1、太田牛一と松尾芭蕉(奥の細道の真実)
芭蕉と他の俳人との違いは、この作品があることによるもの、とされるほど「奥の細道」は偉
大な著作といわれています。それには違いないかも知れませんが、この稀にみる芸術的な
名作といわれる奥の細道には政治的といってもよいくらいの社会的な側面があることは今ま
で全く評価されなかったようです。現代の芸術の背景にも太平洋戦争などの触れたくもない
が起こってしまった歴史が横たわっています。芭蕉の芸術にも戦国時代や、芭蕉が生きた当
時の好ましくない政治事情が絡んでいるはずです。戦国期には朝鮮半島に前後七年間、三
十万の軍勢を送り込んで、彼我に量りしれない大損害をもたらした戦いもありました。たった
一人の人間の妄想によって起こったとされますが、こうなったことへの疑問なども含めて一言
いいたいこともあったはずです。芭蕉がそういうことは脇に置いて芸道の完成に余念がなかっ
たということは考えにくいことです。古人には必ず述べなければならないものがありました。
専制政治の引き起こす恐怖などのことです。
(1)欠点がある名作
芭蕉の「奥の細道」は日数150日、旅程六百里におよぶ大旅行の紀行文で、海外にも紹介されていて世界的名著として定評あるものです。麻生磯次(明治29年生まれ)の「旺文社 対訳古典シリーズ 奥の細道」(この書をテキストとする)では
『芭蕉の紀行文の中でこの作は分量も多く、一生の最後の作品である。芭蕉の
作として完成されたものであり古今の紀行文の中でも、まれにみる名作であると
いうことが出来よう。』
とされており、その文章は和漢混交の、推敲を重ねた、磨き抜かれた、音読したくなるような名文として誉れが高いものです。しかし、
『大体からいえば、表現が簡略化されている。不要なことはなるべく省略して、重
点的にその特質を写し出すという態度をとっている。そのために荒削りな味がな
いわけでもなく、かなり癖もあり、欠点もあり、文法の誤りもあるが、それがそ
のまま特色になっている。』
とも書かれています。この太字の部分は逐条訳をした場合に特に感ぜられたことだと思われます。
(2)語句の欠点
こういうのは、いくら名作といってもはっきり指摘することが必要と思いますが、それについては無視されています。例えば誤字や当て字などが多すぎるわけです。
(ア)誤字・当て字
瑞岩寺=瑞巖寺、 雲岸寺=雲岩寺、 康衡=泰衡、 真盛=実盛、 早加=
草加、 墨髪山=黒髪山、 太田=多田、 在明=有明、 縁記・縁紀=縁起、
順礼=巡礼・・・(太字が奥の細道本文で=の右が合っていると思われるも
の。)
(イ)食い違い(奥の細道内部でのもの)
平泉・平和泉、白川・白河、蓑輪・みのわ、塩竃・塩がま、象潟・象カタ( カタはパソ
コンにない難しい字)・・・・・・・
(ウ)漢字のひらき
千じゅ、黒ばね、あぶくま川、あさか山、みのの国、つるが、すか川・・・・・・・・・
(エ)間違い
有明(温泉)と書いているのは有馬のことで、西行の歌としているもは蓮如の歌で
あり、丸岡天龍寺はは松岡にあるので松岡の天龍寺の間違い(曾良では森岡)・
など奥の細道内部でこのように問題があり、「曾良の随行日記」まで入れると滅茶苦茶といってもよいようです。曾良はカタカナと漢字で書いていますが、奥の細道本文(以下本文という)の漢字と同じ問題があり、本文「大聖持(だいしょうじ)」は、曾良では「大正侍」となっており、おなじく、「汐越」は「塩越」、「酒田」は「坂田」、「種(いろ)の浜」は「色浜」と書いていて、「敦賀」を「ツルガ」とカタカナで書いてあるのは頷けるにしても、上記の「すか川」は「須か川」とひらかなを入れています。一方上の雲岸寺は「雲岩寺」と書いて合っているわけで、曾良は芭蕉より教養があったのか、本当の名前を知っていたということになります。
(3)虚構
また、「虚構性」という指摘が重要です。旅の動機と目的として、
『 @やむにやまれぬ漂白の思いがあった。・・・・・・
A未知の自然への憧れがあった。・・・・・・・
B古人の心を求めたいという気持ちがかきたてられた。・・・・・
C風雅の実体をつかみたいということであった。・・・・・』
と書かれていますが「しかるに」というか「そのため」というか、「虚構」として次のことが述べられています。
『曾良の随行日記が公表されてから、奥の細道の虚構説が盛んになった。紀
行文ならば虚偽はないはずであるが、その中に多くの虚構が発見されるとい
うことは、たしかに興味のある問題である。しかし芭蕉は文学作品としてこれ
を書いたのであって、文学であるためには、その中に虚構があっても不思議は
ない。虚構があるから価値に乏しいというならば、それは事実と真実とを混同し
た考え方である。奥の細道は文学作品であって、事実の記録ではない。
芭蕉は奥州の旅行に際して、もちろん記録をとって行ったに違いない。
しかし彼は作家であって、ただ事実を記録するだけでは満足できなかった。創
作の文学は、存在するものを単純に記録するだけでなく、事実が創造によって
濾過(ろか)されなければならない。記録に拘束される必要はないのであって、
個々の事実は篩(ふるい)にかけられ作者の意に適するように取捨されるのであ
る。』〈テキスト〉
とされていますが、例えば@からCまでのことでは蓮如の歌を西行の歌だとする必然はありません。創作文学に誤字、当て字は必要でしょうか。人にわかってもらうべく読みやすくすべきであろうことは、新旧文学においても代わらないはずです。総じて江戸時代の次の評になります。
『祖翁の文章は和漢の雅言より出てそれに俳諧の風流をまじえ給えば、この細
道の一篇など、打見には(一見して)安らかにして、七歳のわらべの耳にも入る
から(入るものの)、其の意の微妙に至りては八十の老翁も是をよく得る事かた
し。』(蓑笠庵梨一の〈奥の細道管孤(すがこも)抄〉
この微妙なところ、むつかしさが〈吾妻鏡〉方式によっているところから来ています。曾良日記が公表されたのが昭和十八年、一般に知らされたのが昭和三十二年のようですから、明治・大正にもっと知られていたら、この下線のところの真意を読めた人も多かったのではないかと思われます。
(4)〈曾良日記〉も問題
〈曾良日記〉の書き方はきわめて特異です。
(イ)「5 」という字に似た日本語でない語が頻繁に出てくる。
「より」という意味のようですが、これが確実にそうだとわかるのは板坂ト斎(徳川
家康侍医)の書で出てきて「より」とルビが振ってあるからです。これで芭蕉は前
著で出ました「慶長記」を引き継いでいることは明らかです。
(ロ)注が細かい字で、たくさん入っている。
{注}は既述の通りで重要な働きがあります。ルビとしても長い注が入っています。
(ハ)「郎」の右のコザト篇だけという珍妙な字がある。
パソコンでこれを打つと「?」と変換されてしまうので表記できませんが、みればお
かしいことにすぐ気づきます。「南部殿」という場合の「部」が右側だけになって表
現されています。「弥三郎」は「弥三良」と書いていますが、この抜いたコザト篇を
飛ばして「部」に使ったのでしょう。もちろん一箇所だけではありません。
「木」の下に「公」という新しい字を作っています。これは小松のところで出てくる
ので「松」をもじっています。
(ニ)「翁」と「予」という人物が出て「これは誰か」と引き当てが要ると思わせている。
