20、三好清海入道


(1)葉茶壷
  次の記事の「乾助次郎」については先稿で考察しましたが下線の葉茶壷というのが何かということが
問題となると思います。当時では有名だった寶物という感じがします。

    『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ、伊丹を
    忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉

 素直に読めばこの下線の「葉茶壷」という語句は、荒木村重が相当な茶人でもあったことをいうため
に入れられたと取れます。下線のところテキストでは脚注があり、
         『荒木村重は茶人、利久の弟子。』
となっています。この脚注も、利休が村重の茶の師匠ということが知られているので自然に出てきた
ものと思われます。またこの「葉茶壷」は「乾助次郎」も茶人であることを示すものでしょう。脚注をもう一つ
入れるとすると「乾助次郎も茶人で、利久の弟子と思われる。」というようになると思います。つまり
「葉茶壷」は
     @荒木村重が茶人ということを示し、
     A乾助次郎も茶人で無視できない存在ということを示し
     B利休(久)を自然と呼び出す道具であった
といえると思います。Bは利休でなくてもよいかも知れませんが利休でなくてはならない(著者・校注者が
そう思っている)のかもしれません。とにかく番外の利休は葉茶壷が高価なものという印象を与えるものです。
 Aでは「乾丹後守」が〈信長公記〉の首巻で出てきますので「乾」は重要なものということができます。
(既述)。
 荒木村重は利休の門弟といわれていますが利久の十哲のなかに名前がありません。乾助次郎という
人物も同じです。佐久間甚九郎も山上宗二も利久の高弟だったとされていますが、これも利久の十哲では
ありません。荒木村重は乾助次郎をつうじて利久の門弟であった、もしくわ佐久間甚九郎の門弟で
あったとも考えられます。
 「乾助次郎」=「佐久間甚九郎」の結論は
   ○「乾助次郎」は若いころの名前といえる、平手政秀の子に「平手助次郎」という人がいて都
     へ修行に出た(〈信長公記〉補注=山科言継天文二年平手政秀訪問。このとき七歳の次男
     は太鼓を打ったという記事がある。)
   ○平手の長男は「平手五郎右衛門」で織田の五男の「右衛門尉」と思われる。佐久間の地位の
     高さから織田と佐久間とは姻戚関係がありそうである。「安房」もそれを示すものかもしれない。
   ○「佐久間甚九郎」いう名前が諸口のような扱いになっており、「佐久間右衛門」ともいいうる。つまり
     親子二代(三代)重なっている。
   ○身方が原で「平手甚左衛門」「佐久間右衛門尉」がセットされて、平手の「捨て殺し」などと
     いう信長の過激な言葉を生んでいる。
   ○「佐久間甚」「平手甚」も関係を示すものと思われる
  
 などでひょっとして二人は同一人物とみてよいのではないか、というのが前稿で話したことです。
 また「佐久間甚九郎」=「宗及」かも知れないという結論も匂わせていましたが、本稿のあとで出てくる
     「 ★天王寺屋宗及(ルビ=そうきふ)が菓子の絵、」
という一文が、それを補強するものかも知れません。この★の人物は、テキスト人名注では
     「天王寺了雲」
という人物のようですから、「天王寺屋」というのは商売の屋号でもないという感じです。つまり、
「天王寺がついてまわる、「天王寺」の関係する、「天王寺」が属性である人物というものと考えられ、
ます。「天王寺」と交錯する人物は次のように、「佐久間甚九郎」と「佐久間右衛門尉」です。

 〈信長公記〉では
    『 一揆共天王寺へ取り懸け、佐久間甚九郎・惟任日向守・・』
    『天王寺には佐久間右衛門・甚九郎・・松永弾正・松永右衛門佐・・』
    『天王寺より佐久間右衛門人数を出し・・・』
    『天王寺に、定番として、松永弾正・息右衛門佐置かれ』
    『(信長公)天王寺へ御成り、佐久間右衛門所に・・・・』
    『天王寺・・・原田備中・・・天王寺・・・原田備中・・・』

 〈甫庵信長記〉では
    『原田備中守・・・天王寺に附城・・・佐久間甚九郎定番・・・原田・・・』
    『天王寺附城・・・・・佐久間甚九郎・・・佐久間が与力』
    『天王寺には佐久間父子・・・松永弾正父子・・・』

 のようになっていて佐久間右衛門・甚九郎の属性が「天王寺」で、「佐久間甚九郎」が「宗及」と
いう線が濃厚となってきます。
ただ「佐久間甚九郎」は「佐久間右衛門」とも重なり、「佐久間右衛門」は「太田和泉守」を述べる
ために使われることが多いことはすでに触れています。一見複雑な関係があって解きほぐさなけれ
ばなりませんが、どうしてもひっかかるのは「甚九郎」というあいまいな表記をなぜ使ったかということ
です。ボンヤリしているのは、ここの「乾助次郎」「葉茶壷」もそうですのでわかりにくいところほど重要
なのはいままで多くの例があり、一応考えてみなければならないところです。
 茶人「津田宗及」として今日に貴重な記録を残したのがこの「佐久間甚九郎」であるとすれば、
山上宗二もそうです。二人とも利休の弟といわれていてひょっとして、これは先代利休の高弟と
いうものでもあるのかもしれません。荒木村重の先代もそうではないかとも思われます。
 
 乾助次郎のもっていた「葉茶壷」からも、これらが補強されればよいのですが、それについてはとりあえず、
ここで助次郎も甚九郎と同じく利休絡みの人物(高弟かもしれない)というのが出てきました。
 しかし脚注に利休があっただけで、本当に利休がからんでいるといえないではないか、といわれると
そのとおりなので利休が絡んでいるかどうかは、ここの「葉茶壷」が何かということの解明が必要になっ
てきます。これは「乾助次郎」も何者かわからないというようにされていますから、「葉茶壷」の名前も
わざと書かなかったのではないか、と取れます。戦国期以後の教養ある読者には茶の好きな人も多い
だろうから、その期待を裏切っていることは著者本人も分っているはずです。
 要はなぜボンヤリとしか書かなかったのかということです。
 著者が名前を出さないほうが無難であろうと思ったということは十分考えられることです。それなら
追っかけるとわかるようになっている、追っかけるのを期待している、そこから何かが出てくるといって
いると思いますので、当たってみることにしました。〈信長公記〉にも、いろいろの愛称がついた葉茶
壷が出てくるのでいずれやっておかないとならないものです。
それとは別に、この一文にはわからないところがあります。
 一つは この一文は〈信長公記〉では

 『九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召列伊丹を忍び出、尼崎へ移り候。』〈信長公記〉

 となっていて同じ日のもので内容が全く違う、ということになっています。また「女房」は誰かというのも
ありいずれこれら問題について解明しなければ荒木事件が解けないというほどのものです。
 
 話を簡潔にするため本稿では、はじめからこの「葉茶壷」は、有名な
      「つくも茄子」=「つくも髪」=「松永茄子」
 というものであろう、と決めて話を進めていくことにします。冒頭の一文は〈甫庵信長記〉の記事
であり、〈甫庵信長記〉では「利休」が絡んで出てくる「葉茶壷」は「九十九(つくも)茄子」しかない
ようです。つまりこれは「松永茄子」なので「葉茶壷」を通して本当は松永の話を展開したかったと
いえるのではないかと思います。、
 〈甫庵信長記〉にある
            『作物記(つくものき)の事』(これは「つくも茄子の袋」の話)
と、そのあとにくる
            『夜話の事』
という「森の乱{森三左衛門尉二男}」の出てくる、まったく他愛ない記事は、こうでもしないと読んで
もらえないというところからそうした、そこにも重要なことをいっているといいたかったというのが結論
です。
  また、内容の違う荒木村重の行動については、一つは「荒木摂津守」が二人いる、例えば「佐久間」
にあったのと同じように、荒木にも親子の行動があった、このあとの話にも親子の重なりがありそれが
共通しているものです。テーマとして著者が取り上げたというべきかどうかはわかりませんが、例えば
 「三好修理大夫」という人が〈信長公記〉に出てきて、脚注には

    『本来は三好長慶のことだがここでは三好義継を指す。』

 というようになっています。義継は長慶の養子とされており〈信長公記〉では「三好左京太夫」という
表記が宛てられている人です(元亀四年・天正元年戦死)。親子が同じ表記で出ることがあるとすでに
公に認められているのです。
 とにかく先稿で「乾助次郎」に触れましたが、ここで「葉茶壷」ということになりました。

 以下この「葉茶壷」について調べてみますが、ここでも人名・地名・神社名などと同じく宝物について
のデータベース化が何も進んでおらず、それがネックとなってきます。宝物も人名の名寄せのような
ことをしなければ解けないことがわかりますが、ここでは目にとまったところだけ、気がついたところだけ
やってみるという形になります。
 はじめに「葉茶壷」を調べておきますと一番有名なのが「松永」にからむ「つくも茄子」ですがほかに
次の三点がよく知られたものだったようです。

    松花・・・・・・・葉茶壷で大名物・・・・これは信長公から信忠卿が拝領。寺田善右衛門が絡む。
            誰が献上したのかは重要問題となりそうです。。
    松島・・・・・・・葉茶壷の名。松島のように小さい突起が多かった。今井宗久が献上。
    三日月・・・・・葉茶壷。松島とならぶ無双の名物。三好笑岩が献上。
 
 松花は〈信長公記〉の安土城の記述のなかで「せうくわ」として出てきます。脚注では、これは「松
花の壺」で「北向道陳」が献上したようですが、〈信長公記〉には「北向」の名はありません。
 「松島」と「三日月」は天正六年荒木村重ら十一人が集まったとき床の左右にあったものです。
  天正六年の正月「御茶十二人に下さる」場面、床に
    『東に松嶋、西に三日月、』〈信長公記〉
 とあり、すでに信長の手元にありますので、これが、後年この「乾」の持っていた葉茶壷ではない
といえそうです。 このとき「床」にあったこの二つの「葉茶壷」が

  長谷河丹波守、長谷河宗仁、福富平左衛門、矢部善七郎、荒木摂津守、惟住五郎左衛門、
  万見仙千代、・・・・

などと接近しています。ただこの三つの葉茶壷はすでに(荒木が敵対する前)、信長公の手もとに
あるので、また利休の影がありませんので「乾助次郎」のもっていた葉茶壷とは違うのでしょう。
 このほかに〈信長公記〉では
   松永が「つくもかみ」、
   今井が「詔鴎茄子
を献上したとありますが、このうち「詔鴎茄子」は今井が「松嶋」と同時に献上したものです。これは
ここの三つとは別個にあるとされているようです。
 あとで触れますが、この二つは〈信長公記〉〈甫庵信長記〉間で表記が違うものですから、違うのか
ひよっとして同じものか、検討させるような操作があるかもしれないものです。

 首巻に「乾丹後守」が出てきましたので、ここの「長谷川・宗仁」は「乾・宗仁」にもなりかねません。
「長谷川宗仁」は一体誰なのか、「長谷川宗仁」という独立した人なのか、「千与四郎」か、「宗久」か、
「佐久間甚九郎」なのか、よくわかりません。これが乾助次郎であればよいのですがそうでもなさそうです。
〈甫庵信長記〉では「長谷河入道宗仁」となっていますので、「入道」といえば本稿のあとで出てくる
      「■三好山城守入道笑岸」
      「●三好下野守入道長閑斎」
 しかないような感じなので、この二人の人物の正体とその関係が問題となります。このうち「■三好笑岸」
は豊臣秀次の養父でもあり、「友閑」とセットで出てきますし、現に「天下隠れなき三日月ノ葉茶壺」の
献上者でもありますので、重要人物ですからこの茶会に出席している可能性はあります。
「今井宗久」もここに居ておかしくはない、「松花」の献上者もいるかもしれないということになります。
後の世の名声からいえば、「利久」もここにいるのは自然ともいえますがこの時点で「入道」といえるか
となりますと問題かもしれません。
 ここの●の人物が表題の真田十勇士の筆頭、三好清海入道とされています。「三好」と「入道」だけが
共通する両者ですが、日本史を理解できる仕組みというようなものがここにも出ているようです。一般の人
は〈甫庵信長記〉でかなりのことがわかります。一方〈信長公記〉その他のやや専門筋向けのものを
読んで更に裏を理解できた人は、微細な解説はせず、こういう変な話を出してわからせようとするパターン
です。
  こういう茶壷と関連して出てきた●の人物が「三好清海入道」であるということは
○これは無視できない大ものかもしれないこと
○年齢がわかる(清海入道で語られるかもしれない)ということ、
○幸村と大坂城へ入城して徳川と一戦して戦死したということで、それなら徳川と確執があった、ひ
ょっとして豊臣秀次と縁があるかもしれない、
○隠した方がよいと判断された人物、たとえば太田和泉守と関係が深い、
 というようなことがあると思います。
 木村世粛のところで三好正慶尼という女傑が登場してきました。この人物の登場にはその背景が
ある、つまり「三好」という「姓」を打ち出したと感じがするものです。「三好」というのは、まず
             「三好秀次(豊臣秀次)」
 を暗示するものであろうということがまず出てきます。しかし「三好」といえば、もう一人
             「三好長慶」
 という大ものがいるので、この三好一族の人ということも表わしていないかということにもなります。
三好長慶というと、その子が「利久」の妻というような関係を表わす挿話がある人ですが、これはなに
しろ信長の前の天下人なので戦国に大きな影響が及んでくるのは避けられないことです。「長慶」は
年表では、桶狭間の四年後(1564年永禄7年)、足利義輝の死(1565永禄八年)の前年、42歳で
亡くなったとされているので〈信長公記・甫庵信長記〉に頻繁に出てくる「三好」姓の人には該当がな
いようです。
 一方、豊臣秀次は三好秀次であり、それは上記の「三好入道笑岸」の養子とされているからであり、
「秀次」の「次」が「義継」の「継」にも似ているのは関心を向けさせようとするものか、とにかく
     三好長慶ーーーーーーー三好義継
     三好笑岸(巖)ーーーーー三好秀次
 ということになると、「三好笑岸」はあの「松永久秀」と同様に前半生がよくわからない人物ということで
済ませていてよいかということになってきます。
 「葉茶壷」でいえば、名物「三日月」を献上したのは、「三好笑岸」(〈信長公記〉)ですから、また
「友閑」と親しい(したがって太田和泉守と親しい)ということで無視できない存在といえます。要は
 ■●は親子・兄弟・連れ合い・同一、かがよくわからないのです。
 信長の前の覇者は三好氏といわれていますから、〈信長公記〉などがそれを受けて三好衆の動向を述
べているののは当然ともいえますが、大坂の陣の三好清海入道が出てきたことは、太田牛一がこれら
三好笑岸などという人と関係が深いからということもあるからではないかと感じさせます。「三好」がテーマ
として取り上げられることを要求しているととれます。
 三好清海入道は講談の世界の人物なので他愛もないようなことのようですが、
     「三好入道」−「清海」「長閑斎」−「葉茶壷」ー「つくも(松永)茄子」
となりますと自然と「松永」が出てくるので、へんな話も、捨てたものではないかもしれません。

(2)茶人五人
 葉茶壷に関連して利久と村重が連想されて出てきましたが、〈甫庵信長記〉〈信長公記〉にすこし
だけ茶人が出てきます。

   『かくて、堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。二位法印、その御事に候、
   ・・・・』 〈甫庵信長記〉

 ということで五人の人物が出てきます。〈信長公記〉では 九鬼大船を見たあと、

   『それより今井宗久所へ御成。過分忝き次第、後代の面目なり。御茶まいり、御帰りに
           宗陽・宗及・道叱三人の私宅
   へ忝くも御立ち寄りなされ、住吉社家に至つて御帰宅。』

 となっています。〈信長公記〉で信長公が訪れたのは、

       「宗久」「宗陽?」「宗及」「道叱」

 の所で、甫庵の記事と対比してみなすと

      〈信長公記〉・・・・・・   「宗久」  「宗陽?」  「宗及」  「道叱」 (「住吉社家」)

      〈甫庵信長記〉 ・・・   「宗久」  「宗易?」  「宗及」  「道叱」  
                          「佐久間甚九郎」  

 となっている、つまり

   〈信長公記〉・・・・・・  「宗久」 「宗陽?」 「宗及」 「道叱」

   〈甫庵信長記〉・・・・  「宗久」 「宗易?」 「宗及」 「道叱」
   〈甫庵信長記〉A・・・・ 「宗久」 「甚九郎」 「宗及」 「道叱」

 ということになつて、突然出てきて、納めどころのない、この「茶人として有名」な「甚九郎」はいったい
どこにはいるのか、ということになります。
○「住吉社家」の「住吉」は「天王寺」と同じく「佐久間甚九郎」の属性といってよく関心が「甚九郎」
に向いている、また
○「宗陽」の「陽」と「宗易」の「易」が何となく似ている、
となるとやはりイタズラがありそうですから、「甚九郎」は表記が違わせられている二番目に入れるしか
ないでしょう。「紅屋」といわれる「宗陽」が、この人の号かどうかは別として「佐久間甚九郎」というのは
「九郎」というのが漠然としている上に、後ろの名前も省かれています。茶人としても何か名前がある
はずです。いま何もわかっていないのだから、「佐久間甚九郎」の号は「宗陽」であったとしておくしか
ありません。するとこれが「宗易」ともつながりかねないので、それはおかしい、ということになりますが、
〈甫庵〉の『作物(つくも)記』には
      
        『◎名を易ゆれども異論なき者乎。』〈甫庵信長記〉

 という、やや周囲の文脈から離れた文があります。
 ◎を付けた太字の部分は、どういう意味かが問題です。通常パソコンなどでは「かえる」「かわる」
の漢字に「易」というのは出てきませんが「不易流行」に見られるように「かえる」という意味があります。
◎の「名を易える」ということは、いままで述べてきたことで「宗易」というのは「宗□(欠字)」というような
意味があり、「易えられる」意味合いがある、「宗陽」に替えてもよい、かならずしも利休をさすものではない
ということを意味する、といっているとも取れます。
 ここから「甚九郎」が、もう一人の「宗易」として荒木との和解に尽力したのではないかというのが
いってきたことです。したがってここの茶人五人は四人かもしれません。しかしこうはいっても、あの
「利久」がここにいないのはどうしてもおかしい、現に「宗易」というのも出ているのでどこかにいるの
かもしれません。
これは「今井宗久」に隠れているのではないか、と思われます。
 もう一ついいたいことはここで「佐久間甚九郎」が「宗易」「宗久」「宗及」と接近したということです。
「佐久間甚九郎」は利休の弟ということだから、いまさらつけくわえることもないのですが、その名前
から織田一の佐久間軍団の長、かつ高名な茶人ということを忘れがちになるのではないかとみられ
ます。「佐久間甚九郎」が、「宗易」と重なったのは「乾助次郎」のもっていた葉茶壷は「利休」から出た
ものかもしれないというのが出てきます。


(3)千宗易と「つくもなす」
 千利休は主要文献で登場回数が少なく、〈信長公記〉では「宗易」で登場するだけです。天正三年
十月廿八日、
   「妙覚寺にて御茶下され候。」で「三日月の御壺」「松島の御壺」など出てくるところで 

