奥の細道の戦国群像(不破河内・蜂屋兵庫)
 
一、二元相克
  三谷隆正の幸福論(前稿)に「二元相克」という一節がありますが、この二元という考えで歴史が
 述べられているのではないかと思われます。すなわち邪馬台国は東と西に二つあった、卑弥呼も
 東西に二人いたということが始めから前提で述べていて、あと、その二つの関係を矛盾なく理解し
 てゆくという手法がとられていると思います。
  一人を二人が重なっているとして語るというのもこの延長であるといえます。イギリスのスチーブン
 ソンがジーキル博士とハイド氏が一つになった主人公を作りましたが、こういうのは東西共通したも
 のになっているということをいっていると思います。
  ここの戦国の二人は有名ではない人物ですが重要人物ではないか、世界史の理解につながる
 手法が取り入れられて語られているところがあると思います。この稿も二つを一つにしようすることは
 いらないという話になると思います。

       『二を一と観じても二は一にはならない。二は飽くまでも二である。現に刻々われらのうち
       に又外に二元相たたかいつつある。この二つのうちのいずれに味方し、いずれを抑えよう
       か。』(幸福論)

  のようなつもりで、まず二つを生かすことが真実にせまるものです。
  奥の細道の記述は敦賀から大垣にとんでいますが曾良日記では
      八月十一日、天屋五良右衛門を尋ね会えず、「木ノ本へ着」、
      八月十二日には「木ノ下ヲ立」となっていて、以下「長浜」「彦根」「平田」「鳥本」、
      八月十三日に「多賀へ参詣」あと「摺針」を越えて、関ケ原で泊っています。
      八月十四日に大垣に着きますが、それまでに

    『関ケ原ヲ立。野上ノ宿過テ・・・・南宮ニ至テ拝ス。不破修理ヲ尋ネテ、別竜霊社へ詣。』
 とあり、修理と会わなかったが、その弟斉藤右京と同道して「大垣ニ至ル」ということになっていま
 す。
  南宮神社に詣で、不破という人に会おうとしたが会わなかったというのが重要で、不破氏というの
 がいたのかどうかが問題となるのではないか、ひょっとして斉藤氏だったのかも知れない、と思えな
 いこともないと思います。
   不破については、信長公記、甫庵信長記に丸毛兵庫・蜂屋兵庫らと再々でてくる、
        不破河内または不破河内守
  という人物がありますが、これとつながっているのではないかと思われます、兵庫というのが重要
 語句だったので、織田のはじめのころの中核の武将であった二人も芭蕉の脳裏にあったのではな
 いかということで少しさぐってみたいと思います。

二、不破河内守
  不破河内守についてネットで検索してみると多くは〈信長公記〉での登場場面が紹介されていま
 す。
 それも全体像ではなく断片的に取り上げられていますが、ほんとうは
    全体像(登場回数全部をあげる)と、
    何年、どういう場面での登場か、
    前後の人物など
  簡単な全体が知れるようにするという方が重要だと思います。すなわち登場回数が多いことにも
 意味があります。
  もう一つそのその人物についての伝承(怪奇なものでも、うそらしいものでもよい)を拾って紹介し
 てあるというものがあれば、皆が調べる手間が省けて助かるという意味でもよいことですが、真相を
 追う手がかりとして直覚的にひょっとしてこうではないかというものが必要なので、片言隻語も全体
 があればよい、提供者において選別してしまいがちですがこれはもったいないことだと思います。
  吾妻鏡式で読むつもりのものには、ネットの無償の行為が多くの結果をを得ることができますので
 ありがたいものとなります。
  ここでは一件不破矢足という人物が出てきているのがあります。
  この記事について少し触れて見たいと思います。これは片言隻語がよく入っているもので吾妻鏡
式では、貴重なものだと思います。
 なおネットの記事の中で引用する場合は挨拶がいる、引用したものも挨拶がいると書いているもの
 がありますが、私などはどネット操作に慣れていませんので、こういうのは引用をやめざるをえず力
 になりません。
 そういう制約のないものの中から引用し、引用したという事実は述べるというやり方でいきます。
 参考にしたのは名前は書かれていませんがKenji9429です。
       『不破矢足(喜多村十助直吉)』
 という表題のものです。矢足は(1542〜1614)となっていますから桶狭間(1560)の前から関ケ原
(1600)以後まで72年生きた人のようです。
   
   『不破氏は古くから、●美濃国不破郡南宮神社の社家として知られている。・・・・鎌倉時代末
   に・・・府中の地頭も兼ねた。織田信長に仕えた不破河内守が有名だが、土地に残った一族も
   山内一豊と親類になるなど無視できない。矢足は幼名弥次郎、母方の姓を用い喜多村十助
   直吉を名乗った。(母は岩手家臣喜多村長吉の姉)・・・・・・永禄元年(1558)竹中重元(半
   兵衛の父)に仕えて岩手長誠攻めの手引きをする。
   @同七(1560)年半兵衛の稲葉山城乗っ取りでは、鐘の丸の荒法師を倒し、戦闘で失った左
   手首を持ち帰り、手塚を作ったと伝える。
   A元亀元年1570姉川役に半兵衛の弟・久作の後見として参加。遠藤喜左衛門の首をかつ切
   り、それを与えた。この時、足に刺さった矢をものともせずに、もう一人討つ。不破矢足は、その
   話を聞いた竹中半兵衛の命名。矢足は「竹中旧記」などに矢束とも表記され「やそく」と読んだ
   らしい。安東守就の号も足がつく「道足(どうそく)」である。もっとも入道前は母方の先祖の鎌足
   にちなんで「やたり」と読んだ可能性もある。
   B天正6年1578黒田官兵衛が荒木村重の虜になった時、人質の長政を自宅(五明)に匿って
   もいる。信長の命令で殺せといわれたのを半兵衛が助けたという有名な美談がであるが、咎め
   られた時は代わりに腹を切る覚悟であつたろう。・・・・・矢足の妻は安東守就のである。名
   実ともに竹中家のナンバー1家臣といえる。墓は今も五明に残っている。法名「西岸矢足居士」

    ・・・・不破重季ー・・・・・重光ー直重ー左近盛重
                           太郎兵衛信(矢足
                           河内守光治
    藤原鎌足・・・・宇都宮朝綱・・・喜多村長久ー光吉ー定吉ー但馬守長吉(岩手氏に属して滅
    亡)

    不破家家宝の由来
    ★遠藤喜左衛門の首をかつ切た「国俊」の短刀の折り紙
    元亀元年六月二十八日於江北姉川(略)浅井ヶ家臣遠藤喜左衛門ト云者首ヲ提ケ髪ヲ乱シ
    味方ニ紛レ大将ヲ討チ取シト信長公ノ御前ニ近ツキヨル誠ニ危ナカリシ処不破弥次(矢足の
    初名)是ヲ見テ組ミ伏セ(略)終ニ此刀ニテ首ヲ取ル(略)半兵衛弟竹中久作十六歳ニテ初陣
    ニ付介抱(後見)弥次ニ重治ヨリ頼ニ付遠藤喜左衛門首久作ニ譲ル因リテ久作ヨリ信長公ニ
    実検ス褒美ヲ給(略)右ノ刀ニ付代々不破氏ノ家宝トス。』

