12、朝倉義景の最期

(1)一匹おおかみ
 前稿で、那古野弥五郎は清洲の城主、織田彦五郎のことをいっているのではないかということを
考察してきましたが、太田牛一の記事には別人を表すこういうものが多々あるということにも触れ
てきました。祝弥三郎、市川大介、堀田孫七、山田左衛門尉などの類のものです。
 日本の史書には、こういう話もあったよ、といった調子で話を拡散させているというよりも、いま取
り上げている舞台で動いている世界を一つの物語にまとめ上げる、というように述べていることは前
著や本シリーズでも触れてきました。太田牛一の世界も、実際そういう人がいてそうなったという状
況報告と見やすいものです、もちろんそういうこともありますが、登場人物が目的をもって出てくるもの
も多いのです。その一つが一匹おおかみで、有名人物や場合により自画像も出してきたというものが
多く話が収斂されていく、目的に照らして纏まっていくというものです。
 あまり広い範囲のことに触れない、話を自分の周辺のことに限っているというのは視野の狭いと
いうことではなく、自分の見聞きできる範囲のことを叙していくというのは一面、信頼できる話
しを述べていることになる、誠実な態度ではないかと思います。行動範囲内のことを書くのは確実で、
信頼できるともいえます。
 現在の情報過多の時代でも、よく知った積りが新聞やテレビなどで報じられる物だけがわかって
いるだけということになりやすい。また、意識的に、無意識的に情報が操作されておれば実際と
逆といってよいような理解をしてしまうことになりかねません。
 とりわけ太田牛一などの著作は書き手の問題意識が海外古典、古事記、吾妻鏡をも踏まえている
ので、身近のことを書くということが視野が狭い、普遍性に欠けるということにはなりません。
 司馬遷は項羽・劉邦・張良などの顔は知らず、三国志の著者、陳寿は曹操・孫権・劉備・孔明を知り
ませんが、たまたま太田和泉は政局の中央にいて、自らも風雲も起こしえた位置にいて、登場人物を
知っており、身辺のことを書いていくことだけで、日記のようなものでも十分劇的なものになります。
地方は地方でよく知った人が書き残しておりますし、立場をかえていろんな人が書いています。その
気でおればよくわかるようになっているのが日本史です。ここで一匹おおかみで叙述されたと思われ
る例として朝倉義景の最期について触れたいと思います。

(2)朝倉氏滅亡
いままで「女房」で大ものが登場したのは「安井氏」です。道家祖看という人は、尾張国春日郡安井の
住人ということですから、自分はこの安井氏の身内だといっているのと同じです。
朝倉の最後にあたってこの「女房」が出てきます。「安井の女房」が大ものだったので無視できないと
思います。次は〈信長公記〉の朝倉滅亡の記事です。巻六、元亀四年の八月、訳文

     『(十三)・・・・信長公はご武勇・ご徳行ともにすぐれた方であたから、思いどおりの大勝利を
     収められ、十四・十五・十六日お敦賀にご滞在になり、あちらこちらで人質を確保し、十七日
     木目峠を越えて、越前へ攻め入られた。
     八月十八日、府中(福井県武生市)の竜門寺に着いて陣をすえられた。朝倉左京大夫義景
     は、自分の居城の一乗の谷を引き上げ、大野郡山田の庄の六坊という所へのがれていった。
      あれほど高貴な女房たちも、こし車とは名に聞くばかりで、このたびは、取る物も取りあえず
     徒歩で、素足でもって、われがちにと義景のあとを慕って落ちていった。まことに目も当てら
     れぬほどみじめで、とても口ではいいつくせないほどであった。
      さて柴田修理亮・稲葉伊予守・氏家左京亮・伊賀伊賀守をはじめとする諸将は、平泉寺方
     面へ義景を追って、軍勢を回した。そのうえ諸卒を手分けして、山中へ分け入らせ、「落武者
     たちを捜し出せ」と言い付け、毎日百人・二百人と一揆の者たちを竜門寺の御大将の陣へ
     連れてきて、お小姓衆に命じて、際限なく殺させる。目も当てられぬありさまであった。
      このときのことである。どこか気品のうかがえる女房が下女も連れずただ一人でいるのを
     田舎育ちの身分の低い者たちが、見つけてきて、三日、五日捕えて置いたところ、ちょっとし
     たすきに、すずりを借りて鼻紙の端に書置きをし、偽って脱け出し、井戸へ身をなげて死んで
     しまった。あとで人びとが書置きを見ると、
        ありおればよしなき雲も立ちかゝるいざや入りなむ山のはの月
     と一首の歌が書きのこされてあった。此の世への思いもこれまでとの女房の心に、見る人
     びとは哀れに思い、涙を流さない者はなかった。平泉寺の僧たちも信長公に忠節を尽くすこ
     とを申し出て、軍勢を出して協力申すこととなった。朝倉左京大夫義景はますますのがれ
     難い羽目にたち至った。
     
