8、出雲阿国と上杉景勝

(1)上杉謙信のこと
 前稿で大村由己が出てきました。この人は「梅」でもありますが、「藻斎」ともいうようで、これ
も見逃せない名乗りであると思います。小説家、矢切止夫の作品に「上杉謙信は女だった」という
題の長編があります。 その根拠の一つが当代記の記事によっています。

     『現在史家のとく第一級の資料に〈当代記〉がある。伊勢亀山城主松平忠明が戦国末期か
     ら江戸初期にいたるまで克明につけたものと伝わる。その天正六年の条には、此の春、越
     後景虎卒去、(没四十九。)大虫と云々。とある。』〈上杉謙信は女だった〉

と書かれて、この「虫」というのが婦人病だった、婦人病で死んだのだから女子であった、と著者が
(根拠の一つとして)いっています。「虫」というのは古来より「獅子身中の虫」とか「一寸の虫にも五
分の魂」とかいうことで語られている性の属性用語です。ここでは回虫の話ではないと思いますが
それにも結びつくのか知れません。回虫は吉川平家物語で清盛の病気として出ますし、サナダムシ
を体内に養い栄養分を吸収させて痩せようとかした歌姫の話などが伝わっています。こういう虫が
、大村由己の「藻斎」につながっているものでしょう。
表記のことでいえば謙信は不識でもありますし梅と共通したものがあります。謙信について、
筆者は死因のことでなく、主にその「感性」「仕種(しぐさ)」の面から同じ結論に達しています〈前著
〉。すこし付け加えれば当代記では、この死亡の記事のあとに追記があり、辞世の言葉があります。

    『此の春、越後景虎卒去、(年四十九。)大虫と云々。●及死後辞世頌云期栄華有
    一
盃、四十九炊夢、三・四句は不継して相果、』〈当代記〉

●のあとは数字が羅列されています。ほんとうは下線●にも、返りの数字があります。「死後」のあ
とに返りの「一」、「」の後に返りの「二」が打たれ、「死後に及びて」と読ませていますが、これも
入れると数字はこの短い文の中に、
       「一」「一」「一」「二」「三」「四」「四十九」「四十九」
が出ています。また四十九は、人生わずか五十年の一年不足でよく使われるもので、実際は二歳
違いの範囲で考えればよいようです。
       「盃」「炊」「華」「夢」
などの語句も鏤められています。●は読み方がむつかしく、矢切書では「死後に及んて辞世ひろま
って曰く」となっています。これは後世の人が、辞世をたたえたとも読めそうです。すなわち謙信の
言葉ではないこともいっていると思います。
 上杉謙信は単騎で武田陣営に切り込み信玄に切りかかり信玄は床机にすわったまま軍扇で防
いだといいますがそれも謙信の力が強くなくて幸いしたといえます。これは荒川伊豆守だったとい
う話もあり上杉=荒川を重ねようとした人もいたのかもしれません。上杉謙信が女だったら側にい
た豪傑、鬼小島弥太郎もそうだったのでしょう。
 上杉謙信は「阿虎」といい「阿国」のように女らしい名です。当代記が、阿国のこと、上杉謙信の
ことを述べていることは、当時の社会のこの面のことを述べようとしたことは一ついえると思います。
この跡継ぎである上杉景勝の記事も出てきますから謙信後の動きもわかるというものです。一方
当代記は信長公記を踏まえているのは明らかで、そのことは木村次(二)郎左衛門、森次(二)郎
左衛門などのことから〈戦国〉でも触れましたが、森・明智の目から語られている、これは大村由己
の立場と同じだと思えます。
 当代記の編著者ともいわれる松平忠明は姫路城主で、大坂城の城主となり、天満の町割をして
天満宮に関わり、大村由己が天満宮に奉職していた、ということ、
 また先稿で触れた伏見城のことも書いてあるので、まあ長嘯子にも結びつくものもあり、ぼんやりと
したものですが大村由己が当代記に関係していそうだと感ずるわけです。
当代記のほんの一部が大きな語りをしていることが謙信のことでわかりますが、阿国でも同様なこ
とがいえると思います。すなわち当代記に阿国を出してきた著者の意図はなにかという点から読む
のもよいかもしれません。

(2)阿国のこと
日経新聞の文化欄で出た「阿国」に関する記事をテキストとしてこの問題を追っかけてみたいと思
います。
     『今年は出雲の阿国(おくに)が歌舞伎踊りを創始してから四百年。阿国にちなんだ行事や
     舞台公演が各地で催されている。だが阿国の正体は追求するほどに謎が深まってくる。阿
     国の実像と阿国歌舞伎が生まれた背景を探ってみた。』〈テキスト〉

 とあります。阿国という人物とその登場の背景を知りたいということですが、これは「謎」となってい
る事柄で調べれば調べるほどわからなくなってくるようです。このままでは史書はそれほど頼りない
ものだと思ってしまいます。はっきり書けないものがあるからこうなっているかもしれず、既存の資
料を読み直せないかということに帰着します。

    『阿国歌舞伎発祥の地、京都。「阿国歌舞伎からの出発」と題するシンボジウムが十月下旬
    、京都造形芸術大学で開かれた。パネリストの服部幸雄千葉大学名誉教授は「阿国の偉さ
    は全く新しい芸能を女性が初めて創造したことだ」と指摘した。中世後期、女性演技者中心
    の猿楽、曲舞(くせまい)、女房狂言んなどが盛んになったが、いずれも男性の芸能
    の模倣にとどまっていたという。』〈テキスト〉

これは、男性の芸能があって女性の芸能がそれを模倣して台頭してきたという前提があつて、元
の男性の芸と称するものが猿楽、曲舞、狂言で、それに「女」という字が冠せられるものが出てき
たということかと思われます。戦国時代に尾張で好まれたのは「猿楽」「哥舞」です。

     『尾州岩倉御城主織田七兵衛尉(信安=信秀いとこ)・・・武辺のたしなみ更に無し、猿楽
      、哥舞を好み日夜酔興す。織田上総介信長様、この御方もまた猿楽、哥舞を愛好す、』
     〈武功夜話〉

この書物の語句の使い方は厳密なので、これは男性の芸能ということになるのでしょう。テキストで
は次に当代記が出てきます。

    『天下一を称するほど阿国が有名になったのは、出雲の巫女(みこ)を名乗り、刀を腰につけ
    た異様な風俗で男装し、当時流行の茶屋遊びをして女と戯れる踊りを見せたためだ。
     「此頃カフキ躍(おどり)ト云事有、出雲国神子女(みこ)、名ハ国・・・・・・京都へ上ル、縦
    (たとえ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀脇差衣装以下、殊(ことに)異相也、彼男茶屋ノ女ト
    タワムル」。徳川幕府の草創期の出来事を編年体で記した「当代記」は、慶長八年(1603)
    年四月の条で、阿国の評判を伝えている。』〈テキスト〉

 これで「当代記」に阿国の記事があることがわかります。これがまとまった記事の唯一のもので
はないかと思われますので一言一句の読みが必要なところと思います。ただ上の解説のためのテ
キスト文は事実関係を主体に伝えようとしているため、ややこしいところは省かれています。次の
太字のところが上の文に追記されなければならなかった部分です。もう一度完成して転載しますと

    「此頃カフキ躍(おどり)ト云事有、出雲国神子女(みこ)、{名ハ国、但非好女、}仕出
    、京都へ上ル、縦(たとえ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀脇差衣装以下、殊(ことに)異相也
    、▲彼男茶屋ノ女トタワムル体有難したり。、京中の上下賞翫する事斜ならず(原文=
    不斜)、伏見城にも参上し度々躍る、其の後之を学ぶ(学之)かふきの座いくらも有
    て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終に見給ず(不見給)、
」〈当代記〉