  まずこの内容から、不破矢足と竹中半兵衛はその行動内容などが重なっているということに気づ
  きます。影の形に添うような関係です。まずこの文ですが●のところが奥の細道の旅路で会った
 不破氏と結びつくものです。
  この人の幼名は「弥」がつきますから明智光秀・太田牛一の「弥」につながるものかもしれません。
 「矢足」は「弥足」もありえます。いまでいう父が喜多村氏かも(長吉が岩手氏のあとをついでいるか
 ら)。
 とくに@ABは竹中氏を語る場合いつでも出てくる知られた挿話で、それに全部不破矢足がから
 んでいます。
 また知られていないことも少し追加されています。それと安藤伊賀守の家と姻戚関係にあるという
 ことです。
 これも半兵衛(安藤伊賀守の婿)と同じです。ここから、直感的には不破矢足と竹中半兵衛は世
 代が違うから、その関係は親子ではないかということが出てきます。すなわち竹中半兵衛の父、重
 元と不破河内守は当時でいう夫婦で、半兵衛は重元の実子ということでしょうから、河内は半兵衛
 の継母という関係ではないかというように読めます。もちろん第一に、二人は当時でいう夫婦かもし
 れないということは見るべきですが実際は違うようです。二人を夫婦とすれば次のようにつじつまが
 合わないことが出てきます。
  不破河内守の信長公記初登場はきわめて重要な役目を担って出てきます。
  上洛を引き受けた信長は永禄十一年七月廿五日に将軍足利義昭を越前に迎えに行きますが、
 そのときの使者が
      「和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助の四人」
 で、濃州の西庄立正寺に迎え入れています。
  このうち西美濃に縁のある人が不破河内守ですから、まあ案内役のなかでも最も重要な役割を
 もっていることになります。
  また上洛途上、佐々木氏を攻略した時点で将軍を迎えに立正寺へ行ったのも、この人でこんどは
 一人迎えに行っています。それほど早くから実績が評価されていた人物です。また信長による
         「安藤伊賀父子
  の追放が、天正八年八月(本能寺2年前)にされています。これは竹中半兵衛の死(天正七年)
 の翌年です。
  安東伊賀守の娘婿が竹中半兵衛ですから、この安藤父の子のほうは竹中半兵衛の夫人とい
 うことになります。
   一方、不破河内の信長公記登場の終わりは天正九年本能寺前年の年になっています。この年
 、馬揃えの行列にもいて、伊賀平定の際の従軍をしています。したがってあたりまえのことですが、
 半兵衛夫人と不破河内別人であるということができます。しかし不破河内守が突如いなくなったこと
 にはかわりありません。天正十年本能寺の年

       『先年、安東伊賀守届かざる働きありて追い払われ候。』

  もあり、これを安藤伊賀父子とすることは1年おかしいことになります。この安東伊賀守はしたがっ
 て不破河内守を指すのかもしれません。すなわち不破河内が半兵衛・安藤の身内という姻戚関係
 から、九年に織田を辞したと考えた方がよいようです。
  不破河内は、美濃斉藤氏が滅んだとき永禄十年八月、美濃三人衆である稲葉伊豫守・氏家ト全
 ・安東伊賀守が信長に帰服したとき、織田氏に随身して翌年大役を仰せつかったといえます。この
 文の内容に触れてみますと

 @
の竹中半兵衛の決起の話は一番有名な事件です。この成功の陰には、舅の安藤やこの不破
 矢足のような大物が付いていたことも見逃せないのではないかと思われます。半兵衛をとりまく時
 の経過は次のとおりです。この前に「去るほど」のとき、村木砦の奪回作戦にあたり信長が斉藤道
 三に借兵を頼んだとき安藤大将が派遣されたのでここで関係が生じたことは考えられます。このと
 き半兵衛は舅についてきたのかどうかは年齢がはっきりしませんので何ともいえませんがこの不破
 河内守は大将の一人としてついて来ていたことが予想されます。このときの安藤・安東の使い分け
 〈大河既述〉はこの人を暗示しているかもしれません。半兵衛に伴う事件の年代を整理してみます
 と
    (@)、半兵衛の決起、永禄二・三年(桶狭間1560の前年)
    (A)、城を龍興に返す、永禄七・八年
    (B)、西美濃三人衆織田帰属永禄八年(1565)
    (C)、半兵衛織田帰属は永禄十二年(1569)ころ
    (D)、姉川の戦い(1570)
 となります。
 (A)では信長公の咎めをうけたからというよりも自発的に退散していたと思われます。したがって
 半兵衛は頑固に自分の考えを押し通したようです。織田信長があの信長であれば、龍興を織田の
 属国にして収拾したはずですが、信長夫人ということになると滅ぼしてしまうということを懸念したと
 思われます。桶狭間以後七年もかかって美濃を落とすという無駄が入りましたし、浅井朝倉を滅ぼ
 すといった余分なエネルギーを使ったということはやはり痛恨事といわざるをえません。

 Aの話はこの(D)のとき、半兵衛が織田に帰属してからの話です。このとき元亀元年では竹中半
 兵衛重治(重虎)の年齢は、天正七年(1579)の36歳病死から数えると、27歳ということになりま
 す。竹中久作(重隆)は16歳くらいということですが、久作は不破矢足の実子か継子(半兵衛にとっ
 てはまま母の子)ということが十分考えられます。●の内容によれば、半兵衛が不破八足の功を久
 作に譲るように頼んでいることから両者の濃密な関係といったことが暗示されていると思います。
 この弟久作が、半兵衛退去後、菩提山の城を預かっていたというのが自然の成り行きで、久作の
 功業は竹中家の名誉にもなることです。信長公記に出てくる不破彦三という人物はおそらく矢足の
 実子でしょう。この刀が竹中家ではなく不破氏の家宝となったことが重要です。まず両家が
 姻戚関係にあったことは合っていそうです。「矢足の妻は安東守就のである。」というのは、
        矢足の今でいうは安東守就のいまでいう
 といっているかもしれません。竹中半兵衛が安藤伊賀守の娘婿という間接的ということからだけでは
 ない一門というようなものではないかと思われます。竹中家は光秀とおなじ土岐源氏で太田(明智)
 重正(政)、木村重成の「重」を代々受け継いでいる、また不破重季という人もおりどこかで分家し
 た両家ということでしょう。

