17、木村又蔵

(1)伴正林
 もう一人、相撲巧者で、鉄砲屋与四郎の宅など拝領して、利休のあとを襲った「伴正林」という人物が
〈信長公記〉に出ています。利休と一緒に出てきたことと、たいへん誉めていること、年齢が書いてある
ことなどで、重要人物ではないかと思いますので、これは誰かというのも調べないと著者に叱られそうで
す。
  〔再掲〕

     『八月六日、江州国中相撲取り召し寄せられ安土御山にて相撲とらせ、御覧候処、
     甲賀の伴正林と申す者、年齢十八・九に候カ、能き相撲七番打ち仕候。
     次の日、又、御相撲あり。此の時も取りすぐり、則、御扶持人に召し出さる。
      鉄砲屋与四郎折節(おりふし)御折檻(セッカン)にて籠へ入れ置かる
     彼(かの)与四郎私宅・資財・雑具共に御知行百石、熨斗付(ノシヅケ)の太刀
     脇指大小二つ、御小袖・御馬皆具(かいぐ)共に拝領。名誉の次第なり。』〈信長公記〉

 この手の書物は史書といっても、もう一つの一面を語るものであるため、話を物語としてまとめ上げ
ようとしているもので、突然出てきた一匹狼的な名前は誰かのことを宛てているとまずみなければなら
ないことです。ここでもまったく見当もつかないというほどのものでもなく、甫庵ではこのあたり、「堀久太
郎」が二回出ていることもヒントになると思われます。

(2)能き相撲 
 いきなり伝説から入るのはどうかと思いますが、相撲巧者で名を残す人物は毛谷村六助(毛屋村六
助)とそれに勝ったという木村又蔵です。これが機縁となって、この毛谷村六助がのちに加藤清正に
仕えて貴田孫兵衛(木田孫兵衛)になったといわれています。それを祀った貴田神社もあるようです。
ネットでみると、(tagawa/net/MUSASHI)では

        「毛谷村六助は木村孫兵衛である」

 と書かれています。さらに、別のものでは(11、27の段階ではタッチの差で消えているので確認は
できないが)、木田孫兵衛は、毛屋村六助の親である、と書いてあるのもありました。こうなると、
貴田神社なるものは江戸時代では、この親の孫兵衛も意識されていたということになるのかもしれ
ません。 〈名将言行録〉では後藤又兵衛は「孫兵衛」の子とされているので、この孫兵衛というのが親と
いうのはあり得ることですが、ここ(ネット記事)での出典などが重要です。
要は木村又蔵に繋がっている挿話です。

            木村又蔵は「勝」といい
            後藤又兵衛は「次(基次)」

ですから、明智重(重)の「マサ」を引き継いでいることになります。〈当代記〉では先稿ど出て
きた
            「肥田助次郎」
 が登場しますが、「肥田」は「飛騨」でもあり、小瀬甫庵の一時の苗字でもありました。すなわち、その
苗字は明智一族であり、その名が「助郎」ということからみて、これが、木村又蔵、つまり二番目の
「坊丸」ともとれます。これと同じ人物をさしていると思われるのが 〈甫庵〉の
            「土肥助次郎」
です。
これらは荒木村重と同行した「乾助次郎」とは同一ではないかもしれないが、それと関連付けたい、
というのがこの二つの「助次郎」であろうと思われます。つまり、「鉄砲屋与四郎」と「伴正林」は住居を同じ
くしたという密接な関係があり、底辺でこの二人は「助次郎」という名前を共有させたと取ることもできます。
 「伴正林」は「助次郎」であることを前提に、「与四郎」は茶を介して「助次郎」につながって出して
きたということで、「与四郎」と「伴」のセットは、無意味にここで出てきたのではないといえると思い
ます。
 ここまでは直感の領域の話ですが、ここで〈信長公記〉は無名の
           「伴正林」
を手放しで褒めています。無名だから誉めるタクラミというのもないわけです。また年齢という余分のよう
ではあるが重要なものまで入っています。まずこれは身内かもしれないとみてあたってみてもよい、
と思えるわけです。

