下方左近
‖ーーーーー武井夕庵・太田和泉 ‖ーーーーー明智光秀
内藤勝介 内藤勝介
というのがその関係です。これの前提として、親二人がそういう関係か、ということが問題となりますが
これは伏線が敷かれているようです。一例だけですが、左の方は
『★織田勝左衛門・織田造酒丞・森三左衛門』〈信長公記〉
という表記があって、★の人物は「勝」という字から、織田の親戚かどうかはわからないが「池田勝
三郎」と宛ててきました。しかし内藤勝介は「勝」も「織田」も兼ね備えて出てきました、その上これも
「助三郎」が子という手助けがあるはずですから
「池田勝三郎A」=いわゆる「池田勝三郎」と、織田信行を仕留めた「池田勝三郎」
「池田勝三郎@」=★の人物
といえるでしょう。つまりこの三人の羅列は
織田造酒丞 いわゆる森三左衛門可成
‖ーーーーーーーー
内藤勝介 森三左衛門
を表わしたものといえます。
『織田造酒丞(さけのじよう)・森三左衛門両人はきよす衆土田の大原をつき伏せ・・造酒
丞下人禅門・・・・かうべ平四郎を切り倒し・・・・・』
『織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく候に依て、後に杉左衛門になされ候。』
〈信長公記〉
なんとなく「土田」「大原」が関係してきそうで、土田はかうべにもいきそうです。大原は太原、田原にも
変形しそうですし、下人禅門の下人は小人と対になりそうです。「杉左衛門」の「杉」の一つの意味は、
木×三の「森」と「さんと読む「三」の合成されたものかもしれません。これは「黒田杉左衛門」〈甫庵
信長記〉は黒田森三左衛門といえます。どこかで両家が結びついたようです。これは間接に
織田造酒丞ーーーーー森三左衛門
織田勝左衛門ーーーー森三左衛門(杉三左衛門)
ということから、織田勝左衛門=内藤勝介を述べているといえます。
一方、 下方左近
‖
内藤勝介
も伏線は敷かれており、先ほど出てきた「下方左近中将小一郎」に似た、「中條小一郎」という人物 は
『近所に下方左近(しもがた)左近、岡田助右衛門御入(おんいり)候。』〈甫庵太閤記〉
といっています。この中條小一郎は十六歳のとき軍功をたて膝をやられて行歩が叶わなかったのを
、織田孫三郎が招いてくれたそうです。岡田助右衛門については
『三州小豆坂の七本鑓之内に加りぬ』
『下方左近将監鑓六度、柴田修理亮五度、岡田助右衛門四度・・・・最初鑓(はなやり)之事』
『そのころ尾州に話の上手は、野間藤六、岡田助右衛門尉と云いし・・・』
〈甫庵太閤記〉
などのことを書いています。柴田修理亮は「柴田日向守」「柴田伊賀守」「柴田三左衛門」などがある
そういう読み方の「柴田」でしょう。明智日向守が挟まれている感じです。野間藤六は野間佐吉の
野間、藤六は助六がよいのかもしれません。
「織田造酒丞」は「織田造酒正(カミ)」「織田造酒(サケノ)丞」という表記もある(信長公記)のが重要
であり、下方左近は、テキスト人名注では
「下方貞清 字左近。尾張春日井郡上野(春日井市上野)城主。下方氏は源氏だが織田氏
の一族。・・・小豆坂合戦・・・元亀三年奇妙(信忠)の元服、鐙初めのとき兜ボウをつけた。
慶長11年(1606)清須城で死亡。」
となっています。織田造酒丞が下方氏の出身と思っていましたが、下方左近と織田造酒丞が併記され
いるので二人は別人ともなりそうです。うしろに「シモカタサコン」ということは考えられるかもしれないの
ので、この辺、織田孫三郎(マゴサブロウ)とも絡んで重要なところでしょうが、本気(下方左近だけに
に絞って)でこの辺読もうとするかに懸かっているのでしょう。左近ですから滝川左近A−嶋左近
といくのかもしれません。
ここで述べたいことは、佐々隼人正が明智光秀に宛てられたことです。佐々三兄弟は別におり、
〈武功夜話〉では
|{比良城主}正次
盛政ーーー | 成政
| 孫介
となっています。三兄弟を語るためこの佐々の三兄弟を借りてきた、といえそうです。
〈武功夜話〉のこの辺りの佐々の語りは
@『一、・・・・尾張方甲寅(ルビ=天文壬寅十一年、一五四二)三州へ乱入、安詳を取り抱え
生田ヶ原の出入り大勝は天文寅(ルビ=十一年)の年備後様好機到来、五千有余騎の
出勢に候なり。寅年季夏なり。・・・・佐々蔵介殿(ルビ=成政)、同隼人佐(ルビ=政次)、
佐々孫助、・・・・・』
A『一、時に南呂八月日・・・佐々隼人正、同孫介殿ふるい立ち・・・小豆坂出入り七本鑓・・
小豆坂のきそひ鑓・・・』
の二つがあります。佐々隼人正はここでは「
政次」もあることがわかりますが、これも重要なことで
太田和泉守の「政」にも通じます。ここで小豆坂の合戦「甲寅」としてありますが、「甲寅」は
天文最後の年23年で織田信秀の時代ではなくピントが外れています。そのため、あと「天文寅」
「寅年」が出てきており、
「天文甲寅」
「天文□寅」
で、はじめの「甲」は「天文□寅」で消されています。あとの「寅年」も「□寅年」という意味で、
周囲を勘案して「壬」が入るのでしょう。うしろの「南呂八月日」は〈信長公記〉の「八月上旬」と
つながったあいまいな表記ですが、「何□ノ□八月日」ということで「壬寅」を入れて読んでもら
おうとするものかもしれません。〈武功夜話〉の年代は、正確で信頼できると思います。
『備後様(ルビ=織田信秀)は・・・天文己酉(ルビ=十八年、一五四九)三月日御逝去了
おわる)、・・・・されども葬儀は取り行わず、両三年の後これを行うなり。』
となっており、これは合っていそうです。したがって、この少し前に
『戌申(ルビ=天文乙未四年か)の●三州退き戦、今の世に軍書読は斯く語るなり。・・・・・
(諸葛)孔明陣中に没し悲痛の陣返し粛々として星旗を巻き蜀へ退くに似たり。』
とある●は前から読んでくれば、尾張へ攻め込んでいた松平清康(家康の祖父)が暗殺されて勝ち戦
のなか尾張から引き上げる三河勢のことをいっていると取れるので、校注者のルビは、それを指している
わけです。一方この孔明の記事のあとは、先ほどの小豆坂の記事になっており、急転のなかの●
なので、またこの間違いとされている「戌申」の年は天文17年信秀の亡くなる一年前のことなので
織田が撤退を余儀なくされる事態があったということも考えられるので一概に記述が信頼できないと
いうことになってしまわないようにしなければならないと思われます。それがルビの疑問符となって
いるように思われます。
とにかくこの佐々隼人正は、千秋四郎とともに桶狭間の戦いの口火を切った大将です。〈道家祖看記〉では
『・・・・佐々下野守{
正次}、・・・・・・三百余りにて、・・・。・・・弟内蔵佐{成政}・・・』
とあり、下野守は「山県下野守」の「下野守」で太田和泉守(明智光秀でもよい)が代役で登場した
ようです。ここでは佐々隼人正は{正次}(細字)となっていますので、いわゆる「佐々隼人正」は原型
として「正次」であることは確実でしょう。これで明智光秀が{正次}を利用しやすくなっています。
隼人正の「重ね」があるのが桶狭間の記事であり、衆目の集まる舞台で登場するのは
「佐々隼人正」=明智光秀、
「千秋四郎」=武井夕庵
というもので兄弟の参戦とか、決死の覚悟とかいうものを出し、重ねることにより実際の佐々隼人正、
千秋四郎をライトアップしたといえると思います。佐々隼人正はこの桶狭間の戦いと小豆坂の戦い
で明智光秀に重ねられたといえます。それはこの千秋四郎から武井夕庵の物語がつむぎ出されて
行くのと同じです。千秋四郎は、
○熱田神宮に納めた武井夕庵の願文、
○「千秋」は「専修寺」で生かされている、
○「田島千秋」から「但馬千秋」、「検校」
○「千秋紀伊守」→陰山掃部助→丹羽五郎左衛門
○「千秋紀伊守」→「佐藤紀伊守・子息右近」「岸良沢」
○「佐藤紀伊守」→「和田惟政」の名前「紀伊守」「紀伊入道」
・
と展開していきます。この佐々隼人正もしたがって「正次」「政次」が拡げられて大阪までいき着きます。
桶狭間の弥三郎は
「後藤又兵衛
政次」〈常山奇談〉
になり、この政次は大坂城の馬揃えをやりました。これは天正の馬揃え、「惟任日向守」=佐々隼人
正政次の事績を受け止めたものでしょう。「正次」は無条件で「正継」です。芭蕉も〈奥の細道〉で
「佐藤庄司」を出してきましたが、
佐藤忠信
佐藤継信
で忠継を作りました。忠継は忠次で正次は正継です。桶狭間鷲津丸根城の落城、大坂城の落城
の間に、有名な落城哀話をもつ、関ケ原佐和山の城の落城がある、このときの城側の主役は
石田正継
という人物です。石田三成の領内はよく治まっていました。大石田→太田→石田の正継です。
正継や正澄の最終処置した落城ということであれば哀話とは無縁のもぬけの殻の落城といえます
が、こういう結末は前の稿「石田三成の出自」からの必然で、小豆坂の叙述を経てやっと語れる
ことになったいうことです。
太田和泉守の本能寺作戦には「談合を相究め」とあったようにもっと巾と奥行きがあったようです。
(11)鑓武藤小瀬・大窪半介
ここでBゾーンのややこしいものに立ち入って置かねば、いろいろ対置があるので自信をもって
ほかのことに対応できません。Bゾーンは
◎鑓武藤小瀬修理大夫
◎河崎伝助
◎大窪半介{俗異名ハンカイと云)
◎土肥孫左衛門
ですが、はじめの鑓武藤小(ママ)瀬修理大夫というのは、なにかわかりにくいところがあり、それ
だけに特に重要であるような感じです。
(ママ)というのはたぶん昔の校注者がおかしいと思いながらそのままにしておくということで入れ
たのでしょう。これはあわせて、ここが著者の仕組んだことだ重要という警告もあるのでしょう。
とにかく転写ミスでないのは明らかですが、これは人名索引に出ていません。「鑓」が邪魔をして
いる感じで武藤の「む」でも載っていません。姉川戦で「猶妙印入道武井肥後守」で出てきた「猶」
に似ている用法です。七本鑓の「鑓」が「武井肥後守」の兄弟に関わっているという暗示があるの
かもしれません。とにかくこれは二人かもしれないが
「武藤(五郎右衛門)」+「小瀬三郎」
というものを意味していると一応は考えられます。甫庵は
『小瀬三郎次郎清長という兵あり。・・・・此三郎次郎と申すは、織田造酒丞に嫡男、菅屋
九右衛門に兄たりしかども、小瀬三右衛門尉、養子に家を継がせけるに依って、今小瀬
とは名乗りけるなり。』〈甫庵信長記〉
と書いています。これしか小瀬の説明がないので立ち入ってみますと次のように図示できます。
織田造酒丞ーーーー 「嫡男」三郎(清長)
|
「次郎」「菅屋九右衛門(長頼)」
の嫡男三郎が「小瀬三右衛門」の養子に入ったので、小瀬三郎清長=小瀬修理大夫、という
ことになった、武藤というのは織田造酒丞の子息としていたときの、つまり元の名前といえそう
です。これは小瀬家、つまり他家を継いだということをいっています。鵜飼の小瀬村は武芸郡
にあり、関市でもあるようなので、これは「武芸」「武藤」の「武」と「小瀬」と「小瀬甫庵」の「庵」の
からみから「道家」の「武井夕庵」が出てきそうです。
「次郎」の「菅屋九右衛門」は太田和泉守が乗っていますから、これは二兄弟の動向を示す
表記ではないか、「清長」は「清・武」で暗示でもあります。
一方、したがって「武藤」には跡取り一人残らねばなりませんから
織田造酒丞ーーーー「三郎清長」→「武藤」の「弥三郎」
もあるのは間違いないことで、これは明智光秀となりそうです。「武藤・小瀬三郎・同次郎」だから
三人いるというのは納得できることです。もう一人「清長」というものがあるとすると4人になりますが、
これはともかく三人兄弟は、講談的表記の「鑓」の中に組みこまれていたといえます。こうなると も別に述べら 織田ミキノ丞、織田造酒カミ
‖ーーーーーーーーー「嫡男」「次男」
織田造酒丞
織田造酒丞A−−−−−−ー跡取り、武藤・弥三郎
という線の推定が可能で、
織田造酒丞 織田造酒丞A
‖ ‖
内藤勝介 下方左近
ということも出てくる、仮名(かめい)がたくさんでてきて、ややこしいといいたいところですが、
書く方はもっと
むつかしい、どこまで述べようとしているのか、というのを知りたいところですが。
ここで次の「河崎伝助」がわけがわからないのでヒントがないかということです。甫庵では「河崎」は
「河崎伝助」「河崎忠三郎」「河崎与助」
があり「忠三郎」は「三郎」の方を取れば「弥三郎」などの「三郎」が出ており「河崎与助」の「与」は
「青山与三右衛門」「織田与次郎」
の「与」があるので油断ができません。織田与次郎は戦死したのは事実ですがそこで物語が止まる
わけではないわけで、小豆坂人名表でも
「河崎伝助」=「河尻与四郎」
という対置になっているから、もう一つの語りはありそうです。
それは別として「河崎伝助」は伝えるといい意味はあると思いますが
「河崎与助」
となると本能寺の戦死者名簿に出てきて、ここで表記が消えるという遠大な計画の中にある人
ものです。甫庵のワールドでは「河崎伝助」というここの表記が「河崎与助」の戦死によって消える
といえます。〈信長公記〉でも
「河崎与介」
の戦死は出ていますが、登場がこれだけなので、マイナス 1で終わりです。一応これはどれを
消したのかということになりますが、上に出ていた「河尻与四郎」に似た「河尻与一」(信長公記)
という表記ではないかと思います。つまり
「河崎与介」(信長公記)
「河尻与一」(信長公記のみ)
という同一性です。「河尻与一」からは「平手政秀」が出てきますから、これが猛威を振るいそうです。
通常「河尻」は「河尻与兵衛」で出てきて登場回数も多いのですが、「河尻左馬丞」が三回ほど
あります。「河尻与一」は2箇所だけです。
『平手中務丞、清洲のおとな衆坂井大膳・坂井甚介・河尻(かはじり)与一・・・・・・・・・
・・・平手、大膳・甚介・河尻かたへ・・・・書札を遣わす。 』〈信長公記〉
『坂井大膳・坂井甚介・河尻与一、織田三位・・・・』〈信長公記〉
上の方は「平手ー坂井ー坂井ー河尻」と「坂井」を通して繋がっており、続いて「平手」は「河尻」
と直接姓でつながっている感じです。したがって前のは「坂井」というのが平手と河尻の間にある
徳川の「坂井」もありうる、後ろの「大膳」と「甚介」というのは、「大全」と「甚兵」で太田兄弟を
挟んでいるという感じがあります。とにかく平手と河尻の接近です。
下の方「坂井」「坂井」「河尻」に「織田三位」の組み合わせです。この「織田」は織田の兄弟
羅列の首巻のはじめにあったものの五番目にある人物のことを浮き立たせる役目をを持って出て
くる、由宇喜一に討たれて消えます。
『備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。』
〈信長公記〉
これは五番目の「右衛門」だから五郎右衛門ですが、どうしたことか、平手政秀の子息の説明で
『平手中務丞子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。』
〈信長公記〉
があり、五郎なのに一男となっているのがおかしい、主家の五番目の人を養子かなんかで迎え
入れたのではないかと勘ぐられるところです。「平田三位」「平田和泉」という表記が〈信長公記〉
にあり、「平手三位」が〈武功夜話〉にありますから
「平手三位」=「織田三位」
という重なりが意識されているとみてよく、「平田和泉」に近い人が「織田三位」といえそうです。
織田右衛門を平手右衛門に変えてみると「平手」が四郎二郎の「二郎」と近づいているということ
も見えてきます。このように「河尻与一」は平手を呼び出し、「河崎伝助」は「河尻」と「平手」を
伝えているといえそうです。小豆坂人名表では、「内藤勝介」の直ぐ下が「河尻与四郎」です。
本能寺の「河崎与助」は
『井上又蔵、賀藤辰丸、竹中彦八郎、河崎与助等なり。爰に松野平助と云う者・・・
伊賀伊賀守家来の者たりしが・・・惟任・・・斎藤内蔵助・・・』〈甫庵信長記〉
『井上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口半四郎・竹中彦八郎・河崎与介・・
安東伊賀守・・・伊賀守内松野平介・・・斎藤内蔵佐・・内蔵佐・・・明智日向守・・』
〈信長公記〉
という中での「河崎与助」です。
パッと見て気が付くのは両方とも与介(助)の前が「竹中彦八郎」です。これは「佐脇藤八」の「八」
あるということです。これで上の方四人となっているのでその積りでみますと、桶狭間のあの四人が
思い浮かびます。「河崎与介」→「河尻与介」→「河尻与四郎」ともなりこれは総領のイメージだから
▲「河崎与助、井上又蔵、竹中彦八郎、賀藤辰丸」
‖ ‖ ‖ ‖
森乱丸 山口(木村) 佐脇藤八 賀藤弥三郎
というのも意識にあって、その積りで書かれたとみてとれるものです。
こういう目で下の方をみますと、賀藤に炙り出しがあり「辰丸」が「辰」となっておりこれは半分に
なっている、また山口半四郎も
○「竹中彦八郎」の前にでている、
○「大窪半介」「竹中半兵衛」の「半」がある、「半」は「だんはん」の「半」である、
ということから、ここに出された、つまり「賀藤、山口、竹中」は同じくくりとなりそうで、嵌めこみをやる
積りで対置してみると
▼河崎与介 山口半四郎 飯尾毛介
‖ ‖ ‖
森長可 河崎伝助 古田織部
ということがありえます。妙な名前の四人の内の「河崎与助」は「大窪半介」を道ずれに、こういう一つ
の関係をクロ−ズアップさせたということもできそうです。
はじめの「松野」=「竹中」の線は、松野が「爰に」を伴って出てくるように太田和泉守が乗っかった
形で出てきます。これは「伊賀伊賀守家来」を「家之子」と読むべきところですが、その理由が竹中
の「八」ということで、こういう人名配列となったと考えられます。〈信長公記〉では「伊賀守内」と
しており、松野平介も外戚一族であることをいっていると思います。すなわち松野によって
「安藤伊賀守ー竹中半兵衛ー伊賀伊賀守ー太田和泉守ー斎藤明智」
の関係が打ち出されています。要は〈甫庵太閤記〉にある「竹中半兵衛尉」は
「安藤伊賀守が聟也。」
というのをどう読むのか、に掛かる問題です。これがはっきりしないため
安藤大将ーーーー伊賀伊賀守(伊賀範俊)
‖
太田和泉守
不破河内ーーーー竹中久作
‖
竹中半兵衛
で「太田和泉守」と「竹中半兵衛」、「不破河内」と「太田和泉守」、「安東大将」と「不破河内」
は重ねられている、という言い方になってしまいます。これではややこしい、そんなはずはない
とかいうことになってしまいます。これから見て安藤伊賀守の男系というものを考慮に入れる
なら、安藤大将と不破河内が重なっているということだけで、竹中半兵衛@Aが出てきそうです。
斎藤内蔵介の子が春日局となるようですが、どうしても、感じから見ても年齢がおかしいわけで
孫なら話はわかります。飛んで子と呼ぶにはそれなりの約束があるのではないか、と思います。
とにかくこの「不破河内守」は前の稿で既述の通り、喜多村直吉(矢足)として語られています。
太田和泉守に重なるとすると、俵屋宗達は「喜多村」ですから、宗達と太田和泉守と重なることに
なります。総じてここの
「河崎伝助」「河崎与介(助)」「河尻与一」
は「河尻青貝」「河崎忠三郎」などを伴って大変重要なことを語ろうとしているようでそれが「伝」
でしょう。一応「河崎伝助」から「大窪半介」「河崎忠三郎」が出てきます。また
「河」→「江」→「枝」→「條」→「森」→「与(三)」→「青(山)・(貝)」
のように河尻と森は密接であり、「河尻」はテキスト人名注では
「愛知県愛知郡日進町岩崎の出身(尾張志)」
とあり河崎は河尻と岩崎の合成のような感じで河尻を語るものでしょう。太田和泉は「森」姓は
使わず、「河尻与兵衛」に乗っかって自分の活動を伝えているのは「滝川」などと同じです。
「河尻与一」は「一」なので世代の前の方、再掲
「坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位」〈信長公記〉
「平手中務丞・坂井大膳・坂井甚介・河尻与一」〈信長公記〉
の括りなどは武井夕庵・太田和泉守などの語りがあり、若い方は再掲▼
河崎与介(河尻与一) 山口半四郎 飯尾毛介
‖ ‖ ‖
森長可 森伝兵衛(河崎伝助) 古田左介
というように森の長可を語るという二つがあるかもしれません。これはまあ仮のものですが、
古田に山口を少し接近させました。「飯尾毛介」と「古田左介」の対置は偶然のことですが、
「介」と四字が共通で、常山では「合渡川合戦黒田三左衛門毛付(けづけ)の功名の事」の一節で
「黒田三左衛門可成」「朱の枝」「可成」「石田」「可成」「毛付」
出てきて、古田→毛介→森(毛利) という打ち返しがありえます。常山は「古田可兵衛」(信長公記)
というのを知っているから、可成の「可」、と「毛付」「毛利」の「毛」と、「古田」の「古」を繋いでみたら
どうかというヒントを与えたかもしれません。もちろん第一義的には
飯尾毛介
堀尾茂助
で堀尾茂助のヒントを与えるものとして儲けられたと思います。
(12)山口左馬助
先ほどの本能寺人名の羅列で、「松野平介=竹中彦八郎」の組み合わせは本巣、安藤大将
がらみとある程度推察がつくものですが、次の「井上又蔵=山口半四郎」の組み合わせはなか
なかわかりにくいから、それが先に来ると、こういう人名配列とかくくりに意味は無いということ
で落ち着いてしまいます。しかし現に著者は人名を多数書き落としているわけですから、文章と
同じように後先を考えるものですから、一応意味はなさそうでも、並べて動かすことをやってみる
ということが、いいのではと思います。著者が語る落ち着き先は、ヒントが出ていないことでもない
ようです。表記からみると
「山口飛弾守ーー(木村)又蔵ーー山口半四郎」
と揃っているのですから、また大きな謎を残す「山口左馬助」問題が未解決ですからこのことかと
気付くことにもなるはずです。しかしこれも小豆坂の人名羅列をみないと山口左馬助(Dゾーンに
あり)と繋がらないわけです。山口事件の端緒は織田信秀の葬儀の翌年、桶狭間の7年前
『鳴海の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年(はたちのとし)、父子、織田備後守殿御目
を懸けられ候処、御遷化候えば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。
沙汰の限りの次第なり。』〈信長公記〉
これで、鳴海、大高、沓掛などが今川方に取られて国境の均衡がたちまち崩れてしまいました。
信長にとっては大打撃で、この後山口父子(1500人)対織田信長(800人)の合戦が起こっています。
結果的には今川義元は桶狭間の前に山口父子を成敗してしまいます。これに対する太田牛一の
怒りと嘆きは凄まじく、
『かくのごとく重々忠節申すの処に、駿河へ●左馬助・九郎二郎両人を召し寄せ、御褒美は
聊(いささか)もこれなく、情け無く無下(むげ)と生害させられ候。
世ハげうき(末世)ニ及ブと雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、山口左馬助が在所へ
来り、・・・信長・・・に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅間敷き仕合わせ、因果歴然、
善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。』〈信長公記〉
となっています。天道を持ち出して無道を糾弾しています。理屈をいえば山口を「御厚恩を忘れ」
といって非難しているので、また太田和泉守もそのお蔭で苦しめられたはずで、無道といっても
自業自得という面もあり、ここまで山口に同情して怒るというのは理解に苦しむところです。仕方が
ないので、太田牛一は山口と親しい、これを徳川の讒訴があったからということで徳川に向けられた
怒りといってきました(戦国)。これは結果的にはかなりの部分合っているとしても、論理が飛躍
しているのは否めません。
これは伏線が敷かれていそうで、ここへきてやっと説明ができるのかもしれません。
なぜ山口が織田を見限ったかということですが、これは今川義元に渡りをつける人物がいたので
はないかと思います。まず三つの山口が出てきたのでこれには乗らないとどうにもなりません。
なぜ「木村又蔵」が「山口飛弾守」なのかという根本問題があるからです。
伏線 Dゾーンの四人(孫代)とAゾーンの比較で
D A
@ ▲赤川彦右衛門 ▼赤河彦右衛門 ◎土肥孫左衛門
A ▲神戸市左衛門 ▼神部市左衛門 ◎大窪半介{俗異名ハンカイと云)
B ▲永田次郎右衛門▼永田四郎右衛門 ◎武藤小瀬修理大夫
C ▲
山口左馬助 ▼
河尻与四郎「十六歳」 ◎
河崎伝助
のCが似ていないもので
山口=河尻(十六歳だから明智光秀と同世代)
がありました。つまり「河尻与四郎」の子が▲「山口左馬助」かもしれないというのが出てきます。
先ほどの〈信長公記〉の「山口左馬助・子息九郎二郎」の「父子」というのは、図示すれば
A、山口左馬助@ーーーー九郎二郎
もしくは
B、山口左馬介@−−−−九郎・ 二郎
でしょう。山口左馬介はCから川尻左馬介でもあり、山口は
山口取手介、山口又次郎、山口飛弾守、山口勘兵衛・・・
という表記もありますから、また「左馬介」は「明智左馬介」があり最重要表記でもありますから
「山口左馬介@」は「太田和泉守」でもありえます。
●の場合は「両人」となっていますから、また子息「山口飛弾守」も二番目ですから
太田和泉守ーーー山口飛弾守(木村常陸介又蔵)
もありえると思います。つまり、後年の秀次事件における「木村常陸介」の災難のことを暗に
示すというのを激しい言葉でやったといえるのではないかと思います。これは表記だけが語った
場合で実際は年代の制約があるわけです。つまり山口左馬介と九郎二郎が信長と戦ったのは
天文弐拾弐年信長19歳、九郎二郎20歳のときのことです。「三の山」の戦いです。「二郎」は
先ほどの「二郎」を生かさないと仕方がない、年代から「二郎@」が必然になります。
Bの場合は、九郎の連れ合い次郎が考えられます。
山口九郎
山口左馬介ーーーー ‖ ・・・・・・山口半四郎
二郎@(▲山口左馬介A)==又蔵(山口飛弾守@)
これは、山口の嫡子の連れ合いが「二郎」であったということを示しています。それを語るのが
「山口半四郎」の存在といえそうです。山口左馬助@の今川随身
によって又蔵は、九郎二郎、半四郎とも引き裂かれてしまったということになります。太田牛一は
山口九郎(20歳)の人物に期待を寄せていたことは明らかで、今川で活躍してくれたらそれでよい
とあきらめていたのに殺すとは何事かと怒ったといえます。九郎二郎の二十歳という年齢が二回も
でてきます。この山口左馬助Aが、どっちにつくけべきか、板ばさみになった状態が述べられて
います。赤塚の戦いで「あら川又蔵」が山口方で、「あら川与十郎・あら川喜右衛門」が信長方で
兄弟と思われる三人が敵味方に別れて戦い、「あら川与十郎」が戦死してその死体を双方が引張り
合って首や胴体はこっちへ引き勝ったとか書いてあります。異様な光景なので〈戦国〉でも取り上げて
いますが死亡したのは九郎なのでこの与十郎が九郎に当たるのかもしれません。
この場合、まず、山口九郎(20才)は一体誰を指しているのかが問題となってきます。次第に
よっては、すなわち適当に書かれたのでわからないというのであったら〈信長公記〉の信頼に関
わることになってきます。ここで、基本的に知りたいことが出て来たら、頭を下げればよい、つまり
ここぞという節所の一つというべき処でしょう。これが小豆坂から出てきたというのが小豆坂の
応用範囲が広いということを示しているともいえます。
こことは直接関係はないでしょうが、のちの
山口左馬助、その子九郎と二郎 半四郎
‖ ‖ ‖ ‖
太田和泉守、蒲生氏郷、木村常陸介 横山喜内
(蒲生備中)
のような関係に似ているのかもしれないと範囲を広げておけば、木村の登場の断層は蒲生郷
舎の表記の多様と相まって埋まって行きそうというのもあります。先ほどのA「九郎二郎」が二人
ワンセットとすると蒲生氏郷の死因と時期のことも絡んできます。蒲生氏郷が亡くなったのは
秀次事件の年であるとされています(年表)。秀次の関白就任の年(1591年末)二月に利久の死が
がありました。ちょっと風雲急ですがこの時期に朝鮮戦役が挟まっています。秀次政権は文禄
の期間中で
文禄元年に、朝鮮出兵し、その年にもう小西行長が講和の話をしだして、二年には講和休戦
文禄三年に、内藤如庵が明の皇帝と和議を約していて
文禄四年七月に、秀次を自殺させる
となっていますから、秀次政権三年七ヶ月となっている間に出兵、講和が重なっています。
翌年、耄碌秀吉が怒り出し、九月には
「秀吉、家康の諫止を退け朝鮮出兵を決定。〈薩旧・島津〉
が(年表)にあります。こういう人名表記には吟味がいりますす。ここの20歳「山口九郎二郎」も
同じような比定がいるわけです。山口左馬助離反の経過とか古田織部の山口との関わりがここの
読みが起点となります。
〈信長公記〉に「河尻左馬丞」という人物が登場します。「左馬丞」は「左馬助」とほぼ同義ですから
「河尻与四郎十六歳」=「山口左馬助」
の炙り出しから、これは「山口左馬助@」、つまり「河尻与四郎」の父、とみてよいと思われます。
山口左馬助 =河尻左馬丞
山口左馬助@=河尻与四郎十六歳・・・・・今川へ随身したとされる人物
山口左馬助A=山口飛騨(木村又蔵)
となると思います。ただ河尻左馬丞は@と同一で別表記かもしれません。この登場場面は
『坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位談合を究め・・・・』
『坂井大膳・坂井甚介・河尻与一、織田三位・・・』
『河尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀殿切ってかかり、・・・・討死の衆、河尻左馬丞・織田
三位・雑賀修理・原殿・・・・』
『坂井甚介・河尻左馬丞・織田三位討死候て、・・・』
『平手中務丞・・・坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・・・』
があり、戦死しますので、「河尻与一」だけになります。「与一」ともなれば「与四郎」とは異母兄弟
というような「山口左馬助@」と同世代の関係が推察されそうです。一方この「坂井大膳」は、清洲城の
実権者のような感じですが、信長に攻められ落城に際して
『領
在の坂井大膳は小守護代なり(守護代は織田彦五郎)。・・・・風をくり逃げ去り候て、
直(すぐ)に駿河へ罷り越し、今川義元を頼み
在国なり。』
となっていて、義元の側にいる坂井が述べられています。ここでいいたいのは領在の坂井と在国の
坂井が出てきた、「坂井大膳」の「坂井」という表記
が問題となってきます。いままでも漠然と感じる不安があり、そのままで話を進めてよいのか、と
と思いながらやってきましがここで確認しておきたいと思います。坂井には実態的には
「坂井左衛門尉」(坂井忠次)と「坂井右近」(太田和泉)
があって、区別されています。甫庵は徳川の方を「酒井」を使っていますからよりわかりやすくなって
います。
しかし表記でみれば「左衛門」は「森三左衛門」もあり、また「左衛門」は「左近」とも変えられますから、
右近、左近という打てば響くものがる、対立がありながら、接近があるようなややこしい感じになって
います。対立当事者が同居しているのかというようなものがここの「坂井」です。惟任日向守が明智
光秀と太田和泉守を内包しているというのはわかるにしても、宿敵の二人がこうなるのは、あり得るの
かということが出てきます。哲学で
「絶対矛盾的自己同一」
というのがありますが、この意味がわからないにしても、同一・矛盾というのは表記の世界では、
しょっちゅうあること
です。「坂井大膳」となると対立点二つあるのにどっち向きかということで戸惑ってしまいます。親子
同一表記というのは、親子といえども別の固体ですから、どうしょうもない矛盾ですが、平気でこういうこ
とをやっているのは表記の世界です。「長谷川」は敵味方が同居しているらしいので行動が思って
いるのとは逆に動くというのが起こってきます。哲学的にはこういう表現は何のためにいわれて
どういうことになるのか、よくわからない、大体こういうのはわかりやすい説明はありません。
人名表記で出てくるおかしさ、わからなさを、この九字を借りて話してみます。人間は人間に
対して殺意ももつ、反面慈悲心も同居している二面性をもっている存在で、ありのままにみるとこう
いう存在だから、古人は悩まれたのではないか、と思います。それをありのままに受け入れて、
どうもっていくかとう課題を自己に突きつけて、思うようにいかない現実との相克のなかで、過程
考えを表現をしてきた結果が残ってきているといえます。それは表現の工夫となっても表われ
てくると思います。坂井左衛門尉という同一表記に、自分と、自分が非難している相手の人格を含ま
せているというのは大変な矛盾です。、一つはカムフラージュとしての、また語りやすさなどの実益
はあるのは事実でしょう。しかし、一つ間違えば自分もそうなりうるという自戒もあるし、相手を理解
する近道というものもあるかもしれません。自分が相手の将軍だったら最善をつくしてこうするはず
だというのがあるのが名将を生むモトでしょう。
要は、思考の過程において、正反から合を得ようとするストラグルが常に働いていた、二つ包摂して
しまえないかと思考の大きさのようなものが昔の人にはあったと感じられます。
「稗田阿礼」
も対立を包摂した表記というのは〈前著〉でいっていることですが、戦国では「戸田忠次」なども
そういう感じのものです。
「坂井大膳」
は「坂井左衛門尉」+「大膳」の矛盾したものの合成表記といえますが二人の行動がそこから
出て来ます。一応
領在の大膳を太田和泉、
駿河国在国の坂井を坂井忠次
としてみるのもよいのでしょう。「大膳」については、例えば「佐野衆」というのはテキスト人名注では
大阪の「泉佐野市にあたる地区の国衆」
となっていますように「泉」が抜けています。「谷大膳」というと「熊谷大膳」の「熊」が抜いてある、
「大膳」は「塚本小大膳」「武田大膳大夫」もある、ここに「坂井甚介」も出ていて太田和泉守色が
濃厚ですが、「甚介」などは 「坂井」という二字の表記が一方に傾くのを留めるための、密接な
関係者として出されたとも取れます。これで先ほどの人名羅列に戻れば
「河尻左馬丞(山口左馬助)」という表記が
坂井忠次と太田和泉
と知り合いであったということがいっぺんに出て来ます。対立しているのに平気で表記を共用して
いるわけですから余り余分な説明がいらないので書くのに助かるのでしょう。ここまで来れば
山口は結果今川に付いたというなら坂井の説得に応じたといえそうです。
この辺を理屈で考えてしまいますと、実際の坂井左衛門尉が清洲にいたという証拠はない、
追っ払われて今川義元のところへ走ったのは坂井忠次という可能性は少ない、おかしいという
ことになりそうそうですので、長々と理屈をならべた次第です。一応、念のために追記しておき
ますと、
「坂井大膳として表現したこの坂井左衛門尉」と「山口左馬介@」
との間に絡みがあったかということはあとで述べられており、
「坂井左衛門A」と「山口左馬介A=河尻与四郎」
で、それがぶり返されてています。「与四郎」が酒井にもありました。
「吉田・・・・・酒井左衛門尉、子息与四郎・・・」〈甫庵信長記〉
で酒井左衛門尉には「与四郎」という子息がおり、「坂井与右衛門」〈信長公記〉という孤立表記
もあり「与」は注目!です。
河尻=与四郎=酒井
のラインが見えています。これにもう一人の与四郎が加わりますから、伏線は十分に敷かれて
いたといえます。
三の山赤塚合戦「山口父子」登場の場面
「あら川又蔵」(テキストでは「山口教吉方先手足軽。」)
「あらかわ与十郎」 「のし付」「のし付」「のし付」=「鉄砲屋与四郎」「彼の与四郎」
の「熨斗付(ノシツケ)」の「大刀」
」 「与四郎」→「伴正林」→「井上又蔵」
ということから、からみが十分あります。
ついでですが鉄砲屋与四郎が出てくると
「折節(をりふし)御折檻(セツカン)」
が出てきて、「折」「折」から「織」「織」が出て古田織部がでてきますし、
「正林」
からは表記の接近で「村田吉五」→「古田」も出てきます。結論的に言えば
「山口九郎」20歳は「森可成」のこと
で、これは、今までの話の補強になるだけのことです。
再掲
九郎20歳
山口左馬介@・・・・・‖ーーーー半四郎
二郎26歳(山口左馬介)山口飛弾守@(又蔵@)
世代を繰り上げた●図式とすれば、太田和泉守の連れ合いは森可成です。
このとき太田和泉守は26くらいで、6歳くらいの差があります。多分青山与三右衛門がはじ
めで戦死によって連れ合いが森三左衛門となったと思われます。この二人の出方が問題で
『天文弐十弐年{癸丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年の事に候。
鳴海の城主山口左馬助・子息九郎二郎、★
廿年(はたちのとし)、父子、織田備後守殿
御目を懸けられ候処、御遷化候えば程なく謀反を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内
へ乱入沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息九郎二郎を入れ置き
一、笠寺へ取出、要害を構え・・・
一、中村の在所・・・父山口左馬助たて籠もる。
か様に候処、四月十七日、
一、織田上総介信長公十九の御年・・・中根村・・・小鳴海・・・・三の山・・・・
一、■御敵山口九郎二郎
廿の年、三の山・・・・九郎二郎・・・・あら川又蔵・・』〈信長公記〉
このなかの内容を今刻んで紹介してきましたが、同じ文二つあるわけです。ただし位相が違って
おり、叙述体系が変えてある中での違いです。
外側、「四月十七日」「織田上総介信長公十九の御年」
「山口左馬助・子息九郎二郎、」「廿年(はたちのとし)、」「父子、」
内側 「四月十七日」「織田上総介信長公十九の御年」
■「御敵山口九郎二郎廿の年」
同じ文言があるので注意してみても何もなさそうに通り過ぎてしまいそうです。★が
森可成の廿年
■の「廿の年」が前詰まりになっているので「二郎」に引っ付く山口(木村又蔵)の年齢
で時空を飛ばした20歳で、桶狭間時の年齢というのでしょう。
「御敵山口」で上の「山口左馬介」と捉えるか、ということについては一世代ずらした山口
左馬助で、●の図式が「山口左馬助A」「山口飛弾守A(又蔵A)」となった図式Aがもう
一つできるということになります。
「山口△△△九郎二郎廿の年」として別姓の配偶者一組という表記(吾妻鏡にもある)に読む
ことを期待したものでしょう。「父子」というのに対応する「□□」というものを下の方で受け止め
よい語句を探すということになると思います。すでに読んできましたように、山口左馬助Aは太田
和泉守でその連れ合いが山口九郎と取れます。山口九郎を森可成と取りますと、説明がし難い
多くのことが解けてきそうです。なお一般に読まれる〈甫庵信長記〉には山口左馬助父子が
今川義元に殺されたという記事はありません。
「亦中村鳴海の両城には山口左馬助父子入れ置くかれたりけるが、恨みを含む仔細あつて
謀叛を企て、駿河勢を引き入れ、あまつさえ大高沓懸二箇所の城をも、調略を以って敵城
となす。」〈甫庵信長記〉
があってそのあとは記述がなく、あとすぐ「永禄三年」の「沓懸」の記事となっていて、
この事件と桶狭間とが関係が深いことは示唆されていますが、これは七年前の天文弐十弐年
、三の山合戦より前、信秀の死亡のころくらいの話ですから戦いの舞台の説明はあるにしても、
戦いの経過を述べるのに役立つようものではないようです。
すなわち調略という語で山口左馬助と桶狭間を語ろうとし、山口父子は太田和泉守も入るという
ことも表わすと思わせるものです。十年ほど前にやったことは、今回のチョウリャクには
関係ないが、こんどの調略には山口父子も関わっているということと思われます。いいたいことは
二つあり、一つはこの文スト−りーとしてだけ読むのでなく、ワードでも読む。アナログ的だけで
なく、デジタル的にも読むということ、文意の大筋を理解してあとは切断して表記を見るということ
です。つまり
山口左馬介父子 恨みを含む仔細あり
(山口左馬助父子) 謀叛をもって駿河勢を引き入れ
大高城沓懸城
調略をもって敵城となす。
取り出し方は少々人により違うものが出てきそうですが、これだけ抽出するだけで、かなり元文
のイメージが変わってきます。
10年ほど前のことがあれば、現在のことがあるはずであり、主語の表記が重要らしい、巾広さの
あるものとなっていて、応用が効きそうということもあり、二通りは最低よめそうだとみれます。
この元文だっら、読者はこれをみて怒るはずです。この文に書いてある内容はなにも語られる
ことなく桶狭間の実戦に入ってしまってそのままになってしまうからです。しかし昔の人は怒らな
かった、それは太田牛一が其の話は別のところで用意しくれている、本書に形を変えてある程
度ことはのべてあるという安心感があるためでもありますが、いまこの戦いどうなるか誰もの
関心はそこに移っているなかで太田牛一の調略の文字に気づく、現山口左馬助の調略と、太田
牛一が読者に仕掛けたチョウリャクもあるかもしれない読めば実戦の経緯がこれと結びついて
くるのでしょう。実際も、織田領内の今川方の離反があったのかも知れません。大高城も敵の
手に渡りそうなって慌てています(軍議の議題になっている)。鷲津丸根の砦の存在ぐらいは
そう問題でもなさそうだのに攻めてきて、落としてたいへん喜んでいます。大高城沓懸城には
徳川が入っています。一応これ敵方ですから、難なく敵方に渡したわけです。が実際は徳川は
「朱武者(あかむしや)」〈信長公記〉
ですから、信長の
「悉く朱武者(あかむしや)」〈信長公記〉
に対応するものです。武田山県昌景、徳川井伊直政、豊臣真田幸村で出てくる「赤」の流れの
もので、〈信長公記〉では「色は相まぎれず。」が要所で出ています〈桶狭間〉
二つ目は、名前や地名などが二つというだけではなく物体もそうで、ここで「調略」もかなり前
の調略と現在進行形のチョウリャクもありうるということです。物体の例で言えばシエクスピアの
「ヴェニスの商人」では肉と血の話しが出てきて、このトリックが物語の鍵をにぎるものとなってい
ます。これはどうも出来がよくないトリックでシェクスピアだから面白いとされるでしょうが一般の
人がこんなことで物語を作ると、常識では血の付いた肉を「肉」というのだから、ペテンだと軽く一蹴
されてしまうでしょう。これは「肉」は二つのあるという伝来の読みの公式を語ったものと取るべき
で日本式でいけば(ストーリーは多少アレンジしている)
判決文は、「肉(ルビ=ニク)」とかいてあり
「原告」の「肉=にく」と
弁護人の「肉=ニク」と
の争いがあって判決は、「肉(ニク)」(干からびた肉)で得ていたので、勝ったということ
かと思います。スペルや発音をちょっとくるわせてやれば可能でもあります。現実でも生きている
人間の肉とミイラの肉は区別されず表記は同じです。昔の人はその辺もう少しシビアだったとい
えそうです。シェクスピアにそんな読み方ないよというならそれでもよいでしょうが、それなら常識
的に見たほうが負けたという後味のわるさはどうなるのか、といいたいところです。
この調略のようにルビはなくとも二つというのが出てくる、年号でも同じで、養老と書いてある
から養老ととるべきでしょうが、そうではない場合もあります。現在の調略が問題になってきます。
テキスト人名注では、
「山口教継・教吉父子は今川氏に自殺を命ぜられたといわれるがその確証はがない。」
とされています。また謀叛に至った「恨み」もわかっていません。第一「山口左馬介」というのが
事績がありますが、漠然としている、一匹狼的な表記ですから、誰かに宛てるというのが要ると
感ずる存在です。しかし太田和泉守では違いすぎる、その@であって親の範囲を広げるとどうか、
というのも出てきます。二人の親(和泉には義理)かもしれないと、見当外れらしい推理をしていた
ら、森与三可成がこういうところで出てくると、表記で飛びつけます。
「織田与二郎」(織田信秀の「舎弟」)
が視野の内に入ってきます。織田与二郎の「与」と、「与三」の「与」の共通によるものですが、
これはあっという間に人物比定まで行き着くものです。話せば延々となるし、結論を言えば
ケシカランとなる多くの話の一つとなります。信頼を損なっても詰まらないから、追い追い進んで
いってある段階で少しずつ出していくしかない、という意外性がある部類のものです。この人物
が出てくると、信秀に一番近い人だから相続にからんできそうだから「恨み」もその辺のことが
あるとみるのが普通でもあります。信秀の「遷化」のあと謀叛をしていますので、もっと早く相続
の話しがあった、信長ももっと若くて買われていなかったという背景もあるかもしれません。
太田和泉守が「坂井大膳」の一面をもっていて領在であったという話のときに清洲の城守護代
「織田彦五郎」
が出ており、ここで太田和泉守は清洲の那古野弥五郎の重臣ともいえる位置にいたという示唆
があると思います。これは
「清須の那古野弥五郎内に丹羽兵蔵とてこざかしき者あり。」〈信長公記〉
でも大体わかります。脚注では「天文二十一年(1552)のことであろうか」とある21年ごろ
■「去程に、武衛様の臣下・・・簗田弥次右衛門・・・・・那古屋屋五郎・・・・・弥次右衛門
上総介殿へ参り御忠節仕るべきの趣内々申し上ぐる付いて御満足斜めならず。・・」
があり太田和泉はこのときに信長に転仕したと考えられます。清洲城が信長の手に落ちた
のはこれより三年後の弘治元年(1555)です。これは〈信長公記〉には日しか書いていません。
一般の人が見る〈甫庵信長記〉に書いてあるから弘治元年で、類書にもあって〈信長公記〉
の年が検証されていますが、〈甫庵信長記〉に書いてあるということでよいわけです。
したがってこの文の年代「天文弐十弐」というのは、太田和泉守は信長の旗下にいることに
「 なり、信長に随身した翌年の初めての戦闘をむかえて、スタートの年というとでやや大げさな
年代表記をしたといえそうですが、なぜ変な表記で年月日を書いたかという疑問が残ります。
太田牛一が「天文21年」を重視しているのは桶狭間で天文21年の三連発があることで窺え
ます。信長に転仕した年ということがわかりましたからそういえますし、ここの「弐十弐」という
一年違いの炙り出しがあることも、天文21年を特別重視している表れだということもいえそう
です。しかし■の文が「二十一年」かどうか、はっきりしない、突然桶狭間と関係ありといわれ
ても納得し難いという文句もでそうです。桶狭間に次の変な挿入があります。
「(服部小平太、毛利新介が今川義元を討ち取った)。是編(ひとえ)に先年清洲の城
において武衛様を悉く攻め殺し候の時、御舎弟を一人生捕り、助け申され候、其冥加忽ち
来たって義元の頸をとり給ふと人々風聞(ほのきき)候なり。運の尽きたる験にや。★」〈信長公記〉
これは引っ掛けられていますが武衛(斯波氏)の弟を助け、その人の名前はわかっているという
事実の面もあり、「生(牛一)捕り」もいっていそうです。ここの「武衛」が■の文の「武衛」につな
がり簗田と服部、毛利がそれと呼応しています。服部という名前は秀次事件に出てきます。
あのとき、信長がよろこんで受け入れてくれたのが今日の結果に繋がったといっているわけです
が■の文の「御満足斜めならず」がこのあと又出てきて、それが「山口左馬介・同九郎二郎父子
を呼び出すことになっています。★のあとの文が
「おけはざま・・・・・清須(「須」は「シ+頁」の字でルビなし、「かい」と読むよう。)・・・
・・・御満足斜めならず。・・・
一、山口左馬助・同九郎二郎父子・・・・鳴海・・・・鳴海・・・鳴海・・・子息九郎二郎
・・・・山口左馬助・・・・山口左馬助・九郎二郎両人・・・・・山口左馬助・・・」〈信長公記〉
と続いています。桶狭間のあとの「一、」の内の「山口」が「天文弐十弐年」の「廿の年」の
「一、御敵山口九郎二郎」
のところへ戻っているといえます。ここで一つだけ確認しておきますと、桶狭間の間違った年次
表記
@天文廿一年 壬子 五月十七日
A天文廿一□ 壬子(細字) 五月十九日
B天文廿一年 壬子(細字) 五月十九日
というものは信長に仕えた年を、桶狭間の起点として重視したものであり、
天文弐十弐年 癸丑(細字) 四月十七日
も桶狭間の山口を受けているから、天文廿一年を重視した天文「弐十弐」年といえそうです。
したがってこの桶狭間のおかしい表記を消すということで「天文弐十弐」という表記を作った、
といえそうです。
これで正式の書き方が上のBというのがわかりますから、Bを消して、@はAで消すという
という消し方にしたといえます。表記が違う場合消すという意味も出てきます。もちろん筆者の
やったように、Cとして
天文廿一□ 壬子 五月十八日
があるはずだから、どこかでそれを入れて消すという方法もありこれは著者の視野には入って
いたと思われます。しかし同じ枠内に入れないと消せないというのでちょっと途中がわずらわしい
というのがあると思います。太田牛一でも芭蕉らもそうですが自分の書いたことで後年説がいろいろ
分かれるのはありえないと思って書いていますから何通りかがあって、また相互証明もできる
ようにされています。このケースでいえば、簗田が信長に会った年が大体、天文二十一年であろうと
いうのは、桶狭間の変な記事で証明されたといえますし、梁田が太田和泉守を表わしていそうだ
ということなども判ってきました。なお文章に感情が出ているのも面白いところです。
太田和泉守が「御忠節仕るべきの趣内々申し上げるに付いて」、信長は「御満足斜めならず。」
でしたが、信長は「よしもと」の首を「御覧じ」ても「御満足斜めならず」でした。それほど信長が
喜んでくれたと自慢しているようですが、それは違うようです。本人がこれほどうれしいことはなか
った、という述懐しているとみるのが自然です。雇主に対する感謝の気持ちがあったと思います。
ここの山口の九郎の表現の工夫もあります。織田信長800の人数に対して、1500の人数を
率いて戦ったのは20歳の九郎二郎一人という表現になっており、若いのにたいしたもんだ、と
いうことになります。また
「北赤塚の郷へはなるみより十五・六町あり、九郎二郎人数千五百ばかりにて赤塚へかけだし候。」
とあり若々しくて一生懸命という感じが出ていて好感が持てるところに、今川義元に自殺させられ
てしまいましたから、惜しいというのがあります。しかも九郎という漠然としたものになっています
から追跡できないということにしたまま舞台をさらせたわけですから、みなが不親切だと怒りだす
という状態に置いたままにしています。ここの織田信長人数「八百ばかり」というのは、孤立無援に
なっても、
「究竟の度々の覚えの侍衆七・八百甍を並べて御座候間、御合戦に及び一度も不覚これなし。」
の800に対応している思われるので、桶狭間、信長800、太田和泉守等1500、佐々千秋500
で使えそうだということで今までも加味してきています。
森可成の登場によって、今川義元の山口父子成敗はなかったと考えられます。他のことで怒った
と見られます。また森可成が山口の子として登場してきたことによって、古田の本巣の山口との繋が
が見えてきました。さきほどの
山口九郎20歳(森可成)
●山口左馬介@ーーー‖
山口左馬介A26歳(太田和泉)
の●が逆に山口九郎二郎から出てきたということで「本巣」の「安藤伊賀守守(森)就」類縁
の人物が浮かび上がってきたといえます。
実在として考証されている山口弘継、教吉などの存在がこの山口という表記の
採用に影響があったもいえそうです。ただいわゆる山口事件がなかったといっても、事実として
あったことが必ず反映されているはずです。今川と織田の間に徳川が入っていて、桶狭間で
織田方になっていますから変わり目の辺りで、悲喜劇があったのかもしれません。山口城の
戸部新左衛門の語りもあるからまだ油断ができません。〈奥の細道〉に「戸部某(なにがし)」
という郡守が出てきますがこれが何を暗示しているのかわかりません。
(13)次郎三郎
酒井左衛門尉のこの間の話の結末は大久保彦左衛門の桶狭間にあります。
『義元が尾張の国へ出陣のとき、□□□□殿もおともして出発した。
義元は駿河、遠江、三カ国の兵を集めて、
駿府を出発、その日
藤枝に着いた。
先手の衆は島田、金谷、日坂、懸河に着く。
翌日
藤枝を出発。
懸河に着く。
先手は原河、袋井・見付・池田に着く。
翌日
懸河を出発、
引間に着く。
軍勢は本坂と今切に両手にわかれてすすみ、御油、赤坂で合流する。
義元は引間を出発、
吉田に着く。
先手は下地之御位、小坂井、国府、御油、赤坂に陣を取る。
翌日
義元も
知立に到着。』
となっています。ダラダラと書き流されているので見落としてしまいますがこの文二つに分かれて
いるのを一つにしたという感じをうけるものです。つまり一行目は別として、地点を追っかけていくと
一段右へずらした部分は今川義元の行動で繋がっています。もう一つ先手(衆)という人物がいる
その行動と二つがあります。これは誰かという問題が出てきたとき□□□□殿であると見るのは
それしか見当たらないので一番妥当な見方といえます。この
□□□□□□=「次郎三郎元康(家康)」
です。これを伏せずに徳川家康を出すと、あの家康のことだから大久保が参考のため、親切心で
徳川家康の動向を挿入したのだろうと思ってしまいますから、飛ばされておしまいとなってしま
います。本の題名〈三河物語〉だから仕方がないことでもあります。この表記は重要で
「小瀬三郎次郎清長」
と同じで三人、「次郎」「三郎」「元康」が組み込まれている、
「次郎」=24歳 元康@とする
「三郎」=19歳 元康Aとする、
「元康」
ともいうべき三人で、この「元康」が酒井左衛門尉でしょう。大久保の世界では
「原見石主水(元泰)」
という人物が出てきますから「孕石和泉守」→「朶(もと=えだ)石和泉守」→「野々村(俵屋宗達の
名前)主水正」という巡りなどで、
和泉守ー坂井大膳ー坂井左衛門
というものとなります。坂井左衛門尉は武勇一本の忠実な臣下というものでなく大久保によれば
『酒井左衛門尉(忠次)は内々に織田弾正之忠と手を握り、そのうえで広忠に難題をいい、
うまくゆけば城をとろうと考え・・・』
というような存在です。
このため今川義元が軍議で出した結論
「十八日
の夜に入り、大高城へ兵糧郎入れ、」
佐久間が信長に報告した内容
「十八日夜に入り、大高
の城へ兵糧入れ」
というほんの少しの違いしかない一致をみているといえます。
これは〈前著〉で既述のことですが家康の「朱武者」、信長の「朱武者」の連結がありますので
その説明にすぎないものです。この徳川の味方としての行動は、戦況によっては変わり得るもので
あり、織田信長としては頼りとしたものではなかったのでしょうが、織田内部では徳川の味方が勝利
へに貢献したという見方があったというのは想像できるところでこれが、あとあと尾を引いたものと思わ
れます。
「次郎三郎(元康)」が出ましたが、徳川家康の別表記として
@二郎三郎(元康)〈三河物語〉
A二郎三郎(元信)〈三河後風土記〉
がありさらにもう一つ
B世良田二郎三郎(元信)〈史疑〉
があり、このBの世良田は「徳川家康が二人いた」という場合のもう一人の徳川家康のことです。
元信となっているのは、種本が〈三河後風土記〉であったということが暗示されているようです。
この書物の名前が隠されたのは工夫がされたといえそうです。この場合も二郎三郎二人と
読まれると波及するところが大きいという例です。一般向けにはそっとして置こうとされてきたことの
結果がそんな読み方は聞いたことがないという反発を招くもととなっています。
世良田は徳川の先祖という新田義貞の郷であり、群馬県太田市世良田であり、「世良田東照宮」
もあり明治の初めに早くも狙い目の厳しい書物が出されていたといえます。もういつまでほっとくの
か、というところまできています。
(14)新与四郎
Dゾーンの山口左馬助から話しが横に入りましたが、
は Dゾーン Aゾーン
赤川彦右衛門 赤河彦右衛門
神戸市左衛門 神部市左衛門
永田次郎右衛門 永田四郎右衛門
山口左馬助 河尻与四郎「十六歳」
の対比において、太字の部分の大きな違いが「山口」=「河尻」ではないか、孫世代を「山口」
という名前に変えたかもしれないというところから話が進みました。一応Dゾーンの引き当てをして
みますと、次のようになりそうです。真ん中が、桶狭間四人、右端が、変な名前の四人との連結です。
赤川彦右衛門 → 賀藤弥三郎 → 河崎伝助
神戸市左衛門 → 佐脇藤八 → 大窪半介(ハンカイと云う)
永田次郎右衛門 → 長谷川橋介 → 土肥孫左衛門
山口左馬助 → 山口飛弾守 → 鑓武藤小瀬修理大夫
「赤川彦右衛門」はなぜ「賀藤弥三郎」かということは〈辞典〉などに、加藤弥三郎が赤川景弘
を殺害したという記事が載っています(熱田〈加藤家史〉)。この景弘が彦右衛門と認められるよう
です。これは〈信長公記〉の記事と加藤家史の関係を示すものとして重要なので利用しましたが、
他の引き当てから必然的に赤川ー加藤が出てくれば、加藤家史が〈信長公記〉の解説をしようと
したものといえるのかもしれません。〈辞典〉では加藤弥三郎は、別名を「岩室勘右衛門」と書かれ
います。つまり〈桶狭間〉の四人の前にいるのは「岩室長門守」ですので、この全体を締めている
のは太田和泉守ということもわかる、また「勘右衛門」の「勘」は「渡辺勘兵衛」「御宿勘兵衛」「山
本勘助」「織田勘十郎」など人物語りの「勘」なので、「加藤弥三郎」は「岩室長門守」の解説を
するために、加藤家史が設定した存在といえそうです。つまり
岩室勘右衛門
‖ーーーーーーー加藤弥三郎
岩室長門守(太田和泉)
ということで「勘」の意味も両性具有的な表記ともいえるのでしょう。
「河崎伝助」と「加藤弥三郎」が結べるのは既出、「河崎」三表記、
「河崎与助」「河崎忠三郎」「河崎伝助」
から、導きだせる「忠三郎」の「三郎」と「加藤弥三郎」の「三郎」によります。「賀藤三丞」とか
「蒲生忠三郎」などにも「河崎」が「三郎」で繋がるようです。まあここで〈甫庵信長記〉人名索引
ミスに乗っかってみますと、索引に
「川崎源太左衛門 下巻129頁」
が出ています。これは〈信長公記〉にはありません。129頁を見ますと
「蒲生右衛門大夫が家の子・・下知して・・・・・。同二日夜の夜に入り、●山崎源太左衛門
居城山崎へ引退く。蒲生右衛門大夫・・・・・子息蒲生忠三郎氏郷方へ・・・右衛門大夫・
蒲生・・・・惟任・・・安土山をば木村次郎左衛門尉・・・・」〈甫庵信長記〉
があり、●が索引で「川崎源太左衛門」となっていました。「奥田三川」という表記があり、これは「さん
せん」ですから「山川」となるし、赤穂浪士討ち入りのときの合言葉が「山」と「川」でしたから
「上下」と同じように対となりますから「山崎」は「川崎」でよいはずでこれで蒲生氏郷を忠三郎と
した理由もわかります。つまり
「蒲生忠三郎」==「河崎忠三郎」→加藤弥三郎→木村次郎左衛門A(又蔵)
という暗示がされていたと思われます。
「明智日向守、山崎源太左衛門」〈甫庵信長記〉
があり、山崎源太左衛門は太田和泉守と近い存在とみていましたが、蒲生関係の人物、家の子
かもしれないというのはわかりませんでした。類書では有名な蒲生源左衛門も両書にはでてきて
いません。この「山崎源太左衛門」がそうだとすると、出自がわかってきそうです。本文の●が
印刷ミスで、索引の「川崎源太左衛門」の方が合っていて、わかりやすくしたと思われます。
「神戸市左衛門は、「生駒市左衛門」がありこれは大谷吉隆の連れ合いといった人物で、「賀藤市
左衛門」もあります。これは先ほどの飯尾毛介・賀藤辰の組み合わせの「辰」の性格を語るもので
「飯尾」「堀尾」の間が加藤氏ということでしょう。
永(長)田次郎右衛門は、「次郎」で森可成の二男、太田和泉守の嫡男でAゾーンの四郎でもありえ
ます。「土肥孫左衛門」は太田孫左衛門、石田孫左衛門があって「土肥助次郎」があり、太田和泉
守Aとしても森乱丸にふさわしいといえます。
山口左馬助は一人「山口河尻左馬助」という形になっている、武藤小瀬修理大夫という複数が
一人に集中した感じです。山口が先ほど@ABと三つ上げましたがこの武藤も三人といえそうな
感じが出ていることは、小瀬三郎次郎清長にも影響を与えそうです。これは「家康」の「次郎三郎元康」と
いう表記にフィットしますので、大久保彦左衛門は山口左馬助と坂井左衛門尉と結びつけたと
いえます。太田牛一は大久保の桶狭間で首を半分切られた、体中傷だらけの徳川方の
「石川六左衛門尉」で出てくると思いますが、今川方は、織田が山に登って高みに居たので
人数を5000とみたといっています。上から下で軍勢を見るとすくなくみえるというようなことを
入っています。織田の軍勢3000弱というのが合っていそうです。
織田勘十郎信行を暗殺した場面に山口飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝と池田勝三郎が登場
し身方が原で「長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎」が、家康公のもとで
戦死するというのは表記を消したといえますが、この対置も一応しておいた方がよいと
思います。つまり、河尻青貝となると河尻の名前でしょう。
信行 山口飛騨守、長谷川橋介、 河尻 青貝 池田勝三郎
| | | | |
味方が原 山口飛弾、長谷川橋介 (賀藤)弥三郎 佐脇藤八 佐久間右衛門
が念頭にある、名前の掲示といえます。しかるに〈信長公記〉は「河尻・青貝」としておりますので
この流れでは「青貝」=「佐脇(藤八)」を想定していると考えられます。一身に二つ異種の人がありうる、
織田造酒(さけの)丞、織田造酒(サケノ)丞があるのも肯けるところです。既述の「青貝」がよく
わからないが「藤八」の意味があるとすれば家康公に河尻が接近する、坂井と山口の関係を示唆する
一つともなりえます。
酒井左衛門の子息「与四郎」=河尻与四郎=鉄砲屋与四郎の連鎖もあります。
『相撲・・・甲賀の伴正林・・・年齢十八・九・・・・相撲・・・・鉄砲屋与四郎・・・与四郎私宅・・
熨斗付(ノシツケ)の太刀・・・・拝領。名誉の次第なり。』〈信長公記〉
相撲は木村又蔵でこの「伴」は「塙」で「塙九郎左衛門直政」の塙に同じ、テキストでは「とも」とも
読む例があるようですから、「林正伴」「林正友」でもよさそうです。木村又蔵は正勝で、感じでは
これは「山口飛弾守」にあてられそうです。この「ノシツキ」は「あら川与十郎」の死体を引っ張るところ
で出てきました。
『山口左馬助・・・山口九郎二郎廿の年・・・あら川又蔵・・・・あら川与十郎・あら川喜右衛門
・蜂屋般若介・長谷川埃介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞、・・・・・・
あら川与十郎・・・のし付・・・のし付・・・のし付・頸・胴体供に引き勝つなり。』
内藤、青山で小豆坂、山口、長谷川、賀藤で桶狭間を出し、のし付で与四郎と山口をつなぎ、
戸田で林、蜂屋=賀藤で木村又蔵Aと縁の深い加藤清正を出すなど伴正林を引き立てることを
やっている一節でもあります。次の年齢は桶狭間での「山口飛弾守」の年齢20に近いものでも
あります。
『前田犬千代利家(ルビ=1538〜1599)生年十八(ママ)歳なり』〈三河後風土記〉
とある佐脇藤八と同じくらいです。この伴正林の相撲があったこの年は
桶狭間19年後天正七年で、そのとき十八・九ですから、伴正林は桶狭間の年くらいの生まれたという
ことになりますので「山口飛弾守」=「山口左馬助B」の子といえます。伴正林は加藤家の木村
又蔵です。木村又蔵A=山口左馬助が与四郎と絡んだのですから、酒井左衛門尉と山口左馬
助とは徹底的に絡めて描かれているということです。
ここに出ている「戸田宗二郎」は完全な孤立表記ですが、わかりにくいのは特別重要なのかも
しれません。テキスト人名索引では
「戸田忠次」(戸田三左衛門)
という人物が横に出ています。〈三河物語〉〈三河後風土記〉は「二連木の戸田丹波守(重貞)」を出
してきて、この戸田(忠次)を受けているようです。二連木は「林」で「正林」の「林」とか、織田の林氏
にも繋げていそうです。〈三河物語〉では、このあたり佐脇、八幡、吉田などが出てくるし、蜂屋半之
丞も顔をだします。
「佐脇と八幡・・・・吉田、牛久保・・牛久保・・・一の宮・・・八幡・・佐脇・・・一の宮・・・一の宮・・
八幡・・・牛久保・・・八幡・・・佐脇 ・・・八幡・・二連木、牛久保、佐脇、八幡・・・小坂井、吉田
牛久保、・・・牛久保の牧野新次郎(貞成)・・・西郷(正勝)・・・二連木の戸田丹波守・・・二連木
から再々吉田・・吉田・・・吉田と二連木・・・戸田丹波守・・・松平丹波守・・・吉田・・・・二連木口
のとりででは丹波守・・・牧野惣次郎・・・蜂屋半之丞・・・半之丞・・・蜂屋・・・半之丞・・・・蜂屋
半之丞・・・半之丞・・・母・・母・・・・半之丞・・・半之丞・・・半之丞の母・・吉田・・・」
というもので「吉田」は「吉田の某(それがし)」(甫庵信長記)という表記があり、和田山を背景にした
戦いで佐久間、木下、丹羽の箕作攻めの城方として出てきます。「吉田」は
『三州の内吉田の城(脚注=豊橋市吉田町)坂井左衛門尉所』
となっており、坂井忠次の属性で、信長公がここへきました。これは一方「伴正林」と本能寺で討死
する「村田吉五」の「吉」でもありますから太田和泉守をも示すものでもあります。常山は「吉田六之
助(介)」を用意し、その前に「村田出羽吉次(よしつぐ)」をもってきています。出羽は簗田、佐久間
の出羽であり、大谷吉継は吉次もあるようですがこれも吉+次郎ともいえるのでしょう。牛久保は当然
牛窪が前提となっており、彦左衛門は大窪が大久保というのを踏まえているといえます。佐久間正勝
の領地は牛久です。「惣次郎」も「宗二郎」です。大久保の彦左衛門のこの東三河平定の一節は
〈信長公記〉のここと結んだ、大窪が出たので喜んでやったことだったと思われます。
もちろんここに長谷川橋介のような「埃介」もでていますから、戸田の「宗二郎」は「宗二」から「宗仁」、
になり長谷川宗仁が与四郎に懸かっていく、「戸田与次」という表記は「与次郎」をいい「よじろう」
は「よしろう」に通じます。
また戸田は土田ですから長谷川橋介との接点が生じます。織田武蔵守といえば勘十郎信行です
が、土田氏です。信行の暗殺に山口飛騨守と長谷川橋介、池田勝三郎がいました。
大体「戸田」というのは「こだ」であり、「小田」→「太田」にもなりかねない、戸川肥後守達安は
小川肥後守達安にもなる、といわれると美濃屋小四郎→小川→和泉でそれはすぐ証明されます。
戸田の「宗」、太田の「宗」、小川の「達」です。とにかく「戸田」は
重政= 戸田 =忠次
を抱える矛盾した表記ですから山口河尻坂井の桶狭間の絡みは太田和泉守の内部には常に働いて
いるもので、とくに目新しいものではなく、前提としてもよいはずです。本能寺後の甲斐の一揆に
よる川尻肥前守の戦死も同じです。
このように変な表記の4人が他のところに付着して理解をしやすくしている、中々よく考えられた
人名配列だと思われます。当代ゾーンCゾーンとの対比では大窪がやはり問題となり、仮に下の
ように対比すると
★下方左近A → 大窪半介 ★佐々隼人正 → 武藤小瀬修理大夫
★佐々孫介 → 土肥孫左衛門
★中野又兵衛 → 河崎伝助
ともなり三兄弟は、四兄弟であったという示唆もあるのかもしれません。大窪半介に相当する人物は
戦国時代のことですから、一族における役割は大きいとみるのが合っていそうです。
(14)尾張の水野
先ほどの
「村田出羽吉次」
は〈常山奇談〉の「井口兄弟武勇の事」の一節に出てきます。前名は「井口猪之助」といい
★★「三宅藤十郎」
と一城をまかされていたほどの人物です。この「猪之助」には三人の弟(おとうと)がおり、
三人とも黒田孝隆のもとで戦死してしまいます。それにまつわる話がこの一節ですが、
「井口」は〈信長公記〉では「佐々」が出てきた蛇池の一節に出ている「井口太郎左衛門」しかいま
せん。これは「水野太郎左衛門」のことではないかというのは既述ですが、何よりも下に三兄弟が
いるという話の特殊な構成が目に付くところです。この人物の従者は
「山崎喜兵衛」
というようです。「井口」が「佐々」「水野」としても「三宅」と「山崎」がどう絡んでくるかというのも
黒田官兵衛が語るのかもしれません。テキスト人名索引では水野家の家祖は尾張の
小河の住人「重房」せすが、その子
「重清」
が、尾張春日井郡山田荘移ってきて水野に改めた、とされています。この「重清」は高山右近の
相棒茨木城主、中川瀬兵衛清秀が「佐渡守重清」の子ということを〈辞典〉から紹介しましたが、
同じ名前です。「重清」というのは水野の開祖というのだからやや古い時代の人のような印象を
受けます。佐渡守の意味合いを伴った象徴的な、伝説的な名前のような感じです。
重清は太田和泉など三兄弟の長兄だから、三兄弟より大型の人物だったのではないかと
思われますが、それだけに影響力が大きかった、水野の表記の多様さがそれを表わしていると思い
ます。二書で
「水野金吾」「水野国松」「水野久(九)蔵」「水野監物」「水野下野守」「水野宗介」
「水野宗兵衛」「水野大膳」「水野帯刀」「水野藤次郎」「水野平兵衛」「水野次右衛門」
があり、信長は村木砦の戦いの前には「水野金吾」の小河の構えに立ち寄っています(信長公記)。
この「金吾」というのは「金五」という意味のものかもしれません。中川金右衛門、中川八郎右衛門
などの表記から察せられるものすが「五」というのは「五郎」合わせで太田和泉の関係を匂わされた
と、「重清A」ともいうべき存在ということのようです。この小川ー和泉関連の「水野」は次の右端の
Cゾーン Bゾーン 四兄弟
下方左近 大窪半介 水野重清
(三兄弟)佐々隼人正、 鑓武藤小瀬 明智光秀
佐々孫介、 土肥孫左衛門 直助
中野又兵衛 河崎伝助 重政
という四兄弟の長兄の姓だといえそうです。これは、Aゾーンの「▲永田四郎右衛門」がわからない
から「永田」は、「永野」=「水野」ですから、そこからの線でも察せられるものです。才において
森蘭丸となると太田和泉守に全般的に似ている、凌駕するというところまでは中々行かないかも
知れませんが「重清」とか「えびな=藤八」のような人はある分野では軽々と太田和泉守の能
力を超えてしまうところがあります。それがとくに戦いの部分へ繋がりやすい、また大きな破壊に
至りやすいから、いまでいうシビリアンコントロールのような制度的権威を持って押さえようとする
たえまない努力があったといえます。そういう文化、伝統を引き継いでいる時代だからこういうわかり
にくい説明がいるということになります。
親子、兄弟、夫婦といえども争いがありますから、他人同士では避けられない、今川と織田が争う
のはありえますが、致命的なところまでお互いが行かさないようにしようとしていた、国際法のよう
なものを作って、無視しないようにしょういう意思が働いていた、といえます。今川義元は第一次
4万2千も動員していますが、これは領国の動員訓練のもので本気でない、とろい戦いというのが
目に付くところです。 とことんやってしまうという恐れを常に感じ自戒していたといえます。、
、 ここの「水野宗兵衛」の「宗兵衛」という表記は滅多にあるものではなく、〈信長公記〉ではこれ
一つかもしれません。〈甫庵信長記〉でも「水野宗兵衛尉」と「長谷川宗兵衛」だけのようです。
これが〈武功夜話〉で出てくる「宗兵衛」ではないかと思います。魅力的な人物です。
『名だたる武辺者・・・富樫惣兵衛、これは加州浪人屈強の兵法者なり。』
『遊佐河内守生国は加州なり。諸国流浪の武者修行の者、富樫惣兵衛なる者同行なり。・・・・
武辺の者と見きわめ候も、甚だ困窮の果て雲球(生駒)屋敷を相尋ね候由。・・・次第に由緒
たしかなる者と相分り候。兵術の指南等に珍重に存じられいよいよ寵愛なされ候。』
この「遊佐河内(守)」は楠木流の兵法の奥義に達しているほどの人物ですから太田和泉に重ねられ
ていますが、富樫惣兵衛を信長のところへ連れてきました。この人物は「坪内宗兵衛」「前野宗兵衛」
と名前を変えています。〈武功夜話〉には「水野」がないので、また〈武功夜話〉の「坪内」が二書には
なくよくわからないので
「坪内」=「宗兵衛」=「水野」
から「坪内」は「水野」ではないかと思います。この武者修行の内容は、各地の戦いでの傭兵となって
渡り歩いている、戦のプロとしての技量が買われたといった感じのものです。
ここの「水野下野守」はテキストでは「水野信元」とされています。これだと家康の母(お大)の兄
ということになります。テキスト人名注では、水野氏は愛知県智多郡東浦町緒川に住して小河と称した
小河(水野)重房がその家祖で、その子重清が尾張春日郡山田荘に移って水野と改めたとあります。
これはかなり前の話で、その曾孫あたりが信長の時代のようですが、一門が刈谷にも移っています
ので、三河の水野氏は尾張の水野氏といえます。「元康@」の家康は、次第に寄っては、太田
和泉守の親類といえるのかもしれません。
「水野下野守」は「小川」が属性です。信長が村木砦へ出陣の際「水野下野守」に会っています。
「小川・・・・・水野下野守・・・・小川・・・・
一、上総介信長・・・・・信長・・・・・上総介殿・・・・・織田孫三郎・・・・★六鹿・・・・・
・・・・水野金吾・・・・水野金吾・・・・安東伊賀守・・・・安藤伊賀守・・・道三・・・」〈信長公記〉
で、信長が「水野下野守に御参会」となっています。「一、」以下が、戦の顛末ですが、人名は
これだけの登場です。まず★の人物が人名索引にも載っておらず、わからないので目障りですが
、 華々しく出てきます。
「是又・・・・・・・外丸(そとまる)一番に六鹿と云ふ者乗入なり。・・・」〈信長公記〉
一番乗りをした、今となればこれは太田和泉守でしょう。周りの雰囲気もその登場を促しています。
「下野守」というのは太田和泉守関連の表記で、ここの「伊賀守」もそうですが、
「小川」
が出てきます。この小川は既述ですが、ここから入れば又別の側面が出てきます。
■「鹿苑寺殿・・・平田和泉・・・・二条殿・・・・三好・・・三好一党・・・・平田弐・・・・恵比須川・・
美濃屋の小四郎生年十六・・・・三条吉則二尺五寸・・・・・五六人・・十文字・・・和泉・・・
くるぶしもぬれぬ小川のみの亀に和泉は命取られぬるかな 」〈信長公記〉
がありましたから小川は和泉の属性でもあります。「六鹿」というのがどこからきたかというときに
「鹿苑寺」の鹿(ろく)が利いてきています。これは銀閣寺のことですが、ここでは人名に代わっています。
この寺の比定は又別の話です。
「六鹿」
となるとはっきりいえば、「蘇我入鹿」の「鹿」が意識されています。
「六」が重要ですから「六鹿」は「六六」であるとともに、「六鹿」は「鹿鹿」にもなります。
「6・6」=36で「三郎」が出てきます。「鹿鹿」は2鹿で相撲の「大鹿」「小鹿」に懸かるという
ことになるのでしょう。この■の一節は「2・3=6」が織り込まれて「六鹿」との繋ぎが考慮されて
いますし、「2・5=10」も金吾の「五」を睨んでいるようです。「恵比須」というのが「えびな」という
ものですから、「水野下野守」などを規定するのかもしれません。とにかく、この小川ー和泉関連の
水野は 水野某ーー下方左近A相当(大窪半介)+
三兄弟ーー佐々隼人正、佐々孫介、中野又兵衛
という四兄弟の長兄の姓だといえそうです。これは、Aゾーンの「▲永田四郎右衛門」がわからない
から「永田」は、「永野」=「水野」ですから、そこからの線でもありますが、先ほどの登場人物
★★「三宅藤十郎」
に役割があって「水野藤次郎」(信長公記)の「藤」もありますが「藤十郎」といえば「水野藤十郎」と
いうほど知られた人物が作られていますので、あっというまに「水野」がでてきます。常山は水野十郎
左衛門やら坂田藤十郎のことも出たあとの人でしょうから、「十郎」という名前をつけたのも
計算のうちでしょう。
「三宅」からは「左馬助」が出てきます。これも小豆坂に「山口左馬介」があり、ほかに常山のここ
は「井口」の「與(与)一」「太田牛一」「三兄弟」も出るから★★は小豆坂の記事と関連がある
ことになるのでしょう。三宅藤十郎は暗示的に
「水野(井口)」=下方左近=大窪半介で宛ててもよさそうです。変な表記で4人があって、四人
の兄弟のヒントになりましたが鑓武藤小瀬修理大夫という変な表記は2人だから、四人ではなく
五人ともなりえます。〈戦国〉の段階で、明智左馬助は義兄弟ではないかといっていますので、
それかならこの三宅の左馬助も入るかもしれません。 さらにもう一人「井口與一」とセットの
「山崎喜兵衛」
があり、「山崎肥前守」(信長公記)がありますので「河尻」を「肥前守」と紹介したのは小豆坂
の記事ですから、関連はいいたいというのがみえています。
常山は「井口與一」の出てくる話をもう一つ作っています。そこではこの山崎は
「山崎喜蔵」
となっています。これはさきほどの「山崎源太左衛門」「川崎源太左衛門」を意識したものと見ざる
をえません。つまり
蒲生氏郷
‖ ーーーーー山崎源太左衛門(水野氏)
山口飛弾守(木村常陸介
) ということではないかと思われます。蒲生の横山喜内(蒲生源左衛門)の「喜」が二つの「山崎」
「喜」であるという感じです。布施藤九郎(木村常陸介)の「藤」は「水野」の「藤」と繋がるよう
です。
A、ゾーンの神部市左衛門などは、織田の神戸氏がどこから出ているのか、よくわか
りませんでしたがここで、織田造酒丞の関連の人であるというのが判ってきそうです。また、赤川彦
右衛門がよくわからないのですが、Dゾーンでは加藤弥三郎に討たれたから、加藤に引き当てました
が〈辞典〉では、坂井道盛にも引き当てられています。
「三郎右衛門尉。通称{通盛}」
「佐久間信盛・村井貞勝・・」との連名の書状あり「かなり高い地位にあったとみなしてよいで
あろう」
とされています。したがって「武藤小瀬修理大夫」との対置ができるほどですから、森三左衛門
の姻戚筋の坂井右近とすると、明(赤)智一族として扱うことができそうです。Aゾーンの赤河は
織田造酒丞の下に出てきていますが、小瀬三右衛門も織田造酒丞嫡男ということのようですから、
こう関連づけることは合っているようです。
Bゾーンはそのような感じの表記として縦横に活用できるようにされていると思います。
(16)織田三郎五郎
大久保彦左衛門〈三河物語〉はこのように無視できない凄みを持ったものですが小豆坂合戦に
関しても通説として利用されている記述があります。再掲年表
『天文11壬寅(1542) 8月 今川義元、三河小豆坂で織田信秀に敗れる(甫庵、公記)
・・・・・・・・・・・・・・
天文17戌申(1548) 3月 今川義元、松平広忠のために織田信秀と三河
●小豆坂に戦う(
三河物語)。・・・・・
天文18己酉(1549) 11月 今川義元三河安祥城に織田信広を攻め捕え、松平竹千代
と交換。』
この●を大久保が、(三河では)小豆坂の合戦といわれる、と書いているので現在第2次小豆坂の
合戦というようになっているようです。この戦いは、二書には載っていませんので大久保の書いた
ことを太田牛一が、自分の著述の一環として認めているものかということが、関わってきそうです。
これについては連合艦隊の編成されることが、日本史の語りでは常套のことであることは〈前著〉で
も既述ですので小豆坂についてはどうかということを語ればよいことです。
つまり大久保は、この戦いがあったことを語っていますが、「天文十七年」であったことは書いていな
いのでどうして17年とされたか、という問題があります。通説とされているから総合的判断によって
いるので、筆者の持っている〈三河後風土記〉断片のなかではどうか、ということを述べておこうという
ことです。結果的に、
○17年にこの戦いがあった
○織田方の主役は交代していた
ということで書かれています。語られる内容が学問的ということからはほど遠く無視されているもの
ですが、表記でみれば、第一次合戦の登場人物の解説がされている、おそるべき内容のあるもの
が第二次の内容です。
第二次が織田信秀対今川義元との戦いの二回目、というのであれば、第二次と呼んでもよい
かもしれませんが、二回目は主役が代わっているので、二次とはいえないかもしれません。しかし
第一次を意識した、それとの連続下にある、その解説としてあるというのが17年のものであれば
第二次小豆坂といってもよいと思われます。桶狭間は第三次小豆坂というべき連続が意識されて
いて小豆坂からもってこないと内容にわからないところがあります。
三河のことは〈三河後風土記〉や大久保彦左衛門の著述などですが〈三河後風土記〉では
『然る所に織田備後守信秀天文十八年(一五四九)・・・五拾弐歳にて病死し給ふ。』 、など
となっており、年表(天文21年)にある通説の織田信秀死亡の年より、三年前というのはここでも
はっきりしています。死亡年齢も、年表では42歳ですが
五拾弐歳
となっていて、10年一昔、違わせてあります。この10年違っている点が〈三河後風土記〉の数字
が信用できるという証になると思われます。信秀の死を〈甫庵信長記〉と同じ年にしながらも、〈甫庵
信長記〉に書いてない死亡年齢を書いている、という独自性があります。自分のもの打ち出そう
としているものは、信頼できます。まず考えて自分のものを作り上げて、表現を考えるという二つの
段階があり、この場合、年齢の表記がおかしく、天文十八年を生かし、五拾弐歳を捨てようとして
いるのは明らかなようです。この天文十八年は信長16歳(甫庵信長記)ですから、信長誕生時の
信秀の年齢は、三つ考えられます。
42−16=26、
52−16=36、
42− 3−16=23、
となりそうです。当時は早婚だから若い方が合っているのでしょう。
年表では今川義元42、宿敵の織田信秀42、という没年になっています。これは少し出来すぎの
感じです。中野の又兵衛は、天文11年(1542)、小豆坂の合戦の時は17歳ですから、1542
実質15年前くらいに生まれいます。
1542−15=1527、これは大永七年で、今、これが太田牛一、坂井忠次の生まれた年とされています。
偶然の一致ということでよいのですが、一、二年の違いぐらいなら、戸籍簿で確認出来ないで
しょうから、一緒にしてしまえというのはありえるでしょう。ただ要人に限らず年齢がよくわかってる
のは奇跡的なことで、語りには必須という皆の意識が強かったと思われます。
したがつて天文十七年となると織田信秀が十八年初めの死ですから、信秀が活動できる時期か
どうか微妙な年になっています。
まして大久保は、三河でいう小豆坂の合戦は、
松平広忠23歳で亡くなった(病死)年
としていますが年表では松平広忠は、
天文18年、24歳で亡くなった
とされており、年表からみれば天文十八年が広忠の死亡としては合い、ただし年齢から見れば、
天文17年が合い、というややこしさがあります。しかしテキスト〈三河物語〉の脚注によれば
「天文十八年(1549)三月家臣に暗殺されたとも伝えられる。」
とありますから、広忠暗殺説では天文十八年ということのようです。
〈三河後風土記〉では松平広忠の死は織田信秀の死亡と同じ年、天文十八年(六月二日)で
あり、「弐拾五歳」となっています。但し暗殺の経緯が書いてありますから、テキスト脚注のもとに
なっている資料の一つかもしれません。一応暗殺の場合は天文18年、病死の場合は天文17年、
という食い違いが作られたという感じがします。
年齢は三つある、死因が二つある、大久保は小豆坂の一節のすぐあと、
「広忠はその年二十三にて病死なさった、」
と書いていますので、疑問ある年齢、死因を除外すれば確実なのは、広忠(という表記)の人の死
と、小豆坂の戦いは同年といってよいでしょう。あとは
「広忠」が二人
という操作がされているとみるのが自然です。これは広忠は心優しい人というのが定着した評価
となっている、一方この人物が暗殺される、という二重性がありますから、大体これはすぐわかること
です。したがって一応暗殺というのは作られた感じのするものです。一応年代を決める重要ごとなので