      (十四)同じ朝倉の一族で、式部大輔(朝倉景鏡)という者が、情情にも義景に腹を切ら
     させた。鳥居与七・高橋甚三郎が介錯をし、この両名も義景のあとを追って切腹した。中
     でも高橋甚三郎の対処の仕方は比類ないものであったという。
      朝倉式部大輔は、義景の首を府中竜門寺の陣へ持たせてよこし、八月二十四日ごあい
     さつに参上した。同じ朝倉一門の総領であることといい、親類であることといい、まったく
     前代未聞の行いようであった。
      信長公は義景の母ならびに嫡男の阿君丸を捜し出し、丹羽五郎左衛門(長秀)に命じて
     殺害させられた。
      さて越前の地侍たちはそれぞれ縁をたよって、信長公に帰参のごあいさつに参上するの
     で、門前市をなすありさまであった。義景の首は、ただちに長谷川宗仁に命じて、京都へ運
     び獄門でさらし首にされた。・・・・・・』〈ニュートンプレス信長公記訳文〉

 大体朝倉最後の状況はわかっていただいたと思います。以下はこれの原文です。

(3)女房の登場 
      『(十三)・・・・信長公御武徳両道御達者の故、案の内の大利を得させられ、十四・十五・
     十六日敦賀に御逗留。所々の人質とり固め、十七日木目峠打ち越し国中御乱入。
     八月十八日、府中竜門寺に至って御陣を居(す)えさせられ、朝倉左京大夫義景、我が舘
     一乗の谷を引き退き大野郡の内山田庄六坊と申す所へのかれ候。
     さしもやむことなき女房達、輿車は名のみ聞いて、取る物も取り敢えずかちはだしにて我
     れ先に我れ先にと義景の跡をしたいて落ちられたり。誠に目も当てられず、申すは中々愚
     なり。
      然る処に柴田修理亮・稲葉伊豫・氏家左京助・伊賀伊賀守初めとして、平泉寺口へ義景
     を追い縣け、御人数差し遣わされ、その上諸卒手分けをして、山中へ分け入ってさがし候え
     と仰せ出され、毎日百人・弐百人づつ一揆共竜門寺御大将陣へ括り縛り召し列れ参り候を
     、御小姓衆に仰せつけられ、際限なく討たさせられ、目も当てられざる様体なり。
      爰に野仁(やじん)の者共、けたかきかとある人と見えたる女房(にょうばう)の、下女
     をもつれ候わで、唯一人これあるをさがし出し、五三日いたらぬ奴原止め置き候処に、或る
     時、硯をかりてはな紙の端に書置きをしてたばかり出て、井戸へ身をなげ果てられ候。後に
     人々是を見ればこの歌なり。
        ありおればよしなき雲も立ちかゝるいざや入りなむ山のはの月
     と一首を書置き、此の世の名残り是迄なり。見る人哀れに思いてなみだをながさずと云う
     者なし。平泉寺僧衆御忠節仕るべきの由候て、人数を出し手を合わせ、朝倉左京大夫義
     景遁れ難き様体なり。
     