「予」は著者である曾良のようですが、「翁」という人物は曾良とは別行動をしてい
ます。奥の細道の芭蕉とも行動は一致していないようです。芭蕉は那谷から山中
温泉に行っていますが、翁は山中から那谷に行ったかのようです。曾良日記の文
中では曾良は「ソラ」とカタカナで出てきます。
(ホ)欠字がある。
「於口口寺興行。」のように当代記などで出てきたワザと字を抜いたものがありま
す。
これらをみると、もう一つのシリーズで述べましたように芭蕉も〈吾妻鏡〉・〈信長公記〉方式を引き継いで書いていることがわかります。これはもう確実なことで、奥の細道が文学作品であるから虚構もあっておかしくはないということではおさまりません。すなわち曾良日記には日付と事件が書かれ、奥の細道本文が紀行の歌物語になっているわけです。つまり
日付の入った編年体・日記風 物語風
日本書紀 古事記
吾妻鏡 曽我物語
信長公記 甫庵信長記
アーネストサトウ日記 一外交官の見た明治維新
木村世粛日記 世粛らの諸著述・絵画・詩文・俳句
曾良日記 奥の細道歌物語
の連携関係と同じものを創ったわけです。
(5)政治的問題
こういう観点からみると曾良日記は芭蕉が書いた、もしくは曾良とよほど綿密な打ち合わせをして書いたということができます。ただ日記を曾良のものとし本文を芭蕉のものとするには問題があります。まず先ほどの話にあったように、芭蕉も旅の記録をしたというのは普通のことであるし「曾良書留」という書もあることが知られており、これも解説に使われています。また曾良日記と本文とは食い違いがたくさんあります。「どちらがあっているか。」などと言い出すとキリがなく二人どちらの信頼性も失われてしまいます。芭蕉が二つとも書いたということであると、食い違いのない曾良だけは信頼できるということになり、芭蕉がなぜそのように違わせたのかという方向へ論点が移ることになります。また曾良日記には政治的な名前が出てくるので、これは芭蕉が述べたいことであるとすると、曾良に「このように書け」とはいえないことです。例をあげますと、次の本文38越後路にたいする対応がこれにあたります。次のは「奥の細道」を説明しやすいように麻生氏が表題をつけたものです。本文の引用を少なくするため全般にわたってこれで説明をします。
1、漂白の思い 18、笠 嶋 35、三山順礼
2、旅 立 19、武隈の松 36、酒 田
3、草 加 20、宮城野 37、象 潟
4、室の八嶋 21、壺の碑 38、越後路
5、仏五左衛門 22、末の松山 39、市 振
6、日 光 23、塩竃の明神 40、那古の浦
7、那須野 24、松 嶋 41、金 沢
8、黒 羽 25、雄島が磯 42、小 松
9、雲岩寺 26、瑞岩寺 43、那谷
10、殺生石 27、石 巻 44、山中温泉
11、蘆 野 28、平泉 45全昌寺
12、白河の関 29、尿前の関 46、汐越の松・永平寺
13、須賀川 30、尾花沢 47、福 井
14、あさか山 31、立石寺 48、敦 賀
15、しのぶの里 32、大石田 49、種の浜
16、佐藤庄司の旧跡 33、最上川 50大 垣
17、飯 塚 34、羽黒山
この38越後路の本文は次のものです。
『酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々のおもひ胸をいた
ましめて、加賀の府まで百卅里と聞く。鼠の関こゆれば、越後の地に歩行を改
めて、越中の国一ぶりの関に到る。此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病
おこりて事をしるさず。
文月(七月)や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡に横たふ天河 』〈奥の細道本文〉
この終わりの一句は付けたしのようになっていて〈大河〉では、あまりの嘆きから「サカイサエモンノジョウタダツグ」・「サドノカミイエヤス」を弾劾する文章だといいましたが、この句の背景も太字のところ全くよいところがないという陰鬱な調子で貫かれています。こういう文章トーンというのは鑑賞の必要はないのでしょうか。善良な市民である芭蕉が、自己の芸術の完成を期して筆を進めた奥の細道という場で、そんな政権のことなどに言及するはずがないといわれたいのはわかりますが、〈曾良日記〉にはそれが出てきているのです。
ここの本文に酒という字がある、これは曾良日記に「坂田」というあぶり出しがあり「酒井」「坂井」が意識されています。越後という字があるのが特に重要です。ここの九日というのが今でも明確な結論が出されていませんが、「関」という区切りが二つ出てきているのが重要で、「鼠の関」から「一ぶりの関」は越後を指すことは明らかで、その間が九日という意味で、加賀までは「聞く」の範囲内です。その九日の間、太字のような状態がずっと続いたわけです。
「神をなやまし」などという言葉は尋常でなく太古からの何かを踏まえてものをいっている感じです。 33の最上川の本文の記事で、最上川について
『果ては酒田の海に入る。』とあり
『五月雨をあつめて早し最上川』
という句が出ています。また36の酒田の記事で
『川船に乗って酒田の湊に下る。』とあり、
『暑き日を海に入れたり最上川』
の句があります。これは夏の日に「涼しい」という感じが出ているものですが、あとに繋がるものです。最上川を下って酒田へという意識の中で、曾良日記のこのあたりの記述が問題です。六月三日に次の記事があります。
『・・・・・・舟ツギテ、清川ニイタル。平七5(ヨリ)状添方の名忘タリ。・・・・・』
この文の右に小さい字ではありますが長い次のルビが入っています。
『{酒井左衛門殿領也。}{此ノ間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノホウニ有。}』
これが佐渡につながる名前です。この酒井左衛門尉家の領地は、慶長期から越後にあり、そのあと庄内にあります。このことを意識しているのでしょう。この33、最上川の本文記事は
『・・・・・・ごてん・はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。・・・・いな船といふならし
水みなぎって舟あやうし。』
というようになっているのも「酒井」がからんでいるからと思われます。
天明四年1784、木村世粛は画家であり、パトロンといってもよい伊勢長島領主である増山雪斎侯と大坂城に招かれ(当時大坂城番)に会っていますが日記に
『{早朝十時半蔵同伴}登城増山河内守席画{酒井越前守同席}』
というのがあり、この注の{酒井}は付けたしではないかと思われます。同伴した半蔵は十時梅涯という人で本人と河内守の席に梅涯が同席したことは明らかなので、一つは梅涯と酒井越前守と重ねたという意味があると思いますが、もう一つ、酒井から受ける印象は芭蕉から引き継がれていて、なにか今後の予感というものを表していると思います。世粛は〈奥の細道〉・〈曾良日記〉を読んで、いろいろな人と談議したことは確実なことで、それを前提とすれば、あの松平定信(白河楽翁)は越中守なので、そういう眼から、越後・越前を炙り出したものでもあると思われます。