となっていて太字のところが違ったり省かれたりした部分です。

(3)女子と男装
特に神子女(みこ)の説明で、原文では{名ハ国、★但非好女、}という注書が入っていることで
す。すなわち名の「国」というものも注書です。また、テキストでは★の「非好女」という部分が抜か
れているのです。これは素直に読めば「好女に非ず」とか読めます。これなら「好い」というものを否
定したことになりますが、またこれは女をもまとめて否定してしまうのではないかということにもなりか
ねません。
 さらに▲「彼男」は「国」を指しているのは間違いないようです。すると「国」は「男」といっているこ
とにもなります。今は、この★▲を無視して、もしくはこれに新たな解釈を加えて、ここの出雲の阿
国は女性と読んでいるとみてよいと思います。そうならば、これは主語に当たるところを重視してい
る、つまり これは神子女(みこ)となっているから、あとは目をつぶって女子と読んでもよいといっ
ていると思えます。
 形容詞の「出雲」というのも、大国主の命や、「神々」や、「いなばの白兎」の話などによって女性
を表すものですし、「仕出」というのがわかりにくいのですが「出仕」の逆で、仕えをやめて、京都へ
出てきた、ということと解すると実際、出雲で仕事をしていたことになり、これで第一感、女性である
出雲の阿国のことについて語っているとみるのは、それで合っていると思います。
 強いて付け加えれば当代記の作意からみてもそうだといえるものです。つまり表向き男系社会と
いうなかで特異な阿国の出現ということを先ず述べていると思います。ただ★▲という途中の文言
はさておいて、というのはすこし気になるので、この阿国女子説を補強する決め手はないかと検討
してみます。
{名は国}というものや「但非好女」というのや「彼男」などは江戸末期までの知識層には意味が
すぐわかったというのが重要で、当時全く問題にする必要がないというところが、現在最も揉めそう
な部分であるというのが、わかりにくいことを書いているという評価につながっているのです。ここ
で記述の約束ということが出てくるのではないかと思います。
まず、「阿国」は、ここでは{国}であって「阿国」ではないのです。「阿」を付けたのは誰でどういう意
味かというのも問題のようです。この著者が{国}と注で書いたということは「阿国」ということで呼ば
れていたことを知つているはずで、これは表記上のあぶり出しをしていると考えねばならないと思い
ます。
 高僧の意味である闍梨は闍梨ともいいます。また阿闍梨は阿闍梨耶の略で、同じものを一字
付加して、気付いてもらおうとしています。また修羅は、悪魔神の名ですが修羅も同じことです。
上杉謙信の名前は「虎」で「於虎」ともいうようですが〈矢切著〉、当代記では既述のとおり「阿虎」
です。要は「於虎」「阿虎」で、同じもののあぶり出しです。この注の{国}というのがそういう意味で
書かれたと思われるので、まず肝心の阿国は女子であったといえます。また、この★の「非」は何
の「非」かということになりますが、これはまた神子女(みこ)といったことの注ですから、そんなよ
いところの出ではないよ、ということつまり女を打ち消したのでなく「好女」を否定したと思われます。
後の▲については、今は、男装しているから、「彼男」といったのであろうと解釈されていると思い
ます。男装というのも{国}が女であることをいっているととってもよいでしょう。ここで
        女子というものを著者が打ち出したかった
ということがいえると思います。
 そんなややこしいことをいわなくても、この「国」は女子であったと皆がそう読んで、そう思ってい
るのだから、それでよいではないかといわれるかもしれませんが、そう簡単に考えると 、ややこし
い表現をした真意を見失うのではないかと思います。これでこちらが悩まされたわけですから、一
応土台は固めておかねばならないと思います。
 当代記は記紀・吾妻鏡・信長公記などを踏まえたものだということ、漢文を文中に入れて述べて
いるこの書き手の人は女子だろうということなどに気がつかなければならないものです。
古典から読むと、ここの「京中の上下」というのは、身分の高い低いとか、言う前に、「上」も「下」も
同性といっているのかもしれないわけです。「上院」「下院」どっちも同じというようなものです。もう
一つは
        男装という特異なことを著者がいいたかった
 

 と思います。鎧・兜に身を固めているのもその類のことです。戦国期の時代相を述べているのが
当代記という史書です。男が女とたわむれるなら異様でないが、異様な風をした男装の女子が、
茶屋の女と戯れて、これは女同士で珍しい、いままでは考えられないことが起こったといっている
のでしょう。社会が表向き男性社会としてとられていたことからみて異様なことだといっている、女が
男装して女と戯れるのが異様といっていると取っているはずです。

(4)伏見と江戸が出てくる。
問題は太字下線の部分をどう解釈するかです。
 ただ女が男のマネをしているので珍しいから話題になったという読みだけでは現在から見すぎて
いる、すこし変わったことをいいたいというものがあると思います。そこに、この★▲の否定形が入
った意味があるのではないかと思います。つまり、芸事は通常、男性が観客であれば女性の芸人
が喜ばれ、女性が観衆であれば男性の踊りが魅力的なものになるのではないかと思います。この
時期女が幅を利かしている世だったから、表向きは、女の芸をみることになりますから、男の芸は
珍しがられ男の踊りが持て囃されることになる、装いはどうあれ男が女の真似をしても、男が男の
風体をしても、男が踊るとやんやの喝采を得るかもしれません。
今でも昔でも観光・観劇などの主体は女子でしょうから、本来的に女が演芸の鑑賞者である上に
、女が世を牛耳っている時代ですから、それが戦国時代という動乱の中にいるので、下の階層に
いるものも台頭してくる下克上の風潮があるなかですから、女子のサイドでもすこし気が荒くなり、
俗に言うガラが悪くなってきて、そういう異様なことが喜ばれるようになったのかもしれません。
また女が幅を利かしている世といっても、一方では腕力の強いことが時代の要求に適ってきて男
性の台頭が著しくなってきたという背景も考えられます。まあ時代のエネルギーというものが従来
の殻を打ち破りつつある時代といってよいと思います。
 上層部における男女入り混じりの時代というのもテーマということがいえるのではないかと思わ
れます。現に律令時代から繰り返し出てきている現象です。逆であれば、すなわち男権主導の世
であればそれで固定しやすいのですが、いくぶんよたよたとしながら社会の古来からの流という強
い支持で女子層がいまリード層として男子と拮抗しているのです。基本的には女系社会であって
も、戦国時代というかってない混乱のもとで、上・下の区分の上でも、士太夫と民とかいう区分の
上でも、下層のものがのし上がってくるときで、力が重要視される時代の風潮に乗って男女の区
分の上でも下が台頭してくる、下剋上という程度以上の変動が起こりやすい時代背景があり、現
に、徳川家康にはサドノカミイエヤスという人物が付いていて、時代の軍政を動かしているというよ
うな時期です。これなら阿国の一座に男の役者が入っていたようなこともあったとも考えねばな
りません。
 阿国とお国という違いも、二人ということも暗示しているのでしょう。お国の亭主「オクニ」という
ものも芸をやっていたのかもしれません。このことから、ここの意味が解釈できるのではないかと思
います。つまり、伏見は家康がいました。イエヤスが幅を利かせていたかもしれないところです。
 一方、江戸右大臣秀忠は溝口幽霊半之丞である亀田大隅と接近したりした〈前著〉、これは女
系社会の側の代表選手になるでしょう。
この秀忠は見なかった、伏見城では喜ばれたというのが、やはり演技者の性の問題が絡んでいる
ようです。男性というものが意識されているとみてよいと思います。つまり