      (十四)爰に朝倉同名に式部大輔と申す者、情なく義景に腹をきらせ、鳥居与七高橋
      甚三郎
介錯致し、両人の者も追い腹仕候。中にも高橋甚三郎働き比類なきの由候。
      朝倉式部大輔、義景の頸を府中竜門寺へ持たせ越し、八月廿四日御礼申さる。名字
      の総領と云い、親類と云い、前代未聞の働きなり。
      義景の母儀并に嫡男阿君丸尋ね出し、丹羽五郎左衛門に仰せられ生害候なり。
      去て国衆縁々を以って帰参の御礼、門前市をなす事に候。則、義景頸、長谷川宗仁
      仰せ付けられ、京都へ上(のぼ)せ獄門に懸けさせられ・・・・・・』

 例の「爰に」が二つ出てきます。その一つ
         「けたかきかとある人と見えたる女房(にょうばう)」
というのは少し文がおかしいようで、訳しにくいことは確かです。「けだかいか」といって「けだかい」を
あいまいにしています。「とある人」というのは生きるのでしょうか。これは文を入れ替えればよいよ
うに思われます。すなわち 
         「女房かと見えたるとあるけたかき人」    
となりそうです。この和歌を書き残して井戸に身を投げた人が朝倉義景であったと噂があったようで、
太田牛一が書き残したのはそのためでしょう。単なる状況報告として載せたのなら、和歌を残した
という心映えを褒めているのでしょうからその人物の名前を入れてほしいところです。
〈信長公記〉脚注によれば、ここの「にょうばう」の注として、
      『四月十三日付豊臣秀吉自筆消息(〈高台寺文書〉)等「にうほう」。
      又「ねうほう」(〈賜盧文庫所蔵文書〉)』
となっていますので、秀吉公もこのことを記録しています。よほど軍内、上層部に広がった話しといえ
ます。

(4)高橋甚三郎
 もう一つ「爰に」が(十四)にあります。こういう事情だから、この節の後半の解釈が従来のものと
大きく変わるでしょう。
 裏切り者とみえる朝倉式部大輔景鏡は工夫をして義景を逃がそうと考えたようです。
朝倉義景が捕らわれていることや、義景のこの最後は朝倉式部大輔景鏡にはわからなかったはず
ですから、義景の首を持参して、とにかく義景に対する追求の手をゆるめることを考えたと思われま
す。すなわち八月十八日、義景が六坊へ遁れ、五三日留め置かれていたので八月二十三・四日ころ
入水事件があったと思われます。景鏡はもう八月二十四日に信長に首を届けていますので、早め
にこれをやったといえます。
その間の事情を物語るのが、脇役の記事です。〈再掲〉

      「爰に朝倉同名に式部大輔と申す者、情なく義景に腹をきらせ、鳥居与七高橋
      甚三郎
介錯致し、両人の者も追い腹仕候。中にも高橋甚三郎働き比類なきの由候。
      朝倉式部大輔、義景の頸を府中竜門寺へ持たせ越し、八月廿四日御礼申さる。・・・・・
      ●名字の総領と云い、親類と云い、前代未聞の働きなり。・・・・・」〈信長公記〉

 高橋甚三郎が二回出てきてとくに比類なき働きをした、ということになっているのは、首を提供した
功績です。これは本能寺の戦いのときも出ました。同じ高橋です。

      「御台所の口にては高橋虎松暫し支え合い、比類なき働きなり。」

寄せ手を二人も三人もバッタバッタと斬り倒すというわけにはいきません。もしその武勇なら何人く
らいと書いて貰わねばその働きがわかりません。これは時間稼ぎととくに首提供の働きをいっていま
す。
もう一人の鳥居与七について〈信長公記〉は名前だけしか載せていないので〈甫庵信長記〉が取り
上げています。

