岩室長門守

 芭蕉で文章の入れ替えを論じた際、信長公記の例を取り上げましたが桶狭間の肝心の場所で少し違和感があったところがありました。入れ替えを要するのかどうかでまた解釈が違ってしまうと困りますので少し触れたいと思います。また日本史の古文献をよく引用して述べている徳富蘇峰が桶狭間についてどう述べているか、私のものと食い違ったところがあるかをも見ておきたいと思います。

(1)余分な追加
以下蘇峰の近世日本国民史織田信長・講談社学術文庫からの引用です。

    『信長は主従六騎で、清洲城を飛び出した。彼は途上しばしば馬を輪駆けして、士卒の跟随(こんず
    い)を待ち、熱田に至るころには、三百余人に達した。時に十九日午前八時ごろであった。彼は熱田
    神宮に戦勝の祈りを捧げた。頼山陽は「ひそかに詞官をして甲を龕中(がんちゅう)に鳴らさしめ、信
    長軍士を顧みて曰く、神我を助くる也」と書いた。これは小説かもしれぬ。
    「熱田出馬の時、乗馬の鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)とへ、両手を掛け、横様に乗り、後輪へ
    り掛かり、鼻(はなうたい)にて緩々(ゆるゆる)としたる様体なる故、跡にて熱田の者共、今軍
    を成さるべき人の様には見えず」〈山澄本桶狭間合戦記〉というた。綽々(しゃくしゃく)たる彼の胸中
    には、業既に成竹(せいちく)があったであろう。』〈蘇峰〉

 下線のところ信長のとの戯れを長々と述べ、「」や「緩々」という言葉を他からわざわざ持ってきたのも重要です。「緩々」と「謡」は信長公記にある今川義元の仕種(しぐさ)です。

(2)甫庵の重視
 蘇峰は太田牛一の信長公記は

      「予は日本において、かくのごとき史筆の存したるをなんとなく誇りと思うのである。総見記は・・・
      甫庵の信長記に比して、かえって取るべきがある。」

 といっており重要な甫庵信長記をこととさら無視するようにしていて、これは桑田忠親氏と共通しています。
しかし上の文の熱田神宮に戦勝の祈願をしたことは信長公記ではなく甫庵信長記に出ており、また頼山陽
の書いた話も甫庵に載っていて小説のたぐいではありません。またこの文の締めくくりで、なぜか信長が「余裕綽々」だったと述べ、はじめから成算をもっていたといっています。
この続きも重要です。蘇峰は重要なところは軽く飛ばしてしまうのです。

    『当時満潮であったから、彼は迂路(うろ)を取った。戸部・山崎の間で、・・・・・行く行く諸城砦の兵を
    併せ、丹下を過ぎ、善照寺砦の東に至ったころは、その兵既に三千人と称せられた、・・・』

 と書いています。「当時」満潮というのが重要で、当時刻ではないのです。要はどちらにしても「水」というものが信長の行動を制約したことが読まれているわけです。制約されたということは作戦に利用されたということになります。ここの戸部・山崎というのは今の熱田より南東、名古屋市南区の呼続の方向です。笠寺とか戸部に城がありますが、山崎というのは山崎川があり、山崎の城は善照寺砦の大将、佐久間信盛のいた城とされているようです。佐久間信盛の本拠があったところを通過したことは単なる通順だったからというよりも信頼の厚さもあったかもしれません。まあ人数を集めるために寄ったとありますが、砦にも兵は必要でしょうからみな連れてゆくわけにはいかず、ここに及んで激励も必要はなく、鷲津丸根から退避した兵などがこのあたりにも集結していたと思います。
 戸部・山崎の方角は、実際では本来の進路から東北に迂回したわけですが、信長が熱田から鷲津・丸根を望見したとき「東」を「御覧」と書いてあります。これは厳密にいうと南東といっても南よりですから、東ではないのです。しかし、今川は東、織田は西という構図にしていると思います。これの方がわかりやすいのでそうしたと思います。邪馬台国の場合も、こういう「東」が近畿ということになっています。これでいけば北の方へ迂回した、つまり山の手道を行ったということになり、水の影響というものがはっきりしています。ここの兵三千は信長公記には書いておらず、甫庵に三千と記されています。ここ次の甫庵の記事はずばり真相を表していて頼りない記事とするのはおかしいのです。