       『・・・・・一、茶道は宗易、各々生前の思い出、忝き題目なり』

 がありこれだけです。しかも下線の部分がわかりにくく、今は「これでこの世に思い残すことはない」という
式で捉えられていると思いますが、宗易の生前の思い出をみながいいあったということにも取れないことは
なく、それならばあの「宗易」、今の宗易の親ということにならないかといえそうです。〈甫庵信長記〉は
二回だけで、その一回は先の「宗易?」のものです。 
登場回数のきわめて少ない「宗易」がなぜ「千利休」なのかということは〈甫庵信長記〉にもう一回、年月日
不詳の次の
        『作物記(ルビ=つくものき)の事』
 という題目の記事で「千宗易」と「利休」がくっ付いて出てくるのでわかるだけです。

     『或る時、●作物(つくも)の茶入れ茄子の■袋を、千宗易利休居士を以って▲藤重に仰せ付け
     られし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずやと宣えば、▼松永、茶の
     会席にて一覧申しつる。★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』

 この太字の表記が一件だけあるのでそうなっています。 この記事のおかげで「千宗易」は「利休」だ
と一般に認められているのです。「惟任日向守光秀」という表記が一回だけあるので「明智十兵衛」や「惟任
日向守」があの明智光秀とわかるというのに似ています。すこしおかしいのは、〈甫庵信長記〉を偽書のような
扱いをしている今、それを採用してしまうわけにはいかないはずです。ここの記事は読めば読むほど
わかりにくくなってくるので迷わせられる文の典型といってよいと思います。それだけに重要なことが書いて
あるのかもしれないとも思えます。とにかく「千宗易利休」のフルネームがあるところで「つくも茄子」の
袋」が出てきました。

先の●「作物の茶入れ茄子」についてはテキスト〈甫庵信長記〉に脚注があり

    『「つくも」は珠光が九十九貫で手に入れ九十九髪(つくも髪)に因んだという。付藻茄子(つくも
     なすび)とも。唐物の大名物。この「つくも茄子」は本能寺の変で焼失したという

 となっていて、ここに「九十九貫」という話もあるので「つくも」はあとで名付けられたもので、作り物の茶入れと
いうのが原点であろうと思われます。ここで重要なことの一つは珠光が「つくも(袋)」を介して利休と松永に
接近したことだと思います。
 珠光のものは信長公が高値で買い付けており当時たいへん重視されたようです。珠光は「四畳半」
で「利休」と共通した印(しるし)をもっています。一休のあとを引いた人ですが一休は「宗純」というの
に珠光は「宗」が付いていません。宗珠という人が珠光とするか、珠光の子息とするか、とにかくこの人
の跡を襲ったのが「利休」かもしれません。
 利休と利久の二つの名前は利久@・利久Aの存在があるのではないかと思わせます。
利久が鉄砲屋与四郎で出てきたことはすでに述べましたがこれは多少政治性を帯びた接頭語だと
思います。いま知られている利久像は政治家であり茶人でもあるというものであり、秀吉時代の活動
に重点がおかれたものといえます。とにかく信長時代では余りに利久の登場がすくない、鉄砲屋
与四郎もあばいてみないと出てこなかったということで隠されたという印象がぬぐえません。

(4)「つくもかみ」 
〈信長公記〉の「つくもかみ」の脚注は、
    
   『付藻茄子。唐物の茶入れの一種に茄子茶入れがある。付藻茄子は大名物で九十九髪・松永
    茄子とよばれた。・・・・松永久秀から信長・秀吉・家康・漆工の藤重氏から岩崎家に伝えられて
    いる』

 となっています。これが松永から献上された記事が〈信長公記〉にあります。

〈信長公記〉、永禄十一年

   『松永弾正は我が朝無双のつくもかみ進上申され、今井宗久是も又隠れなき名物松嶋の壺、
   併に紹鴎茄子進献。』〈信長公記〉

 これが〈甫庵信長記〉の記事と食い違っているのが問題です。

   『松永弾正少弼は、天下無双の●吉光の脇差を捧げ奉る。又堺の今井宗久が松島と云う茶壺
    、詔鴎が菓子の画などを進献す。』〈甫庵信長記〉

 となっていて、まとめてみると次のようになりますが〈甫庵〉では「つくもかみ」が●に変えられています。

                   〈信長公記〉          〈甫庵信長記〉
    
        @進上者        松永弾正          松永弾正少弼          
        A進上もの       つくもかみ         ●吉光の脇差
        B制作者          ー              吉光
        
        C進上者        今井宗久          今井宗久  
        D進上もの    松嶋の壺・紹鴎茄子   ★ 松島と云う壺・詔鴎の菓子の絵など
        E作者など        紹鴎             詔鴎

 これがどちらが合っているか、ということですが、これに関して、次の記事のように〈甫庵信長記〉の
記事が合っていると著者本人がいっているから仕方がありません。
 〈信長公記〉元亀四年の記事で
   
     『(元亀四年、)正月八日、松永弾正濃州岐阜へ罷り下り、天下無双の名物不動国行進上
     候て御礼申し上げられ、巳前も代に隠れなき薬研(ヤゲン)藤四郎進上なり。
                     
 この「薬研藤四郎」こそ上の二つの●吉光のことで、甫庵の記事が合っているといっているわけです。
下線の不動国行の太刀にも天下無双の名物という形容がなされており、献上品としては適切な
ということができます。〈信長公記〉の方が〈甫庵信長記〉より信頼性があるということでいままで見られて
来ました。しかし操作性は〈甫庵信長記〉より上です。これで上を修正しますと、上の@〜EのうちDを
除いて一致する、Dも大して違っていない、〈信長公記〉の記事はしたがって操作以外の何ものでもなか
った、あとそれで何をいいたかったのかということを問題にすればよい、ということになるのでしょうか。
 ここで一つだけ重要なことが残っています。
Dの〈甫庵信長記〉の★の部分で「など」というのがありますから、ここに〈信長公記〉にある「茄子」が
入るのではないかという疑問です。そうならば、紹鴎茄子は両方にあることになり、松島と云う壺・詔鴎の
「絵と茄子」が進上されたといっている、〈信長公記〉とは「壺」という部分については問題がなくなる
ということになります。
 しかし、こういう「など」という一語から意味を読み取ろうとするのは無理だといわれるかもしれませんが、
例えば安土城で「余」という一語がたいへんな意味をもって出てきます。「十二間余」という「余」です。
   
    『安土山御天主の次第
    石くらの高さ十二間なり。
  一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
  二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、●高さ十六間ま中あり。』〈信長公記〉
 
 結論をいえば、安土城の七重の部分の高さ(総)は、〈信長公記〉の記事を積み上げると
               40間(72メートル)
になると思いますが、〈信長公記〉で十二間「余」というものがありましたので、これは「0.5間」になり
ます。つまり40.5間になります。40間と40・5間の違いは大きく
40.5間の場合は
      40・5×2=81    40・5=9×9÷2
 という算式が成り立ち、ここの9の2乗になり、 9・9は「つくも」

という考えが出てきます。とにかく「余」が生きた例がある以上、「など」も生きるわけです。
 基本的に仕組まれているという認識がないと、そんな細かいこといって我田引水だ、ということに
なりますので少し付記しますと、安土城の概要を短文で述べる場合「広さ」と「高さ」を述べなければ
ならないはずです。ここの●は何の高さをいっているのかわからない「高さ」が書いてないではない
か、という疑問がありますが、「高さ16間」というのはちゃんと一見して総が出せるようになっている
わけです。つまり

     @二重石くらという場合、それぞれの内訳がわからないということになるが、
      「二重石くらの上」(つまり二階部分)は ●16間真中あり 16×1/2=8間ある。
      したがって石くら12間の内訳は4間(土蔵)と8間になる。

     A ●16間間中あり   16+1/2=16.5間ある、0.5は生かされる。

     B ●は総の参考になる数字でもあるといっているはず
       「(二重)石くらの上」(つまり石がきの上から空へ伸びる部分)、16間×=32間
       総
       16間×2+12間(石がき部分)=44間+0.5間+0.5間=45間
       45間は90間÷2
       45間は81メートル、宣教師には90メートル×9として説明したかもしれない。

     C与えられた高さは16間と12間だけしかない、
         16間マイナス12間=4間×10=40間(10倍というのも使うケースあるかもしれない)
       4間は最大公約数といった方が学問的かもしれない。・・・
       両方同じ人が書いている、太田和泉と甫庵@である。この場合与えられた高さ数字は
       16間と12間と12間の三つ、16+12+12=40

 ということでしょう。
今、「二分の一」とか 「一加二分の一」とか、先ほどの「二乗」とか、16は4の二乗とか「二」の流
れの中にいるのですから 、総の場合には二倍してもよいということになるはずです。勝手に
二倍するなど学問的でないというとそれは説得力があるから、そこでとまってしまうのでしょうが、太田
牛一にいわせると、城の素描に高さも述べない人がどこにいるのですか、と質問されそうです。これは
蘇峰など、信用がおけるとベタ誉めしている人もいるので、そういえると思います。
 桶狭間の戦いでも肝心のところの数字も問題がないようにされているようです。
織田信長が動員した人数は3000というのは願文にもあり林佐渡守もいっている(〈甫庵〉)から確定
していることですが今川の軍勢があいまいになったままです。これは致命的といってよいことです。
45、000というのは〈信長公記〉〈甫庵信長記〉にあるから確定といってよいのですが、織田3、000
との対比では不自然で、まあ話半分で二分の一くらい22、500くらいが適当かといったところでしょう。
これは〈信長公記〉で「45、000」という数字が出たすぐあとに意味不明語句があるので、それを真剣に
考えないと話が進まないということは感じられます。

  『今川義元・・・四万五千の大軍を靡かし、それも御用に立たず。千が一の信長、わずか二千に
   及ぶ人数に叩きたてられ・・』〈信長公記〉
 があります。これは前著〈もう一つの桶狭間〉では
       「千をはじめとする信長の二千{計三千}に及ぶ人数」
と訳しています。いろいろあって、
       「千を一として、(一から)二千に及ぶ人数(計三千)」、
       「信長含む千(と)、二千に及ぶ人数」
とかも考えられましたが、必要があって「はじめとする」にしました。すなわち今川の戦死者は
『頸数三千余あり。』と書いてあるのに織田のは書いていないのでここでいっているはずだというので、
       「(死者)千をはじめとする、信長の二千{計三千}に及ぶ人数」
としましたが、要は三千が決まっているので千と二千に分けよ、といっているのであろうと推測
したわけです。今なら文章異動ができますよということで
         「信長わずかの人数」と「千が一、二千に及ぶ」
として「千が一(及ばず)、二千に及ぶ信長わずかの人数」とするところです。つまり
「999+2000」にすると三分の一分、と三分の二分に分けて書いたということがわかることになります。
「(及ばず)」をなぜいれるかということですが夕庵は
      『彼は多勢四万有余に及び、此は無勢僅に三千にだも足らず。』〈甫庵〉
と書き、林佐渡守は
  『義元は四万五千の着到と聞こえたり、味方の勢は僅三千には過ぐべからず、』〈甫庵〉
というように「不足」、つまり、届かない、及ばない、といっていますので、そういうのも反映させたく
なります。
 要は三分の一というものがあるから、織田の死者は1000としたわけです。これがたまたまか仕組
まれたか、今川の死者の三分の一だったわけです。
 この意味不明語句は、とにかく「四万五千の大軍を靡かし、」というもののすぐあとだから、死者
の数よりもまず先に
          45000×1/3=15000
 が織田の3000に対応するものだということを打ち出したと思われます。それを使うべきではない
か、数などいろいろ見方があってしかるべし、というようには書いていないのではないかと思います。
筆者は、三分割し
   戦闘員15000、非戦闘員15000として計30000
としています。残り15000は非戦闘員が旗を二つもっていた、したがって水増しとして15000があった
、織田がそれを逆用した、という解釈にしました。最後

  「今川の首の注文(記帳)」・・・「二千五百余とぞ記しける。」〈甫庵〉
  「頸数三千余あり。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      〈信長公記〉

 とう差「五百」ということになると、数に入れない非戦闘員などのことが全体ではカウントには入れ
ないといけないと思います。1:2は、ほかのことをいっているのかもしれませんが、一般に関心の深い
軍勢という場合の説明としては、15000と取れるように著者がわかりにくい語句を入れたとみるべきかと
思います。三分の一づつの三分法にして残りを旗数としたのは、どうだったかと思いますが、三分の
一が著者の念頭にあったのは間違いないような気がします。

 一般に数字には注意が払われ、途中の両書間の軍勢の不一致も意識されたものがあると思います。
熱田での人数〈甫庵〉では
     「早や雑兵一千余騎、方々より馳せ加わりける。」
 となり〈信長公記〉では
     「馬上六騎・雑兵弐百ばかりなり。」
です。これは一見すれば「雑兵」同士の対比ですから、「余」が二百といっているかもしれないととれ
ますが、そんことはいえない、といわれるのは目に見えています。
 これは、はじめの「主従六騎(信長除く五騎)」・「馬上六騎」、つまり、よく使われる「五・六人」と
いうものが念頭にあっての話しです。蕪村に
     鳥羽殿(とばどの)へ五六騎いそぐ野分(のわき)かな
という句があります。強い風が吹いてくる中、三々五々鳥羽殿へ急ぐ武者、風雲急をつげています
が、これは五六騎を、5・6騎だと解釈して誰も疑問を感じません。が、義経記では土佐の坊が義経
を討伐にいくのは五十六人で、そういうのもありますから、蕪村の句も中に「・」が入っていないから
56騎だといわれても文句はいえません。56人にするとまた感じが違ってきます。
こういうことから5・6人が清洲の城を飛び出した、といっても、現実はもっといたはずだ、武者が外
で待機していてたちまち5〜60騎になって走った、といわれるとそちらの方が合っているでしょう。
10倍されることが著者の頭に中で予想されていたかもしれないわけです。
上の「六騎」「弐百」を基数と考えれば
    熱田で一千余騎〈甫庵〉というのは、・六騎の 「」×200=1000
    熱田で弐百〈信長公記〉というのは、五・騎の 「」×200=1200
となる、したがって、実数は雑兵1200騎が熱田に集まったということでになります。つまり〈甫庵〉
の「余」というのは、「200」だといっているようです。
 馬上と雑兵の割合もいっていると思われます。このとき馬上は36騎で、雑兵1200ですからこれは
計画的に集まったといえるのではないかと思われますが、こういう200倍もあるというのは安土城の
理解においても桶狭間から用意されていたといえます。またこれらが本能寺へと積み上げられていく
ということとなると思われます。
 数字は意識過剰ぐらいに組み入れられているのが日本史の文献の特徴です。三分法でいえば神武
天皇の年齢127歳など考えられないことをいう、神話だからそんなもんだというようなことでそのままに
してあります。わかりやすく説明しないようにしておくというのは誰の了解でそうしているのかなどいうと、
そんなもの誰も知らないというでしょう。分りにくくしようという合意は戦前を引き継いでいることになり
ます。神武天皇の年齢を3で割れば人間の年に近づいてきます。すると誰かを反映しているのでは
ないかなどグーンと現在に喜ばれる科学的な読み方ができるようになってきます。・・・・

 仕組まれているから安心して謎ときを楽しめばよいのでしょう。だから本稿などのいうことは合っていると
いっているわけではなく、読みが合っていそうだ、読みは間違い、不十分かもしれない、ということで
見ていただくことでよいと思います。適当に書き流したというものではないのはもう確実なことです。

 「など」を取り上げることで脱線しましたが、    
そうとすれば、両方で一致して確実な、この「詔鴎茄子」については全然説明がないので、(「松嶋」
については説明がある、後述。)、これに魂を注入するという目的で「つくも茄子」の物語が作られた
ということもいえそうです。まず上のものは次のようにかわります。吉光の脇差と紹鴎茄子が左右に出
ます。

        修正後           〈信長公記〉          〈甫庵信長記〉
    
        @進上者        松永弾正          松永弾正少弼          
        A進上もの      ●吉光の脇差(つくもなす) ●吉光の脇差
        B制作者         吉光    (−−−)   吉光
        
        C進上者        今井宗久          今井宗久  
        D進上もの    松嶋の壺・紹鴎茄子     ★松島と云う壺・紹鴎茄子
                              
            詔鴎の菓子の絵
        E作者など        紹鴎             詔鴎

 こうすると、一見してたいへん重要ななことが出てきます。つまり「武野詔鴎」という利久の師のように
語られている「宗」の系譜からはずれた有名な茶人は、陶芸に造詣が深い上に、絵にも堪能な人で
ある、また「つくもかみ」が消えて、それが紹鴎茄子ということで〈甫庵〉で再生されたような感じを受ける
、その上「つくも茄子」というのは「松永茄子」といわれているから、ひょっとして「武野詔鴎」という号
を持つ人は、松永弾正その人であるかもしれない、また、今井宗久がそれを献上しているのだから
「今井」は松永弾正の家の人、つまり松永出身ということができるということなどが出てきます。これが
そういえるのかというのがこれからのことです。

(5)松永二人
 上の修正後のものをみてもう一つ気づくことがあります。●に見るように進上する物件を同じにして
しまうと進上者を同じにしなければならない、「松永弾正」と「松永弾正少弼」の違いがやはり目に付いて
きます。卑弥呼と卑弥弓呼とは同類項だが、表記が違うから別人とみる方がよさそうだ、と感ずるのと
同じです。そうすると今井宗久はどうか、ということが気になってきます。中身をみますと、
 今井宗久は表記は同じですが、これは
          「松嶋の壺」です
 といって進上する人と、
          「松島と云う壺」です
といって進上する人は、物件に対する温度差というものがありそうです。
「しょうおう物」についても、「詔鴎」と「紹鴎」で合ってる方はどちらか、と質問すると、なんとなく左側の
松永弾正・今井宗久のセットになった方がはっきり答えそうな気がする・・・というように二人いそうだ、
それが前提となった語り口をしていくつもりのようだというのが感ぜられるものです。表記で見方を変えれば
  左
   『松永弾正・・・・・・・・、今井宗久是も又・・・・・・・・紹鴎茄子進献。』〈信長公記〉
  右
   『松永弾正少弼は、・・・又堺今井宗久・・・・詔鴎が菓子の画・・。』〈甫庵信長記〉

 となっていて、「是も又」となっている、上の方は二人のいる場所が接近しているところにいる感じが
します。下の方は堺の今井とことわっています。
この「二人かもしれない」ということがテーマになっていそうだというのは、〈信長公記〉〈甫庵信長記〉ともに
このあと判官義経の記事を載せているのでわかります。
 誰かが献上した源義経(ただし〈信長公記〉は「判官」となっている)の鐙のことを書いているから、著者が
お互いに相手の書を読みあってそうなったといえそうです。義経の鐙の説明は、(文の鉄拐山は一の谷の山)

    〈信長公記〉  『往昔(むかし)判官殿(ほうがんどの)一谷鉄皆(テツカイ)がガケ(今ない漢字、
              石篇に賤の右側の字)』
    〈甫庵信長記〉 『寿永の古、源義経、一の谷、鉄拐が峯』  

