23、高山右近の出自

(一)明智光慶とフロイス
明智光慶について、フロイスが言及していることはよく知られています。テキスト〈明智軍記〉の注の
終わりは、フロイスの〈日本史〉が引用されています。次の文の、下線の部分が明智光慶のことをいっ
ているといわれているもので、筆者からいえば、フロイスは明智光慶に会ったことがあるから、こういう
話りを残したといえると思います。

   『安土を去った明智の武将は坂本城に立て籠もったが、そこには明智の婦女子や家族、親族
   がいた。次の火曜日には同書へ羽柴の軍勢が到着したが、すでに多数の者は城から逃亡して
   いた。そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が最初に入城した
   者の先発者であるのを見ると、「高山(タカイヤマ)、ここへ参れ。貴公を金持にして進ぜよう」
   と呼びかけ、多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。そしてそれを終えると、貴公らの手に
   落ちると考えることなかれと言いつつ、最高の塔に立て籠もり、内部に入ったまま、彼らのすべ
   ての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。その時、明智の二子は死んだが、
   非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ長男は一三歳
   であった。』〈フロイス日本史=中央公論社〉

 明智光秀がキリスト教に帰依していたことは〈戦国〉でも書いていることですが、娘のガラシヤ夫人
が、キリシタンとして広く知られていることからみても、これは一概に否定することはできない、と思わ
れますが、そんなことはほとんど語られることはありません。
 光秀には政治家という面があるので、とりあえず信長に合わせてキリスト教を信仰していることにして
おこうということだった、他の武将もそうだったと取られているから、重要視されないといったことに
なっていると思われます。信長がなぜキリスト教を信じ、推奨したのか、みなが知っていたという面が
あったのではないかと思います。まあ宣教師がはるばる遠い異郷に布教のためにやってきた、その
もとの、それを突き上げるやむにやまれぬというようなものも無視できないと思います。〈武功夜話〉
では、前野長康が秀吉から言われて、祭壇廃棄など棄教の処置をしており〈戦国〉、心の葛藤もなさ
そうにさりげなく描かれていますが、近い子孫に殉教者も出たようですから、秀吉の命令が出たから
といってホイホイと従ったというのは、一概にそうとはいいきれないものがあります。〈武功夜話〉の
はしがきでは

    『数多くのキリシタンの古本類が今も残り、前野但馬守長康はキリシタン大名であったといい
    ます。長康の子前野出雲守長重の妻は、細川忠興とガラシヤ夫人の長女、於長で、母ガラ
    シヤと共にキリシタン宗門であったと書いています。〈武功夜話〉の編纂を手伝った雄□(表示
    不可・キジ)の娘千代は、寛文七年、多くの一族とともに宗徒として殉教しています。
     十八代吉田雄利は、寛文七年キリシタン宗門の詮議を免れて、「自分一札免」を尾張徳川
    より受け、「当家は切利支丹宗門に非ず」と石に刻み、今も当家の庭石として残っています。
    この雄利を聞き伝えでは、キリシタンの遺児といっています。』

 とあり、この間の事情を物語っています。寛文七年に、「殉教」と「免」の両方があるのは、叙述手法
として「残酷に創る」という面がありますので「殉教」があったかどうかは何ともいえませんが、まあこれ
ほどの後遺症が語られるほどなので、とにかく一筋縄ではいかないものがあります。
 いま「宗教」という言葉がありますので、縦横斜めからみても温度差が大きいものを、一つに括って論
じますから、よけいわかりにくくなる、画一的にもなりがちと思います。哲学という言葉が出来てしまっ
ていて、そこから動いているから、日本文献には哲学がないとかいうようになってしまいますが、言葉
がなかっただけの話でしょう。宗教も同じで今いっているような意味で、戦国期の人が意識したり、動い
ていたかというとかならずしもそうはいえない、松尾芭蕉は、全国の寺社をまわり、多くの僧正と会っ
たりしているから、仏教だろう、聖書などは関係ないだろうというわけにはいかないと思います。ここに、
    「数多くのキリシタンの古本類が今も残り」
 と書いていますから、当然、当時の人はよく読んでいるわけです。ここが本拠の一つであった武井
夕庵や、太田牛一なども見ていたはずです。武井夕庵やその関係の人が「妙心寺」に縁が深い、
墓やらをみると、葬られたのは仏式になっている、「妙心寺」が一族の人に関係がありそうといっても、
キリスト教に帰依していなかったとはいえないわけです。例えば、公卿の言継卿や兼見卿などは
朝廷に仕えているのだから、神道のはずで、キリスト教の宣教師などは付き合いがないだろうとして
関係を断ちきって日記を読んでしまうというになりがちです。余計なことを述べて、わき道にそれ
ましたが、予想外の人がキリスト教に帰依している、ということをあらかじめいっておきたいためです。
つまり、こういう内面的なことを問題にしていないというのは間違いかもしれないわけです。
石田三成もキリスト教に帰依しています。〈南蛮寺興廃記〉によれば、

    『(秀吉公)速やかに南蛮寺破却せらるべしとて、・・・南蛮より渡来の者一人も殺すべからず
    搦め捕るべし。南蛮寺にて門徒になり、宗門領分の者一人も残らず召し捕る取るべしとて、
    三千騎を差し添えて南蛮寺へ差し向けらる。の時石田治部少輔小西摂津守高山
    右近等宗門帰依の人々、密に知らせければ、寺中の騒動斜めならず。・・・・・梅庵は西国
    へ逃げ下り、・・・・・・・・・』〈南蛮寺興廃記〉

 となっていて、この史料は享保時代の地理学者西川如見の名前も出てくる、秀吉の指示内容に
細心の表現がされている、ことなど信用できるものです。太字のところ、石田三成の名があります。
小西・高山はキリシタンとして有名で、石田三成は知られていませんがここで宗門帰依の人々の中
に入っています。二人より石田三成の方が信仰度合いが低かったとはいいきれない、そういう話が
少ないのは隠されていただけのことなのかもしれません。
これを明智光慶という観点からみれば宣教師が会っているのも不思議ではない、親が光秀とする
と、ガラシヤ夫人と同じなのかもしれない、そういう環境がしからしめた、やはり親が多大の関心を
もったということと無縁ではない、といえるのでしょう。その時代の悩みというものが、光秀などを動か
した信長もそうだった、というようなこともありうると思います。単に信長が共鳴した、とか、実益を
考えたから、とか、その好奇心によるとか、信長を中心にすえて語るばかりでは、松永久秀や三好
長慶などが門徒であったということなどは説明できないことになります。
 フロイスが、明智光慶に会ったかもしれないというのは、フロイスと光秀が親しかったということに
帰着しますが果たしてそういう事実があったのかということが、本稿の問題にしているところのもの
です。一般的にいえばフロイスなどが語る話は、客観的な第三者の立場に立ったものだというある
種の信頼性があるので、よく引用されるのもやむを得ないものですが、はじめの文をみて、いまこれで客
観的事実として一般に受け入れられているかというとそうではないようです。日本の当時の文献と
同じくそのまま受け取りにくいといったところがあるのは書いている内容がやや滑稽なところがある
からでしょう。

    @明智の武将の行動がおかしい、黄金を海に投げ込んでいる
    A明智の二子という表現がおかしい、光秀の二子としていない
    Bとくに長男は年は書いてあるのだから、名前くらいは書いてもらわないといけない、名前は
     はじめに確実に聞くはず、
    Cすでに多数の者が逃亡している、婦女子はなぜ残っているのか疑問、
    Dここに高山右近が出てきているようだが、「タカイヤマ」というルビがおかしい
    E「非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ」というの
     は、最後に伝聞にかえてしまっている。太字のところで急に転調があり、文を弱くしている
    F明智の武将の名前が書いてない

 などあり、これでは、その客観性を信頼して、というものも、あやしくなってきます。これでは、当時、
いまのような正規の教育を受ける機会がないので、思い思いに、そういう書き方をしていた、耳に
入ったことを書きとめたのだからこの程度のことになるのは仕方がない、ということになりそうです。
結果、時代の息吹きを伝えている、また事実関係は参考になるところだけを利用させてもらったら
よい、ということで、引用はよくされているということになっているのではないかと思われます。
 ただ、BFに見るように固有名詞があいまいになっているのが、気になるところで、隠されている
のではないかといいたいところですが、そうはいっても、日本で本の出版などすることは、考えて
いないはずだから、隠すこともないはず、もっと思い切って書けるはずなのに書いていないのは、
まあ気のおもむくままだから仕方がない、本国が「明知左馬助」(甫庵太閤記)などというこまかい
内容など必要としないから、文にする目的が違うから、とかいうことで落ち着いてしまっているといえ
るようです。全般的にいえばガッカリという感じがするような内容といえるのでしょう。
 しかし、フロイスと高山右近はたいへん親しいはずなので、高山右近が臨場して話したとすれば
この程度の話ではないはず、またこれは、はるばる日本に布教に来ていて起きたできごとで、好奇心
の固まりのようなフロイスであるはずで、この程度のことを言ったり聞いたりしたいうのでは、高山も
フロイスも、なんとなく頼りない存在といってもよいとさえ思ってしまいます。そんなはずはないわけで
いろんなことを知っていたのにストレイトに書いていないのではないか、という感じが残ります。これは
フロイスなどの記事も日本史の叙述の一環をなしていると取れるのではないか、つまり表記の面から
これをみるとどうなるのか、ということです。

  ○明智光慶を匂わせて「十三歳」といっている。これは先稿の〈甫庵信長記〉の続子松千代丸
    の年齢に合っている。
  ○高山右近を表すのに「タカイヤマ」というルビを使っている、これは姓の方のことをいってる
   らしい、また「ジュスト」と「右近」も出している、これは必要十分にいったといえる。
  ○「明智」という表記は表向き三箇所だが実質は「かの武将」「彼ら」「長男」のところには確実に
   「明智」が入りそうだから6箇所という関心の高さとなっている。
  ○文書の目的はどうあれ、明智という姓がでてくる以上、「光秀」という総大将の名前は入れても
   よいはずなので、抜いているという周到さが感じられる。

 など細かい配慮があって油断のならないところがあります。このことは、ここから出てくることが大き
いかどうかによってきまってきます。
 テキスト〈明智軍記注〉の、このフロイスの記事の前に次ぎのものが、参考として載せられていま
す。〈高木文書〉と〈兼見卿記〉です。これはおそらく、フロイスのものと同じく、明智とか、羽柴とか
の政治、軍事的なシガラミから、やや距離を置いたもの、ということですから歴史の評価という面から
も、客観的な立場に立っている、しかも同時代史とみなされて参考になる、として取り上げられた
ものと思われます。

   『同時代史によって見れば、(天正十年)六月十九日付けで(秀吉が)高木貞久へあてた
   書状に、「坂本明智居城にては、明智子二人、明智弥平次腹を切、殿守焼崩、死候事」と
   あり、光秀の子二人と秀満が切腹し天守を焼いたとする。(〈高木文書〉)
    〈兼見卿記〉天正十年六月十五日条に「坂本之城天主放火云々、高山次右衛門火付け
   切腹云々」とあり(〈兼見卿記〉)、坂本城に火を付けたのは、高山次右衛門なる人物であると
   いう。』〈明智軍記〉の注

 これをみれば、全然話が違う、火をつけたという人物が
      フロイス        「明智の武将」、
      秀吉(高木文書)  「明智弥平次」、
      兼見          「高山次右衛門」
となっている、このなかでフロイスのが具体性がない、フロイスが一番頼りない話をしている、引っ
掻き回しただけだということになります。これでは、まあどっちでもいいやということになってしまい
そうでそれが恐いところです。ただ これをもう少し突っ込んで捉えれば、かなり事情が違ってきます。

(2)兼見日記
     フロイスは「明智の武将」とはいっていますが
        「安土を去った明智の武将
        「かの武将および他の武将」
 というようにいっています。すなわち特定された個人「かの武将」と、その個人の前の行動「安土を
去った」ということを聞き知った上で話をしたといえると思います。すなわち
        「かの(明智の)武将」
といっているわけですから、これは甫庵のいう「明知左馬助」に該当するので名前は知っていたと
いっているのと同じことのようです。〈甫庵太閤記〉では
   『明知左馬助安土山殿守を令焼亡事(焼亡せしむるの事)』
の一節で
   『左馬助は・・・・十四日未明に、殿守に火をかけ、・・・・・・・坂本の城に入りけり。・・・・・
   左馬助は・・・・・・・其の後殿守に火をかけ、・・・・・』

 となっているので、両方の城を左馬助が焼いたというのは、一般的見解になっているとみてよい
ようです。フロイスはそれをいっているので、一番無難ところをのべているといえます。ここはちょっと
皮肉っているのかと言いたくなるところです。両城は明智が築いたということに気づいたとき、明智の
最高幹部がそういうことをするのか、というのが大きな疑問に思えてきます。それはともかく、これは
「秀吉」の
        「明智弥平次」
というのと合ってくる、フロイスは、ややこしい書き方をしただけだといえると思います。
坂本城殿守に火をかけた人物は、甫庵が「明知左馬助」といっていますので、フロイスも秀吉もいっ
ていることは合っていますが、フロイスは、さらに秀吉のもの以上に、高山の名前を、しかも
        「タカイヤマ」
として出しているのですから、兼見卿の
        「高山次右衛門」
というのにより近づいているということもできます。近づきながらも、兼見卿の「高山」は「高山右近」
の高山ではないといっているようでもあります。「タカイヤマ」は当時の文語でいうと「タカヤマ」
というのも合っていそうですから、また「白江」というのも「白井」となったりするのですから、
       高  山
       高  木
       高  井
というあぶり出し的なものとかわる、事実関係は別として兼見卿の「高山」を牽制しているようでも
あります。一方、秀吉のいう「弥平次」の「弥」は明智衆のものに使用されているということなら秀吉
が使うのもおかしい理屈ですが、ともかく「弥平次」の
        「平次」は「平左衛門+次右衛門」」
ですから、「平左衛門」には「服部平左衛門」があり、松千代丸の父「梶原平左衛門」もあります。
「次右衛門」というのは「佐久間次右衛門」という表記や「簗田弥次右衛門」もあることで、太田牛一
周辺の表記に近づいてきますが、
        「弥平次」=「弥次右衛門
といえます。ここから

         秀吉のもの        兼見卿のもの      フロイスのもの
           ‖              ‖            ‖
        明智弥平次        高山次右衛門      かの(明智の、タカイヤマ
       (明智弥次右衛門)                    と呼びかけた)武将
となり、三者が打ち合わせていたと仮定して、突きあわせれば
       明智=高山(中を取り持つ太田牛一)
かもしれないというのが出てきます。ただこれは、そうでないといえばそれまでなので直感的に受け
る印象としてしまっておけばよいわけです。
 フロイスは「高山」というのを出したくなく、うまく「タカイヤマ」というので逃げたと思われます。まあ
フロイスは「ジュスト右近」といっただけで、相手の将が、「たかいやま」と呼びかけただけのこと、
といいたいと思いますが、それにしても、高山を姓ではなく、「高い山」ともとれるのではないかという
ことを示したといえるのではないかと思われます。つまり高山右近は明智の右近というべき存在だった
といいたかったといえるのかもしれません。それならば日本の文献以上に、策があることになると
思います。フロイスは高山を明智に接近させたのは事実であり、高山右近がガラシヤ夫人と親し
かったとかの挿話でしられているように、明智三兄弟にきわめて近いといってよい存在だったと
いってそうです。
 三つ突き合せなくてもフロイスだけで、つまりフロイスの表記だけで「明智の、高い山」」が出てくる
のですから、切り口として十分です。
 ほかにもこういうのは見落とされているのがあり、たとえば「佐久間九郎」は重要人物だったから
「甚」のつくのも重要だろうとみると、琵琶湖の堅田衆として活躍している「猪飼野介」というのが
目につきます。テキスト脚注では
      「猪飼野正勝  近江滋賀郡の小豪族」
となっているだけですが、「正勝」という名前からみても、何か曰くありげな人物といえます。
      〈織田信長家臣人名辞典〉(吉川弘文館、以下〈辞典〉と略記〉)
によればこの人物は、「明智半左衛門」という別名があるのですから、これは明智光秀関連の人物
かもしれない、明智の甚介ですから見逃せないと感ずるわけです。〈辞典〉では猪飼野姓の人は四人
出ています。
   「A、猪飼野佐渡守
   「B、猪飼野右衛門」
   「C、猪飼野昇定(甚介)」・・・・・〈信長公記〉に出ているいわゆる甚介とされる。
   「D、猪飼野秀貞」・・・・・・・・・・Cの子息とされる、明智半左衛門
で、AとBは姻戚関係の態様を説明のためのもので、筆者のみるところ、CとDがいわゆる「猪飼野
甚介」のことで、親子の活動が重なっているようです。さきほどの「正勝」はDの人物と思われますが
〈辞典〉ではCの人物となっています。Cは「山崎の戦いに光秀方として参戦し討死したものらしい」
と書かれ、Dはのち徳川から扶持をもらって家を保ったということのようです。「D猪飼野甚助(秀貞)」
は、〈辞典〉によれば次のようになっています。
  
    『弘治元年(1555)〜文禄五年(1596)六月二十一日。明智半左衛門。諱は「政俊」「政利」
    とも伝わるが、〈大徳寺文書〉によれば「秀貞」である。 甚助昇貞(Bの人物)の子。(この
    あたりが親子重ねてのべられているところで、これに拘るとややこしくなる)
    明智光秀より姓を賜り、「明智半左衛門」と称す。天正八年(1580)二月四日、津田宗及の
    茶会に出席、〈宗及日記〉には、「明半左衛門」とあるが、
         ●「片田之いかヰ事也」と傍記
    されている。
    茶会といえばそのほか、同年十二月十日、明智掃部らとともに宗及の茶会に出席。また自ら
    も、宗及らを招き、堅田にて茶会を催している(宗及記)。
    父昇貞は天正十年(本能寺の年)消息を絶つが、半左衛門は丹羽長秀の臣として再び姿を
    表す(丹羽歴代年譜付録)。・・・・・・・』〈辞典〉

 「明智」というのは、光秀から貰った名前であるとか、丹羽長秀との接近などの話がありますので、
当然一族の話というものになるべきもので、豪族という形で拡散したままの話になっているのは見直
しが要ります。近江を根拠にする以上、光秀は琵琶湖の制海権を手にすることに腐心したはずです。
猪飼野甚介が「明智半左衛門」だというのは●の記述が〈宗及日記〉にあるからそういえるということに
なっています。Cの人物は

   『(天正十年死?)甚介。法名紹銕。諱は「正勝」あるいは「定尚」とも伝わるが、〈大徳寺文書〉
    には「尚貞」とある。姓は後に「猪飼」。近江堅田の土豪。・・・・佐渡守宣尚の子である。』

とされています。これに関連してA・Bの人物が重要です。記載事項が少なく、よくわからないことが
書いてあるのが、この二人の特徴です。Aの「佐渡守」は

   『生没年不詳。〈寛永伝〉では「正光」とある。近江志賀郡堅田の人。〈猪飼野家系譜之図〉
   には▲甚介定尚(昇貞)ので、・・・・・・前記系図には、▼妻は信長の臣野村越中の娘
   あるが、これは疑わしい。』

 となっています。太字のところ、野村越中は明智光秀の別名登場であることは、説明してきました
から、いまとなれば、太字の部分は、「妻」は連れ合いでよく、「娘」は子でもよいのでしょう。
簡単に言えば「サドノカミ」が出てきてくれましたので、男性がからむ話となり、光秀の男性の子が
猪飼野氏に婿入りしたのではないかと見当がつきます。略記すれば

      明智光秀ーーーーA(佐渡守)「正光」           
                     ‖ーーーーーーーーーーーーーD猪飼野甚助A(秀貞)
                  C猪飼野甚介@(昇貞)

ということになり、これでいけば猪飼野甚助Aが光秀の直系の孫となります。したがって、史書はこの
人物を中心に猪飼野が述べられていると思います。Aが「▲甚介定尚(昇貞)の」といいながら、
一方で連れ合いが、▼光秀世代の子の世代というのは合わない、食い違わせたと思われます。
〈辞典〉では、Cが「甚介」、「正勝」であり、Dが「半左衛門」というので茶会に出たのはFであろう、という
ようにうまく区別されていますが、〈信長公記〉の甚介は二人一体、不可分となっていると思います。
まあ実際は、Aの人物が実戦などできわめて重要な働きをするということになるとあまり区分するのも
実態に合わないということになるのでしょう。結局、この「佐渡守」という表記が、その態様を示すものと
いえる、ちょっとした食い違いをこの人物へ持ってきたといえますが、Bの「猪飼野孫右衛門」においても、
同じようなしわ寄せがされています。「猪飼野右衛門」は

  『家系図に甚介定尚(昇貞)の大叔父に孫左衛門尉という人物がいるが、この人であろうか。』〈辞典〉

 とありますが、これは太田和泉守が荒木の場合と同様に叔父で出てきたということがあるのでここ
でも出てきたと思いますが、大叔父の意味がよくわからないにしても「D秀貞」からみてそういったと
みる方が合っていそうという感じがします。「半左衛門」は丹羽の家臣として出てきていますが、そう
とすれば、これは「家の子」でしょうから家老級の待遇となるはずで、大ものの一人となるのでしょう。
別表記に変わったりして出てくるのかもしれません。ここで甚助が
          明智掃部
という人物と宗及の茶会で顔を合わせていますが、これは完全に孤立している表記であることがわか
ります。〈辞典〉にも明智掃部は生没年不詳とされ、二回の宗及茶会だけが出てきます。ただ二回目が
本能寺の年の八月三日なので、光秀没後も生き残ったようだ、とされています。
 一方「掃部」という名をもつ人物が関ケ原という大舞台で登場します。西軍の中核、宇喜多隊の
先鋒大将、明石掃部全登です。キリシタンというのと、大車輪の活躍だけがよく知られている、有名
ですが、謎となっている人物です。この人の表記と関係はないのかということがやはり気になることです。
       明半左衛門⇒  明半左衛門⇒  
というように「智」が、「知」に変えられたものをみていると、「明□半左衛門」というようにはじめに
空けておくと「明井半左衛門」とかが仮に出てきたら、関連して捉えられるということも示唆されて
いるのかもしれません。そのように取ると、他のことにもこれが適用される
       明智掃部⇒  明知掃部⇒  明□掃部⇒  明石掃部
 にもなりうるのであれば、つまり明石掃部=明智掃部ならば明石掃部は明智一族ではないのか、
ということにもなりかねず、大きな謎に肉薄できることになります。「明井半左衛門」という例としての
名前を書いたら、〈辞典〉の「明智掃部」の前に「明井か井(ルビ=あけいかい)某」という珍妙な名前の人物
が出ていました。「某」は大ものに使われるので、「某」は長島で信長に反抗したそうだから太田牛一が
気に入らないところがあったのかもしれません。こんな人物を出しきた(妙心寺文書)も油断がならない
といえるのでしょう。今、高山右近に近づこうとしている、明石掃部というキリスト教のために戦ったと
いう人物がいる、二人は知り合いではないのか、という疑問が出てくるわけです。明石左近という
人物が〈太閤記〉〈武功夜話〉に登場する、これとどういう関係があるのか、ということも一つの
ポイントとなります。なぜならば「市橋伝左衛門」は「市橋伝右衛門」と同じとされているのですから、
左近は右近と同じです。明石左近というのは、明石右近ということになるから、右近は高山右近の
右近だから、重ねられているかもしれないわけです。明石掃部のことが、どこかに書かれていない
のか、というのを探しておくことは、高山を知る上に不可欠なことですから、猪飼野甚介が明智掃部
に会っているなどということは、飛びつきたい話です。まして明智半左衛門が使われているのです
から誘導されているのかもしれない、猪飼野のところなど関係ない、正勝はたまたま正勝だろうと
いうことはできないと思われます。宗及を茶会に招くのですから、猪飼野は大ものといえますし明智
掃部は宗及の親戚かもしれないというのもありうる話となります。太田牛一の目はチビ公や、また
その先のジャリ公やらのことが気になっていて、そのへんのことまで書いているので、〈信長公記〉
もやや複雑になっています。要は猪飼野から、明智半左衛門、「甚介」という「甚」の字も援用されて
、近い関係者として明智がでてきたわけです。いまフロイスだけでも「かの明智の武将」「高い山」が
出てきたのですから、いまそれに続いて
     明智弥平次ーー高山次右衛門
が出てきているのですから、明智=高山というのは、まああながち強引な話でもないといえそうです。
しかしこれだけ揃っても、そう取られていないので、どこに無視される原因のようなものがあるのかと
いうのも突っ込んでおかなければならないのかもしれません。

 高山のことで、また明知の大将のことや坂本城の様子のことなどで、三者が打ち合わせて書いた
とか、まとめ役がいて仕上げるようにしたとかいうことは、考えにくいことで、この三つの著書から高山
右近を「明智右近」とまでいいきるのは無理だろうというのは当然出てきて然るべき疑問です。フロイ
スの情報源は高山だろう、と取ると、そうかもしれないと納得してもらえる程度のことで、みなは知って
いることだけ書くので真相を明らかにするために書くとは限らない、ある種(例えば明智立場擁護の
ため)の連合艦隊が組まれている、となると推理想像もかなり行き過ぎとされてしまいそうです。
結局、ここまで話が進んできたのはやはり「兼見卿」の表記
       「高山次右衛門」
 がでてきたからです。これを出してきた兼見卿の著作環境というのをさぐってみるのもやはり必要
なことかもしれません。兼見卿がキリスト教に関心があったから高山をだしたといえるか、などのこと
です。兼見卿は事実を知っていたというのは確実なので書き方の問題のことです。
 
 @兼見卿は太田牛一やその周辺の人物と親しかった、
  「高山」+「次右衛門」は、高山右近と太田牛一の合成というのが第一に思い浮かぶことです。
  「次右衛門」は〈甫庵信長記〉の「黒田次右衛門」を思い出してもいいし、「簗田弥次右衛門
  もあります。
   甫庵がこの安土城の人物は「明知左馬助」といっていますので(〈太閤記〉)、高木文書にある「弥平次」
  から三宅の「弥平次」も考慮すると「明智光春」という人物が誰の脳裏にも浮かぶものでしょう。
  一応あの左馬助といえますが、
           明知左馬助と明智左馬助
  はやはり違う、「明智弥平次」というのは、いまとなれば太田和泉守をも表すものでもあるといえ
  ます。この辺が「明智」「明知」を使い分けた甫庵の知恵あるところといえます。
   兼見卿は、明智光春が安土城を焼いたとか、愛着のある坂本城をあとかたもなく焼亡せしめる
  ということに疑問をもったので、全く違う表記をしたとも考えられます。つまり、太田和泉守を道化
  役として二つの城を焼亡せしめたとも考えられますので、その意味で
           明知左馬助ーーーー高山次右衛門
  を対置させたというのも考えられます。
   もう一つ伝統的手法にもとずく高山次右衛門二人、ということであれば、
           明知弥平次(太田和泉)と高山右近の二人
  ということで、高山右近と太田和泉守を関係づけて出してきたといえるかもしれません。すなわち
高山は明智だといっていると変なところに行き着くこともあるわけです。すなわち高山=明智ならば
       、明智次右衛門=高山次右衛門
となりますがこうなると、下の「談合を相究め」のメンバーにもなりかねません。本能寺前、

    ★『維任日向守光秀逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、
     是等として談合を相究め、信長を討果たし、天下の主となるべき・・・』〈信長公記〉

 当然それぞれに場があるので、同一ではない、ということは普通の解釈でしょう。表記的にも太田
和泉守が明知左馬助と重なって介在したということで、同一人とはいえないところですが、突っ込ま
れると否定するのが案外むつかしいところがあります。すなわち兼見卿はこの★の記事をみて、高山次右衛門
を出してきたといえるからです。あとで高山の係累を解き明かすべく配置された「猪子次左衛門」が
ありますのでそれも横目にみてこの名前を創ったと思えるからです。「猪子」は美濃随一の豪の者と
いう触れ込みの人物ですから「太田和泉」の登場かもしれません。
明智左馬助から、明智と高山を結びつける、そのことがここで行われたといえそうですが、こういうところ
までいってしまうにはやはり兼見卿と、太田多牛一が付き合いがなければ無理ということになります。
こういう付き合いがここで語られて、ここに結果が出されているかもしれないわけです。
 例えば、山科言継卿は、平手邸訪問の記事などで、いままでも出てきました。こういう連携があると
みてよい材料にはこと欠きませんが〈辞典〉によれば、
   「飯田
 という生没年不詳の人物のことが出ています。

    『信長の奉行衆か。永禄十一年(1568)十月、山科言継の信長との対面を取り持ち、その旧
    領還付に努めるなどの行動が見られる(言継)。
     同十二年七月十三日に、島田秀満坂井利貞塙直政とともに、言継より扇子を贈られて
    いるのを見ると、織田家内でかなりの地位と思われる。あるいは弘治三年(1557)四月九日に
    信長より宛行いを受けている飯田弥兵衛(宅重)なのかも知れない。「飯田」は、言継と深い関係
    を持つていたらしく、同十二年七月中、言継を訪れたり、知行分の替地について相談を受け
    たりしている(言継)。』〈辞典〉

 「」というのは大もので、飯田は「屋斎軒」が出てきた「飯田村」から来ており、安食が「安食弥太
郎」、山田が「山田弥右衛門、山田半兵衛、山田左衛門、山田三左衛門・・」などを生んできたのと
同じようなものでしょう。加藤清正の股肱の大将、飯田覚兵衛を生んだような「飯田」と考えると太田和
泉が言継と深い関係があったことを語るために登場させた人物といえないこともないようです。
     飯田宅重(〈辞典〉では「飯田某」と別掲)
は「弥兵衛」「法名慶庵」であり、名前では滅多にみられない「宅」は「琢」「沢」にも変わり得る、という
ことになると夕庵色も出てきます。海東郡に領地があるというのも意味深長です。生没年不詳人物が
多いのは何かを語るというものであり、例えば、言継卿が天文2年(1533)平手政秀を訪問している、
これは信長との対面の35年前(1568マイナス1533)だから、織田も代替わりしており、あのときの
言継卿は言継@という存在であった、というヒントもあるのかもしれません。見慣れない名前は公卿
日記にだけ出ているというのも多く、そういう訪問などの接触を示す布石が所々にありうる、行き来が
あったという点を見逃さないようにせねばならないといえます。この扇子の贈呈の話の相手三人は
飯田という操作用語があるので、島田、坂井、塙も、みな太田牛一のことを表す、というような言継
卿のイタズラがあるような感じです。はじめの島田秀満は三宅弥平次秀満ですから、太田和泉を
いっていそうです。要は太田牛一のキャラクターから、情報をみなに間断なく送るので、みなの情報
がしっかりしているといえるということです。他国、他の時代の史書とちょっと違うというのがいいたい
ところです。〈武功夜話〉の描写

   『永禄の今川乱入の時、・・・・この藤殿は駿州三河の事情詳しく語り候、話たくみなにて
   語り候えば眠れる馬も自然に走り出し留るを知らず奇妙な道化のと伝え候。』

 太田和泉の言行を表すため、あの秀吉の名前が利用されますが、〈武功夜話〉の藤吉郎秀吉
の略称だけでも、「藤吉」、「木藤」、「藤」、「木藤吉」、「木下藤」などあり、両者重ねられながらも違いが出さ
れるということになります。藤吉郎を語った一節の上の部分は太田和泉のことをいいたいようです。
一応語りのほとんどは太田和泉のものですが、両方に共通するものものもありそうです。次ぎの
ものなど入っているのは区別をしようという意思があると取れます。

   『藤吉儀・・この人後年羽柴秀吉作る人・・永禄元(一五五八年)九月日・・奉公・・  
    右藤吉儀、永禄三年今川治部少輔取り合いの砌は、清須に罷り在り候由。喜左衛門
    (ルビ=前野義康)話にあり。』

 桶狭間戦に行ってない藤吉郎と桶狭間戦で主役であった藤吉郎があることを、証言者をつけて、
明らかにしています。とにかく社交家で、話し好きで、気軽にどこへでも出て行くというタイプで、まさに
口八丁手八丁といったところです。
 筆者としては多くの場合に著者同士の面識のある付き合いを認定して話をすすめたということが
多いわけです。この場合も打ち合わせられて

    ○明智光春が城をやいたわけではない、道家役の太田牛一というものを使った
    ○明智と高山は親類といえる
    ○明智次右衛門のヒントを与えようとしている
    ○兼見も高山を知っている
    ○明智はキリスト教と関係がある

 とかのことが、打ち出されているとみてよい、かなり穿ったところまで話がすすめられるということに
なります。兼見卿の日記をみてもそれは、「飯田某」とかの、他の名前になっていそうだからわからない、
フロイスと太田和泉の直の付き合いがあったのも間違いないところです。フロイスのものをみてもそ
れがわかりにくい、他の名前になっているかもしれない、その可能性の方が大きいと思われます。つ
まりフロイスが明智光秀に会っても明智とは書かないはずといえます。

 A 兼見卿も交際が広かった、
 フロイスの交際範囲は広かったと思いますが、公卿の兼見卿も同じであった、と思われます。太田
和泉と直接行き来がなかったとしても間接的にも十分情報はえられていたと思います。まあ今日的
な肩書きとか立場などで垣根をつくるというようなことがない、大臣クラスが出てきたらこちらは次官クラスでは
駄目だ、社長には社長、部長には部長というような感覚ではない、公卿にしろ武士にしろ上位者に
会うにはそれなりの手順を経てアポイントをとってやるのが筋だ、というような感覚とちょっと違う目で
みなければならないと思われます。まあ延々と井戸端会議をやっている、一見役に立ちそうもないことに
時間をついやすというような人種が時代の担い手になっていたという時代もあるわけで、武井夕庵に
武田信玄が会ったというのは考えられない、坂本竜馬に大名が会うのはよほど龍馬に人間的魅力が
あったと取るしかない、というのと違ったものがあったといえます。
 フロイスと兼見卿はどちらも、「明智(の最後)」から「高山」を出してきていますが、これは考えてみると
たいへんな飛躍です。二人に接点はあったとしか考えられないほどのことですが、それを前提として
話を進めていくことは納得がえられないことなので、ベースとしてそういうものが考えられるということは
想定しておくことも必要です。
 もう一つそういうものがあるとすれば、古典、文献の読み方がみなの教養として身についているので、
文献の作り方も按排する能力があるということも前提となっている、こういうことも預かって力になっている
いると思います。
例えば、日記といってもあとから作れる、手紙というのも例えば桶狭間で偽手紙伝説があるようにあと
から入れられる、□□文書とい客観的らしいものも、そうともいえない、日付も絶対的でない
というようなことがわかているので、案外、連携を一概に否定してしまうことはできないのではないか
と思います。
 要は、坂本明智城陥落、28年後に出き上がったという〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に、とくに高山の出自
のことなどは書かれている、高山がいま理解されている以上に述べられていることがわかってきますので
皆知っていたということに落ち着いてしまいます、高山右近が形を変えて、つまり表記を変えて〈甫庵信長記〉
に出てきている、これを当時の読者は知っていたということから、それの解説を皆がやったやったと
いうことですが、それは結果であって、前から押していかないと結果はでてこないのは明らかです。つまり
フロイスとか兼見卿や、秀吉が坂本明智城が陥落した直後あたりにこれを書いたという前提で当た
らなければならない、その時点ではどうだったかということがまず要ります。いまそのつもりでやってき
ましたが、この時点で今いえることは、皆が高山で知っていることはキリスト教だろうから、明智衆の
最後において高山を出したことは、高山が明智衆の一員であるというのと、明智とキリスト教というもの
には密接関係がある、というのを同時にいおうとしたのではないか、その程度のことはいえるのでは
ないかと思います。つまり
        明智幹部→キリスト教←高山     明智幹部(高山)→キリスト教
というようなものです。
 要は、公卿は朝廷の人だから神道だろう、夕庵は坊主衆だろうから仏教、太田和泉は中国の天道と
いうようなものをいっているからキリスト教などには反感があったかもしれないというような、ものでもない、
もっと巾がひろく、単に、世界が違うとかいって捨て去ったとは考えられない、根底において、帰一
した原理的なものがあって、そのあたりからキリスト教をみていたいうことのようです。いまいおうと
しているのは、織田の重鎮、精神的な支柱といってもよい武井爾云(夕庵)という人がキリスト教に帰依した
ことが、キリスト教が織田の内部に大きく広がるキッカケになったのではないか、ということです。日記などの、
細かい分析と対比によって、確実な記事が追っかけられてキリスト教が予想外に織田信長政権に大きな影響を
及ぼしているという成果がえられていているわけですが、こういうのはそういう説もある、ということで終わってしまい
そうで新たな資料待ち、発掘成果待ちとかになってしまいやすいものです。安土城にキリスト教の刻印
があった、という結果につながる元となるところでもあります。