    『浜の手は折節潮満ちて、馬の通いもなかりければ、笠寺の東なる細道を経て、取出々々の勢をも
    相具し、善照寺の東の夾にて勢を揃えけるに、漸々三千計りに見ゆるを、勢いは五千余騎ぞ、軍の
    行(てだて)を以つて敵をトリコにすべき事案の内なり。』甫庵信長記

 となっていますから蘇峰はこれをそのまま使っていることになります。
太字、朱の部分は蘇峰は意味を汲み取っており、次の文にみられるように大人数に見せる操作があったといっています。

    『信長は若干兵を善照寺に留め、多くの旗幟(きし)を建て、疑兵を張り、敵軍を牽制し、約二千人
     を率い、迂回して奇襲を企てた。』〈蘇峰〉

 と書いていますから、蘇峰も人数を多く見せたといっています。三千を五千の勢いにするのは約二倍の旗幟(きし)があればよく、旗を一人二つもって倍の人数にみせたことをいっています。だからこの五千はあの太子ケ根山上で掲げられた旗数とみてよく、ここの三千は500が佐々・千秋の正面囮部隊、2500が太子ヶ根へ向かったといえると思われます。この2500×2=5000が「勢い」と甫庵がいっていると思います。要はわかるように書かれている、諸書矛盾していないということです。熱田での人数は、信長公記は三百、甫庵信長記は一千余騎が違いますが、信長公記は全般にわたって数字や怪奇は書かないいことにしており、書いてる場合は意図があり、この場合はことさら寡兵を強調している、完全さを避けている面があります。この場合は三百は最小単位五百(佐々千秋の人数三百を五百といいたかったのと同じ)で、甫庵の1千はこの500×2が含みとなっている、実際は五百人くらいがが熱田に居た、ということだと思います。

(3)曲げる
先ほどの蘇峰がいう「疑兵を張り」というのは、善照寺砦でやったとは信長公記、甫庵信長記には書かれていません。このあとの信長の指令は

    『敵勢の後(うしろ)の山に至って推廻すべし。去る程ならば、山際までは旗を巻き忍び寄り、義元
    が本陣へかかれと下知し給いけり。』

 で、旗は山で揚げるつもりです。梁田がいうには

    『敵は今朝、鷲津丸根を攻めて、其のを易(か)うべからず。然ればこの分にて懸からせ給えば、敵
    の後陣は先陣なり。是は後へ懸かかり合う間、必ず大将を討つ事も候わん。唯急がせ給え』

 ということですが、景気付けをやったので大将を討ち取るとなっています。がここでは確信のないことでしょう。梁田はややこしい言い方をしていますが、「陣」が四つも出てきて、先・後があるので今までいってきた前・後と同じ意味でこの戦いの背景を語っていると見て良いと思います。敵勢力は陣は頭でっかち尻すぼみとなっているので、尻の方を狙うといっていますが、義元は沓掛の方から入ってきたので、これは「東」の方角を指しており、織田からみて、いま義元のいるところから向かって左側(おく)を衝くという感じになると思います。
今いるところは、善照寺ですが蘇峰は

    『「・・・・ふり切って中島へ御移り候」と太田牛一は記したが、その実は中島には移らず、善照寺よ
    り、田楽狭間の方に赴いたと信ずべき理由がある。』〈蘇峰〉

と書いています。蘇峰はこのあたりの叙述の見出しを「桶狭間の奇襲」としていますので、ここから蘇峰は奇襲説のための叙述に変えています。中島へ行かなかった理由とは、続いて

   『そは、信長が老臣らの意見を肯かず、中島へ移らんとする際に、あたかも梁田政綱の蝶者、沓掛方
   面より帰り、来たり、義元がまさに大高に移らんとして桶狭間に向かえりと語(つ)げ、またひとり来たり
   て即今、田楽狭間に休憩し居る旨を告げ、すなわち政綱の言を納れて、直ちにここに向かって、突撃を
   試みたからである(日本戦史桶狭間の役)。・・・(信長は)約二千人を率い迂回して奇襲を企てた。・・
   ・・彼の意気は、既に義元を呑んだ。・・・・正午前後、信長のまさに義元の陣に近ずかんとするや、午
   前より太陽の側点在したる一小黒雲が、たちまち満天の黒雲となり、須臾(しゅゆ)にして大風大雨、
   西北より来たり、石片をなげうつごとく、今川勢を打つた。信長はそのやや霽るるを待ち、午後二時ごろ
   、突喊(とっかん)して、太子ヶ根山を下った。』〈蘇峰〉