 となっていて重要なところは「源義経」と「判官」の差異で、同時二人、一身同体で行動してはいるが
中身は特徴が違う個体二人がある、というものです(〈吾妻鏡〉)。義経の一時期の行動は「波多野義常」
「山本義経」「しずか」などで語られる以外に、九条の「判官」との二人があります。太田和泉守が
〈信長公記〉に依って、古典の読み方をちゃんと教えてくれているのです。相違とか、変わった現象を
おかしいとしてとりあげる自然科学に対し、人文科学とかいって科学が売り物の近代的歴史学とか
いうのは、そんな違いは「間違いの違い」だ、史家がたよりない、取り上げるのは学問的でないと意識的
にか目をつぶっている、その違いが結果鮮明に出てくるのです。共通で括って法則を打ち建て、共通
認識をもつ、そこから説明のつかないことが出てきた、それをおかしい、例外だとかいって放ってたら、
法則とか共通の認識は検証されないことになるでしょう。
 まず、これは進上物が違うのだから、また表記が違うのだから「松永二人」ということを匂わせて
いると取るべきかと思います。ここの「詔鴎」も、先の「紹鴎」と違っています。これは「松永」が違うから
必然的に違うという感じで、表記が変えられたと取れます。松永二人につれて出てきたもので「詔鴎」
をよく調べるようにいう暗示のようなものがありますが、松永の別名が詔鴎というのかどうかが問題です。
ここは〈両書〉とも、「松永」と「今井」と「紹鴎」が主語ではない、主語は松永と今井であり、今井が「松島」
と「詔鴎もの」を進上したということでしょう。
 ここのところ表記の違いは見逃すことはできないところです。

○ 松永二人ということで、「松永弾正少弼」・「松永弾正」がある。
○今井二人ということで「紹鴎茄子」を献じた「今井」、菓子の絵などを献じた「今井」がある
○紹鴎二人ということで「紹鴎」と「詔鴎」がある。松永か今井の違いにつながっている。
○「義経」と「判官」が使い分けられている。

これが拡大されて、「今井」が「松永」という表記になっていそうだというのが「作物記」〈甫庵信長記〉
で出てきます。「作物記」というのは本体ではなく「袋」の物語です。


(6)「つくもなす」の袋 
 「つくも茄子」の説明に、今までも引用してきた
       『作物記(ルビ=つくものき)の事』
 と題する一節が〈甫庵〉にあり、この長い文を読まないと「つくも茄子」のことが語れないのが辛いところ
です。なんのためにこれが書かれたか、よくわからないものですが、冒頭の「葉茶壷」を調べようとしなけ
ればここを本気で読むことにはなりにくいものです。
 
   再掲   『作物記(ルビ=つくものき)の事』
      或る時、●作物(つくも)の茶入れ茄子の■袋を、千宗易利休居士を以って▲藤重に仰せ付け
     られし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずやと宣えば、▼松永、茶の
     会席にて一覧申しつる。★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』

 この文は主語が省略されているのでわかりにくく、「仰せられし」「宣えば」の主語は別ではないか
と思われます。直訳してみると

  「或る時、(松永弾正少弼?)は“つくも”と名付けられる茶入れ茄子の袋をつくるように千の利休を
  通して藤重に仰せられた、そのときに惟高和尚がつくも記という讃を書いた。それがいまどうなっている
  か(信長公?)が聞かれた。昔▼松永の茶会席で見たことがある(松永が茶会席で皆に披露したこと
  がある)。★それは信貴山で焼けてしまった。その写しがあるようなのでお見せしようと(松永が?)
  堺から取り寄せ奉った。」

というようなことになると思いますが、「つくも茄子」の袋の話が「壺」を語る、壺に箔をつけるという
のでしょう。
 わかりにくいので訳をいれましたが、原文で「松永」が一回しかないのに、訳の方で三回もいれまし
た。合っているかどうかわからないが主語などをいれないとわからないのでこうした、こうなったという
ことです。
この記の中のあとの方で「松永弾正少弼」が出てきます。この人物は
       「天文丙申」(1536)「法華の乱」
 
 に出てきて、これを収拾し都を静謐にした、ということが書かれています。古い時代(つまり桶狭間の
戦いの24年前、織田信長は3歳のときの話)の人なので、ここの▼松永という人がその人かどうか
が一つ問題となります。訳で、(松永弾正少弼?)を挿入しましたが、これが太田和泉守の9歳くらい
のころ活躍した上の人物のつもりです。
 それからいうと▼松永は、下線★があるので、(★を「昔▼松永」の前に移動してみるとわかりやすい)
時代がかなり下ったとき(天文丙申から信貴山城落城までは41年の時を経ている)の人の感じで、
子息の「松永弾正」といえると思います。、とにかく信貴山で松永は滅びたので、堺から写しを取り寄せ
たという人を(「松永が?」)といれましたが、そうすると★はより取り寄せ奉った人の発言の一部と
とれますから、すなわち松永茶会席のあと★になったわけです。奉った時は「松永」は信貴山の城で
亡くなっており、そのときは故人であったはずです。あの「松永」が取り寄せたのではないのは明らかで
す。まあ★は著者の注記であろうというのがいまの解釈でしょう。 
これは「松永」Aが滅んだあとのことですから、今井」かもしれないとなります。
とにかく与えられた人名が「松永」と得体のしれない「藤重」しか使えないのでこういう読みになります。
先に〈甫庵〉が

  『松永弾正少弼は、・・・又堺の今井宗久・・・・詔鴎が菓子の画・・。』〈甫庵信長記〉

 と書いていましたので、「」の「松永」といえば今井宗久なので松永は今井とも読めるということに
なり、ここは二人が重なった、といえます。

この「作物記」には「つくもなす」という語源というのものも述べられています。
  ●のルビ「つくも」といえば「九十九」というのは知られていることですが、このように「作物」のルビ
で出てくると、そこまでの意味はないだろうと思ってしまいます。つまり「作物」“つくりもの”の読み方が
「つくも」だといっているので(つくりもの)をもじったものが「つくも」というようになったといわれるとそれも
あるのかもしれないと思います。その意味がもう一つ付加されて「九十九」というのもそれだというのは、あとに
続く・・・・・・長い文のなかでわかることです。すなわち

      『作物(つくも)は百に一、数の事、欠くこと有るを以って、古歌の意(こころ)に本づけて、
      以って作物(つくもの)と名づく。◎名を易ゆれども異論なき者乎。』〈甫庵信長記〉

 という文があります。ここは「つくも」と「つくもの」が逆になっているという感じで「九十九」を古から先に
引き出してきて、作物(つくもの)は九十九となるという感じです。これなら吉光の太刀も「つくものの太刀」
といえると思いますがそれはとにかく、「つくも」は「つくもの」でもあり「九十九」でもあるということかと思わ
れます。
ただ100ー(マイナス)1=99のことを頭に入れて、この文が書かれているということは一ついえると思います。
ここの古歌というのは、脚注では

      『古歌の九十九髪は「伊勢物語」の歌
      「百年(ももとせ)にひととせ足らぬつくも髪われを恋うらし面影に見ゆ」この歌からすればつくも
     髪は百から一をひいた白で白髪の意。』

 とされており、百引く一=白が「つくも」で「つくも髪」は白髪の意味で、これは昔から「百人一首」の
100引く1などにももつながる別の意味があります。
 ただここでいっていることは◎が絡んでいるので単に書き流しのルビを付けたようにみえるものとは
違う、深い意味がありそうです。とにかく ◎を付けた太字の部分は、前にでたように「かえる」という意味
があり、この場合◎の「名を易える」ということは一つは「つくも」は「作物(つくもの)」と替えても異論なきか
ということをいっていると取れます。(つくもの)=(つくも)という「の」という一字が替っているだけで大きな
意味の違いがあります。
 もう一つが「宗易」という名のこともあるでしょうがこれは既述しました。
 「つくも」と「甚九郎」のセットは全く知られていないことではありますが、「甚九郎」が「利休」の高弟
であり、当時有名な茶人ということですから、十二分にありうることです。
一方「つくも」と「松永」はよく知られた関係があります。 「つくも茄子(付藻茄子)」は「松永茄子」と
いわれているようです。ここの人名に
       利休と宗易と松永(松永茄子)
が出てきたというのも、「助次郎」「葉茶壷」につながるものを表わしていると思います。これはまた
利休と松永の接近も示しています。

ここで無視できないのが「袋」を介して「松永」と「藤重」が接近してくることです。▲の藤重というのは
脚注では

       『藤重は奈良の漆工。』

 とされております。これはそのとおりかもしれませんが、完全な一匹狼として孤立した、前後に脈絡のない
人物です。「藤」と「重」から受ける重要人物という感じがないともいえない、
     「藤重」の「藤」は「藤九郎とか「後藤」とかの「藤」、
     「重」は「重政」「重正」、・・・
 の一字ですから太田和泉守の匂いが感ぜられます。また惟高和尚の「惟」も「惟任」の一字ですから
ここへ割り込んできたのかもしれないのです。先ほどの袋の記事の読みでは、「藤重」がこの製作者
としましたが、「作物記」の出だしがぎこちないようでもう一つの読み方もできそうです。すなわち■の袋は▲
でなく利休が製作者とすると、▲が移動することになります。

   再掲  原文
     『或る時●作物(つくも)の■茶入れ茄子の袋を、千宗易利休居士を以って
     ▲藤重に仰せ付けられし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずや
     と(信長公が)宣えば、▼松永、茶の会席にて一覧申しつる。
     ★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして(松永が)堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』〈甫庵信長記〉
 
ここで「汝しらずや」と藤重にいったのは信長公で
入れ替え文
     『或る時、、(松永@)が●作物(つくも)の■茶入れ茄子の袋を、千宗易利休居士を以って
     仰せ付けられし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずやと
     (信長公が)▲藤重に宣えば、▼松永、茶の会席にて一覧申しつる。
     ★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして(藤重が)堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』〈甫庵信長記〉

 とも解せられます。
登場人物「松永ー利休ー信長という人の流れからみれば、「藤重」は大ものの一人という感じです
から、太田和泉守を全体の行動の中心にして読めば本人の意に適ってよいかもしれない、というの
が入れ替え文になりますが、これでも文が納まっている感じはします。「袋」の話を通して、本体を説明
したり色づけたりするのですから、表面に出てきた「惟高」は著者なのでこれは別として
       「利休」「松永」「藤重」、
の刻印のあるものが、「つくもかみ」「つくも茄子」といえると云っているのではないか、と思われます。
ネットによれば「藤重」は「藤重藤元」というようです。
    再掲   
    〈信長公記〉の「つくもかみ」の脚注、『付藻茄子。唐物の茶入れの一種に茄子茶入れがある。
    付藻茄子は大名物で九十九髪・松永茄子とよばれた。・・・・松永久秀から信長・秀吉・家康
    ・漆工の藤重氏から岩崎家に伝えられている』

という一般的な見解のものは、この袋の話の「藤重」が取り込まれたものとなっていると思われます。
「つくも茄子」本体は
   「この「つくも茄子」は本能寺の変で焼失したという』〈テキスト〈甫庵信長記〉脚注〉
があり、「袋」も同じであったと思われます。(〈作物記〉は信貴山で焼失)。しかるに 「松永から信長・
秀吉・家康・藤重」と渡ったという話は、ここに九十九髪(珠光の九十九貫からくる)という妖しい光を
放つ壺が 「松永から信長・秀吉・家康・藤重」まで流れたというこ一つ考えのある物語として生み出され
たということはいえると思います。と同時に藤重が割り込んだというのが重要と思います。「藤重藤元」
という名工の家の存在を利用した「藤重」といえるのでしょう。
 ここで、千利休宗易居士の一部「宗易」というのが「佐久間」の甚九郎で「あの葉茶壷」と絡んだといえ
そうです。
 
 重要な役割を演じてきた「今井」について先走っていえば、今井宗と千利は「」が共通で表記
がダブっているような感じがします。
 つまり「宗易」という、かわりうる「宗」を意識すると、
          「今井宗久」は「今井宗易」ともなり「千宗易利」ともなり、
          「千利久」は「宗」の系譜のなかにいるので「宗」を使えば「宗
と名乗っても全く問題はないはずです。それをわかりにくく「宗易」としたといえないこともないと思い
ます。
 また〈クロニック戦国史=講談社〉によれば今井宗久の名前に「久秀」というのがあります。
松永久秀という名前の「久秀」は、今井宗久のものと同じになります。が今井宗久は別の名前を
もっており当然同一というわけにはいかないと思います。すなわち宗久は松永の出身ということをいっていることも
十分考えられるところです。年代でいえば、あの古い時代の松永の子息といったところに位置すると
いえます。の通り「つくも茄子」は本能寺で焼失となっていますが、松嶋の壺も同じことになっている
ようです。、は川角太閤記にも出ています。

(5)「つくも」の顛末
もう一つ「つくもがみ」のことを書いている川角太閤記で確認しておきます。
 前出の下線★の「其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。」というのがあり、この「信貴の城にして」の
意味は脚注では

    『松永久秀が謀叛して天正五年十月に自殺滅亡した時、平蜘蛛の釜とともに作物記
    失われたのであろう。』

とされています。松永の城落城のときにこの「作物記」が失われたのは前出の★の文があるから
間違いなさそうです。したがって信長公が質問したときは、信貴山の落城よりあとのことであるのも
確実です。
信長公が「つくも茄子」に関心をもったのは、「つくも茄子」を手にしたときではないかと思われます。
なぜこういえるかということですが〈川角〉では、落城のとき松永久秀の手もとに九十九髪があったと
いっています。また松永は最後にあたって、九十九髪は信長に渡してもよいといっています(〈川勝太閤記〉)。

    『それで、九十九髪をば安土の城へ進上し、ひら蜘蛛の釜と我らの首と二つは信長殿のお目
    にかけますまい』〈川勝太閤記〉

とあり、九十九髪は信長に渡っていなかったわけです。「つくもかみ」が早い段階で進上されたとする
〈信長公記〉の記事は〈川角〉でもおかしいことになります。 見直した結果、あのとき吉光の脇差だった
から「つくもなす」は渡っていないということについては合っているわけです。しかし信長に渡す意思
があったということが確認できました。
 ただこの発言の相手が「佐久間右衛門」です。つまり松永の最後にあたって織田と松永の中にたったの
のは「太田和泉守」といえます。これは、冒頭の「乾助次郎」を葉茶壺に結びつける(佐久間甚九郎)
というものを暗示している、「つくもかみ」に「佐久間」が介入しているといえるものです。次の文にあるように
結果は信長に渡りました

。  『この九十九髪は、昔九十九の石の田地で買い取ったというからと承っております。信長殿が
    ご秘蔵になり
、御最期のときに本能寺で焼き払われ申したということであります。』〈同上〉

   結局、松永から、「つくもかみ」ではなく「吉光の脇差」が献上され、今井から
   「松島と云う壺」・「紹鴎菓子の絵」・「など」(紹鴎茄子)。」

という物件が献上されたということでした。こういうことで今わかっていそうなことは
  ○脚注などから「つくもなす」は「松永茄子」というものである。これは松永から信長に献上された
   ということになっている。〈信長公記〉
  ○今井宗久が献上したのは「松嶋の壺」と「紹鴎茄子」である。
これが〈甫庵信長記〉では
  ○松永は、吉光脇差が献上された。
  ○今井は「松島と云う壺」と「紹鴎の菓子の絵」と「(などという品)紹鴎茄子」である。
という食い違いから、一応流布された〈甫庵〉が合っているとみなければならない。
  ○「つくもかみ」は九十九髪で今どれだかわからないが「松島」は独立した名前があるのでこれが
   つくもかみという可能性は少ない、「紹鴎」が誰だかわからないので、これを「つくもかみ」というの
   か。
  ○茄子とよばれていることが松永、今井とかなりの関係がありそうということであつた。
  〈川角〉からみると「つくもかみ」はあのとき信長に渡っていないということはわかった、どうやら
  このときに佐久間を仲介にして渡ったのではないかということもわかってきた。

というようなことですが、〈信長公記〉は、はじめの話をその後も頑強に通しています。
あの「つくもかみ」献上の記事はかなり前(永禄十一年)ですが、天正三年にはあの記事は合っている
といいたいのか、次の記事で出てきます。

      『十月廿八日、京・堺の数寄仕候者十七人召し寄せられ、妙覚寺にて御茶下され候。
       御座敷の飾
     一、御床に晩鐘、三日月の御壺
     一、違棚に置物、七台(ななつのだい)白天目(しろてんもく)赤の盆につくもかみ
     一、下には・・・・・おとごぜの御釜、
     一、松嶋の御壺の御茶
     一、茶道は宗易、各々生前の思い出、忝き題目なり。
       巳上。  』〈信長公記〉

 で「つくもかみ」を入手している感じですが、その文字だけはたしかにありますが、盆の上に載った
「つくもかみ」です。下線については「作物記」に解説があり、永禄元年、

      『偶々宝壺を賓持(ひんじ=大切にささげ持って)して至る者あり、副うるに
      七宝の台{七台なり、}波璃(はり)の盞(さん){天目、}を以ってす。』〈甫庵信長記〉
 
 とあるので「副えられた」ものです。つまりここの宝壺の、添え物が
      「七宝の台{七台なり、}波璃(はり)の盞(さん){天目、}」

ですから、添え物分はありますが、宝壺はないようです。これが〈信長公記〉の記事に「つくもかみ」が
入れられたことに繋がっています。〈甫庵信長記〉の注{}が、〈信長公記〉の「つくもかみ」の前
の「内」につながるからそういえそうです。
 〈信長公記〉の赤の盆に「つくもかみ」というのがおかしいのでなんとなく、そのあとの

    「一、赤の盆に、松嶋の御壺の御茶、」
     一、下には・・・・おとごぜの御釜
     一、つくもかみ
でないとあわない感じがします。行き場がない「つくもかみ」を無理に入れた感じです。
なぜそうしたかというのは「作物記」にある、この宝壺が「つくもなす」を指すといっている、
利休と関連つけたいというようなことかもしれませんが、とにかく原文の位置ではおかしいので
どこへ入れるとよいのか惑わせるというのが趣旨かもしれません。つまり
    「三日月の御壺」(つくもかみ
    「松嶋(つくもかみ)御壺の御茶」
 で納めるとよいのか
    「違棚に置物、つくもかみ七台(ななつのだい)白天目(しろてんもく)」
となるのか、あとで「御釜」も「茄子」を指すことが出てくるので
    「おとごぜの御釜つくもかみ)」

 とすることになるのか、この段階ではなんともいえない、そこで忘れないように出してきたと思われます。
なにかとつながりを意識しているのは、この文の17人です。
 上の17人というのも著者にはわかっていると思いますが、もし他の文献を見てもわからなかったら
〈信長公記〉の天正六年の、御茶会のメンバーが17人になりますのでそれをいっているととるしかない
かもしれません。
   信忠、秀吉、二位、永岡、林、長谷川、惟任、滝河、荒木、市橋、長谷河、福富、矢部、大津、
   大塚、万見、宮内卿、
 17人となりますが、三年後のこの天正6年とは情況が違うかもしれませんのでほかの資料にでて
いるのか、この天正六年のときには「右に松島、左に三日月」となっており、
         「つくもかみ」
は見当たりません。ここでまた否定したといえるのでしょうか。
  川角太閤記は寶物についての松永の考えを書いていると思います。川角太閤記は甫庵信長記
と同様に市販されたものですから重要と思います。太田和泉守というのが〈信長公記〉の唯一の著者
表示ですが、「太田和泉」が「太田牛一」とわかるのは〈甫庵信長記〉であり、「太田和泉」が「太田
又助」であるのは〈川角太閤記〉でわかるというほどのものです。