公卿などと太田和泉が面識があった、という事実もチャンと語られている、兼見が高山を出してきて
いる、前野家にキリスト教の古い本が残っている、武井夕庵・太田牛一がそれをみている(見ていな
史書は書けない)、ということなどから、フロイスの付き合いは予想外に面識を通して広がっていた
それを匂わせる材料に事欠かない、そうなればある程度踏み込んだ相互関係の推定が可能となる
ものです。 
高山右近の登場回数は多く15回ほでありますが、初登場は遅く、荒木村重が謀反して信長が味方
にしようとして慌てるというくだりのある天正六年です。実際は明智十兵衛初登場の永禄12年(9年前)の
〈甫庵信長記〉に出ている(後述)と思います。

(3)高木貞久文書
 高山右近が出ている〈甫庵信長記〉の文は、おかしいことに、ここに出ている秀吉の手紙を載せたと
いう高木文書に密接に関わっているので先にそこに触れたいと思います。おかしいというのは、〈甫
庵信長記〉の長い長いわけの分からない記事の主役が
       「貞光久左衛門」
という名前です。一方、高木文書の主役、「高木家」の記述上の祖というべき主が「高木貞久」で「貞」「久」
は偶然にしては出来すぎという感じがしますので、根が一つと取れるということです。
 秀吉の文が宛てられた高木氏のことすが、まず文書はあの秀吉の意向に基ずいて、祐筆が書
いたということだろうからこれは事実を表している、文献にない本当のことを伝えているということで
理解されてしまいます。文献以外のものは文献のたよりなさを補うものだ、行き詰っていることはこう
いうもので突破口として活用できるものがあると思ってしまいますが、ほとんどが文献に記載され
ない文献と考えられるべきものです。
 〈吾妻鏡〉〈太田牛一著書〉でも日付のない、日付があってもうそ臭い文書が一杯あり、それは何
かをかたる手段でもあったりします。秀吉名を使えば信用されやすいということもありうるのです。
 要は、「秀吉」が「高木貞久」に出したというものは一番客観的で確かなものと考えられるので
それを優先しようとしても、ふたをあければ、秀吉は、フロイスと同じことをいっているのに気づく、
いいかたを変えれば、これでは秀吉にあやふやな報告しかされなかったといえるわけです。つまり
この秀吉は、あの秀吉と取れそうもないとみるのが妥当で、フロイスと同類項としてくくれる存在と
いえるものでしょう。秀吉は 
        「・・・・明智子二人、明智弥平次・・・・・・」
といっています。フロイスは 
        「安土を去った明智の武将・・・・かの武将・・切腹した。明智の二子、・・」 
となっています。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に「明智弥平次」という表記はありません。もちろん
「三宅弥平次」というのも出ていません。
テキスト脚注では「明智左馬助」は「明智秀満」とされ
      「弥平次。はじめ三宅弥平次。俗称の左馬助秀俊(光春)は誤りである。」
とされているだけです。まあ世間では、三宅弥平次は明智左馬助の前名だろうとみている、類書では
この坂本城幕引の主役は「明智左馬助」という〈信長公記〉の表記の人物とされているから、世間の理解は
      明智左馬助=三宅弥平次=明知左馬助
というところまでになるのでしょう。つまり明智弥平次などという表記の人物はいない、だから秀吉は、そうでもない、
         三宅弥平次=明智弥平次
 だから、三宅は明智に拡大できる、もっとひろく、例えば、弥平次は太田和泉守でもあるから、拡大
して考えてもよいいうことだけを証明してくれたといえます。ただ「三宅」も「弥平次」も「秀満」も多目的
に使われるものとなっています。つまり一般的には「明智左馬助」が明智衆糾合のための一つの要
となっている、といってもよいのかもしれません。「左馬」が重要な語句なのでしょう。
 また、秀吉が手紙を出した先という高木文書の「高木貞久」も問題です。人物の素描です。〈辞典〉を借用し
します。
     『高木貞久 美濃 生没年不詳』
     直介丞介彦左衛門。剃髪号無楽
     樋口氏の子だが、高木貞次の養子となり、美濃駒野城に住して斎藤道三に仕え、斎藤家の
     重臣安藤守就に従属するという(重修譜)。弘治二年(1556)九月二十日、斎藤義竜より
     庭田・西駒野等六カ所を安堵される(東高木文書)。・・・・・信長に降ったのは、寄親安藤守
     就より早いであろうか。四月二十四付(年はわからない)で貞久は信長の書状を受けているが
     、この文書を奥野高広氏は永禄六年に比定している(信長文書。降を仲介したのは市橋
     長利らしい(高木文書)。同(永禄)十年十一月、信長より知行を安堵されている。・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・本能寺変後の(天正十年)六月十九日、秀吉より長文の書状を受け、
     山崎の戦や光秀一族滅亡について報じられている。(東高木文書)。最後の条中に、見放
     さないことを約束した後、「御子息何とやらん承候」とあるのは、高木一族から秀吉方に人質
     が送られたのであろう。・・・家督は五男貞友に譲られたという(重修譜)。同(天正)十一年
     中に没したと〈寛永伝〉等にあるが、同十九年十一月十二日・・・・それまで存命していた
     ことは確実である(東高木文書)。』〈織田信長家臣人名辞典〉

 このようになっている人物で、実在はどうかと思われるほど、これにはやはり物語の部分が含
まれているようです。一から話すると道三、義竜、安藤、市橋などが出ているので面白いところです
が長くなりますので、いままで述べてきたものの上に立ってこれをみると一見してそのように感ずると
ところがあります。
  (@)日付までも載った文書のなかにいる人物であり、生没年不詳ということはない
  (A)名前が三つも伝わっている、直介は直助であり、これは〈美濃国諸旧記〉にある「武井肥後
    守直助」の直助です、また「丞介」も先稿で出ました「三宅権丞」の「丞」を思いだすものです。
    「権」は「高安権頭」という表記の人物が用意され、「頭」と引っ付いた「権」になり余計夕庵に
    近づいたといえます。
    「彦左衛門」は首巻に出てきてたびたび引用しているものですが
        「坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老(えび)半兵衛・乾丹後守・山口勘兵衛・
        堤伊予」
    の「彦」ですから重要人物の部類に入る表記です。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉を通じて
          肥田彦左衛門
    という表記は一件しかないのではないかと思いますが、そういう重要表記です。「蜂須賀
    彦右衛門」・「滝川彦右衛門」などの「彦右衛門」と同じ意味があります。肥田は飛騨であり、
    「岡飛騨」にもつながるものです。もうすこし突っ込んでおくと
              「高山右近」は「彦五郎」
     という名前で「彦」の「五」番目に当たります。
  (B)「安藤(東)守就」は「安藤伊賀守」で、「市橋長年」というのは「市橋九郎左衛門」で、太田
    牛一と関係が深い人物です。もちろん「斎藤」に近いといった方がいいのかもしれません。
  (C)秀吉の 「御子息何とやらん承候」という太字の部分は、よほど親しい、と思われますが、
    「高木」という名前は秀吉周辺には見かけないものです。まあこれは太田牛一かその意を汲
    んだ人が出した偽物と取るのが無難でしょう。もちろん秀吉というのは太田和泉と非常に親し
    かったといえますので一概に偽物と決め込むのは間違いかもしれませんが。
  (D)五男の貞友が家督を継ぐのは解せない、これに注意を促したと思えます。
  (E)死の日が二つあります。
  (F)無楽というのはのち有楽という人物が出てくるので、親類かと思われます。

 など考えると、作為的なものと感じられ、高木文書というものも、いうならば著書という感じのものに
なっていると思います。結論的にいえば貞久の養父という高木貞次という名前の人物について
何も、わからないということです。つまり、この「貞」という字は「定」であり「太田和泉守」を「信定」と
もいうのだから、高木を高山とすれば、「山(の)右衛門」となり、太田牛一色が出てくるという
ことになります。
 同辞典に高木姓の人は多く貞久の身辺に限っていえば、次のようになっており、偶然というには
よく出来ていて一応完結されたものになっています。

 ●高木貞久ーーーー長男  高木貞家(彦七郎)ーーーー子 高木貞俊(祖父貞久の養子)
  (直助・丞助      二男  高木貞利(彦六郎、権右衛門)
   彦左衛門・      三男  高木貞秀(勝兵衛)
   無楽)         四男  □□□□
                五男  高木貞友(彦助・彦之助・藤兵衛)
 
 四男が空いているのは長男の嫡男(貞俊)がここに入ってくることになります。先に●の高木貞久
の例を挙げましたように、それぞれにかなりのことが書かれてあり、中身も述べなければならない
ところですが、長くなるので、名前だけ(   )にいれております。貞俊の名前は(彦太郎・次郎兵
衛・四郎左衛門・好春)です。貞久の剃髪号「無楽」、同じく貞俊の「好春」などは重要かもしれませ
ん。全般に「彦」があるのも答えを出さねばならないところでしょう。
高木で注意しなければならないのは、まず「高木」は〈甫庵信長記〉における表記だということです。
すなわち〈甫庵信長記〉に
      「高木左吉」と「高木右近太夫」
というのが出てきます。〈信長公記〉には「高木」はないのがとくに重要だと思います。なお辞典に
おける高木姓の人物は、
   上の「貞久」、と子息の「貞家」「貞利」「貞秀」「貞友」、孫の「貞俊」
の六人の他に次ぎの四人が載せられています。

     「高木光秀(重修譜)」「高木右近大夫」「高木清秀」「高木佐吉」●「高木小左衛門」

でこれで全部です。これをみて直感的に感じられますことは、
     「光秀」「右近」「清秀」「佐吉」
という名前です。高木は同じだから、名字は存在感を失い、名前が浮きあがってくるものです。
 まあ高山右近を念頭に置いてこれをみている人は高山右近は
     「重
という名前だから、五番目で「彦」がつく「貞」はどうしても気になるところでしょう。

(4)中川清秀
〈辞典〉高木の下(しも)の字句から、
    「明智光秀」「高山右近」「中川清秀」「石田(明智)佐吉」
が出てきたとなると、いまとなれば無視できないものとして見直しを迫られることになってきます。
●の人物は同辞典では
       「生没年不詳。清秀の一族であろう。」
とされていますが、まあこれは清秀と同じか、子かもしれないということでしょう。
〈信長公記〉首巻の六人衆に
    「城戸小左衛門」
というのが出てきますが一般的に二世というものが考慮さるべきといっているのかもしれません。
そうすれば、高木+小高木も同じかもしれません。つまり
     光秀ーーー佐吉ならば
     右近ーーー小右近
     清秀ーーー小清秀
 というものも考慮さるべきということかもしれません。例えば「池田三左衛門輝政」のはじめの夫人
は「中川清秀」の娘というのは知られたことですが、この清秀は輝政と同世代とみられますから、
清秀@Aがありこの清秀をAとして@の清秀の娘ということになるでしょう。
 中川清秀は、〈信長公記〉で「中川瀬兵衛」として、先の稿で触れたように石田伊予・渡辺勘太夫
と接近して出てきました。同じ荒木村重の与力として、高山右近とセットで出てきて、高槻城の右近、
茨木城の清秀として知られています。〈辞典〉によれば

  『中川清秀  天文十一年(1542)〜天正十一年(1583)四月二十日
   虎之助、瀬兵衛尉。●佐渡守重清の長男で、生地は山城だが攝津で成人したという(中川氏年譜)』

 となっています。 ●「佐渡守重清」の長男で、加藤清正と同じ「虎之助」という名であることなど
が書かれています。「中川」という名は重要で、桶狭間などで二回
      「中川金右衛門」
が出てきており、別人と思われる
      「中川八郎右衛門」
のごときは〈信長公記〉5回も登場してくる、という無視できない名前といえます。
〈信長公記〉テキスト人名注では「中川八郎右衛門」は

   『中川重政  中川氏は織田信秀の弟信次の家系。重政の時中川と改姓(続群書類従本織田
    系図)。子孫は加賀前田氏に仕えた。』

 となっています。中川清秀を織田の親類だ、などということになると、また揉めそうな話になるので
重政だけに注目してみると、その名前から重要ということはすぐわかります。

    『(元亀元年)永原に佐久間右衛門置かせられ、長光寺に柴田修理亮在城、安土城に中川
    八郎右衛門楯籠もり・・・・』〈信長公記〉

 となると、このときあの安土城ではなかったが、それを思い起こすことになるもので、重要人物で
あるといっており、また、元亀三年

    『明智十兵衛・中川八郎」右衛門・丹羽五郎左衛門、両三人取出にをかせられ・・、』〈同上〉

 ともなれば武井夕庵かもしれないというのも出てきます。また元亀元年、
        『斎藤新五・稲葉伊豫・中川八郎右衛門両三人』〈同上〉
となると斎藤新五がいるのでもうすこし若そうでもあります。また
 永禄十二年 黒母衣(くろほろ)」
        『・・・津田左馬允・蜂屋兵庫頭、中川八郎右衛門、中島主水正・・・』〈甫庵信長記〉
 の「津田左馬允」を筆者はどこで見たのか「中川重政弟」と書きいれているのをみると八郎右衛門
と兄弟ということになりそうで夕庵と関係する、兄弟はいろいろの意味があるので姻族の考慮も必要
という感じもします。また、〈甫庵信長記〉では人名索引に目立つ表記があります。中川八郎右衛門に
        「中八郎右衛門尉」と「中八郎右衛門尉」
があるのは、まあ余り驚くこともありませんが、中川右衛門を作って

    「中川右衛門」と「中川右衛門

の二つをそれぞれ一回限りで、登場させているのです。これは「八郎」が「金」と重ねられたということ
か、別人がもう一人でてきたのか、大変悩ましいことになってきます。
    
これについては深く立ち入りませんが●で「中川清秀」の父の名前がでている、また、親子や兄弟
のことなどが錯綜して出てくることを考慮して、また〈辞典〉に出ている
       「佐渡守重清」
という表記に要注意ということです。まあこれに「金」がついてくるので佐渡の金山とでも覚えて
おくのもよいのかもしれません。「重」は「太田和泉守重政」の「重」、「清」はあの「知人太郎国清」の
「清」で、中川清秀の「清」、清秀の「虎乃助」の「虎」は先稿で出た越前の「虎杖(いたどり)」の「虎」
です。二通りのことが考えられますが多分Bの方になると思います。

 A、佐渡守重清が夕庵の男性の子

      夕庵ーーーーーーーーーーー(佐渡守重清)
     (中川八郎右衛門@      中川八郎右衛門A
                           ‖ーーーーーーーーーー中川清秀
                        津田左馬允
 というような関係があるのかもしれないというのが出てきます。また〈辞典〉のいう通りでやれば
「重清」の子が中川清秀ですから、夕庵と(佐渡守重清)は兄弟で

 B、三兄弟の男性の兄弟が佐渡守重清

      (佐渡守重清)
         ‖ーーーーーーーーー中川清秀
       中川八郎右衛門
      
というのも出てきます。こういう重清という人物が突然出てきては困るということになりますが、太田牛一
はそういう存在があればそれをを別表記で出していると思われます。要は中川清秀は、池田輝政を介さなくても
明智三兄弟とはきわめて密接な関係があったということになります。
 これは桶狭間に中川金右衛門が出てくることや、中川重政という表記の人物が出てくるだけでも
察せられることです。今高山右近が、どういう出自の人かということをいおうとしているので、相棒の
中川清秀はどうかということはいずれ触れなければならないことなので「高木清秀」がでてきたところ
で先に素描したということです。天正七年、摂州表、「塩川(河)伯耆守」の所へ使者に立った次ぎの
■は〈甫庵信長記〉一回だけ登場のわけのわからない人物です。

      『森の乱、■中西権兵衛尉を御使いとして銀子千両遣わさる。』〈甫庵信長記〉

 「中西」というのは大西、中西、小西とかいう、「西」の中、つまり(中)西ですから、夕庵の関係とすると、
権兵衛は「名無しの権兵衛」ともいうから、適当に入れればよい、
        中  西    兵 衛
        中(河、川)  兵 衛
 というようなことになり、森乱丸が一族の中川清秀と使いをしたということになるのでしょう。この辺り
のテーマは、高山、中川となっているところからもそういえそうです。このお使いのことは〈信長公記〉
にも出ていますが〈信長公記〉にはもう一つ「中西権兵衛」が出ており、これは
    「与語久兵衛」(佐々の余呉、余語)
 と接近しており、これは武井夕庵との関連を表しています。
 なお中川と古田はセットで出てきています。古田織部は大坂陣が終わったあと、大坂の城内と呼応
しようとしたとかいうことで、身は切腹、家は改易されましたが、理由がよくわかっていません。これほど
重要な人物のことがこの程度しかわかっていない、こういうのはその出自さえわからないということから
きています。テキスト脚注では

    『古田重然(1544〜1615)中川清秀の従弟。はじめ中川清秀の与力。茶道は千利休の高
    弟。織部流の祖。』

 となっています。中川、古田の並びからくるものは中川と似たような係累での古田を知らしている
のかもしれません。その芸術的天稟は、太田和泉守と共有していたものといえますが、古田の記事は
類書に多く、中川とは比較にならないほどありますので、よく文献を読めばわかるはずです。  

(5)「」と「武」                     
 先の「▲高木佐吉」「▼高木右近太夫」は〈甫庵信長記〉だけにありますが、これは当然人名索引の
「高」のところにありますから、当然「高」の表記の人物と見比べることになります。〈甫庵信長記〉の
人名索引で「高」がつくのは、まず

 A、「高山右近将監」「高山右近」「高山」
 B、「高畠三右衛門」
 C、「高宮右京助」「高宮三河守」
 D、「高野藤蔵」「高野瀬」
 E、「高橋甚三郎」「高橋大九郎左衛門尉」「高橋藤丸」「高橋虎松」「高橋」
 F、「高森恵光寺」
 G、「高安権守」

 があり、これで全部です。
Aでは、「太夫」と「将監」は同じなので「高木」と「高山」は同じではないがあぶり出しとして捉えら
れることが考えられ、▼は「高山右近将監」「高山右近」に吸収されそうだという感じがします。
B、C、は武井夕庵であろうというのは既述です。
D、の「高野藤蔵」は、「藤」であり、信長の道路奉行で六人衆の「山口太郎兵衛」と出てきます。
「高野瀬」はテキスト人名禄では
     「高野瀬備中守秀澄は肥田城主(東浅井郡志)。」
とありますが、その「肥田」を意識して出された人物と思われます。高野の「高」と備前守、飛騨の
組み合わせといえるのでしょう。しいて付け加えれば、「秀澄」という名前は丹羽五郎左衛門の名前
「長秀」の「秀」と、「惟住」の「住」=「すみ」=「澄」が使われています。
E、の「高橋」はほとんど既述ですが、情況を説明するために出された一族衆ということで名前
「甚三郎」「大九郎」「藤(丸)」「虎松」に特徴があります。
F、は「石田西光寺」が想起されます。つまり前稿の下間和泉守が出てきたあたりの、わかりにくい
表記の、別の例がこのあたりにもある、その辺のところ参照して利用するべきと読めます。大島対馬
守や桜井豊前守、府中の竜門寺、三宅権丞、などがたくさん出てきました。「高」と「森」と「光」
がいいたいのかもしれません。
G、は「高安」も意味があると思いますが、例の「三宅権丞」のことの説明と取れます。〈信長公記〉
では「高安権頭」となっており夕庵に使われる「守」が「頭」であることの確認がされていると思いま
す。もう一つ「高」と「安」の組み合わせはいっていると思います。高山右近の相棒として、また小西
行長に付いて、文禄の朝鮮役の講和を実現させたことで有名な小西飛騨守の前姓は「内藤」
ですが、この人物の号
     「内藤如」は「内藤如
でもあります。これはネットで確認していただければすぐわかります。「夕庵」の夕が「関」とか「友」
とか「遊」に創られているのと同じです。昔は、「安」は「庵」をすぐ連想できえたのかもしれま
せん。そうなれば「高安」は「武庵」にも行き着きそうです。
 結論的にいいたいことは「高(たか)」が「武(たけ」と懸かっているということです。元亀四年

    『十月廿五日、信長北伊勢より御馬を納れられ、左は多芸山茂りたる高山(ルビ=たかやま)
     なり。』〈信長公記〉

 というのがあります。ここの「多芸」には、川西の「多藝山(ルビ=たぎやま)」伊勢の「多藝(たぎ)谷
国司」(いずれも〈信長公記〉)もあり、これは引っ掛けがされていそうな感じです。「藝」は「藝術」の
「藝」ですから「タゲイ」とも読めるので著者はルビを入れたわけです。この多芸山は美濃にもあり、
〈甫庵信長記〉 
   『信長卿西美濃に至って・・・・多芸(ルビ=たぎ)山の麓より・・・洲俣に要害を拵(こしら)え給う。』

 という一文があり、ここには読み方まで示されています(ほかのところで甫庵は「多芸」を「たき」とも
読ませているので「ぎ」は「き」と読んでもよいといっている)。この多芸山は美濃多芸郡にあるのでは
ないでしょうか、丸毛氏の多芸郡を呼び出しています。テキスト脚注再掲
    
    『丸毛長照  ・・・・・・・丸毛は丸茂に通じ「まるも」と訓じる。美濃多芸郡の住人。丸毛兵庫
     頭。』

 この、多芸は「たけ」とも読むようです。すなわち、テキスト人名禄では「国司父子」について

    『北畠具教、具房父子  伊勢国司。三重県一志郡美作村下多気に多芸(たけ)御所といい、
     北畠氏の御所址がある。県史跡。』

となつているように多芸の「芸」は「け」とも読めますので「多芸山」は「たけいやま」とも読めるし
「たけやま」と読める、また「武井山」や「武山」とも書けることになります。
 これは(たぎぐん)と読むこともできますから、「多儀郡」ともなり美濃に昔あった
       武儀郡
が呼び出されて「武」がうかび上がって来ます。明智から関が出てきて武儀郡(最近関市に吸収
されたようだが全部がそうなったのかわからない)に及び、丸毛の多芸郡は、明智と結びつけても
間題はなさそうです。後世ではもっと短絡されて「関」は「夕」というほどになると思います。
 武儀郡に「儀町」「武芸川町」があり、「武井」に関係なしとはいえませんが、ここに
     「板取(いたどり)町」
があります。前稿での越前、石田の西光寺が出てきたところ、
      「虎杖(ルビ=いたどりー南条郡今庄町板取)の城」と「下間和泉」
 が出てきました。ここの「虎」に武井と和泉が懸かっていくという構図になります。中川の「虎の助」
や高橋の「虎松」が、無視できないことになります。いいたいことは

      「左は多芸山茂りたる高山なり。」〈信長公記〉は
      「左は山 茂りたる山なり」

で「武」=「高」です。しいていえばこの文がおかしいので、
      「左は山、武()茂りたる高山なり。」
 となるのでしょう。また上の
      「高山」はフロイスのいう「高い山」であり、これは「高井」、「高き山」であり、これは「高木」
であり、「武井」ということになります。昔の人は「高安権頭」は、「権」をかえてもよいと「武庵□頭」、と
して「武庵夕頭」と読みそうに思えます。
白井は白江にもなっています。梶原は梶川ともなり篠原は篠川ともなりえます。それと同じです。
まあここまでくれば、〈甫庵信長記〉の
     
    「高木左吉」は高山+左吉、武山+左吉で、「吉」も利いてきて、高山左吉、明智佐吉ともなり
    「高木右近太夫」は高山+右近太夫で高山右近

ともなりえます。まあ高木右近大夫の親が高木左吉というように考証されているのだから、
   「高木左吉」は「武井左吉」、子の「高木右近太夫」は「高山右近」で「武井右近」
だから、まあ高山右近の親は、武井というのかもしれないといっているのでしょう。ぼんやりと「左吉」
というものは「武井」に結びつくといったとも取れます。
 要はこのように、〈甫庵信長記〉〈高木文書〉〈兼見卿〉〈フロイス著書〉などの間にはなんとなく
書きぶりへの合意があった、表記のことなどで多くの人の議論などがあったというとウソのように聞こえ
ますが皆、古典の読み方をしっているからそれが求心力となっていたと考えるとわかりやすいという
ことです。先ほど辞典で高木の番外ででました

    「高木光秀(重修譜)」「高木右近大夫」「高木清秀」「高木佐吉」●「高木小左衛門」

というものも高木を高山、武井といいかえると、明智姓を与えて考えることができます。中川と高山
は一族ということになります。また高木光秀と書いている書物も油断がならないものといえます。

(6)高山と中川
次のは、天正六年、十一月、信長公、古池田陣の布陣の両書の対比です。高山右近の記載に
不自然なところがあり、「芥川」という、人か場所かわかりにくい二字が出てきますので取り上げざるを
えません。なお翌年もうひとつ布陣が出ますが、はじめのを「伊丹布陣表@」、あとに出てくるのを
「伊丹布陣表A」とします。

 A、伊丹布陣表@
       〈信長公記〉                   〈甫庵信長記〉 

     『御取手御在番衆、                『かくて付城の次第は

       一、塚口郷、                   塚口の城、 神戸三七殿                                       惟住五郎左衛門・                 惟住
                蜂屋兵庫・                      蜂屋
                蒲生忠三郎・                    蒲生
               ●高山右近・                     高山
                神戸三七信孝。                  、
      一、毛馬村   織田上野守・          毛馬の城に 織田上野介殿、
                滝川左近・                  北畠中将信雄卿     
                北畠信雄卿                  滝河左近     
                武藤宗右衛門。                武藤助十郎。』
      一、倉橋郷、  池田勝三郎・勝九郎・幸新。 倉橋の城に、池田父子三人
                                
      一、原田郷、 ■中川瀬兵衛・           原田の城に、中河
                古田左介。                      古田左助。
      一、刀根山、  稲葉伊豫・             刀根山に、稲葉伊予守、
                氏家左京助・                   氏家左京助、
                伊賀平左衛門・                 伊賀伊賀守。
             ★★芥川。               
      一、郡山、   津田七兵衛信澄。       芥川の城に、津田七兵衛殿。
        古池田、  塩川伯耆。             池田に、塩河伯耆守。
      一、賀茂、   三位中将信忠御人数。     賀茂岸に信忠卿の御勢。
      一、高槻の城御番手御人数、           高槻の城に、
                大津伝十郎・                  大津伝十郎
                牧村長兵衛・                  牧村長兵衛
                生駒市左衛門・                 生駒市左衛門
                生駒三吉・                    同三吉、
                湯浅甚介・                    湯浅甚介
               ▲猪子次左衛門
               ▼村井作右衛門
               ★武田左吉。                   ★武田左吉。
     一、茨木城御番手衆、
                福富平左衛門・                 福富平左衛門尉、
                下石彦右衛門・                 下石彦右衛門尉、
                野々村三十郎。                 野々村三十郎。
     一、中嶋、    ■中川瀬兵衛。                  なし
     一、ひとつ屋、  ●高山右近。        一屋(ひとつや)に、高山右近
     一、大矢田、   安部二右衛門。           大矢田に、安部二右衛門。                
     かくのごとく所々に御番手の御人数仰せ付けられ、羽柴筑前に相加え、佐久間・維任(これ
     とう)・筒井順慶、播州へ差し遣わされ、有馬郡の御敵さん田の城へ差し向い、道場河原
     三本松二ヶ所足懸かり拵え、羽柴筑前守秀吉人数入れ置き、是より播州へ相働き、別所
     居城三木への取出城々へ兵糧、鉄砲・玉薬・普請等申し付け帰陣候なり。』〈信長公記〉

 A-1、重複
  なんと〈信長公記〉では●の高山右近、■の中川瀬兵衛がダブっています。まあ兼任だろうという
 わけにはいきません。ほかに、そういうことはやっていないし、〈甫庵信長記〉では中川がそうなって
 いません。高山が両書とも二つあり、とにかく中川と高山がおかしい、ただしおかしいというあり方が
 高山と中川で違っています。つまり〈甫庵信長記〉と対比すれば、
         左 「高山右近」二つ     右「高山」と「高山右近」の二つ
         左 「中川瀬兵衛」二つ    右「中河」一つ
 というものです。
    ○二字が活用されている
 のがわかります。その二字も@「高山」は合っているのに「中河」は違わせてある、またA 「中河」
 の位置が「二字」の仲間からすこしはずれている、ということなどが気になります。
  〈甫庵信長記〉の読者は、とにかく「高山」「中河(川)」がおかしい、〈信長公記〉の読者は、「高山」、
 「中川」はフルネームが二つある、操作ありと感ずるでしょう。両方見ていた江戸の専門筋は、統合して読む
 ので、ここの一節のテーマの一つは高山右近と中川瀬兵衛にあり、と感じたと思われます。
 もちろん〈甫庵信長記〉の読者も「高山」二つあるのはおかしい、一つがなぜ二字なのか、中川も
 二字になっているのはどういう意味だと思ったはずです。まあ今やっているのは、表記の話なので
 実態をすべて知ってからでないとやれないということもないでしょう。例えば布陣表@の高山は
          「ひとつ屋」
 というところにいますが、いま脚注では「ひとつ屋」という場所は「未詳」と書かれています。その状態で
 やるしかない、筆者は、もっと知らない場所が多いのですから、わかる範囲内でやるということでよい
 のでしょう。著者も読者に知識はなくてもよい、といっていそうです。つまり不明の部分もはじめに意識
 されていて、不明として創られたといえそうで、表記を重視していることの現われが顕著に出ている
 と思います。つまり実態はあとで考えればよいという程度のことになるのでしょう。
  表記のことになれば、このうちの「二字」の問題が大きくクローズアップされてきます。
  難解なこの問題に突き当たってしまいましたが、ここでこの問題を避けてしまっては、表題の高山
 右近の出自のことすら解明がむつかしくなります。話が冗長になってしまいますが、本稿の結論は
      「高山右近は武井夕庵の子息である」
      「高山右近がキリシタンとなる素地はこの環境にあった」
 ということなので、それに向った話のうちのまわり道ですから、転調もありますが、早く話をもとに戻し
たい、と思いながらやっています。

 A-2、二字
 〈甫庵信長記〉の読者は「塚口の城」のところで、二字が四つもあり、そのうち、二つ目の「高山」
 もあり、ここはちょっと“おかしい”のではないかと感ずることは容易に察せられますが、そこから直感
 的に感じられることは、この二字の四人はここにいなかったのではないか、著者が述べたいことが
 あるため、入れたのかもしれない、ということです。筆者は、この一覧表のトップにある「惟住五郎左
 衛門」については、自分をまず打ち出したのではないかと思いましたから、ここに登場してくる経
 過を調べました。〈信長公記〉に七日前に次の記事があり大体見当をつけたことでよいようです。

   『寅十二月四日、滝川左近惟住五郎左衛門、兵庫一谷焼き払い、人数打ち返し、伊丹を
    押さえ、塚口の郷に在陣なり。』〈信長公記〉

 ここでは布陣表@の蜂屋、蒲生の影がなく、惟住=滝川であればこれは毛馬の滝川に吸収されそうで、
はじめの、二字の三人
      再掲     〈信長公記〉                   〈甫庵信長記〉
                                         神戸三七殿
             惟住五郎左衛門・                    惟住
                蜂屋兵庫・                      蜂屋
                蒲生忠三郎・                    蒲生
               ●高山右近・                     高山
                神戸三七殿
は、ここにいなかったのではないか、四人目の高山は重複がはっきりしているので、いなかったと
みてよい、結局この四人はここにいなかったという結論になりました。そうすれば二字はいない場合
に使われるということになるかもしれないということにもなります。
惟住を第一に打ち出したのは、重要人物と認知してほしいという著者の思惑はあったと思われま
す。ただ、 折角“おかしい”と感じたことに水を差すのが二つあります。一つは神戸三七殿でこれは
四字です。また離れているが「中河」が二字ですから、この四人も書きミス、手を抜いたなどの印象を与えて
しまうことになります。また惟住、蜂屋、蒲生の三人についてもこの説明では納得できないということ
もあるでしょう。一般読者にどういう布石がなされているかもみなければならないところです。

(7)赤松氏
〈甫庵信長記〉では、天正六年、先ほどの布陣の一ヶ月ほど前、塚口郷の二字の三人「惟任」「蜂屋」「蒲生」には

     『貝野の郷の付城に、蒲生忠三郎、惟住五郎左衛門、蜂屋兵庫頭、』〈甫庵信長記〉

 という消息を伝えた記事があります。はじめは、この貝野を当たらねばなりませんから、ネットで
「貝野」を調べましたら
       「兵庫県神崎郡神崎町(いまは神河町)貝野」
 が出てきます(貝野はここしかない地名)。この地名はどこかで見たような感じですが、いま思い出せ
なくても、仕方がないことです。
 ただ、この地は兵庫県の南北東西の中心にある場所で、いま摂津中心の叙述がなされているので
すから、そのなかでは遠すぎて“はみだし”の地点で策動していることになり何のことやらかわから
なくなります。〈信長公記〉をみれば

  『一、貝(カイ)野の郷、道より南山手に要害候て、蜂屋・惟任・蒲生・若州衆居陣候なり。』〈信長公記〉
 
 というのがあり、両書の記事は一致しているのですが、こちららはまわり摂津の中での話となっています
。このためテキスト脚注では、
     「見野の誤写か。川西市見野。」
 と書かれています。しかし、摂津の貝野と書かれておらず、突如別の場面が出てくる映画的な描写法
もあるので、また、両方の書物が「貝」なので誤写ではないようですので、すぐにそうと決め込むわけ
にはいきません。
 しかし周囲の情況は、あきらかに「見野」であり、もし誤写だとするとその根拠は示されているか、という
ことになりますが、それが「カイ」というカタカナルビとみるべきではないかと思い至ります。
 「カイ」というカタカナルビは「漢字が違う」という意味に使われるということを示したことでも、ここは
 重要ではないかと思います。意図した間違いであるのは明らかですから、なぜ兵庫県の真ん中に
注目させたのかということが問題となってきます。〈甫庵信長記〉の読者は三人があまり離れている
ので“おかしい”と感ずる、そういえば高山も他の場所にいる、この二字の三人と高山は、ここにいな
かった、と思ったはずです。すなわちもう一人の四字の人物「神戸三七」が、ここにいなかったことが
わかっているからです。〈甫庵信長記〉には

   『・・・十一月三日に打ち立ち給う。安土の留守として三男神戸三七殿に、稲葉伊予守、
   不破河内守、丸毛兵庫頭等相添えて置かせらる』

 というものがあるので、留守部隊の大将だからここにいるのは無理であり表記も、両書で順番を
違わせてあります。塚口郷のものはなかったということになるので、二字の意味も一つその辺のところと
いうことになります。
 それにしても何故兵庫県の真ん中に、紛らわしい字を持っていったのかは気になるところです。ここ、貝野は
 いま「神崎郡神崎町」ですが、これは以前、後藤又兵衛の春日城ででてきました。おそらくここは
 南北朝で有名な赤松一族に関係する重要な土地といいたかったのでこうした、と思われます。
 先の
       道場河原
 というのは、赤松氏春(孫次郎)という人が「道場河原佐々城」に拠った故事などが意識されている
と思われます。ネットwww.nogami/honmatisiの「南朝の忠臣赤松氏範」によれば、赤松系図が
書かれています。これは今まで述べてきた戦国の表記に適合するような形にされているのが特徴
です。

 赤松則村ーー氏範ーー氏   次郎ーーーーー松寿丸
 円心                              藤寿丸
                家則   三郎ーーーーー海雲丸
                                 (櫛橋氏)
                祐   四郎ーーーーー(中嶋氏)
                季則    五郎       (上月氏)
                乙若丸十三才 伊藤民部・今村五郎伴し薩摩へ