本文の佐渡と酒、〈曾良日記〉の酒井左衛門尉のつながりを読まなければ〈奥の細道〉に肉薄したとはいえないものです。筆者は前著〈大河〉の段階では〈曾良日記〉は全く読んでおらず、本文と加藤解説をつないで佐渡の歌を「サドノカミ」とつなげましたが、〈奥の細道〉だけでも、ある程度完結されているからこうなります。説得材料として〈曾良日記〉がサポートしてくれたということになります。
これをみればわかるように芭蕉は曾良に「酒井左衛門尉の名前を書いてくれ」とは要求できません。芭蕉固有の領域のものですから、〈曾良日記〉は芭蕉が書いたものといってよいと思います。本文は50の大垣でおわりますが誰も感ずるように尻切れトンボで自分の旅なのに、また最重要の書であるはずなのに締めくくっていません。〈曾良日記〉にはその後の行程が書かれています。これは芭蕉が書いたものとしてこそ、この旅が完結します。本文の曾良の句は芭蕉の代作という見解が有力のようですが、この見地から、それは事実ではないかと思います。
麻生氏が奥の細道の解説の冒頭で、
『日本の作家の中で芭蕉ほど生活と芸術とが融合した作家はまれである。したがって
その作品を理解するためには、その生活を十分顧みる必要がある。蕉風を開発するた
めには生活の上でも芸術の上でもさまざまな苦悩が重ねられた。』
と書かれています。蕉風は生活と芸術を最高度に融合させた傑作を生み、それが〈奥の細道〉として出てきたのでしょうが、朝鮮戦役のようなことが起こればその死傷者周辺だけにとどまらず彼我国民の生活などは破壊されてしまいます。こういうことへの問いかけも芭蕉の中にありましたが「天道にそった政治が行われなければならない」ということをいっているだけでは「そうだ、そうだ」でおわってしまいます。
古人は常に具体例を挙げて述べてきています。芭蕉も同じことを考え、史書を解読し目の前の強力政権の成り立ちをとりあげました。そのため徳川を槍玉にあげ対立軸の明智を引き合いに出してより鮮明に述べるということをしています。以下、〈奥の細道〉に明智に傾斜した人物などが登場するのはそのためです。
(6)芭蕉と戦国
芭蕉は〈吾妻鏡〉・〈信長公記〉などを継承していることは前著ならびに今まで述べてきたことでわかりましたが特に戦国時代について大きな関心をもっていたという観点から奥の細道に触れてみます。 現代の前には太平洋戦争があり無関心ではおられないのと同じで、芭蕉もあの戦国が最大の関心事だったわけです。すなわち太田牛一を引き継いでいる芭蕉というものを見たいと思います。
(イ)蓮如
37に象潟のところで「汐ごし」が出てきます。地名ではない書き方ですが酒田から北方へ足を伸ばしたところに出ています。これが46の汐越の松でまた出ます。
『終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行』
濡れた松に月光がきらきら映えている情景でしょうが、これは実際は蓮如の句です。蓮如は戦国では石山本願寺、一向一揆などでよく知られています。象潟が女形の章でここで西行も出てきますが、ここの「汐ごし」が「汐越」「塩越」と連続して、西行・蓮如の重ねになり、また汐越の松はあとで明智光秀とつながります。
(ロ)、太田
42の小松で多田神社が出てきます。小松市本折町にある多田八幡のようです。〈奥の細道〉では
「ただ神社を」「多田神社」と書かずに
「太田神社」
としています。「太田」にルビがあり「ただ」となっています。太田牛一が一時松任に住んでいた、多分身を隠していたことは、どの本にも書いてあります。小松は松任の近くで、今はどちらも市なので確たることはいえませんが、まあ松任郡の小松とかの関係があったと思われます。したがってこの
「小松」は「太田」により、太田牛一が意識されている、またその字(あざな)をもつ
「後藤又兵衛」
を思い出させるものです。
「多」は「太」につながるのは太安万侶(多氏)で確実なようです。加藤解説〈芭蕉全句 ちくま学芸文庫〉に引用されている本文は 「多太神社」となっています。こう書いたテキストが外にあることを示しています。〈曾良日記〉では、ここの小松の松に変な字を宛てていることはすでに述べました。「木」の横に「公」ではなく、「木」の下に「公」を入れた字を使っています。
『しおらしき名や小松吹く萩すすき』
で白い情景でもあります。ここの太田と28の平泉(平和泉)と合わさって
「太田和泉」
が出来上がります。これは意識されていることは明らかで、23の塩がまの明神のところで、
『神前に古き宝塔有り。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎奇跡進(寄進)
と有り。五百年来の俤(おもかげ)今、目の前にうかびて、そぞろに珍し。彼は勇
義忠孝の士也。佳名今に至りてしたわずという事なし。誠に人能く道を勤め、
義を守るべし。名もまた是にしたがうと云えり。』〈奥の細道本文〉
となっていて和泉を特別に慕っています。泉忠衡は秀衡三男で義経に味方し殺された人物ですが、太字のところ名前もいいといっています。ここに太田和泉が伏せられていることは容易に感得できます。和泉三郎の「三郎」も「弥三郎」の三郎に引っかかっていると思われます。ここでそのことに少し触れてみます。
(ハ)、山中(温泉)
44の山中の出だしは
『温泉(いでゆ)に浴す。其功(そのこう=その効き目)有明に次ぐと云う。
山中や菊はたおらぬ湯の匂い 』〈奥の細道本文〉
で始まっています。この句の解釈は、湯の匂いが高いから菊を手折るにはおよばない、という意味と、この湯に延命の効果があるので命をのばすという菊を手折る必要がない、という意味もかけている、とはっきり断定して解説されているのが印象的です。つまり「かけている」ということが認識されている、一つで二つの意味を表そうとしている、ということです。筆者は「菊」と「匂い」は「山中」を染めていることもあると思いますが、ここではそれに触れません。
ここの「有明」は「有馬」の間違いとされ、効き目は有馬温泉の効きめの間違いとされています。山中は山中鹿之助を連想させ戦国につなげている、というと直ちに、それは我田引水だ、局外者の無責任な話だ、とされそうですが、踏み込んでみてもよいことでまた実際そうですのであとで触れます。ここではこの温泉の主のことに注目したいと思いますが、
『幼名久米乃助(くめのすけ)、号桃妖という主の名前は泉屋又兵衛』」
とテキストの脚注に書かれています。〈曾良日記〉には「泉屋久米乃助」として出てくるだけですから、「又兵衛」とあるのは芭蕉の別書に書き留めてあったから判ったはずです。すなわち
[和泉・又兵衛]
が意識されていることは明らかです。また〈曾良日記〉に、このあたりで『道明寺村有』があり、別のところで『{道明淵}・{道明が淵}』という小さい字の注が二つも出てきます。後藤又兵衛の戦死の場所にもつながっています。また本文の
『其功(その温泉の効き目)有明に次(つぐ)』
が基次をもじっているようです。ただこの「道明」と「基次」の話は、ためにする強弁といわれそうですから、また全体を見た結果で判断さるべきことだから、ここでは引っ込めるにしても、
久米乃助を媒体として「和泉」と「又兵衛」が結びついた、
秀衡三男の「三郎」を媒体として「喜三郎」の「後藤」が出てきた〈前著〉、
「三郎・和泉屋」から「後藤又兵衛」が出てくる、
「和泉三郎」の「和泉」が本文の「太田」と結びついて太田和泉が出てきた、