    『爰に哀れをとどめたる事あり。鳥居兵庫頭、高橋甚三郎、義景を介錯し、追い腹を心にかけ
     親に暇を乞い妻子供が盃など飲うで出ける時、兵庫頭申しけるは・・・・・・・云い認(したた)
     め置き、立ち帰り、空しくなりし義景を拝し、腹掻き切って失せたりけるが、息与七郎、刀根
     山峠にて討ち死にしつる時を悲しみて、一首こうぞ思いつづけ書置きたりし
        先立ちし小萩がもとの秋風や 残る小枝のつゆさそうらん
     鳥居が母は余りに堪えこがれ、三日を過ごさずして終に身まかりけるとかや。父は主君の
     厚恩を送り、子は戦場にして義死を遂げたりける。・・・・・・・・・・・・・』〈甫庵信長記〉

 爰にがまた出てきました。〈信長公記〉の鳥居与七は甫庵では刀根山陣で戦死しており、ここの
鳥居兵庫頭が〈信長公記〉の鳥居与七で、「与七」が親子重なって表記されています。
まあ登場人物が、鳥居兵庫頭、鳥居が母、戦死与七、介錯与七(高橋甚三)となるのでしょう。
高橋は別姓を名乗っていますが、兵庫頭夫妻の子といえます。
●以降の文の解釈は、朝倉名字の景鏡はその名を使ってそれなりの働きをした。親類というのは
この鳥居兵庫頭が朝倉義景の親類という意味と思われます。兵庫というのは明智を連想できる
名前で、光秀も兵庫、夕庵も兵庫頭です。この鳥居兵庫助は朝倉義景の寵臣で、明智光秀が朝
倉にいたとき義景との対話には、この人物が中に入っています。(〈明智軍記〉)おそらく男系の親
類であったと思われます。
 朝倉と明智・斎藤は親類だったというのが、光秀の生涯に朝倉が占めるウエイトが大きい理由だ
と思われます。
 朝倉の戦後処理は悲惨をきわめ徹底して行われました。これは織田の権限で起こした戦争とい
うのでなく徳川の後ろ見によって行われた戦いだから、降伏といったもののない戦い、織田内部で
の寛容さの発揚のないものとなっています。すなわち軍監が付いていた、義景の母と子の処置も、
丹羽五郎左衛門がしましたし、長谷川が降伏処置の最後を締めくくりました。際限なく捕虜を殺した
小姓衆も主君の命令だから、天下布武の過程だから当然だと思ったわけではないでしょう。後年
の本能寺の戦いではみな計画納得の上、それなりの自覚を持って事にあたったと思われます。
 織田信長・太田和泉の構想では織田の天下は京近辺の新興勢力浅井氏と組むことによって可
能とみていたと思われます。浅倉はその意味で貴重な勢力です。信長公はいきがかり上、徳川と
組むというこになり、徳川の、織田と浅井朝倉の離間策に乗ったというのがこの戦いであったと思
います。
 宗教勢力との戦いは近世への統一過程で不可欠のことだというのも、宗教勢力と組んだ朝倉とい
うようなこともない、最後、攻め手が宗教勢力と組んで朝倉義景を追撃したということですから、どっ
ちもどっちそれは天下平定してから考えたらよいことで、まあ浅井朝倉や三木・松永・雑賀など身方
と戦った無用な戦いがあったことが戦国時代の特徴といってよいと思われます。

(5)鶴松大夫
八月二十四日に朝倉の決着がつき、浅井が八月二十七日に滅亡します。高橋甚三郎の話が浅井
でも起こります。

   『(十五) 八月廿七日夜中に、羽柴筑前守京極つぶらへ取り上り、浅井下野・同備前父子の間
   取り切り、先ず下野居城を乗っ取り候。爰にて浅井福寿庵腹を仕候。
    去る程に、年来目を縣けられ候鶴丸大夫と申し候て、舞をよく仕候者にて候。下野を介錯し
   去(さ)て其の後鶴松大夫も追い腹仕り、名誉是非なき次第なり。羽柴筑前守下野が頸を取り、
   虎後前山へ罷り上り、御目に懸けられ候。翌日又、信長京極つぶらへ御あがり候て、浅井備前
   ・赤生美作(あかふみまさく)生害させ、浅井父子の頸京都へ上せ、是又獄門に懸けさせられ、
   又浅井備前十歳の嫡男御座候を尋ね出し、関が原と云う所に張付(はりつけ)に懸けさせられ
   、年来の御無念を散えられ訖(おわんぬ?)。・・・・』〈信長公記〉