    徳川というものを著者が打ち出したかった

といえると思います。しかも二つの徳川です。

(5)出雲から京都へ仕出
もう一つ徳川に対峙するのは明智ですが、その構図も秘められているようです。それが次です。

    『当時、正統を避け新奇なものを求めることを「傾く(かぶく)」と呼んでおり、阿国の風変わり
    な踊りを見て、人々が「かぶき踊り」と名付けたわけだ。出雲の阿国という呼称から阿国の
    出身は一般に出雲といわれている。だが、阿国の出身を巡っては、大和あるいは京都周辺
    の女雑芸者などという説もあり、学会でも昔から見解が分かれていた。近年室木弥太郎金
    沢大学名誉教授が出雲説を主張して議論が再燃した。室木説は、公家の西洞院時慶(にし
    のとういんときよし)の日記「時慶卿記」の慶長五年の条に「雲州ノ(中略)クニ」と出てくる記
    述を重視する。だが、勧進興行という当時の芸能慣行上、「地方出身」を名乗ったにすぎな
    いとの見方は多く、今回のシンポジウムで服部教授は「京都の中で地方からの芸能が話題
    となる素地があり、阿国は出雲から出てきたという必要があった。と出雲出身を装う説
    を支持した。
いずれにせよ諸説あり、決定打がないのが実情だ。』〈テキスト〉

決定打となるのがないのは、当時の社会がどういうものであったかということや、当代記全体の主
張からみないからではないかと思います。
 全国的に広がり述べているもののなかで、なぜ出雲がここに述べられているかは、出雲という看
板が必要で、著者がつけたのかもしれません。ここにある「大和あるいは京都周辺」というのも合
っているかもしれませんが、女いろの代表としての出雲、中央と対峙する出雲を出すことが一つの
狙いでしょう。出雲というのは古事記以来大和朝廷と対峙した代表的な国ですから、しかも、とくに
ナカノオオエオウジのような勢力と対をなす、女系の国の代表でもあります。したがってここのテ
キストの太字のような結論になるのではないかと思います。つまり出雲を装うということだと思い
ます。
 出雲の名前を出す事自体が、巫女の「国」というイメージもあり、女子踊りであり、男装の踊りと
いうことであれば、当時の世間常識上も問題ない踊り集団ということになり、それを表向きの看板
としてよかったではないかと思います。
ここに伏見城と江戸城を対比させて徳川が出てきたということは、徳川を意識して明智を名乗った
という解釈もできると思います。その解釈も必要だから、当代記の述べたいことも重要となります。
反徳川であることは疑いをいれない強いものがあります。当代記の著者は兼好法師の〈徒然草〉
を念頭にいれて出雲を出しているかもしれないのです。136段には

    『丹波(たんば)に出雲(いずも)という所がある。〔現在の京都府亀岡市の出雲
    名にちなんで杵築大社(きづきたいしゃ)を移してりつぱに社を造営している。』
    〈徒然草(現代語訳)〉河出書房新社、

本能寺のとき光秀は居城亀山(亀岡に同じ)城を出ましたので、出雲から出たということになります。
つまり、この阿国が出雲から京都へ出たというのは本能寺の故事と合っているわけです。〈徒然草〉
の、この一節の話は面白い話(神社の狛犬がさかさになっている話)なのでよく知られていたと思い
ます。
       明智というものを著者が打ち出したかった
といえるようです。

(6)二つの下克上
    『阿国が何歳の時に歌舞伎踊りを始めたのかも焦点の一つだ。これは阿国が歌舞伎踊りの
    前に、各地を回る旅の一座で「ややこ踊り」という若い娘による踊りを披露していたことと密
    接に関係する。
    注目されてきたのは、奈良の興福寺の僧が書いた「多聞院日記」にある記録だ。天正十年
    (1582年)五月のの一文には「加賀国八才十一才の童ヤヽ子ヲトリ」と記されている。この
    「童」の一人を阿国と見る説が有力で、それから計算すると歌舞伎踊りが評判になった慶長
    八年には、阿国は三十歳前後になっていたと見られている。小笠原恭子武蔵大学教授が著
    した「出雲の阿国」は容姿の美しさがものをいうややこ踊りに限界を感じて、男装という発想
    を得た
、と推定している。山路興造民俗芸能学会代表理事は「阿国歌舞伎がまもなく遊女
    歌舞伎に取って代わられたのも阿国が高齢だったからではないか」と語る。』〈テキスト〉

ここで「八才十一才の童」の「ややこ踊り」が原型のようですが、低い方を先にかいてあるのはどう
いう意味か「八才の女子十一才の男子」というのではないかと当時の社会からは感じましたがどう
でしょうか。
阿国が三歳の方だったという意味かもしれませんが阿国と限ったことかどうかがわかりません。こ
こでも「娘による踊り」「男装という発想」が出ましたが男装という着想に結びつかないと女系社会が
みえてこないのです。

    『しかしこれと異なる考え方も最近は出てきた。今年九月半ば、新潟県柏崎市で開かれた民
    俗芸能学会の年次大会で、和田修早稲田大学助教授は「ややこ踊りの座が一つだったと考
    える必然性はない。ほかに座があったとすれば、阿国が十代後半の若い年齢で歌舞伎踊り
    を始めたと考えることもできる」と指摘した。
     様々な議論はあるものの、女性である阿国が日本の芸能史を塗り替えた意義は変わらな
    い。「男装した阿国と茶屋のカカに女装した若衆狂言方、道家(どうけ)方の猿若で構成す
    る芸態はそれまでの踊りと違い画期的だった。」(山路氏)。』〈テキスト〉

当時は表に女性がでないと一座は興行できないと思われるので阿国は一座の経営者兼演技者で
あつた。ここの太字のところが一つのポイントではないかと思います。つまり男装した阿国は女性
ならば、茶屋のカカに女装した若衆は男性といっている可能性が高いわけです。男女混合社会の
風潮に猥雑さというものも出てくるとともに、男女入り混じった卑猥度の高い踊りが好まれたのでは
ないかと思われます。その演題が男女のことを主体として採りいれた、また、そのため男性が入った
踊りということで、上下大喜びだったということではないかと思います。阿国の登場もそういう時代エ
ネルギーを背景にしたものということはできると思います。要はイエヤスのいる伏見城はそれを喜び
、秀忠のいた江戸は眉を曇らせたというのもこの意味ではないかと思います。阿国の話から

  サカイタダツグ・サドノカミイエヤス・ダテマサムネなどの台頭を著者が打ち出したかった

と思われます。この勢いが江戸期に消滅してしまいます。
 
     『その背景には、安土桃山という転換期のうねるようなエネルギーがある。江戸期に入り、
    封建秩序維持を優先する幕府は寛永六年(1629年)、女歌舞伎などの禁令を発し、女性
    芸能者は歴史の舞台から消えることになった。
     秩序優先は何も徳川の世に限らない。服部教授は「最近の芸能は新しいものを生み出そう
    とする゛傾く゜精神忘れている」と話す。「改革」「変革」が声高に求められる時代、阿国という
    女性の前衛精神は見つめ直していい貴重な先例である。』〈テキスト〉