広忠暗殺について触れざるを得ません。〈三河風土記〉の語りは、岩松八弥という下手人を教唆した
人物がいる、ということです。
『天文十四年三月十九日戸田弾正頼光が娘を娶り給ふ。広忠卿の御近臣おのおの種々さま
の奇芸を顕しけり。然るに御近臣の岩松八弥{新田氏の末葉といふ}・・・遊芸はかつて知らず
よって皆人是をあざわらいけり。然るに八弥いかなる心底にや翌廿日 広忠卿御手水に
立ち給ふ所に・・・村正の脇ざしを抜き持ちて御後よりつき奉る・・・・・・植村新六郎家継・・・
三木の信孝・・・・八弥をつきとめけり。・・・広忠卿・・・(その幼児を許し)・・武士をやめさせ
幸若小太郎という舞太夫の弟子に下されけり。{私にいわくかの幼児は後年幸若与太夫と
号し 秀忠公の御前へおりおり出て古戦のものがたりを申し上げる、其の子忠八郎是又
御伽の衆となり以後舞太夫を御免なり。}』〈三河後風土記〉
ここの「戸田弾正頼光」という人物は
「爰に三州田原の領主戸田弾正忠頼満といふは、広忠卿の御舅にして、若君には
またの(ルビ:まま=継)外祖父なり。」
という説明があります。家康にとっては外祖父といっているようですが、同じ書物内で「頼光」「頼満」
があり、この子息が藤五郎綱光といい平手政秀の客分となっている、この親子が竹千代を織田
信秀に売ったというような設定になっているという曰くつきの人物です。
結論的にいえばこの頼光は坂井忠次と太田和泉の断面を表わしています。
「岩松八弥」が新田氏の出身というのは徳川の祖が新田氏で、これは群馬県太田市世良田と
関係付けられています。「岩松」は「石松」で、「三木」{信孝}も出て来ていますから、これはまあ
「森の石松」に利用されたかもしれません。一眼の、「八弥」、子息が幸若ですから幸若@とも
なるとこれは太田和泉守です。広忠はこのとき亡くなっていません。大久保は坂井忠次が暗殺
する動機があるというのは匂わしていました。
結論的にいえば年表どおり、天文十七年に三河で言う小豆坂合戦があったということでよい
ようです。
これは〈三河後風土記〉に「天文十七年」に小豆坂の合戦がありここでも七本鑓が述べられ、登場
人物も天正11年の〈甫庵信長記〉の人名表にある人物が出て来ています。戦国以後の人が
ずっと読み続けてきたものをベースにしているということですからまず基本に乗っ取っていると
思います。しかし期待通りではなかったので、これでは頼りない話だ、として切り捨てられて、
それも仕方がないということで援用されないことになったと思われます。しかし、似て非なり、
ということが重要で、似たようなものを作って違いを浮き立たせる、時を経て同じ場面を再現して
語る、というのは常套手段でそれで見ることが必要です。
時空を飛び越えた再現ならわかりやすいが、この場合は空は同じ、時だけ飛び越えている
のでわかりにくいだけです。ちょと対比してみますと一例
小豆坂合戦の人名表
区分 〈甫庵信長記〉 〈三河後風土記〉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ロ Aゾーン
織田備後守殿
信秀 信秀 信秀 信秀 信秀
織田三郎五郎信広 織田信広 織田三郎五郎信広
舎弟孫三郎殿 織田孫三郎
信光 織田孫三郎 信光 信光 信光
造酒丞(さけのじよう)
備後守殿、御舎弟織田与次郎殿 与次郎
信康 与次郎信康
同織田四郎次郎殿 同四郎次郎
信実 同四郎次郎信実
同孫次郎信継 同源十郎信次
赤河彦右衛門 赤
川彦右衛門 赤川 赤川彦右衛門
神部市左衛門 神
戸市左衛門 神戸 神戸平右衛門
内藤勝介 内藤
東助 内藤 内藤東助 平手・中務
河尻与四郎「十六歳」
川尻与兵衛
重能十六歳 川尻 川尻・与兵衛・同与四郎
永田四郎右衛門 永田四郎右衛門 永田 永田四郎右衛門
重家
那古野弥五郎
名越弥五郎 名越 名越弥五郎
信形
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Bゾーン
◎鑓武藤小瀬修理大夫 鑓武藤
三位入道
小瀬修理 武藤 武藤三位・小瀬
◎河崎伝助
川崎伝助 川崎 川崎
◎大窪半介{俗異名ハンカイと云) 大
久保
◎土肥孫左衛門 土肥孫左衛門 土肥 土肥
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Cゾーン
@織田孫三郎
津田孫三郎
信光
A織田造酒丞 織田造酒之丞
信房
B下方左近{弥三郎十六歳} 下方
孫三郎
C岡田助右衛門(子は助三郎) 岡田助右衛門
直教
D佐々隼人正 佐々隼人
勝道
E其の弟孫介十七歳 同舎弟孫介・
勝重
F中野又兵衛十七歳(そち) 中野又兵衛
忠利
ーーーーーーーーーーーー
Dゾーン〈信長公記〉
赤川・神戸・永田・山口 柴田・滝川・林・梁田
右側のもので表記が同じなのは「土肥孫左衛門」「佐々孫助」ですが、佐々孫介の後ろは
勝重が付いていますから、
「土肥孫左衛門」
だけが同じであとは似ていますが全部違っています。似ているという意味では、関係付けたい、
違うという意味では、同一人物ではない、解説するなどの作意が滲んで来る部分といえます。
「土肥孫左衛門」が一つ同じというので連携があることも判ります。百に一つは流れの中で、毛色
が変わっている存在というのは往々にしてあるものです。土肥孫左衛門の「孫左衛門」は二書では
「太田孫左衛門」「石田孫左衛門」
しかないようで、こうなれば芭蕉が「大石田」という地名のあるところを、自己の作歌生活の集大成の
作品の場として選んだとも思えるほどの「孫左衛門」であり、「土肥」の「土」は
「土田」「戸田」→「小田」「大田」であり、「肥」は
「肥田」→「飛騨」、「肥前」・「肥後」
と繋がるものであり、太田和泉を仲立ちさせて関連付けたといえます。太字のところの違いがあり、
大窪はやはり大久保と読ませたかったというようなことがわかってきます。また左になくて右にあるのは
特に重要だろうというのはまちがいなさそうです。二行目の「織田三郎五郎」というのがその中心で
これは、両書にでている「織田三郎五郎」に「信広」をつけて解説をもしているものです。一見して
「織田三郎信長」
がありますから、五郎は後で考えるにしても、あの信長とみるのが自然でしょう。つまり17年の小豆坂
は、織田信長登場の戦いといえそうです。比較表ではじめに
「備後守」が「信秀」
に変えられています。
これは別人か、本人の別表記か、備後守の消しか、とかがありますが、ただ「織田三郎五郎」が、
ここに出てきましたから
信秀=織田三郎五郎
という炙り出しにされたもの、それが作意かもしれないと取れそうでもあります。「三郎五郎」には
「津田三郎五郎」(信長公記)
という表記もありますから、かなり展開力がありそうです。この二人を関連付けて〈三河後風土記〉
では「天文十七」の合戦は
『信秀下知して織田三郎五郎信広をのこして安祥の城をまもらせ、其の身は兵士をまとひ
尾州へ帰陣しけるによって駿州勢も・・・東国へ引き取りけり。』
で締められています。ここでは「信秀」と「信広」の対置となっています。一方、似た場面がもう一つ
作られていて、天文の何年かは書いていないのでわかりませんが天文15年の前のことです。
『織田備後守信秀は・・・・三州へ乱入して安祥の城をせめとり信長の
そけひ(ルビ=庶
麁兄)
織田三郎五郎信広を招きよせ、・・・よくよく申し含め・・・・其身は尾州へ引きとりけり。』
となっていて、ここでは信秀のフルネームをつかっています。ここのルビは「麁」を消している跡が
あり「庶」に変えたという意味のルビです。
麁(そ)は「鹿」三つ積み上げた字の変形のようですが、
遠い、離れた兄ということになりそうな字で、たとえば義理の子、乳兄弟のようなものをいうのかも
しれません。とにかくそういうことを語るための一文、似たものを入れた一文といってもよいと思います。
こういう似た場面でいわゆる織田信秀の表記が違わせてあります。また松平広忠が刀傷をうけ療養
中の記事がすぐ後にあり、織田信秀の断面、矢傷を受けたという事実と重ねてありそうです。なお
〈三河後風土記〉では
広忠は、天文14年の刃傷と18年の死、
織田備後守は、天文18年の病死(52歳)
が書かれてあり、織田信秀の17年の行動は信長のものだということが、ボンヤリ表記では出てきて
いるといえそうです。実態はどうか、わからなければここの解釈が難しいことになりますが織田信秀は
この戦いの主役ではありえないようです。すなわち
〈甫庵信長記〉では年表には書いていない次の記事があり天文16年には斎藤戦で大敗しまし
た。且つこの戦いで事故が生じたようで、天文17年では動けないといった感じです。
『天文十五年吉法師殿十三歳の御年・・・・・・御元服・・・・三川国吉良大浜へ押し寄せ・・・・
翌年(つぎのとし)・・・・備後守・・・・九月三日・・・・斎藤山城守入道道三が楯籠もりし稲葉山
の山下の近辺に押し寄せ・・・・(大敗)・・・・織田播磨守・・・
爰に・・・陰山掃部助・・・俄に両眼
射つぶされ・・・・・平家の侍大将悪七兵衛景清・・・千秋紀伊守・・・丹羽五郎左衛門長秀・・』
〈甫庵信長記〉
役者太田和泉登場で陰山掃部助をもって語られているように平家の侍大将、織田備後守は天文16年
に大敗して、その上に矢傷を負ったと考えられますので、病気療養中というのが考えられるところ
です。ここで年表に引用されていた、次の〈三河物語〉の表記が問題となってきます。
『小豆坂の合戦
● 弾正之忠(織田信秀)は・・・清須の城を出発、・・・安祥に着き・・・・・馬頭之原へ押し出して
上和田を夜明け前に出発する。・・・・小豆坂へ駿河衆・・・■織田三郎五郎(信広)殿も先陣
として小豆坂へ・・・三郎五郎
殿が破れて盗木まで退却する。盗木には織田弾正之忠の本陣があり盛り返して小豆坂下まで
攻め込んだが、そこからまた押しかえされた。このときの合戦は・・・・弾正之忠方は二度追われ
人も多く殺されたので、駿河衆の勝ちといわれた。・・・弾正之忠は・・・安祥へ引き上げる。
安祥に弟の織田三郎五郎をおき、弾正之忠は清洲へ引きあげられた。三河で小豆坂の合戦
と呼び伝えられているのはこのことだ。』〈三河物語〉ニュートンプレス
一般的に論ずる場合、この●の表記についてテキスト〈信長公記〉人名注には
「弾正忠 織田信秀・同信長」
となっています。親子共用されているわけです。〈三河物語〉でもこの表記が共用されるのは同じ
です。とくにここは■の人物が登場してきて主役の役目を果たしています。織田四郎次郎(二郎)
と同じで二人とすると、「三郎」が引っ掛かってきます。あの織田信長は「三郎信長公」となっていま
すから「信長」の可能性が高くなります。五郎は誰かということになりますが織田彦五郎という人物が
清洲城にいますから、この「五郎」かもしれないというのも出てきます。
『織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり。
其の弟に安房守殿と申し
候て、利口なる人あり。』〈信長公記〉
大久保彦左衛門は、この三郎五郎を信長の弟といっていて、太田牛一は舎兄といっています。
太田牛一はおかしいことに「御舎弟勘十郎公(信行のこと)」と書いていますので大久保のいう弟
とどう違うのか、問題となってきます。ただ先ほどの「そけひ」という〈三河風土記〉某年の記事は
このあたりのことを踏まえた記事というのは考えられることです。ややこしいので一応整理してみます
と
織田備後守信秀ーーー織田(津田もある)三郎五郎信広(舎兄)
| |
織田三郎信長 利口なる安房守殿
|
織田勘十郎信行(舎弟)
になり、太田牛一はこのように言っています。すると大久保は三郎五郎を「勘十郎信行」といって
いるか、ということになりますが、とりあえず明智兄弟のように、総領を一番上に持ってくると
@織田三郎信長
A三郎五郎信広
B勘十郎信行
となってまあここは納まるわけですが、信長をなぜ「三郎」にするのか、順番が光秀のように三番目
かもしれないという疑問は残ります。信広は庶兄ですから跡継ぎにはならなかった、という説明は
わからいことはないのですが
「勘十郎」
が問題です。〈甫庵信長記〉は信長の兄弟について下のように珍妙なことを書いています。江戸
時代の人はこれをどう読んだかということですが、ある程度二書だけで完結されているので、これで
すぐ判ったようです。
『信長卿の童名吉法師とぞ申しける。別腹の舎兄に三郎五郎と申せしは、後に大隅守と
申せし御事なり。二男勘十郎殿は武蔵守の御事、織田七兵衛信澄の親父是なり。三男
上野介殿、四男
九郎殿、五男安房守殿、六男彦七殿、喜六郎殿、半左衛門尉、中根殿、
其の弟源五郎と申すは、後に入道し給ひて有楽とぞ申せし。其の弟又十郎とぞ申しける。』
〈甫庵信長記〉
こうなれば、勘十郎殿は二男ですから、一男、三郎五郎、二男勘十郎、で三郎の納まり場所が
なくなってしまいます。三男は上野介で、織田信長は上総介ですから、
上総介
上野介
の炙り出しがあるのであれば三番目に収まるというおかしなことになります。三郎五郎の「大隅守」
の「隅」は「角」、織田信澄の「澄」に繋がる、勘十郎の「武蔵守」は「戸田武蔵守」、森長可の鬼
「武蔵」にも行くのかもしれませんが、要は、津田三郎五郎、織田三郎五郎、と二つあり、三郎と五郎も
二人でしょうから、できるだけ想像の枠を広げておくのがよいようです。とくに本稿の題から問題になる
のは四男の九郎という漠然とした存在です。全部で12人書いてありますが、「其の弟」というのが
二つあり、どの弟かというのがよくわかりません。
一つは「是」というのがありますから、「其」は「是」を受けたとすると、勘十郎の弟というのが
源五郎と又十郎ということであろう、というのがあります。また五男ですから「九郎」の後に来るから
ボンヤリしている「九郎」の弟が源五郎と又十郎ということもある、また中根殿というのが特殊ですから
その弟というのもあるのかもしれません。この場合は最後又十郎ですから、十人としたかったとも
いえます。現在12人で引き当てされているようですが、余り意味がないようなものになっていると
思います。ここで問題にしたいのは、元亀元年、〈信長公記〉で
「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八。」
が戦死しており、通説では、ここの織田九郎が、さきほどの四男「九郎」だということでしょう。
「森三左衛門」と対なのが「太田和泉守」ですから、「織田九郎」は太田和泉守を表わして消えた
ということでよいようです。信秀の四男なんておかしいではないか、といいたいところですが、たま
たま織田で述べてみただけのことで、
「和田九郎右衛門」「毛利(森)九郎兵衛」「畠山の九郎」「布施藤九郎」
とかの「九郎」の一つであるだけのことです。まして「太田」「大田」を使った以上「大谷=小谷」
「太田垣=小田垣」ですから、織田といっても、大田→小田→尾田→織田にもう変換が済んでいる
話です。ついでにいえば「小田」の「小」は「小太郎こたろう」「小太刀」、「奥村」は「古久村」
でしたから「古」にも変わります。この織田の九郎という大物は、
「古」と「織(おり)」
をも呼び出しているもので、「青地駿河守」に影響を及ぼすという役目を担っているといえます。
「青」は「青山与三」の「青」でしょうし「駿河守」は毛利の「吉川駿河守元春」(甫庵信長記)の
「森」があり、「逸見駿河守」のことは既述です。
「古田織部」
登場かといったことになります。また、「織」は「尾藤」の「尾」にも懸かりますが「尾藤」は重要
で 「森長可」の遺書のあて先が「尾藤甚右衛門」になっていたのは紹介済みです。この源内は
テキスト人名注では
「尾張春日井郡三ツ井村に尾藤城があり、源内の居城という。」
となっており、結論では森の一族ということです。「三井」は「大津」が連想となるのでしょう。
「又八」というのはその舎弟で大きな謎を解くものです。まあ太田和泉守の
長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八、賀藤弥三郎
に対する、森可成の
青地駿河守、尾藤源内、尾藤又八
を結ぶものが、「織田九郎」の役割ということであれば、織田を使ってまで述べようとした熱意が
伝わってきますので、太田牛一周辺の大きな謎が解けてくる、これは小豆坂の前に出てくるもの
からはじめから飛ばしている、全力疾走したものといえます。だから織田の12人も織田九郎を抜い
て吉法師を誰かの幼名として十人といいたいのかもしれません。
(16)内藤東助
ここまでのことで結局
「織田四郎次郎」は織田の四郎と次郎
「徳川次郎三郎(元康)」は徳川の二郎と三郎、
「織田三郎五郎」は織田の三郎と五郎
という二人を表わすということが大きな役割を果たしてきました。織田の四郎二郎は
再掲
『織田備後
守・織田与二郎
殿・織田孫三郎
殿・織田四郎次郎
殿、
織田造酒(サケノ)丞、
是は鑓きず被(こうむ)られ、
内藤勝介、
是はよき武者討ち取り名。
那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。』〈信長公記〉
において織田造酒丞と内藤勝介が重要人物としてクローズアップされましたが、これは二つの
「
是」
という字によって認識できたというこです。
ということであれば三兄弟の親ということまで出てきました。とくに内藤勝介は太田牛一の「信長記」
では神話的な部分を構成するといってよいほどの大物ということになりました。これが〈戦国〉既述
の「明智宗宿」その人といえるわけで、〈信長公記〉のはじめで早くも出てきていたといえます。
〈明智軍記〉は「明智宗宿」からはじまっています。
内藤勝介=明智宗宿
時代の語りの鍵を握るというほどの重要人物の名前がこれほど変えられているということが重要で
一匹狼
の大活躍というのが日本史の特徴といえますが、これは世界史の本来持っているものではないという
ことはいえない、世界史の歴史の述べ方に工夫を加え強化補強、昇華させた、つまり後世の人が
わかりやすく取り入れられるように工夫を加えて継承してきたといえると思います。シーザーとカエ
サルはラテン語、ドイツ語、英語で読み方が変わるというと国語の壁があるのはしょうがないと納得
してしまいますが、もっと似せることはできたはずです。ローマ一国で二人の意味で使っていたかも
しれないわけです。
(17)小野妹子
小野妹子という人は蘇因ですが
「唐国は、妹子臣を名づけて蘇因といつた。」〈日本書紀〉
とあるように似ても似つかない名前になっています。唐国ではそういった、といっていますから国際的
にみて二つの読み方があった、と理解してしまいますが、〈書紀〉の記者が、「蘇因」というと名を
出しているということが重要で、中国の文献を探したら蘇因という名が見つかったというものでは
ない、太安万侶などは二つの名前を作って利用したといえそうです。「妹子臣」は唐の帝の天皇に
宛てた書を百済国を経過した日に百済人に掠め取られましたが、天皇は勅して赦して罪しなかた
ということです。天皇は百済がやることだから仕方がないと思ったのかどうか、よくわからない話です
が〈信長公記〉をみていると信長が不快なことをされながら赦した例があるから、なんとなくわかること
でもあります。信長は上洛にしたとき、三河の刺客「首々(かしらかしら)五・六人、上下卅人ばかり」
に狙われますが、清洲の「那古野弥五郎内」の
「丹羽兵蔵」
が見破ります。信長は大胆にも、機先を制して、その頭だったもの「
六人」に会って、「御詞を懸け
られ候。」となっています。「首々(かしらかしら)五・六人、」で
「人数は、小池吉内、平美作・近松田面・宮川八右衛門・野木次右衛門、
是等なり」
とあります。五人ですが、「六人」に会っており、一人合わないので「
是等」という人物が一人隠れて
いそうです。ここは桶狭間の、
「岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾守・賀藤弥三郎、
是等主従六騎、」
と対応するもので、この5・6騎+1が「熱田」では
「此時馬上六騎」
に変わっているものです。つまり、6・7騎+1になっていそうです。〈道家祖看記〉では、
「御小性七八騎にて出で給ふ」
となっています。身方が原では上の
「長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾守・賀藤弥三郎」に「具足屋玉越三十郎」が戦死しますが
同じ〈信長公記〉という著書の中での4人の羅列ですから、「岩室長門守」と「
是等」が具足屋と
玉越三十郎としてカウントされているようでもあります。前者は今川義元に急接近し、後者は徳川
家康公の懐に飛び込んだといえます。
天皇の陰に隠れて「是」というべき人物、皇后が述べられていないのでわかりにくいことになっている
る、要は行動予定を知るべき人物しか出来ない技であることがいえそうです。皇后が百済に特別な
関係があったらこうなるのは自然の成り行きだから、子息に中大兄皇子もいるという複雑な関係の
なせるものといえると思われます。中大兄は百済のために唐と白村江で戦ったというほどです。
〈日本書紀〉の小野妹子を「蘇因」、妹子を隋に派遣した人物を「多利思比孤」と、全部その名前
に変えて読むと、感じが変わってきて、例えばその活動領域の地名が名前とマッチしなく
なってきます。つまり先ほどの百済などがスツと出てくることになります。
いいたいことは二つあり、一つは、人名が、このように変わった、地名もコロッと変えられるということは
当然ありうることです。行き詰ったかとみえる場合は表記で読むということが要ります。継体天皇は
は、現在の天皇制という場合の元祖のような人物ですが
越前国
からやってきたということになっています。これはどうしても越前王朝とか言うものがあったとかのマグマ
がなく突然なことは否めません。これを本当にしている人はないのではないかと思えるほどですが
これを地名の一匹狼と考えて、他の名前に変えて読む人はいません。「越」の国というと自動的に
北陸だと解釈してそのままです。推古天皇の条、聖徳太子皇太子のとき
『秋八月一日、新羅が、孔雀一羽を貢した。冬十月十日、
越の国が、白い鹿一頭を献つた。・・
(七年)秋九月一日、百済が・・・貢した。・・・八年、春二月、新羅と任那が攻めあつた。天皇は
任那を救おうと思った。この歳、境部臣を大将軍にとした。穂積臣を副将軍とした。(どちらも名
を欠く)・・・任那のために新羅を撃った。・・・』
があり前後新羅任那百済が入り乱れておりますので、百済任那新羅のあたりが
越に取れるということ
でもあります。これで読めばどうなるかということが出てきます。ここの境部臣も穂積臣もおそらくマルッポ
かわるわけでしょうから油断がなりません。「蘇因」が隋に派遣されたのはこの聖徳太子のときですが
が、推古天皇の次の「ジヨ明天皇」(ジヨは官舎の「舎」に似た字と「予」、シヨもある)は
息長 足日 広額 天皇
おきなが たらしひ
ひろぬか
といいますが脚注では
「息長氏の広姫と、敏達の子・押坂彦人大兄がジョ明以下の皇統の祖。」
となっています。要はここから
父・押坂彦人大兄(忍坂大兄皇子)
‖ーーーーーーー●
おきなが たらしひ
ひろぬか(
額)
母・
息長 広姫(
糠手姫皇女)
( )内は慈円の表記
という関係が成り立ちます。●の人物は、新皇統の祖といってもよい重要人物ですが、ジョ明天皇
ルビの太字の部分は母方の太字の部分に根拠があります。また、漢字の「額(ぬか)」というのも、母
の慈円の表記の「糠(ぬか)」と関係があります。したがって、
「たらしひ」
以外は表記上こんきょがあることです。おまけに「額」というのは「額田」の額であり、ショ明の先帝
推古天皇の名前です。父の方は何もないのでは詰まらないから「彦」を持ってきますと
「足日(たらしひ)子」「足彦」→「たりしひこ」
が出来てきます。つまり「日出づる処の天子」と自称した「多利師比孤」は、遣隋使を出した人物と
は同じです。いまでも「日出づる」の文書を煬帝に奉呈した人物は聖徳太子とされていますから
こういうことは述べなくてもいいわけですが、ショ明天皇を介してそれが合っていそうだ、ショ明天皇がそれ
を証する材料になったかもしれないというのが出てきます。逆に言えば
ショ明天皇=聖徳太子
ということになるのでしょう。聖徳太子は49歳で亡くなったではないか、ということですが、ショ明天皇
も49歳亡くなっています。推古天皇Aとしての人物は亡くなったが、ショ明天皇@としての人物は
健在なのでしょう。
ショ明天皇のことなどは今にはじまったことでもない、親子が重なったり、間接に続柄をのべる、
親子の範囲が広いとかの関係などでわかりにくいだけのことなので真剣に表記を辿っていく段には、
仮説の材料になったり、細部の積み上げの検証材料になったり、表記を飛躍させたりすることに
より事実そのものを掴めたり、書きたかった実体、真実に近づくわけですが、書が頼りないということだけ
はない、恐るべき財産を引き継いできているということだけは確実です。この認識は戦後において一番
欠落してしまって近代的、科学的なものの見方、民主主義で議論がされきったという隠れ蓑のもと、明治
政府の歴史理解そのままコンクリートで固められてしまったといってもよい段階にいます。
歴史は昔のことに時間を掛けすぎている、近現代史にこそもっと時間を割くべきだという議論
になってきていますが、昔が真剣にやられているわけでもなく、近現代史は資料の公開がされていな
いので研究も覚束ないような状態が本当の姿でしょう。1000年後でも事実をよく知らされていない、
密約の存在のように2〜30年後になっても、まだ知らされないという、そういう人々の世論調査によって
動かされているのが今日の状態です。
メディアによる扇動(方向付け)と自粛が目の向けどころをかえ、世論を引っ張っていきますが、本来自足のものの
はずの野球などのスポーツは恰好の面取りとなって、考えるテーマの提示の縮小に役立てています。
突然人命に関わる問題が出てきて、今にはじまったことでもないというのが多すぎるようです。
二つ目は表記で読むということは本当に表記で読むということだ、ということです。
「蘇因」
は「蘇」がある、という表記です。ネット記事によれば「因」というのは「いんこ」だから「いもこ」と
呼ばれるようになったということですが「いNこ」「いMこ」ということで合っていそうでもあります。採用
は出来ませんが「蘇・妹子」「小野・因」というのは〈書紀〉の著者にもあったのではないかとみても
よい挿話のようです。つまり「蘇」は「蘇我」の「蘇」で小野妹子は蘇我一族の人だというのが、蘇因
を持ってきた理由だと思われます。どういう親族かということですが、出来るだけ聖徳太子の近くに
手繰り寄せてくるのが正解であろうと思います。あの有名な史を隋の煬帝に届ける大役を担ったのは、
子息の「入鹿」しか考えられないところです。
「小野妹子」=「蘇氏」=「蘇我入鹿」
となる、〈万葉集〉の表題には「柿本
朝臣人麻呂」とあり、政庁にいる人であることは明らかで、妹子
というのは柿本朝臣と密接に結びついていて、人麻呂を自然と思い起こすものとなっています。
〈万葉集〉柿本人麻呂の余りにも有名な歌
『柿本
朝臣人麻呂、
妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首{短歌を併せたり}
・・・・我妹子(わぎもこ)が・・・・・沖つ藻の なびきし妹(いも)は・・・我妹子(わぎもこ)が・・・
・・・道行く人も ひとりだに 似てし行かねば 術を無み 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
{或る本、名のみ聞きてあり得ねばといへる句あり}
秋山の黄葉を茂み 迷(まと)ひぬる妹を求めむ山路しらずも{一に云ふ、道知らずして}
・・・・・・
妹(いも)・・・・我妹子(わぎもこ)・・・・我妹子・・妹・・・妹・・・妹・・・妹・・・・
或る本の歌に曰はく・・・・・妹(いも)・・・・我妹子(わぎもこ)・・・・我妹子(わぎもこ)・・・
妹(いも)・・・・妹・・・妹・・・妹・・・・妹・・・・』
ここの「妻」は第一義的には「母」と置き換える、というのが〈前著〉でいってきたことです。自分より
先に死ぬべく運命付けられた人と、自分よりあとまで生き残るべき人と、ですから、誰に向けた歌かに
よって、歌の内容が大きく変わってしまいます。そういう問いかけがあるのが、はじめの詞書といえます。
二義的に読んでもよいということは「或る本に曰はく」とか「一に云ふ」とかの文句が入ってきて、
似た文が二つ作られている、という炙り出しがされるということからもいえることです。
そう読めば柿本朝臣人麻呂@の母公は
我妹子(わぎもこ)
と呼ばれている人ということができます。つまり
「
蘇我
妹子」
がここで出されてきたといえます。はじめの題は後世の人が入れたもので本来のものにこの注を
入れることによって、歌物語に変えたものが〈万葉集〉です。一方〈日本書紀〉の「小野妹子」を
織り巻く表記は機械で出しにくい字や読みにくい字ばかりです。妹子と唐へ渡った人
「倭漢直福
因」「奈羅訳語恵明」「新漢人大圀」「高向漢人玄理」・・・・
大唐の「ハイ世清」を迎えた接待役は
「中臣宮地連鳥摩呂」「大河内直糠手」「船史王平」
で、小野妹子が連れて行ったのは、
通訳の「
鞍作福利」、小使いの「吉士雄成(おなり=乎那利)」
です。
こういう人々のあいだにあって「小野妹子」という今日の人がみても日本式といえるものが用意されて
いたといえます。〈日本書紀〉で「天皇」「皇太子(聖徳)」などと並んでわかりやすいものはごく
少ないものです。ここの
「倭漢直(やまとのあやのあたい)」という人は「
因」が付いていますが、この人は唐で「因」といわれ
たわけではなく出て行くときの名前ですから、「因」が付いた人も周りにいた、「小野妹子」というのは
特別の思惑があって付けられたともいえそうです。「福因」にはルビがなく、通訳の「鞍作福利」の
「福」が共通です。また、
『大臣の子入鹿{更(また)の名、鞍作。}』〈日本書紀〉
がありますから「小野妹子」は「鞍作福利」と「福因」に関係がある人といえます。
この通訳は、朝鮮半島、中国大陸、日本列島の国語を理解していなければならない、希代の天才
といえる人物かもしれません。蘇我入鹿の子息と見るのがとりあえず妥当でしょう。学生「福因」は
その弟といえると思いますが、人麻呂A兄弟のことについては〈大河〉で既述です。
蘇我馬子
蘇我蝦夷(機械で打つと曽我とか恵美氏が出てくる)
蘇我入鹿(小野妹子=蘇因) 「柿本人麻呂 」
鞍作福利(大津皇子) 「柿本人麻呂@」(兄弟一人あり)
〈日本書紀〉外 「柿本人麻呂A」(長屋王)
という系譜があるということをいっています。「鞍作」は蘇我入鹿に注記されているもので、それが
あちこちにあるのに関係がないと決め付ける必要はないわけです。芭蕉は〈奥の細道〉で「能因
法師」を出して来ていますが、この「因」と同じ「因」なので何かに使われるかもしれないと構えてい
る方がよいようです。〈明智軍記〉では「森蘭丸長康」という表記があり、これだと
森蘭丸 長康
‖
前 野 長康
ともなりえますので、前野家と森蘭丸が関係があるか、前野は前田と同じ意味だというのか、
もしくは前野長康を使って森蘭丸を説明しようということになるのか、というような疑問も出てきます。
これは〈信長公記〉首巻のおどりで「前野但馬守」が弁慶となって「勝れて器量なる仁躰」というの
がありますから、皆が多大の関心を寄せますので、ヒントを与える必要が著者に自覚されて
これを出してきたといえます。直感的には、前野が森蘭丸を包摂して、
前野 前野@(長康)
前野A=森蘭丸(こういえるのは長康の一つの役目)
となる、長康は前野@を解説する役目もあって、永安ともなるから太田和泉守といってもよい
ということになるのかもしれません。またこれは有名な「森蘭丸」と知られていない「長康」との組み
合わせですから森蘭丸を知るためにも「長康」という表記はどこかにないか、と探すはずです。
一方前野という郷があり、また桶狭間の翌年に「前野長兵衛」が、家康が出てきた一節で戦死し
ています(信長公記)から、前野家のこともいずれ調べていますから、そこに長康の伝承が残り、
文献まである、これは利用できるということになるでしょう。上の太字のくくりは、
森蘭丸=前野
ですから、苗字が森0.5、名前が蘭丸0.5=前野1.0、ですから、ちょっとおかしい感じが
しますが、鞍作が名前でだされようが苗字ででてこようが変わらない働きがあります。
こういうのは
前野但馬守→前野但馬森
ですから出てくることは予想されますが、「守」の付いた名前は全部そうか、となりますと、乱暴に
なって、大局、細部に亘った、勝れた打つ手や、考えなどが読み取られなくなり、それでいて
あいまいさが残るようなことになりますから、エイヤとやったら、おかしそうだという反論は駄目です
が、それくらいのつもりで、頭を切り替えてみるということは、要るかも知れません。登場人物本位
で読んでいたのを著者本位で読むとか、背景の色を変えて読む、とかをはじめから意識して読む
のもひとつの行きかたでしょう。
(18)万葉仮名
〈万葉集〉といえば「柿本人麻呂」ですが珍しく新聞記事がでました。近年とみに大胆にスポーツ
枠をはみ出してくるアマの野球にも押されて、減ってきた新聞の歴史記事ですから、しかも
「人麻呂」ですから、まあ久し振りに何回も読みました。
万葉仮名の成立が木簡の出土により30年早まったという見出しですが、
「はるくさのはじめのとし」
と読める11が字みつかったようです。朝日新聞:
「日本語表記や和歌の歴史にとって画期的な資料」としており「万葉仮名文は七世紀末
ごろに柿本人麻呂が完成させた」とする説にも再考を迫るものとなる。
コメント:万葉仮名文が七世紀半ば、すでに使われていたと確定できた意味は大きい。
柿本人麻呂が天武朝(672〜686)に完成させたとの説に再考を促す決定的な
物証で「ついに出たか」の思いだ。日本語の発達をたどる意味で重要な資料。
これは面白い話で、柿本人麻呂はテキストの人名注では「生没年不明。」となっている人で、
この人が、こういう実体(実態)的な結果が生ずることをしたというのが学説として認められている
というのが第一に面白い点です。それを再考すべきだとつき返しているのも面白い、万葉集
といえば柿本だから、柿本は資料が現にあり、また記録が多い存在で、歌以外のことでも柿本
を出されると、資料があって理屈が通るから反論ができずに弱りきっていたところ、こういうのが
出てきたので、どうや、となった感じです。しかしこれは
○柿本人麻呂が実名があるかもしれないと思われている
○まとめてみると人麻呂抜きの万葉仮名も考えにくいといっている
のと余り変わりません。一方、柿本人麻呂は活動時期が長すぎるので漠然としてしまっている
のは明らかで、これはいわないでおこうとなっているから突破口がありません。ここまでで終わり
でしょう。長生きしすぎは、疑問がでるのが自然です。
〈信長公記〉相撲で「長光」が出てきて、
「日野の長光・正林・あら鹿・・・長光・・・布施藤九郎・・布施五介・・・あら鹿・吉五・正林・・」
と続きます。一つ蒲生の日野が出ているのは明らかですが
「長光」は「ナ行」にあるから「ながみつ」と読むようです。「日野の長光氏か。103・323」
と書かれています。
しかし、人名索引で、この横にもう一つ「長光」という項目があって
「長光 長船(おさふね)。岡山県邑久(おく)郡長船町附近に住んだ長船の鍛冶は近忠
を始祖とし、その孫が長光。正応三年(1289)の作品がある。この後
三代長光を称す。▼」
とありますがこれは当面関係なさそうで「日野の長光」がわかればよいということで看過して
しまいます。一方〈信長公記〉には
「御腰物下さる。作(さく)●長光。一段出来物(できもの)、系図(ケイヅ)これある刀なり。」
という「長光」があり、これは太田牛一が「系図」をみて書いているから、また「ケイヅ」と拘っている
大変重要なものと思いますが、この「長光」は索引漏れか見当たりません。「ながみつ」でも
「おさみつ」というのは知っていたから「お」で調べましても見当たりません。ここのことを書くのに
もう一つ●の長光があるのはうろ覚えで知っていたので結果は見当をつけて100ページほど
繰って見つけましたが、実は、両方よく見れば索引にあったのです。もう一つ「お行」に
「長船長光 備前の刀工。長船(おさふね)派の長光。 ▲長光278 」
があり、この▲が●を指していたわけです。結局▼のところに▲「278頁」というのが入っておれ
分かりやすかったといえます。●の長光が、▼三代同じ長光というのとドッキングされないよう
にしておこう、ということです。柿本人麻呂などにつながることがあってはならない、ということ
ですから、この新聞記事はよけい混迷を深めただけのことで、一般の人は既存文献資料は頼り
ないという印象をより強くしたといえそうです。まあわからなかったらしょうがないということかも
しれませんが、それほど信頼されているということでもあります。
太田和泉守は宇喜多と親類で筆頭の家老長船吉兵衛も
よく知っておりそういうのが反映して▼の長船長光三代を同一表記の例を代表させたといえると
思います。戦国でも大久保に@ABがあるのは述べており書く人はこの点が生命線の一つなの
で意識過剰です。太田牛一も90まで生きたとしますとやはり@Aがあるわけで、この場合は
小瀬甫庵を作ってあるから説明する必要がないだけでしょう。ここで「あら鹿」が二つ出ていて
これは相撲ですから、相撲の
「百済寺の大鹿・百済寺の小鹿・・・・長光・・・・・」
の「鹿」「鹿」、やや古代色のある鹿を呼び出します。これは「はくさい寺」と読ませているものです。
古代とつながる鹿は、天正五年、松永が滅んだ記事でも出てきます。
「松永天主に火を懸け焼け死に候。
、 奈良大仏殿・・・十月十日・・・松永・・三国・・・高山・・・城介信忠・・・鹿の角・・・・松永・・
鹿の角・・・春日明神・・・」〈信長公記〉
春日明神につながる、古代の鹿が〈信長公記〉で意識されて、それが相撲の長光を通じて、二代
(大鹿・小鹿)、三代親子の重なり有りとして警告が出されています。ここの「松永」も
「松永父子」「松永」
という表記があり、親子が重なっている典型で、一人としてはその活動が長すぎるものです。脚注
に「鹿は春日明神の神使と信じられていたから信忠の奮戦には明神の冥助ありと考えたのである。」
とあり、「鹿」の明神、が「春日明神」で、「十月十日」に縁のある鎌足の藤原の春日明神と重なって
いそうです。またここで「松永」というだけでは、あの松永を指すのに決まっているというのは合って
いないと思います。「小松」の「松」+長康の「長」ですから、但馬守が割り込んでいる可能性があり
ます。「信忠」も「秋田城介信忠」ですから、テキスト補注では「出羽介が秋田城介を兼ねる例」が
「佐久間信盛」とされていますから「佐久間右衛門尉」が「信忠」に乗っている、何より秋田は
「阿喜多」ですから太田和泉守が登場していそうです。殊更饒舌のこの部分だから他人の名前
かりて出しゃばっていて言いたいことを言っているといえるのでしょう。親子とか他人との重なりは
語る手法の継承だから、いつでもやられると覚悟しておけばよいようです。万葉の主人公「柿本
人麻呂」という表記も継承されていると見るのが自然です。7世紀中ごろから万葉仮名が使われて
いるというのは、この前にある程度、国家としてのまとまりを持った権力機構の存在が前提とされ
ますが、ショ明天皇は629即位して翌年遣唐使を出しています。このジョ明天皇の条で、慈円は
「これ(是)さきざきの国王の名前はよに文字多く。人もさたせず。よみ(訓)もたしかならねば
かかず。こののちは文字すく(少)なくなれば今は注くわ(加)うべき也。・・・・大臣蘇我蝦夷臣
・・・・伊與国の湯の宮へ行幸あり。・・・・大臣の子入鹿(いるか)国のまつり事して。威
父大臣に勝{云々}。」〈愚管抄〉
蘇我入鹿がバッチリと国政を掌握していました。
〈愚管抄〉に現在語訳があれば多少間違っていても歴史の理解に貢献すること多大でしょうが
文の並べ替えも伴うでしょうし、異論続出で、やったら損だという部類のものでしょう。ここの
はじめの部分も意味が判らない、のですが、ここは別の意味でもとりあげざるを得ないところ
です。すなわちここの入鹿の記事は〈日本書紀〉では次の皇極天皇の条に書いてありま
すので、著者の作意がありそうなところです。つまりショ明天皇と重なるように入鹿がいる、と
いうことで、慈円の皇極天皇の条にも入鹿は顔を出しています。ショ明天皇の前、推古天皇の
ときにも実権をもつ皇太子が居たことは知られています。親子の重なりがありそうな感じがする
ところです。初めの部分は
「文字」「文字」「訓」「注(かく)」・・・・「沙汰せず」「たしかではない」「かかない」・・「これから」・・・・
があり、ルビの部分だけ抜き取ると、「是」「訓」「少」「加」で「訓読み」を「多」く加えたというのも
ありそうなので文字の読み書きに変化があったと取れるのが入鹿のときといっていそうで、それは
入鹿の子息に、二人の天才が居たということでもこの時機を外してはないというものがあるわけで
またその意識は早くからあって蘇我馬子宿禰大臣は大和国磐余訳語田(ヲサタ)宮というところ
にいて、この「訳語」という語感からも日本文字を考えようという意識があったと思われ、研究も
やっていた里があったのでしょう。
柿本人麻呂は〈万葉集〉の主人公で蘇我入鹿は柿本人麻呂の@とも云うべき存在だという
のは〈万葉集〉第一巻の初めの歌と終わりの歌に「鹿」が織り込まれていることである程度よみ
とれます。
一番目は 「雑歌」で
「泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめしし
天皇の代
大泊瀬稚武天皇(雄略天皇の和風の贈名)
天皇の御製歌(細字)
一、籠もよ み籠もち・・・・・われこそは 告らめ家をも名をも
□□□□□・・・・・・・・(本来あるべき短歌なし)
高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代
息長足日広額天皇(ショ明天皇)
天皇、香具山に登りて国見したまふ時の御製歌
二、大和には 群山あれど ・・・うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
□□□□□・・・・・・・・(本来あるべき短歌なし)
天皇(脚注=ショ明天皇)宇智の野に遊猟・・・・・・献らしめたまふ歌
三、やすみしし わが大王の 朝には とり撫でたまひ・・・・・音すなり
短歌あり・・・・・・・・・・(省略)
となっています。雄略天皇、ショ明天皇ににもう一つ雑歌があるのが知られています。
雄略天皇のもの
「泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし大泊瀬幼武天皇の御製歌一首
1664 夕されば小倉の山に伏す
鹿の今夜は鳴かず 寝ねにけらしも
右は或る本に曰く、岡本天皇(脚注=ショ明天皇)の御製なり
といへり。正指(せいし)を審らかにせず。・・・
ショ明天皇のもの
「岡本天皇(脚注=ショ明)の御製歌一首
1511 夕されば小倉の山に鳴く
鹿は今夜は鳴かず い寝にけらしも
大津皇子の御歌一首
1512 経もなく緯も定めず をとめらが織れる黄葉に霜な降りそね 」
があります。上の □□□□□・・・ のところにそれぞれ1664、1511の歌がが入るということに
なるのでしょう。雄略天皇とショ明天皇が重ねられていることは、あきらかで、それは1664,
1551の歌が似て非なる炙り出しがされていることでも判ることです。すなわち、万葉集は
ショ明天皇から始まっているといえます。はじめの二つに短歌が抜けているのは、三番目が
揃っているのでわかりますが、これは操作が感じられるところです。何が目的でこんなことをした
ということがわからないと不完全性のみが目に付くことになります。蘇我の入鹿の鹿を冒頭に
出したかった、ショ明天皇は入鹿とみてもよいということを言ったと思われます。
1512に「大津皇子」をもってきたのも操作があるとみられるところです。
これが「柿本人麻呂」以外の誰が考えられるか、ということです。とにかく「鹿」「鹿」の初めの登場
は 鹿@ 鹿A
蘇我入鹿ー大津皇子
‖ ‖
柿本人麻呂 柿本人麻呂@
という万葉の主役が打ち出されたといえそうです。
第一巻の初めの鹿は間接に出てきましたが、終わりの「鹿」はダイレクトに出てきます。
「寧楽宮(ならのみや
長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌
84 秋さらば今も見るごと 妻恋ひに
鹿(か)鳴かむ山ぞ高野原の上
右一首、長皇子 」
この句の「鹿」が入鹿の「鹿」で、しかも「鳴く」「鹿」だから先ほどの二句につながっていますから
棹尾を飾ったといえます。つまり途中も「鹿」を意識して読めばよいということでしょう。
雄略天皇、ショ明天皇の三つの歌に続いて、4番目の歌は
「讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)しし時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見て作る歌」
の詞書きで、長歌と短歌(反歌=はんか)が揃っています。この反歌の長い注のなかに
「伊予の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)すといへり。」
というのが入っています。これは先ほどの慈円の〈愚管抄〉のショ明天皇の条に伊與の湯の
文言がありました。蘇我蝦夷ーー蘇我入鹿の関連が「軍王」というのがあるのでわかります。
また、この巻の有名な歌で
「額田王、近江国に下りし時作る歌、井戸王のすなはち和(あは)する歌」
と題する長歌、反歌があります。「長歌」省略しますが、短い長歌に「三輪(みわ)の山」ほか
が四つもあり、「反歌」は
三輪山をしかも隠すか 雲だにもこころあらなも隠さふべしや
です。この訳は「三輪山をそのように隠すことか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい
ものだ。三輪山をそのように隠してよいものだろうかー。」となっています。これは雲が人の
が人の心をもっているという擬人法の変形のような感じで雲が主語にもなっています。
この歌の「しかも隠すか」というのは「そのように」と訳されていますが、「しか」を漢字に置き換え
えて読むことができます。
「三輪山を鹿(を)も隠すか」という感じの読み方です。「山上憶良大夫」の書にある注が
この句の後ろについていますが、原文は手に負えないので訳を借用しますと
「都を近江国に遷す時に天智天皇がお詠みになったお歌、とする。遷都を強行する中大兄
皇子に代わって額田王が大和の鎮めである三輪山に手向ける歌を詠んだのであろう。」
とされています。ただ筆者がみても「強行する」「代わって」「手向ける」とかが原文には、ないよう
なものが入っていると思われます。ちょっと、訳者桜井氏の個性的なものが入りすぎた訳のよう
に思われるので省く積りだった原文を持ってきますと
「都を近江国に遷す時に三輪山を御覧す御歌なり。日本書紀に曰く、六年丙寅(へいしんの)
春三月辛酉朔己卯、(しんゆうのつきたちのきばう)都を近江に遷すといへり。」
となっているだけです。〈旺文社古典対訳シリーズ)の〈万葉集〉はあたりまえのことですが桜井
氏の作品だったということができます。
「額田」も素直に入力できず「糠」が出てきて邪魔をするので「がく」で打ち替えています。「糠」付く
人はショ明天皇の母という人です。それはとにかく、ここの三輪山が、額面どおり「山」なのか、
長歌の「山」と同じなのかということが、憶良の細字の三輪山をみると疑問が出てきます。
山が人としても詠まれているのではないかというのは石川啄木の歌の一例で既述ですが、
ここでも雲に人の心があるならば、というような思いがありますのでそれが感じられるところです。
長歌→→→三輪(みわ)の山
短歌→→→三輪山
憶良注→→三輪山(細字)
となっていて「山」も三重の感じです。〈信長公記〉の「三の山」も想起されるところです。従って
ここの短歌も「しかも」というのは「そのように」にでもよいので三輪山に鹿が軽く懸かる詠み方
「あの人(鹿)をそのように隠すことか、・・・・三輪山をそのようにかくしてもよいものだろうか」
という意味にもなると思います。人と見る、というのはどこにも書いてないではないかという反論が
すぐ出てくるでしょうから、井戸王が「すなはち」「和(あは)」しているわけです。18の短歌のあとに
19の短歌があって、これにもまた「憶良」の注があります。
「一九 綜麻形(へそがた)の林のさきのさ野榛(のはり)の衣(きぬ)につくなす□
目につくわが背(せ)
{右一首の歌は、今案ふるに、和(あは)する歌に似ず。ただし、旧本
この次(つぎて)の載す。故以(そゑ)になほここに載す。}」〈万葉集〉
この短歌のはじめの部分は、何となく、三輪山と井戸王との間の風景を織物
に例えていったと思います。先ほどの柿本人麻呂の織物の歌からの連想によるものです。訳では
「三輪山の林の端の榛{はん}の木の色が着物につくように、はっきり私の目につくあなたよ。」
となっています。つまり主眼は「わが背」、「あなた」ということにあるのでしょう。注の部分は、
この歌がここにあるのが不自然だが旧本が、18の次に載せているからしょうがない、そのままに
しておく
ということです。「山」は「人」とも取れるといったのでしょう。榛はハンノキ、で黒色染料の
ようです。
山上憶良の注記を引用しましたがそこから大きな結果が出てきました。桜井氏の訳で中大兄皇子
に代わってというのがあることは時代が合わないということを指しています。年表に
『 西暦 和暦 干支 政治・社会・経済
666 天智5年 丙寅 ・・・・・・・・
667 天智6年 丁卯 三月 近江大津宮に遷都する〈紀〉。・・・・』
があります。先ほどの憶良の注●は
「六年丙寅の春三月・・・・・都を近江に遷すといへり。」
となっていましたから、西暦の「6年、丙寅」は666年に当たります。667は丙寅ではありません。
したがって「丙寅」でいけば、これより、60年前にある丙寅に遡らなければなりません。606年
が〈万葉集〉で憶良が言っている●の近江遷都の年といえます。この時代年表では蘇我馬子
の時代であり、あの厩戸皇子が摂政になってから十三年を経た時期で、一つの画期的な時代が現出
していました。年表では翌年
「607 七月小野妹子らを隋に派遣する〈紀〉。」
がありますが、これが通説でみな習ってきたことです。しかし、〈日本書紀〉では「大唐」になって
います。630に第一回遣唐使がありますが、そのときは、ちゃんと「唐」とか「大唐」と書かれてい
ます。隋が唐になっていることがおかしいことは気付かれており、テキストの〈日本書紀〉訳本
にも書かれています。しかし指摘だけで、あとはご自由にどうぞということになるのでしょうが、
とりあえず隋のことを唐と書いたりするのは長州を土州に変えたりするのですからあることです。
現に勝手にやったのかどうか知りませんが変わってしまっています。文献が頼りないから変えたと
いうのでなければよいだけです。この前、600年にも遣隋使があったと年表にありますが、
遣新羅使というのを聞いたような気がしますので、そういうのには替わりえます。
厩戸の皇子(いはゆる聖徳太子)の年齢は
622年=49才で
わかっていますから、607年、小野妹子という特別和読みされた一匹狼的表記を宛てられた
人物の年齢は35くらいでしょう。遣隋使としての大役を果たすのに十分な年齢です。また子息も
かなりの年齢になっています。
606年に近江に遷都したという記事がないと柿本人麻呂の
「近江の荒れたる都を過ぐるとき」
「高市古人、近江の旧都を感傷(いた)みて作る」
などの歌の意味がわかりにくいところです。このよう
に天智違いで 606年、607年に話を戻して、遣隋使に注意を向けさせたりするの山上憶良大夫
の注です。全体を引っ掻き回しています。山上というのは表記が多くあの貧窮問答歌の山上憶良
だけでなく太安万侶もその表記を使って万葉の語りをしているといった感じです。
再掲、「寧楽宮
長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶(とも)に宴(うたげ)する歌
秋さらば今も見るごと 妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高原上
右一首、長皇子 」
長皇子は柿本人麻呂で弟の志貴皇子と父の入鹿公を偲んで詠った歌といえますが、これは
この前の歌が重要ではないかと思います。81,82、83の三歌ですがその詞書は
「和銅五年壬子夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣わす時、山辺の御井(みゐ)にして
作る歌」
となっています。重要なこと二つあげますと一つは和銅五年という年でこれが志貴皇子に
に懸かると思います。もうひとつは「長田王」が「長皇子」+「長屋王」を表わしこれが志貴皇子
にも懸かるということになります。
和銅五年は古事記序文に太安万侶が書いている年です。すなわち
「和銅五年正月廿八日 正五位の
上勲五等 太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)」
ですが、この序文は文中の「和銅四年」が711年という「七」を意識しておれば1から10
までそろっています。
日付けには「五年」「五位」「五等」があり「五」が三つもあります。「正」が二つで五画という
のが意識にあればあれば、「五」が五つ、戦国の五郎はここでも出ています。
「廿八日」の廿八は稗田阿礼の年で「八」「十八」「廿八」が揃っていますが自分のその頃
の年というのも言っていそうです。
日付けに干支が入っていないのでおかしいということで「壬子」を〈万葉集〉にいれたの
でしょう。
「壬子」→「王子」→「皇子」=志貴となるかも。
「五位」は「御井」があり、「
上」は「高原上」の「上」があるかもしれません。
「勲」は本分に「訓」「訓」「訓」があり、「音」も二つ、音訓で述べる長短が書かれています。
「注」は本来の注釈の「注」と、「注(しる)す」の「注」がある、慈円の意味が分かり難い先程
の一文は太安万侶を意識したものであることがわかりそうです。
「等」は藤原不比等の「等」が入っているといえそうです。問題は太田和泉守で見てきたよう
なペンネームの工夫がどうかということですが、そういうのがあるのは間違いないところです。
「太」は大伴、大野の「大」、「多田」の「多」とか「長田王」の「田」があり、大臣の「大」も
含むと思います。
朝臣が問題で「あそみ」というルビになっています。「あ」は「阿礼」の「阿」があると思いますが
阿騎野と安騎野があるように「安」もあります。〈古事記〉では
「神」(みわ)=「三輪」=「美和」
であり、これは「美和の大物主」の一節にありますが、さらに
「赤土・・・麻糸を針に・・・・着物・・・朝・・・・針・・・・麻・・・・戸・・・麻・・・三輪・・・」
「★その麻の三輪のこったによってそこを三輪と言う・・・・」
があります。
前に出た三輪山の句のあとの「へそがた」の短歌は〈古事記〉の
榛(はり)=針とか「麻」「糸」「着物」
とかを踏まえており、訳者もそれに基づいた解釈をされていました。筆者の解釈は一から出直し
のものですから、また「へそがた」の初めに帰ってしまう。積んでは壊しの繰り返しで同じ水準に
止まっているわけですが、これは語句を伝っていますので、未見のところへは行けない
からで語句のわかりやすい索引もいるわけです。あの「へそかた」の歌は太安万侶の作品と
見てよいようです。戦国の太田和泉守はもっと進めています。〈信長公記〉も、ここをみて
世阿弥の「三輪」、「三輪氏」を出しています。
「谷の輪」「淡輪(実際)」「丹和」
は「谷」と三輪(美和)を結んでいます。「はざま」の「森兄弟」を出して、入鹿の「谷(はざま)の
宮門(みかど)」に繋げています。〈武功夜話〉に突然「三輪」氏の系図が出てきて「秀次」「蜂須賀」
「三好」「大谷」などが関わりますが、「三輪」=「神」であれば「神」氏が出てきて小豆坂で内藤勝
介とでてきた「神戸市左衛門」が三輪が繋がらないかというようなことになってきます。神という
のは神応但馬守、神吉藤大夫神戸三七とか10個以上あります。
太安万侶の「朝臣」(ルビ=あそみ)というのも
「あ そ み」 ← 「あ そ おみ」
‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖
阿 蘇 美(宮) 阿 蘇 臣
ぐらいになるのではないかと思います。
「朝臣」は「麻臣」でもあり★により「三輪臣」とか「三和臣」「美和臣」の「臣」ともなります。
「和を貴び」といったのは聖徳太子で「和」は太子の属性といえますが、三輪山の歌で
「井戸王」が「和」して、憶良が「和」を使っていますので聖徳太子というのが出てきています。
「朝臣」は「あそん」とも読みますから、「阿孫」ということで太子の孫というのもあるかもしれません。
「安万侶」の「安」は「阿」というのが意識されたかも。つまり稗田阿礼は稗田安礼もあるということ
です。「まろ」は「麻呂」で上の麻が入り「朝」「麻」で三輪が二つもあります。
「呂」は「宮」の一部でしょう。これからみれば
「太」は大友皇子の大友の「大」、〈日本書紀〉の「大野安麻呂」とつなぐ
「朝臣」は「阿蘇臣」で「阿」「蘇」を出し
「安麻呂」で「安」と「三輪」の「宮」が出る
というようになっていると思います。「稗田阿礼」は
「柿本人麻呂+藤原不比等」
の二人と思いますが「稗田安礼」ともなりますと
「太安万侶」
の登場となるのかもしれません。名前の中に「阿」「安」があり「等」も入っているので、
「稗田阿(安)礼」は二人三脚の2・5人ではないかと思われます。廿八という年齢は太安万侶の
ものでしょうから、一人といえば太安万侶となりそうです。
「安礼」については
「58 いづくにか船泊てすらむ 安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なしお舟
右一首、高市連黒人(たけちのむらじくろひと) 」
があり、この黒人の比定をしないといけないわけです。人名索引に「系譜不明」とあり、歌の
ことだけ書いてありますが、それはみればわかるということですから、一匹狼の表記です。
「高市天皇」がショ明天皇ですから、その一族の「黒人」という人いうだけでもあれば、いいのです
それもありません。まだ天皇制がないので実体自体はないわけですが早くから続いているという
ことにする要請と、史家がどう述べたら(誰を天皇にして述べたら)うまく語れるかという相克の下に
生まれた作品ですから、両者親類というのもありえます。うまく語るためには、蘇我馬子という現に
広範囲に国郡を動かしている人物は天皇にしないと流石の名手といえども無理で、一方は小役人の
風になってしまうのも頷ける所です。前の句に
「 二年壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌
57 引馬野にひほふ榛原(はりはら) 入り乱れ衣(ころも)にほわせ旅のしるしに
右一首、●長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)
)
この●の人物は「柿本人麻呂」に挟まれて出てきますので、人麻呂の歌をこの表記でやっている
わけです。従って歌と同様に「長皇子」は人麻呂といってもよいという働きをしています。操作上の
表記ですから編者の表記といえます。「榛と衣」がでてきたのは「三輪山の歌の「へそがた」の
歌と同じです。この場合「山上憶良大夫」の注がありましたが、それと同じでここも山上奥良で
でよいようです。●は細字ですからちょっとひねってみてもよいはずで柿本人麻呂にはならない
でしょう。太安万侶と見てよいと思います。榛は「黒」の染料でしたから、三輪山の「へそがた」
の歌は黒人を意識したものだったといえそうです。もう一つ大きなことがあります
「二年壬寅」
がいつかという問題です。脚注では「大宝二年(702)持統太上天皇」の行幸のとき、とされていま
すがこれは60年前の642年の壬寅でこのとき皇極天皇元年、蘇我入鹿が自分で国政を執行し
た記事がでています。したがって入鹿Aとして太安万侶を出したかった詞書が入ったということが
いえます。58の歌の後の方、59の歌の詞書には
「■誉謝女王(よざのおおきみ)の作る歌」
が出てきます。人名索引では「慶雲三年(706)六月従四位下で没」となっています。年表では
前年に
「刑部親王没(?)〈続紀〉」(就任は二年前大宝3(702)石上麻呂就任と重なるか)
があり、この人物は二年前、大宝三年に初代「知太政官事」に任命された特別大物なので「(?)」
がおかしく、また「誉謝女王」という表記も大きい、これを「太安万侶A」とでもしておくと一応この
二人の人物は一年違いで重なりそうです。慈円は「刑部」には(をさかべ)のルビを付けており
柿本人麻呂の雷の歌の{注}には忍壁皇子(おさかべみこ)が出てきて、憶良大夫のような役目
を果たしているので一応、 「おさかべ」=太安万侶関連=「誉謝女王」ともいえそうです。
高市黒人は●と■に挟まれて出てきます。
総じてこの辺りは、一年違いが、目立つところで、また七夕に関係があるのか七の操作が目立つ
ところで、大宝七年の間、和銅七年間、養老七年間というような意識が流れていそうです。
〈日本書紀〉に
「訳語田(おさた)天皇」
という表記があります。これは先ほど和銅五年に出てきた「長田王」そのもののような表記です。
「長田王」は太安万侶に宛ててもよいものでしょう。作意の都合で無名の役人になるのだから
黒人も突如尊称が与えられてびっくりするようなことも起こるのかもしれません。〈記紀〉には
「阿蘇の君」
という孤立表記がありこういうのも浮遊しています。〈倭人伝〉に「対蘇国」「蘇奴国」「華奴蘇奴
国」もあり「阿蘇山」は古い名前でしょう。
〈万葉集〉に太安万侶も登場し、〈万葉集〉は史書の歌物語という性格を持っていることは既述
です。柿本人麻呂は@ABとして捉えられ、万葉仮名のはじめから関わってきているということ
で出土品だけから、文献から得られた結論を間違いらしいというのは、文献が頼りないという
印象を与えしまいます。解説に慎重を要するというのがいいたいところのことです。
志貴皇子に触れてしまいましたので志貴皇子を終える
には次の歌がでないと終わりません。すばらしい歌と思いますが、歌の鑑賞ではなくて、今まで
述べてきたものの関連の理屈の部分だけ少し触れたいと思います。
(19)高円山
「霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴皇子の薨(かむあが)りましし時の歌一首・・・
230 梓弓 手に取り持ちて ★ますらをの 得物矢(さつや)手ばさみ 立ち向ふ 高円山
(たかまとやま)に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問えば・・・・
短歌二首
231高円(たかまと)の野辺の秋
萩 いたづらに咲きか散るらむ 見る人無しに
232三笠山野辺行く道は こきだくも茂り荒れあるか久にあらなくに
右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ
或る本の歌に曰く
233高円(たかまと)の野辺の秋
萩 な散りそね 君が形見に見つつ偲はむ
234三笠山野辺ゆ行く道 こきだくも荒れにけるかも 久にあらなくに
まず初めの年月ですが脚注では「〈続日本紀〉には霊亀二年八月十一日薨去と伝える」で
一年違います。715年乙卯という年は年表では
「715 霊亀1 乙卯
9.・2 」
となっており、察するに
九月二日に改元があったと思われます。乙卯に和銅8年と霊亀元年が
混在しているので、〈万葉〉の云う「九月」というのは微妙なところで、霊亀元年八月十一日という
のならそれは存在しない、和銅年間ではないか、といったと思われます。また★以下の「円」
(まと)に懸かる文言は先ほどの「誉謝女王」の次の次、「舎人」が作った歌がでてきます。
「61 ますらをの得物矢手ばさみ立ち向ひ射る 円方(まとかた)は見るにさやけし」
つまり「舎人」も「円」に懸かります。太安万侶=舎人親王もあるかもしれないと思わせる一つの
ヒントになるものでしょう。ここの短歌に
「萩」
が出てきますがテキスト脚注では三輪山のところで出た「へそがた」の歌の
「・・・・さ
野榛(はり)の衣(きぬ)」
の「ハリ」は「ハギとみる説もある。」と書かれています。ここに「野」が四つあるのとも対応している
のでしょうが、面白い説です。山上憶良大夫がここに顔を見せたともいえそうです。芭蕉はここで
「な散りそね」とあるから「萩」を散らさなかったのかもしれません。これは全昌寺でのことで「猶
加賀の地なり。」といいながら「けふは越前の国へと心早卒にして」といっているので、古い時代の
こともいっていると思います。
ここの232,234は「
山野辺」があり、第一巻の終わりの長皇子、志貴皇子が宴した歌の直前、
和銅5年の歌の第一句81の
「山の辺(へ)」 (詞書は「山辺(やまのへ)」)
に繋がっていると思います。「山野辺」の山は「三笠山」の山のようですが「山野辺」と見えれば
よいはずです。このように「太安万侶」がこの高円山に結びつく、ここで長歌では、亡骸を焼くと
いう情景が詠われており、太安万侶の葬送の歌ではないかというのが出てきます。昭和に発見
された太安万侶の墓に通ずる物語となっているのかということが最大の関心事です。
ネット記事で「高円山」を検索しましても志貴皇子は出てきますが、太安万侶は出てきません。
しかし「高円山」を廻って「志貴皇子」の墓(田原西陵)(春日宮天皇陵)、発見された「太安万侶
の墓」(奈良市田原此瀬四四四)があります。こうみてくると志貴皇子の墓(田原西陵・春日宮天
皇陵)のもう一つが(太安万侶墓)ということにもなりそうです。この「太安万侶の墓」が本来の
「太安万侶の墓」
でその墓誌は〈記紀〉の延長のような文書であるに過ぎず、後世に残るように文書代わりに金属に
銘打たれただけのことで、操作性があるから話題にされていないだけのことです。あとで大々的に
志貴皇子の陵を作り、春日宮天皇陵(追贈)というような解説がされたといえます。薄葬のサンプル
のようなもので高松塚との対極性が打ち出されています。
ここで春日が出てきたのでありがたい、志貴皇子と結びつければ説明の手間が省けるということ
です。古典の現在の注には殆ど春日神社は藤原氏の氏神というように書いてあって、一般的に
知られている春日のイメージがあり、やりにくいところがあります。ここに「山辺」が出てきましたから
山部赤人関係ないとは言えないでしょう。山部赤人は
「{春日野(かすがの)}に・・・・春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の
三笠の山に・・・・高安(木篇に安)(たかくら)の三笠の山に・・・・・」(372・373番)
というように「春日」と「三笠」を出しています。「三笠」でいえば、このあとの歌374で石上朝臣
という人が「笠の山」を出しています。したがって先ほどの高円山の短歌
232「三笠山野辺行く道は・・・・」 234「三笠山野辺ゆ行く道・・・・」
の「三笠山」は意味はどうなるかは別として「三 笠 山」と離しても読めることにもなります。
この「春日」についてテキスト脚注には
「春の日がカスムの意でカスガにかけた枕詞。この枕詞によって、地名カスガを春日と
書くようになる。」
と書かれています。〈奥の細道〉には霞が出てきますが「春日」が含まれているのかもしれません。
ここで、高座、高安は枕詞だから、
「春日の山の 三笠の山」
といっていることになります。高座、高安の「高」は「高円」の「高」や、「志貴」の「貴(たか)」は
あるかもしれません。「高安」も「高安王」がいて、この人物は「大納言大伴卿」から衣を贈られて
います。それはとにかく 232 234の歌に「春日」がはいったと いうことです。
地理的には、三輪山の西を北へ伸びているのが「山辺の道」で行く先に「三笠山」・「春日山」・
「高円山」がるということですから「春日」が入ってきて当然です。
テキスト、古代の帝都と官道
▲三笠山
平城京 ▲春日山
‖ ▲高円山
官
‖
道
‖ ‖
‖ ‖→山辺の道
2本 ‖
‖ ‖ ▲三輪山
▲ ‖
藤原京▲
▲ 大和三山
またテキストの地図では高円山から北に「若草山」「御蓋山」「春日山」の三つが重なって三笠の山
になっている感じですがそうすると「笠」は重ねるという意味があるのかもしれません。この
高円山の歌は野辺から三笠山を見ているようですが、するとここでいう「三笠山」は上の三つの山を
指すのかもしれません。ただ三輪山辺りから大和三山を見ると三つの山が笠を伏せたように
して立っている、これは重なるとはいえないが三笠の山とはいえないかということも疑問として
出てきます。再掲、四っの短歌、前半部分
短歌二首 或る本
231 高円
の野辺の秋萩・・・・・・・ 233 高円
の野辺の秋萩
232 三笠
山野辺行く道は・・・・・・・ 234 三笠
山野辺ゆ行く道
{笠朝臣金村の歌集に出づ}
において長歌が「高円山」なので一つは「高円山」とし、三笠山も両方三笠山は策がなく、つまり
「笠」は「笠朝臣金村」の「笠」を含むというものであるのが望ましいと思います。231と232の、
「の」と「山」を入れ替えて
231 高円
山野辺の秋萩・・・・・ 233 高円の野辺の秋萩
232 三笠
の野辺行く道は・・・・ 234 三笠山野辺ゆ行く道
‖ ‖
春日・三笠・笠金村 高円山・三笠山・春日山
となるのではないかと思います。 なお
「野辺行く道」 と 「野辺 ゆ 行く道」
は墓参りの途中の野辺と、墓の参道を通っている情景といえそうです。
下の部分
短歌二首 或る本
231 いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 233 な散りそね 君が形見にみつつ偲はむ
232 こきだくも茂り荒れたるか久にあらなくに 234 こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに
231と233、の間が極端にちがっています。、上の5・7・5は同じ(ルビは違うー省略した)であり、
全体的に似ているなかで、特に目立ちます。ここを強調するために「短歌二首」と「或る本」を
もってきたといえそうです。
232と234の違いは「茂り」があるなしの違いです。これも
野辺を歩いているときに詠んだもの232と
ある程度雑草などが生えるに任せていない、ところにいる(234)
の違いといえそうです。
個人によってとり方が違う、というものがある、主観的なもので何とも言えないという反発があると
思いますが、表記が違っているのだから、著者が違ったことを述べようとしていると思われますから
、解釈をしてみたらどうなるか、やってみるということだけでよいわけです。名手が書いているの
だから行くべきところにいくはずです。
231と233は違っているのは明らかですが、
231は、わかりやすくて、秋萩が咲いたり散ったりしている、という山野の風景に、いたずらに、
見る人もないのに、という、そこにいる作者の感慨が入ったものといえます。
233は、「散るな」というのはわかりますから、そのあとの意味ですが、訳では
「皇子の形見として見ながらお偲び申し上げようから。」
となっています。一般に「萩」を形見として偲びたいから散るなといっていると取られていますが、
故人の「散るな」は「見たいものがあるので隠さないで」というのがあります。
「秋山に落つる黄葉(もみちば) しましくはな散りまがひそ妹があたりみむ」(柿本人麻呂)
のようなものです。この人物は何かを見て、皇子を偲びたい、「萩よ、それを隠さないでおくれ」と
いつたといえそうです。
ここまで来てしまうと大きな負債を負ってしまうことになります。それは「何だ」「何時のことだ」
「一体誰だ」ということまで行かないとここまで来ても無駄なことになってしまいます。
この長短歌は、巻第二「相聞と挽歌」がある「挽歌の最後」、「巻第二の最後」、長い人麻呂の記事
のあとですから、日本の史家はここは退かなかったと思ってよいはずです。前の二つの短歌の
「笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)」
の歌集というのが一つの重要なヒントとなっていて、これは継体天皇のときに出た「大伴金村」を
想定しているのは明らかで、ここで一応、
「大伴」=「笠」
になりそうです。慈円に「大笠」というのがありますが、大伴の笠かもしれません。また
「春日山」は「大伴坂上家の大嬢」の歌にあり、「高円山」は「大伴坂上郎女」の歌に、「三笠の
山」は「安倍朝臣虫麻呂」の歌にあります。この人物は「大伴坂上郎女」に挟まれて出てきます。
そういえば「阿倍仲麻呂」の歌にも「春日なる三笠の山」というのがありました。また
「大伴宿禰百代」
の歌には「大野なる三笠の杜(もり)」というのもあります。さきほどの「笠朝臣金村」
の歌が先ほどの山部赤人の「春日の山の・・・・三笠の山」の歌の少し前にあります。少し前と
言っても「笠朝臣金村の歌の中・・」とか「笠山」を詠った、越前国守「石上」が途中に入って
つながっていますが
「角鹿津(つのがのつ)・・・・笠朝臣金村・・・・越の海・・・・角鹿・・・越の海・・・」
が織り込まれたもので
「笠」−「越前」−「角鹿」−「鹿」
で蘇我入鹿の「鹿」が「高円山」「春日山」「三笠山」を、つまり短歌四首を染めてしまったといえ
ます。
(20)銅版墓誌
ネット記事「太安万侶の墓誌の謎」(yasuko8787)から借用しますが大安麻呂墓から出て
きた銅版墓誌は次のようなものです。
「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年
七月六日卒之養老七年
十二月十五日乙巳」 (昭和54年毎日新聞)
年表では、癸亥というのは養老七年(723年)なので
723年に 「
7月 太安万侶没(年齢?){銅版墓誌}
12月 太安万侶の銅版墓誌を副葬。{同墓誌}」
となっています。7月に亡くなり12月に墓誌を埋めたというものです。
通説といえるのでしょうが、これでは
○年齢がわからないのは改善されない
○「之」(これ)というのが反映されていない、年月日をいいかえている感じで続きも
養老七年・・・となっている
○乙巳が反映されていない
といえます。通説では「乙巳」を捨てよう、同年に副葬したことにしたわけです。
三番目のことは、乙巳の月日が書いていない理由も考えないといけないことになります。
ただ、通説と同じように、乙巳に墓誌を副葬したというのでよいと思います。
結論としては、
@癸亥年七月六日 太安万侶の没年月日
A養老七年十二月十五日 太安万侶の没年月日
B乙巳の年(天平神護一年=765) 銅版墓誌副葬
となりそうです。太安万侶、二回死んだことになる、それは文句なしにおかしい、となりますが
そこが付けめです。
@の日は〈前著〉で七夕のことに触れていますので、その一日違いでしょう。
養老七年は和銅七年のことです。太安万侶の没年月日は
和銅七年八月十一日
です。
Aの年月日は太安万侶の年齢を教えるためのもので〈前著〉でも推定しています。
「天平七年十一月十四日」に亡くなった人がおり、ここの
「養老七年十二月十五日」と一日・一月違いです。
舎人親王は735、十一月、{60歳}で亡くなったというのは、年表にも
載っています。この舎人親王の、没年月日は〈続日本紀〉みていませんが〈愚管抄〉に出てい
ます。これは実際は舎人親王Aかもしれませんが、その表記と年齢を借りてきたらよいのでしょう。
慈円は{崇道尽歌天皇}の称号が追贈されたと書いていますが、実際は舎人親王@のもの
かもしれません。
この重なりで〈日本書紀〉も太安万侶でよいのでしょう。太安万侶というのはペンネームですか
らどういう表記に乗っているか油断ができません。太田和泉守のように下人禅門でもありますが
天下人に乗り、その言動が語り継がれているのと同じでしょう。
B没後20年くらいあと乙巳の年に希代の戦略家がここを訪れ、その日の行動の記録を残し
ました。これが 四つの短歌であり、そのとき埋設した銅版墓誌とセットで和銅五年〈古事記〉
を書き上げた太安万侶を語りました。ここで志貴皇子の表記に乗ったことで柿本人麻呂の弟と
いう側面は語ることができました。万葉仮名の太安万侶も出てきました。
〈奥の細道〉によれば、萩は八月に散っています(「全昌寺」「越前」を前にして)ので、この場合
でも八月でよいのでしょう。八月ともなれば命日に訪れるのは当たり前で、その日は
乙巳八月十一日
に決まっているから 書かなくてもよかったのでしょう。
この人物は〈万葉集〉巻20(4315〜4320)六首でこのことを語っています。六首の表記の
抜粋は下のとおりで「高円の野辺の秋萩」の解説がされているといえます。
「宮人・・・袖付衣、秋萩・・・高円(たかまと)の宮・・・・高円(たかまと)の宮・・・裾・・・野
秋野・・・行・・・・秋の野・・・・萩・・・高円の秋野の上の・・・・妻呼ぶ雄鹿・・・・ますらを・・
さ雄鹿・・・秋野萩原・・・・・秋の野・・・」
この六首は次のもので上で省いたものがあります。
『 4315 宮人の袖付衣 秋萩ににほひよろしき高円の宮
4316 高円の宮の裾廻(すそみ)の野司に 今咲けるらむ 女郎花はも
4317 秋野には今こそ行かめ もののふの男女の花にほひ見に
4318 秋の野に露負へる萩を手折らずて あたら盛りを過ごしてむとか
4319 高円の秋野の上の朝霧に 妻呼ぶ雄鹿出で立つらむか
4320 ますらをの呼び立てしかば さ雄鹿の胸分け行かむ 秋野萩原
{右の歌六首は、兵部少輔大伴宿禰家持、独り秋の野を
憶ひて、聊かに拙懐を述べて作れり。』
年表では759年、「大伴家持〈万葉集〉最後の歌を詠む(この頃〈万葉集〉できる)」があります。
この六首の歌の前の九首も謀略を語って揺るぎがないものです。
「
七夕の歌八首(4206〜4313)」(省略)
{右は、大伴宿禰家持ち、独り天漢(あまのがは)を仰ぎ手て作れり。}
「4314 八千種(やちぐさ)に草木を植ゑて 時ごとに咲かむ花をし見つつしのはな
{右の一首は、同じ二十八日に、大伴宿禰家持作れり。}
があってこの後に上の4315からの六首が続いています。銅版に関係する部分は七夕の日付けが
ありました、「養老七年七月六日」の意味がこの七夕と結びついたといえます。
またこれは、7と8を意識して作られています。七夕の歌七首ではなく八首であり、またあとに
八の入った歌があります。
七夕の歌 八千種の歌
七首+一首=(七夕)種 一首
(同じ月廿八日)の歌
合計は9なのか8なのか。
7+1=8+1=9
7+1=7+1=8
というものがあると思います。この計算はおかしいですが残るような消えるような1です。
七、でいえば、このあたりの年号に、「七」が意識されています。
七年 ■@大宝1(701)から大宝7(707)・・・慶雲1(704)から慶雲4(707)を後半に使う
七年 A和銅1(708)から和銅7(714)・・・霊亀1(715)霊亀2(716)を入れ養老につなぐ
七年 B養老1(717)から養老7(723)
従ってBの養老の七年と、Aの和銅の七年を使って紛らわせようとする墓誌の年月日が出てき
ました。七夕のことがあるから七がおかしいというような予告もあるのでしょう。
この「1」がありながら消える場合があります。改元の問題です。改元をしたい事情があっても
一月一日にやってくれれば問題ないわけですが途中でやるわけです。こうなると一年が消える
勘定になります。大伴家持はそれも言ったと思われます。
昭和の改元を一月一日を意識してやれば、現在下の左のようになっているのが右になります。
大正15年(1926)ー昭和1年 →→→ 大正15年(1926)
昭和 2年(1927) 昭和1年(1927)(12・25)
昭和2年(1928)
右はおかしいといわれるでしょうが、日本史(古い)年代の歴史年表は右の形式でで書かれて
います。Aでも、改元はありますがそれは注で書くというような感じです。昭和でいえば(12・25)
という注が入るということになるのでしょう。
Aの改元は年表では
「715 霊亀 9・2」
と表現されています。いいたいことは、例えば志貴皇子は
〈万葉〉では、 ●霊亀1、九月薨、乙卯(715)
〈続日本紀〉は 霊亀2、八月十一日薨
となっているのは、九月二日を挟んでどうなるか、とかいう問題になるということです。
このあたり年表の書き方は左のようです。改元があるのにこのままではおかしいはずです。
年 表 現代式(普通の書き方)
714 和銅7 | 和銅7
715 霊亀1 (9・2)霊亀に改元 和銅8、(9,2)霊亀1
716 霊亀2 (11・17)養老に改元 | 霊亀2(11・17)養老1
717 養老1 |
718 養老2
右のほうに翻訳しましたが、和銅8年を勝手に作るのはおかしいのでこれも考えものです。また
右のほう養老2年を717にいれてしまうのもどうか、ということになります。霊亀1と霊亀2は
一月一日が境目になりますからこれでよいような感じです。いずれにしてもわかっている人が
年表作っていますから細かい説明がないだけです。ここで●の表現で大伴家持の謀略があるの
ではないかと思います。あの高円の秋萩の4短歌のあった、一節の初めです。
「霊亀(れいき)元年歳次乙卯(いつばうの)秋九月、志(し)貴(きの)皇子(みこ)の
薨(かむあが)りましし時の歌一首{短歌併せたり}」
ここの文は「霊亀元年」が基準になっています。したがってこの文意は
「霊亀元年歳の次の乙卯(715)秋九月」
という意味になります。すなわち
714 和銅7年 霊亀元年
715(乙卯) 霊亀2年 同じ年養老
となります。志貴皇子は、和銅7年に亡くなったといえます。それを養老7年で表現したと
いうのが銅版墓誌です。〈続日本紀〉の霊亀2年8月11日、というのは(9・2)より前ですから
和銅=霊亀
で和銅年間に入るということでしょう。これはその積りで〈続日本紀〉をみればよいことですが
慈円は
「霊亀二年。{元年乙卯。}九月三日改元。此日御即位。」〈愚管抄〉
と書いています。このご即位のことを述べたくて霊亀二年が役に立つのかもしれませんが、これ
霊亀元年ではなくて、霊亀二年に改元があったとすると、霊亀二年が霊亀一年になるということ
は付け加えられるていることになります。
即位のことが出たように、改元があると一、二年のズレが生じます。昔の人はこれを修正して
年表など作って理解したのですが、今の年表は一二年ずれたままになっています。
628没(75)▼
推古天皇 → | | |ショ明天皇 →
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
蘇我馬子 → |蘇我蝦夷 →
626没(76)▲
二年違いですが、これが横並びだったら、仮説をたてられやすいでしょう。文献が両方〈日本書紀〉
です。没年が同時であれば後任のスタートも同時で興味もわいて来ます。
年表をみて一、二年の違いをしている人を引っ付けて遊ぶのも、まあ、やってみるのもいい
のかもしれません。1・2年の違いで悩まされているのですから。
■@の大宝七年は「大宝B年+慶雲4年」の七年間です。慶雲元年(704)五月に慶雲が出現
したので改元しています。不真面目のような感じの改元ですが一年ズレルものがあるのでしょう。
元明天皇が707(慶雲4年)に即位していますが一年ズラすと大臣欄と並び
708和銅元年で ★元明天皇
右藤原不比等
同時スタートとなります。現実には段差があるからわかりにくいわけです。
708和銅元年、から8年後
715、霊亀1年に変化があり
元正天皇(初登場)→(★が消滅)=石上麻呂の二年ずれの死で暗示?