ということになりますが、この「三郎」が濃厚に太田和泉と関係があり、前著宇治川合戦のところでもう一人の「弥三郎」としても出てきました。それが次ぎにつながります。「和泉」とか「又」「三郎」とかいう字は、もう一つの意味を示すものでしょうがここでは割愛します。
(ニ)、酒田と弥三郎
36の酒田に
『酒田の湊(この字炙り出しがあり、むつかしい方の湊の字になっている)に下る。』
〈本文〉
の一文を挟んで前後に、固有名詞が出てきます。これは本文に入っている固有名詞です。
『羽黒』を立って『鶴岡城下』の
『長山重行』に迎えられた。『左吉』が同行した。
『酒田の湊』を下って
『淵庵不玉』のところに泊った
と書いており、次の句で締め切られます。この句の『あつみ山』『吹浦(ふくうら)』も場所を示しています。
『 あつみ山や吹浦かけて夕涼み
暑き日を海にいれたり最上川 』〈奥の細道本文〉
『鶴岡城』は庄内藩酒井家の城です。
『長山重行』は俳諧仲間で酒井家の藩士で、『淵庵不玉』は知人の酒井家の藩医です。
あとの地名の固有名詞は酒井家領地の範囲を表していると思います。その範囲は
@内陸の羽黒、最上川下って酒田湊、
Aそこから海岸沿いを北へ(秋田方面)吹福(象潟の方)まで、
B海岸沿い南(越後、新潟の方)へ、あつみ(温海)まで、
となるはずです。
『左吉』は本稿の順序では次に出てきます。ここで「夕」という字、暑さを海に流してくれたという涼感のする最上川が出てきました。このあと38の越後路で、〈曾良日記〉に佐渡とからんで越後藩の{酒井左衛門尉}が出てきたことは既に述べましたが、それに先立ち、ここ36で出てきた酒井を受けて庄内藩藩主も〈曾良日記〉に注記されています。六月十六日〈曾良日記〉
『・・・・・・小砂川、御領なり。庄内預り番所なり。・・・・・・塩越迄三り。関とい
う村有り。うやむやの関成りと云う。』
この文の下線の部分にルビとして
{是5六郷庄之助殿領。}
というのが入っています。こういう表現をしたのは、おそらく芭蕉の当時の酒井左衛門家の領地だったからだと思われます。こういう流れが〈奥の細道〉の底にあるわけです。 37の象潟まで足を伸ばしましたが
『象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみくわえて、地勢魂をなやますに似たり。』
という陰鬱な調子で終わります。こういう「うらむ」とか「悲しみ」とか「魂をなやます」というのは、意味あるものとして、「その心」を読み取ろうとしなくてはならないと思います。そうでないと、こういう叙述が多いので「鬱」状態になることが多い著者の紀行文という鑑賞をしたことになってしまうはずです。感情の直接的表白は技法の一つかもしれないわけです。またここ「象潟」で、突如
『みのの国の商人(小さい字)』の
『低耳(ルビ=ていじ)』
という人物が出てきます。〈曾良日記〉ではこの人物は
「弥三良低耳」
となっています。コザト篇が飛んでしまった「弥三郎」です。このあと、前出38の「佐渡」が出てきた越後路のところでも、〈曾良日記〉で
「弥三良」
が出ます。この前の日、酒田を立った日に、〈曾良日記〉で
「近江屋三良兵」「宮部弥三郎」
が出てきます。これは「近江屋三良兵」が前日小さい字の注で出てくるから、セットで考えてもよいというような操作がありそうですが、とにかく「宮部弥三郎」は「低耳」の本名のようですから、その人物はみのの国に関係があるのです、したがって弥三郎は美濃の「弥三郎」で、それが酒井領に明滅しているのです。すなわち
「美濃の弥三郎」と「越後・庄内の酒井」
との対峙を打ち出したといえるのです。13の須賀川に『世をいとう僧』が出てきますが、脚注では本名は
「梁井弥三郎」
という人とされています。
要は〈曾良日記〉では、コザト偏が飛んだ「弥三良」ばかりが出てきました。またコザト篇だけの「部」を作っていることから、「弥三郎」を特別に取り上げたことは確実です。一つあっただけでも決定打といってよいでしょう。
ほかにも堺田では{和泉庄や}に泊ったり、また45の「全昌寺」というところは「泉屋」の菩提寺というように「弥三郎」は間接的にもたくさん出てきます。信長公記のあのおどり張行の「祝弥三郎」、甫庵信長記の「下方左近」幼名「弥三郎」、宇治河を渡った二人目の「弥三郎」などが意識されているのは明らかで、今までの私の読み方を芭蕉が支援してくれているものです。
(ホ)、石田
32の大石田というのは
『最上川(舟に)のらんと、大石田と云う所に日和を待つ。●』〈奥の細道本文〉
となっていますから、地名のようです。〈曾良日記〉には平泉のところですでに「大石田{乗船}」というのが出てきましたから、これは予定でしょうか。どうも違うようです。この本文は33の最上川の前に出てきましたが、最上川のあと
『図司左吉と云う者を尋ねて、・・・・・・・・・・』〈本文〉
という文が出てきます。要は〈曾良日記〉に「大石田」が、本文30の尾花澤から33の最上川までの間に七回も出てきます。地名のようであり、大石田平右衛門・大石田一英のように人名のようでもあり、です。これにつれ〈曾良日記〉には、左吉もよく出てきて、本文の「図司」は左吉という名ではないこともわかってきます。〈曾良日記〉に
『図司藤四良、近藤左吉舎弟なり。』とあり
『{近藤左吉観修坊}』
という注書きも出てきますから、図司左吉は合成名で芭蕉が意識して間違ったようです。もう明らかなことですが、「名将言行録」から引用します。
『石田三成(かずなり) 隠岐守政成の子・・・・・始め宗成、後今の名に
改む・・・・・・・・・・・初め佐吉と称す。 』
となっています。父の名は正成とも書くはずですが、「大石田と左吉」が出てきて石田三成が
酒井左衛門家や
伊達家(〈曾良日記〉で「正宗」とか{伊達}が出てくる、本文でも「伊達の大木戸」が出る)
と交錯するわけです。この背後に「弥三郎」が見え隠れするというものです。●のあとの文が謎の部分です。
『爰(ここ)に誹諧の種こぼれて・・・・・この道にさぐりあし(探り足)して新古ふた
道にふみまようといえども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。
このたびの風流爰(ここ)に至れり。★』〈奥の細道本文〉
俳人が俳諧の字を間違っており、大石田にそんな古き俳諧の種がこぼれたというような唐突な話は素直に受け入れられません。芭蕉だから文句をいわれずに済みますが、わからないことは事実です。全国多くのところで芭蕉を知る人材がいて、こういう努力は他のところでもされているはずで、ここに限ったことではないでしょう。
太字のところ、ここで新古というのは蕉風・貞門談林風というような大きなこととされるので、大石田でこんなことをいっている、変なことをいっていると疑問をもってみなければならないところです。これは一つ、「サドノカミ」に対峙した勢力、
「石田三成」
を述べているので気づいてほしいというものがあると思います。また、奥の細道に、のち「洛の貞室」と呼ばれ、松永貞徳のあとを継いだ正章のことが出ますが、「サドノカミ」に対する松永貞徳のこともいっている、すなわち芭蕉は自分の立場を弥三郎・石田三成や貞徳などと同じ位置にいるということをいっていると思います。