転換期のうねるようなエネルギーは下層から上層へ、男女弱い方が強い方を圧倒しかねないという
ものでこのエネルギーをいい方向に持ち上げてゆくとき

    「地域社会の生活基盤が出来上がってゆく、飢えと貧困から抜け出せる、いわば平等の社
    会への一歩となりえる」〈テキスト〉

ものですから、この現象は本来は好ましいものであったわけです。しかるに、そういう混乱の時代は
非合法のことが隠される、普段なら犯罪として処理されてしまうような行為や、勢力が糾弾されず、
正当化され合法的なこととみなされるようなことが起こります。おまけにその混乱の収束が、トクガ
ワ特異政権の手段を選ばない策動と、強権の行使に依って進められました。その勢力の肥大化は、
女系社会崩壊の危倶も予想される事態に至り、こういう無茶苦茶なやり方に辟易し懲りてしまった徳
川内女傾勢力が巻き返し、結果、その苦い経験から、二度とこういうことのないようにと、新興の風
の台頭を押さえにかかってしまった、それが性急なものだったため、歪んだものとなってしまい、江
戸時代はあのような姑息な政権にちじこまったと思われます。
江戸時代は、戦国時代が一つの反動を呼んで退嬰的な女系社会となってしまったことは大きなこと
だつたと思われます。
ここの女歌舞伎の禁止というのは男歌舞伎だけになった、ということになるのか、よくわかりません
が強い反語であろうと思われます。歌舞伎などの芸能への男性禁止というものだと思います。女性
芸能者は消えることとなったというのは合っておらず、女性芸能者だけが男女の演技をしたというこ
とになったと思われます。後世では、それは当然という支配層の意向が、今まで以上の隠し言葉を
使って女歌舞伎の禁止というような語を使ってカムフラージュしたということになると思います。とに
かくいろんな手段を使って女系社会を維持しょうとした、女性はその男性の子には、よわいものをい
じめてはならない、女子をいじめてはならないなどと教え続けてきてその教訓は生かされて、男性
の自制を生み長い太平につながったのでしょう。

     『   教会劇の影響に注目  海外の研究が刺激
    初期の歌舞伎踊りが、当時伝来したキリスト教の教会劇の影響を受けているとする見方が
    近年、注目を浴びている。シンボジウム「阿国歌舞伎からの出発」(京都生涯教育研究所な
    ど主催)で基調講演した河竹登志夫早大名誉教授は「平戸などで行われた宗教劇にかぶき
    の女芸人が踊り手として参加していたという報告もある。歌舞伎を世界的文脈で考えること
    も必要」と語った。
     名古屋・徳川美術館の「輝ける慶長時代の美術」で展示中の「歌舞伎図巻」の茶屋遊びの
    場面では、阿国の追随者と見られる采女(うねめ)という踊り手が十字架を首にかけた姿で
    立っている。ドイツ人のトーマス・ライム氏も「歌舞伎の成立」で、歌舞伎はキリスト教の宗教
    劇からの影響があると示唆した。丸谷才一氏も小説家の空想としながら阿国歌舞伎とイエズ
    ス会の宗教劇との関係に言及している。海外での研究に刺激されて国際的視野から見た歌
    舞伎研究が進みそうだ。』〈テキスト〉

ここはこのとおりで、元はどちらも女系社会の国だから女性が主体です。サドノカミイエヤスの延長
で上杉景勝なども出てくると思います。

(7)上杉景勝
はじめの記事にもどりますが、上杉謙信の死の記事のあと当代記では次のことが出ております。

   『北条三郎{景虎養子}相州氏政弟也、喜平二景勝{景虎甥}鉾楯数度合戦に及び、ついに三
    郎を討ち、景勝越後国主となる』

 謙信は子がなかったので、北条氏政の子息を養子にもらいました。子がなかった、というのは謙
信が男性であったとすれば、かなり確率的に低いことになり、無理があるでしょう。謙信は矢切説の
ように女子であったので、実子となると多くは望めないことですから、子に恵まれなかったといっても
そういうことはありうることです。
ただその場合見方によっては女子に恵まれなかったということもありうるかも知れません。
とにかく北条三郎を正統な後継者として指名していたと考えられます。それでないとライバルと目さ
れる昔戦った北条から迎えるのは不自然となります。結果、謙信が殺害した姉婿の長尾政景の子
である景勝とこの北条三郎が戦い、上杉景勝が勝ちましたが、その間景勝を支えてきたのが直江
山城守です。知られているように上杉景勝は直江山城守のいうことをすべて受け入れて従っていく
だけというような感じの武将でした。当代記にもそのような記述があります。徳川家への献上品リス
トがあり、そこに

     『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 景勝・・・・・・・・・・・・・・直江山城守・・・・・・・・・
     奥州米沢主元越後佐渡主   景勝・・・・・  {同家中但悉皆也}直江山城守』

という氏名の表示となっています。一段目の直江山城守は領主としての表示であり、二段目の注書
も家中全ての取仕切りをやる人物として描かれています。一方景勝は前著で述べているように例え
ば民間人のような表現がされています。表面に出ない、個性のない描き方は男性だったということを
表していると思います。家康も相手にしていないような感じでした〈前著〉。このころ上杉家は都会
では、で非常に人気が高く、その行列には見物人、黒山の人だかりだったという語りがあったよう
に思いますが、これはやはり景勝の人気でしょう。色気が都鄙に充満している時代、、阿国のもの
と相通ずる挿話です。もう一つ、慶長十二年十月江戸で茶会があり,その時のもの

   『於江戸大御所数寄に将軍御出相伴の衆長尾景勝、{元越後●佐渡守、今奥州米沢
   の主也}伊達正宗、{元会津二本松信夫の主、今大崎岩手山の主なり、{但在江戸、」佐竹
   {元常陸国の主、今愛(秋=これは意識した間違いと著者は別のところで言っている)田の主
   也、}是三人と云々、大御所将軍茶之会にて御成。』〈当代記〉

太字は「江」の崩したような字で「へ」という字にあてても下線の部分の意味がわかりません。そう
訳してもよい例もあります。ここでは「共」と訳すと連れ立ってという意味で通るかもしれません。と
にかくこれでは主語がはっきりせず、大御所と将軍は別なのか同一人なのかよくわかりません。ま
た意味もよくわかりません。
〈当代記〉では「内府公{傍注家康公の事也}」が出てきて、「大御所{家康公の事也}」も出てきて
、これらが織り成す「家康」が動きまわっています。慶長五年、関ケ原前夜では上の大御所将軍は
「内府公」であって、加賀前田利長、長尾景勝や伊達政宗の名前と並んで出てきます。家康の動
向を伝えているのでしょうが、含みのありそうな、記述が多く見られます。
例えば先稿で述べた伏見城のことなどは、伊達政宗の白石攻めの記述から突然話が変わって出
てきます。

     『(伊達政宗白石城を攻め)大将分四人虜、、伏見城内府公人数有之(これあり)、此時
     迄は堅固なり、八月朔日巳刻、伏見城落居、その體(てい)逆心の者有り、敵を引入れ、
     火箭を射る間(射たので)城中焼崩、尾州清須城主福島左衛門太夫内府公へ一味に依
     って、番手(みはり)として内府公より彼城へ人数を入らるる、★此の外岡崎吉田浜松懸
     川横須賀駿府興国寺三枚橋、此城々へ同番手入る、・・・・・・・』〈当代記〉