右藤原不比等
715霊亀元年の初めは、元明天皇の死による元正天皇の登場ということになります。
したがってここでの、ここでのスタートは
元正天皇
右藤原不比等
が同時スタートになります。
藤原不比等がこの5年後720年養老四年で没し、一旦消滅した★元明太上天皇が721に没で
この没年が一年違いでわかりにくくなっています。。藤原不比等は、元明天皇、元明太上
天皇、元正天皇の一部と重なっているといえます。
721養老5年のスタートは
元正天皇
長屋王
とおなり、3年後長屋王昇格で元正天皇も消滅し聖武天皇(光明皇后)時代となります。
長屋王・元正天皇のセットが消えた年723養老七年こそ銅版墓誌に書いてある年です。
銅版墓誌にある 養老7年は「癸亥年七月六日」と「養老七年十二月十五日の二つがありました
が、大伴家持は、7年の七を使った、だけではなく養老をも利用したといえます。長屋王は柿本
人麻呂Bともいえる人物ですがここで元正天皇にも乗っていますから、、ひょっとして春日宮天皇
にも宛てられるのかもしれません。田原東陵というのもあり光仁天皇の陵ですが、この人物は
長屋王の子で、つれあいは高野新笠と記憶していますが、「高野」というのはどこかで出ました。
〈万葉集〉巻第一の終わりの歌、変わった表記の「なら(寧楽)」が出たところ
「長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌
84 秋さらば今も見るごと 妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上 右一首長皇子」
の「高野」です。この歌は
長屋の原ー明日香ー藤原宮ー寧楽宮−奈良ー佐保川ー奈良ー山辺ー山の辺
と流れてくる、先ほどの地図の舞台の行き着くところであり
八十−千代ー万代ー和銅五年ー四月ー御井ー御井−二
などの数字のゆきつくところでもあります。この寧楽の佐紀は地理では列島内だけでもなさそう
です。
藤原不比等も一年繰り下げか、繰上げをしますと重なります。
「720養老4年 8月藤原不比等没(62){扶桑}
721養老5年 12月元明太上天皇没(61){続紀}」年表
年も年齢も月も違うから別人だというのは合っていますが、通説といっても小野妹子は唐へ行っ
と書いてあるのに隋へ行ったと変えています。よくみたらそうなったということのようですが、
小野妹子一人とは限らない・・・・などあるのでしょう。ここでは引退したらしい元明天皇を出して
きています。しかし不比等が石上麻呂を通じて元明天皇に乗ったこともみえみえです。まあ
藤原不比等は二度死んだのかもしれません。
結局繰り上げ、繰り下げの主のような人物は「石上麻呂」です。
慶雲704で一年、和銅708で一年、霊亀716で二年
78という当時としては大変な高齢で、かつ地位の高い人なので過去を遡らねばなりませんが
同じ年ということになると、年表では、前稿で出ました
有間皇子(658・斉明4・19歳で死亡)が
生きていたら、ここにこの歳で出てくることになります。藤原不比等との差は19くらいあり親子の
間柄といわれても一概には否定できないでしょう。
太安万侶が和銅7年(714)60歳で没であるといってきましたが、これは〈古事記〉の完成の二年
後です。しかし〈日本書紀〉は養老4年720年撰上だということですから、太安万侶死後6年後
ということになりますので太安万侶関係なしということになってしまいます。ここにも家持が気を
配ったといえます。この銅版墓誌の年月日を効かし、太安万侶の没年は〈日本書紀〉完成の
三年後だから問題なしといっているかにみえます。慈円なども言っているので〈前著〉では太安
万侶=舎人から〈日本書紀〉も太安万侶といっていますがそれも太安万侶没の記事が、年表の
723に一応載っていることが支えとなっていたことは間違いないことです。両書の連携からみて
両方同時に完成というところまで行っていたと思われます。それほどだから、これほど尊敬された
といえそうです。万葉仮名の年代の遡りのことでここまで来てしまいましたが、柿本人麻呂の行き
着くところ蘇我入鹿がありますので問題ないようです。それよりも入鹿の年齢さえ(?)でわから
ないとなっています。〈万葉集〉の人名注にさえ、有名な天皇の年の差のことが載っています。
天智天皇 「 十年(671)十二月崩御、五十八歳(一説に四十六歳)」
天武天皇 「天武天皇朱鳥元年(686)九月崩御、六十五歳(一説に五十六歳)」
歴史年表には「四十六歳」と「五十六歳」だけが出ている、この違いは何ぞや。こういうのが先決
のことです。
大伴家持の布石は述べ切れるものではありませんが、もう一つ一番単純なものだけ挙げますと
再掲 「 七夕(たなばた)の歌八首4304〜4313(省略)
九首目 4314 八千種に草木を植えて・・・・
「 {右の一首は、●同じ月二十八日に大伴宿禰家持作れり」
がありました。●が何月かわかりませんので、遡りましたが、七夕の歌八首と九首目をみても
また、その注などをみても月の表示がないので確定できません。テキスト脚注では
「同じ七月二十八日に」
となっていますが、これは七夕だから七月という意味となるということでしょう。しかし七夕は
催事で七月七日ではないようです。七夕の前の歌4305の注に
{右の一首は、四月に大伴宿禰家持作れり。}
というのが出ています。従って●は「同じ四月二十八日」かというのが出てくるのですが、この
意味がおかしいし、同年というのなら「同年」と書くのが筋であり、第一、10首も前では
離れすぎているので改めて書くべしだといいたいわけです。まあこれはもういいや、ペンが走って
しまったのだろう意味がないかもしれないと思ったとたんに、この前4304に詞書があり
{同じ月二十五日、左大臣橘・・・・}
●と同じ文言が出ていました。この詞書、歌と注にある語句が、
▲「・・左大臣・・・山田・・・宅(いへ)・・宴(うたげ)・・・山吹・・千・・少納言大伴宿禰家持・・・・」
などです。この語句の「山田」のある歌が4294(巻20の二番目)でそこでは
「舎人親王・・山・・・山・・・山・・・五年五月・・・藤原朝臣・家・・山田・・・少納言大伴宿禰家持・」
が出てきます。この二首間の連携は明らかであり、さらに●と▲は「千」で連結されてもいます。
●の「同じ月二十八日」というのは、どうやら、
「五年五月二十八日」=舎人親王関係の日
ということを表わしていそうです。これはあの日、古事記序文のなった日です。これは五と廿八
で成るという遊びがあります。
「和銅五年正月廿八日 正五位の上勲五等 太朝臣安万侶」
‖ ‖
「和銅五年五月廿八日 五五位の上勲五等 太朝臣安万侶
「正」と「五」は似ていますし、「正色」といえば「青・黄・赤・白・黒の五色」をいうようです(大修館漢語
辞典)。また今日の人も12といえば「正正下(点を除く)」で表わしたりします。また四への道が
正から一つを引くと言う感覚で抵抗感が少なくなりそうです。戦国文献の「丹羽五郎左衛門」、
「木村源五」「長谷川藤五郎」「石川五右衛門」などの「五」もこういうところから来ているのかもしれ
ません。従ってこの意識された「五」の洪水の中の
「廿八」
というのがよほど大きなことであるということになります。今太安万侶の没年を
和銅7年(714)60歳
で確定しました。28歳は32年前ですから「714−32」=682です。
年表では、681(三月)に恐るべき記事が出ています。
「川嶋皇子、忍壁皇子に命じて▲帝紀、上古諸事の認定事業を開始〈紀〉」
とあり、訳本では「〈書紀〉編纂の開始」と書かれています。このときの記録がつぎの〈古事記〉
の企画の一節です。
「ここに天皇詔したまひ・・▼・帝紀を撰録し旧辞・・・・のりたまひき。
時に★舎人あり、
姓は稗田、名は阿礼。年は廿八。人となり聡明にして、目に渡れば口に誦み、耳にふるれば
心にしるす。
すなわち阿礼に勅語して■帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき。然れども
運移り世異にして、いまだその事を行ひたまはざりき。」
★が出てきて、▲▼が対応していますから、前半が〈日本書紀〉で、■以後が〈古事記〉の企画
があったということになりそうです。このあと着手の記事があり
「和銅四年九月十八日を以ちて、臣安万侶に詔して、稗田阿礼が誦める勅語を旧辞を
撰録して、献上せよとのりたまえば、謹みて詔の旨に随い子細に採りひりひぬ。」
〈古事記〉は推古天皇で終わっています。〈日本書紀〉からの撰録をしたと思われます。戦国時代
の〈信長公記〉〈甫庵信長記〉のように二つで語ろうとするものです。したがってこれは太安万侶の
独断によって作られたものといえそうです。この間の動きまとめてみますと
681(天武10年) 〈日本書紀〉着手、忍壁皇子など
30年後 |
711(和銅4年) 〈古事記〉着手、太安万侶
712(和銅5年) 〈古事記〉完成、太安万侶
714(和銅7年) 太安万侶没
〉 6年後 |
720(養老4年) 〈日本書紀〉完成、舎人親王
723(養老7年) 太安万侶没(銅版で没=大伴家持が死なせる)
12年後 |
735(天平7年) 舎人親王没(60)
このようになると思います。銅版は三つの7年の一つとして異彩をはなっており、何といっても
〈日本書紀〉完成のときは太安万侶は生きていたというのは、疑問に答えてくれていると思いま
す。なお先ほどの、「同じ月二十五日」「同じ月二十八日」というような操作は巻20の目次で
「同じ七日」「同じ九日」・・・「同じ月の11日」「同じ六年正月四日」など14ほど出てきますので
利用しないといけないというのはわかります。それで巻20の二番目の舎人親王の歌も出てきた
わけですが、大伴家持の謀略が早くから見抜かれている事に触れて元に戻りたいと思います。
巻20の初めの歌
「山村に幸行(いでま)しし時の歌二首
●先(さきの)太上天皇・・・御口号(おんくちずさみ)したまわく
4293 あしひきの山行きしかば、■山人(やまびと)の朕(われ)に得しめし
山ヅトぞこれ
舎人親王、詔に応えて和(あは)せ奉る歌一首
4294 あしひきの山に行きけむ▲山人の心も知らず 山人や誰
{・・・五年五月・・・藤原朝臣・・・・・山田史土麻呂・・・・少納言大伴宿禰家持・・・」
訳文では「4293」は「あの山村に行ったところ、仙人が私にくれた山のみやげがこれです。」
とされており「4294」は「山に行ったという山人のお気持ちも分かりません。その山のみやげを
贈った山人とはいったい誰なのでしょうか」とあります。これだけ見ればよく分かりませんが、
脚注の次の注によって大きく変わってきます。
@●は元正天皇で、元明天皇をさすとおいう説もある、
A■は山村の人の意と仙人の意とを掛けている
B▲は仙人、それは上皇の御所を「仙洞」というので、上皇をさす
「行幸」は反対になっている感じですがこれは問題のかもしれません。
「山ツド」が重要ですが訳されていません。草冠に包むという字です。包める草根というのかも。
これには歌があり
「4396 堀江より朝潮満ちに寄る木屑(こつみ=糞) 貝にありせばツトにせましを」
「4411 家ヅトに貝ぞ拾へる 浜波はいやしくしくに高く寄すれど」
海では貝になるようです。
■のところの意味は、山村の人が仙人に土産を贈るという意味と、山人(仙人)である
仙人に贈った土産という意味がありそうです。したがって▲も同じで贈って人の心が分からない
というのと「千洞」の人の気持ちがわからないという意味もあるのでしょう。つれて誰のことという
のは贈った人を誰かというのと、仙人が誰かといのがあります。
〈万葉集〉のテキストに歴史の解説がされているということです。こういう@ABのようなヒント
がないとサッと通り過ぎてしまいます。元明天皇・元正天皇と藤原不比等との関係、元明太上天
皇(上皇)のこと、藤原不比等の属性のことも語ってしまっています。すなわち「同じ月の十一日」
「同じ月の二十五日」で出てくる左大臣橘卿の母、県犬養宿禰三千代がのち不比等の連れ合いと
になったというような関係があります。舎人親王の4294の歌の後は、また前の六首とは
違う次の高円の歌三首が続き墓と銅版墓誌の相関も、鹿との関連も繰り返し伝えています。
★天平勝宝5年(753)年8月12日二三の大夫、
壷酒をそれぞれが提げて高円の野に登った
ときの歌
4295 高円の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな 直ならずとも
4296 天雲に雁ぞ鳴くなる 高円の萩の下葉はもみちあへむかも
4297 女郎花秋萩しのぎ さ雄鹿の露分け鳴かむ 高円の野ぞ
があり、
高円はまだ終わりの方にもあります。ここでまた「尾花」「吹く」「秋風」「鳴く」「もみちあへむ」
「女郎花」などが出てきました。まあこの機会を延ばすと、誰もいいそうもない変な話は消えて
しまいそうですので、本題はずれてもうすこしこのワールドで漂って見ようと思います。熱のこも
ったものには、それに動かされるようです。
銅版墓誌がもし昭和で見つからなかったらどうなるのか、ということです。筆者としては、銅版墓
誌を意識したのは本稿を書いているときで〈前著〉のことの補強になったということが述べてきた
ことですが、あの昭和54年の新聞の一面記事の実在の確認というのは、ずっと念頭にあった
から、それは太安万侶を見るベースになっています。あの墓誌が出なかったら年表に太安万侶
の死亡記事が全然ないのだから、あの有名人物の死亡記事がないのはおかしい、別の見方が
必要だ、という方向にはなかなか行き着つくものではないものです。文献が頼りないというトーン
ダウンの方へ向いそうです。
大伴家持がそれほどの策士というならば、銅版墓誌の埋設を告知しているはずだという疑問が
出るならばそれには頭をさげざるをえません。それ以上のことは要求できませんが最低それぐらい
のところは、という淡い期待がでるのは仕方がないところです。これは七夕の歌のはみ出しの
プラ1のところが怪しいと思います。
@七夕の歌は七首でなく八首、 プラ1ただし8/7の「八」。「八」を重視
A●八の付いた 一首
B高円秋野秋萩の歌 六首
Aの一首は@の実質七首と、後半七首を構成する意味で重要でとくに7/28の古事記の日付け
が入っているからサインが有るとして取り上げて見ます。再掲
「4314 ●八千種(やちくさ)に草木を植ゑて 時ごとに咲かむ花をし見つつしのはな
{右の一首は、同じ月二十八日に大伴宿禰家持作れり} 」〈万葉集〉巻20
@AB十五首とも大伴家持の作品ですが、@Bがそれぞれまとめて大伴家持となっているのに
●の歌は、一首にサインありという感じのものです。
4314の歌後半は、うしろ6首に高円萩が出てきますので太安万侶を偲ぶということでよいと思い
ますが前半が問題です。
「八千種」は「やちぐさ」で入力すると「八千草」が出て、「やちくさ」と打つとうまく出てこず、
「はっせんしゅ」とやればやっと満足するものが出ます。どうやら4314の歌は
「八千草に、種木を植ゑて・・・・・・」
としたいようです。「しゅもく」と入力すると「撞木」がでてきます。これは字引によれば
「鉦(かね)を鳴らすのに用いる丁字型の棒。」
となっています。この「鉦」(しょう)は「鐘」(しょう)でよいはずです。「鐘」は右に「童」が付いて
いるから「どう」を鳴らす木が、「撞(種)木」といえます。
「撞木」の「撞」(しゅ)は右側が「童」なので「どう」とも読みます。「撞球」(どうきゅう)
はビリヤードで、「矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)」というのが辞書にもあります。「憧憬」(どうけい)
もありますが憧憬(しょうけい)もあります。とにかく
「撞木」(しゅもく)は「撞木(どうもく)」
で一方「種木」の「種」の「重」という字は他の字と引っ付いたりすると「衝動」があるように「しょう」
となったり「どう」になったりします。
「種木」が「どうもく」と読めませんが、「動木」に近い、一方、「同じ月」は「胴体」の「胴」で、
「動木」という「どう」は「金+同」で和銅の「銅」こそふさわしいものです。「種木」が
「銅 板」
に変えられたといっていいでしょう。後年これは
「鐘 板」
で受け止めた人がいるのでそういえそうです。銅版が八千草の茂みの中に埋め込まれた、
ということが知らされました。この地点はわかるようになっていたはずです。先ほど紹介した
★の歌の二三人は墓の下見したみにきたのではないでしょうか。大伴家持の歌もありました。
太安万侶の墓が発見されて、ここまで高円が詠われているのに結び付けられなかった、注目
もされていないのは絵がなかったからというだけではなさそうです。論議をも避けてきた、といえ
ます。
太田和泉守はここを訪れているでしょう。このときあの
壷が在ったのかどうか。
田原の地は蒲生氏の先祖という田原藤太秀郷と関係
がありそうです。太田和泉守の「太田」は「太安万侶」から来ているのは確実で、
「百済寺の大鹿」「百済寺小鹿」「鹿の角」「鹿垣」「春日明神」「曽我五郎」「長曾我部」・・
など大伴氏を受けて書いています。大伴家持の巻二十には
「梁田(やなだ)郡の上丁大田部三成(おほたべのみなり」
というよな表記があり、「三成」が〈万葉集〉から名前をとって大田の係累といったのかもしれません。
芭蕉は、高円の大伴家持の銅版は太田和泉守は知っていたとみていたから、〈奥の細道〉に
銅版のこと
(
つぼの石ぶみ)
を書き残したと思われます。〈奥の細道〉の大聖寺前後の条、文庫1ページくらいの
範囲にある、〈万葉〉のこの「高円」記事に関連しそうなワードは次ぎのようです。
A
「萩」「行」「雲」「今日」「笠」「露」「大」「持」「秋風」「千」「同じ」「吾」
「鳴」「隔て」「心」「下」「来」「折」「出」「草」「置」「うら」「山」「越」「付」・・・・
B
@「書置」ー「書付」−「書捨」
A「鐘板(しようばん)鳴」「堂・・・堂」
B「柳」「散」「散」「柳」
C読経早卒
D「あへ」
Aは同語ですが双方に繰り返しが多いし、すこし範囲を広げますともっとあります。語句の面でも
宿=泊(芭蕉)、道=堂(芭蕉)、今日=けふ(芭蕉)、野=の原(芭蕉)なども入れればもっとあり
ます。偶然だろうというのがあるから、ここと同じ芭蕉の400字で区切って宮城野でやってみますと
「川」「日」「聊か」「心」「置」「宮」「萩」「秋」「野」「咲」「下」「露」「書」「草」「風」「思」
があります。「みかさ」もありますが「ひら」いてあります。一般的なところでは、こちらも多いといえ
ますが、A、の方が、「同じ」「吾」とか特殊なものがあります。また〈万葉〉では「雁」の「鳴く」
が芭蕉ではBAの「鳴る」になっているなどヒネリがあります。したがって大伴家持と芭蕉との
高円での連携は、偶然で一致したのでどうかわからいというものではない、意識して読み込ま
れたものだといえるものです。余談ですが宮城野のすぐあとに
「神亀元年・・・・大野朝臣」〈奥の細道〉
というのが出てきます。「神亀元年」というのは724年で、これは銅版の養老7年(太安万侶没年)
の翌年です。おまけに「神亀元年」は2月4日に改元してそうなっています。霊亀元年と和銅七年
の例と同じことになるとすると
「養老七年・・・・大野朝臣」
といっていることになります。つまり宮城野の「秋」と「萩」なども「高円」と連携されていたということ
になります。切り口二つあったといえるものです。
(21)多賀城碑
芭蕉は「神亀元年」こ注意を促しています。すなわち「聖武皇帝の御時に当たれり。」と書いており
「神亀元年」に聖武天皇が即位していますからそういえそうです。次のようなところで聖武天皇
が出てきます。壷の碑(いしぶみ)の一節です。
「神亀元年、・・■大野朝臣・・・所里(おくところ)也●。天平宝字六年・・・・恵美朝臣アサカリ
(狂の右が「萬」のような字)(朝葛)・・・修造・・・。十二月朔日と有。▲聖武皇帝の御時に当れり。」
となっています。年号は西暦では神亀元年「724」、天平宝字六年「762」となっており、聖武天皇の在位は
(724〜748)ですから、聖武天皇の記事▲は、●のところに行くのが普通です。脚注には何も書いて
いませんから素直に意を汲んで、聖武天皇の即位と銅版墓誌の太安万侶の死亡年は、一年違い
の同年相当なので銅版と関連付けて芭蕉は書いたととればよいようです。しかし
天皇と皇帝と表記の違う面は別の話です。銅版の太安万侶没と藤原不比等の没年は二年違い
の二アリーイコールです。つまり、これは壷の碑の一節なのに■の人名もあり、太安万侶無縁で
はない、というのがいいたいところのことです。ここの「恵美」は「蝦」「海老」「蝦夷」にもつながります
「朝かり」は高円の秋野を憶(おも)う六首のうちの「朝霧」をうけるのかもしれません
ここの「十二月朔日」というのは「壷碑(つぼのいしぶみ)」にある日付けです。したがって
「壷」−「天平宝」−「六年」ー「朝臣」ー「恵美氏」−「朝霧」
のよな関連が生じてきますが「壷」で思い出すのが先ほどの★の三首の詞書です。再掲
「天平勝宝五年(753)八月十二日、二三の大夫等、各々
壷酒を下げて高円の野に登り、
聊かに所心を述べて作る歌三首」
ここで壷が出てきます。八月十二日は命日が八月十一日ということが重要です。その翌年は六年
ですが正月に集まって、いつまでも参りたいとか、いう歌を作っています。
「六年正月四日、氏族の人等、少納言大伴家持の宅に賀き集ひて宴飲する歌三首」
があり六首で、一人二首詠んでいるので5人ではないかと思います。おのおのが壷酒を提げたという
細かい表現になっており、おそらく次ぎ来るときの目印に置こうとしたものではないかと思われます。
太田和泉守がきたときはそういうのがあって判ったのかも知れません太田和泉守は高位高官として
としてきますから、何らかの遺跡保護の追加対策があったことも考えられます。芭蕉は太田和泉
守の痕跡のあるところを訪れている感じですが、ここのところで大変感激しています。この二つの
年号のところでのことについて感動したのではないか、現場を見に行ったということが考えられま
す。それくらいのものは内包していることでないと多くの具眼の人を惹き付けることはできない
でしょう。
「むかしよりよみ置(おけ)る
歌(「欠」の抜けた字)
枕、おほく語り伝ふといへども、・・・・・・
其(その)跡たしかならぬ事のみを、●
爰(ここ)に至りて、疑いなき千歳の記念(かたみ)、
今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、キ旅(きりょ)の労をわすれて、
泪落つるばかり也。」〈奥の細道〉
これほどの感動にはやはり、壷碑の前の「宮城野で述べられたこと」、「壷碑の多賀城でのこと」
の二つが重なった、重畳した契機があったと思われます。●の脚注では、「この壷碑にいたっては」
と書かれています。その通りですがこうかかれると親切すぎて、前のものと見比べてしまいます。
「
爰(ここ)に至りて」というのはチャンと宮城野の
終わり、多賀城へ入る前にもあるわけです。これには脚注がなく、●は脚注のサインがあって次の
コメントがあるという念の入れようとなっています。
「さまざまの名所があるが、いずれも昔と変わって不確実なことが多いのだが、
この壷碑に
いたっては。」
とあります。一応、同語句ですが前のは「この気の利いた贈り物で」(文脈では草鞋)とあり、ここでは
書かれていない「壷碑」がでてきています。理屈では(かたみ)というのもありそうです。
「爰」は一つのキーワードだから読者の頭に残るというのが期待されて特別の脚注があったのかも
しれません。それなら、「画工」→「木の下」→「草鞋」→「壷碑」の流れとなり、壷碑が帰着点として
の強調となるのかもしれません。いずれにしても壷碑の念押しはややわかりにくいものになって
います。また「歌枕」は歌に読まれた名所という意味ですから名所がでてきてもいいのですが、「歌」
が出てこない説明になっています。「歌」が「可」+「可」のたて積みの字だから、歌には特別の
意識があると思います。枕詞は〈万葉集〉を思い出すものです。また「壷碑」は「四維(ゐ)国界之
数里をしるす。」(ここから四方の国境までの里数)となっていますから、歌碑ではなく歌とやや
離れた物体でもあります。
そこで「壷碑」という具体的なものが「(ここ)に
至りて」という場合の(ここ)に該当するのか、「この壷碑にいたっては」がそのあとの、感動と泪
に繋がったという訳をされた本意かどうか、ということです。
「千歳の記念」にも脚注があって、「千年もの大昔から伝わってきた記念のもの。千年前の姿を
今に伝えている記念物。」となっています。これは親切すぎる、国語の辞典的なものです。
つまり、「記念」のルビ「かたみ」(形見)の効用をうすめるため、意識からはずすためのものです。
記念と形見は違うわけです。「千」の繰り返しもすこし滑稽です。
「古人の心を閲(けみ)す。」にも脚注があり、
「壷碑を見て感動し、歌などをよんだ古人の風懐を、今の私にはありありとわかるような気が
する。」
となっています。壷碑を見て感動したのは分かりますが、歌などをよんだ人というのはちょっと
飛躍です。風懐をまた字引で引かないといけないし、原文よりボンヤリしてきたようです。
要は「けみす」という言葉の意味が知りたいわけですが、よく調べるというような語感のあるもの
で、「ありありとわかるような気する、」というのは「よくわかった」ということでしょうか。
「存命の悦び」にも脚注があります。これは生きててよかった、こういうのが見られて、ということ
でしょうから、説明は要らないと思うのですが、小さい字を辿ってゆきますと、
「生きながらえることによって得たよろこび。
「生きていてこそこうしたものを見る喜びがあるのだ、という意。」
となっています。改行をしますとちょっと見やすくなります。「生き」「生き」「意き」、「よろこび」「喜び」
=(悦)、というものが見えてきます。どうやら炙り出しをすればどうかというヒントが表出されている
ととれます。これはまず入れ替えをやってみれば何かわかってくるかもしれません。左原文、右入れ
替え後、省いたのは長い肩書きの部分だけです。
壷の碑 壷の碑入れ替え後
@おくの細道の山際に十符(とふ)の管有(すげあり)@おくの細道の山際に★十符(付)の菅有。
A今も年々十符の菅菰(すがこも)を調えて国守 A今も年々十符の菅菰を調えて国守に
に献ずと云えり。 献ずと云えり。
B壷碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有り B 壷碑市川村多賀城に有り
Cつぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか F此城、神亀元年
D苔を穿って文字幽かなり。 G大野朝臣東人之★里(置)所也
E四維国界之数里をしるす K聖武皇帝の御時に当たれり
F此城、、神亀元年 H天平宝字六年
G大野朝臣東人之里(置く)所也 I恵美朝臣★萬(朝カリ)修造而
H天平宝字六年 Cつぼの石ぶみは高さ六尺余横三尺ばかりか I恵美朝臣萬(朝カリ)修造而(をさめつくる) D苔を穿って文字幽か也
J十二月朔日と有 E四維国界之数里をしるす
K聖武皇帝の御時に当たれり J十二月朔日と有
Lむかしより読み置ける歌枕、 Lむかしより読み置ける歌枕
Mおほく語り伝ふといへども M 語り伝ふといへども
N山崩れ川流れて道あらたまり N山崩れ川流れて道あらたまり
O石は埋もれて土にかくれ O石は埋もれて土にかくれ
P木は老いて若木にかはれば時移り代変じて P木は老いて若木にかはれば時移り代変じて
Q其跡たしかならぬ事のみを Q其跡たしかならぬ事のみ おほく を
R爰に至りて R(ここ)に至りて
S疑いなき千歳の記念・・・泪落つるばかり也。 S疑いなき千歳の記念・・・・泪落つるばかり也。
ポイントと思われるところは、二つです。一つは右の方★のところに炙り出しがあって@GIが中心
なので上へ集めればやりやすいということです。@GIとその年はまたあとで再掲します。二つ
目は、NOPが思いついたことを書き流したという印象をうけますが、右の方の@GIの三つの
対象物に対応しているということでしょう。@がわかりにくいので参ってしまいます。
@Aはテキストの麻生氏の訳では
「十符の管が生(は)えていた。今でも毎年、十符の菅菰(すがごも)を作って藩主に
献納・・・」
となっています。これでは読者にとっては原文のわからないところが述べられておらず
不満でしょう。第一訳の「管」にルビはついておらず「生える」には「(は)える」とルビがあります。
当たり前だ原文に「すげあり」というルビがあるから要らないはずだ、ということになりますが、それ
ではAの「菅菰」の訳のルビは要らないはずです。原文に書いてあるからです。@の「菅有」に
ついて脚注があり
「十符の菅菰を作る管。“十符”は十編(とふ)で、編み目が十あるのをいう。」
とあり、知りたいことに対して焦点が外されている感じです。「編笠十兵衛」が出てきそうな注では
何のことやらわかりません。またここでも「管」にルビがありません。
読んでいくうちに「管」は「すげの笠」の「すげ」という草の一種で、Aの「菅菰(すがこも)」は「すげ
ごも」としたい、即ち、ルビの異動も考えるということになりそうです。つまり@の「菅」はルビなしで
いきたい、ルビをつけるなら「菅有(すがあり)」となるということでしょう。
「管」(ルビ=すが)
の心は何かということですが「管」の多様な使い方と「すが」が導き出すものがあると思います。
@Aの原文の「とふ」は「十符」ではなくて「符」は「草冠の符」です。これを「付」としますと
原文は「十付(符)」、肩書きで「鎮守付(府)」
という表わし方になっています。したがって@を訳せば
「おくの細道の山際に都府の官(役所・官庁)あり」
となるのでしょう。「(菅)(すげ)、(管)(すが)」も内包しており、「すげ」の産地でもあるし、管公を
祭る神社もあったのでしょう。この前の「宮城野」では「天神の御社」が出てきて、脚注では
「躑躅が岡の西の岡にあって管公を祭る」
となっています。この辺りの岡に役所があったということでしょう。この物体がNの情景に結びつく
と思います。Nはスケールの大きい状況であり、両方とも「山」(川はセット)と「道」とが出てきます。
これは導入部分で、前段の宮城野と「多賀城」を結ぶものといえます。つまり「菅」(すが)はもう
一つ「菅屋(谷)」を表わしており、太田和泉守が「奥州(おく)」「山際(桶狭間)」「明智十兵衛」
「十高祖(桶狭間)などに便乗して表われてきます。この多賀城は「画工加右衛門」の描いた
「絵図」にまかせてたどりついています。@がこういう形でまとまり、@GIを再掲しますと下の
通りです。
@おくの細道の山際に十符(都府)の官(菅)あり。今も年々・・・
A此城、神亀元年、大野朝臣東人の所里(置)也。聖武皇帝・・・
B天平宝字六年、恵美の朝臣親子、修造而(つぼの石ぶみ)
ここで大野朝臣東人は「里」(おく)と「置」(おく)の二つの動作がありますので、@の里のおく
Aの置(おく)の二つに関わっています。
一方恵美は芭蕉の表現から言えば二人です。恵美親子の(萬)と(朝かり)は「造る」と「修造」
ですから親がAにからみ子息がBの動作をするということになります。AからBの間は47年
あるのでBの作業を親子が共同でするのは考え難いわけです。芭蕉が言いたいのは
@の里を造った・・・・・大野朝臣東人
Aの城を置いた・・・・・大野朝臣東人=恵美押勝@
B Aの城を修造、碑を造る・ 恵美押勝A
ということで、いわゆる恵美押勝の乱の恵美押勝は大野東人の子息というのかもしれません。
年表では大野東人の没は742年(年齢は?)、恵美押勝の没は764(59歳)です。
Bの年は762年ですから、反乱の2年前で、碑に出ているのルビなしの方の朝カリです。脚注
では、碑に載っている朝カリは「恵美押勝の子。父押勝の乱にまきこまれて殺される。」となって
います。芭蕉は「狂」の「王」が「萬」という字で「あさかり」というルビが付いたものと、「狂」の「王」
が「葛」という字で「朝」を前に付けたもの、「□萬」(あさかり)と「朝□葛」を使ったのは明らかです。
から、親子二代を表わしたというのが一つあります。また、碑の「朝□葛」は反乱を起こしたという
押勝ではないとはいいきれません。また「朝□葛」が碑を作ったのなら。「ケモノ篇」は使わない
でしょう。ただでさえここは藤原広嗣の乱740、恵美押勝の乱があり狂乱になってしまいます。ただ
大野東人は広嗣の二年後の没になっています。いろいろあるところですが、Bの、碑文の作成
年月日は事実ではなく碑自体が後世の作品といえます。この碑の作成意図があるわけで、同じ
碑文で二人の人物というのは関係がある、城の修造の年月を伝える、大野の存在をだすという
ことですが、そのほかに太安万侶の銅版墓誌の事実を語っているといえます。
まず@がNにたいおうすることはいいましたがAの城が廃墟になったということがOに対応しB
の碑文という造作物が、木が若木に変わるというPに対応していると思います。此れは無駄がない
ということのしょうめいになればよいだけです。たとえば芭蕉は@で里を置と同義で使っていますが
年表では藤原広嗣の死の年には「郷里制から郡郷制に戻る」と書かれておりそれらも反映された
ものとなっています。
再掲〈奥の細道〉、全昌寺のくだり、
B群
@書置ー書付ー書捨
A鐘板(しょうばん)鳴」「堂・・・堂・・・」
B「柳散」「散柳」
C読経・・・早卒
D「あへ」
〈万葉〉の高円萩秋のくだりとの語句の共通は言ってきて、宮城野(多賀城の前)にもそれが及んで
いたということを確認していますが、それ以外の面で太安万侶の墓ということを意識している面がある
るといいたいので挙げたのが、B、です。
@は太安万侶が書き手だから芭蕉が三つも入れたと取れるものです。
Aは「銅版」→撞版→「鐘板」への変化が自然です。「鳴」は〈万葉〉では「雁」です。
Bは流れから見て萩でなければならないといってきました。おかしいものを出して本来のものを
強く意識させようとするものです。
C「心早卒にして堂下に下る」というのは「あわただしく」と訳されていますが、死亡という「卒」が
すぐ思い浮かぶところです。「早」は「八千草」の「草」もあり芭蕉では「草加」=「早加」で
「草」もすぐでてきます。
D全昌寺の終わりのところ
「とりあへぬさまして、草鞋(わらじ)ながら書き捨てつ」
ですが〈万葉〉では「高円の萩の下葉はもみちあへむかも」です。どちらも意味を取るには的確では
ない表現です。芭蕉に「あへ=阿閉」があるか、〈万葉〉に「喪道」があるかはわかりません。
ここに「草鞋」が出てきましたがこれは多賀城の入口に出てきました。
「爰(ここ)に画工加右衛門と云うものあり。聊か心ある者と聞きて知る人になる。この者
・・・一日案内す。宮城野の、萩茂りあいて、秋の気色思いやらるる。(萩と秋)
玉田、よこ野、つつじが岡はあせび咲くころ也(古歌を引いているが少し違っている)。
日影ももらぬ松の林に入りて
爰(ここ)を木下と云うとぞ(宮城野の南、今は仙台市木の下町)・・・露・・みさぶらひみかさ
おはよみたれ(古歌を引いているがすこし違っている))・・
・・・・・薬師堂(善遊堂ともいった)・天神の御社(躑躅が岡の西の岡)・・・書・・・紺の染緒
草鞋(わらぢ)二足・・・・風流のしれもの・・・
爰(ここ)に至りて其実を顕す。・・・草鞋・・・かの画図(えづ)にまかせてたどり行けば・・・・・
壷碑(つぼのいしぶみ)市川(いちかは)村多賀城(たがのじやう)に有(あり)」
というようになっていて、多賀城まで画工加右衛門の案内によりましたがこの人物は「草壁」
氏(脚注)で、〈書紀〉で草壁皇子は28歳で没として引き当て問題の生ずる人物ですが、そういう
用意もされている上に、太田和泉守が乗っかって出てきたわけです。この場合、画図に従って
というのは突然出てきます。それまで隠しておって歌などによって、やってきたという感じがでて
います。いいたいことはあの銅版墓誌の地域を想定して編みこんだ、二つの草鞋で壷碑に足を
はこんだ、
壷酒をさげてやってきたということです。つまりそれで最後
銅版墓誌=壷の碑
にたどり着いたわけです。二つの経過を対照的に示したのが芭蕉の一連の作品であり、そこに
至らしめた先人の思いにかんげきしたということでしょう。これを対比して見ますと次のようになり
高円山での出来事 壷の碑での解説
@和銅七年八月十二日太安万侶高円の火葬、 @元亀元年、按察使の大野東人の都府に
遺族代表大野東人による一次埋葬墓所設営 おける里造り天神御社など造営
A天平勝宝(753)五年八月十二日、 A元亀元年、鎮守府将軍
大伴家持等五人壷酒提げ墓の調査と設営 大野東人、旧多賀城(碑の枠)を造営
B天平神護一年(765)八月十一日 B天平宝字六年(762)、
大伴家持Aによる銅版墓誌埋め込み 恵美朝臣朝狩による壷の碑の建立
という対照があり、これがないと太安万侶墓の次第が完成しないと思います。
大野東人は聖武天皇時代の大物で、年表では、740年
「九月、藤原広嗣反乱 大野東人を持節大将軍として討たせる。〈続紀〉」
となっています。壬申の乱(672)近江方(大友皇子方)の大将「果安(はたやす)」ほか
「大納言蘇我果安臣」「蘇我臣果安」「大野君果安」「蘇我臣安麻呂」「蘇我臣果安の子」
などの表記の人物が出てきますが、太安万侶と無縁というわけにはいかない、大野東人は現に
「果安」の子とされているようですが、742で没では没年は今不明にしてもかなり無理です。
壷の碑は、高円ー太安万侶の関係を表わす「大野」を出してきた、また霊亀元年を出して、
太安万侶の和銅七年を出そうとしたものでしょう。壷の碑は、その名前は「壷酒」の「壷」と同じ
というのが目につきます。またBの「朝カリ」はテキストでも当然の如く恵美押勝子息とされており
これは芭蕉でもそのように取れます。すると大伴家持Aの登場が考えられます。左のABの
間隔が開き過ぎというのも直感できるところです。ここまで述べてくると当然出てくる疑問があり
ます。芭蕉が多賀の碑をみてそれを語りに利用したかもしれないが、碑自体は、そんなことを
語ろうとしたものであるかわからないということでしょう。しかしこのように少しの差異を儲けること
で話が整合することになれば、もとは必ずその意図有りとみてよく、芭蕉が語りに利用する動機
の中に、内容のよみがあったと見てよいと思われます。また碑文の書き手は〈万葉集〉を読んで
おらず、目の前に起こった、身辺のことを書いたというのは間違いであろうと思われます。まあ、
しかし、この点を考えようとすると誰がこの碑を作ったのかということまで、行ってしまう話となるの
のでしょう。
碑文の中味は芭蕉は忠実に写しています。やはり「朝カリ」という難しい字がポイントでしょう。
碑文の原文は(芭蕉も)
「ケモノ篇」+「葛(くず)」
という字で「朝葛」です。これはどこから来たかということですが、〈万葉〉巻20高円秋萩のくだり
Aの壷酒提げて、高円を訪れた内の二人の歌からです。「葛」が出ています。
「4508 高円の野辺延(は)ふ葛(くず)の 末つひに 千代に忘れむわが大王かも」
「4509 延(は)ふ葛の絶えず偲ばむ 大王の見しし野辺には標(しめ)結(ゆ)ふらしも」
4509は大伴家持の歌、4508は、中臣清麻呂で、この人物も天平勝宝五年八月十二日に
高円の野に登っています。碑文から高円に繋がりました。芭蕉は朝葛のほかに
「ケモノ篇+萬」(ルビ=あさかり)
という人物も出しましたがこれも、〈銅版〉の太朝臣安萬侶の萬でしょう。芭蕉も太安万侶につながり
ます。ネット記事をみましても「朝狩」「朝猟」は見られますが「朝葛」はこの碑文以外に誰が出してい
るのかわかりません。ただ芭蕉ではないのは明らかで、碑の見学を旅程にいれ行ったときに見て、
それを写していますから芭蕉の前の人でしょう。そういうことを後世に語ろうという情熱や能力の
ある人多かったと思いますが、お金と権力をもっていてこの地とも縁のある人物ということ
になると限られてきそうです。それはともかく芭蕉は、太田和泉守をこのあたりで呼び出しているのは
確実でしょう。
○芭蕉が画工加右衛門の絵図の案内でここまで来ている
加右衛門は松下加兵衛、猪子加助などから太田和泉守(以下太田和泉守関連)
○「壷碑市川(つぼのいしぶみいちかわ)村多賀城(たがのじやう)に★有(あり)」〈奥の細道〉
「村」にルビがなく、「市川」(大介)に意識がある。「村」は〈万葉〉巻20の初「山村」
○「多賀」は「多賀谷修理亮(重経)」一回限りの登場。地名の「多賀」は「多賀・山田山中」
○「山際」「十」「十」「菅」(すが)」「大野」「国守」「画工」「木下」「天神」「薬師堂」など
○「葛」(くず)は〈信長公記〉「かづら山」で表記がある、(似ていることによる)
○四囲国界としたいらしいのを「四維国界の数里をしるす。」と「維」を使っている
などあります。芭蕉のこの一節には「つぼのいしぶみ」が二つ出てきます。二番目の★の文の
「壷碑」
という紹介文の中のものと、形状などを説明しようとする
「つぼの石ぶみ」
の二つですが表記が違いすぎます。「つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)か・・・」
となっている「サ」が使われているのも気になります。また★の「有(あり)」が
「十二月朔日(ついたち)と有(あり)。」
の「有」でもう一回出てきます。ネット記事で碑文を確認させて頂きますと、現物の文章は
「十二月一日」
となっています。したがって漢字の★の「壷碑」の方は、「朔日」ですから芭蕉が見た方です。
しかし実際には「碑」の現物は「壷碑」が合っていそうですから、この文章は入れ替えて
「 つぼの石ぶみ市川村多賀のじょうに有り
壷碑は高さ六尺余り、横三尺・・・ 」
となるのではないかと思います。「多賀城」というのは現物に載っている表記です。つまり古典などに
伝承されているのが「つぼの石ぶみ」ですが、字典では
碑版=いしぶみ=石碑ですが、いしぶみ=石誌(石碑に刻む文章)=碑文
でもあります。芭蕉は「碑の文の控」とか古文書をみたということも考えられます。そうすると文章
のサンプルを提示しながら、現物は違うように作るように指示した人物がいたということになりますが
とにかく見てきたように〈万葉集〉が高円山ー志貴皇子ー太安万侶というラインを敷いて、それを
大伴氏が支援して太安万侶を語るというる、その一環として多賀城の碑が作られたというkとで
あれば全てがガラット変わります。大の系譜、太安万侶、大伴家持、大野東人、太田康連などの
継承者と自認する太田和泉守がシャシャリ出てくるのは避けられないことではないかと思われます。
ネット記事によれば西行にも「つぼの石ぶみ」を織り込んだ歌がある〈山家集〉ということですが
こういうのが伝説になるのは坂上田村麻呂の奥州経略以後のことでしょうから、かなりあとです。
794年ぐらいですが多賀城の碑なる、というのが762ですから、万葉の壷酒のことから「つぼ
の石文」があるとすると大伴一族の語りが影響ありといえます。つまりここらで多賀城に碑をつければ
うそかまことか、誠に大きな衝撃感激を与えることになります。現存の碑の完成は戦国時代
天正7年で
ではないかと思われます。
『四月十七日、関東常陸国多賀谷修理亮、星河原毛の御馬、長四寸八分、歳七歳、太逞
(フトクタクマシキ)駿馬、はるばる牽上(ヒキノボセ)進上。爰(これ)道三十里を乗り帰る
こたへ者の由候。・・・青地・・・正宗・・・是・・・佐々木・・佐々・・・黄金拾枚・・・進上の刀・・
多賀谷修理亮かたへ遣わさるる注文、
御小袖 五つ 縮 三十端 巳上、
銀子 五枚、是は使者に下され候なり。
四月十八日、塩河伯耆守へ銀子百枚遣わされ候。御使森乱、中西権兵衛相副へ下さる。
過分忝きの由候なり。』〈
信長公記〉
茨城県に多賀郡がありますが、多賀城の多賀と懸かっています。星河原毛というのは脚注では
「馬の毛色。河原毛(白で黄赤をおび、背は黒毛)に白の斑点があるもの。」とされています。馬
とすれば長四寸八分というのは小さすぎですがこれは〈甫庵信長記も同じで間違いではないよう
です。牽上げ、は引きずりあげるの感じです。ここの「里」が重要と思います。全体、馬を献上したが
「耐える」もあり、重いものを運んできた、使者が太田和泉守といった珍妙な文です。
4月17日の数字は、
「4」「17」「4」「8」「7」「30」「10」「5」「30」「5」で合計=120
です。「正宗」仙台、「塩河」塩竈はありそうです。これは前後の脈絡のない突然のものですが
ご丁寧に〈甫庵信長記〉にも出てきます。
『四月十七日に常陸国の住人、多賀谷修理介・・星河原毛・・・・長(たけ)は四寸八分、七歳
一日に五十里・・・多賀谷所へ黄金五十両、小袖三重、縮三十端・・・。使者にも銀子百両・・。
同廿日に多田にありける塩川伯耆守が所へ森の乱、中西権兵衛尉を御使として銀子千両
遣わさる。・・・・・かくて五月朔日・・』〈
甫庵信長記〉
二つをはめ込むくらいでやっていると、多賀とか谷とか星河原とかが煩わしくなってきます。多賀の
字は多賀城にも行くし、河原毛はよくわかりませんが星河原は天の川七夕、星空を思い出させもの
です。長は44寸88分ともなると五尺たらずとなり、原文のおかしさをカバーできるかもしれません。
ここでも「里」が出てきました。里・里ですから長さの里だけではないのかも。「乱」も重なると、
広嗣押勝の乱の乱も気になります。修理介も修理亮もあることがわかり、協力者と協力を頼んだ
人とがここに出ていそうです。「多田にありける」というのは、「太田神社」とか「多田神社」とかいう
ニュアンスの「多田」もありますが「多賀」を指していると思われ、そこで修理亮が作業をしていた
というのがいいたいことのようです。このとき実際は摂津の多田にいたと思いますが現地の修理介
に追加費用を送ったということでもよいのでしょう。芭蕉は終わりの方の「朔日」を利用したといえます。
4月17日の数字は
「4」「17」「4」「8」「7」「1」「50」「50」「3」「30」「100」=合計274
黄金50両の謝礼で、延1000両くらいを使って多賀城の碑を設置したという記録を残したのがこの
一節でしょう。太田和泉守が碑文の原稿を書いたということであれば、解釈もガラリと変わってくる
ことになります。ここに里が出てきましたが碑文では五つの里があります。芭蕉が「所里(置)(おく
ところ)」とした「里」です。碑文
「 去京千五百里
多賀城
@去蝦夷国界 一百二十里・・・・(120里)
A去常陸国界 四百十二里・・・(412里)
B去下野国界 二百七十四里・・・(274里)
C去未葛(二字革篇)国界 三千里 」
@の数字は4月17日〈信長公記〉の数字120
Bの数字は4月17日〈甫庵信長記〉の数字274
となって意思が反映されていると思います。Aは直感的に3000と1500の数字があるところから
実数の二倍になっていそうです、206里が合っていると思いますが〈信長公記〉の4月18日
の塩河などの数字が
「4」「18」「100」「6」「3」「3」「10」=合計=144
〈甫庵信長記〉のこの一節4月17日までの数字
「3」「3」「2」「5」「8」「1」「20」「20」=合計=62 144+62=206
kmも考慮すれば 206×4÷3=274
‖
412×2÷3=274
1500×2=3000÷3=1000
〈甫庵信長記〉4月17日後は「同廿日」の1000両がある。
・ ・・・・・・。
京は当時でいえば奈良ですが戦国時代は京都もあります。
「葛」(くず)は〈万葉〉奈良の「葛」とすると奈良までの1500、未は京とするとその1500計3000
もあるかもしれません。もちろん本来の意味、〈奥の細道〉テキスト脚注の
「中国から胡地(あるいは遠国)への距離をう語」
というのがあるのは間違いないところです。軸足は海外に置かれているという大きさがあります。
この碑の「三千里」はスタートの「千じゆ」における、
「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」〈奥の細道〉
というもののなかに刻み込まれているのでしょう。この「三千里」は源氏物語の
「来し方の山は霞はるかにて、まことに三千里の外の心地するに」(須磨)
を踏まえていそうだというので脚注に引用されていると思われますが、ここに「来し方」が出ており
芭蕉に「前途」があり、碑文からはじめに直感的に感じていながら、言い出しにくい往復三千里と
いうのがありそうで芭蕉も多賀へ行って帰ってくるのだ、というものがあったと思われます。また
「千」は武隈→宮城野→多賀城において三つ出てきています。
「今将(いまはた)千歳(ちとせ)のかたち」(脚注:松は千年の寿を保つという・・・)
「松は此(この)たび跡もなし。」(脚注:たけくまの松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは
来つらむ 後拾遺集)
「疑いなき千歳の記念(かたみ)」
です。二番目のものは「千」がないといわれるでしょうが隠れており、歌に千歳が入っています。
或いは跡形もないというのは数の多さが前提になっていそうだから千本桜、千本藤などあるように
「千本松」と謳われるものがあったかも知れません。要は「千」は二つだという人もあるし、三つある
という人もある、2〜3、となるのでしょう。先ほど2を掛けたり、3で割ったりしましたが、これは
芭蕉もやったという跡があると思います。次の句の「二」「三」というように。
『武隈(たけくま)の松みせ申せ遅桜と、挙白と云(いふ)ものの餞別(せんべつ)したりければ
桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越(ご□)シ
名取川(なとりがは)を渡(わたつ)て仙台に入る。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日・・』
ここの武隈〜遅桜までの五七五の句の解釈は脚注では
「芭蕉翁がそちらに行かれる時分には遅桜がまだ咲き残っているだろうが、遅桜よ、桜は
もう身頃ではないだろうから、翁を案内して武隈の松をお見せ申してくれ、の意。」
となっており、本番のものの句意は
「遅桜の頃、江戸を立つときから。見たいものだとあこがれていた武隈の松を三月越しに
見ることができましたよ、という意味である。{松}に{待つ}をかけ・・・・」
とされています。「遅桜」と「松隈松」を比較してこっちをとる、という訳になっており、解釈に断定的
語調があります。いはばヤケ気味ですが、一方で「松」「待つ」の掛けが書かれ、二様の解釈の
示唆があります。「遅桜」にしても、この訳では桜に呼びかけている感じですが、「桜」という人を
想定しているのもしれません。〈曾良日記〉でこのあたり、「相楽」が出ますが、奥州は「相楽氏」
と「画工加右衛門」の案内があります。
ここに「二木(ふたき)」が出ますが、この前に「二木(ふたき)にわかれて」というのがあり、
「二木」の二発目も「別」というのを伴ってここに出てきました。
このあとに
「日影ももらぬ松の林に入(いり)て、ココを木下と云(いふ)とぞ。」
があり、この「云(いふ)」は前の文の挙白の「云(いふ)」を受けていますから、ここの「松の林」
という組み合わせは、先の句の 「松」のあとの「二木」をも「林」としそうです。単純に「二木」→
「木+木」→「林」でもいいのですが、補強がされればそれに越したことはありません。この延長で
言えばどうしても「みつき」から「二木」が現に出ているのだから
「三つ」「木」=「三木」=「森」
が出るのですが、テキスト脚注では
『「三木」に「見き」または「見つき」の意をふくめている。』
というように「木」を出さないようにされています。「見野」は「貝野」ですからその意味もあるとは
思いますが、「見つき」ともなると、「き」がちょっと邪魔になって「見つき」という過去形と、「木・月」
と語句がある以上、「見つ木」「見つ月」が、どうしても出てきます。一方「越シ」という表記が特異
です。おまけにこれは前詰まりルビで「越(こ□)シ」です。
「越」(こし)が「越(こ□)シ」
となったと考えられ、「し」が引き離されて、全体が引き伸ばされたと思われます。「シ」が「カタカナ」
とされた意味も何かあるはずです。芭蕉は「十符」の場合は「とふ」「と□ふ□」の二つのルビがあり
符は草冠と竹冠があるから漢字でも区別しようとしているわけで無意識ではないということです。
「越」というのは、訳のような越えるという意味があるのは当然ですが「越前」の「越」という意味
もあります。これは「閲(けみ)す。「悦び」という「えつ」があるので察せられるところです。
「越(こし)の国」
で、これは全昌寺で越前の国が出るのでもわかります。
〈奥の細道〉では「武隈の松」→「宮城野」→「多賀城」間は実際とは違って、短絡されて一直線で
す。多賀城碑のところで
「高サ六尺余・・・・」・
このカタカナ「サ」は特別に珍しい、「越シ」の「シ」に繋がります。「高」がこの「松」「二木」「三月」
「越」の句の周辺を染めることになります。キーワード「松」に「高」が冠せられて「高松」が出て
きますし「高木」、「高槻」も出てくるでしょう。つまりこの句の周辺のことは、古代(律令時代)と
戦国時代の両方を反映したものであるといえます。挙白は二人で
@草壁氏:これは、律令時代の草壁皇子を指したもので柿本人麻呂・太安万侶、ーー藤原不
比等という人物と、高松山、高円山、春日山、三笠山などを呼び出してくるものといえます。
A木下長嘯子:これは連れ合いの大村由己で、三木、森、高槻(高山、古田)を語ろうとしている
といえます。
碑文に出ている地名は、多賀城、常陸国、下野、蝦夷国ですが
「多賀」は、はじめに述べましたように「田賀」「太賀」でもあり、「賀」は「伊賀」「加賀」「嵯峨」
「佐賀」などがあり、近江の多賀神社も「多賀・山田山中」として〈信長公記〉で出されています。
常陸国にも多賀郡があります。この常陸国の常陸はのち「木村常陸介」の名前に利用された
かもしれません。「下野」というのは「下野守」は太田和泉守の表記です。「蝦夷」も蘇我氏の
蝦夷、恵美氏をいうことになるのでしょう。
太田和泉守の古典継承の意思、北辺の碑にも導通しているのがわかります。
二木の出た句のあと「名取川を渡つて仙台に入(いる)。」がありますが、「名取川」は脚注では
「仙台の南を流れる川。埋木(うもれぎ)で有名である。」
とありますが、この有名な「木」は、埋め込まれた銅版を意識しているのでしょう。「仙台」の「仙」
は「千」がここでもう一つ出されたといえます。「万見千(仙)千代(世)」がありますから。この
「入(いる)」は、次の「入(いり)」に直結しています。〈奥の細道〉宮城野は画工加右衛門が案内
しましたが「萩茂りあひて秋の気色思いやらるる・・・」が挿入され、再掲
「日影ももらぬ松の林に入(いり)て爰(ここ)を木下と云(いふ)とぞ。」
があります。ここの「入(いり)」は名取川の継続で、目指すはこの松林です。埋もれ木の「木」も
この松林の「木+木」を目ざしており、「木下」の「木」がこれを受け止めることになります。つまり
この加右衛門などについてきているのは「木」です。
「(武隈の)「松」→「(根は)二木にわかれて」→「此木」→「名取川の橋杭(の木)→「松」→
「めでたき松」→「(武隈の)松」→「別」→「松」→「二木」→「名取川」の(埋もれ木)」→
「松」→「林」→「(木下)の木」
木の動きとなっており、バックは(草壁)(越シ)(高サ)です。「根」というのは〈日本書紀〉から
来ているものですが、木もこうなれば、撞木の「木」です。
松の連発(隠れた松がある)で「めでたき松」という「ひら」かれた「松」を出してきました。「目出度」
とだけ取ってしまいますが、「三月」も「見つき」と取れると断定できるならば、「愛でたき」と読むのも
不自然ではなさそうです。「高松(山)」という「たかまと」に似た音を持つ山は太安万侶という人物を
顕彰する施設を置くのにはふさわしい土地の名前です。死体を安置する場所ではないから「塚」
というのか、墓ではないから銅版墓誌はなかったと思われます。
太安万侶が没して後、6年後藤原不比等が亡くなりましたが、ここはよくできた場所で、名前も目出
度いということで、ここを使うことにして、一旦納まっているものを、移設して空けて、死体を安置
して墓所に切り替えてしまったという構図が浮かび上がってきます。上の「武隈の松」からの
流れは中味の木下までの移動をあらわすといえます。萩は秋のはずですが、加右衛門が案内
したのは五月のことだと書いていますから、やはり別のことがいわれているとみなばならいところ
です。奈良のことを宮城野で語るというのがここでやられています。名前だけ見れば「平城宮」
にも近い、先入観がなければ奈良を思い出す人もないとはいえないのかもしれません。
「武隈の松」の「隈」も重要ではないかと思います。高松塚ネット記事で、「築造された場所が
桧前(ひのくま)と呼ばれる・・・(9931131)」というのがありましたので確認しますと「桧隈」の
ことです。「武隈の松」というのは高松山の松をいっていると思います。一方「阿武隈山」というの
があってこれが「武隈」の語源でしょうが「阿武□山」という鎌足の名とともに知られた古墳があり
ます。鎌足の孫が藤原不比等です。芭蕉はこういう相関が語れる場所を選んだといえそうです。
桧隈の女王の歌が柿本人麻呂の歌の次ぎに出ています。
「202 泣沢の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祷祈(いの)れどもわが大王は高日知らしぬ
{檜隈女王(ひのくまのおおきみ)の・・後皇子尊薨りましぬといえり。・・・}」
高市皇子が696年(43)亡くなったので、それを悼んだ人麻呂の歌の続きですから、武市皇子
がここの大王でその死を悲しんだというのが泣沢のモトと思われますが、檜隈はこれ一件でしょ
う。すると高松山を語ったというのがあるのかもしれません。この696年(43)没という年表の
数字は太安万侶の年齢に一致するわけです。すると、高松に住む女王が太安万侶が亡く
なったと嘆いたということであれば決まりということにもなります。
柿本人麻呂の歌は「高市皇子尊」の薨去を悼んだものですが、檜隈の女王は後皇子尊となっ
ており高市皇子に@Aがあるようです。天武天皇が686に亡くなっており、このときの年表は
「686 朱鳥1 天武天皇没(56?)
大津皇子没(24) 」
となっています。大津皇子の年齢がおかしいようです。参考は次の年表で太安万侶28の年です。
681 天武10 ●草壁皇子立太子。川嶋皇子、忍壁皇子に命じて
帝紀・・・・記定事業開始。
この681年では5年前ですから、24−5で大津皇子19となってしまいます。またこれでは壬申
の乱に出てくるのもおかしくなります。これほどの大物は10歳の調整があってもおかしくないので
10年上積みしますと、681年、29歳で太安万侶より一つ上となります。またここでは「皇子大津」
として没しており、大津皇子の年齢を示すものが何もないからここで年齢を出し、大津という表記
を消す働きをさせるため死があったことにしたと思われます。つまり、696年(43歳)が大津皇子
が、後高市皇子の名前で没したことになるのではないかと思います。
煙に巻いたあとを整理して、多様な表記を消しながら、活動を浮き上がらせて、柿本人麻呂、
草壁大子に、集約したといえそうです。つまり●が旧大津皇子であって〈記紀〉の編纂を命じた
人物といえると思います。古事記の序文に太安万侶が「氏の日下((くさか)」といっているのは
「草壁」「日下部」の「日下」であるのかもしれません。柿本人麻呂の活動が19年延びるとやはり
多くの業績が人麻呂に帰属してくる、万葉仮名の創設は当然のことです。また大津皇子の
年齢が10繰り上がると先ほどの「天武天皇(56?)」との差が22となって親子のような感じとなっ
てきます。したがって先ほどのことは人麻呂は天武天皇(武市皇子@)の死をいたみ、檜隈女王
(太安万侶)が柿本人麻呂の死を悼んだということになりますが、太安万侶はどんな名前にも
乗っかって語るのでしょう。〈日本書紀〉では天武天皇(上・下)があり年齢のわからない蘇我入鹿
などとどう調整するのかという問題もでてきます。
廟所の分割、移設などの例は例えば、768神護景雲二年
「春日大明神、三笠山に移座する〈皇紀〉」
というのがあります。阿部仲麻呂はこの二年後亡くなりますが
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」
はふりさけ見る、というのがありますから、やはり、怒っているという感じです。春日明神というの
は藤原氏と聞いていますが、蘇我氏であったのは「鹿の角・・・春日明神」〈信長公記〉でも
わかりますがこのときかわったのかもしれません。慶雲二年(705)に年表では「刑部親王没(?)」と
いうのがありますが、「おさかべ」ですから太安万侶のようです。景雲=慶雲で、無関係でもない
ような感じで太安万侶の場合でこういうのがあったというのかもしれません。
なお高松塚のネット記事をみていましたら、被葬者や、男女の群像などについての書き込みが
あることが書かれている記事があります。記事は信頼にたる内容なので、発表がされていない
ようですが、絵だけが財産ではないはずで、文字があれば文献が出てきたのと同じです。誰の
判断でこれは発表しないと決まるのか、という疑問が出てきます。
芭蕉の文では「木下」というのが一つの帰着点となっています。木下は脚注で云う
「宮城野の南、今は仙台市木の下」
という知識も必要ですが 、この「木下」は太安万侶の銅版墓誌の有る目印の木、その下という
ことでしょう。太田和泉守は大伴家持がその場所を歌にまぶして示したのを読み取って高円へ
いったことを、芭蕉は知っていて、画工加右衛門(太田和泉守)に案内してもらった形にしてそれを
示したといえます。多賀城の碑が銅版墓誌のことをいっているので、太田和泉守が多賀城碑で
高円へ行ったことを示したともいえます。
芭蕉はそれを知っていたから自身も高円へ行ってみて、その場所を見つけた、その行程をここ
で再現したといえます。萩、秋の気色、というのが高円を示しています。
泪も落つるばかり、という感動は、太安万侶、大伴家持、太田牛一という書き手と自身がここで
重なったと感じたときに起こったといえそうです。
銅版墓誌は昭和に竹西という人によって発見されました、一方、見つけようと努めれば発見で
きたものでもあります。多賀城の碑もネット記事では2,3、偽作説もあることが紹介されていま
した。有名な物件についてはとくに文献などによる痕跡があるものです。高松塚も、ネット記事
では、なぜ高松塚というのかというような素朴なことがよくわからない、伝承は消えてしまって
知ることもできず、あの墓が文献にでていないというのは理解ができないところです。昔の知識人
は、隘路がありながら後世に事実などを伝えようとしていたのですが、後世の人がこれ位の
は知りたいなと思いそうなことを述べていないと信頼を失ってしまいますから、予想以上に語って
いるとみてよいようです。高松塚のような注目すべき古墳のことはやはり語り継がれて来ている
ようです。長篠の戦いのくだりに高松がでてきます。
「家康ころみつ坂の上、高松山に陣を懸け」〈信長公記〉
「信長は家康陣所に高松山とて小高き山御座候を取り上(のぼ)られ・・・」
この場所の説明としてテキスト脚注では
『「ころみつ坂」も「高松山」もいま地名が残っていない。〈松平記〉には家康の陣所を
八剣の高松山とある。八剣宮から北東に弾正山(八剣山)を上がると、前方後円墳がある。
この古墳を八剣山の高松山といったのだろう。この弾正山に家康、高松山に嫡男信康
が陣したのであろう。(高柳光寿氏〈長篠之戦〉。』
となっています。「高松」=「八」の組み合わせがあり、佐脇藤八の「八」が出てきました。佐脇は
「沢木」が出てきて打ち替えました。この長篠役の直前に
「坂本より明智が舟にて佐和山迄御渡海」
の予定が出ており実際は「常楽寺」へ上がって「陸(くが)」を「佐和山」へ「御成」というのが述べ
られています。「佐和山」=「沢山」であり、「藤八」的な「八」の登場予定がここで語られ「常楽寺」
の「大鹿」「小鹿」も出しています。準備万端の一端ですが、長篠の一節、
「三州長篠・・・・信長・同嫡男管(ドウチャクナンカン)九郎・・・・熱田・・・当社八剣宮廃壊正躰
(ケングウハイエしやうたい)なきを御覧、御造営の儀、御大工岡部又右衛門に仰せ付け・・・
志多羅の郷・・・・志多羅の郷・・・・ころみつ坂の上、高松山・・・・」〈信長公記〉
というのが高松山の前の文の一部ですが脚注では長篠は「愛知県南設楽郡鳳来町長篠」と
となっています。このなかの「設楽」が意識されたから「志多羅」が二つも出てきたと思いますが
古事記序文の「多羅斯(たらし)」を云っているのかもしれません。序文に「日下(くさか)」と
「多羅斯(たらし)」が出ていて「くさか」の方は「日下部」で出しましたので「たらし」が残っていたから
出して見ただけですが、熱田の八剣宮を太田和泉守が修理するという冗談らしい話は、あの平田
の高松塚もやらねばならないと思っていた話かどうかが気になるところです。弾正が出てきましたので
その線から辿って見ると
松永弾正(太田和泉もある)→佐脇藤八→八剣山(高松山)
松永弾正→十月十日→鎌足→多武峰→明日香平田(多武峰の真西)
松永弾正→信貴→志貴→鹿の角→春日明神→織田信忠→高松山
などのことで高松山がでてきそうです。太田牛一は高松山の塚の存在と埋葬者をしっていたといえそう
です。当然芭蕉も知っていて、「桜より松は二木を・・・」の句の桜が、武隈の松と奈良明日香村
(桜井)の「木」と結んであるといえそうです。なお信長が高松山に上っていますが、坂井左衛門
尉が同行(前に「併」という字がある)していると見えます。藤原不比等を語る材料が多いようです。
松永の城の落城と鎌足(多武峰)の死をほうき星をだして派手に繋いだ〈信長公記〉〈甫庵信長
記〉の記事は、織田信忠が松永城攻めの総大将であったことと無縁ではなかった、長篠で弾正
山を出して、信忠が高松山に関わったことと繋いだという〈松平記〉というのは大変な資料といえる
のではないかと思われます。・・・太田牛一、古代を語る、の話で脱線しましたが元に戻ります。
(22)戦国の東人
内藤勝介=明智宗宿を述べあところで脱線しました。
小豆坂の戦い、再掲
『織田備後
守・織田与二郎
殿・織田孫三郎
殿・織田四郎次郎
殿、
織田造酒(サケノ)丞、是は鑓きず被(こうむ)られ、
内藤勝介、是はよき武者討ち取り名。
■那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。』〈信長公記〉
の内藤勝介が強力な影響力をもって表われたのが、この第二節小豆坂の合戦ですが、第一節
にもう隠れて表われていました。
『西巖・月巖・今の備後
守・舎弟与二郎
殿・孫三郎
殿・四郎次郎
殿、右衛門尉とてこれあり。』
〈信長公記〉
があり、ここで「四郎次郎」の「次郎」で出てきています。五番目の「右衛門尉」は「五郎右衛門」
といえますから、次のものと引っ掛かったわけです。しかも「五郎」というのは丹羽の五郎ですから
またここで兄弟三人が出てきたから、これも引っかかります。
『平手中務丞子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。』
〈信長公記〉
『平手中務大輔に子三人あり、嫡子五郎右衛門尉、二男監物、三男甚左衛門とぞ申しける。』
〈甫庵信長記〉
なぜ嫡子を五郎というのだ、という疑問は当然出ますので主家の人を養子に貰ったのかもしれないと
いうことでそのままになつていますが、先ほどの対比表では
〈甫庵信長記〉 〈三河後風土記〉
内藤勝介 内藤
東助 内藤 内藤東助
平手・
中務」
の対照もでました。
これは当然内藤と平手が関係があるということでしょう。内藤勝介と内藤東助は違いすぎますから
ここも世代が違うという感じもします。
四郎次郎によって、とくに次郎によってキーマンが出てきたという思いがけないことになりましたが
テキスト人名注では「織田四郎次郎」は
「織田信実 織田信秀の弟」
となっているだけです。二人とすると、おかしいのは事実で、うしろ五郎右衛門とするのは合ってき
ませんし、織田四郎次郎は■の五郎となんとなく、繋がるものです。これはしたがって基本的な読み
みのようなのでどうしても纏めてみる必要がありそうです。
四郎次郎という名前
テキスト人名注で「四郎次郎」を一人と感じさせる注があったように「四郎次郎」が二人だということを
一般に広く教えてこなかったのは専門筋の怠慢といわれても仕方がないところです。正確にいうと
二人という読みもあり、それが重要だということを知らしめなかったということです。いわないのは意図的
だった、深読みさせないためにそうされたといってもよいと思います。民主主義の戦後だから特に
そんなことはないはずというなかで起こっている現象です。〈吾妻鏡〉にもあり、太田牛一はそれを踏襲しただけ
です。「四郎次郎」は、小説や評論などでは信秀の兄弟の紹介として羅列して、そのまま書き流され
てしまうだけです。小説家などがものを書く段にはどういうこともないだろうというわけにはいかない、
と思われます。歴史専門家というのはそれを冷ややかに眺めているといった構図ですが戦前なら
いざしらず、戦後60年は国家が決めた歴史指導要領などはなかったはずです。
最も重要な文献の読み方について、四郎次郎の読み方とか、親子の重なりなど
のことを話してこなかったのは、怠慢であり、誠実ではないといえるでしょう。もちろん姿三四郎は
一人だ、親父さんが三郎四郎と名付けなかっただけのことだというのは常識としては通りやすい、
数字の名前というのは、兄弟の順番もあるからややこしいのは事実です。
湯浅常山に次の二つの文があります。有名な旗本久世三四郎が出ています。これは「三四郎」と
「三十郎」の読み方の違いをいっています。
@『久世(
くせ)三四郎坂部(
さかべ)三十郎物見の事
東照宮・・・・久世(くせ)三四郎宣広(のぶひろ)、坂部(
さかべ)三十郎広勝(ひろかつ)・・・
坂部・・・久世・・・坂部・・・久世(くせ)・・・久世(くせ)・・・久世・・・坂部・・・久世(くせ)・・・』
A『源君久世(ルビ=
くぜ)三四郎坂部(
さかべ)三十郎物見の事
・・・久世三四郎、坂部(
さかべ)三十郎・・・・坂部・・・久世・・・久世・・・坂部・・・久世・・・
久世・・・・坂部・・・二三町・・・坂部・・・久世四町・・・久世・・・●観世左近は謡いに名を得
たるものにして、剃髪して安休(あんきう)と号す。・・・・三・・・三・・』
@が中巻、Aが下巻にあって二つの似たものの相関が気がつかないようになっていますが、二三町
とか、四町とか三三もあるので二人の名前を問題にするのだろうということがわかります。この「坂部」
とか、「久世」の多数の羅列も本文の中にあれば気がつきにくいものです。●以後はこの「世」という
字の読み方が今問題になっているから「世」で話を飛ばしたということです。いわゆる徳川家康を
@では「東照宮」、Aでは「源君」としています。「東」には「内藤東助」とか「東堂」とかがあり、「源」
も「尾藤源内」とか「里部源助」があるように、太田牛一に接近した表記でもあるわけで、語りの主役
に登場させたというようなものです。●のところに出ている「安休」は森乱丸の子孫ということで既述
の「服部安休」しかありません。ネット記事では服部安休は森乱丸の孫となっていますので、太田
和泉守登場はありうることです。 これはAの方の読みが正解で観世は「かんぜ」というように
「くぜ」「さかべ」
となります。一方、@の場合は「くせ」と読ませていますが「坂部」は「さかべ」そのままで「部屋」と
いう読みもあるのに「さかへ」となっていません。@とAを並べると@は「くせ」「さかへ」が妥当では
ないのかというように感じます。@Aとも坂部は
さかべーーーーーさかべ
のままなのに、久世は
@くせーーーーーーAくぜ
となっています。なぜこうなっているのか、つまり
久世(くせ)三四郎|
久世(くぜ)三四郎|ーーー坂部(さかべ)三十郎
という対置がなにを意味するのか、ということになります。
一つは「三四郎」は一人で、四郎次郎のように二人を表わす場合は苗字を二つにするしかない
というのかもしれません。すなわち、「久世三四郎」の場合は「久世三四郎」の一人と、久世三郎、
久世四郎という二人を含むというものではない、その点は坂部三十郎も同じです。三十郎という
一人を表わします。もう一つは、「三四郎」の「四郎」と「三十郎」の「十郎」に違いがあるというの
かも知れません。十郎の場合は「十郎」が語りのための特殊な用法で実体がないといえるものです。
したがって、あれば恥をかくことになりますが、「坂部三郎十郎」という表記はないのではないか
と思います。「十郎三郎」でも同じですが「坂部三郎」と「坂部十郎」を含んだ十郎三郎はない、親の
つけた「坂部十郎」という一人だけとなるとありうるいうのでしょう。
坂部三十郎はもう一つ3×10郎というのもありえますがこれも語りのための三人、
実体は一人といえそうです。野々村三十郎もそう読んできました。
一方久世三四郎の場合は「3×四郎」という読みはないということです。総領三人というのはあり
えないといえそうです。それだけ、野々村三十郎という表記の意味が大きいといっていそうです。
まず
「野々村三十郎」
という個人一人が出てくるのは当然ですが、あと十郎という三人分を内包している、それは語り
のために作った表記として例外的に有るということでしょう。
「野々村仁清」はネット記事によれば慶長十三年に生まれたと書かれているのがあります。関ケ原
8年後ぐらいところです。ただ同じ「野々村」という人物が〈信長公記〉の本能寺の前に語られている
わけですから、「野々村仁清」@がいたということで当たってみることは的外れではないといえます。
「野々村」はテキストでは「三十郎」が「正成」に宛てられています。これは佐々の「成政」を反対
にしたようなものです。「又右衛門」「主水」があり「主水」は孕石主水があり孕石は和泉守があります。
またテキストでは「野々村主水」は、〈津田宗及自会記〉の「野々村主水入道宗玄」とされています。
津田が出てきましたが、津田宗達は俵屋宗達で「野々村」ですから、
野々村「宗玄」
野々村「宗達」
とは限りなく近いといえます。「玄」は
「佐久間玄蕃」(信長公記)
があり、「玄蕃」が出てこないので「げんばん」で入力するようにしていますが、ついでに「玄伴」「玄万」
も出てきます。湯浅常山のオジリナリティの物語、紀伊大納言頼宣の母、お万の方が塙団右衛門
に多額の扶持を与える話の「ばん」なのかもしれません。渋谷万左衛門の「万」は「万見千千代」の
「万」と繋がるようです。このほか「藤堂玄蕃」「日向玄徳斎」「玄以(徳善院)」「明窓玄智」
などの「玄」でこれは「彦」「元」「源」「原」「厳」でもあります。
「日向玄徳斎」(信長公記)
ともなると表記が独自に語るので特別重要でしょう。玄以の「徳善院」も本人が付けたものではない
のでしょうからヒントを与えたり、連携の鍵としたりするものです。玄以は「斎号」を「半夢斎」といい、
「孫十郎」や、「基勝」「(民部卿)法印」という名を持っているので重要です。「玄」は芭蕉では
伊勢山田の俳人、「又玄(ゆうげん)」が出て来て、野々村又右衛門にもつながります。
「野々村」は「野村」ですからここからも「肥後」「丹波」「越中」が出てきます。
『古田左介・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎、』〈信長公記〉
ということで、いま太田和泉と古田織部の関係を探ろうという途中です。
湯浅常山はこういうことをいうために「三四郎、三十郎」の物語を出した、四郎次郎のような場合
も考慮してその違いをいつたといえます。この「四郎次郎」ような例で常山に次の一節があります。
『山口六郎四郎奥田三河守高屋(たかやの)城を落つる事
松永が士山口六郎四郎、奥田三河守高屋(たかや)の城(しろ)を守りけるを、信長攻めらるる
に城中力尽きて・・・落ちんとせしに、山口風雨の夜鉄砲をあつめ、東の門の寄せ手へ向けて
散々にうたせければ、すはや打ちて出るとさわぎける。
其のひまに西の門を開き、一同に
かけ出、打ち破りて落ちゆきけり。』
まずこの話は〈両書〉にあるもので、両書でも山口六郎四郎、奥田三川(守)のペアになつています。
ここの題はペアですが中味はペアになっていないのかも知れません。
「是れ六郎四郎が謀と聞こえし」(甫庵)
となっていますから、山口の語りだけをみればよいのでしょう。山口は東西同時に行動していますので、
二人の仕業といえます。題字では「山口六郎四郎」一人、奥田三河守とは別姓の連れ合いのようです
が、本文とは、高屋の城の内容が違いますので、本文では、人が違う、奥田城での、山口六郎四郎
動きから二人を語ったといえます。題と本文では人が変わる例は例えば常山では
『◎越中(
えつちう)にて
謙信月(つき)を賞(しやう)せられし事
謙信(
けんしん)
越中にて秋の夜諸将をあつめ、月を賞(しやう)して詩(し)あり。
霜軍営に満ちて秋気清し。数行の過雁月三更。
越山並び得たり能州の景。任他(さもあらばあれ)家郷遠征を念う。』
があり、題と本文では、主語、場所が違ってきます。つまり、いはゆる謙信は月を眺めて酒を楽しんだ
のでしょうが、この詩を作ったのは太田和泉守ということでよいようです。
「六郎四郎」は「六郎四郎」という一人があるとともに、「六郎・四郎」の二人が引っ付いていて、
二人をも考慮しなければならないといいましたが、「三四郎」は一人でしょう。二人を表わす場合は
「遠山三郎四郎」〈信長公記〉
のような恰好になると思います。「三十郎」は三十郎と3×十郎のいたずらがあるということが
いってきたことです。「三九郎」となると、どうなるかということになりますが「四郎」と「九郎」の違い
が出てくるのではないかと思われます。
(23)前田慶次郎
甫庵は「滝川、合戦の事」という一節を、最後に付記して
いますが、そこで
●「三九郎八丸{
一益長子二男}二人」〈甫庵信長記〉
という表記があります。これは
○「三九郎」という長子
○「八丸」という二男
を表わすのは確実のようです。一方、この「九」は
塙九郎右衛門、塙九郎左衛門尉(いずれも〈甫庵信長記〉)
春日九兵衛(常山奇談)
とかの「九」で「久」「休」にも通ずるものですが、諸口的な広い意味のある「九」で、限定しないが、
「三」とか「五」とかの効きを生ずる表記といえます。「九郎義経」も9番目ではないかもしれない
わけです。したがって「三九郎」には「三(九)郎」てき読みの外に
3×九郎
も含めている可能性があります。こうなると、この「三九郎八丸」が
三九郎、九郎、九郎、九郎、八丸
の五人を表わすことにもなりそうです。したがって●は「二人」という追記が必要であったと
といえると思います。
これは関東管領、滝川左近将監一益任命による派遣の大将を決める話しが出てきた中での
「三九郎八丸」ですから、一応これは直に森の三九郎八丸に繋がる話です。関東派遣の
「聟」と「犬」〈信長公記〉
で出てきたことと関連があり、三九郎は、〈甫庵信長記〉の滝川の一節に出ている名前では、
○「滝川義太夫」(一益の「甥」)
○「滝川彦次郎」({後に豊前守と号す})
という一匹狼の表記の人物に絡んできます。加藤二十四将の一人に、「森本儀太夫」がいますが
『森本儀太夫・・・飯田角兵衛・・後藤又兵衛』
‖
滝川儀太夫
となって一応、
森=滝川
という恰好になります。こういうのもボンヤリ利いてきます。テキスト索引では、本文で
「三九郎八丸{一益長子二男}」
となっているのは「(長子)三九郎」と「(二男)八丸」という二人に分けられています。これは{細字}
の注が「長子二男」となっているから二人となったというのもありますが見ただけでも「三九郎」と
「八丸」というのが出てきそうです。「四郎二郎」は二人というのはもう読まれているわけですが、
一般にはそういう読み方が教えられていないだけです。つまり脚注や索引に書かれていないわけ
です。このややこしい「三九郎八丸」という表記は〈甫庵信長記〉にありますから当時の一般の人
は読みこなしていたと思われます。〈信長公記〉ではこれは出ておらず
「滝川三郎兵衛」と「滝川儀大夫」
が出てきます。「三郎兵衛」は「丸毛三郎兵衛」がありましたから、もう一人の「丸毛三郎兵衛」とも
いえます。これら両書の異彩を放つ表記や挿話を綜合して、〈常山奇談〉の次の記事にいたります。
戦国の人気者、硬骨漢として名高い、前田慶次郎は太田和泉守の直孫のようです。
『前田慶次が事
前田慶次利大(としおき)忽々斎(こつこつさい)と号す。加賀の利長の従弟(いとこ)なり。
{一説に、利大(としおき)(イ之又元)は滝川儀大夫が妻懐胎にて離別し・・・横山山城守
長知・・・・・松風という・・・・・ふとくたくましき馬・・・烏帽子・・・立(たて)ゑ帽子・・此鹿毛・・
幸若の舞を謡ふ・・・。}
上杉景勝に仕えけり。{初めて目見(みえ)する時、土大根(つちおおね)三本台(難しい方の
「だい」)に居(すゑ)て出しけり。}
朱柄の槍を持たせしかば、何ゆえぞ、と咎むるに父祖より持たせ来りしといふ。水野藤兵衛、
韮塚理右衛門、宇佐美弥五右衛門、藤田森右衛門・・(不公平だと)訴えて許されけり。
・・・・慶次・・・直江・・・・直江・・・・慶次・・・爰・・・・杉原常陸・・・・種子嶋の鉄砲・・・・慶次・・
慶次・・・黒き物の具に猩々皮(しやうじゃうひ)の羽折・・・金のいら高(たか)の珠数(じゅず)
のふさに金の瓢箪・・・山伏頭巾にて十文字の槍・・・黒の馬に金の山伏頭巾・・・・唐しりがい
(「金+秋」の字)・・・前田慶次・・・・杉原種子嶋鉄砲・・・小高い所・・慶次・・・風月を楽しみ
歌学に心を寄せ、源氏物語を講じて世を終われり。』〈常山奇談〉
「利大」は「利太(ます)」も在ったと思います。「大田」「太田」と両方揃っています。「利益(ます)」