 B
の話も有名ですがこれは信長があの気まぐれな大魔王であるというものが前提となっています
 ので、信長二人ということになると話が違ってきます。荒木村重への説得の使者として秀吉が黒田
 官兵衛を派遣して帰ってこなかったので敵に内通したのではないかと信長が疑い一子長政を殺せ
 と命じ、半兵衛が匿ったというものです。
 大体、使者として派遣したものが帰ってこなかったら殺されてしまったかもしれない気の毒なことを
 した、その子を引き立てねばならないと考えるのが普通です。独裁者は猜疑心が強いということか
 らこういう話の結末となり納得させられているものです。竹中半兵衛と荒木村重は武功夜話でみる
 ごとく官兵衛にはたいへん不信感をもっています。この官兵衛の荒木城内の監禁説は、この地方
 に起きた一連の事件の官兵衛の不在を証明するものとなっているものです。他の任務があって、
 秀吉の目から消えてしまったので秀吉が怒ってしまったのを半兵衛が工作したということではない
 かと思います。
 これもこれが載っている資料評価と吾妻鏡式に読むことになっているのが見逃されているかもしれ
 ません。この安藤伊賀守父子は稲葉などに本能寺翌年攻め落とされて家が断絶しましたが、この
 地で芭蕉ゆかりの美濃俳諧がおこっています。
 芭蕉の句『菩提山』と題した
          『此の山のかなしさ告げよ野老掘』
 という句は、やはり竹中半兵衛(一族)のことを指しているととれます。西行からは悲しさは出てきに
 くい、往時栄えた寺と今との対比の悲しみというよりもやや大きな悲しみで、人間のことをいっている
 と思います。
 また芭蕉は空海と日光山を開基した勝道上人を重ねているので、西行と半兵衛を重ねたといえる
 かもしれませんのでこの菩提山の主の解釈は重要ではないかと思います。
  ここの「矢足」「道足」「鎌足」「やたり」なども重要で吾妻鏡の鞠足につながっています。
  なお不破河内はほとんど丸毛兵庫と接近して出てきますので二人は関係が深いかもしれませ
 ん。遠藤喜左衛門(甫庵信長記では遠藤喜右衛門)と不破河内を接近させたことも重要かと思い
 ます

三、蜂屋兵庫守
 芭蕉の「貝おほい」の冒頭に『小六突きたる、竹の杖』という文言が出ます。この意味はわからず、
 当時のなにかはやり唄の一種だろうという認識があるだけです。ここの小六は江戸赤坂に住んでい
 た美男で歌の上手な馬方で彼を主語にした小唄が多いそうです。
  しかし小六といえば太閤記で有名な蜂須賀小六しかないはずですが、芭蕉と云う芸術家が蜂須
 賀小六などというものに触れているはずがないと思いますからつい考えがそこに至らないのでは
 ないかと思います。
 「竹」と「杖」と馬方、唄などで小六を染めているとともに、蜂と竹を結びつけいると思われます。
  甫庵太閤記というのは太田牛一がからんでいるので、これは十分ありうることです。武井夕庵の家
 と蜂須賀の家は親の世代ということのようですが、姻戚関係が成立しています。道家祖看記に安井
 の女房が出てきますが道家尾張守を武井夕庵と解しますと、これが夕庵夫人となるはずです。
  武功夜話で次の系図が出ています。
       
    『 @蜂須賀家    ・・・・・・・・・・・・・ ●蜂須賀正利ーー 小六正勝ーー家政

      A安井家     ・・安井弥二郎ーー ▲安井弥兵衛ーー 安井弥兵衛
                  |         |            |
                   女子        ■女子        女子(浅野家へ)

 ■と▲は兄弟、●と■が夫婦となっています。一応、■の人が「名ナシ」なので、この人を▲の男性
 の兄弟と解すると判りやすくなります。太字の安井弥兵衛が、小六と同世代となり、夕庵夫人と考
 えられます。安井弥二郎の兄弟の女子は前野家に嫁いでおり前野と姻戚関係があり、夕庵が前野
 に出入りしているのも自然なことです。夕庵は浅野、したがって杉原とも親戚になります。
 この「安井」と「弥」というのが、明智一族のしるしとすれば、「兵庫」がで出てくるのも同じ意味かも
 しれないと感ずるわけです。「蜂」は蜂屋兵庫守という人がいます。おまけに兵庫がついています
 から、武井夕庵夫人の活動名がこの人物でありうるということが出てきます。これは重要人物では
 ないかということは信長公・明智光秀の近くで出てくることからも明らかです。
  この人の信長公記登場の最後は本能寺の年の武田陣です。以下首巻から33回の登場のうち従
 軍を除いて目だったものでは、永禄十一年の佐々木戦で、

       『柴田日向守・蜂屋兵庫頭・森三左衛門・坂井右近』

  の四人で先陣を承っています。
  ここの柴田日向守というのが少しおかしい、このとき光秀は十兵衛ですから柴田と日向守の合成
 でもない、甫庵でもこのセットでは柴田修理亮で出てきます。このように調べさせるのが目的でしょ
 う。柴田と組んででてきたのは太田又助です(信長公記首巻)から、これがひょっとして太田牛一
 ではないかという疑問もでます。
 明智兄弟は名前を共有していますので、太田牛一が惟任日向守と重なって出てくる場合があるか
 もしれないと思わせるものです。
  蜂屋兵庫頭は、元亀四年には、明智光秀らと従軍し、明智十兵衛と接近して出てきます。
 天正六年では三月と十一月に惟任日向守らと出陣の記事があります。明智関連の人と思わせるた
 めにいりいろと考えられていると思われます。
  天正二年蘭奢待の宝物を貰い受けるため夕庵らと同行しています。夕庵とも接近させている感じ
 です。次が重要で天正五年二月十日信長公が

       『飛騨(肥田)の城蜂屋兵庫頭所に御泊。』がありもう一回、九月廿七日
       『江州飛騨城蜂屋兵庫頭所に御泊。』

 が出ます。信長公がそこに泊るということは信頼関係があるということであり、古くからそういう付き合
 いがあったことも推定されます。あの織田信長が道家尾張守・安井夫妻の館に出入りしていたこと
 にも想念がおよびます。
 あの信長がしょっちゅう訪れていたのが安井屋敷かどうかはわかりませんが、蜂須賀小六も天文の
 ころ宮後村の母方有縁の安井屋敷にへ寄宿していたようで、
         
        『南北八十有余間、東西六十有余間・・・まことに広大堅固の構えに候なり。』

 と武功夜話に出ています。蜂須賀小六に兄八右衛門がいて、この八右衛門夫人は生駒氏、小
 六女房は三輪氏ということですから、秀次の一族です。したがって安井家は秀次とも姻戚という関
 係にあるようです。この安井家の当主が安井の女房で、夕庵も小六もここに身を寄せていた、この
 屋敷が信長が来ていた屋敷ではないかと思えます。なお前野の党領小坂孫九郎の夫人も三輪氏
 (小六夫人の姉)のようです。三輪氏は犬山城主の家の筋です。
 脚注によれば肥田の城は彦根市にある城のようですが、信長公記、甫庵信長記の記事では肥田
 氏が出てきます。ここは蜂屋兵庫と飛騨の関係がいわれていると思います。織田早期に出てくる
 肥田は飛騨という地名に関わっていると思います。肥田氏の本拠が飛騨にあったのかという想定が
 成り立つのかもしれません。これはあとでまた必要になってくる話と思います。
  蜂屋兵庫の信長公記の最後の登場は、天正九年の馬揃えです。これで終わりか、あと名を替え
 て出てくるのか私見では天正十年本能寺事件の前、安土城の留守居に出てくる全く一匹狼の賀藤
 (加藤)兵庫と云う人物として出てきているではないかと思います。すなわち、維任日向守が五月
 廿六日
      「ときは今あめが下知る五月哉」
 の句をよみ、五月廿八日、丹波国亀山へ帰城したあと
 