となっていて、素直に読めば、伏見城を内府公の人数が固めている、此(この)時迄は堅固だっ
た、内府公の人数が何かしたので、落城した・・・というようにも読めます。敵を引き入れたのは内
府公の人数だというと、「そんな読み方は出来ない」といわれるでしょうが「此(この)時」が特定で
きないのです。
 この前の文伊達政宗が行動したのは
      「七月」ということで日時はない。
 その前に「内府公」の話がありますが
      「内府公同八月四日小山より江戸へ帰馬、」
 ということで、おれは小山の話になります。
      小山のこの時は八月四日
 だからこれは伏見の八月朔日の後だから、ここの
      「此(この)時」
の対象にはならないようです。伏見の前は伊達政宗の記事で、後ろが福島正則の記事ですが「。」
で区切られていない「、」で区切られ、続いているような、いないような文になっています。
 前の政宗が助けた大将分四人は内訌と考えられますから、その意味でも続いている感じです。
とにかく鳥居元忠などは内訌でやられたので家康があれほど嘆いたのでしょう〈前著〉。内府公が
小山にいる、伏見には「小山の内府公」の人数がいたと読めないこともないのですが、それなら、
伏見の内府公は自分の軍隊はもっていない、という解釈になってしまうので不自然でもあります。
とにかく内府公はここにいたような、いなかったようなという感じになっています。あとの福島の話
との繋がりでみれば伏見の内府公はここにたような感じでもあります。
 このあとすぐ
      「苅屋水野和泉守{内府公、御袋の弟、}内府公に先立って参陣の処」
というような文があり、{注}と本文に内府公があり、こういう例が〈鎌倉〉でも重要なところで出ました。
       内府公
は違う、内府公の別人がいるという暗示があるわけです。
 また福島がここに出てきたことは、この内府公に接触して出てきたということですから、福島のマ
サノリという人格が明滅するわけです。
 福島正則も小説にできない矛盾した人格で出てくることはよく知られています。人殺しをして郷里
を出てきたとか、酔ってやたらに家臣を手討ちするとか、無理無体を押し通すとか、反面家臣にす
ばらしい人物がいるとか、豊臣家のことを最後まで心配したとか、終わりは事を荒立てずに領主た
る地位を退いたとか、のことが伝わっています。戦国の世だからこういうような幅広い人格が生ま
れるといわれればそうかと思い、人間一人の人間性もいろいろ矛盾がある存在なので、ついそう
いうことかと納得させられますが、人には本質的なところは乱世であっても、かわらないということ
や、なんとなく一貫性があるなどの面もあることです。極端な両面を体現している、そうなっている
のは二人を重ねて一人を描くという記述約束からきているのです。これは資料の企図からこうい
えるはずで、全体を読み通してしか判断できないという厄介なものですが、一見では、表記をみれ
ばわかることでもあります。
 木下長嘯子もこういう事情を抱える伏見城を退去したわけですから当然といえば当然で、当代
記が弁護しているような趣もあります。
 ここでみれば、マサノリもそっくり清洲城を徳川に明け渡したようで、山内一豊と同じことをしてい
ます。★の城全部そうですから、家康が、秀吉の策謀で関東へ移封されて、そのあと地を豊臣恩
顧の大名が固めた、家康は大打撃を蒙ったというのはうそで、豊臣子飼いの大名は家康から城を
預かったというような感じだった、逆らうと一揆でやられるといった不安定なものだったと思われま
す。
 ここで上杉景勝にもどれば●は上杉景勝を当代記では
         {佐渡守
としています。芭蕉が「佐渡」について嘆いた文章がありましたが、景勝も含めた嘆きだったのかも
しれません。「佐渡守」という名で景勝を野次った当代記は、御舘の乱というものが男性型の勝利に
なった、そこへもっていった直江山城守を皮肉ったものかもしれません。
 謙信の姉の子が景勝の母ということで、父政景が謙信に殺されたということですから、普通なら
謙信は景勝を跡目にするはずですが、そうしなかったのはなぜか、直江山城は上杉の血を大事に
したのかもしれませんがこれは、該当資料を仔細に読めば出てくるはずです。
 とにかくサドノカミイエヤス・上杉景勝・ダテマサムネ・フクシママサノリが台頭し活動していたのが
この時代です。。こういう二つの人格の出てきたのは乱世という特殊な時期に表面化しそうなことで
、ここから出雲の阿国のことも考えねばならないようです。つまりこういう中において述べられている
阿国の話ですから、オクニというものまで予想してもよい話だと思います。男性というものが入った
演芸というものが出てきて観客の質、気風というものがかわってきている話になってくるわけです。
この社会で演芸は宝塚歌劇のような女子の男装・女装というものになるはずですが、そこに男性
が入ってきた、こういうエネルギーを内蔵した演芸が、そのまま順調に伸びてくれたらよかったわけ
ですが、もとに戻ってしまった上、より強く隠すという面が出てきたため何がなにやらわからなくな
ってしまいました。
当代記が描き出したこの時代のエネルギーを感じさせるもので問題になってくるのが足軽という存
在です。これが男性なのか、女性なのか、両方混ぜつたエネルギーなのかということです。

(7)足軽
甫庵信長記の解説に足軽の話が書かれています。こういう時代を述べながらこの話をわかりにく
いからといって避けていては戦国もわかりにくいままとなってしまいます。

   『足軽は、足白・足弱・疾足等とも呼ばれ、その役割は時代によってかなり区々である。平家
   物語に見える例が最も早いものであるが、その巻四「永僉議」には
        いざや六波羅におしよせて、夜打ちにせん。その儀ならば、老少二手にわかって、老
        僧どもは如意が峯より搦め手にむかうべし。足がる共(ども)四五百人さきだて、白
        河の在家に火をかけてやきあげば、在京人六波羅の武士、あわや事いできたりとて
        、馳せむかわんずらん。」
   とあるし、源平盛衰記十三には
        こはいかに、此の御所ならでは、何所に渡らせ給べきぞ、虚言(そらごと)ぞ。足が
       る
ども乱入て、さがし奉れと下知す。下知に随いて、下郎等乱入て狼藉斜めならず。
   とあるように、古代末期から中世初期にかけての足軽は、戦闘員というよりも武士や僧兵の
   配下にあって、敵陣を撹乱するための放火や、犯人探索のための家宅捜査、そのほか戦場
   において逆茂木など敵の設置した障害物を撤去する仕事に従事する下郎であった。源平時
   代よりさらに集団戦化した南北朝の内乱における足軽の活躍はめざましいものがあったはず
   であるが、この期の資料はほとんどなく、わずか太平記に見える記事も、
        其ノ手ノ足軽共走リ散リ、京中ノ在家数百箇所ニ火ヲ懸ケタリケレバ、猛火天ニ満
        チ翻ツテ、黒烟四方に吹覆フ。
   といつたように、前代のものと変わらない。
    この足軽が縦横に活躍し、跳梁したのが応仁の乱であった。〈碧山日録〉の応仁二年(146
   8)六月のの記事に
        東陣に精鋭之徒三百余人有り。足軽と号す。甲を還(手篇)せず戈を取らず、ただ一
        剣を持って敵軍に突入す。
   と足軽の姿が描かれているが、甲冑も身につけず一剣をひっさげて戦場を駆けまわる彼らは
   まさに新しい戦力であり、しかも三百余人と組織化・集団化された傭兵であることは、注目に
   値する。しかしながら彼らは、恩賞・金品のみで満足せず、戦闘とは無縁な場所での略奪・放
   火など目に余る行動も多かったようで、文明十二年(1480)将軍足利義尚に提出した一条兼
   良の意見書〈樵談治要〉の一節「足がるという者長く停止せらるべき事」の中でも、
        此たびはじめて出来れる足がるは、超過したる悪党也。其の故は洛中洛外の諸社諸
        寺、五山十刹、公家門跡の滅亡は、かれらが所行也。かたきのたて籠りたらん所に
        おきては力なし、さもなき所々を打ちやぶ、或い火をかけて財宝をみさぐる事は、ひと
        えにひる強盗というべし。
   兼良は足軽を「悪党」「ひる強盗」と口をきわめて非難している。のちの〈安斎随筆〉でも足軽
   を定義して「足軽も合戦ある時は雇われ、雑兵になる事を渡世にする者どもと見ゆ。常には山
   賊・野伏などするあふれものなるべし」と論じている。
   合戦のある時に雇われて雑兵になる者達であるから軍規を守らせることは困難なことであっ
   たようだ。
   〈衣川百首(義経百首)に「矢をも射ずにぐるを恥とおもうなよかろく帰りていうは足軽」と詠ま
   れているようなことも珍しくなかったのであろう。応仁二年の冬十一月三日の〈碧山日録〉に
        東陣の疾足三百余人、宇治の大廟に詣ず。おのおの長矛・強弓を持ち、踏歌・奔
        躍し、頭にあるいは金冑を着し、あるいはタク笠(竹の皮の笠)を頂き、あるいは赤毛
        を蒙る。単衣・細葛、その膚露見に至るなり。
   と記されているのは、宇治に伊勢大神が現われたという噂さに東軍(細川勝元方)の「疾足」
   が三百人も、金色の兜や竹の皮の笠、赤毛を吹きなびかしたかぶり物をかぶって、冬
   だというのに半裸の姿で踊り狂いながら宇治へ向ったというのである。いわば勝手に
   戦線を離脱したのである
翌四日の記事を見ると、それかあらぬか、
        疾足、宇治より帰る。その親族数百人、東崗に出で迎う。西兵、間道よりこれを夾殺
        す。死者二十余人と云う。
   と西軍(山名宗全方)の軍勢にその帰りを待ち伏せられ二十余人が殺されている。さてこの記
   事で注意されるもう一つの点は、宇治から戻る足軽を、伊勢大神の御利益にあずかろうとい
   うのであろうか、彼らの親族が数百人も出迎えたということである。つまり足軽は京都近郊の
   の郷村の出身であったことが、この記事から推測されるのである。』