もあったかも。これなら滝川一益の「益」も取り入れられたといえます。丸毛三郎兵衛→滝川三郎
兵衛の筋から滝川左近A(嶋左近)の子息が儀太夫かもしれません。「松風」とか「烏帽子」とかも
この際覚えておけばそのまま使えます。幸若の舞は〈信長公記〉の首巻とか本能寺の前に出ました。
ここの「ふとくたくましき馬」というのは「杉原常陸」の「常陸」とかと多賀碑の多賀谷で出ました。
、「猩々ひ(ケモノ篇に星)の羽織り・・・・金の瓢箪・・・・山伏頭巾」などは、やはり太田和泉守を
意識していると思われます。「羽折」は常山では嶋左近ですが。「爰」というのは度々出て来
きます。アウトプットし難い字で「手書」で出していますので極力省略していますが、ここでも出てき
ました。杉原常陸に太田和泉守が乗っているからでしょうが種子島の鉄砲をを持ち込んできて
います。織田の鉄砲は太田和泉守というのもありますが、無双の撃手、二つ玉を打てる、八丸=
太田又助も出ていると思われます。種子島というと鉄砲ですが杉原種子嶋ともなると、山鳥と
八千草の種(くさ)、杉の原という山の感じも出てきます。高円山とか高松山とかが出てくるものでは
ないかもしれませんが「鹿毛」があったり、「大根(だいこん)」のルビを「おおね」としたというよう
なことからみても古い時代もみようという意思もみられるところです。テキスト脚注によれば滝川氏
は 「紀氏。河内高安荘(の)司。」とされており、「根」というのも紀氏に結びつきそうです。
関ケ原で有名になる直江山城も出てきますが前田慶次郎を迎え入れたのは、直江山城でしょう。
やはり太田和泉守と知り合いであったということもあるかもしれません。常山は杉原常陸と直江
は仲が悪かった書いています。関ケ原のとき、直江が長谷堂攻略に時間を掛けすぎて失敗して
いるようですが城方の内通を直江が信じたからで、杉原常陸がこれを諌めています。〈常山奇談〉に
「直江大いに悦びけるを、杉原、是は赤松円心が白旗の城にて、新田左中将を欺きたりし
謀なり。かくいうて山県の要害をかまえん謀なり。只山形に攻め入るにはしかじといえども・・」
とありますが、これは「赤松」と太田和泉守の関係を示したものでしょう。太田和泉守はこのように
神出鬼没であちこちの状況を語る役で登場します。あまり物理的に考えなくてもよいようです。
前田慶次郎は太田和泉守に可愛がられて、かなり指導を受けたとみても間違いないところで
しょう。慶次郎には著述があり、〈信長公記〉の歌学篇といえるほどのものが残っているの
かもしれません。ここの源氏物語も湯浅常山が読んだから書いていると思われます。散逸していた
ら惜しいし、残っていたら、隠居した侍が趣味でつれづれに書いた、それが偶々残ったというような
ものではなさそうです。教えてもらえるのではないかと思います。
「三九郎八丸」の「二人」から慶次郎が出てきました。「三十郎」というのは野々村三十郎で出て
きて、先稿ではこれは「三×十郎」として読みましたが、「三九郎」の場合でも、もう一つの読みが
ここであるのがわかります。つまり「三九郎」+八丸で、
「三×九郎」+一(八丸)=四人兄弟
というのが一つあります。「三九郎八丸」というのはよくできた表記で、
三九郎という一人、と八丸というもののペア
九郎三人と八丸という4人ペア
を表したということになりそうです。合計では五人が出ているともいえます。
いまやりたいことは、森長可とか森可隆などの名が出てきているので、「森」一家の兄弟が、
何人で、それは誰々か、順番はどうなるのかということを固めたいということです。兄弟のことは至る
ところで語られていますので目についたことから、見て行きたいと思います。一応「三九郎八
丸」のような鍵となる表記に
「森九兵衛」〈甫庵信長記〉
が出ますので、これは森九兵衛一人と、九人が出ているであろうとみられますから太田和泉守以下
九人というものであろうと見て取れますので、森可成、太田和泉と子息7人の見当をつけてやるという
ことです。〈信長公記〉では「長九郎右衛門」という表記がこれに当たるのかもしれません。こちら
の方は北国に長氏(連龍など)という豪族があるので、九郎で九人とみるのにはやや無理が
あり、それは「塙九郎左衛門」「市橋九郎右衛門」でも同じです。「
森九兵衛」というのはありがたい
表記といえます。
(24)森三人兄弟
森の九郎が三人
森の八丸が一人
という森の四人の兄弟が出てくるなかで、「
八丸」は細字の(
二男)となっていますので桶狭間の
「長谷川橋介・佐脇藤
八・山口飛騨守・賀藤弥三郎」〈信長公記〉
という順番は合っているようです。森乱丸は
「森乱丸{森三左衛門尉
二男}」〈甫庵信長記〉
となっていますが、これは「八丸」の{二男}とは矛盾せず、森家は主(あるじ)なので「森勝蔵(長可)」
が嫡子で一般にはこれが「四郎」といわれるのではないかと思われます。森乱丸も嫡子といっても間
違いはなさそうですがちょっと複雑なころがあるといえます。つまりもう一つの表記があります。
「森三左衛門尉が二男乱丸走り出て門外を見・・・・・」〈甫庵信長記〉。
があります。この「二男」は本文中の表記だから、注書(細字)の{森三左衛門二男}とはニュアンスが
違うようです。いわゆる森可成からみると「八丸」は(二男)とは呼ばないでしょう。ネット記事のなかで
森乱丸は森可成の「三男」というのもありますがこれは
「森可隆」(早くに戦死したとされる)「森長可」「森乱丸」
というので「三男」となるという理屈でしょう。
本能寺で有名な森三兄弟も表記がおかしいので少し立ち入って見ますが「三兄弟」というには
森「兄弟三人」というのが先ず目立ちます。
『小々性には、森乱丸、同力丸、同坊兄弟三人、・・・・』〈甫庵信長記〉
『●
森乱・森力・森坊兄弟三人、』〈信長公記〉
三人兄弟を表わす唯一の文がこの二つです。この文が対置されるものであるのは明らかですが。
これを嵌めこんで読むのは不要と感じます。それは
○これだけ見てもよくわかる、つまり森三兄弟「乱丸、力丸、坊丸」のことをいっている
○「兄弟三人」「兄弟三人」と同じ文があるから嵌めこめそうもなさそうだし別にそうする必要も
ないということからきています。ただ
「森三兄弟」と「森兄弟三人」
は違うのでまあ無駄なようですが一応やってみるというのもよいのかもしれません。ここでは両書
とも「兄弟三人」と書いていますから、そうした必然があったともいえます。「森三兄弟」と「森
三人兄弟」は似ていますが違う、明智三羽烏と明智烏三羽は、前者は三羽だけ、後者は十羽
いる内の三羽というようなものとなるのと同じで、三人兄弟は三兄弟で三人ポッキリ、兄弟三人は
四人いるかも知れない中の三人となりそうです。
森兄弟といえば「森乱丸」、「力丸」、「ゑびな」、「坊丸」で、これは長谷川橋介、山口飛弾守、
佐脇藤八、賀脇弥三郎相当といってきましたから四人です。しかるにここでは兄弟三人となって
いるから少しおかしい、また一般に知られているところで森兄弟には、鬼武蔵といわれて剛勇を
謳われた「森長可」がおり、既述の話では「木下長嘯子」の夫人は森乱丸の姉というのがありまし
から、いまのところ普通でいう場合は四人、全体では六人くらいという兄弟です。兄弟三人と
二回も同じことを書いた背景には森全体を想起していた中での三人を挙げていると思われます。
したがってはめ込む積りでヤッサモッサやっていると一つ感じられることは
〈信長公記〉の
森乱・森力・森坊
というのは「森」がダブっています。しかし「森(乱・力・坊)」と括ったり、「森乱・同力・同坊」と
羅列して書くわけには行かないという感じのものです。この名には、おかしみがあり、三人個々が
それぞれ「森乱」「森力」「森坊」と呼ばれていたという紹介、個々に対する愛称とかあだ名のような
ものをいったと考えられます。もう〈甫庵信長記〉で、紹介したあの「乱丸」「坊丸」などのことですよ、
ということです。つまり〈信長公記〉では「乱丸」「坊丸」など「丸」の付いた名前は一切出ていない
からこういえるわけです。〈信長公記〉人名索引をみても、ウソのようですが8回登場
「森乱」
しかなく坊丸、力丸に至っては上の●の文の一回ポックリです。〈甫庵信長記〉文は「乱丸」「力丸」
まで入っているから、再掲下の文のように「同」が入っても不自然ではない文となります。
『小々性には、森乱丸、
同力丸、
同坊兄弟三人、・・・・』〈甫庵信長記〉
したがって両書は一つの文を二つに分けたので、それぞれがやや不完全になっている、嵌めこん
で一人前に成るのか一応はやってみる必要があります。やっているとこの〈甫庵信長記〉の、
いはゆる「坊丸」は「
坊」だけになっている、つまり
森乱丸
森力丸
森坊□
であることもわかってきます。「森坊□」となると、あの坊丸が半分にされています。「森半坊丸」と
いうのでしょう。
合成文
「小々性には、森乱丸(
森乱)、同力丸(
森力)、同坊□兄弟三人、・・・・
森坊 兄弟三人・・・・」
となります。三人目「坊」から、二つに分かれます。上段、「同坊丸」となっていれば「森坊」に同じ
ですが、半分ですから、大窪半介と同じで、こうなればこの三人は
長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八
の三人を表わすことになります。下の方、もう一つの
兄弟三人は
長谷川橋介、山口飛弾守、賀藤弥三郎
を指しているといえそうです。しかし、この「賀藤弥三郎」にも、本能寺のくだりで
「賀藤辰丸」と「賀藤辰」〈信長公記〉
という半分が用意されています。したがって、森の兄弟三人とは、
『 森乱 ・ 森力 ・ 森坊(坊・辰)兄弟三人、』〈信長公記〉
‖ ‖ ‖
「1」 : 「1」 : 「0.5+0・5」=3人
となります。森坊の中味は「坊□+辰□」で半二人で一人ということです。結論的には兄弟三人に
こだわったのは、四人兄弟もちょっと変わっている毛色、毛並みが一様ではないということで
しょう。
三番目の人は「八」で代表される人「八公」であり、
四番目の人は、半分「森」、半分「賀藤」といってもよい、
といっているようです。つまり森兄弟三人の(森乱・森力・森坊)は、
長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八
を指していっている、賀藤弥三郎はいまでいう父が違う子といえそうです。
あの後藤又兵衛は大坂陣では六拾余歳と
いうようですから「64」としますと、(実際も62〜64くらいが余といえそう)、桶狭間では10歳くらい
となり、「佐脇藤八」(前田犬千代)、生年十八歳、というのと、八つも開いており、もうこれで終わり
と思っていたのに生まれてきたので、ビックリしたというような感じもありますが、4つくらいは余分な
ブランクがありそうです。また後藤又兵衛の初期の伝承は、三木など播州にあり、美濃は出てこない
ようです。このあたりのことから、太田和泉守の身辺に変化があった、どこかで森三左衛門可成
との関係が解消され、小寺(黒田)氏、赤松氏などとの姻戚関係が生じたというような感じがあります。
一方森三左衛門には「尾藤氏」との関係がみえます(「尾藤源内」、「尾藤又八」と戦死)。とくに、
森ー尾藤の関係の説明もどこかで必要なため、とりあえず、二人にはこういうことがあったという
ことにしておきますが、これらが、森の「三人兄弟」という表記になった「森三兄弟」ではない、四人
いるはずだ、という疑問に対する応答として用意されていたといえます。
これは本能寺戦死者総括総括人名羅列のなかにも反映されているのものです。
『御討死衆(61人)
・・・・・・■小河源四郎・神戸
二郎作・
大脇喜八・犬飼孫三・・・・・・・・・・・・
井上又蔵・(松野平介)・(飯尾毛介)・賀藤辰・(山口半四郎)・竹中彦八郎・河崎与介・・・』
〈信長公記〉
があります。ここで( )した人物は〈甫庵信長記〉にはなく、〈甫庵信長記〉では
●「井上又蔵、賀藤辰、竹中彦八郎、河崎与助」
となっています。上段を睨んでいるような四人ペアらしいものですが〈信長公記〉はその意味では
余分なものを入れています。四人セットで捕えられるとわかればそのなかでは入れ替えもよい
でしょう。〈甫庵信長記〉の●は、与助→与四郎から
河崎与介(与四郎)、井上又蔵、竹中彦八郎、賀藤辰
‖ ‖ ‖ ‖
小河源四郎 神戸次郎作、大脇喜八、犬飼孫三
の順番が、意識されて書かれていると思われます。
上段の部分は〈甫庵信長記〉では
『・・・小河源四郎・神戸
次郎作・
大脇喜八・犬飼孫三・・・・』〈甫庵信長記〉
・ (・■小河源四郎・神戸
二郎作・
大脇喜八・犬飼孫三)→〈信長公記〉再掲
となっています。両者を嵌めこんでみると〈甫庵信長記〉の文は
▲「小河源四郎(小河源四郎)、神戸
次郎作(作神戸二郎)、
大脇喜八(
大脇喜八)、
犬飼孫三(犬飼孫三)」
ということになります。神戸次郎作と神戸二郎作は表記が違うから、本来この( )の中には入ら
ない、( )に入れようとすると、「二郎作」の「作」を(神戸二郎作ル)というような意味のものに
に変換しなければ納まらないでしょう。
神戸二郎作(信長公記)
神戸次郎作(甫庵信長記)
というのは完全な孤立表記で、「次郎(二郎)」の表記は多いのに「作」を付けたものは、これだけ
です。「猶妙印入道武井肥後守」「鑓武藤」などの例もあるので「作神戸」もありうる、この「作」
は「作る」という意味でつけたことも十分考えられることです。織田四郎次郎、織田四郎二郎が
があるうえに、内藤勝介が神戸と接近していたことからも、「作」が余分という感じがするもの
です。したがって▲の甫庵の合成文を訳しますと
「太田牛一も使っている表記である小河源四郎、大脇喜八、犬飼孫三の三人と、太田牛一
が(二郎)も作った神戸次郎作の四人」
となります。ただ「作」が後ろに付いているので、この二郎は数では一つでしょうが、二人「神戸2
郎」ー神戸次郎@、神戸次郎Aの意識はあると思います。
つまり〈信長公記〉は「神戸二郎作」の方ですから、二人を意識すれば、先ほどの人名羅列総数
61人が62人になります。〈甫庵〉の総数は62人ですから、一つ違いをどこかで見てほしいという
のがある、それは実際は
津田九郎二郎(信長公記)
同九郎次郎(甫庵信長記)
あたりの最も難解なところで頭をひねらなければならないのかもしれません。名前の対比では
「(菅屋九右衛門)子息角蔵」
を〈信長公記〉は抜いています。
いま、無理に嵌めこんで読んだのでちょっと変わった観点から話することができました。この四人
「小河源四郎・神戸次郎作・大脇喜八・犬飼孫三」
を62人の大羅列から括って摘出して桶狭間の四人相当であると認識できたのも嵌めこんで読もう
としたからです。二書の62人は先ほどの「松野平介」「飯尾毛介」「山口半四郎」の位置が両書で違って
いました。また「子息角蔵」が入ってきますと順序がくるってきたりしますから、嵌め込むという過程を
経ないと見えないものがでるわけです。例えばさきほどの四人の羅列を前後に伸ばして捕えてみると
文は〈甫庵信長記〉、( )内は〈信長公記〉
「村瀬虎丸(高橋藤)・
小河源四郎(小河源四郎)・神戸次郎作(神戸二郎作)・大脇喜八(大脇喜八)
・犬飼孫三(犬飼孫三)・河野善四郎(石黒彦二郎)」
となり、この四人は障碍なしでGO、となっています。(石黒彦二郎)は〈甫庵信長記〉でも「石黒彦
二郎」の「二」ですがこれは別のところにあります。こうなると三番目の「八」が効いてきて、桶狭間
の焼き直しということに気付きます。はじめにここまでしなくても、単純に「八」で探して対比しても
一見してこの並びが重要なことがわかります。一つは太字の「大脇喜八」の「八」で、これは桶狭間
の「佐脇藤八」の「脇」を想起させられます。つまり
大
脇喜
八
佐
脇藤
八
となりますから、この人物を浮き上がらせようとするものがある、桶狭間へこれが飛べば、あの
四人がわかり易いという切り口を提供しようという意思のあるものといえます。これが結びつくと
人物解説の役目も果たせる可能性があります。一応当たってみますと
小河源四郎は、
○「小河」が「水野」の属性であること、
○平田和泉、美濃屋小四郎、小川、の組み合わせがある、
○四郎で総領とわかる、
○「源」は「玄」にもなる、
ということなどから、これは
太田和泉守A=森乱丸
をいうのが妥当かもしれないといえそうです。
次の神戸二郎作も、下段からみれは「竹中彦八郎」の「八」の前に、山口があり、井上の又蔵も
ある、二郎からも木村に宛てられる、〈甫庵信長記〉の苦心の配列からも、山口飛弾守(木村又蔵)
を宛てるに十分の根拠があります。
犬飼孫三も「犬」が「八」のあとにあり、藤八との連続は意識され「三」は弥三郎の「三」で、下段
と対比すれば「賀藤」もあります。
この四人が連続した羅列の中の一括りとして、捕えられればもう一回「八」で下段の
再掲
「井上又蔵・(松野平介)・(飯尾毛介)・賀藤辰・(山口半四郎)・竹中彦
八郎・河崎与介」
も括れそうな感じがします。井上又蔵に宛てられる木村又蔵は、安藤伊賀守の家臣「松野平助」と接近するので、
父の筋は安藤氏、子息の父の筋は山口氏という線が出てくる、飯尾近江守A=堀尾茂助の間に
は加藤氏があるというのもありそうです。「賀藤辰」が半分ということは、山口半四郎が受けて竹中の
「八」につないでいるのでわかるということも出てきます。「河崎」の「河」は「赤川」の「河」で内藤
勝介につながっていきます。
神戸二郎作が二人を暗示するとなると「小河源四郎、神戸二郎」「神戸二郎、大脇喜八」が
(神戸)で一くくりと成るのでこの三人の父は同じともいえそうです。神戸、神部がある上に、二郎
が二郎と次郎があるということは、内藤勝介の下にあった赤川、神戸の巾も広がりそうです。
赤川は赤河があり、世代の広がりを覗かせましたが、赤川は「明智」+「小川」というのがある、
明智氏があり、水野氏が表面化してくる、隠されたという面以外に、男系とかの意味もありうる、
と思われます。〈辞典〉では赤川は赤川景弘として出てきます。この人物がまたわからない、
「景」という字は源平の加藤次景廉の「景」でしょうが、表に出して使っているのが遠山氏のよう
で遠山景行などあります。教えてもらったところでは、遠山の伝説的人物「景行」の法名は「宗宿」
「宗叔」の二つがあるということのようで、時空の一致のことは別として、転写はサッとやられて
しまっています。
(25)狩野派
遠山には
遠山二郎三郎、
という表記があり「織田四郎次郎」という珍妙な表記が小豆坂で出てきて以降こういうのは多々
出てきて悩まされますが、「二郎三郎」も格別に重要です。徳川家康の別表記として
@「二郎三郎(元康)」〈三河物語〉
A「二郎三郎(元信)」〈三河後風土記〉
B「世良田二郎三郎(元信)」〈史疑〉
があることは既述ですが、この「二郎三郎」と「元信」は「狩野」でも出てきますので無視できま
せん。狩野には「狩野永徳」のほかに「狩野元信」がいて、これは〈二書〉には出ていません。
永徳より前の世代だから、戦国時代では問題にするには当たらないということになるのでしょう。
しかし先ほど岡部又右衛門が出てきてきましたが「岡部五郎兵衛(元信)」という人物もいます。
岡部には「又右衛門」「丹波守」「帯刀」があり、この五郎兵衛は徳川・狩野の「元信」であり、
表記だけから見れば、太田和泉守相当であり自分も「元信」だといっているかもしれないわけで
す。狩野も次郎三郎が出てきますから調べた方がよいようです。狩野は一回限りの登場です。
@「・・・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・・・」〈信長公記〉
A「・・・狩野次郎左衛門尉、同次郎兵衛・・・」〈甫庵信長記〉
これは戦場に出ている狩野です。Aが両方「次郎」となっているので厄介で、はめ込んでやるぐら
いでないと見落としそうですが、次郎左衛門は二人いそうで、次郎兵衛と三郎兵衛は兄弟でしょう。
問題は兄弟の一番上、太郎兵衛が抜けているのではないかと普通は感ずるところです。つまり
□□□□
★次郎左衛門ーー|▲次郎兵衛
▼三郎兵衛
となります。
普通は次郎左衛門といえば太田和泉守といえるところです。いま狩野のことを話していますの
それは暫く置くとして、前世代1:現世代2というこの形は既述の、狩野の系譜の中のはみ出しの
の表記(「信」がついていない)の形とおなじです。今回は狩野系譜ウイキぺデイアから借用しますと
次のとおりです。「信」から外れている三人が上の二書のもの対応します。
正信ーー元信ーー★松栄ーー▲永徳ーー光信ーー貞信
| |
▼宗秀 孝信
結局「狩野永徳」を現在でも「松永永徳」と呼べない状況にある、それが当時も同じ状況だった
ということだけです。
「狩野松栄」自体がそれを表わしており、これは「狩野松永」だから「松永」といっているわけです。
おまけに苗字を二つ並べる表記は「武藤小瀬」「市橋丸毛」「伊木森寺」などあり縁戚を思わせる
ものでもあり、「狩野松永」もそういうことでみれるのかもしれません。いまは正信もよくわからない
状態なのでその辺は何ともいえませんが、絵専門の家筋と、武士の家筋が同居しているこのような
状態が生じた説明は要りますので縁組によるものというのは不自然なものでもなさそうです。
とにかくいまは永徳の父が松栄だといわれても松栄がよくわからないので説明にもならないわけ
です。 テキスト補注によれば、
「安土城の障壁画を製作するために起用されたのが三十四歳の狩野永徳(1543〜90)
である。永徳は家督を弟宗秀に譲り(父松栄。58歳)、非常な決意で直門だけをつれて
安土に行き四年間専心した。・・・」
とあり、これが唯一のシルシを付けた三人にまつわるの物語です。したがって永徳が年長ですから
次郎兵衛が永徳▲で、三郎兵衛が宗秀▼、としています。「宗秀」は有名ではありませんが
ネット記事「信長の肖像画(長興寺)」によれば、織田信長の唯一のあの肖像画を描いたのは
宗秀であり、肖像画の依頼者は
「与語久三郎正勝」
であると書かれています。この人物がいなかったら、あの肖像画はなかった、これは重要だから
知りたいと検索しましたが、もう一件「第16号」という記事があるだけで合計2件でした。「第16号」
の記事のイントロには弟の表記が出ていました。
「久兵衛勝久」
「久」が多いから、「久」で括れそうで兄のものと合成して見ますと「久(三郎兵衛勝)正勝」という
ようなことになり〈二書〉の表記の「▼三郎兵衛」が出てきます。
「与語」は「余語」「余呉」で佐々三兄弟が出てきます。
「久三郎」は「弥三郎」と同じで「久」は「宮」「九」、「堀久太郎」「森久三郎」もあります。
「正勝(勝正)」は
「小六正勝」「又蔵正勝」「佐久間正勝」「三好正勝」「池田勝正」「海老名勝正」・・・・
があります。信長一周忌に太田和泉守が発注したといってもよいほどです。宗秀が織田信長を
よく知っているとみたのでしょうか。宗秀も「宗秀」と「元秀」があるようです。「宗」は大物といえそう
です。三人を引き当てて見ます。「松永貞徳」から遡ってくる話になります
★「次郎左衛門」「松栄」=松永弾正久秀A、(松永弾正久秀@もありうる)
▲「次郎兵衛」「永徳」 = 狩野永徳 (松永弾正久秀Aもありうる)
▼「三郎兵衛」 = 元秀{松永弾正久秀B}(ほかに画号があると思われる)
となると見ますが、一方でもう一つの語りがされています。次郎左衛門(尉)二人で
★次郎左衛門(太田和泉守)ーーー □□□□海老名半兵衛勝正
|▲狩野永徳(勝正の画業も入るか)
舎弟 ▼千利久(宗易の易が秀に{易}かわる)
という語りです。
兄弟は二つ違いぐらいですから、普通の兄弟とややこしいほうの兄弟がありますが松永の場合は
普通の兄弟のほうでしょう。「久秀」という表記がポイントなので
「久三郎」「「久兵衛」「勝久」「利久」「今井宗久」などで「久」が出て、
「宗秀」「元秀」などで「秀」を出しているといえます。信長の肖像画は千利久に発注されたと思い
ます。監修か自作かはわかりませんが、千利久はお茶だけだと思ったら間違いで絵もあるで
しょうから、あれだけは千利久作ではないかと思います。画号の方ですが、再掲、左のものが
右のように解せられるのかもしれません。
再掲
正信 これは室町時代足利将軍家のお抱え絵師(世襲)
↓
元信 正信Aと元信@という二つの意味があって、松永弾正久秀@が
↓ 正信から免許皆伝的な評価を受けて名乗った名前
松栄 元信Aで松永久秀Aと太田和泉守
↓
永徳 元信Bで光信の父
↓
光信 光信は永徳の子とされているので永徳は元信であるはず。
正信Aの系統は続いたかもしれないが、一方で松永の芸能の才能が、太田和泉守に引き出され
て開花したという新しい面があり、松永のスタートを狩野で語ったといえるのではないかと思います。
戦国時代はそれが 元信@、元信A、元信B、光信に集約されましたが狩野家と結びつけて考え
なくてもよい、狩野で松永の一面と、太田和泉守の関与を語ったというものかと思います。
「狩野又九郎」
という表記があってこれが本能寺で戦死して、少ししか出てこなかった狩野が消されてしまった
わけです。「狩野永徳」というのが〈甫庵〉に出ていますが、この狩野も消してしまった、一旦狩野
で箔をつけた永徳が浮遊しているということです。松永、森、斎藤、明智などの連中が、絵がうまい
とかいっても信用されない、専門的伝統的芸能集団のなかから出てきたということにした、という
ことで、それがわかりにくい原因だと思います。松永は皆生き延びて、宝物も回収されたと思います。
「海老名腹十文字・・・・・」〈甫庵信長記〉
に切って戦死といっていますが生きています。
(26)森九兵衛
数字の名前は含みが大きいといえますが〈甫庵信長記〉に「森九兵衛」という表記があり、これが
誰かを決められる段階で森がわかりそうという感じがして、ずっと引っかかっていました。ここで
登場させました。
三九郎八丸とは少し違いますが、湯浅常山は「土方三九郎」を出して来ています。
『土方(ひぢかた)三九郎武功の事
関ケ原・・・・(有馬)豊氏の兵土方(ひぢかた)
三九郎を始め
十騎川を渉(わた)り、・・・
三九郎
・・・
十騎の者どもしづしづと馬を引き返し・・・・・・・。(以下細字))
{賞功うすかりしかば土方(ひぢかた)、岡本(おかもと)弥一右衛門、渡辺(わたなべ)
佐左衛門、上田(うへだ)丹波と言い合わせて出奔しけり。・・・・矢尾(やお)の堤(つつみ)
森有所(もりあるところ)に・・・森の南より・・・・』
ここでは、「三九郎」は十騎を表わしているということでしょう。つまり
「三九郎」=1、と「九郎」=9
10騎です。森の三九郎の九郎は九人の意識もあるようです。また細字部分の
「土方」「岡本」「渡辺」「上田」
が「三九郎」を示すといっているようでもあります。つまり
「三九郎」=1+ 3×「九郎」
の読みもできます。 森三左衛門戦死の場面に九郎がでました。
『・・・終に鑓下にて討死。
森三左衛門・織田
九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八。
道家清十郎・道家助十郎とて・・・・・』〈信長公記〉
『・・・森三左衛門尉・・・・・三左衛門尉・・・・討死す。
織田
九郎殿・青地駿河守・森が郎等、尾藤源内、舎弟又八、道家清十郎、其の弟助
十郎等も枕をならべて討たれにけり。』〈甫庵信長記〉
で「九郎」があります。これは織田信秀の「四男九郎」〈甫庵信長記〉という表記がここで消された
とみてよいと思います。テキストでは「織田信治」とされている人物ですが、もし「信治(春)」という
人物ならば「九郎」としなくてもよく、「信春」は長谷川等伯の表記だからその人物に乗った太田
和泉守がここで叙述の都合上出てきたといえそうです。まあ甫庵では「殿」をつけているので
森可成のことをいっているととってもよいのかもしれません。とりあえず両者合成しますと三
「織田
九郎殿(森三左衛門・織田九郎)・青地駿河守(青地駿河守)・森が郎等(□□□□)、
尾藤源内(尾藤源内)、舎弟又八(尾藤又八)」
のようなことになり森三左衛門、太田和泉守も織田の一族といってもよい親戚だから、織田九郎
としてもよく、ここの□□□□に何か入れたいとすれば
九郎(マイナス)−「森三左衛門」「太田和泉」「青地駿河守」「尾藤源内」「尾藤又八」=四郎
となる、四郎はこの名前の延長でいけば
「長谷川橋介」「山口飛弾守」「佐脇藤八」「賀藤弥三郎」
です。結局、森(太田)一家とは、九人で、子息が七人、七人は
@森長可 青地駿河守
A森蘭丸 長谷川橋介
B森力丸 山口飛弾守
C森えびな 佐脇藤八
D森可隆(森伝兵衛) 尾藤又八
E森坊 賀藤弥三郎
F森織田九郎 尾藤源内
となるのでしょう。@の森長可が、三左衛門可成の実子で〈二書〉では「森勝蔵」、いはゆる
池田勝三郎の娘婿、鬼武蔵の異名があり、小牧長久手の戦いで戦死したという有名といっても
よい人物の一人です。遺言書があり、あて先が尾藤甚右衛門になっています。青地は
「青地駿河守」「青地千代(世)寿」「青地与右衛門」
の三表記があり、「青」は「青木」「青山」の「青」ですが特に「青山」は「青山与三」「青山与三右
衛門」があり、森三左衛門との関わりが濃厚です。また「千代(世)寿」は森の御曹司にふさわしい
ものです。「駿河守」は毛利(森)の「吉川駿河守元春」があり「吉」「川」「河」「江」「枝」にも繋がり
そうで「元春」も「玄」「源」「春日」の字が想起されます。まず森長可として問題ないものです。
[
a Dの森伝兵衛可隆は第7稿で「木下長嘯子」に触れた際、「長嘯子」の連れ合いが森蘭丸の
姉であったこと、19歳で戦死した森可隆という人物がそれに該当するかもしれないということ
でネット記事だけから、大村由己を引き出しています。大村由己は秀吉と生没年が重ねられていま
したから、太田和泉守と大村由己は重ねられ、梅庵とか藻虫斎というのは太田和泉守とみても
よいかと思います。つまり太田和泉守は大村由己@で、森可隆は大村由己Aです。二人は義理
の親子だから、まあ重なっても問題ないことです。前の稿では大村由己は@Aには分けておりま
せん。
「森可隆」伝説では、可隆は戦死しましたが、これは三木の「別所小三郎(長治)」のところへ出ま
したので戦死扱いで、別名で生きとされました。
「別所彦進(信長公記)」
がその人で、テキストでは「別所友之」とされています。これは「別所彦進ともゆき」〈信長公記〉
という表記もあるのでそれによっているようです。三木落城の後、「木下長嘯子」の連れ合いとな
ったと思われます。戦死したのはネット記事によって元亀元年(1570)で、このとき、19歳くらい
ということでみてきました。しかし尾藤又八が、この年に戦死していますから、これと同じことを言って
いた、つまり二書にも出ていたということがいえます。年齢がは坂井久蔵が16歳で戦死しています
す(甫庵信長記)ので、坂井久蔵の表記を消しながら誰かの年齢を言ったと考えますとそれを
使ってもよいのかもしれません。十六歳としますと、10年後は二十六歳となりますが、次のように
二十五歳が記されていますからこれで合っていそうです。
『(天正八年1580)小三郎年廿六、彦進歳廿五、惜しむべし、惜しむべし。』〈信長公記〉
です。別所小三郎も年表では23となっており三つ違います。二人の年、歳という書き方もおかし
いので多少何らかの操作があったのかもしれません。彦進は二書で出ており、伝承のしかない
森可隆、というのが一つの問題でしたが、「尾藤又八」「別所彦進」として出ていたということが、
著作に対する信頼度の向上にもつながることですからマイナーといえども時間を掛けて見ていくと
いうことが要ります。マイナーどころか大村由己とすれば特別な大物です。
〈甫庵信長記〉「姉川合戦の事」という一節で、
今述べている「又八」に関わる「八」と、「森九兵衛」の「九」とがセットになったものが出てくるので
また「桑原平兵衛」という気になるものもあるから無視できない羅列となったものがあります。
とくに「森九兵衛」というのが「森」でありながら漠然として誰かわからないから、何とも悩ましい存在
となっています。わからないのは重要といってもよいようです。
■『かくて・・・坂井右近、池田勝三郎・・・・氏家常陸介入道ト全、伊賀伊賀守・・・稲葉父子・・・
彼の三人が家の子、千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森
九兵衛、
稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎鑓を入合わせ相戦いて追い崩し・・・』
〈甫庵信長記〉
となっています。ここで「彼の三人」が「家之子」として、千石忠左衛門から豊瀬与十郎まで9人が
挙げられており、「森九兵衛」の「9」の一つの意味に適いそうです。また9人なのに最後「豊十郎」
という「十郎」があるのも少し引っ掛かりがあります。しかし、まあ九人で、数字は
「八」「九」「十」
がある、「九」は森九だから「八」は佐脇藤八、尾藤又八、大脇喜八が出たいまの段階では特別
の意味があると見ねばならず、これは別とすると、一応前五者の最後にある「森九兵衛」を太田
和泉守、後ろ四者の最後にある「豊瀬与十郎」を「森三左衛門」と見ておくのも理に適っていると
いえます。
「彼の三人」の読みがわかりにくいのですが、稲葉父子を稲葉伊豫と稲葉伊予としてみると
「坂井右近」「池田勝三郎」「稲葉伊豫」の三兄弟
「氏家ト全」「伊賀伊賀守」「稲葉伊予」の西美濃三人衆
ともなりどちらでも合っていそうです。
太田和泉といってもよい三人と、太田和泉が乗っかった西美濃三人衆というのでもよいのかもしれ
ませんが、前節まで遡ると「彼等三人」というのが出ていて
◎「簗田出羽守」「佐々内蔵助」「中条将監」〈甫庵信長記〉
があり、「三人」ということともなると
「森三左衛門」「坂井右近」「佐久間右衛門」〈甫庵信長記〉
もいってそうです。〈信長公記〉は甫庵の◎と同じ
「簗田左衛門太郎」「中条将監」「佐々内蔵介」
のこの三人を挙げています。すぐあとで
「太田孫左衛門」「佐々内蔵介」「中条又兵衛」
が出てきますので「簗田左衛門太郎」は「太田孫左衛門」で「中条将監」は「中条(野)又兵衛」と言い換
えている感じですので、いずれにして「彼の三人」は西美濃三人衆と関わりのある「太田和泉守
(森三左衛門)」といっており、この九人はその家之子(外戚も含む親類)といっているようです。
「森九兵衛」
の意味は、ここに森の「九」人が居るという意味があるのと、そのうちの 個人「九郎=森某」=太田
和泉守という意味もある、与十郎の前の「(与)九郎」の意味もあるのかもしれません。
古江可兵衛
がわかりにくい人物なので、意識が大いにありそうです。そういう積りでここをみると多くの伏線が
敷かれていたことが見えてきます。
初めの「千石」というのは
『森三左衛門、千石又一に渡し合い、馬上にて切り合い・・・・』〈信長公記〉
があり、「森三左衛門」の関連であり、安田作兵衛(天野源右衛門)と森乱丸との本能寺での渡し合い
からみても、この「又一」は「森乱丸」のようです。太田和泉守の立場からみると蘭丸が「又一」となる
はずです。
また「今枝弥八」の「八」というのは「八丸」の「八」、「藤八」の「八」を感じさせるもので、これは
「佐脇藤八=森ゑびな」相当でしょう。
また「安藤右衛門」と「桑原平兵衛」については
『堅田の住人猪飼甚介、馬場孫次郎、居染(いそめ)又次郎、彼等三人・・・・・坂井右近将監・・・
右近・・・・相従ふ人々は
伊賀伊賀守が郎等安藤右衛門尉、氏家ト全が郎等桑原平兵衛
などいう兵一千余・・・・』〈甫庵信長記〉
という説明があります。安藤大将の婿が竹中半兵衛@で安東大将の子息、伊賀範俊の子が安藤
右衛門で、したがって太田和泉守の子息のことであるといっており、これは「井上又蔵・松野平介」
の組み合わせでも出てきました。桑原平兵衛は「桑」が「三×又」で、「又兵衛」が想起されます。
「桑原助六」「桑原九蔵」があり、9−6=3、もあり「弥三郎」も出るし、佐々木の「後藤但馬守其の
子又三郎」も想いだします。「桑原」の「原」は「原和泉守」の「原」、「平兵衛」の「平」は「服部小平
太」「津田小平次」「三宅弥平次」の「平」で相撲の
「平蔵」〈信長公記〉
という簡単な表記は「平三」もあるかもしれません。安藤=山口飛騨、桑原=賀藤弥三郎に
宛てられます。説明が付きやすいようにされているので比較的スムースに、4人兄弟が揃い
ました。桑原の「桑」も重要です。
(27)長曾我部
まあ宗達雷神に、くわばら、くわばら、の「桑原」ですが「丹波国桑田郡穴太村」の「桑」は
長谷、内藤備前守、赤沢加賀守、角鷹二連につながる「桑」ですが、この住所が特別重要では
ないかと思います。現在「桑田郡穴太村」は脚注では
「京都府亀岡市
曾我部町穴太」
のようです。この「曾我部」というのは「曽我+部」で〈信長公記〉にある
「曽我五郎」
を桑田で受けたものと思われます。湯浅常山は「藤堂家合戦渡辺勘兵衛功名の事・・・」の一節
で「桑名弥次兵衛」という土佐の「長曾我部盛親(元親の子)」の旧臣のことを述べています。桑名
弥次兵衛は、関ケ原で改易された長曾我部家を離れ藤堂家に仕官しましたが、旧主思いの人物で
主家のサポートを欠かさなかったようです。大坂城の戦いで、旧主の長曾我部隊と藤堂隊の
衝突となってしまい、退くも進むも武士の一分が立たないという板ばさみの状態で、旧主の隊に
討たれて戦死します。
「桑名弥次兵衛」「藤堂仁右衛門」「長曾我部盛親」「渡辺勘兵衛」「後藤又兵衛」「水野日向守」
などが登場する長い1節ですが、ここでも「矢尾(やお)の堤森ある処・・南の方・・・」が出てきます。
この渡辺勘兵衛登場の一節は
『長曾我部
盛親は矢尾の堤森ある処にすすむ処に、朝霧のまぎれより物色はさだかならねども
南の方より紺地の白きもちの紋付きたる旗ささせて敵かかり来れば・・・・・』
となっていますが先ほどの土方三九郎登場の1節は
『
元親・・・矢尾の堤森有所(もりあるところ)に、東に向きて押しける時、朝霧深く物色定かならず。
森の南より紺地に白もち付けたるはたをおし立て敵寄せ来る。』
となっており微妙に違っていますが似ているということがあるのは両節に連携があるわけです。
元親が、大坂陣に登場するのはおかしいが、平気でこういうことをやっています。これは盛親@Aと
いうものがある、と同時に元親@Aというのもある、といっていそうです。四国を統一しようとした
元親には「信親」という嫡子がいましたが、秀吉島津戦で戦死し結果として盛親が跡を継いだとい
うことです。「信親」は、最大級の賛辞も惜しくない、たいへんすばらしい武将だったということで
あり、斎藤内蔵介の血筋の人のようですから元親Aというのも言外にあると思われます。両方の
文から「長曾我部」登場には「森」がでてきます。後ろの文で省いたところでは、土方三九郎(別名
六左衛門)に「外舅(ははかたのおじ)」に「中内惣左衛門」という人物がおり、中内は
「長曾我部が長臣なり。」〈常山奇談〉
となっています。四文字のうち、「中、内」といえば「曽我」です。「長曾」の「長」は長臣の「長」とか
で、切り離し可能といいたいようです。
長+曽我+部
とも分けようとするのでしょう。「部」は額田部とか、語部とか、物部とかの「部」で、切り離せるもの
のようです。戦国時代も「長谷部」と「長谷」は意味は変わらない感じです。つまりこれは池田家中
の湯浅常山の説明のための独自の設営があるのかもしれません。
長 曽我 部
‖ ‖
長 (中内) 臣
蘇我は〈古事記〉では宗賀であり、「蘇」「曾」を「宗」「惣」でも表わしたといえます。つまりこれは
長は「長おさ」のような意味で、部=臣といったのでしょう。額田部、物部、日下部などは謙遜して
臣、ということにした、当時は天皇制というものがないのに天皇という言葉を使ったので長臣と
というのが天皇といった人に同じということではないかと思われます。
テキスト人名注では、
〈信長公記〉の「長宗我部土佐守」について
『長宗我部元親(1540〜99) 土佐浦戸城(高知市浦戸町)の元親は、天正三年十月惟任
光秀をへて信長に和親を求め、子孫三郎に編諱(へんき)をくれるよう依頼した、信親がこれ
である。長宗我部氏は
蘇我臣(そがのおみ)の配下の宗我部の子孫。』
となっています。〈甫庵信長記〉は
「長曾我部」
を使っており、「曾」=「宗」です。ここで蘇我氏が出てきたことは「宗」=「蘇」で、ここの「宗我部」は
蘇我部」で蘇我氏の集団というもので、配下の家筋ではないと思います。真偽は関係なく太田和泉
守が「長 蘇我 部」を出してきたことが重要で、
「曾我五郎」(信長公記)
は蘇我氏も〈信長公記〉のなかに出てくるという暗示かもしれません。古代の蘇我兄弟、鎌倉の
曽我兄弟、戦国の森兄弟にも意識があるから「長曾我部」が出るといえます。長曾我部の「信親」
を讃えた森鴎外の詩があると何かで読んだことがありますが「森」が利かされたのかもしれません。
〈曽我兄弟物語〉に柿本氏は小野に住んだと書いてあり、「小野妹子」の小野が柿本と関係ある
ことが予想外のところで語られます。
(28)小野妹子
元亀元年、〈信長公記〉「常楽寺にて相撲」の一節
『人数の事
百済寺ノ鹿・百済寺の小鹿・たいとう・正権・長光・宮居眼左衛門・河原寺の大進・はし小僧
・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門、』
の11人が出ています。はじめの二人の「鹿」は「鹿」と「小鹿」です。「たいとう」は「帯刀」も宛て
られますが「大唐」はまず思い起こす字でしょう。まずこれと繋がる人物は〈日本書紀〉の「小野妹
子」です。
『(推古)一五年(ルビ=607)・・・秋七月三日・・小野臣妹子(いもこ)を★
大唐(618〜907)
に使わした。★★鞍作福利(ルビ=ふくり)を通訳とした。』
『一六年(608)、夏四月、小野妹子が、
大唐からかえってきた。
唐国は、妹子臣を名づけて
蘇因といつた。また
大唐の使人・・・妹子臣に従いて、筑紫にきた。』
『一七年(609)、秋九月、小野臣妹子らが
大唐から到着した。ただ通訳の福利はかえってこ
なかった』
★について、テキスト(ニュートンプレス訳本)に脚注があり
「唐との交流は11年後、推古26年以後にならないと、不可能。」
となっています。後年の太安万侶などが、このように間違って書いたのですから、太田和泉守は
こういうのには敏感でしょう。いま小野妹子は遣隋使と聞いているので、文献の唐国を勝手に隋
国と読み替えて通説となっています。表記のことでいえば、それはありうることでここだけしか適用
しないというのはおかしいというのがいいたいだけのことですが、太安万侶は「唐」「唐国」「大唐」
「唐客」という多様な「唐」を使っています。この唐は中国をいう「から」というものではないという
のがこの脚注の指摘でもあるのかどうかです。表記に関して二つだけいえば
〈日本書紀〉で西暦のルビが振ってあるというのが著者に西暦が意識されているということで
あって、三国間の年代の調整に留意されてということが一つです。もう一つは、
「小野妹子」という表記の特異さです。
周囲からみてこの表記は和式という感じで本当は蘇因という表記を使ったほうが周囲にマッチ
するということです。この時期推古天皇の時代で、聖徳太子がもう出てきていますから太子の子
入鹿=小野妹子として「妹子」で入鹿の語りを広げようとしたと思われます。とにかく大使として
外国に派遣されたという実績などがでてきました。太田牛一の「小鹿」−「たいとう」という細い線から
らのものですが、★★は、したがって子息の柿本人麻呂の若き姿というものになります。「鞍作」は
「入鹿」です。年表では
「620年 この年、聖徳太子・蘇我馬子ら、天皇記・国記などを作る。(書紀)」
とあり、25年ほどあと、
「645年(大化1年) 天皇記・国記を焼失(書紀)」
となっています。聖徳太子の天皇記・国記が出来てから実に25年経って失われたということは、まあ
複写などで内容は確実に残ったということでしょう。この
○「隋」→「大唐」のこと、
○「倭皇(わおう)」という語句がある(テキストでは原文は「倭王」か、となっている)
○「本郷(ルビ=国)」
などの表記の新旧のいり繰りがあることから、元(もと)文があり〈書紀〉の記者の時代の実体から
から、また要請された事柄を取り入れるために、焼き直されている感じがするものです。この
「大唐」が「百済寺の鹿の後にあります。
「鹿」は「入鹿」の「鹿」
しかありません。相撲のところは
「百済寺の鹿、百済寺の小鹿(聖徳太子父子)」→「たいとう」→、最後「青地右衛門(森)」
があります。土方三九郎の一節は似たものがあることは紹介しましたが、省いたところに大垣
(二つともルビ付き)もありました(常山)。
「・・・大垣(おほがき)・・・大垣(おほがき)・・・長曾我部・・・森有所・・・森・・・藤堂・・渡辺勘兵衛」
があり、太田垣は小田垣になりましたから、これは太田柿、小田柿にもなります。大野安麻呂は
小野安麻呂に変えられるのでしょう。「長曾我部」の「我部」は「壁」にもなり
「忍壁」「長壁」「刑部(おさかべ)」
にもなる、ショ明天皇は忍坂大兄皇子の子ですが、忍坂は押坂でもある、押坂彦人大兄という
人物がショ明以下の皇統の祖であるとされていますが、本文ではヒコヒト大兄皇子の子という
ことになっています。こういう表記の連鎖を見逃すと、見えるはずのものも見失います。
忍坂=押坂
もあるならば、恵美押勝は恵美忍勝でもあります。恵美忍勝の勝は諸葛孔明の葛でもあります。
恵美忍葛となるのが〈奥の細道〉多賀碑の「朝 ケモノ篇 葛」という表記になった、といえそうです。
慈円によれば継体天皇のすこし前、仁徳天皇の次ぎ履中天皇時代に「 宗我満智宿禰、物部伊久佛」
があり、あとに蘇我稲目があり、「宗我」「蘇我」この二つは炙り出しのようです。「蘇」という字は
「阿蘇山」で知られていますが奈良にもあります。神武天皇の本拠、カシ原市蘇我町があります。
「蘇民」というのはスサノオの尊とセットですがどうしても「蘇我」の「蘇」から目を逸らすわけには
いかないようです。スサノオ命は
「曾シ(尻から九を抜いた字)茂利」(そしもり)
からやってきましたが「蘇シ茂利」と替えて読んだ人が多かったのではないかと思います。
曽我の曾は蘇と読まれるのは仕方がないことで「長ソ我部」=「長蘇我部」の起用もその線の
延長でしよう。太田和泉守は書き手なので柿本人麻呂、太安万侶を尊敬しているわけですが
次のものは二人同時に出てきた感じのものです。
『{天皇の雷岳(いかづちのおか))に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首}
大王は神にしませば、天雲の雷の上に盧(いほ)りせるかも
{右は或る本に曰く、忍壁皇子(おさかべのみこ)に奉るといえり。その歌に曰く大王は神に
しませば雲隠る雷山に宮敷きいます。}』
人麻呂の歌で、周辺の{細字}の部分は、その歌を利用した歌物語といえます。忍壁皇子は太安
万侶を指していて柿本人麻呂、小野氏、大野(小野)安麻呂の接近が見ものといったところでしょ
う。太安万侶は大伴氏、蘇我の人であるのは確実のようです。太田牛一が「太」「大」というペンネ
ームにしたのは太安万侶の「太」「大」をt組み込んだといえます。あの雷神図の「雷」をもってきて
柿本人麻呂=太田の雷神図=太安万侶
とやったのかもしれません。後世の人は、次の桑原平兵衛は、無条件で太田和泉Aの
こととみたとみてよく、雷神に太田を重ねる、この程度のことはやりかねないでしょう。
(29) 弥八
ここで森兄弟の引き当てはどうなるかということですが、前半の部分は
『千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、▲
今枝弥八、森九兵衛』
‖ ‖ ‖ ‖ ‖
長谷川橋介 山口飛弾守 賀藤弥三郎 佐脇藤八 森三左衛門@
という感じのものとなるのではないかと思います。後半は
再掲
『稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎』
ですが、「稲葉刑部」は〈戦国〉で触れていますよう「森勝蔵」と葛藤が生じています〈信長公記〉。
葛藤には二つの意味があり稲葉の二面性と、森勝蔵との親近という二つのことを語るのもあると思い
ます。従って後半の人物は
『稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎』
‖ ‖ ‖ ‖
森長可 森可隆 森三左衛門A
‖
▼
令枝弥八 古□□□
と一応宛ててみてよいと思います。甫庵は▼の人物
「令枝(ルビ=
いちえ)弥八」〈甫庵信長記〉
を突然出してきますが、これは▲を想定した表記であるのは確実でそれだけに、この表記は重要では
ないかと思います。これは「長嶋合戦併氏家ト全打死の事」の一節にあり、「大田甚兵衛」など「大田」
がたくさん出てくるところです。大勢の登場がありますがそこだけ抜き出せば場面は
■■『・・伊賀伊賀守・・・・伊賀伊賀守・・・・大田河・・・伊賀伊賀守・・・・・伊賀に属せし令枝弥八、
福田佐内・・・伊賀守・・・・大田の郷・・・大田の郷・・・大田甚兵衛・・大田村・・・・大田村・・
・・大田村七屋敷・・・大田近辺・・・・』〈甫庵信長記〉
であり「伊賀伊賀守」に関連付けられた「令枝弥八」です。が、これはなかなか気付きません。人名
索引では▲は「いま」ですから
「今井宗久」「
今枝弥八」「今川氏真」「今川孫次郎」
の並びで出ており、▼は「いち」ですから
「伊丹安太夫」「(同子)松千代」「
令枝弥八」「市川大介」「一条右衛門大夫」「一条蔵人」
の並びで出ており、かなり離れたところにあります。並んで表示されたらどうでしょうか
今枝弥八
令枝弥八
となってすぐこれは同一人物の炙り出しではないかと気付くはずです。その前にこれはひょっとして
転写ミスかと思ってしまいますが「令枝」の方は「いちえ」というルビが入っているので、「今」だったら
ルビを入れないことを考えると転写ミスではないようです。つまり「令」は「今」に ちょっと似ている、と
いうことから利用するためにこういう表記にしたと取るのが普通です。よく読みこんいる人は「今枝弥八」
という表記に突き当たったとき、これに似た変な表記があって確認しようとして「令」(れい)で確認しま
す。これでは見つかりません、「いち」と読ませることは滅多にないと思いますので見つからず、みつか
らそのままとなってしまうものです。見つかればしめたもので、■■の「長嶋」の一節が■姉川合戦
の一節に繋がるということがわかってきます。(「大田村」以外に「鹿取村」があり、「桑原土佐守」も
四回出てくる)
「令枝」の「令」を「いち」と読ませた心は索引で次ぎに続く、
市川と一条
にあることが一応考えられます。
今令=今市=尾州丹羽郡稲木庄寄木郷
今市場村
があり〈武功夜話〉では、石田武右衛門が登場するところです。湯浅常山は「八尾」に「矢尾」を使っ
ていましたから、今市で出雲市矢尾町を想起して、須佐男命を呼び出し、この場面にもってきたのかも
しれません。日光市が出来て消えてしまう栃木の今市市も「市」だから「楽市」などの市場の意味が
ありそうです。全国にちらばる月六回、2・7の日に行われる六斎市がここにもある、丹羽郡にあるのもそうでは
ないかと思いますが、江戸時代にはじまったのも多く「斎」の字があるのは常山などには目に付く
ところで「矢(八)尾」ー「長曾我部」の一節もこの長嶋「今令」を思い出して、「今枝弥八」の一節に
関係がある、といおうとしたと思います。
この「市」から次の「一条」が繋ぎたいところであろうと思われます。「一条」の「条」は「え」と読み、
辞書によっても「一條」の「條」は「枝」となっています。したがって令枝は一條となります。一條は
〈信長公記〉では
「五摂家一条左府」(一条内基とされる)
「一条蔵人」
「一條右衛門太夫」
があります。「一条蔵人」「一条右衛門大輔」の二人は武田の人で、テキスト人名注では
「一条右衛門大輔 一条信竜 武田信玄弟(甲斐国志)。この一条氏は、甲斐西山梨郡
一条から興った。」
とされています。「一条蔵人」は
『三位中将信忠卿、・・・・甲府に至って御入国。一条蔵人私宅に御陣を据えさせられ・・・』
〈信長公記〉
となっています。これは両書ともに出ているもので重要かと思われます。死亡記事のある一条
右衛門と蔵人は似て非なりの感じで、書かれている通り右衛門という人は地元の人であるかも
しれないが姻族がいて子が生き残るというのはありえます。蔵人が信忠に接近しているので
また「信竜」の「信」は織田であり、竜は隆もあり
一条右衛門
‖ーーーー隆宝{是はおせうどう事なり。}
一条蔵人
の関係があり得る、「御成敗」となっている「おせうどう」(脚注「お聖道」)は生存でしょう。「森」と
「武田」の姻戚関係は武田と織田の濃厚な関係からいえばありえます。信長公の末子織田源三郎
はもう桶狭間の年に武田信玄の養子になっていますから、当然付いていった人は武田とのしがらみ
が生じてしまう場合がありますから、この場合がそうかは別としてありえないことではないはずです。
「今枝弥八」の「今枝」は「今条」にもなり、「今川」にもなります。すなわち、「今川孫次郎」は「今河
孫次郎」から「今江孫次郎」「今枝孫次郎」にもなるから、「今枝弥八」は「今川弥八」にもなる理屈
です。〈甫庵信長記〉人名索引に「今枝弥八」は
「今井掃部助」「今井宗久」「今枝弥八」「今川氏実」「今川孫次郎」
という並びになっており、「今川」と関連づけて見るのはよいようです。すこし付記すれば、この
今枝は著者思い入れの地、墨俣の「枝川」(武功夜話)も閃いてできた感じです。
今 川
枝 川 →今枝
です。筆者は「今枝重之右衛門」にまつわる長い話が〈武功夜話〉にあったと思って、ここで引用
したほうがよいので確認したところ小熊郷「庄屋重之右衛門」しか出てこず、これは記憶違いです。
これは〈武功夜話〉の著者が60年くらい前の墨俣の戦いの跡地を訪ね、先祖の知人重之右
衛門(70余歳)に往時のことを聞く話しです。「胡乱(うろん)覚え」「多太」「天王森」「大浦郷の
毛利」など出てきますが肝心の「重之右衛門」の姓は出てきません。「弥助老人」は出てきます。
「二条の枝川・・・・この枝川は中二間の処も御座候。また四間位の処もこれあり。・・・・この地こ
そ御城跡に候と我を導き候。大松数十本生い茂り土壇の如き処、松林の中に御座候。」
まあこれは関係ないかも知れません。しかし湯浅常山は索引に「今杖観重」という人物を出して
「半弓」×6、「七九郎」×5、「七八間」×1、が入った文章を作っています。これは「半」「八」を
意識した文であるのはあきらかでしょう。したがって「今杖観重」は「今枝観重」になる、この「重」
の意味が「重之右衛門」の「重」かもしれません。〈武功夜話〉も〈三河物語〉などもそうですが
門外不出という意味のことが書いてありますがこれは額面どおりというわけにはいかないでしょう。
乞われれば出したはずで、案外しられていたともいえます。この話は寛永の初めくらいのことで
重之右衛門やその内儀やら大浦の毛利の倅半蔵やその母公という証言者がある話の、著者の
反古にもとずくものだから、信頼性があります。そのとき土蔵に埋めようとして著述していたわけ
ではないから、あと利用されうる長い期間があったといえそうです。この常山の記事の前は
「渡辺勘兵衛」で後ろが「毛利」です。「観」は「勘」の積りだっあのでしょう。重之右衛門が
10歳のころ墨俣の築城があり、「親父」殿から聞いていた話しを著者に語ったものですから
太田和泉守の記憶も微かになった時期ですが生々しいものがある記事です。
「米俵と蓆(むしろ)一枚に付き永楽銭を一枚下され候の御触書。・・・」
「日を追っておびただしき材木を尾張川より州俣岸へ、人数群がり漕ぎ寄せ来る。」
「州俣河原に、二重三重の柵
束(ルビ=つか)の間の造作なり。柵内に鉄砲を相構え、美濃方
を寄せ付け鉄砲にて、打ち崩し候えば、三度四度の取り懸りも寄せ付けず退散なり。今の世
に太閤陣跡と申し伝え候。重之右衛門殿の語り、唯々聞き入るのみ。御内儀かたわらにて
囲炉裏に薪をくべ、夜もすがら御同座・・・・・主人もかくのごとく悦び居り候。舅(しゆゅうと)
御(ご)様御存命遊ばされ候わば、なおなお御喜悦の事と存ずるや、もはやこの村中大方は
相果てたしかなる事存ず者なし。遠路よくよく御越し候もまことにたるき事に候なり。・・・・」
御内儀の話によれば、まさに間一髪のタイミングで入手できた話と実感できるとともに、御内儀
はチャンと又聞きのことですよ、と念を押しています。柵が「束」だったので「つかの間に」出きた
ようです。太田和泉守は草木の束を立てて柵としてしまったのでしょう。これも尾張川経由で
きたのかもしれません。城跡は当今「河原」「石垣一つだに見当たらず」「唯彼方五反ばかりの
処小高き処を城跡というなり。」と弥助老人に聞き、
「重ねて(方位を)尋ぬれば・・・眼前を遮るもの一物も相無し。見渡す限り田打ち続き涯なき
景色に候なり。無数の沼沢の間溝川数条深田なり。・・・・今更ながら要害節所に城造作
を思い付きたると打ち驚き恐れ入り候の次第に候。しばしの間その場に佇み憶いをめぐらせば
六十有余年の歳月、かくも趣を変えたるやと逡巡して去ることを知らずなり。」〈武功夜話〉
この記事に帰着されるように太田和泉守は目的に照らして城砦を考え、天然の地形をその
まま城砦化したといえそうです。要は人物の心情、動きにも真に迫ったものがあり、偽書扱いして
しまうような取り組みは財産を失ってしまうことになるというのも言いたいところのことです。
墨俣ではいろんな話を書き残していますが、人員、資材などの段取りの話が他で残っています。戦闘員兼
建築作業員という危険な仕事なのに女子の応募もあります。次の森殿は可成でしょうか
「彼の大将申されけるは、怪訝(けげん)候こと尤もに候。さりながら今度の取り合いは、いたずら
に矢だま打ち合い糾合は、本意の出入りにてあらざるなり。・・・・何分村人たちへよくよく言い
聞かせ合力候えと、威張りがましきこと更に相なし。小熊在の人々、・・・・別儀なくば、粉骨
合力候えと申されける。明年稲葉山落去の後、森殿を当村へ遣わされ、向こう三ヵ年諸役
半済の格別の御扱いを懸けなされ候・・・」
太田和泉守の考えが出ています。ここの「森殿」はおそらく「森久三郎雄成」でしょう。「小熊」も
重要で、あとで効いてきそうです。太田和泉守、墨俣のある日の断面は
「黒皮染尾張胴の具足。猩々緋の陣羽織を御着用なり。野太刀は二尺六寸有余の大太刀
なり。武者振りは、惣別中背痩身の仁躰と御見受け申し候。」〈武功夜話〉
です。「惣別」の「惣」は「惣構」〈信長公記〉があったと思います。「今枝」の「重之右衛門」の勘違い
から脱線しましたが人名索引で「今枝弥八」の前が「今井宗久」というのも凄いところです。
「今枝」にルビは付いておらず、「令枝弥八」の「令枝」は「いちえ」と読むから「一枝」「一江」
「市川」にも行く「今枝」です。「中条又兵衛」は「中江又兵衛」ともなると中江藤樹も出てくるというような
適用が考えられます。水戸黄門の跡継ぎ(兄の子)は綱条(つなえだ)ですが、この読み方も一条
が森氏と関係があるというのも示唆していると思います。
(30)古江加兵衛
再掲
『稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎』
‖ ‖ ‖ ‖
森長可 森可隆 森三左衛門A
‖
▼
令枝弥八 古□□□
稲葉刑部の次の「同土佐」となっている人物は一匹狼で通常はわかりませんが伏線が敷かれて
おり▼に引き当てられてもよいのでしょう。〈甫庵信長記〉人名索引では
稲葉刑部少輔
(同土佐)
稲葉土佐
稲葉半助(介)
となっており、土佐に大窪半介の半介が懸かる感じとなっています。内容も次の文がありますので
確認できます。
『稲葉伊予守が家之子稲葉土佐、義景の首を請け取り・・・・』〈甫庵信長記〉
『浅井半介と云いし者は・・・伊予守寵して稲葉半介と名乗らせし・・・』〈甫庵信長記〉
となっています。
森伝兵衛可隆が19歳で忽然と消えたのはこの「弥八」の「八」と関係があり表現が遠慮気味となった
ことによります。すなわち大村由己Aで木下長嘯子の連れ合い、森蘭丸の姉として表現されてい
ます。大村由己が若狭の城へやってきたネット記事は紹介済みですが、これは太田和泉守の二人
への接近効果を狙ったというのも確かにありますが、太田和泉守が、子息二人のいる居城を寸暇
を割いて訪れた姿がみられたということで誰かが文書に残したというものもあるのでしょう。
可隆の北陸での戦死と、三木での再生によって、元亀元年はやくも織田によって三木城は固ま
っていたといえます。芭蕉はこの間の動きを奥の細道に入れています。
『武隈の松・・・・二木にわかれて・・・能因法師・・・・むつのかみ・・・武隈・・・挙白・・・・
桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越シ』〈奥の細道〉
ここに出ている挙白は芭蕉の門人「草壁」という人ということで解釈されて終わっています。
木下長嘯子に「挙白集」があります。「三月越」はテキスト脚注では
『「三月」に「見き」または「見つ」の意をふくめている。』(旺文社)
とありますが、その前に「二木」があるから「三木」をふくむことは確実で、もうひとつのテキストには
「(見き、幹、三木)を匂わせた表現」
となっています。「三木」は「別所の三木」と「3×木」=「森」まで繋がるものです。「草壁」は死亡
した草壁皇子が草壁違いになっていることは前著で既述ですが、古事記序文にある「日下(くさか)」
を使えば「日下部」もあり「長蘇我部」の「我部(かべ)」〈曾良日記〉の「カスカベ」も粕壁、春日部
で「草加「早加」も「部」をつけると「草壁」ですから、門人である挙白の草壁氏も、森を打ち出す
森有る所に「長曾我部」で「森」を出そうとした常山はこの「武隈の松」から、その辺りを読んだの
かもしれません。
また竹駒明神にある「武隈の松」は「古市源七殿住所」(曾良日記)の辺りのようで、令(いち)枝
弥八の市も出てくる、また次の古江加兵衛の「古」にも繋ぐというものも出ています。また「三月」
はテキストにあるように「見つ」もある、つまり「天満」の「満」です。ネット記事から大村由己梅庵
の天満との関係が深いことは既述ですが〈南蛮寺興廃記〉でも
梅庵・・・梅庵・・・・梅庵・・・・梅庵・・・・天満天神・・・梅庵・・・・梅庵・・・」
と天満が具体的です。武隈の松について、テキスト脚注では
「陸奥に赴任したときこの松を植えたのは宮内卿藤原元善で、その後
源満仲や橘道貞が植え継いだ」
「陸奥守孝義という人が、この松を伐って、名取川の橋杭にした。」
「能因法師が初めに下った時には枯れかかってた・・・・二度目には・・・なくなっていた。」
などのことが書かれています。こういう故事を芭蕉が織り込んだということですがここにも、
多田満仲の「満」
がでてきます。満仲は、多田源氏、多田神社に関係する人物で、芭蕉が〈奥の細道〉で「太田
神社」と変えている「多田」で、太安万侶の「多氏」にも繋がります。
ここの登場人物の属性である、「宮内卿」とか、名前の「元」「善」や、「橘」(立花)、「道」「貞」(定)
も、利用しようという意識もありそうです。
文中にある「能因法師」は俗名は「橘 永ヤス」であり、「橘」は地名では、奈良の高市郡の内
であり、「永ヤス」は「前野但馬守」〈信長公記〉の「長康」もあり、能因の「因」というのは「法印」の
「印」とか、「蘇(曾)因」の「因」も考慮されたかもしれません。ネット記事のイントロにある文くらい
のことすら筆者は知りませんでしたが、中々一筋縄でいかないものがあります。
記事「能因法師千人万首」では
○能因は「融因」に改称した、○父は「肥後守 元ヤス」○(高槻)の古曾部に住みつく
○小曾部焼がある。
ということが書かれており、「融」が出てきます。〈信長公記〉では世阿弥の「とをる」(融)は「観世」
と結びついています。また橘の「肥後守」といえば、武井肥後守があります。一方「高槻市インター
ネット歴史館」では能因は「長門守橘元ヤスの子」となっており、「長門守」となれば〈信長公記〉の
「石川長門守」があります。石川は蘇我馬子の属性でもあります。高山飛弾守の属性である高槻
は能因の属性と言ってもよく高槻市の歴史に語られるのでしょうが
「古曾部」「古曾部焼」
ともなると、かなり奥が深い感じがします。「曽我部」が「古江」の「古」に懸かり「古曾部」焼と
命名に行くのかもしれません。ここの「古江加兵衛」は「古」だけでも「古田織部」ですが、「江」
→「枝」→「森」に加えて「加」に「可」でも出てくれば「森可成」に近づくでしょう。待っていれば
いいだけです。ただ芭蕉の「画工」「加右衛門」は太田和泉守を見てもいいでしょうが「古代」
とつなげられる名を持っている「古田」の「加」でいいはずです。
(31)手取川
能因には
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」
の歌があり、芭蕉は武隈の松のくだりで能因法師を思い出したと書いているので〈奥の細道〉の
「白川の関」の一節の
「白川の関」「三関(夕)」「卯の花の白妙」
などから武隈の「挙白」に繋いだといえます。武隈の前節に「白石の城」が出ておりこれも武隈の
「挙白」に及ぶものです。
「白川」「白河」といえば「河=江」から「白江」「白枝」が出てきて「白江」は「白江(白井)備後守」
にも繋がります。伊達、片倉小十郎の城下「白石」というのは「白井氏」にもなりえます。芭蕉は
片倉の「白石の城」を「鐙摺(あぶみずり)・白石の城」という書き方にしています。
「橘元ヤス」
の「ヤス」は先ほど出てきた「永ヤス」も同じですが「ト(やす)」という字です。むつかしいので
使いたくない字ですが「鐙」と「豆」の字が共有されているので出してきたのではないか、と思った
ので「鐙」を念のため見ましたら、「あぶみ」という読みがある、馬に乗るときに足をかける具足という
意味がある、そのほかに、
「たかつき」
という読みがあることがわかりました。間違ったかもしれない取っ掛かりから、高槻が出てきましたが
これは芭蕉によって企図されたものといえます。ネット記事、によれば義経の鐙が摺れた石があるので
鐙摺というそうですが、あとで出てくる地名、手取川の、安宅、富樫、が名取川の鐙摺の地名採用にに影響
があるといえそうです。まあいいたいことの一つは、ここに出てきた故事にある「陸奥守」は〈奥の
細道〉では
「むつのかみ」
であるということです。これは、必ずしもその古人を指すものでなく、森の陸奥守の登場を促して
挙白(木下の挙白と草壁の挙白)をそれと結ぼうとしています。つまり〈二書〉では陸奥守は一件
しかなく甫庵では
「毛利陸奥守(大江朝臣元就)」
があり「森」がここに入りこんできて・挙白が「森」「木村」「大村」へと意味をもたせたかったという
ことです。大村由己は大村幽古とも成りえる「幽斎」+「古江」も出てきます。
ひらかなの
「むつのかみ」
の説明は、「名取川」を取っ掛かりにして似ている北国の手取川でしようとしたのではないかと思
います。武隈の松の一節のすぐあと仙台の名取川が出てきます。たしかにここが舞台ですが、
加賀の「手取川」〈信長公記〉が同時に想起され、そこで「太田和泉守」が説明されているとみて
「むつのかみ」の正体を表そうとしたと思われます。
手取川
名取川
は違いますが、勘違いする人もいるかもしれません。
筆者は名取川はどこかで聞いたことがある、織田、上杉戦があり織田が負けた古戦場にそんな
名があった、と思って確認しました。結果的にはうろ覚えの勘違い「手取川」でしたので、太田和泉
守と名取川を関連付ける話は一旦引っ込めましたが、「手取川」に絡む複雑な脚注を思い出して
ついでにここで探ってみようと復活したことからの結論が、「むつのかみ」=太田和泉守以外の
ことにも行き着きました。
「取川」が同じなので手取川を名取川と間違っていたわけですが、それも芭蕉の目論んだところ
と解しますと
「手名」
も副次的に出てきます。「手名」は〈古事記〉の初めの方、「やまたのおろち」退治のスサノオ命
に絡んで出てきます。
「足名椎(あしなづち)」、「手名椎(てなづち)」、その娘「櫛名田比売(くしなだひめ)」
が「八俣の大蛇」に関わって「(速)須佐の男の命」を呼び出します〈古事記〉。今となれば「蘇民将来」の
スサノオの命です。
「手名」というのは「名」の前が重要な感じで「星名」とか「政名」とかがあるのと同じで「手」という
字を注目させるのでしょう。太安万侶は序文で
「名の帯の字に多羅斯(たらし)」と云ふ」
とわけのわからないことを書いています。「たらし」は「足」ですから「足名」の「足」のことをいって
いるのだろうと思いますが、「手名椎」の「椎」も名の前に出てくる表記が、戦国の二書にもある
のでひっかかるところです。「椎」は
「椎名小四郎」
がありここから、「今泉」、「太田」、「河田」が出てきて、河田からは「江田」「枝」「川田」「三田」
がでてきます。「小四郎」という名前は「美濃屋小四郎」「丹羽小四郎」「木村小四郎」もあるので
「椎名」という実在の姓を語る以外の意味もありそうです。小四郎の前の小三郎というのは
「別所小三郎」
が一つあるだけなので、「三木」注目といえるのでしょう。三木の別所長はる(また三木子息世
代三人というのは大きなウエイトを懸けて語られているのが感じられます。
「松原小三郎」〈甫庵信長記〉
という表記は「松原」という姓の実在性が一つありますが、「松小三郎」「原小三郎」という「小松」
+「田原」のような意味合いを持たせて別所小三郎を補強したものといえそうです。
スサノオの命から、曽我、椎名、太田和泉を出すのは太田牛一の意識下にあったかどうかは
別としても後世の人は微細なことでも利用して話をしかねません。
〈信長公記〉の上杉、柴田戦、「手取川」の出る一節は、姓だけあげると
「柴田、滝川、羽柴、惟住、斎藤、氏家、伊賀、稲葉、不破、前田、佐々、原、金森、若狭衆」
がありますが、これは最後の
「若狭衆」
を除いては全部太田和泉守の乗っかった姓です。ほかにも乗っかったものはありますが軍団編
成表との調和もあるところでしょう。地名では
「小松村」「本折村」「阿多賀(あたか=安宅)」(いずれも現小松市のうち)
「富樫(トカシ)」(現加賀市)
があり、芭蕉の「小松」は「萩すすき」を染め、本折町は、多田八幡の斎藤の「甲」、「錦の切(直垂)」
の背景となっています。あたか、富樫は、義経がらみで名取川とか白石、挙白にいきそうなことは
先ほど触れました。
問題の「手取川」は、天正五年〈信長公記〉
■『添川(そへかは)・手取川(てどりがは)打ち越し・・・ 』@
となっており、「添川」と「手取川」の関係がわかりません。テキスト脚注では
「底本のこの字(添川)は湊川とも読める。湊川は手取川の別名である。・・・この部分の意味は
手取川の支流や手取川を越えてという意味であろうか。〈越登賀三州志〉ではこの行程に
誤りがあろうとしている。★太田牛一が実見したのではないからである」
と書かれています。「添川」と「湊川」は似ていますので、また「湊」は奏(そう)から「添う」とも読む
ので同じというのは頷けますが、湊川の別名が手取り側というのは実際そういわれているという
ことの紹介だけでは、飛躍しすぎです。つまりこれは原文@が
「手取川(添川)・手取川(てどりがは)打ち越し・・・」
となるのでおかしいというところから、何かヒントがないかということで「湊」も出されたと思われます。
手取川に添う川、つまり脚注にある「支流」という意味に取られやすくなるともいえます。ただ湊川
という別名があるのは何かまだありそうという感じがします。こういうのは
芭蕉などの巧者には付け入る隙を与えてしまうでしょう。「添える」の「添」は「添付」の「てん」です
から「手前」=「点前」で、また「天爾乎波」は「てにおは」で、「てん」は「て」です。これは「てんてん
てんまりてがそれて・・・」という童謡から気付きました。
添□川→手□川
手取川→添取川
で芭蕉により「手」は添えものにされて利用されたのかもしれません。いずれにしてもこの一節は
★太田牛一が現場におらずに書いた、とされているのだから逆に太田和泉守は自分を打ち出すために
この一節を〈信長公記〉に挿入したといえそうです。この一節の終わりに
●『羽柴筑前御届をも申し上げず帰陣仕候段、曲事(くせごと)の由、御逆鱗(げきりん)なされ、
迷惑申され候。』〈信長公記〉
があります。これはしたがって、いわゆる羽柴筑前に乗った太田和泉守といえそうです。竹中
半兵衛は〈武功夜話〉で、こちらから仕掛けない限り上杉は動かないという趣旨のことをいって
おり、大軍を北国に集結させることは要らないということでしょう。もう一つルビなしの■の文が
天正八年にあります。〈信長公記〉
『添川・手取川打ち越し・・・』A
@が「八月八日、柴田修理亮大将として北国へ人数出され候。」で主語の記入がなく信長公が
自ら出馬したとみてよく主語は信長公でしょう。
Aは「柴田修理亮賀州へ乱入。添川・手取川打ち越し」
となっており、主役のいはゆる柴田が強引な戦いをしています。
@の天正5年の「柴田」は太田和泉守とみてもよく、脚注をみても、もうこの■@の一節は作文と
見破られているようです。〈奥の細道〉武隈の松の一節
『往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐りて名取川の橋杭にせられたる・・・・』
の「此木」は「柴田」の「柴」でしょう。テキスト人名注でも、
「柴田 勝家とも断定しかねる。」
というのがあり、〈信長公記〉
「柴田日向守」「柴田三左衛門」「柴田伊賀守」
ともなると、表記が語るという面が出てきます。「柴田伊賀守」は「伊介」と書かれていますが、
これは山内一豊の「伊右衛門」「猪右衛門」があるから猪子兵介、毛屋猪介の「猪介」もあり、
ます。「伊」は伊達の「伊」であり、惟(い)でもあります。一方、「伊」は「これ」とも読み、此れ
、是になり、これらの出てくるところ「惟(これ)」がいます。「伊」は俵屋宗達の「伊年」があり、「伊年」
は「伊松」でもあるのでしょう。伊織というのもよく聞く名前です。ここで「むつのかみ」と「名取
川」は結ばれています。また「名取」は「名を取る」という意味があるのは自明のことです。
つまり、■@再掲
「添川(そへかは)・手取川(てとりがは)打越し・・・」〈信長公記〉
は、ルビなし「添川」もあり、「手名」があり、湊は「湊川」があり、神社は「生田区多聞通」です。
〈信長公記〉「生田森」は脚注では「生田の森」でこれは神戸の生田区でしょう。生田神社も生田区
のはずです。現在「中央区」ですから「生田区」を使うのは具合悪いのですが、両者の位置関係が
よくわからないので同じ生田区で近くということにしましたが、明治に湊川神社を創ったので
〈信長公記〉の生田森と楠公、水戸黄門というのが切断されましたが、「多聞」は残りました。
生田神社の祭神は「稚日女尊」で、「手名椎」の「椎」と似ていますが天照大神の妹が「稚日女尊」
で、弟が須佐の男命で、スサノオの妃が「手名椎」ですから、「湊」から「生田」が出て「手名」が
が出ますと、「手名」の名取りが「手(添=て)」というのもでるでしょう。■の文は
「名取川によく似た・手取側打越し・・・・」
という意味もありそうです。その心は古典とか、仙台とか、神戸なども踏まえた話しをしていますよ、
というメッセージも在ると思います。先ほど出ました●の一文、「羽柴筑前」が無届で帰陣してしまう
話は天正五年(6)節の終わりに出ています。以後(7)(8)(9)は松永謀叛に伴う話しです。
秀吉がタイミングよく帰ったので秀吉の処罰がウヤムヤになったといわれているものですが、
太田和泉守が、松永に最小の被害ですむ様な善処をしたということを表わしています。スタンド
プレーでそれを語ったといえます。城は勿体ないかもしれないが、戯戦をして城を焼いて、逃げて
しまったということになるのでしょう。先ほど「多聞」というのが出ましたが松永弾正の城は
「多聞城」
として知られ属性のようなを感じのものです。松永絡みのことだということを言外に匂わせたといえます。
芭蕉は「湊」で「酒田の湊」(奥の細道)を出しています。
天正5年、の人名羅列の最後、「若狭衆」が出てきました。この表記は突然変異といったところ
でかなり不自然です。
その前が「金盛五郎八」です。これは「金森」ですから、「森」が出されたといえますが、
「五郎」と「八郎」
の二人です。
「金森八郎」の方、つまり“森の八”が、若狭の木下長嘯子と組み合わせられたということの変わ
った表現がされたといえます。
「令枝弥八」はかくて「森伝兵衛可隆」から「別所彦進」=大村由己Aとなりましたが、別所小三郎
長治の方は
「別所主水正」「赤松次郎」「赤松弥三郎」
などの表記が〈甫庵太閤記〉の早くにでてきますから「脇坂甚内安治」などと絡んでどうなったか
という別の話になります。この可隆こと彦進は本能寺で登場スタンドプレーがあるようです。
『三木(ルビ=の)城没落の事
・・・播州三木の城、落去の由・・・・中尾源太郎を差し遣わされ・・・・委しく天正武記にあり。』
〈甫庵信長記〉
この「天正武記」について脚注あり、「天正軍記と伝えられる本のことであろう。」とされています。
これは大村由己のものといえそうです。このあと怪しい「売子(まいす)の僧、無辺」がインチキ説法
をしたかどで斬刑を蒙った記事が出ていますが、この無辺は太田和泉守で、大村由己@の積りで
しょう。〈南蛮寺興廃記〉では「梅庵」が長説法をして最後逃げ帰ってしまう場面がありますが、
これも大村由己で、「売子」というのが「梅子」というのでしょう。もう一つは本能寺の場面です。
『小倉松寿丸、湯浅甚助、中尾源太郎など・・・本能寺に懸け入り、忽ちに義死を
遂げける。志、尤も優れて覚えたる。』〈甫庵信長記〉
この中尾源太郎は〈信長公記〉では見当たらず、敢えて無視された表記といえます。多分
〈信長公記〉にあって〈甫庵信長記〉にない「彦進」(別所友之)との交換ではないかと思われます。
「中尾」は「長尾」にもなり「長尾」は「長尾喜平次」(上杉景勝)
があります。「長屋」も長尾に似てますが「長屋甚右衛門」という孤立表記があり、「甚右衛門」は
「尾藤甚右衛門」
を想起し、尾藤又八にも繋がりそうです。「中尾源太郎」=大村由己Aで大村由己は、前回天満
古田織部と出てきました。
「脇坂甚内」の「脇」も「佐脇藤八」の「脇」がありましたが、太田和泉守が意識している字と
いえそうで、次の重要らしいところに二つ「脇」が出てきます。既述「大脇喜八」「大脇虎蔵」「大脇
伝介(塩屋伝介)」の「脇」です。「脇」は「月+力×3」で「月」の方は加賀の大槻伝蔵として結実
させた人も出ました。
(32)別の括り
森の9人が発見されやすいようにいろいろ工夫がされています。
『中西新八郎、山脇勘左衛門尉、星野左衛門尉、宮脇又兵衛尉、隠岐土佐守、彼等五人、
池田勝三郎与力に召し加えられけり。』〈甫庵信長記〉
『中西新八郎・星野左衛門・宮脇又兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門、五人の者、池田勝
三郎与力に仰せ付けられ候。』〈信長公記〉
で、「佐脇」の「脇」が「山脇」「宮脇」で出てきました。はじめに「(新)八郎」の「八」がありますから
まず「佐脇藤八」「大脇喜八」から敷衍した話しがここにもあるかもしれないというのが出てきます。
「池田勝三郎」は、あの姫路城の池田輝政の父、池田信輝と太田和泉守の二人ですが〈信長
記〉の世界では太田和泉守の言動を表わしているもので、池田信輝の存在は意識されている、
つまり第三者から見れば、池田信輝と解釈しても現在のような語りで理解されている姿に落ち着く
ということになります。ただ表記でいえばなぜ「信輝」となるのか、という面がスッポリ抜けていること
とで別表記の登場がありうることは予想されるものです。この二つの文について池田勝三郎は、
背景で実際この姓の人物が太田和泉守旗下に加わったことは事実でしょうが「五人」が強調されて
います。五人といえば、あの桶狭間の五人ですので一応先に引き当てておきますと、
岩室長門守、長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八、賀藤弥三郎
‖ ‖ ‖ ‖ ‖
隠岐土佐守、星野左衛門、山脇勘左衛門、中西新八郎、宮脇又兵衛
〈両書〉ではこの人名の文の次ぎの日に
「土佐国長宗我部土佐守、維任(これたふ)日向守」」〈信長公記〉
「土佐国長曾我部」〈甫庵信長記〉
が出ています。「曾」「宗」は「蘇我」の「蘇」と「鹿」、「長」は「長皇子」とか「長屋王」なども視野に入った
ものでしょう。「土佐」は「大野木土佐守」があり、「大野木」は太田和泉守の故地高田五郷の「山田
村」「安食村」などと同じウエイトのあるところです。「大野木」は「小野木」でもあり、「大木」でも
あり、加藤二十四将の「大木土佐」にも通ずる名前です。また「隠岐」は後藤又兵衛が隠岐守であり、
明智光慶の後継人は隠岐五郎左衛門です。「曾」も木曽義昌の「曾」、「宗」も「宗達」など「宗」の
系譜もあり、隠岐土佐は太田和泉守に宛てるのが一応妥当でもあります。
「星野左衛門」は、「星名弾正」(信長公記)の「星」であり「星名弾正」は、考証では「保科正直」
とされています。「正」「政」、「直」「猶」となると太田牛一が出てきますから、中心に据えればよい、
ということで、森乱丸でよいでしょう。後世の説明を持ってくれば会津の神公、保科正之と森蘭丸
の孫という服部安休の接近は、この「星野左衛門」を乱丸に宛ててもよさそうです。
「山脇」は「山口」の「山」に呼応し、「山脇勘左衛門」の「勘左衛門」は前の「左衛門」を勘がえる
位置にあるから星野山脇の順番でよいと思いますが、この二人の合成名
「星野勘左衛門」
となると太田又助同様の弓の名人の特別な物語がでてきます。したがってこの順序でよいと
いうことにもなりますが、三十三間堂通し矢で名高い寛永のころの尾張の人物です。星野の記録
を塗り替えたのは挑戦者、紀州藩の和佐大八で、大八の父は星野に敗れて自殺しているという
因縁の試合で打倒星野を実現しました。試合の途中で大八の腕が動かなくなり試合の続行も不
といえる状態になったとき心得のある人物が大八の腕を切り、血を抜いて治療して大幅な記録更