       『五月廿九日、信長公御上洛。安土本城(本丸と思われる)御留守居衆
       津田源十郎・★賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・(他三人)
          二丸御番衆
       蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・・・松本為足丸毛兵庫頭・鵜飼・
       前波弥五郎・山岡対馬守是等を仰せ付けられ、御小姓衆二・三十人召列れ
       られ御上洛。・・』〈信長公記〉

 となっている、★の人物として出ているのではないかということは前にものべました。これの根拠と
 して首巻に

   『御さき手あしがる衆
   あら川与十郎・あら川喜右衛門・蜂屋般若介(ここだけ「はんにゃのすけ」のルビあり)・長谷川介(ほ
   こりのすけ=橋介)・内藤勝介(信長の守役)・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞』

 が出ておりこの記述が出鱈目なので、蜂屋は蜂屋兵庫ととる以外になく「賀藤」との並びを意識し
 たものと思われます。
 夕庵は丸毛不心斎ということであれば、不心女房は夕庵夫人です。秀次と関係が深いということで
 秀次の施政を助けたということは十分考えられることです。甫庵太閤記は歴史記録としては、秀次
 の記録で終わっています。処刑された若君の死骸の処置について

    『不心の女房は走りより、関白家之御子之上へ、かくあればとて、かさね侍る物か。』

  といって文句をつけています。一番さきに「さもうつくしき若君」を殺しているのを受けているので
 これが秀次の実子かもしれませんが、この事件は男系社会として描かれたなかでのいままでの理
 解です。女系社会のなかでの事件と見ると大変な勘違いをしていることになります。すなわち処刑
 された妻妾の子女は誰の子かということになります。秀次の子ではありえないので、あの人物、サド
 ノカミイエヤスの子ということしか考えられなくなります。
 秀次の表記も、
     ○前関白秀次公之事、○秀次公御切腹之三使登山之事など、前関白秀次公・秀次公・
 秀次があります〈甫庵太閤記〉。二人秀次とみてよくもう一人はサドノカミイエヤスであろうと解釈でき
 ます。
 この妻妾という人達は、秀次にとっては政務を支援する側近の女房衆であり、サドノカミが家康も
 秀吉も容認していたというバックに恵まれ、その権力であらしまくった結果の始末を、家康が一挙に
 処置したという事件になります
 。しかも家康はそれを容認しながら、サドノカミに腹をたて立てすべてを殺してしまった、という鎌倉
 物語に近い事件に変質します。
  一方これは家康が武井夕庵とか家康の過去を知る人物や、関ケ原の役の相手となるべき人物
 を葬ったという家康の権謀となります。多くの人が怒るのは当たり前という事件でしょう。
 サドノカミイエヤスも怒ったのか、家康を毒でもって頭を朦朧とさせたという構図になるのでしょう。
  あまりに陰惨な事件のため後世も挙げてこの政権を攻撃しました。木村兼葭堂の後ろ盾の大物
 女性三好正慶尼も三好長慶と秀次を重ねた名乗りをしたのでしょう。
  不心女房の辞世の歌が甫庵太閤記に出ています。

     『           東   殿  六十一。濃州丸毛不心斎女房
      夢のまに六十あまりの秋にあいてなにかうき世に思いのこさん』

  これが「たいかうさまくんきのうち」では下のように変えられていますが、なぜ違っているのかを考え
させるものでしょう。

     『ひかし殿、        みののくに、ふしんにょうはう、六十一。
      ありかたや、みたのちかいは、すくれけり、いそきてゆくや、こくらくのみち。』

 ここの注書の「丸毛不心斎女房」の「丸毛」が「丸毛兵庫」につながり武井夕庵につながるもの
です。丸毛不心斎の死は

    『丸毛不心(他の人にはルビはついていないが、これだけ「まるもふしん」というルビがついて
     いる)は、相国寺門前にて老腹なれば、しわ、事の他(ことのほか)よりたるとて、同じくは首
     を打てたび候えと云い、うたれにけり。』〈甫庵太閤記〉

 というのが夕庵らしい感じで、大谷のしぐさと重なっていることは前著で触れました。ここでこの
          「東 殿
  となっている意味ですが、まずこの「東」は大たいずみ(太田和泉)の「たいかうさまくんきのうち」
 では「ひがし」と読んでいます。したがってその意味の「東」がまず考えられることですが、ネット
 「え〜なも探偵団」によれば、現在の名古屋市東区の北方に山田郡があり、織田時代にこれが消
 滅して、「愛知郡、春日井郡に編入されて消滅した。」ようです。つまりこの北方の安井・成願寺の
 あたりが、安食荘または山田庄のようです。
  東区の地帯は昔尾張国山田郡といわれていました。先に述べました江戸期の資料「山田兵庫
 守重正」「恵那郡山田の住人」というのは太田牛一=兵庫=恵那郡=山田=尾張山田を表してし
 まう大変ないたずらということがわかります。だから安井庄にいた(不心女房)は東殿といわれるのに
 ふさわしいといえます。
  また「東」は「とう」とも読めますがこの場合「東氏」がからんでいると思います。明智、可児、瑞浪
 から飛騨高山方面は遠藤氏・東氏・多賀氏などがあり、この方面に明智の痕跡が感じられます。
 土岐市の中心街の近く、土岐市土岐津町高山に城があり、この城は平井氏(平井久右衛門につ
 ながるか)の創建のようで、「光」の名乗りのある家です。
  この高山はすでに明智の三人が接近している(前稿)ので、夕庵もここにいたのかもしれません。
 織田に仕えるまえの美濃にいたころの夕庵の本拠とも考えられます。これが明智の跡であることは
 いろんなところで濃厚に出ています。例えば土岐郡浅野村は今、土岐市肥田町浅野であり、土岐
 郡肥田村は今の土岐市肥田町肥田であり、高山城といえば土岐肥田の高山城を指すことはまず
 明らかなことでしょう。
 飛騨高山城は、例えば郡上八幡は山内一豊も関係ありますが、東氏も関係があります。遠藤氏は
 飛騨高山に関係し、竹中久作が遠藤喜右衛門を討ち、他に人がいるなかで、遠藤だけがクローズ
 アップされているのは、両家がなんとなく接近していることを示します。このあたり土岐の家老、斉藤
 家の主たる筋である斉藤利三の本拠があったものとも考えられます。斉藤・明智が朝倉を頼ったと
 いう明智軍記などにある伝説は中濃ー飛騨高山の地理的な接近もあったのではないかと思います。
 結局どちらの高山かといって一本の絞ることはいらず、まず両方生きと二つを許容しなければなら
 ないと思います。すなわち前高山と奥高山、前穂高・奥穂高などというような捉えかたです。両方
 違った意味の明智の活動跡があったと思われます。
  角川文庫版の信長公記では、蜂屋兵庫は蜂屋頼隆ということで生年不詳