 としてここで信長公記の
      「空晴るるを御覧じ、信長槍をおつ取って大音声を上げて・・・」
 を引用しています。
 理由をいったところから突然おかしくなっています。すなわち梁田政綱の従者が二人も出てきましたので話が複雑になってきました。いったいこれは誰か、ということから、二人の情報でよいのか、三人目が移動しつつある人数を報告して来たのか、本陣を固める人数がわからなかったのか、旗の数の多少でもわかりそうなものだ、蝶者の走って帰る間の時間は何時間でその間に事態が変わることがないのかなど心配しなければなりません。梁田だけで森三左衛門尉は蝶者を派遣していないのか、蜂須賀小六・前野長康らは義元に途上祝儀を持参している、この情報は届いていたのか・・・・・となります。ここで蘇峰が陸軍参謀本部に桶狭間の解釈について知恵を貸したのではないかという疑いが出てきます。
桶狭間戦を陸軍の学習の教材として利用するためにここで解釈を変えたのではないかと思われます。すなわち梁田の話は情報の重視となります。また、少人数で大人数をやる奇襲が打ち出され、、敵を呑めといいい、天運の味方を信ずる、突貫で締めくくるといったものは軍隊における教導にもっとも望ましいものになります。
 これが打ち出されたので矛盾が露呈されているのは明らかで、蘇峰が別の解釈をもっているのははっきりしています。すなわち他愛ない文学的表現の中に、約二千人西北太子ヶ根というキーワードが配置されています。蘇峰は奇襲といいながら、

         『太子ヶ根を下った。』

 といっています。
太子ヶ根に義元の本陣があったのなら、奇襲といえますが、太子ケ根は義元の西北にあり、そこから東南に位置するところに義元がいるわけです。蘇峰は
     「大風大雨、西北より来たり石片をなげうつごとく今川勢を打った」
といっており、この原文にない「西北」という方向性が書いてあり、このことをいっていると思います。太田牛一は楠の大木が「東」へ倒れたといっているのを変えています。
 ここで突撃の前に、太子ケ根が制圧されていなければならず、そこの争奪戦が抜けていることは明らかです。ここは義元のいるところより高く、それだけに奪取するのにエネルギーと時間が要るところです。太子ヶ根がポイントの山であったというのは太田牛一が「大師嶽」と表記し、聖徳太子と空海という超大物を二人を重ねているのでも明らかです。
 信長の領地は安城まで広がっていたのを圧迫されてきているので、桶狭間山はもと領土内なので、幼いの頃の遊び場所のようなところですから今川の休憩場所などは予想の内になっています。したがって眼で見ることができる便利な高みを制圧しているので、梁田の情報を活用したというのは余りウエイトをおかなくてもよいのではないかという感じです。
 梁田にはその山口工作の功績を買ったということがあったのではないかいうことを前著で述べましたが、信長にとって、今川では山口がもっとも怖い存在であり、山口は地理や信長の戦の仕方をよくしっており、信長と対戦していても負けていません。例えば山口がいれば太子ケ根を制圧出来なかったかもしれませんので結果起きたようなことはなかったかもしれません。信長の取りかかった山際にも軍勢を配備しておけば攻略にもっと時間が掛かって今川に対応するゆとりが出来たとも考えられます。
 重要なことは太子ヶ根が制圧できなかった場合、作戦が齟齬をきたし籠城に戻ってしまっては、その辺思い切り荒らされて、将来の西上のための橋頭堡を築かれてしまっては何もなりません。その場合も行き先が「東」、すなわち今川の地で戦うわけですから、その山地の北の、下の道、鎌倉街道を東へ進んで行くことになります。このように保険が掛かった作戦というのが桶狭間作戦です。よく桶狭間戦は「降伏か然らずんば死か」ということで信長の心境を説明しますが、これだと「両方負け」の中での手段の選択になってしまいます。「勝つ」か「負けるか」の相剋の中で、戦略を立案しなければなりません。信長は絶対的優劣の差人数において負けは必至の中、「勝つ」という定義を変えたということになるのではないかと思います。すなわち、織田が策動し、今川が獲物を得ずに撤退してくれたら勝ち、周囲は織田に同情をもっているので、あとは宣伝活動で勝ちを訴えようとした、といえると思います。