新を達成した、この人物が出番の終わった星野勘左衛門で大八はそれを後で知ったというような
話だったと思います。話の微細な部分はうろ覚えもありますが、何となく覚えているのは筋が面白
三十三間堂の故事で本当の話かもしれないというのもあるので覚えているものです。この33間
の話は〈前著〉では命中率の語れる弓の射程距離として利用できてありがたいものでしたが、信長
公暗殺の善住坊の鉄砲の射程距離「十二・三間(日)」の確実性もたしかめられます。ネット記事
「星野勘左衛門」「星野勘左衛門の墓」によると筆者の知らなかった話がありました。尾張藩の
「星野勘左衛門、富田勘左衛門、小野勘左衛門」
をもって尾張の三勘というようです。こうなればここの〈信長公記〉の「勘」を加味して「天下三勘兵衛」
をまねて生まれた「三勘」といえそうです。寛永の時代ともなれば「星野」は「星名(保科)」に利用
できますし、「山脇」の「勘」を「星野」に取り入れるということも意図が感じられるものとなります。
「富田」は「宮脇又兵衛」
「小野」は「蘇我部」の「小野」もしくは「大野」
と結べるのかもしれません。〈武功夜話〉には
「大谷小谷の城は高山後(うしろ)にあり。」
という文言がありますが、この大谷小谷は、大野小野のようなものでしょう。高山前(まえ)すなわち
前高山というのも隠れていそうです。豊前豊後、後ろ立山、前穂高とかになります。高山も低山
があるはずです。
芭蕉の句にに
「大津にて 三尺の山も嵐(あらし)の木(こ)の葉かな」
があり「三尺の山は小さな低い山を強調していったもの。」という解説があります。「大津にて」
の前書きは他の二つの句集にあり抜けないようです。大津=低い山=高山という出し方をしよう
としたと考えられます。
この「嵐」と「木」の組み合わせが例えば、
「旅行 煤掃(すすはき)は杉の木(こ)の間の嵐(あらし)かな」
と同じですから、いいたいことを繋いだわけで、解説に
『〈芭蕉句選〉には中七「杉の一木の」とある。』
とありますように、この「旅行」の「木」は1の「木」という意味を含んでいた、木を1,2,3と数え
ている、その木が杉の右の3によって木3ということになりそうです。この「木」は
「大谷小谷高山ー森」
というようなものに行き着くようにされていそうでもあります。
大野から小野が出てくることは予想しておかねばならない、この〈信長公記〉の人名羅列には
後ろに「長宗我部土佐守」が出てきますから、「宗」に甫庵の「曾」があり、〈信長公記〉の孤立
表記「曽我五郎」が大野の五郎に、したがって小野にも及んでいることは考えられることです。
尾張三勘の小野は大坪流馬術(富田は鷹)のようですが、「馬」といえば、今ではその名は出て
きませんが「蘇我馬子」であり、寛永三馬術、愛宕山、曲垣平九郎(生駒藩)でもあります。
(33)別の四人の括り
この5人の前にも人名があります。
天正八年
『六月六日、・・・・・羽柴筑前守秀吉六条々名誉の旨、信長公御感なされ候キ。
六月十三日、御相撲取円浄寺源七不屈(ふとどき)の子細これありて御勘気を蒙り
退出候なり。
六月廿四日、・・・・・相撲・・・・麻生三五取勝六番打ち仕る。・・・小一と申すもの能き
相撲・・・大野弥五郎是又能き相撲・・・(以下再掲)中西新八郎・星野左衛門・宮脇又
兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門、五人の者・・・・・池田勝三郎・・・・長宗我部土佐守、
維任日向守・・・・』〈信長公記〉
まず人数の合計を確認しなければならないわけです。六月廿四日だけでやると8人になります。
麻生三五、小一、大野弥五郎、の三人と後の五人です。したがって不屈の闘魂の持ち主、
円浄寺源七
を抜いたらいけない、ということになります。前半の人物は番号のような数字がついているので、
はめ込み場所がわかりそうだというのが直感的に受け取れます。麻生三五が判りにくくしています
よくみると六番と書いています。番号(数字)を主体に並べ替えてみますと
1 小一 森長可
2 星野左衛門 長谷川橋介
3 山脇勘左衛門 山口飛弾守
4 宮脇又兵衛 賀藤弥三郎
5 大野弥五郎 森三左衛門
6 麻生三五
7 円浄寺源七
8 中西新八郎 佐脇藤八
9 隠岐土佐守 岩室長門守(森三左衛門)
のようになりますが、引き当ては再掲
「彼の三人が家の子、千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森
九兵衛、
稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎・・・」
の順番を軸にしてやりますと
1、星野左衛門 千石忠左衛門、
2、山脇勘左衛門 安藤右衛門佐、
3、宮脇又兵衛 桑原平兵衛、
4、中西新八郎 今枝弥八、
5、大野弥五郎 森
九兵衛、
6、又一 稲葉刑部少輔、
7、麻生三五 同土佐、
8、円浄寺源七 古江加兵衛、
9、隠岐土佐守 豊瀬与十郎
となり、5以前は、森(太田)和泉、6以後は森三左の系類となります。俗っぽい名前で言えば
1、森蘭丸 2、木村又蔵 3、後藤又兵衛 4、犬千代 5、牛一
6、森長一 7、森伝兵衛(可隆) 8、古田左介 9、森与三
くらいのこととなります。
8、の「古江加兵衛」について、どうしても欲しいのは「古」に続く字からくる決定打です。「古」だけ
でも、あの「古田」が予想され、また「江」は「枝」、「枝」は「条」で「一条」の森が出てきている、
おまけに「加」は「可成」の「可」です。結局森蘭丸が案内してくれることになりました。
野々村三十郎の「三十郎」と「三四郎」は違うのではないかという湯浅常山の記事再掲
A『源君久世(ルビ=
くぜ)三四郎坂部(
さかべ)三十郎物見の事
・・・久世三四郎、坂部(
さかべ)三十郎・・・・坂部・・・久世・・・久世・・・坂部・・・久世・・・
久世・・・・坂部・・・二三町・・・坂部・・・久世四町・・・久世・・・●観世左近は謡いに名を得
たるものにして、剃髪して
安休(あんきう)と号す。・・・・三・・・三・・・・・』
●の観世左近は、
安休と同じ人物です。安休は、服部安休しかなくこれは森蘭丸を想起させる
ものです。「観世」について、人名注を拾いますと〈信長公記〉は
「
観世与左衛門」「観世又三郎」「観世左近大夫」「観世大夫」「観世彦右衛門」「観世小次郎」
を用意しています。すでに「融」など世阿弥の能の曲目などとセットで出てきました。本文では
「
勧世」
となっており、脚注では「勧世」は宛て字とされています。人名索引では本文のものを載せるのが
妥当と思いますが、考証では「観」という字が確実ということなのでこうなったと思われます。する
と太田牛一はおかしいことを知っていて書いたと思われます。名前の部分から見ると、目的的
能役者の起用というのが考えられるところです。湯浅常山は「観」を使い太田牛一間違っている
というのでしょうか。世阿弥・観阿弥、は並んで使われますが「勧阿弥」もあります。ここの絡み
でいえば「
勘左衛門」の「勘阿弥」もあります。これは誰でしょうか。まあ太田牛一以後三通りに
なったのかもしれません。それは別としてこの「勧世」に〈信長公記〉では
『勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守類(るい)の事』
『勧世与左衛門・勧世又三郎、太鼓御所望にて候。』
という組み合わせがあります。ここの古田可兵衛は「与三(左)」のあとで出ており「可成」の「可」が
あります。常山のいう勧世→安休→森の線もあり、
古江加兵衛〈甫庵信長記〉
古田可兵衛〈信長公記〉
と言う一字違いの炙り出しが、「江」を「田」に替えてしまいます。これで古江も著者の頭の中では
森一族といいたいということがわかったということです。古田が森のながで認識されることに、
ここまで長びいたのは重要人物だということで隠されたというのがあります。つまり、古田は少なく
て「織部」という名前を伴っていないからです。「織部」の「織」は「織田」の「織」では
ないか「部」は「額田部」とかいう「部」、すなわち「織田部」ともいう意味があるのではないか、とい
うことでもみてきていますが、中々ぴたりといきません。
(34)本巣と山口
「古田可兵衛」が出てきたので〈二書〉
以外で当たってみることにします。
先の「勘阿弥」でネット検索しましたら、なんと「古田織部の生涯」「八鳥の由来」というものが
でてきました。前者によれば古田織部の父は「勘阿弥」だということです。また古田織部の生まれ
は
西美濃本巣郡本巣町山口
で、これはどの記事でも出ている確実なものです。竹中半兵衛と美濃を乗っ取ったたという安藤
(安東)大将の領地といってよいところです。城は本巣郡北方町にありますが前に本巣郡真正町
が出てきました。蕉門の俳諧の美濃の拠点です。もう一つ、山口については筆者は本稿で
「山口九郎次郎@」=「森三左衛門可成」
といってきました。その山口がここで出ました。これは〈信長公記〉から別に出したのだから確実です。 「キス
まず、本巣ですが、テキスト人名注では
「安藤伊賀守 安藤守就 その子が尚就 岐阜県本巣郡北方(北方町)城主。
伊賀氏の分家」
となっており、伊賀氏については
「伊賀伊賀守 伊賀定治 岐阜県本巣郡北方(北方町)城主。」
となっており、この関係がどうかが問題といってきました。同一人が名前を変えたというのは不自然
だからです。ネット記事「安藤守就450h」を借りて補足しますと、読みは「あんどうもりなり」で
「本巣郡北方城(合渡城)主。娘は竹中半兵衛の妻。通称 平左衛門、伊賀守、日向守と称す。
政は安藤・伊賀、名は範俊、定治とも。」
となっています。またネット記事「安藤守就の墓」によれば安藤大将の法名は
「龍峰寺殿竹巌道足大居士」
で、
「龍峰寺の開山湖叔和尚は守就の弟である。」
となっています。安東伊賀守の記事が少ないのは、特別重要人物であり、隠されねばならないもの
があったからと思われます。ここの「合渡城」はあの「藤堂高虎」「「後藤又兵衛」と
「黒田三左衛門可成(よしなり)」
が出てきた既述の関ケ原「合渡川」のくだりを思い起こします。古田織部をかたるのに、「森三左」
「又兵衛」を出すのは見当はずれではないといえそうです。「安藤」は
安藤
安東
安堂
があり「藤堂」「東堂」もでてきそうです。常山では「東藤」もあります。
ここの「竹中半兵衛」の一文は太田和泉守が安藤大将の外戚であることをいっています。つまり
森蘭丸以下の子息の実親に関わる話になるのかもしれません。もう一つの、いはゆる竹中半兵
衛の線からは
「不破河内守」
が安藤家と深い関係があり、ここの「道足」というものと、不破の「矢足」というものの組み合わせ
もそれを表わしているといえそうです。それは別として安藤大将が「伊賀守」、「日向守」という表記
があるということは太田和泉との関連は濃厚に示されています。
〈信長公記〉における安藤関連の表記は
「安藤伊賀守」「安東伊賀守」「安藤右衛門」「安藤伊賀父子」
「伊賀伊賀守」「伊賀平左衛門」「伊賀七郎」
の六つですが、通常は(人名注に解説がなかったら)、「安藤」と「伊賀」は別々のままです。なぜ
このように表記が分けられたのかというが問題です。実際に「伊賀」という名前であってそれを
使ったといえばそれまでですが、まあ疑問が出てくるのはしかたのないところです。
A、まず、一応、これらのことを踏まえて、雑音を除いて、二書の表記だけからやってみるしか
ありません。
安藤伊賀守@ーーーーーー安藤伊賀守A子
‖(山口九郎次郎@)
伊賀伊賀守ーーーーーー山口九郎次郎A(森可成)
‖(伊賀七郎)
安藤右衛門(太田和泉)=伊賀平左衛門
、書きやすさ本意でやってみましたが、大体の見当がつけば、あと資料を生かしやすいという
ことになります。しかし巷説が面白いので、いまわかっている先ほどのものを全部生かして嵌め
てみます。ポイントは、上のAでは、安藤伊賀守Aが孤立しているので生かす、また、弟の開山
和尚が唯一の説明がある人物で、古田を知りたいのだからそれを生かさなければならないと
と思います。
B、安藤尚就は安藤久就(久成)として森と重ねたらどうかるかです。
安藤伊賀守@(守就)ーーーー安藤伊賀守A(尚就)(上の「安藤伊賀父子」)
‖ (森可行) ‖{森三左衛門可成}
‖ ‖ ●弟、開山和尚ーー伊賀伊賀守(山口城主)
伊賀伊賀守@(山口氏) ‖ (「伊賀七郎」=類書の伊賀範俊)
森三左衛門@(太田和泉守)(「伊賀平左衛門)
というようにもなりえますが、森=安藤としなくても、両家には姻戚関係があるとすることでも
よいと思います。まあ、本稿のはじめに太田和泉守の「守」について「守」=「森」もあるのではないか
といってきていますので、
「安藤伊賀守」=「森伊賀藤安」、「守就」=「森成」「森也」
という表面化させないほうがよいのでしょうが、そういう仮説を立てておれば隘路も打開しやすい
もしれません。森可成などは世界歴史のマイナーだというかもしれないが、450年前の人生の
わからないことがわかってきたというのなら、これ世界的と言ってもよいたいへんなことです。
文物が出てきたわけではないのに何故わかってきたのかということを、こういうことを契機に考えて
みることも要るのでしょう。
●の人物と森可成の子が古田織部であるということになってしまいましたが●の人物は表記では
「龍峰寺開山湖叔和尚」
というものを与えられています。「和尚」の「尚」が、「尚就」の「尚」で、安藤の子息の方と関係
がありそうです。「和」も「丹和」「淡輪」「谷の輪」で「三輪」がでます。「湖叔」というのは「古田」
+「宗叔(宿)」の感じがしますが、「叔」が「叔父」、「湖」というのは「近江」も出てくるかもしれま
ん。「龍」は「竜」「柳」「笠」「達」などがありますが、安藤大将の「龍峰寺竹巖道足大居士」と
嵌めこんで読むくらいでやればネット記事も生きてくることになります。全体、武井夕庵のイメージ
聖徳太子などの古代の世界が織り込まれて云う感じがするものです。いまはここから
「龍」「開山」「寺(天王寺)」
を借りるだけですが、再掲、(天正五年)
「化荻(草冠なし)(貨荻・えびす)、天王寺屋の竜雲・・・開山・・・今井宗久・・・二銘の
■さしやく・・・・八幡御泊・・・・・二条妙覚寺御帰宿・・・伊達・・・」〈信長公記〉
があり、ここへ開山などが飛んできます。今井宗久は今枝弥八と並んでいました。〈武功夜話〉で
いう「今井彦八郎」をさす場合もあります。ここで■がまた飛びます。(天正五年)
「又次日・・・・御使、宮内卿法印
一、周徳さしやく 一、大黒あん所持のひようたんの炭入れ
一、★古市播州所持の高麗はし、 三種。」〈信長公記〉
ここの「周徳さしやく」が■を受けますが、周徳というのは脚注では
「珠光の門人羽淵珠徳。(「宗達茶会記」)
「大黒あん」は「武野紹鴎・・・四畳半の侘び茶をさらに簡素化し珠光についで宗匠となり
千利休に伝えた」となっています。
「古市播州」は〈甫庵太閤記〉に「珠光古市播州」という表記があったと思いますが、必要なときは
探しても二度と出てきません。「古市澄胤」(1459〜1508)に宛てられていますが、これは
「炭」「種」があるから合っていそうです。これも珠光の弟子だといわれていますが、太田牛一は
古人を紹介しようとしたのでしょう。筆者にしてみれば、現在の説明が全部、珠光の弟子だということに
なってしまいますので、ちょっとおかしい感じです。おそらく三人の「弟子」というものの態様が違うの
かもしれません。古田織部が利休の高弟といっても、太田和泉守からみればどちらも子でしょう。
上田宗古は古田織部の高弟とされているのも子息かもしれないというようなことの語りかもしれない
わけです。ここで、★に炙り出しがあって〈甫庵信長記〉では
「古市播磨守所持の高麗火筋(ひばし)」
となっています。「古市播磨」→「古市播磨守」は100年くらい現在化して「守就」「森」が加わった
ことになるのでしょうか。〈甫庵信長記〉の「古」に播磨を付加したといえそうです。〈甫庵〉の「古」は
「古市播磨守」「古江加兵衛」「古河久介」「古田左介」「古田与兵衛」
であり、これは「古田織部」の表記と言ってもよいものです、本巣、山口の「開山和尚」はここで、
古田織部として受けられたといえます。
「高麗はし」が「高麗ひばし」となったとは「ひ」を入れて「ひしや」を古田とすることを確認するととも
に「はし小僧」も古田とするのかもしれません。それにしても大変なことになってきました。
太田和泉守は、筆者が「天王寺屋竜雲」(考証では「了雲」)が所持していた絵を召し上げたのは
宗達の「風神雷神図」の絵といってきましたが、この一節に出てきた「開山の蓋置(フタオキ)」は
物体ではありますが、あの「開山湖叔和尚」を意識して書いていたといえます。これはおくり名だか
ら、それが先にあって〈信長公記〉を引用した、通常は〈信長公記〉にあってそれを引っ掛けて故郷に
埋設するというの逆になっている感じです。「天王寺了雲」は人名注では
「津田宗達の一族(宗達茶湯日記)」
となっています。これは一族どころか特別近親の人のことを書いていたといえます。珠光の
ネット記事によれば、開山の円悟(えんご)の墨跡を一休が村田珠光に与えたというようなことが
山上宗二に寄って書かれているようですが、そういうつながりでここに珠光が出てきたといえます。
開山和尚は
珠光ーーー珠光A(周徳@)
‖
古市播州
というような流れのなかにある人だといっていると思います。利久までいくまでに松永久秀やら
太田和泉守などが入って引き継いでいったようなことになるので大黒あんが出ていると思われます。
とにかく古田織部この親にしてこの子ありといえるのではないかと思います。
(35)森、安藤周辺
ここは重要なところで一応結論付けましたが唐突な部分もあったので補足しておきたいと思います
。ポツンと離れて「伊賀七郎」がなぜあるのか、「安藤右衛門」という
漠然としたものが誰か、というのも悩ましいところです。
「七郎」は次が「八郎」であることが重要と思われます。「九郎」も前が「八郎」というのが関係して
いますがそれと同じです。鎮西八郎為朝という武勇抜群の大変な人物がいるので、それを憚って
義経は「八郎」とせず「九郎」としました。「八」を間接に出すのが「七」といえます。〈武功夜話〉の
帯には「前野三兄弟の事績を書き綴った衝撃の書」となっています。この三兄弟は長康以外あま
り目立ちませんが、そういわれればそれで読み進める必要があるのかもしれません。前野三兄弟、
前野小次郎宗康ーーー小坂(前野)孫九郎(ルビ=「そなた殿」というのもある)
前野将右衛門長康
前野小兵衛勝長(太田和泉守の重臣、のち越中砺波の城主)
この孫九郎が孫八郎を前提としているから、変な表記になっているといえます。また前野但馬守
(信長公記)が太田和泉守でもあるので、孫九郎舎弟というのも生きてきて、現に前野に「孫八郎」
という表記もあり、
孫九郎(雄吉)
‖孫八郎(ユウキチ)
太田和泉
ということを云おうとしたといえます。これを前提にすると〈武功夜話〉が「森甚之丞(森正成)」の
子が「森小助雄成(かつなり)」と云っているのもわかってきそうです。「雄成」は、小野妹子
「大使」、雄成「小使」、福利「通訳」で出てきた「吉士雄成(乎那利)」の「雄成」ですが
「よしなり」
とも読めそうです。「雄成」は「森久三郎(ルビ=雄成)」ですから三郎です。この人は関ケ原で
戦死しましたが、「森九三郎」を語っているともいえそうです。
「前野村の森」
などややこしい表現があり、「森小助」が出てくる、一方、桶狭間で「森小助」が登場するので
一応取り上げておかなければ仕方がないことです。前野氏は三人兄弟から八・九まで飛んで
いるので、すこしおかしい、実体とは違って前野をもって森を語ろうとした部分があるといえそうです。
森乱丸と森可隆の年が離れすぎている感じですから、太田和泉守の連れ合いは、森可成でしょうが
その前の連れ合い、可成兄、青山与三右衛門という戦死した人の存在があったといえるのかも
しれません。
ここの安藤、伊賀の問題
ですが〈甫庵信長記〉では安藤伊賀守はなく「伊賀伊賀守」一本です。安藤があるのは
いま述べている
●「千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森九兵衛・・・・」
の羅列の安藤だけです。これは伊賀伊賀守の家臣ということですから、姻戚というのは明らかに
されており、伊賀伊賀守は西美濃三人衆であることも紹介されています。紹介文再掲
『(坂井右近)に相従ふ人々は伊賀伊賀守が郎等安藤右衛門尉、氏家ト全が郎等
桑原平兵衛など云ふ兵一千余、・・・・』〈甫庵信長記〉
『其の比(ころ)美濃国、西方三人衆と聞こえし▲氏家常陸介、稲葉伊予守、伊賀伊賀守、
会合して評論しけるは・・・』〈甫庵信長記〉
〈信長公記〉は同じ場面(永禄7年と思われる)
「美濃三人衆、稲葉伊豫守・氏家ト全・安東伊賀守」(首巻)
となっていますから、本来は安東であるが姓を伊賀に替えて述べる、と言っている感じです。つまり
これにより、●の文の二番目の人物が(したがって三番目も)よくわかるようになってきたといえる
理屈です。安藤伊賀守の郎党安藤右衛門より「伊賀伊賀守郎党」という方がよくわかり、
これが安藤右衛門重視の企図を察せしめ、〈信長公記〉唯一の「安藤右衛門」をこれと関係付
けようかということになります。また
ここの▲の三人は「其の比」の「其」が問題で、この場合は西美濃三人衆が信長卿に付こうかと
いうことで会合したという意味でよいのですが、内容に書いた本人しかわからないものがあり、
先入感なく表記だけから捉えれば、三兄弟ということがわかります。
『・・・氏家常陸介、稲葉伊予守、伊賀伊賀守、会合して評論しけるは、つらつら国の興亡を
鑑みるには政の中不中を知るには如かず。政の中不中を知るは、賢愚の挙措、其の所
を得るか得ざるかを知るには如かず。・・・・と伊賀守伊予守云ひしかば、氏家承る所、
何れも至当に候へども・・・・先ず諌書を上(たてまつ)て・・・・諌書を製しけり。一、・・・・
一、・・・・一、・・・・』〈甫庵信長記〉
となれば「氏家」が太田和泉守であろうことは大体想像がつきます。「伊賀守伊予守」と氏家の
「常陸介」という微妙な表記の違いも出ています。ここで氏家が常陸介になっていることは、再掲
『千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森九兵衛・・・』〈信長公記〉
この安藤右衛門を木村常陸介(桶狭間の山口飛弾守)とみたのは合っていたということになる
でしょう。これは〈信長公記〉の「安藤右衛門」を「安藤右衛門@」=太田和泉守とみたことの結果
ともいえます。
「木村常陸介」は既述両書の本能寺で出てきた「井上又蔵」相当であり、加藤二十四将の1・2番
「木村又蔵、井上大九郎」
の元(もと)の一つでしょう。〈前著〉で「井上大九郎」は黒田の井上九郎(周防)から後藤又兵衛を呼び出
そうするものだということをいっていますが、こういう解説の錯綜も、ここの羅列の重要性を語るもの
といえそうです。本能寺で「松野平助」が出てきて「松野」を
「爰に松野平助伊賀伊賀守家来・・・惟任・・・斎藤内蔵助・・・・・日向守・・」(甫庵信長記)
「安東伊賀守・・・・・。其の時伊賀守内に松野平介・・・明智日向守・・斎藤内蔵介・・」(信長公記)
と紹介したことは伊賀=安東というのと、松野が伊賀(安東)と姻戚関係にあるということになり
そうですが、伊賀(安東)伊賀守を、松野(氏家)を介して、惟任日向守(明智日向守)、斎藤内蔵
助を結びつけたものと考えられます。先ほど安藤守就を「日向守」としているのは、この部分と
繋ごうとしたものではないかということです。斎藤内蔵介は斎藤道三Aだから、安東伊賀守は
その旗下の大将ということになるという密接な関係にあるといえます。また氏家ト全はテキスト
人名注では「大垣城」が本拠のようであり、そうなれば森氏も出てきそうですが、いわゆる「森三
左衛門可成」という人物はこの本巣町の安藤伊賀守の一族であったかもしれないという仮説を
立てられるのもここの人名の引き当てが齎(もたら)すものです。
「安藤右衛門佐」=「木村常陸介」=「山口飛弾守」=井上又蔵→→「森坊丸」
という線で、「安藤」→「森」に結びつきます。よたよたとしているようですが、瞬間的なものがあるの
かもしれません。安藤伊賀守が安藤守就(もりなり)というならば、大谷吉隆の父が「盛治」「森治」
という例にみるように「安藤森成」にもなり、太田和泉守が森三左衛門Aとして安東大将の姻族
とすると森三左衛門@は安藤の筋の人ということになるのでしょう。ただ森可成が西美濃三人衆
家の出などは考えられないというものがありますので間接にやっていかなければならないところ
です。安藤大将の子息が「尚就」(ひさなり)というならば「久成」や「直就」が宛てられますが「就職」
の「就」という字は「毛利元就」の「就」だというのが、一般的なものとすれば、父子ともに「就」があり、
毛利=森
というのも出てきます。説得材料にするとけしからんとなりますので、仮設の材料にしておいて出さ
ない方が無難ですがこのネット記事が資料が江戸期成立のものとすると「守就」の「就」などが
注目の字として出てきます。「久」と「守」が出てきたら、国宝の絵を描いた「久隅守景」という正体
のわからない人物の二字も想起されます。「隅」は「住」「角」「澄」・・・とありますが、武隈の松の
「隈(くま)」でもあります。「守景」が「森景」になったら、逆に「守なり」は「森成」にもなりそうです。
結局〈甫庵信長記〉が「伊賀伊賀守」だけを起用したのは、「安藤」
の影響力が大きく安藤を一般向けに隠し、〈信長公記〉で専門筋に示したともいえそうです。
安藤伊賀守ー藤堂伊賀守も近いという感じであり、〈甫庵太閤記〉が竹中半兵衛を
「安藤伊賀守が婿(知+耳のむこ)也。」
といっているので、「竹中半兵衛」も、すんなり伊賀伊賀守と結べないようにしようとしたという
のはありうると思います。伊賀伊賀守というのは
○「伊」「伊」を連続して出した。「猪」「惟」「維」「井」「居」「飯」・・・があり、
これは「い」ではあるが「これ」でもあり「是」「惟」「此れ」「之」でもある。
○「定治」というのは「貞春」でもあり、「貞林」「貞安」の「貞」であり、「春日」の「春」、
太田和泉守の名前「信定」の「定」を含む。
○「賀」「賀」も連続して出した。「賀賀」は「加賀」「賀加」であり、「賀藤」「加藤」につながる
というように考えると「伊賀伊賀守」が太田和泉ナイズされた安藤伊賀守というようなものではないか
と思われます。いま太田和泉守の連れ合いは森三左衛門ということできています。したがって
伊賀伊賀守に相当する人は森三左衛門しか該当がないことになります。つまり
伊賀伊賀守(森三左衛門@)
‖(伊賀範俊)
太田和泉守(森三左衛門A)
ということになって「伊賀範俊」(半俊か)を述べようと欲張ると、山口を入れようかということになります。
りました。又蔵の山口飛弾守の山口もいずれ問題になるから、踏み込んでよかったようです。
(36)岩越喜三郎
変な名前がでてきました。今は別のことをしている段階の副産物
といったものが出てくるのはよくあることで、頭の中に入れて置くしかないことですが、忘れて
しまうのも多々あって、永久に消えそうなのでちょっと入れてみました。森可成の父は森可行という
のはどのネツト記事にも出ている、青山与左右衛門は与三である、〈信長公記〉の「青山虎」と
か、常山が石井兄弟で出してきた
「青山因幡守宗俊」
は次ぎの文の「因幡守」と「青山」」を結ぶものでしょう。斎藤道三の大勝に終わった稲葉山山下
戦いでの織田信秀方の戦死者の羅列があって、
『備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正(もんどのカミ)・青山与三右衛門尉・
千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして歴々
五千ばかり討死なり。』〈信長公記〉
『御舎弟与次郎殿を始として、織田因幡守、同主水正、毛利十郎、同藤九郎、青山与三
右衛門尉、千秋紀伊守以下・・・五千余討たれにけり。』〈甫庵信長記〉
として重要人物がでていますが、ここに「毛利十郎」「藤九郎」というやや漠然としたもの、語りの
部分とみられるものがあり、したがって
森の「藤九郎」
が登場したことは「森」色をここに入れたということになるでしょう。「藤九郎」は本能寺で
「藤九郎、藤八、岩・・・・」〈両書〉
があり、これだけで展開力のあるものですが「藤」に「岩」が続いています。また「藤九郎」といえば
「布施藤九郎」がすぐに出てきます。滋賀県伊香郡高月町の布施(布勢)の「藤九郎」ですが
「日野蒲生右兵衛大輔・布施(ふせの)藤九郎・・・・」〈信長公記〉
の蒲生の布施藤九郎でもあります。
ここにある「岩越喜三郎」は〈信長公記〉にしかないもので、これは解説のない人物です。
なぜここに入れたか、ということも考えないといけないことでしょう。
改めて「岩」をみると〈甫庵信長記〉には、
「岩」「岩田虎」「岩越藤蔵」・・・・
があり「岩越」が「藤蔵」で入っています。「藤」は「喜三郎」と結ばれると「後藤喜三郎」「遠藤
喜三郎」(常山奇談)などがでてきますが「後藤喜三郎」は「蒲生忠三郎」から布施藤九郎に
一直線となり、木村又蔵の「蔵」にもいく、安藤の藤と又蔵才蔵虎蔵などの蔵が結びつく感じ
です。「与三」の「三」までも「ぞう」と読みますから森の「与蔵」もありえます。
太田和泉守は自家製の人名地名歴史辞典などを備えてものを書いているのでしょうから
「岩越」が美濃本巣郡にあるなら文句なしに「森=安藤」が結合しますがそううまくはいかずネット
記事には美濃にも岩越はなさそうです。太田和泉守の足跡のある「岩越」としては蒲生の会津
なら納得できると思いますのでそこからもってきますとネット記事「会津若松」がありました。
これによればJRの岩越線の「岩越」がありラーメンの
「喜多方」
の名前が出ています。安藤大将の本拠の「北方」が字を変えて会津に出てきました。この
「喜多」
は俵屋宗達の「喜多」ですが「安東」から出てくる「喜多」でもあります。
テキスト人名注では「安東伊賀守」から「安東愛季」という秋田城主が出てきて信長公に進物
をしています。これが
「阿喜多の屋形、」(信長公記)
「秋田の屋形」(甫庵信長記)
からの進物ですが、「屋形」というのは「お屋形」という個人か、「館」という建物か、どちらとも取れ
そうな表現されています。一応「屋形」の例としてはもう一件
「会津の屋形もりたか」(信長公記)
「会津の屋形森高」(甫庵信長記)
がありますので、これは「屋形」に「森」「高山」色をつけたもの、
安東→阿喜多→屋形(館=館)→森
となる、宗達の「喜多」「森」、宗達の「達」も「安東」から引っ張ってこれるともいえます。
「会津屋形もりたか」
についてはテキスト人名注では「もりたか」で出ていないので見逃してしまいますが
「蘆名盛隆」
で出ています。人名注では
「蘆名盛隆(1561〜1584) 岩代会津黒川(会津若松市黒川)城主。相模三浦郡蘆名村
から興り、会津を領した豪族、盛氏の時に全盛期。子盛興が早世したので、須賀川(福島
県須賀川(福島県須賀川市)の二階堂盛義の子盛隆を養子にした。・・・」
と書かれています。したがって
この「もりたか」は太田牛一には「盛隆」が念頭にあった、森高と書き替えられることは案の
内のことであったといえます。「盛隆」は「守隆」や「森隆」などにも替えられるのでしょう。
これも「安藤」の「守就」の「もり」に注目といったものがありそうです。「たか」も「鷹」は奥州
の阿喜多、安東を呼び出します。また屋形からは
屋形→館→立ち(立川三左衛門の立)→「達」(たて、たち、たか)→森、高山
の線も出てきて安東→阿喜多にも行き着きます。
芭蕉の〈奥の細道〉須賀川のくだりは、この〈信長公記〉「もりたか」が踏まえられています。
二階堂、伊達の戦い〈吾妻鏡〉頼朝卿の側近として出てくる二階堂氏の滅亡がベースになって
います。「もりたか」の「たか」のことですが
阿喜多の屋形の進物の内容は、〈甫庵信長記〉では
「青鷹 五連」 「生白鳥 十 」
となっています。青い鷹というものがあるか、まず疑問が浮かびます。〈信長公記〉では
「黄鷹 五聯(もと)」「生白鳥 三つ」「右の内に巣鷹一つ御座候。」
とありますから、青鷹を黄鷹で引っ掻き回したという感じで、
青鷹
黄鷹→木鷹
青黄(木)鷹→「青森高」を作ったのかもしれません。安東阿喜多から「青山森」が出ました。
巣鷹は「もと巣」の「巣」
が入れられ安藤の故地がそれに加わったといえます。予想外のところで「本巣」の安東が語ら
れているのです。白鳥の数は「三つ」
の方が間違っているのでしょう。「生白鳥三つ」は「き白鳥三つ」で「与三」「喜三郎」の「三」か
、木の三つの森もいうのかもしれません。「喜多」は安東の「秋田」からも出てきましたが、喜多は
北で「喜多村」「喜多川」「喜多方」などは「北村」「北川」「北方」といってもよいほどです。
〈奥の細道〉の本文に出てくる「金沢の北枝(ほくし)」は重要で、森と北を繋いでしまっているので
、「北方」にも通じそうな感じの表記です。
「枝」は「えだ」で「条」ですから「北枝」から「北条」が出てきます。関東の覇者北条氏が頭に
ありますので、北条はこういう語りに関係ないと思ってしまいますが何でも利用するわけです。
〈奥の細道〉では山形県北村山の「大石田と云所」という地名が大きな役割を果たしていますが、
「大石」
という表記が〈信長公記〉にあるので「石田」の「石」が著者の意識にあることの証左となるもので
しょう。人名索引で「大石」があるので気が付きましたが
「大石→北条氏照。」
となっていたので「北条氏照」をみることになりますが大石源三が出てきます。これも鷹の進上の
話です。
『相州氏政の舎弟大石源蔵氏直御鷹を三足、京都まで上せ進上。』〈信長公記〉
テキスト人名注では、この氏直は間違いで氏照とされて、
「北条氏照(〜1590)北条氏政の弟。はじめ油比氏。のち武蔵守護代大石氏の養子となり、
大石源三氏照と称した。」
とされています。
太田牛一が氏直と氏照を間違うはずはないので事情があるとは思いますが、「氏直」という
単独表記もあり、「氏+直」で氏家とか氏郷の氏と夕庵の直ですから、また氏直は「原和泉守」や
「牧庵」という表記にも接近しますから「森氏」に近づけようとする意図があるように見受けられます。
大石田には大石田西光寺もあり、蒲生氏郷の故地でもありますが、
「後藤喜三郎・布施藤九郎・蒲生忠三郎」〈信長公記〉
というのが再々あり「藤」の「喜三郎」が蒲生を呼び出しており、それを利用して「岩越」に
「北方」
を引き出させたといえます。これは出してこないと納まりが付かないものです。人名索引で
「北方→顕如光佐室」(この次が「喜多野下野守」)
があり、これなら、今日では内助の功というので見てしまいますが、和戦の意思決定を左右する
ほどの位置にいる人です。登場回数も多く、この人に、黄金20枚贈ったりしていますから気を
遣っています。結果的に本願寺は大事に至らないうちに大坂を立ち退いていますから、太田和泉
守の思っていた通りになったわけです。政権与党織田のトップとしては、徳川が万一離反した場合を
仮定すると寒心に堪えない、必要以上に何でも聞いてしまう、一方で小さい方は責任がないから
ヤレヤレと云っていればよいだけで面白くてしょうがないという状況にあります。「北方」を本巣だけ
の「北方」ではない、全国区にした、「喜多」とも「蒲生」からめたというのが、岩越喜三郎です。
この「北方」は索引では「三条」氏で「その姉は武田の室」という人のようです。そうかもしれません
が人名注などで「武田氏」の人というのが出てくるのがあるのは「武田左吉(佐吉)」が織田内
で創られており一見して「武井光成」ですから油断ができません。現に
「武田上総介」〈信長公記〉
という表記がありますが、わからないことになっています。
(37)矢部善七郎
先ほど「北条」「大石」から油比が出ました。これは
『・・・進藤山城守・油比可兵衛・・・・』〈信長公記〉
の羅列があり、「北枝」は「北条」ですから「北条源三」から「油比」の「可兵衛」に至り「可成」の
「可」がでてきます。また「北枝」は「喜多枝」になりますから「安東」にも至ります。また「北枝」は
「源四郎」ですから、北条の油比が、ここの進藤を呼び出し忠臣蔵の大石の親類、進藤源四郎を
創るに至るというものがありえるでしょう。「北枝」は脚注に「立花氏」とありこれは、この「橘氏」は
阿武隈の「武隈の松」の一節に出てきました。第一能因法師が「橘永ヤス」であり、この松を植え
継いだ人は「橘道定」でした。芭蕉はこういうことはマスターしているのは確実ですが後世に古典の
読みを語るということがあるので、この「橘」の語りに広がりがありそうです。橘ではどうしても
〈万葉集〉の編者の一人という
「橘諸兄」
を思い出すのではないかと思います。能因の「武隈の松」のところではむつのかみが出ましたが、
「橘諸兄」からは諸星庄兵衛がでます。どういうわけか、ここに探幽が出てきて
「阿武隈川・・・守山宿・・・・諸星庄兵衛・・・問屋善兵・・・善善寺・・・・矢内弥市右衛門・・
善兵・・・矢内・・・善法寺・・・探幽・・・・守山・・・守山・・善兵・・・郡山(ルビ=二本松領)・・
アブクマ川・・・・・・守山・・・・郡山・・・郡山・・」〈曾良日記〉
のように、アブクマの「隈」をバックに守山の「守」が出てきます。「阿武隈」の「阿部」から「安東」
も出てきて「□隅守□」がでてきて、探幽の一番弟子ということからも「久隅守景」にまで近づき
ましたが、ここの
「善」
の集積も気になるところで、「矢」と合わせて次の「七」も入れると、両書でよく出てきてわかり
にくい人物
「矢部善七郎」
が浮かんできます。「阿武隈」→「部隈」から
「竹駒明神・・・・武隈の松・・・・古市源七殿・・・」〈曾良日記〉
「古」の「源七」なる人物が出てきます。この「七」は、再掲
「円浄寺源七不屈(ふとどき)の子細これありて・・・」〈信長公記〉
を受けた、不屈の闘魂を持つ人物「源七」を再現させたものと取れます。「久隅守景」「矢部善七
郎」は古田織部に近い人といえそうなところです。なお「円浄寺源七」は相撲のメンバーなので
「布施藤九郎内山田与兵衛」「後藤内麻生三五」「青地孫次」
などとセットされ「与」「藤」「青」で森にも関連が示されています。ネット記事によれば古田織部は
「古織」(こおり)
という優雅な呼び名があり、ここの「郡山」は、二本の松、二羽の鷹という説明があるようですから
「郡山」というのは高山右近、古田織部の属性であろう、ここは古織を意識した郡山でよいのでは
ないかと思います。この「古市」も〈信長公記〉から取られているようで〈信長公記〉の「古」は
「古市播州」「古川久介」「古沢七郎左衛門」「古田可兵衛」「古田左介」
があり、初めの「古市播州」についてテキスト脚注では
「古市澄胤(1459〜1508) 大和古市(奈良市古市町)の豪族。茶人。」
となっています。古市氏が土地の有力者であったのは事実でしょうが、本文中の
「古市播州所持の高麗はし」
というのは、「古市」と「高麗」ということで古代史を踏まえているとみてよいのでしょう。
「古市澄胤」の「澄」も利用されていると思います。「炭」があり「住吉」の「住」です。
「古川久介」の「古川」は、「古河」→「古江」となり甫庵の「古江加兵衛」をここの「古田可兵衛」
に持ってきたといえます。「古沢」の「七」は円浄寺の七を意味づけるものといえそうです。
「古田左介」の「左介」からは「池田」が出てきます。(信長公記)
「尾張国海東郡大屋」「織田造酒正(カミ)家来甚兵衛」「庄屋」「左介」「大屋甚兵衛」
「一色村の左介」「甚兵衛宿」「左介」「一色村の左介」「当権(たうごん)信長公乳兄弟
池田勝三郎被官」「左介」「池田勝三郎衆権威」「上総介信長」「信長」「上総介殿」
「左介」「左介」
のような固有名詞があります。大屋の屋は脚注では大屋は「稲沢市大矢町」の「矢」ですので
一応「矢内」の「矢」があるのかもしれないとみておくのもよいのでしょう。ここは
加害者=夜盗「左介」、被害者=大屋庄屋甚兵衛、
の両方とも太田和泉の役者で織田信長の領主として優れた適性をもっていることを語ったと
という一面がありますが、二書では「左介」は「古田」しかない、〈吾妻鏡〉からきていそうだという
重要性から「左介」は「古田左介」ともとれそうです。
加害者、夜盗一色村の「左介」=古田織部 被害者 大屋、庄屋甚兵衛
で、古田織部が太田和泉を襲い、女房に捕まえられ、織田信長に切られる、という話になります
これは古田のもつ「織」が、織田信長の「織」をつなぐ接近と考えられます。「古」は「こ」で「小」
ですから
「古田左介」→「小田左介」→「大田左介」→「太田左介」
にもなりますから二人重ねて理解してもよいのでしょう。ここで別面からいえば、この一節は
「火起請」の「火」も主題で、そこからみれば
「おき合い」「しがみ合い」「刀」「さや」「取り上げ」「取損じ」「火」「火」
「かねをあかめ」「かねを焼き」「かねよくあかめ」「火」「とりすまし」
があり、刀剣の分野への、太田和泉、古田左介の関与をいっていないかと取れそうでもあります。
先ほど「高麗はし」が出てきて、ここで「当権(たうごん)信長」が出て、これは「三宅権丞」の「権」
と通ずると思いますが脚注にあるように「権力の座にある人」というものでしょうが、もう一件「権」
がでてくるところがあります。 再掲、相撲取の羅列で
「百済寺の鹿・百済寺の小鹿・たいとう・正権・長光・・・・・はし小僧・・・・青地与右衛門」
〈信長公記〉
がありました。ここの「はし小僧」がわからないので、とりあえず古市播磨、つまり古田の
「高麗はし」
の「はし」が考えられます。「正権」は「当権信長」「池田勝三郎衆権威」から、「正」=「政」で
太田和泉を指すのではないかと思われます。ここでこの「長光」は人名注では
「長船長光 備前の刀工。長船(おさふね)派の長光。」
となっており、刀工が入って日本刀が出て来ています。備前浮田家の筆頭の家老として長船吉
兵衛から浮田直家、秀家も想起されるところですが、これは
「宇喜多和泉守」「宇喜多和泉」(信長公記)
があり「宇喜多与太郎(信長公記)」もあります。つまり「喜多」「北」が出てきて青山の与にも行き着く
ようです。太田和泉守は「名にしおふ鍛冶の在所関という所」をバックにしていますので刀剣など
武具の類にも影響が大きいことが予想されますのでどこかで出てくることが予想されますが、ここで
古田と出してきたと思われます。北枝は加賀藩の研師で、通称は「研屋源四郎」ですが何となく
「薬研(やげん)藤四郎」(両書)
が通称のもととなっている感じです。これは「しのぎ藤四郎」「北野藤四郎」のことですがおかしいことに
「粟田口吉光」のことをいうとテキストにあり、どうなっているのかといいたいところですが、藤四郎
吉光という鎌倉時代の山城の刀工だということがわかります。そんなの常識だということであれば
ここまでの寄り道がはじめからなくすっきりしますが、ここはこういう名前をしがらみなく突きつけられた
場合に受ける印象がどうかというものがあると思います。まず
「藤四郎」
というのは藤原の藤、田原藤太の藤、安藤の藤、藤九郎の総領的な藤四郎、であり、
「毛利藤九郎」(信長公記)
という孤立表記がある中での「藤四郎」です。
「薬研」というのは、〈甫庵信長記〉人名索引では
●「薬師院」「薬師寺九郎左衛門」「薬研藤四郎」
という三つの「薬」の中の一つであり、薬の「藤四郎」もあるのかという疑問をもたせるものでもあります。
この「薬師院」は〈信長公記〉人名注では
「ここでは竹田法印定快を指す。武野紹鴎の門人。」
とあります。「ここでは」というのは別の場所での別の働きをすることもあるのかとも思いますが、
「竹田」は「武田」であり「法印」は「二位法印」あり、特別な響きをもった表記です。
「薬師寺九郎左衛門」は六条の将軍館を攻めた先手の大将ですが人名注では
「薬師寺氏は摂津守護細川氏の守護代。」
となっています。これは間違いないところでしょうが「九郎左衛門」という表記にそれだけではない
というものがありそうです。
「塙九郎左衛門直政」の「九郎左衛門」であり、これは原田備前直政であり、人名注では
「塙氏はもと常陸塙村に住み、のち尾張山田荘に移り子孫が繁衍した。・・・初名正勝。」
とあり
木村常陸ー塙→伴正林→正勝→木村又蔵
から塙団(弾)右衛門直之の原型がでてきそうで、山口飛弾の「弾」に着目した人もいるようです。
つまり、「九郎左衛門」はもう一人の薬師を呼び出しそうです。また「若狭衆山県源内・宇野弥七」が
「薬師寺九郎左衛門幢本(はたもと)へ切ってかかり」戦死しますがこの「はたもと」は字がおかしい
ので、軍隊の旗本とは別につりがね状に作った旗の下に切り込んだともいえそうです。また
「薬師寺九郎左衛門小口を甘(くつろげ)候。」〈信長公記
があり攻め口を緩めたようですが「小口」は丹羽郷の「於久地」であり「岩室長門守」が戦死した
場所ですから、「薬師寺」の「九郎左衛門」は太田和泉をみているといってもよいようです。
上の「薬研藤四郎」は本来は刀工ですが薬を究めるという薬師という側面もあることをを示すもの
●の三者は太田和泉守ともいえます。人名索引を見て〈信長公記〉には「薬研藤四郎」は出てい
ませんというと恥を掻きます。あ行
「粟田口吉光」
で出ており、これは鎌倉中期の山城の刀工ですが
「藤四郎という。この藤四郎の作刀には北野・無銘・新身などが知られている。
北野藤四郎359頁 しのぎ藤四郎359頁 薬研藤四郎104頁 」
となっており、ここで〈信長公記〉の3藤四郎は同じ粟田口吉光という人物の別の呼び方であると
されていることがもわかってきました。戦国の粟田口吉光相当の人物がいるのでしょう。粟野
木工助は「粟田口吉水之辺(ほとり)」で切腹しましたが
「粟田口吉光(よしみつ)」
「粟田口吉水(よしみづ)」
の僅かな違いが、それを暗示するものでしょう。需要が極端に増えた時代に名刀が出ないことは
考えられず太田和泉守社中のようなものや、自身の鍛造のあるものがありそうです。ほんの60年
程前は村に鍛冶屋がよくみられ窓から覗いて火の粉が飛んでいるのを眺めていたものですが
美濃出身の人は特に身近なものだったのではないかと思われます。
矢部善七郎は「七」から「杉谷善住坊」の「善」から大村由己で由己の属性は「三木」です。
(38)小野
三木も、その北にある小野も
金物の町として知られていますが筑前守秀吉の播磨経略にはじまるということのようです。別所長治
の行政の殖産策の結果とすると美濃の鍛冶の導入もあったのかもしれません。両方十露盤(そろ
ばん)の産地でもありますが、これには
毛利勘兵衛重能
という名前が出てきますが、森氏の貢献によるものでしょう。
小野の浄谷にある浄土寺は重源上人の創建当初そのままの姿を止めていること
で有名ですがそれだけに太田和泉守が見学した可能性が大きいところです。〈信長公記〉の
「遠里小野」「遠里小野(ウリウノ)」「遠里小野(をりおの)」
は脚注には「大阪市住吉区遠里小野(おりおの)町」となっているので、それで済んでしまいますが
表記が違っていますので、何かをいうのかもしれません。まず、重要度のことが考えられますが、
登場の前後のならびがあり
『根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷り立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。』
〈信長公記〉
となっており、前半紀伊、後半大坂で、これは同時代、太田和泉守に関わりの生じた勢力と地名が
書かれているのは当然でしょうが、もう一つ、小野、住吉大社、四天王寺とかの遣隋(唐)使の時
代も写しているとも取れると思います。住吉大社は遣隋(唐)使関係あり、近くの四天王寺は聖徳太子
の建立した寺です。芭蕉の句に住吉があります。
「十三日は住吉の市 に詣でて
升(ます)買うて分別かはる月見かな」(正秀宛書簡)
句意は一升ますを買って気分が変わったというようですが、解説では
『住吉の市は大阪の住吉大社の市。「升(ます)市」「宝の市」などともいう。』
とあります。この「正秀」という人は長谷川正秀ですが、この亭で門人六人の作った句があり、
「寄鹿憶婿 篠越て来ル人床し鹿の脛(はぎ) 洒堂」
がはじめにあり「鹿」が読み込まれています。住吉と鹿の組み合わせです。また芭蕉に
「神前
この松の実(み)ばえせし代や神の秋」(鹿島紀行)
の句があり、この神前は解説では、鹿島神宮の神前で
「鹿島神宮の神前の森厳な感じをはるかな時間を遡る思いの中でつかみとろうとした句である。」
となっています。「見ばえせし代」は「鹿」の代で入鹿時代といっていそうです。この「実ばえ」は
実生え」でもありますが基礎が固められる代の意もあるのでしょう。この句は、解説では
『「宝の槌」にも「鹿島神宮にて」と前書きして所収。』
となっています。
「宝」で「住吉」と「鹿」とつないでいます。
鹿島紀行は曾良と宗波が同行しているものですが
「月はやし梢は雨を持ちながら」(鹿島紀行)
の解説には、「この句は根本寺に泊まった翌暁の句である。」鹿と根の組み合わせです。
紀伊の方を見ますと、根来は「根の国」の「根」ですし、脚注では「和歌山県
那賀郡岩出町」で、ここには根来寺があり、平安時代の創建のようです。
「雑賀」はルビが「さいが□(空白)」でこのルビの雑賀は首巻で一ヶ所二つあり
「太田又助・・・乞食村・・・誓願寺・・・大堀・・・・河尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀(さいが )殿・・・
河尻左馬丞・織田三位・雑賀(さいが )修理・原殿・八板・高北・古沢七郎左衛門・・・由宇喜一・・
織田三位・・・」〈信長公記〉
の二つに同じルビがあります。雑賀には「紀伊州雑賀」と「紀州雑賀」があるとテキスト地名索引
にあり、上の紀伊国奥郡(きのくにおくこほり)のルビも
□き □□ の くに
紀 伊 国
となり「伊」にはルビをつける気がない、昔の「きのくに」も生かしたいと思ったのかもしれません。
「紀伊国」となると「伊」が入ってくるので戦国期化されたもの佐藤紀伊守、和田紀伊守、伊右
衛門、伊年の「伊」「これ」「惟」も負荷される感じです。要は「雑賀」も「乞食村」→「古事記村」の
中にある雑賀となり、周囲から「小野」も古代の「小野」が意識されていそうです。また
「太田又助」から「高北(コウキタ)」→高喜多→「古沢七郎左衛門」
にいたり、「古田」の「古」「織」も出てきて「部」の方は
「美濃国森部合戦の事」(甫庵信長記)
があり、ここは「西美濃」と書かれていますが
「森」とセットされた「部」というものを意識した感じの地名の起用といえそうです。このタイトルの下
「森三左衛門尉、毛利新介・・・爰に前田又左衛門利家、未だ孫四郎・・・・」〈甫庵信長記〉
・ が登場しますので土地名を森という姓の語りに利用したところでしょうが、
「森部」「織部」→「森織」(もりおり)
もありうる、つなぎの「部」というものが「森部」の「部」のようです。〈信長公記〉は「森辺」ですから
「守部」も可能な「森部」の「部」です。この「部」は、四国の「長曾我部」の「部」で、既述のところでは
「長 曽我 部」
という区切りで中取りして「曽我」氏を出しましたが〈甫庵太閤記〉では
「土州長曾我部居城、ちようかの森、かつら濱、うら戸の湊より、十八里奥(サンズイ篇あり、ル
ビ=おき)に夥しき大船・・・長曾我部(ルビなし)・・・・・」〈甫庵太閤記〉
の一文が出ており、ここの初めの「長曾我部」についてルビがあり
ちやうそ が□ め□
長曾 我 部
となっており、「部」を「め」と読ませています。つまり「我」と「部」は切り離しても大したことでは
ないといっているようでもあります。「長曾」の間はどうでしょうか。ここの「ちようかの森」は
“長の下に森”の意味で “長森 曾我 め” となると切り離せて「曽我」「蘇我」が出てくること
になります。訳本(教育社)では「ちようかの森」は、「長我の森」とされておりますが、かつら濱や
浦戸のような固有名詞に長我があるのかどうか、ということがあり、また「長曾我部」の
「長」+「我」ならば上のルビから「ちやうがの森」となりそうで、現在式の「ちようが」としたのは
さきほどの「高北(コウキタ)」と同じで漢字を生かすというものがあるのではないかと思います。
この一節は南蛮国の船が土佐沖に難破したときの話ですが、異国船を「黒船」といっています。
幕末の黒船も〈甫庵太閤記〉が流布していますから、それで付けられたのでしょう。この黒船の
問題を処理すべく中央から派遣されたのが「増田右衛門尉」で、荷物目録を作る必要があります
が
「(積み入れ時の積み日記を出してきたので)増田その旨に任せ止む。(積み日記の外、
水夫が私物に積んだ物が多いという者があったが)長盛聞きて、いらざることをさし出で申す
と白眼せしかば、おだやかなり。」〈甫庵太閤記〉
5〜60日も掛かるので、積み日記を信用することにした、水夫の私物はリストを作成しないこと
にした、ということで、秀吉が積荷に対してどういう処置をいいだすかわからない段階でもあり、
長盛は自分の裁量で、水夫の不安を解消したといえそうです。つまりここは太田和泉守の登場
場面です。船と増田長盛に限ると
「・・大船・・・小船・・・舟・・・船損・・・黒船・・・・番船・・・・増田右衛門尉・・・・右衛門尉・・・船
著船・・・・舟・・・・船中・・・増田・・・・長盛・・・・黒船・・・・小船・・・・先船・・・船・・・・長盛・・・
・・・船奉行・・・・廻船・・・増田・・・増田・・・黒船・・・船大工・・・黒船・・・長盛・・・増田・・・」
〈甫庵太閤記〉
となっており「増田」と「長盛」の錯綜は二人の臨場が想像されるところです。
増田右衛門は増田仁右衛門が類書にあり、これは藤堂仁右衛門、野々村仁清などの仁でもあり
、太田和泉守が増田右衛門尉長盛と見てもよい場面があるということのヒントでもあります。ここは
大船臨検奉行がいわゆる「増田長盛」で太田和泉守がなんらかの関係で付いてきて、二人の
やり取りも入っているところでしょう。長盛が増田に目配せをして私物をリスト外にしたというような
感じで二人の役者がいそうです。とにかく現場での臨機の処置は海千山千の太田和泉守のもので
しょう。ほかにもここは言いたいところがありそうで積荷に「生きたる 猿十五」が書かれています。
猿には特別言及がありあと、
「猿の輔車(つらがまち)黒く尾長く鼠の尾に似たり」〈甫庵太閤記〉
があります。猿は、信長と会話した美濃の山中の猿があり、「猿面冠じゃ」というのも太田和泉守
で
太田和泉ー黒ー船ー右衛門ー猿ー長尾ー鼠ー「長盛」
となり、「長盛」は「長森」で「ちようかの森」が長曾我部に
続いたのは
小野ーー織部ーー曽我ーー森
の線が繋がっていると思われます。
ここの「鼠」は太田の黒、和泉の次郎・吉によって鼠小僧次郎吉にも使われたと思いますが、
生ー猿ー黒ー尾と連関した鼠は芭蕉の
「生きながらひとつに氷る海鼠(なまこ)かな」
に結実したと考えられます。解説では
「生きたままで、かなり数多く入れてあるのだが、尾も頭も見分けがつかず、みな一つ
にかたまって氷りついてしまっている。」
の意味となっていますが「尾」とか「頭」とかは見分けが付かずは、どこから出てきたのかわかり
ません。これは去来の
「尾頭(おがしら)の心もとなき海鼠かな」(猿蓑)
で尾も頭も見分けが付かないというのが出たようです。去来は〈二書〉の
「森三左衛門」「織田九郎」「尾藤又八」「尾藤源内」
の「森が郎等」を想起したといえるでしょう。ここの「氷」は「郡」「小折」「桑折」にいくことは確実
で「古織」もでてきます。「氷」が
「水取や氷の僧の沓の音」
の「僧」にもいきますが「氷の僧」は
「水とり(鳥)やこもりの僧の沓の音」〈芭蕉翁絵詞伝〉
となると「小森」にもなりかねません。「氷の僧」は「籠りの僧」の間違いとされるのも有力ですが
それだと「KOORI」=「KOMORI」ですから「小織」=「小森」でもっと簡単に「織」から「森」が
出てきます。「籠もりの僧」は「小森の僧」→「森の小僧」にもなりますが、〈信長公記〉の相撲の
「はし小僧」がよくわからないのでいろいろ出てくる、ねずみ小僧もその一つと思います。小僧は、
「門前の小僧習わぬ経を読む」
という「小僧」が有名です。こういうことはあるはずだと思ってネットで「文選の小僧」で検索します
とやはり「文選(門前)の小僧」というものがありました。「文選」というのは,南朝梁の時代に編まれた
周時代からの文章、詩賦を集めた、奈良平安時代に日本でも愛読され大きな影響を与えたもの
ですが、これは約束に従ってシッカリ読めばお経も読めるようになる、表記の読みの必要などを
いうものと解釈できます。表記の話でしょう。音は同じでも「文選」「門前」により、「文選」の優れ
ていることと、繰り返して学習することとがよいというような別の意味のことが語られてきます。
「黒田三左衛門可成」を常山が出してきましたから「黒」と「森」とは連関した読みとなるのでしょう。
「黒田杉左衛門」「黒田半平」芭蕉に、前書きが「黒森(くろもり)」の句があり、
「黒森をなにといふとも今朝の雪」〈五十四郡〉
というものです。解説では
「黒森の地名は各地にあるが、これは奥州の黒森のはずなので、羽前西田川郡、赤川
によった丘にあるそれであろう」
とされています。奥の細道の紀行前には奥州に行っていないので、一連の奥州の表記の語り
が入ったというべきものでしょうから、この「赤川」(赤河=赤江=赤枝)は小豆坂の「赤川」が
出されたといえます。五十四郡からは、次の句があり、「鹿」の三発があります。
「男鹿島(をがのしま)
ひれふりてめじかもよるや 男鹿島(をがのしま)」〈五十四郡〉
これで先ほどの「鹿」が出されている、鹿と黒森がセットされたといえますが、既述の
「根来・雑賀・湯川・紀の国奥郡・・・遠里小野・住吉・天王寺」〈信長公記〉
の奥郡と遠里小野の解説があると思います。この句を全部「ひら」くと
おがのしま ひれふりてめじかもよるやおがのしま
となり二つの「鹿」は隠れ、「鹿」は一つで、かわりに「小ヶ野」「小が野」とかの「小野」が二つ
出てきたりします。全部漢字にすると「領布振り」が出てきて古代の伝説を踏んでいることも
わかってきます。「今朝の雪」からは
「今朝の雪根深(ねぶか=ねぎ)を園(その)の枝折(しをり)かな」〈坂東太郎〉
で、この「枝折」は福井での「等窮」「藤斎」の「枝折」となり、那須黒羽では「翠桃何某」」が
住みけるを尋ねて、という前書きで
「秣(まぐさ)負ふ人を枝折の夏野かな」(陸奥ちどり)
があり、翠桃という人物は「鹿子畑高明の二男、岡忠治豊明(陣代家老浄法寺図書高勝の弟)」
と解説があります。「鹿」「岡」「浄」が出てきて「陸奥」があり「鹿」と「高森」と繋がりが意識されて
きそうです。奥の細道の桃翠はこの翠桃の間違いというからインパクトの大きい枝折です。
「枝」には別の補強も芭蕉にあります。芭蕉に
「奈良に出づる道のほど
春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)」(野ざらし紀行)
が句があり、解説によれば、この「奈良」は「南良(なら)ごえ」(芭蕉庵小文庫)という前書もある
奈良です。「なら」は余りに当て字が多く「那良」あり、「なら」とは読めない「寧楽」ありで、一か所
だけにあるとはいえなさそです。「薄霞」は「朝がすみ」(宇陀法師)もあるとのことで「薄」にした
とか「かすみ」と「ひら」いた意味もあり「春」が「春日井」の春、山は「那良の山口」の山かも
しれません。
(39)竹内一枝軒
こういう背景があり、これをバックに同時期の
「葛城の郡竹内に住む人あり。・・・・・
初春(しよしゅん)先づ酒に梅売るにほひかな」
があり、「竹内」が出てきます。葛城は橘が意識されているでしょうが、竹内は
「葛下(かつげ)の郡(こほり)竹の内と云ふ処」(野ざらし紀行)
で「下」と「郡」が結びつくと竹は「武」にも替わりそうです。また、この場所は
「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」(野ざらし紀行)
とも詠まれた場所で、「奥」付きとなっていて(紀行異本)によれば「薮より奥に家あり」と前書きがあり、
あり、奥に家が出てくるようです。竹の内の里の長「油屋喜衛門」も出てきます。この句は「酒」
と「梅」で初春の匂を出していますが、「酒に梅売る」は「梅に酒売る」の倒装法ととるのが穏やかであろ
うとされています。例として「髭風を吹いて」は「風髭を吹いて」の倒装法での表現というのが挙げ
られていますが、一般には芭蕉にそんなことが往々にしてあることは知られていません。酒・梅
の迷いがあると取ると「酒・梅にウエイトが置かれているということになるのでしょう。とにかくここは
「傍ら造酒を業としていたものであろうか。」とされているのが、前の「庵」「法師」「春」「霞」に照らして
重要かと思います。「造酒」に引っ掛かるところです。ここで「竹内」を受けた次の人物が出てきて
多くを語ります。
「竹内一枝軒(たけのうちいつしけん)にて
世に匂へ梅花一枝のみそさざい」(住吉物語)
」
句意は「良医玄随は一枝軒のその名にふさわしく、一枝に巣くうみそさざいのごとく、分に安ん
じて世を過ごしている。・・・・まさに彼の巣くう一枝たるや、いま春にさきがけて香りそめたこの梅花の
一枝というべきである。・・・・・・世に広く影響感化を及ぼしてほしいものだ。」の意とされています。
これは句集の(住吉)が背景にあるのが重要かもしれません。「一枝軒」というのは
「奈良県北葛城郡当麻村竹内の医明石玄随の軒号。」
であり、この句は
「良医玄随の高邁な人格をたたえ、もって挨拶としたものである。」
の説明があり、「世に匂へ」というのは大変な賛辞といえます。これは「荘子」の逍遥遊篇の一節
を踏まえています。荘子の使用した語句は
「みそさざい(小さい鳥)・巣・深林・一枝・エン鼠(えんそ=もぐら)・河・満腹」
ですが、芭蕉は「巣」を落とし「梅花」を追加し、「一枝」を生かし、みそさざいと合わせて春の匂いを
出しました。句意にみるごとく「巣」という字がこの句にはないのに巣が解釈に重きをなしていました。
これが荘子にあったからわかるはずだというのもありますが、落として梅を入れるという芭蕉の意思が
あることが重要です。同時期の作品で
「旅烏古巣は梅になりにけり」(鳥の道)
があります。
解説には「此の句は翁いつのころの行脚にか、伊賀の国にて年の始めにいへる句なり。」
「伊賀にてある方に」「この句にて伊賀俳影方にて歌仙あり。」という「伊賀」強調の引用文が
載せられています。句は、「巣」を除いて「梅」を入れるといっており「巣」を無視されては困る、
といっているのはあきらかです。つまり
「伊賀伊賀守」の北方の「本巣」の「巣」
を打出したかったといえます。これが「一枝」「一条」→「森」となり、さらに梅は、「梅庵」=大村
由己が入れられて、
巣ーーーーー梅ーーーー一枝
安東伊賀 大村由己 森
といえます。この玄随という人物は、等窮の師と同じ松永貞徳の門人なので、芭蕉とは気心が
合っていたといえると思います。住むところも名前も選択しかねないというのもありそうです。
(40)中将姫、野見宿禰
「当麻村」からは自然と「当麻寺」に想念が及びます。ネット記事「当麻寺(kotonara)」によれば
○当麻寺は二上山の東の麓にある
○当麻寺の南を走っているのが竹内街道である
○聖徳太子の弟、麻呂子王の創建で、河内から当麻にもってきた、麻呂子山がある
○中将姫(奈良時代)の伝説で有名である
○野見宿禰の相撲伝説がある
ことなど語られています。二上山は大津の皇子の属性と言ってもよいところです。聖徳太子の
弟というのは、戦国の、関可平次・関与平次のように兄たり難く弟たり難い暈された関係もある
ので、何ともいえませんが「麻呂」の付いた人物が聖徳太子の身内であるといってそうです。
中将姫は中条姫と呼ばれた例はないようですが、ネットでは「中条姫」「中條姫」でも出てくるので
文献もないとはいえないともいえそうです。戦国の世を語る場合は利用する人物が出てきそうで、
太田牛一も
「中将殿」(信長公記)
という表記を創っています。〈信長公記〉の「ちゅうじょう」には
「中条将監」「中条小一郎」「中条又兵衛」
があり、芭蕉等の作る人名索引では、
中将
中条
と並びますから、すぐ利用を思いつきそうです。テキスト人名索引ではこうはなっておらず、中条
は「な」行にあります。おそらく
「中条」を「なかじょう」
と「湯葉(ゆとう)」読みして索引が作られているのでしょう。これで、この二つは関連付けて読ま
れにくくなっています。太田牛一は「中条将監」に
「ちゆうでうしやうげん」
とルビを付し、「中条」の登場は9回ほどあるうち、ルビはこの一件しかありませんから、
「ち」行
に当然入るべきものです。この中将姫は現岐阜市大洞にたどり着きネット「ギフ観光コンベン
ション協会」の案内にありますように「
願成寺の誓願桜」の伝説を生んでいます。これは太田
牛一の故地が出て来ているものです。再掲、清洲へ「柴田権六」出勢の場面
▲「太田又助・木村源五・・乞食村・・・誓願寺・・・町口大堀の内・・・・河尻左馬丞・織田三位・
原殿・雑賀殿・・・・・・河尻左馬丞・織田三位・雑賀修理・原殿・八板・高北・古沢七郎左衛門・・・・」
〈信長公記〉
この誓願寺について脚注では「成願寺。今の名古屋市北区成願寺町(じょうがんじちょうにあたる。
太田又助はここで成長し、壮年で還俗。」となっています。「洞」は、「堂洞」の「洞」で、ここに
「太田又助」が登場し信長とヤリトリがありました。二人は往々にして芝居をしますが、ここもそれ
でしょう。
▼「堂洞取手・・・・天主構へ取入り・・・二の丸の入口おもてに高き家の上・・・太田又助只一人
あがり、黙矢もなく射付け候を信長御覧じ、きさじに見事を仕候と、三度まで御使いに預かり・・」
〈信長公記〉
この「洞」と「太田」と▲の文の「成願寺」が結びつけられたといえます。「桜」は遠山桜が江戸に咲くの
ようなもので、奈良から岐阜へ飛ばしたものでしょう。桜と梅はセットで、芭蕉の梅の一枝が桜の
一枝にも変化させられたともいえます。
柴田権六はあのいわゆる柴田勝家が清洲へ出てきたという事実もありますが、
「柴田三左衛門」「柴田伊賀守」「柴田日向守(脚注では原本信長記では「修理亮」)」
も〈信長公記〉にある表記であり、かつ「権六」は相撲の「正権」の「権」、助六の「六」、「柴田」も
「斎田」になりうる、「柴田」と「明智」は姻戚であることなどからも「太田和泉」の登場でもあります。
そうなったときこの柴田権六のあしがる衆の「太田又助」は「太田又助A」もありうることに
なります。このことは「太田又助」「太田又介」の二通りが〈信長公記〉もあり、また「太田又助」の
あとは狩野永徳とも見える「木村源五」も続いており、案の内に入っていそうなことです。▲の
文の「柴田権六」の登場は、▼の文の「太田又助」の巾を広げ、
弓の名人太田又助@、と二つ玉を打ち出す射撃の名手太田又助A
が、出てきてこの子息のAは桶狭間の決定的瞬間の射撃や信長公暗殺の射撃につながるもの
になったといえます。
ここの「天主構」は脚注では「城の本丸の上に築いた物見櫓。」となっていますが安土城の
「天主」と「太田」「二つ」の関連を云っていないか、疑問の出るところです。「であるか」「是非に
及ばず」と余り喋らない織田信長が、太田又助の技をみて
「きさじに見事を仕候。」
といって三度も使いをくれたので、一度ごとに内容が違い、三通あるのかもしれません。桶狭間
で「はざまてくみ」があり、これは「はざまくみて」と変えて読むのだろうというのがありましたが、
▲の文の「河尻」が、あとでこういうややこしい読み方をせねばならないところへ導きますので、
ここもそういうものが出されるののではないかと思います。つまり
「きさじ」
の解釈をどうするのか、という問題です。替えて読むというのは「きさじ」「じさき」「さじき」など
6通りをやってみるということになりそうです。要は▼の文は他のことを語るための手段として
作られた真面目でない、うそっぽい話という前提で訳を考えればよいということになるのでしょう。
@「きさじ」とする→「気散じを見事に仕候。」
A「じさき」とする→「自讃記を見事に仕候」
B「さじき」とする→「桟敷を見事に仕候」
くらいのことになります。Aはコジツケの感があり、@の見事なのでスカッとした、ということともう
一件のBの桟敷は、誰でも知っている言葉でもあり、本能寺の年の5月19日の次の日、安土城内
で「御桟敷」という語が出ているので、ここに入れられたことは考えられます。つまり
天主構えーー太田ーー能見物の桟敷(特別席)
が、いいたいことでもあったと思われます。これは「二の丸」「入口」「おもて」「高」「上」のところ
の文が(全体の文も)ゴツゴツしているので他のことをいったのかと思えるところです。解説では
舞台と桟敷(特別席)の間に御芝居(一般席)があるとありますが、こういう構造を取り入れた
太田和泉守といっていそうでもあります。桟敷は「さんじき」とも読めるので@の「きさんじ」を
通説的読みとすると、現に本人は自分を誉めているので、Aも可能で「じさんき」も出てきてしかる
べきかもしれません。「きさんじ」が可能となるとソロバンのような「算じ器」もありえます。気比神社
の計算の「けい」もあるから無視できないところです。そうじて@Bの読みにプラスして「さんじき」
の四文字から
「□□□□を見事に仕候。」
と隠し文字にしたかったと思われます。隠さねばならないのは織田の鉄砲だから、「散じ機(散弾機)」
鉄砲の太田和泉が出ていると思えるところです。わからないので何回も出しましたがここでこの
部分の筆者の結論としたいと思います。〈戦国〉の段階でこの弓は鉄砲のことだといっています
がそれを通そうとするものではなく、「黙矢」(あだや)が、弓の矢音と対比されている、発射音に意識
がある沈黙の黙であり黒船の黒が入っていますので、犬+黒が、この意味ではないかと思われます。
「誓願寺」のある記事の「町口大堀の内」というのも少しわかりにくい表現です。どこで区切っても
地名索引としては出ていません。「大町堀口の内」「大町口堀の内」「町口大堀の内」などあり、全国
の読者は「清洲」の地勢に鍵があると思っても調べに行くことは出来ません。そのため、他の清洲
の記事のところを見るしかないのですが、それは、地名索引として反映されているはずです。とり
あえず、そこでは「清洲町通」「清洲口」というのが出ていますので「清洲」には「町」「通」「口」が
使われているのが判るので「清洲町口大堀通りの内」へ追いやられたくらいでよさそうだ、ということ
になりそうです。わからなくしてここと他の「清洲」の記事が繋がっていることを告げようとしているのは
ありますが、こうすることによって太田牛一は「町」のもう一つの側面を出そうとしたといえます。
〈前著〉でも触れていますが「町」は面積があり長さもある、「小野小町」の「野」に似ているという
ものがあります。
小野
小町
で「野町」が出てきます。こんな言葉はないのですが気が付いたところでは小林一茶に
「夕立のすんでにぎはふ野町(のまち)哉」(文政句帖)
があり現代の辞書にも載っていませんが小野小町にからむ造語があったと思われます。
それはここでも、いろいろやってみる過程で、「大堀」=「小堀」、「大町」→「小町」というような
ものから「小野」が出てくることになります。「小堀」からも「こほり」=「郡」も出るでしょう。芭蕉に
「名月や海に向へば七小町」(初蝉)
があり、謡曲七小町の一つ「通(かよい)小町」が太田牛一の念頭にあり、それもここで出てきたと
いえます。また芭蕉には、ここの清洲の記事を踏んだと思われる、
●「実(げ)にや月 間口千金(まぐちせんきん)の通り町(ちやう)」(江戸通り町)
があります。これは「町」「通」「口」の三つが揃っており、「実にや」というのは謡曲常用の言葉の
ようです。「間口千金」は「蘇東坡(そとうば)の「春宵一刻価千金・・・」の「千金」を契機としていて
この詩句は謡曲「田村」に取り込まれているという解説があります。「田村」というのは「田村皇子」
でショ明天皇(皇后は宝皇女)が出てきたことになりますが、こうなるとこの目立たない「月」も
別の輝きを見せてきます。
「湊(みなと)
古き名の角鹿(つぬが)や恋し秋の月」(芭蕉・・・一夜十五句)
の「月」の色合いがでてきます。これは敦賀での作品ですが「角鹿」が敦賀の古名です。解説
には「鹿」が地名変遷の説明に関して、たくさん出てきますが、「古き名」というのがあるのに
「入鹿」のことは一言も出てきません。テキスト〈芭蕉全句〉では●の句のあとに二つの月の句
が続きます。
「木を伐りて本口(もとくち)見るやけふの月」(江戸通り町)
「今宵(こよひ)の月磨ぎ出せ人見出雲守」(六百番・・・・)
です。「本口」というのは「木の根もとの切り口」ということで「根」が隠れています。切り口が月の
ようだといっているそうです。次の「出雲守」も解説ではあの地名の出雲は出てきません。
●の句に「蘇東ハ」の「千」が織り込まれている、「蘇」が出て、「田村」も出ているのに「入鹿」
がでてきません。しかし●で小野小町という「小野氏」がだされているのでそちらの方で語り
継ごうというわけです。
年表見ますと
@622年、推古晩年 聖徳太子、斑鳩宮に没する。(49)
があります。この約20年後
A641年 ショ明天皇没(49)・・・(田村皇子即位629)
があり、(49)が同じで、この二人一見重なっていそうです。
17条憲法定とか、冠位制定、斑鳩寺創建とかの業績は全部@の前に出ており、ショ明天皇は
は余りそういうのがありません。小野妹子の遣隋使も@のまえ607年です。これは和風の名前
で、登場時期が早すぎます。目的はやはり小野妹子のクローズアップ、聖徳太子のような人と
の関係を考えなければならないというようなことを云うためにここに出したともいえそうです。ここに
入鹿を出してしまえば、小野小町を使ってのべるというようなことができなくなってしまうというのが
あるのでしょう。時空を飛ばして関係とか、活動、属性を付加するというようなことがあります。
ここにも「湊」が出ましたから「名取川」「手取川」は古代を踏まえて述べているということは、明らか
なりましたが、「人見」が出ましたので忘れていたことを思い出しました。「取」が出てきたらうろ覚え
があり結果的に「人取橋」だったから触れるのをやめましたが、調べる過程では「茂庭周防」で
検索すると「人取橋」がでるわけです。ここで老雄大奮闘して伊達の勝利に貢献して戦死しますがこの表記は
「茂」は「丸毛」の「茂」、「庭」は「丹羽」、「周防」は「長門」、「左月斎A」の「斎」号
はやはり太田和泉守を乗せてローカルを全国区にしたというのがあるでしょう。一方の「もりたか」
芦名氏もだそうとしていそうです。入鹿も和泉守も主役は時空を越えて予想外のところへ出てきま
す。古田も同じです。先ほど「古い名」と「鹿」がでましたが「鹿島紀行」という中の「古」「巣」も
もあります。
「隣庵の僧宗波旅におもむかれるを
古巣ただあはれなるべき隣かな」
「宗波」は「桑門宗波」と書かれています。「宗波は江戸本所原庭定林寺の住職といわれる。」
「鹿島紀行」の旅に曾良とともに随行した人です。寂照(知足斎)と接触がある人物ですが
「寂照」→青竜寺→坂井右近・森三左衛門もありそうです。宗波の「波」は曾良の名前「岩波庄
右衛門正字(まさたか)」の「波」、「前波播磨」「前波弥五郎」「前波新八」の「波」です。
「今朝の雪 根深(ねぶか=ねぎ)を園(その)の枝折(しおり)かな」(坂東太郎)
「枝折」は道しるべで句意は雪のなかから顔を出している葱を頼りに菜園を歩いているという
ところでしょうが、「枝折(しおり)」は「羽折」=「羽織」の例からみても、「枝織」で、これは
「森」の「織」
が出てきます。「古田」というのは一般的で、その気配がなさそうなので、ここを枝織としても古田
を見ているとは限らないということになりそうですが、「今朝の雪」から辿れば
「黒森(くろもり)
黒森をなにといふとも今朝の雪」(五十四郡)
がありますので「黒田森」が出ています。解説では「理屈にとどまる句である。」となっています。
「園」も庭園ではなくて菜園だという解説がありますが「さい」という読みが入れたいとなると
「柴折」もあるかもしれません。
「曾良何某は・・・柴折りくぶる助けとなり・・・・
君火を炊けよ物見せん雪まるげ」
「まるげ」は「丸ケ」もあり「丸毛」ですが、「炊」もでましたので新井白石の「折りたく柴の記」も
「柴折」「枝折」「木折(織)」「古織」「黒森」「小森」を意識したものでしよう。〈信長公記〉の三木の
陣での落城の場面で
「小森与三左衛門」
が出ます。羽柴与力別所孫左衛門は
「城内より小森与三左衛門と申す者を呼び出し・・・小森を使いにして懇望の歎を申送る。」
白石の解説ではこれはどうなっているのか分かりませんが、これは「青山与三」と
「森三左衛門」の合成とみれるでしょう。 古森、古折、古織の周辺人物が三木に登場したといえ
ますがこれは「使者」として登場しています。「小野妹子」は「大使」で、吉士雄成は小使です。
「森雄成(久三郎)」を出してきた〈武功夜話〉の著者はなかなかの人物かもしれません。この
「小森」は「古森」で古田織部となるのでしょう。城内にいて事態収拾を図っていたといえそうです。
〈甫庵信長記〉にはこの人物は出ておらず、太田牛一が三木城の特別な状況、人的関係など
を一発で説明できるよう布石したのが「小森与三左衛門」という役者だったといえそうです。
(41)能見宿禰伝説
安土城のことに関係することが順序としてかなり前の首巻のところに入れてあるというようなことが
度々あります。既述の竹内一枝軒のところで、当麻寺が出て「能見宿禰(のみのすくね)」の記事
がありました。
この人物は、垂仁天皇のとき、殉死の慣行をやめさせたことが〈日本書紀〉で出ています。
これが二上山と関係があるのは〈信長公記〉の「相撲」の「百済寺の鹿・小鹿」、入鹿ー大津皇子
という線から「蘇我入鹿」が出てくるからと思われます。入鹿の時代は順序からいえば
11代垂仁天皇ーーーーー27代継体天皇ーーーーー34・35代推古・舒明天皇
‖ ‖ ‖
(ノミ宿禰)登場 蘇我氏登場 馬子・聖徳・蝦夷・入鹿登場
において、「ノミ宿禰」はかなり前のことになってしまいますが、聖徳太子、入鹿を国記の編纂
者としますと馬子以前の人の話が、〈信長公記〉の首巻の部分を構成すると考えられますので
入鹿などの事績の述べ難い部分は首巻(前段)にまぶされていると思われます。太安万侶の工夫は
太田和泉には見えるのではないかと思います。「ノミ」のことは太田牛一が解説しているかもしれない
ということであれば、「のみ」という読みの表記が出ているはずです。〈信長公記〉人名注では
毛利元就・陶晴賢の厳島合戦でも知られる乃美氏があります。本文では「浦兵部」で出ており、
乃美改め浦として知られています。
「乃美宗勝 乃美氏は土肥氏の族、安芸(広島県)豊田郡乃美荘から興った。ここでは浦
氏(豊田郡浦郷)と混同している。浦兵部 212」
となっています。212の浦兵部は本文では、毛利の海軍大将として大坂表へ攻めてきている
一人ですから、浦氏の(豊田郡浦郷)は尾張の地ではないはずですが、土肥氏の族というのは
尾張色があり(小瀬甫庵は土肥氏、前野長兵衛が戦死したのは梅が坪で今の豊田市)すでに
説明的なものになっている資料から取られた感じです。つまり
「豊」「浦」=「ノミ(のみ)」(乃美)(能見)
で、「豊浦」は蘇我蝦夷の号ですから蝦夷が、ノミに宛てられるといっています。慈円は
「蘇我蝦夷臣{同年任大臣。号豊浦。}」
「舒明・・・田村・・・田村王・・・・このとよら(豊浦)の大臣・・・大臣の子入鹿国の政をして、
威勝於父大臣・・・・・・皇極・・・・大臣蘇我蝦夷臣・・・・聖徳太子子息。入鹿・・・・・
。豊浦大臣の子息蘇我入鹿・・・。」
のようなことを書いています。二上山の当麻寺にノミ宿禰伝説があるのは、蘇我蝦夷・入鹿父子
が大津皇子と関係するということを後世の戦国時代では説明をしたといえます。テキスト
〈日本書紀〉ニュートンプレスでは訳本ではありますが能見宿禰は
「能見宿禰(のみのすくね)」「ノミノスクネ」「ノミ宿禰(すくね)」
の三つの表記が使われています。内一つ、当麻寺伝説から、また豊浦=乃美から、時空を
越えて利用して入鹿と重ねるもよいはずで、〈前著〉からの課題、殉死をやめさせて埴輪を用
い出したのは入鹿とその天皇の時代といえそうです。ノミ宿禰は
「土部職」の「土部臣(はじべのおみ)」、
であり、当麻邑の「腰折田(こしおれだ)」の起原がノミノスクネの相手のタイマノケハヤで
「折り」「織り」「部」
がここに出てきた、「土物(はに)」は織部を思わせ、芭蕉が竹内一枝軒で詠んだ
「世に匂え梅花一枝のみそさざい」(住吉物語)の句とテキストの解説は
「森」「織部」「柿」「鹿」「蝦」などを結んだもので、「巣」が
これに絡んだという大変なものです。〈住吉物語〉の句集にあることも重要です。
「遠里小野・住吉・天王寺」〈信長公記〉
の「小野」が「柿」や「鹿」に関係することがわかってきます。もちろん「住吉」は人麻呂が歌に詠んで
でいるところで属性のようなものです。芭蕉の
「里古(ふ)りて柿の木持たぬ家もなし」〈句集〉
は「古」と「柿」のドッキングですが解説では「古里というにふさわしい特色が出ている。」となって
います。「古里」にしたかったのは「古里」→「小里」となり、「遠里小野」の「遠里(おり)」が遠山の
「小里」の城の語りに利用されることも含まれていそうです。「住吉・天王寺」が「佐久間信盛」の
属性なので、そこで佐久間が出てくるということになったりします。この句の評に「かるみ」が出て
きます。
「爰元(ここもと)・・・いまだかるみに移りかね・・・迷惑・・」〈去来宛て書簡〉
これは両書にある、「かるみ」「軽海」の戦いの「かるみ」でこれは美濃本巣郡にあります。
安藤大将ー古田ー小野ー柿本ー黒田