 これらからみると「足がる」といわれる兵隊の描かれ方は、女子でしょう。士太夫以外の女子で金を
稼ぐ存在であったということがわかります。

    『ともあれ応仁文明の乱に活躍した足軽は、新しい有力な戦力であると同時に、一方では
   略奪・放火をほしいままにする軍規統制に服さない集団でもあったわけで、悪党・昼強盗・夜
   盗・山賊・あふれ者等々の悪口も一面では真実であった。足軽のこの性格は、戦国時代に至
   ってもひきつがれて行く。傭兵としての足軽・野伏・あふれ者・はたらき者などと呼ばれる人々
   である。
    野伏(野武士)は、土豪に率いられた武装農民であり、「はたらき者」とは商品貨幣経済が
   農村にまで浸透して来た結果、土倉・酒屋等に土地を没収されて農村からはじき出された流
   浪人である。杉山博氏によれば、先進地帯であった畿内では、この「はたらき者」が多かった
   が、一方で労働力の需要も多く、それぞれの技能によって交通労働者や商家の奉公人、芸
   能者などとなって行けたが、その頃の濃尾地方においては、次々と輩出される「はたらき者」
   を受け入れるところがなかったという。これらの「野伏」「はたらき者」に目をつけ大量にとりた
   て、新しい戦力組織のもとに「足軽」として組み込んで行ったのが信長であった。信長の美濃
   侵攻の拠点、▲墨股(俣)城の築城に活躍したのは、蜂須賀小六ら「野伏」千二百余人であ
   ったし、これを指揮したのが、「はたらき者」からとりたてられた木下藤吉郎であったことは有
   名な話である。』甫庵信長記解説

 とあり戦国に近ずくにつれ役割が大きくなってきます。しかし時代は下ってこの足軽というのが中
身がかわっていくのか、どういう存在かということが問題となりますが、やはりまずこれは女子であ
るといえると思われます。いわゆる士太夫からはみ出した層のなかの兵士といったもので、使う側
にとっては命に関わる仕事をやってくれるので重宝であり、専属傭兵であったり、募集したりして集
め、また人材斡旋業もあったかもしれませんが、初めは臨時雇いしていたものが、次第に常備軍
として組み込まれていったと思います。これは命をまとにした稼ぎを目的としているので、略奪品も
楽しみにする統率しにくい存在といえるかもしれません。ただこういうところには男性が紛れ込みやすいということはいえると思いますが、雇う側の共通の良識としては女子であったのではないかと思われます。
戦国で、徳川の資料によく出てくる農民に竹やりを持たせて戦をさせるというようなものはこの足
軽とは違うようです。これは男性であったと思います。軍属といったようなものも同じです。
信長公記の次のところがわかりにくいので、このようなことに言及してきたものです。

    「敵方より人数を出し、たん原野(丹原野?=女いろを出した)に三千ばかり備え候。その
    時、信長かけまわし、町人共に竹やりをもたせ、御後をくろめさせられ候て(隙間をうめ分
    厚く見せる)、足軽を出しあひしらひ(あしらい)給う。」

となっていて、戦うのは足軽のようです。竹やり隊はみせかけだけでここは男性が主体ではない
かと思われます。鑓は士分・足軽であって、竹やりは太平洋戦争終戦時と逆で男子となるのかも
しれません。
▲が武功夜話の細かい記録をみないといけないと思いますが、この人員は足軽、臨時やといも含
む女子を書いていて、総数はもっと多く、工事作業人や下級戦士として男性が隠れているのでは
ないかと思います。
旧軍隊でいえば、軍組織は
      @大将から少尉まで(将・佐・尉官)、
      A曹長・軍曹・伍長あたりと、
      Bそれ以下一般の徴兵による兵士
 とに分けられ
 @は将校ですが、この層は最先端の知識を学ばせると同時に、上の層への組み入
れるための思想教育がされたもので、一般の兵士と高い垣根がを設けられ、立場・地位などが特別
保証されている存在といえます。女系社会ではここまでが士大夫という存在であり女子であったと
思われます。これを真似たものが旧軍隊の将校でしょう。

 Aは鬼軍曹といわれるように重要な存在で@とBのつなぎ役、女系のばあいは足軽のような存
在でBを統率教化すると共に、@とBの間の橋渡しをする役目ですが、中間にいるので@とBを
隔絶させ、Bからみて@を雲の上のものに感じさせる役目があったと思われます。この層はBも
取り込んで、女系社会では男女入り乱れていたのかもしれません。

Bは旧軍隊では一般徴兵による兵士。女系社会では男性であったと思われます。

 桶狭間で今川軍は四万五千で出てきました。これは実質一万五千くらいと想定しましたがこの中
には足軽も入っている、部隊の上等兵以下最下級の兵士、軍属などの非戦闘員は概ね男性であ
ってこれが2/3を占めていたということでしょうか。織田軍はわずか三千ですが、これは前線での
人数で後方には同数以上の人数がいる、また前線、3000に下級兵士がプラスになるのかもしれ
ません。
 当代記のあやしい書き振りによってこういうところまで述べてしまいました、このエネルギーも、朝鮮
戦役や兵士の海外出稼ぎ、国境封鎖などによって大きく減退してしまって国土から活力が失せて
しまうようなことになったと思います。

(8)お国と大村由己
脱線しましたが阿国にもどります。お国を世に出したのは大村由己といわれているようです。
ネット記事alook/tenma/によれば「出雲の阿国と、天満宝珠院」という見出しがあり、院主に聞い
た話が載っています。天満宝珠院は大坂の天満寺町にあります。天満天神というように菅原道真
ゆかりの寺です。