    『(〜1589)美濃加茂郡蜂屋出身という。のち秀吉に仕え越前敦賀城主。』

  とされています。1589は天正十七年で秀吉が小田原北条氏と事を構えようかという頃です。蜂屋
 兵庫と東殿が同じ人物とすると死期が違いすぎます。ここでネット記事の片言隻語が役に立ちます。
 蜂屋兵庫のネット記事を引くと、享年が書かれていましたので借用します。この「蜂屋頼隆」記事
 mizoeは

    『 ? 〜 1589(9月25日)、この資料は、両家記、多聞院文書、宗及記、尋憲記、武州文書、信長公記、
    顕如書、足利季世記などなどの文書を参考に繋ぎ合わせたものです。・・・』

 となっています。こういう合成されたものこれが役に立つのです。これによれば
           56歳で天正十七年(1589)
  に亡くなったと書かれています。東殿は、この6年後文禄4年(1595年)、61歳で亡くなったこと
 は述べましたが、これでいくと天正十七年では55歳となりますからほぼ同じ年となっています。
  慈円は愈年法というものを述べており(前著)、満年齢を発明したことをいっていると思いますが、
 二年の違いは合いではないかと思います。一歳違いで同じ、偶然では出来すぎですので意識して
 されたものとも思います。
  敦賀城主の前はネットによれば岸和田領主であったようです。ここに明智の痕跡が残っています。
 岸和田本徳寺に有名な明智光秀の画像があります。あとつぎがいなくて改易になったということで
 すから、本人自身の経歴をいっているのではないかと思います。56歳で秀次を支えることにしたと
 いう区切りをいっているかも知れません。
  ちなみに道家尾張守の末子という人物(祖看=小瀬甫庵)はこのとき、32〜33くらいになるはず
 で現に子息は存在していて隠されたとみてよいようです。
  芭蕉の奥の細道の越前敦賀は、「弥市郎」というあるじが出てきますが、芭蕉はこの東殿と対座し
 たつもりかもしれません。芭蕉は敦賀で西福寺に行っています(曾良日記)。岸和田にも西福寺が
 あるようですから寺にくわしい芭蕉にはつながりが思い起こされているかも知れません。慶長20年・
 元和元年は前著では太田牛一の没年(90才)としましたが、それでいけば文禄四年から20年後で
 90才となります。東殿が生きておればそのとき81才となる理屈で東殿と夕庵は九つ違いというの
 が出てきます。夕庵は再婚か、その前は武儀の丸毛氏と姻戚関係があったのかも知れません。

四、蜂屋庄
 蜂屋兵庫の本拠は美濃加茂ですが、ここは注目場所とされていることがわかります。武功夜話で
 蜂屋村がクローズアップされます。これは明智重臣、進士作左衛門信周と関係があるからです。
 ネットで「進士信周」を引くと四件もあるから驚きます。ほかに進士作左衛門を引いてもかなりありま
 す。進士信周のharimaya/comを借用しますと、光秀の父について

   『「尊卑分脈」「続群書類従」などの系図には、光秀の父を光隆とし、また光綱、また光国として
   一致しない・・同一人物のことをいっているのかもしれないが確定的ではない。いずれにせよ、
   それらの系図では土岐一族の明智氏から光秀が出ていることは確実なようだ。が、そうした考え
   とは別に光秀を明智の出とはせず、まったく別のところからの出自のものが明智を名乗ったのだ
   というものもある。たとえば、進士信周という侍の二男であったとか、若狭国小浜の鍛冶師の二
   男であったとか、さらには御門重兵衛というものが明智姓を称するようになったとか異説について
   はいろいろとみられる。・・・・
         略系図・・・・・・・・光隆 ー 光秀
                          信
                           秀      』

 と書かれています。この系図が明智三兄弟を暗示するものです。「信」が二男で夕庵、「康」が牛一
 です。光隆、光綱、光国は同一人物ですが三人を暗にいっていると思います。つまり本人には実母
 と継母と、男性のいまでいう父のことが思い浮かべねばならない親があります。一見関係のなさそう
 な他愛のない話が日本史にも多いのですがこれは事実をいっているのではないが、真実を端的に
 述べているというものです。ここの進士の話は光秀と最後をともにした、進士作左衛門のことである
 のは明らかでしょうが、これが、結果的に蜂屋兵庫守が武井夕庵夫人であることを証明してくれると
 思います。
 はじめの若狭国の話はまずここの武田氏と明智がい近い親戚であることがすぐ思い起こされること
 ですが、これは覚えているとほかのことと結びつくかもしれません。
 御門重兵衛の話も直感的には御門は「三門」で三家、重兵衛は明智十兵衛は明智重兵衛ではな
 いのか、太田牛一も重正(政)というかもしれないということは述べましたが、「重」がカギだということ
 がいえますので覚えておいて何かと必ず結びつくことになっていると思います。いままで、夕庵夫人
 =安井の女房=不心女房=東殿が蜂屋兵庫につながるのは
       @安井蜂須賀の「蜂」と
       A「丸毛兵庫」「山田兵庫」などとの「兵庫」という字句と、
       B信長公と特にしたしい
 ということだけでしたが決め手が欲しいことは当然です。蜂屋庄というのは吾妻鏡にすでにあって
 当時は 時多良庄と二つくらいしか出ておらずかなり広い地域をさしていたと思います。その庄を
 借りてきたのではないかと思います。戦国時代では蜂屋村というものに変わっています。戦国時の
 蜂屋の住人は武功夜話において岸勘解由という人物が出てきます。これは埋蔵金伝説の主人公
 としてです。ネットの記事komiyamaを参照しますと
      
      『堂洞城の埋蔵金
      埋蔵額=(空白)
      埋蔵者=岸勘解由
      埋蔵時期=永禄年間
      埋蔵地=美濃加茂市下蜂屋
      背景=斉藤龍興に仕えた美濃蜂屋庄の住人岸勘解由は永禄八年織田信長の美濃侵攻
      に抗して破れ、落城の際に財産を埋めたという。「朝日さす夕日かげらふ堂洞城に、こがね
      ざっくりかくし置く」』

 ここに歌のようなものが付いています。もう一件歌の付いているのをあげますと、郡上八幡が出てき
 ます。

       『小那比の埋蔵金
      埋蔵額=百万両
      埋蔵者=空白    埋蔵時期=空白
      埋蔵地=郡上八幡
      背景=八幡町小那比の長者が黄金を埋めたという言い伝え。「朝日照る夕日さすこの木
      の元に黄金埋め置く百万両』