のような関連が芭蕉の触れたかったことといえます。この「かるみ」の戦いでは「西美濃」とか
「佐久間右衛門」「柴田権六」「池田勝三郎」などのほかに「真木村牛介」、「山口海老丞」のような
物語的な人物も出tきます。中七のところ「柿もたぬ」という誤記(句集草稿)もされており、これでは
五七五にならないが「木」を入れるのに決まっているということでしょうか。
森=木+林=木村=ぼく村=牧村=真木村
となるので木が不可欠でもありますが、「木」は「柿の木」とすると「柿本」が出てくるので不可欠
ともいえそうです。木と本は似ているということでよいのでしょう。なおこの句に関わっている人は
伊賀上野の人なのでその面からも安藤伊賀がでてきます。・・・
問題はここの「山口海老丞」で「山口」は既述、古田織部の里ののところで出てきました。ここの
「海老」は〈信長公記〉の首巻で「・・・・野村・海老半兵衛・・・」が出ていますので重要な表記で
あることがわかります。「えび」という読み方になるのは広く知られていますので
●「森のゑびなと云ふ者」〈信長公記〉
が出てくるとこの海老ではないかというのが出てくることです。これは人名索引の「森」のところ
には出ていないので森との相関を掴みにくくしているのは否定できません。「え」行に
「海老名(機械で打つと「蝦名」も出てくる)勝正」
がありこの人物のこととされています。海老名勝正は
「源八郎〈細川家記〉。なお松井家譜には実名は記していないが、この〈細川家記〉の記事は
信用してもよいであろう。えびな229 」
とありますので、これは「森の海老名」と呼ばれている人物といってそうです。●と同じページに
「城主(しろぬし)森・ゑびな初めとして・・・」
というのがあり●の「森」をややこしくしているわけですがこの切り離された「森」について人名注では
「勘解由左衛門秀光(〈細川家記〉)。〈松井家譜〉では、実名を記していないが信用してよいで
あろう。森229」
とあり似たような文言となっています。「勝正」「秀光」は「正勝」「光秀」になる、木村又蔵正勝、
と、木村又蔵正勝@=光秀が出てくる、佐久間も「正勝」がありましたから、佐久間A、佐久間@
が出てきたということでよいのでしょう。つまり「森のゑびな」は森氏に入れなければならない、
人名索引も「森蘭丸」「森坊丸」「森ゑびな」「森力丸」でよいことになりそうです。なぜこういう
特別扱いをしたか、ということになると今日では考え難い性の過剰意識にあったというしかないよう
です。ということは「源八郎」の「八」があり、〈信長公記〉の首巻の「海老半兵衛」の「半」(「半」は「範」
もある)にヒントがあるということになりそうです。こういう字は、両性具有的な意味合いををもつ
字であり、一応連れ合いのことも考えてみてもよい、二人の共同作業が入っているという構えで
文献を読むことにすればよいという
ことになるのでしょう・「遠藤喜右衛門」の「喜」も、伊賀範俊の「範」、善住坊の「善」、ひょとして
「勘解由」がここにあるので「勘」も両性がありうるということもでてきそうです。
(42)「善」−「光住」−「久住」−「由光」
「善」もこうみると
最も比定のむつかしい表記の人物
「矢部善七郎」〈両書〉
が判ってくるのかもしれません。登場回数が多いので(〈信長公記〉16回)重要人物ですが、人物
羅列のなかにあり、挿話がないので、注目されず信長の能吏の一人ということで納まってしまって
います。テキスト人名注では
「矢部家定 実名家定(山城金蔵寺文書)また光佳(妙心寺文書)。はじめ光
住(妙心寺文書)
のち康信、さらに家定(金蔵寺文書、山城)。信長の近臣。のち秀吉にも仕えた。その養子は
若狭の本郷信富の子定政。」
となっています。人名索引では「矢野」「藪下(ヤブノシタ)」の次ぎにあり「矢野」は
「丹後竹野郡吉永城主」
で「よし」という読みでは「吉」が出てきて、「ヤブノシタ」は「矢部ノ下」となりそうです。
○「光佳」は「光吉」であり「光由」になる。辞書では「光参」を「さんこ」と読む例があり、それ
からいえば「光由」は「ゆうこ」である。辞書には難読例として「参木」は「みき」がある。
○「光佳」の「佳」は「可隆」の「可」でもある
○「光住」は先ほどの秀光の「光」+善住房の「住」である。「康信」は三善康信が有名で
太田康連(信道)と「善」に着目されたのかもしれない。。
○「光吉」→「光住」で「住吉」の「住」でもある。
○「矢部」の下に「森乱」がでる記事がある。
○「藪下」は相撲で「麻生三五」「円浄寺源七」など「後藤」「木村」など森一族と出てくる。
この人名注の記事だけから押してみると、やはり「大村由己」が出てきます。再掲
「根来・雑賀・湯川〈ゆがわ〉・紀伊国奥郡・・・遠里小野・住吉・天王寺・・」〈信長公記〉
の「湯川」の「湯」からは灰屋紹由の「由」、「由己」の「由」も出そうです。本文で二人での登場は
「矢部善七郎・森乱、両人御使にて・・・・」〈信長公記〉
「青竜寺へ・・・矢部善七郎、猪子兵介両人・・・」〈甫庵信長記〉
があり、上段で森乱丸の姉というものが、下段で太田和泉の子というのが両方出ていることになり
「大村由己A」がふさわしくなってきます。奥郡は「古九」「小久」+「高山」「古田」ともいえますが
「大」「久」「古(己)も出てきそうです。まあ
「久住(隅)盛景」
という有名な画家は、この「光住」の「住」や「久」が効いてきて、木下長嘯子の連れ合いの大村
由己Aとも考えられます。「若狭の本郷」というのが、木下長嘯子の若狭というのもありそうです。
「久すみ」も二通りで「円浄寺」も「七」だから、善七郎につながりそうで古田織部にも重なりそうです
ネット記事に「通称半兵衛」と書いてあるのが散見され、第一義的には「大村由己A」が「久隅
守景@ではないかと考えられます。古田織部に画業がないとは考えにくく、再掲、森長可討死のくだり、
■「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八。」〈信長公記〉
の源内、又八の近接した関係があり(いはゆる兄弟)おそらく子息も「久隅守景」を語るかもしれないという時代
でもあり、古田織部にほかに絵の痕跡がなければ、また少ない場合は共用があるのかもしれま
せん。ここの「織田九郎」の「織田」が重要で、「久隅」の「隅」で
「織田大隅守」
の「隅」を想起させる場合もあります。
織田大隅守にも「麻生(ササウ)三五」の「3・5」と同じく「織田三郎五郎」という「三五」の入った
表記があり、「久隅」=「織田」「森」「八」関連というのを導き出せますが、この織田三郎五郎は
佐脇藤左衛門を呼び出し、山脇勘左衛門、宮脇又兵衛の脇から「麻生三五」「円浄寺源七」
「長曾我部」「池田勝三郎」などが出てくるという循環になっています。「池田勝三郎」がででくる
のが重要で、ここから別のことが出てきますが、それだけに「織田大隅守」は■の記事と関係が
あるのはあきらかです。「久住守景」などのことは芭蕉は述べているのか関心がありますが
逆に言えば森氏ということであれば、語れていると思います。「守景」に納涼図があり、「涼」が
属性と見ると「涼」を捉えることがむつかしい、たまたま目に付いたもので同時期のもの
「野水隠居所支度の折ふし
涼しさの指図に見ゆる住まひ(住居もある)かな(杉風宛て書簡)
涼しさを飛騨の工(たくみ)が指図かな(杉風宛書簡) 」
「 雪芝亭
涼しさや直ぐに野松の枝の形(なり)」(笈日記)
があります。「野水」は岡田氏で「岡飛騨守」「岡部又右衛門」があり「指図」「指図」の「図画」と
「住」、「枝折」がでてきて「居」「織」があります。「飛騨は「肥田」もあり「工」は「く」です。杉風が
曲者で「木」三本の「三木」がでてきます。「飛騨の工(たくみ」は解説では
「画工百済河成(くだらのかわなり)」
という人物と技を競った伝説の名工とされています。これは今昔物語にある話だそうです。つまり
あたりまえのことですが、百済は「くだら」と読む例を芭蕉は示したといえます。〈信長公記〉にこの
「百済」が出てきます。再掲、相撲取りの記事
「百済寺ノ鹿・百済寺の小鹿・・・・・河原寺ノ大進・はし小僧・・・・青地与左衛門」〈信長公記〉
の「百済寺ノ鹿」の読みはテキスト脚注では
「ひやくさいじ。滋賀県愛知郡愛東村百済寺(地名と寺院名)。
建勳神社本の訓(はくさいじ)。」
となっています。常識的な「くだら」という読みではないことを太田牛一は知っていたということの
ようですが筆者はこの「鹿」は「蘇我入鹿」の「鹿」だから「百済(くだら)」と読むとしておいて違う
読み読み方「はくさい」が合っていそうということで話を進めて来ているところです。
ここでわかりにくいのは「はし小僧」ですが「高麗はし」から「古市」が出て茶人、古田
もありうることをいっていますが、「はし」は中大兄皇子の時代に「間人(はしひと)皇后」もいる、
「端(はし)」(信長公記)もあるので、決めにくいことです。高麗は、古代朝鮮半島のことが、百済
寺だけではわかりにくいので、〈信長公記〉に反映させている暗示になっ
ていると思われます。「小僧」も芭蕉に「聖小僧(ひじりこぞう)」がありますので一応気になります。
「聖」は解説では野聖のことのようですが、芭蕉では
「旅行
初雪や聖小僧の笈の色」(勧進諜)
がありますが、「旅行を前書きとしたものには
「野水が旅行を送りて
見送りのうしろや寂し秋の風」(三つの顔)
があり、先ほどの岡田氏の野水がでてきますから、百済とか図画が出てくることになり、相撲の記事
の小僧と百済と聖徳太子の「聖」などが、三木の住、居、(杉風の)と関係があり相撲の記事を語る
ことは久隅守景を語るのにピントは外れていないことがわかります。「野水」のこの句の解説からは
「灰汁」が出てきます。これは灰屋紹由の由につながるものです。もう一つ「旅行」の前書きは
「旅行
煤掃(すすはき)は杉の木の間の嵐かな」〈己(ルビ=おの)が光〉
の句にあります。ここの「杉」は先ほどの「杉山杉風」の「杉」で「三」「木」を呼び起こします。中七
に「杉の一木の」というのもあるから「一木」「二木」「三木」感覚があるのと「木(き)」の「木(こ)」
という読みもあるということをいうものでもあります。つまり句集の「己」は「おの」と読むかもしれ
ないが「由己」の「こ」は、関係がないというわけにはいかないものがあります。筆者は「由己」
の入力は「ゆうこ」と打って「由子」が出て、「子」を消して、「おのれ」と入れます。
己=「おのれ」=「おの」=「ユウコの己」
この句集の名前は「己(おの)が光」ですが「句集」の名前だけで「己」を「おの」と読めるとは
いえないということになりそうです。つまり見逃されやすい、いっても聞かれないということが
起こります。この旅行の煤掃がもう一句あります。
「煤掃は己(ルビ=おの)が棚吊る大工(だいく)かな」(炭俵)
ここで、もう一回「己(おの)」を出してきました。これで句集のルビも使ってもよいというところ
まで広げてよいのでしょう。「大工」の「工」は「く」で「久住」の「久」が出ました。また大村由己の
「大」「己」も出ました。「由」は前の「煤掃すすはき」の句集名「光」に含まれています。「光」は
矢部善七郎の人名注で出ました。
「光佳(みつよし)」改め「光住」 「光佳」は「光由」
で「矢部善七郎」を参加させると「大村由己」はもう出てきました。
「森」=「木+林」=「木村」=「木(こ)村」=「小村」=「小(お)村」=「大村」(小谷は大谷)
と、「由光」「由おの」です。
「久住(隅)守景」の場合も「久」「住」はもう出てきました。「守」は「森」ですから「久住守」まで出ま
した。久住守景は「納涼」ですから「涼み」のある次の句も目に付きます。前書きには「納涼の折々・・」
の文言があり、句で「影」が出てきます。「破風」は屋根の切妻についている合掌形の板をいう
ようです。
「破風口(はふぐち)に日影や弱る夕涼み 」(三日月日記)
「守景」を意識した「影」でしょう。まあ唐門などに見られる「唐破風」もあり、次の句は対案のものです。
「唐破風や 日影かげろう夕涼み」
「影」「かげ」と「カゲ」がダブっています。「唐」は隋唐という場合の「唐」もありそうです。これは
相撲の、再掲〈信長公記〉
「百済寺ノ鹿・百済寺の鹿・たいとう・・・・河原寺の大進・はし小僧・・・・・青地与右衛門」
の人名羅列が久住守景=大村由己(進)を出そうとしたものということと関係がありそうです。遣唐使
のことです。守景の「カゲ」は「景」なのでそれも用意されています。これは「矢部善七郎」の「七」
の線からのものです。
「景清(かげきよ)も花見の座には七兵衛」(翁草)
景清は平家の武将で、強すぎるので「悪七兵衛」と呼ばれています。善悪対照の「七」によって
守(森)景の「かげ」が出ました。なお先ほど「旅行」に関連して「煤掃・・・・」の二句が出ましたが
両方の句の解説の中で「笈の小文」の
「旅寝して見しや浮世の煤払い」〈笈の小文〉
の句を参考にする対象として挙げられています。煤払いの浮世のいとなみということが、芭蕉自身
の「旅寝」の境遇と対比されているその感慨が芭蕉にあるということをいっておられます。久隅
守景は庶民生活を情景を捉えて描いた画家というくらいのことで理解していました。次の句などは
久隅守景の絵の画風を芭蕉が解説したような感じがします。芭蕉に占める久隅守景のウエイトは
大きいといえそうです。納涼の句
「 「飯あふぐ嚊(かか))が馳走や夕涼み」(笈日記)
「飯あふぐ」は炊き立てのご飯を女房があおいでさましているという情景のようです。「飯」とか
「かか」とかのことばを用いて庶民的な感じや親近感を出すことに成功している、と書かれています。
筆者はそれに加えて、久住守景の「景」の字のことを出してきたのではないかと思います。先ほど
悪七兵衛と善七郎の線から「景」を出しましたが「矢部善七郎」を先にいっているから結びついたと
いえます。矢部から語れない場合も出てきますから予備も要ります。景清は近松によって
出世景清でも有名です。出世の「世」と、煤払いの句の「浮世」の「世」をつないで「景」と「己が光」
を関連付けたと思われます。もちろん「旅」とか「涼み」とか「夕」がある句はかなりあり、気が付いた
ものだけでやっているのでもっと適切な句があるのに細い線を辿っている場合があるのかもしれま
せん。索引の項目の取り上げ方が大きな問題です。たとえば前書の字句などはたまたま見たという
偶然の産物で二度と出てこないものですから、確認だけに膨大な時間がとられ、そのうちやめてしま
うということもたびたびです。「かげ」と打つと「景」は出てこず「蔭」「影」などが出てきますが「鹿毛」
も出てきます。いま「入鹿」のことに気を向けられていますのでこれ「鹿」も纏めてみないと抜けた
感じになるので困る、鹿は句の始だけにあるとは限らないものです。一番前にあるのは
「旧友に奈良にて別る
鹿の角先ず一節の別れかな」(笈の小文)
があります。「鹿」と「角」に限定した場合でも
「奈良」「鹿」 : 「角」ー「澄」「炭」「隅」「住」・・・
で奈良の鹿を、「角」「澄」「住」と繋げているという感じがするものですが、同時期の作品で
「奈良にて故人に別る
二股にわかれ初(そ)めけり鹿の角」(韻塞いんふたぎ)
があり、これは偶々時系列でテキストが解説されているから前の句の次ぎに載っていたので
目に付いただけですが「別れ」「わかれ」で芭蕉が関連つけたというのは分ります。これは前書
の奈良でも関連が意識されているといえそうです。「鹿」と「住」などがやはり同居しています。
別れた「旧友」は伊賀上野の三人などですが、その内の一人が「梅軒」です。あとの句の友人は
故人となっていますから亡くなった人か古人で、旧友といった感じではないので、入鹿の鹿も
ありうるほどですが、二俣(股)は二又もありうる、美濃の墨俣もある、三木での見下げ墨(一筆
画くもある?)もあるから太田和泉も入るというのもありえるものです。この「故」はやはり故事
古人の「古」のようで、次の句の接近した角鹿にも見られます。
「湊
古き名の角鹿(つぬが)や恋し秋の月」(芭蕉翁月一夜十五句)
これは「越前」「敦賀」の古名の「角鹿」です。敦賀は
) 「笥飯(けひ)」「気比」「角鹿」「敦賀」
となったようですが、越前に「鹿」と「角」の両方が刻まれました。(一夜十五句)に
「越(こし)の中山
中山や越路も月はまた命」(一夜十五句)
がありますので「越」「継体天皇」がここで出されたといえます。これは500年の初めのことで
越の国はあぶり出しがあるかと思いますが、蘇我の伝承が越前などの越の国に残ったので
「鹿」の登場となったといえるのでしょう。西行の歌を踏まえているのは明らかですが、継体天皇
おほどの命(みこと)ともいうのでその命もあるのかもしれません。
「角」の面は朝倉、大谷の故地なので既述ですが、句集からも、大村由己、古田織部に繋がる
ものが出ます。
「浜
月のみか雨に相撲もなかりけり(一夜十五句)
〈奥細道管孤抄〉では「近江の国長浜にて此の時勧進相撲ありけるよし」としていますが、これは
「元禄二年八月十五日」で敦賀での作です。前の句集と同じというのと、浜と湊が対応しているという
のも書かれていることが重要です。曾良によれば「角鹿浜」ともいうようでそのため長浜を出して
きたようです。つまり「敦賀」で句作しながら、敦賀の一部をドラッグして近江に転写したといえる
ものですが、敦賀のことを近江で語るというのもあるわけです。あの「相撲」の記事が「鹿」と「住」
=「角」を含んでいる、古い時代と戦国のことをのべたのが
「百済寺ノ鹿・百済寺の小鹿・・・宮居眼左衛門・河原寺の大進・はし小僧・・・青山与左衛門。」
の記事だといってそうです。この相撲の記事について、相撲を強調するために、芭蕉はさらに人気
抜群の鎌倉の英雄、畠山重忠を出してきます。
「むかし聞け秩父殿(ちちぶどの)さえ相撲とり」(芭蕉庵小文庫)
解説では「発想の場が明らかでないため解釈の決定に困難を感ずる」と書かれています。しかし
先ほど出た「景清も花見の座には七兵衛」の句と似通った発想である、と書かれているのは少し
唐突でよくわからないところがありますが、強い武人と「相撲」「花見」という組み合わせの意外さ
にあるのかもしれません。これは門人の支考が〈俳諧古今抄〉で両句を「即興体」として掲げ
「一座の談笑にして・・・・・殿の字の慇懃を崩し」
たところに俳意の存したものという、というような論評をしたものがあるからです。一つは「守景」の
「景」を「相撲」「七」から出そうとしたのではないかということの証左と取りたいところです。これは
「俳諧曽我」にもあり、「翁草」には下五「すまひ取」とあるとも書かれています。「住い」であり
、「角」も意識されえいるといえます。重忠は「長居(ながい)」という「東八カ国」随一の大力の力士
を取りひしいで気絶させ、その肩の骨をくだいたことが古今著聞集にあるそうです。
二つ目は解説にも「庄司次郎と称した」とあり、「庄屋」の「庄」、「次郎」もあり、「殿の字」のことがあり、
芭蕉は、畠山重忠と太田和泉守を重ねてみていると支考はいったと思われます。また畠山重忠
は坂東武者の代表といってもよい存在で「武蔵国」が属性と言ってよくネット記事でも生まれも
領国も武蔵国と確認できます。「武蔵」というのは「鹿」とセットになるので重要です。
「武蔵野や一寸ほどな鹿の声」(俳諧当世男=はいかいいまようおとこ)
鬼武蔵森長可がいますから森・鹿というのは意識して出されたかもしれないわけです。織田の
「武蔵守」
は信長弟、勘十郎信行(信勝)が大物ですが、「勘十郎信行」を殺すべく山口飛騨守、長谷川橋介、
河尻青貝が討手を命ぜられ、池田勝三郎が仕留めるのですから今となってはおかしい話となりま
す。なぜ池田勝三郎に殺させたのか、「勘十郎」を使ったのは〈信長公記〉で語りの十郎に原因が
ありそうで、ここにも大きなる生還劇があるのかもしれません。それは別として〈吾妻鏡〉の人名注
によれば、「秩父」を名乗ったのは弟で
「重忠弟 秩父重清」
となっています。系図によれば畠山氏に秩父系があり、重忠はここに属しており曽祖父は秩父出羽
権守ですから、この句の秩父殿でよいわけですが、「重清」の「清」で「景清」の「清」と繋げたと
いうのはあると思われます。重清という弟は「長野三郎」とも呼ばれています。「長野」は「長井」
に変換できるから、〈古今著聞集〉の「長居」になった、肩の骨を折るという大接近は、極めて近しいと
いうものの表れというものでしょう。この「居」は「折り」「織り」であり、ひょっとして「宮居」の「居」
かもしれません。「宮」は「宮内庁」の「く」で、簡単に「久」「九」にかわります。これは「久住」の「久」、
織田九郎の「九」でもあります。「眼左衛門」の「眼」は〈信長公記〉では一つではないかと
思いますが「清洲」にあります。
「清洲・・・町・・・おり津・・・・正眼寺とて会下(ゑげ)寺あり・・・清洲の町人・・・・・正眼寺の藪
・・・町人共かずへ見申し候・・・。・
たん原野・・・・・町人・・・竹やり・・・・御後をくろめさせられ候・・・・あひしらひ給ふ。」〈信長公記〉
の正眼寺二つの「眼」です。脚注では正眼寺は
「もと下津にあった青松山正眼寺。」
となっていて「能登国総持寺末」「春日井郡三淵村に移」っています。「会下(ゑげ)寺」だから
「会下僧」がいます。相撲の宮居眼からこを見ればよい、といっているのかもしれません。「眼」だけ
でもつながりますが
「おり津・・・正眼寺・・・」
で「居」「眼」がでます。青松山だから森(守)の青山が出るし、あの誓願寺が出てきます。他に
○「おり」は「遠里小野」の「おり」かもしれない、
○「町」の字が多い、
○「藪」は相撲に蒲生内の「藪下(ヤブノシタ)」がいた、
○「かずへ」は脚注では「数へ」となっていて藪の数もあり「数」をいいたいのかもしれない、
○「たん原野」は脚注では「未詳」となっている。「たん野原」と変えたほうがわかりやすい
かもしれない。「たん」は「丹」であり、「丹羽」の「丹」と、朱色の「丹」を出した、
○「後をくろめ」は「黒田」の「黒」であり、「黒色」の「黒」を出した
○「あひしらひ」は「白井(江)」の白であり「白色」の「白」を出した
とかがありそうです。「・・・・」と省いたところも重要かもしれませんが、とりあえずここで「相撲」と
のつながり、後半は森と絵というのが出ているといえそうです。
(43)小野の句
〈芭蕉全句〉、畠山重忠の相撲の句に続いて前書きの長い次の七夕の句があります。あいにく
雨が降って二星が会えない場面です。
「・・・文月(七月)七日の夜、飛雲天に満ち・・・・二星・・・・小町が歌を吟ずる有り。・・・・・
小町が歌
高水(増水)に星も旅寝や岩の上」(真蹟懐紙)
これは前句と密接な関係があることは杉山杉風が示しているものですが、小町は清洲で町が
出てきていますから、太田牛一は、小野小町を背景にした語をしているととれそうです。清州で
登場の「太田又助」「雑賀」「誓願寺(音では正眼寺)」などが、彩やかな「小野」色に染まっている
小町の眼を通して「百済寺の鹿」が、見えた、それが〈信長公記〉の
、「遠里小野・住吉・天王寺」
の地名の流れに人名を乗せたと読めるものです。
小町ー小野ー住ー角ー鹿ー小野妹子
です。
芭蕉の小野の句が〈信長公記〉〉の読みの上での大きな謎を解き明かします。
「小野炭や手習ふ人の灰せせり」(向之岡)
ここで「小野」「炭」の組み合わせがあり「炭」は「住」「角」ですから、小野→角→鹿で「百済寺
鹿」まで行きつきます。小野妹子の小野は小野小町とか小野道風の前にある「小野」です。
〈古事記〉では五代目、考昭天皇のとき「・・・・小野の臣、柿本の臣・・・・」が引っ付いて出てい
ます。なお「灰」が染物材料「灰汁」の灰屋紹由の「由」から「由己」の由につながると思われます。
解説では、句意は
「手習いにいそしんでいる人がしきりに火箸で灰をもてあそんでいるが、火鉢の炭火が小野道風
の名にゆかりのある小野炭であってみれば、なかなか似つかわしい風景といえよう」
とあります。
「小野炭は山城国小野の里から産する炭。鞍馬炭とともに名高く、焼炭と称せられる。
小野炭は、小野小町や伊勢物語にこじつけられることが多いが、ここでは小野道風に
かけている。」
という説明があります。テキストではこじつけないがこじつけている人があるということをいって
おられると思いますが作意がこじつけられることを期待しているのであれば、そこもよまないと
芭蕉はわからないといってみえると思います。蘇我入鹿は「鞍作」ですから、鞍馬炭(小野炭)
にもつながります。結局解説にある次の文に集約されます。この句は
『「小野」と「手習ふ人」とに縁語的なつながりを感じたところが眼目になっているのであるが、
現代人にはすぐそれとはわからぬようなよみぶりとなっている。』
とされていますが「小野」と「手習う人」のつながりは現在人でもよくわからないはずで、「炭=墨」
が入って書道の手本というようにわかってきそうです。この二つの語句は縁語を辿ってわかるよう
になつているという暗示です。「手習い」について芭蕉の句は一つです。もちろん門人の句や
書簡も参照ということですがそれは今のところ不可能です。手習いの句
「朝な朝な手習ひ進むきりぎりす」(入(いり)日記)
があります。ここで「進」が出ました。小野小町とこじつけるとここで、
小野ー炭(住)−虫ー進が結びつきます。
その前の小町の歌も
「七夕」の「七」(矢部善七郎の七)と「織姫」「彦星」を出し、ここで「彦」をひき出てきて、
三木の「彦進」が出てきました。
三木も、句集「己〈おの〉が光」「小野が光」の「杉」から出ました。この光は「矢部善七郎」の
「光佳」「光住」→「光由」「住吉」から日本数学の草分け〈塵劫記〉という書を表わした
「吉田光由」
という名前が自然と浮かび上がってきました。「朝な朝な」の「朝」も
「朝露によごれて涼し瓜の泥」〈笈日記〉
があり、「瓜二つ」の「瓜」が出てこれはどこかに懸かるのでしょう。「涼」と並びで出されてい
ます。「瓜ー夏ー木陰」の涼しさもありますが、この朝の涼しさの、初案は「朝露や撫でて涼しき
瓜の土」です。「よごれー泥」、「撫でるー土」とは瓜形の物(土器)の製作途上と完成後という
感じがします。能見宿禰の「土部」の受けたというものもありそうです。相撲の
「ひしや」「ひし屋」(信長公記)
というのが今はわかっていないようですが、テキスト、人名索引では
「彦進」「彦進女房」「ひしや」「彦六息」「土川(ひじかわ)」「飛志越後」「土方」
の並びの中に位置しています。「彦」と「土」に「越」の香ありというところでしょう。
「ひこしん」 の 「ひこし」「ひしこ」→「ひし」
「ひこほし」 の 「ほし」→「火し」→ 「ひし」
「土」 の 「ひじ」→ 「ひし」
の「ひし屋」でしょうか。「越」は先ほどの人見出雲守の出雲と同じ意味でしょう。
この「ひしや」は〈信長公記〉で「ひし屋」も作られたのは「扇屋」「俵屋」の「屋」が念頭にあり
「涼」「彦」から展開される守景の社中
「土」「泥」から展開される織部の社中
もう一つの系の森の二兄弟の中心となったものがあったといいたいのかもしれません。結果いいたい
ことは〈信長公記〉相撲の人名羅列の
「ひしや」は古田織部
に宛てられる、ということです。
「河原」の「大進」の大村由己と二人を、太田和泉守は「尾藤又八」「尾藤源内」などを生滅させて
語ってきている、ここでも形を変えて出した、継子の方もよく述べています。たまたま皆傑出して
いて語りやすかったとはいえますが、それは関係なく家族のことは多く語られたはずです。
「小森与三左衛門」「尾藤源内」(これも古田織部)など正式らしい名前
を出すとあとその人物がどうなったかということが気になりますので結果を書かねばならないこと
になりますが「ひしや」「たいとう」「助五郎」「大進」「あら鹿」・・などだったら、いずれ相撲やめて
普通の生活に戻ったのだろうとかで、気にする人がいませんので名前出しっぱなしでよいわけで
回数案外多く語りにうまく利用されている感じです。その代わり表記が工夫されているから、
援用したいという時期がくるまで積み残しになってしまいます。
「ひし屋」の「ひし」は水草の「菱」に容易に転換されますので、それで宛てて読む人もあるでしょ
う。実用的には「菱」になっているから、ひらかな「ひし」の語句の影響がよくつかめませんが
江戸期の古い屋号に「ひし屋」というのがあれば〈信長公記〉のここを見て名前をつけたという人も
いたということで
しょう。「菱垣廻船」が「檜垣廻船」でもないのに「ひがきかいせん」というのが面白く、「ひ垣」
からは「ひし形」は出てこない、「ひし」形から「垣根」を連想したら、「ひし」「柿」はありうると
も思いますが、それはとにかく、〈辞書〉によれば「菱花」(りょうか)
というのは「鏡」という意味があるようです。芭蕉が創ったといわれる先ほどの「人見出雲守」は
「鏡師」です。鏡と出雲のセットといえます。芭蕉は先にでた「もりたか」に関連する「すか川」
=「須賀川」のクダリで
「かげ沼と云(いふ)所に行くに、今日は空曇りて物影うつらず。・・・景色・・・」〈奥の細道〉
とあるように「かげ沼」に行っています。ここは脚注では
「鏡沼。白河の関の北六里、鏡石村鏡田にある。」
と書かれています。「うつらず」という表現も鏡が出ており、「鏡」とすべきを「かげ」としたのは
明らかです。鏡師である人見出雲守の応援を依頼したのは、この「須賀川」のクダリは〈古事記〉
「速須佐の男の命」「ヤマタノオロチ」の出てくる
「須賀の地」(島根県大原郡大東町須賀)
の「須賀」をも見すえたものだということをいいやすくするためです。
「・・・草薙の大刀なり。・・・速須佐・・・・出雲・・・須賀の地・・・須々賀々斯・・・・須賀・・・
須賀の宮・・・や雲・・・出雲八重垣・・・八重垣・・・八重垣・・・・」〈古事記〉
の「須賀」です。「須賀」−「出雲(守)」ー「鏡」・・・・・・「須賀川」ー「鏡(沼)」ー「かげ」
で「かげ」は出雲色の「かげ」がでてきます。〈信長公記〉馬揃の条
「青地与右衛門・・・蘆毛・・・・御くら(脚注=鞍)かさね唐織物、同あをり(脚注=障泥)・・・
雲形・・・・小鹿毛鞍・・・あし毛・・・・遠江鹿毛・・・・ひしや・・・・たいとう・・・・」〈信長公記〉
があり、「鹿毛」が出てきます。鹿・鞍・唐・雲などで、また出雲、須佐の男(蘇)で
「蘇我入鹿」
がでてきます。つれて「森」「古田」「大村」「堀尾」「高山」なども出ていそうです。
かげ=鹿毛 といいたいわけですが、「かげ」は「守景」の「景」があり、古田織部が
「景安」
です。古田織部は「重然」「重勝」など「重」の名前が知られていますが「景安」が代表的です。
大村由己も「光」ですから、光→影で古田に重なるでしょう。ここの「遠江鹿毛」は脚注では
「遠江(静岡県)の鹿毛か。」とされていますが「遠=近」の操作で「近江鹿毛」になるのでしょう。
一方〈伊勢物語〉から追って行くと、「小野」の「炭」や「灰」は、〈信長公記〉へ行ってしまいます。
〈伊勢物語〉には (ネット記事isemonogatari.comによる)
「芥河」「武蔵鐙」「紀有常」「もろこし船」「住吉物語」「住吉行幸」」「小野」「彦星」
などの話があり、「芥川」は高槻ワールドに出てきてこれは既述です。「武蔵」は「鹿」と繋がり
ました。「紀」が特に重要で、〈曽我物語〉では柿本僧正と紀伊国のことが述べられ、ここの「小野」
の内容と同じことがでています。「紀皇女」「柿本人麻呂」の関係については前著で考察しています。
(44)遠里小野
要は〈信長公記〉の
★「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡二万ばかり罷立ち、遠里小野(ウリウノ)・住吉・天王寺の
陣取り候。」
の重要な一節の「住吉」とか「小野」とかのことがよくわかってよいわけですが独自のことが出て
きているというのがすぐわかるわけです。
「紀伊国」のルビは 「□き/□の/くに」
「遠里小野」のルビは「ウ□/リ□/ウ□/ノ□」
などとなっています。入鹿関連のためか、紀伊・大坂をつなぐ小野には過剰な意識が流れていそう
です。「遠里小野」というのは本当は「小野」だけの方がわかりやすいのですが、現に「遠里小野」
という場所が住吉と天王寺の間にあるからこれに拠ったといえます。しかし、「遠里」があるから
「小野」をぼかせる、「遠里」を利用できるという選択でもあったようです。「遠里小野」の登場は
三回あり、上の★の文の、カタカナのルビのものが最初です。これは「をりおの」ではなく
「ウリウノ」
という珍妙なルビが付いています。
あと二つは、次のもので合計三通りです。
「天王寺・住吉・遠里小野(をりおの)近辺陣取(ぢんどり)なり。」
「遠里小野信長御陣取。」
二回目のは、ひらかなで、「をりおの」というルビで、三つ目はルビなし、です。うしろの「ぢんとり」
も三通りあり「遠里」にも「小野」にも気が配られている、複数の意味を込めているといえそうです。
気が付いたところだけ見ていきますと、
まず「ウリウノ」で一つの意味がありそうです。「瓜」が先ほど出ましたから
「瓜生野」
がまず考えられます。「瓜生野」で検索すれば、福井県武生市に瓜生野が
がありました。テキスト脚注では、〈信長公記〉の「府中」は「武生市」となっていて、瓜生野町は
は武生駅や武生高校に近いところにありますから、太田和泉守は瓜生野を知っていたといえそう
です。また「府中」は「府」があるから国府があったところだろうから、織田軍はここを拠点にした
とみるのはあっていそうです。要は
府中(越前国府のあったところ)→武生
となったといえそうですが、「武生」の「生」が「瓜生野」の「生」を取込んだものかどうかがわかり
ません。武生市はもとからそういう地名があったから付けられた名前だろうから、ありうることですが
現在地名からみても近接していますから太田和泉守の故地が瓜生野とみてもよいのでしょう。
現在武生市は越前市になっていますから、市と瓜生野の間に武生を入れて説明しなければなら
なくなったりするので瓜が遠くなりそうで、太田和泉守とこの地は徐々に離れていく過程にありそう
です。
芭蕉の〈奥の細道〉北陸道に「瓜」が出てきますが「瓜」の出方がおかしいことになっています。
「ある草庵にいざなはれて
秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(なすび)
(ママ)
秋涼し手毎にむけや 瓜 茄子(奥の細道)」〈芭蕉全句=ちくま学芸文庫〉
となっており、「瓜」に(ママ)とルビを付けた人物がいます。こういうのは有名な句
「田一牧(ルビ=ママ)植えて立ち去る柳かな」
にもみられます。こういうのは
「印牧(かねまき)」〈信長公記〉 「印枚(いんまい)」〈甫庵信長記〉
という、おかしさを踏まえているのがあきらかなように作意の表出というのがあるものです。
瓜のこの句は「斎藤一泉」の「松玄庵(松幻
庵)(少幼菴)」での句ですが、一応「瓜」と「和泉」が繋がっている句です。このあと「途中吟」として
「あかあかと日はつれなく(難面)もあきの風」
がありますが、「途中吟」の吟は、本当は(芭蕉の書いている字は)
「口篇に金」
の「ぎん」です。「生野」に銀山があり、天王寺
の近くに「生野」があることなどが「瓜」に生野が働いている感じがあります。ネット記事によれば
「瓜生野」の周辺の地は太田和泉守の軍旅の地といってもよいところというのもわかります。
「まぼろしの北陸道」(tukukeiko12)では、「まぼろし」と呼ばれるこの道は
「元比田(敦賀市)〜瓜生野(武生市)〜「国府(武生市)」
へ到る古い道のことですが、経過地点の代表として、「瓜生野」が載っています。この道は
敦賀(敦賀市)から海沿いを歩き河野(南越前町)から山中に入り、杉津に下って、元比田から
再び山中に入り、
「山中峠(南越前町・敦賀市)・・・菅谷(南越前町)・・・・ホノケ山・・・菅谷峠(すげんたん)
・・・・瓜生野(武生市)・・・大塩(武生市)・・・・国府(武生市)に至った・・」
ということです。
〈信長公記〉の「吹津」「大塩」「山中」が出ていますが、この記事のそれ以外の地名の記事も重要です。
結果的に〈信長公記〉の表記に影響があったかもしれないものがまぶされていて、太田和泉守の
通った道といってもよい感じのところです。
「菅谷村」、「菅谷道」、「菅谷峠」、「菅谷集落」、「国府」、「阿曾」、「比田」、「奥野々村」
「河野村」、「足谷山」・・・
の地名などに出会います。この「菅谷」は「菅屋(谷)九右衛門」がいるだけに無視できません。「阿曽」
は、あの「阿蘇」は頭にありそうです。「阿曾」となると、芭蕉に
「阿古久曾(あこくそ)の心は知らず梅の花」(赤冊子)
があるのを思い出します。「阿曾」は「古久」を合して紀貫之の幼名(あこくそ)になります。「梅」は
梅庵で、紀貫之は「紀」姓の人であり、曽我の「曾」、曾良の「曾」で芭蕉の句に、紀貫之を取り
込むことができます。
「阿」は安東から発した「安部、阿部加賀守」であり、「古」は古田織部の古ですが、
他の芭蕉の句(省略)の前書に出て
いる「古将監」というものの「古」でいえば、能楽の宝生八世重友の「古」であり、重友の高山につな
がり、「久」は那須の篠原での「庄屋高久角左衛門」を折り込んだ句「高久の宿」の「高」やら「角」
やら「炭」「住」にも繋がりますので、森や高山飛騨守にもいく「久」です。もちろん数字の「九」でも
あります。要は「阿古久曾」
梅、紀で 「森氏」を「蘇我」とつなげている、阿曽という地名は芭蕉は知っていたから、越前を
あこくその句にもちこんだものともいえます。越前のこのあたりは芭蕉の気にしているところで
例えば、これも句の前書にあるものですが「武府」という字句があります。
「五月十一日、武府を出でて故郷に赴く。川崎まで人々送りけるに
麦の穂をたよりにつかむ別れかな」(赤冊子草稿)
解説では「〔武府〕は武蔵(むさし)の国府の意で、江戸のこと。」とあります。前後の事情から「江戸」
には間違いないとは思いますが、これは細字の「武府」であり、中七「力につかむ」もありますから、
二つの句があるなかでの「武府」であろうとみてもよいのでしょう。越前の「武生」は「たけふ」と読
むので、はじめは越前のことかなと思ってみると江戸だったという経過も重要となります。
「麦の穂」の「麦」と「別れ」を頼りに掴もうとしますと
「別れ」からは、阿古久曾でも出てきた既述の「旧友に奈良にて分る 鹿の角先ず一節の別れ
」で「鹿」と「角」「菅谷角蔵」などで、北国に行き着く、「麦」からは「甲斐の山中にて」という前書きの
句にたどり着き「山中」が出てきます。蘇我と森は越前敦賀でドッキングする句もあります。
「守栄院
門に入れば蘇鉄(そてつ)に蘭(らん)のにほひかな」(笈日記)
「守」は「森」でしょう。
〈泊船集〉には、前書に「守栄院」となっていますが、中七「蘭に蘇鉄」とあるそうで、「杜撰か。」
と書かれています。「栄栄院」は伊勢市浦口町にあった浄土宗寺院で明治十三年廃寺となり、
名高い蘇鉄があったようです。伊勢にあったのに〈一葉集〉前書に「敦賀守栄院」とありますので
解説ではこれは誤りとされています。これは先ほどの武府を関東から越前に飛ばしたように伊勢
から敦賀に、蘇鉄と蘭を移したものといえます。
「敦賀」=蘇我氏の鹿、森氏の蘭
です。堀久太郎は越前北の庄です。のち越後10万石堀直寄は、常山では、堀久太郎秀政の
長臣堀監物直政の次男ですが、長臣は外戚というのかもしれません。大坂の陣の堀直寄、
『水野日向守勝成・・・大和口・・・堀丹後守直寄、松倉豊後守重政、大和口・・・勝成・・・松明
丹後守・・・日向守・・・・松明・・・日向守・・・・松明・・・消え・・・丹後守・・・火・・・消・・・・
後藤又兵衛・・・』〈常山奇談〉
「直寄」は「なおより」と読みますが「菅谷長頼」の「頼」をみてもよいのでしょう。「松倉重政」は
北国を想起させるものです。「松明」は「たいまつ」ですが「小松」の「松」と「赤」が出でていそうです。「水野」「ここ 「消え」が重要で「火」とか「炭」の消えるがあります。「大和」が二つ出ていますが「森」の先祖「森
大和守」を踏まえています。越の国ー大和ー丹後が後藤又兵衛と出てきたといえる一節です。
ここの敦賀の「比田」は明智の大将の「比田帯刀」の「比田」かもしれません。〈両書〉の
「肥田」は「飛騨」だけでもないようです。
「奥野々村」「河野」の「野」が、越前大野→小野という「野」と結びついて、もうひとつの小野が
出る芭蕉の次の句の「小野」は瓜と繋がるものということもいえそうです。この「小野」には越前
色が出ていそうです。小野小町、伊勢物語の「小野」もありますが、「奥」もつく小野があります。
先のネット記事にはこの菅谷近辺の消し炭の灰のことが出ています。芭蕉にもう一つの小野
「消炭に薪割る音か小野の奥」
があり、この「奥」は〈信長公記〉の奥郡にあたるもので「奥」「小久」「古久」「谷」や前田の「奥村」
にいく奥ですが、この越前の道は、同記事によれば「灰坂峠」があり、「消炭」から受ける「灰」の
記憶から「灰の道」という感じがあり、「塩の道」というネット記事では「瓜生野(大塩谷)」となって
おり〈信長公記〉の「府中」「大塩円強寺」の記事は、芭蕉には「瓜生野」(ウリウノ)が入っている
と見ていると思われます。解説では中七を、「真木わる音か」とした句があることが示されています。
つまり真木村牛介の「真木」、木村→大村も出てきているといえますが、木を割るというイメージ
を打ち出したといえます。そのためか斧も出てきます。解説ではさらに「薪」は「斧」で割るからでしょうか
、「小野に斧が掛けられてる。」とされています。出ていない「斧」というもので、関連を探ってもよい
ようです。ここで欲しいのは「瓜割り」という語句です。「真木」を割るは「木」を割る、「真」を割るのも
ある「真桑瓜」です。芭蕉はこの真木の「真」の方も受けています。
「我に似な二つに割れし真桑瓜」(初蝉)
解説には「うりをふたつにわりたるごとし」、「瓜二つ」という酷似するものについての例えということが
が書かれています。それが主体と思いますがここの「真」を割るというのもあるのかもしれません。
ネット記事によれば、福井県上中町(郡)若狭に
「瓜割りの滝」
があり、名水の森の中にあるそうですがこの森は固有名詞のようです。若狭は木下長嘯子の
居城があつて大村由己が訪れました。「瓜」には芭蕉文献に
「狛越(しろ)瓜」、「八条浅瓜・九条真桑・青瓜」
というものもあります。「高麗(こま)」「越」「八枝・九枝」「青」などを想起しているようというわけでは
ないでしょうが、瓜割の滝は、小野の真木割りを、越前のことと思わせようとしたものといえそうです。
とにかく小野は洛北の「鞍馬」、越前の「武府」あたりの「炭」を読み込んでいますが、もう一つ
小野小町から、「彦星」が出て、小野の道風の墨書の「手習い」から「進」が出てきました。再掲
「百済寺ノ鹿・百済寺の小鹿・・・・宮居眼左衛門・河原寺ノ大進・はし小僧・・・青地与右
衛門。」〈信長公記〉
の相撲取の羅列の中の
「河原寺ノ大進」
が何かについて、説明できないと〈信長公記〉が二重性を持っているという見方も、ここは例外だという
ということになってしまいます。テキスト脚注では「百済寺」は「ひゃくさいじ」と読まれており〈建勳
神社本〉の訓には「はくさいじ」となっている、とあります。太田牛一はここではルビを振っていませんの
で、読者の調査の結果の読みによるというのでしょう。地元の人の読みを知らなければ、筆者のように
「くだら」と読んでしまいます。太田牛一の意図を探ると、二年後百済寺が三回も出てきて
「是より百済寺(ルビ=はくさいじ)へ御出・・・鯰江の城に佐々木右衛門督・・・・佐久間右
衛門・・・近年鯰江の城百済寺・・・・百済寺当塔坊舎仏閣悉く灰燼となる。」〈信長公記〉
ここで「はくさいじ」のルビがありますから、あとの百済寺も「はくさいじ」と読むし、前の1回目のものも
「はくさいじ」と読み直すかもしれませんが「くだら」と読まされた読者はすぐには考えは変えない、
あとに尾を引いています。とにかくここで
百=白
と重ねたのだから「百マイナス一=九十九」を出したかったため「はくさいじ」としたかもしれないと
いうのが出てきます。つまりこれは本当は「白済寺」ではないか、ということになるとネット記事でも
わかるように由緒ある「白済寺」があり滋賀県ではバス停の名前もありそうです。同じようなことが
「河原寺」にもいえることでテキスト脚注では、近江「草津市川原町所在か。」とされています。
「河原寺」をネット検索しますと、橘寺も出てきて聖徳太子の名前が出てきます。「川原町」では
それがありません。つまり当時相撲取りを抱えていたのが「白済寺」「川原寺」であり、二重めで〈記紀〉
の百済、聖徳太子を出したといえます。初めの鹿と大進の二つは離れているのに「ノ」というカタカ
ナの一字で結ばれ ています。
「百済寺ノ鹿」
「河原寺ノ大進」
「百済寺の小鹿」の場合は「小」があるので「百済寺ノ鹿」は「大」を異動させ「百済寺ノ大鹿」
「河原寺の進」として「進」を浮き彫りにして改めて「進」をみますと〈信長公記〉には「進」は
三木の「彦進」の「進」しかありません。小野小町から「彦星」の「彦」、ここで「三木」=「森」の
「進」が出ました。これは「鹿」から「青地」の「与」の「森」まで流れるものの中間にある、「河原」
おり小野ー住吉、己(おの)が光、などから大村由己を出しています。彦進は、大村由己A
としてきたことの他に「久隅(住)守景」も絡んできました。守景の「納涼」が「河原」とつながるよう
です。芭蕉の句には「河原」はなく、次の前書きの「河原」があるだけです。これはは索引でも出て
こないもので貴重なものです。
「四条河原涼み
川風や薄柿(うすがき)着たる夕涼み」(卯辰集)
解説では、この句に「川原涼み」と前書したものがあります。「河原」と「川原lのことは〈信長公記〉の寺名
で揉めましたので、この前書き違いのことを書いていただくとありがたいわけです。筆者は
○「四条」に、(4×枝)のような、意味がある
○前書きは「河原」でないといけない、「進」とのセットによる
○句が「川風」とするならば前書きも「川原」になるはずがそうなっていない、川風は
三風、杉風で杉を出したのかもしれない、
○〈三冊子〉の「すずみのいひやう少し心得て仕たり」というのは、前書きが「涼み」を
風物とか、催し事のような動かせないものとして、画賛の感じ「涼み」の絵のようにした
、一方、「すずみ」のいい様を「すすみ」→「進み」とした
と取ります。「夕涼み」は、先ほど「唐」「日影」が出た句がありますが、
「住みける人・・・・生ひ茂る古き跡・・
瓜作る君があれなと夕涼み」
では、「瓜」と結びついています。「ウリウノ(遠里小野)」の小野や「住」ともつながっていきます。
前書きの効用も大きいと思います。「四条河原」から「森」「三木」「彦進」が出ますが、「彦進」は
「大村由己A」で再掲
■「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八」
の記事の「尾藤又八」相当であることは既述です。が、
(45)道家清十郎・道家助十郎
「尾藤又八」の後、行を変えて次の記事があります。□一字下げてあります。
▼『□■森三左衛門・・・・・・・・・・・・・・尾藤又八
道家清十郎・道家助十郎とて兄弟覚えの者あり。生国尾張国守山の住人なり。森三左
衛門・肥田玄番先懸け・・・山中谷合・・・・兄弟して頸三ツ・・・信長公・・・天下一の勇士なり、
と御自筆・・・(今回)枕を並べて討死候なり。』〈信長公記〉
この無双道家と書き付けたさしものを頂いた「道家清十郎」「道家助十郎」は、語りの「十郎」で
文脈上、尾藤源内、尾藤又八を言い替えたものということができます。■の五人と▼の記事の
五人を対比させると次のようになりそうです。(道家清十郎@・道家助十郎@で兄弟、道家の
説明として武井夕庵・太田和泉もあると思われる)
■ 森三左衛門 織田九郎 青地駿河守 尾藤源内 尾藤又八
‖ ‖ ‖ ‖ ‖
▼ 森三左衛門 肥田玄番 3兄弟の一人 道家清十郎A道家助十郎A
‖ ‖ ‖ ‖ ‖
引当て 森可成 太田和泉 森長可 古田織部 大村由己
義理の子息の方の武勇の紹介も十二分にされています。大村由己Aが太田和泉守の子息の
「森ゑびな」に対応する人物で、武勇は文句のないところでしょう。
ただ「彦」が付いているからそういえるというものではないはずです。「色」のことを意識して
いると思われる字や数字があるので折りに触れてそれを援用しており、例えば
「半」・「範」・「喜」・「金」・「八」・「犬」・・・・「一色」「佐渡」
とかです。〈記紀〉の時代では「軽」もそうではないかと〈前著〉ではいっていますが、ひらかなも
「ゑびな」の人物像が強烈で「ゑ」もそうなるのかもしれません。
「猪飼野甚介」「坂井忠次」もありますので「甚」とか「忠」とかもそうものがありうるかもしれませ
ん。「勘」も分かり難いのですが「冠兵衛」「官兵衛」もあり、「半」も「竹中半兵衛」があり、太田和
泉守が乗っている、太田又助もゑびなと重なっており、中性的表記があると考えてよいのでは
ないかと思います。性に注目というような漢字などあるのは聞いたことがない、辞書に載ってい
ないということになりそうですが一概にそうとはいえません。「ひこ」(彦)は男性を表わすのに決まって
いるから「たりしほこ」は男性だという専門の人の書物もあるくらいです。そんなら漢字に色があると
ということになるはずです。神武天皇から十代の天皇名には9人「彦」が付いているからでしょう
か。神武天皇の条では
「諷(なぞら)え歌、倒(さか)さ語で、妖気をまつたくうちはらった。」
となっており、この「妖」のようなものは、取り払われているといっているのだから、こんなことは
いえないのではないか、「彦」も両性具有とみるのがよいのでしょう。
「別所彦進」
「肥田彦左衛門」
において「彦進」の場合は芭蕉が彦星と織女姫を出してきたので「彦」考慮する、〈信長公記〉では
「彦進女房」などというややこしい表記があるので、「彦」を意識する、というような特記で対応を
期待するということではないかと思います。
太田牛一はゑびな、海老名を出してきたのは、蘇我蝦夷のえびを考慮したことは明らかで
「半」という意味の大物への適用と成ったと思われます。
蘇我蝦夷は二人で
蘇我馬子ー蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
という聖徳太子を表わす意味もあり、
蘇我蝦夷
‖ーーーー入鹿
聖徳太子
のような軍事大臣、舎弟、山背大兄王のおじという側面のあることが「ゑびな」で表わされたと
おもわれます。〈奥の細道〉の「恵美」も海老をしめすといってもよいのでしょう。古代の英雄、
武内宿禰は六代後見で後年の中大兄皇子のように、帝位に就かず影にいて大きな影響を与え
たということで隠れたるところ、よくわからないと暈されたのではないかと思います。
こういう「ゑびな」を起用してわかりやすくするというような工夫が随所に見られるのが太田和
泉守の史書の他と違うところです。
(46)兵庫県小野
いま脱線してしまったのは小野が越前にも出てきて、鹿と結びつきそうだということを述べるためでし
たが、もう一件の小野が太田和泉の意識にあったと思います。三木の北方に小野があり現兵庫県
小野市ですが、兵庫県加東郡にあります。ここは三木と同じように、金物の町、ソロバンの町として
有名です。ソロバンについては昔は三木もやっていましたが今は小野が中心です。このソロバンに
に関しては毛利勘兵衛という伝説的人物が登場します。遠里小野の「遠里」は
「おり」「居り」「折り」「織(おり)」
であり読み慣れない「ウリ」でも読めることでいけば、「毛利勘兵衛」の「毛利」は
「もおり」→「母遠里」→「母織」→「母織里」→「母小里」
「 「もうり」→「毛瓜」→「も遠里(ウリ)」→「毛里」→「毛利」
というような連鎖で、まことの黒田武士と謡われた「母里太平」はこの「遠里」の「里」があるので、
利用されたのではないかと勘ぐられます。
毛利=森、は「毛利輝元」が「森輝元」(当代記)もあるので明らかですが、「母里太平」が
「毛利但馬」と名を変えたというのもあり、毛利勘兵衛を森勘兵衛、森勘米、森勘平などに替えて読むと案外
違った読みが生まれそうです。
「森和泉」+「黒田勘(官)兵衛」
ともなりそうです。母里太平などの登場は、毛利勘兵衛などの名前がそのまま読み飛ばされて
しまうところがるので念押しがされているというところでしょう。とにかく毛利勘兵衛の「勘兵衛」も
本人の名乗りではなさそうです。またネット記事「毛利勘兵衛の紹介」によれば「森脇勘兵衛」と
いったというのがあります。おそらくこの「脇」は〈甫庵信長記〉の宮脇又兵衛、山脇勘左衛門の
「脇」にからみものではないかと思います。小野は江戸時代一柳家の一万石程度の領地ですが
「一柳勘左衛門(ルビ直次)」「一勘左(ルビ一柳直次)」〈武功夜話〉
がいて、この「勘」の付く人物が中心ですから、それとの関連で後世の人が「勘兵衛」と呼んだ
と思われます。一柳は三兄弟だったのか
「一柳市助(直末)」「一柳小兵衛」、この「勘左衛門直次」
とが併記されて出てきます。が何より秀次事件のとき「一柳左近将監」という人物が「江戸大納言殿」
に預けられていますので、それとのからみもある一柳ですから、その「勘」が語りに生かされたと
いうのもあるはずです。
毛利勘兵衛の名前「重能」というのはネットで検索すればどこでも出ているものですが、畠山重忠
の父の名で、三木の語りでは、
「山城が女房は畠山総州の娘なり。」〈信長公記〉
もありますので畠山想起、太田牛一の世界のことを踏まえているというサインもあるのかもしれま
せん。重政の「重」+能登の「能」もありえます。
小野の辺り加東郡で、加西郡、山田、市場、野村、西脇とがあり、小野には柳城と呼ばれた城跡が
あり、垂井、中村、奥村、浄谷、長尾とかがあります。浄谷は重源上人の創建当時のそのままという
浄土寺があり、太田和泉守は、まずここは訪問したと見てもよいところでしょうが、その三木からの
道順に「奥村」というところが昔ありました。芭蕉の小野に奥の組み合わせががここにもあったと
はいえないかもしれませんが、この道を昔通った人は、小野と奥には興味を示したかもしれません。
奥村というところは「多鹿」と「市橋」という姓が多いところで、近在に有名な古い天神がありました。
が、バブル期のころつぶしてしまったようです。天神を壊したのに名前は天神町に代わっていま
すから天神に愛着があったのだと思いますが、同時に小野と奥の組み合わせも消えました。
小野市は加東郡小野町でしたが「小野町」となると「小野□町」だから昔の人の感覚では小野小町
というものがあったのかもしれません。本体が「小野町」だったから「奥村」で、小野市になったら
奥町というよりも天神町がよいだろうとなるのは自然です。ただ、「奥村」というのを長谷川等伯で
出てきた「奥村文治」で考えてみると、「村」も、普通の「村」としてのみ使われていたとはいえ
ないものがあります。「村」は「そん」でもあり、ますから「孫」を匂わす場合もあり、「奥村」は
「村奥」でもありますから重点はどちらにあるとも
いえないところがあります。「太田」は「ただ」で「太太」ですから重要度は同じです。この小野と
いう遠里小野とそうは離れていない地が、古代蘇我氏と関係があったということがあるのではないか
といいたいところのことです。〈日本書紀〉の現代訳本の神武天皇の条に古代の大阪平野の地図が
二枚載っています。弥生時代前半のものの地名全部挙げますと
「遠里小野」「森小路」「南森町」「桑津」「瓜破」「瓜生堂」
「淡路新町」「小若江」「船橋」「国府」「四ツ橋」「池上」
古墳時代前期のものでは
「遠里小野」「森小路」「森の宮」「桑津」「瓜生堂」「崇禅寺」「四ツ橋」「池上」
ですが、どうしたわけか「遠里小野」と「森」と「桑」と「瓜」が出ています。
ソロバンを通じて毛利と小野が結ばれたということは、この遠里小野を書いた時点で、古代との
連絡をした〈信長公記〉が感じられるところです。ここで一柳左近将監が出ましたが、〈甫庵信長記〉
「入江左近将監」「入江」
という表記が問題です。景観の入江が姓に転じたものでこういう姓は早くからあったわけでしょう
が高槻城主ということで出てきてひっかきまわしているこの存在は重要な役割を持って出てきた
ものと考えられます。「江」は「枝」で森が出てきて太田和泉守が出てきたということは判りますが
「入」がよくわかりません。もし「鹿」となっていれば「入鹿」のことを頭に入れていると読めるはずです。
この重要人物の「入」と「鹿」は等価値で「入」だけで「鹿」と感じるもので「高槻」の「入鹿」とも読
めそうです。「宿」という字があったら「宗宿」が出ていると見たほうがよいというのと同じです。
すると「左近将監」から「小野」が出てきて「入鹿」と「小野」が接近したことになります
「入江」→「入枝」→「森」→「小野」→「遠里小野」というのは一方で
「遠里」→「おりの城」→「小里城」
へ繋いで「明智」「遠山」へ話しを飛ばそうとしています。ここ明智の地で
「高野・・・山中・・・険難節所・・・高野の城・・河尻与兵衛・・・おりの城・・・・池田勝三郎・」
が出てますが、高山古田の高槻と曽我部の組み合わせ、おり小野(入鹿)、山中となると前著で
取り上げた「しかのしま」「やまなか」を思い出しました。
(47)志賀島
太田牛一は「たいかうさまくんき(軍記)のうち」において神功皇后のことに触れています。
芭蕉も敦賀(角鹿)の気比神社で祭神の仲哀天皇(神功皇后の夫)を出してきています。
「朝鮮征伐の事」の「吉祥寺神功異国退治縁起を、太閤に献上する事」
の文です。
「そもそもじんぐうくわうごう、そのかみ、いこくたいじのとき、なかとのくに、ふな木山より・・・・
そのゑんき三くはん、うつしゑに、かきつけさせ、ちくせんの国、なかのこうり、しかのしま、
きちしやうじにおさめをかせられ・・・たいこうひてよしこう・・・しかのしま、きちしやうじ・・・・山中
きちない・・・・ぐぶ人じゆの事・・・・おふた又すけ・・・」
この「筑前国、中郡、志賀の島」は後年金印が出たところとして知られています。ここは神功皇后
の故地で〈日本書紀〉に出てきます。また「鹿」が登場してきます。
●「磯鹿(ルビ=しか){福岡県志賀島}の海人で名は草を遣って視させた。」〈日本書紀〉
が出てくるのですがこれは「しかのしま」とひらかなにしたことから「鹿」でもあり
うることがわかります。神功皇后は
「気長足姫」(ルビおきながたらしひめ)
ですが、舒明天皇も、「気長足」で、これは入鹿が政事をしていたときですから、時代は違って
いそうにみえますが、表記で繋がっています。こういうのが多いのに無視されています。
後年の継体天皇も、神武天皇や神功皇后と同じ「磐余いわれ」です。神功皇后39年は西暦239
年倭の女王が、帯方郡にやってきて、魏に朝献したことが魏志にあり、〈日本書紀〉が引用して
います。太田牛一の神功皇后の記事は戦勝の御礼として志賀島の吉祥寺へうつし絵を納めた
という故事だけを書いており邪馬台国と結び付けていません。神功皇后紀には「日本」「天皇」な
ど邪馬台国時代では考えられない表記がありテキスト脚注でも「日本、天皇はとも7世紀末に
できる呼称。」とつきはなしてあります。
これらは著者がつまらない間違いをしている、ということでずっと押し通してきているから21世紀
になっても、歴史学者は苦労しているということでそのままです。第一神功皇后というのは和式
です。
志賀島金印関係のネット記事に寄れば、この太田牛一の「吉祥寺」が脚光をあびています。
後年江戸時代寛政のころ金印が掘り出され、この吉祥寺に金印発見の状況を記した古記録が
残っているようです。
神功皇后の納めた、絵が残っていると太田牛一の書いていることは合っていそうですが、それに
ついて述べたネット記事はなさそうなので、太田牛一がここのことを書いているという歴史的事実
が抜けてしまっています。まあ絵などがおそらく失われたものとしても、神功皇后は如意宝珠
を長門国豊浦の宮で、海から手に入れていますので、宝物には縁があるようです。〈甫庵信長記〉
では、惟高和尚が如意宝珠のことを書き話が松永までおよんでいます。金印を発見した人物は
「甚兵衛」で「大屋の甚兵衛」は太田牛一が乗っているもので、それを生かしたといわれても当局
者は文句をいえません。〈前著〉で触れていますように金印の炙り出しは絶妙です。
「漢委奴国王」
「委」と「倭」が炙りだされて「いとこく」と読めるし「わ(の)なこく」とも読める、字を違わせているのは
魏志倭人伝などの特徴でもあり、邪馬台国と耶馬壹国などで物議をかもしています。正式の印章で
は倭とするのが本当であろうとは思いますが、委もあってもおかしくないと反論されそうです。「いとこく」
も色々の字がありますが、「委奴」というのは他になさそうです。まあ誰かが広義の倭と狭義の倭の
二つの倭があるといいたいのでしょうか。もっと単純で黒田の太田牛一が「しかのしま」と
書いているよというのかもしれません。
要は太田和泉守が朝鮮戦争のはじめにあたり、神功皇后のことを、書いたことが重要で、この
書き物は、はからずも古代の朝鮮半島との交流を思い出すものでもあり、自然と神功皇后にいたる
ことにもなり、また「たいかうひでよし」の二重性も主たるテーマとしているものですから、神功
皇后も出てくる必然もあったと考えられます。神功皇后紀も皇太子
(応神)の摂政期間長くが武内宿禰の事績と重なってしまっています。いはば最もややこしい記述が
されている人物を出してきたといえます。
この記事の契機は太田和泉守が〈日本書紀〉の志賀島の●の記事をみて、現地を訪れ、吉祥
寺伝承を聞いたことが反映されたと云うことだと思いますが、このため、後世の人がこの場所に
関心を寄せたというのがあったと思います。金印は「いとこく」「わのなこく」と両方読めそうだと
教えているといえそうです。これがなかったら委を倭と読まないことになるのは仕方がないこと
です。此れ式で読むと
「倭国」「倭の女王」
というのも「委国」「委の女王」もあることになり、魏から見た場合二つあることになる
のでしょう。幕府から琉球を見る場合、島津太守と、沖縄の王
を想起しますが公式には島津が当事国となり記録の対象となるはずです。しかし沖縄のことも
抜くことはできないという叙述者の路線もあるはずです。金印は
@古典の読み方に関するヒントを与えた、
A太田和泉守に注目させようとした
貴重な遺物といえるのではないかと思います。@でいえば「奴」を「と(土)」と変えて読めるとする、
と倭人伝の「蘇奴国」は「蘇土国」に、「鬼奴国」は「鬼土国」になったりしますから、すこし感じが
が変わってきたりします。〈前著〉では国名羅列の前(入口)と後ろ(出口)に「奴国」があるのは
「□奴国」の意味で、□に「伊都国」の「伊」のようなものが入るのではないかと書いていますが
それもここの「漢委奴国王」というのがヒントでした。入口と出口の「奴国」を「伊土国」とでもなる
と邪馬台国周辺に魏の色が漂ってきそうです。「土」でいえば「広開土王」の碑というものがある
ことは知っていますので、この「土」は「奴」であるかもしれないというのも出てきます。〈記紀〉は
表記と言葉で語っている文献で、表記で繋がりが生じていくのは〈信長公記〉などと同じです。
〈日本書紀〉の天皇の表記に由来のわからないものが、多々あり途方に暮れるところがあります
が、「広開土王」の「広」「開」は、受けられているものがあります。 継体天皇の次ぎの天皇
★「広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)天皇{安閑}」
「武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇{宣化}」
「天国排開広庭(あまくにおしはらきひろにわ)天皇{欽明}」
に「広」と「開」が出ています。とくに年表でも二つの王朝があるような「欽明」は両方揃ってい
ます。「広」は後年の入鹿の関係の
「息長足日広額天皇(おきながたらしひろぬか){じよ明}」
などにも「広」の字が反映しています。「武寧王」という場合の「武」が上の二人に入っています。
「武」でいえば、この「武」というのは「倭の五王」の「武」は関係ないと思いやすいのですが、
「安閑」の六代前の天皇は、いわゆる「雄略天皇」で
「大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)天皇{雄略}」
ですから、「武」があります。「武」という字が一つあるから、倭の五王の「武」というのは雄略天皇だ
というのはごり押しでおかしいという感じがするのは、これだけ「武」があるのになぜ雄略の「武」
になるのかという設問になると、「武」が四人いるなかでの「雄略」への引き当て問題というものに
変わってきます。
日本式の読み方でないもののうち最初の「武」があるのは雄略であるということや
日本式の読み方では、最初(神武)と継体の前の武烈天皇のみに「武」がある、
とかのことで見当をつけた結果の雄略天皇=武王かもしれないわけです。つまり〈記紀〉が武王
の記事を見て雄略天皇の記事が書かれたといったりするのを堪(こら)えて、わからないと頼り
なげに話をするのが、一般には、史書の著者
が頼りないと思うところで、それは大所高所からのことだから仕方がない、となっているのです。
@ABでは「押」というのが全部入っています。Bの「開」も「おし」と読みますから、ルビでは全部
入っています。〈奥の細道〉で出てくる
「恵美押勝」
の「押」です。「押勝」の「恵美」は「蝦」「海老」で、「蝦」は人名では「蘇我蝦夷」の「蝦」が第一に
想起されるように文献が出来ています。雄略天皇の次の天皇は清寧天皇ですが
「白髪武広国押稚日本根子天皇{清寧}」
には「広」「武」「押」、雄略の「わか」もあることになりますとかなりのものを受けているかもしれない
、とくに「武」は継体の後の★の二人に入っています。とにかく広開土王の広開は★の二人のあと
の欽明に揃っていることになります。しかし「土」が判らないから「漢委奴国」の「奴国」の奴が、
この「土王」の土にならないか、各天皇の外国式名前の中の「国」は奴国の国かもしれないということに
なるとこの金印の効果は大きいといえそうです。それは別としそうしたら、お目当ての「継体」の
表記はどうかということになりますが、これが
「男大迹(おおど)天皇{継体}」
という独歩の表記をつけて煙に巻いています。この名前は日本式では読むのはむつかしいと思い
ます。「海外と国内の二元的に捉えられているのは、邪馬台国の九州近畿と同じです。二つのものを
を一つにした、斑鳩といウ読めない寺、法隆寺といウ読める寺、寧楽という読めないものと奈良の
二つがある、というようなことになると、二つに分けて読み取らねばならないということに帰着してしま
います。結局、研究史にある、五世紀の倭国王をもって
「単に倭国内の王にとどまらず、百済、新羅、加羅諸国の上に聳えた王ーー王中の王ーー大王
であつた」
と規定された王国とその王がいたということです。これがどこにあったかとかいわずに、周囲のこと
を細かく細かく論じ、核心のまわりを回りまわって、お茶を濁しているというのが学問界の現状
でしょう。単純に知りたいことが結論でいえばこうだ(と思う)というのがないのが、歴史とかいう
大仰に構えたものの学問の特徴です。知るだけでよい、由ってはならない、という慨嘆されたこと
が、そのまま生かされて、出した結論をしるのはよい、理由を知らす必要はない、聞かしてはなら
ない、出た結論はいろいろあって、判りやすくは述べられないといったところでしょう。
(49)近松門左衛門
雄略天皇に比定されている倭王武には上表文があり、これがわかれば倭とか倭王とかいう
ものの輪郭だけでもわかりそうですが、朝鮮半島、百済新羅などや、日本列島の勢力とかを越え
ものの存在があるというのは結論としてはありながらわからないというようです。
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること
九十五国」(宋書)
前記〈研究史〉では、ことのついでにもう一つ載っており、二つは違っています。
「祖の禰(弓篇)が東の方毛人を征すこと五十五国、西の方衆夷を服すること六十六国、
渡りて海北を平らぐること九十五国」
〈研究史倭の五王〉という本ですからこの66とか55、95の数字は何かというのが知りたいところ
ですがこれについては研究されていないのでしょう、触れられておらず、「祖の禰」が仁徳とすると
仁徳の事績に合わないとか、「祖禰」を仁徳と解するとどうか、とか、この文の他のところが中国
古典の引用がされているから、この文が重視するのはおかしい、とかあらぬ方向の議論のみが
出て来ています。二つの文の違いは、「西」「東」と「東の方」「西の方」ですが、意味では違いが
あるのでしょう。九州は東京の西ですが、日本の西の方です。また内容では「征」すると「服」す
るとは、征するほうが強敵だったという感じです。それは反論があるだろうから、ともかくも
この文は、送り仮名を省略して
「東(方)征毛人五十五国、西(方)服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
としたほうがよいのかもしれません。まず数字ですが
55+66=95
が成立しないのが、がっかりするところです。この六十六は日本のことというのが古人の与えて
いるヒントであり、戦国時代では、
「藤堂は西国三十三国の旗頭」、とか芭蕉の〈奥の細道〉
「花山の法皇(二人いる)三十三所の順礼とげさせ給ひて後・・・」
「西国三十三所・・・・・空海・・・」〈信長公記〉
があり、〈川角太閤記〉でも六十六が出ていることは触れたと思います。
「日域六十六州之一州を江(かう)と曰ふ。(江は安土山のあるところ)」〈甫庵信長記〉
とすると毛人の五十五は一先ず
朝鮮半島に決まってきます。毛人とは「夷」のことで、夷@夷Aがあるというのでしょう。ネット記事
DS3SOOMRによれば蘇我毛人がでておりこれは蘇我蝦夷のようです。この文を
「毛人五十五国の東方を征し、衆夷六十六の西方(66/2=33)を服属させ」
となり、55+33=88で、95−88=7が朝鮮半島と中国の間の海域の(渤海とか黄海国)の
沿岸諸国となるではないかとも読めます。
この倭国の王の所在地はもう文献に出ており魏志倭人伝でも
「会稽、東冶」
というのが出ておりこれは、蘇州といってもよい地域で、まあ半独立的な王朝といってもよい国
で中国の王朝から統治を委任されていた国といえそうです。朝鮮半島東部と日本列島はまとめて
捉えられていたという感じです。帯方郡に会稽にある倭の王朝の出先があったと思われます
ますがこれらは会稽からみれば一応北という括りになると思われます。任那日本府というのも
この倭国からみれば日本列島統治の拠点ということになりますが、国粋的に見た場合、朝鮮
半島攻略の出先拠点ということになるのでしょう。
まあこの倭国というものを日本列島に持ち込んできて、史書を作ったのは、偉大なる国家の
はじめという政権の要望もありますが、反面、事実関係も述べておかねばならないというもの
もあり、二元的に画いたということになります。1500年も時を経た21世紀では、事実関係を
明らかにしないといけない、太平洋戦争という余りに多くの人を殺傷してしまった歴史があります。
蘇州という「蘇」と、「蘇我」の「蘇」との表記の連携があるので「会稽」という拠点が目に付かな
いようにされた、「呉越」の興亡の舞台としての「会稽」が脚光をあび、「東冶」とセットの会稽が
目立たないことになりました。「東冶」は「東治」であることが隠されているものといえます。
継体天皇は越前が属性ですが、この越は会稽を意識した呉越同舟の「越」が〈記紀〉の著者に
利用されたと思われます。甫庵は「胡越」という言葉を使っています。脚注ではこれは
「胡国と越国」。胡は北、越は南。・・・」
とあります。これからいえば「越」は南のえびす、というような意味になりますが、蘇我蝦夷につな
がっていく感じです。西国33国の北の方は、魏志倭人伝にいう「其の余の旁国」に当たるのかも
知れませんが、越前というのが根拠なしに持ってこられたともいいかねるものがあるはずで、
倭国から直接東国への人・物流ルートの窓口があったことが考えられそうです。「其」というのが
戦国時代などと同じ意味が大きいので「倭人伝は西国33国か近畿の女王国を指すとすると東国
の線もありそうです。「祖弥」などの「そ」は、「曾」「蘇」が出てくるので油断が出来ないものです。
越の国の越は、近松門左衛門に意識されていそうです。ネット記事にに寄れば近松の歴史物に
「曽我会稽山」
というのがあります。前著〈鎌倉〉で触れていますように、鎌倉の「曽我」は、古代の「蘇我」を
受けているものです。会稽の恥の故や語句が、〈吾妻鏡〉〈曽我物語〉、〈信長公記〉にでてくる、
単なる引用でないものがある、といえますが、そういうなら一体どれだけの文献で、何回出てくる
のか調べていうのが筋だというでしょうが「会稽の恥」の「はじ」に炙り出しがあって引用もまま
ならないもので意識過剰はあらわれています。〈信長公記〉では、越前の武生(府中)を挟んで
前に「石田の西光寺」、うしろに「小黒(ヲクロ)の西光寺」がでますが、この「西光寺」は「武生」と
隣接した「鯖江市」にあり、「鯖江市」が近松門左衛門の生まれ育ったところです。「小黒」は
「大黒」・「小里」にも通じて重要ですが〈信長公記〉では
「豊原」「堀江」「小黒西光寺」
と続いています。「豊原」は脚注では「福井県坂井郡丸岡町豊原」で〈奥の細道〉の丸岡天龍寺
で出てきたところです。「男大迹天皇{継体}」の母「振媛」の里はこの丸岡町(当時では高向)
で、継体天皇の属性が丸岡ともいえますから芭蕉は丸岡と松岡を間違ったともいえそうです。
「堀江」は脚注では「福井県坂井郡芦原町堀江十楽。ここの豪族堀江氏。」となっています。
堀江氏の存在はありますが、「堀・枝」というものが出てきます。、
豊・原・丸岡(森)・堀・枝・坂井・楽・戸・黒田・石田
がちりばめられたといえるところで、別喜右近、佐々権左衛門など関連する多彩な人物の登場
がある場面の背景を形作っています。〈信長公記〉では
「近松豊前」「「近松田面(たのも=頼母)」
という孤立表記があり、近松門左衛門自身も周囲もこれを意識して越前を語るということに利用
することはありうることです。豊前は別所があり、田面は「菅屋長頼」の「頼」=太田の「田」とも
結ばれたようでもあります。古代からの語りの、一つの流れの中で、越前が重要な位置を占めて
いることを知っているならば、江戸期の越前でも何がしか語ろうというのがあるはずです。
後世の江戸期の人は「鯖江藩」をそのために創ったのではないかと、近松の雰囲気がそこまで
持っていったと思われます。いまいいたいことは太田牛一の時代は「鯖」の字が使われていなか
ったので、堀江が代用されたかもしれないが、越前勢の
「魚住竜文寺」(信長公記)
という孤立した表記の人物があるので、太田牛一は鯖という字を使わなかったが意識していた、と
いうことです。この竜文寺は「府中(武生)竜門寺」をモジッテいそうです。「竜門寺」は五回も登場す
る朝倉、三宅などと出てくる府中とセットされたもので越前代表とされている寺です。
つまり「鯖江」というのは「魚」+「青」+「枝」で「青枝」という森色を出した、「魚」は千利久の
魚屋とか魚津などが想起されます。
「近松」 → 「曽我会稽山」 → 「越前継体」 → 「森」 → 「近松」
という近松主体とすると 越前鯖江藩は近松の藩になったといえます。実際はネット記事を
を綜合してみても吉江とか松岡藩くらいしかでてきません。「鯖江」と「近松」をセットしようとした人物
がいたのかもしれません。ネット記事「鯖江市(佐波乃矢)osamu kumimoto」によれば、北陸征討に
向った大彦命の放った「佐波乃矢」が「鯖の尾」に似ており、これが「「鯖江市」の「鯖江」というもの
のもとだそうです。「佐波江」という名前では、近江八幡に佐波江がありますが、越前では残って
いません。鯖江市は昭和になって合併して成立した市ですが「鯖江藩」というのはありそうなの
で、江戸期には「鯖江」があったとおもわれます。江戸時代後半の1720年「間部詮言」の入部に
今立、丹生、大野郡を併せて作ったのが「鯖江藩」ですが、今立郡の西鯖江村の鯖江という名前を
を持ってきたようですから「鯖江」が詮言の意識にあった、この人物は間部詮房の弟で、新井白石
も知っていそうです。このとき「佐波」が「鯖」に変わったのではなさそうですが、太田牛一の
いいたいことも汲まれたといえるのではないかと思います。
近松門左衛門は鯖江でなく長門の生まれという説があるそうですが、それはおそらく
@佐波が長門国にある。〈日本書紀〉
「(神功)皇后は、豊浦津に泊った。この日、皇后は如意珠を海中に得た。・・・・穴門の
豊浦の宮・・・・周芳(すわ){山口県西部}の沙摩(手が玄の字)(ルビ=さば){防府市
佐波}・・・・・・」
の「佐波」が太田牛一に読まれている。
A〈日本書紀〉の@の文のところに「門」が集中して出てくる。「門左衛門」の「門」が長門の
「門」の門にちなんで付けられた、関係が深いとみられた。
「穴門(あなと){山口県東南部}・・・・・角鹿・・・・穴門・・・豊浦津{下関市長府}・・・
角鹿・・・・豊浦津・・ぬたの門(と)・・・穴門・・・穴門の豊浦の宮・・・(さきほどの佐波)
・・・・穴門・・・・東の門(と)・・・・西の門(と)・・・・水門(みなと)・・・・」
のように「門」が多く違った門も出ている。
というのがあるのではないかと思います。「長門」の「門」と、そこの「佐波(鯖)」とが「近松」を
特徴付けたので生まれとして長門を注目させたといえそうです。
太田和泉守の属性は「長門守」であることは「長間寺」とか桶狭間の「岩室長門守」とか「石川
長門守」という〈信長公記〉の表記や「大田五右衛門」の表記などでわかります。
この@Aの文からは蘇我がでてきます。蘇我蝦夷は豊浦の大臣ですが、ここで「豊浦」が出てい
ます。ここの「角鹿」は越前の敦賀で、継体天皇の越前ですが、入鹿父子の「鹿」がでています。
石川には蘇我馬子の家があり、豊浦大臣の家は「大津」にありますが、訳本では{泉大津}と注
記があります。そういう説も取ると太田牛一に利用されます。〈辞典〉では鯖江藩主と同じ姓の
「まなべ七五三兵衛」
は「和泉郡大津城主」となっています。和泉の「日根郡淡輪の住人」ですから「入鹿」の「根」や
「大津」がでます。仲哀、神功が〈奥の細道〉に出てきたのも北国長門大津鹿の流れの末です
近松門左衛門が「曽我会稽山」を出したというのは、同時代の呼応ということで、古代と太田牛一の
のメッセージを受け止めたといえます。Aの文の後
「・・・皇后は・・・岡の津に泊った。また筑紫の伊都(右は「見」の字)(ルビ=いと)の県主の
祖である五十迹手(いとて)は(献上し奏言し)天皇はイトテを美(ほ)めて「勤(いそ)し」と
いつた。それで、時の人は、イトテの本土を伊蘇(いそ)の国と呼んだ。今、伊都(いと)という
のは訛ったのである。」〈日本書紀仲哀〉
があります。つまり「伊都国」というのは「伊蘇国」が訛ったものだといっているわけです。金印
の「委奴」が「いと」と読めるなら「いそ」と読めることになります。邪馬台国の記事に「会稽東冶」
の記事があり、「奴」という国が一杯あるから、頭の中で読みかえてみると倭国の本土がわかる、
というものです。とくに継体天皇の表記は
「 おおど けいたい
男大迹 天皇{継体} 」
となっており、イトテは
「 い と て
五十 迹 手 」
というルビの付け方となっています。
「迹」は「と」「ど」の読みとなります。継体天皇だけ表記が特殊ですが、その眼目は
「迹」(と、ど)」
にあり、これを語りに活用していくことが考えられます。「伊都」は邪馬台国でおなじみですが
「伊迹」ともなると、「伊」と「継体」が接近し「蘇」色が出てきます。邪馬台国の世界に「蘇」が
入っているということになります。逆に邪馬台国の記事からもとを探るということもできます。
表記で〈記紀〉を読むことが必要なのは他の文献と同じです。後世の模範と言ってもよいものを
書いたのであとは真似をして継承しました。この「迹」という表記も他にありそうです。
「迹驚(とどろき)」〈日本書紀〉
という場所があってここに「神功皇后」と「武内宿禰」が登場します。
8代孝元天皇紀にある
「倭迹迹(やまととと)姫命」
の「迹」の字も目立ちます。10代崇神記にある
「ヤマトトト ヒモモソ ヒメ」(訳本ではカタカナ表記)
に似てはいますので「トト」はこの字でしょう。「ヒモモソ」は「日百襲」のようですが、同一
性は認識できないとしても前者は「佐波(鯖)乃矢伝説」の大彦命の妹ですから、越前で継体と
繋がる係累といえそうです。これは有名な箸墓古墳の主で、三輪山がすぐ想起される人ですが、
〈万葉集〉では三輪山で詠った額田の歌があります(前著)。三輪は戦国では秀次、夕庵が
関係する重要な姓ですので太田牛一の相撲のはし小僧は、「鹿」とか森をみて、箸墓の主に
及ぶのかもしれません。いずれにしても長門は近松門左衛門の生まれたところではなさそうです。
反面鯖江がそうかというとこれもどうかわからない、新井白石とか間部詮房をバックにしている
間部詮言という役者が揃っていて、「鯖江」を打ち出し、近松を取り込み、〈記紀〉を解説したという
こともありえます。間部も住吉浜手の要害にいた「まなべ七五三兵衛」(信長公記)の「間鍋」も
投入して、曽我、森を越前に集めたといえそうです。
「府中竜門寺」(信長公記)の「門」は「近松門左衛門」の「門」ですが、「魚住竜文寺」の「文(もん)」
と、炙り出しがありそうです。
「門左衛門」と「文左衛門」は越前と鯖と住を結びつけようとするものかもしれません。また先ほどの
@Aの文は同じ局面、長門での叙述ですが、そうだと思って読んでいますと突然、越前らしい
「角鹿」
が出て来ています。「山鹿岬」も出てきますから「鹿」は意識されていそうです。「伊賀彦」と
いう人物がでてきますのでこれはどうかというと、あとに「伊都」「伊蘇」が出てきますから、これ
の伏線でもあるといえます。この「伊」は、長門に入る前に
「角(つぬが){福井県敦賀市}の「笥飯(けひ)宮{気比神社}」
「紀伊(き){和歌山県}の国」