(4)、桶狭間の位置
    『義元はその本営を、沓掛より大高に進めんとし、途中にてこれらの勝報を聞き、桶狭間の北方、田楽
    狭間に休憩した。桶狭間は、(西からいえば)鳴海より大高を経て参河(みかわ)に通ずる途上で、南
    方は、やや開カツで、他の三面は、丘陵起伏の地である。
    田楽狭間は桶狭間の東北にあり、周囲一町(109m)内外の低地で、西南は丘陵を越えて桶狭間か
    ら大高に通じ、西は中島に、東は丘陵の間を隔てて、沓掛に通ずる場所である。』〈蘇峰〉

とあり、この田楽狭間が最後の地といっています。筆者は桶狭間と田楽狭間は呼び方が違うだけで同じ意味と思っていましたが、違うようで、桶狭間山のなかに田楽狭間があったとのことです。これでいけば場所がもっと具体になります。つまり義元は、桶狭間山の後ろの方、戦場の東にいて、そこから見れば、西正面に中島砦があり、その左が大高、義元の右後ろが沓掛、最後の地は、沓掛より大高へ向かう途中の沓掛の方寄り、
東正面よりみれば右手前方ということになります。
並べ替えが問題になる場面というのは、信長が太子ヶ根の上からこれら全体をみている場面です。

(5)、並べ替え問題
    『空晴るるを御覧じ、
    信長鑓(やり)をおつ取つて大音声を上げて、すわかゝれかゝれと仰せられ、
    黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。
    弓・鑓・鉄砲・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。
    今川義元の塗輿も捨てくずれ迯(のが)れけり。
    天文廿一年{壬子}五月十九日
    旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり。
    ●未剋(午後二時)東へ向てかゝり給ふ
    初めは三百騎ばかり真ん丸になって、義元を囲み退きけるが二・三度、四・五度帰し合せ帰し合せ、
    次第々々に無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり。
    信長も下(おり)立つて、若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若もの共、乱れかか
    つてしのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし火焔をふらす。
    ▲然りといえども、敵身(味)方の武者、色は相まぎれず。
    爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。
    服部小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ倒れ伏す。毛利新介義元を伐り臥せ頸をとる。・・・・』
    〈信長公記〉

 ここの●の位置が問題です。この太田牛一の文では旗本のところまで来てから東へ方向転換しています。それまではどの方向へ向かったのかはっきりしません。これは戦の場面だから少しおかしいと思います。このため筆者の解釈では、東へ進みたい場合、反対方向、西とか南へ撃ちかかり全力で叩いたのち本来の方向へ進む、ということをしたのではないか、やや義元と前線部隊と空隙が生じた、そこを衝いたという説明にしました。それはこの●の位置がかなりあとに出ますのでそういう感じとなりました。この反対側を衝くというやり方はは、信長がはじめに見せた戦い方です。すなわち最初、佐々千秋の囮部隊を使って、正面を全力で叩いた、これは太子ヶ根を攻撃するためのみせかけでもあったわけです。
 蘇峰は先ほどの文にあったように

    『信長はそのやや霽るるを待ち、午後二時ごろ、突喊(とっかん)して、太子ヶ根山を下った。』

と書いています。ここでも肝心なこと、方向が書かれていません。田楽狭間の方へ向かった、というのは蘇峰のほかの説明によって納得させられただけです。すなわち並べ替えが前提とされ、●が前に来て、太田牛一は方向を示す積りであったのではないかという疑問です。並べ替えますと

    『空晴るるを御覧じ、未剋(午後二時)東へ向てかゝり給ふ。』
    信長鑓(やり)をおつ取つて大音声を上げて、すわかゝれかゝれと仰せられ、
    黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。
    弓・鑓・鉄砲・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。
    今川義元の塗輿も捨てくずれ迯(のが)れけり。』