(3)布施藤九郎
余談で長くなりましたが、相撲で出てくる若手の武士には、この前年天正六年の

    「堀久太郎・蒲生忠三郎・万見仙千代布施藤九郎後藤喜三郎」〈信長公記〉

の羅列があります。挟まれた布施藤九郎は〈甫庵〉では独立した一節があるほどの人物で、たい
へん誉められており無視できないので名前だけは〈戦国〉でも出しています。

   『倍臣布施藤九郎召し出さるる事
    布施の(の=ルビ)藤九郎と云う者ありけり。度々の武功をあらわし、一身の高名をば
    次にして、主君の大利を得んことをもっぱらにし、朋輩に名をあげさせんことを存知、貧窮の者
    を恵み、かつ施しを加え、才芸も兼ね備わり、儒学に心を苦しめ、遠慮深き者なりしが、その
    ころ蒲生右兵衛太夫に与(くみ)せしを、信長公かかる者などを聘せずんば、善に進む者
    稀なるべしと思しめし、近習に召し加えられけり
    まことに倍臣たりといえども、義深き者、才高き者あれば、度々御辞(ことば)をかけられ、或い
    は御感の書に預かり、或いはかくのごとく召し出されければ、遠国波濤の卑人までも伝え聞き、
    一足も善心にふみ入らんとのみ日々月々に励みければ、悪気もまた日月に消じけり。・・・・・』
    〈甫庵信長記〉

 後半は信長公に対する皮肉もあると思いますが、とにかくベタ誉メです。 
布施藤九郎は〈信長公記〉では五回も出てきます。もし布施五介、布施三河守が関係があるとすると、
それぞれ一回ありますからから七回も出てくることになります。竹中半兵衛・蜂須賀小六が三回、前野
長康・小寺(黒田)官兵衛が一回などと比較すると多すぎるのでおかしいようです。しかもわけのわから
ない存在ですからやはり、物語的な要素が〈信長公記〉には含まれていると感じないわけにはいかない
ものです。
 上の甫庵の記事は天正八年のころですから、比較的おそく〈信長公記〉では次のようにもう少し早く
から出ます。

   『(元亀元年)日野蒲生右兵衛大輔・布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御
    下り候。』

そのあと相撲の記事で三件あり、その一件が先の人名羅列です。そのあと

   『天正八年今度蒲生右兵衛太輔家中、布施藤九郎御馬廻りに召し加えられ、これ又江を
   填(う)めさせ、御屋敷下され、忝き次第面目の至りなり。』〈信長公記〉

 がありこれが甫庵の記事の下線部分に呼応するものです。つまり蒲生に仕えていたが信長の直臣
になったということになるのでしょう。これは
       「九郎」ですから、諸口
 なので変えうるものです。「(久)太郎」「三郎」に挟まれての、「二郎」にもなりかねない存在です。蒲生忠三郎
が出ているのは、藤九郎の主人が蒲生氏郷(〈信長公記)〉だからでしょう。つまり、蒲生と仙千代が、布施藤九
郎の属性として一括りとなり、

    一番目             二番目                三番目
   堀久太郎ーーーーー蒲生・仙千代・布施藤九郎ーーーーー後藤喜三郎
 
 というものが出されていると思います。

(4)蒲生郷舎
蒲生と関ケ原を結ぶ接点の人物として、一人の蒲生姓の大将が出てきます。関ケ原戦、石田三成陣の
左右の大将は、島左近と蒲生郷成(郷舎ともいう)ですが、この郷成が〈甫庵太閤記〉九州陣で登場してきます。

     『飛騨守の内、坂小板{一番乗り之旨、秀吉卿別して御感状あり。後、蒲生源左衛門尉
      と号す。』

 となっています。飛騨守は「肥田」でも宛てられますが、氏郷のことです。「坂小板」少し珍妙な
名前です。「坂」は「ばん」とも読みます。
ネットでは「坂小番」とか「坂源次郎」とかいうのも見えています。こういう書物があるのでしょうが
なかなか穿ったところがあります。次郎もおもしろいし、「坂」を「バン」と読めといってるようです。バン
は〈鎌倉時代〉で触れましたように「塙団右衛門」の「塙」が思い浮かぶものですが、「塙」は〈甫庵太閤記〉
では判官の「判」が使われ「伴団右衛門」となっています。これからいえば、「坂団右衛門」もありそうな、
そういうのを意識しているという感じもします。
 「坂小板」は
        「板・小・坂」と変えると、小谷・大谷の例のように「伴大坂」ともなり、
        「小」はショウだから「正」となり「伴正板」とすると、「伴正林」と近づいてきそうです。
 常山は、蒲生源左衛門を
        「坂小坂」
としており、小谷・大谷の例からいうと、「坂大坂」となり大坂城と直結しそうなものとなります。また
  「小坂」は「こさか」と読むようであの「小坂(井)」をも呼び出しそうです。