に寄って来ていますので、「鹿」とともに「紀伊」の「伊」がもってこられ
「紀伊」の「伊」→「伊賀」の「伊」→「伊都」の「伊」→「伊(五十)迹」の「五十」→「伊蘇」の「伊」
というものになっている、これは「伊」が「蘇」の色合いを帯びるに至る過程かもしれません。
角鹿の「角」というのも「すみ」ですがここに「大済」が二つ出てきていますから受けられている
と思います。要は物語りは他愛ないのですが表記を追っかけることで係累などのことが捉えられ
るようです。ここの「五十」という「い」は崇神・垂仁天皇に使われていますがこれも「蘇」といえそう
です。ほかの文献にここが生かされています。今の問題にしている遠里小野の前にある〈信長公記〉
の紀伊国も
「紀伊(き)国(のくに)」〈信長公記〉
となっており〈日本書紀〉に同じです。「伊」というのが意味がある付け足しとなっている感じです。
和田惟政が〈辞典〉では「紀伊守」「紀伊入道」ですが〈辞典〉では信長の文書に「和紀」があり、
「紀」が主体です。先稿によく出てきた「山中北美濃」の「佐藤紀伊守・子息右近右衛門」(信長
公記)というのは〈甫庵信長記〉にはなく、「紀伊守」にルビがないので「きのかみ」と読ませたい
というのが「きのくに」から感じ取られるところです。つまり、「伊」というのが「太田和泉守」という
ものをあらわす、「伊」は「これ」「い」であり「惟」「維」に通ずるものがある、(野々村)宗達の
「伊年」にも行く「伊」は確かにありますが「蘇」に通ずる「伊」が〈日本書紀〉から引き継いで、
出しているというのがありそうです。
徳川四天王の「井伊直政」の「伊」は一応気になるところです。〈常山奇談〉大坂陣で「井伊」と
「木村長門守」 「長曾我部盛親」
が絡み合いますが、「伊]と「長門」「曾我」が意識されているところです。
黒田官兵衛、後藤又兵衛の故地「岐井谷」と、井伊直政の出身地とされる、「井伊谷」は
紀井谷
井伊谷
の表記上のイタズラがあり、「紀」「伊」が対置されて出てきます。常山は
「黒田家岐井谷合戦の事・・・小川伝右衛門・・・」
「豊臣関白北条・・・・本多重次放言の事」
「井伊直政関白を討たんと言われし事」
と並べて、黒田・本多・井伊、を言いたいようですが、もう一つ
「本多忠勝功名を論ぜられし事」
「井伊家の付け人連署して直政を諌めし事」
「堀秀政名人太郎といひし事」
があり、「堀」は堀秀政Aで、本多とは関係が濃厚ですから、井伊にもそういうものがあるのでは
ないかと勘ぐられます。その上の、「井伊」の文中に伏字があり、
「井伊直政壮年鋭気甚だしかりしかば・・・・・□□□□(左ルビ=諸本脱)以下連署して
諌書をささげたりし。」
本多忠勝の前に、「細川幽斎・・・忠興を諌められし事」があるので、この部分は塙九郎左衛門
の直政をもつ、太田和泉守が入りそうです。多大の関心をもって井伊直政を見守っているという
ような関係ということかもしれません。井伊の代々は掃部頭を名乗ったという面があります。
常山のタイトルにある関白を討つとか、連署して諌言をされる井伊直政は、いわゆる井伊直政と
か感じが違うようで、硬軟両様の直政もありそうです。重ねられている直政がある、つまり
語りのための井伊直政があります。
ひとつだけあげますと、井伊家は井伊直政で有名になっわけですが、ネット記事「武家家伝」
(井伊家)」に直政の系図があります。群書類従のものかと思いますが始祖は
継体天皇
なっておりそこから延々と書き継がれてきています。「伊」と「蘇」がつながって、大坂で長の
「曾我」にも接近するという語りになっています。直政は四天王の「酒井」の縁戚であり、蒲生の
後裔とされる「庵原(いはら)氏」の関係の人でもあると思われますが、いわゆる直政自身は、
遠江の井伊谷の出身とはいえないのかもしれません。石田の跡の近江の佐和山に一門の墓所
があるようでこれを近江の井伊谷とすると、遠江にも井伊谷があることになりますので、どういう
ことになるのかと戸惑うところですが、ここにも、 太谷ー小谷、遠藤ー近藤、紀井谷ー井伊谷の
ような表記のいたずらが出ているのではないかと思われます。
「遠江」の「井伊」
「近江」の「井伊」
でこの二つの国郡の間でも、引っ掛けがあるのかもしれません。織田の先祖は「越前尾張遠江を
領せられしが・・・」〈甫庵信長記〉と書きながら、越前と尾州のことは述べ、遠江のことは
なく「近江国津田」が出てきます。
井伊直政の場合も、井伊直親の子息ということ一つしか出てきませんので、とても出自などの
ことは語れない状態です。両親があって生まれ、祖父母は、四人ですが、その他の係累も考慮
しなければならないところです。井伊谷の井伊の名跡を、あたらしい直政が引き継いだといえるの
でしょう。
(50)万葉かな
近江の「彦根」の井伊ですが、さきほど「日根」の淡輪が出ました
「日本根子彦」
孝霊、孝元、開化という7・8・9代の天皇のところだけに「根」がある、表記で読んでるのは確実
こういうところに目が向いてますというのがいいたいところのことです。
長門に入ってから「伊蘇」が出てくるまでに5回ほど立て続けに
「熊鰐(わに)」
が出てきます。これも〈信長公記〉に利用され、「二つ玉」で信長公が暗殺されかかった一節
に「鰐口」が出ていました。「熊鰐」で「熊」が入っているのはおそらく「角鷹」の「くま」にも転用
されたと思われます。ここに「十二・三日隔て」が出ていて、あとで三年後、「十二・三間隔て」に
替えています。これは邪馬台国里程の読み方の解説で、円仁もやっていることですから確実な
ことです(前著)。
年表では卑弥呼が亡くなったのは西暦248
西暦266年に起こったことが、神功紀 66年に書かれている
西暦366年に起こったことが、神功紀、46年に書かれている
西暦382年に起こったことが、神功紀、62年に書かれている
西暦389年に神功紀が終了するはず。
西暦391年倭軍渡海して百済新羅を破り臣民にするという。(広開土王碑)
西暦397年倭軍百済攻め王子直支を人質に取る応神紀8年の条
西暦399年百済倭と結び新羅を攻める。新羅は倭軍の撃退のため高句麗王に救援を
求める(広開土王碑)
西暦400年広開土王倭軍を退ける(広開土王碑)
西暦404年倭軍帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍に撃退される。〈公開度王碑〉
西暦405年百済の王子直支、倭国より帰国即位(応神紀16年条)
西暦430年に応神紀が終了するはず。
応神紀の終わりの記事は
「四一年、春二月一五日、天皇は、明(あきら)の宮で崩じた。このとき年は一一〇歳。
(一{書}はいう、大隅の宮で崩じた、と。)」
となっています。
これは文書が二つあって「明の宮」で崩じた天皇と、「大隅の宮」で崩じたと書いたものがある
という意味に解するのが普通で〈日本書紀〉がこの二つを一つにしたということになるのでしょ
う。従って〈書紀〉では天皇二人で描かれているということになります。倭国の王と、日本と
いう呼称ができたときに書いているので日本列島の王ということになります。「明の宮」について
はテキストには注記がないので研究はされていないといえますが、大隅の宮についても注記は
はないのですが文中に
「応神二二年、・・・天皇は難波(なにわ)に{行}幸して、大隅の宮に居た。」
とありますので大阪府の宮の名前というのが出てきます。応神紀にはこのあたり「桑津邑
{大阪市東住吉区桑津町}」が出て居りますので、先ほどの古い地図では「森之宮」が出て
「久隅(住)守景」によれば「隅」は「住」なので「住吉」の宮という感じのものになりますが
そういう場所といえそうです。応神天皇の生まれも
「筑紫の蚊田(かだ){筑前国怡土郡長野村蚊田・・・・・}」
となっていますが、脚注では「神功摂政前紀(仲哀9年12月14日)では宇彌(サンズイ篇つき)
で生まれたとなっており、二人らしき書き方となっています。仲哀天皇はも病死の天皇と
戦死の天皇があります。神功紀
はさむきむ みしこちは とりかんき
「新羅王波沙寐 錦はただちに微叱己知波 珍干岐を人質とし・・・」
このような人名や地名などが、一杯出てきて、そのなかに武内宿禰などのわりあい読みやすい
ものが入ってきたりします。応神紀
「七年、秋九月、高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝した。このとき武内宿禰に
に命じて多くの韓人らをひきいて池を作った。それで池名づけて韓人池と呼んだ。」
これなどは日本とみるのは無理であの倭朝でしょうが、武内スクネは朝鮮半島諸国の担当かも
知れません。その後筑紫へも来ていますからもう一人いるのかもしれません。芭蕉〈奥の細道〉の
「けい明神」のテキスト脚注では
「気比神宮。土地の古老は“けいさん”と呼ぶという。伊奢沙別(いささわけ)命を主神とし
日本武尊、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、豊姫命、武内宿弥を合祀している。」
と書かれています。この主神は馴染みがないのですが、これは応神紀の「一書はいう」に
書かれている応神天皇の太子の時の本当の名というようですから、応神が二つあるという
ことになります。親の天皇が、「越の国」の
「角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神」
に拝礼したとき大神は太子と名を取り替えたと判らないことをいっています。、武内宿弥の表記も
おかしいということになると二重性、二元性が感ぜられるものです。この神社も敦賀、気比神社
相当とされていますが表記が全く違いますので海外にあるものといえそうです。日本的な名前と
なっていることは工夫がされたといえるのでしょう。仁徳紀
「五八年・・・呉国・高麗国が朝貢した。」
などが一杯あるのは、倭国が日本では考えられないのは当然のことです。本居宣長は国粋
主義者のようにいわれていますが、日本側に倭国を設定した苦心を読み取って、その立場から
を一貫したからそういうことになっただけで、倭国を外から読めないではないかといいたいところ
です。民主主義という今でも同じだからまして江戸時代ではないですか。
再掲、新羅の王は「波沙寐錦(はさむきむ)」ですが人質の将軍は
★「微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)」
でした。ここで「干」の字だけが「かん」という二字の読みとなり、それは王の名の「錦」(きむ)と
同じです。このあたり一書では新羅の王に
うるそほりちか
「宇流助富利智干」
を出してきており、ここでは「干」の字が「か」とされています。万葉かなのように一字、一語です。
あとでこの人質をとりかえそうというときは★は
「微叱許智伐旱(みしこち ほつかん)」「許智伐旱(こちほつかん)」
に、名が変わります。新羅の将はあと、神功五年、
「汗礼斯伐(うれしほつ)」「毛麻利叱智(もまりしち」「富羅母智(ほらもち)」
) が出てきますから4字以上の長いものを使うのが新羅の特徴といえるのかもしれません。
一方百済の方はどうかというと 神功39年天皇側と百済が連合して新羅を討つことになり
天皇側では
「荒田別、鹿我(かが)別」
を将軍として出し、百済では
「久氏(氏の下に一がつく字)(くてい)」「彌州流(みつる)」「莫古(まくこ)」
という武将を出してきており三字以下だから短いといいたいと勘ぐられます。この勘ぐりはすぐ
打ち壊されます。軍勢を増やさないと駄目だという人があり
「・・・さらに沙白(さはく)、蓋盧(こうろ){の二人}を召し・・・木羅斤資(もくらこんし)、
沙沙奴跪(ささなこ){この二人は姓がわからぬ人だ。ただ木羅斤資は百済の将である。}
に命じ・・・沙白、蓋盧と共に派遣した。」
という文章が追加されているからです。つまり、「木羅斤資」と「沙沙奴跪」は4字で、おまけに
「木羅斤資」は「百済の将」と明記しているので、万葉仮名は新羅的といいたい立場では、
マイナス材料です。しかし、この注記はおかしい、
百済の将である、というのは、いらぬことで、書いた目的があるはずです。これは姓があるはず
といっているから、先の新羅の「微叱」+「許智伐旱」がうしろ4字で表記されていたことがあり、
「羅」という字もあることから新羅出身の百済の将といいたいと思われます。もう一人の
「沙沙奴跪」
はどうなるのかということが関わってきます。この天皇の軍の将軍「荒田別」「鹿我(かが)別」
の人選をしたのは「武内宿禰」で、天皇は「千熊長彦」を新羅への詰問の使者としました。この
人物がよくわからないので説明があります。
「千熊長彦は、はっきりその姓のわからぬ人だ。一書はいうーーー武蔵の国の人。今は
額田部の槻本首らの始祖だと。百済記に、職麻那那加比跪(ちくまななかひこ)といって
いるのは、たぶんこの人であろうか。」
百済記では、天皇方の人物、千熊長彦を「那那加比跪(ななかひこ)」と新羅式で書いており、
「沙沙奴跪」もこれに似ており、天皇方の人物のことをいっている感じです。ややこしいことに
このときの天皇がいわゆる倭と日本を両方表わすように書かれており同じ「な」にしても「那」は
任那の「那」で、「奴」は「奴国」の「奴」かもしれないわけです。神功52年二つのどっちともとれる
記事があります。
「五二年、秋九月一〇日、久氏(百済くてい)らが、千熊長彦に従ってやってきた。そして
七枝刀一口、七子鏡一面・・・重宝を献{上}した。・・・・西・・・谷那(こくな)の鉄の山・・・・・
{他方、百済王は}孫の枕流(とむる)王に話して“今わが通交する、海東の貴国は、
天のひらいたところだ。そこで天恩を垂れて、海西を割いて、我に賜ったのである。これで
{百済}国の基は永久に堅固となった。”・・・といった。」
この前半は、どこへやってきて、誰に重宝を献じたのかは書いていません。刀の鉄は「谷那」と
いうところで取れるようですが、長彦の倭国にあるのかもしれません。長彦が久氏を紹介したの
だとすると、献上されたのは日本列島に駐屯する倭国の出先の長ということになるのかもしれ
ません。百済の
王の喜びが余りに大きく、日本列島の窓口になったとも考えられます。つまり、このとき
倭国→百済→(日本府)→現地
という形になった後年、百済の武寧王Aともいうべき存在がやってきて継体王朝の開始となる
のは、ここで路が開けたということか、この文の意味がおおきそうです。(万葉仮名が新羅の
長い名前の読みに似ているので百済が額面どおり百済かなというのも疑問でいま新羅のよみ
を引用している) 中国史、三国史記などと
記紀の神功皇后などの記は時代が合うようになつているかもしれませんが日本史の場合は空白の
4世紀などといわれている100年があるというのですから、時空を越えていて説明するというものが
ありますから、知りたいところの疑問点をそこから得られるということがありえます。太安万侶は政治史
を語りながら、それは外国の叙述が日本的に語られるにしても、数にしては多数の土着の人々の
生活とか、政治への影響力行使の姿もよくわかるように出していると思います。ここの
千熊長彦という日本式の名前の人物は誰かに宛てて理解しようとするのがよいのでしょう。
これは現存の石上神社所蔵の七枝刀でしょうからそれを持って来た人物のことです。まあ
年表で見る限りでは斯摩宿禰、神功皇后くらいでしょう。年表には武内宿禰の名は出ていま
せんがこれもあると思います。
神功皇后の新羅制圧の記事がが仲哀天皇と重なった部分の終わりにあります。したがって
新羅の人の人名とおぼしい長い名前のものがでてきます。
@「微叱己知波珍干岐(み し こ ち は とり かん き)」
・・・・「誉田(ほむた)天皇{応神}」・・・・
A「タラシナカツヒコ{仲哀天皇}
B「沙バ」(佐波)の県主の祖として
「内避高国避高松屋種」
うつ ひ こ くに ひ こ まつ や たね
C「穴戸直(あなとのあたい)践立(ほむたち)」
D「表筒雄(うわつつのお)、中筒雄(なかつつのお)、底筒雄(そこつつのお)」
「向櫃男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」
むか ひつ お も おそ お ふ いつ み たま はや さ のぼり 尊」
E「宇流助富利智干(う る そ ほ り ち か)
F「践立(ほむたち)」「田裳見(たもみ)宿禰」
@Fの本文にはさまって、A〜Eの人名は「一書に云う」の細字で書かれた部分の人名です。一書
の部分は〈日本書紀〉の著者が何かいいたくて挿入した部分といえます。テキスト脚注も、「この
一云が神功とはまつたく別の記録であることを示す。」とされています。Aの仲哀も脚注では
「・・・・神代の皇祖ー皇孫・・・・(11代)垂仁や仲哀とは別の存在とみなすべきである。」
というのもあり、神代の皇孫というのは神武天皇などを指しそうですから、11代くらいから別の系
統があるということになると同時性もありうる、例えば一個人には4人の祖父母がおり、その
個人は4系統から語らないと見えてこないことになる、とするとそういうことはありえます。
@〜Fの流れからいうとここは「新羅」のようです。神功皇后新羅征伐という話のところです
からそれでよいはずです。Bのあとで
「鹿の角」
が出てきますので、全体、越前色もみられるところかもしれません。@は新羅の人の長い名前
をなぜもってきたかという出発点になる人名ですが、これが越前色ということになるのかという
ことが問題とするところです。
@の二人目の応神天皇 Aの仲哀天皇、は気比神社の祭神ですから越前です。Bは
佐波乃矢、の鯖江で越前、Cの「穴戸」は「長門」とされており、「穴門」と同じと見てよく、
穴門には神功皇后の宮室があって、ここは、神功皇后の属性と言ってよいところです。
「神功皇后」も気比神社の祭神です。「穴門の豊浦の宮」ですが「豊浦」は蘇我蝦夷を想起させ
ようとしています。蘇我と越前は鯖江がむすぶものです。Cの「ほむたち」も@の「ほむた」+「ち」
という、子息の応神天皇の「ほむた」を取り込んだともいえます。「誉田」の「田」は、ここに
「水田」「大田」
を「践立」が貢いでいますから、「田」が意識されています。したがって「田」は「の」という意味になり
「誉の立」という感じです。ここに
「十二月一四日、誉田(ほむた)天皇{応神}を筑紫で生んだ。・・・・・その産処を宇彌(サン
ズイあり)(福岡県宇美町)とよんだ。」
とあるものです。神功紀9年の条だから主語は皇后と思いますが書いていません。先ほど
仲哀九年十二月一四日といわれているのは神功の69年の摂政の60年、その前紀9年の
9年が在位9年の仲哀と重なっているということでしょう。というのは仲哀については別に
仲哀紀があるのにそこには書いていないからです。仲哀の后が神功ですから
仲哀天皇
‖ーーーーー誉田天皇{応神}(第四子)
神功皇后
という関係になりそうなので、神功皇后のところに入れたのは、どちらの子かということが問題になる
からでしょう。また慈円は応神天皇を「仲哀第四子」と書いており、誉田皇子の他仲哀天皇に三人
の子がいたという纏め方をしています。神功皇后のくだりで
「武内をもて後見と為。応神の兄の御子たち謀反の事有りけり。武内大臣みなうちかち
(ルビ=勝)てけり。此の事さのみは代々に注(しるし)つく(ルビ=尽)しがたし。」〈愚管抄〉
といています。最後の一文は、書きつくしにくい、といっているのは明らかですが、日本史では
書き尽くされているという意味でしょう。武内宿禰の武勇の凄さが出ています。古代の世界、慈円の
世界でこれだけの人士がいるのかどうか、違ったもの、共通のものの錯綜の認識は、統一的説明
の衝動を呼び起こすものですが、慈円はそれを極端な形で提示しているかのようです。あの
神武天皇もこれほどではなく、神武天皇の稿で書いていることといえば、
「ウノハフキアワセズの尊の第四子。」「御母は玉依(たまより)姫。」「生母は海に入・・」
「玉依姫は養母也{云々}。」「祭主をおきてよろずの神を祭り給ふ。」
というようなことで、祭主のことを書いており、勇ましいことはないわけです。生みの親が子の
名を「ウガヤフキアエズ尊」と名付けたらどうかといったから、ここの「ウノハフキアエズ」は、母親
(生母)のことと取れます。しかるに本文では神武天皇は「ウガヤフキアエズ尊の第四子である。」
といっていますから慈円の云う「ウノハ」の方は「母であり、子である」ことになり、慈円は絶対矛盾
の自己同一の存在を作ってしまったわけです。ここで養母も「御母」という表現が使われる、今日
いうよりも母の概念が広いというようなことをいったのでしょうか。神武天皇もこういうことですが
「武内宿禰」に匹敵する人物が出ているわけです。ショ明天皇の条
「大臣蘇我蝦夷臣・・・・・・・群議にしたが(従)わぬ輩。このとよら(豊浦)の大臣いくさ
(軍)をおこ(発)して打はら(払)ひてのち。大臣の子入鹿国のまつり事をして。威父大
臣に勝る。」
皇極天皇の条では
「聖徳太子子息。入鹿事によりて・・・・・・・」
「豊浦大臣の子蘇我入鹿世の政をと(執)れり。」
があり入鹿は現代と同じで、両親から生まれたようで、それが明らかとなってるといえます。
古代の英雄、「武内宿禰」は、「武内スクネ」と「武内宿禰」の両面を具有した人物といえるので
しょう。応神天皇を保護し、応援し力を発揮できる地位につけたようです。
武内スクネ
‖ーー応神天皇
神功皇后、
慈円が書いている、応神天皇の兄皇子の謀反というのは、仲哀天皇の子息なのかもしれません。
とにかく神功皇后の子が、皇后の跡継ぎになったということになります。武内宿禰というのは六代
後見で280余年を経たと慈円は書いていますが
景行 成務天皇 仲哀 神宮 応神 仁徳 計
60 61 9 69 41 87 327
この六代では327年になりますので合わないことは既述ですが、内容に立ち入れば
○景行の51年に武内宿禰大臣登場だから、327−51=276
○成務の即位が景行43年で、このときの登場といえるとすると327−60+17=284
となり、後者で280余年となるから、武内期間が17年在ったといいたいための難問といえるの
かもしれません。前者の51年というのは景行60年に9年を余すから、どうしても仲哀の9年に
眼がむけられることになります。つまり武内でみれば
前9年+成務期61+仲哀9
‖
神功前9年+神功摂政60+応神41(仁徳期はほとんど活動がない)
の期間中(180年)の活動なので影響が大きいわけですが、1/3しても60年になり、武内が
60年というのは、ありうるかもしれない一個人の活動期間のギリギリのところで悩ましい数字
です。期間的には@ABがある、しかしこの上下がラップしていそうでもあり、且つ同時的にも
武内二人はありうる、これだけ記紀の紙面を埋めながら、語られない武内宿禰は、280年、8代
ウシロミなど、長期、多角的な構図で語りに使われたということになります。280年などという時間
の長さだけに目が向きがちですが、例えば八人の子息がいてその後見という同時期の空間的な
8代というのもありうるわけです。
、時空を越えて複数になっているというのはこの場合次のようなことになるのではないかと思い
ます。両性を具有する人物として造形されたと直感できる人物として、蘇我蝦夷などと好一対で
す。成務天皇は、武内宿禰と同じ日に生まれたということですから二人は重なるということになる
のでしょう。成務天皇は男の子がなく甥の仲哀天皇に位を譲りました。男女のことが極めて重要
で常にそのことが響いてきます。慈円は「御子なし」と書いています。
成務・武内宿禰ーーーー子息なし
‖(武内スクネ)
ヤマトタケルーーーーーー仲哀
‖(タケウチスクネ)(武内宿禰A)
神功ーーーーーー★応神天皇(八幡大菩薩)
となるのかもしれません。
成務天皇の舎弟が(武内スクネ)となるので、仲哀が成務の甥となる理屈です。次の世代も武内
宿禰がAとして生きてくるのでしょう。同時代的にも武内宿禰に(スクネ)が常に内包されています。
聖徳太子も、あの聖徳太子として語られる場合と、「聖徳太子・ショウトクタイシ」として語られている
場合があると思います。つまり、戦に強い聖徳太子もあります。
この武内宿禰大臣Aと蘇我蝦夷大臣の武勇が古代において好一対でした。これに対応する
人物は神功皇后と聖徳太子ということになりますが、蘇我ゑみしのことを神功皇后で語るという
こと がありえます。聖徳太子が書いた歴史書が〈記紀〉になったものですから聖徳太子の周辺のこと
が叙述の中心となり、他者を持って聖徳太子をの多面性語るということも行われます。
★の「誉田天皇{応神}」は「神功紀」の前九年の終わりに誕生の記録があり「産み処」「ウミ」
が出ていました。これは神武天皇の母のところで出てきた「海(ウミ)」と関係はないとはいえない
でしょう。「大海人皇子」(天武天皇@)の「海」も同じです。応神天皇は
「今の八幡大菩薩。此御門(みかど)也。」〈愚管抄〉
となっています。八幡は八幡太郎義家が有名で、八幡=源氏の義家と結んでしまいますが、
応神天皇がその始めです。しかし応神天皇となると、
在位41年、71歳で即位し、101歳で没(愚管抄)(日本書紀では110歳)
その子の仁徳天皇は
在位87年、24歳で即位し、110歳で没(愚管抄)(日本書紀では年齢記述なし)
というような中での人物であり
、はっきりした事績のある八幡太郎に行ってしまうのは仕方がないことです。★は蘇我えみし
の子としても取られています。すなわち「蘇我入鹿」が隠されています。慈円のいう「御門」という
のは蘇我大臣蝦夷の「上の宮門(みかど)」「子の入鹿臣の「谷(はざま)の宮門」というのを想起
した表記といえそうです。八幡信仰の元祖は事績のあきらかな「蘇我入鹿」で、これは、先ほどの
仲哀の在位「
九年」、神功皇后摂政期間「六十九年」(9+干支一回り60)、の
「前九年」
も語りに生かされているのでもわかります。
八幡太郎義家は「前九年」が属性で「八幡太郎義家」といえば「前九年の役」です。前九年と
いえば、奥州衣川で、「八幡殿」が
「衣のたてはほころびにけり」
と云いかけ、敵将「安倍貞任」は
「年をへし糸のみだれのくるしさに」
と付けたという故事で有名な戦です。この歌のやりとりのことは〈常山奇談〉にも書いてあります
ので、そこからの引用ですが、〈常山奇談〉では「八幡太郎義家」は人名索引に洩れていますの
で中々見つかりません。大田道灌の話しがあったその近辺に載っていたことを思い出し、大田道
灌から間接に探すのが一つの方法です。太田道灌「上36ページ」で引きますと 「太田持資歌道
に志す事」の題でで
「七重八重花はさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞ悲しき」
が出ていました。もう一つ「下196ページ」で引きましたが出ていません。多分198ページだろう
と 思ってみますと、「古の名将学問和歌を嗜まれしこと・・・・・酒和田喜六器量の事」で
「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」
があり、ここで太田道灌が出ています。この後者の「太田持資{道灌}」のあと
「八幡太郎義家、安倍貞任、宗任」
と八幡太郎義家の学問の師とされる
「中納言匡房」「中納言」
が登場してきます。匡房は大江匡房ですが、「大江」を常山は書いていません。したがってこの
人物を知ろうとする場合は、人名辞典では容易に見つけ出せません。ネット検索では、下(しも)
「中納言匡房」だけで、「大江」を知ることができ、鎌倉政権の政所別当いわゆる「大江広元」は
その曾孫というのも判ってきます。八幡太郎義家は「前九年の役」のあと大江中納言匡房に学び
これまたその属性ともいってよい「後三年の役」で、「雁がにわかに驚き飛び乱れける」をみて
伏兵を察知し戦果を挙げています(常山奇談)。この「後三年の役」で脚光を浴びるのが義家弟
「新羅三郎義光」
で、義光は、義家を応援すべく、ひそかに陸奥へ下向し解管されます(年表)。九月に下向し十二月
には「後三年の役平定」(年表)となっています。この人物は義家に重なったともいえますが「新羅」
=「しらぎ」で、「新羅神社」「白羅神社」の名とともに有名で甲斐の武田などの遠祖です。
「前九年」の出てきた神功の子息「八幡」→前九年の役の「八幡」、後三年役の「八幡」、
の流れが持続され「新羅」で受けられるような説明は、無理がある、と思われがちですが
「前九年」のことから色々重要なことが出てきて波及することは大きく、その中のほんの一つに過
ぎません。例えば「「前九年」「後三年」の戦いは「九年」,「三年」というのは、カウント方法から
問題となっていることです。年表では
@前九年 「1051・・・前九年の役はじまる(続文)」 「1062・・・前九年の役平定(陸奥)」
A後三年 「1083・・・後三年の役はじまる(後三)」 「1087・・・後三年の役平定(本世)」
@を単純に引くと11になり、Aは差は4です。はじめと終わりを抜いて中を取るのか、改元が関係
するのか、3で割れるようにしたのか、難しいことが出されています。前著から3で割ることをいって
きましたがそれは応神で収束されそうですが、一つの要のところが八幡の応神です。慈円は
「継体」のくだり
「応神五世孫者・・・・・五世と取る事は応神を加えて数うるか。除くか。神功皇后をも開化天皇の
五世の孫と云々。其れは一定開化を加うる定なり。・・・」〈愚管抄〉
のようなことをいっており、カウント方法のことなので、「前九年」「後三年」のところも踏まえて
何か警告しているのでしょう。
神功の前九年に八幡の応神が生まれ、この八幡が八幡太郎に継承されたことを示し、
この前九年は実質三年だというのが、後三年というのでしょう。つまり前/3=後、となる1/3を
教えたといえるのかもしれません。
いまは、万葉仮名のことを云ってきて、新羅の大将の表記に触れてきましたが、この括り
でいえば、わからないままで放ってある甫庵信長記の次のものがありました。
「時永午夷則如意珠月
万年亀洋派下巣葉瀬(リッシン篇)安痩(ヤマイダレなし)」
これが万葉仮名のことをいっているのかもしれません。「如意宝珠」は慈円も
「仲哀皇后 九年・・・此時皇后豊浦の宮にて如意宝珠を得たまえり。海の中
より出き(来)たり。大臣武内宿禰」
と書いています。如意珠は神功皇后の属性で豊浦も武内宿禰
もそうです。武内宿禰などネット記事では蘇我氏の祖と書いてあるのもあるくらいです。下の方は
万葉仮名の積りで書かれているのは明らかで、これは新羅の大将のように一字一音で読むよう
です。松氏(松永)や太田和泉は朝鮮語も分かっていて書いているとすれば、これは手に負えませ
んが、新羅の将の例からいうと案外前著のような武将一人の読みになるというのもあるのかも
しれません。まあいいたいことは、万葉仮名は新羅出身の人の力に負うところ大だった、といえる
のではないかということです。人麻呂安麻呂というような。
(51)大江中納言
湯浅常山は大江中納言匡房を起用して、八幡太郎義家と「前九年」「後三年」を出しましたが、
これは「名将」太田道灌、酒和田喜六を語る中で出てきたことで、常山は太田和泉守が大江中納言と
して出てきています。中納言というのは水戸中納言の中納言も含んでいます。
「大江広元」は〈甫庵信長記〉にあったと思いますので、確認のために索引をみますとありません。
たしか「陶五郎隆房」の載っているところにあったということで「陶(すえ)」で見ますとそこから
「鎌倉三代将軍の執権因幡守広元、始めて大枝を改めて大江の姓を賜ふ。」〈甫庵信長記〉
がありました。索引にないのはここの大江広元にも「大江」が抜いてあるからとみられます。
まあ、「大江」とか「因幡守広元」とか「広元」だけの表記もあるから本当は索引にあるべきですが、
基本的に時代が違うということで抜かれています。昔の人の読み方と違ってくるのはありえる
ことです。ここには
「安芸国毛利陸奥守大江朝臣元就」〈甫庵信長記〉
が出ており、ここで大江が出ているので索引をフルネームで「も行」で見れば大江がキャッチできます。
甫庵は毛利元就の父も広元といっており、「大江広元」の末が中国の太守毛利家というのは、
これによると言いたげです。もう一つの「毛利」=「森」が潜ませてあり
「安芸」=宍戸安芸守隆家(毛利元就の婿)
「毛利」=森
「陸」=久我・久賀
「奥」=尾久・小九・古久
「大江」=大田+枝
「朝臣」=大臣の最初武内宿禰
「元」=「基」「本(本巣)」「長曾我部元親」の「もと」
「就」=安藤守就の「就」
とかがどっと押し寄せる表記です。毛利元就の急死した長子、隆元は大内義隆の「隆」を貰ったと
いうことですが「宍戸隆家」や「陶隆房」という「隆」もあります。「陶隆房」は青史に名高い厳島の戦い
の一方の雄「陶晴賢」のことでしょうが「五郎隆房」ともなると語りの「陶(すえ)」も出てきます。
この「大江」「毛利(森)」などが出てくる〈甫庵信長記〉のタイトルは
「輝元播州上月(の)城を取囲む事」
で、上月城の上月は月・高槻でもあり、ここに
「山中鹿(の)助」
が登場しますが、誰だかよくわからない八騎が出たと思うと古田左介が突如でてきて
「中にも古田左介、真っ先に進み来りけるが彼の者どもの働き問い分けてぞ帰りける。」
となっています。おそらくこの中に「森弥五八」という人物がいたので八騎とカウントされた、その
「森弥五八」から「森弥五」が出てきたと思いますが、とにかく「古田」が出てきます。このあと
「陶(すえ)五郎隆房」
が出てきましたから、古田と、陶器が繋げられてきました。「すえ」といえば桶狭間における
今川義元の所作
「謡をうたわせ陣を居(すえ)られ候。」〈信長公記〉
があります。
この「居」は「伊」「猪」「井」・・・の「い」でもありますが「すえ」と読まれたことが
「居(すえ)」=「陶(すえ)五郎」=古田左介=「居(おり)」=「織(おり)」
となる一方
「陶(すえ)」=「居」(すえ)(い)=「居初(い そめ)」
にもつなげられます。つまり
「堅田の住人猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初(い そめ)又次郎彼等三人・・・」〈甫庵信長記〉
とある
「居初(い そめ)又次郎」「居初(イ ソメ)又次郎」(信長公記)
の「又次郎」が「太田和泉」といってもよい表記になるので、また「いそめ」と入力すると
「い染め」
が出てくるので「陶」につきものの「染」が出てきて、太田和泉、古田左介が山中の鹿と大江に
繋がって出てきたということになります。一方〈明智軍記〉では
「居初(イ ソメ)又次郎」(信長公記)は
「磯部(イソ べ)又次郎」(明智軍記)
と似ても似つかぬ表記と読みになっており、とまどうところです。この心は、既述〈甫庵太閤記〉
の「長曾我部」に対する特別な読みを〈明智軍記〉の著者が利用して、〈甫庵信長記〉の「山中鹿」
を解説したといえそうです。つまり、長曾我部の読みは
「土州長曾(ちやうそ)我(が)部(め)居城、ちようかの森・・・」
となっていました。
「部」は「め」
と読めということですから「磯部(いそ め)又次郎」となりますので、
「居曾+部(め)」
と「曾我」との関係も出てくることになります。「陶芸」と「蘇我」の両方同時に又次郎に引っ付けて
打ち出したというのが、この「いそめ又次郎」の「居」「磯」といえます。つまり磯部は
「居初(い そめ)」は「いそ め」
もあるよ、ということであり「い々そめ」「いそ々め」がありえます。「井伊・染め」「伊蘇・曾部」も出
てきます。また「居初」は「初居」でもあり「い 染め」は、「染め い」で、
「染井」
が出てきます。「染井吉野」は「おおしまさくら」と「小松乙女」が親のようですが(ネットニュース)、
「おおしま」は
伊豆大島もあり、長門国にもあります。「山口県大島郡周防大島町(小松村)」の大島です。一方の
「小松乙女」は上野が里ということですが、これは上野公園に小松宮の碑があるところから来て
いるようです。「小松郷」というのには、「小松島」というネット記事があり、仁和寺の寺域のある
処の小松郷が出ています。「島」も同時に出て来ていますので、「小松島」は「小松+大島」かも
しれません。「薬師院」の献上品に「小松嶋」があり、「島」は戦国では
「島弥左衛門」〈甫庵信長記〉
が飛び出し、読者を煙に巻きますが「島王」は〈書紀〉にあり、「斯摩(しま)宿禰」も出てきて
「斯摩宿禰は、なんという姓の人かわからない」〈日本書紀神功紀〉
となっており、「志(ルビ=斯)摩宿禰」と炙り出しをしているのも〈日本書紀〉で、長門国が属性
といってもよい「武内宿禰」も想起されますが、志摩は伊勢志摩とセットで「伊」はついて廻ります。
伊勢の伊と、伊都の伊は、通っているかもしれません。とにかく長門の小松と、仁和寺の小松が
近い、御室の「室」、「室の八嶋」「岩室」の「室」などは、一個人の頭の中では、繋がり得ます。
おかしいというものはあってもつなげようとする意思があれば手段があるということでしょう。
いずれにしろ「仁和寺」は「野々村仁清」ゆかりの寺で「仁清窯」「御室焼」が寺の属性です。
天正6年11月24日、〈信長公記〉に、織田が中川清秀を味方にした記事があります。
「中川瀬兵衛御身方仕候。調略の御使、古田左介・福富平左衛門・下石彦右衛門・
野々村三十郎、四人の才覚なり。・・・・・・」
この記事の四人は古田左介以外は一見してわからないわけです。ここの「野々村三十郎」が
「陶」に関係ある人だというのは古田があるからそうかもしれないというのが出てきます。〈武功
夜話〉には「野々村三左衛門」という表記もあり、森三左衛門と「仁清」が結びつきそうだという
のもこの一文の古田の陶器のおよぼすものといえます。仁和寺の小松郷も、結局〈奥の細道〉
にも出ている北国の小松郷が根底にある小松といえます。〈奥の細道〉では「居」は「雲居禅師」
に反映されています。その場合「居」は「こ」という読みになりますが、その「居」は多様に意識されて
いると思われます。須賀川は奥州の入口となりますが関をこえたところです。ここで須賀川の
等窮(相楽伊右衛門)を尋ねています。等窮には著書「伊達衣」もあり「伊」という字が出てくる感じ
です。ここで
「風流の初(はじめ)やおくの田植うた」
の句を作っています。〈芭蕉全句〉の解釈では、
「折りしも田植の盛りで、みちのくの田植歌が聞かれるが、・・・これこそ奥州路にはいって
最初に味わいえた風流であると感じたことである。」
となっています。筆者としては、この前に「風景に魂うばはれ」が出ており、そのあとの「風流」
は「風景」「風流」の「風の流れ」の風流もあると思います。つまり歌は風に乗ってのような感じで
風景→→→田植(動作)
風流→→→歌 (声)
で歌が聞こえてきたことによってハッとしたという感じで「風」が吹いているような解釈がほしいと
思うだけです。理由は〈奥の細道〉ではないのですが、この句の前後に「白河」「古道」という
前書きの入った「能因」の「秋風」「西風」の歌を取り込んだ句があり、「風」が通されているから
です。つまり「古」に挟まれたおくの田がでたということです。この「初」について多くの見解が出て
おり収拾がつかないようです。素直にとれば脚注にあるような田植が風流経験の最初、と
いうことになりますが、初めの終わり、はじめに、これほどのものにじめに出くわした、たいしたとこ
ろだというのかしれません。「風」に諷刺の「諷」を読み取る見方もあり、それをあと述べたいところ
ですが、その場合、筆者の「初」の読みは「染める」の「染め」となるという特異なものになります。
この句の少し前に「懐旧に腸を断つ」という強い表現があり、能因法師の
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」
などの古歌、故事を想ってという通説の見解には従いかねるものがあります。
能因法師・その作品の、表記や、属性などが利用されます。まあ芭蕉の世界では能因法師も@A
があるのでしょう。須賀川の場面は、
「霞」「秋風」「白河」「関」「能因法師」「伊達」「あぶくま」「会津根」
などの背景の下
「・・・卯の花・・・清輔・・・相馬・・・山・・・かげ沼・・物影・・すか川・・・等窮(相楽伊右衛門)・
・・・風景・・・・風流・・・・・・・・初(はじめ)・・・おく・…田植うた・・・・・脇・・第三・・・三巻・・
・・栗・・・木陰・・・・僧(可伸=簗井弥三郎)・・・・橡ひろふ太山(みやま)・・・・・
栗・・・西の木・・・・西方浄土・・・行基・・・・杖・・・・此木・・・・栗」〈奥の細道〉
という語句が並べられています。ここは既述のごとく全体、森色、大田色があり
「卯の花」・・・・・武井夕庵の歌
「清輔」・・・・・・・竹田氏
」 「須賀川」・・・・・「洲賀才蔵」(信長公記)の須賀、才蔵は、可児才蔵、霧隠才蔵の原型
「等窮」・・・・・・・藤斎、「楽」は「太田三楽」の「楽」、「伊」は「惟」
「西」・・・・・・・・・「安西」「安斎」(信長公記)から「斎」=「西」
「初」・・・・・・・・・「居初又次郎」の「又」「次」、「染物ー灰屋紹由」、・・・・・
「おく」・・・・・・・・「奥村」、「小久」、「尾久」・「古久」・・・奥州八幡太郎、陸奥守元就・・
「田植」・・・・・・・「太田」の「田」、「植」は「木」+「直」、「塙直政」「井伊直政」の「直」
「脇」・・・・・・・・・「佐脇藤八」「宮脇又兵衛」の「脇」
「三巻」・・・・・・・「みまき」のルビも有り「御牧」「御真木」
「可伸」・・・・・・・「可成」「長可」の「可」、「古田可兵衛」の「可」
「弥三郎」・・・・・「祝弥三郎」(信長公記)、簗井弥三郎=矢内弥市右衛門
「橡ひろふ」・・・・芭蕉文献における「如水」の動作
「太山(みやま)」・・・「太田」の「太」の山で「太田山」=長良川の源の山
「栗」・・・・・・・・・「黒田」の「栗山」、「栗田彦兵衛・栗田鶴寿」兄弟、粟屋越中守
「浄土」・・・・・・・那須大関の浄法寺図書の「浄」
「行基」・・・・・・・「基次」の「基」
「此木」・・・・・・・「柴」→「斎」
というようなことになりますが、これによりバックを流れる能因法師が同時代化された、つまり、
能因法師Aが武井夕庵、太田和泉に擬せられているといえます。能因法師というのは
「能」は「能登」の「畠山」、「法師」というのも夕庵にふさわしく「因」も重要な人物が出てきます。
(52)因果居士
「居士」は「道足大居士」(安藤大将)がありました。
『五山の内にても物知りにて候日野の秀長老召上(めしのぼ)せらる。
折節、因果居士参られ候。是も相添えられ・・・』〈信長公記〉
五山の上、南禅寺の景秀鉄痩(病ダレなし)でさえもきて欲しいと呼び出しがかかったのにこの
人物は偶々きて参加したというのです。太田牛一が敬語を使っていて、是は重要人物だといってい
ます。テキスト人名注では
「自筆の書物や作詩も残っているが履歴は不明。(辻善之助氏〈安土宗論の真相〉〈日本
仏教史之研究〉所収)」
となっています。このように、取り上げた人もいますし、一般向けの〈甫庵信長記〉にも載っている
から、江戸時代の人は知っていたといえます。〈信長公記〉の人名索引では「い項」の最後
岩室長門守
因果居士
という形で出ています。現代式索引で、「いわ」がたくさんありますが「岩室」は「む」なので最後
の一つ前です。一応因果を岩室長門守で暗示したととれます。〈甫庵信長記〉では
岩室長門守
因果居士
印枚(いんまい)弥六左衛門尉
となっており、一見「弥六」から印枚は太田和泉ではないかと取れます。さらに「印」は
「二位法印(武井夕庵)」
の「印」ですから二つ並べると「因」=「印」と云いたそうです。「枚」は「牧」が一番似ており「真木」
が出されているといえます。何よりも
「因果」
という名前は、時の人がリーダーに与える最大級の賛辞がある、と思われます。よくない現象の
解消は、因果に基ずく的確な問題点の把握、提起が基です。雑多な出来事のなかから核心に迫
れる眼がある、因果関係に厳しい人だからそれができる、太田和泉守はそういう人というような
ものでがあるということになるのでしょう。本人もこの「因果居士」という名前には執心があると
みえて「印枚弥六左衛門」について長々と語っています。
「爰に不破河内守が郎等に、原賀左衛門と云う者、印枚(いんまい)弥六左衛門尉と云う
兵を生け捕りて参る。・・・(いかにして、捕えられたのか聞かれ)・・・前田、佐々、福富、
下方、岡田など(と戦ったが)・・・・・膝の口したたかに突かれ・・・・(信長に仕えるように
いわれ感謝して)・・・腹十文字に掻き切って失せにける。義士の働き、快ようも振舞いける
とて感ぜぬ人もなかりけり。」〈甫庵信長記〉
あり「膝の口」をやられたので太田和泉守でしょう。このあとに「金松又四郎」も登場します。「因果
居士」は太田和泉であるとともに「居初又次郎」の「居」を「こ」と読ませる例を二書が出したという
ことになるのでしょう。〈信長公記〉にもこの「印」が出てきていますがルビが
「印牧(かねまき)弥六左衛門」〈信長公記〉
となっているため、索引には「い項」では出てきません。
「印(かね)牧」
「印(いん)枚」
の炙り出しはいろいろのイタズラを生んだようです。「金松」も出たので「印(かね)印(いん)」は
「金印」になり、黒田の金印を生み、安土城に金工の後藤もいました。「牧(まき)枚(まい」は
「木米」になり、木工兵衛を生みます。「松印」=「相印」=「宗印」にもなりそうです。
「印牧(かねまき)弥六」
から伝説的剣客「鐘巻自念斎」が出たのではないかと思います。先に、「富田弥六」(信長公記)
から「富田勢源」が出たというのと同じです。いずれも「佐々木小次郎」をクローズアップするという
役目がありそうです。太田和泉が小次郎に、剣術を教えたというようにもっていこうとしている
と感ぜられるのは〈信長公記〉も印牧の活躍には半頁を割いて「前代未聞の働き、名誉是非に及
ばず。」と締めています。太田和泉守は佐々木小次郎を知っているのかもしれません。この初は
居初ということにもなると「猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初又次郎」からうけるもう少し芭蕉に近い
世代の人も出ていそうです。芭蕉が、能因法師を「能因法師A」として捉えているとしますと、この
「すか川」等窮の一節は別面がでてきそうです。能因法師の名前は
「古曾部入道」
で古曾部焼は「高槻」です。古曾部焼はいつの発祥かは問題ではなく、「古」「焼き物」「高槻」を
教えてくれるものです。「古曾部」の「曾部」も「そめ」が出ていて、「古田」の「古」とセットされたと
いうのが利用されたといえそうです。古田左介や「山中幸盛」「陶五郎」「毛利大江」が顔を出す
〈甫庵信長記〉の場面に「宮崎長尾」が出てきますが、「宮崎鹿目介」の「宮崎」で入鹿の鹿が出て
きて、「長曾我部」の「曾(鹿)部」が出ているといえます。芭蕉が親しい「等窮」は父が松永貞徳の門人
ということですが、「伊」が属性となっています。「伊右衛門」「伊達衣」「相楽」は「相馬」が出ており
相馬は常山で「伊達」との相克を書いています。
ここの「初」は「居初」の「居」と結べますが、これは「おり」であり「本居宣長」の「居り」ですが
〈信長公記〉の「本折村」の「折」でもあり古田織部の織です。また等窮の「伊」と合して「伊居」となり
古池田の「伊居太神社」が出てきます。ここの祭神が「穴織姫」です。これは「穴」「太」が加わる
ので芭蕉の頭にあると思わ
れます。相撲で「あら鹿」「麻生まれ三五」「青地孫二郎」「太田平左衛門」などと
「木村いこ助」〈信長公記〉
が出てきますが、この「いこ」がわかりません。惑わせてもう一回出して来たときは
「三番打 {木村源五内} 木村伊小介・・・・」〈信長公記〉
となっており、最小限「いこ助」「いこ介」「伊小介」「伊小助」となって4通りです。ここで「伊こ」の
「こ」が「小」「古」「己」・・・・というように宛てられる、というのがあります。ただ「居」というのは、
「い」ですから、この場においては「伊」というのに近い、又、「居」は「古」を内蔵して「こ」と読むというのが
ありますから、「古田」の「古」というのはぼんやり出てきているといえます。
相撲「いこ」から「伊居」も出て、そこからは「伊織」「居居」がでてきて、「織物」「居(すえ)物」
にも至ると、色づけもやられそうです。
居初→伊染→井染→染井→梁井
です。〈奥の細道〉須賀川のくだり本文に
「世をいとふ僧」=可伸=梁井弥三郎
が出てきます。この梁井弥三郎が
「梁井」が「染井」
のもとといえそうです。染井吉野は、東京駒込の染井村が発祥の地で
西福寺にその墓がある「伊藤伊兵衛政武」が、名付けおやとなるそうです。この西福寺は
ネット記事「So-net blog oba san」によれば
「伊勢津藩藤堂家の祈願寺」
ということのようです。この〈奥の細道〉の記事をみて、藤堂家は何か解釈のヒントになるものはないか
ないかと考えた、「伊藤伊兵衛」という「伊」の連発の名前は、創られた名前といってよいようです。
〈信長公記〉に伊東弥三郎あり、伊藤長門守は類書にあります。
等窮と可伸が須賀川登場人物ですが、等窮は「伊右衛門」で「伊達衣」の「伊」ですから、それを
受け、梁井から染井を生み出し、歌書よりも軍書に悲し吉野山、あの楠木正行の吉野から、
「染井村」の「吉野桜」となづけたのでしょう。「染井吉野」は明治になって藤野博士が命名した
ようですが、西福寺伝承を受け継いで命名したことが考えられます。それほど登場人物の名前
に拘りがあるというなら
「可伸」
「可」は「森可成」「森長可」「古田可兵衛」の「可」であり、これは弥三郎からの必然といえそう
です。梁井弥三郎が伊東弥三郎を意識しているならば、〈信長公記〉首巻で弁慶の踊りをした、
「伊東夫兵衛」は「森可成」というのもでてきそうです。つまり有名な挿話、安東伊賀守婿竹中
半兵衛というのは伊東夫兵衛を見れば分かる、可成が安藤伊賀守Aであることも分かると可伸
がいったのかもしれません。
「可」からは「古田」の「古」も出てきます。茶人「上田宗古」は「上田宗箇」の方がメインのようで
す。「可」→「箇」→「古」でしょう。これは「上田宗古」が誘導したのか、芭蕉門の人などが「宗箇」
にしたのか、どちらかでしょうが、昔は「箇(か)」は、「竹」+「固(こ)」だから「こ」として話を進めても
よかったのかもしれません。
「可伸」→「何申」→「河進」で「彦進」の「進」が出てきます。「かしん」と聞くと〈三国志〉の読み
すぎの人には動乱の初めに出てくる「何進」がやはり思い浮かべる字です。「何処(かしよ)」も
ありますので「可住み」となると「矢部善七郎」の「光住」もあるかもしれません。とにかく「須賀」、
「鏡沼」、「かげ沼」、「景」から「景安」の古田が出てきていますから、古田周辺はここで語られて
いると思います。
須賀川の等窮の晩年の名前は「藤斎」というようですが、このトウサイは
福井で「「等栽」が出てくる、その「等」と連携が取られていると思います。つまり「等栽」の動作
「裾(すそ)おかしうからげて路の枝折(しおり)とうかれ立つ」
の「裾」「枝折」「枝織」となって古田につながると思われます。「古曾部」の「染め」、「梁井弥三郎」
伊右衛門に繋がるもう一人の「等サイ」から「伊」「折」と大江の枝が結びつき
「伊居」→「伊折」→「伊織」
「伊居」→「井伊」→「長曾我部」→古「曾部」
「居初」→「井染」→「伊曾部」→古曾部
「陶染」
等となって「可」の古田が出ていると思います。古田は高山と重なる場合があり、控えめになって
古田側から見なければ見えてこない場合があります。次のものはそれが顕著に表われています。
再掲、天正六年
「寅十一月廿四日・・・中川瀬兵衛御身方(味方)仕候。調略の御使、古田左介・福富平左衛門・
下石彦右衛門・野々村三十郎・・・・右四人茨木城警固・・・」〈信長公記〉
で古田が一番先に書いてあって、あの古田とわかりますから、一番の殊勲であろうと考えられます。
この直ぐ後に
「寅十一月廿六日、黄金三十枚中川瀬兵衛に下され、●小使仕候家臣の者三人に黄金
黄金六枚、御服相添え下さる。高山右近、是又金子弐十枚、家老の者弐人に金子四枚、
御服相添え拝領。」〈信長公記〉
となっています。●は信長公の家臣ですが、4人の大将がいて、降将中川瀬兵衛と三人に黄金
を与えますと一人合いません。中川には万石が約束されているでしょうから、古田に与えられてしかる
べきものです。ここに高山が出てきますが、古田に重点をおくと、この場の説明を高山右近を使って
でやった、高山右近以下の文は( )にいれればよいということになるのでしょう。つまり
漢数字の「弐」を使っており金子の種類もわからない、高山右近20枚、家老4枚で、5:1の
比率となっているので、中川30枚:家臣三人6枚の比率5:1と同じです。したがって
中川=古田
にならなければならないことになります。信長公は太田和泉に与えるものを森三左衛門に与えた
といっているのと同じではないか、ととるしかないようです。また高山右近は家老含めて三人ですから、
野々村三十郎が三人の場合があるということを言ったと取れます。
〈信長公記〉では古田左介登場回数は少なく「古池田」の布陣
「・・・一、原田郷、中川瀬兵衛・古田左介。一、刀根山、・・・・・一、中嶋、★中川瀬兵衛」
「古池田」「伊丹表」の布陣
「・・・・一、田中、中川瀬兵衛・古田左介。一、四角屋敷・・・・」
と、先程の「御使」の三件だけです。先に出た「中川瀬兵衛」は「古田左介」が乗っているとみられま
すので、「古田可兵衛」のような他の表記も使って古田を表わすというのがまだありそうです。
とにかく中川古田はこのようにペアのような格好になっており、テキストの人名注で古田左介は
「古田重然(1544〜1615) 中川清秀の従弟。はじめ中川清秀の与力。・・・」
となっています。古田と中川、池田の関係は
○古田織部の妻は中川清秀の妹(名前は「せん」)
○中川清秀の子は池田輝政の妻(二番目の妻は徳川家康娘)
ということが標準の語りとなっています。これでは何も語っていませんがこれでよいではないか
資料がないから仕方がない、資料の発掘を待つ というのが一般の態度でしょう。
中川瀬兵衛清秀@・・・・・中川瀬兵衛清秀A
| ‖ ‖
せん ‖ ‖
池田輝政 ‖
古田左介
与えられた資料からは、これくらいのところが直感的に得られることです。表記的には
○同じ布陣表で★が二人目として出ている
○中川清兵衛もある、中川瀬兵衛重秀(和田惟政を討った)もいる
○中川には「重清」(佐渡守)がおり「水野重清」もある
○中川には「金」という名がある
○「娘」「妹」が混在している
○「古池田」〈信長公記〉が出てくる 「古田+池田」もありうる
○池田輝政は「古新」で「古」がついている
○「せん」は「千」「仙」「泉」があり重要視した名前かもしれない
・・・・
が出てきますが、あの古田織部は余りにも有名で知りたいことは一杯あるはずですが、肝心の
夫人について知りたくて、古田せん、中川せん、について検索してみても出てきませんので
殆どの人は文献は役に立たないと思っている、それが浸透してしまっているようです。こんな
はずないと「池田せん」でやってみると、逸話が数点ありました。
「せん」殿の前夫が池田輝政で、離婚後300日経って信長の許可が下りたので後夫古田が
妻としたということかもしれません。とにかく仮説を立ててやってみることが発見の近道でもあり
ます。戦国期を知るための価値のあることがらであり、あとずさりをしていてはなにも出てきません。
(53)西山宗因
古田織部はこのように控えめに出てきますので、芭蕉の「おく」の「初(はじめ)」に出てくるといって
もわかりにくいのは仕方がないといえます。能因法師Aの「因」は因果居士の「因」ですが、
「伊」も「いん」で「因」ではないかと思います。〈甫庵信長記〉に殷の宰相
「伊尹」(いいん)(但し原文ではルビなし)
が出ており、「にんべん」+「いん」が「伊」ですから、これは「伊」は「いん」と読むつもりかもしれないと
というものがあるととれます。辞書にも「伊部(いんべ)」があり、「にんべん」の漢字は右側の字の
読みを引き継ぐものが多いようです。「伊」「因」の「いん」の背景をもつこの一節は「西」が多いのは
すぐ感じとられるところです。つまり栗は「西+木」です。
「此
宿(このしゆく)の傍に・・・西ー木・・・木・・・・山・・・西ー木・・・西・・・木・・西・・・西ー木」
となっており、「山」も「みやま」があり、
「西山木因」
がでていそうです。
ここか一字違いで「西山宗因」で出てきているのではないかと思います。「木因」についてネット
ヤフー見出しで550ほどあります。例えば「芭蕉と大垣」(binyou)によれば
「美濃俳壇は斎藤徳元や岡田将監によって芽生えたが大垣俳壇は地元の指導者谷木因を
得て貞門談林の風潮に触れて成長してきた・・・この芭蕉来柿の経緯にも谷木因の力が
大きく働いていたことはいうまでもない。」
と書かれています。また「谷木因 俳句道標・・」(kousyo)では
「江戸時代、大垣が城下町として栄えていたころ、人々の生活に必要なものは、ほとんどが
水門川を利用して船で運ばれてきました。」
で、芭蕉にきわめて親しい「水門川」の「谷」の姿があります。貞門談林というから〈奥の細道〉
に松永貞徳が出ている以上西山宗因は出ているだろうとみていました。湯浅常山では
「伊達政宗胆気相馬の城下に
宿せられし事」
の一節があり、すか川の一節とラップしている地名があります。〈奥の細道〉の
「岩城・相馬・・・・常陸・・・・白河・・・」
を組み入れて「伊達」と「相馬」の物語を書いています。伊達政宗と相馬長門守義胤の確執
ですが、ここに
「水谷(みづのや)三郎兵衛」
が登場してうまく大事に至らずに納める話です。「相馬」に「伊」と接近させる話でこれは
等窮が「相楽伊右衛門」だから芭蕉が「相馬」を出した意味を組んで、常山が「伊」を付加する
伊達を持ってきたということのように思われます。なお機械では「い」は「尹」も出ますので、「いん」
も同時に念頭にあったといえます。ここの「水谷」が「水門の谷」を受けたのでしょう。神功皇后
長門のくだり「水門」が出ており「みなと」と読ませています。三郎兵衛は「丸毛三郎兵衛」
「滝川三郎兵衛」があり、「水谷」は「みずや」で「水野」に通ずる、みずのやは水野屋も想起
されます。ここの伊達政宗は太田和泉を乗せており、ここの「相楽伊右衛門」という表記を
意味づけたということになりますが、「伊」が「俵屋宗達」の「伊年」に掛っているというのもあり
そうです。「胆気」の「胆」は、芭蕉に胆があったから太田和泉かもしれないと思いましたが
ながい時間を費やして「楠木正成」を探して確認しましたが違っていました。正成の出ている
ものは本文ではなく前書きで
「正成(まさしげ)の像 鉄肝石心(てつかんせきしん)の情
撫子(なでしこ)にかかる涙や楠(くす)の露」(芭蕉庵小文庫)
です。「胆」ではなく「肝」でしたので徒労に終わりましたが「肝胆」という語句があったための
間違いです。ただ、〈信長公記〉には「楠木長安」がでており、人名録では正虎とされており、この
細字の正茂は政重にも代わりうる、芭蕉は鉄肝石心は太田和泉のこともいっていると取れる
ところです。この(芭蕉庵小文庫)の一つ前にある(ちくま文庫のものは時系列になっている)句が
同じく像をみてのものです。
「丈山(じようざん)に謁(えつ)す
風薫る羽織(はおり)は襟(えり)もつくろはず」
ですが、丈山は「洛北一乗寺村に隠栖して詩仙堂を築いた有名な江戸期の漢詩人」の
石川丈山
です。湯浅常山も取り上げており、おそらくこの「じょうざん」は「常山」という名前に影響を及ぼし
たと思われるほど長い文があります。「石川長門守」+「武」+太山の「山」で太田和泉が意識され
ている上にここの、同時期、同句集の「像」が、また「石」が楠木正成と石川丈山を繋げたので
芭蕉において楠木正成と石川常山と太田和泉が重ねられて語りの材料にされたということに
なります。ここでは一つ羽織の「織」が出てきます。「折」「居り」もついてまわります。
楠木の方に「撫子」が出ているの念のためみますと
★「酔(ゑ)うて寝む撫子(なでしこ)咲ける石の上」(真蹟詠草)
があり、撫子が石とセットで出ています。
「石が散っているような河原であろうか」、「“納涼”と前書した真蹟短冊も残る。」「赤冊子草稿
にも所収」など校注者のコメントが出てます。ただ上は田植の植があるのは確実でしょう。常山の
「丈山」には「田上(たのかみ)右京」という人物が出ています。江戸期も後半の人ならば、この常
山の田上を読んだ辺りでは上田宗古という名も思い浮かべるものでしょう。
「(朝倉)義景本陣田上(タ ガミ)山」〈信長公記〉
があり、ここは「滋賀県伊香郡」にあり、「景」「伊賀」が出て、このあと太田牛一は
「刀根山」(待兼山=松金山)、「金松又四郎」
を続けて出していますから、古田も「田上」などから浮かんでいるはずです。
〈芭蕉全句〉「ちくま学芸文庫」の季語の索引の「た行」で「田植」があり
@田植 下三八八 → 「柴付けし馬の戻りや田植樽(たうゑだる)(田うへ樽)」
A −植う 下二三三 → 「田一枚(田一牧ママ)植えて立ち去る柳かな」
B −田植歌 下二三七 → 「風流の初や奥の田植歌」
の三つです。本文では@の前書が省かれています。本来「蔵田氏の亭」という前書があるはず
なのを抜いてあります。「窪田」とすべきを「蔵田」にしたようだから曖昧さから抜かれたと思いま
す。ただこれは痛いという感じです。「田」が一つ抜けることもありますが、「窪」が甫庵によって
使われているから、「蔵田」は誰だというのを契機にしてそこへ行き着きます。
田植は植田もありえます。田植樽は田植酒のことですが
「だる」が入ったので「田植田々る」というのが出てきて「うへ田」があると思われます。
Aは〈信長公記〉の「印枚」と「印(かね)牧」→「金松」に「植え」がつながるわけですが、この句は
西行と遊行の柳をもとにで作られているもので「西行」の「西」、「すか川」の西に関わっているのは
明らかです。奥の細道の「酒田の湊」(本当は大が水の湊)で
「能因嶋(山が島の上にある嶋)・・・西行法師・・・神功皇后・・・」〈奥の細道〉
で西行法師は「印」「因」を西につなぎ、、長門の神功皇后、長門の湊(水門)につないでいます。
もう一つの遊行の柳は越前の敦賀(角我)で
「けいの明神・・・・仲哀天皇・・・・遊行二世の上人・・・」〈奥の細道〉
出てきて芭蕉は、仲哀ー神功夫妻を戦国の世に呼び出しているといえます。また自分のすか川
のくだりにも活用したといえます。行基上人志の人ということでした「越」がはいていると思います
すか川の冒頭に「越」でてきますから懸かっていると思います。まあ太田牛一「たいかうさまくんき
のうち」で
「神功皇后」「志賀島」「長門国」「山中きち内「太田又助」
が出ていますから太田牛一が古典を踏まえ、芭蕉がそれを踏襲するのは当然のことで〈奥の細道〉
でそれが出ているので染井村の伊藤伊兵衛政武も藤堂の芭蕉という観点から、「伊」が出るこの
すか川の一節に目をつけたといえます。「西行」「行基」「遊行」と「行」も三つも出ましたから、「西」
だけでは少し語りの切り口不足があるとすれば補いがつきます。蛇足ですが「楠木正成」には
楠木正行がいます。これは吉野と結びつく人物です。ここの場面は有名な
「桜井駅の別れ」
を画いた絵がもとといえそうです。楠公の時代の、この「駅」というのがよくわからないので、気になって
はいましたが、まあ「宿駅」という場合の「駅」が取られたということに落ち着きそうです。しかし、
ここでまた「駅」に出くわしました。
「須賀川の駅に等窮といふものを尋ねて、四五日とどめらる。」〈奥の細道〉
テキスト脚注では等窮は須賀川駅長だということです。駅が珍しいので引っ掛かると
いいたいところですが、現代では「駅」だけで、何も考えることもなかろうとなりそうです。
吉野の桜は、紀友則の
。 「み吉野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける」
があり、先程の大江匡房には
「白雲とみゆるにしるし み吉野の吉野の山の花ざかりかも」
があり、雪、白雲で、霞の「白」もあり、作者は知りませんが
「吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり」
がよく引用されています。吉野は「白」とされているので江戸では染めようかと努力したのが現在の
のようになったのでしょう。楠木正行は
「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
で「梓弓」、「矢立」が「矢内」(梁井)を呼んだのか、Aの句には柳があり柳井を出しています。
正成ーーー桜井・駅ーー須賀川・駅ーー伊右衛門(等窮)
正行 吉野 梁井(矢内)弥三郎
というようなことで、後世の人が芭蕉がここまで書いているのをみて、
吉野ー桜井ー柳井ー梁井ー染井吉野
と持ってきたと思われます。正行の物語が「すか川」に出たのは、
@の句で「馬」があり、★の「撫子」の句で、「赤冊子草稿」には「此句・・・短尺の句なり」と
あるように「短冊」を「短尺」に代えていますから「尺」もあり、馬と尺とが頭にあれば「駅」が
出されていますからそれに沿って意味を読めばよいといえます。「赤冊子」は「鉄肝石心」は
「赤心」もある、といっていますから、楠木の「せきしん」と、太田の「せきしん」二つをいうのかも
しれません。楠木の「撫子」で
「古き世をしのびて
■ 霜の後撫子咲ける火桶かな」〈勧進〉
があります。季節的に、「火桶は冬」「霜も冬」「撫子は秋」とされ「火桶」に撫子の絵が画いてある
あるはずのないところに撫子が咲いているというという驚き、という鑑賞となっています。しかし、★
の撫子は「撫子は夏季」と書かれています。「撫子」で検索がむつかしいのですがもう一句あり、
「野菊の画に題す 撫子の暑さ忘るる野菊かな」
もあり「暑さ」を「暑き」とか「涼しき」とすべきとか云う議論があり「神妙」とはいえないとか好きな
ことをいっています。この撫子は索引から洩らしてあります。洩らしてあるといえば「田植」のAB
の句はページは合っていますが「巻」が間違っています。あきらめさせるか、二・三回読者にページを
繰らせるか、ということになるわけですが、こうすることになっているということであれば、問題ない
のでしょうが国民主権の時代ですから99%が知らない状況にしておいてはいけないのです。
単純ミスであれば、わかりますから読者で修正して読めるものです。大辞書でも
筆者の持っている四版では2730から2763までページが飛んでいて、「ろ」の途中で「わ」が
突如出てきます。うしろ15枚が前に来ているというのがわかりますから、単純ミスだから腹も
たたないし修正もできるものです。普通ははがきでも出して連絡だけでもするところですが
十余年も経っていまごろ偶々影響のあるところをみたということで、それも余分でしょうか。とにかく
意図的なものはもう21世紀ですから古典であっても記録には留めて読者にはわかりやすい
ものを提供する方がよいでしょう。わかりにくいというのは季語も邪魔になりまして「撫子」で
「な行」でひくのが一番ですが季語のアイウエオ順になっていますから「なでしこ」の季節が
わからない場合は「春」の「な」、夏の「な」・・・というようにみていくわけです。情けなくてやめ
とこうというのが普通のパターンですが、索引があるのはありがたい方です。芭蕉物に
人名索引でもあれば、間接に松永貞徳などが浮かび上がってくるところでしょう。地名索引も
「撫子」「田植」とかが問題だからこういう操作があるわけですが、どこが問題かということに
なります。■の句で言えば、この句は藤原定家の
「霜さゆるあしたの原の冬枯れにひと花咲ける大和撫子」
を踏まえていると多くはみているが、これに準拠したような解釈には「従いがたい。」とされて
います。場所の意外さというところに解釈を転化したという心は何か、ということですが両方とも
撫子を人扱いにした表現となっています。自分で咲いているわけです。もし■の撫子が人に擬
(なぞら)えられているとすると、それは正行が「撫子」の繋がりから、最もふさわしい人物という
解釈となりそうです。定家の「大和撫子」というのは人扱いにされやすい語句です。おそらく画
に描かれた正行は女子にも見まごう優美な姿であったろうと思われますので、それで大和撫子
になぞらえられたということでもいいのではないかと思います。が、避けてることが反って判って
しまうようにするという技法は今も生き続けています。「大和」というのが出てくると本居宣長の
「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」
が思い出されますが、この終わりの山桜というのは吉野雪か、白雲にまごう霞の奥の、吉野
の桜を云っているのではないかというのが出てきます。これが染井吉野などの「吉野」が出てくる
もととも感ずる
ところです。100人が100人、「□□さくら」という芸名の人は、女の人だ、と思います。
「おまえとおれとは同期の桜」
という場合は「さくら」を人とみています。しかるに「おまえとおれ」というのはちょっと男っぽい
感じでちゃんぽんになっています。戦前は、このさくらも多少意識があったと思いますが今は
そういうことはなくなりました。「花が泣いている」とかいう表現は物を人とみていっているもので
語りの技法といえますが、基本的には、花が泣くのか、非科学的ではないか、ということで
時代に連れて使われることが少なくなるのは必然でしょうが、古典の読みでもそれが抜け過ぎて
いるきらいがあると思います。これは避けられてきた面があったからです。例えば撫子は
戦国期の人だと誰をだしたかったのか、大和撫子は藤原定家は自分のことをいっているのか
ということになってきます。入口でシャットアウトとしたほうがよいということになります。それが
なんとなく動物とか、草花とかの客体の立場に立って考えるというのも摩滅させていると
思います。■の句の
「古き世しのびて 霜の後撫子咲ける火桶かな」
の解説では
「〈住吉物語〉(青流編)に、青流の芭蕉を追悼した句に “翁の句のはしをおもひとりて、
なでしこの花もやつるる火桶哉”とある」
ということです。つまり門人と思われる青流は、芭蕉の
「霜の後撫子咲ける火桶かな」を
「なでしこの花もやつるる火桶哉」
に変えたわけですが、芭蕉の句の「はし」を思って「取った」ということをいっています。「はし」とは
「霜の後」と「火桶かな」でしょうがこれを取ったというのは、「霜の後」を取っていますから、「火桶
かな」をどうするかということになるのでしょう。「霜のうしろ」は「下(しも)のうしろ」で下の部分
というと「火桶かな」「火桶哉」の「はし」ということになると「火」「かな」を取るということがいえそう
です。つまり
「霜の後撫子咲ける□桶□□」→ 「なでしこの花もやつるる□桶□」
という流れがありそうです。「桶」が全面に出てきて、古き世の「桶」は「桶はざま」です。
前者、「桶□□」は「桶 狭間」であり、
後者、「桶□」は「桶哉」→「桶ヤ」→「桶谷(はざま)」
です。この谷(はざま)は
常山の「水谷」、谷木因の「谷」
の登場と歩調が合っているようです。、「谷」は「古久・久・古九・小久・古宮・黒・・・・・」でも
ありますが「はざま」と読むことも意識されています。〈日本書紀〉皇極紀
「入鹿の家は谷(ルビ=はざま)の宮門といった」〈日本書紀〉
があります。蘇我蝦夷大臣の家が「上の宮門(ルビ=みかど)といった」とありますから「宮門」
は「みかど」と読み、「入鹿」の属性は
「はざま(谷)のみかど」
ということで知られていることです。これは太田和泉も当然意識していることで、〈信長公記〉の
桶狭間のくだりに芭蕉などへのメツセージがあります。
『おけはざまと云ふ所は、はざまくてみ、深田足入れ、高・・・茂・・・節所・・・深田・・・所・・・』
〈信長公記〉
この「はざまくてみ」についてテキスト脚注では
「“くみて”の誤写か。入りくんで。」
とされています。芭蕉はこれに気が付いて〈奥の細道〉で「那谷」を出しこれは「那智・谷組(なち・
たにぐみ)の二字をわかち・・・」といっています。つまり「三十三か所」が頭にあり「谷組」は脚注
では「谷汲。美濃の谷汲山華厳寺。三十三か所の最後の札所。」となっています。谷汲こそ
「はざま(谷)くみ」〈信長公記〉
であり、〈信長公記〉桶の「はざま」を〈奥の細道〉が受けたものですが〈日本書紀〉の「谷(はざま)」
も受け継いだというものです。だから「桶屋」というのは
「桶屋」→「桶哉」→「桶谷」→「桶はざま」→「桶狭間」
となりかねないものです。
ここの「足」は「金松又四郎」を想起するもので「金松」には
「生足(スアシ)」「足はくれなゐに染み」「足なか」
があります。「山中」も語句として出てきますが場所的には、義景本陣「田上山」、湖北の「刀根山」
で登場してきます。これはショ明天皇などの「足」(たらし)を伴っている、「尾張葉栗郡嶋村」の
兼松氏に乗っている太田和泉守ですが、「谷(はざま)」−「長門守」が用意されていますから、
利用する人も出てきます。
(54)谷木因
谷木因は大垣の人ですが、大垣の垣は柿で、つねに柿本人麻呂が意識されているところです。
大垣の城は大田の城小稲葉山(岐阜県海津郡南濃町)と近くという感じで書かれています(信長
公記)。柿本人麻呂と関係が深いところに豊浦があり
神功皇后は長門(穴門)の豊浦
推古天皇(馬子の時代)は明日香村の豊浦
蘇我蝦夷は大津の豊浦
ですが、仲哀天皇、神功皇后、応神紀には「穴門(あなと)」の「門」の関係から「門(と)」「門(ど)」
が多いなかで
「水門(みなと)」「水門」
が出てきます。「紀伊(き)の水門(みなと)」「務古(むこ)の水門」「紀の水門(みなと)」でルビの
ないのがあります。これが「みかど」と読めるというのが「谷(はざま)の宮門(みかど)」からの
必然です。芭蕉が特に親しい
「谷木因」
は大垣の「水門川」に句碑を立てました。これは、この
「谷」の「水門」
「谷」の「宮門」
という表記を大垣の人物、風景、風物、固有名詞を取り入れて具象化したものでしょう。近くに
住吉神社があるよしで神功紀では長門の記事にも住吉が出てきます。
これで、「水門川」から
「湊川」
も出てきました。これは手取川(添川=湊川)もありました。
中納言水戸光圀が湊川神社に楠木正成の碑を建てたというのも知られたことです。
常山の記事で太田道灌、八幡太郎義家のところで(大江)中納言匡房が出ました。匡房には
吉野の桜の歌がありました。楠木正成と太田牛一は芭蕉では重なっています。谷木因は
古代と戦国時代を結び、蘇我入鹿、人麻呂、→太田和泉守の流れを「門」とか「柿」などで解説を
したといえそうですが、媒体は多様であり、「鹿」「八幡」「吉野」「桜」「万葉仮名」「長門」「越前」
「住吉」「大伴」・・・・など複合したものが瞬時に重なって曰くいいがたし、怒涛の流れとなって
いるものです。それも個々の語句を意味づける長い作業の結果が活用されるということに
因っています。「中納言」も媒体の一つですが、
湊川 は水戸中納言ですが、水門川は、すぐには大江中納言匡房というわけにはいきません。
八幡太郎義家、新羅三郎義光など踏み台によって応神天皇の「八幡」まで達するということになり
ます。大江中納言は「毛利陸奥守大江広元朝臣」によって「森」の「陸奥守」=太田和泉守に
重なり、また八幡太郎義家に兵法を教える見識というものも、頼朝政権の政所の別当大江広元の
の家の筋というものにも重なり、箔のついた中納言になっています。
「水戸中納言」は「黄門」で「御三家」「天下の副将軍」であり、豊臣徳川の御曹司、「結城秀康」
は「越前黄門秀康卿」であり「越前宰相秀康」という「宰相」つきの表記で呼ばれています。これも
大江中納言を意識したものであり、中納言の拡大適用と無縁ではないないといえます。
〈信長公記〉の
「飛弾国司姉小路中納言」
というのは、孤立表記ですが、とにかく、一つは太田和泉守を表わすものでしょう。「飛弾国司」
「姉」「小路」が重要となってきます。「森九兵衛」も「姉川合戦の事」で出てきました。「中納言」
は「庭田源中納言」「源宰相中将」があり「庭」は「丹羽」ですから語りが広がるのかもしれませ
ん。洛東「黒谷」の「中山中納言」もあります。「中山備前守」は水戸光圀の付け家老です。
(55)伝説の剣豪
水戸光圀は変わった「くに」をその名前にしています。まえから気になっていましたが、「大江
中納言匡房(まさふさ)」の「匡」が「国に似て「国」でない、「きょう」「こう」と読むが中の「王」が
「玉」となれば「こく」とも読める。太田和泉守は「国清」「国綱」で「玉」の「国」を使っているが
自分はちょっと変えてみてそれが契機で大江中納言と太田中納言がつながればよいと考えた
かもしれません。須賀川の一節で
「かげ沼」
が出て来ますがテキストでは
「鏡沼。白河の関北六里。鏡石村鏡田にある。和田平太胤長の妻が、夫を慕ってこの地に
至り、鏡を抱いて入水した。それ以来鏡のように水面によく物がうつったと伝えられている。」
とあります。
物の影がうつるのでかげ沼というようですがこの和田平太胤長は〈吾妻鏡〉で出ている人物です。
水戸中納言が寵愛した剣客に居合の達人
「和田平助」
がいますが、水戸光圀も相当な達人のよう
ですからよほどの達人といってよく正に伝説的剣豪です。この有名な人物は「和田平太」がモト
と言ってよいようです。「平助」というのは「猪子兵助」「松野平助」の響きで、何となく〈信長公記〉
との関連づけがありそうですが一般には、本能寺で森乱丸らと戦死した小姓
「平尾平助」〈甫庵信長記〉
が一体誰なのか疑問視されている背景があると思います。この人物には炙り出しがあり
「平尾久助」〈信長公記〉
があります。「平尾平助」の「平&平」は「平太・平助」の「平&平」で「平」といえば著者として
冒頭で印象付けた太田和泉の「太田」に「太田平左衛門」がある、それと結ばれると幸いだという
のが「平尾平助」の平の連発だ、というのを芭蕉が察して「かげ沼」をここにいれたといえます。
剣豪和田平助の話の存在も芭蕉は知っていたといえますが、知らなくても成り立つ話です。
筆者としては芭蕉のところで「和田」がでてきたというのがありがたく、これは初めてです。
「大江広元」「和田義盛」のことも芭蕉の意識にあるならば三善康信もどこかで出ているかも
しれません。とにかく芭蕉は、また和田平助の語り手は
「和田平太(平田)」と「太田平左衛門」
を結びました。和田平助の名前は覚えていませんのでネット検索しますとほとんど「正勝」「政勝」
で載っています。木村又蔵の「正勝」があります。「太田」は「和田」であり、それは
和 田(わだ)
太 太(おおた)
ワ タ
タ ブ
で縦が「和太」→「和田」になり、「田太」も「多太々々(たぶたぶ)」「多太(たぶと)く」というように
使われていますから反対の「太田」が意識されています。
太田=和田
となると、天下布武のはじめに大きな位置を占める
「和田伊賀守(惟政)」
が惟任日向守@Aであるといえます。それが芭蕉、和田平助の語り手、木因、常山などのいい
たいところの一つでしょう。また太田和泉守は
「平尾平助」「平尾久助」
を炙りだしていましたから その心は皆にも読み取られていたはずで、それを忖度すれば、
「古川久助」〈信長公記〉
という孤立表記がありますから、 平尾=「久助」=古川
となりますから、古田の古がでてきます。つまり「古川=古河=古江」で
平尾平助==尾藤==松野平助====安東大将(安藤大将)==本巣
平尾久助==尾藤==古枝久助====古田左介重然(景安)==本巣
重然の然はネット記事によれば「なり」「てる」と読むようですが、辞書によれば名乗りでは
「然」は「なり」だけです。「なり」は古田ー陶ー毛利元就で出ていた「元就」の「なり」があります。
「就」は名乗りでは「なり」で、安藤守就の「就」に繋がっていると見てよいでしょう。「古田」から
本巣の線はネット検索すればどれでも出ている、つまりもう整理されているわけですが、こういう
他の道が一杯あります。深く進めることはやめとこか、というようなことになっていることなど思い
もよらないことだから、いつまでもわからないのは資料のせい、と暗黙納得ということできています。
「てる」というのは古田が古池田で出没しますから、また関係が近いので池田輝政・照政の「てる」
でよいのではないかと思います。「てる」は足利義輝ー「義照」とあぶり出しがあって「義照」が義昭
に似ているという曰く付きのものですから、又この際も古田二人の感覚が必要なところですから
「輝」を想起してつけた読み方ではないかと思います。同じ一つの表記に親子が同居していると
いうのは身・人格が違うのだからおかしい矛盾している、これは絶対矛盾の、自己同一だといえ
ますが、古田織部は別格といってもよい存在だから、古田では古田織部@と古田織部Aという
ものはないと思ってしまいやすいものですが、古田織部こそその応用がされているかもしれない
わけです。その出生は隠しといた方がよい、というものがあったといえます。「古」がついた表記は
比較的少なく、「古田左介」3回の外は孤立表記だけで
「古田可兵衛」「古沢七郎左衛門」「古川久助」「古市播州」
です。いま「古川久助」は「久助」を使って「古」をだしましたが「市川大介」「市田鹿目介」などにも
繋げてあるのは見て取れるところです。「古市播州」はテキストでは大阪の「古市」の人で、茶人
です「古田」より100年くらい前の「古市澄胤」と考証されています。この人物自身は大物でしょ
うがそれは別として先程常山で
「相馬長門守義胤」
が出ましたから、澄胤の「胤」は「長門守」とかみ合った、「古市播州」の「播州」は「猿」の「藤吉」
「秀吉」、「黒田官兵衛」「竹中半兵衛」の故地であり、「三木(森)」の播州で、「古市」は膝をやられた
中条小市などのことから太田和泉守が乗っているといえます。大村由己梅庵も三木が属性の人物です。
相馬の「胤」がここで語らえうということについては違和感もあると思いますが〈常山奇談〉の世界
では図られているようです。〈常山奇談〉の索引を見ていると
竹中半兵衛重治
竹村半兵衛
の並びがあります。 「竹村半兵衛」が索引に出ているのも気まぐれですが、この人物は