 実戦経過はこのようになるのではないかと思います。これだと
        『水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。』
という軍勢は義元の前にいた軍勢と見ることになり、旗本と結びつきます。
 前者の読みではこれが太子ヶ根に居た軍勢の敗退するさまになってしまいます。義元が今居る場所は、
        「西北(太子ケ根)へ人数備え」
 というのがありましたから東南に居るということが暗黙に語っていると思われます。
「佐々千秋」は義元に向かって懸かりましたから、東へ懸かったということは義元がねらいではなく、それより広い意味の東と予想されます。義元を討てなかっても行く方向です。
 結局この原文の場合、逆に筆者私にとっては、変なところにとってつけたようにあったので作戦をしめす八時東、正午西北、二時東の計画があったということに都合がよかったわけです。
結果あのようになったのは、山での信長の情勢把握の問題ですが、思いのほかの大軍の出現に敵が度肝を抜かれた、という背景がありますので、討とうとは思わなかったが大きく義元陣を崩せると見た、と思われ、その作戦の目的がはっきりしていたため、局地での対応に幅広さが生まれたという意味が大きかった、と思われます。
 今川からみれば総大将が朝比奈氏ということが諸書に書かれており朝比奈氏は本拠鎌倉の北の方のはずで、北条今川武田のもっとも味方にしたかった家です。従ってこの戦いは朝比奈氏を完全に自軍に組み入れようとするものかもしれませんが、大きなミスでもあったわけです。
 それにしても今川の崩れが速く、
           『今川義元の塗輿も捨てくずれ(のが)れけり。』
とあるのも、この軍隊の本来的なもろさがみえるところです。
▲の部分も唐突で織田信長の朱装束、徳川家康の朱武者の延長ととりましたが、ここに入っていると徳川勢が最後の段階で加わったということになります。もし徳川の動きがなかったら義元は南の方へ退避できたはずです。太田牛一としてはそちらの方が軍勢の損耗がなくてよかったはずで、痛恨事だったと思われます。ただこの分はここではなく、もっと前の家康がはじめに出てきた所の表現にくっつき、

     『今度家康は朱武者にて先懸けをさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労な
      されたるに依つて、人馬の息を休め、大高に居陣なり。▲然りといえども、敵身(味)方の武者
     、色は相まぎれず。


 としたかったのではないかと思いますが、これでは、いいたいことがはっきりし過ぎて避けたとも考えられます。桶狭間の徳川の動きについては、それまでの動きとして首巻で、ヒントがまかれていると思われるますし、また、太田牛一の狙いは絞られているのでどうしても出てこざるをえないことです。
 なお蘇峰は19歳の家康を強調していますが、これは三河後風土記の説をとっています。一般には義元は桶狭間のとき42歳ですが、45歳と書いていますから三河後風土記によっていることがわかります。桶狭間のときは24歳の家康ではないかと思います。24歳の家康は道家祖看記がはっきり書いています。すなわち桶狭間戦では

        『信長二十七歳なり。徳川殿{家康}は二十四歳。』

となっています。これは道家祖看のものですから信頼できます。奥の細道の「小松」のくだりに
  『此所、太田の神社に詣ず。実(真)盛が甲・錦の切れあり。』
とあり、謡曲実盛の一節『渋眼を拭い・・・』は太田とつながって、祖看はその文句を使っている人ですから太田牛一が書いているのと同じ信頼性があります。
19歳と24歳の家康が二人いたわけです。この年が永禄三年1560年です。
年表(定説)では、
 あの天海が死亡したのは108歳、寛永20年、1643年ですから桶狭間のときの年齢は
        108-(1643-1560)=24です。
 あの英雄の家康が死亡したのは75歳、元和2年、1616年ですから桶狭間のときの年齢は
         75-(1616-1560)=19
でピッタリ合うわけです。これは文献が信頼がおけるから合うのです。

(6)いいにくい話
徳川の話もわかりにくいので述べない方がすっきりしますが、同じようなことで岩室長門守のことも述べずに置いた方がよいのかもしれませんが、甫庵信長記の信頼に関わることなのでそうもいきません。甫庵は岩室長門守で、初歩的なミスをしています。これをそのまま放っておいては文献の信頼が崩れることになり、ここまでりっぱな内容で局面の説明をしてきた甫庵信長記が頼りないということになってしまいます。岩室長門守は信長公記の桶狭間のはじめ、信長が清洲城を出たくだりに出てきます。

     『(信長)御甲をめし候て御出陣なさる。其の時の御供には御小姓衆、岩室(いわむろ)長門守
     長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎、是等主従六騎、あつた迄三里一時(いつとき
     にかけさせられ  ・・・・』

甫庵信長記では

     『織田造酒丞、岩室長門守、長谷河橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、河尻与兵衛尉、
     梁田出羽守、佐々内蔵助、唯十騎ばかりにて』