 平蜘蛛が信貴山で松永によって砕かれ、これは松永久秀が「平蜘蛛の釜と我らの首」とは信長に
渡さないといってしたことです。「我らの首」が対となっているのは自分のものは自分であの世へもって
いくという信念を述べたもので「平蜘蛛」が自分の作品だったのでこうしたのではないかということは
既述ですが、 これは坂本城落城のとき、明智左馬助が光秀の刀を信長公から貰った物ではない、本人が
探し出してきてよきものに仕立てた、私物として寄せ手に渡さなかった話と同じです。川勝太閤記
では
   『「松永殿の首とひら蜘蛛の釜は見つからなかったことと、この脇差の顛末がよく似ている」と人々
   が話し合ったと承りました。』〈川勝太閤記〉
 となっています。
これからいえばすでに松永は大芸術家として有名だったのではないかと思います。とにかく
 松嶋の壺も本能寺、九十九髪も本能寺ですこしおかしい、両者が重なっていそうな気もするし、
別のような感じもありますが、これはどちらも本能寺では失なわれていないようです。いずれにしても
これは著者も認めているようです。
 「つくもかみ」は信貴山の落城の時太田牛一を通して織田の手に渡ったのではないかということで
すがここで少しペンデングして松島の壺の方に話を移したいと思います。松嶋は「つくもかみ」では
ないことと、「詔鴎茄子」が「つくもかみ」ではない、ということを明らかにしておく必要があるからです。
また松永を語る重要な葉茶壷として「松島」が使われ、たいへんな操作があると思われるので少し
そちらの方へまわってあとでまた「つくもかみ」へ戻ってくることにします。
大脱線しますが何を述べようとしているかは「佐久間甚九郎」のもっているは「葉茶壷」に行き着くことが
がテーマであることはかわりません。


(6)松島の壺と紹茄子鴎


 「松嶋の壺」について〈信長公記〉に脚注があります。

    『大名物。葉茶壷の一種。はじめ東山御物(ひがしやまごもつ)。三好宗三から子の右衛門
     大夫・武野紹鴎(たけのじょうおう)・今井宗久に伝わり、本能寺の変で焼失。』

 となっています。参考まで 〈信長公記〉の「つくもかみ」の脚注を再掲しますとは、
    
   『付藻茄子。唐物の茶入れの一種に茄子茶入れがある。付藻茄子は大名物で九十九髪・松永
    茄子とよばれた。・・・・松永久秀から信長・秀吉・家康・漆工の藤重氏から岩崎家に伝えられて
    いる』

となっており、一見したところ別物といってよいのですが、例えば川角は、「つくもかみ」は本能寺で
焼失といっていますから、最期は似ている、また上のは〈信長公記〉に
    『天王寺に、定番として、松永弾正・子息右衛門佐置かれ』
 となっているように、「右衛門」は松永ですから、を松永とみると、別物かもしれないが「似ている」
といえます。まあ二つは「似て非なり」というところです。脚注の「右衛門」で松永の右衛門と取るのは
おかしいということはありますが、ここにも今井宗久や詔鴎が出てきて、今まで〈信長公記〉〈甫庵信長記〉が
示してきた、松島の壺と今井の関係、「是又」などの語句を用いた「今井と松永」との接近は無視できない
もので、松永につなげるのが読みの筋だと思われます。

 この脚注の「松嶋の壺」の顛末は「山上宗二」の残した次の記事がもとになっているようです。
 ネットFTEA講座 茶壷その3で山上宗二記が引用され、

    『松島は中比(ごろ)三好宗三にありその後宗三子右衛門太夫紹鴎へ売る、その後
    に宗久(今井)所持して信長公へ上る、総見院殿(信長)の御代に入(火に入)失る也。』

 というのが載っています。これは先ほどの脚注で「松嶋の壺」についてされた説明と同じですが、
違っているのは「右衛門太夫紹鴎」と引っ付いているのでそれが少し気になることです。
 「右衛門太夫」=「紹鴎」といっているのか、「右衛門太夫」が「紹鴎」へ売った、といっているのか
よくわかりません。また売るというのは他人行儀であるので、宗三と右衛門太夫の間が疎遠な関係
つまり子といいながら、親子でないといってるようにとれます。結論では「山上」が煙にまいてわかり
にくくしたようで、〈甫庵信長記〉〈信長公記〉の記述を追いながら推測してきたようにで
  
  三好宗三(三好政長)−−右衛門太夫紹鴎

であろうと思われます。

これでみてもわかりますように「松嶋の壺」にも 「紹鴎」が絡んでくるようです。つまり 「紹鴎」を経過した
わけですから、「松島の壺」と「紹鴎茄子」は同じといわれても文句はいえません。これは残念ながら
「松嶋の壺」と 「紹鴎茄子」を併記していた〈信長公記〉の記事とは合いません。
〈信長公記〉の記事では別物と取れます。
〈甫庵〉の記事でも、「など」というのを勘定にいれて読みましたので、
       「松島と云う壺」・「紹鴎菓子の絵」と「紹鴎茄子」
 ということになりましたので、これとも合いません。
 「松嶋の壺」と「詔鴎茄子」は松永からみであり献上者今井ということですから、なんとなく似ている
「松嶋」は壺の形状からくる壺の呼称といってよい、「詔鴎茄子」は所持した人が述べられている、と
いってよく、「松嶋の壺」を、「詔鴎」がもっていたから同じものになりそうだというのは、一ついえること
です。
 次にいま〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉との間が合っていません。〈甫庵〉にある「など」を勘定にいれ
ましたので点数から違っています。

   〈信長公記〉      「松嶋の壺」「紹鴎茄子」・・・・・・・・・・2点
   〈甫庵信長記〉     「松嶋と云う壺」「紹鴎の菓子の絵」「紹鴎茄子」・・・・・3点
                                          ‖
                                        「など」
 
これでいえば〈信長公記〉の組み合わせが、松島に詔鴎がからんでいて、しかも今井が献上していますから、
同じものかもしれない、おまけに「松永」から「つくもかみ」というものが献上されたというよけいな
ものが入っていますから、茄子過剰という感じで、やや不自然です。
 〈甫庵〉では、はじめ「松島」と「紹鴎の菓子の絵」となっていました。
この組み合わせは、「茄子」は曰くつきの伝来品、絵は「紹鴎」の自作かもしれない、ということで進上
品としては均衡はとれている、また〈甫庵〉が一般的に知られるものですから〈甫庵〉を重視せねばなら
ない、ということになりますと〈信長公記〉に操作があると見なければならなくなります。
 結局、 「詔鴎茄子」は「茄子」というのが〈信長公記〉の作りごとで、実際は「絵」と書きたかったと
思われます。
〈甫庵〉が合っているといっても、点数の矛盾をどう解決するのかという問題が残っています。
〈甫庵〉では紹鴎の「菓子の絵など」の「など」というのを読みに入れたので三点というのは確実で
す。「など」は「等々」だから他にいろいろとあるというのではなく「など」という品物というのが合って
いると思われるので、「など」をはずして 「松嶋と云う壺」と「菓子の絵」と読もうというのは無理です。
 これは嵌め込んで読むということがいるのであろうと思われます。「云う」が利いてきます。
 
      〈甫庵信長記〉     「松嶋と云う★壺」「紹鴎の菓子の絵」「紹鴎茄子」・・・三点
は太字を★に嵌め込むと
      〈甫庵信長記〉     「松嶋と云う紹鴎茄子壺」「紹鴎の菓子の絵」・・・・二点

となります。「紹鴎茄子」というのは〈信長公記〉の表記そのままをもってきていますから、ここで
嵌め込んでよいわけで、はじめから両書の間に食い違いはなかったことになります。つまり「と云う
と書かれた表記は無視できないと思われます。「世間でそういっている」の「云う」で邪馬台国の
「・・・・曰」「・・・・曰」「・・・・・曰」と連発されている「曰」とは違います。この場合は、孔子曰(いわく)
の「曰」、スサノオ尊が「白(もう)す」の「曰」で卑弥呼が「・・・曰」「・・・・曰」・・・・曰」というのですから
著者は「聞く」「聞く」聞く」となるはずで、著者の臨場が明らかにされる場面です。野原で対談した
わけではないでしょうから、著者には卑弥呼の館のあらましが頭に入っています。余談になりました
が、これで

               松嶋の壺=紹鴎茄子

 となります。 後年、もう一つの茄子が出てきます。「今井茄子」というものです。これは残って、
吉野花見で秀吉の持ち物のなかに

     『今井茄』〈甫庵太閤記〉

 があります。これは結局、「松嶋の壺」「紹鴎茄子」どちらの壺かわからないとするしかないと思って
いましたが、これなら一つになり「松嶋の壺」という意味であったことになります。
これが本能寺で焼失したということは、よくある話の一つだと思います。本能寺で信長の首が見当たらず
      『骸骨と思しきさえ見えざりつるとなり。』〈甫庵信長記〉
 となっているのと同じです。もともとそういうことはなかったというものです。
 昔の読み物で紛失というものがあるのはそういうことはなかった、必ずあとで見つかるという意味で書か
れていることが多く、ある人が捨てた、焼いたといっている(書いている)のがそうではなかったという
ことが多いのが現在と違うところです。
 今は、警察内部の会計帳簿、帳票の焼却、民間会社の文書の廃棄などの記事にみられるように
捨てろと命令されたら本当に消滅させてしまいますが、むかしは残そうとして行動した人が多かった
のでいまに残ってきているのが多いのでしょう。中野学校の教科書が出てきたそうですがこれも残そう
として残ったものではなさそうで、たまたま残っていたという偶然のように思われます。昔の人は後世
にメッセジを残すために書き入れもされたがいまの変造偽造は責任逃れのためになされているとい
えそうです。
 だから「つくもの袋」の物語は「紹鴎茄子」を語ろうとするものではなかったといえます。

ただ、こうした場合、〈信長公記〉がなぜ「絵」をはずして「茄子」を入れ、混乱させたのかという説明が
いると思います。
 〈信長公記〉ははじめから  
 
    「松嶋の壺」「紹鴎の菓子の絵(茄子は意識的誤記)」

 としなかったわけです。これを説明できなければ、(茄子は意識的誤記)とはいいきれません。
もっとも、〈甫庵〉に「菓子の絵」があるから、それが生きそうだ、〈信長公記〉は何かを企んだと見るほうが
よいといえそうで、軍配ははじめから絵としてもよいという方にあがりそうではありますが、ややあいまいさが
残ってしまいます。
 これはもう一つ重要なことを語りだす布石として「菓子の絵」をクローズアップさせたといえるもの
です。これは重要なことをはらむと思いますのであと(伝説の絵)にまわして松嶋のことを一応さきに
終わらせておきたいと思います。

(7)千利久
詔鴎茄子を統合した松嶋の壺について気づくことは、主役は今井ということです。
(1)確実な記事と頻度
  @つくもなすが最初に出てきた文
   再掲    
     『松永弾正・・・・・・・・、今井宗久是も又・・・松嶋・紹鴎茄子進献。』〈信長公記〉
     『松永弾正少弼は、・・・又堺今井宗久・・・松島・詔鴎が菓子の画・・。』〈甫庵信長記〉
   で、今井が、表記が一致しており最も確実なものです。

  Aまた「作物記」でも、
     『▼松永、茶の会席にて一覧申しつる。
     ★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして(松永が)堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』〈甫庵信長記〉
  でもこの松永は今井の匂いがしました。

  Bまた既述のとおり秀吉のときに「今井茄子」が残っていて本能寺で失われずにあとで出てきた、
 という重要な話があります。なぜ今井が主役となるのか、という疑問がでます。
       
(2)次に下の「山上宗二」の松島の来歴に今井があるということです。
    『松島は中比(ごろ)●三好宗三にありその後宗三子▲右衛門太夫紹鴎へ売る、その後
    に宗久(今井)所持して信長公へ上る、総見院殿(信長)の御代に入(火に入)失る也。』
   今井なすということでからよほど、その来歴にも

ここに今井が入っている。ここで、三好清海入道と接近しているのが注目されるところです。はじめに
      「A、三好山城守入道笑岸」
      「B、三好下野守入道長閑斎」
について二人の正体と関係が重要ということは述べましたが、今ここの松島の来歴のなかの
●の三好宗三が、「A」であり、▲の右衛門太夫が「B」の人物です。
B」が「政康」という名前で「三好清海入道政康」に宛てられます。
●の人物はいま「三好政長」とされていて「三好宗三政長」と書いたものもあります。

一方ネット〈武家家伝 三好氏〉から借用した系図では

  ●三好宗三(三好政長)ーーーー▲政康(宗三子だから上の▲右衛門太夫紹鴎にあてるしかない)
                        政勝                                    

となっています。この「●宗三」という人物は、松島の起点となっていますので、この政長が重要と
思われます。これは「三好政永」といえますので「松永」を暗示するものです。三好まで触れると、三好
三人衆などの問題があり、ややこしいので、稿末補注へまわすことにしてここは結論だけです。

またネット〈武家家伝 三好氏〉では「三好長慶」の叔父(父の弟)といった位置に 「三好康長(笑岸)」
が孤立して出ています。
                 三好之長ーーーー三好長慶
                      |
                 三好康長(笑岸)

つまり
   三好康長(笑岸)(松永弾正少弼)
   (三好政長)
     ‖ーーーーー 松永弾正A(松永右衛門佐久通)・・・・政康(真田十勇士の三好清海入道政康)
               政勝(松永長頼)・・・・・真田十勇士の三好伊三入道政勝)
    三好頼澄     政茂(岩成友通)

という関係が成り立ちます。(ネットでは三好康長は三好康永と書いてあるのがあります。) 
まとめてみると、一元的、一義的には

       1 「三好笑岸」が松永弾正少弼久秀@、法華の乱当時活躍した人物
       2 下野守入道釣閑斎、が松永弾正少弼久秀A、久通を名乗る。太田和泉守の姻戚。
       3 同日向守、が松永弾正少弼久秀@の子息。松永長頼で宛てるとわかりやすい。
       4 岩成友通が松永弾正少弼久秀@の子息、上二人の弟

ということになると思います。

この政康が「右衛門」だから「松永久秀」Aで、「武野紹鴎」かもしれないというほどの人です。
政康が大坂へ入城して戦い、利久が知られているような最期となりましたが今井宗久は最後はよく
わかりません。人名注では
 今井宗久は、1520〜1598となっています。 ネットでみますと
 千 利久は  1522〜1591
山上宗二は  1544〜1590
となっているようです。                               
                                 
(3)菓子の絵を献上していたのに、茄子と書かれて訂正されるという込み入った操作があり、もう一回
あとで松永が滅んだ年、「開山のフタオキ」の献上者として出てくるということになりました。

また、松永ー今井宗久という流れがみられることも重要です。今井宗久だけは確かなもの(両書とも
表記が合っていることからどうやら、「松永」と「今井」の異常な接近は親子というようなところまでいきそう
です。これは「詔鴎」をからめた接近ですから、強固なものです。
武野紹鴎の正体は「松永」で「今井」はその財産を譲り受けていたという構図が暗示されていると
思われるものです。
 松永久秀の茶人としての芸名がないのは考えられず、これが詔鴎でもありえます。
「松永」=「紹鴎」といいたかったと思われる。すなわち「武野紹鴎」というのは「松永弾正A」のことと
思われます。今井が「茄子」を進上したというのは作りごとですが、〈信長公記〉は「茄子」に「今井」を
かませたかった、「つくもなす」の「松永」に、繋ぎたかったと思われます。
「松永」が「詔鴎」という号を持っておれば、「詔鴎茄子」は「松島という壺」であったから宗三の持ち物
といえるので結果は合ってくることになります。
 
山上宗二の原文をみても今井は松永の人といっていると思われます。
いままで述べてきた〈甫庵信長記〉の「つくも茄子の袋物語」を受けて〈信長公記〉は主役は「松永弾正」と
「今井宗久」であるといったのではないかと思われます。二人松永は、松永今井で合っていたようです。
 二人はきわめて近い関係の人物であることが暗示されている、すなわち、
       松永久秀の「久」と今井宗久の「久」
は偶然のことではない、系統を表わすものだということがわかってきたと思われます。「今井宗久」は
松永弾正@の子か継子ではないか、「今井」というのは夷真井とかいう地名かもしれない、両方
       「久秀」
の表記のいたずらの意味がこのことといえます。
  以上のことから、この今井は流れの中心にいて、この流のなかに武井夕庵と太田牛一が入り込んでくると
いうことになると、戦国期の文化的流れの一中心にいるということになります。これらは今井の有名
度合いからみてすこし考慮の余地があります
 こうなれば、利休に影響が及びますが、一見では「利休」と「今井」は二歳ちがいで兄弟のようです。
松永Aの弟が宗久とすれば、これは宗三の子としての「宗久」かと思われます
 別の見方もできるのかもしれません。二歳違いまでは(数えと満の違いで)同一とか、連れ合いは年齢
が近いので兄弟とまちがいやすいというものがあります。
 松永宗三の子の連れ合いが「利久」(今でいう夫婦)とすると、利久の前半の活動名が「宗久」である
ということになるのではないかと思います。
 今井宗久は、先に出た三好系図になく今井宗久という人が隠されていそう(本来対象から外れる)
ようですが、この三好松永身内としておいて問題ないでしょう。いずれにしても、松永は三好一族の
人、今井は松永の人であるということは合っていそうです。これは〈信長公記〉〈甫庵信長記〉が、今井・松永
関係あり、というような記事を書いたからそういえそうです。
日本史では一人の人が二重に重なっているので一代目、二代目とか、兄弟とか、連れ合いのことは
とくに要注意です。
 まあくどくどといろいろいってきましたが結局ここでいいたかったことは、一番の関心はやはり利休
(久)にありますので、〈信長公記〉〈甫庵信長記〉がここで出してきた「表記」

     「今井宗久」」は「千宗易利久」のことではないか

 ということです。すなわち「松永利久」などと引っ付けられるとと揉めるから間接にやったのではないか、
そのために「今井」を主役にもってきたといえそうです。
 誰かが「今井宗久」を「今井久秀」ともいうといったのは間違いないことですが、今井ならああそうか、
ということで済みます。有名な利久だったら紙に書かれてみると
     「千宗易久秀」
 などになってしまう、これではいろんな意味で影響が大きく詮索がきつくなってしまいそうです。
これは献上者としては「利久」の名前が隠されたのではないか、今井が、利久に変わって、物を贈った
ことにした、今井宗久が「利久」と「松永」の間に置かれた緩衝材となったといえます。
 また利久と書いてしまうと、利休Aも三好・松永の出とされてしまいます。今井との関係は、連れ合い
とみられ、今井宗久を通して松永@の子ということではないかと思われます。
〈武功夜話〉の