まあこれは推定ですがここは大石田に小石田がからんでいるのではないかと思われます。すなわち「洛の貞室」(京都の貞徳夫人)といわれる正章の正体がわかりません。ひょっとして石田三成の子息とかの身内といっているのかもしれません。★のあとの文は「最上川はみちのくより出(いで)て、山形を水上とす。」と続き、普通の流れになりますので、●のあとの文★までは、すなわち爰から・爰までは一区切りで、どこかのものがここへきて、また戻さなければならないと思いますが、これについては別の稿で触れたいと思います。
(へ)夕庵
〈奥の細道〉に武井夕庵が出てきます。これは重要な話ですが、ウソと取られかねない話でもあるので次稿「夕庵」と〈奥の細道〉で特別に触れることにしました。はじめに「汐」が2回出ることをいいましたがこれは、「夕」が暗に示されています。先ほど「夕涼み」の「夕」もありました。43の那谷で有名な
『石山の石より白し秋の風』〈本文〉
という句が出てきます。これは27の石巻、28の平泉、31の立石寺、32の大石田などに続く「石」ですが、突然紫式部、近江石山寺に連想が飛びます。真田幸村と対談する「石庵」が、太田和泉守の出てくる「慶長記」に載っており、これについては既に述べています。また芭蕉では近江は丹波と重なっていました(前著)。またこの「秋の風」も夕庵に関係があります。ここではこの程度にしておきますが「太田」が出てくる42の小松の前に、41の金沢があり、ここに夕庵のヒントが集中して出てきますが、その登場は具体的には、小松へ入る前日、
『竹意同道』
として〈曾良日記〉に出てきます。先ほどの泉屋又兵衛の父の俳号は武矩(たけく)というそうですが、これは関係ないかもしれません。
(ト)策彦
37の象潟で、
★『闇中に莫作(もさく)して、雨も又奇也とせば、』
という詩の一節が本文に出ますが、これは、天龍寺の僧、策彦周良の引用とテキストに書かれています。〈甫庵信長記〉で策彦和尚について
『碩学多才の活僧あり。殊に大明再渡、和漢両朝の達人なる由、世挙って
云いあいければ、信長公より安土山の記を御所望有りけり。』
とあり、安土城の讃を依頼されています。策彦はこれに対して岐阜城下の南化和尚(玄興)という名僧を推薦し、譲り合いとなりますが、結局、南下和尚が引き受けて作文しました。すばらしい文を書いた、と小瀬甫庵が賞賛し全文掲載しています(この文の中で「ノ」を「へつ」と読ませている)。御礼の使者は、策彦には二位法印(夕庵)が、南化和尚には狩野又九郎が出向いております。この南化和尚への使者は状況からいえば南化和尚と著者の接近からみて、太田和泉ではないかと思われます。この記事のあとの一節で、突然、三木城のことが出てきて、本能寺で戦死した中尾源太郎が使者として派遣された記事が入っています〈甫庵信長記〉。この狩野又九郎も本能寺で戦死しています(〈信長公記〉・〈甫庵信長記〉)ので、〈吾妻鏡〉の「狩野・介」という一匹狼を思い出して、その名前を借りて、「又」を付けて自分を表したものと思われます。南下玄興と太田和泉は親交があったのは間違いないでしょうが、策彦と玄興の関係は今は(主著だけでは)わかりませんが、ここだけで決めるとすれば親子ではないかと思われます。★は戦国の狩野又九郎を思い出して芭蕉が書いたというものでしょう。ひょっとして太田和泉は狩野派の絵師だったのかもしれません。「中尾源・・」も芭蕉に関係があったかと思います。
(チ)多賀氏
21の壺の碑で多賀城が出てきます。また市川村も〈信長公記〉市川大介の命名に関係があると思います。
『壺碑(つぼのいしぶみ)は市川村の多賀城に有り。』 〈本文〉
となっていて、たいへん感激して『泪も落つるばかりなり。』で締めくくられています。
〈信長公記〉に天正七年、
『四月十五日、丹波より維任日向御馬進上の処に、則、日向に下さるの由にて御
返しなされ候。』(この記事の内容が珍妙)
の記事があります。その次の記事が
『四月十七日(四月十六日は記事なし)』で関東常陸国多賀谷修理亮が馬を献上して喜ばれた記事があります。
多賀谷氏の馬献上も唐突すぎます。ここで信長公記では佐々木と佐々内蔵佐も出ます。夕庵は便宜上佐々孫介とも重ねられ、佐々成政とかなり接近した場面も出てきます(甫庵信長記)。佐々木と佐々(余吾氏)は近江に関係し、多賀氏が近江の佐々木と絡んでいます。 そのあと
『四月十八日』に森乱が登場します。
すなわち多賀が森蘭丸と明智光秀に挟まれているので、多賀という語句を特別に取り上げていることになります。一つは多賀が一族であることを示しており、あの藤堂高虎の母方の姓が多賀氏です。太田和泉が森三左衛門なきあと藤堂家に入ったというのが前著での筆者の推定ですが、芭蕉を語る場合に最初に出てくる関係者として有名な藤堂新七郎家の蝉吟公は、太田和泉の曾孫だと思われます。
〈信長公記〉で安藤伊賀守が伊賀伊賀守に突然名が変わっています。安藤の娘婿は土岐氏の竹中氏です。不破の喜多村氏が竹中半兵衛と濃厚に重なっており、この不破氏が〈信長公記〉でよく出てくる不破河内守とつなげられています。藤堂も多賀も近江の佐々木につながりますが、安藤=伊賀=藤堂(伊賀の地)=多賀=明智=森=竹中=喜多村などの関係が窺われます。これは江戸時代の文人が鎌倉で述べた尊卑分脈の要領でヒントを提供しているので関係づけられることです。
ネットで真正町真桑駅のところをみますと、ここには安藤伊賀守の本拠があり、この地に芭蕉ゆかりの人が集まって美濃俳句を起こしたといわれています。芭蕉の句集には真桑瓜の「瓜」が「爪」のようなあぶり出しもあり、前著で述べた「瓜」「美濃」は関係があるようです。奥の細道にも「瓜」が出てきます。「瓜二つ」の意味があることはすでに指摘されていますが、次の「二木」にもそのことが結びつきそうです。また、この一節で「此城(このしろ)」は、
『神亀元年、按察使(あぜち)鎮守符将軍大野朝臣東人(おおのあそん
あづまひと)』
が置いたという記事が本文にありますが、これは大野果安の子のようで、
「大野果安」の「大野」
は「安麻呂」と結びついて太安万侶が出てきたことは〈前著〉で述べました。あとで太田(多田・多太)神社を注目させるために、ここで太安万侶を出してきたと思われます。
この「多賀」にはもう一つ明智一族の大ものが絡んできて、そのことを先にここで述べるべきだと思いますが、そこへ行くまでに余りに多くの曲折がありますので、いずれ触れることになります。この「多賀」または「たか」を記憶しておくとよいと思います。
(チ)挙白
19の武隈の松のところが重要だと思います。「武」も「松」も夕庵に関係があるのでこのことはあとにしますが、19の武隈の松、20宮城野、21壺の碑、22末の松山も戦国のことをいっているのは間違いないところです。ここに挙白が出てきますが「挙白集」というのは木下長嘯子という戦国期の武将の「家集」で芭蕉の愛読書の一つです。19の武隈の松において本文では
『武隈の松にこそ目覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿
うしなわずと知らる。先ず能因法師思い出(いず)』
結局能因法師以外も思い起こすことになって挙白が出てきます。
『めでたき松のけしきになん侍りし。武隈の松みせ申せ遅桜、挙白と云うものの餞
別したりければ、
桜より松は二木を三月越シ』〈本文〉
この挙白はテキストでは草壁氏、芭蕉の門人となっています。あの挙白集というものを思い出させるための人選でしょう。ここは挙白集の句で餞別したという意味かもしれません。この句の句意は
『遅桜の頃、江戸を立つ時から、見たいものだとあこがれていた武隈の松を三月