 松寿などという名前もお馴染みですが、「春」とか「孫」とかが使われて別所長治は「長はる」もあ
り、長春もあるというような関連を出そうとしているかにみえます。
 「櫛橋」氏は「黒田官兵衛」の連れ合いの家筋だったと思いますが、官兵衛の取り方によっては
ここに一つの根元があったといえるのかもしれません。ここの
 中嶋も布陣表によれば中川瀬兵衛の陣したところで、これは尾張の中嶋と掛かっていますが
赤松のことがなんとなく出ている感じです。彦進が三木城に入ったのはそれ以前に親戚であつたと
いう前史があったといえそうです。後年、ここから
       「赤松弥三郎」〈武功夜話〉
という表記の人物が出ますが(斎村政広と名乗る人物)、おそらくこれが別所長治、彦進の遺児では
ないかと思われます。赤松次郎、別所孫右衛門などが三木城から出てきて三木衆の活動の痕跡ば
あとあと残っていっています。関ケ原で大谷吉隆などの背面に陣していたという脇坂安治も、三木衆
というのが〈武功夜話〉でわかります。

   『付けたりの事
    播州別所氏は、元播州の地頭赤松円心の後胤(こういん)、播州印南郡別所の郷より起こる筋
    目の家なり。始め大蔵少輔安治、播州東三郡を領す、●三木城に拠る嫡子小三郎(ルビ=長治)
    なり。大蔵少輔安治舎弟孫右衛門は、去る天正乙年(三年)信長公に一和の人。此度蜂須賀
    彦右(正勝)衛門尉、伊丹の荒木摂津守仲人(なかうど)、三野庄の別所小三郎諭し信長公
    に同心候なり。』〈武功夜話〉

 この安治は脇坂安治@であろうということが大体察せられそうです(あの脇坂甚内安治は中務少輔)。
 仲人の荒木は太田和泉でしょう。縁結びが得意なようで、あとでも出てきます。ここの蜂須賀はルビ
 の正勝なので小六正勝ではないようです。 
 太字●は入れ替えを要するのか、安治@の嫡子が長治であるといっていそうです。とにかく関ケ
 原の脇坂は、明智を背景に出てきた人物といえます。

この系図のなかでは最後の乙若丸のところにある「付けたり」といった感じの怪しい人物が赤松と明智の
関連を示しているのかもしれません。
 伊藤は「伊東弥三郎」の伊藤、民部は「村井(村居もある)民部」の「民部」で、今村五郎の「今村」
は、〈信長公記〉に「今村掃部助」があり、「五郎」は「丹羽五郎左衛門」「又五郎」の「五郎」です。
 かって海岸沿いに延々と松があった須磨、明石の「明石」は「赤石」でもあります(常山紀談)。
赤松と掃部助とが結びつくと、明石掃部助も浮かびあがってきそうです。〈武功夜話〉では
 (  )内ルビ    
   『代将明石与四郎(元知)、前野兵庫(忠康)、赤松(則房)等播州衆その人数一千三百有余人』
   『播州勢明石与四郎、赤松、前野兵庫、岸和田へ押し出しける。』
   『播州衆明石与四郎、前野兵庫、赤松の人数一千三百、・・・・』

 があり、ここの前野兵庫は(忠康)ですから、これは関ケ原、石田の大将、嶋左近、蒲生郷舎、と並び
称される「舞兵庫」です。「兵庫」というのは「丸毛兵庫頭」の「兵庫」で、一つのキーワードです。
「舞野兵庫」は「兵庫」をもって明石と赤松をつないだといえるのでしょう。
これだけでも「今村」の役目がわかりますが、「伊藤」においては、〈武功夜話〉の、このあたりで
     「伊藤掃部」
が出てきて、「明石与四郎」「山内右衛門」と接近し、前後「高山右近高房」「丹羽五郎左衛門」に
挟まれています。また
     「伊藤祐時」
 という人物が「山内右衛門」と出てきますから、「伊藤掃部」は
     「伊藤掃部祐時」
という人物に仕上がるとは思いますが、ここに、「明石左近(ルビ=元知)」がまた姿をみせる、ルビから
「与四郎」と「左近」は同じといえますが、また「明石右近」も出てくる、ということですから伊藤・今村
という見慣れないものは油断がならないと思います。このような重要なところをパッと通り過ぎてしまう
のは、ここの薩摩が不自然であることからくると思います。全体に史料が取るに足らないと思ってしまう
うわけです。「薩摩」がおかしいというならば、無視するか、無視するならば、ほかの部分は無視でき
ないとして、ここだけ無視する、もしくは、その意味を考えるか、ということにしなくてはならないと思い
ます。地名のあぶり出しがあるわけです。「薩摩」は、頼りないと思わせるのもあるし、また「□□」と
埋め込むことをすることが期待されることもあるし、暗示もあると思います。〈信長公記〉は
    「伊丹」を「伊」、「摂州を州」、「見野を野」、「食満を毛馬」、「摂津国を(つのくにルビ)」
にしたりしています。また「国名」は全然見当違いの使われ方がされています。前田薩摩守というと出羽
の人です。豊後、豊前、筑前、筑後などは尾張衆に使うのはおかしいのに平気で使っています。こういう
感覚における薩摩といえます。また幕末の文献では長州といいたいのに土州を使い、長州がいい
にくいので薩摩といったりしています。邪馬台国が近畿の場合、途中にある二十ケ国は、日本式の
国名とは表記が違っているからといって引き当てようとしないのは、はじめから思考放棄ということ
でしょう。九州にもそれなりにあるはずです。倭人伝の記者はかならずよく見聞きして書いたはずで
すが何より日本が舞台の文献といっているのですから、後世とつなげてみるのは普通のことです。
 まして倭人伝と記紀万葉等の間には太安万侶やら柿本人麻呂なんどが控えているのですから。
 この「薩摩」の意味はおそらく宇喜多秀家が薩摩に身を隠したり、豊臣秀頼、真田幸村が大坂城
落城のときは死んでおらず薩摩へ逃れたなどの伝説のことも念頭にある薩摩だと思われます。いいたいところ
のことは、このネットにある赤松氏範の記事や系図などは、戦国時代を考証した江戸時代の文人
が、戦国期を語りやすくするために加工して、室町晩期の史料を作ったかもしれないということです。
戦国期を踏まえてられた資料というのは多いと思います。
 例えば源平時代以前から延々と続く系図などみると昔から系図が作られてそれが反映されている、と
いう見方になってしまうので、戦国より以前の時代のことだから参考にはならないと思ってしまいます
が「利仁流」(的孫が斎藤)とかいうように、戦国時代を述べるための細工があるものがほとんどと
言っても良いのかもしれません。播州三木に痕跡を残す後藤又右衛門、後藤兵衛などの表記は
明智の前史がここにもあった、太田和泉守の脳裏に赤松史が横たわっていた、といえます。
 それはまた松永にも影響を与えそうです。このネット記事で
   「この赤松氏範の供養田は有馬郡仲庄内賀茂村の団地二町で氏範の弾正少弼より
   弾正田または霜台田とも言われる」
とあり、これは松永弾正の霜台と関係がありそうで、三好の中で松永という孤立した名前となっている
のはこの赤松の地を踏まえているのかが気になるところです。三木の別所氏が赤松氏のことですので
いまとなれば、赤松をのべざるをえない、という著者の必然があったと思われます。
これを貝野を出して誘導したといえます。それにしても、櫛橋という重要語句が出てきました。

 なお三人の二字と性格の違いそうな、もう一つの二字「中河」があります。二字であり、かつ二字の
中で「中川」と書くべきものを違わせているという、特異なものですから、この布陣表@に一貫性がないような
印象を与えるものです。これは特別に説明が必要になりわずらわしいことのようですが、うまく説明できると
この布陣表@の性格も、二字のこともよくわかってくるということになります。つまり高山二字が意識
された中での中河二字なのでそれを焦点を絞ってみればよいようです。
 (@)左右との比較
              左                 右
        原田郷   中川瀬兵衛         原田の城   中河
        中嶋     中川瀬兵衛
 となっているなかでの「中河」だから、
 ○まず左(信長公記)が重複でおかしいと感じさせる、
 〇中嶋というのも何かありそうだと感じさせる
 ○左の中川瀬兵衛は「中川瀬兵衛」と「中河瀬兵衛」と書くべきであると感じさせる
 
 などのことのためにこういうことにしたといえます。すると右の中河は「中河」と「中川」となってもよい
 はずです。つまり〈甫庵信長記〉のなかでの「中河」は「高山」のようなダブりの問題でもないという
 ことですから、〈信長公記〉と対比して
    「中川□□□」
 の□□□を省略した、「瀬兵衛」とうめて完成して貰うことを期待した簡略型の表記のつもりであっ
たのを、「中河□□□」と書いてしまったと取れる話になります。しかるにこれは中河という表記に
なって「中河」一つになっているのはなぜか、ということになります。つまり「なかがわ」は二人が一つ
に表記されている(これは既述の金あり、金なしのこと)ともいえます。これは次の高山との比較でわか
ります。

 (A)右(〈甫庵信長記〉)の内部での比較
           高山について            中河について
        塚口の城     高山          原田の城   中河
        一屋        高山右近

 ○高山がダブっている。しかしその重複のあり方が、二字と四字となっている。中河と違って表向き
   で二人いる
 ○高山は布陣表@のなかに、ほかに高山を表す人物がいる、つまり布陣表@にイタズラが
  あり、それは布陣表Aと照合してわかる。

 結果を踏まえては(@)(A)の疑問は、このようになりますが、はじめから押していく場合に、疑問
は疑問として、ペンディングしておかねばならないところです。
 
中河の二字は、注目を促す、操作がある、ほかに埋めらるべき名前を考えてほしいという意味がある、
高山の二字のように、二つの別表記の人物を「高山」として吸収するはず、というように二人を含む
場合もあります。ここではその上に「中河」違いがあり、滝がわ左近が
           左「滝川左近」が、右では「滝河左近」
というフルネームになっていることからもおかしいと察せられます。右に左近があるのと、ないのとの
違いはやはり大きいと思います。つまり
           左「滝川左近」が、右では「滝河
 となっていれば解釈が違うのではないかと思います。前者は滝川左近が二人いますよという警告
であると取れるに反して、中河□□という二字は、□□に、「左近」「サコン」という二人が存在して
いるという実態も表すことがあるのかも知れません。こういうのは類書のサンプリングによって決まる
ことかもしれが余り例はないような感じです。中河に置かれたウエイトの大きさを物語っているとも
いえるのでしょう。
「中河」の二字は例えば、八郎右衛門もあることなので大きい問題ということが結果的にわかりました
がそれは「佐渡守」という表記が類書にあったから、比較的スムースに説明できました。ここのように
二字という特異さのなかの、一字の違い、川と河ということで特に説明にウンザリしながらガタガタ
やっていると
       「中瀬兵衛尉」「中瀬兵衛尉」
       「中川金右衛門」「中川金右衛門
       「中八郎右衛門尉」「中八郎右衛門尉」
 なる余分な表記につきあたるということになりました。よく嵌め込んで読めばここからでも既述の
中川の出自を語らせるということが出来そうです。次のもそういう回りくどさがあります。

 (8)、「六」と「五」
 いま、二字の問題と高山、中川が一つのテーマになっていることを述べてきましたが、〈信長公記〉
が、わけのわからない 
        「★★芥川。」
という二字を追記してきましたので、二字の問題があるのではないかということがわかり取りあげた
次第といえます。
        〈信長公記〉         〈甫庵信長記〉
         「★★芥川」 対  「惟住」「蒲生」「蜂屋」「高山」「中河」 
という「一」対「五」の対峙です。というよりも〈信長公記〉には
         「芥川」「惟住五郎左衛門」「蜂屋兵庫」「蒲生忠三郎」「高山右近」「中川瀬兵衛」
という六つあったのが、 〈甫庵信長記〉は
         「惟住」「蒲生」「蜂屋」「高山」「中河」 
の五つにしたということになるでしょう。〈戦国〉で、山城の八幡宮の記事に、

   天正七年、「間の戸井をから金にてつに鋳物に仰せ付けらる」
   天正八年、「からかねにて鋳物にさせられ、長さ間にて候をつに鋳物に仰せ付けられ、」

 という、意味不明の語句がある、二つに解釈できるように巧まれているのではないかといっていますが、
この山城の八幡宮の、このややこしい文があるところの一節は、この布陣表@に関係しているといえないか
、つまり
  ○布陣表高槻に★の武田佐吉が出てくるが「山城の八幡宮の記事」にも★が出てくる
  ○「山城の八幡宮の記事」の直前に高山飛騨守が顔を出す
  ○布陣表Aが天正七年にあるがそこに新たに登場する人物が「山城の八幡宮の記事」からでてくる、
   ・・・・・・・・・・・・
などのことから二つを関連させて読まねばならないと思います。ただ、この二字の話が、「山城の八幡宮の記事」
の六と五の話に関係があるのかどうかはわかりません。戸井の六と五の話が何をいっているのかわから
ないからここで出しただけのことです。それは結果どうなるかによつて決まることになります。とにかく
       〈甫庵信長記〉・・・・・・・・・・惟住、蜂屋、蒲生、高山、中河
       〈信長公記〉・・・・・・・・芥川(上の人物はフルネームで入っている)
となって、〈信長公記〉は「芥川」を付け加えて六つにした、〈甫庵信長記〉は六つを五つの二字に
変えたといえます。まあなぜこんなことをしたのか、というのが問題です。例えば
○芥川を人名として入れたので甫庵の二字のものとの対比が必要であると感じて貰える。
○〈甫庵信長記〉は「芥川」を地名にしている、本当は二字を一人追加し六人にしたい。つまり
 その一つだけ例外があるといいたい。
○芥川という実体のないを入れたので、甫庵のものの二字は抹消してもよいのかを考える、つまり
 二字の人物はここにいなかった ともいいたい。
○芥川が、〈甫庵信長記〉の五人を、吸収してしまっている、五人が「芥川」で括れる、色で括る、
同族という意味で一つになる
○「五、六人」とするのが一般的なのでややあいまいにした、
とかのものがあるかもしれない、ということです。
 この二字の人物についてはやや物語として取り上げたか、何らかの操作が浮き上がってくるの
ではないかと思われます。まあいろいろいってきましたが、芥川は大きな意味がありそうです。

 (9)「芥川」の意味
 〈信長公記〉の人名二字は「芥川」です。左では人名になっていますが、右では地名となって
 います。高槻に、「芥川高等学校」があるので、その「芥川」でしょうから、地名というのが合ってい
 そうです。つまり〈甫庵信長記〉だけをみた読者は「芥川城」というのは、まったく疑問の余地の無
 いその地の城ととるのでしょう。そうなのに〈信長公記〉と対比してみれば反って混乱してしまいます。
  〈信長公記〉は「郡山」という地名を、〈甫庵信長記〉の「芥川」に宛てています。場ちがいという感
 じでこれは大和の「郡山」かもしれないと思いますが、芥川城のあたりを、郡山というのか、というような
 疑問も出ます。通常はそういう詮索は必要ですが、この場合は、人名として「芥川」を持ってきている
 ので、操作されているということが明らかで、ホッとしますが、郡山は、離れた地名として〈信長公記〉
 で浮いています。つまり操作した意図は何かということが出てきます。人名の「芥川」も浮いており
 同じことがいえます。この人名の「芥川」は書き損じだろう とか間違いだろうというわけにはいき
 ません。このあと出てくる、翌年、天正七年伊丹表の布陣人名羅列表(布陣表A)(後出)において
 も「芥川」という人名が出でてきます。芥川も郡山も書き間違い転写ミスではありません。布陣表だけみれば
 以上のようなことになりますが、当然こういうことがわかるように布石が打たれています。

   『十一月十五日、信長公あまより、郡山へ御参陣なり。十一月十六日、高山右近、郡山へ
   伺候致し・・・・・播州の内芥川郡仰せ付けられ』〈信長公記〉

 郡山芥川は出ていますが「あま」と「播州」がありますから、核心がぼかされています。「あま」は
 尼崎だろう、「播州」は脚注にある『「摂州」の誤写であろう』というわけにはいきません。「あま」「播州」
に目を向けさせようとしているとも考えられます。〈甫庵信長記〉でも同じです。

   『十五日に郡山へ御本陣を移さる。十六日に高山右近、郡山へ参じて御礼、・・・・其の晩に
   又当国芥川郡領知すべき旨御朱印成し下されけり。』〈甫庵信長記〉

 このすぐ前には「貝野」の地名があり〈信長公記〉の播州を支援しています。芥川を当国などで、
ぼかしています。実態は摂津に違いないが表記上しっぽをつかませていません。

 「芥川」というのは〈伊勢物語〉の「芥川」と引っ掛けて出てきたと思います。これは一つは色
のことであろうといえますが、在原業平という大物が想起されています。有名だから登場させた、と
いうこともありますが、中将ともいわれていますから、誰かに引き宛てられるべき歴史上の大物という
べき位置づけが太田牛一の念頭ににあると思われます。そのような手法でいま太田牛一が歴史を
書いているのですから。
 次に、「芥川」が気まぐれのものでないということも著者としてはいっておかなければならないこと
です。

(10)伊丹布陣表A
翌年天正七年に布陣表Aが出ています(下記、大幅に略記)。この二つの布陣表を連携させ
いいたいことをいおうとしたと考えられます。

布陣表A
     『一、塚口郷、●惟住五郎左衛門・蜂屋兵庫頭・蒲生忠三郎。
     一、塚口の東田中、福富平左衛門・山岡対馬守・山城衆。
     一、毛馬、・・・・・・・・
     ・・・・・・・・・
     一、川端取出、▼池田勝三郎父子三人。
     一、田中、⇒中川瀬兵衛・古田左介
     ・・・・・・・
     一、河原取出、稲葉彦六・芥川
     ・・・・・・・・・・・・・・
     一、深田(ふかだ)、高山右近
     一、倉橋、▲池田勝九郎
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』〈信長公記〉

○一つの書物にもう一つの似たような書物を作る(〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉の例)
○似たような文献を二つ作る、〈三河後風土記〉(寛永原本、寛政改定版、享保改訂版)、もしくは、
二つに分けられるものを作る(邪馬台国の例)
というのと同様に、
○一つの文献の中に似たものを作ることもやられます。
 音楽は譜面でものを語りますが、似たものを作って違わせていることが往々にあります。そういうのは
こういう手法がとられているということを物語っていると思われます。ブルックナーがあとで前作をいじっ
て似たようなものをつくっている、ショパンの英雄と軍隊は似ていて筆者らには違いがよくわかりません。
名人なら一番よいものを一つつくってほしい、と思いますが、二つも創って惑わせたままです。こういう場合
は先に創ったのがよいといっているのでしょうが、後世の人は書き直したほうが作者の意に叶うとか
解釈をしてしまいそうです。まあそんなようなものがあちこちあるのと同じでしょう。
布陣表@と布陣表Aはところどころ違っておりますが二つは関連付けられた文書であるというのが
わかるようになっています。したがって後の方は操作上の布陣ということができ、実態は二の次だ
といっていると思います。すなわち一般の人が知る〈甫庵信長記〉には載っていないのでわかります。
 布陣表A、は一年前、天正六年の伊丹布陣表@の人名羅列が意識されている、というのはまず
一見して似てるというのでわかります。大半 六年のものを七年にも持ってきているので、この七年の
ものは六年のものと、意識が連続していることを知ることができます。とりわけ
  ○「芥川」が両方にある、
  ○天正七年の下表の●以下の三人について、天正六年のものもそうですが「惟住五郎左衛門」がここ
   に出てくる経過(省略)が述べられている
  ○池田勝三郎の話が、連続させて話がわかるようになっている
ということなどでわかります。●の三人が引き続いて出てくるので一応つながっている、関連付けられたものと
みてほしい、というものが予感されます。次にやはり芥川が出てくるというのがあります。ここではもう一つの二字
の例(天正六年)の幸新について、布陣表Aが布陣表@の解説になっているということの説明をしたい
と思います。

   ここの▼の人物は六年の場合は、次のようになっています。再掲

    『一、倉橋郷、  池田勝三郎・勝九郎・幸新。』〈信長公記〉
    『 倉橋の城に、池田父子三人。』〈甫庵信長記〉

 すなわち、このときの「池田父子三人」は当然、「勝三郎・勝九郎・幸新」で、「勝三郎一、勝九郎
 一、幸新一」で完結ということになり疑問の余地がないといえます。しかるに、七年の
       「▼池田勝三郎父子三人。」
 という、この場合は、
       ▲が離れて別口で出ていますから、
         「池田勝三郎」「幸新」
 の二人になってしまいます。「父子三人」は間違いだということにりそうです。これで表記は正確だ
といっているのはおかしいどうなっているのか、となってしまいます。こういうのは前にいっているのを
忘れてしまっているにすぎない、すなわち、六年の「池田父子三人」の「幸新」の捉え方が疑問の
余地がないというものでもなかったわけです。池田子の一人、姫路城の輝政(照政もある)は「古新」
(〈甫庵信長記〉)なので、
             「幸」と「新」
に別れるわけです。「こう」と「こ」は似ているので、つい一緒だろうと、括ってしまいます。したがって
天正六年の「池田父子三人」は「池田父、子三人」という意味だったといい直したといえます。それは
おかしいといいたいところですが、まあこの辺も二字の役割といえるのかもしれません。池田父子三人
と池田勝三郎父子三人は現に表記が違うのですから文句もいえません。
天正八年に
    「池田勝九郎・池田幸新兄弟、年齢十五・六」〈信長公記〉、
 とあるのをどう読むか、ということにつながるわけです。これに対しては
    「勝三郎子息池田紀伊守生年十七歳、同古新十五歳」〈甫庵信長記〉
というのが〈甫庵信長記〉で用意されている、これを読み間違うといけないといっているわけで、上の
     「年齢十五・六」というのは、池田幸新兄弟に懸かる、といっているようです。とくに「幸」
(こう)というのが、女子のような名前なので、これが「紀伊守」だというのに思い至らないようです。
池田勝九郎は誰だと考えなければ、また勝九郎の歳はこのとき何歳だと考えなければならない、すな
わち森長可を忘れるな、といっているのでしょう。紀伊守が、その連れ合いだから、あの森長可(勝蔵)
は、池田勝九郎となるわけで、娘婿というのは、領主ともいうべき位置にあったということになります。
長可を取り上げようとしているのは、脚注に倉橋について
   『底本・建勳神社本、ともに「椋橋」の付箋あり。』
 というような脚注がテキストにあります。前年に池田勝九郎は倉橋にいて、この年は勝九郎だけ、
倉橋にいるので勝九郎だけが対応しているものです。池田輝政は太田和泉と長可を通じて近い
親類というだけでなく中川を通せば娘婿に近いということになるのでしょう。姫路城は多くの部分
安土城の継承ということになるなってそうです。二つの年度がまたがった布陣の人名羅列は比較
対照さるべきだ、著者がその積りで書いているというのがいいたいところのことですが、こいうことの
一つが「芥川」であり、この連続性によって「芥川」も何をいわんとしているのがわかるはずです。
 
 今時間をかけて天正七年のものが、天正六年のものと繋げられているといいましたが、それなら
トータルで両布陣表を照合すればどうなるのか、ということが出てきます。これはどういう答えが出て
くるか、というのは度外視してもやっておかないといけないことです。ただ両方入力している段階では
かなり不突合がでてきそうで、説明に窮するかもしれない、ということになりそうです。それでもまあ避け
ない方がよいようです。途中の過程は省略、人名の「布陣表@マイナス布陣表A=差し引き表」
の結果が下記です。(池田は複雑な消え方をするが既述のため省略)
差引表
      @消えないもの                            

               @ 神戸三七信孝。              、
               A織田上野守・                  
               B 北畠信雄卿           
               C津田七兵衛信澄                         
               D 中将信忠卿                     
      (一、高槻の城御番手御人数)、           
               E 大津伝十郎・                  
               F 牧村長兵衛・                  
               G 生駒市左衛門・                 
               H 生駒三吉・                    、
               I 湯浅甚介・                    
               J▲猪子次左衛門
               K▼村井作右衛門
               L★武田左吉。                   
     (一、茨木城御番手衆、)
               M 安部二右衛門                         
               N 下石彦右衛門・                
               O 野々村三十郎。                
     一、中嶋、   P ■中川瀬兵衛。                 
     一、ひとつ屋、 Q ●高山右近。       
     
     A新規追加のもの
             山岡対馬守、山城衆、永岡兵部太輔・与一郎・頓五郎   
             (芥川は位置変更プラマイ0=伊賀の下から彦六の下に移る)

@〜Dまでの人物は、織田衆というくくりになります。直前の記事で播州へ行ったようですので
ここには出てこないことになります。

   『四月八日、播州へ・・・・織田七兵衛信澄・・・・四月十日惟住五郎左衛門・筒井順慶・山城衆
   出陣。四月十二日、中将信忠卿・北畠信雄卿・織田上野守・神戸三七信孝、御馬を出ださる。
  ▲▲猪子平介・飯尾隠岐両人、播州三木表・・・・中将信忠卿御取出、古屋野・池上御留守永田
   刑部少輔・牧村長兵衛・生駒市左衛門の両三人御番手に仰せ付けられ候。』〈信長公記〉

そうすると高槻と茨木に集約されてきて、高山、中川も問題なく重複にならず一人として残ってい
ます。JKは〈甫庵信長記〉になく、操作を考慮して配置ができる場面での二人です。これは太田
和泉を表す表記であり、▲▲のところ二人がそれを暗示しています。つまり
       「猪子次左衛門、村井作右衛門」が「猪子平介、飯尾隠岐」
 ということになり、EFGが永田以下になる、すなわち
     「E大津伝十郎」「F牧村長兵衛」「G生駒市左衛門」

     「永田刑部少輔」「牧村長兵衛」「生駒市左衛門」
で表されているので、「永田」がこのEからIの人物比定の鍵となるのでしょう。

(11)飯尾近江守
 猪子平介は特別に述べないといけないほどの人物ですが、結論ではここでは太田和泉です。
 「飯尾隠岐」が目新しい名前です。これは首巻でおどり張行のあった記事の飯尾に関係します。
あの信長がおどり興行をしたのは事実で前野の人が昔、見物に行った、という懐旧談を残しています
が(〈武功夜話〉)、それを懐かしむとともに、これを利用して別のことを語ったのがこの一節で、飯尾
近江守が載っています。
   
     『(廿) 七月十八日おどりを御張行(ごちょうぎょう)
         一、赤鬼  平手内膳衆、
         一、黒鬼  浅井備中守衆、
         一、餓鬼  滝川左近衆、
        ★一、織田太郎左衛門衆、
       弁慶になり候衆勝(すぐれ)て器量なる仁躰(にんてい)なり。
         一、前野但馬守  弁慶、
         一、伊東夫兵衛
         一、市橋伝左衛門
         一、飯尾近江守
         一、祝(はふり)弥三郎・・・・・・・・・
         一、上総介殿・・・天人・・・・・女おどり・・・・・
       津嶋にては堀田道空・・・・・・』

 この人名羅列は結局は太田和泉守が乗っかる人名を羅列したと思われます。はじめの
平手は平田和泉や平手三位などがあり「内膳」は塚本の「小大膳」もあり、名寄せしたときにそういう
のが出てきたら、その観点でみないといけないということになるのでしょう。
浅井も「備中守」があり原田備中守と同じ役目を果たすかもしれない、また滝川左近にも乗りますが
「左近」というのがやはり嶋左近、高山右近につながるものなので、利用される場合があるかもしれません。
★が見慣れない人物ですがこれに太田和泉が乗ると重要なことが出てきそうです。
「前野但馬守」は、「前将」とかいう略称がある(武功夜話)、ように二人にもなり、太田和泉守が乗つ
かる場合があります。
「伊東夫兵衛」は〈戦国〉で語感から竹中半兵衛かもしれないと書いていますが、太田和泉守が竹中
半兵衛に乗っかっていくことが暗示されていたということが、いまとなってはいえると思います。
 竹中半兵衛が安東大将(伊賀守)の「むこ」だというのは知られた話ですから、また安藤伊賀守が
とつぜんドロンと伊賀伊賀守に変身してしまっているのですから、安藤伊賀守は一応、安藤伊賀守@
と安藤伊賀守A(伊賀守)という使われ方になるというのが想定されることです。この伊賀伊賀守となれば
「伊賀」「伊賀」ですから藤堂伊賀守が想起されることになります。すると竹中半兵衛=太田和泉と
して語るときがある、とすれば、あの知られた
         「安東大将」の「むこ」が「半兵衛」
というのは太田和泉のことをいっているのかもしれない、つまり安藤大将に@Aがある、次世代も
含む話とすると、ひょっとしてが安藤A、これが藤堂とすればそのつれあいが太田和泉というものを
語っているといえそうだということも出てきます。
すると安藤の藤は藤堂の藤、藤堂高虎は安東大将の子か継子かという線もでてきそうです。

   『藤堂(ルビ=高虎)様と但馬守(ルビ=前野長康)はご昵懇の間柄に候ゆえ・・・・』

 この(前野長康)はルビのなかの前野長康で、ここの一節の普通の文の「前野将右衛門長康、但馬守の事、」
の、という前野長康とは違うといえます。信長公首巻おどり張行の「前野但馬守」と同じ但馬守と
いえます。昵懇は〈吾妻鏡〉にもあり、特別な言葉でしょう。つぎのようなものもそれにあたると思い
ます。〈武功夜話〉では

   『太田孫左(ルビ=牛一)衛門尉は、祖父孫九郎尉(ルビ=小坂雄吉)の昵懇の人なり。』
   『付けたりの事
    祖父孫九郎尉は、初め丹羽氏の女を室となす。弘治系図に相誌すところなり。この女人は
    病を得て亡ず、後添えは三輪氏の女なり。系図には三輪氏とのみ相記す。不詳。』

があります。不詳はよくわかるようになっているということです。この一文などは〈武功夜話〉の資料
としての位置づけを考え直さなければならないといえるほどのものです。もちろん昵懇といっても、
それだけ集めてきて、この例は適合しない、おかしいということにはなりません。何事も全部そうして
やってしまうと、バレテしまいますから、そうはしないわけです。それなら完璧を期してやっていると
いうのはおかしいではないかということになりますが、逃げ場は作っておく、ということはやられるわけ
です。そうしないと転写間違いなどは必ずおこることでもあり、ウッカリミスもないとはいえない、そういう
あれば、話が詰まらぬところから覆ってしまうことになるから当然のことです。あいまいさを必ずのこして
いるということは、つまり意識して完璧でないようにしてあるのが、完璧を期したという証拠ともいえる
ものです。
 「伊東夫兵衛」の次の「市橋伝左衛門」の「市橋」はたびたび出てきましたが、市橋九郎右衛門に
太田和泉が乗っかっていることは述べてきました。したがって本能寺戦の前安土本城御留守衆の
「市橋源八」という表記も重要となってきます。
 次の「飯尾近江守」が、ここの「飯尾隠岐」につながり K▼村井作右衛門・に懸かっていくという
ことになりますので重要です。飯尾近江守は桶狭間で次のように出てきます。

  A 『鷲津山には織田玄番・飯尾近江守父子入れをかせられ候キ。』〈信長公記〉
  B 『鷲津に飯尾近江守、舎弟隠岐守、織田玄番允、等をぞ入れ置かれける。』〈甫庵信長記〉

 上では飯尾は父子で、下は、兄弟となっています。隠岐守はのち母衣衆に、下記のように出てき
ますから鷲津砦から生きて帰ってきたと取れます。永禄12年の記事(桶狭間は永禄3年)

    『・・・生駒勝介・・・中河八郎右衛門・・・中島主水正・・・飯尾隠岐守・・・原田備中守、
    黒田次右衛門尉・・・野々村三十郎、猪子内匠頭・・・』

 こんな有様では、わかりにくいではないか、と思いますが、手を抜くからわかりにくいといえます。
まあ何回いっても、例を出しても「あほくさ」となってしまうので、これは最後の例示となりますが
嵌め込み作戦を発動しますと、見えてくると思います。つまり〈甫庵信長記〉の読者があらかじめ
飯尾近江守兄弟が、砦の大将と理解していますから、必要最小限の知識はえている、Bをもうすこし
穿ってみる人は兄弟という字が入っているから「また三人を出してきた、織田玄番允などは浮遊表記
でこれは、また、かの人か」とみるかもしれません。嵌め込んでみる、すなわち元の文Bに〈信長公記〉の
操作部分Aを投入しますと
  
   『鷲津()に()(織田玄番)飯尾近江守(父子)、舎弟隠岐守、織田玄番等をぞ入れ置
   ()か()られ(候イ)ける。』

となります。すなわち「」が重要で、そう簡単に落ちないというのが元にある重要な前提で、それが
すぐに陥ちたというのが油断を生じさせたといえると思います。こうやれば織田玄蕃と織田玄蕃允の表記の
違いがめだってきます。要は一世代変わってくるわけです。今まで〈信長公記〉によって、飯尾近江
守父子と読まれていましたが、織田玄蕃飯尾近江守が親子というのが合っているということになり
ます。いま両者の解釈はマチマチです。

                織田玄蕃               飯尾近江守

 〈辞典〉      「信秀の叔父」つまり            「信秀の伯父
            「信長の祖父信定の弟」        ●「信秀の従兄弟

 〈テキスト〉   ■「信定の子」(信秀世代)          「信秀の叔父
 
になつています。織田玄蕃も世代が一つ違う、飯尾近江守も世代が一つ違う、というようになっていま
す。ここでいう飯尾近江守は全盛期の、信長の年齢に近づく●に当たり、織田玄蕃は■です。生きて帰った
のは、織田玄蕃(〈戦国〉)と飯尾隠岐守で、総大将が帰ってきたから隠岐守も他の人も帰れた、という理屈に
なります。飯尾近江守は生還を期していまい、子息は道づれにさしてはならない、このあたり、太田
和泉がこう計らった、というのが織田玄蕃の登場でもあるようです。
 ここで次の一文があるので、やはり今までの疑問もそれなりのものがあったということになります。
つまり兄弟というのが、年が連れ合いと接近した形となってどちらを表すか悩ましい問題となります。

   『上総介殿より飯尾(いのを)近江守・{子息讃岐守其の外諸勢・・・』〈信長公記〉

要は子息があった、名前は隠岐守ではなく讃岐守という一見すれば間違いやすい表記にされています。テキ
ストでは「讃岐守」は「隠岐守」の間違いとされていますが、これは似て非なりというものでしょう。
子息が出てきた以上、「隠岐守」「舎弟」というのを連れ合いと解釈したほうがいいようです。つまり
讃岐守はどちらの系統の人かというのがやはり知りたいということです。表記が隠岐守に似ている
から、その系統の人だというのがわかりそうです。要は近江守は「讃岐守」を別の戦場へ出し、隠岐守を
生かして戻したということになりそうです。こうなると太田和泉守の取り計らいは、飯尾近江守の意向を
汲んでやられたことであるというのも出てきそうです。飯尾近江守と太田和泉守は仲がよかった、
お互いに認め合っていた間柄とはいえます。もちろん、そんなのは推測だといえばそれまでですが、
雰囲気で感じるというのも理解の要諦でもあります。のちに太田和泉守の身近な有名な人物が、
飯尾家に入った(讃岐守と連れ合いになった)のではないか、と思います。堀尾茂助です。

(12)堀尾茂助
 〈吉川太閤記〉では木下藤吉郎の美濃稲葉山攻略に当たって、道案内を買って出た若者があり、
この大活躍した人物が堀尾茂助です。この人物は武井夕庵の身内の人であることが表記だけから
わかるのではないかということで、その例として挙げておくものです。夕庵系譜のどこに嵌め込むか
はまだわかりません〈字典〉によれば「堀尾茂助」は

   『堀尾可晴(ほりおよしはる) 天文十二年(1543)〜慶長十六年(1611)六月十七日
   二王丸、小太郎、助、助、帯刀先生、諱は「可晴」をはじめ「吉晴」「吉定「吉直」ともあるが
   すべて文書で確かめられる。〈太閤記〉には「中務少輔吉久」の子、〈堀尾家譜〉には「中務丞
   泰晴」の子とある。尾張上郡供御所の出身という〈太閤記〉。信長に仕える。・・・・』〈字典〉