   『今井彦八郎(ルビ宗久)・千与四郎(ルビ=利久)』

の併記の意味するところは、今井がなぜ「彦八」なのかということも引っ掛かってきますが、いまでいう
夫婦という間柄であったので併記されたのかもしれません。
 利久は、「珠光」のあとの「宗珠」という人の子くらいにあたり、また「田中」ですから安土宗論の主役
「田中」の貞安の身内でもあると思われます。社会的には「宗久」の名前で利久が両方の行為を代
表したといえるのかもしれません。〈信長公記〉の世界では利久は鉄砲屋与四郎、今井宗久という
名前でその活動が窺える、そのあとは別の表記でつぎの書に引き継がれていくという形になると思
います。
山上宗二というたいへん今日の戦国期文化の理解に貢献した人物は〈信長公記〉には出てきません。
 ネットによれば
          千利休が     1520〜1591 もしくは 1522〜1591
          山上宗二が    1544〜1590
          (今井宗久)    (1520〜1598)
となっています。
 これは一見
          A1522〜B1544〜C1590
と合成ができると思います。
A、は利休@の生まれ、Bは利休Aの生まれ
というのではないかと思います。
山上宗二の(やまのうえ)は堺の山の上といわれています(ネット)が「山上憶良」から採られたのでは
ないかと思います。つまり「山上憶良」はペンネームで大伴一族の誰かを表わしていそうですが、それと
同じで誰かの活動名がは山上宗二となるのでしょう。すなわち「千利久」の一面を表わした、「義経」に
おける「しずか」の存在とおなじものといえると思います。
 ここまでくればもう一息ではないかと思われます。つまり佐久間の「甚九郎」をなぜ作ったかということ
です。これも利久の一時期を表わすものだとしたら出自までわかってくる、宗及として日記を残した
のは利久、ということにもなります。
 すなわち利久という人物は秀吉時代にその活躍がピークになりましたが、〈信長公記〉時代にも
多く語られていたといえます。
     ○千利久は「田中」の与四郎なので宗門論争の田中貞安が親の一人であるとみてよい
       かもしれない。その上
     ○ 佐久間甚九郎によって武将でもあり平手・佐久間から塙・前田・織田・明智にも姻戚
        関係があることを予想しうる。
     ○山上宗二によって堺の「宗」の系譜の人のなかにも身内がいるとみるべき
     ○連れ合いはイマイ宗久でここから松永の人でもある。三好長慶の子が妻であるというのは
      松永弾正@の子といいかえる必要がある。三好ー松永の読み違いによる。

いま言っていることは次のものは千利久のオンパレードだということです。
つまり千利久の別名が挙げられたと思われます。
 再掲
 『かくて、堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。』

 〈甫庵信長記〉の読者は「佐久間右衛門」で出てくる人物は「太田和泉守」というのを知っているわけ
ですから(もちろん佐久間右衛門信盛という人物はいた)、その当時の社会制度と、表記のいたずら
が自然に受け入れられるようになったら議論が出て、例が積み重なり、自ずから判るようになってくるもの
でしょうが、まあ、外国から先にいってもらわないと無理でしょう。
 三好清海入道やら、利休のことやらいろいろ派生して出てきましたが、松嶋の壺というたいへん
なことを含んでいた壺のことは一応これで終わりました。「つくもかみ」は、まだ落ち着き先が決まって
いません。「松永茄子」「松永つくもがみ」いうべきものといいたかったのがわかってきたと思われる
程度のことですが、そこへ進むまえに保留してきた話をしなければなりません。

 〈信長公記〉は、はじめ 「松嶋の壺」「紹鴎茄子」として、あとで
 
    「松嶋の壺」「紹鴎の菓子の絵(茄子は意識的誤記)」

 としました。〈信長公記〉がなぜ「絵」をはずして混乱させたのか、が問題です。〈信長公記〉の記事
を、「茄子」から「絵」に理屈をいって変えたのだから、このことはなおざりにはできません。
 これはもう一つ重要なことを語りだす布石として「菓子の絵」をクローズアップさせたといえると
いいましたが、それに触れたいと思います。

(8)伝説の絵
すなわち「菓子の絵」がもう一つ出てきます。それは次の文の★のところにあります。

   『泉州堺津名物の器召し寄せらるる事
   同(元亀元年)四月朔日に和泉の国堺(ルビ=ノ)浦にて、富める者共が求め蓄えたる名物の
   道具共、御覧あるべしとて、友閑法印丹羽五郎左衛門尉長秀の仰せ付けられけり。・・・・
   信長卿一一御覧あって、勝れたるを留め置かれしは先ず
         ★天王寺屋宗及(ルビ=そうきふ)が菓子の絵
          薬師院の小松島、
          油屋の常祐が柑子口(かうじぐち)
   なり。すなわち応じたる貨(あたい)はるかに過分に(代金を)玉はりしかば、三人の者共は
   にわかに徳付きたるようにぞ見えける。
   松永弾正少弼も鐘の絵を進上申しけり。
    同十四日に室町殿新御所にて御能あるべしとて御興行あつて、観世金春両太夫、かわる
   七番ぞありける。・・・』〈甫庵信長記〉
   
 つまり「菓子の絵」は★の「宗及」から手に入れています。まあ厳密にいえば人と物件の間に
「宗及」「薬師院」「油屋」があり、例えば宗及の「菓子の絵」は宗及の描いた「菓子の絵」
か、宗及の持っていた「菓子の絵」かは、これだけではわかりませんが、〈信長公記〉では下のような
書き方になっているので所持品ということになるのでしょう。ただ上の文に下線がありますので、松永
の鐘の絵は自作とみてよいのかもしれません。
        『
          天王寺屋宗及(ルビ=そうきふ)    一、菓子の絵
          薬師院                     一、小松嶋、
          油屋の常祐                  一、柑子口(かうじぐち)
          松永弾正少弼                一、鐘の絵    
        ・・・・友閑(ゆうかん)・丹羽五郎左衛門御使にて・・・』〈信長公記〉

 とにかく「菓子の絵」が、時期を異にして、二つ出てきたことになるので注目される上に、鐘の絵が
出てきましたから、ひょっとして三つとも松永が描いたものかというようなことになります。〈甫庵〉で
     今井献上の菓子の絵・・・・・宗久
     宗及献上の菓子の絵・・・・・宗及
が出てきたことから「宗及」についてここは論じられていそうな感じを受けますので少し立ち入って
みなければなりません。要はこの「宗及」が
         「宗久」、「利久」、「宗及
というよう並び称されるあの「宗及」かどうかが問題となります。
 一般的には、「★天王寺屋」という屋号をもつ「宗及」によって進上された、と取られることになるので
しょう。それなら商人の「宗及」という人、つまり別人だといわれるとグウノ音も出ないということになって
しまいます。
 テキスト脚注ではこれはあの宗及というようになっていますのでそれで話を進めてももよいかも
しれませんが一応そうなる経過を確認しておく必要があります。
 まず「宗及」という人は有名なので、「宗久」、「利久」、「宗及」という並びで、今日に「津田宗及茶湯
日記」を残した「津田宗及」であるといわれると、表記が同じだからこれを否定することはできません。
すると、あの「宗及」は「天王寺屋」という屋号をもっていたかを調べることになりますが、これは確認されて
いないようです。
「宗及」についてテキスト脚注には
         『天王寺屋宗及→津田宗及』
 というようにすでに同じ人物とみられてます。しかるに
         「天王寺屋宗及」というのは「天王寺了雲」とされ
         『天王寺了雲   津田宗達の一族〈宗達茶湯日記〉他会記〉』
 となっています。
 「宗達茶湯日記」に「天王寺了雲」となっていますので、「天王寺屋」というのは「天王寺という」とか
「天王寺さん」とか、やや揶揄した「あだ名」のような、呼び方の一つというようなものになるのではない
かと思われます。
 とにかくこの脚注から「宗及」は「了雲」で「津田宗達」ではない、「天王寺」という苗字であるらしい、
というのがわかりました。堺の人だから、大坂の「天王寺」あたりに住んでいるのでこう呼ぶのではない、
ようです。あの宗及は「天王寺」という苗字の人なのに「津田」というのは「宗達の一族」だからであろう
ということになりますが、その説明はないので、天王寺姓というわけにはいかないと思います。こうなると
「天王寺屋」というのが利いてきて、「天王寺」と呼ぶにふさわしい、天王寺に関わりがある人という「体」
を表すものだろうというのが出てきます。つまり「津田宗及」という人は天王寺が属性となった人だと
いえると思います。「天王寺了雲」という人との関わりにおいては、実際にそういう人がいて、その名
前を借用してきたといえるのかもしれません。
「津田宗及」は「津田了雲」という人と実際関係があるのかはわかりませんが、「津田宗達」の子とされて
います。「津田宗達」は孤立しており調べてもその事績がよくわかりません。が「宗達」といえば
            「俵屋宗達」
を思い浮かべるのは仕方がないことです。いまでは、それぞれ関係なく並存していたということになっており、
それはそれでわからないから、やむをえないということでそのままとなってしまいます。
 ただ「津田宗達」という表記は、あたりまえのことですが
        「津田」+「宗達」
 ですから、「津田宗及」+「俵屋宗達」の合成かもしれず、「津田」は「津田信澄」など織田の「津田」
ですから、また「宗達」などはむやみに使われる名前ではないと思われるので、検討してみてからあきらめる
のでないと、もし見逃したりしたら大損してしまいます。「天王寺屋」というのも屋号ではないようですから「俵屋」
というのも俵を商売とする人の屋号というわけにはいかない、「俵」が属性のなっている、皆が「俵」
というあだ名をつけたというものかもしれません。
話が物語として収斂されているものではないのか、踏み込んでみるのが必要であると思います。
 まず、ここで「天王寺了雲」の説明を「津田宗及日記」からもってこられていますが、これは問題で
〈信長公記〉から持ってくるのが第一にしなければならないことでしよう。次の記事で天王寺屋が出て
きます。

   『(天正五年=松永が滅亡した年)三月廿一日・・・・・・佐野の村に御要害仕るべきの旨仰せ付
   けられ、佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・羽柴筑前・荒木摂津守、残し置かせられ
   杉の坊津田太郎左衛門、定番に置かせられ、三月廿三日、若江迄御帰陣。
       一、化狄(ルビ=クハテキ)、天王寺屋の竜雲所持候を召し上げられ、
       一、開山の蓋置(ルビ=フタオキ)、今井宗久(ルビ=いまいそうきう)進上。
       一、二銘(ルビ=ふたつめい)のさしやく(茶杓)、是又召し上げられ
  三種の代物金銀を以って仰せ付けらる。』〈信長公記〉

 この記事は〈甫庵信長記〉にはない記事で、著者の操作が集約されて出てきているのではないかと
思われます。

 @ここの竜雲と、事実その名であるらしい「了雲」とは同じでしょうか。違うようでもあります。一応
表記が違うから別人といえますが、すなわち「宗及」に「大宗及」があるといっているのかもしれません。
もしそうなら津田宗及の「おや」は津田宗達といわれているし、それを出してきたといえます。しかし
これはあぶり出しで同一人物注意喚起ともいえますので、そうならなぜ「竜」という字をもってきたか
というようなことになります。雲と竜は絵のテーマとして登場するものでしょう。

 Aまた三つ目の二銘(ルビ=ふたつめい)の(さしやく)は召し上げられ、是又召し上げられ
となっているから「天王寺屋竜雲」から、召し上げたものであるといっているのも間違いなさそうです。
二行目の今井は進上となっているので、「天王寺屋竜雲」と「今井」とは、財産異動のされ方は
違っていると思われます。「今井」は間に挟まったダシになったとうな出方をしています。今井がここも
利久とすると
        「天王寺屋竜雲」ー利久ー「天王寺屋竜雲」
 と利久を挟んだ重要人物となります。

 B二番目になぜ今井がまた現われたかといえば、やはり、今井「菓子の絵」というものの継続技であり
二つ銘名の「さしやく」を「絵」に変えたいというものがあると思われます。この「さしやく」というのは
「茶杓」のようですが、この「さしやく」は、かなり早く永禄十二年、これも
         「友閑・丹羽五郎左衛門」
御使いで「法王寺」から「竹さしやく」を買っており、「法王寺」は「天王寺」とつながる、「竹」は「武井」
の「竹」、「友閑」は〈甫庵〉では〈友閑法印〉となっており、「法」は「法王寺」の「法」かもしれないと
いうようなことになります。

C出だしの「佐野の村」というのも、永禄十二年「佐野」という人が「鴈(かり)の絵」を献上しています。
このときの記事は

     『大文字屋所持の    一、初花
      祐乗坊の        一、ふじなすび
      法王寺の        一、竹さしやく
      池上如慶が       一、かぶらなし
      佐野           一、鴈の絵・・」
      江村           一、もくそこ
      ・・・・・友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀・八木(米)遣わし・・・・』〈信長公記〉

で、「大文字屋」というのが「天王寺屋」というものにヒントを与えるものかもしれません。これは
「大文字」ですから商売道具ではないようです。この記事は〈甫庵〉になく〈信長公記〉の挿入と
いった感じのものですが「池上如慶」だけになぜ「が」がついてるのか、など疑問がありますが、
それはそれとして、佐野は「絵」で「法王寺」は「天王寺」を意識しているとみるのもよいでしょう。

まぜてまとめますと、既出のものも含め下のとおりとなります。

                    〈信長公記〉          〈甫庵信長記〉
    
      @ 進上者        松永弾正          ■松永弾正少弼          
        進上もの     吉光の脇差(つくもかみ)    吉光の脇差
                 
      A 進上者        △今井宗久        □今井宗久  
        進上もの    松嶋の壺・紹鴎菓子の絵   松島と云う壺・詔鴎の菓子の絵など
        
      B 進上者        佐野    法王寺       −−−−−
        進上もの       鴈の絵  竹さしやく

      C 進上者        松永弾正            松永弾正          
        進上もの        鐘の             鐘の
                 
      D 進上者        天王寺屋宗及         天王寺屋宗及           
        進上もの        菓子の絵           菓子の絵       

      E 進上者         天王寺竜雲           −−−−−            
        進上もの        カテキ・さしやく(二銘)    −−−−−              

      F 進上者        △今井宗久           −−−−−
        進上もの         フタツキ             −−−−−
 
 となったわけで
     (1)AとCDが同時進上の「小松嶋」というもので連結が意識され、
     (2)永禄十二年のB「大文字屋」「法王寺」でDへの繋がりが意識されている。
     (3)使者、(友閑・丹羽五郎左衛門)の登場はBCDである、Bは〈信長公記〉だけ 
       CDは〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の両方に出ている。
     (4)永禄十二年のB佐野進上の鴈の絵でEは絵が意識されている。
     (5)EFの、カタカナの品物は「さしやく」を今井につなげるためのもので「菓子の絵」につな
       げるため今井のあとに出したと思われる。
     (6)Eの「さしやく」はBの「竹さしやく」で、Bの人名「友閑」「丹羽」はEの人名に別表記
       で出てきている可能性が大である。
     
 ということになり「二銘のさしやく」は二人の名前を表わした絵といえる、
  詔鴎菓子の絵・詔鴎菓子の絵の復活、宗及菓子の絵・鐘の絵・鴈の絵
と絵が集中して出てきたのでそういえると思います。そんな勝手に変えてはいけないではないかと
いうことになりますが、安土城のところで述べましたように、その流れの中にあれば、あることを認識
できれば二倍を勝手にしてもよいわけです。絵という流れの叙述である今井の「菓子の絵」と宗及の
「菓子の絵」のあとだからいいわけです。
 ここでまた「絵」について珍妙なことがされています。  
〈甫庵信長記〉天正五年の記事

      『初花・松花・鴈の絵・・・・・藤浪の・・・・周徳茶杓・・・』

 と11種の名物を書いておりますが、脚注には、

      『太田牛一の〈信長公記〉には藤浪の。名物。』

 となっています。実際に〈信長公記〉には『一、藤なみの御』と書かれています。すなわち「絵」は「釜」
にも変形しているわけです。「絵」と「さしやく」くらいは変えても平気です。さらに茄子を釜にかえるくらい
朝飯前のことです。
  
 ここの「天王寺屋竜雲」の出てくる記事で、下線の人物は、前三人は「太田和泉守」(ついでに夕
庵)を表わしているのは容易に感ぜられるところですが、うしろの「羽柴筑前」の「秀吉」も
      「木下藤吉郎」「羽柴藤吉郎」
の二つの表記があり、また「中入れ」で大功を樹てた「秀吉」という表記は、「明智日向守」という
「太田和泉守」が暗示された場面での「秀吉」があったことも既述していますので、太田和泉が意識
されている、「荒木摂津守」の「荒木」も、本稿の終わりでは「太田和泉守」がその名前を使用することに
なったりしますので、「太田和泉守」の総登場というのが背景にあり、「杉津田太郎左衛門」とい
うのも、〈信長公記〉に「津田坊」という人物が出てきて、いまそれが「津田信澄」とされているので、ここで
「津田信澄」を「津田宗及」に接近させたと思われるものです。
「杉坊」は、「首巻」で「黒田杉左衛門」という人物がでてくる、常山奇談では「黒田三左衛門可成」が
でて、「黒田」は「森」だといっている、「杉坊」は「森坊」ともいえる、太田和泉守の身内だといっていると
思います
「宗及」は「佐久間甚九郎」で、そのあと津田信澄が引き継いだということを述べましたが、なんとなく
それがここでも出てきていると思われます。いずれも太田牛一が親代わりであったというべきかと思われ
ます。「宗及」のルビが「そうきふ」であり「宗久」のルビは「そうきう」と区別され、ここは「津田宗及」と
今井宗久との関連にも触れた一節ともいえそうです。
「乾助次郎」は「佐久間甚九郎」であった、佐久間甚九郎(宗及)は天王寺屋竜雲、松永に密接に
繋がっており、あの「葉茶壷」をおってきたら、天王寺屋竜雲の絵までにもつながってきました。
 
「絵」・「太田和泉守」「狩野九郎」「竜雲」「二つ銘」(二人の人物)は、あの「風神雷神図」を語って
いるようです。
  風雨を呼ぶ雲竜というものが蔭に潜んでいると思います。風神・雷神は鬼神の形をとっています
が、左右の竜が形を変えられたものといえるのではないか、と思います。一見竜の絵かなと思ってよく
見ますと鬼のようでもありますが、そうともいいきれないものが二ついます。これは戦国期の竜虎を
表わしていて夕庵と牛一が描かれているとみられます。右側は竜が鬼神の形をとり、左側は虎が
鬼神の形をとり、竜虎の二人が力を合わせて、天道にかなう世を目指して戦ってきた、結果はかな
らずしもよくはすすまず頓挫もありましたが、なんとなくただよう明るさ、ユーモア精神を失わず後世
に継承されたものを残していこうと語りかけたというものでしょう。
 そんなに自己顕示欲が大きいのが史書を書くなんて問題だ、信頼できないといわれるでしょうが、
優れたものを残した人は大なり小なりそのように言われているのがパターンといってもよいのです。
モーツアルトはワグナーは破産者、シューベルトや大谷吉隆はひどい梅毒でシューベルトなどはそれ
死因だとか、そういう現象面だけでなく精神面、性格とかでひどい人間がはいたもんだといわれて
人が多いわけです。司馬江漢も太田牛一と同じ自己顕示欲が強くて鼻持ちならぬようです。
 絵などはまあいろいろ解釈されるからそういうのもいいだろうということになる反面、自分と自分
の最も親しい人物二人を書いているのだと具体化させていうと、やはり無茶をいうなというように
なりやすい美と直結するのでもっと高尚なものだということになってきます。しかし表記のいたずらが
多く自己を顕示しているのですから、造形にもそれが現われてしかるべしいうのも仕方がないといい
たいのも事実です。
筆者の見解はそうかもしれないが、そんなことは云った人がない、鑑賞にも標準的なものがあるはずだ
といわれるのもあるでしょう。しかしが広い世間にはそれを匂わす人もいるようです。左右の左、竜虎の虎の
方が、自分のほうで虎を描いたのではないか、いうことですが、ネット記事[st.rim/success/huujin著者の
佐藤氏(YAHOOの検索から)]を借用します。「風神雷神図の想像力」という題のものです。