 歌の文句は両方とも「朝」「夕」「黄」で「白」と「金」を出したのでしょう。この岸勘解由は武
 功夜話に曰く
          『美濃可児郡の蜂屋村の住人』
 です。蜂屋村の住人は蜂屋兵庫ではないのです。岸は
          『東美濃無双の豪の者』
 で脚光を浴びさせて、
          『妻子とも自害して相果て候なり。』
 と結んでいます。すなわち明智城のある可児郡、堂洞取出は太田牛一武功の場でもあり、なんとな
 く明智の関連ではないかと思わせるもので、この人物を原型にして蜂屋兵庫を作ったといえると思
 われます。
 もしくわこの人物は一匹狼として作られた 別の人物になりかわるためここで表記を消したと思われ
 ます。
  武功夜話で、二箇所の岸勘解由につぎのルビがありこれが重要です。

              (信周)
             岸勘解由

  となっています。進士信周というのは先ほど出てきました。この二男が光秀という話ですから、
 二男は信教で夕庵を暗示するということになります。すなわち

     蜂屋村の住人信周=進士作左衛門

 であり、埋蔵を介しても関係が出てきます。
        進士二男ー光秀ー夕庵ー安井ー東殿ー蜂屋兵庫
 となり
        郡上八幡ー飛騨ー飛騨高山ー美濃加茂ー肥田ー下蜂屋ー土岐高山・・・、
 このあたりは武井夕庵が織田に出仕する前の根拠地でもあったと思われます。
  進士作左衛門についてもネットで調べると、やはり明智の軍資金を管理しており、山崎の戦いに
 おいて時に利あらず、再興を期して資金を隠したという話になっています。
   これは経理・財務に精通していたということを暗示している、しかも信頼あり溝尾庄兵衛と同様
 これも一門であることを表すものでもあると思います。
  進士二代にわたっている、シニアの方はあの賄い方、山田弥右衛門にあたっていないか、すなわ
 ち、平手に賄い方をかわる大物は明智光隆に相当する、斉藤か、宗宿か、義理の方の親、たとえ
 ば森氏の人ではないかとも思われます。こういうことから太田牛一と平手政秀はよほど懇意だった
 ようです。
  志賀郡は政秀寺があり沢彦宗恩が開基したといわれますが、この人物とも親しいと思われます。
  江戸時代の堀田氏の系図が重要で、山田三左衛門は山田弥右衛門の子ということですから夕庵
 ・牛一・津島の堀田氏など理財を思わせる挿話がたくさんあるようです。
  明智光秀の親は斉藤利三と宗宿としても宗宿が再婚するといまでいう父も義理の親となるので
 進士氏も全然出鱈目の話でもないと思います。

五、明智の地
  明智の活動地域について芭蕉の句碑の在所という観点からみるのも良いかもしれないので、ネッ
 トで拾い上げてみました。watanet
 句碑のなかで江戸期以前に建立されたことが確実なものは芭蕉の心を知った人がヒントを撒いた
 ものとみてよいかもしれないというところからあげてみました。例えば芭蕉の行ってないと思われる
 もので句碑があれば何かあるかもしれないわけです。岐阜市内は10個あるようですが建立もわから
 ないものあります。6個は確実に明治以前のようです。ただ岐阜市は岐阜城があるので吟行してい
 るからというのもありますが織田・斉藤・明智が関係するのでどちらの意味でもあるのは当然です。
 以下は目ぼしいものを拾ってみます。こういう観点から建立されたとみて差し支えなさそうだという
 ものもあることがわかります。

 A、岐阜市内
    句碑          在所               建立年            その他
  @岐阜市内  長良川左岸、湊町旅館      寛政12年建立、   美濃派文蘇坊により建立
  A 々      長良川右岸、岐阜城山頂     安永2年       鳰亭連中
  B 々      長良川左岸、岐阜公園内     −−−−       Aと同じ妙照寺内
  C 々      伊那波神社              安永6年
  D 々      黒野三ツ又地蔵寺          元文元年       長男二春建立
  E 々      北野大智寺,獅子庵         −−−−      美濃派道統句・追善碑
                                              もある
 現在「稲葉山」と題して「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」と「岐阜山にて」と題する「城跡や古井
 の清水まず問はむ」という句がありますが、いずれも戦国時代と関係なさそうなので城も昔をしのぶ
 背景として理解されています。岐阜市の分だけ見れば句碑もそういう句があるから建てられたとい
 われそうです。

 B、中濃  
    句碑          在所               建立年            その他
  F美濃加茂  太田町上町祐泉寺         古いもの        林冬甫建立
  G可児郡    兼山町可成寺           明和3年         美濃派素陽坊ら建立
  H土岐市    妻木町庚申町           江戸末期        更科紀行の句
  I加茂郡    八百津町久田見長者屋敷    文政3年      伊賀上野付近「笈日記」の句
  J瑞浪市    大湫町松葉垣外旧中仙道脇  年代不詳        句は泊船集
  K 々      釜戸町旧中仙道脇        元治元年      村中有志花月坊書で建立
  L 々      日吉町小高峠弘法堂       宝暦12年       寸芝ら建立
  M市      日吉ケ丘弁慶庵         天保14年  続猿蓑」の句、「芭蕉は関に来ていない」
  N 々       一ツ山常光寺          文久3年         「笈日記」の句
  O 々      長谷寺町新長谷寺        寛永(政?)      「泊船集」の句、関俳諧社中
 
 中濃ではFGHの太字のような明智関連のものが出てきます。Gは森三左衛門可成ですが、なぜ
 芭蕉と関係するのか、Hも同じ疑問が出ます。光秀のあの愛宕山の発句のなかの三句、
   「ときは今あめが下知る五月かな」「水上まさる庭のまつ山」「花落つる流の末をとめて」
 の句には「とき」は今の「土岐」、「水上」は上の「瑞浪」で、「とめて」は「堰き止める」の意味もあり
 ますが、「関市」の意味があり、明智関連の郡村が織り込まれているようです。このあたり句碑の所在
 地に反映されていそうです。中濃の句碑は芭蕉と明智の関係を知っている人がいたということを示
 しているものでしょう。とくに可成は明智との関連は今まで読まれておらず、〈戦国時代〉の読みを
 支持してくれているようです。

 C、飛騨 
   句碑          在所               建立年            その他
  P郡上郡    郡上八幡町愛宕山公園     宝暦10年      故郷伊賀での句・「初祖芭蕉翁」
  Q高山市    総和町国分寺           江戸末期        芭蕉の没年月日記す
  R 々      城山町大隆寺           天保3年        Jと同じく雲橋社の創建 
 なおIの句の碑が武儀郡洞戸村市場にもあるそうで、武儀は夕庵関連ですが関係があるかどうか判りませ
 ん。
 Eの句は「古池や蛙飛び込む水の音」という句ですが、これも高山市神明町正雲寺にもあると書か
 れてます。これも関係があるかないか分かりません。飛騨の高山はF土岐(肥田)の高山を強調し
 ているのではないかとも思われます。

 D、西濃大垣およびその郊外
 竹中半兵衛、不破河内守の関係は大垣・不破・養老などでしょうが不破は5件もあります。「此山の
 悲しさ告げよところほり」の句は不破郡垂井郡岩手菩提寺にあります。句碑の創建はわかりません
 が岩手となっているので竹中の関連をいっているのでしょう。養老郡は三件で、上石津町のものは
 文政二年のものです。安藤一族の本拠本巣郡北方町西運寺にもあり、ここ北方は俳諧美濃派の拠
 点跡とされています。大垣関連はたくさんあります。大垣は、昭和のもの四件、古そうなものは二件、
 大垣赤坂町法泉寺に天保15年建立のものがあります。