    『江戸時代、二代将軍秀忠は元和元年(1615)に播州姫路の城主であった松平忠明を大
    坂城の城主に任じましたが、松平忠明は元和五年に郡山に移るまでのわずか五年間に市
    街地整備の一環として、市中に散在していた寺院を、東は天王寺一帯に、北は天満に集め
    ました。それが寺町の起こりです。』

ここで当代記の編者、「松平忠明」が出てきたのは重要ではないかと思います。ここに上の「宝珠
院の由来」につづいて「謎の大村由己梅庵」という一節が出てきます。

    『秀吉の時代に宝珠院の住職をしていたのが大村由己梅庵(おおむらゆうこばいあん)であ
    ったといわれています。
     大村由己梅庵は、謎に包まれた人物で、一説には天下人秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=
    話相手)であったと言われています。梅庵は秀吉の軍記〈天正記〉の作者として知られ、謡
    曲を作ったりするなかなかの才人で、宝珠院の住職をしながら天満宮の社僧を務めていたと
    も言い伝えられています。●その梅庵が阿国(おくに)を世に送り出したとも言われています。』

この話はひよっとして重要かもしれません。すなわち阿国を世に送る仕方はパトロンになることだけ
ではないはずでまとまった記述をするのもそうです。阿国に関する話を残した人物は次の記述にも
あるようにほとんどありません。

   『有吉佐和子さん(昭和6年〜59年)は、〈出雲の阿国〉を書かれるに当たり、大村由己梅庵に
   ついて当院に取材に来られたことがありました。・・・・・・・・・・小説とはいえ〈出雲の阿国〉の
   中で、阿国と梅庵の関係をあれだけ興味深く描かれているということは、ある程度の裏付けは
   取っておられたと思われます。
    大村由己と宝珠院の関係については不明な部分が多いので有吉さんが亡くなられたあと、
   取材ノートのようなものがもし残っておればと、有吉さんの親しい方にお尋ねしたんですが、結
   局はわからず仕舞いでした。推測ですが、出雲の阿国の研究をしておられる小笠原キョウ子さ
   んという方が書かれた書物の中に、阿国が★十六〜七才の頃に大村由己の屋敷で舞を踊っ
   たという記述があるんですが、もしかすると有吉さんはそれを採用されたのかもしれません。
   他に、〈山科言継日記〉の中にも、梅庵についての記述が残っております。宝珠院には古田
   織部直筆の書状が残されていまして、内容は御茶会の礼状ですが、宛所は「宝珠院様玉下
   (ぎょくしょうか)」となって、住職の名前は明記されていません。
    織部は豊臣秀頼の招きに応じて大坂城で茶会に臨席するため何度も大坂を訪れ、その折
   によく宝珠院を訪ねたことがあったのでしょう。当時の宝珠院の住職が大村由己であったか
   どうかは分りませんが、いずれにせよ織部を招いて茶会を催すような素養の高い人物であっ
   たことだけは確かです。
   ・・・・・・秀吉時代の宝珠院は・・・・川をはさんで大坂城の京橋口に面していました。それが
   松平忠明の市街地地整備で現在の場所に組み込まれました。敷地は現在よりも広くて、山
   門の上には■姫路城から移された釣鐘(梵鐘)がありました。松平忠明が姫路城主をされて
   いたことと何か関係があったのかも知れません』

 当代記にある記述をもとに文献をあたってみて積み重ねられたのが今の阿国の知識でしょう。
基幹文献をもとに、そこに断片情報を付属させ、つみあげていくとまとまった知識がえられるのです
。当代記に根幹になる阿国の記述があるので、ここの現地資料が、生きてくる、阿国の場合もそう
いう例の典型となっています。
下線●のところ、阿国を世に送り出したのが大村由己であると誰かが言っていると書かれていま
す。その文献が重要ですが、誰かは何かでそれをみたわけですから、まんざら根拠のない話では
ないようです。要は当代記なるものは大著でありながら著者不詳、書いた人がわからないのです
。いわれている松平忠明は大名の御曹司ですが、これほどのものを書けるかとなるとやや疑問が
あるといえます。編者である可能性のほうが高いと思います。しからば当代記の著者がわからな
いというのはありえないことです。まとまった阿国の著述をしたことも、世に出したという意味になり
ます。さらにここには大村由己の亭で阿国が踊ったというような接触も述べているわけです。その
人物であると誰かが言っているから当代記の著者は大村由己と見てよいかもしれないわけです
 さらにこの庵主の話には、■で、播州姫路、これは池田輝政、天満=松平忠明が出てくるのです。
こうなると当代記なる徳川最重要資料は大村由己と関係がありそうです。
 それと阿国の記事は徳川を述べており、阿国から丹波の出雲が出てきて、明智を述べていること
も判ってきました。丹波の出雲の話はどうかわからないといわれるならば、織田信長が光秀から
近江・丹波を取り上げて、出雲・石見を与えようとした話などもあり、出雲は明智です。明智・池田
は森長可などを介して繋がっています。当代記は池田の話が多いのです。

  『慶長十八年正月廿五日、申刻播磨之三左衛門尉死去、俄発病、吐血中風と云々。』

 と急死だったことを書いており、前年九月十三日に駿河で大御所に会い、十五日本丸で振る舞い
を受け、十五日江戸へ下る、といった記事もあり思わせぶりなことをいっています。
また、慶長八年二月六日の記事では池田三左衛門輝政が備前国を貰ったという記事のあと、

   「美作国は信州河中島主森右近国替有て彼国に移、」

 とあります。あの坂井右近と森忠政が関係があることを「右近」で明らかにしています。信長公記
・甫庵信長記を受けて、森忠政と池田と太田牛一と坂井右近と子坂井久蔵(乱丸)を結んでしまっ
ています。著者は池田・森の出身の人といえます。
 すなわちざっとみても次のように関連があります。
           
     池田輝政ー播州姫路ー松平忠明ー大坂城下天満ーーー宝珠院=大村由己
                |      |                   |
                |    当代記ー阿国の記事(明智)=阿国との交流=大村由己
                |
            後藤又兵衛−森蘭丸・森忠政の記事・池田輝政死因の記事−当代記=大村
                                                         由己
 
 となり、大村由己が著者であるといってもよいのではないかと思います。
なお池田輝政と松平忠明は両方、家康娘というものが噛んでいます。
池田輝政の夫人は家康の二女督姫というようですが、松平忠明の父奥平信昌の妻となった人は
長女の亀姫(加納殿・森姫ともいうらしい=ネットによる)であり、気の強い女性として知られていま
す。親戚の池田家に対するサドノカミイエヤスの大変な圧迫を受けていたがようなことがあったの
でしょう、宇都宮吊天井事件で、秀忠に対し、本多佐渡守正信の子、正純を誣告したという挿話を
もっているように、徳川と姻戚、しかも家康の娘だからといってもすんなりと厚遇をうけるということ
にはならなかったようです。サドカミイエヤスと家康の間は剣呑で、当時は家康が自分の娘婿さえ
保護できない状態いにあったというようなことが窺われる挿話です。
池田は反徳川の森に近いため圧迫は強くこのことが逆に池田を反徳川に駆り立てた、秀忠にす
がって地位を保全していったといえようかと思います。太田牛一が信長公記を池田に託したのもこ
の森ー池田の関係のほかにこのアンチ徳川の点でも必然があったのでしょう。池田家ではこれに
書き込みがあり池田の功業を付け加えたのであろうといわれていますが、書き込みは解説の手
法なので、相当な人物が原本解説の目的で付記したとするのが妥当といえます。当代記では阿
国はもう一箇所でます。 慶長十二年二月