   『昔、ある若い師が殿様に「屏風に最強のの姿を描いてくれ」と頼まれた。この師にとっては
   またとない好機であった。殿様にこれまで仕えていた年老いた師が死んで殿様は新しい
   を探していたのだ。
    ところが引き受けてはみたものの描きは困ってしまった。何故ならこの師はなど見たことが
   なかったからだ。仕方なく先輩師の描いたものを見たりしてどうにか下を描いてみたのだが
   何度試しても大きなシマ猫にしか見えない。
    一度を見るしかないと決心したこの若い師はを飼っているという家をどうにかさがしあてて
   門を叩いてみた。すると「は死んでしまった。今家にあるのは皮(剥製)だけだ」といわれて
   しまった。「それでもいいので模写させてください」と頼んで、どうにかの下を描いた。
    死んだではの恐さがに出ないのでは?」と思いつつも一目さんで仕事場に戻ると三日三晩
   このにかかりっきりになって、ついに大をどうにか完成させた。殿様にを献上すると
   に対して目の利かない殿様はたいそう喜んで「なかなか良い出来映えだ。わしの師としてお前
   を召し抱えることにしよう」ということになった。師は何度かこのは死んだを描いたので
   自分としてはたいした出来映えではないと殿様に言おうとしたが殿様があんまり喜ぶもの
   だからついに言いそびれてしまった。

    翌日絵師は殿様に呼び出された。殿様は「今度は風神雷神を描いてはくれまいか」と
   注文された。殿様の厚い信頼と期待の手前「分かりました」と言ってはみたものの絵師は困り
   果ててしまった。第一、の神やの神なんて見たこともない。人の話では京の都の建仁寺
   という禅寺に「風神雷神図」というものがあるらしい、ということを聞いて京に上がることになった。
   建仁寺は栄西の開いた禅宗の寺である。風神雷神図以外にも、竜の絵など、優れた美術品
   がある。・・・・』

 このあと若い絵描きは宗達の絵をみて腰が抜けるほどびっくりし、宗達の教えを乞うて自らの風神
雷神図を完成させる話です。話の本来の趣旨とは別のことに利用させてもらいますが、「絵」が強調
されていることはまず受けとれます。またここには、風神雷神図に、竜・虎の文字しか出てきてい
ません。また「虎」を描くのに苦心惨憺したことが述べられ「絵」の「虎」がテーマといえます。「風神雷
神図
以外にも、竜の絵など、」というのは、「風神雷神図」に竜が描かれているので参考に建仁寺
へ行ったようです。なにか似たようなかわった解釈のものはないのかと漠然と見ていたら出てきた
ものです。
ここでこの絵に模写があることもわかります。俵屋宗達について調べますと、「生年未詳」とか「その
伝記はほとんど不明」というものに集約されます。ネット「tabiken・comーL220 100」によれば
   「江戸時代前期の画家、京都上層町家の出身で姓は野々村あるいは喜多ともいい年・対
   青などの印章を使用した。」
というのがあり、ネット「俵屋宗達」−「トップページ」によれば
   「江戸時代前期、作品から考察すると慶長から寛永期にかけて・・」
とあり、慶長期というのもあるようです。
年表で見れば寛永7年
    「この年、俵屋宗達、〈西行物語図〉できる。」
 というのをみると江戸時代と思い込んでしまいますが、これは俵屋宗達Aでしょう。年配では小瀬
甫庵Aなどは寛永17年まで生きています。その身内など宗達と名乗れる人物もいそうです。

 「俵」やといわれるのは太田牛一以外には考えられないと思います。米「八千余俵」の「余」という
のは、米は「八十八」をもじったものだから、(八十八)×100=8800俵ということになってなって、800
俵ということになる、というようなことを書いているのが太田和泉守です。
またこの話は石田三成が米俵で堤防の決壊を防ぐ話にもなり、あとまだ出てきます。こうなると
「俵屋」というのは「俵」職人とか「俵」販売店の屋号とは限らない、あの俵野郎というような感じの
ものとなるのでしょう。「野々村」というのがここにありますが、〈信長公記〉には野々村三十郎という人
が出ています。本能寺で戦死したからそれで途切れて追っかけられていませんので、誰かわからな
いということになっています。これは本能寺で表記が消されたということで誰かを表わして消えたという
ものです。喜多村については触れました。また印章の「伊年」については「伊尹」という殷の宰相の名が
〈甫庵〉で使われており、「伊東弥三郎」やら「伊東夫兵衛」などの「伊」でもあります。また「対青軒」
というのは首巻の「下飯田村屋斎軒」という太田牛一と関連深そうな場所がありますが「軒」という
語句が気になるところです。
 二つの銘というのは、例えば太田和泉守が「二つの名」を使うという伝統的手法をいっていることも
考えられます。陰陽二元的とらえかたをもいっていると思いますがここの二つの銘は、二つの名前
といっているようです。
 その二人、名物収納の使者『友閑(ゆうかん)・丹羽五郎左衛門』の登場には準備が徹底的に
されています。「雲竜」という名もそうですが関取の名でも準備がみうけられるのです。

又一郎と又次郎。
 「友閑」と「丹羽五郎左衛門」はいまでは「五郎左衛門」の謎がとけたから夕庵・牛一となりますが
はじめの時点では、白紙状態でしたから、これを語る布石が一杯敷かれています。
  再掲 元亀元年

   『泉州堺津名物の器召し寄せらるる事
   同(元亀元年)四月朔日に和泉の国堺(ルビ=ノ)浦にて、富める者共が求め蓄えたる名物の
   道具共、御覧あるべしとて、友閑法印丹羽五郎左衛門尉長秀の仰せ付けられけり。・・・・
   信長卿一一御覧あって、勝れたるを留め置かれしは先ず
         ★天王寺屋宗及(ルビ=そうきふ)が菓子の絵
          薬師院の小松島、
          油屋の常祐が柑子口(かうじぐち)
   なり。・・・過分に(代金を)玉はりしかば・・・三人の者共はにわかに徳付きたるようにぞ見えける。
   松永弾正少弼も鐘の絵を進上申しけり。
    同十四日に室町殿新御所にて御能あるべしとて御興行あつて、観世金春両太夫、かわる
   七番ぞありける。・・・』

前はこの記事をほかの目的で使いましたが、この前後の記事が問題です。この前には相撲の記事があり、
この相撲で「深尾又次郎」「鯰江又一郎」「青地与右衛門」が脚光をあび、出仕を許されます。
後年の「深尾和泉」(既述)につながる「深尾又次郎」のごときは
    『に深尾又次郎、能き相撲く仕候て、御(ぎょかん)なされ、御(ごふく)下さる。』
    〈信長公記〉
 というようにスター扱いになっています。これがのち「{木村源五内}深尾久兵衛」に発展したりする
のですが「又次郎」に意味があります。
「鯰江又一郎」が出てきて、その「又次郎」です。相撲のメンバーは
    「百済寺の鹿・百済寺の鹿・・・」
から始まって、
    「河原寺の進・はし僧・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門」
 で終わっていますがその中に「大・小」の感覚が入っています。これは「大宗及」「小宗及」とかいう
ような、また「大又」、「小又」といったものを意識しているので行き着くところ、当然「大又」が「友閑」
で「小又」が「五郎左衛門」とへといく流れのイントロの部分となっています。
「青地与右衛門」はのち青地孫二郎、青地千代寿がでてくる、その親代わりのような人でしょう。
 ここの「百済寺」は〈甫庵信長記〉では「白済寺」となっていて
   「百」マイナス「一」=「白」となって、「つくも」を出してきています。
 二人と宗及らが出てきた前の記事はこうでしたが、あとの方は

  ・・・・・観世大夫・今春大夫立合に御能、
       一番   たまの井              勧世
       二番   三輪(みわ)  ワキ小二郎    今春
       三番   張良                 勧世
       ・・・・・・・・・・・・・・・・
       一、松永弾正     』〈信長公記〉

 があります。、脚注によれば一番が、「観世小次郎作」で、二番は「世阿弥作」、三番は、「観世
小次郎作」です。二番はワキが「小二郎」ですから、三つとも「小次(二)郎」の出だしで、「又次郎」が意識されて
いると思われます。この 脚注によればこの『四月十四日』は
 
  『原本信長記には一日に行ったとある。言継卿記の記事があるので、原本信長記のほうが
  正しい』

 とされています。なぜ〈信長公記〉14日にしたのか、ということですが、〈甫庵信長記〉を立てるために
そうしたと思われます。
〈甫庵信長記〉では「一日」に友閑・丹羽が堺で名物を収納した、「十四日」に能があった、ということに
してあります。
   ○ 十四日は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉とも出鱈目だが合致している、つまりタイアップして
    仕掛けをしている。
   ○ 「一日」に二人の名物収納と、小次郎の「能」が重なった。この二つの事件は密接に関係が
     ある。武井夕庵・太田牛一・松永弾正・宗及の絵、といったものが関連付けて読み取られねば
     ならない
ということになると思われます。
 原本信長記が合っていそうだから歴史的事実をそれとして紹介するのは、いいわけですが、その日
に「小次郎」の出てくる能がある日に二人の登場があるのも重要です。なおそのときの次の記事
にカタカナルビ「ノ」があります。
 
    『★泉州堺津名物の器召し寄せらるる事
   同(元亀元年)四月朔日に和泉の国堺(ルビ=)浦にて、富める者共が求め蓄えたる名物の
   道具共、御覧あるべしとて、友閑法印丹羽五郎左衛門尉長秀に仰せ付けられけり。・・』
   〈甫庵信長記〉
このルビが現われると太田牛一がでてくるようです。次のも同じです。

    『手筒山城併金が崎城没落の事
     ・・・・・金崎城(ルビ=ガノ)に押し寄せ・・・・・・・・城をば●滝河彦右衛門、山田三左衛門
     請け取り、・・・・』〈甫庵信長記〉
 
この「ガノ」というルビは「金ガ崎ノ城」という意味ですがそれはここのタイトルでわかります。このルビ
から、下線●の二人の人物をみないといけないようです。山田三左衛門は森三左衛門にもなかねませ
ん。
 とにかく★の記事の二人を挟んで、前後二人を匂わす人物を出したというのは事実です。
「つくも茄子の袋」に藤重と利休がわりこんだように、

  「松永弾正」(つくもかみ)・・・・・「松永弾正少弼」(吉光の脇差)・・・・・「今井宗久=千利久」
  (松嶋の壺・紹鴎菓子の絵)・・・・・「佐野」(鴈の絵)・・・・「法王寺」(竹さしやく)・・・・・
  「松永弾正」(鐘の)・・・・・「天王寺屋宗及」(菓子の絵)・・・・・・「天王寺竜雲」(カテキ・さしやく
   ・・・・・「今井宗久=千利久」(フタツキ)

  などの流れに「武井夕庵・太田和泉」が割り込んできて、竜雲「さしやく」「二つ銘」という絵まで
流れが出来てきました。これは、風神雷神を解釈するにあたっての補強材料ともなることです。
     
 ここでもう一つわかったことは
              『藤浪の』〈甫庵信長記〉

              『藤浪の』〈信長公記〉
に変わった、替えてもよいということです。これで、あの葉茶壷のことはここでやっと解けてきそうですが
もう一件三日月の壺が「三好笑岸」によって献上されています(既述)。これは右に松島、左に三日月
と「松島の壺」と併記されていたから松島とは別物ですが「「つくもかみ」と違うのかどうかの問題が出
てきます。これの由来がわからないと困りますが「作物記」に出ていると思います。

(9)伝説の人=狩野永徳
 前に出た文の「作物記」の『其の記に曰く・・・・・』の省略した・・・・・・の部分は長く、これが「松永」の記事
になっています。これは「つくもかみ」の来歴を書いたと考えなければあとが続きません。
 はじめはこの日本第一天下無双の尤物(いうもつ)のいわれ、それが唐物であることをいっており、
そのあと、足利義満・義政の手をへて松永久秀の手に渡ったことが書かれています。
 これが永禄元年のようですが、ここで惟和尚は松永の功績と、人となりを褒めています。
 次のは惟高和尚の作物記(つくものき)のあとの部分です。

    『天文丙申(法華の乱などあり乱れた)、・・・・・・ここに於いて、藤原朝臣松永弾正少弼久秀
     国家の政柄を執り権威威服す。是に依って永禄戌午の春、・・・・・・・・(漢史の)孟嘗伯周・
     ・・人となり道徳清行なり、前弊をあらため易えて、去る珠後(また)還る。・・・・今や久秀、徳行
     の化するところ、宝壺如意珠(あの作物の壺)、一度去れども復た還える。・・・・・・・・・
         松氏予にこの一事を記せん事を需(もと)む・・・・・・・・

        時永午夷則如意珠月 万年亀洋派下巣葉懶★安嫂(女篇のないもの)』〈甫庵信長記〉

 ここで注目の記事は一つは年代です。はじめの「天文丙申」は1536年、桶狭間の24年前でこのとき
松永の全盛時代となったようですから、これは松永@といってよい人物といえます。松永@という存在が
予感されるのはこの「天文丙申」の松永を〈甫庵信長記〉が描いたということにあります。
 「永禄戌午」は永禄元年で桶狭間二年前1558年で、このときになにかあったのか孟嘗伯周が引用
されたのは松永の人となりを表わすとか、ここで主役が変わったとかのことをいうのかもしれません。
 太田牛一が親しい松永弾正というのはこの一世代前の人物ではないようですが、ラップしていることは
考えられます。すなわち太田和泉守は両方を知っていることもありえます。
 また当然松永Aの子息、松永Bという人物も知っているはずです。「松永B」は「松永父子」として
しか出てこないので徹底的に隠されていると思われます。これは「森えびな」が関わってくるから、ということと
、ひょっとして松永Bは「狩野永徳」かもしれないから、ではないかとも思われます。

 「永徳」というのは「松」の「永・徳」がすぐ浮かんできます。この表記の連続は無視できないものです。
「松永貞徳」は松永久秀の孫だろうともいわれているようですから、考えられることは、
     森えびなと永徳の子が「松永貞徳」
と一応宛てておいたらどうかと思われます。曰くありげの人物を一応しかるべきと思われる場所に納めて
みると視界が急に開けてくるという場合があります。
 また「松永」に関係がありそうという人物に
    「徳庵嫂(女篇のないもの)永種」
がいますが、これは「大村由己」の「総見院殿追善記」(前著戦国で既述)に添え書きした人物で、
ここには例の「硯氷を研き禿筆を染め」という語句があります。太字は太田和泉守のサインとみて
よく、本人かもしれないものです。
    「永種」の子が「松永貞徳」
 といわれていますので、「貞徳」は「太田和泉守」の子ということになります。つまり
    「森えびな」という隠れた子=太田和泉守A
とみて、こういっていると思われます。松永貞徳は実際は太田和泉守の孫ということになります。
 上の★の「安嫂(女篇のないもの)」と「徳庵嫂(女篇のないもの)」が、似ており「永種」も「永」があり
「徳庵嫂(女篇のないもの)永種」は松永と濃厚な関係にあることがわかり、上の
     「松氏予にこの一事を記せん事を需(もと)む」
 と相談を受けるにふさわしい間柄と思われます。
   〈信長公記〉角川文庫判補注によれば

   『安土城の障壁画を製作するために起用されたのが三十四歳の狩野永徳(1543〜90)である。
   永徳は家督を弟宗秀に譲り(父松栄。五十八歳)、非常な決意で、直門だけを連れて安土に
   行き四年間専心した。』

 と書かれています。この「永徳」「宗秀」の父(松栄)の年齢がなぜ入っているのか、が問題のように
思われます。また松栄(しょうえい)は松永(しょうえい)でもあります。ネット記事にも「松栄」はでています
が、全体的に、この「家督」というのが今は狩野派の家元という風に捉えられています。それなら
例えば(狩野)「元信」の子という風に呼ばれるはずで、また宗秀という人物が狩野には出てきません。
ここの家督は「あととり」の意味ではなく松永家督となるのではないか、と思われます。

○「永徳」からは「松永貞徳」「徳庵嫂(女篇のないもの)種」を思い出し
○「宗秀」からは「易」「久」を思い浮かべ
ここから、その親といえば「松永久秀」「今井(千)宗久」しか思い浮かばない、「宗」と「秀」に「貞」という字が加わ
るとなると「田中」の「貞安」が出てきます。これでは

      松永久秀
        ‖ーーーーーーー永徳・宗秀
      宗易            

 のような感じになります。利久と久秀の〈信長公記〉の接近はここまでのことをいうのではないだろ
うといいたいところですが、いまのところ当時の社会における制度的なものは全然考慮の対象に
入っていないのですからそれはおかしいとはいいきれません。いま松永久秀夫人は誰だと聞かれても
当時は夫人のことはわからないようになっていたというしかないと思いますがそうだったともいえませ
ん。佐久間甚九郎は「信栄」ですから「信永」でもあり上の「宗易」の位置にはいるのかもしれません。

 ひょっとして永徳は領主の後継者の地位を捨てて、安土城の仕事をしたということかもしれません。
その天分を見抜いて、引っ張ったのが太田和泉守でしょう。狩野又九郎という表記は本能寺で消さ
れますので一時太田和泉を表したものでしょうが、狩野派の絵師でもあったことでいろんな意味で
異例のこの登用の説明がつきます。文芸の興隆にはコシモメディチのようなフイクサーが要りますが、
太田和泉守はそのような存在だった、といえそうです。
 天正五年松永久秀が敵対し信貴山に籠城したとき、松永の人質二人(12、13歳のせがれ)が処刑さ
れたというのが〈信長公記〉にありますが、これは森えびなの子と思われます。

    『村井長門守宿所にとどめ、あすは内裏へ走り入り、助け申すべき由申し聞かせ、』

という文があり、甫庵にはこの処刑のこと全く出ておらず、この文は本能寺で村井が信忠に云った
ことの判断根拠をここで説明したといえるもので、二人は助けられたと思われます。
 黒田官兵衛が荒木村重によって有岡城に幽閉されたのを、寝返ったとかで猜疑した信長が、一子
長政の処刑を命じたが竹中半兵衛が抗命し長政を匿って助けたという話は知られていますが、この話
話は、ほかのことをいっており、額面どおりではないとしても、このようなことは他にも適用される
話としては事実でしょう。例えば「浅井長政」の一子万福丸も助けられた挿話があり、この場合苦肉の策
があるはずですからそこで竹中半兵衛のうごきがあったとも考えられます。
この松永の子も助けられたとか一連の話の一例ということができると思います。上の文の「村井長門守」
は太田和泉守であり、この時の奉行は矢部善七郎・福富平左衛門であり、「佐久間与六郎所」で
身柄を預かっていたことなど、勘案してもいえることです。
この二人の子は、「松永貞徳」と「(永徳)息右京助」として〈信長公記〉で出てくる二人でしょう。


(10)三好笑岸@
 横道にそれましたが、とにかく「如意珠」というのは宝の壺のことですから、これが「つくもがみ」
のことでしょう。これをめぐってなされる人的葛藤を述べるため「つくも茄子の物語」を太田牛一が作り上げた
といえます。このところははじめの葉茶壷はなにかという疑問から入ってこないとややこしと読まれなく
なるものです。
 その次の「松氏」のあとの文がわからないところですが、この「予」というのは惟和尚のことか、太田牛一の
ことか、どちらともとれそうです。しかしまあ両方としても大きな影響はなさそうです。「惟」は「惟任」「惟住」
の字ですし、前に策彦が出てきたときに南家和尚も出てきて狩野又九郎がここに使いにいっています。
 南化が惟高というわけではないがいずれにしても太田牛一に近い存在です。ただここは段が違って
曰くいい難しの雰囲気のある文なので、この「予」は太田牛一としたほうがよいようです。
 この意味不明の「松氏予に・・・・」の部分は太田牛一が、室町時代とされる足利末期の様子を解説
している、とくに松永のことを重点的に述べている、松永になにかいいにくいところがるということを
感じさせるものです。いまもってこれは解読できませんが松永を滅ぼしたのは徳川で、この観点から
みないとこれは解けないのではないかと思います。ただ今は宝の壺のことをいっているのでこの部分の
「松氏」と太田和泉守と如意珠月が重要で「東の月」が三日月の壺のことを述べているかもしれない
わけです。再掲
     