越しに見ることができましたよ、という意味である。「松」に「待つ」をかけ「三月」
に「見き」または「見つ」の意をふくめている。』
とテキストの脚注に書かれています。すなわち芭蕉は引っ掛けてものをいっている、と断定されています。それならば「みつき」は「二木」があるから「三木」を懸けているというのも合っていると思います。根は土際より二木というのは兄弟をさしていないか、もう一つ「松」で夕庵ということでもあれば「三木」は三兄弟を表しているとなりますが、それは別の機会のこととして、ここは「みつき」は「三つの木」=「森」と、播州の「三木」を引っ掛けていると思います。こういえるかどうかは、要は挙白と「三木」がつながるのかどうかで、このあとの稿で触れています。三木は秀吉の有名な飢餓作戦で落城した悲劇の城で〈信長公記〉などにくわしいものです。太田牛一の嘆きが伝わってくる印象の深い地です。また、ここに後藤又兵衛の伝説が残っています。吉川英治の太閤記に出てくるので知られていますが、三木城落城に際し、後藤将監基国という人が、赤ん坊の後藤又兵衛を寄せ手の黒田官兵衛に託すというくだりがありました。また芭蕉の句で、〈奥の細道〉ではありませんが「加賀の国を過ぎるとて」と題して
『熊坂がゆかりやいつの魂祭(たままつり)』
という句があります。熊坂は熊坂長範という大盗賊のことで、美濃赤坂の宿に金売り吉次を襲い牛若丸に討たれたといわれている人物です。句意は「いつ弔われるのか」というあわれみ、といわれています。熊坂長範の故郷であると伝えられているここは「山中」から二里の「大聖寺に近い江沼郡三木村」にあることが解釈上見落とされていようです。熊坂は架空の人物でしょうがこちらは現実にあった、なくもがなの悲劇です。挙白から、三木が意識され、戦国の語りになっているものです。
(ヌ)光秀・本多
加賀・越前の境、46の汐越の松で二回目の「汐越」が出てきます。これははっきり戦国期とつながっている話です。昔、明智光秀がここで次の歌を詠んでいるのです。
『満潮(むつしお)の 越してや洗う あらかねの 地(つち)もあらわに
根あがりの松』〈明智軍記〉
このとき光秀に同行したのが越前の福井県丸岡町長崎にある称念寺の園阿上人です。〈明智軍記〉の光秀の載っているところは、「西行」も出てくるし、「丸岡」も出てきて、〈奥の細道〉と背景がよく似ています。
このとき光秀は吉崎、加州山代温泉、敷地の天神、山中の薬師、那多観音などへ行っています。
〈明智軍記〉は元禄六年頃の成立ということで、奥の細道が元禄七年ごろということから、〈明智軍記〉を書いた人は芭蕉と同時期の人で芭蕉に近い人ということができます。全国を行脚した俳人の行跡が明智光秀のやや荒唐無稽な足跡伝説と重ねられていると思われます。
もう一つ46の汐越の本文では丸岡天龍寺の長老と会いますが、天龍寺が松岡にあるので「丸岡」は「松岡」の間違いとされています。〈曾良日記〉では「森岡」とされているのがそうかと思います。「丸岡」をわざわざ間違って出してきたのはどういうことか、今までも間違いは何か企みがありました。一応考えてみなければならないと思いますが、丸岡で、すぐに思い当たることがあります。これは短い手紙の代表として有名な、実は女形の文の代表である、
『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』
の話が丸岡城に関わっています。この「お仙」というのは「仙千代」で丸岡城六代藩主成重の幼名といわれています。これは徳川家の「鬼作左」といわれる本多作左衛門重次が戦場から妻に送った手紙とされているもので、短くて有名であるとともに、女形という観点からみれば、たいへんな傑作だと思います。作左衛門は三河武士で三河後風土記に「徳川秀康」(秀吉の養子)に絡んで出てきますから芭蕉は当然知っている人です。(以下ネットの挿話を参照す。)
ただこの話の「仙千代」という名前は森家の五男(つまり坊丸・力丸の下)という忠政の幼名でもあり、森忠政の名前は「忠重、一重、長重」とぼかされ、おまけに「成重」によく似ているのですから当然引っかかります。
曾良が丸岡と森岡と間違っていることもあり、信長公記の「仙千代(世)」のあぶり出しから「仙」と「千代」の意味を意識させるためもあった、など考慮するとこの挿話は、もとは芭蕉らが森家のことにして創った挿話が、森の名前をあからさまに出せないため本多作左衛門と成重との関係に転用されているのかもしれません。もし森の話なら、この妻は誰かという問題に発展し、森三左衛門=太田和泉の関係を浮き上がらせることができそうです。以下、転用されたのかどうか、その可能性などについて「一筆啓上作左の会」のネット記事などをもとにして話してみます。
本多作左衛門と成重の話は百年後の享保のころの大道寺友山の「岩渕夜話」に出ている話が最初のようです。句の内容も
『一筆申す 火の用心 おせん痩さすな 馬肥やせ』
として紹介され、これはよく知られた句と内容が「似て非なり」少し違っています。著作権侵害して、少し変えてあるのは継承のサインです。どちらが先かという問題はありますが、一応「泣かす」が、元としてよいようです。
一方、本多作左の場合も、手紙を妻に出したというその妻は誰かということが重要問題となります。これは「お濃の方」といわれているそうで、「美濃」が絡みそうです。鳥居元忠の娘とされていますが、これは操作のある書き方がされていますので取り上げないほうがよく「忠」に注目といっていそうです。
ややこしいことに本多忠勝の子が美濃守であり忠政です(前著=慶長記引用)。美濃生まれの森忠政と同じ忠政です。だから友山は、お仙というのは忠勝の子の方をいっていることになります。この本多忠勝の本拠は上総国の大多喜です。また本多作左衛門は晩年、上総国の小喜多(小井戸郷・北原庄)に蟄居したという話があり、本多忠勝と重なりながら、少し違うかなという感じのものとなります。要は友山は、作左の妻は本多忠勝で、お仙はのちの美濃守忠政だ、といいたいようです。お濃というのは忠勝で美濃守の母という意味でしょう。重次と忠勝は世代が同じで当時の社会ということを前提とすればこういうことはありうることです。
また本多忠勝の妻は於久と乙女というようです(ネット)が、こういう社会にはふさわしくない人格なき表記となっています。これは忠勝を男性とした場合に二人ということにしていると思います。つまり於久の子は父方の子、乙女の子は母方の子(つまり忠勝の実子)ということを表す技法ということがまず考えられることです。乙女の長子(本多忠政の姉)は戦国の有名な話の主人公です。前著で述べましたが関ケ原の合戦で真田昌幸・幸村父子が本拠に取って返したとき、これを遮ったのが徳川に付いた信幸の夫人です。この話は戦国時代に生きた人の資料(慶長記)に出ていました(前著)。この夫人が本多忠勝の娘で、この人の名前が小松というそうです(ネット)。
こういうことから、二人の忠政(お仙)は同じのようで同じでない、ことから二つのペアが浮き出てきます。お仙と小松によって
夫婦 子
森三左衛門=太田和泉 小松=後藤又兵衛 お仙(森忠政)
本多重次=本多忠勝 小松=信幸夫人 お仙(本多忠政)