この堀尾茂助の一般的な名前は「可晴」ではなく
     「堀尾帯刀先生(たてはきせんじやう)吉晴」〈甫庵信長記〉
として「中村式部少輔一氏」と登場してきますから「吉晴」です。「大谷吉隆」や「三輪氏」の「吉」に
なっています。この「吉晴」となると、これは「吉春」にもなり、先ほど高木氏の子息の名前にもあった
ような「好春」にも発展しそうになります。
「可晴」ともなると「森三左衛門可成」の「可」だから「可春」、春日(城)の「春」を呼び込んで、
      武井夕庵→吉春 = 可春←太田和泉
 という切り口のところに
      「丸茂の助=丸毛の助」
 が出ているということになります。
      「吉定「吉直
にしても、「吉定」の「定」は「信定」の「定」、村井長門の「貞」ですから、夕庵+和泉にもなりますし、
「吉直」の「直」は「(武井)直助(美濃旧記)」の「直」になりますから、夕庵+夕庵となるでしょう。
親の「吉久」の「久」も「平井久右衛門」「堀田久右衛門」「(小)坂井久蔵」など怪しい名前があり
ます。
おかしいことに「泰晴」というもう一人の親もいます。〈字典〉で堀尾はもう一件この「泰晴」も出ており

   『堀尾泰晴 (ほりお やすはる)永正十四年(1517〜慶長四年(1599)
   弥助、中務丞、中務少輔。諱は●「吉定」「吉久」とも。
   泰政の子で可晴の父という(堀尾家譜)。尾張丹羽郡に住し、信長に仕える(断家譜)。
   ■慶長四年(1599)、浜松にて没。八十三歳という(断家譜)』

 ここの●はどこかで見たはずと気づかれる人も多いと思いますが、先ほど子息の名前で出てきまし
た。親子が重なっていますよ、と手法の一端を文献の著者が、教えたのでしょう。名前の
     「弥助」●「吉定」「吉久」
 となると、夕庵(安春)につながるかも知れないと思いますが、このように表記ではもう武井夕庵の
係累であるのは間違いないと思わせるものがあります。吉川太閤記では稲葉山落城のとき、少年
だったということは孫の世代かもしれませんが、上にある
       「天文十二年(1543)〜慶長十六年(1611)」
となると子息の世代となります。
 ここにある官位の「中務少輔」というのは〈甫庵太閤記〉に「堀尾中務少輔吉久」という表記があり
ますから、これは秀吉政権の「中村一氏」が式部少輔、石田三成が治部少輔、大谷吉隆が刑部少
輔というのと同じで、本人の肩書といえます。しかるに、ここの可晴が「中務少輔吉久の子」という
のもおかしい親子が重なっている感じです。
 泰晴も「父」で中務丞で、中務少輔ですから、なにか堀尾茂助のことをいいながら、親のこと、祖父
のこと三代をいっていそうなややこしさです。まあ、上の文のなかから、生年没のところと、中務少輔
と■の属性部分を除くと夕庵に近づく、親は夕庵が匂わされていると思います。結論的にいえば
   「中務丞」というのは「平手政秀の属性」
です。すると夕庵と平手政秀の関係までいってしまいかねないというのがこの堀尾茂助の話です。
二人とも堀尾茂助の近い身内かもしれないわけです。平手政秀の嫡男がなぜか五郎右衛門尉で
あるところからきている話です。
 最後■の太字のところをみると、急に現実にもどってしまったという感じで、これらの話が吹っ飛ん
でしまいます。しかし、堀尾茂助が他家に入ったとするとこういう親がでてくることはありえます。その
家の主のことであるかもしれないわけです。
「堀尾茂助」が堀尾という家を新たに興したのかどうかがしりたいところです。ここに飯尾家の人が
連れ合いではないかといっていますが、それは〈辞典〉に
    「飯尾敏成(いいのおとしなり)」
 という人物が出ており、
    『毛介茂助。「敏成」は「重修譜」による。尚清の長男。馬廻りか。本能寺の変の時、二条
     御所にて討死(公記)。』
となっています。この尚清という人は〈辞典〉では鷲津から生還した人とされており、「茂助」「隠岐守」
「出羽守」というような名前とされていますが、ここにも「茂助」が出てきています。したがって飯尾家
に堀尾茂助の痕跡が表記で残っているといえます。
 今堀尾茂助の出自もよくわからないということですから、一応こうと決めておいて探していくと波及
するところが大きく戦国期の史書の手法がここからも浮き出てくると思います。飯尾というのはあの
郡上八幡に足跡をのこすという「宗祇」の姓です(テキスト脚注)からこっからも何か出てくるかもしれません。
                   
 なお桶狭間では今川方の「飯尾豊前守」も登場します。「桜井豊前守」「別所友治」の「豊前守」
が意識されています。

    『寺へ取手・要害・・かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎・・
    五人在城なり。』〈信長公記〉

はじめのひらかなの人物が「葛山」であるというのは〈甫庵信長記〉をみてわかりますので両者の提携関係
を示唆してのが明らかなところですが、この葛山は「播磨守」です。さきほどの前野但馬守など太田牛一が
乗っかるのは、うしろの部分をみてわかる、前の姓の部分は、実在の姓を表すというのは大体わかり
ますがここでも、そう解釈するのが妥当ということがわかるところです。飯尾氏、浅井氏は今川にもある
のは当然ですが「播磨守」「豊前守」を組み合わせると播州の別所長はる・彦進に突き当たることに
なります。「左馬介」は前田左馬介で前田玄以、「五郎兵衛」では太田牛一(夕庵)につながり、小四郎は
浅井備中に行き着きます。この「豊前守」は笠寺の「」「五郎兵衛」「(前田)左馬助」などに関
わりますが当面、布陣表@の下の部分の語りが「高山」「中川」が出てきた次ぎの人物につながっていく、とくに
★の人物は重要で、あとの大津から湯浅甚助にいたる人物も武田佐吉関連といえそうだという感じ
が出ています。
再掲
     一、高槻の城御番手御人数、           高槻の城に、
                E大津伝十郎・                  E大津伝十郎
                F牧村長兵衛・                  F牧村長兵衛
                G生駒市左衛門・                 G生駒市左衛門
                H生駒三吉・                    H同三吉、
                I湯浅甚介・                    I湯浅甚介
             J  ▲猪子次左衛門
             K  ▼村井作右衛門
             L  ★武田左吉。                   ★武田左吉。

 高槻は高山右近の本拠と知っている〈甫庵信長記〉の読者は、このE〜Iの人物は高山に近い
と読んだはずで、それは〈信長公記〉が同じ人物を載せているから結果的には合っており、引き当て
をやろうとしたはずです。
〈甫庵信長記〉の読者は「芥川」という人物は知らず「芥河城」しか出てこないので、高槻辺りの山
と解釈して問題はないのですが、悩まされるのは二つあると思います
(1)★「武田左吉」という人物がよくわからない つまり「左吉」があるから、とくに曰くありげの「武田
左吉」に目が向きますが文面だけではわからないということになるでしょう。
(2)〈甫庵信長記〉内部では二字の「高山」が(重複で)浮いている
ということです。目障りがこの二つであれば二字の高山をわからない人物に重ねてみる程度の
ことになるのでしょう。高山のもって行き場と武田佐吉がドッキングされればよいようです。すなわち
高山は高山右近@=武井夕庵を表す、と考えれば、武田佐吉=武井夕庵となります。
       二字高山=武田佐吉=武井(高山)夕庵
とみたと思われます。丸毛兵庫守は安土城の留守番だったので実体のない、武井夕庵を★と
みて同じくここに参加していないE〜Iの比定を考えたと思われます

〈信長公記〉とチェックした人は、▲猪子などは和泉守表記となり(猪子は後述)、▼村井も同じだ
から、また武田は、武井だから、三人兄弟を表すものとして★は武井夕庵ではないかとみたと思わ
れます。結局芥川にかわる大物表記が★であり、両方からみれば、両書を対照して見た人は、
この浮いている「二字高山」は、〈信長公記〉では、これを「芥川」で受けたと考えられますから、
〈甫庵信長記〉内部では不明の人物
      二字の高山=〈信長公記〉芥川(在原業平に比すべき大物)=武井夕庵
でこれは、大もの同士ということで均衡がとれているといえそうです。
ただ武田佐吉=武井夕庵ですが、イメージは膨らんで
          武田佐吉⇒武田(武井)夕庵、高山右近、石田左吉
まで行っていると思われます。
 EFGHIの五人の人物は、何となく次世代の人物という感じですので、読者は武田佐吉が五人を
括れる位置にいる、五人は武井夕庵の子か、甥であると解釈したと思われます。
                 
〈信長公記〉に、「ありをかや」(あってよいのかの意?)「あまのはごろも」という言葉のある歌に
ついて、テキスト脚注では
       『「在岡」と「有り」、「天羽衣」と「尼崎」とをかけてある。』
となっています。まあこれほど懸かりというものはすごいものがありますが、〈信長公記〉布陣表@で
〈甫庵信長記〉の芥川城の芥川を人名に使った関係からか、地名は「郡山」に変えています。
 専門筋は両方対比して太田和泉が、込み入った話をしたかったということを知ったといえます。
その一つが郡山にあるのでしょう。 

(13)郡山
〈信長公記〉の行き場のない郡山はどうなるのか、突然出てきているし、〈甫庵信長記〉では芥河城
となっているのだからはじめ間違いなのか、とびっくりしましたがよくみると、高山右近が郡山で信長公と
会っています。芥川城の建っている山という意味で「郡山」が使われた、地名のあぶり出しである
のも考えられるところです。脚注では「郡山」は
       「大阪府茨木市春日・郡山」
とされています。「春日」が利用されたといえるのかもしれませんが、大阪府の北辺のところを東京
からみてるとこういうのは見落としてしまって恥をかくところですが、郡山をネットで調べても「福島県」の
郡山しか出てこない、ただ一つ筆者が言いたい郡山は「奈良県立郡山高等学校」というものしか
ありません。大和郡山は「郡山」でない、というのはわかりますが、ここではそれが入っていると
思います。著者が先に触れたようにどこの郡山やらわからないように書いている、これが“はみだし”
と感ずるところが、 仕組まれたのかもしれないわけです。こういうのは他にあり、先に出た貝野のような
こともあります ので注意が要ると思われます。結局この「郡山」は布陣表@の後に出てきた次の
一文で受けられていると思います。再掲

     『かくのごとく所々に御番手の御人数仰せ付けられ、羽柴筑前に相加え、佐久間・維任(これ
     とう)・筒井順慶、播州へ差し遣わされ、有馬郡の御敵さんの城へ差し向い、道場河原
     本松二ヶ所足懸かり拵え、羽柴筑前守秀吉人数入れ置き、是より播州へ相働き、別所
     居城木への取出城々へ兵糧舞、鉄砲・玉薬・普請等申し付け帰陣候なり。』〈信長公記〉
     
  ここに筒井順慶が顔を出します。この筒井順慶が「郡山」を受けています。ということは山鹿素行
が「高木左吉」と「武田佐吉」を関連付けて捉えようとしたということが、〈信長公記〉ですでに考えられて
いたともいえます。
      高山=武井夕庵
と理解しておくというものに、さらに〈甫庵信長記〉では出てこない郡山というものが〈信長公記〉で
でてきた、したがって実体はないかもしれないが著者は
         「明智光慶佐吉」
を匂わせている、高山と石田は近い親類かものかもしれないと取ることが考えられます。
     高山→    郡山(茨木)   ←武田
     左吉→    郡山(大和)   ←筒井順慶
明智光慶がなんとなく顔をだす、ウンザリ石田に続いてウンザリ左吉もこの辺で終わってくれたらよい
とは思いますが、先ほど復活してきた次の人名のを見てみますとまたあとでも述べかねない勢いです。
再掲、差異表
             新規追加のもの              

       (□□□□□)、山岡対馬守、山城衆         、
       永岡兵部太輔・与一郎・頓五郎

 すなわち、大和、山城、永岡(長岡)が出てきて、山城の八幡宮の一節で、つまりあのややこしい
      六間の戸井、五間につくりかえる
の話のくだりでまた佐吉をぶりかえす積りです。三木城のことが落着したあとでも山崎が出てきます。

  『山城女房・・・三宅肥前入道・・・別所三人・・・羽柴筑前・・・村井春長軒・・・・・・山崎に至って
  爰にて津田七兵衛信澄・塩河伯耆・惟住五郎左衛門両三人・・・兵庫はなくま・・・池田勝三郎父子三人・・・
  山崎・・・岩室坊・・山崎西山・・・郡山・・・天神馬場・・・大田(おほだ)路次・・宮内卿法印・佐久間
  右衛門・・・郡山・・・賀藤彦左衛門・・・伊丹表・・・兵庫表・・信長公、伊丹より山崎まで御帰り。
  路次通り北山御鷹つかわされ三月八日、妙覚寺に至って御帰洛。』〈信長公記〉

 で山崎の八幡宮は二度あって「武田佐吉」がまた二度とも出てきますから、これの引き当ての問題が
どうなるか、又悩まされるわけです。細川色のなかの武田左吉だからここより匂うわけです。
                         
 (14)猪子、村井の役目
▲▼の人物をなぜ〈信長公記〉だけに入れてあるのかも問題となると思います。これは
再掲
        〈信長公記〉              〈甫庵信長記〉
    ★ 猪子次右衛門
    ★ 村井作右衛門
    ★ 武田佐吉               ▲武田左吉
 
こうなっていますから、専門家にとっては、この武田佐吉の実体は、三人セット(三兄弟)のうちの
武田佐吉で、そうなれば武井夕庵であり、明智の佐吉ではなさそうだということが一応結論としては
わかります。あと山城の山崎で出てくる三代官
      「武田佐吉、林高兵衛、長坂助一、」
に、この三つの★を結ぼうとして、ここで出してきたのかどうかですが、これはありうると思われます。
三兄弟が、また表記をかえて出てくることになるといえます。
 そのためには★が、太田和泉の存在を語る表記かということですがここの村井については村井長
門があり、作右衛門はそれが作り変えられたと取れるので、太田和泉の存在が感ぜられます。
 問題は「猪子次左衛門」の「猪子」がそのように、勘ぐったりするのに十分の根拠のある名前といえるか
ということになります。
   再掲
    『・・・生駒勝介・・・中河八郎右衛門・・・中島主水正・・・飯尾隠岐守・・・原田備中守
    黒田次右衛門尉・・・野々村三十郎、猪子内匠頭・・・』〈甫庵信長記〉

からみても「猪子」は重要ということがわかります。
    「猪子次左衛門」=「黒田次右衛門」
と下の名前の方が、共用されています。猪子がなぜでてきたかということは、村井と同様、
太田和泉を表すからであろうと思いますが本当にそうなっているか触れねばならないところです。
猪子は、
     「猪子兵助(介)」
で知られていて、類書では美濃一の豪の者といわれているほどの人物です。太田和泉守が乗っ
かっている感じなので、「猪子兵介」にそういう評価が定着したといえるのかもしれません。〈甫庵信長記〉でも

  『猪子兵介駆け引きの体見計らって様子申し上ぐる。その次第少しも違わずとて御感あり。』
  『赤母衣』の『猪子内匠助』

などがあり、両書とも登場回数が多いので、それも頷けるものです。ただ

    『猪子三左衛門・同加助、同才蔵・・・・』〈甫庵信長記〉

 のような、三兄弟か、親子三代か、・・・・迷わせる表記があり、それも重要ですが、とにかく
     「猪子三左衛門
 というからには、太田和泉を載せたものといえるでしょう。本能寺で「猪子兵介」の表記が消される
ので、こういう表記は、一時誰かを表すという役目を負って出てきたといえます。
〈信長公記〉の首巻や〈甫庵信長記〉にある次の有名な話の「猪子兵介」は武井夕庵とも取れそうな
感じのものです。次の文は、斎藤道三が評判のよくない婿殿信長に正徳寺で会見しましたがそのあと
の話です。猪子平介が道三に会見の印象を喋らせるくだりです。
 @〈信長公記〉では

   『猪子兵介山城道三に申す様は、何と見申し候ても上総介はたはけにて候と申し候とき、
    道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案
    の内にて候とばかり申し候。』〈信長公記〉

となっており、道三から話を聞きだそうとしている兵介がいます。「たわけ」と「たはけ」がありますが、
「うつけ」も使われます。

  A〈甫庵信長記〉では
   『(道三)興覚め顔にて帰りける。猪子兵介やはら近寄りて、上総殿は何と見申しても、嗚呼
    (をこ)の人にて候と、山城守に申しければ、されば無念なる事候よ。我等が子供、彼の嗚呼
    の者が門外に、馬を繋ぐべき事、案の内なりと云いしが、果たして其の如し。・・』〈甫庵信長記〉

となっています。このやはらは感じが出ています。「やはら」というのは「やら」と書くのが合っている
というのを知りながら「は」を使っている、と思います。ここに至るまででには会見の内容がありますが

  ●『御出立(いでたち)を御家中の衆見申し候て、さては此比たわけを態(わざと)御作り候よと、
    肝を消し、次第次第に斟酌(しんしゃく)仕候なり。・・・・・春日丹後・堀田道空・・・・道三・・・
    堀田道空・・・・山城・・・・道三・・・・道空・・・道三・・・道三・・・・猪子(いのこ)兵介、山城道三
    ・・・・道三・・・山城・・・・・道三』〈信長公記〉

 となっており、もう皆が「“わざ”とやった“たわけ”」と見抜いたなかでの猪子兵介の質問だったわけ
です。この会見の長い記事のなかには「信長」「上総介」という表記は一切出ておらず
 いわゆる斎藤道三は「道三」「山城」「山城道三」の三通りが出てきて・そのほかでは
   「春日丹後守」「堀田道空」「猪子兵介」
 が出てきます。初登場の「猪子平介」は三回出てくる堀田道空に一応宛てておくしかありません。
  春日丹後と堀田道空は誰かという問題になってきますが、この二人は平手政秀と斎藤・織田の
婚姻をまとめた人物で〈甫庵信長記〉の

   『かくて春日丹後守堀田道空方より、平手中務大輔方へ、和睦・・・』〈甫庵信長記〉

 で婚姻の契約まで進めています。堀田道空は
  ○「道空」の「道」から、また「堀」は「堀」でもありうる
  ○六人衆に太田又介とともに「堀田」が出てくる、
  ○信長が「津嶋」の道空」邸に出向いていること、
  ○「津嶋」は「対馬」に通ずる・・・・
などのことから、これは武井夕庵ということになるはずです。
ただ「堀田」という大きな影響力をもつ人物が津嶋におり、それが原型になったかどうかの問題は
ありますが、テキスト人名禄では「堀田」に言及がありません。のち徳川の家老に堀田氏が出てきま
すが原型がない場合は、夕庵の筋から出た人ということにもなりかねません。その辺は江戸時代の
考証をしっかりみなければならないことです。
 春日丹後守は当然「春」「丹後」から太田和泉ということでよいはずですが、両書とも堀田道空の
前に春日丹後守を置いており、春日局の親が斎藤利三という話があり、甫庵は
       『春日丹後守堀田道空』
 と両者を引っ付けて書いており、親子とかの関係が予想されますから、斎藤利三とみるのが妥当と
思われます。
 要はこういう話は作り事でなく、武井夕庵が実際にやっているのを見聞きして、その内容を太田和泉が
書きとめたという事実があったということで、当時の読者は、事実関係に疑問をもたなかったというの
が重要なところで、それが永年読者を沸かしてきたいうことだと思います。
 実態は、そうとして、やはり猪子をこの一節で出してきたことは、狙いがあると思います。現に猪子
兵介と堀田道空は表記がちがうわけですから別人ではないかといわれるとその通りでしょう。小説
などではこの会見に明智光秀が顔を出してくるのがありますが、奥方の母、小見の方と親類だから
当然でもあります。つまり「猪子兵介」が入ってきたので、物語としては明智光秀、武井夕庵、太田
牛一の三人というものを打ち出したというのが考えられることです。ことあるごとに三人を打ち出して
いるのです。
 いま、武田左吉のところで、「猪子次右衛門」が出てきたので「猪子」の話にはいったわけですが、
ここの「猪子次右衛門」となると「太田和泉」が、ここで何かをいおうとして登場してきたということに
なりそうです。テキスト脚注では「猪子平介」は「猪子高就」という人物とされ

   『兵介(東文書)。のち然(金蔵寺文書)。猪子氏は摂津生田(神戸市生田区)に住し、生田と
   いい、のち猪子に改姓。兵介は織田十郎左衛門信清に仕え、犬山で戦死したという(本能寺
   で討死とも)。実はこの〈寛政重修諸家譜〉の記事に対し、愛知郡(愛知県)猪子石村出身説
   (姓氏家系大辞典)はどうであろうか。はじめ美濃斎藤氏に仕えた。』

 となっています。猪子氏を生田というのは、おかしいような感じです。猪子氏は美濃出身です。兵
助初登場は美濃で出てきますので、太田和泉守がそれに乗ったとしても美濃にある姓というのは
生きていそうです。尾張に活動の痕跡があるのは、斎藤氏の尾張進出があるのでその延長の話と
思われます。猪子が生田出身というのは、太田和泉守が猪子の名前を利用して活躍するという物語
部分が出ているのではないかと思います。犬山の織田十郎左衛門信清は太田牛一と接点があり、
織田太郎左衛門のように、その上にも乗っかりかねません。また猪子才助という人物も出てきますから
(武功夜話)、これは太田牛一にも比定できます。はじめの
        「生田
は、「生花(いけばな)」という使い方もありますから、「池田」とも読めるのではないかと思われます。
太田牛一が攝津の池田によく関わっており、池田勝三郎という表記も使っています。
〈甫庵信長記〉の記事がすこしおかしいからというのもあります。「池田勝三郎二子働き・・・」の一節
池田総登場のところで、「池田」表記の乱舞のなかに

     『生田のの向城には紀伊守・・・・生田のの南へ・・・・生田のの早り男(を)の
     者ども・・・●伊木寺・・・・』〈甫庵信長記〉

 「生田」が出てくるところ、みな「森」が付いている、これはどういうことか、というのが疑問といえば
疑問です。森がセットで名所の生田ということでしょうか、これは「池田森」といいたいのではないか
と思います。文中
        「家来伊木豊後守、森寺清兵衛尉」
というのがあり、●はこの二人の合成でしょうが、通常「伊木」が「伊木清兵衛」として有名で、やや
森寺清兵衛は違和感がありますが、それは別としても
        「豊後守」ともなれば「池田豊後守」
 という表記がありますので●は豊後守森寺となり、池田森となります。
      池田=猪子=生田
ではないでしょうか。猪子については布陣表@で猪子次左衛門が出てきましたので、いま触れて
いますが、ここに布陣表@と布陣表Aに「池田父子」が出てきて、すでに倉橋=椋橋の池田勝九郎
のことでガタガタしました。池田勝九郎は諸口ですから、池田勝三郎が二人目の池田として、隠れて
いる、池田=猪子はこのあたりのことではないかと思います。
ここの(姓氏家系大辞典)の猪子石(いのこし)村出身説は大変面白く核心をついた挿話だと思います。
「いのこしむら」というのは「猪子氏村」ということでしょうが、「猪子石の村」でもあります。〈信長公記〉の
「猪子次左衛門」と「武田左吉」の出てきたここの部分を解説したものではないかと思われます。
つまり
            猪子(石の)次左衛門ーーー武田佐吉ーーー石の佐吉
                ‖                        ‖
            猪子ーーーーーーーーーーーーーーーーー 石
猪子次左衛門は、太田和泉でも武井佐吉、明智光秀でもよい、要は猪子と石田を結びたいという
著者の真意を読み取った、地名を利用した挿話ととれそうです。つまり、「いのこし」という地名を
    太田和泉と石田三成
をつなげるのに利用した人物がいるといえます。まあこういうとすぐ反論が出てくるところで、永禄十二
年 『二条の古き御構』の工事はじめのくだり、

   『・・・御大工奉行村井民部・嶋田所之助仰せ付けられ・・・・・邸前に・・築山(つきやま)を構へ、
   その上細川殿御屋敷に藤戸石(ふぢと いし)とて往古よりの大石候。を御庭に立置かる・・・』

 の「藤戸石」の「石」は事実の「石」だ、「石田」などのことを思って書いたとは考えられない、と
いうことになります。そういわれるとその通りで、まあ猪子石などは云ったほうが損する話であることは
認めざるをえません。しかしそうして科学的、学問的とされる見地からのみですんなり読んでいると、
ほかのところに波及させる手掛かりも見失うことになります。「藤戸石」は「藤子石」でもあります。
「万見仙千代」は〈辞典〉では

    『神子田長門守の子という(武家事紀)』

 とされ、山鹿素行は、織田の初期のころ竹中半兵衛と並んで名軍師伝説のある「神子田半左衛門」
をここで持ち出しています。この人物は「正治」といい類書では「神田半左衛門」と半々で使われ
て、この違いが目に付くほど登場回数の多い人物です。小牧長久手の戦いで秀吉に文句をいい、
切腹を言い渡された世渡りの下手な人物とされますが、これは太田和泉守が神子田に乗っかって
秀吉と喧嘩したわけです。この石は「名石(ルビ=めいいし)とされ」と「いし」と読むように仕向けられて
います。ここで引っ掛かるというか、立ち止まってこんなことをいっていると、、二条城に太田和泉守
が登場しているのではないかと、いうのも出てきます。細川から石田というと飛躍となるかもしれま
せんが、太田和泉守は、「藤」の系譜の人であり、猪子姓を名乗るので、太田和泉=石田というと、
石田伊予守などがあるので結び付けてもあながち不自然とはいえないことと思います。「藤子石」
は「猪子石」と似てると思います。山鹿素行は「高木左吉」と「武田佐吉」を近づけて問題提起した
人物です。

(15)作右衛門
 布陣表@で「猪子次左衛門」と出てきたのが「村井作右衛門」です。この「作右衛門」は「作兵衛」
と同じことで、ここから「安田作兵衛」が創られ、古川九兵衛、箕浦大蔵と並ぶ明智三羽烏が構成され
ました。明智三羽烏は、明智三兄弟を想起させようとする材料にされました。
 安田作兵衛の「安田」は、「やす田」「保田」として〈信長公記〉佐久間右衛門御折檻の手紙の中
に出てくるもので、テキスト脚注では「やす田」については
       『保田知宗は信盛の与力(寛政重修諸家譜。知宗の報告に信盛父子は連判した。
       これが何時の事件であったかは不明』
とされており「保田」については
       『太田牛一旧記に、安田山城守子息で天下一の若衆といわれた安田左介知宗が、
       天王寺で原田備中守等とともに戦死したことがみえる。この条の「安田」「やす田」は
       この安田氏を指すのであろう。』
とされています。戦死した天下一の「安田」を「作兵衛」にくっ付けた、
    原田備中=佐久間右衛門=安田左介=和泉
ということでしょう。本能寺の戦いの条〈三河後風土記〉では

  『其の中に明智が家人蓑裏(ルビ=浦)大蔵古川九兵衛安田作兵衛等三人一同に・・・・・
  安田作兵衛は・・・・森蘭丸・・・・蘭丸は・・・・作兵衛が股の付け根につき入れけるに、安田・・
  蘭丸は・・・安田は・・蘭丸は・・・兵衛透さずくんでおしふせ首を打つ。・・・蓑裏・古川・・・
  蓑裏・古川・・・安田作兵衛かけ来たりて障子ごしに突き出したる鑓先、信長卿の右の脇ばら
  に当たりて、・・・生害し給う。時に御年四十九歳なり。・・・・
   ・・・・・・信長卿へ鑓付けたるは安田作兵衛にまぎれなきゆえ・・・・よつて平野源右衛門と
   改名して・・・後々膝がしらに人面瘡という難病を引きうけけるが・・・終にくるい死しけり。』

  この佐久間与力として出てくる「安田」プラスこの「作右衛門」の「作兵衛」で安田作兵衛が生まれ、
古川九兵衛は〈信長公記〉の「古川(河)介」が使われ、「古川久介」は
      「古・川・久・介」
      「市・川・大・介」
      「古・田・左・介」
      「荒・川・市・介」
 などの四字の簡略表記の一つです。まあ「武田佐吉」「長坂助一」のように漠然と特徴を現すものです。
 箕浦は、多分竹中半兵衛と親しい樋口氏と関係が深い堀次郎の箕浦という土地名かもしれ
ません。〈武功夜話〉に「箕浦の中入り」という一節のある箕浦で、〈甫庵信長記〉の
      箕浦次郎右衛門
あたりから取ってきたと思われます。
安田作兵衛は、本能寺で森乱丸と渡り合いますが、蘭丸を倒し、信長卿に深手を負わせる
たいへんな役目を引き受けて出てきたので、天下一の若衆でなければならず、天下一といい、
のちの平野または天野源右衛門というのですから、まあこれは膝がしらに傷をもつ太田和泉登場
の場面でしょう。親子格闘の図であり、主君と一の臣下の対決の図を演じきった名優が、村井作右
衛門といえるのでしょう。
長谷川著〈荒木又右衛門〉の一番初めの登場人物は「岩佐作兵衛」となっています。岩佐又兵衛
の積りでしょうが、作兵衛もあるようです。村井は作右衛門だから作兵衛はあると思っていたら、
村井も村井又兵衛という人物が出てきて目立つ活躍をしているようです。
 三兄弟の、込み入った暗示が明智三羽烏です。

(16)高山の不詳問題
 布陣表@布陣表Aにおいて高山だけむつかしくされているといえるのは、現在では「不詳」とされる
土地に高山右近が布陣しているということがあります。すなわち、高山右近の陣したのは布陣表@では
    「ひとつ屋」、甫庵では「一屋(ルビ=ひとつや)」
となっており、もうひとつ、天正七年の布陣表Aでは、
    「深田(ふかだ)」
というところに陣していますが、ここも、「ひとつ屋」と同じように「未詳」とされています。
現在わかっていないのは、たまたまここだけで起こった現象だと考えやすいと思いますが、手を加えた、
高山が重要だからそうした、というサインと読まなければならないと思います。
 前者はこの布陣を示す前の太田和泉の動向説明に鍵があるのではないかと思います。すなわち、
はじめに、再掲、

  『滝川左近、惟任五郎左衛門・・・一谷焼き払い・・・塚口の郷に在陣なり。』

 があり、この「一谷」が「一屋」から「ひとつや」という風になって、照合されるようにして両者の繋がり
を意識させようとしたいうことだと思います。まあこうはいっても、それはそうかもしれないが、そうでは
ないかもしれない、却下ということになりそうで、それはそれでやむをえないことですが、単に身内と
いうのでなく
    高山は右近で彦五郎だから、滝川の左近と惟任の五郎
が、意識されるようにした、さきほど「・・・郡山・・・賀藤左衛門・・・伊丹表・・・兵庫表」というように
「彦」もだされている、といえないこともないのです。そうはいってもまあ偶然だろう、賀藤がなにかは
説明がない、というこになってしまいます。賀藤も賀藤弥三郎があり、彦左衛門は肥田彦左衛門が
あり、「肥田」から高山の飛騨守が高山の彦にも及びそうです。
 「ひとつ屋」と「深田」と、わからないところを二つ作られたら、どうでしょうか。普通で読んでいたら
わからない、ここは高山を問題にしている、とくべつな読みがされるべきだ、というメッセージはあると
すべきだと思われます。
 この「深田」は地名の索引がなければ、全部調べねばならないので、わずらわしくてまあいいや、と
いうことになりますが、テキストでは索引があるので
      「深田」と「深田口」
のあるページがわかりますので、それで手繰り寄せるとなにかが出てきそうです。
ここからは武井夕庵を語る最も重要なところが出てきますので、
     「深田」の深き、深い問題
としてあとにまわします。〈武功夜話〉には「深田」の連発があり、桶狭間で二回も出てくる(〈信長公記〉)、
佐々孫介「深田」の討死などもあり、深田、深田口は夕庵のなぞ解きの入口でしょう。
 なお「ひとつ屋」が実際では一谷ではないかといいましたが、深田は実在ではどこに比定すべきか
ということになりますがこれは、
           「ふかた」「ふきた」でつまり「吹田」
ではないかと思われます。高山(たやま)は多芸山(たやま)でしたから、この読み方が、適用
されるので、こうなると思います。テキストの地名索引には「吹田川」があり吹田は意識されていますが、
人名らしい「吹田(すいた)」「吹田(スイタ)」も考慮して見なければならないと思います。人名では
   「吹田女房」「吹田因播娘」
があり、「因播」は神話の出雲の因幡が播州に焼き直されている、「いなば」は「稲葉」で稲葉伊豫
につながると、吹田娘は大ものを暗示するかもしれないわけです。
 夕庵色が強く出ていた下間和泉、下間筑後が出てきた北国戦線で
     「すい津の城」(〈信長公記〉)
が出てましたが、なぜか「すい」が“ひらかな”となっています。テキスト脚注では
   「杉津之城、敦賀市杉津(〈越前国古城跡併屋敷跡〉〈若越小誌〉」
 となっています。 しかし辞書をみても「杉」には「スイ」という読みはありません。「すぎ」「サン」
「セン」だけです。すなわち「すいた」の「スイ」を意識して、“ひらかな”にしたと思います。
〈甫庵信長記〉では「多芸山」の「多芸」のルビは「たぎ」と「たき」の二つあります。
これからみれば杉津は「すつ」と「すつ」の二つあって不思議ではなく
        す ぎ つ
        す き つ
        す い つ
となったと思われます。つまり、〈若越小誌〉などは、〈信長公記〉の読みでは「杉=すい」だ、と
いっていると思われます。摂津の吹田は「木に三本」の杉田、ということになり、森色もここ摂津の
戦場に出されているといえます。〈信長公記〉では、

    『一、だいらこへすい津の城、大塩円強寺・・・・・』〈信長公記〉

 まわり漢字ばかりのところに“ひらかな”が出てくるので、途まどいますが、「だいらこへ(大良越)」は
見せ掛けではないかと思われます。「すい」をいいたいが「すい」だけ“ひらかな”にすると意図がバレ
ルのでこうしたような感じです。つまり高山の杉を出したかったと思います。
 同様に中川のいる取手(砦)、二つ目の中嶋は尾張の中嶋も受けているということになるのでしょう。

天正七年布陣表Aは操作が予想されるところでこういうのもあるのではないかと思われます。

   『一、田中、中川瀬兵衛・古田左介
    一、四角屋敷、氏家左京亮
    一、河原取手、稲葉彦六、芥川』〈信長公記〉

 などありますがここの田中は「尼崎田中」という脚注があるので、「田中」とはいえますが、利休の
田中は関係がないのか、ということはやはり考えなければならないところです。つまり田中は
   「田中の貞安」
 があるので、表記だけでいえば「田中」の「貞(定)庵」などになるので、夕庵とか利久などがイメージ
されているのかも知れないといえます。また佐吉で、石田三成が意識されているとすればそれとの
関わりで、前稿で出てきた田中吉政も浮かび上がってきます。「石田三成」を逮捕した「田中吉政」
は「吉政」という名前がやはり重要ではないかと思います。前表では二人は「原田郷」にいて、
今回がわかりにくい田中ですから、
            古田ーーー千利久
の繋がりを出そうとしたことは確かでしょうが、ほかにもありそうです。
 また「四角屋敷」は脚注では不詳とされていますが、これは
          「一、□屋敷」
の意味で例えば「花屋敷(川西にある)」にならないか、などが出てくると思います。
 芭蕉は「花(か)」を「霞(か)」に重ねたことは既述ですが、〈曾良日記〉では「□」が至るところ
にあります。まあ学問としては取り上げないことになるかもしれませんが、「遊び心」は旺盛ですので、
そういうのも視野に入れると解釈の範囲が広がっていくのかもしれません。これらのこともあまりに
茫漠とした「芥川」という人名がしからしめるものです。
布陣表@の芥川は
      「稲葉伊豫・・・伊賀平左衛門・芥川。」・
布陣表Aの芥川は
      「稲葉彦六芥川。・・・・・・伊賀平左衛門・伊賀七郎。」
となっていて「伊賀平左衛門」は消せてもほかの人は消しこみが出来ませんでした。
    前の芥川は「伊賀七郎」のこと
、とすると上三人が消え、芥川だけ残ることになります。
彦五の高山の次ぎは彦六の□□が居るのでしょう。また芥川はいずれも「伊賀」に関わっており
安藤(東)伊賀守から伊賀伊賀の線は重要です。
布陣表@の後は
     「 羽柴筑前・・・・佐久間・維任(これとう)・筒井順慶、播州・・・・・有馬郡・・・さん田の城
     ・・・・道場河原・三本松二ヶ所・・・・・羽柴筑前守秀吉・・・・是より播州へ・・・別所居城
     三木・・・・・・・・・・・・・・・』〈信長公記〉
で締められており、太田和泉守、三兄弟、、郡山筒井は佐吉関連、播州別所と赤松道場、三田は「三」
有馬の有は武田、三本松三木、は高山、というようなことが見落としやすいとして付加されていると
思われます。