となっており、これは甫庵の「十騎ばかり」も合っていそうで、信長公記をみて甫庵が、織田造酒丞は一門なので一番上につけ、後ろに川尻、梁田、佐々を付け足したようです。少し感じが違うのは人名の間、信長公記が「・」で結ばれワンセットというのに対し、甫庵が「、」で示され例示といったようになっていることです。
問題は岩室の死が甫庵では、佐々、千秋突撃のときです。

    『・・・遂に二人(佐々・千秋)ながら討たれければ、是を始めとして、岩室長門守、屈強の者共枕を
    並べて討たれぬ。』

 となっています。この名前の挿入は唐突であり、必要のないものです。すなわち信長公記では、桶狭間戦のあとの於久地(小口)の戦い(対斎藤戦)で戦死しています。

    『・・・十人ばかり手負いこれあり。上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門、かうかみ(こめかみ)を
    つかれて討ち死になり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜み大方ならず。』

 となっています。一応岩室長門守岩室長門は表記が違いますから別人かも知れないと疑問を持つべきですが、これだけの登場だけですので、その匂いはありということにして、とにかく牛一・甫庵、二人の記述は違うわけです。三河後風土記の記事でも、時間的には甫庵の記事は間違いであり、牛一が合っていそうです。何か述べたいことがあるための食い違いです。あと
このことから気づくことがもう一つあります。清洲城を飛び出した

      「岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎」

に関して、まずおかしいと感ずるのは「長門」と「飛騨」です。小姓衆となっているので、少し違和感がする、これは自称としか考えられないのですが、太田牛一は「長門」ともいうといっているのでしょうから、史書を書く側が、目的を持って付けた名前という側面もかなり大きなウエイトを持っていると思います。結論的にいえばこの五人は、他のことも語るために入れられた、またセットにされたということがいえると思います。
 すなわち岩室長門守は信長公記、甫庵信長記、両者とも一旦計上して、消したとみてよいのかということになります。それはおかしいと感ずるように死に場所を違わせたということに繋がります。そうならばそうする必然があるのかどうかです。
 ここで芭蕉に聞けば奥の細道に「石室」が出てきます。「岩室」は「石室」でもありえます。また「長門守」については角川版信長公記の解説に

  『村井長間寺とある右傍に「長門守か長間寺か」という注記がある』

と書かれているのが気になります。すなわち「石室長間寺」ともなりうることも可能です。するとここに女色が出てきます。また長間寺は岐阜の羽島市で、美濃というのも意味しているかもしれないということになります。羽島は芭蕉の句碑も多いようです。つまり岩室長門(守)、は二人いてもう一人は、一匹狼を表すかもしれないのです。誰の痕跡を表したのかが気になります。
結論からいえば、これは、あの活発な信長夫人(胡蝶・帰蝶・濃姫)がここに入っていなかったとは考えにくいので、信長夫人がここにいたのではないかという疑問です。先ほどの戦死のくだりで岩室長門が「上総介」、「信長」に接近していることがわかりました。また、武功夜話では岩室長門は市橋伝左衛門、伊藤夫太夫らと、酒小藤太を追い崩しています。酒は酒井の省略したもので、あの酒井と接近しています。これで一応比定ができます。まあわかりやすくするため分けてみると
岩室長門は岩室長門
岩室長門守は織田胡蝶(濃姫)
ということになるかもしれません。あと根拠があるか確かめねばなりません。
これは残り四人
      「長谷川(河)橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎」
についておかしいことが起きていますのでそれともひっかっています。次の信長公記の記事によれば、なんと、四人皆、全員、信長公に勘当されて、家康公に養われ、三方ヶ原で武田と戦って戦死しています。しかるにこのときに物語があり、五人が戦死するわけです。すなわち五人目が岩室長門を想定した付加となる感じです。味方が原の戦いの前に、具足屋玉越三十郎がやってきて四人に、同心し五人として討ち死にしています。これが重要で、あの五人セットは、ここで五人セットで消えたわけです。
信長公記、元亀三年の(四)の『遠州表の事。』の一節です。この節は戦いの記事というよりも中ほどからほとんどこれに関する記事です。