という引っ掛けをしたと思います。これでやっと本多忠勝夫婦がわかったということになると思います。本田忠勝の戦の強さと、政治家としての力量はこの二人の二人三脚が生み出したものかもしれません。戦後、身に代えても、と真田父子の命乞いをしあのが本多忠勝で、、そのため真田父子は助かりました。家名の存続のために敵味方に分かれたというのでは、姻戚の本多からそこまでのことが出てくるか疑問です。鍋島もそういうことをして、あの英雄の直茂もウロウロしています。結果真田家が残ったということで戦略ということになっていますが、忠勝は徳川の行き方に疑問をもっていた、大久保彦左衛門のような立場にいた、真田昌幸・幸村も同じだったのではないかと思われます。芭蕉は「お仙」の故事は知っていたものと思いますが、この手紙文が非常に出来がよいものなので、ひょっとして、本文の丸岡に間違いがあったことから、森をテーマに、この話を最初に創ったのは、〈曾良日記〉に出てくるようなたいへんな数の芭蕉の仲間の数人かもしれません。「森」のものが芭蕉らによって、「本多」のはそれを引き継いだ大道寺友山によって作られたと感じられます。とにかくこの小松など〈奥の細道〉の北陸の地は特に戦国色が濃厚に出ました。
(ル)木下
20の宮城野の出だしは仙台が出てきます。ここでは二人の人物が出てくると思います。
『・・・・・・・仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿をもとめて四五日逗留す。』
爰(ここ)に画工加右衛門と云うものあり。』〈本文〉
ということで表向きこの一人です。もう一人
『日影ももらぬ松の林に入りて、爰(ここ)を木の下と云うとぞ。』〈本文〉
が出てきます。これは一つ前19の「挙白」を受けています。つまりあの挙白は木下長嘯子のことをいっているといっています。戦国のことを述べている、という注意でしょう。
ただ戦国ということでは長嘯子では一般には少しわかりにくいので、戦国の代表的人物、あの木下藤吉郎と取ってもらってもよいという伏線を敷いたようです。
藤吉郎と松の下の、松下嘉兵衛(なかには「加兵衛」で記憶している人もいるかもしれません)とは付き合いがあるので、加兵衛からも藤吉郎秀吉がより強くイメージされ戦国を連想する人があるという配慮かもしれません。
「加右衛門」(曾良日記では加衛門)と「嘉兵衛」
とは違うではないか、おかしい、といわれるかもしれませんが、「加」と「嘉」の違いは同一視してもよく、加右衛門と加兵衛の違いも、あまり重視することはないと思われます。太田牛一のことを
「孫兵衛」といったり「孫左衛門」、「孫右衛門」
といったりしますのでとくに問題ないことと思われます。とにかく古来から「木下闇」は一つの言葉として使われてきているので「木の下」を古歌にある「木下」と取って満足してしまいます。ここは「木下闇」「木下露」などという属性言葉を取り上げていると共に、もう一つのテーマ戦国もいっているので「松下」で切り口提供と解してよいことです。
『紺の染緒つけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ風流の
しれもの、爰(ここ)に至りてその実を顕す。
あやめ艸(ぐさ)足に結ばん草鞋の緒 』〈本文〉
現在の解釈では、ここの意味がわかりません。草鞋二足を餞別としてくれた、そのことで加右衛門がなぜ「風流のしれもの」としての本性をあらわした、といっているのか、それぞれが適当に解釈してほしいといってるのではないはずです。
一つは下線の三つの語が、意味があると思います。つなげると、画工加右衛門=木下長嘯子=二足の草鞋(わらじ)となります。二人は「二足の草鞋をはき」それぞれの分野でも一流の人物であったという意味があるでしょうし、加右衛門は木下長嘯子と重ねられる(大もの)ということもあると思います。ここは「大淀三千風」という俳人を訪れたくだりですから重要です。芭蕉は九州や中国路や四国は行っていないという話ですが、この人はこういうところも奥州路、北陸路などへも足を伸ばし紀行文を残し、芭蕉もそれを参考にして書いているのですから大俳人といってもよい人です。これが二足の草鞋をはく「風流のしれもの」の一つでしょう。
しかしこれらは本星ではないといってもよいかもしれません。ここで一人の二足の草鞋をはいた大ものを隠していると思われますので、それが述べられる段階に来るまではここの話しは締まらないようです。いずれにしても、ここは、戦国と大きく関連付けられた一節であり、もう一つ、芭蕉が曰わく、いい難し、しかし一言いいたいというものがあると思います。出だしの
『旅宿をもとめて四五日逗留す。』〈本文〉
は、文章が矛盾しており、仙台(伊達)と絡んで宿泊先もままならないと文句をつけています。最後の一句の句意は「あやめくさ」は邪気払いで、テキストでは
『自分もあやめ草を足に結んで道中の無事を祈りながら出立しよう。いただいた
草鞋には紺の緒がついていて、足ざわりも柔らかく、また蝮(まむし)も紺の香を
嫌うというから、という意である。』
とされています。句意まで触れて援用すると我田引水という印象を与えかねませんが、ここはあの人物の土地なので厄払いが要るといってくれたものだろう、こちらの気持ちをわかってくれた、風流を解する人だ、という意味だと思います。戦国の伊達政宗を思い起こしています。
(ヌ)政宗
20の仙台に先立ち17の飯塚では非常に調子がわるくなって陰鬱なものになっています。これは
『気力いささかとり直し、路縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす。』〈本文〉
と伊達政宗が出てくるからです。27の石巻では道を間違って
『宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一
夜をあかして明くれば又しらぬ道まよい行く・・・・・・・・・・・・・』〈本文〉
とよいこと少しも書いていません。〈芭蕉の山河〉(加藤楸邨・講談社文庫)では、
『石の巻までの状は、同行曾良の日記の記述とはちがっているので、今までしばしば問題
になっているところである。・・・・・・・(曾良の日記)には道の途中で逢った人に親切な世話
を受けており、石の巻には無事に到着して宿を得ているわけである。これは記憶の誤りかと
考えるにはあまりにはっきりしたちがいなので、やはり意識しての虚構なのであろう。意識
しての虚構であるとすると、なぜこういうことを行う必要があったのだろうということになる。・
・・・・』
と書かれています。20の出だしの矛盾した一文がこのことです。これは伊達政宗を攻撃しているためにこうなるのです。徳川に就いて、その臆面なき政権強化に協力し、死人の山を築いたからです。こういうことをいうと公平でない、ということになりますが、賞賛ばかりあって、現代人の処世術の教科書のようになっているのももちろん公平ではないようです。芭蕉は立場を明らかにして本文では徳川・伊達・前田を俎上にのせています。
余分ですが下線のところ加藤氏は「考」のあと「ひらかな」ばかり「区切りなし」という文を書いています。これは読み難い、書き方がおかしいことはすぐ判ります。
そのあとも「やはり意識しての虚構なのであろう。そうだとすると、なぜこういうこと・・・・・」という文でよいわけで下線がダブっています。芭蕉の文にこういうのがあり本当は修正しないといけないといっているようです。
上の伊達の前に出た路縦横が殺生石に関連します。10の殺生石の本文が重要です。