(5)堀久太郎
 木村又蔵はおそらく「蒲生」「織田」「豊臣秀次」「加藤」「石田」などに違った名前で転仕したので、後藤
又兵衛ほど知られていないのではないかと思われます。毛利にいたという話も毛利は森といいたい
ための挿話かもしれませんが、当時可児才蔵(笹の才蔵)のようにあちこち渡り歩いて武勇を発揮して
有名であったというような例があり、仕事が出来る人はスカウトもされたのではないかと思います。可児
才蔵は豊臣秀次の臣でもあり、関ケ原では福島勢のの中にいたようです。
 「小牧長久手の戦」という名で知られる豊臣・徳川戦があったとき、池田勝入が中入れをしたことは有名です。
このときの豊臣方の総大将は豊臣秀次で、家康に一足早く動かれ、総崩れになったとき、堀久太郎のみが
踏みこたえて徳川勢を撃退したことはよく知られています。
この堀久太郎は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の久太郎ではなく、あとの〈三河後風土記〉などの久太郎で
おそらく森蘭丸と重ねた木村又蔵であったといいたいのではないかと思います。すると別名による
拡大が木村又蔵によって顕著な例とされているかもしれないことになります。まあここまでは表記を
追ってなんとなくまとまってきたものですが、これでは問題が出てきて現実はそのようにうまくいきま
せん。年齢の問題が出てきます。

(6)塙と原田
 〈三河後風土記〉の桶狭間合戦の記事に一人の若者が特別扱いで出てきます。

    『前田犬千代利家(ルビ=1538〜1599)生年十八(ルビ=ママ)歳なり』〈三河後風土記〉

 これはあの前田利家のもので、享年が61歳、関ケ原の前年没というのも合っています。が、生年
18というのは合っておらず、これはもう一人の人物が合わせて表記されていると取れます。そのあと
の記事が原田=塙=伴というものを教えていると思いますのでそういえそうです。このあとの追記文
が重要かと思います。

   『利家は尾州海東郡あらこの城主前田縫殿介が男なり。その元祖は・・・菅原道真公・・・・かの地
   (筑紫)において息両人出生す、一は原田丸といい則九州へ来住して、その子孫あらこの城主
   となりけり。』〈三河後風土記〉

原田丸が原田氏の祖で、もう一人の前田丸が前田氏の祖というわけですが、「原田犬千代」「塙犬千代
」となると、ここの「伴正林」の「伴」とつながると思います。任官で「塙九郎左衛門」が「原田備中守」
になったためです。この原田備中が出てきたことにより「伴」が太田牛一と関係が深いということがわかる
はずです。
この塙(伴)「九郎」が漠然としています。
 太田牛一の子が木村又蔵とすると桶狭間では太田牛一数え35才くらいですから、18才くらいの子が
あってしかるべしと思われます。
伴正林が、天正七年(1579桶狭間19年後)で18・9ですから、太田牛一の子とするのには一世代くらい
違いそうです。「伴正林」はこの18の子(これを木村又蔵@とします)の子(つまり孫=木村又蔵A)
ということになるでしょう。
 大坂落城が1615ですから「伴正林」が相撲で頭角を顕したときから36年後のことです。だから木村
重成ともなれば、この伴正林の子といってもよいくらいでしょう。つまり計算すると大坂陣では「伴正林」
は55歳ということになります。後藤又兵衛の年齢は