   『・・・去る程に、信長公幼稚より召し使われ候御小姓衆長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三
   郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公をたのみ奉り、遠州に身を隠し、居住み候らいし。これまた、
   一番合戦に一手にかかりあい、手前比類なき討ち死になり。
   ●爰に希代の事あり。様子は尾州清洲の町人具足屋玉越三十郎とて年比(としごろ)廿四・五
   者あり
。四人衆見舞いとして遠州浜松へ参り候節、(この戦いに遭遇した、四人は戦になるので帰る
   ように意見したが)四人衆討ち死にならば同心すべきと申し切り、罷り帰らず。四人衆と一所に切つて
   まわり、枕を並べて討ち死になり。
   ■家康公中筋切立てられ・・・・一騎打ち(の道)を退かれ候を、御敵先に待請け支え候。馬上より御
   弓にて射倒し、懸かけ抜け御通り候。是ならず弓の御手柄今に始まらず。・・・』

 なぜ味方ケ原で消えたのかということですが、この身方(味方)ケ原の信長公記の一節の主人公はすなわち家康公なのです。この味方が原の戦いの前半部分に

       『家康も浜松の城より御人数出され』信長公記

となっており、この一節では主語としてはっきり家康・家康が使い分けられています。あの英雄の家康が浜松から飛び出してしまって敗退の因を作ったのでしょう。
岩室長門守が先の記事で、信長と酒井に接近した
ここで玉越三十郎が家康公すなわち酒井左衛門尉(サカイサエモンジョウ)に接近した
玉越三十郎と知り合いの四人は岩室長門守を家康公に近ずけた、
わけです。
 ●について脚注では「具足は甲冑のことで、清洲の町人玉越が戦いをみこして営業に来ていた。この箇条は原本信長記にみえない。」となっています。すなわち写しを作り、付け加えるという手法が取られています。
 ここで山口飛騨守は本来的と思われる山口飛騨となっていますので、岩室長門守を岩室長門と修正したことと同じ操作がなされていて、始めの人名表記の二つの違和感がなくなりました。何かの意図があって岩室と山口に操作があったとみてよいと思います。結果はどうあれ、とにかく当たってみなければならないことです。また、このためこの二人だけのことでなく他にも操作があつたことも匂わせている、こういうことを表しながら別のことも述べているらしいととれます。
つまりここに出てきた人物は信長の小姓であつたことも事実でしょう。つまり加藤長門・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎五人は実在の人物でもあったこと、名前に「守」という字はなかったということがわかります。太田牛一があの信長に続いて清洲城を飛び出したものの名前を
   「織田胡蝶・岩室長門・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎」
 としたかったのは一ついえると思います。
しかし今まで述べてきたところからいえば加藤弥三郎も気になります。
加藤弥三郎は太田牛一を思わせます。ここの加藤弥三郎は前稿に引用した

      『・・・・蜂屋般若介・長谷川埃介・・・・加藤助丞、』信長公記首巻

とあったことから考えますと、加藤弥三郎は長谷川埃介と対の「加藤助丞」という名前の人であったと思います。信長公記首巻に「弥三郎」があり、甫庵信長記に足利兄弟になぞらえた「弥三郎」がありました。「助丞」を「弥三郎」という名前に変えて、「太田牛一これにあり」といっています。自分がここにいたことを間接的にいったようです。
また飛騨守と書いてあるのは味方が原では「飛騨」でしたがこれは「肥田」でもあると思います。すなわちこの山口肥田は六人衆の七番目の山口太郎兵衛の名前であったとも考えられます。すなわち明智の近辺の人物であったとみて差し支えないかもしれません。多分今川に寝返ったという山口左馬助も一族で太田牛一と親しかったと思われます。すなわち山口左馬助・子息九郎次郎父子となっており、九郎と次郎の二人が重なっていそうです。二(次)郎は二番目ですから、太郎がいるのではないか、その太郎が六人衆の山口太郎といっているかもしれません。山口左馬助の実子が次郎(二郎)で、継子が太郎兵衛といっているとすれば、山口の連れ合いは飛騨(飛騨守)であったということになります。山口氏は後年山口政弘も出て、奥の細道で太田と接近していますので、調べると出てくるかもしれません。
 首巻の蜂屋般若介と長谷川・加藤の抱き合わせから、ここの飛騨守に安井夫人の姿が重なっているともとれますが、ぼんやり出したかったのかも入れません。二十歳すぎたころの蜂須賀一門の人ですからここにいたというのは大いに可能性はあります。とにかく柴田勝家や森可成もいたことは明らかで道家祖看にその名があります。池田も丹羽もこのとき駆け出したのは同じですが、信長公記が目的をもってしぼって取り上げたことははっきりしたことです。ただ甫庵が早い時期に単独で、岩室長門守を消したこと、玉越三十郎に替つていること、長門守は長間寺に宛てられていることから考えて、岩室長門(守)はいなかったということになるのかもしれません。そうとすれば、信長公記の清洲城飛び出しの記事は、したがって
  「織田信長・織田胡蝶(岩室長門守)・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤助丞、太田和泉(牛一)」
と書きたかったと見てよいのかもしれません。
「主従六騎」と「馬上六騎」というの同じかどうかはわかりません。あの六人衆も七人いました。一人があいまいとなっています。そこに太田又助がいたように、この飛び出しのときの弥三郎は自画像であったといえます。
 ■で、とにかくここの家康公は弓の名人だったということがわかります。これが、六人衆のうち弓の名人三人衆(浅野又右衛門・太田又助・堀田孫七)の内の堀田孫七と結びつくということになったわけですが、味方ケ原の記述は他愛ない挿話の重要性を表してこういうものから目を離すわけにはいかないものです。また太安万侶もいろんな名前を使って自画像を描いている、二人がやっておれば他の人もやっているかもしれません。シェークスピアも自分の作品に自画像を入れていることもありうるかもしれません。いやあの大作家は研究され尽くしている、そんなことはない、といわれるでしょうが、それならば日本の歴史文献の方が渦中にいる人が書いており、その体験が中心だから真実味があって面白いということがいえそうです。