 また「爰にて」が出てきます。ここの浅井福寿庵という人は下野守と同一人物ではないでしょう。
この人の頸を下野守の首として、鶴松大夫という人の首を浅井備前守の頸として届けることになる
はずです。信長は総大将だから、こういうときは本来出番ではないはずですが、のこのことやって来
ます。これはかなり変な語りです。
ここの浅井備前十歳の嫡男というのは、万福丸といわれ、お市の子ではなく妾の子とかいわれて
いますが、これは浅井備前の実子、淀君以下三人の子はお市の実子となるのでしょう。串刺し磔
刑などというのは作り事で、そういうようにみせたわけでしょう。万福丸には存命伝説があり、そち
らが合っているはずです。信長の姻戚というのがなんといっても大きく作用したと思いますが、本来
たすけるものとなっていた、そういう社会です。行方を捜して捕まえるという行為は当時では、成功
しなかったといっているようです。串刺しなどというのは属性をあらわしている言葉で、今川氏実が徳川家康の寝返りにあたって人質にした刑もこれだったといわれていますが、徳川家康の周辺は伝えられて
いるものとは前提から違ってきます。
 なお赤生美作守は浅井長政の男性の夫ではないかと読めるのかもしれません。甫庵では『浅井
石見守、赤尾美作』となっており、石見守は一門の人か、赤尾美作の活動名かになるのでしょう。

(6)薄濃(ハクタミ)の首
翌年天正二年の岐阜の正月朔日のこと

    『・・・・召し出しの御酒あり。他国衆退出の以後、御馬廻りばかりにて、
      一、古今の承り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又御酒あり。去年北国にて討ち取られ候、
      一、朝倉左京大夫義景首(こうべ)
      一、浅井(あさい)下野 首
      一、浅井備前      首
          巳上、三つ薄濃(ハクタミ)にして公卿(くぎょう)に居え置き、御肴に出され候て御酒
        宴。・・・・・・・』〈信長公記〉

 の記事があります。出てきたこの首があの首で当人のものではないようです。下野のところ(あさ
い)というルビはすこし不自然ですが、まあとりたてていうほどのこともないかもしれません。が甫庵で
は鶴丸大夫は、
    「同じ座にては恐れ有りとて縁へ出て」
 腹を掻き切ったとあります。
 ここでこの有名な逸話は違った意味をもって出してきたと思われます。〈甫庵信長記〉の記事では

     『元日酒宴の事
      ・・・・・信長公も打ち祝い、酒出し玉いて、すでに三献に及びける時、珍しき肴あり、今一
     献あるべきとて★黒漆の箱出で来る。何ならんと怪しみ見る処に、柴田修理亮勝家が呑み
    ける時、
自ら蓋を開けさせ玉うに、箔にて濃(だみ)たる頸三あり。各々札を付けられたり。朝
     倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、彼ら三人が首なりけり。満座の人々此れ
     を見て、此の御肴にては、下戸も上戸も押しなべて只給べよ(給うとたべるの合成?)と云
     う儘に、各歌い舞い酒宴暫しは止まざりけり。・・・・・・』