    『後藤又兵衛基次は五十五歳、ただ、〈長沢聞書〉では六十余歳とある』
                             〈真説大坂の陣=学習研究社〉

 とあるから最近でも二つの説があるようです。こういうのは資料などはいい加減なものだ、という印象
を与えるものなので曲がりなりにも答えようかというものが過去あったのかどうか、というのが知りたいところ
です。
 〈長沢聞書〉は後藤又兵衛の家臣だった人の書いたものなので信頼性が高い書でしょう。大坂陣では
55歳というのと60余歳というのと二つあったということは、後藤又兵衛二人をいっていると思います。
〈常山奇談〉でも後藤又兵衛は
         「政次」
         「基次」
と二本建てにされています。
 一つはもちろん黒田の後藤又兵衛で、小松山で戦死したこの60余歳の後藤又兵衛は、大坂城の
大黒柱だった人物で、鉄砲で怪我して大打撃といわれたのもこの人でしょう。真田幸村とはかなり(親子ほど)
の年齢差があり、競争相手というものではなかったと思います。
  この人物は「蘭丸・坊丸・力丸」という場合の力丸に相当し、坊丸(木村又蔵@)の子の木村又蔵A
の伯父にあたると思われます。この三人の通常いわれる年齢は、名前が子供っぽいということから、年齢を
低く語られたというのが〈戦国〉で述べていることですが、十年くらい上の方に調整せねばならないということは
既に触れています。
 坂井久蔵の姉川合戦(1570)で16歳というのも、年代不詳(永禄八年1565ころか)美濃屋小四郎16歳と
いうのと整合を考えなければならないと思います。
 もう一人は、この「木村又蔵A」(55歳)といってもよさそうです。
これははじめから推測できそうで、大坂陣の鴫野・今福の戦いで木村重成の後詰めをして勝利を収めた
後藤又兵衛はこの木村又蔵A、加藤家にあって朝鮮の役で活躍した大将ということになるでしょう。
木村又蔵は、当時若手の有望株として語られていたと思いますが、大坂の陣では老練な大将として
重きをなしていたと思われます。
 なお木村又蔵と後藤又兵衛が朝鮮の陣で、重なっている例は〈前著〉で挙げており「木村又蔵」と
すべき場面で「後藤又兵衛」となっていました(〈甫庵太閤記〉)。大坂の陣での解釈に役立つものであり、
また朝鮮役のこの場面で「木村又蔵」と書くと誤解が生じやすいことは明白です。
 余談ですが「塙団右衛門」という人は、この木村又蔵A(伴正林)の別面の働きを語る人ではないか
とも思われるほど表記が接近しています。どちらも加藤家(清正・嘉明)退散ということまで似ています。
塙団右衛門には「直之」と「重之」という名前があり、「重」が「重政」のものと思われ「木村又蔵A」を
表わしているとも思えるものです。「直」の方は原田備中守直政の「直」か堀直政の「直」か。
 しかしこれは一方で別人であるともいっている、すなわち関連ある二人を語っていると思われます。
すなわち、木村又蔵@に「伴正林」と「伴団右衛門」という兄弟がいたというのも自然な結論と思われます
。いずれわかってくることでしょうから、これはこの辺のことにしておきます。
 こういう講談的な人物はいずれ出鱈目に書かれていてもしようがないと頭から軽く見られがちなので
調べようということになりません。だから後藤又兵衛・木村又蔵の妻女とか、子息とかの名前は全然
なおざりにされていまわかりません。これらのことがネックとなって歴史の理解が進んでいかないということに
なっています。細かいことの観察は、大きな歴史の流れの理解に確実に重要なことです。大河の流れは
H+H+Oの流れであり、清流とも濁流ともいえない混然となったものの流れです。とりわけ歴史は人事
の流れですから、それを述べるのは人であり、細かい事はその歴史叙述の手法を理解させるものだから
とりわけ重要です。
 とにかく木村又蔵というのは
            布施藤九郎などまったく違う名前で出てくる、
            木村又蔵@Aを考えねばならないなど親子重なる
という手法のモデルを語るものかもしれないので重要かと思います。

(7)消された「伴正林」
  ここでまた文句が出そうです。〈信長公記〉脚注では「伴」は「とも」とされており、

  『伴正林 伴(とも)氏は近江甲賀郡の豪族で甲賀武士の有力者。一族を伴党という(山中文書)』

となっていて、実在のものを書いたのだ、甲賀も合っている、といわれると思います。
これは甲賀に伴氏という有力者がいたということもいっている、それは述べておいた方がよい、と
考えたからだと思います。ここは伴(ばん)と読んでもよいので「正林」は作ったといえます。
 というのはこの「伴正林」は本能寺で戦死して、表記が消えるのです。