     『今や久秀、徳行の化するところ、宝壺如意珠(あの作物の壺)、一度去れども復た還える。
     ・・・・・・・・・
         松氏予にこの一事を記せん事を需(もと)む・・・・・・・・

        時永午則如意珠 万年亀洋派下巣葉懶★安嫂(女篇のないもの)』〈甫庵信長記〉

  「松永弾正少弼」が法華の乱などによる社会の混乱を鎮めたという「作物記」の叙述は、人物的
に宛ててみると、三好長慶の父「三好長之」かその弟の「三好政長(宗三)」の時期になるかと思い
ますので、松永弾正@の判っていない前半生が別の名前で語られているといえるのではないか、それが
三好政長というのが結論ですがそれに宛てられたのが三好笑岩で三日月の壺を献上するにふさわしい
人物といえますが、この判りにくさは「松永」が太田牛一と最も親しい人物ということからこのようにな
ったと思われます。
 「夷」というのが「東方の」という意味のようですから「東に松島」「西に三日月」となっていて、方角違い
でこれは三日月とすると献上者「三好笑岸」は第一義的にはこの 「松永弾正少弼」に宛てられると
いうことになります。
 この意味不明の「時永午則如意珠」というのは「三日月の壺」につながるもので、この壺を
進上した「三好笑岩」は松永と解釈してよろしいとヒントを与えたものだったのかもしれません。

この宝の壺「如意珠」は
         足利義満ー義政ー山名治部の某ー松永弾正少弼
とわたりました。
      (1)「松島」は「三好宗三ー右衛門太夫詔鴎ー今井(利久)−信長」
 
      (2)三日月は「松永(三好笑岸)から「信長」    
      (3) つくも茄子の袋は、
         松永弾正少弼ー千宗易利休ー藤重ー信長
      (4) 「つくもかみ」は〈信長公記〉の「つくもかみ」の脚注から、
         松永久秀から信長・秀吉・家康・漆工の藤重氏から岩崎家

となっています。(4)に藤重が絡んだのは(3)の話あるので、そうなったといえると思います。
これは〈川角太閤記 〉で 
           松永弾正少弼ー佐久間右衛門ー信長
と渡ったというのと矛盾はないようで「藤重」に「佐久間」を対置したということかと思われます。
いままで述べてきた人物の流れでは、見劣りするのが無名の「藤重」です。また「佐久間右衛門」
でしょう。ここに太田和泉守が、「われこそは」ということでこの流れの割り込んできたといえると思います。
この伝説を付加したものです。〈甫庵信長記〉は広く読まれるように書かれまた流布したものですから余り
いい加減なことも書けません。「如意珠」というのは「つくもかみ」にかぎらず、全部松永がスタートだということ
を示したといえると思います。
  松永へ来る前に全部が
      足利義満ー義政ー山名治部の某ー松永弾正少弼
 という流れとなったことは考えられませんが、よきものと見抜いて保護してきたのは松永といえると
思います。

  「つくも茄子」のことでいえば松永の最期の言葉をもってこないとやはり納まらないと思います。

    『それで、九十九髪をば安土の城へ進上し、ひら蜘蛛の釜と我らの首と二つは信長殿のお目
    にかけますまい』〈川勝太閤記〉

 というのがありますように、渡してもよいという反面こわしてもよいと思っていたわけです。ここの
        ひら蜘蛛の釜
 は 『藤浪の』〈甫庵信長記〉が 『藤浪の』〈信長公記〉
に変わった例からいえば「茄子」にもなりうるものです。すなわち
    松永作の「ひらくもの茄子」というものが「つくもかみ」
といえるのではないかと思われます。
「つくもかみ」は、このあと「秀吉」に渡って大坂の陣で、こわれ家康が拾い上げ藤重に修理させて、その出来
栄えをみて感心し藤重に下賜したという話がネットでありましたが、それがここの「秀吉ー家康ー藤重」と
伝わったという伝説になったと思います。このとき壊れたものを藤重(佐久間右衛門)が惜しんで補修
したものということでしょう。
こうみてくると次の冒頭の下線部分▲▼については、
   
  『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し▲乾助次郎には▼葉茶壺を持たせ、伊丹を
    忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉
                                   ‖       ‖
                                 千利久    松永つくもなす

 となる。すなわち▲に「千利久」と▼に「松永つくもなす」で宛てることができました。これによれ
ば、この希代の寶物が、親しくて有名な千利久(乾助次郎)からの手土産として荒木村重に贈ら
れ、誠意を感じた荒木村重との和平の糸口の役目を果たし結果、村重の降伏につながった、と
いうことになりますが、これだけで釈然としないものがあります。
「女房」というのが誰かわからない、「だし」(出し)殿とされていますが、その人が荒木を説得した
、そういう材料が出たとか、荒木が松永と近い関係があったとかのものがないとそう簡単にはいか
ないはずです。次の記事により、荒木二人の意味の解明のことも残っています。

 『九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召列伊丹を忍び出、尼崎へ移り候。』〈信長公記〉

 それでもここまできたことにより松永と荒木がドッキングされて話が急展開することになります。


(11)秀次の三好
 脚注では「三好笑岩」「三好山城守」は「三好康長」とされ
   『初めは義昭、信長に抗したが、天正三年に降り、のち秀吉とも昵懇し、秀次を養子とした。』
と書かれています。なぜ四国から出たという「三好笑岩」(「三好笑巖」)が秀次の養父となるのか
よくわかりません。
 ここでいえることは「松永弾正少弼」に「三好笑巖」という名を与えて自分の著書に使用し、松永親
子の記載が少ないのを補ったのは「太田牛一」であるということです。「三好」と「松永」が重なって
いるということも表記で表現したといえます。

  その表記は「三好日向守」「三好山城守」ともされましたので「柴田日向守」の例もあるように
「三好日向守」は「惟任日向守」とされうる可能性が出てきます。「柴田」の場合は、そうなるかも
しれないというのは文章で表現されました(「柴田葦毛」)が、それを「三好笑岩」という名前だけで
表わすことができると考えたと思われます。それはあの松永と自分があまりに近い関係にあるので
それを、わからないように、知らせようとしたということがあると思います。
 松永を述べた「作物記」のあと
    「夜話の事」
 という〈甫庵信長記〉のなかでもっとも詰まらないと思われる記事がでます。 これが本能寺の前の
年の終わりにでるものです。
後半に
  「知人太郎国清」「才二郎国綱」「剛三郎勝光」という明智三兄弟らしき人物がでますが
信長公が誉める記事です(前著〈戦国〉)。

前半は

  「森乱丸」「丹波の良琢」「荒木山城守」「阿弥陀殿」
 
が出てこの「荒木山城守」が
       「態(わざ)と申し候、近日西国へ下向せしむべく候。・・・」
という便りを
       「●白き絹の四半(四角い布を張った旗指物)」
に書いて「阿弥陀殿」に送ったという記事があります。
 「近日」というのは九月でしょうが、阿弥陀殿は西国の人のようで「三好笑岩」がこの年「三日月の
壺」を進上して織田に赦されていますので、松永に送ったのかもしれません。
 ●が太田和泉守を表わしますので、このときから太田和泉守には「荒木・山城守」を宛ててもよい、
ということになりました。荒木=太田です。
それが先ほどの次の分に影響をあたえます。つまり つぎのようにこれ単独でもう一つの意味があるのでは
ないかと思います。

   『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ・・・』
                ‖      ‖           ‖       ‖
    ★・・・・・・   太田和泉守  □□         千利久    松永つくもなす

 つまり太田和泉守が主体となって、荒木村重を説得したというものがあると思われます。荒木の
説得に努力したのは黒田官兵衛とされますが、黒田は森ですから、森官兵衛(太田和泉守)です。
 「つくもなす」に「藤重」が介入しましたが、荒木村重の「重」も「重政」の「重」と同様
 に「藤重」に絡むと思います。太田和泉守に(荒木山城守)がとってかわりますと★の流れが下のように
なってきます。太田和泉守が荒木をも名乗ると、摂津守が消滅するか、女房の方へ限りなく押しやられ
ていきます。
 
★ 太田和泉守       女房         千利久         松永つくもなす  
     ‖           ‖            ‖              ‖
  荒木山城守      山城関連 □□  山城守A連れ合い    山城守@のつくもなす
                            
「女房」というのは「安井」の「女房」、朝倉の最期で〈信長公記〉の記事に彩りを加えた「女房」などが
出てきました。一流の武士を女房扱いにするのです。

 ここで以前ペンディングしていた気になる記事に戻りますが、〈三河後風土記〉の記事で坂本城落城のとき
明智左馬助の年齢が、31歳とされていました。これは〈明智軍記〉に記載のある45歳が合っていると
思いますが、どうしてこうなっているのか、ということです。それがなぜここに関係してくるのかということですが
荒木村重の子息に明智光秀の息女が嫁していましたが、織田との手切れがあったとき、荒木村重
が離縁して息女を明智に戻したという話があります。その人が明智左馬助に嫁したという話はよく
知られています。こういうのは太田和泉守に関わることですから、荒木事件の顛末を述べるにおいて
は避けて通るわけにはいきません。
 いま荒木村重の年齢さえわからないのですから、記述があるはずだということから、永禄12年の六条の
戦い(三好三人衆などが信長が岐阜へ戻ったあと京都の足利義昭将軍の館を襲った事件、明智光秀
が細川家の親族として戦いに参加し、野村越中の表記で〈甫庵信長記〉で出ている)のとき、年齢18歳
の「伊丹兵庫頭」という人物を、荒木村重ではないかと宛てました。しかしこの人物は「兵庫」が使わ
れ明智一族といってもよい人物です。これが光秀の子息で、荒木家に入り、村重が離別してのち明智
左馬助の連れ合いとなった人物(もう一人の左馬助)と思われます。
村重はこの合戦のときは「弥助」として出ています。年齢が低いような、地位が高くないような表記が
使われています。
  明智光秀の息女が荒木村重の子息と結婚というのは荒木村重@Aを前提としての子息ということで
はないかと思われます。「弥助」で戦場に出ていたときは@の存在があった、摂津を中心に威を振るう
には親子の二代の事績があったのではないかと思われます。積極的に織田に近づいて家の興隆を
計ったのが二代目であったのかもしれません。あの荒木村重と明智息女が結婚し、離婚したということでは
かと思われます。荒木と摂津池田との関係は松永と三好との関係と同じで、池田といっても荒木を
さすというものではないかと思われ、光秀と細川の関係とも似ている「家子」というようなものに表わされる
姻戚関係があったと思われます。
 結論的にいえば、鉄砲で自殺したという「池田和泉」という人には何といっても「和泉」が入って
おり、とくべつな人を語るということにされたと思われます。荒木村重はこのとき35歳「宗祭娘」となっ
ている人の年齢がそれかと思われます。この人の女房は「池田和泉女房」とされ28歳と書かれ
ています。三年後は31歳となるので、もう一つの(左馬助の)年齢になります。「伊丹兵庫頭」がこの
人となると思われます。伊丹姓の人に、「伊丹安太夫」という人がおり、伊丹という人はこの人しか、
いませんのでこれが「伊丹兵庫頭」を語る人になっています。「伊丹安太夫」本人は何事もなかった
のか書かれておらず「伊丹安太夫女房」とその八歳の子が殺されたことになっています。
 つまりこういう操作がされています。
 洛中をひきまわされたという一覧のうち
    
    『卅五 {伊丹源内事をいうなり}
         宗祭娘、▲伊丹安大夫女房、此の子八歳、』
              (伊丹安太夫妻年三十五)・・・・・・甫庵の記述
    『廿八 ▼池田和泉女房、』

 があり、これを実際であてると

    卅五歳 荒木村重  荒木村重女房 此の子八歳
    廿八歳 荒木村重女房
となる。▲▼は併記されているから   
   「池田和泉女房」は「伊丹安大夫女房」ではありえない。二人は別人のはず。
 ということになる。・・・

 要は「伊丹」周辺のところだけみると、「伊丹安太(大)夫」という人物が捉まらないことになります。
 また〈甫庵〉では年齢が「伊丹安太夫」を思わせるものに変えています。しかるに〈信長公記〉では
     「伊丹安大夫むすこ八歳のせがれ、」
 が出てきて〈甫庵信長記〉では、これは「松千代」という名前だといっています。▲のところ、「此」
というのは「女房」の子といってそうで、なにがなにやらわからない、つまり「伊丹安大(太)夫」という
人物は「伊丹兵庫頭」というここにいない人物で、その子もいないはずだ、といっています。
 「松千代」は明智の人という属性を表わす表記です。「前田利家夫人」は「松」どのであり、芳春院
であり、ネットによれば「東の方」という「東殿」を真似た表記もあり・・・・で一族の縁戚である可能性
が高く、山内一豊夫人も「千代」でこれは前野の人ですし(〈前著〉)、毛利(森)勝永の庇護者でも
あります。実際、賢明であったというのは事実でしょうが、採り上げられてこそ知られることになること
でしょう。
 つまりこの「伊丹安大夫」が明智光秀息女、この子が、のち「又兵衛」を名乗った岩佐又兵衛では
ないかと思われます。明智左馬助が引き取って二人左馬助が「又兵衛」を一流の人物に育て上げ
たという構図が浮かび上がってきます。
 荒木は「伊丹」「池田」「荒木」「渡辺」というような姓が行き交っているし、宗祭などのわかりにくい
ものが出てきて掴みにくいかもしれませんが、太田牛一が荒木の最後にあたって荒木女房の「たし
殿」を出してきています。

   『たしと申すはきこえある美人なり・・・・最後の時も、かのたしと申す、車より下り様に帯しめ直し、
   髪高々と結い直し、小袖のえり押し退けて、尋常に切られ候。』

 「たし」とはどういう人か興味を抱いて、ここをよく読んでくれるだろうと期待して書いたと思いますが
表面だけしか読まれていないのではないかと感じます。
筆者は、本稿で苦手の芸術家のことについて書いてきたので、荒木では有名な「又兵衛」に
ついて述べないのでは様にならず、伝説を頼りにこう読んできました。なぜ「又兵衛」か、明智の
御曹司だ、というのだけは納得ができる読みだ、といわれるかもしれません。ただ荒木事件の全体
は納得のいく説明はされていないと思います。表記の共通と違いを軸としてよく読まれればかならず
全貌が浮かび上がってくると思われます。
 ここまできたところで次の「女房」には「村重」が入って、
  
 『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ・・・
     
   ★ 太田和泉守       □□         千利久         松永つくもなす 
                    村重
 
となると思います。


(12)もう一つの三好笑岩

「荒木+山城守」という手紙の発信人が出てきました。 「三好山城守」は「三好+(荒木)山城守
になります。本来、この山城守は「三好笑岸」として、松永@松永Aに適用される表記でしたが
「日向守」が「惟任」を思わせるところからやや怪しくなり、武井夕庵・太田牛一に関わってくること
になりました。結局、自分たちを「笑岩」に重ねてもう一ついいにくいことを出していると思われます。
つまり表記上では、

 三好山城守日向守笑岩ーーーー荒木「山城守・日向守」ーーーー武井夕庵・太田牛一

となったと思われます。これを裏付けるものは、語感からくる「笑岩」というものが準備されたことで
も明らかといえます。
「笑岸」「笑巖」というのは、「松永弾正少弼」@Aとも、本人が知らない名前であると思われます。
これはふざけたともいうべき表記で松尾芭蕉も奥の細道で
    「雲寺」「雲寺」、「瑞寺」「瑞寺」
 など間違って面白がっているものでしょう。
これは武井夕庵と太田牛一が豊臣秀次の親代わりといった位置にいるのでそれを表わすための
名前が「笑岩」といえます。荒木山城守笑岩が秀次の養父という意味は、このことをいうといっている
のでしょう。
    「笑岩(巖・岸)」は 
           「笑」から「一笑」で太田牛一
           「笑」は「松」、そこから「松永」、「松」は「夕庵」「小松」
           「岸」から「蜂屋村」の●「岸勘解由」ー蜂ー蜂須賀、はちす
           「巖」から■織田月巖,
              犬山城主「伯巖信康」その子「訃巖信清」は月巖(信長祖父)の子と孫
           「岩」から岩成
 ほかに
           「入道」から三好下野守釣閑斎
           「日向守」から長慶とか明智
           「康長」から「政康」「長縁ー三好三人衆」
           「三好」から「秀次」「三輪」「三吉」「三次」、
           
というものもでてきます。このうち
●は「蜂屋兵庫頭」がらみで出てきた人物で〈信長公記〉〈武功夜話〉に記載されている実在の
人物といえます。この「蜂屋庄」の「蜂屋」が「蜂屋兵庫頭」ー「蜂屋(谷)頼隆」ー「大谷吉隆」
というように使われたものです。たぶん蜂屋兵庫頭は蜂屋村と関係がないのかもしれません。
「岸勘解由」に〈武功夜話〉では「信周」のルビがあり、「岸勘解由」を明智の身内(蜂屋・夕庵)
が使用するというサインであると解釈できるものです。
「巖」から「■織田月巖」が出てきて、この筋である犬山城主「伯巖信康」その子「訃巖信清」は
月巖(信長祖父)の子と孫です。これが三輪氏と濃厚な関係ででてきます。

三輪家系図

   三輪家ーー▲勢州若江住五郎左衛門の「高」(これは犬山城主)ーーー小坂孫九郎
            |                                   |蜂須賀小六の室
          ▼三輪法印三好法印一路の「房」
                             ‖ーーーーーー秀次
                         日秀院とも(秀吉姉)
▲の三輪系図の吉高が「犬山城主」とあるのは犬山の城主の連れ合いといっているのかもしれま
せん。蜂須賀、前野の親戚の人がこの系図に出ていますように、三輪氏は武井夕庵と安井氏の
近い親戚(男系の家系)大谷隆などがここから出ていることは既述ですが、秀次のことは触れて
いませんでした。系図からみて豊臣秀次もここに入っています。大谷吉隆は秀次と血筋があるよう
ですが、こういう関係から武井夕庵は当然、秀次の親代わりとなります。
  「笑岩」が秀次の親代わりというのが三好秀次の養父という意味ならば、武井夕庵、太田和泉が
これにあたるといえます。ほかならぬ武井夕庵・太田和泉守なので暈してそのことをいったのでは
ないかと思われます。
  三輪氏のところへ話がおよぶのは
       『天王寺屋宗及 一、菓子の絵・・・・・松永弾正 一、鐘の絵
       ・・・・・・友閑丹羽五郎左衛門御つかいにて・・・・のあとの
       能の二番  三輪 ワキ小次郎   今春  』〈信長公記〉
 のところで予見できるものであったと思われます。
 つまり「笑岩」は「山田氏」「山口氏」「村井氏」などが太田和泉との関係を思わせるものですが
そのようなものと同じ機能をもたせた独特の表記といえます。この人物は
   ○松永久秀@の存在を暗示するものであり、且つ
   ○武井夕庵、太田牛一が秀次の養父である
ことも合わせて述べようとしたものといえます。
 結局「三好笑岩」はそういう込み入ったことを、うまく示して消えてゆく「まぼろしの表記」といえるもの
となります。
 松永には太田牛一の最も近い存在「森えびな」がおり松永Aと太田和泉は「森えびな」の親と
いう存在なので、一方が秀次の養父というのであれば他方も自動的にそうなるのかもしれません。
 松永は三好の一部であり両者は主家、家臣の関係でなく甫庵も松永を「家子」と称しています。
わかりにくいのは当時の社会の通念、態様、仕組み、慣行、制度とかいったもので、そういうのを
直視せずに避けているところに、わからないところが余りに多い状態が生じていることになってい
ます。この系図とくに秀吉姉「とも」という人など追っかけないといけないと思いますが、重要な位置
にある三輪氏といえます。
〈信長公記〉、〈甫庵信長記〉から松永を覗いたという順が逆になったのでわかりにくかったと思います
松永物語はこの辺でおわります。