 E、東濃
 恵那、中津川が多く、
 @恵那市長島町・A恵那郡明智町滝坂公園(天保年間建立)B恵那郡山岡町原(寛政7年月斎
 建立)C中津川市上金旭ケ丘公園指月亭建立)がありGの森可成の寺の、山路来て何やらゆかし
 すみれ草、の句碑はほかに中津川市や岩村町にもあるそうで、ここに明智の生活反応があります。
 その意味では中濃の明智城はやや影が薄いように感じられます。おそらく明智入道宗宿の城では
 なく、戦いの中で明智城が戦場になってそこで討ち死にしたのではないかと思われます。この戦い
 は前野や土田、森も参加していて義龍側連合軍の一つで、宗宿入道がここで後退をせずに死を
 選んだと考えられます。
 要は句碑をみても江戸学者によって不破河内守と蜂屋兵庫守は芭蕉に関係付けられていると思
 います。

六、進士作左衛門
 進士作左衛門をネットで引くとsyutendoji28110による「かごめかごめ」の謎という記事に出くわしま
 す。明智光秀について避けて通れない話なので少し触れてみます。

   『空海の「性霊集(しょうりょうしゅう)」によると、日光輪王寺は、782年(天応2年)、勝道上人
  
(しょうどうしょうにん)が難行の末、二荒山に登頂し、四本竜寺を建立したのが輪王寺の前身と伝
  えられている。日光の地は二荒(にこう)の音読みによるといわれ、・・・・』

 となっています。芭蕉の奥の細道によれば

   『往昔(そのかみ)此の御山を二荒山(ふたらさん)と書きしを、空海大師開基の時日光と改め
   給ふ』

 と、日光開基者を空海と間違って書いています。芭蕉は空海上人と勝道上人を性霊集という媒体
 を通して重ねたようです。

   『「かごめかごめ」の歌は天海作といわれているがこの歌を天海が作ったという証拠はない。』

 とされていますが、進士が噛んでいると明智光秀と結びついているものです。この唄を媒体として
 明智光秀と天海僧正とが結びついているとみてよいのか知りませんが、とにかく天海がこの歌を作
 ったという話もあるのは事実と思われます。日光は

   『(秀吉の時代荒廃していたのを)天台僧の天海によって復興され・・・・』

 たのは間違いないことでしょう。唄の内容が載せられ、解説がされています。

   『一、かごめ かごめ  かごの中の鳥は いついつ出やる
     夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面、だあれ

   二、向こうの山で 鳴く鳥は 信心鳥か ニワトリか 
     銀三郎のお土産に 何と何とを買つてきた 金ざし かんざし 買ってきた 
     納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてつた

   、向こうの山で 鳴く鳥は 信心鳥か ニワトリか 
     三郎のお土産に 何と何とを貰つた 金ざし かんざし 貰つた 
     納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてつた

   三、その文だれだ 金三郎の妻だ
     金三郎の妻はさんしよにむせた

   四、鎌倉街道の真ん中で一抜け 二抜け 三抜け
     さくらさくらの下で文一本ひろつた
     あくしよ あくしよ 一本よ 』

 金銀きらきら、文字文言の繰り返し、数字が入っていて意味は不明としてもその背景があるだけで
 登場人物や動物は女人でしょう。。寄稿者の解釈があるので見てもらうとわかりますが、例えば金の
 ニワトリが内部にあることは「ニワトリは昔から黄金を象徴する鳥として知られています。」と書かれて
 います。鶏鳴とは夜明け、あけがたのころ空に光が出ようかという時期ということでもあるのでしょう。
 かごめかごめーニワトリの金ー日光ー天海ー埋蔵金ー進士信周ー明智光隆・・・・・・・となっていき
 ますが芭蕉が間違って空海をもってきたのは
       空ー天
 と連想したのかもしれません。これは空海と天海を重ねたことになりますが、もしそうとすれば空海と
 家康を間接に重ねたということになります。明智光秀天海説はひょっとして芭蕉のころ出来上がっ
 たのかもしれません。事実を語っているかどうかを中心に歴史文献を読んできているのでこういう話
 は捨てられますが、真実を語るための物語が一杯あるのです。明智光秀が生き延びて天海になっ
 たという話の意味は、もうテレビでも解説されていますので私のものは二番煎じのものですが、二番
 三番も重要で、積み上げていくのが必要です。
 天海は108歳といわれていますがこれは長すぎますので、親子重なっている可能性が大きいよう
 です。
  家康二人で、広忠の子の家康と、家康公(酒井)の子の家康がいたと思われますが、広忠の子の
 家康が三河後風土記で家康卿と表現される人物でこれが天海だと〈戦国〉で推定しました。この人
 の妻は築山殿ですから、悲劇の武将で名将だったとされる松平信康は天海の子か継子となると思
 います。松平信康となっていますから実子の可能性が大きく、あのとき生き延びたのではないかとも
 考えられます。これはどういう社会であったかということが大きな影響を与えると思います。
 慶長記に天海とならんで出てくる金地院崇伝はこの子、本当の天海の孫ではないかなどと一応決
 めて当たってみるといろいろ出てくるかもしれません。ここでの寄稿者の解説で重要なことがありま
 す。

     『一番の歌詞には、陰陽が存在していることがわかります。
      籠の中=出る(内と外:捕らわれと解放)

      夜明けー晩(太陽と闇)
      鶴ー亀(天と地)

      出るー滑る(失敗と成功)
      後=正面(前後)  
  東照宮の中には陰と陽に関わる彫刻が多い・・・・・・・』

 私見ではこれが冒頭に述べたこの社会の特徴だと思います。正・反の中から合を見つけて行くと
 いったものでしょう。もしこの見方でゆくと、ものには裏表があるものですから一本やりの進歩発展と
 かいう考えが根本的におかしことに気づくものです。科学技術の発展などは精神の自由を阻害し
 なければこれこそ自然に実現してゆくものです。それに反面があり、全体を見てゆく智慧が要求さ
 れるものです。次に、この二番に二通りがあるのがまた重要です。最後の太字も重要だと思います。
  太安万侶の天孫降臨の条は一書に曰くというのがたくさん(八つ)出てきます。これは本当に別書
 があって散逸したと思ってしまいますし、頼りないことだと思いますが、そうではなく、これは太安万
 侶があぶり出しのために作ったものです。たとえば芭蕉は「しのぶの里」のくだりで同じことをしてい
 ます。以下平井照敏「おくのほそみちを読む」からの引用で、重要なところです。