となっており、より具体的に書かれています。太字の部分は★の場所へ移動させたほうが先後がはっ
きりしてわかりやすいと思います。小説などでは、首を盃としたように書かれているのもありますが、
ここを読めばそうではなく、肴として出されたものであって飾って酒を呑んだというものです。つまり
これは本人の頸ではないことを皆が知っていることが前提となっている話と解すべきであり、信長公
はこの三人の人物を、臣として範とすべきと賞賛をしている、その意味で三人の首が出してきてい
る、それを皆が感じているというのがこの珍妙な話の背景にあるものです。下線部分馬廻り衆に限
られた中で行われた、という追記も、このように見ることで意味がわかってきそうです。〈甫庵信長
記〉では、この文のあと佐々成政と武井夕庵が出てきて、君臣の論をしているのもそのためです。
 両人とも長々と話しており、なにかいいたそうですが、多分、君君たらずんば臣々たらず、という
ことも念頭にあってのことではないかと思われます。また二人は「佐々孫助」に近く、孫助が武井夕庵
の幼名かともとれる甫庵の小豆坂の記事にヒントを与える意味も兼ねた登場といえます。
ここは後年本能寺であのようなことになったということもあって、君臣の間の道とかを考え、高橋
虎松のことなどを思い出して、太田牛一が織り込んだ話と思われます

(7)解説書
甫庵の文を理解するには江戸時代に出たものが参考になるという例がこのくだりでも出てきます。
わかりやすい文ではありませんが、次は朝倉義景が追い詰められる状景です。
   
    『かくて柴田修理亮、氏家左京助、稲葉伊予守、伊賀伊賀守を始めとして、大野口へ馳せ
    向かい義景を追い縣けたり。其の外方々口々手を分けて、尋ね探したりければ、思いも寄
    らぬ側杖(そばづえ)にあうて、毎日百人二百人搦め捕られて引かれ参るほどに、幾千万と
    なく切り捨てらる。平泉寺法師も術計つきて、御詫び言申す様は、命をさえ助けられ候わば
    案内者仕り義景を尋ね探し申すべしとて、方々手を分けて求むる程に、案内者は加わりた
    り。義景いよいよ遁れ難うぞ見えにける。追い行く中にも稲葉は古兵(ふるつわもの)なれ
    ば、里の者を近付け、贖(まいない)を遣わし尋ねける程に、小ざかしき者、彼の六坊と云う
    所にこそ屋形はおわしませと申しければ、人数を立て置き、其に義景居給いけるとの証人
    こそ出でたれ。
     朝倉式部大輔、其にて腹を切らせ、信長公へ忠功無きか、若し同心なきにおいては
    押し縣け諸共に討ち果たすべしと云いやりし処に、■式部大輔、潜(ひそか)に
    平野中道寺と云う者に義景に御腹めさせ、信長公へ降参すべきと思うは如何にと云いけれ
    ば、中道寺申しけるは、御言葉とも覚えぬ物かな。・・・・・・・・同じくは義景と共に死を善道
    に守られ候へとぞ諌めける。忠言耳に逆(さか)う事は悪人の習いなれば、式部大輔気色変
    じ、やあ中道寺聞け日ごろ義景我等に対し(ママ)、情けなき事ども此彼(これかれ)数え立
    て、終に義景をこそ討つてけれ。・・・・・』〈甫庵信長記〉

 朝倉式部大輔が義景の首を土産に降参するという考えに、太字、平野中道寺という人物が突
然出てきて、非難します。平野中道寺などというものは、よくわかりませんが、〈明智軍記〉に

   『景鏡が家臣平野源左衛門・中道寺半右衛門一同に申しけるは・・・・・・』

と書いてくれているから二人の合成名であることがわかります。「稗田阿礼」というのが二人の合成
となっているのと同じです。
甫庵が古典の解説をしている、〈明智軍記〉が甫庵の解説をしているという二つのことがここで出て
きています。
 また●式部大輔の出てくるところ意味がわかりません。●の部分は「朝倉式部大輔に」という意
味と「朝倉式部大輔は」という意味と二つ作ったと思われます。
 前者の方が意味としてはわかりやすく、下線部分は、織田方が朝倉式部大輔に対して云っている
話の内容と取るものです。朝倉式部大輔に寝返るよう催促しています。つまり織田と始に打ち合わ
せていたことを示しています。
 後者の方は、景鏡が平野中道寺以外の義景の側にいる家来などにいっているものです。まあ自
分の気持ちを、中道寺にいわせたのが■といえます。一つのことを二つの面から語るというのが日
本古典の一つの重要な特徴といえます。