(17)〈武功夜話〉の高山
ここで高山右近にもどりますが

〈武功夜話〉では次ぎの一節があり、高山右近は、三兄弟のうちの誰かの子というのが出てきそう
です。

   『耶蘇宗門の事
    ・・・人皇七十七代後白河の院の御代、保元、平治の年間にも耶蘇宗門の信徒、黒船に
    のり来たり辺民にすすめ、宗旨を広め始めて切利支丹の宗法を請いたり。・・・・・織田上総
    介信長公、この宗門を庇護なされ候なり。・・・・畿内において諸侯、諸大夫この宗門に帰依
    の人
     一、三好修理大夫長慶
     一、松永弾正少弼久秀
     一、長岡兵部大夫藤孝
     一、●高山右近大夫 』〈武功夜話〉

いまこれをみて●の人物はいわゆる(あの)高山右近重友であろうと見られていると思います。そう
でなければ〈武功夜話〉の記事はみてもしょうがないということで余り重視されていないかもしれません。
これは表記からみれば、高山右近ではありません。丸毛兵庫頭が「長」であったので、また「友」
は「夕庵」の「」でもあるから、ここの
       高山右近大夫友は「武井夕庵=丸毛兵庫頭」
のことをいっていると思われます。人名羅列の均衡からみると、世代の上でも、外戚という意味でも
「藤孝」に対するには「夕庵」が対置されてしかるべしでしょう。現在の知識でいえば高山飛騨守
という人物は高山右近の父とされていますから、●は、高山飛騨守ということになるでしょう。
この人物を@とすると、いわゆる(あの)高山右近はAということになります。もう少し妥協して、
ここの●の人物は、高山飛騨守と高山右近の二人を合わせていているということになるのでしょう。
 つまり、〈武功夜話〉のここで夕庵の子が右近というのが匂わされています。
 この記事をみると、保元、平治のころすでに耶蘇信徒が宗旨を広めようとしており、〈吾妻鏡〉に
十字が出てくることへの説明ともなる記事のようです。
 また戦国期にすでに黒船という言葉があったようで、太田牛一も黒船と呼んでいたということのよう
です。まあ的確な表現だから、江戸末期専属の言葉でもないのでしょう。
この●のような表記の人がいたことは、高山右近の現在の知識のなかに現われているかどうか調
べて見る必要があります。次は、
〈辞典〉による高山右近の素描です。

   『天文十二年(1553)〜元和元年(1615)二月五日。
   彦五郎、右近大夫、右近允、右近助、大蔵少輔。号は南坊等伯。諱は「重友」「長房」「友
   祥(ともなが)」と伝わるが、どれも文書による裏付けがない。洗礼名はドン・ジュスト。これ
   には「寿須」「寿子」「重出」の字が当てはめられている。・・・・飛騨守長照=これは筆者の
   挿入ではない)の子。』〈辞典〉

 どちらも「高山右近太夫」と呼ばれていたことがわかります。
 五番目の子で、なぜ「彦」が付くのかという問題の出てくるところです。「南坊」というのも「南光坊」
が想起され「天海」に繋がりそうです。「等伯」も重要で、有名なのに、ほとんどわかっていない画家
あの「長谷川等伯」と同じですから、本来ならばほっとくわけにはいかないものです。〈辞典〉では、
父の高山飛騨守ついては

  『■?〜文禄四年(1595)頃。図書(ずしょ)。諱は「友照」とあるが、文書の裏付けはない。洗礼
   名ダリヨ、これは「大慮」とも書かれている。右近の父・・・・永禄六年(1563)五月、ロレンソの
   教義を聞き、キリシタンに転向、・・・・和田惟政とも親交あり、惟政に勧めて一緒に説教を聞く
   などして、彼をキリスト教の理解者たらしめた(耶蘇通信)。』 〈辞典〉

 先ほどの〈武功夜話〉の「友」がここに親として出てきました。あの「高山右近」には「友照」は
ないようです。「右近太夫」はここにはないようですが〈武功夜話〉が入れており、〈武功夜話〉が
重ねたのかもしれません。親子が重なるのはよく出てきて、うそだろう、といわれやすい手法ですが、
ここにもそれが出てきています。〈武功夜話〉はこういうのに意識があります。
   
   『蜂須賀彦右衛門、同小六(家政事)』〈武功夜話〉
   『池田紀伊守(ルビ=恒興)』〈武功夜話〉

 のように親子乗り入れをやっている例示があります。これでこの「高山飛騨守」が「武井夕庵」と
いうと先入観があるから受け入れられないということになって土着の領主が高山飛騨守といわれると
そちらに傾いてしまいます。永禄6年桶狭間三年後にキリシタンに転向しており、和田惟政を誘い
こんでいます。〈辞典〉の武井夕庵の記事のなかでキリスト教に関することといえば

  『宣教師フロイスの書簡には夕庵のことを「信長の書記」とある(耶蘇通信)』

 とあるだけです。 キリスト教の信徒の話のなかの●ですから、通常これは高山右近と取るでしょうが、〈辞典〉では、
友照は右近の父で高山飛騨守といっているのですから、右近の父は高山飛騨守であるといって
いるのは確実です。ただ記事がたしかに高山右近のものと混じっているのは感ぜられるところですが
分けられると思います。上の文は右近のものだと思われものは抜いて「・・・・・・・」にしてあります。
高山右近は生年をみると、再掲
      『天文十二年(1553)〜元和元年(1615)』
となっていて永禄六年(1563)にロレンソの教義を聞いて転向するのは無理なことです。すると
高山飛騨守は武井夕庵かどうかが問題となりますが一見して
    高山=武山   飛騨=肥田
で同一です。
 ■のところは秀次事件の年に当たっていますので、これは特筆すべき一文です。一方〈甫庵信長記〉
人名索引では「野村」があり「野村越中」「野村丹後守」「野村肥後守」「同兵庫頭」「野村与一右衛門」という
野村が出てきます(これで全部)。したがってこの二字「野村」の意味は

   「野村」==@野村越中守(登場は、味方少人数の激戦に勝利した六条合戦の戦闘大将として)
           A野村丹後守(登場は人名羅列のうち)
           B野村肥後守(同上)
           C同兵庫頭
           D野村与一右衛門(登場は曰く付き、すなわち加工された感じの人名羅列のなか
                        にでてくる。)

 を包摂した意味のものとなり、一応引き当てもこの四人から考えるということになります。通常その
まま拡散された知識として捨て置かれますが、表記の連鎖がありますから必ずいちいち当た
って記憶(記録)しておかなければなりません。つまり
  @から、その人物の重要性、周辺人物、〈信長公記〉との関係やらで人物の見当がつけられる
    明智の総帥として捉えられていることがわかる)
  Aから「細川、明智」が出てきて
  Bから「武井肥後守夕庵」が出てくる
  Cから「兵庫」が使われる人物は「丸毛兵庫頭」しかいないことを知る
  Dはこれらの応用を考えていそうだ、
ということなどが出てきます。一触即発のところ、〈三河後風土記〉から

    『野村(ルビ=丸毛)兵庫頭(ルビ=)』〈三河後風土記〉

というのが出てきます。既述の部分だからここは割愛して、ここで野村兵庫頭は丸毛兵庫頭を指し
ますから、多芸(たけい)郡の丸毛兵庫頭は「長照」ですから、ここの「友」は、「夕照」でもあり、
「友」はあの高山右近重友の「友」ですから、〈武功夜話〉の高山右近太夫というのは、親子の二人
を表した、また細川の外戚にあたる二人なども表した、たいへんなことを語る表記といえます。先ほど
Bから、野村と夕庵が繋がり丸毛にいきますが、「夕庵」には「高山」が意識されていることがいえ
るかどうかも、気になるところです。これについは、既述でもありますが別のルートから語ることが
できます。夕庵は、高山夕庵といってよい存在です。

(18)高山飛騨守
高山飛騨守は〈信長公記〉だけ一回限りの登場です。〈甫庵信長記〉には出てきません。一般の
読者はしらないわけです。画面を一瞬横切って、消え去る印象深い登場をするのが
     「高山飛騨守」
 です。この人は高山右近重友の父という人物ですが〈信長公記〉では「父」とは書いていません。
考証の結果父とされているので手間はいらず、三兄弟関連ででてくれば武井夕庵ときめたらよい
といえます。〈甫庵信長記〉では
     「二字の高山」=高山飛騨守
     「芥川」=武田佐吉の武田の一人=高山飛騨守
 といえます。芥川で誘導された大きな存在として承認されていることがわかります。                     つまり、芥川=高山=武田左吉
高山は高い山つまり武井山であり、飛騨は「肥田」で、肥田彦左衛門があり、これは武藤五郎右衛門
と出てくる一回だけ登場の人物で夕庵に当てるしかない人物です。ほかに肥田玄蕃があり、テキスト
人名注では実在の「肥田勝」に宛てられ「斎藤新五の叔父〈堂洞軍記〉」となつています。肥田
玄蕃は、道家兄弟と一回だけ出てきますので武井夕庵イメージでよいと思います。
 なお〈辞典〉によれば、〈立政寺文書〉の付箋に、斎藤に仕えた武井夕庵が、「郡上郡の城主」で
あったことが書かれているようで、郡上八幡城は奥美濃ですから、夕庵の本拠とそう離れている
わけではなく、ここの城主であった、もしくは関わりがったということは十分考えられことです。郡上八幡
城は、ネット「郡上八幡城」(biglobe/DD2/)借用遠藤氏によって築かれ、秀吉の時代に稲葉氏が
入城したそうです。この遠藤氏に「竹・久」が接近しています。浅井家朝倉家、戦死者の羅列に
おける浅井の大将、遠藤喜右衛門にはこれぞというような注が付いています。

     『・・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門{頸竹中久作を討ちとる、兼而
     を取るべしと高言あり。}浅井雅楽助・浅井斎(イツキ)・・・・・』〈信長公記〉

 脚注によれば{ }内の細字について、
         『以下二十五字、底本「遠藤喜右衛門」の右傍に注記』
と書かれています。遠藤喜右衛門注目!といっているのは間違いなさそうです。「遠藤」という姓が
その一つでしょうが、「遠藤」に、「竹中久作」が接近します。これははじめから予定された人物で
あることは明らかです。「竹中久作」は「竹」「高」「武」の「久」「九」「作兵衛」といったもので、これが
遠藤に接触しました。この「遠藤」はテキスト人名注では
   「遠藤経  喜右衛門。継は誤り(近江阿部文書)。姉川合戦で討死。」
とされています。〈甫庵信長記〉では、このあたりで長い文が出ています。

    『・・・・遠藤喜右衛門尉・・・・・竹中久作を見付け・・・久作・・・遠藤・・・・遠藤・・・遠藤
     ・・・・富田才八・・・・喜右衛門・・・弓削(ゆげ)六左衛門尉、今井掃部助・・・才八(=遠藤
     の郎党)・・・・・遠藤殿・・・猶・・・・・・猶妙印入道武井肥後守・・・・・』〈甫庵信長記〉

 ということで「遠藤殿」が武井夕庵を呼び出したといっているようです。要は浅井の遠藤を使って
郡上八幡の遠藤を呼び出して、夕庵を郡上八幡城に結びつけたといえそうです。つまり立政寺文
書付箋の「斎藤ー武井夕庵ー郡上郡城主」というのは〈甫庵信長記〉〈信長公記〉の解説といえない
こともないものです。まあ芭蕉からいえば、〈奥の細道〉本文に「図司左吉」を出してきて、〈曾良日記〉
に「近藤左吉」「大石田平右衛門」をもってくるという細工によって「藤=藤」というものから、
    近藤左吉→武田(左吉)←遠藤
という伏線を敷いてここを解説したとも取れます。「遠近は」「遠交近攻策」のような慣用的な熟語も
あり、一方をいえば一方が出てくるというようなものがあった、右近左近のような取られかたがあった
のではないかと思います。
 上記ネット記事によれば
   「目下のところ一番大きな注目を集めそうな謎は山内一豊の妻の出自でしょうか。一昔前まで、
    彼女は若宮友興の娘で近江の出身とするのが定説となっていました。実はこれはあまり確
    たる証拠のないままに人口に膾炙していた説だったようで、代わって八幡城主だった遠藤盛
    数の娘だったのではないかとする説が台頭してきたわけです。」
 と書かれています。遠藤盛数という人は郡上八幡城の創建をした人のようです。〈辞典〉の遠藤氏
をみると盛数という人は、遠藤家の宗家の人ですが当主の女婿の縁でそうなったようです。盛数は
早く亡くなったようで事績がほとんどありません。盛数の女婿が「遠藤胤基」、子息が「遠藤慶隆」で、
この両家を「両遠藤」と称するようです。子息の「遠藤慶隆」は

  『遠藤慶隆  天文十九年(1550)〜寛永九年(1632)(83歳ということで親子重なっている?)
  三郎四郎、新六郎、六郎左衛門左馬助但馬守。剃髪号旦斎。
  盛数の子。永禄五年(1562)十月、父の死に伴ってその跡を継ぎ美濃郡上八幡城主。斎藤
  竜興に属す(遠藤家譜)。斎藤家の重臣●安藤守就の娘と婚した(遠藤家旧記)。・・・・同十年
  八月頃であろう。信長に属して郡上郡内の本領を安堵される(重修譜)。・・・・元亀元年(1570)
  姉川の戦いに従軍。戦功により信長から感状を受けた(濃北一覧・遠藤家譜)。同年八月十二日
  森可成より所領を安堵された(遠藤文書)。このときは「六郎左衛門」。当時可成は東美濃の将士
  を統率する権限を与えられていて、美濃北端に位置する遠藤氏もそれに属したのであろう。・・』

となっています。かなり物語の要素が入ってきています。●は「竹中半兵衛」がこういわれています。
先ほど、竹中久作が出ましたがその関係でしょうか。この遠藤も姉川合戦で目立った働きをしている
ことも重要です。理屈をいえば先ほどの「遠藤殿」というのはこちらをも含んだものかもしれません。
「六左衛門」は「弓削六左衛門」があり、左馬助は夕庵、但馬守は太田和泉を想起させるものです。
森可成の統率の下にあったかもしれないというのは、郡上八幡城の性格を現していると思います。
直接的統治ではなく、遠藤氏による間接統治、遠隔地なのでそうされたといえるのでしょう。
表記では「遠藤」は二つ、土地の領主としての「遠藤」、物語上の「遠藤」は「武井」ということで、
遠藤盛数の娘が千代殿として残っている伝承は、夕庵の子ということをいっていると思います。もう
一つの近江の人物「若宮友興」という表記は、夕庵は近江の高宮もその属性といえます。
 「若」は「若林長門」の「若」、「宮」は「三宅」、「友」は「夕」ということで、両面からも夕庵といえると
思います。千代殿を盛数の子だという話は、後世の人がした立政寺文書の付箋からは崩れてしまう
話といえます。
 要は「松どの」にしても「千代殿」にしても、聡明な人物であったというのは間違いないところですが
他にもそういう人物が多かったのも事実でしょう。その中で有名になったのは太田和泉が自分自身、
や、身内、一族を俎上に載せて時代を述べていることにも預かっています。明智というバックがあって
出てきた人物群像の人ともいえます。
 飛騨高山も武井夕庵と直接関係があるかもしれません。つまり「高山飛騨守」という表記が、飛騨
高山そのものなので、それで話を進めてよいはずですが、一応いままでどおり高槻近辺の領主として
活動していたというのも間違いないところでしょう。
前稿ですこし顔を見せました山内一豊は夕庵の近い親戚なので、あの場面に出てきたわけで、
郡上八幡に像などあるのは武井夕庵との関係を示唆するためにされている語りに依っています。
山内一豊には郡上八幡は出てこないようです。つまり山内一豊からも、遠藤が夕庵と結びついて
いるということがわかるように仕組まれているといえます。山内一豊は対馬守であり、その豊は豊前
豊後の豊です。

従って次ぎの〈信長公記〉登場は役者としての登場といってよいわけです。この登場が池田和泉と
いう人が鉄砲で自害したあとのことです。天正七年

  『十二月五日、高山飛弾守、去年(こぞ)伊丹へ走入り、不忠者たるにより、青木鶴御使いにて
  北国へつかわされ、柴田に御預けなされ候なり。』
 
 テキスト脚注では、「飛守」というのがあり、「飛騨」「飛弾」違いがあります。したがって太田和泉
と二人を予想しておいた方がよいようです。
 高山右近との親子の重なりは当然織り込み済みでしょう。二字の高山と高山右近が〈甫庵信長記〉
にありました。ここの「不忠者」は、太田和泉でよいのでしょう。既述の
  「九月二日夜、荒木摂津守女房一人召し召し具し、乾助次郎に葉茶壷を持たせ、伊丹を忍び
  出・・・」
という寄せ手の機先を制した解決を図ったのが咎めになったのでしょう。高山飛騨守を、夕庵でも土地
の豪族とした場合でも、なぜ敵方荒木の方へ走ったのか、というのが問題となってきます。つまり
織田は荒木を攻める理由が無い、もし攻めるなら自分を殺せと開き直ったというようなことになって
しまいますがこれでは納得の得られない解釈といえます。
去年と書いていますから、天正六年のことで、いつごろか、というのが書いていないのです。太田和泉
守の芝居としなくてはどうにも読めないところです。
  テキスト人名録では、「高山飛弾守」は「(高山右近)重友の父。」ではありますが、「(高槻あたりの)
小土豪」とされている理解の段階ですから、太田和泉と重ねられる存在として理解されていません
ので、切り口の提供もあるから、高山飛騨守は
     荒木(伊丹)=府中(不忠)=青木=北国=柴田(太田和泉)
と関係があるといって高山飛騨守の属性登録のようなことをしたと考えられます。青木鶴は青木又兵衛
という表記のある人がいますがその人物のことでしょう。〈信長公記〉では青木所右衛門という表記が
でますが、「所」は「島田所之助」という重要人物がいます。〈武功夜話〉では「青木勘兵衛(一矩)」
です。
 「年(こぞ)」というのがいつのことか前年に該当がなく、高山飛騨守が出てくる年(天正七年)十二
月の前、四月で「程」という予想外の京都の事件が挟まれており、ここに
 「誓願寺」「沙弥(しゃみ)」「彼女(かのおんな)・・・村井長門(ながと)所へ走入(はしりいり)
があり、太田和泉が出てくる一節に、飛騨守の動作が重なったのでまあ関連付けてよいのでしょう。
彼女が走り入ってきたので、村井長門は女でなければならず村井長門の夫人がここにいるので
しょうか。高山飛騨守が村井長門のところへ走入したというのだからまあ高山飛騨守は実体がない
表記だけの存在といえそうです。要は「高山飛騨守」=「武山肥田守」で
      「高山飛騨守」はそのもの自体で「武井夕庵」
であることは明らかです。そのもの自体というのは、誰か原型があってその名前を利用したというもの
ではないということです。 「飛弾国司」が武井夕庵であるかどうかは見直しがいるのかもしれません。

一応ここまで武井夕庵を追っかけてきますと、はじめの高木貞久文書の「高木(たかき)」が「高井
(たかい)」「武井」と変るにつれ、「武井貞久文書」にもなりかねないということに気付きます。この
文書は秀吉の手紙を用意し「明智弥平次」を出していました。弥平次は明智ともなるのなら、
  明智は三宅、三宅は宮笥(みやげ)、宮笥は宮司、宮司は千秋、千秋は紀伊守、紀伊守は
  佐藤、佐藤は右近右衛門
とか、
  三宅は権丞、権丞は竜門
とか
  千秋は専修、専修は阿波賀三郎兄弟、阿波賀三郎兄弟は鉢伏、
とか
  宮笥は宮司、
から「竹」が切り離され、
  「笠寺へ取手」から「飯尾豊前守」

が出る、というようになって枝分かれも何通りも出てくるということになります。「笠寺」は「笠寺砦」とか
「笠寺城」と書いてないわけです。「笠寺には」とか「笠寺と云う所」「笠寺のならび中村の」になって
います。ほかに適切な呼び方があるかもしれない、これをとすると、村の名前を使ってもよいはず
ともいえます。要は笠寺は必然ではない、物語上の起用といえます。あとで大嶋城、大嶋の城などが
出てくるのも同じです。ある人物が大嶋城をめぐって大活躍をしているので
       「大嶋城・・・・大嶋城・・□□・・大嶋城」
というのが出てきますが、この場合は、そういう固有名詞のところで動いたから大嶋が出てくる必然が
あったと思ってしまいますが、他の文献で
       「大嶋の城」
とでもなっていれば、大嶋城というのは、その人物□□を「嶋」に染めたいためだという解説をしたということに
なりそうです。また
         「笠」からは「竹」と「立」
が派生しますがこの「立」は「りゅう」ですから「隆」とか「竜」にも使いかねないことになります。
「豊前守」とならびで出てくる「笠」だから臭いといえます。この「笠」から重要なことが派生して出て
きますが、これなどは表記の連鎖の例で、このように間遠らしきものでも追っていくと、予想外
のことに出くわすことがあります。すなわち〈辞典〉にはきわめて重要なことが書かれていることが
わかってきました。

(19)貞光久左衛門
高木ー武井の流れは、高木貞久=武井貞久になりそうで、ここで先の
      〈高木文書〉
の高木一族は、武井一族をなぞらえているのかもしれない、高木文書と武井とは関係付けられて
いると気づいてくることになります。再掲

   高木貞久ーーーー長男  高木貞家ーーーー子 高木貞俊(祖父貞久の養子)
               二男  高木貞利
               三男  高木貞秀
               四男  □□□□
               五男  高木貞友  

ここの五男、「高木貞友」というのは、「友」が付きますので、高木右近としてみると、「貞久」という
のがすぐに〈甫庵信長記〉の六条合戦不明人物
          「左衛門」
受けた表記ともとれます。これは長い記事が〈甫庵信長記〉にありますので気になります。
 
   高木貞久は高山貞久でもあり、これが〈甫庵信長記〉の一匹狼の「左衛門」

として読んだらどうなるかということです。秀吉の明智弥平次が載っていた高木文書の高木貞久が
〈甫庵信長記〉に登場しているというのは考えにくい、といわれるかもしれませんが、永禄十二年、
六条合戦の記事の後ろの方にある、以下の長い文を、よくわからないということで見逃されている
のではないか、これを見逃してはどうにもならないと思います。以下の文の表記の人物を入れ替え
て読んでみます。
    配役
        文中表記       読み替え

        野村越中      明智光秀
        内藤五郎丸    不詳 森乱丸?、永禄12年17歳は坂井久蔵(五郎合わせがされている、)
        奈良左近      不詳、奈良の左近だから島左近か、左近右近で高山右近か
        貞光久左衛門   高貞(定)久から武井夕庵(太田和泉)
        樋口三蔵      木村又蔵@つまり木村常陸介
ということになるのでしょう。六条合戦の結果、明智光秀の活躍を古兵が誉めたところからです。

    『また下野守が手の者に古兵ありしが、その時の有様ども、よく見置きて云いけるは六条寺
    内より打ち出で軍の大綱(おおづな)とおぼしきは、
              野村越中とやらん
    が挙動(ふるまい)ぞかし。又行年十五六歳と見えしが未だ童形の出で立ちにて、己が手の
    者多く引具し是は
              内藤五郎丸という童(わらは)
    なりと名乗りたりし勢は、昔源義貞の東寺門前にて、尊氏将軍に名乗り懸けたりしも、かくこ
    そあらめと知られたれ。又行年廿計なる兵に、
              奈良左近と云う者
    の、挙動(ふるまい)を知りたる者の云いけるは、家原の要害にてよき高名し、疵を被りしかど
    も物の数ともせず六条門前橋の上にて組打ちしよき兵討ち捕り、又六日の合戦にも比類な
    き働きして、その名を得しが、軍の習い、一勇進むことあたわざれば、敗軍力及ばずして、
    東寺を指して落ち行くを、左近が笛の師匠に、西岡
              貞光久左衛門と云う者、
    是を見て只今落ちて行くは、奈良左近にては無きか。正(まさ)なうも後(うしろ)を見するもの
    哉。
    ★★こう云うは貞光ぞ。引き返し勝負をせよと云いければ、こは思いの外なる物かな。笛の
    師匠と云い、日比昵(むつ)びし間なれば、かようの振る舞いあるべしとも思わざりしが、力
    なしとて返し合わせたるところに十人計り切って懸かりしその中に、究竟の射手二人あって
    指詰めて射たるに、左近の頸の骨を左の耳の脇より右の肩先へ、つと矢先白う射透しける
    間、さしも剛なる左近も急所なれば、二君とも言わず倒れけるを、貞光つと走り寄って、頸を
    取らんとせし処を、左近寝ながら貞光膝の皿をなぎ伏せければ、あの首我取らんとふた
    めき争う者ども、尻足踏んで、暫しが程は、寄り付く者も無かりしが、
               樋口三蔵と云いしもの、
    思い切って飛びかかり、首をば念なく取りたりけり。★★
    是を伝え聞くもの爪弾(つまはじき)をして貞光が挙動天晴(あつぱれ)法にも理にも背きし
    次第かなと、笑わぬ者もなし。いかなる者がしたりけん。辻々に札を立て、
       いましめの為とや云わん貞光が 弟子を討たんと走り寄りしは
    夫れ君師とて、生の族において尊ぶる所ぞかし。己に弟子と称する則(とき)、師は父兄
    に当たれり。然る則(ときんば)として子を討つべけんや。夫れ笛は楽器なり。楽は人心を
    和楽せしむる所以なり。世乱れ俗下りて一事として名実の全きはなし。浅猿しかりし事ども
    なり。さてもよく落書きはしたりとて、人々の口遊(くちずさみ)に成りければ少々若き溢(あぶ)
    れ者供は、貞光が聞くや聞かぬ程に語り合うて目引鼻引したりけれども、虚(そら)うそ吹いて
    耻ずる気色も無かり余り憎くはありけん。又札を立て
       貞光は今はうそをぞ吹きにける のさすほど人の笑えば
    とよみ侍りて、不義なる者を憎む、いと宜しくぞ覚えたる。』〈甫庵信長記〉

 貞光が若い弟子を呼び戻して討つ、という物語で、笑いものになってしまいます。貞光と左近の
表記の交錯を読み取ればよく、笛の師匠といいながら、父と子の関係を匂わせています。
いろいろ伏線が敷かれて、貞光は誰かというのをまず考えなければ話は進みません。結論では
       夕庵(牛一)
となりますが、これにはいろいろ引き当て理由を挙げねばなりません。
     「高木久」ー「明智弥平次」ー「・光・久」
 という連鎖が使いやすかっただけです。「久」も「堀田久右衛門」「立木久左衛門」「立木久右衛門」
などあり「貞」は「定」でもある・・・・・などのこともあります。
 奈良左近はこのとき廿歳くらいですから、 高山右近はこの年は額面どおりでいけば19歳となります
のでこの奈良左近の一人には入ると思われます。夕庵の子といえますので、弟子と書いて暈した
意味からいえば、嶋左近、高山右近が該当しそうです。
★★〜★★の間が、既述の中条小市の「膝の口」が割られる話が入っていますので桶狭間で今川義元
が討ち取られたときの実際の様子がここで述べられています。
究竟の射手二人の一人が太田和泉といえます。〈信長公記〉では

   『服部小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ倒れ伏す。毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。』

 となっており〈甫庵信長記〉の

   『さすが最後ぞよかりける。打ち物抜いて小平太が(の)、膝の皿をぞ割ったりける。』

に対応しているものです。つまり、服部小平太が、槍を付けたが、抵抗にあって果たせず、毛利新介
が、助けに入り討ちとった、というものですが実際は太田和泉が弓で射抜いたということのようです。
義元が倒れて一瞬シーンとなったところ木村又蔵がまっさきに駆け寄って首級をあげたというのが
実情のようで、桶狭間のサワリのところを理解する伏線はこんなところに敷かれていたといえです。
太田和泉は、信長の側にいてが戦いの始終に関わった人物なので、こういう場には遭遇しやすい
位置におり、戦に馴れた春日井衆、前野衆、野武士などが従っており、討ち取ったということは可能
性としては十分にあります。堂洞で

     『高き家の上にて、太田又助只一人あがり、黙矢(あだや)もなく射かけ候・・・』〈信長公記〉

 があり信長が感心したという話です。筆者は太田牛一は鉄砲を隠しているので実際は弓ではなく
鉄砲だったのではないかと、書きましたが、命中率の高いのは鉄砲のほうではないかと思われます。
家康公も弓の名手だったから味方ケ原で危難を逃れたと書いていますが、これも、鉄砲で遁れたと
いうのが合っていそうです。
この際も命中率という観点から見ると、鉄砲だったと思われます。鉄砲とするともう一つの伏線
が敷かれていると思います。信長狙撃事件の一節がそれではないでしょうか。
撃った距離は十二・三間、三十三間堂の通し矢の距離の三分の一くらいだから当たりそうです。

 元亀元年
   『・・・浅井備前鯰江の城へ・・・・・蒲生右兵衛大輔・布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門、・・
   千草越え・・・杉谷善住坊・・・・千草山中道筋に鉄砲を相構え、情(なさけ)なく十二・三日隔て
   信長公を・・・・二つ玉にて打ち申し候。・・・鰐口(わにのくち)御遁れ候て・・・・。』

 元亀四年
   『去る程に、杉谷善住坊鉄砲の上手にて候。先年(せんねん)信長千草峠・・・・山中にて鉄砲
   二玉(ふたつたま)をこみ、十二・三間隔て情(なさけ)なく打ち申し候。されども・・・・信長の御身
   に少し宛(づつ)打ちかすり、鰐口(わにのくち)御遁れ候て、・・・・杉谷善住坊は鯰江香竹を頼み
   高嶋に隠居候を、■磯野丹波召し捕り、・・・・・菅谷九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として、
   千草山中にて●鉄砲を以って打ち申し候仔細御尋ねなされ・・・・・・』

 同じ狙撃事件でも、はじめの記事と2回目のが似て非なりのものです。おまけに〈甫庵信長記〉も
二つあるから、合計四つという記事があるわけです。人物は別にして〈信長公記〉だけ比較しても、
前後の記事に違いがあります。
       前               後
     鯰江の城     ⇒     鯰江香竹
     十二・三日    ⇒     十二・三間
     二つ玉      ⇒     二玉(ふたつたま)
     千草山中道筋   ⇒    千草峠・・・・山中にて・・・・・・千草山中にて
     信長公       ⇒    信長
 などあります。こういうのは適当に書きなぐったというものではありません。記憶力だけに頼れず確認
しながらやらなければならないのは百人が百人経験以前のこととして知っています。●で鉄砲が
念押しされています。杉谷善住坊の「杉」は「木三本」の「杉」、「谷」は「一つ屋(「一谷」)」の「谷」、
「善」は「寺田善右衛門(又右衛門)」の善」、「住」は「惟住」の「住」という組み合わせでもあり、一匹
狼の大物でしょう。また「香津畑」は「香津畠」であり、「香竹」ともなれば「香と武」になる、鯰江は
     「鯰江又一郎」(両書一回限りの登場)
という表記を生みます。まあ武井夕庵(太田和泉)の香りが出ています。
 「二玉(ふたつたま)」も硬軟二つの意味があるのでしょう。これは二連発銃というものがすでにあった
のかもしれません。
 「千草山中道筋」は千草山中の道筋の意味でしょうが、あとでは「山中にて」となっており、「道筋」
は要らない感じです。元亀四年の先年(せんねん)にあたる年に「中筋」という用語がでますので
どちらが合っているか知りませんが「千草山中筋」でもよいのでしょう。道なきところに鉄砲を構える
のかもしれません。
 「信長公」と「信長」は同じ動作をしたり、同じ場面で出てくることもあります。完璧に分けて使うとすぐ
区別して表記していることがバレテしまいますから、逃げられるようにされています。まあ97%は合って
いる、ほかのことでも補うということでそれは問題がきえるようです。貞永式目、51条か50条か、両方
ありますが一つを意識した上での差ですから、完全を意識した違いという感じのものとなります。
 「先年」(せんねん)」とあるので一年前を見ても信長狙撃事件などはない、第一「先年」なんどに
ルビはいらないのにと思いますが、何かあるのでしょう。「先年」を額面どおりをとると元亀三年になる
はずです。しかし狙撃事件の記事があったのは三年前です。つまり一年前と三年前に懸かっていま
す。一年前には次の記事があります。「中道筋」に注目して取り上げてみます。

元亀三年
   『家康公切り立てられ、軍(いくさ)の中に乱れ入り、左へ付いて身方が原のきし道の
    一騎打を退(の)かれ候を、御敵先に待ち請け支え候。馬上より御弓にて射倒(イタヲ)し
    懸け抜け御通り候。是ならず弓の御手柄今に始まらず。・・・』〈信長公記〉

 有名な家康公、味方が原敗走の記事です。この文はゴツゴツしていますので一見して並べ替が
要ると感じます。太字のところをすくなくとも「一騎打ちの道を退(か)れ候を」としなければならない
はずです。「一騎打ちの道」は桶狭間のくだりにあります。ここでは「中道筋」ではなく「中筋」で、□の
ところに「道」が入っていませんが、これでも意味が通ずるのでしょう。この「道」は他へ移そうとしたようです。
 
   『家康公、中筋切り立てられ、軍(いくさ)の中に乱れ入り、身方が原の左へ付いて
    一騎打の道を退(の)かれ候、御敵先に待ち請けきし道を支え候。馬上より御弓にて
    射倒(イタヲ)し懸け抜け御通り候。是ならず弓の御手柄今に始まらず。・・・』

 「きし道を」としましたので「道」を新たに入れ「を」を異動しました。〈戦国〉で六人衆の堀田孫七が
弓の名人ということで、このときの家康公に比定しましたが、家康公の弓の名人などという話などは
聞いていないということになりますのでやや弓というおでは不自然な感じがするのは仕方がありません。
   「射倒(イタヲ)し」
という不自然なルビがあり、やはり鉄砲で難を逃れたといえそうです。六人衆の
      「堀田+孫七」の「堀田孫七」
 は武井夕庵との対立構図を内包した表記だったといえます。これで桶狭間の二人の射手という
のは「貞光久左衛門」=太田和泉と、子息「森えびな」(森乱丸も含む)であつた、といっていると
思います。桶狭間で太田和泉、満33歳くらいとして、第一子が満15歳のときとみて、これを引いて
みると、森えびなこのとき18歳くらいとなると思います
 坂井右近将監の嫡子「坂井久蔵」については〈甫庵信長記〉に
     ▲永禄十一年(1568)九月十二日ころ、「生年未だ十三歳」
     ▼元亀元年(1570)六月二十八日ころ、「いまだ十六歳」
ということで、二回の記事があり、特別待遇がこのあたりでも窺われます。なぜ2回出してきたのか、と
かいうような、詰まらないことが案外重要なことなのかもしれません。
 まず、年齢が簡単にわかるという
ようにされていないということが、意識過剰と思わせるものです。左の年号(西暦)は、このように書いて
しまうと簡単ですが、簡単に把握できないようになっており(つまり過去に遡って行かねばならず、かつ
途中に永禄十年の記事が入ってきたりしている)、前者は「永禄戊辰」、後者は「庚午」という不親切
な年表示をスタートとして追っかけていきますが、長い月日を追っかけて例えば後者では九ページ
後やっと▼の「十六歳」に行き着きます。どこかに翌年という語句でもあってそれを見落としてしまっ
たら大恥をかくところというようになっています。
また「未だ」「いまだ」という表記がたいへん目障りにもなっています。
 また左側が二年差で、右側が三歳差となっているのも気になります。一歳違いはありうるということ
でもよいのですが、満年齢の数え方ならありうるかもしれません。「生年」と書いているあるので、この
意味がよくわかりませんが、生年を一歳として、年が改まったときに年齢加算するということになるの
がその意味ならば、こういうことは起こりえないという感じがします。つまり、▲▼の二人がいるという
ことにならないか、という疑問が出てきます。
 数えを採用していても、満年令の合理性の意識があった上で、原則は、数えでの年齢で記述され
ていたとも考えられ、それが生年という念押しになったのではないかと思いますが、とにかくはじめの
方は、坂井久蔵という特別な表題がある一節のものなので、これは森蘭丸でしょうが、桶狭間では
      13歳+10(調整)−8(8年前)=15歳■
という年齢になりますが、数えですから、また長子ということでいえば少し年齢が低いという感じがしま
す。ただ、戦場へ出るには十分ではないかと思われます。
 ▼の方は一つ上で
      16歳+10−10=16歳
 これが森えびなのものではないかと思います。一方森蘭丸を表すと考えられる「美濃屋小四郎」の
年齢は永禄十一年の記事で、