 
 大坂の陣
松永、三好秀次、利休、荒木事件など不可解なことがたくさんありそれらが流れてきて大坂の陣で
三好清海入道の戦いとなりました。

  『大名物。葉茶壷の一種。はじめ東山御物(ひがしやまごもつ)。三好宗三から子の右衛門
     大夫・武野紹鴎(たけのじょうおう)・今井宗久に伝わり、本能寺の変で焼失。』
 結局、このが松永A、つまり三好清海入道の政康(松永政康)という人物です。

  「宗三」の「三」は、〈信長公記〉〈甫庵信長記〉で出てくる「三好為三」の「三」につながりそうです。
これが、真田十勇士、伊三入道(清海入道弟)を思わせますので為三政勝といえると思います。
 
三好は     「松永と三次」の三好
清海は     「西海」、海は「詔鴎かもめ」「釣閑斎」
入道は     笑岩・長閑斎・長谷川入道
政康は     笑岩の康、政長の政

ということで松永の流れにおける戦いというのも問題になりますが、清海入道が戦って討死して気が晴れ
たでは終わらない後に尾を引くものがありそうです。後世への影響も含めて考えねばならないものです。
それについて一つだけあげてみますと三好清海入道の年齢のことがあります。ネットで年齢をみますと
  88歳(tikugo.cool)
  45歳(確かにあったがいまでは確認はできず。)
  28歳(air.net)
がありました。
大坂の陣88歳というのは、松永久通の年齢であろうと思われます。あと子の時代の人(永徳など)
はありませんが、孫と曾孫も戦ったという話になっているとすれば、やはり後世へその思いが引き
継がれていってると思います。
  45歳の人は芭蕉が尊敬している松永貞徳と年齢があうようで、28歳の人は貞徳の子といえる
年齢(松永尺五とは少し合わない)あたりとすると、貞徳から尺五、松尾芭蕉周辺へと「大坂城へ
籠もった精神」というものが継承されていくとみられます。結局〈甫庵〉の文は

 『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ・・・
              ‖      ‖           ‖       ‖
  ★・・・・・・   太田和泉守  明智子息の妻   千利久    松永久秀 
                     又兵衛父

★に集約されましたが、伊賀上野の「荒木又右衛門」の仇討ちの物語は、「又右衛門」は「又兵衛」
で太田和泉守であり、「荒木」も太田和泉守であることを示した戦国表記理解のための物語として
作られています。敵役「河合又五郎」の名も〈川角太閤記〉で出てきています。

本稿でいってきたようなことが合っているかどうかは、戦国資料のデータベース化による名寄せを
行う、とか当面表記に注意をして関連を探って積み上げるという作業が必要となります。当時の主
たる史書が、伝統的手法で書き残され、それを江戸期の有識者が、解説をしている、というパター
ンはそれまでとかわらないものです。
 断片情報を糾合して、主たる資料からいろいろ想定して綜合的に語りを作っておく、まあこちら側も
伏線を敷いて待ち構えているという姿勢で臨んでいくことが必要と思われます。そうでないと、拡散
資料だけがたくさんあって収拾がつかない、結局永久になにもつかめないということで終わってしまい
ます。
 歴史と伝統の国とかいっていますが、その残した記録は大したことはないというような珍妙な評価が
されているのが現状です。  
                                          以上
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                      ー ー ー ー ー

補注 三好三人衆 
これは各資料間の名寄せを行わなければならないが「三好三人衆」は〈信長公記〉に使われている
表記である。
 信長のはじめのころ、三好姓の登場人物が多くややこしくなるので〈信長公記〉が整理をしたという
ものかどうか、が問題となる。
 これは「松永」をおおっぴらに述べるのを控えるため一旦すべて「三好姓」で表記したが、そのうち、
「松永」と表記すべき人をまとめたのではないかと思われる。つまり実体は「松永三人衆」ではないか
とみられる。
〈信長公記〉〈甫庵信長記〉では、三好に
   「三好山城守」・「三好下野守」・「三好日向守」が出てくる。

一方、脚注によれば〈言継卿記〉と〈細川両家記〉に、三好三人衆は
   「三好日向守長逸三好下野守政康岩成主税助友通

であると書かれている、とある。
〈信長公記〉では永禄十二年、「三好三人衆」という表記がつかわれ(これ一件だけ)名前はあげてい
ない。これは誰のことかというのは〈言継卿記〉と〈細川両家記〉で特定できるのでそれで納得できるが、
〈甫庵信長記〉ではどうなっているか、〈信長公記〉が書いていない以上、〈甫庵〉が三好三人衆の
解説をしていないはずはない。〈甫庵〉では「三好三人衆」とはいっていないが、〈言継卿記〉などに
ある記事と似たような人名羅列がある。
すなわち同じ永禄十二年(1569年)はじめの下の●の記事につきあたる。このときは

   『■三好山城守入道笑岸を大将として・・・・・・・・・
    ●同下野守入道釣閑斎、同日向守(?)、★岩成主税助、』」〈甫庵信長記〉

 という表現で出てくる。この下線部分、結局〈甫庵〉も、〈言継卿記〉と〈細川両家記〉と同じような表記と
なっている。ただ(?)のところに入るべき「長逸」という字を省いて書いてあるという不満があるが、
三好三人衆を書いて合っていることになる。
「長逸」を抜いているのは、「長逸」と確定させないという操作と読まねばならない。すなわちここで
■も入れて四人いるので■が(?)になっているかもしれないということか、そうとすれば、三人となるが
三人か四人か迷わせていることになる。
 ここで■「山城守笑岸」が総大将だから三好三人衆の上位者として浮いた姿で登場してきたということが
重要と思われる。この「三好三人衆」の関係を明らかにしなければならないが話をわかりやすくする
ために、三好三人衆に三好笑岩は入らないが、親子の重なりがあり、三好笑岩Aも出てきて、日向守
に重なったりするのでややこしい結局三好四人衆で笑う岩はいたずらっぽいといウ感じのもの、あちこち
ひっついていろんあことを暗示する役目をしている

     (1) 「■三好山城守」は「三好山城守入道笑岸」であるが、これは「三好三人衆」には
      入らない。三人の総大将となる人物だから、年配で相当重きをなしている人物といえる。
      これは「松永弾正少弼久秀@」となる。〈信長公記〉の脚注では「三好笑岸(巖)」は
                  『三好康長
      とされる。「康長」という名前の「康」は●の人物の名前「政康」に「康」がつながる。また「康長」
      の「長」は「長閑斎」の「長」に反映されていると思われる。「康永」とするものもある。
      まず三好笑岸であるが、〈信長公記〉の脚注では「三好笑岸(巖)」は三好康長
        
         『初めは義昭、信長に抗したが、天正三年に降り、のち秀吉とも昵懇し秀次を養子
         にした。』
      となっている。〈信長公記〉登場は五回で

      天正三年
       『三好笑岸楯籠(たてこも)る高屋・・・・・』
       『高屋に楯籠る三好笑岸、友閑を以って御詫言(わびごと)御赦免候なり。』
       『・・・・三好笑岸・・・・・・・在洛。・・・・』
       『十月廿一日、大坂門跡の儀、三好笑岸・友閑両人御使い申し御赦免なり。
        ・・・・・・平井・八木・今井御礼これあり。天下隠れなき三日月の葉茶壷、三好笑岸
       進上にて候なり。』
       天正四年、五月三日(原田備中が戦死したとき)
       『先は(先手は)三好笑岸、根来・和泉衆・・・』

 となっていて、突然すぎる登場なので先に誰かが露払いをしていないと、重要ではあるが正体不明
の人物ということになってしまう。天正十五年(本能寺の年)
       『一、三好山城守、四国へ出陣すべきの事。』
 とあるのは、〈甫庵〉が「山城守」は「笑岸」といっているから「笑岸」のことではあるが、これは笑岸
Aと思われる。これが日向守に名前がなかった、ここに入れる人は他にいるという意味であろうと取れ
る。 とにかく松永が滅んだあとは出てこないようである。秀次の養父というのは別人になると思われる 
  
     (2) 「●三好下野守」という人物は、「三好下野守入道釣閑斎」〈甫庵信長記〉で、これは
                 「三好政康」
      とされており(〈信長公記脚注〉)、別にある下の系図の
           
         三好政長ーーーーーーーー|政康
                           |政勝
      
      の「政康」と同じで、これは松永弾正少弼@の子息と思われる。「三好政長」を松永弾正@
      もしくはその配偶者と取る)のでと久秀Aとするしかない。
      親子が重なって子息も松永久秀といわれる存在であるが実際は「久通」という人物と思
      われる。すなわち
              「松永弾正少弼久秀A=久通」
      とみてよく、三好三人衆の一人である。    
       これが政康松永弾正というと通常はこの人物をいうと思われる。三好清海入道がこの
      「政康」とされる。 入道@入道Aということから「笑岸」も二代ということができる。「笑岸A」
      ともいえる。
    
     (3)一方「日向守」にはこういう説明が一切なく、脚注でも「日向守」に宛てられる
     「三好長逸」は次のようなあやふやな説明になっている。

     『三好長逸  一名長縁。三好長慶の武将として活躍したが、永禄十二年敗戦以後の動
     勢は明らかでない。』

 ここから「三好日向守」という人物は「三好笑岸」と同一人物である、つまり三好笑岸の活動を語って
いるというのが出てくると思われる。その笑岸が松永@か松永Aかは情況に応じて決められるが松永A
の行動がほとんどであろうと見られる。
 例えば笑岸は「日向守」と「山城守」で行動が表わされたのではないかといっても、〈信長公記〉に
次のような記事が出てくるのでこれはどうかとなってくる。
 元亀元年
   『細川六郎殿・三好日向守・三好山城守・安宅・十河・篠原・岩成・松山・香西・三好為三・
   竜興・永井隼人、』〈信長公記〉
 
 これは並記されているではないか、別人だということになるが、この場合は「三好日向守」のあとで出てきて
「岩成」も出てきたので、三好三人衆という意味から「三好下野守」を表わしているととるのがよいようである。
つまり、「三好下野守」と関係がある「笑岸」という意味でも使われていることになる。
 「長谷川与次」のように何かを導き出すための作為的な名前ととるべきというのも考えられること
である。
〈信長公記〉では「日向守」はもう一件あり、これより前永禄十一年
   
   『芥川に細川六郎殿・三好日向守楯籠る。』

 がある。この記事の少し前に「柴田日向守」というのが出てくるので「三好」にも「日向守」が
作られたということが考えられ松永長頼の線も一応考えられる。「三好日向守」は〈甫庵信長記〉では
         「三好日向守、松永弾正少弼、岩成主税助」
         「三好日向守、岩成主税助」
 という出方をする。つまり「三好日向守」も「三好日向守松永弾正」という恰好になるといって
いそうである。
つまり「笑岸二人」「日向守二人」ということがいえるが「笑岸」は武井夕庵・太田牛一への橋渡しを感
じさせる「日向守」といえる。豊臣秀次は「笑岸」の養子だから「三好秀次」といわれる。
それがどういうことか説明しようというところに「笑岩」のもう一つの役割があると思われる。
つまり武井夕庵、太田牛一も包んでしまうことになると思われる。 

 三好日向守は〈言継卿記〉と〈細川両家記〉で「三好日向守長逸」となっている人物とされるが
      「三好日向守長逸
という表記が 〈信長公記〉〈甫庵信長記〉にない。が、よくみると〈甫庵〉では三人とも後ろの二字の
名前がない、〈信長公記〉も同じである。「政康」「長逸」「友通」を省いたのはなぜか、考えねばなら
ないが、これは例えば○「日向守」がほかにも使われる、固定できないということ、また○他の資料に
出ていることを著者が知っていたからとも思われる。とにかく名前のもつ意味は重要であろうから調
べてほしいというのかもしれない。
 結局この「日向守」という人物は
       「松永弾正少弼久秀A=久通=下野守」の弟
      であり、この久通の弟という人物は、松永丹波守長頼といってよいと思われる。
      これは系図でもう一件、つぎのようなものがあり、父の「頼澄」の「頼」を受けたということ
      からくる。
           三好頼澄ーーーーーーーー政成
                             |  
                             政康

      三好日向守(長逸・長縁)は脚注では「永禄十一年以降不明」ということであるがこれは 〈言継
      卿記〉と〈細川両家記〉などで出てこなくなったという意味と思われる。〈信長公記〉では翌年
      (永禄十二年)「三好三人衆」という表記が〈信長公記〉にあり、その翌年また「三好日向守」が
      出てくる。
       このとき「三好日向守・三好山城守」が併記されている(既述)。以後三好日向守が出て
       こなくなったので誰かへトンタッチをしたなどが考えられる。
       「三好笑岸」という表記の人物が、三人衆の「長縁」と同一人物で三好の要人(三人衆)
       として行動した、ということをいうのと、同時に次Bの下野守の親というべき存在かもしれな
       いと思わせたということになると思われる。     
  
     (4)「岩成主税助友通」は、「岩」と「成」(茂)と「通」から見るというわけにはいかないかも
      知れないが
          ○  「岩成」の「岩」は「笑岸」の「岩」、
          ○  「岩成」の「成」は系図の「政茂」の「茂」、
          ○  「友通」の「通」は久通の「通」
      というのを表わしているのかもしれない。こういう人は別名をもっている場合が多いと思われ
      る。 「友通」の「友」は「友閑」の「友」に通ずるか、などは一応念頭に入れておいてよいか
      しれない。この人物は〈甫庵信長記〉では取り上げ方が大きい。これは松永長頼と同じく
             「松永弾正少弼久秀A=久通=下野守」の弟
      であろうと思われる。「友通」の「通」が「久通」の「通」と通ずるので、久秀@の実子と取れ
      る。(上の松永長頼は継子となり久通の異母兄弟かもしれない)。

 まとめてみると、一元的、一義的には
       1 「武威」の「笑岸」が松永弾正少弼久秀@、法華の乱当時活躍した人物
       2 下野守入道釣閑斎、が松永弾正少弼久秀A、久通を名乗る。太田和泉守の姻戚。
       3 同日向守、が松永弾正少弼久秀@の子息。松永長頼で宛てるとわかりやすい。
       4 岩成友通が松永弾正少弼久秀@の子息、上二人の弟
ということになるが重なる場合があるのでわかりにくくなる。
 「笑岸」は「三好三人衆」ではないが、久秀が親子で使われたように、2、も表わす。「山城守」を
つかって「下野守」「日向守」にも変わりうる便宜的な存在とされている。〈甫庵信長記〉では 三好
山城守笑岸と三好下野守長閑斎については
          「笑岸長閑斎」
          「三好山城守下野守」
          「山城守下野守」
          「三好山城守同下野守」
 という表記があり、とにかくこの二人は重なっている、といっているようである。つまり二人といえるが
一人は実体のないものというような感じである。つまりここの三好全部を「松永」の関係者として綜合
するという役目を笑岩に与えたといえそうである。松永の三人を糾合し、その子、「三兄弟」を「三好三
人衆」として括った存在といえる。
足利義輝が殺されたころの記事、

   『其の比(ころ)畿内遠近の執権は、三好日向守、同下野守、●松永弾正少弼、岩成主税助、
   ■松山新入松謙斎にてありけるが』〈甫庵信長記〉
 
はどう解釈するかの問題が残る。
 ここでは笑岸が出てきておらず、ここをそのまま読めばこの「三好日向守」は三好の本家をも写す鏡と
なってい三好長慶かその子息義継かということになりそうである。
 しかし話のもって行く先は、三好三人衆と明智の関わりにあるので、焦点がそこに絞られているはず
で、本来ここに入るべき笑岸は、「松山新入松謙斎」つまり「笑山新入笑謙斎」であり、

   『其の比(ころ)畿内遠近の執権は、三好日向守(■松山新入松謙斎)、同下野守(●松永弾正少弼)、
    岩成主税助にてありけるが』〈甫庵信長記〉
 
 ということになるのではないかという感じがする。名前と官職が書かれたのでは纏まらない、江戸の
教養人は、吾妻鏡などの読み方で覚れると思われる。
●が松永Aで下野守の説明になっている、その親が「日向守」、つまり笑岸=日向守ならば松永衆
が述べられていると受け止めることも可能という感じかもしれない。
年表に次のようなものが出ているが、三好・松永の区分が不十分であると思われる。松永という表記を
長慶も使ったのかもしれない。親子・三好・松永が相互乗り入れをやっている、その積りでみないと
いけないようである。

     1558年 『三好長逸・松永久秀京都の打ち廻りを行う〈言継〉、〈細記〉。』
     1559年 『足利義輝、六角義賢の仲介により、三好長慶と和睦し入京(〈湯〉、〈細記〉)』
     1560年      (桶狭間の戦い)
     1561年 『三好義長・松永久秀、入洛し義輝の相伴衆となる〈後鑑〉。』
     1564年 『三好長慶没(42)』
     1565年 『三好義継(長慶子)・松永久秀ら足利義輝を殺す〈言継、晴右〉』
     1565年 『三好長逸ら・・・・松永久秀と断交。松永久秀、筒井順慶の大和筒井城を攻略〈多〉』
     1566年 『三好義継、松永久秀を和泉堺に攻める〈永禄、言継、細記〉』
     1567年 『松永久秀、三好三人衆を東大寺に破る〈多、言継〉』
     1569年 『織田信長、和泉堺の住人が三好長逸を援けるのを譴責〈言継、信〉』

 松永はで桶狭間の翌年ぐらいから義輝と国政に参加しています。このころ信長の台頭があり戦国
の収拾へ向った過程の中には松永がいたといえるが、松永Aの時代に入っている。
 将軍義輝を攻め滅ぼしたとか、大仏を焼いたとかいうのは松永@が長生きしていて、その権勢のもと
での事件と取られているから、すべてが一人に集約されたものとなっている、松永久通の代の事件とする
と長慶の子もからむどんぐりの背くらべの人物たちが蠢いた結果の出来事ということになってくる。
 義輝は「三好の叛逆に依って」うたれた(甫庵)、というのもあるしこの「松永」は、{久通}だというのもあ
ったと思われる。また三好修理太夫の家の子が「松永」というのも〈甫庵信長記〉に出ている。家の子
というのは家臣ではない姻族というべきかと思われる。・・・。


   
  


                                  以上