(8)平泉
 この女房が義景であるというのは太田牛一はあの泰衡の故事からそれとなくいっているのでは
ないかと思われます。あの泰衡は、

    『廿八日・・・・平泉内、無量光院の供僧一人{助公と号す。}囚人となりて参着す。・・・・・・ここに
    去ぬる九月三日、泰衡誅戮(ちゅうりく)を蒙るの後、同十三日の夜、天陰り、名月明らかならざる
    の間、
       昔にもあらずなる世のしるしには今夜(こよい)の月し(も)曇りぬるかな
    かくのごとく詠じおわんぬ。・・・・』〈吾妻鏡〉

というくだりがあり、これは泰衡を表していることは前著で触れました。この女房の死にあたっても
       ありおればよしなき雲も立ちかゝるいざや入りなむ山のはの月
というのが現場にあったということですが、普通は景鏡が降伏のことで、義景の首を持参し「御
礼を申さる」となっているときに届けるものでしょう。太田牛一がこの和歌を詠んだというくだりを作
ったとも考えられます。このことは甫庵の記事でも、明智軍記の記事でも確認できます。まず和歌
がこれと少し違っています。 まず甫庵では歌は    
       世に経なばよしなき雲も覆いなん いざ入りてまし山の端の月
です。曇る月という吾妻鏡と共通する元領主の思いを、語ってこれを朝倉義景と思わせようとする
操作をしたと思われます。平泉寺が突然出てきます。これは平泉白山寺という
   48社   36堂   6000坊   僧兵8000
の大勢力だったそうで、信長公記では平泉がどちらに従いたかわかりませんが甫庵をみれば寄せ
手についているようで、述べる必然があつたという面も確かにありますが、この秀衡も信仰していたと
いう挿話もあることから、吾妻鏡の解説をした面もあったのではないかと思われます。また〈明智軍
記〉では義景の最後として

   『朝倉殿・・・・当家滅亡の時節到来ニテコソ有ツラメ、最期ニ未練ノ働キ有ルべカラズトテ賢松
   寺ノ仏殿ニ座シテ、辞世ノ頌(ジュ)ヲ作り、十念ナド唱エテ自害シタマエバ・・・・・・』

となっています。これが常識的な情景であり、太田牛一の記事は作文であることを明らかにしてい
ます。明智軍記は朝倉の最期から、歴史のなかの類似事件の解説もしています。

   『式部大輔ハ義景ノ首ヲ取テ信長朝臣へ指シ上ケリ。諸人是ヲ見テ、古ノ長田庄司ガ主君
   源義朝ヲ害シ、桐生六郎ガ俵ノ足利太郎俊綱ヲ弑(シイ)シ、河田ノ次郎ガ伊達ノ次郎
   泰衡ヲ討チテ、其ノ首ヲ持参セシ為体(テイタラク)モ斯(カ)クヤ有ケント、爪弾シテ憎ミアエ
   リ。サレトモ、織田殿ハ祝着ノ体ニゾモテナサレケル。』〈明智軍記〉

となっています。
  朝倉義景を売ったのは朝倉景鏡、
  源 義朝を売ったのは長田庄司
  足利俊綱を売ったのは桐生六郎
  藤原泰衡を売ったのは河田次郎
とされていますが、これは逆で、みな忠臣だったといっています。こういうことをして身の安全を図
ろうとしても無理なのは皆、百も承知です。信長公や頼朝卿も君主ですから、不快を感じ、こういう
ことはあってはならないと思うことは眼に見えています。ここで朝倉景鏡は河田の次郎などと同じように
主人を逃がそうとしたわけです。他の三人と違って義景には自決というものがあり結果は助けられ
ませんでした。傀儡政権のもつ寛容さが欠けたという一面がそうさせたものです。
                                         以上    
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