     「美濃屋(みのや)小四郎、●未若年(いまだじゃくねん)十五・六歳」〈信長公記〉

となっておりますので、二人居るとすれば、
     上の方は 16−8(8年前)+10=18
     下の方は 15−8+10      =17
となり、先ほどのものに二歳上積みされます。つまり、低めに表示していると〈信長公記〉が、いっている
ということだと思います。しかし、これは〈甫庵信長記〉では永禄八年の記事で
     「美濃屋の小四郎生年十六、」
となつているので、これだと■と全然合ってこないことになると思います。つまり
      16−5(5年前)+10=11歳
 これはどういうことだ、けしからん、ということになりますが、そうでもないでしょう。大体美濃屋小四
郎というものに意味がない、という見方に立つ場合、第一にその意味があいまいだという観点から
批判が出るのが首肯できるところのことです。
美濃屋は「美濃の」という意味に取れるから、これはまず「美濃の人」という意味と認めるのはやぶさか
ではないが、「小四郎」というのがあいまいではないか、といわれると思います。
 「小」は二つ意味があると思いますが、全体に懸かる場合は「子ども」ということです。
四郎は「四人」と「四郎」という名前の人物という、二つにかかっていると思います。 
        「美濃屋の小四郎生年十六、」〈甫庵信長記〉

        「美濃屋(みのや)小四郎」〈信長公記〉

を嵌め込んでみますと、
        「美濃屋子四郎美濃屋小四郎(みのやこしろう)生年十六」
        「美濃屋子四や(野)郎美濃小四郎(みのこしろう)生年十六」

美濃屋小四郎の年齢をなぜここで出してきたのかが疑問のため、ここで取り上げましたが、これは
平田和泉を討ち取って戦死してしまうのでよほど重要人物であろうということで〈前著〉で取り上げた
ものです。いま知りたいのは森蘭丸など四人の子息の年齢です。はじめの二人は一つ違いということ
がわかりましたが、あと、これだけわかればいい、というものは末子の年齢で、これがわかれば、あとは
何とかなるはずです。■との差で、力丸、後年の後藤隠岐守基次(政次)は、四つ下であったとここで
分からせたといえます。前から森兄弟の年齢は表向き伝えられているものより十年の調整の必要が
ある、といっておりますが、それが「未だ」であり、「いまだ」ではさらに低く見せようとするものがあった、
とみられます。蘭丸、坊丸、力丸という幼い名前にしていることに繋がっていることであり、「森蘭丸」
の年齢は満での表示ではないか、というのが、特別「生年」として現われたのではないかと思い
ます。つまり、桶狭間
       ●の上の方「数え十六歳」は「満十六歳」に変更、「数え十八歳」
とするようになると思います。〈甫庵信長記〉の読者は、坂井久蔵の年齢は数えであることは知って
いた、といえますが、
       「美濃屋の小四郎生年十六、」〈甫庵信長記〉
をみて、二歳上積みを知り、満年齢に読み替えたと思われます。
     生年+生年は、意識過剰で、否定であると察した、といえると思います。そんなのは我田引
水といわれるかもしれませんが、これには関連図書との繋がりがあります。
既述、〈三河後風土記〉の桶狭間で登場した人物があります。再掲

      『前田犬千代利家(ルビ=一五三八〜一五九九)生年十八(ルビ=ママ)歳なり。』

この生年に繋がるものでしょう。著者か、校注者(校注者とすれば多分寛政改訂版の著者相当人物)
がここはおかしいと思うのに変えないというのが(ママ)で、そのまま手を加えないという意味のもの
でしょう。いわゆる「前田又左衛門」という人物は、太田和泉守の子という世代ではないので、またあの
藤吉郎と比べても
    「十八」
はおかしいといえますから別人かもしれないというのも「ママ」の意味合いでしょう。
「前田又左衛門」という表記は「前田」が、「石田」は「石の」というような意味がある、高田というのも「高野」
にもなりかねない、「舞兵庫」「舞野兵庫」「前野兵庫」という例もあり、
    「前野又左(右)衛門」
とかに創られやすいといえると思います。森蘭丸は前野の人を父ともしており、森蘭丸他子息がこの表記を使う
ことは否定できません。〈甫庵信長記〉の「犬」や「孫四郎」などもあの前田利家を指しているとは限り
ません。あの利家が十阿弥という人を切って信長の怒りを買って立ち退いた話は有名ですが、その後
信長は最後まで怒りを解かなかったことの次第が説明されなければ、今までの高徳な前田利家
として、当時の人や江戸期の人が思い続けてきたと取ることはできません。
とにかくここで、太田和泉の子息の長子と、前田又左衛門という表記が、「生年十八」を媒体として
重なったということが重要です。これで屈強な「射手二人」は、子息のうちの上二人ということがわかり
ました。また樋口三蔵は三番目の木村又蔵@(木村師春)であり、文献の「毛利(森)新介」である
ということが判ってきました。「樋口」はどこから来たか、ということですが、樋口氏はこのころ三郎兵衛
直房と四郎兵衛直房という二人の人物が使い分けられ、三郎兵衛の親父が信長公と昵懇とかいうこと
なので、三郎兵衛の方の樋口から太田和泉関連でもってきたと思われます。この樋口から近い親類の
堀氏が出てきます。
      『爰に堀次郎、同家之子樋口三郎兵衛と云う者は江北一の剛の者なり。』〈甫庵信長記〉
 があり、堀久太郎の表記のもととなったのが、この樋口と思われます。いわゆる竹中半兵衛の
連れ合いはもっと具体性のある樋口四郎兵衛直房であったかもしれませんが、太田和泉が竹中半兵衛
や、この樋口氏に乗ったということを示すのがこの樋口三蔵と思われます。また、奈良左近は今川義元を
表したということで桶狭間が説明できましたが、左近は子息の位置にあり、これはひょつとして、今川
義元子息氏実(ウジザネ〈信長公記〉一回登場)のことを想起させようとしたのかもしれません。ここの
「笛」というのは今川氏実が笛の達人という意味なのか、「笛」は「竹田」だから「武田」「武井」に関係
づけたといつているのか、また他の意味があるのか、よくわかりませんが、のち
   「今川孫次郎」
 という一回かぎり死亡記事だけあるという人物が出てくるのでそれが念頭にあれば、
    「今川」=「孫」「次郎」=太田和泉=「笛」=竹田=武井
という相関からあの記事が、「膝の口」以外にも桶狭間の記事を内包していることを示したかったのかも
しれません。
 ○今川義元に足をやられ歩行がままならないといっている太田和泉と、
 ○荒木摂津守に閉じ込められて足を傷め歩行に障りが出たという黒田官兵衛(勘兵衛・冠兵衛)と、
 ○黒田官兵衛の子息、松寿丸長政に絶対絶命のピンチ到来、信長を誤魔化して体を張ってこれを
  助けた竹中半兵衛
というものは、〈信長公記〉の首巻で早くも匂わされていることです。
   「黒田半平」「黒部源介」「里部源助」「海老(えび)半兵衛」「山口勘兵衛」「杉左衛門」「ぐちう杉若」
などの表記が出ていました。「黒田半平」は黒田半兵衛とするとわかりやすく、このときの相手は美作で
この「黒田」は「林」に左手を切り落とされています。
「杉左衛門」は〈甫庵信長記〉では「黒田杉三左衛門」のことで、「ぐちう杉若」が働きがよく「杉左衛門」にされ
ましたが、「ぐちう」は「愚仲」でしょう。これは大物で、尾州浅野村産の林愚仲と思われます。
                              〈武功夜話〉系図による
                              朝日
   尾州浅野村産                   ‖
     林愚仲ーーー林弥七郎ーーー|ーー林孫兵衛
                         |ーー於ね
                               ‖
                              豊臣秀吉
という関係の愚仲です。林弥七郎@が愚仲なのか、二人が重なるのか、は別として表記で語っていくという
宣言のようなものが首巻の主題ともいえるのでしょう。
 狙撃事件の似たような二つの記事などは意味のありそうな一節なので、ついでにできるだけいろいろ
のことを探っておくと他のところの読みに役立つかもしれません。ここに、三年も経ってから「高嶋に隠居
」していた杉谷善住坊を犯人だといって召し捕ってきたお節介な大将が表われました。
   「磯野丹波守」
です。このために祝弥三郎らが奉行となって取り調べたようで、公表されませんでしたが犯人がわか
ったようです。信長公は善住坊を「たてうづみにさせ頸を鋸(ノコギリ)」にてひかせ」という処刑して
日ごろの憤りを散じたということですが、これは細川の家に伝統的に残った刑ということがいわれており
ます。先年(せんねん)というのでは、三年前の狙撃事件といえませんので先年をみると、徳川家康公
の記事ですから、これも絡んで、信長公を亡き者にして混乱させようという勢力があることを明らかにする
重要な一節です。磯野丹波守を太田和泉と読むことは、天下布武の織田の準備が窺われるところ
です。信長妹お市の方が浅井長政に嫁ぐのを促進させたのが太田和泉です。(後出)
 この先年(ルビ=せんねん)は1000年にもなりかねません。
   「十二・三間」を「十二・三日」に間違ったのかもしれないというのは、この、1000年を意識して、
また次の鰐口が二つの狙撃事件両方の一節にあるから、間違いではなく、意識して変えたということが
いえます。ここに
               「鰐口」(わにのくち)
 というものが前後狙撃事件でそれぞれ一つ計二つ出てきました。前後とも
     元亀元年『鰐口(ルビ=わにのくち)御遁れ候て』〈信長公記〉
     元亀四年『鰐口(ルビ=わにのくち)御遁れ候て』〈信長公記〉
となって、〈古事記〉の因幡の白兎のことに思いを寄せていてこの時点でもう、徳川・細川の連合勢
力に危惧を抱いているといえます。この「わに」滋賀郡志賀町の「和邇(わに)」もあり、

    『志賀の郡をば、明智十兵衛尉に給いたりければ、坂本に城郭をこそ構えけれ。』

明智の本拠の和邇も想起されていると思いますが、和爾は奈良の和爾も連想され、古代に話がおよぶ
だろうことは神話の鰐からも窺い知ることができます。
 邪馬台国の話で「日」と「間」の問題が出てきます。〈信長公記〉は二つの似たような話をつくり、長さの単位を
両方の話の間で違わせています。
    「十二・三間」=「十二、三日」
としています。〈甫庵信長記〉では、
    「わづか(糸篇の難しい漢字)十間計り」
と書かれているから、「間」があっていそうです。
「日」は「間」の「門構え」を外しただけだから、両者は表記上では繋がりがあり、また太田和泉には
「長間寺」=「長門守」の意識があり、この違いは間違いではなく、変換されています。
辞書によれば「間」は「閨vもあり、間も、「月」と「日」の転換が可能です。
          陸行一月は、陸行三十日
です。まあ換算するのはおかしいというなら「陸行一日」でもよいのでしょう。
     「水行十日、陸行一月」=「水行十日、陸行三十日、」=「水行十間、陸行三十間」
とすると、二つの読みが出来る、というのが太田牛一の邪馬台国読み方教室といえます。
     「水行十日、陸行一月」は実数で近畿、邪馬たい国へ行く距離
     「水行十間、陸行三十間、」は、もうそこについているような距離ということです。これが北九州
     の邪馬タイ国
といえます。魏はつねに両方を睨んでいたといえそうです。太田和泉守は著者が女王の館について記述
していないのはおかしいと思ったはずです。安土城は「間」の単位で広さ高さを書いている、そういう
感覚からみればそう感ずると思います。十間と三十間くらいというのがその広さ、なのかもしれません。
〈甫庵信長記〉の六条の合戦のところから、奈良左近、貞光久左衛門のほか野村越中守、細川衆
などが出てきましたが、まだ他のことが出てきます。

(20)和田伊賀守
高山右近という人物全体を論ずる場合、高山飛騨守という地方大名の子だったから、はじめから
高槻の城主として、キリシタンとして、完成された形で出てきますので、〈信長公記〉などは、このことについて
の、つまり高山のことをもっと知りたいという場合の史料としては、価値は、小さいとされてしまっている
と思います。しかし
       高山飛騨守=武山肥田=武井夕庵
ということになると、出自が読み取られて、全く様相が変わってきますが、それでも、なぜ高槻という
重要地点の領主であったかということは、わかりにくいことです。中川の茨木も同じです。

〈信長公記〉の各論は、永禄十一年から始まっていますが、もう桶狭間から、永禄十一年まで8年も
経っていて、その空白の期間、織田は美濃斎藤に手を焼き、中央に向ってはなにもせず、様子を
みていたということになっているような感じで語られていますが、これが間違いではないかと思います。
六条合戦において、和田伊賀守と野村越中の表記が明智十兵衛に関して少し違うところがあります。

六条合戦表記一部
            〈信長公記〉           〈甫庵信長記〉

          ●野村越中           野村越中守 野村 野村殿
          渡辺勝左衛門          渡辺勝左衛門
          坂井与右衛門          坂井与右衛門
                           ▼和田伊賀守
         ▲明智十兵衛
          森弥五八             森弥五八郎
          内藤備中             内藤備中守
 
 ●の野村越中はテキスト人名注では

    『野村氏は佐々木京極流。近江野村(滋賀県東浅井郡浅井町野村)城主。その本宗は伯耆
    守直定(〈南部文書〉)のようである。そしておそらくはその一族と思われる助六郎元春が
    信長に仕えたという(同上書)。野村越中(〈永禄六年諸役人附〉では足軽衆のうち)もその
    一族であろう。』

 となっています。要は明智の領国近江の一角を占める家ですから、意識は過剰にあった地域に
の野村氏ということですから、その勢力を利用をしたと考えられます。ほかの野村の表記が重要です。
「野村越中」のほかに
           「野村丹後」「野村肥後
というのがあります。これは肥後は武井肥後守もあり、明智衆に野村を援用するという意思表示と
くみとれます。つまり
           「野村兵庫頭(ルビ=丸毛)
という表記などを出していったわけです。岡飛騨から越中がでてきたのも同じです。すなわち
 野村越中という人物で明智光秀を語ったということをいってきたわけです。織田の陣営に近江の
野村氏もいたといえる、それも出さねばならないからそうしたといえます。▲はボンヤリと●に懸か
っていると読んできました。しかし野村は野村で物語は完結しており、この野村越中は戦死して表記
が消えて一時の光秀の様子を活写した、役割終了ということになります。和田伊賀守は〈信長公記〉
〈甫庵信長記〉にこういう顛末が示されていない、自然消滅といった感じのものですが、元亀四年
に「和田九郎右衛門」という表記の人物が戦死しますので、一応これで消しに掛かった、とも取れ
ます。野村越中を野村越中で消した場合と違って少し弱い感じですが、誰かを表すために使った
表記という同じ考えでよいのではないかと思います。

いまフロイスと明智光秀の付き合いを問題としています。フロイスを語る場合に欠くべからざる人物
として和田惟政という人がいることはよく知られています。いいたいことはフロイスが付きあっていた
という人物は
     和田伊賀守
であり、これは明智光秀の別表記である、類書でいう「惟政」というのは、惟任の惟、重政の重を念頭
において語りに作られた名前であったというのがいいたいことです。和田氏が幕府の家人にいた
らしいことは〈甫庵信長記〉が幕臣羅列のなかに
     「和田伊賀守、同雅楽助」
を入れているのでそう読み取れるともいえますが、同時にここには「一色松丸」とかの物語的名前が
混入されているところで、これも「和田伊賀守、同雅楽助(太田和泉)という転用されることが暗示さ
れたものというような感じといえそうです。まあ一応「和田伊賀守二人」を表すため「雅楽助」付き
の和田を創ったと考えておくとよいと思います。

明智光秀が織田に早くから身をよせていたという感じはあります。いまでも、小見の方の親戚として
信長夫人と近い存在であったことは云われています。また信長は
    「幸若大夫」
を、清洲町人、友閑を通じて招いている(首巻)、また「三人の師匠」は三兄弟といいたいと思われ
る、祝弥三郎は信長と踊っている、桶狭間戦、熱田にいた「源太夫殿宮」というのもその存在が
予感される、などのことで信長に接近していたとみれます。
 夕庵は信秀のときに織田に仕官しており、明智三兄弟という観点から言うと、京都に明智光秀がいて
国許の二人と、ともに織田の興隆を画策したという筋がみえてきます。
 
 初期のころ明智光秀の京都での活躍を知るには次の首巻の最後の記事(45)が重要ではないか
と思います。このあと巻一の永禄十一年の記事に入っていますが、永禄十一年にやったことの先取りを
したものです。A・Bの二つの部分からなりますが、Bがとくにわかりにくいのでここは重要なことを
いっているのではないかという予感がするところです。わかりにくいので訳文も付けてあります。要は
操作性の高い〈信長公記〉の記事からいえば次の細川藤孝と行動している●の人物は明智光秀
その人であると取れます。
 AとBとはセットになっているはずですから、Bに明智色があるかどうかで確認できるはずです。
まあ内容はよくわからないにしても
   Bには 「丹波国」「桑田郡」「穴太村」「赤沢加賀守」「内藤備中守」
が出ており、「桑田郡」の「桑」は、キーワード「又」×「三」の「木」ですし、穴太は安土城のときに、
穴太衆が出てきます。赤沢は明沢であり、加賀守は別喜右近で簗田弥次右衛門、すなわち太田
和泉守です。内藤は丹波の前の領主で、すでに内藤五郎丸という重要人物も出てきました。

  (45)原文
    『A、公方一乗院殿、佐々木承偵(じょうてい)を御頼み候えども、同心なく、越前へ御成り候て、
    朝倉左京大夫義景を御頼み候えども、御入洛御沙汰中々これなし。去て上総介信長を頼
    みおぼしめすの旨、細川兵部太輔、●和田伊賀守を以て上意候。則、越前へ信長より御迎え
    を進上候て、百ケ日を経ず御本意を遂げられ、征夷将軍に備えらる。御面目御手柄なり。

    B、去る程に、丹波国桑田郡穴太村のうち長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前
    守与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。或る時、自身関東へ罷り下り、然るべき角鷹二連
    求め、罷り上がり候刻、尾州にて織田上総介信長二連の内、何れにても一もと進上と申
    し候えば、志のほど感悦至極に候。併(しかしながら)天下御存知の砌(みぎり)、申し請く
    べき候間、預け置くの由候て、返し下され候。此の由京都にて物語候えば、を隔て、遠
    よりの望、実(まこと)しからずと申し候て、皆々笑い申し候。然るところ、十ケ年を経ず、
    信長御入洛なされ候。希代(きたい)不思議のこと共なり。』〈信長公記〉

上の訳文です。〈ニュートンプレス信長公記訳本〉

   A翌永禄十一年(1568)、将軍一乗院殿(足利義秋、のちに義昭)は、佐々木承偵(六角義賢)
    をお頼みになったけれども、御承知なく、越前へ行かれて朝倉左京大夫義景をお頼みにな
    ったが、しかしご入洛の沙汰はここでもなかなかなかった。さて一乗院殿は上総介信長を頼
    みに思われる旨を、細川兵部太輔(藤孝、のちの幽斎)・和田伊賀守(惟政)を介して伝えて
    こられた。ただちに信長公から越前へ信長よりお迎えをさし上げ、百ケ日お経たないうちに
    ご本意を遂げられ、義昭公は征夷将軍の座につかれた。信長公のご名誉であり、お手柄で
    ある。

   B さて、丹波の国桑田郡穴太村にある、長谷という城を守備している赤沢加賀守は、内藤備前
    守の与力ある。いちだんと鷹好みであつた。あるとき、みづから関東へ下り、すぐれた角鷹
    (くまたか)を二羽求め、都へ上って来るとき、尾州で織田上総介信長公へ、「二羽のうち、
    いずれか一羽を進上いたしましょう」と申し上げると、信長公は、「志のほどはまことにうれし
    が、天下を掌握した折にもらうから、それまで預けて置く」とおっしゃってお返しになった。
    この話を京都でされると、「を隔てた遠からの大望などとんでもないこと」とみんみなお
    笑いになった。しかし、それから十か年も経たぬうちに、信長公はご入洛になった。その
    当時はまことに思いも及ばぬことであった。』

Aの方では(惟政)は信長の窓口ですから、突然、そういう人物が出てくるというのは考えにくいことです。
Bの方は、加賀守、備中守で両方とも太田和泉になり、角鷹というのは国のことで、この二羽は
今川の国と北条の国となると思います(後出)。
    「二羽の鷹」は「丹羽の鷹」「二羽の高」
かもしれません。
先ず和田伊賀守の出てくるケースを拾いますと登場回数5回で一回目はこの首巻の記事です。
再掲(首巻)

   @『公方一乗院殿、佐々木承偵(じょうてい)を御頼み候えども、同心なく、越前へ御成り候て、
    朝倉左京大夫義景を御頼み候えども、御入洛御沙汰中々これなし。去て上総介信長を頼
    みおぼしめすの旨、細川兵部太輔、和田伊賀守を以て上意候。則、越前へ信長より御迎え
    を進上候て、百ケ日を経ず御本意を遂げられ、征夷将軍に備えらる。御面目御手柄なり。
あと
   A永禄十一年 
    『然て二男御舎弟南都一乗院義昭・・・・・暫く御在寺(ございじ)なさる。或る時南都潜(ひそ
    か)に出御ありて和田伊賀守を御頼みなされ、伊賀・甲賀路を経、江州矢嶋の郷へ御座を移
    され、佐々木左京大夫承偵を頼み・・・・・甲斐なく、又越前へ御下向なされおわんぬ。朝倉
    ・・・・・・・御帰洛のこと中々其の詞を出だされざるの間、是又、』〈信長公記〉

   B『永禄十一年七月廿五日、越前へ御迎えとして、和田伊賀守不破河内守・村井民部・嶋
    所之助進上なされ、濃州(ぢようしゅう)西庄立正寺(にしのしょうりゅうしょうじ)に至って、
    公方様御成。・・・・』〈信長公記〉

   C義昭上洛後、永禄十一年
     『今度粉骨の面々見物仕るべき旨上意にて観世大夫に御能を仰せ付けらる。・・・・・・
      細川殿御殿にて御座候キ。初献の御酌、細川典厩。爰において信長へ久我殿・細川
      兵部太輔・和田伊賀守三使を以って、再三御使いこれあり。副将軍か、管領職に准ぜ
      らるべき趣仰せ出ださる。』〈信長公記〉

 ここまでの記事は@でABCのことまでをいってしまっています。したがって@が重要で、ここで
和田伊賀守は、細川兵部太輔とセットになって、越前へ将軍を迎えに行く使者となるわけで、この
なかに肝心の織田の人が入っていないのでは困るはずです。いままで述べてきた経過からいえば
明智光秀ではないか、ということになります。

Aは和田伊賀守が甲賀に根拠があることの証拠のようになっていますが、甲賀は近江の最南の地帯
だから江州へ行くには通過点として必然ではないかと考えられます。つまり桶狭間から、5年ほど
経っており甲賀に織田の調略の手が延びていないとは考えにくいわけです。桶狭間からこの間の
空白の期間が首巻最後の、Bでわかりにくく匂わしたのではないかと思われます。いままでの惟政という
別人は近畿に勢力を張り出身が甲賀というやや珍妙なことになっています。

Bからもそれはいえることで、下線の人物からいえば必然的に和田伊賀守は明智光秀になりそうです。
不破河内は竹中半兵衛@ともいえる人物であることは既述です。不破氏は〈曾良日記〉にも出てくる
名前です。
 村井民部は太田和泉守、
 島田は「島」から武井夕庵とみてもよいかと思います。
 要は美濃の、身内の有力者が上洛の一切をやったといっています。ここにその地方の出身者でない、
甲賀と攝津に根拠をもつという和田惟政が迎えにいくというのがやや不自然な感じがします。幕府側と
いうなら細川氏の人物が妥当でしょう。これは〈甫庵信長記〉に幕臣らしい羅列のなかに
   『和田伊賀守・雅楽助』(後出)
という人物が出ているからと思われます。これについては幕臣にも和田氏がいたということでもよい
かも知れませんが戦死記事のなかに既述の「和田九郎右衛門」は
     「和田九郎右衛門・和田清左衛門」
というもう一人の和田と併記になっていますので、この両者は明智光秀・太田和泉守を表して消された
とも取れます。太田和泉も和田を名乗るのか、という疑問が出てくるのがここの二人の和田です。

Cも細川とセットになっている、細川の身内と言ってよい明智光秀が信長上洛の先導役となったと
いえることです。いまこの和田伊賀守は攝津の領主の和田惟政ということになっています。ただ太田
牛一、小瀬甫庵は和田伊賀守は惟政という名であるとはいっていません。〈甫庵信長記〉の記事は
どうなっているのでしょうか。

(21)和田和泉登場
@〜Cに対する〈甫庵信長記〉における記事です。

    『細川兵部大輔方へ御内書をなされければ、(細川がいうには)ただ御不例として、深く痛わ
    らせ給い候て(ただ、病気として、苦痛がひどいといって)医師を召され候え。米田壱岐守
    宗賢と申す者に、囲みを出で給いけん計策を申し含め進(まいら)せ候わん。此の宗賢
    武勇にも達し、医工も且つ意(こころ)得たる者にて御座候。何事も評議を尽くされ候わば、
    つつがなく出でさせ給わんとぞ申し上げける。藤孝指図に任せ、御心地常ならず痛わり給う
    とて、医師を召されけるに、宗賢参りたり。治療相応して御快気ましませば、祝言の御酒なり
    とて、番の者などに下されければ、終日酒宴して、夜半に及んで止みぬ。之を幸いにして、
    義昭公を宗賢負い奉って、春日山へ忍び出で、悦びあえりける処に、●乳母を如何にしても
    退け度き事なりと仰せられしかば、又立ち帰って具して参りぬ。かくて藤孝供奉(ぐぶ)し、
    江州甲賀郡和田和泉が舘へ入り給う。其れより同国矢島郷へ御座を移され、永禄八年八月
    より、同十年の八月まで御滞座なされしかば、散在したる御内外様(みうちとざま)の人々も
    方々より馳せ集まり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・宗徒の人々には京極近江守、大館治部大輔、同伊予守、三淵大和
    守、舎弟細川兵部大輔、仁木伊賀守、若狭の武田大膳大夫義統、飛鳥井左中将、丹波勘
    解由左衛門尉、丹後守、一色松丸、同式部大輔、沼田弥十郎、上野中務大輔、同佐渡守、
    和田伊賀守、同雅楽助、飯河(いこう)山城守、同肥後守、二階堂駿河守、大草治部少輔、
    牧島孫六郎、曽我兵庫頭、野瀬丹波守、奈良の中坊竜雲院なんぞは・・・・・・』

 これは〈信長公記〉の@〜Cのあたりに対応する〈甫庵信長記〉の唯一の記事で、将軍、とくに細川
方からみた対応といえます。ここの米田宗賢という人物が一番問題であるのは一見して明らかです。
「藤孝」がその指図に任せているほどの大物です。「米田」というのはのち細川忠興の嫡子、興秋
の守役、一の家老とみてもよい米田監物がでて一般にもよく知られている姓です。大坂の陣で塙団右
衛門の武功譚で名高い蜂須家陣夜襲のときの副将のような立場にいた人です。賢=監(けん)
だから子息かもしれません
      「永岡が家の子米田助右衛門尉、」〈甫庵信長記〉 
も用意されています。従ってその名前が付いている以上、この米田宗賢は細川の実権者ということが
一ついえることです。一人隠れている、
       「三淵大和守
という人物がそれにあたるとみるのが妥当、細川の中の話だから、そうとしかとれないといえます。
 〈武功夜話〉では「東美濃米田」も出てきます。もう一人、「武勇にも達し、医工」というのがありますし、
米田という地は〈武功夜話〉でも取りあげられており、和田和泉という人物が、あとに出てくる、という
のもあり、ここには見えない和田伊賀守の「伊賀守」もあり、太田和泉守の匂いが感ぜられるところ
です。つまり太田和泉守を頼ってきたということが考えられます。それがここの
       「和田和泉
と思われます。江州甲賀郡に太田和泉は根拠をもっていたといえます。伴正林も甲賀出身ですから
そういう関連を匂わす根拠はほかでも出てくるはずです。特別重要なのは●です。これは誰か、
前後の様子からみて一人しか考えられない
       「細川兵部大輔(藤孝)」
でしょう。「御乳母人(めのと)で候ける平手中務大輔」〈甫庵信長記〉のような表現の例もあり、驚く
こともないようです。要は義昭は大和守の旗揚げの玉として細川の手中にあったということで、兄が
二人攻め殺されたあと将軍職に就けられている、のち信長包囲網を形成して信長を追い落とそう
と図ったというのも、うしろにこの大和守勢力があったといえると思います。

 そのあと羅列された人名については、
ペアで登場が
  「大館治部大輔、同伊予守」「三淵大和守、▲舎弟細川兵部大輔」「上野中務大輔、同佐渡守」
  「和田伊賀守、同雅楽助、」「飯河(いこう)山城守、同肥後守、」「一色松丸、同式部大輔、」
  「▼丹波勘解由左衛門尉、丹後守、」
七組あり、一応間柄を探らなければならないものでしょう。▲の舎弟が特殊なペアであることを示して
いて、▼はふざけており明智のペアのようです。大和守と▲の関係を暗示するものか、「和田伊賀守、
同雅楽助
、」を言い換えて無効にするものか、よくわかりません。
 これを前半(姓の部分)と後半(肩書きなどの部分)にわけてみますと、

    前半
    京極、大館、大館、三淵、細川、仁木、武田、飛鳥井、丹波、□□、一色、一色、沼田、上野、
    上野、和田、和田、飯河(いこう)、飯河、二階堂、大草、牧島、曽我、野瀬、中坊

    後半
     近江守、治部大輔、伊予守、大和守、兵部大輔、伊賀守、大膳大夫、左中将、
    勘解由左衛門尉、丹後守、松丸、式部大輔、弥十郎、中務大輔、佐渡守、伊賀守、雅楽助
    山城守、肥後守、駿河守、治部少輔、孫六郎、兵庫頭、丹波守、雲竜院

 となり、前半が姓だからそういう姓の人は実在していたということを示し、後半は明智一族が使う
表記が表されたといえますが、伊賀守が重複で、和田の方の「伊賀守」が消えると、同雅楽助
□□□になり消滅してしまいそうです。まあこれはどうでもよいことでしょうが、これだけのものよく重な
らないように書けていると思います。
     和田=明智
はこのあとでも出てきます。次の記事が〈信長公記〉最後のもので翌年のものです。

  D 元亀元年九月十九日、森可成戦死の場面
      『宇佐山の城端城(はじょう)まで攻め上がり、放火候といえども、武藤五郎左衛門・肥田
      彦左衛門両人これあって、堅固に相抱え候。・・・・・・
      九月廿三日、野田・福嶋御引き払い、和田伊賀守・柴田修理亮両人殿(しつはらい)
      仰せ付けられ・・・・・彼の江口と申す川は・・・・』〈信長公記〉

 Dに対応する〈甫庵信長記〉の記事です。

     『武藤五郎左衛門尉、肥田玄蕃允、同彦右衛門尉・・・城内堅固に持ち固めたり。されども
      敵・・・・爰をば押さえ置きて、同廿日に大津近辺放火し、・・・・・・・・信長卿・・・・爰をば
      先ず差し置きて、・・・・殿(しつはら)いをば★和田伊賀守・柴田修理亮両人にせよとて引き
      払い給う。』〈甫庵信長記〉

 シンガリをした人物は両書とも
    和田伊賀守・柴田修理亮両人
 という表記になっており、これは今まで言ってきたように、柴田日向守の継続手が出てきている
のでこれは、明智光秀・太田和泉守が登場ということになるのでしょう。
また、ここは表記の工夫があることがわかります。こういうのは名前にシルシでもつけないと見落として
しまいます。
      〈信長公記〉は 「武藤五郎左衛門・肥田彦左衛門両人」       
      〈甫庵信長記〉 「武藤五郎左衛門尉、肥田玄蕃允、同彦右衛門尉」

 となっています。前者は一見したところでは二人と取れます。しかし読み方によっては二人とも、
三人ともとれます。三人にとれるのは、肥田彦左衛門両人が「両人」だから二人と取れないことも
ないということからですが、肥田彦衛門が、肥田彦衛門をもとから内包しているという取り方も
あるので「両人」といったのかもしれないわけです。一般の人は、後者で三人と読んでいますから問題
ないのですが、〈信長公記〉を見れば何かの目的があって二人にも見せたということがわかります。
すなわちわかりにくい方の三兄弟を出してきたといえます。またこれは
       「五郎左衛門、玄蕃允、彦右衛門」
という表記が同格だということもいっているようです。「玄蕃」などは「佐久間玄蕃」や「藤堂玄蕃」「俵
星玄蕃」など想起して豪傑肌の、やや地位が低いような感じですが、そうではないようです。とくに
「玄」という字は前田玄以や、明智光秀の辞世の句は「明僧玄智」という名で作られているように
重要な一語とされいます。
したがってあとの★「伊賀守」と「修理亮」は、
   光秀と和泉(肥田の彦の付く人=夕庵)
がいたということになります。無理に二人にしたので夕庵はいなかったとみてもよいのでしょう。ただ
この「肥田」というのは「飛騨」で、丸毛兵庫、弟春日九兵衛が出てきたところで、
    「後岡飛騨という。岡越中は飛騨が子なり。」
 岡も飛騨も越中も三兄弟に繋がる表記といえます。この越中に関して野村が出てきたことは
既に触れており光秀の活動を物語っていました。
 これで、和田が明智の人といっていると考えてよいわけです。あと次のことからも出てきます。
 永禄十一年六条の合戦表記一覧より一部抜粋再掲
        
        『  〈信長公記〉           〈甫庵信長記〉

          ●野村越中           野村越中守 野村 野村殿
          渡辺勝左衛門          渡辺勝左衛門
          坂井与右衛門          坂井与右衛門
                           ▼和田伊賀守
         ▲明智十兵衛
          森弥五八             森弥五八郎
          内藤備中             内藤備中守
                             (和田伊賀守)・・・飛び入りの和田伊賀守
                             (三好左京大夫義次)・・・飛び入りの三好義次 
                             貞光久左衛門・・・・・物語的飛び入りの人物』
この▲▼は、
         明智十兵衛=和田伊賀守、
 といってしまっている感じです。感じでつかめるようになっている、ということも重要ですので、先ほど
の「貞光久左衛門」の出てくる少し前のところに戻ってみます。この和田伊賀守はもう一回出ており
実体が無い、まあ、後光が差しているような人物といった感じで出てきます。三好左京大夫義次との
コンビです。

     『野村是を見て・・・・爰を引き取れと下知しければ・・・・・其の形勢は只利仁(とし)将軍
     小黒丸というとも・・・・・
     かくて▲三好左京大夫義次は、河内国若江の城に居たりけるが、・・・・(それがし)に於ては
     ・・・・六条本国寺後巻(うしろまき=脚注後詰め)・・・・山崎西岡にて出会うべし・・・池田伊丹
     ・・・孤河を打ち越えて・・・日、西山に懸かりければ其の日は八幡(やはた)の麓に陣を取る。
     斯かる所に▼和田伊賀守も、後巻(うしろまき)をせんとて、西岡に着きて、左京大夫より
     少し先立って有りしが、我が勢は池田伊丹が勢に加わって軍をせよ。我は本国寺の内、
     心許なきぞとて、只一騎上京より廻り、足軽の如く出立ちて、六条を差して行きけるが、あれは
     敵か味方かと云う程こそあれ、つと寺内へ懸け入れば、あつぱれ大剛の者やと、敵も味方も
     一同に、どよみ立てたる其の声、暫しは鳴りも静まらず
、則義昭光の御目に懸かりしかば
     悦び給うこと斜めならず、諸卒もまた千騎の力をぞ得たりける。』