    『廿日、国と云かふき女、於江戸にをとる、先度の能のありつる場にて勧進をす。』

先度というのは慶長十二年正月の「かんだの下町」のことかもしれませんがよくわかりません。こ
の直前の文は

    『(二月)十三日、美濃国加納飛騨守康{◎唐カ}犬岐阜山へ入、・・・・・・』

であり「加納」が出てきます。
「康」は「唐」が合ってるようですから「唐犬」が岐阜へ入ったのでしょう。これは「闘犬」か、先ほど
出てきた家康の息女を指しているのでしょう。阿国と池田を結び付けてもよいといっているのかも
しれません。

(9)大村由己周辺
これまで見てきましたように

   @阿国のことは当代記に載っている、
   A阿国を世に出した人物が大村由己である
   B大村由己伝承から、阿国が大村由己の前で16〜7歳のとき踊った。天満、松平忠明、池
     田・森のことが出てきた。

 などを述べてきました。@ABから徳川初期の最も重要な文献といわれる当代記は大村由己の
筆になるものであるということがいえるとともにBの大村由己伝承からいろいろ話がひろがってき
ます。
 大村由己の阿国との接触と関係して「16〜7歳」の阿国というものが出てきました。「16〜7歳」
で思い出すのは先稿で述べた「坂井久蔵」=森蘭丸の年齢で出てきました。あの森可隆の記事
の中身が、ネット記事の「宝珠院御院主」の話に出てくるというのは偶然の一致というよりも、森蘭
丸と大村由己を接近させたものと思えるわけです。筆者は
        森蘭丸の姉=森可隆=大村由己
というのを、長嘯子のネット記事から導き出してきましたが、ここからも出てくると思います。また
16〜7歳を共通とした「森乱」と「国」とは年代を経て重なり、森蘭丸と阿国の同性をいうものにな
ると思います。このことは大村由己の「梅庵、藻虫斎」の面と院主の話とが繋がるものです。ネッ
ト記事で院主の話に出てくる人物は

   お大師さん(弘法大師空海)
   初代住職、堅恵(けんえい)
   二代目の住職恵澄上人(菅原道真公と机を並べた御学友)
   菅原道真
   覚寿尼(道明寺の道真の伯母さん)
   三代目の住職、恵岳上人(道真公がこの上人の夢枕に立つ)
   後小松天皇
   大村由己梅庵
   出雲の阿国
   古田織部
   豊臣秀頼
   松平忠明

 です。「梅庵」は重要な他書によつてもその性が念を押されています。〈甫庵信長記〉(現代思潮
社)の付録にでている〈南蛮寺興廃記〉に梅庵が登場します。梅庵だから由己であろうと思われま
すが、この梅庵は正体不明です。これは宗教関係の書ですが、この書には例えば

  「日本には神道と云うこと計りあつて、仏と云うはなし。
  日本にて仏と尊ぶは天竺の也。弥陀と云うは法蔵比丘と云う人間、釈迦と云うは悉陀と云
  う、両人共に天地開闢より遥かに後の人間世界の人なり。日本にて生まれたるは、天
  照大神八幡天満天神、皆是れまのあたり人能く知る所の人間なり。人の智慧を以って人を助
  くること思いも依らず。」

 など鋭いことを書いてあります。神道は天地開闢以来のもので、天照大神は神道に入っていない
ようです。天照大神もキリストも仏と同じで人間とされています。蘇我馬子の祖、武内宿禰が伝承
化されたものとすればそうなります。とにかくこれはたいへんな書ですがこれについては触れませ
ん。このようなことをいってる中に梅庵がたくさん登場します。

  「伴天連の門弟子と成り、愚蒙の者を教化する者三人あり。一人は生国加賀の国の者にて、
   禅家の僧名を慧春と号す。この僧癩瘡を病み身体破れ、膿血溢腫僧家の交わり叶わず。
   その親貧賤にして、保養叶わざりければ、乞食となり・・・・・」

 とあるように慧春は当時不治の病である、腫れ物を患っていましたが南蛮寺が引き取って病気
を治しました。この慧春を梅庵と名乗らせたというのがこの書の梅庵です。
これが由己の梅庵かどうかはわからないが、梅庵ー春ー禅僧ーひどい腫物(梅毒からくるので
梅毒と同じ意味でよいと思われる)、という構図は女子ということです。これが当代記で出てきます
ので当代記は女子社会を語っているということになります。阿国の話はこのことをいうための一つ
のヒントを与えるための重要な語りであったといえると思います。梅毒の話は当代記の雰囲気を表
しています。

  「大御所御移徒也、多武峰大職巻の木像身体腫けるか、うみて血くさし」〈当代記〉

大御所家康と鎌足とを重ねてこういうことをいっている、また〈当代記〉では

  「大御所少々淋病御煩、」
  「大御所淋病気御悩、」
  「大御所幼息長福主疱瘡煩」
  「大坂秀頼公疱瘡煩給」
  「三川国岡崎城主本多豊後守死去、去月十日比より風毒腫相煩う依って也」

もあり本多のものなどは先月十日だから風邪をひいただけでしょう。

  「紀伊国主浅野紀伊守{左京大夫事}死去近年唐瘡煩・・・・去々年加藤肥後守、浅野弾正、
  今年池田三左衛門尉、大久保石見死したりしこと、偏好色之故、虚の病と云々、右之(の)
  浅紀(浅野紀伊守=弾正をもさすのか)も五年巳前の酉年、葛城と云う遊女買取、・・・・」
 
とあり、のきなみこの病気にされ、他の書では、池田夫人も腫物を煩っています。家康は親子がこ
の病気です。ひどく書かれているのが、秀吉・家康の子である結城秀康で

  「越前中納言秀康主逝去{年三十四}日来唐瘡相煩、其上虚也、」

 となっていて病名は浅野紀伊守と同じ表現です。秀康の場合は「虚」というので否定していると思
いますがとにかくこういう語りは多いのです。この秀康は阿国と接触があります。

     『越前黄門秀康卿伏見御屋敷へ於国を召さるる事
     伏見にて越前黄門秀康卿御屋敷へ於国というかぶき女を召してかぶきおどらせて御見物
     あり。・・珊瑚珠の珠数を下され候。於国が舞うを御覧なされ御落涙之れ有り。』〈常山紀談〉

 この病気で有名なのは大谷吉隆ですが、〈当代記〉では書いていませんから、他の書物で取り
上げられていることになります。梅庵の病気とおなじだから、大谷をこの病気と結びつけたのは梅
庵ではないか、自分もそうだということを匂わせて大谷を病人に仕立てたと思います。病気を治す
ために血がいるということでやったという千人切りの伝説などは大谷も妖しいといいたいための虚構
でしょう。盲目の軍師という呼び方や関ケ原の鶴翼の陣やら、平塚為広との和歌の応答・・・・・と
かいう挿話もそれを語るものです。つまりダシになっているわけで、それだけに重視された人物で
あるということになります。大谷吉隆と大村由己とぼんやり繋がっているからとくに対象となったと
思われます。大谷吉隆は関ケ原の名将で、人気抜群の人ですが、出自まったくわからないという
珍しい人です。果たしてそうなのか、次稿は大谷吉隆の出身が史書に語られていないのかという
ことについて触れたいと思います。
 とにかく当代記を信長公記に匹敵するすばらしい資料だとして読み直しをすれば戦国の相貌が
大きく変わってくるはずのものです。                    以上

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