(7)もう一つの事実
 さきほど、残り四人
      「長谷川(河)橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎」
についておかしいことが起きていますとのべました。皆、全員、信長公に勘当されて、家康公に養われ、三方ヶ原で武田と戦って戦死しています。これも事実なのかどうかが問題となります。四人の一つの役割は、

        具足屋三十郎

がきて四人に、同心し五人として討ち死にしているのは、
     具足屋三十郎=岩室長門守=織田胡蝶を、
この身方(味方)ケ原の信長公記の一節の主人公すなわち家康公に接近させたことが重要です。
 またこれは、織田・徳川両方の内紛のことも関係しているといいたいと思われます。この四人は、信長の幼少から側にいたようですから、勘当されたとはいわれていますが、信長から信長公へ政権が移行したときに何がしかの反感をもったことは容易に想像がつきます。徳川も家康公の強引な暗躍により家康卿から家康に替わっているような激動があったわけです。前著では四人が家康を頼ったという家康は、24歳の徳川家康ではないか、ということを述べましたが、平手甚左衛門、佐久間信盛を派遣した際にこの四人を付けたということも考えられます。勘当というのがいつだったのかということにもよると思いますが、いずれそういう資料も見つかるでしょう。とにかくこの四人は抜群の戦功をあげなければならないところに追いやられていたということはいえると思います。

(8)織田胡蝶の年齢
ここ原文●の太字のところで太田牛一は重要なことをいっていると思います。すなわち武士の魂をもつ天晴れな人物としても
         玉越三十郎の年齢
 などは問題にするのがおかしいわけで、これが桶狭間、岩室長門守の年齢、つまり信長夫人の年齢といっています。
 桶狭間のとき信長27歳、夫人24・5歳であったわけで2・5歳違います。満年齢では本当のものと二歳違いますので、差が二歳となると同一人物ともみられてしまいますが2・5ですから別人です、まあ三つ違いといえると思います。ほかに帰蝶の年齢を書いたものがありません。ネットでしらべましたが天文4年1535年としているものが多いのですがこれだと信長の年齢となってしまいます。信長桶狭間27歳ですから満では25歳です1560−1535=25です。信長夫人、後の信長公の年齢はあの信長と三つ違いだったということはここの操作でで初めてわかることです。
 玉越三十郎の記事が原本信長記と食い違っていることがわからなかったらあるいは見逃したかもしれません。こういう信長夫人の年齢が判るようなことは小さいことのように思ってしまいますが、他の文献、世界の文献につながる手法でわかったわけですから、たいへんなことです。
 蘇峰はこの桶狭間の記事を、大正七年、シベリア出兵の時期に終稿したと記しています。この時期に余分な付け加えをしたりしているのが重要かと思います。活ける教訓を子孫の残そうとして起稿したようですが、終戦という境目があったので真意は語れたはずですがそのまま終わってしまいました。教訓とすべきという前に、事実はどうだったかということが必要でしょう。     以上

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