 二人に共通するのは「後巻」野郎ということで、本戦に直接加わっていないという活動をしていますが
利仁将軍は「斎藤」で、小黒丸も「小黒(ヲクロ)の西光寺(信長公記)」ということで「西光寺」を呼び出す
ものであるかもしれないし、「大黒あん→武野紹鴎(テキスト人名注)」で「武」を思い出させるものともなり
かねません。とにかく一騎がけ人気抜群の和田伊賀守ですが、ここで西岡に着いて二人の人物に
接近します。西岡は

   『斎藤山城道三は元来山城西岡波と云う者なり。』〈信長公記〉

 の西岡で山城とセットです。この山城に武田佐吉がまた登場し、山城西岡は、また、細川の長岡
兵部大輔の長岡につながる、つまり
   和田伊賀守ーー山城西岡ーー永岡兵部大輔ーーーー山崎ーー武田ーー佐吉
となってあとに繋がっていきますので和田伊賀守は明智光秀であることを語っているといえます。
 「和田伊賀守」は、ここ六条で二人の人物と交錯します。後巻の一人である
 左京大夫は先ほどの義次でこれが太田和泉守です。もう一人
 池田伊丹が伊丹兵庫頭(池田は荒木)で、このとき十八歳、光秀の長女でのち明智左馬助の連れ合いであろう
ということは既述ですが、先にあった奈良左近(廿計)というのに最も近いという年齢にあります。
つまり、関ヶ原では47くらいとなりますが、嶋左近Aとしてどうかなというところにあるようです。要は、この一節が山崎八再掲表記一覧の明智十兵衛というのは野村越中も和田伊賀守も睨んだものといえると思います。

 和田伊賀守以外の他の和田の表記は「野村」が野村肥後守などがあったのと同じで、明智衆に
転用されたということを示した感じのものとなっています。和田伊賀守の他の和田の表記は
   「和田九郎右衛門」「和田清左衛門」「和田八郎」「和田新介」
があります〈信長公記〉。

    (@)和田九郎右衛門と和田清左衛門は1回限り、朝倉の戦死者の羅列

    『・・・・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛{金松又四郎これを討ち取る} 長嶋
    大乗坊・和田九郎右衛門和田清左衛門・・・・・』

 に出てきます「金松」は「甫庵」の別名で三中村に接近しました。この「中村」は大きな意味があり、
それと太田和泉が接近したことを表します。ここでは
    五郎右衛門、三郎兵衛、新兵衛
に接近したことで重要ということがわかります。大乗坊も「乗」が「日乗」などとのからみで意味があり
ここに出てきたのは「九郎」がつく一般的な、諸口のような「和田」ですから、それが明智衆に接近
したといえます。
「清左衛門」は「知人太郎国清」の「清」であり、夕庵と関係あるのかもしれません。ここでは金松に
接近の両和田ということで、和田伊賀守、同雅楽助(和泉)を消去したとしておきます。

    (A)和田八郎も一回限り、人名羅列の中に出ます。

   『林佐渡・市橋九郎右衛門・浅井新八・和田八郎・中嶋勝太・塚本小大膳・簗田左衛門太郎』

これは、前後の人がそれぞれ「浅井備中守」、「中島豊後守」の子息と取るのが普通ですから、
上の和田伊賀守の子息ととれます。このすぐ前に「万見仙千代」「仙千代」が出てきますのでそれとの
釣り合いからみてもそうなりそうです。つまり子息も問題となりそうです。また中島勝太とセットになった
ことも重要です。ただこの「八」は生駒八右衛門とか中川八郎右衛門とかも意識して出してきた「八」
と思われます。〈辞典〉では「 和田八郎」について

  『尾張、生没年不詳 諱は「定教」とあるが確かではない。新助の子。信長に仕え、天正二年で
  あろう、父の遺領を継ぎ、尾張黒田城主(寛永伝)。・・・・寛永伝によると、その後、処士となって
  近江甲賀に住し、本能寺の変直後の家康の甲賀通過に随伴して感状を受けたという。・・・・・・』
  なんぞは・・・・・・』〈辞典〉

 新介の子といいながら 「定教」という名になっており親子重なっているといえます

  (B)和田新介、
  これは新顔のような感じがしますが〈武功夜話〉などでは早くから出ています。〈武功夜話〉では
  森蘭丸に引き宛てたらよさそうな場面があったと思いますが、人名索引を自分で作っていない
  のですぐ出てきません。土地の豪族の一人という感じですが、〈信長公記〉に鍵となりそうなものが
  出てきます。首巻(四十一)

   ■ @ 『一、或る時犬山の家老、
     和田新介     是は黒田の城主なり。
     中嶋豊後守   是は於久地の家老なり。
     此の両人御忠節として丹羽五郎左衛門を以って申し上げ、引き入れ、生(はだ)か城に
     なし、四方鹿垣(ししがき)二重・三重丈夫に結いまわし、犬山取り籠め、丹羽五郎左衛門
     警固にて候なり。』〈信長公記〉

 これは内戦において犬山城を手に入れたというのは太田和泉の功績甚大であったということを
短い文章で明らかにした一節でもありますが、表記では
     和田=明智
を表す大事なところが含まれていると思われます。ここで和田新介は、中島豊後守とともに太田牛一
と接近しました。〈武功夜話〉「於久地城始末、」の一節でも接近がみられます。

   『中島左衛門尉隠居、せがれ(「身」篇に「分」)豊後、丹羽五郎左衛門殿介添え、和田新助
    同道、信長公へ忠節の旨申し上げ候。』〈武功夜話〉
   『中島左衛門尉、豊後、父子閉口、丹羽五郎(ルビ=長秀)左衛門、和田新介へ越訴申し
    出で候。』〈武功夜話〉
   『中島豊後、親左衛門尉於久地御城明け渡し・・・・此度の忠節は丹羽五郎(ルビ=長秀)左衛
    門尉一番なり。』〈武功夜話〉

 もう■@の記事は〈甫庵信長記〉にない記事ということで〈信長公記〉の自由自在の世界で書いて
 いるものになるでしょう。
  黒田は森、於久地は丹羽ですから、■のところ和田新介は事実関係は無視して太田和泉を
いっているといってもよいのでしょう。
つまり、義昭のもとに集まった、幕臣のなかに混ざっている「和田伊賀守、同雅楽助」の「雅楽助」や
「和田和泉」も、太田和泉であるといえます。〈武功夜話〉の三例の和田新介についても、丹羽五郎
左衛門と併記されているから別人と取らねばならないということでもないと思います。〈武功夜話〉では
山内一豊をこの「黒田」の住人としていますが、ここにも豊後などがでてくるので、夕庵関連は間違
いないところです。

 ここの「せがれ」はルビです。機械で打てない字ですが、こどもを身が分かれた存在と感じていた
ようです。人間は体内にあるものがでてくると、身の構成物であったのに、愛着を感じない、というより
もいやがります。にきび、汗、涙、たんつば、血、大小べん、精子、卵子などですが、子どもだけは
特別の例外というものといえます。が、子は体内からでてきたものという感覚ではないのではないか、身が
分かれたものという感覚があったのではないかと思われます。今日の人間とは違う感覚を持っていた
とするならそれを理解するためには、この「せがれ」という漢字は消滅していたら理解できないの
ではないかと思います。ほかに和田新介の登場場面は以下のように中島豊後とセットされているのが
多く、布陣表Aの中川と中島の組み合わせは豊後をよびだし、豊後は豊前である「桜井豊前」
「別所豊前守」などにつながるので、中川はまわりまわって武井夕庵につながるといえます。和田は
明智の誰かということで引き当てるのでよいようです。

    A勢州表永禄12年
    『・・・・・池田勝三郎・和田新介中島豊後・・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔・・・丹羽五郎
    左衛門・・・・・・・四方しし垣二重・三重結わせられ・・・・』〈信長公記〉
 これは明智某ぐらいに引き当てないといけないのでしょう。次ぎの二つも同じです。
 
    B元亀二年、長嶋表
    『佐久間右衛門・浅井新八・山田三左衛門・長谷川丹波・和田新介中島豊後』〈信長公記〉

    C天正二年、御伴衆
    『・・・・森勝蔵・坂井越中守・池田勝三郎・長谷川与次・山田三左衛門・梶原平次・和田新介
    中嶋豊後守・関小十郎左衛門・佐藤六左衛門・・・・・・・・』〈信長公記〉

 こういう人名羅列について説明ができないといけないのですが、まあ明智衆に取り囲まれた内の
和田新介です。「和田新介」というのは「和田+新介」であって「新介」は「新右衛門」でも同じこと
といってもよいものです。ただ毛利新介という例もあるから、世代が新しいかも知れないというものは
あるかもしれません。この中嶋というのはこの地でもっとも由緒ある家で

   『尾州丹羽郡稲木庄小久地の城弘治の頃までは御舎弟様(織田信康=犬山城主)御在城
   なされ候由に候。・・・・木の下なる処へ新城を構えおわる。ために老職中島左衛門尉目代と
   せしめ小久地の城へ入れ置き候。中島左衛門の家、尾州随一の古家にして、遠く承久の頃
   は、中島の郡中島なる処に罷り住みし太守たれども、故あって退転、丹羽郡井上庄なる処に
   住居を構え・・・・』〈武功夜話〉

となっているほどの名家であり、井上庄というのは、明智光秀を表わす「井上才介」も一役買ってそう
ですが、中島豊後を「親に劣らぬ屈強な御仁」と誉めています。和田新介は尾州河内川の川並衆
の一員で、この和田村の新左という人の語りがのこっているということですから、和田村の出身といえ
ます。蜂須賀もここで勢力をも培ったようです。蜂須賀小六は松倉というところにいたそうですが島左近
と並び称される松倉右近の松倉がどこからきたのかわからない、このあたりが関係することなのでしょう。
 島左近の島は大島でもない、小島でもない、中島でしょうから、中島豊後というのが出てくると一応
夕庵と関係があるかもしれない、ということも読める、そのような「豊」の使い方をしている、と見てよいかも
しれません。
 犬山城は、織田信秀の弟の織田信康とその子織田信清の居城ですが、三輪氏を通じた系図も
〈武功夜話〉にあり、
             勢州若江住          兵部
             五郎左衛門          内記
    三輪家ーーー吉高ーーーーーーーーー吉英
             犬山城主           犬山城主
 となって吉高の弟が三輪法印(三好)吉房となっていますから、また吉英の兄弟が前野孫九郎室
蜂須賀小六の室ですから、太田牛一にとっては犬山が親戚で、家老、和田と中島は五郎左衛門
を通じて、帰服したのは当然のことにもなります。つまり和田新介は、美濃衆、明智衆の一人と
いうことができます。いま別人とされる惟政の和田もこういうことで考えたらよいと思います。

 (22)通説の点検(1)
テキスト人名注では和田伊賀守は、次ぎのようになっておりいまの通説です。

        『和田惟政(1530〜71)  滋賀県甲賀郡油日(あぶらひ)村和田の豪族。
          甲賀武士の名族。』

 となっています。和田新介については

        『実名定利(和田系図)。惟政の弟。』

 とされています。
 すこし短すぎるので〈辞典〉から借用しますと
  
        和田新助
        『尾張、?〜天正二年(1574)秋
        諱は「定利」とあるが確かではない。〈重修譜〉によると惟政の弟にしている。
        しかし新助は〈信長公記〉に犬山の織田信清の家老で黒田城主として登場する人物
        だから、惟政と結びつけるのは無理ではなかろうか。
        ただ子の八郎(定教)が後に甲賀郡に住むと〈寛永伝〉に載っているから、もともと
        甲賀出身で、惟政の縁者という可能性はある。・・・天正二年(1574)再度の長島
        攻めに従軍。・・・寛永伝によれば、この長島での戦いで討死したという。確かにこの
        後は、子である八郎が代わって史料に登場し、新助の名は消える。事実らしい。』

となっています。和田新介「黒田」のことは既述です。和田新介が惟政の弟だというのは〈甫庵信
長記〉に弟がいたようになっているから、弟を探したいうことからきています。新助惟政と結び
つけるのは無理ではないかと書かれていますが、その通りで二人が、結びつかない感じです。
つまり、和田新介も美濃、相棒の中島も美濃ですから、一方の和田伊賀守(惟政)とその弟、同
雅楽助は京都にいましたから、関係がなさそうに思えるというのがあります。まあ縁者だろうという
ことで辻褄が合わされているといえます。
和田は共通なので、二人を結び付けようとするのは基本的に合っていると思いますが、名前の方
も考慮すると、明智というので結びついてしまいます。
  ○「惟政」という「」がとくに「惟任」の「惟」、「惟住」の「惟」と同じである。
  ○弟の「定利」という名前は太田和泉の「信定」の「定」であり「利久」の「利」である。
  ○「利」に関して、子の八郎が「教」がでてきている、群書類従の系図では
   明智三兄弟の一人、二番目にの字の人がいる。
                   光秀
         光綱ーーーーー信教
                    康秀
 姓の「和田」の「和」も〈信長公記〉では
  「丹(ルビ=たんのわ)」(テキスト脚注では「淡輪」)、
  「州三輪山」
があります。和=輪であり、「三輪」は武井夕庵、大谷吉隆の「三輪」です。和州三輪山の一節では
武田佐吉も出てきます。「和州三和山」となると「和」を意識しているといえます。「小谷」を「大谷」
と誤記したのは「逆表記」という意味はありますが、「大田丹」の意味もあるのでは。
 また、次のような例もあるので、これが和田にも適用されると思います。江州に和田があり、美濃に和田が
あるということが利用されるケースです。
 「浦兵部」という人物は毛利の有力家臣として知られており、現に毛利の船手の大将として大坂
表へ攻めてきております(〈信長公記〉)。人名注では、これはなぜか毛利の重臣、「乃美宗勝」と
されています。
表記が全く違う例で、石田の大将、舞兵庫が前野忠康というのと同じようなものです。テキスト人名注
では乃美宗勝について

   『乃美氏は土肥氏の族、安芸(広島県)豊田郡乃美荘から興った。ここでは浦氏(豊田郡浦郷)
    と混同している。浦兵部(と同じという意味?)。』

と書かれています。要は豊田郡の一致が両者が同じ人物であるという証明(おそらくこれで同じと
判断されたのではないから切り口として)ととってよいということになります。他愛ないから「切り口」と
いう表現にしただけで、結果もそうだったといえます。
だから甲賀の和田と美濃の和田は同じでないが、物語化された人物は同じであるとみてよいという
ことと思われます。
和田の和を「輪」とか「羽」とかでもみるのは妥当かは別として、
          和田伊賀守=和田惟政=明智光秀
というのが出てくるにしても「惟政」という名前が付いてくるので、今までのとちょっとちがう叙述の工夫
がされたということができると思います。つまり原型があった
   「野村越中守」=明智光秀
よりも結びつきが強い形です。和田惟政=和田伊賀守=明智光秀であることを語るためにのみ創ら
れたのが和田惟政という人物ではないかということです。これでやれば、和田惟政で知られている
事績がどうなるのかという次の問題が出てきます。

(23)通説の点検2
先ほど、 テキスト人名注では
    再掲
    『和田惟政(1530〜71)  滋賀県甲賀郡油日(あぶらひ)村和田の豪族。
     甲賀武士の名族。』

となっていました。通説となっており簡単に書かれていますので、〈辞典〉から借用します。
ただこの油日は重要語句であると思われますので記憶しておきます。
まずこの1571というのは、元亀二年のことで「和田伊賀守」という表記の最終は元亀元年(1570)
で、このときで終了(〈信長公記〉)です。ただし大活躍は永禄十一年までで終了で、元亀元年分は

  『九月廿三日、野田・福嶋引き払い、和田伊賀守・柴田修理亮両人殿(しつぱらい)に仰せ付けられ』
 
です。〈甫庵信長記〉でも同じで、このときは、太田和泉・明智光秀のペアを表す記号のような、
表記になっているようです。まあいえば太田和泉を示す表記になっているといえます。〈辞典〉から
とりあえず今から、惟政別人でどう読まれているかを追っかけていきます。
 和田惟政と和田新介定利が兄弟とされて和田伊賀守と同雅楽助を受けていますが、太田和泉守
の存在がクローズアプされると兄弟というのが、京都での明智兄弟に行き着くのですがそういうことを
前提にしなくても今の和田惟政の語りからそうならないか、今の惟政の語りに不自然なところ
はないかを見たいと思います。

      『和田惟政(わだこれまさ) 近江
      享禄三年(1530)〜元亀二年(1571)8月28日。
      ■弾正忠、伊賀守、紀伊守、紀伊入道。
      [義昭を保護]
      近江甲賀郡和田村の人。和田氏は甲賀武士中の名家として、六角氏に属していた。
      永禄八年(1565)五月十九日、京都では、将軍義輝が松永久秀や三好三人衆のために
      討たれる。将軍の弟の一人一乗院覚慶は囚われの身となったが、密かに奈良を忍び出、
      細川藤孝らの誘導に従って、甲賀惟政のもとに身を隠した。この事件が、近江の片田舎
      の豪族に過ぎなかった惟政が中央に躍り出る契機となったのである。』〈辞典〉

 下線の部分より前は、一応、和田伊賀守惟政という別人がいたという印象をうけるところです。
生年は太田和泉よりも二つあとであり、二歳違いは微妙なところです。太田和泉を暗示するものと
いえないこともない満年齢と数えの最大差の範囲内です。あとは全文からの判断が必要ですが、■
をはじめこの名前は太田和泉の使用しているものです。「弾正」は、松永弾正が有名ですが「長閑
斎」で重なるようですし、「伊賀守」は伊賀伊賀守、「紀伊守」は千秋紀伊守、池田紀伊守(勝入)、
「入道」は三好山城守笑岸入道があります。ただ和田氏が六角氏に属していたということは事実と
いうことでこれは和田惟政の属性といわれると否定のしようがありませんが、これは和田氏の属性
ともいえそうです。つまり、和田家というのが甲賀にあった、六角氏に代々属していたということが
あるのを踏まえられていると思います。個人名はあとからできた物語が反映されているかもしれない
ものです。〈甫庵信長記〉によれば、江州甲賀郡に和田和泉の館があったのは事実で、和泉は平田
和泉がその前にでており、和田新介と和田和泉は「尾張の和田」によっての繋がりそうです。
〈甫庵信長記〉の
       和田伊賀守、同雅楽助
 という表記を気にしてきましたが、この表記は、弟らしいが、これは弟かどうかはわからない、連れ
合いなるものかも知れないということを出すための道具として出されたものであると取ってきました。
このため丹波(妻木)勘解由左衛門を持ち出してきたという解釈もでき、本当の目的は三淵大和守
と舎弟細川兵部大輔にあった、ということは合っていると思いますが、江戸の考証は兄弟としても
やられて、テキスト注の「和田定利という弟」として
    『実名定利(和田系図)。惟政の弟。』
が出ているわけです。原型となる人がいた、 すなわち、足利将軍家の有力御家人に、和田惟政と
定利兄弟がいて、太田牛一はそれから借名し和田伊賀守を創ったと言うことはいえますが、そうと
いうには余りに、物語的なので、明智光秀を目的とする「和田伊賀守」という表記を創った、つまり
高山飛騨守と同じ扱いのものになるのが和田伊賀守ではないかと思われます。死亡日が判っている
ような細かさは、墓が二つも三つも作られるという細かさであろうと思います。ただそうはいっても「和田」
姓は現に当時あったということは確実にいっている、と思います。
 全体からみてこれが光秀と取れるかということが問題となりますが、ここまでの活躍をするには、通説
の「惟政」が細川藤孝とも関係が深いかったことも説明がされていません。この
  「近江の片田舎の豪族に過ぎなかった惟政が中央に躍り出る契機となったのである。』〈辞典〉
 というにはそれなりの前段があるはずです。唐突なできごとには説得材料がいる、それへの苦心
が払われていないのに通説になってしまっているという感じです。伴正林も甲賀であったし、近江の
甲賀というのが、明智と関係があるのかどうかも関わってきます。のち甲賀の多羅尾氏には
     「玄番」「相模守」「光俊」「光太」「常陸介」「右近」
などの名前の人が出て、「右近」という人物も「佐久間右衛門」と接近し、元亀四年
     「多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉、両三人」〈信長公記〉
が形作られています。後年この「野間佐吉」はテキスト人名注では
  「天正八年五月二十二日、佐久間定栄、津田宗及を招き茶会を開いている(〈宗及他茶会記〉)」
 となっていますから、この多羅尾は右近・丹後守、佐吉、と関係がありそうです。このほかにも
樋口氏に関係がある、秀次事件に連座する、信楽の小川は平田和泉の小川・・・・・など姻戚関係
なども想定される材料にこと欠かないものがあります。秀次事件との関係では明智光秀息女を匿った
というような話が〈武功夜話〉に出ていたと思いますが親類筋というのが出てこない場合でも、有力
与力衆という線は少なくも出てきそうです。明智の息がかかっていたのが甲賀といえます。
これは〈甫庵信長記〉にある六角氏の後藤の騒動の長い記事が読まれていないところがあるので
そんなことはありえないということになっていそうです。佐々木六角氏は桶狭間の年に江北浅井氏
に大敗し以後芳しくない状態がつづきますが、この年(将軍が甲賀へ入った年)より、二年前家老
の後藤氏を滅ぼしたのが致命傷となりましたが、このとき

   『永禄六年に承禎嫡子右衛門督義弼、事の仔細あって、後藤但馬守其の子又三郎に腹を切らせ
    けるに・・・・』

があり、佐々木嫡子が「但馬守、又三郎」の後藤に異常接近しています。このあと後藤の有力家臣
  進藤、目賀田、三井、馬淵、伊達、楢崎、平井、永原、池田、三雲、三雲
が観音寺を立ち退いたというから、この事件は明智身辺にも大きな影響があったということを示して
いると思います。甲賀はこういう観点からもみないといけないのではないかというのが言いたいことで
す。また明智光秀も「和田伊賀守惟政」と当時名乗ってしまったということがあるのかどうか、も一応
気になるところですが「和田伊賀守」二人、明智光秀・太田和泉としたほうが説明しやすく、語りの上
の「伊賀守」と思われます。
下線の部分のところよりあとは太田和泉守の〈信長公記〉の記事によるものですから、この和田氏に
明智が無関係か決め手はありませんが、ここの、甲賀惟政は〈信長公記〉では「伊賀・甲賀路を
経、」となっているだけで、〈甫庵信長記〉は「和田和泉の館」となっています。〈辞典〉の和田惟政続き、
      
      『[義昭の上洛への努力]
       義昭は、近江矢島から盛んに諸国の戦国大名へ向けて書を発する(上杉家文書ほか)
      その中には、尾張の平定を終え、美濃と交戦中の信長もいた。永禄八年と思われる、
      十二月五日付の細川藤孝宛て書状で、信長は上洛への協力を誓っている(高橋義彦氏
      文書)。この書中に「大草大和守(公広)・和田伊賀守申し上げらるべしの旨(可被申上之
      旨)」とある。早くも惟政は、幕府奉公衆で側近である大草と一緒に活動を始めているので
      ある。
       永禄八年より義昭の催促を受けながらも、美濃に対して苦戦を強いられている信長は
      すぐにはその期待に応えられない。同九年八月末、義昭は矢島を抜けて若狭に入った
      (多聞院ほか)。若狭の守護武田義統が妹婿という縁からだが、小国若狭の、しかもすでに
      力の衰えている武田氏には期待できず、義昭は間もなく朝倉義景に迎えられて越前に居
      を移した。惟政は義昭に従って越前に動いた。
       (同十年)十二月一日、信長は大和の興福寺・柳生宗厳・岡因幡守(松永久秀臣)らに
      通信し、近々義昭を奉じて上洛する意思を伝えている(柳生文書・岡文書ほか)。それら
      の書には「時宜和伊(和田伊賀守惟政)可有演説」とある。〈永禄記〉には、惟政がしば
      しば信長へ遣わされて上洛を促したと書かれているが、先に示した十二月五日付の
      信長書状をも合わせ考え、一貫して信長説得を担当していたのであろう。同十年頃には
      信長との繋がりが密接になって、信長の意思を受けて大和にまで赴き、国衆の工作に
      従事しているのである。』〈辞典〉

大草は先の〈甫庵信長記〉の記事で大草治部少輔で出てきていました。「幕府奉公衆で側近である
大草」と書いてあるから前史から降ってきた話と取れるので、これは幕府の人といえそうです。
ただ「大草」が「大和守」となっているのは、「三淵大和守」もあるので資料の性格にもよる話といえ
ます。一方、和田伊賀守は、細川藤孝の側の人と取れるかもしれないから、明智光秀と取れないことも
ないと思われます。
  ○越前にいたという痕跡があること
  ○最終的に織田を睨んで行動いる、
  ○細川とは別の武勇の側面がある
 などがそう思わせるものです。
ここに越前と大和が出てきますが、大和の筒井順慶は
      「興福寺一乗院方の衆徒(テキスト脚注)。」
とされています。表記だけでいえばここで一つ「一乗院」が出てきました。朝倉を頼ったのは、「一乗谷」の
朝倉というようなものがある、この縁により朝倉を頼るというものであったのかどうか。
      「南都一乗院義昭(よしあき)」〈信長公記〉
もあり、いうなれば朝倉と筒井、細川は「一乗」を介した関係があったから、その辺のことが頭に
あって義昭は計画に朝倉を組み入れたともいえそうです。朝倉、筒井、細川、と本願寺というもの
が注目されるべきなのかもしれません。
ここの、柳生文書、岡文書は高木文書とおなじような性格のものと思われます。
 次の立政寺にも文書があり、武井夕庵の古い時代の動向も伝えていますが、このとき以後に誰かが
書いたのではないか、と思われます。高木文書と同じようにおそろしい文書があちこちにあります。
 
     『 [義昭の上洛に供奉]
      いよいよ信長の上洛の用意が整い、惟政は、細川藤孝とともに岐阜へ赴く。そして、
     信長の意を受けた惟政は、村井貞勝島田秀順ら信長の臣と一緒に、義昭迎えの使
     として越前へ下る。
     七月二十五日、義昭は岐阜に至り、立政寺で信長に会した〈公記〉。
     その後、惟政は信長の出陣に先んじて近江甲賀に遣わされ、甲賀諸侍の信長への忠節
     を促している(大野与右衛門氏文書、〈近江蒲生郡志〉所収)。元来甲賀の豪族である惟政
     だから、この役目は当然であろう。
    四月八日にも信長の使いとして甲賀へ行ったことがあり、(山中文書)、惟政の尽力で
     甲賀は早くから信長に協力的だった様子である。しかし、惟政の旧主にあたる六角氏は、
     最後まで説得に応じなかった。信長は九月七日に岐阜を出陣(公記)。惟政も義昭に従って、
     ほぼ同時に岐阜を出発したのであろう。
     信長軍は、まず近江の六角氏の諸城の攻略から取りかかる。惟政は、藤孝とともに信長
     軍に一歩先んじ九月二十三日に入京した。近江衆約一万を率いていたという(多聞院)。
     十月十日、惟政藤孝および佐久間信盛とともに、大和平定のため奈良に入った。
     〈多聞院〉では惟政藤孝を「公方方の両大将」と呼んでいる。
      三好義継・松永久秀をはじめ、池田・伊丹・畠山らは義昭に降り、三好三人衆らは阿波へ
     逃れて、畿内はたちまちのうちに平定された(公記・両家記ほか)』〈辞典〉

 ここは大部分〈信長公記〉の記事の「和田伊賀守」が惟政に変えられて書かれているのがわかり
ますが、「惟政は、村井貞勝島田秀順」となっているのは、明智衆(和田伊賀守・村井貞勝・
武井夕庵)とみるのが妥当です。〈信長公記〉の不破河内が省かれたのは現地の案内係でしょう
から当然でしょう。竹中半兵衛と事績が重なる人物のため、親子重なっているかもしれない、あの
竹中半兵衛Aもこのとき25歳くらいですから、もうひとり立ちしてやっているのでしょうが、登場
が少なすぎるのもこの重なりがるためかもしれません。島田も同じです。「島」ですから夕庵の子かも
しれないともいえます。この立政寺に武井夕庵の痕跡があるのは知られていて、夕庵織田仕官が遅すぎ
る材料とされてるのが少し残念なことで、両方に仕官することがありえます。また親も子息も夕庵と
という表記を使う場合もあるはずです。親子の重なりが無視されているのが多いことは、日本史の
よみ方の致命傷でもあるといえます。
 夕庵が美濃立政寺に痕跡があるそうです。次のことが〈辞典〉に出ています。武井夕庵の項
 
     『はじめ美濃斎藤氏に仕える。十一月二日付立政寺宛て書状(立政寺文書)の付箋には
     「郡上郡」の城主で土岐頼芸より斎藤道三、義竜、竜興に仕える、とある。年未詳の、五月
     二十日付、汾陽寺宛て道三書状、同じく一月二十三日付宮本坊宛て竜興書状に副状を
     発給しており、道三から竜興まで仕えたということは実証される(汾陽寺文書・武家手鑑)。』

です。後年の読者を瞞着することは出来ないので〈甫庵信長記〉に書いてある願文の作成は事実で
あろうと思われます。願文はトップクラスの学識のある武人というので太田牛一か武井夕庵ぐらいしか書け
ないほどのものではないかと思います。
これは年がわからないので、出てくる人物が土岐頼芸から竜興まで長い期間にわたっており、まあ
三代くらいのことが集約されていそうです。斎藤利三が夕庵の義理の父だからその辺の関係までが
匂わされていそうです。

  『利三、平生嗜むところ、ただ武芸の業のみにあらず、外には五常を専らとし朋友と会し、内には
   花月を翫び、詩歌を学び』

 というほどの斎藤内蔵助利三と重なることは当然考えられる、その関係やいかにと問うていることも
ありえます。夕庵の動向が書かれた時期は立政寺に関係が生じたこのとき以後のことと思われます。
武井夕庵は信長が入洛したした年は42歳くらい働きざかりであり、道三、義竜、竜興の時代と重なって
いるので不思議ではないのですが、織田と斎藤両家に仕え得る家柄の人であったともいえると思います
。道家の人らしい、磯貝新右衛門の知り合いです。〈道家祖看記〉で

  『道家尾張守とて、光明峯寺殿御名乗を名字になし下され、美濃尾張三河三ヶ国の御調物、
   又は御自分御知行をも、納め上げ申す者の子孫にて、代々尾張守と申し候えども、今は尾州、
  守と名乗り申すべき風情もなし。近年織田備後守{信秀}に随い、その後信長幼き時よりも
  奉公仕り、国々の目付けを致し候て、・・・・』

ということで前稿の夕庵織田信秀仕官説に合致します。
       「光明峯寺殿御名乗」
というのは藤原道家のことだがこの「道家」を名字になし下されと、あるのは誰がそうしたのかよくわか
りません。〈戦国〉の読者から寄せられた文では

   『 御内書御奉書の取次ぎがなぜ道家尾張守だったのか、内々とはいえ勅使に準ずるような
    貴人の使いを迎える資格と能力をなぜ道家尾張守が持っていたのか説明できます。』

   『要は「道家尾張守」という人物は美濃・尾張・三河の摂関家荘園の「受領」の家系の人物で
   あったのです。すなわち三カ国に摂関家が保有している荘園の「徴税請負人」「荘園管理実務
   責任者」「本所の現地における法定代理人」を兼務していた家系の人物、つまり「尾張守」だった
   のです。そしてその担当範囲は国衙領・院荘園・寺社荘園にも広がっていたのかもしれません。
  
とありました。立政寺の記録は、誰がこの文書を入れたのかこの日付は何なのかが大きな謎になって
くると思いますが、為にするというような高木文書と同類のものではないかと思います。絶対年代を測定
できればグッと後代の挿入と思います。

     『 [摂津守護、幕府奉公衆として]
     十月一八日に念願の征夷大将軍の位についた義昭より、惟政は摂津の三守護の一人
     とされ、高槻城主となった(両家記・足利季世記ほか)
     翌年一月早々、三好三人衆らの軍勢が堺より上がり、六条本圀寺に義昭を囲んだときは、
     高槻より出陣し、池田・伊丹ら摂津衆とともに後巻(あとま)きして、義昭の危機を救った
     (永禄記・当代記)。
     ところで〈耶蘇通信〉の中で、フロイスは惟政を「都及び摂津国両国の総督」、あるいは
     「都の副王」と呼んでいる。摂津の三分の一の統治権のほか、洛中洛外の政務をかなり委ねら
     れていたことは確かである。では、京都とその近辺における惟政の幕政への参加の跡を
     たどってみよう。

     @永禄十一年十月二十一日、禁裏御料所の公事・諸役催促のため、義昭の使いとして
     信長のもとへ(上野秀政と)。続いて、十一月十一日、京都の問屋宛てに折紙を発す(言継)。
     A(同年)十一月二十一日、大山崎惣中に対し、信長軍の乱妨・狼藉を禁じたことを伝える
     (離宮八幡宮文書)。
     B(同年)十二月十六日、松永久秀に対し今井宗久と武野新五郎との訴訟の結果について
     伝える(秀吉ら信長家臣と)(坪井鈴雄氏文書)
     C同十二年二月十一日、堺接収の奉行を務める(柴田・佐久間ら信長家臣および三好・松永
     家臣と)(宗及記)。
     D(同年)三月二日、摂津多田院に対し、矢銭を免除する(信長家臣および三好・松永家臣と)
     (多田院文書)。
     E同年三月八日、山科言継ら公卿より、禁裏御料所の所役について催促される(言継)
     F(同年)六月一日、伊達輝宗に書し、義昭の殿料・馬の所望について、取り計らいを頼む
     (伊達家文書)。
     G同年六月十五日、清玉上人に対し、阿弥陀寺敷地の寺納安堵について伝える(阿弥陀
     寺文書)。
     H(同年)十月二十日、某に宛てて、信長が不承知であることを告げ、その後の処置について
     指令する。(信長家臣と)(反町文書)

     「都の都督」と呼ぶのは誇張した表現だが、@EFGのような幕府の政治や外交の仕事に
     参画していることは認められるであろう。
      それとは別に注目されるべきことは、BCDHに見られる通り、信長家臣と一緒の仕事が
     多いことである。将軍義昭と信長の二元政治の中、幕府方にあって両者の仲介に当たる
     のは、これまでの行き掛かり上惟政の役割だったのであろう。』〈辞典〉
 
 義昭より、惟政は摂津の三守護の一人とされた、というのは「三人」というのがあやしいと思います。
 フロイスは惟政を「都及び摂津国両国の総督」、あるいは「都の副王」と呼んでいる、ということですが、
ここまでくると、和田惟政という一大名とはいえないと思います。ここで高槻城主というのが出てくるの
は高山飛弾守と重ねたといってもよいでしょうが夕庵、光秀ラインの近畿制覇作戦が成果が表われて、
来たといえると思います。高山右近や中川清秀がシッカリやれということで要所に配置されたとみる
べきと思われます。
 ここで〈辞典〉に記載された@からGの資料の内容を全部掲げましたが、これだけの文書が
         「和田惟政」と書いて、「明智光秀」と書かなかった
というのが、この人物が明智光秀であるとすることへの否定の材料になるでしょう。明智光秀が和田
紀伊守惟政と名乗っていたというのが一応はいえる結論です。

 〈信長公記〉で 「明智十兵衛」という表記は、永禄12年の下の再掲表で初登場で、このときの
▲は正式の登場でなく、ヒントを与えるという意味の登場です。正式のもののはじめは、和田惟政
が戦死したといわれる元亀二年の前年、元亀元年で、敦賀表、「明智十兵衛・丹羽五郎左衛門」
の併記があるものです。つまり明智十兵衛は元亀元年からスタートで和田伊賀守は元亀元年を
最後にあと出てきません。
        『  〈信長公記〉           〈甫庵信長記〉