    『・・・・伴太郎左衛門・伴正林・・・・・・切つて出で討ち死。』

 ここで伴太郎左衛門も消された形で登場してきます。伴太郎左衛門は誰を消したかというと、首巻の
桶狭間戦、丹下砦の大将の一人、

    『水野帯刀・・・・・真木与郎・真木十郎・伴(ルビ=ばんの)十郎左衛門、』

この伴十郎左衛門を消したと思われます。ここで

      @「伴」は(ばんの)と読んでよろしい、というのが出ている
      A与四郎の「与」と「宗」の系譜の「宗」が出てきたので、正林が出てくるここの場面を
       念頭においている。
      B十が意識されている、太郎でも同じことではないか。真木はあぶり出しの同一人でしょう。
       総領が決まっていない状態ともとれますが、それなら十郎、与十郎となるのかも知れませ
       ん。桶狭間の千秋四郎は四番目とはかぎらないと思います。

おそらくこれは
               郎左衛門と
               郎左衛門は
 総領(四郎)となれるか不確かな存在という意味でこの二つは同義ではないかと思われるところです
が、これを消したと思われます。十郎左衛門はしたがって目的をもった意味で出てきたと思われます。
このあとすぐ佐久間右衛門尉・舎弟左京助が出てきたことも引っ掛かっているかもしれません。それは
ともかく、ここで、

       『・・・・伴太郎左衛門・伴正林・・・・・』

と併記されて、伴太郎左衛門が出てきたことは、一つは「正林」が二番目に設定されたしたということも
わかることになります。森蘭丸の下といっていると思われます。
 ここで千利休が出てきて荒木村重の最後の場面に絡んでいる、またこのどうでもよさそうな「伴正林」
という名前から「木村又蔵」まで出てきた、このあたりの人の行き交いは、日本史の多くの謎の解明に
もつながる人物叙述手法の粋が戦国を舞台に凝縮されているともいえそうです。
     
    伴正林=坂小坂=蒲生郷舎=布施藤九郎=木村又蔵(小牧長久手の堀久太郎)・・・・・・

 というのは少し出鱈目すぎるということになるかもしれませんが、「伴」は明らかに「坂」であり、「坂」
は蒲生家中であり、蒲生は布施藤九郎であり、蒲生郷舎という島左近と対というほどの人物に結びついて
も不思議ではないと思われます。
 皆が仕組まれた登場のような感じですからここは一人もおろそかにできません。鉄砲屋与四郎(千利休)
と同一人でもなさそうな「乾助次郎」はここだけしか出てこない完全な一匹狼の名前であり、誰かを暗示して
いるのであれば、重大な見落としをしないように注意ということになります。

(8)木村又蔵@
 伴正林の表記が消されると残るのは木村又蔵になりますが、問題は木村又蔵@がどうなったかと
いうことです。戦でいうと
   木村又蔵@は「桶狭間」「姉川」「豊臣秀次の小牧長久手」の戦いまでとなり
   木村又蔵Aは「文禄慶長の役」「関ケ原」「大坂の陣」の戦い
 ということになります。ここで豊臣秀次陣に木村又蔵@がいたということがいえるかどうかですが
        「堀久太郎」
がいて顕著な活躍をしたということが重要ではないかと思われます。〈前著〉で秀次の筆頭家老と
いってもよい木村常陸介という人物と木村又蔵が木村重成の親かもしれないといっています。これは
     A、木村又蔵@=木村常陸介になるのか
     B、木村又蔵@は木村常陸介の連れ合いというのか、
 迷うところです。前者の場合だと簡単で
     木村常陸介ー伴正林(木村又蔵Aまたは木村重成@)ー木村重成
 になってわかりやすいのですが、秀次事件のとき
     「木村常陸介の妻子」
 というのが特別に語られているので無視できないと思われます。
〈たいかうさまくんきのうち〉に出ており、さいしが「そつのほういん」に身柄を預けられた、と書かれています。
〈常山奇談〉では妻子は助けられたという記事が出ています。
〈川角太閤記〉ではこの事件で「久太郎」という人が亡くなっています。
 秀次事件をもう少し突っ込まないといけないところで、いろんな書物で違うことを述べているのは
出鱈目というものではないと思います。妻子が出てくるから、Bの場合の