    『俳文の性格や歴史について概観してきたが、その創始者である芭蕉の作品が、もっとも高雅
    で、深い俳趣をたたえていることは、否定できない事実なのである。その芭蕉の俳文を、もう一
    つ鑑賞しておくことにしよう。「文字摺石(もじずりいし)」というテーマの俳文である。
          忍ぶの郡、しのぶの里とかや、文字ずりの名残とて方二間ばかりなる石あり。
          此石は、むかし■女のおもひ石になりて、其の面に文字ありとかや。山藍摺り
          みだるゝゆえに、恋によせておほくよめり。いまは谷合いに埋もれて、石の面は
          下ざまになりたれば、させる風情もみえずはべれども、さすがにむかしおぼえてなつ
          かしければ、     
           早苗とる手もとや昔忍ぶずり     芭蕉  
    これは「芭蕉庵小文庫」の形で、ほかに十ほどの異文があるものである。芭蕉もこの歌まくら
    が気に入って、何度も書き与えたりして、異文が多くうまれてしまったのであろう。・・・・・なかな
    か風雅な一文で、文がいかにもよく句を支えている。この文に符号する一節が「奥の細道」に
    あることは周知のことだが、そちらではもっと旅行記風で、石を尋ねて信夫の里へ行くと、石は
    半ば土に埋もれていた、子供が来て教えるところによると、昔は山の上にあつたが、人が来て
    は麦をあらして石を摺つてみるので、●底につきおとしたのだというとして、句がかかげられ
    るのである。旅行記のなかと、独立した俳文とで、文章の形がかわるのは当然のことで、▲芭
    蕉はたくみにこの佳句を二様にはたらかせているわけである。・・・・・・ 』

 太字のところ、太安万侶と芭蕉は同じことをしています。奥の細道では●のように元文を変えてい
 ます。細道の文では、
    「此の谷につき落とせば、石の面(おもて)下ざまにふしたりと云う。さもあるべき事にや。」
  となっていました。平井氏は、もとの句は元文に合っているといわれているのに、奥の細道の文は
 この句に合わなくなっています。文を変えることにより主張をしたということになりました。
  時代背景にある色ー危機ーダテ政宗のことをいったと思います。
  ついでですが■の部分、平井氏は
               「女のおもい石になった」
 と解されています。ここは「に」と「が」の両方が生きではないかと思われます。〈大河〉625頁の
               「日の道や葵傾く五月雨」
 が「葵に傾く」と「葵が傾く」とが考えられるので、光秀の発句が両方の意味があると解せる根拠にも
 なると思います。どちらかに決めたいとあせると無理な解釈につながっていきます。▲のように二様
 が成り立つのです。
 森鴎外も二つの文を用意していました。
  天孫降臨の場面もあぶり出しがされたと解釈して語句を追っていけばよいようです。天孫降臨の
 高千穂がどこか、今も南と北に二つの高千穂がある、大分方面の西臼杵郡の高千穂と、宮崎・鹿児
 島の境の高千穂峰で、ここでも本居宣長が出てきて宣長も決めかねてそのままになっているという
 ことですが、宣長は両方あるからそのまま指摘しただけのことでしょう。結局二元をいつているわけ
 で二つを許容しなければならないことになるわけです。すなわち、ここで先ほどのかごめかごめの
 話ではないが、「後の正面」=前後という見方、ここでは前穂高・奥穂高、立山・後立山と同じ、
 前高千穂と後ろ高千穂があるわけです。
  一書に
    『筑紫の日向の襲の高千穂のクシ日の二上峯(ふたかみたけ)の天の浮橋について、平地に
    ある浮洲におり立ち、』

 となっています。ここで二上とあるのは太安万侶は大和の二上山を見ているわけで、それが頭にあ
 ります。二上山は二つの頂がそびえ駱駝の背のようになっています。すなわち二つの頂が吊橋
 (浮き橋)によってつながっていると見ています。地名でも西から豊・豊、筑・筑、肥
 肥とありますが、この感覚です。まあ日向にも前日向と後ろ日向がある、前日向に前高千穂、
 後日向に後高千穂があるような感じです。九州というのは豊前・豊後、筑前・筑後、肥前・肥後、
 日前。日後と侏儒国(薩南)かもしれないのです。すなわち後高千穂からつり橋を渡って前高千穂
 にきて下りた、そこが浮橋の下、浮洲ー浮羽地区ではないか、ここから北上して博多湾岸の勢力と
 協調したということかと思われます。
  金印の委奴国の「委」は日本書紀では「わ」と呼ばせています(継体記)ので、金印の委奴は倭
 の奴国のことで、且つ「いとこく」とも読めますので伊都国のことでもあり、ここが前倭奴国、邪馬台国
 の南女王の境界がつきるところの後倭奴国と二つあると思います。
  倭人伝の里程で前の「奴」と後の「奴」の二つあったことに対応すると考えられます。惟任日向守と
 いうのはこういう「日向」の意味はないのかという疑問はありますが、明智郷が、東西二つあり、高山
 の南北二つある、のと同じそれはそのままも許容しなければならないという意味で付加しました。
 あちこち飛ぶ、のはその社会が連綿といき続けて時のリード層が継承し続けているので仕方がない
 ことです。

七、その他
 前稿で、明智・石田について記しましたが、甫庵太閤記のつぎの記事はなぜ観音寺が出てくるの
か奇異に感じられましたので考えてみました。
 大明の正使を家康卿、副使を利家卿が五月十五日より同廿一日まで馳走したあと、別人に十日づつ
 もてなしの命が下った、その内容です。

     『 一番  五月廿二日より六月朔日まで   浅野弾正少弼
       二番  六月二日より同十一日まで     建部 寿徳
       三番  十二日より同廿一日まで      小西 如清
       四番  廿二日より七月朔日まで      太田 和泉守
       五番  二日より十一日まで         江州 観音寺 』

 また経費は自己負担でやるようにという命令が出ています。「近江の観音寺」は鷹狩の秀吉が立ち
寄り三成の機転の利いた茶の接待で、召抱えられるようになったという話でしられています。よくみる

     『六月廿八日唐使衆大明へ帰朝有るべきの旨仰せ出される』

 という文がとで出てくるので少なくも太田和泉守と観音寺は役目がないはずです。また、これは名
 護屋でのことで江州観音寺は関係なく、大名でもないので主体となりにくく費用もも寺が負担する
 のはおかしいようです。明智と石田を接近させたとみるべきかと思います。
  2003年、年末、下手な五七五が浮かびました。
                太 鼓
        西・勝・竜  太鼓を前に  思案顔        

                一打ち二打ち三流れ
        雪夜中   太鼓連打乎(か)  嗚呼(ああ)山鹿
               
                一つ違い
        四十七は  四十六とも    いいつべし

                継 承
        百済から 大伴金村  賄賂受け
        浅野から 吉良の上野 賄賂受け

 秀次名君というのは合っていそうです。東殿、不心斎、長康、光秀の息女(信澄夫人)など多くの
人材が応援していましたので領主としての実績はみるべきものがあったと思われます。吉良も大伴
金村と重ねられていそうです。大伴金村は雄略朝から継体朝の境目に出てきて、万葉集を飾った
大伴の祖のようですから重要人物です。吉良上野介も名君伝説があります。みな何かを残さんとする
ダシになっているようです。
                                           以上
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