          ●野村越中           野村越中守 野村 野村殿
          渡辺勝左衛門          渡辺勝左衛門
          坂井与右衛門          坂井与右衛門
                           ▼和田伊賀守
         ▲明智十兵衛
          森弥五八             森弥五八郎
          内藤備中             内藤備中守
                             (和田伊賀守)・・・飛び入りの和田伊賀守
                             (三好左京大夫義次)・・・飛び入りの三好義次 』

〈甫庵信長記〉も同様で和田伊賀守は明智十兵衛に引き継がれるという恰好になります。信長上洛
時の大活躍を明智十兵衛の表記で書きたかったのはやまやまですが目に付くので和田伊賀守に
したということはいえますが、名乗りを変えたのかどうかが問題です。将軍から和田姓をもらって箔を
つけた、という事実があったのかどうかです。
 野村越中守が永禄12年から出てきて、武勇譚など出てきていますので物語的な要素をもっている
るのに和田伊賀守という表記は実質的な影響をもっていそうですが、ここの文書に関して言えば
〈甫庵信長記〉をみて、著者が和田という姓を使いたかったということを察して使用したものが多いとも
思われます。惟政を使ったものが多い場合は、名乗ったといえる、和田伊賀守という表記を使った
場合は、〈甫庵信長記〉の解説をしようとして創られた文書が多いともいえそうです。

   『[キリスト教に対して]
   惟政はキリスト教の理解者であり、フロイスら宣教師が最も信頼を寄せた武将であった。惟政
   義輝将軍の奉公衆であった頃、親友だった高山飛騨守の勧めでパードレの説教を聞き、
   以来キリスト教と宣教師に好意を持っていたという。上洛後間もなく、飛騨守より、フロイスが都を
   逐われて困苦していることを告げられ、義昭と信長にその京都復帰を願い出、許された(耶蘇
   通信)。
   その後、フロイスは信長と会見し、キリスト教の布教を許されただけでなく、いろいろな便宜を
   与えられるが、それを実現させたのは惟政の力であるという。
    また、キリスト教を徹底的に憎み、執拗に妨害を重ねる朝山日乗に対して、惟政は身をもって
   宣教師たちを守り抜いたことが、フロイスの筆により最高の賛辞とともに語られている。(耶蘇通信)。
   惟政自身は洗礼を受けずに終わったが、彼はいずれキリシタンになることを決意し、高槻に教会
   を建設しようとしたという(耶蘇通信・フロイス日本史)。
    フロイスの記述はキリスト教への理解という価値尺度により善悪誇張されているから、惟政
   対しても割り引かかなければならないが、惟政がキリスト教のよき理解者として、宣教師たちに
   好意を示していたことは確かであろう。』〈辞典〉

 これは、そっくり「惟政」を「光秀」といいかえてよいと思います。これほどのことができる人物は、
光秀よりほかにはいないはずです。また光秀は武井夕庵の勧めによって入信したことがわかります。
高山右近に影響を与えた人物は夕庵と光秀といってもよいようです。

   『[信長の勘気に触れて]
   永禄十二年十月二十六日、播磨守護赤松の加勢として派遣され、敵の浦上方の城を攻め
   陥す(両家記)。だが、この活躍の後、惟政の名は諸資料からしばらく消える。
   〈言継〉同十三年(元亀元年)三月二十四日条に久々に登場した惟政は、「和田紀伊入道」と
   なっており、去年秋より信長の勘気を受けていた、と記されている。
   フロイスの書簡によると、同十二年十月頃か、日乗が信長に対し、惟政についての虚偽の証言を
   したため信長が怒り、岐阜を訪れた惟政との面会を拒絶した、とある。のみならず、追って信長
   惟政の「好き城一所(芥川城カ)」を破却するという仕打ちに出た。惟政は高槻城に籠もり、翌年
   薙髪したと書かれている(耶蘇通信)。この記述は、惟政に関する資料の中断や〈言継〉の「紀伊
   入道」の名乗りとも符号する。
   しかし惟政蟄居(ちっきょ)の主な原因は、日乗の讒言などではなかろう。同十二年十月、将軍義昭
   信長との最初の衝突があった(多聞院)。両者の間に立つ惟政は、当然二人の仲を修復させる
   べく奔走したであろう。そしてどちらかというと将軍から離れられない立場にある惟政が、信長
   疎んじられてしまったということは、想像するに容易である。
   翌年三月二十四日、久々に勘気を解かれて信長に対面したことは、前述の通りである。フロイス
   書簡にも、この頃惟政信長に招かれて暖かい言葉を受け、衣服を贈られた上、加増を受けたと
   書かれている(耶蘇通信)。
   ★また、同書簡には、同年六月二十八日の姉川の戦いで活躍し、信長に感謝されて、剣を賜ったとある
   (耶蘇通信)。しかし、この戦いに幕府奉公衆が参加した形跡はなく、ちょうど同年同月付で、
   摂津小曾禰春日社宛てに惟政の禁制が下されているのを見ると(今西文書)、フロイスの記述は
   信用できない。』〈辞典〉

 ここなどは惟政という別人がいたかのような印象をうけるところですが、信長と惟政の間に葛藤を
生じさせ、両者の関係を示唆したものと思われます。日乗との対立もそうではないか、日乗は武井夕庵
と朝山日乗二人だと思いますが、そういう接近を通して、色のこと必ず反映させることになりますので
それもあるかと思います。「勘気」「怒り」「面会」「籠り」「薙髪」「入道」「蟄居」「讒言」などが何気なく
出てきています。義昭との間がこの時期ギクシャクしたということですが、信長と細川の間の関係と
みれば説明ができそうです。つまり細川藤孝が荒木信濃守と帰属してきたのは、これより四年後、
元亀四年のことです。とくに★以降の話は惟政別人というのが破綻している感じです。
 
   『[惟政の官名について]
   惟政発給文書の初見である、(永禄三年)三月一日付の大館晴光宛て書状では、彼の名乗りは
   「和田弾正忠惟政」である(古簡雑纂、奥野高広〈織田信長と浅井長政との握手〉所収)。
   その後はずっと「伊賀守」「御供衆」として幕府と通じていた惟政だから、これは自官ではなかろう。
   その「伊賀守」が変化するのは、前述の〈言継〉永禄十三年三月二十四日条である。〈言継〉では
   「紀伊入道」「紀伊守」のまま死に至っている。
   ところが、前述した元亀元年(1570)六月二十八日付禁制(今西文書)
   同年十月二十一日付の三和院(三淵藤英カ)宛て折紙(細川家記)
   同年十二月二日付の大山崎宛ての徳政免除の判物(離宮八幡宮文書)、
   同二年六月二十三日付の摂津牛頭天王宛て禁制(原田神社文書)、
   いずれも署名は「和田伊賀守惟政」または「和伊惟政」である。
  ●〈言継〉に三ヵ所記されているけれど、文書をはじめとする他史料にはないだけに、惟政の紀伊守
   任官は信じるわけには行かない。山科言継の誤記であると判断したい。』〈辞典〉

 惟政の文書の初見が永禄三年、桶狭間の戦いの三ヶ月前になっているので、この永禄十一年
信長上洛のときの大活躍とは8年の断絶があります。信長は桶狭間戦の前に既に上洛しており、将軍
義輝に会っていて、太田和泉の同行は確実です。大館とは面識があったとみてよいと思いますが
大館には
   「大館岩石丸」「大館治部大輔」「大館伊予守」「大館伊豫守」
が用意されています。「岩石丸」は重要と思いますが、とにかく「石田伊予守」があるので「伊予守」
で大館が物語りに組み込まれていると思われ、ここの「和田弾正忠惟政」という署名の入った文書
は後年の(太田和泉か、そのほかの人かは分かりませんが)資料創作ではないかと思われます。
ここに「三和院」が、(三淵藤英カ)とされているのが重要ではないかと、思います。細川家記は
 和田伊賀守惟政と三淵大和守と重ねようとしていると取られても文句はいえないと思います。
今「和田伊賀守惟政」というのは明智光秀が当時そう名乗ったというようなものではないという、こと
をいいたいわけですが、それは「光秀」と「和泉」がこのとき京洛で活動していたということを表すため
に使われたので二人が重なっている感じだからです。細川家記が、ここに「三淵」も隠れているよという警告を
しているのかもしれません。のち惟任、惟住が使われたのはこの「惟政」の「惟」と繋げたと思われ
「和田伊賀守惟政」は高山飛騨守友照と同じように、誰かを原型として創られた表記ではない
と思います。
 「和田伊賀守惟政」なのに「和伊惟政」と署名するのかどうかです。●以下が重要で言継卿は
「和伊」と書いた文献があるので「和伊」の「」は「紀守」の「伊」もありうる、と混ぜ返したといえる
と思います。

   『[復帰後の活躍]
   元亀元年八月、三好三人衆が阿波衆とともに摂津上陸の報を得て、信長は南方へ向け出陣する。
   この時は、三好義継・松永久秀・池田・伊丹らも信長に応じて出陣、惟政も彼らと一緒に中島天満
   森に着陣した(両家記・尋憲記ほか)。この陣中で惟政は熱病に倒れ、死去の噂も流れたという(耶
   蘇通信)。だが、朝倉・浅井の軍が京都近辺に進出との報に接して、信長は急遽退陣を命じた。
   九月二十三日の退陣の時は、健康を回復していたらしく、惟政は柴田勝家とともの殿(しんがり)軍
   を受け持ち、無事大軍を京に引き返させた(公記)。
   三人衆らの軍は、この好機に摂津・河内、そして山城まで進出、御牧城を取った。十月二十二日、
   惟政は、木下秀吉・細川藤孝とともに御牧城を攻めこれを回復した(尋憲記・細川家記)。
   同年十一月二日、惟政は、山城に属する大山崎惣中に徳政を免除している(離宮八幡宮文書)。
   攝津に近接した大山崎の地は、高槻城主である惟政の支配下にあったのかもしれない。
   この年十一月二十一日、六角氏と、十二月十三日、朝倉・浅井氏と、信長は将軍の権威を利用して
   和睦にこぎつける(公記、言継)。十二月十七日付の三雲成持・同定持宛ての惟政の書状があるが
    (福田寺文書)、これは、その直後に発せられたものであろう。
   (奥野高広氏〈織田信長と浅井長政との握手〉の中で、永禄八年に比定しているが、誤りであろう)。
   三雲氏は、かって六角靡下時代の同僚というだけでなく、同じ甲賀郡を本拠にした間柄である。この書状
   の六角承禎への披露を頼んでいるのを見ると、惟政は六角氏との和睦に一役買ったのかも
   しれない。』〈辞典〉

 これは明智光秀と解釈してもよいのではないかと思います。山城=山崎はその属性といってもよいよう
 です。あとでこれは山崎八幡宮造営の記事でも確認されることです。のち山崎の合戦といわれる
山崎は、「高槻城主である惟政の支配下にあったのかもしれない。」と書かれているのは重要では
ないかと思います。ここの「三雲」は明智光秀が野村や武藤姓でも語られているように「三雲」氏と
いう原型があって、それに武井夕庵のことを語らせていると思われます。
   〈甫庵信長記〉表記 「三雲三郎右衛門父子」
                「三雲新左衛門尉、同三郎左衛門尉」
                「三雲左衛門尉」   
 丸毛兵庫頭と同じように子息が「三郎」というヒントを与えている、とともに豊前豊後などの「豊」が
夕庵と関わりあるといっていそうです。〈信長公記〉、鰐口(わにのくち)が出たあと、次のものがあります。

    『佐々木承禎父子、江州南郡所々一揆を催し、・・・・柴田修理・佐久間右衛門・・・野洲川・・・
     三雲父子高野瀬水原、伊賀・甲賀・・・・江州過半相静まり』〈甫庵信長記〉

 太字三人は人名ですが、高野瀬はすでに触れました。「水原」が何のことかわかりません。テキスト
人名注では
      『水原重久 水原氏は近江(滋賀県)蒲生郡出身(〈東浅井郡志〉)』
 となっています。〈甫庵信長記〉では

     『三雲三郎右衛門父子、高野瀬、水原なんどと云う宗徒の侍』

 といっており、「水原なんど」なんどは人名索引からも洩れています。つまりこれが「水原」、しいて
いえば「水原重久」でしょう。「」というから超大もので、これは「水原重久」という「重」と「久」の字を
出してきたことでもわかります。これは前後のことから、
       水原なんどは武井夕庵
という積りで出してきたといえます。これは何のためか、ということですが、結局〈信長公記〉で三回も
出てくる重要表記の
        「永原筑前」
がいまのところ誰だかわからないことからきています。鍵は詰まらないところにあり
      「水原」が「永原」に似てる
ということだと思います。 「永原筑前」はテキスト人名注では
   「実名重康(〈東浅井郡志〉)近江永原(滋賀県野洲郡野洲町永原)城主、もと六角氏の部将。」
 とされています。ここの野洲でも両者は結びつくようですが、基本的に「天永寺」の天沢の「永」から
引っ張ってきて「原筑前」は夕庵関係者と見当をつけたらよいとすべきところ、それだけではおか
しいという反対がなされるのを軽くいなせるようにしたといえるものです。これは応用が利きます。
「永田次郎右衛門」という表記が一回だけ出てきて、あと「永田刑部少輔」という人物が出てくるので
そこにも引っかかりそうです。この「永田」は〈信長公記〉12回くらいの登場ですからたいへんな人物
といえます。テキスト人名注では

   「永田正貞 もと近江六角氏の部将(〈東浅井郡志〉)。」

 となっていますので、永田氏は近江に現存していたのは間違いないことにしても「永田」+大谷
吉隆の「刑部少輔」ですから武井トーンがある人物といえないか、ということがでてきます。江州は
重点地区として早くから進出をはかっていて、一揆でその優勢を覆させようとした勢力があった、と
いえるのが「江州過半相静まり」となったのではないかと思われます。

   『[摂津の擾乱と死]
   元亀二年になると、畿内は複雑な様相を呈してきた。松永久秀・三好義継は、不倶戴天の敵であった
   三人衆と同盟を結び、六月に高屋城に畠山昭高を攻める(尋憲記・信貴山文書)。
   これに対して、惟政や三淵藤英・細川藤孝らは、久秀らの勢力に対抗。惟政は六月十一日に、
   敵方の吹田城を攻め落とした(元亀二年記)。七月には、逆に久秀・義継は攝津に入って惟政の
   城を攻めようとしている(多聞院)。
   摂津の擾乱の中で、守護の一人池田勝正は城を追われ、跡を継いだ重成や、実力者荒木村重
   は、久秀方に付いた。摂津衆の多くを敵とした惟政は、八月二十八日、郡山で池田軍と一戦を交
   え、敗死した(尋憲記・多聞院ほか)。惟政を討ち取ったのは、池田の臣、中川清秀だったという(重
   修譜ほか)。惟政が戦死すると、高槻・茨木・宿久・里の四城がたちまちにして陥ちた(尋憲記)。
   惟政の没年齢については、確実ではないが、〈諸家系図纂〉や〈重修譜〉などに四十二歳とある。
   遺児の愛菊(惟長)はまだ少年だったようだし、大体それぐらいであったろう。』〈辞典〉

 ここで和田伊賀守の表記が消え、明智兄弟の京洛での活動の痕跡が語られて残されたといえます。
惟政を破ったのは荒木村重、これは太田和泉守、討ち取ったのが、親類の中川清秀という顛末も惟
政の物語性を表していると思います。
和田惟長という惟政の子息は
    「愛菊、太郎、伝右衛門」
    「摂津高槻城主」「叔父の惟増を殺した」
    「高山右近と対立。これを殺そうとして格闘となり負傷。三淵藤英の伏見城に避難した(兼見・耶蘇通信)
    。〈耶蘇通信〉には、その傷がもとで、三月十五日、そのまま伏見城で没とある。」
などと〈辞典〉に書かれています。兼見郷もこれに言及しているようです。一方で寛永まで生きたと
いう話もあり、物語のために創られたことも、単なるつくりごとでないというためにこうするのかもしれ
ませんが、高山右近と格闘の話などは、惟長は創られた人物という感じです。
 惟政の弟、惟増も天正元年に殺された(耶蘇通信)ことになっており、こういうのは表記の消しという
ことになるのでしょう。

(24)通説の点検甲(3)
先ほど佐々木承禎が一揆を起こさせたといっていましたが、これはすでに織田の管内にあったので
一揆ということが出てきたと思われます。
   テキスト人名注和田伊賀守につての注
      
    『和田惟政(1530〜71)  滋賀県甲賀郡油日(あぶらひ)村和田の豪族。
     甲賀武士の名族。』

の甲賀の問題があります。
  近江甲賀の「油日」について滝川左近に痕跡があります。〈辞典〉から

   『滝川一益  近江?
    大永五年(1525)〜天正十四年(1586)九月九日。
    出身地と歴史の舞台への登場
     一般には近江甲賀郡の出身とされている。一益が近江甲賀郡の出身であることは、〈勢州
    軍記〉に大原村の出とあり、また、〈重修譜〉に父一勝は滝(油日村)城主としていることから、
    確かかもしれない。だが甲賀出身ということで甲賀忍者の家とする説があるが、これは飛躍で
    ろう。
     幼年より鉄砲を鍛錬し、所々を遊歴して勇名を顕わしたと〈重修譜〉にあるが、信長に仕えた
    のはかなり早く、天文年間と思われる。〈信長公記〉巻首の盆踊りの記事に早くも登場している
    からである。だから、近江出身とはいっても、尾張出身の譜代の臣と比べ、信長との関係の深さ
    において何ら遜色はない。
    ★永禄四年(1561)、織田徳川同盟の時、信長より家康の老臣石川数正のもとへ派遣され、
    和談を進めたという(重修譜)。
     なお一益の称呼・官名については、文書では一貫して「左近」「左近将監」の官名が用
    いられ、他は見られない。「久助」は〈重修譜〉のほか〈太閤記〉にもある。「伊予守」について
    は後述する。・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・
    (「滝川伊予守」について)
     一益の官名については、文書の署名および宛名、それに〈公記〉にもすべて「左近(尉・将
    監)」となっているが、〈勢州四家記〉〈三河物語〉〈木造記〉など後世の書には、「伊予守」で
    登場することがある。
     これを単純な誤記とするのは早計で〈宇野〉や〈言継〉といった一次史料にも「滝川伊予守」
    は登場するのである。このうち〈言継〉にあるのは、天正四年六月八日、山科言継の信長訪問
    のとき奏者を務め、同月二十四日、興福寺別当職をめぐる争いに関し、丹羽長秀とともに上洛
    している人物で、これが一益であることは、ほとんど疑いない。
     また、同三年十二月二十八日、勅願寺である伊勢金剛寺を欠所処分にした「滝川伊予守」
    の違乱を、勅命によって停止したという事実もある(京都御所東山御文庫記録)。これも一益
    である可能性が非常に高いであろう。
     案ずるに、一益は、天正三年七月三日の信長家臣の叙目に際して、「伊予守」に任官した
    のではなかろうか。しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
    依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』〈辞典〉

 ここでいいたいことは滝川についても太田牛一が乗っかっている、甲賀のことも、伊予守のことも
そのためややこしくなっていると思います。★のところも武井夕庵太田和泉の可能性がきわめて高い
と思われます。甲賀および伊予守は太田和泉の属性といえます。

(25)天下布武の計画
 首巻終わりの次の記事が、よくわからない記事です。よくわからない記事は重要といってきましたが
一応首巻と永禄十一年の出だしを結ぶ上で重要です。
 再掲、原文

   『B、去る程に、丹波国桑田郡穴太村のうち長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前
    守与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。或る時、自身関東へ罷り下り、然るべき角鷹二連
    求め、罷り上がり候刻、尾州にて織田上総介信長二連の内、何れにても一もと進上と申
    し候えば、志のほど感悦至極に候。併(しかしながら)天下御存知の砌(みぎり)、申し請く
    べき候間、預け置くの由候て、返し下され候。此の由京都にて物語候えば、を隔て、遠
    よりの望、●実(まこと)しからずと申し候て、皆々笑い申し候。然るところ、十ケ年を経ず、
    信長御入洛なされ候。希代(きたい)不思議のこと共なり。』〈信長公記〉
  現代語訳
    『B さて、丹波の国桑田郡穴太村にある、長谷という城を守備している赤沢加賀守は、内藤備前
    守の与力である。いちだんと鷹好みであつた。あるとき、みづから関東へ下り、すぐれた角鷹
    (くまたか)を二羽求め、都へ上って来るとき、尾州で織田上総介信長公へ、「二羽のうち、
    いずれか一羽を進上いたしましょう」と申し上げると、信長公は、「志のほどはまことにうれし
    が、天下を掌握した折にもらうから、それまで預けて置く」とおっしゃってお返しになった。
    この話を京都でされると、「を隔てた遠からの大望などとんでもないこと」とみんみなお
    笑いになった。しかし、それから十か年も経たぬうちに、信長公はご入洛になった。その
    当時はまことに思いも及ばぬことであった。』〈ニュートンプレス現代語訳〉

とにかく他愛ない話なので、事実関係を優先する読み方をしていると読み飛ばしてしまいます。
表記(意図ありそうな語句)だけ追っかけていくと、
   「@丹波国桑田郡穴太村」「A長谷」「B赤沢加賀守」「C内藤備前守」「D鷹二連」
   「E上総介信長」「F天下御存知」「G京都」「H国 国」「I実」「J十ケ年」「K希代不思議」
 などがあります。
  @〜D明智の丹羽が、E信長のもとでFGH天下を統べるI計を樹てJ十ケ年で実現できた
  のはK世に希なことであつた、しかし不思議なことではなかった、
 といっていると思います。●は訳にあるような国をやりとりするような不遜な、不実なことというのと
 うそのようなこと、という意味と二つに懸かると思われます。太田和泉の大言壮語癖と、事実そう
 だから仕方がないという両面が混ざった、いいにくいところをいった重要なところではないかと思い
 ます。
   
  このBの前段が、次の短い文でした

  A、『公方一乗院殿、佐々木承偵(じょうてい)を御頼み候えども、同心なく、越前へ御成り候て、
    朝倉左京大夫義景を御頼み候えども、御入洛御沙汰中々これなし。去て上総介信長を頼
    みおぼしめすの旨、細川兵部太輔、●和田伊賀守を以て上意候。則、越前へ信長より御迎え
    を進上候て、百ケ日を経ず御本意を遂げられ、征夷将軍に備えらる。御面目御手柄なり。』

 ここの「百ケ日」と後段、Bの「十ケ年」が対比されていると思われます。 
ここに和田伊賀守が出ているのでB、の赤沢加賀守と内藤備前守は太田和泉兄弟といえるので
しょう。しかしBの文の主語(主役)は赤沢加賀守といえます。
    「赤沢加賀守、内藤備前守の与力」
というのは、素直に解釈すると、内藤の寄騎が赤沢で、赤沢は内藤の下位者として認めている、
内藤が夕庵といえるのでしょうがあとはなぜ内藤が出てきたのかを問題にすればよいと思います。
このBの解説が〈川角太閤記〉の最後の「〈信長記〉補遺」となっている次の長い文ではないか、と
思います。それは次のこの文の太字■の部分の意味が、日記風になっていない首巻のことをいって
いそうだ、と思われるためです。またBの東国の二国というのが、わかりませんが「今川」と「北条」の
ことかもしれないとわかるからでもあり、最後に高山右近と内藤徳庵が出てくることもあって関係付け
てもよいのかも知れません。長くなりますが入力してしまったので削るのももったいないので
そのままにしておきます。ここの主役磯伯耆守は浅井の大将磯野員昌に乗っかった太田和泉守と
思われます。浅井と同盟を図ったのは太田和泉のようです。

   『これは要らざることでございますけれども、書き付け申します。〈信長記〉には書いてござい
   ませんことと聞き申しております。その子細は、〈信長記〉にはほとんどが作り立て申したもの
   で、信長殿の家臣の太田又助、のちに和泉守(になった人である)がまだ若かったので
   ■日記帳を付けてはおりません前のことと承っております
    永禄元年(1558)午の年、但し、信長公が二十五歳の御年、尾張一国をしだいしだいにお
   片付けになりました。しかしながら、岐阜と伊勢などと御競り合いをなさっておりましたので、
   尾張の中も時々は御競り合いがありました時のことでございます。
    朝倉殿は、越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より、これも天下を望み、同国観音寺
   山の佐々木承禎などは伊勢・岐阜、清洲は信長殿、三州・遠江・駿河のこのあたり、殊に駿河
   は義元小田原には北条殿。
    このように方々、我々がございます時節、信長殿は御妹(お市)に、江州北の郡浅井備前守
   (長政)を御妹婿になされました。浅井殿の臣下である磯伯耆守の考えだと聞こえ申しました。
    浅井殿の内では、右の伯耆守は一大名でございますから、世間にも聞こえ申すほどの者で
   ございました。たとえば、正月ころ、大きな病気にかかられ、もはや伯耆守は死んでしまった由
   東は北条殿まで伝わり申したところに、大熱を出し傷寒(しょうかん=今の腸チフスの類)を
   患ったので、思いがけず取り直し申しました。その身は
    「夢のような気持ちがいたし、このことを何事も覚えておりませんのが、病気となったのだろう」
   と申すうちに気が付き申しました。親、妻たちは
    「そのことでございます。事の外の大熱でございましたが、さては御覚えておりますかと申す
   ほどの重病でございました。
    と申されておりますところに、伯耆守は心静かに考えておりますと、
    「さては、我が患いは、東へも伝わったか」
   と言って、心安い者たちに、物詣でのような姿にもてなし、東海道筋を(自分の噂について)
   聞き申させ、そのようすは、
    「“磯伯耆守は死んだかどうか”と言っているようすを、どこともなしに、東は小田原まで聞き
   届けて、まかり帰れよ」
   と申し付け、使者が道で聞き立てましたところ、
    「浅井殿の家臣の伯耆守は、大厄病で果てられました。」
   と申すところもございました。
    「いやいや、思いがけずに生き返られました。立願に於いては、日本の神々へ、親二人が
   悲しむので、願を立てて命乞いをいたされました。」
   と取り沙汰いたしました。使者がまかり戻りましたのを伯耆守はよく聞き届けられましたという
   ことです。
    一、伯耆守の内々の考えでは「天下をこの織田三郎信長が一度は取られる」という意見で
   ある。これに御妹がございます由を聞いている。備前守殿にはまだ内儀はおらず、方々より
   縁組のことは申しますけれど、なにとぞ考えて、信長殿と御兄弟に、我が君をいたしたい」と
   思っておりますけれど、とにかく敵でありますので、分別が成り立ち申しませんでした。さては
   東へも(自分の噂が)伝わったことは、確かである。国々へ使者を立て、手引きをして会おうと
   いって、道々城々へ道を乞い申されるようすは、
    「今年の春、思いがけずに患い出して、まことに存命が分からなくなりましたところ、親二人が
   これを悲しんで、神々へ命乞いをいたしましたからか、思いがけず助かり申しました。東は伊豆
   ・箱根・三島の明神、富士の御山へ願を掛け申されました。あわれ、神慮に対して、道の口を
   ご赦免して下され。すなわち、今年の六月を心掛け、右の社参を遂げ申したい」
    と、使者を立てられましたところに、小田原までのあいだの城主たちは、ことごとく合点して、
    「ご病気のようすは承りました。さては神々への命乞いでありましょうか。神慮に対し、通し申
    しましょう。」
     ということで、小田原から江州までの道の口を許可され、
    「それならば・・・・・」
     と言って、その夏に美々しいようすで社参と名付け、まかり下られました。
     道々、城より大変な馳走で、清洲まで付け申されました。あの所で霍乱(かくらん)いたされ
     ました。信長のあたりでは、
    「お医者を頼み申したい」
     と申し上げられましたところ、
    「御道中では、たやすいことでございます。ここでしばらく逗留されて、養生いたされよ」
     と言って、御馳走を残るところなく仰せ付けられ、十五日間養生ということで、逗留されまし
    た。
    ある夜、佐久間右衛門尉殿をひそかに呼び寄せ、談合した子細がございました。
    「承りますと、信長公に御妹がござりますと承っております。浅井備前守もいまだ内儀がござい
    ませんので申し受けたい」
    と右衛門殿へ申し渡され、さっそく(信長の)御耳へ(そのことを)お入れになりましたところ、
    「この間に敵が多くおりますので、道をばなんとか付けることができないものでしょうか。その
    分別さえ確かにある場合は、(話が)進むことでしょう。そうでありますならば、直談いたしまし
    ょう」
    とのご返事である。
    「それならば」
    と言って、ひそかにご対面になりました。伯耆守が申し上げたことは、
    「このたびは、まず、東から通ることにしましょう。北条殿義元、その他の者へ、申すべき
    子細がございます。道の通行をご赦免になったので、やはり社参をいたします。このうえ、
    また御願事を申し上げたく存じます。女どもを召し連れ、夫婦共に社参いたそうとの立願で
    ございます。“来年は夫婦いっしょにまかり下るでしょう”と、東の大名衆へ御願事を申し上げ
    ることでしょう。夫婦連れでありますならば、なおさら別条あるまい、と、道の通行を許し申され
    るので、その合点をよくさせ申し、ただちに下向のとき、御談合申すことにしましょう。」
     と言って、翌日、東へ通り、四カ所の宮々へ社参を遂げ、北条殿義元へ右のご挨拶を
    申し上げ、
     「同じことなら、来年は夫婦連れで下ることを許されますように」
    と断りを申されておりますところに、案のじょう、
     「たやすいことであります。神慮に対しますうえは、御心安く、来年は夫婦連れで御社参
    なされ」
     と約束を堅くいたし、また、清洲で霍乱(かくらん)の気があった由を申し出て、
    「東は、このようにいたしました。来年は女どもを召し連れてまかり下ることにしましょう、と、
    東をば申し決めました。私は女どもを召し連れることはいたしません。乗り物七丁、下女、
    はした女にいたるまで、三十四、五騎を召し連れ、夫婦連れと言ってまかり下ることにしま
    しょう。この女たちを入れ替え申し受け、まかり上がることにします。少しも子細はございませ
    ん」
    (と言うと)、信長はお聞き届けられ、
    「それならば、妹をお目にかけましょう」
    と言って、伯耆守一人を召し連れられた。奥へお入りになり、伯耆守は(信長の妹を)見奉り、
     「めでたく来年の御祝言を整え申しましょう」
    と直談いたし、まかり上られましたということです。
     一、それより岐阜、その他、国々城々へ右の断りを下向のときに申されまして、
    「お安いことでございます。来年は夫婦連れで御下りなされ。分国はずいぶんとご馳走申し
    ましょう」
     と、おのおの約束いたし、国へまかり上げられました。また、来年六月ころ、右の工夫をいた
    、乗物七丁、中に小侍従と申す手書きの上臈衆を召し連れられ、それを妻のようにもてなし、
    国を出られました。案のじょう、城下では、城主の裏方より、音信文などが参りました。その
    小侍従は物書きなので返事をしました。そのようにして道々をまかり通られ東四カ国の社参
    をいたされ、清洲までまかり上られ、御妹を申し受けられ、七丁の乗り物に上臈衆、三十四、
    五人の下女、はした女たちを入れ替え、信長公は、ご自分の上臈衆、はした者にいたるまで
   、御手廻り衆を御妹に付けられ、伯耆守が御供をいたしてまかり上り、下女らは清洲に置き
    申したということです。
     右に申しました小侍従と申す物書きの女まで、乗物に入れ申しました。そのわけは、また、
    城々よりの文などがあったとき、右の筆跡と違わないようにとのためである。浅井殿の領分近く
    になって行きましたので、
     「このように工夫をし、御供をいたし、まかり上りましたので、御家中の年寄り、その他、残らず
    境目までお迎えにまかり出るように」
     と申し上がらせましたので、家中残らずお迎えにまかり出て、その儀式は残るところなく、
    御輿を迎え取り、お城へただちに入れ奉り、その日にめでたく御祝言を納め申しました。
    信長公より、川崎と申す侍が商人などのように、その身、男ぶりを作りなし、小刀なども身に
    つけず、御祝言を見届け、清州へまかり下りましたということです。信長殿は、
    「喜悦はこれに過ぎず」
     と、お祝いになったということです。
      一、江州より東は、北条家まで、伯耆守が工夫したいたした通り、(噂が)相聞こえ
     「さてさて、このような臣下もあるものだ」
    と言って騙されたとは申さず、かえって褒め申されたと聞こえてきました。そのころの取り
    沙汰は、右の通りと聞こえ申しました。なかでも松永弾正殿は、これを感心したことを承り
    ました。今時分の人は、どのようにお思いになるかは存じないことであります。そのころは、
    右のように伯耆を褒め申したと聞き申しましたということです。
     一、浅井殿は、のちに御謀反をなされました。御妹は後家になりました。柴田殿へ遣わ
    されました。秀頼様のお袋は、浅井殿の息女でございます。
     一、子の年、関ケ原の合戦が終わって、ただちに羽柴肥前殿の御家中の高山南の坊
    ーー但し右近のことであるーー、長九郎左衛門、山崎長門守、内藤徳庵、この衆は、信長
    公時代の人でございます。寄り合い、雑談をいたされていると聞こえ申しました。信長公が
    天下へお入りになると、国の関々をお開けになり、往還をただちに、人の(道の)上下するの
    自由にするようにと仰せ付けられましたという。(これは)日本の国々の次第をよくお聞き届け
    になり、六十六カ国を治めることにしようとのお考えである。』〈川角太閤記勉誠社〉

桶狭間の前から、北条と接近しており、味方にすべく努力していた、今川義元対策も怠りなく、もう
呑んで懸かっていたような書きぶりです。西の方は浅井と組んで万全と踏んでいたといえます。
 ここに
     高山右近ー長九郎左衛門ー山崎長門守ー内藤徳庵
 が出てきましたが、なか二人は武井夕庵、太田和泉を出してきて、高山ー内藤で挟んでいる恰好に
なっています。高山右近と内藤如庵(小西飛騨守)は、大阪陣のはじまるころ相次いでルソンに流され
ましたが高山右近の連れ合いは内藤如庵ではないかと思います。
 高山右近については、いまよくわかっていませんが、まずその出自がわかることが肝心ではないか、
と思います。あとはそこからほぐれてくると思います。
 もし、(25)天下布武の計画、冒頭の首巻の終わりの記事Bの部分の解説が〈川角太閤記〉の
「〈信長記〉補遺」の部分であるとしたら、「長谷」が生きてきて、高山右近が「等伯」というのはどう
いう意味か、と考えていると、長谷川等伯として結べないとも限らない、ということになります。長谷川
は徳川も表すような使い方がされた表記でした、ここで明智をもあらわすことがわかったといえます。
 また同じくここにある「角鷹」がわかりにくいので何かをいうのかも知れません。
「角高」でもあり「川角」の「角」にからむのかもしれません。「角鷹」は「くま鷹」と訳されており、「熊」
「駒」「隅」「隈」でもあり、で奥の細道の「武隈の松」の「隈武」ともなればやはり夕庵が出てきそう
です。
川角の「三郎右衛門」は、内藤三郎右衛門の「三郎右衛門」であり、Bからも内藤が浮かび出てきます。
〈川角太閤記〉は高山右近と内藤如庵の著書かもしれません。現に名前が出ているのですから、一旦
そうときめてもよいのでしょう。
勉誠社〈川角太閤記〉の解説では、
  「著者の川角三郎右衛門については詳細ではないが、桑田忠親によれば、田中吉政の旧臣
   であったとされる」
 と書かれています。田中吉政は「兵庫」であり、堀久太郎秀政に叱られたりする挿話があり、高山
と親戚で武井夕庵、太田和泉と同族といえます。これも「田中」の「吉政」と理解するとまた変わって
くるのかもしれません。「田中」は布陣表Aで突然出てきました。「吉政」は「重政」と位置されてもよい
よい程の名前です。田中吉政が秀次、ついで秀吉に仕えるにあたって
    「友田左近」
という人物が絡んでおり、「友」は「夕」、「重友」の「友」で、「左近」は「右近」にもなりかねません。
「旧臣」というのも「親戚」でよいのかもしれません。まあこうと主張するわけではありませんが、いま
何もわかっていないのだから、表記から推し図っていくのは最高のアプローチといえると思います。
 江戸以前の人は、自分の国邑の歩みを知りたくて、わからないことを必死に追いかけたのでその
跡を辿るのはわからないことがわかる早道となるものと思います。           以上                                   
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