      木村常陸介(重慈・師春)
            │ーーーーーー(子)伴正林ーーーーー(孫)木村重成
      木村又蔵@  
 
 ということも一概に捨て切れません。ただ前者の場合はもちろん後者であってもいずれにしろ秀次事件の
災禍は逃れがたく、木村又蔵@は秀次事件のときに亡くなったということがいえると思われます。それを
示すものがないかということですが、まだ重要な人物がわからないままに残っています。

(9)毛利新助
 桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った人物は二人あり、服部小平太と毛利新介です。毛利新介
は森新助のことであり、森家の人物です。〈信長公記〉に
          毛利藤九郎
 という完全に一回限りの人物が出ています。これは
          毛利新介と布施藤九郎
 の合成とみることも出来ます。
  服部小平太が秀次事件に連座して自殺しているのが理解できないので〈戦国〉では桶狭間の
徳川の態度について知りすぎているかもしれないということで述べていますが、毛利新介のことを
間接に述べたのではないかというのが「毛利藤九郎」という表記です。テキスト人名注の「服部小平太」


   『服部春安(〜1595)
    実名春安(〈富岡文書〉)。のち秀吉に仕え、伊勢松坂城主となったが、文禄四年(1595)
    関白秀次事件に連座して改易。上杉景勝に預けられ自殺。服部小平太56n』
    
 となっています。ネット記事によれば、石高は三万五千石の大名だったようです。伊勢松阪は蒲生を
思い浮かべますので、これはその家臣布施藤九郎のことと取れそうです。〈甫庵太閤記〉では
次の記事があり、これが上の「春安」の説明に取り入れられていると思われます。

    「一、服部采女正  越後宰相(預け) 一、同妻子  吉田清右衛門尉(預け)」

 があり、この富岡文書というものが、桶狭間「服部小平太」の解説として「春安」をもってきたので
この通説的な注となったと思われます。毛利新介は登場回数が多いのに服部小平太はあの場面一回きりです
から、普通なら「采女正」という大名が「小平太」かどうか迷うところです。
 服部小平太はネットでは「一忠」と「忠次」という二つの名前があると書かれています(数件)。服部
小平太の存在が今川義元の最後をヴィヴィドに語ることになったと思います。服部小平太は義元に槍
を付けたが負傷して動けなくなってしまった、それを見た毛利新介が首が取ったと読むのは事実に合って
いるでしょう。服部は結果首級を挙げていないので、その働きは毛利が証言しなかったから消えて
しまうところです。
 一族の若い衆「一忠」という人が、義元に槍を付けて、毛利新介が首を拾った、という事実があり、
その後、「一忠」は膝を切られて戦場に出られなかった、大きな功績を挙げにくい状態になったと思
われ「一忠」と「采女」というのは結びつかないと思います。「一忠」から「忠次」という名を考え出し、あの
「忠次」を睨んでいるような形にしたようでもあります。
 〈武功夜話〉によれば木村又蔵は「小蜜茶」という大将を討ち取ったのが自慢で、再々述べてあります
。朝倉の真柄十郎左衛門あたりを討ち取ったのならわかりますが、無名の武将(史家が有名にしてい
ない)小蜜茶を討ったというので大騒ぎしているのもすっきりとしません。これはひょっとして「超大もの」
を指しているのかもしれません。
 
〈たいかうさまくんきのうち〉では

    「はつとりうねめさいし、よしたせいへもんに、御御(ルビ=ママ)あつけ。・・・・・
    はつとりうねめ、えちこの、かけかつに御あつけ。」

 となっていて、〈甫庵〉のものと合っていますがが、妻子と本人が逆で、かつ表記がおかしいところ
があります。こんなのはすぐ転写間違いだろうとされてしまいますが、誰が「ママ」といれたかを調べない
と一概にはいえません。極端な言い方をすれば著者が「ママ」と入れることも有りうるわけです。
川角太閤記では「服部」のことは省かれています。今川義元を媒体として「森」と「服部」密着して出てきま
した。
 