「竹村半兵衛田中長胤を押し止むる事」
が出て「竹村」と「長胤」が交錯する中で
「国清公」(池田輝政?)、「池田三左衛門尉」「三左衛門」
が出てきます。竹中半兵衛は安東大将の婿ですから本巣に直結します。「胤」が「池田」を呼び込んで
んで「知人太郎国清」から「長門守にいきます。ここで竹村半兵衛と長胤の出てきた前の一節が
「相馬長門守義胤」「義胤」「伊達政宗」「水谷三郎兵衛」
が出ている一節です。したがって
「胤」→「長門守・義胤」→「古市」の「澄胤」→ 本巣の古田可兵衛
→「半兵衛・長胤」→「本巣」の「長胤」→ 池田の古田可兵衛
となります。「古市澄胤」の「澄」の方が「池田」を表わすのではないかと思いますが、「古沢
七郎左衛門の「七」が矢部善七郎(光住)の「七」、織田七兵衛信澄の「七」につながりそうです。
森銑蔵は史家だからこの索引で「胤」に着眼したのかもしれません
ここで「古市播州」を出してきたことが、やはり凄いのではないかと思います。「古市」の古墳
群があり、応神、仁徳陵などがあり、「市田鹿目介」の「鹿」が関係つけられいそうです。河内
地方というと「毛利河内」という表記があり、テキストでは「毛利秀頼」で考証されています。
「毛利秀頼」=「森秀頼」で「秀頼」というと「秀吉+長頼」という感じがしますので、太田和泉
守の子息を表わすということになりそうです。
(56)奥州のおく
見てきましたように「伊達衣」の駅長「相楽伊右衛門」(等窮)が出てきた〈奥の細道〉須賀川
のくだりは「かげ」から「景安」の「古田織部」が出て
「能因法師」「伊=居(おり)(すえ)」などから陶(すえ)の「古田織(おり)部」、
「能因」の「因」、「西」「栗」から「西」で「西山宗因」、栗の「木」から「谷木因」がでてきたのでは
なにかといってきましたが、湯浅常山の「相馬・伊達」の一節が、古田に絡んでいたということが
判ってきましたから、かなり突っ込んでこの一節をみてもよさそうです。「谷木因」の「谷」が
常山の「水谷」から出てくるなどのことはいってきましたが、ほかのこともありうるかもしれないと
探して見つかれば、お互いに証明しうることになり、語り方の理解が一層深まることになります。
疑問があれば、それがこの際出てくることも考えられるわけです。
須賀川での田植に関する〈奥の細道〉の句の、再掲
B風流の初(はじめ)やおくの田植歌
において、いま理解されている本来の意味の、田植の情景を句にした、これは奥州での風流ごと
の初めだという、等窮への挨拶も兼ねたものというのがありますが、もう一つのものが底流にある
ということがはっきり確認できる機会でもありますのでこの句のことで少し付記したいと思います。
まず「風流ごとのはじめ」という「初め」ということについては、「伊」がバックにありましたから、
ここの「初」にはやはり「伊」がくっ付いてくる「伊初」が意識されている、〈信長公記〉の
(ゐそめ)(イソメ)ルビの「居初又次(二)郎」
の「初」をうけたものではないか、とみられるところです。太田和泉守と結びつく「初」もありうるという
ことは、芭蕉の世界で「田植」から「撫子」に飛んで「桶狭間」まで経由してもどってきた今では
いえることです。
「おく」というのは「小久」ですが「平尾平助」→「平尾久助」の「尾」を使えば
「尾久」
が含まれているということです。「古久」などに容易に拡大できるので大変重要な、そのため
、ひらかれた「おく」ですが、なかなか認識され難いものです。もちろん「おく」は奥州の奥で
「毛利陸奥守大江朝臣」の太田和泉守が背景にありその線に沿って解釈を決めていっても
よいのですが、別の道から理屈を付けて一から積み上げていくのも要ります。
「尾久」を持ち出せばは
「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八」
の二人の「尾藤」の「尾」というのが「おく」で受けられているといえるかという迷いが出てきますが
がしばらく放っておけばよいことです。
「森」「織」「九」「青」「尾」「尾」
は「尾久」「小九織」をベースにやれば、
「森氏」で「青流」で、「尾藤」表記の兄弟の一人で、九(久)谷衆の一人・・・
と何となく古田織部というのが、出てきます。〈信長公記〉と関連付けて読むことを前提としておれば
本能寺の「平尾」の「尾」は「尾」ばかりが集められている中での「おく」となると尾藤の「尾」も
視野に入ってきています。とりわけここの「田植」が「植田」で「上田」が出てきていますから、
古田織部の高弟、上田宗古から古田も出てきます。
尾藤源内が古田織部ということで引き当ててきましたが湯浅常山は
源内
に着目したようです。すなわち「源内」といえば誰でも思い浮かべるのが
平賀源内
です。〈常山奇談〉の校注者、森セン三の人名索引は不完全極まりないもので、カバー率10%
もなく、有名人、タイトルにある人名さえも抜けている、折角挙げた人名のなかでも登場回数が
抜けたものがある・・・・まあ活用していないといってもよいものです。〈常山奇談〉の最後の方は
タイトルもつげずに番号だけで色んな話しが書き流されている部分があり、書き忘れたから付け
足したという枠外の巻があります。そこに出ているのに、索引があり、
「平賀源心 下225」
です。、これは筆者も、名前だけは知っている、武田信玄の初陣の功名の相手です。しかし索引
に出ているのがおかしい、「平賀源内」に似ているというので何となく下225を見ましたが載ってい
ないので、三回ほど見てあきらめるわけです。例の索引操作がありますので、念のため、227
をみますと、そこで海野口の平賀入道源心、武田晴信が出ていました。あほらしい話ですが下の
225は念のため何回も見ましたので、ろ覚えとなって残るものがあります。ここで出てきたのが
「(丹羽)長秀が手より上田主水重安{十七歳}・・・重安が郎従に水谷又兵衛備傑ただ一人続き」
〈常山奇談〉の(
225ページ)
の二人です。森銑三は「上田主水」として人名索引に入れており、「下61、下105」となっており、
この「下225」は索引にはありません。「下61」は大坂の陣の話で
「又上田主水(うへだもんど)は宗古(そうこ)といひしが、石田に與(くみ)し浅野幸長にあづけ
置かれし・・・・一万石の茶の湯法師・・・・」
という紹介もあり、「泉州」「和泉」で「塙団右衛門」、「亀田大隅」と交錯します。
「幸長・・・の陣に至りて、★士ひしと幾らも並み居たる処にて、・・・・いひけるに・・・」(61頁)
もありますが、★の部分がちょっと読み難いところです。「士」が「侍」となっておれば、すんなりいって
疑問を感じないのかもしれません。これは
「★士幾らもひしと並み居たる処にて・・・・」
の「ひし」を「土」につけたという積りのもので〈信長公記〉の「ひしや」を意識した処置いえそうです。
「土」は土方(ひじかた)の「ひじ」で「ひしや」に至りますが「上田宗古」の「古」から逆流させて、
「ひしや」に至らせた、ということもできそうです。湯浅常山が源内を狙って上田宗古が出てきた
わけですが、これでは上田宗古は源内Aでないと納まりが付きません。「高弟」が出てきたのでは
射損じになります。「上田宗古」という名前は「宗易」の「宗」で「古田」の「古」ですから、また
「古田宗上」とも変えられるくらいですから子息とみてよいのでしょう。
「古田織部」は「古田景安」ですが「古田重勝」とか「古田重然」とかもあるといわれています。
「重」も使われても不自然ではないのですが、その場合は「重安」がありうると思います。上田
宗古は「重安」で、重安@=景安という設定がなされたと思います。「古田重能」という表記も
あったと思います。これだとソロバンの毛利勘兵衛重能と繋がったりしますがネット記事も変わ
って行きますから確認はできません。
「上田主水正」という表記も重要で「野々村主水正」と絡んでいると思います。「下105}では
「上田主水入道(うへだもんどにふだう)宗古」
が出ていますが、これは「家康公」と関わりの生ずるもので、時代が少し違うようです。
「上田主水宗古@」=「古田織部」という感じのものです。家康公@は太田和泉守をさしている
と思いますがちょっと古い酒井左衛門尉が出てきます。
野々村主水と結ぶために主水入道@=古田織部を出したといえそうです。
常山は平賀源内が古田織部の子孫だということをいいたかったと察して、森銑三が索引で
示したといえますが、常山は上田宗古を出してきて、古田を語るとともに、両者の関係を暗示
したといえます。更に須賀川のくだりが、太田和泉守、古田織部、上田宗古、谷木因などを出し
ていることを示すために下225で
「上田重安」「水谷又兵衛」(以上既述)「丹羽長秀」「蜂屋出羽守」「織田信澄」「長江縫殿之介」
を出してきて、「伊達政宗胆気相馬の城下に宿せられし事」の一節の
「相馬長門守義胤」「水谷(みづのや)三郎兵衛」
などと繋いでいます。ネット記事によれば「長江縫殿之介」から相馬が出てきます。須賀川のくだり
は多くのことを含んでいます。伊達政宗・織田信澄(宗及)から「宗達」も出てきます。
(57)風神雷神図
風流の初めやおくの田植歌
には、風の流れ、歌声の流れがあり、田植という動作の風景があり、一方で画工古田が出ている
という情景があります。
尾藤源内についてテキスト人名注では、
「尾張春日井郡三ツ井村に尾藤城があり、源内の居城という。〈尾張志〉」
となっており、「三井」から「尾藤」が出てきます。この「三井」は甫庵では「後藤が一族」として
「・・・・三井出羽守・・・伊達出羽守・・・平井加賀守・・・」
として出てくる、出羽守の「三井」があります。出羽守は太田和泉守(信盛)としてよいものです。
三井(三伊)・伊達・出羽守、→尾藤
で 縦も、横も、「三井(伊)」、「伊(井)達」という関係があるから「尾藤」は「伊」が関係あり
そうというのが出てきます。「伊」から「居」(おり)(すえ)→陶から古田(高山も)出てきます。
常山では
「三井角右衛門」
が出てきて「坂井右近」の子「久蔵」を討ったという話の主人公になっています。太田和泉守
の関係者で「右近」「大津」もここで出てくるから高山もからんできます。三井から尾藤が出て
くるというのは「角右衛門」が出てくるということになるのでしょう。この「角」が重要で「角鷹」
「長谷」もありますが「住」「澄」でもあり、「隅」と「炭」は他へ波及しますがこれは一部既述です。
「三井角右衛門」の相手役は「生瀬平右衛門」で「生」がでます。「三井角右衛門」はその
位置も重要です。うしろが
「金松弥(かなまつや)五左衛門物見の事」
で「猪子兵介」「金松(かなまつ)」がでてその次の一節は「朝倉義景」が出てきて
「刀根山」「大山」「井」「山」「井」「大ぬる山」「果(はた)」「大ぬる山」
が出て「刀根山」は〈信長公記〉の金松又四郎とつながり、大山(みやま)「井」が〈奥の細道〉の
すか川を見ていそうです。「大ぬる山」は常山の独自のもので、「塗る」と思いますが「金松又四
郎」のところにある「山中」「足はくれない染めて」につながるところからそういえそうです。「金松」は
「(信長公が)日比御腰に付けさせられ候足なか(かかとのない草履)」〈信長公記〉
を拝領していますが、金松には
くれないの「足」、足なかの「足」、「生足(スアシ)」の「足」
と「足」が三つも出ます。これは 藤原鎌足、安藤道足、不破矢足、〈吾妻鏡〉でいえば「鞠足」
などの「足」がありますが、「たらし」があると思います。
「神功皇后」の「息長足(おきながたらし)」
「舒明天皇」の「息長足(おきながたらし)」
の「足」で、聖徳太子とされる「たりしひこ」の「多利思」と金松又四郎が通じているといえます。
既述、「大津伝十郎」(長昌)(長治)は〈辞典〉では
「中島郡府中宮の住人、妻は丹羽長秀の娘という」「(永禄十二年)天竜寺意足軒周悦
の世話に努めている。」
がありましたがほかに〈信長公記〉にでていないことでは「南禅寺竜華院の名が出ている折紙
〈鹿王院文書に名前がある、伊達氏の遠藤基信に書いた文書が残っているなどがあります。
何よりこの天竜寺の「意足」は「息長足」の「息足」を踏まえているのでしょう。〈万葉集〉に
「長忌寸(ながのいみき)意吉(おき)麻呂(まろ)」
「長忌寸(ながのいみき) 奥(おき)麻呂(まろ)」
がありますが、これは柿本人麻呂に挟まれて出てくる人物で一匹狼ですから、人麻呂を別の
面から捉えてみようというものと取れます。また「長皇子」という不明の人物の正体を明かしたもの
といえそうです。
意吉(おき)
奥 (おき)
は「意」の一字だけで「おき」と代えられそうです。「長」は大津伝十郎の「長昌」「長治」が用意
されているから、「意」「足」だけで「息長」がでてくるといえそうです。つまり、柿本人麻呂登場
で大津伝十郎は「伝」える、「十郎」として多くを語ったといえます。
@大津伝十郎は太田和泉守の実子ではないが子という立場にある
A柿本人麻呂ーーー「長」−−−大津の流れがある
B柿本人麻呂には「しょめい(じょめい)」天皇からの流れがありそうである
などですがこうなれば「中島」の「島」も「斯摩」「志摩」に結びついてきそうですし「府中宮」という
ものも「越前」の「宮」が出て、大津、長門の豊浦に飛びかねません。こういう背景の下
「天竜寺意足軒周悦」
というものを提示したとうのが大きな語りといえそうです。
「意足」の「い」は「足」と不可分で「足」は「金松」の「足」で、「金松又四郎」の足三つは
「くれない」「半(なか)」「生足」の「足」で「生足」でいえばスアシという読みがやや不自然です。
「鎌足」式で行けば「なまたり」「いきたり」のような感じになります。つまり「牛+一」+「足」
は著者を打ち出した、それが「金松又四郎」です。従って「意足」というのは「おきたり」ですから
「意吉(おき)足」です。これは「いきたり」とよめますから「意吉足」→「牛一足」となります。「いき」は
「伊木」(甫庵信長記)
だけが、ありますから自然と「伊」が出てきます。これは類書で有名な池田の家老「伊木清兵衛」
の「伊木」ですが
「池田勝三郎・・・鼻隈・・・伊丹・・・・池田勝三郎信輝・・・紀伊守・・・荒木志摩守・・・鼻隈
・・紀州雑賀・・・池田・・・・向城・・・・信輝・・・・鼻隈・・・・諏訪が峯・・・古新・・・
・・・生田の森・・・向城・・・・紀伊守・・・・伊木豊後守、森寺清兵衛・・紀伊守・・・生田の森
生田の森・・・紀伊守・・・池田・・・紀伊守・・・鼻隈・・・伊木森寺・・・鼻隈・・・」〈信長公記〉
・ とあるように森寺氏と姻戚関係があるようです。紀伊は「き」と読む場合が多く「伊木」は「木伊」
も考えられる、伊は木を伴いますという感じのことがあるようです。「森」を表わす前触れという
ものがここでも見受けられます。三つも出てきた「生田の森」は池田の洪水の中「池田の森」へ
へ転換しようとする準備といったところでしょう。「古池田」発祥の地ともいえそうです。「伊木足」
となると「伊を伴った金松」ということで「意足」は太田牛一といえますが俵屋宗達の「伊年」
の「伊」が「意」のなかに含まれています。
「天竜寺」というのは、あの有名な天竜寺と取ってしまいますが、ここは意足の姓とも取れます。
それが狙い目にになっていそうです。これは既述の
「一、化狄、天王寺屋の竜雲所持候を召上げられ、」〈信長公記〉 の
●「天王寺屋の竜雲」〈信長公記〉
のなかから抜き取った三字と取れます。テキスト人名注では●は
「天王寺屋竜雲226ページ 天王寺屋了雲 津田宗達の一族。(宗達茶湯日記)」
とされています。「天王寺屋竜雲」「天王寺屋了雲」の対比は「竜」が「りょう」と読むから、同一人
と取れないことはないですから、違わせるという当時の遊びがあったとみれるので両方人名と
解釈されたと思われます。しかし太田牛一が「竜」を出したかったのは明らかです。その心は
●の真ん中に「の」があるから二つの読みが可能となります。
@「一、化狄、 天王寺屋の竜雲 所持候を召上げられ、」〈信長公記〉
A「一、クハテキ、天王寺屋の 竜雲所持候を召し上げられ」〈信長公記〉
Aの読みは「の」が主語のようになる「の」で天王寺屋が竜雲を所持しているのを召し上げられ、
の意味です。結局「化狄」(クハテキ)の「化」は化けるという意味があります。テキスト脚注では
「貨狄。床の間の上につる舟形の名物花入れ。」
となっています。「化」は「貝」を加え「貨」に化け、花入れだから「荻(てき)」が妥当な当て字と
なります。「脚注は「貨荻」と書くのが合っていそうです。つまり事実としては天王寺屋了雲は
花入れを献上しました。一方、「クワテキ」の「クワ」は何に化けるか、ということです。「テキ」は
草冠のない「荻」で「えびす」、北エビスの「北狄」です。「夷」も「えびす」で、「東夷」の「い」で
「伊」「居」「維」も出したのかもしれません。「クワ」は「グワ」で「画」で、エビスの
絵が「画テキ」です。これは〈奥の細道〉「仙台に入る。・・・・画工(ぐわこう)加衛門と云ふもの
ものあり。」で気が付きました。理屈から云うとこのルビは「ぐはかう」となるはずで適当に変えて
いる感じです。「く」が「ぐ」になるのは「かが」=「加賀」=「賀加」は太田牛一がやっていることで
す。雲竜と名付けられたえびすの画を、召し上げたといえると思います。「了雲」は「両雲」で
二つの意味があるのでしょう。あと二種
「一、開山の蓋置(フタヲキ)・・・」
「一、二銘(ふたつめい)のさしやく・・・」
は「フタ」「ふた」の2です。「天王寺屋の竜雲」の出たところから7行目、この節の終わりに
「七月三日、奥州伊達御鷹のぼせ進上。」〈信長公記〉
があります。俵屋宗達の「伊年」の「伊」と「宗達」の「達」を呼び出したのが「伊達政宗」です。
これは太田和泉守そのものを表わしています。
「伊」、は安藤、藤堂の「伊賀守」、和田伊賀守惟政の「伊」で、(宗達の「伊」)
「達」、は「立川三左衛門」の「立つ」、「たか」の読みあり「高山飛騨守」の「高」、(宗達の達)、
「政」、は「重政」の「政勝」の「政」、(宗達の「青」)
「宗」、は「宗」の系譜の「宗」、「宗久」の「宗」、(宗達の「宗」)
簡単に言えば「
伊(惟)政宗
達」です。
太田和泉守は伊達政宗と相容れない立場にいます。いわゆる徳川家康も同じですが、表記は
両方を内蔵することがあります。「坂井左衛門尉」も宿敵と言ってもよい存在ですが乗っている
場合も出てで来ると思います。「向(井)駿河」も同じでしょう。これこそ絶対矛盾の自己同一です
が平気でこういうことをやっています。古来からもそういうのがあって、稗田阿礼などもそのきらいが
ありそうです。
「大津伝十郎」は高槻が属性で「長治」「長昌」があり、高山・古田二人を見てよいのでしょう。
天竜寺において高山右近、古田織部が太田和泉守の手伝いをした、これは宗達の竜雲の画の
製作のこと、といったのでしょう。開山湖叔和尚了雲が保管していたのを国の管理に移したのが
天正五年三月ということになります。
(58)再び金松又四郎
「風流の初めやおくの田植歌」
の「おく」は「奥」であり「奥州」の「伊達政宗」が出るのは、「相馬」をバックにした「伊達衣」の
「相楽伊右衛門」が主役ですから、容易に察せられるところです。一方「太田和泉守」は「森」で
すから「毛利陸奥守(大江朝臣元就)」の「陸奥守」「むつのかみ」も宛てられています。ここの
「おく」という「ひら」かれた「奥」は幅広くなってくるのは必然でもあります。「奥」→「小久」→「大久」
で「大」が出てきて、「田」の存在がおおきく「大田」もだせるし「古田」も出ます。金松は「又四郎」
ですから、「又」は特別、「四郎」は惣領という中心的な表記です。
「足」の金松又四郎というのが一つの中間体で、多くの散らばっている語句を糾合して「松」に
まとめる役を果たしていそうです。「足」は時代をまとめてきました。金松の前に出てくるものが
「義景」「田上山」「粟屋越中」「刀根山」(信長公記)
ですが、朝倉は越前、義は吉で
「義景」の「景」は芭蕉では「風景」→「景安」→「田植」→「古田」を出し
「田上山」は「上田」「山田」「山上」「田山」→「太山」が出る、
「粟屋」は老眼鏡がない時代は「栗屋」に同じで「栗」が出てくる、
「刀根山」からは「根(国)」が出てくる、
というようなことになります。この「刀根山」は湖北にありますが、「金松」を呼び出すものでも
あり、この「刀根山」は大坂の北では、伊丹、古池田の陣の砦の名前として出てきます。
「伊賀平左衛門」
の陣したところです。その隣の「原田郷」には「中川瀬兵衛・古田左介」がいます。この金松
又四郎は「尾張葉栗郡嶋村」の
「兼松正吉」
として考証されて、います。これは「栗」「嶋」「正吉」が利用されそうです。「栗」は芭蕉の須賀川
のくだりで「西の木」も入れると四つも出され、須賀川の一節は
「世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」
の「栗」で締められています。この刀根山は、豊中、池田の
「待兼山」
の近辺ということですが、この「待兼」は「松兼」に変化して、「兼松」「松兼」が出てきます。
太田和泉守が「兼松」「松兼」を「金松」にした意味が分かれば「金松又四郎」がわかってきそう
です。「金」は黄金の金とはかぎらず中川金右衛門のような使い方があります。つまり
「金」+「松」=「金松」
という合成した「金松」です。「松」は「小松」「古松」「松千代」「松寿」「松の丸」「松殿」の「松」
で太田和泉とみてよく遠慮して「金」を立てた表記が「金松」でしょう。戦いの功績が光って
太田和泉守といえども頭が上がらない人がいるわけでこれがネット記事のあの
「龍峰・・・・開山湖叔和尚」
といえそうです。〈信長公記〉の表記では
「山口勘兵衛」「山口ゑびの丞」
になるのではないかと思います。「山口ゑび丞」はテキスト人名注では
「山口守孝 海老丞守孝(南行雑録・・・)」
となっています。「岩室長門守」の名前は「定孝」といい(三河後風土記)、「定孝」と「守孝」は
繋がっていそうで、「守孝」の「守」が安藤の「守」なのでかなり意識したものがありそうです。
〈甫庵信長記〉では「山口勘兵衛」はなく「山口海老丞」だけです。一つは〈信長公記〉が「勘兵衛」
で「ゑびの丞」の説明をしたのかもしれません。
伊賀上野の荒木又右衛門の語りなどでは旗本、大久保彦左衛門などと兼松又四郎がでてきま
すが、そのまま利用されている感じです。
大久保彦左衛門の属性は武田戦の「鳶の巣山」の初陣の戦いですが、参加してそこそこの武功
があったかもしれませんが宣伝がきつすぎます。本巣の「巣」が意識されているかも知れません。
鳶の巣山の奇襲の提案者は酒井左衛門尉であり、ここは高松も出てきたところで、何を企んで
いるかわからないところがあります。とにかく「金松」は会心の表記で、「印牧」を「かねまき」と
読ませたのも「かね」「真木」と二つに分けて前の「かね」は工夫するという予告でしょう。「金松」
は全部あげないと納まりが付かないようです。
@金松久左衛門
「丹羽五郎左衛門攻め口にて討死の衆、・・・古川久介・河野三吉・金松久左衛門・・・」
〈信長公記〉
これは初登場で戦死、以後の金松の表記を消し残像を残す積りと思われます。
A天王寺、天満が森
「根来・・紀伊国(きのくに)奥郡・・・遠里小野・住吉・天王寺・・・ろうの岸・・・大坂・・
天満の森・・かすがゐ・・・佐々蔵介・・・前田又左衛門・・中野又兵衛・・野村越中・湯浅甚介・
毛利河内・金松又四郎・・・毛利河内・金松又四郎・・・下間丹後・・・長末新七郎・・・
毛利河内・・・金松・・・金松・・・・・河内・・・・野村越中・・・」〈信長公記〉
ここの「湯浅甚介」などは「湯浅常山」の興味をもつところで「ろう」のいうのも「井楼」が大ぬる山の
ところで出ていました。「野村」は宗達の「野々村」と繋がっています。「金松と毛利(森)河内」の
交錯があります。これはあとで響いてきますが要は森の「河内」というのが太田和泉かということ
ですが「河内」が「古市播磨(澄胤)」の「古市」という土地柄とフィットしておりこの文で古代が
感じられますので、太田和泉であると思われます。
引き当てがはっきりしているのは「金松又四郎」「毛利河内」「前田又左衛門」だけですが金松
入れて総勢9人です。
B朝倉戦朝倉方討死衆
「・・・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛、{金松又四郎これを討ち取る、}・・・
・・印牧(かねまき)弥六左衛門、」〈信長公記〉
前の中村三人を意識した「又四郎」でしょう。直前の「中村新兵衛」という表記が重要で
「鑓中村」といわれる伝説的な勇士がもう一人おり、松永が、大仏が焼けた日10月10日前後
に夜討して討ち取ったという(甫庵信長記)曰くつきの名前です。つまり太田和泉守がボンヤリ
出ており、金松とつないだものです。ここは八郎を除いた全部(二郎〜九郎)が出ています。
この細字の{金松又四郎}は〈甫庵信長記〉では出ていません。代わりに、というわけではない
でしょうが「越前」にいた「前美濃守」の「右兵衛大輔(斎藤)竜興」を「討捕」ったのは
「氏家左京助家の子宮河但馬」〈甫庵信長記〉
を入れています。これは何となく「中村新兵衛」や{金松又四郎}を@Aという観点でも見ている
ということも出ていそうです。ついでながら、ここに「印牧」が出ていますが
「印牧(かねまき)弥六左衛門」を「生捕」ったのは「原野賀左衛門」(信長公記)
「印枚(いんまい)弥六左衛門」を「生捕」ったのは「原□賀左衛門」(甫庵信長記)
となっています。現実には「□空白」などないから意識されていないと思いますが、この登場は
「ココに不破河内守内の原
野賀左衛門・・・」〈信長公記〉
「ココに不破河内守が郎等に、原賀左衛門・・・」〈甫庵信長記〉
となっていて「ココ」と大田和泉守に依って出てきています。「宮河但馬」や「野」とか細かいことで
煩わしい、拘っていたら大きなことが抜けるといわれそうですが昔の人はマクロを語るための
ミクロの語りをしていた、ミクロを語るためにマクロの語りをしていたといえます。とにかく、生(なま)
のものは身辺にありますが、構築されたものには生色がない、導通への思いがあったと思われま
す。忘れてしまいますから「宮河も野も大きい」と覚えておけばよいかもしれません。
C「足なか」の「金松又四郎」
「信長年来御足なかを御腰に付けられ候。・・・刀根山にて金松又四郎武者一騎山中を
追い懸け終に射止め・。其時生足(スアシ)にまかりなり、足はくれなゐに染みて参り候。
御覧じ、日比御腰に付けさせられ候足なか・金松に下さる・・・冥加・・面目・・。」〈信長公記〉
〈甫庵信長記〉では「生足」(すあし)」「足半」(あしなか)」となっていますから足「半」が出ました。
金松又四郎(仮名)は大田和泉守の今で言う連れ合いといえます。「生足」が「スアシ」「すあし」
があり、両者を繋いでいます。「牛一」=「生」といってもよいようです。〈甫庵信長記〉では
もう一つ
「金松牛(ルビ=ノ)助」
という表記があって「牛+ノ」は「生」に近づきます。要は「生」に拘(こだわり)りがあるといえそう
です。ペンネームにそれを組み入れたということは、太田牛一は、生身の個体の生を起点にして
書を著したといえるのでしょう。
「足はくれなゐに染まる」というのは絵画、陶器などの製作に関して生ずるものでもあります。
「はだし」「山中」などと「足なか」(かかとのない草履)を貰ったという
記事はなんとなく大きな絵を描いている時の状況がバックにあるとも取れそうです。須賀川の
一節の二句、再掲
「風流の初(はじめ)やおくの田植歌」
「世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」
にはこの「金松又四郎」がはいっているのではないかと思われます。
一句目の「初」は「伊右衛門」が主導している場面で「伊初」が出てきます。これは〈信長公記〉の
「居初(いそめ)又次郎」につながります。これは「染物や」「くれなゐに染め」の「染め」で、この
「足はくれなゐ」という表現の強さと、再掲
「田一枚植えて立ち去る柳かな」
がすこし前にあって「枚」が「牧」のルビが付けられており「かね」が出てくる、「田植」は両方に
あり、柳は「梁井弥三郎」(可伸」)の梁井です。さらに「歌」ですが芭蕉では壷の碑で
「哥 枕」
がでました。つまり「可+可」が「歌」に内包されています。可成と長可が二可といえます。
歌は「可」×2 +「欠」ですが、「歌」は辞書では、
左側は「歌」の原字で、うたうの意味。「欠」は口をあけるの意味。
人が口をあけ、大きな声でうたうの意味を表わす。
「欠」は大きく口を開くことから、「欠伸」(あくび)」が出てきます。「可伸」は「何進」だろうと
いいましたが歌に自分を織り込んだようです。古田の子孫かもしれません。
「歌伸」→哥+「欠伸」=あくびのうた
としゃれたのでしょう。相楽伊右衛門(等窮)も梁井弥三郎(可伸)も松永貞徳の孫弟子の
ようですから何か面白いものが入っていそうです。またここの「田植歌」に関して〈奥の細道〉
「那谷」の一節に「古松植」もあり「植」に「古」と「松」(金松の松)がくっ付きました。これは、
須賀川の谷からの線で繋がります。那谷の一節は
山際→桶はざま→谷ーはざま汲むー那智・谷組ー那谷ー古松植ー石山の石・風
で、古松植に行き着きます。また
「風流」→「さすがに」(流石に)→石山の石・風→古松植
の線もあります。相楽伊左衛門の師は貞門の石田未得ですから、松永の松も石に懸かりますが
松永は中村新兵衛を通じて金松と繋がっていますから、準備は周到な感じですが、中村は木の
下の中村の在が考えられますので松永との関係がどうかです。とにかく次の句が金松に関する
ものと思われます。再掲、須賀川の締めくくりの句として
「世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」
があります。
「桑門可伸の主は栗の木の下に庵をむすべり」
ということが前提となっていて、
句意は、〈芭蕉全句〉では
「栗はいま、人の目に付かぬ淡い黄の色をつけ、ほのかな匂いを発しているが、このゆかしい
風情は、施主可伸がわび住まいにまことにふさわしいものと思われ、さらに行基がこの栗を
愛したことを思い合わせると、施主の心のほどもしのばれ、いっそう心惹かれるものを感ずる
ことだ」
の意、とされています。結局、可伸のゆかしさを誉めている、栗の花の目立たずに咲いている
その風情に似ているというのでしょうか。説明が長々と述べられて主役が栗か栗の花かよく
わかりません。また軒が説明に出てきていません。要はゆかしいとか、清浄なとかいうものを
出すための形容詞が盛りだくさんで焦点ボケとなり、何をいいたいかわからなくしています。
これは意識的なものでしょう。気を散らすというような。
直訳して、軒下の栗の花が誰にも見付けられずに咲いている、ということだ、と言ってもらう方
が疲れずにすみます。可伸(栗斎)のゆかしい人柄をほめているというのはこの句だけからは
わかりません。栗の下に庵を結んだという結構の面白さをいうのかもしれません。いいたいことは
周辺をここまで語るのなら赤坂見付というような「見付」が出てこないとおかしいのですが、そんな
ものは考慮しなくてもよいという感じです。「人の目につかぬ」という訳があるから、
それで 終わっていそうで知らん顔です。静岡
の磐田に見付がありこれは栗饅頭が名産らしいのですが、いま磐城(〈奥の細道〉では「岩城」)
にいて「栗」を集めて話の材料にしようとしているところですから、静岡は離れているからというだけ
関係ないとはいえません。現に「見付」という語句が入っているのですから。ネットで「見付」を
検索しますと「平塚」の見付(城門)も有名だそうですが、東海道五十三の宿に「平塚」と「見付」
があるようです。〈芭蕉全句〉では一番知りたい「軒」が解釈から外されています。テキスト(麻生
磯次訳注)では、庵の軒端となっています。家の軒が常識でしょうが、軒を家の軒とすると、
家=庵となります。家が出てくるのは根拠があります。
これは初案が
「隠家(かくれが)や目にたたぬ花を軒の栗」
で再案が、「隠家や目だたぬ花を軒の栗」だろうとされていて「家」が意識されています。
ここの「目にたたぬ」:「目だたぬ」は違うのでしょう。上の「目につかぬ」:「見付(みつけ)」が
違うのと同じようです。
@訳で栗の「黄の色」とありますように、栗の花の色は「黄」でこれが生かされていません。
これは中国伝説上の帝王「黄帝」を表わしていると思われます。「軒皇」=「黄帝」です。
つまり「金松」ほどの大物が軒の下に隠れているということです。黄帝までも持ち出すとは
考え難いというならば「黄色」→「黄門→「中納言」→「太田和泉守」→「金松」でよいの
ですが「家」「庵=安」が出ましたから「家康(公)」もみているといえます。酒井、坂井で二人
が出されて述べたいところが分かりにくく語られたました。黄金というように金は黄をともなって
でてきます。もちろんこの句の主役は「栗斎」ですから「梁井(田)弥三郎」→太田和泉守→
金松又四郎というのは直感的にでてきます。
A「野」と「かね」が結びつきました。原野賀左衛門、「印(かね)牧」です。
「桑門可伸の主は栗の木の下に庵をむすべり」(雪丸げなど)は
「桑門可伸の主は栗軒 の下に庵をむすべり」となりさらに
「桑門可伸の主は栗野木の下に庵をむすべり」となる、
つまり「野」の出現で「かね」の「印」「まき」も出てきました。〈信長公記〉で「野木」があり
「・・・・宮川八右衛門・野木次左衛門」
があり、「次」ですから太田和泉守もここにいるのでしょう。もう忘れているころですが
「宮河但馬」もでました。
Bこの句の「軒と栗」は「野木」+「西木」で「木」が二つ、「見付」は「みつき」とも読むでしょう
「のき」の「き」と「き」が二つとも見れます。テキストでは「武隈の松」のくだり
「桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越シ」
の解説に
『「松」に「待つ」をかけ、「三月」に「見き」または「見つ」の意をふくめている。』
がありました。はっきりいえば、ここを見据えた解説で
「見つ」
「見き」
「見つき」=「三月(みつき)」
ということです。「三」から「見」は出にくいのですが、池田、刀根山の「待兼山」→「松兼」→
「金松」であり、「武隈の松」も「見月」「見付き」に懸かってきました。まあ当然のことで
「根」「越」「須賀」「桜井」「高松」→「須賀川」「桜井駅」「須賀川駅」「栗斎可伸」
「見付」・・・・・「金松」
のようなことになります。「三月」は「三木」もあり「三木」「見付」があります。「見付」について
一つだけ補足しますと「見付」は本稿ですでに出てきています。桶狭間戦、一部再掲
「義元が尾張の国へ出陣のとき、次郎三郎元康(家康)殿もおともして出発した・・・・・
義元は・・駿府を出発・・▲島田、金谷、日坂、懸川に着く。・・■原河・袋井・見付・池田に
着く。・・・御油(ごい)、赤坂で合流する。・・▼下地之御位、小坂井、国府、御油、赤坂に
陣をとる。翌日・・知立に到着。」〈三河物語〉
ここに挙げたのは抜粋の16の地名ですが、大久保は26の地名を丹念に書いています。大久保
は何を思いながら書いたかと云うのが重要でしょう。実際そういう土地があったからしょうがないと
いうものではないのは明らかです。「小坂井」という土地はその近くの別名のところを書くことも
できます。■のところに「見付」がありますがこれは磐田の「見付」でしょう。〈信長公記〉では
「みつけの国府」
があり脚注では「見付之国府。磐田市見付。遠江の国府跡」となっています。太田牛一が書いて
いるから入れたのでしょうが、本来重要であったともいえます。太田牛一は
「みかの坂」(脚注=三ヶ野坂。磐田市三ヶ野。見付から袋井に到る坂。)
も出していますから袋井は念頭にあったと思います。大久保彦左衛門は「見付」の前に
「袋井」
を入れました。同じ大久保の世界での伏線は
「お袋(淀殿)」〈三河物語〉
という表記です。つまり今川義元に同行しているのが徳川家康@、袋井で淀殿を見つけたのでし
ょう。そらおかしいといわれるだろうというのも大久保にとっては、案の内で■の四地点だけ
〈信長公記〉の並記方式である「・」の区切り
を使い、他は
〈甫庵信長記〉方式「、」
を使っています。
■と、▲▼の部分をくらべてみるとよくわかります。芭蕉・等窮・可伸等は大久保の辛らつな語りが
されていたのを、須賀川の締めくくりの句に取り入れ、金松の金の
側面をもつ徳川家康公を出してきたといえます。■と▼の落ち着き先は赤坂です。赤坂見附は
〈三河物語〉〈奥の細道〉須賀川の「見付」の句の解説だったといえます。この句は金松が取り込ま
れたので黄金の大物が説明されることになります。〈芭蕉全句〉では
等窮の〈伊達衣〉の引用があり
『 「予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯★実をとりて喰ふのみなりしを・・」
と前書して「梅が香を今朝は借すらん軒の栗ー{須賀川栗斎}可伸」』
とあるようですが「可」と「梅」の組み合わせは、梅庵、大村由己が見えるようです。ここの
★の解説になぜか「橡拾ふ・・・」「橡拾ふ」(山家集)が出てきていますが、これは「黒田如水」を
ここへ
呼び出したものでしょう。「伊達衣」で伊達政宗もあります。これは金松の「金」の方の二人と
もいえるのでしょう。なおここの「香」は「賀」です。〈芭蕉全句〉では
『「山家」は芭蕉が伊賀上野の生家をさしてしばしば用いた語である。』
とありますが「山家集」は西行で行基の「行」が西行の行、行基は和泉の人で高志氏です。
「基」は後藤又兵衛をさすというのが湯浅常山の水谷又兵衛によるのヒントがありましたが、
西行の橡もそのヒントです。須賀川から何が出てくるのか、ということです。
(59)森銑三の索引
平賀源内に似ている平賀源心を出して、太田牛一の「尾藤源内」を想起させ、上田宗古や水谷
又兵衛を出す、というのに索引が利用されたという例を出しましました。二書を見ているならば、
「伊賀平左衛門」もみているはずだから、「平賀」が「伊賀平」に入っているとみると、源内は伊賀
平左と関係があると見れる、「尾藤」の「尾」も「平尾平助」があるから「尾」は「平」に挟まれて
潰されそうだという印象も残っているし、「太田平左衛門」の「平」が「尾」と接触したというのは
大きいわけです。「藤」にしても、芭蕉に
●「草臥(くたび)れて宿借る比(ころ)や藤の花」(笈の小文)
があり、この「宿」は須賀川に出てくるし、「借」は先ほど出ました、〈芭蕉全句〉解説では「軒のあ
たりに藤の花・・・」となっていて書いていないのにそれがでているのは誰かの解釈にあったと
思われますが、「軒」は解釈としては補足したいものかもしれません。この句は
「や」「の」「花」
があり、見付の句、再掲「世の人の見付ぬ花や軒の栗」にも
「や」「の」「花」
があり、3/17が共用されています。見付の句は
「・・・の・・・の・・・の・・・」
と「の」が三つ出てきます。これが先ほどの太田牛一の
「みつけの国府の上、鎌田が原・みかの坂・・・ココよりまむし塚・・・池田の宿・・・天竜川・・」
の「三ヶ野」の、三つの野をうけているといえそうです。●の句の初案は、はじめの五が
「ほととぎす」
です。「田一枚」の田植の前の句が
「野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす」
で「野」が出てきます。ここは「石」が四つも出て「山陰」「短冊(尺)」もでて須賀川に野は生かされ
ると思われます。ここの「まむし塚」は脚注では「馬伏塚」で「静岡県小笠郡の大須賀町」にあり
ますから、須賀は太田牛一の意識にありそうです。●の句はは芭蕉の手紙にもあり、その
文の締めくくりは「哀れなる駅(むまや)に到る。」となっていますから「駅」と「馬」が出ています。
●の「藤」は入力すると「富士」がでますが、ネット記事「東海道五十三次を行く〈宿場ガイド・見付〉」
によれば、
「東海道を京から東へ下っていくとこの地で旅人がはじめて富士を見ることができた
ので“みつける”・・・」
があり、そこからきているようです。したがって関係のなさそうな●の句でさえ
須賀川に絡んでいます。すると「比」がどうかというのがやはり出てきます。
森銑三の〈常山奇談〉の人名索引「平賀源心」の出ている「ヒ行」の人名は9人で
「土方三九郎」「日根野備中」「平賀源心」「平塚勘兵衛」「平手政秀」「平野與兵衛」
「平松金次郎」「広瀬左馬助」「広田図書」
です平手政秀以外は馴染みがない、しかし平賀が古田を出したということはこの相関は高度のものを
秘めていそうです。教えてもらった方がよい、とくに二番目はよく出て来る表記でいずれやらなければ
ばならないもので「日比野」で覚えているものです。
また「平松金」という「金松又」と似たものが出ています。
湯浅常山は金松又四郎の足も語りに利用して
いると思います。「足」からは苗字の足にも発展していきます。「足利」の「足」もありますが
「足立清六」「足立六兵衛」〈信長公記〉
が出ています。再掲、〈信長公記〉、
「(「信長」)日比御腰に付けさせられ候足なか、此時御用に立てらるるの由、御諚候て、
金松に下さる。且(かつう)は冥加の至り、且(かつう)は面目の次第なり。」
「且・・冥加・・・且・・面目」の一見意味のささそうな不明な、二つが対置されているのもよくわかり
りかねますが、ここでわからないことが二つあります。
まず 「日比」は、この節のはじめに
「去る程に、信長年来御足なかを御腰に付けさせられ候。」
の同じ一文があり、ここで「年来」が出ているので、その対句として「日々」のことですが何故、
「日比」
となるのか、というのが疑問です。もう一つ、「此時」の意味です。これも前に
「金松又四郎武者一騎山中を追いかけ、終に射止め首を持ち参り候。
其時生足(スアシ)にまかりなり、足はくれないに染みて参り候。」
があり、これで信長が「足なか」をくれたわけですが、ここに「其時」があるのでそれに対する
受けと考えられます。この前段は「武者一騎」が「金松」のことか、敵のことか、山中は、山の中
か、山中鹿之助のような個人か、はっきりしません。ただし「山中、中山」のイメージは残ります。
この二つに迷うように「はだしで、くれないに染む」状態が一つかどうか、というのを考えさせられ
ます。つまり「此時」にも「はだしとくれないに染む」という状態が隠れているのに出されていない
といえます。血か、絵具か、の「くれない」があり大きな画を描く場合は床に一杯広げてやります
が、足が汚れるのでつける脚半のこともあるのではないかと思います。太田和泉守の工房とか
寺内の作業の姿が浮かぶところですが、寺の利用は十分考えられることです。太田和泉守は
「和田紀伊入道惟政」
でもわかるように僧を自称しており、昔も修行は嫌いですが誓願寺の小僧だったという話があります。
織田政権では副将軍といってもよい位置におり、いわば寺社奉行という位置にもいるといってもよい
と思われます。本人が作り手、書き手であったことは、そこでの文物の保存、継承に好影響を
与えていると思います。朝廷、大名家と寺院に残ってきているのは伝統的ですが、どういう財物を
誰に与えたかというようなことの、記録が一般向け図書に多くのページが割かれているのもその
後の意識の向上に貢献していると思います。ここで一応
足→金松→足立→安立→安達
で宗達の「達」がでました。奥の細道では伊達の「達」、「和泉が城」の「舘」があります。「建部」
氏の「建」ですが、これは「武部(たけるべ)〈日本書紀」〉」なので「たて」ではありますが「たけ」
(武)をも表わします。次に「日比」のことですが〈常山奇談〉の校訂者「森銑三」は、抜けすぎて
いる、取り上げたものは意味がわからぬ、ページが違っている、全く役に立たぬ人名索引を
作って、意のあるところを汲んでほしいとかいいたいのでしょうが、読者を悩ましています。ちょっと
は自分のやりたいことはないのか、といいたいところです。「日比」だからそういう人物がないか、
一応は頼りないがみるわけですが、「ヒ」で
土方三九郎 中61
日根野備中守 上269
平賀源心 下225
平塚勘兵衛 下114
が出ています。「日」(比)は「日根野備中守」しかなく念のためみますと
「栗山利安倹約の事、附日根野備中守黒田家に銀を返す事」
が出てきます。「栗山備後利安」は後藤又兵衛より禄高が上の黒田の一の家老として有名です。
一つ前の一節にも
「黒田長政の先陣栗山備後利安、後藤又兵衛基次、衣笠因幡、母里但馬・・・・」
があり、又兵衛が二番手のような感じです。
「若き時は善介といひ、中頃は四郎兵衛といふ。・・・禄一萬五千石・・・」
があり、文中「黒田如水」「黄金(きかね)」「金銀」「金」「銀」「日根野備中守」が出てきます。
訓練していないとこの「栗山」の「栗」とか、金松の「金」とかを見落としてしまいますが、気が付いて
よく見ると重要なことをいっていそうです。又四郎の「四郎」兵衛、矢部善七郎、善住坊の「善」が
出てきています。
「平塚勘兵衛」は(下114)で「城」攻めの働きが出ます。「紀州浪人平塚勘兵衛重近」ですが、
「尾藤金右衛門・・紅・・・・平塚・・・尾藤・・・平塚勘兵衛・・・・尾藤・・・」
が出ていますから、平尾平介の組み合わせどおり「尾藤を伴って出てきました。おまけに「金松」
の金やくれないも出ています。この前の一節には「日根野織部」という表記を作っています。
これで、そのまえの「平賀源心」も「平塚勘兵衛」−「尾藤源内」ー「平賀源内」ー「古田織部」の
狙いがあったといえそうです。「城」の「本丸の塀下」や「付」「付」「付」「つく」「突」「突」「突」「突」
「付」があり、ネット記事にあった「平塚見付」は須賀川の解説に使われたといえそうです。
平塚勘兵衛は「秀吉公御いとこ平塚因幡守吉就が甥なり。」をどう読むかもあります。
〈信長公記〉では
「日根野備中」
があり常山ではこれに栗山利安と黒田如水、後藤又兵衛を結ぶ働きをさせたのは、金松の
文中に「日比」があったからだと思われます。
「日根野」「日比野」の表記が隣り合わせです。〈甫庵信長記〉では
日根野兄弟(「比根野」の当て字もあるかもしれない)
日比野
日比野下野守
があり〈信長公記〉では、たいへんな力の入れようで
「日根野備中」「日根野弥次右衛門」「日根野六郎左衛門」「日根野勘右衛門」
「日根野五右衛門」「日根野半左衛門」
があり、「日野」(日野長光)(日野中納言)が入って、そのあと
「日比野下野守」
が出ています。したがって「日野」は「日□野」にもなり「日根野」から「日比野」への流れを
とめているものでもないようです。いま、再掲
「金松又四郎・・・山中・・・足はくれない・・・・日比・・・足中・・・金松に下さる。」
の「日比」から常山の「ヒ」を検索して「日根野」にきました。本来「日比」からは
直接二書の「日比野下野守」にくるべきものですが、回り道になりました。たまたま偶然に
常山の索引を見たのが平賀源内に至りました。校訂者森の意地があったといえますが、
「日比」→「日比野下野守」からは著者の言いたいことが出てきます。森部合戦
「日比野下野守・・・・森辺(森部)・・・・日比野下野守・・・下野・・・日比野下野守・・・
日比野下野与力足立六兵衛・・・足立・・・・下野と一所に討死候なり。」〈信長公記〉
で集中的にでています。ここでは省略したところが重要で、とりあえずの話になりますが、
@ここでも宗達を出した
前は金松→「足」から「足立」で宗達がでましたが、ここでは日比野から足立→宗達となりま
した。
A日比野下野守を太田和泉(森)とした。
「日比」→「日比野」→「足達」→「宗達」一太田和泉としています。ここは〈甫庵信長記〉では
「美濃国森部合戦の事」の一節にあたりますが、そこでは「足立六兵衛」は出てきません。
「足立」は別のところで「清六」があります。「六」は、甚六、孫六、助六、弥六などあり何か重要
なサインがあると思いますが、一応ここでは、足→くれない染め、から古田織部もあるかもしれ
ません。ここに「日比野下野与力足立六兵衛」と書いてあり、古田は中川の与力というのも既述
です。「下野守」は太田和泉守のようです。「山県下野守」などありますが「山県源内」(信長公記)
があり〈信長公記〉六条合戦
「若狭衆山県源内・宇野弥七両人隠れなき勇士なり。・・・薬師寺九郎左衛門幡本・・」
は若狭武田の有力武将ではありますが、古田・大村のペアでもあります。薬師院の仕事を
していたのかもしれません。古田を出す努力がされているといえます。
(60)武井夕庵の記録
とにかく湯浅常山は
「太田下野」
という表記を作っています。テキストでは日比野下野守は
「実名 清実。(立政寺文書)」「美濃安八郡の西結村」の人
となっています。この「日比野清実」ですが、この「清」が
「足立清六」(「足立六兵衛」と並ぶ孤立表記)
の「清」につながっている、というとそれはない、清実は利害に関係がない人が残した記録で、
足立清六は色んなしがらみのある
なかで記録者に思惑のある記録だから、まあ切り離してみるのが普通だということになります。
しかし連携しておれば重要な結果が出てきます。武井夕庵にはその事績を述べる場合に
かならず援用される次の記録があります。
「はじめ美濃斎藤氏に仕える。十一月二日付、立政寺宛て書状(立政寺文書)の付箋には
“郡上郡の城主で、土岐頼芸(よりあき)より斎藤道三、義竜、竜興に仕える”とある」〈辞典〉
これで桶狭間の熱田神宮への夕庵の願文の記事は間違いとされています。この文書は〈信長公
記〉の記事を見て書いたもので〈甫庵信長記〉の記事を捨てたもの、つまり両書の違いを「立政寺」
という表記を利用して明らかにした後世の付箋と取れます。
@「土岐頼芸」の表記、甫庵は逆になっている
〈辞典〉(つまりこの文書)・・・・・・「土岐頼芸(よりあき)」、
〈信長公記〉・・・・・・・・・・「土岐頼芸(よりのり)」「土岐頼芸(ヨリノリ)
〈甫庵信長記〉・・・・・ 「土岐芸頼(のりより)」「芸頼」
A梅毒で有名な「義竜」は
〈辞典〉と〈信長公記〉で出ているが、〈甫庵信長記〉には出ていない。これは気がついている、
か、どう解釈するか
B桶狭間の夕庵は〈甫庵信長記〉にでている、この文書と矛盾するのはどうなるのか、
C「立政寺」を機械で打ち込むと「立清寺」も出てくる、「立清」寺のつもりならば「足立清六」の
「立清」がでているのではないか。〈甫庵信長記〉では、いわゆる平手政秀は
「平手中務大輔清秀」
となっていて、その菩提寺を「清秀寺」「此の清秀寺」としている、「政」を「清」に変えて理解
しなおしてはどうか
という疑問を投げかけたといえそうです。これは@の土岐頼芸のルビを〈信長公記〉とも違わせて
おり独自の主張をもっているといえます。そもそもこの「立政寺」は「濃州西庄立正寺」(信長公記)
のことで、初めから「重政」「重正」の「まさ」違いのようになっており、また
足利将軍を、永禄11年、和田伊賀守・不破河内守などが迎えにいった所ですか、不破河内の
領内の寺といえますから、そういう文書が保存されていても不思議ではないと思います。
C「清実」と「足立清六」が結びついておれば
「下野守」→日比野→足→「喜多野下野守」
の流れで宗達の「喜多」がでてくることになります。この「下野」は芭蕉のすか川のくだりの「下野」
へいきますが、清実の
「実」
というのも「恕水の別しょ」で読まれた
「籠もり居て木の実草の実拾はばや」
の「実」がすか川の
「橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(しずか)に」〈奥の細道〉
につながります。みやまの「み」は実にも懸かるでしょう。る、如水、別所、太田などの実が「清実」
「実」に及びますが、これでやはり、日比野下野=太田和泉になるのでしょう。「橡」は木曽の
「橡」(とち)も芭蕉にあり「八十」は「やそ」ですからこれは
「十知」→「曾知」→太田和泉の幼名
にもなります。「下野守」を太田和泉としますと「上野守」が重要度を帯びてきます。
D日比野から日根野の多くの表記が太田和泉守として使えることになります。日根野氏は日禰
野もあって類書の太閤記で墨俣で斎藤の大将として出てきます。これは殊更出てくる感じなので
斎藤家屈指の家臣団とはいえますが和泉に近づけているとみてよいのではないかと思います。
日根野は泉佐野にあって「和泉」に繋げられていると思います。これはのちに太田和泉の語りが
日根野を利用したことが預かっていそうです。先程「日根野」〈信長公記〉の全表記を挙げました
(6件)がテキストの人名注からのものでした。が実際文中のは表記が違っています。
「日禰野六郎左衛門・日禰野弥次右衛門・日根野半左衛門・日禰野勘右衛門・日禰野五右
衛門」
の五人が連続して、「高山右近」「平松助十郎」など8人の人名に挟まっています。真ん中の
「日根野」は意識的でしょう。これが一箇所で出ているので、全表記六つのうち五つの表記がこの
一箇所に集中したという特殊な構成になっています。残りの一つは備中で、
「日根野備中守・日根野弥次右衛門」
という登場ががあり、もう一つ「日根野」という3文字があり、これで全部です。だから実体は甫庵に
「日根野兄弟」
があり、「弥次右衛門」に「日根野」「日禰野」の二通りあり、代表選手は「備中」でこれは「日根野」
だけですから、
「日根野備中」「日根野弥次右衛門」の兄弟
ということになりそうです。二番目と五番目は納まっているが、「六左衛門」が一番初めという
のがおかしいから、これで並べ替えると
「日根野」
1「備中」、2「弥次右衛門」、3「半左衛門」、4「勘右衛門」、5「五右衛門」、6「六郎左衛門」
‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖
根 根・禰 根 禰 禰 禰
となります。これでみると実体(織田軍陣で活動している人)は、1〜3の人であろうと思われます。
しかし弥次さんに語りの禰も入っているから兄弟でないのかもしれないというのもありそうです。
4、は「四郎」のはずなのに「勘」になっています。傍系の可能性が大といえます。
ここで6、のとり方が問題です。実際上は六郎であっても
3、4の例があるから繰り上がる可能性がないのかというようなことになります。こんな数字入りの
ものは〈吾妻鏡〉で一杯出ているわけでそれの踏襲、応用ですから今更の話しではないわけです。
とりあえず、ここの 「日根野六郎左衛門」は
「佐藤六左衛門」「印牧弥六郎左衛門」「足立六兵衛」「金松又四郎」(信長公記)
などの説明をしていそうだというのが特異な書き方から見て取れます。
「佐藤」には、二つあり
一つは「佐藤紀伊守」「子息右近右衛門」があり、テキスト人名注によれば
「紀伊守入道」「●北庄六里北云々」(言継卿)、「美濃加治田」「丹羽長秀を介して信長に内応」
などの説明が出ていますが肩書きだけで名前がありません。
一方の佐藤「六左衛門」は
「正秋。」「武儀郡上有智村」
とあります。少ないな、資料が少ないんだなと思われるでしょう。ところだそうではないようです。
前者は首巻だけにしかなく、後者は従軍記録だけです。前者には、信長が宿泊したなど物語が
あり、丹羽長秀が出て、北で紀伊守、紀伊入道となると和田惟政がでてきます。高山、飛騨
などが右近にも引っ付くようにされているなどあり、名前はなくとも十分に
日根野ー日比野=佐藤
から紀伊守=六左衛門にいきそうです。、とりわけ言継卿の
●は「喜多」「庄屋」「六」「黒」「喜多」となりますから「六」が「六左衛門」に繋がりますから
また「武儀」が両方の属性で出てきますので
左藤六左衛門=佐藤紀伊守
となってこれが、日根野→佐藤六左衛門→金松又四郎→足→足立六兵衛となります。したが
って佐藤六左衛門は太田和泉、高山、古田に繋がるように「六」を使った、繋がるように細工した
といえますが、それだけでは「日根野四郎左衛門」−−「佐藤四郎左衛門」にしておけば済むことで
で、いきなり「佐藤六左衛門」という「六」にするのはなぜかわかりません。佐藤紀伊守を受けて
継続する表記だから大物表記というのはわかりました。これについてはさきほど
根の系 3人
禰の系 3人
の内本人の系から3人、連れ合いから3人、計五・六人身内を率いた人という感覚ではないかと
思います。基底には、誰も親が三人居るややこしい制度だから、両系から2・,3人という
基準のようなものを前提にしているのかも知れません。足立六兵衛が古田と見ているので6が
出たこともあります。とにかく「日根(禰)野」という古代色のつよい名前を出して、こういう羅列
を作り提示したというのは、古田を語ろうとする中で、一般論を、材料を出してまとめようとする
ものでしょうから、壷に嵌った読み方がされれば、歴史理解が格段に進むところでしょう。真田
十勇士になぜ海野六郎、望月六郎の二人の六郎がいるのか、「六郎」も悩ましい問題です。
(61)河野三吉
〈信長公記〉索引の「印牧弥六左衛門」「金松又四郎」の間に
「金松久左衛門」〈信長公記〉
があります。これは、「丹羽五郎左衛門攻め口」の衆で
「・・・・斎藤五八 ・古川久介
・河野三吉・金松久左衛門・・・・」〈信長公記〉
が出てきて、ここに、
「斎藤五八ー古川−(三吉)−金松」
の連携があります。〈甫庵信長記〉では「斎藤五八」は
「斎藤五」
になっており、「五八」は切り離せる、「五」を打ち出した、「八」にも意識があるということになる
のでしょう。「河野三吉」が入っていなければ、連携がすっきりしますが、入っていても、金松又
四郎から「古」は今まで見てきたことで結べますし、「久」でも連携があるわけです。ただ邪魔な
「三吉」も、登場理由を探しておくと、出てくるものがあり、役に立ものがあるのかもしれません。
○「河野三吉」は「高野山+吉」であり「高」の「山」が出てくる
○「五」「八」「九」「三」「九」と数字が並んでいる
○「古川」は、「古三」であり「三吉」に似ている
のに目をつけたかもしれないというのも出てきます。つまり古田は既述「麻生三五」の「五」ですが
「河野三吉」は「五」を打ち出すための登場で
相撲の「麻生三五」
相撲の「村田吉五」
で、縦、「三吉」「五五」となります。また「河野善四郎」があり「善」「金松の四郎」をだすためとも
みられます。「三吉」を出すことにより、「五」を出し斎藤の「五」につなげるのが自然となったといえ
ます。
この「斎藤五」は直感的に古田ですが、湯浅常山は
「斎藤織部」〈常山奇談〉
を出し、校訂者の森はこれを索引に入れています。また常山は
「日根野織部」〈常山奇談〉
も作っており、確実に日根野→金松=河野=古川=斎藤ラインの五に古田が乗ります。「日根野
織部」は森は索引に入れていません。索引があれば古田に関心のある人は「織部」は古田しか
誰も思いつかないから、たぐれることもあるでしょう。判らないようにするための懸命の努力を、森
が索引を例にして風刺した例(たとえ)ともいえるからもう少し立ち入ってみますと、次のようなこと
になるのかもしれません。
古田織部=尾藤源内
‖
源内=平賀源内
を出したいための、索引の利用方法です。左が索引(全体・連続も同じ)、右が内容で
出ている表記です。
索引(ヒ)全部 常山のまぶした表記
@土方三九郎 中62(63) 六左衛門 六左衛門 六左衛門 六左衛門
他に6つ「三九郎」、三九郎の中間は六郎、これで改めると
六左衛門は計10
〈甫庵信長記〉の「三九郎八丸」は意識されている。
古田は「土」がキーワード
A日根野備中守 上269 金が12個以上
金銀とりまざっているが、金銀に「きんぎん」のルビあり、
(ぎん=きん×2)で計算すると12個、「数金(すきん)」は
1で計算しているが、数−1がプラスされるのかもしれない。
「黄金(きかね)」もあるので「地金」とみると1ではない。
「栗山」3、「黒田如水」が5
「無下(むげ)」=須賀川の芭蕉の語句
B平賀源心 下225(227) 海野口の「平賀入道源心」、「平賀」、「源心」
「武田晴信」の初陣の功名は相手は太田和泉守
織田の武田(春信)の初陣の相手は平賀入道源信
平賀源心ー平賀源(内)
C平塚勘兵衛 下114 「尾藤金右衛門」、「尾藤」、「尾藤」
「勘兵衛」(従兄弟)(甥)、「平塚見付」、
D平手政秀 上194 「政秀」「清秀」「諸書にはみな清秀」「政秀」「政秀寺」「政秀」
「大膳」一萬五千石、「太田但馬守」一萬五千石、「無下(むげ)」
E平野與兵衛 中18 「道化清十郎」「道化清十郎」「美濃」「清十郎」「無双道化」
「無双道化」「道化」「平野與兵衛」「斎藤家」「斎藤家」
F平松金次郎 上165 「森武蔵守長可」「播州三木」「山田八右衛門」「坂部三十郎」
G広瀬左馬助下36、下251「井伊」「直孝」「広瀬」「青木」「稲葉伊織」「美濃」「主水」
H広田図書下37 「広田」「図書」「水野」「明石掃部」「簗田又右衛門」
となっています。一見して、この「ヒ」の索引は、「平」と「広」が連続で揃えられているのがわかり、
何か作為の意図のようなものがありそうに感じられます。一方、すこしその積りで見ようとする
ものには、それはすぐ、そうではなさそうと思わせるものがあり、結局、適当に抜粋した
もので、頼りないと立ち止まらせないということになるものです。それは、実在らしい有名人物は
ないなかで、特別大物の「平手政秀」が入っているので、これによって全体の流れが切断される
というものがあるわけです。
@は多面的でわかりにくいのですが、内容はとりあえず「六左衛門」が出て
Aの日根野とは同時認識で、動機は〈信長公記〉「日根野六左衛門」が知りたいというのがスター
トであり、念のため前後をみるという動作となりました。結果、
@で出した六左衛門はAの「日根野」が重要だということをいっていることがわかって〈信長公記〉
の「日根野」六表記に捉まりウンザリするほど延々としたかなしになってしまいましたが結局
〈信長公記〉の人名索引が
A・尾藤源内
B・尾藤又八
C・日根野勘右衛門
D・日根野五右衛門
E・日根野半左衛門
F・日根野備中
G・日根野弥次右衛門
H・日根野六郎左衛門
というような並びになっていて、源内と又八の関係を証明するために太田牛一はこれを
出しているよ、というのが森銑三のヒントといえます。つまりB・C・Eのような人は、一般に背が
高く、腕力が強い、腕力変じて暴力に行きかねないので、当時は区別して捉えていたわけで、
A・Bの兄弟のタイプは、C・DとかE・Hの組み合わせになるという説明があるのでしょう。F・Gは
テキストによれば「弘就」、「弘継」という兄弟ということですから@Aの関係とは違います。EF
の場合2歳くらいの違いだから連れ合いという関係も想定されますが両方「弘」が付くからそう
ではなさそうです。「関可平次」「関与平次」は兄弟と違うようです。この〈信長公記〉の六つの
表記を引き出した、常山索引「日根野備中守」は、一方で、上のAで
「金」「栗山備後」「黒田」「黒田如水」「後藤又兵衛」から
栗山備後利安
‖ーーーーー□□□□
後藤又兵衛
がでてきます。□□□□はよくわかりませんが、栗山備後の子息には黒田騒動の主役、有名な
栗山大膳がいますから、大膳しか知らないが大膳は知っている今は、ここに栗山大膳を入れて
おくのがよいようです。栗山備後は一万五千石でした。
Dの平手政秀のところでは、前田利家の命令で、横山山城守長知(「大膳」)(一万五千石)が
太田但馬守を成敗し、その領地を褒美に貰ったというた話しが出ています。
大膳30、000=利安(15、000)+太田但馬守A(15,000)
となるから□□□□は推察どおりとなりそうです。これは常山を読んでこういっているわけではなく
森銑三によって構成された〈常山奇談〉をみていっているので、まあいえば二人の意思が入って
いるもので思い切ってや踏み込めばよいということです。
平手のところで「清秀」「政秀」というのが出たというのは波及するところは大きいはずです。また
「小瀬甫菴」が出てきて、「横山長知」とのやりとりも出ています。この「菴」は芭蕉が〈奥の細道〉で
使った「菴」(「あん」とする)で、その周りには
「おく」「たて横」「書付」「杖」「景」「柱」「山」「木つつき」「庵」「あん」
などがあって、須賀川のくだりと濃厚に繋がっているわけですが、「あん」という字が目障りです。
また「太田」「横山」という登場人物もイワクありげで、とくに「横山」は、二書に人名がない、地名だけ
が15ほども出てくるという厄介なものです。常山の書いているのは
前田利家の臣、「横山山城守長知」15000石は、事情は不明だが、主命で、太田但馬守15
000石を誅殺し、その領地を合わせ30000石となった。
一方、小瀬甫あんと親しくて、聞かれるままに信長、秀吉時代のことを、語り聞かせた。
ということですが横山山城守長知と太田但馬守は重ねられいる感じがします。ネット記事で
「二人の“長知”〜太田但馬守誅殺事件〜」
があり、「横山長知(
ながとも)」「横山長知(
ながちか)」の二人が出されています。
もう「太田=横山」でやられてしまっています。こういうのは類似の事件だあったかも
しれないと思いますが、「太田」という特別な表記が出てきた以上は作りごとと見てよいのでしょう。
「但馬守」は「前野但馬守」が首巻にありましたから「前田」のところで出されそうです。常山の
これで小瀬甫あんと前田の関係を説明しようとしていると思われますので小瀬甫庵@、小瀬甫庵A
(小瀬甫あん)を入れて登場人物を関連付けますと
横山山城守長知(ながとも)ーーーーーー小瀬甫あん(ながちか)
| □□□□
太田但馬守
○○○○
で□と○がどうなるか、ということが出されていると思います。□□□□は小瀬甫庵Aですが○○
○○を横山から出せるかということになります。例えば「横山」は
「・・・やたか・・・・よこ山の城、高坂(かうさか)・三田村、野村肥後・・・・・」〈信長公記〉
「大谷・・・・大谷・・高山節所・・・横山・・・・横山・・・・木下・・・横山・・・」〈信長公記〉
が、はじめの二つですが、「高」が意識されています。前者の「よこ山の城」について脚注では
「長浜市石田町」で「やたか」は「やしま(八島)の誤写か」とされています。なぜ太田牛一が
「やしま」を「やたか」にしたのかはわかりません。
「山城守」は「進藤山城守」「別所山城」などがあり
「長知」は「長友」ですから高山重友の「友」です。「別所友之・吉親」もあります。
前田の横山ということで○○○○は太田和泉守(小瀬甫庵)、□□□□高山右近となるのが
ひとつありそうです。横山長知はこの場合は武井夕庵となります。
一方〈戦国〉で、寛永17になくなった小瀬甫庵甫(年表)のことに触れていますが、これは「道家
祖看」としています。それはかわりませんが、これが大村由己であろうと思われます。小瀬甫
庵の正体は「太田和泉守、高山右近、大村由己」の@ABといえそうです。
Eの「平野與兵衛」は「道化清十郎」から質問を受け答える役回りですから、これは太田和泉
守でしょうが、助十郎が抜けています。これは常山の意識したところで、〈信長公記〉の孤立
表記である、
「平松助十郎」
を解説するためと思われます。「道化助十郎」を「平賀源内」の「平」を生かしたB〜Fの「平」の
「連続」の最後のFの金、
「平松金次郎」
につなぎました。つまりわかりやすくやってしまえば
助十郎=金次郎
ということで、次郎は尾藤の次郎ということになるのでしょう。しかし「助」=「金」ではないはず
で、ここでも「金」をやわらげて「助」を使ったといえそうです。「金兵衛」よりも「助兵衛」の方が
一歩手前で、紳士的、淑女的というのでしょう。戦国を代表する助兵衛は
「後藤又兵衛花房助兵衛見切り暗号の事」〈常山奇談〉
とある備前宇喜多の花房助兵衛でしょう。「助兵衛」はほとんどみかけません。
常山の
「平松金」
から「金松」が出て、金松又四郎が顔を出す一方、「平松」がでて、これは日根野の表記が五
連続出ていたところにあった平松助十郎が顔を出す、(金)松と平松は違う「平松助十郎」は語りの
十郎で「(平助)松」「(助平)松」を語ったといえます。このようにひっくり返してみると云うのがある
ので「松平助十郎」「松平金次郎というのもあります。全体「平尾平助」などをベースにして展開
させているのかもしれません。
「ヒ」のCの平塚勘兵衛は「日根野勘右衛門」の「勘」によりますが内容で「尾藤源内」の尾藤を
出し前のAの「源」も受けたといえます。ついでに今までの読みの検証もできました。高槻ゾーン
で出てきた「生駒三吉」「(同)三吉」を平塚為広で宛てましたが
「(河野)三吉」→「古川久介」→「斎藤織部」→「尾藤源内」→「平塚」→「(生駒)三吉」
で、合っていたようです。テキスト人名注では「生駒三吉」のところで「生駒氏」について
「尾張丹羽郡(布袋町)小折(おおり)」に住み「土田に住み・・・土田氏・・・」
となっています。生駒三吉は古田からも説明されるようになっていると太田牛一がいっていると
誰かが生駒に「小折」に住まわせたのでしょう。〈武功夜話〉では
「土田甚助」「生駒甚助」、「土田甚助(ルビ=生駒親正)」「郡(こおり)村、生駒」
の表記があり、密接な関係が窺われますが「親類」と書かれています。これは父方母方の姓と
いうものか、姻戚もからんだ同族というものかもしれませんが、両方を「土田」にしてしまうと
これは「信長」の母公の家であり、ここから信長弟、武蔵守勘十郎信行(信勝)が登場してきて
、この人を討ったのが今となれば胡散臭い「山口飛騨守」「長谷川橋助」「池田勝三郎」なの
で、ワケありかもしれず、ぼんやりさせるというものがあるのかもしれません。「勘十郎信行」は
生存でしょう。
(61)土方三九郎
森銑三は「ヒ」行のはじめ「土方三九郎」の「土」で古田を出したと思われます。河野三吉で
生駒と古田をつないだのは、古田は土田氏と関係が深く、それをもいいたかったともいえそうで
す。実態的に追っかけると長くなるので、ここでは表記だけで
「土」(と)→(と)戸(こ)→(こ)古」
として、おきますが、底流には一応
「土田(織田)武蔵守」→「戸田武蔵守」→「森武蔵守」
があります。「郡(こおり)村の生駒」〈武功夜話〉は
「小折村生駒氏」〈武功夜話〉
もあり「郡」は高山を追えば高山の属性として出てきますが、古田を追えば「織部」の属性と
してでてきます。
とにかく「土」を取り込んだのが@の土方三九郎ですから、この三九郎から
3×九郎、という3人、もしくは
3×1=3の三郎、3×2=6の六郎、3×3=9の九郎 の3人
とかがいえそうです。つまり高山右近、古田織部、太田和泉でしょう。こう並べてみると、ちょっと
気になってくることもあります。「高山」というのは「高山飛騨守」(信長公記)という孤立表記
があって、〈甫庵信長記〉にないから一般の人はその存在を知らないわけですが、高山右近の
父ということだから考証だけは多くて、その意味で重要人物扱いとなっています。高山飛騨
という表記は本来はおかしいわけで「名古屋尾張守」というのと同じで「古市播州」から受ける
印象のようなものでちょっと違和感があります。すなわち、高山飛騨は、逆も真なり、に近く飛騨
といえば高山が出てくるというような関係です。したがって高山右近といえば
「飛騨右近」→「肥田右近」→「比田右近」→「日田右近」
ともなりえるものです。「肥田」は〈信長公記〉にあり、「比田」は「比田帯刀(明智軍記など)」が
あり「日田」も
「・・・大村・日田(ヒタ)・星野(ホシノ)・赤星(アカボシ)等・・・」〈明智軍記〉
の人名もあります。「日比」と「日比野」がでてくると「日田・比田」=日比・田田=「日比・太田」
も気になってきます。
すなわち、「日田」「古田」「太田」の「三田」になるので、高山右近、古田織部、太田和泉の
三人になるというのでよさそうです。このため〈信長公記〉に兵庫県の「三田」があったと思い
出しテキストを地名索引をみましたが「み」「さ」でも出ていません。探しに探して
「さんだの城」
がありました。脚注があり、「三田の城。兵庫県三田(さんだ)市のうち。」となっています。地名
索引には注がないことになっているので、こうなるのは仕方がないのですが、これは打撃が大き
く地名の意味を失わせるものです。人名などとトータルにならないからです。この「さんだ」は
「ひら」いてあるので、展開ができる、と取れそうです。一応、「三田」に、〈信長公記〉の常用姓
「山田」をもう一つの「サンだ」として宛てて見ますと 「さんだ」=「山田」「三田」ですから
「さんだ」=「三田」
‖
「山田」
で「三=山」で〈奥の細道〉の「太山」(みやま)」は音(おん)から「三山」であろうと思われます。
一方「さんだ」は「ださん」であり、「田三」「太三」「太山」ですから
「三山」
‖
「太山」
で芭蕉は「太山」に「みやま」とルビを入れたとき羽黒三山は羽黒太山くらいに読みかえているで
しょう。〈奥の細道〉の「羽黒山」の一節は
「羽州里山」「書写黒」「里山」「羽州黒山」「羽黒山」「出羽」「毛羽」「三山」「武江(脚注=
武蔵国江戸)」「融通」「御山」
などがが出てきますが、戦国二書の「出羽守」や、「黒部源介」=「里部源助」の炙り出しのこと
などを踏まえています。「山」が多いのですが「谷」は「南谷」があり
「有難や雪をかほ(ルビ=を)らす南谷」
があります。初夏の風が吹いてきて、谷間の雪も薫る、という情景でしょうが、もう一つ雪に
反応するのは「冷たい」ということで、氷(かお)るというルビに適っていると思います。つまり南谷は
北(喜多)谷を念頭においているのかもしれません。またこれだけの「山」に対置される「谷」は
数が二つしかでていませんので少なすぎます。ひょっとして「南谷」は「三ナ三谷」で「九谷」も
あるのかもしれません。古田を出したいといって余り無茶はできませんが〈芭蕉全句〉によれば
「奥の枝折」という句集も出てくるし、初案の紹介では「雪を薫らすみなみ風」という「ひら」いた
ものがあり、地名の「谷」にかえています。羽黒山は「僧坊三十三院と称され」とありこれは芭蕉
は知っているわけです。この羽黒の山谷になぜか図司左吉がでてきます。
常山に「相馬」の「水谷三郎兵衛」が出てきます。これは「三谷」でもあります。この相馬は
常山では須賀川につなげようとするものです。すか川の主役が「相楽」です。芭蕉と常山を
合成してみれば
「水谷」「相馬」→須賀川の「常陸」→「常陸守」の「相図」→須賀川の「会津」
→「図司左吉」の「図」
「図司左吉」は脚注では「染物屋」で蕉門の呂丸です。こうなれば
「図」−「水谷三郎兵衛」ー相馬長門守ー伊達政宗で「宗達」が出ますが、「図司左吉」の
「図」、「左介」の「左」、村田吉五の「吉」とかでいえば「古田」が出てくることが考えられます。
常山は「古田助左衛門」という表記を作っていますので「助」の方からの語りもできるということ
でみな「古田」を多く語ろうとしています。
(62)「広」
たまたま森銑三の索引を見ていて「平賀源心」が出ていて、同じ下巻だったので、見てしまった
のがここまでの古田の話となりました。最後に
G「広瀬左馬助」
「広田図書」
で締めくくられたのは何故かということが残っています。
「広」の付く人物で思い出しますのは「大江広元」と「梁田広正」です。
両書に大江広元は出ておらず
「毛利陸奥守大江朝臣元就」〈甫庵信長記〉
で出ています。要は「本巣」の安藤「守就」「尚就」の「就」が鍵だといっています。〈甫庵信長記〉に
「(元就の父)広元」
もあり「就」があります。「毛利陸奥守」=「森陸奥守」ですから「太田和泉守」が出てきます。
「太田和泉守」(梁田広正)から探すのは常道でしょう。ほかに「広」では
「広橋(弘橋)兼勝」〈信長公記〉
があります。これは日野の人で、その線と兼松の「兼」の線から
「日根野弘(広)就(備中)」
の「就」が出てきます。弟の「日根野弘(広)継」から「山口教継」に行き「山口左馬助」に達する
ことができそうです。これは「広瀬左馬助」の「左馬助」でもあります。「広田図書」からは「図書」
の「高山」がヒントになっていそうです。
常山は広瀬で「孕石」「稲葉伊織」「青木」「孕石主水」などを出しており「孕石」は「えだ石」
「主水」は「野々村」を当たるような指示でしょう。、広田で「水野」「明石掃部」「簗瀬又右衛門」
を出しており、水野は「水野伊右衛門」もあります。大体やってきたことは見当違いでもなさそう
です。
(63)大須賀五郎左衛門
須賀川の入口の句「風流の初やおくの田植歌」の「おく」が「奥の細道」という場合の「奥」で
しょうがひらかなになっていて捉えどころがないだけに展開ができそうで後世の人などには
絶好の材料として利用される、そういう多くのものを須賀川は内蔵していそうです。太田和泉
守は陸奥守ですから、ここの「おくの田」というのにも「太田」がありそうです。〈信長公記〉の
人名索引の「お」行で
「大嶋」(伊那郡高森町)
「大嶋」(丹後)」
「●奥州伊達」(これは「伊達輝宗」とされている)
「大須賀五郎左衛門」
「太田牛一」(「太田和泉守」、「太田又助」)
「太田平左衛門」
「太田孫左衛門」
「大館晴忠」(「伊豫守」)
というのがありますが、●からみれば「おくた」は「太田」、はいえることになります。●は本来は
「伊達輝宗」(政宗の父)で「た」行に入るものだから援用はできないものです。これから見れば
人名索引も一つの作品であり、校注という作業も作品作りということができます。ここで「宗」が
あり、「達」=「舘」が出て「大」をはさみ、「伊年」の「伊」もあり「宗達」が顔を出しているといえま
「伊年」は「田植」「苗」の「稲」もあり、大島も染井吉野で出ましたがそれは偶然としても、この
「嶋」「島」は古典直結の「しま」です。「大須賀」の「須賀」が重要で、出雲からとばしてきたもので
須賀川の語りの伏線となっています。太田牛一自身に「奥」が意識されていたので、ここの
須賀川に多くの語りが出てくるのでしょう。〈信長公記〉では
「奥州伊達」「賀州奥郡」「奥州」「奥州の遠野」「奥州津軽」「奥の嶋山」「紀伊国奥郡」
などがあります。この「きのくに」の「奥郡」からは「紀伊」「根来」「湯川」「小野」「住吉」「天王寺」が
出てきたことは既述ですが、ちょっと行ったら「金松又四郎」「前田又左衛門」が出てきますから
「天王寺」から遡れば「奥」「おく」へ行き着き「栗山」が出てきたわけですが、もう忘れているだけ
で「栗山」=「大島」ですから索引を元にやったのかなというのが感じられるところです。「陸奥」
の「陸」から「久我」「久賀」「古河」「古賀」もでてきます。わずらわしいかもしれませんが、時代の
はなれた今の人は訓練を
しておくのがよいようです。昔の人はこういう小さなものにこだわりながら、大きなものがみえたと
いうか、みようとしたというか、たえざる関連づけでそうなるのかもしれません。
「白石鹿毛」「取分け鹿毛」(信長公記)
がありますが、これは入鹿の鹿でしょう。「白」を伴って出てきているのは「百済寺の鹿」の読み
が「はくさいじ」となるのとモトが同じでやはり、「白」が「入鹿」の属性といってもよいものです。
ネット記事 「新羅神社考 福井県の新羅神社」でみるように「気比神社(角鹿神社)は新羅神社
です。「角鹿神社」の祭神は「応神天皇」ですがこれは「八幡」の元祖です。奥州といえば常山で
太田道灌が出てきたところ大江中納言、八幡太郎義家がでてきましたが、この義家の八幡は
角鹿神社の祭神「応神天皇」が元祖ですから、八幡太郎義家にも蘇我氏の影響は及びます。
義家の弟「新羅三郎義光」は甲斐武田などの祖のようですが「新羅」とともに有名な人物です。
「白石鹿毛」も、〈奥の細道〉のすか川のクダリで利用されます。「白石」の城下は片倉小十郎の
城下で「景綱」が有名ですがこの「白石景」が景色の「景」、古田の「景安」に到っています。
「古田」を語るには「おく」の道が適切でしょう。〈信長公記〉は安藤を語って消してしまいました。
安藤は
光芒を放って安藤父子追放と共に表記が消えましたが多くの語りに役立てられたといえます。
テキスト人名注にありますように「安東」からは「秋田城主。安倍貞任の子孫」というのが出て
きますから安倍貞任と八幡太郎義家の歌のやりとりの故事が利用されます。
「安倍貞任」からは「定」「任」や「安部加賀守」「阿部加賀守」「安部仁右衛門」「阿閉淡路守」
などから太田和泉守周辺が語られることにもなります。安部仁右衛門からは和田が出てくる、
「和田」からは「伊賀守」が出てくる、「阿閉」からは近江「伊香郡高月町」が出てくる、「上月」「高
槻」から、山中、高山も出てくるというようになります。「八幡太郎」からは「源氏」「八幡」とかが
出てきて〈武功夜話〉では「森」は源氏だといっています。「源内」とか「源君」とかの「源」です。
『八幡大菩薩。森小一郎(正久)祭司なり。森氏は源姓なり。』
これは菅原天満宮も同じで、戦国の八幡として利用されますが、森氏の源姓というのは常山
が「源君」という主語を使っているので重要ではないかと思いますが、〈武功夜話〉ではこういう
のに責任を持っていて、
『森勘解由(正久)、生国は大和国清和天皇の後胤、森大和守源頼親の末孫なり。故あって
大和国より来り留る。当所八幡社を勧請す、
維時大永戌春(六年、一五二六年)八月二十
五日と記す。・・・』〈武功夜話〉
これは太田和泉守が生まれた頃のことですから、親の誰かのことを暗示したものとも取れます
が、正久Aが作られていますから、文に拘らなくても、この日付けが重要だということで、取り上げ
たことがあるものです。この源頼親という人物は芭蕉が挙白を取り上げた三木のところに出てくる
源(多田)満仲の子息で、奥州ー八幡ー安東ー森ー太田和泉守が出てきているといえます。
一応は太田和泉守の生年月日と考えておいて資料は豊富でしょうからつき合わせればよいこと
です。ただわからないということはないわけです。まあ
「維時」
があるからこれを太田和泉守の生年月日と仮定するということです。
「奥」という人名からも須賀川に援用されるものがありえるでしょう。「奥」は「奥平九八郎」と
「奥田三川」の二つです。奥平から「坂井左衛門尉」が出ますので、関連は明らかですので
「奥田三川」から大物がでるのかやって見たいと思います。
「川三蔵」〈信長公記〉
という表記があり、これは「奈良川三蔵」に作られているようです(脚注)。森の「大和国」へ
飛んでみます。
次稿 (64)へ続く
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伊賀守、か