   ▲毛利新介=森新介ーー今川義元ーー服部小平太=▼服部小藤太

 この▲と▼の人物が、本能寺において戦死して表記が消されているわけです。或る人物、木村又蔵@
の残像を残して消えてしまったといえます。▼の「藤」は藤九郎の「藤」が意識されていると思います。
森氏はもちろんですが服部氏も明智一族とみてよいと思います。筆者はこれを荒木又右衛門のところで
わかりました。〈信長公記〉首巻に出てくる「服部平左衛門」(小平太はこの子息とみてもよい)は荒木又右
衛門の伊賀越え仇討ち事件の説明で出てきます(既述)。そこでは

      (又右衛門服部平左衛門の次男)(本多政朝の家来、政朝は上総の国大多喜五万石)
      (本多忠勝家来荒木又十郎が拾ったのが後の又右衛門)(荒木又右衛門は之助)
      (又三郎)(柳生十兵衛に師事)(荒木村重の住居址に住んだ)(又右衛門の先代は池田
      の禄を食んだ。)(又右衛門は菊永・・・・菊永兵部兵衛の兄は服部出羽

 など太田牛一を暗示するものが一杯入っています。
 堀久太郎が36歳で突然亡くなりますが、あの原田犬千代18の秀次事件のときの年齢もそうなります。
堀久太郎とその重臣堀直政はお互いに先に軍功を挙げた方の部下になろうと約束していたということで
久太郎が先に武功を挙げたので序列がこうなったという話があり、この他愛なさ過ぎる話は二人重なって
いる、事績は堀直政で充足されており、「久太郎」(九太郎という漠然としたものにつながる)が蘭丸・坊丸
に転用されたとみても不具合は生じないようです。堀久太郎はこれだけ若いのに、〈道家祖看記〉に
      「九右衛門{菅谷長頼}久太郎
で出てきて綸旨が届いたとき「計り置き候え」といわれていますから、これは親の世代の久太郎とみられ
太田牛一あたりを指していると取れます。
 まあ結論としては、次の表記操作によって、木村常陸介とは誰のことか、という調査を必要としますが、
木村常陸介の連れ合い木村又蔵がこのとき(1595)奇禍に会つて死去したということが木村又蔵の
晦渋極まりない生涯の語りにつながり、後藤又兵衛と違うややこしさが生じたということになるかと思います。

 〈甫庵信長記〉
   『木村常陸介は、摂州五ヶ庄大門寺において切腹せしが・・・・・・・・白江備後守四条貞安寺
    にて切腹なり。同じき妻四条道場において、自害せしが一首かくなん
     心をも染めし衣のつまなればおなじはちすの上にならばん』
 とあり、白井備後守は次にもあります。   

 〈川角太閤記〉
   『白井備後守は浄土寺町安所、同子息久太郎、木村常陸介父子は、輝元の承りで山崎の
   寺で切腹となった。』

 白井備後守は丸毛不心、東殿の別の姿かもしれません。丸毛不心は、首を打ってくれといって、
「うたれにけり。」となっていますが、大谷吉隆も同じ死に方となっています。太田牛一は大谷は馬上で
腹を切ったと書いており、死に方の修正をしている、そういう二通りがあるのでここもそうしたといえる
かもしれません。ここで子息同然といってもよい「久太郎」が切腹していますから、これが木村又蔵と
読めると思われます。次の読みづらい文にこれが出ているのかもしれません。

 〈たいかうさまくんきのうち〉
   『木むらひたちのかみ、つのくに、五かのせう、だいもんじにてしょうがい。・・・・・おなしく、さいし、
   そつのほういんに、御あつけ。』
   『・・・・しなしなおおきその中に、木むらひたちのかみさいし三ちようかわらに、はつつけにかかり、
   みやこにて、しよ人に、はちをさらす事、一とせ、えちぜん、ふ中にて、みそやかとくちに、
   とかなきものを、はつつけにかけ候むくい、たちまち、かんせん、天たうおそろしき事。』
   
 〈たいかうさまくんきのうち〉の文、これはとても事実とは思えないことですが、こんなことを書いているのは
仕方がないことで特別重要人物として重視せざるをえません。

(9)「伴正林」の周辺    
 荒木村重に絡んで、伴正林、田中与四郎、津田信澄、乾助次郎、徳川家康などが先稿、本稿の
あたりの主要文献で集約されて出てきました。とくに堺の茶人が荒木村重、徳川家康に接近して出てきました
ので後年の利休の行動などに荒木事件が影を落としているのではないかと思います。それは後年の
堺の南宗寺の伝承などにみられるものです。
ネット記事の「信長墓所・崇福寺」という見出しのものには、南宗寺には、荒木村重の墓や「利休一族」
「津田宗久」、「徳川家康」などの墓があるとのことで〈信長公記〉〈甫庵信長記〉のこのあたりの記事を
受けていると思います。
 また南宗寺にある次の伝承は、堺の茶人達が〈信長公記〉〈甫庵信長記〉などの文献の意図するところ
をよく汲み取っているということを示しているといえると思います。締めくくりで一件借用します。
 『家康は大坂夏の陣で死亡していた』という表題のものです(sanadasanndai.hp.infoseek/ituwa)。
   
   『大阪府堺市にある南宗寺には家康は慶長20年(1615)5月7日に死亡し、以後1年間生存していた
   いた家康は影武者であったという伝説がある。

    幸村が仕掛けた地雷から駕籠に乗って逃げる家康は途中で大坂方の猛将・後藤又兵衛
   発見され駕籠ごと槍を突き込まれ、南宗寺に担ぎ込まれた時にはすでにこと切れていたと伝わる。
    別の説では逃走途中に行き会つた葬列の棺桶を奪い隠れたものの、やはり又兵衛の槍に突かれて
   命を落としたという。
    他にもいくつかの説があるが、幸村の猛攻から逃れる途中に又兵衛の槍にかかって死亡する 
   という点は共通しているようだ。
    又兵衛は前日の6日に伊達隊との戦闘で戦死しているので矛盾はあるが、又兵衛も幸村と
   同じく大坂城から落ちのびたという伝説がある。

    家康の死を知った徳川家は戦後の混乱を避けるために家康によく似た農夫を影武者にした。
    一年後の元和2年4月、徳川政権も安定しはじめたため、秘密を知る影武者は「病死」に見せ
    かけて始末されたという。家康は鯛の天ぷらにあたって死んだという説がよく知られているが、
    鯛の天ぷらにが仕込まれていたのかもしれない。

     徳川二代将軍と三代将軍家光は、さして縁があるとも思えない南宗寺を相次いで訪れている
    ことから、「南宗寺には家康の墓がある」と言われていたらしい。
     今、南宗寺には家康終焉の地を表わす石碑と家康の墓といわれる無名の卵塔がある。』
 
 これはよく実態を説明しているもので、〈信長公記〉の伴正林登場のところは後世の人がこのように
解説したということの証左となるところと思われます。明智衆の又兵衛・幸村は反徳川勢力の代表と
して家康を討ったとされるのでしょう。徳川・アンチ徳川の長い戦いがこの最後の段階でも続いており、
このあとも延々と続きます。
 家康はすでに毒の関係もあり老耄の状態、徳川ではカヤの外の人物でいつ死亡しようが関係のない
人物となっています。影武者というのは、カタカナのイエヤスといってもよいのでしょう。これも始末された
というのはありうることで、のち本多佐渡守の家にはつり天井事件などの災厄が降りかかります。徳川将軍
がここを訪れたというのも誰かの作った話でしょう。家康の墓がここにあるということは、堺衆がいろいろな
我慢できない出来事に徳川の影があることをよく知っていたためと思われます。
 ネットでは『伝説の堺』などこれと似た穿った話が載っています。今は載っていてもこういうのは他愛もな
い話とされて消えていきやすいものです。
    詰まらなさそうな話と程度の高そうな話
    断片的な話と、全体的・年表的な話
    ミクロの話とマクロの話
    怪しそうな話と科学的らしい話
などを整合して説明しよう、統一的に理解しようとする姿勢が必要です。
次はもう一人「坊丸」といわれる人がいますのでその話です。
                               以上
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