『是より殺生石へ行く・・・・野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほととぎす
殺生石は温泉の出ずる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶
のたぐい真砂の色の見えぬほどかさなり死す。』〈本文〉
麻生解説では、
『今まで進んで来た方角を縦とみて、左右を横といったのである。野を横に、で広漠たる原野が想像される。夏草の茂った広野を馬で進んで行くと、横の方で時鳥がないた。それ、そちらの方へ馬の首を向けよ、馬士よ、と間髪を入れず呼びかけたのである。』
となって、この縦横が
『路縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす。』
の伊達とつながります。蜂・蝶のたぐいは、本能的に、次から次へここへ来て死ぬことはないはずでこれは人のことを暗示し、ここで人を殺したといいたいのか、その活動の結果の死人の多さを弾劾していると思います。次に 26の瑞巖寺のところで
『当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の後開山す。』〈本文〉
という記事があります。平四郎につて麻生脚注では
『北条時頼の頃の人。若い頃主人になぐられて、剃髪して僧となり、なぐら
れた木履を袋に入れて首にかけ、これこそ我が師であるといっていたという』
というのがありますが、講談では、伊達政宗が瑞巖寺にきたときに、時の禅師に宝物という血染めの履物を見せられて、これがあったから今日の自分があったということを聞く話になっています。昔寺の下人であった禅師を履物で殴って傷を負わせたのが伊達政宗で、本人はそんなことがあったことすら覚えていなかったようで、謝ったという話ですが、主人が政宗に変わった話しとなっています。これは後世の人によって作り変えられたもので、平四郎の名前が本文で出てきたことは、この話が芭蕉のころには出来上がっていたのかもしれません。あと続いて
『其の後に雲居禅師の徳化に依りて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝かし、仏土
成就の大伽監(藍のあぶり出し)とはなれりける。彼の見仏聖の寺はいずくにやとし
たわる。』
が続いているから、芭蕉がその壮麗さを賞賛しているという今までの解釈が少し疑問と思われます。この聖は脚注では鳥羽天皇のころの実在の人で、雄島に庵を結んだ人です。25の雄嶋が磯で
『雄嶋が磯は地つづきて、海に出たる嶋なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石など
有り。』
となっています。見仏聖と雲居禅師が重なっているのがこの地つづきでわかります。(見仏聖は一匹狼で、同一と見ている。)一方
『七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽監』
の雲居禅師は見仏聖と重なった人物ではなく、伊達政宗と重なった雲居禅師です。タッチの差で雲居禅師が二人いることにされ、伊達家の菩提寺のようなものに私物化したということを皮肉っています。そんな私物化というような感覚が芭蕉にあったのか、現在の観点から見過ぎだという非難があるかもしれませんがこれは当時すでにあったわけです。天下は天下の天下なり、というような繰り返しで表現されたりしていますが、あの明智光春が大事なところですでに述べています。明智の坂本城の最後のとき、寄せ手に宝物を返した話はよく知られています。このとき信長から貰った財宝は返す、明智光秀が探してきて愛用していた刀一振りは冥土まで持っていくというような趣旨の理屈を述べています。信長もこの国郡の文物の所有者ではないという意味と思われます。明智のことを述べている芭蕉は当然同じ考えでしょう。 〈曾良日記〉に
『上の山は正宗の初の居城也。』
と本文で書いている以外に{注}で一般に知られていない伊達大蔵や伊達将監が出てきます。これはおそらく伊達藤五郎や片倉小十郎のような武将ではなく、政宗を指しているはずですから、
「政宗=正宗」・「大蔵=将監」
というような感じで、政宗二人をボンヤリと指すのかもしれません。〈曾良日記〉では
「岩手山{伊達将監}やしき」
となっていて、〈当代記〉では
「伊達正宗、{元会津二本松信夫の主、今大崎岩手山の主也}」
となっている、ここの、下線の〈当代記〉の注をみないと15の「しのぶの里(二本松信夫郡)」の一節が読解できません。
『・・・しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、・・・・石半(なかば)土に埋もれてあり。
(昔この石はこの山の上にあったが)此の谷につき落とせば、石の面(おもて)下
ざまにふしたりと云ふ。さもあるべき事にや。』〈本文〉
「しのぶ」の「石」が、突き落とされ、面は下になってしまった、という嘆きは伊達正(政)宗と結びつけて語られています。この社会は、腕力が必要な動乱期には、政宗がマサムネを利用して無茶苦茶をさせて目的を達したら切り捨てをするというようなこともありえます。鎌倉ではその典型がありました。逆に切捨てできずに居座られてしまう例も徳川の初めや終わりにありました。伊達も文句をいわれすぎており、政宗もそういう観点からみることが必要かもしれません。
(カ)利家
前田については45の全昌寺のところで
『大聖寺の城外、全昌寺という寺にとまる。猶(なお)加賀の地也。曾良も前の夜、
此の寺に泊りて
終宵(よもすがら)秋風聞くやうらの山 と残す。』〈本文〉
と書いて、下線のところ、まだ加賀の地か、といっています。少しあとに
『きょうは越前の国へと、心早卒にして堂下を下るを・・・・・・』
とこれを受けています。加賀を早く去りたい、越前は懐かしいのでしょうか、気持ちが急いているようです。
ここの句意が解釈されきっていないのです。大聖寺の城は関ケ原の役のとき、石田方の武将、山口正弘が、東軍の前田と戦って戦死したところです。城地が小高くなっていたから「うらの山」となるわけで、この「山」は城山のことです。それを表すために、全昌寺が城外の寺となっているわけです。関ケ原の北国の戦いは説明できないところが多く、前田と戦ったはずの西軍の丹羽氏はあとで二本松で取り立てられています。この地での芭蕉の心象にからむことですから、偽戦がなかったのか、そういうことを感じていた人がいて、挿話が残っていないかを確認することも必要かもしれません。丹羽の二本松は、14のあさか山、で出てきますが、政宗も足跡を残している地です。41の金沢で
『卯の花山・くりからが谷をこえて、』
が出てきますが、この卯の花山は石動町(いするぎちょう)にあります。〈甫庵太閤記〉に、ここの石動山天平寺(養老元年創立)が前田利家によって焼き討ちされた顛末が書かれてあり、利家が、甫庵の賛美作戦によって皮肉られている戦いがあったところです。本能寺の変が6月2日、利家は柴田に加勢を頼み、石動山へは6.19くらいから動き出して6.26に総攻撃をかけました。
『物がしら分の首廿三、柴田修理亮へ持たせつかわし今度御加勢大慶の旨一礼
述べおわんぬ。都合首数千六十、山門の左右に掛け並べ置きしなり。』
光秀敗退は6.13ですから、秀吉の独壇場になるように柴田内部を混乱させているわけでしょう。主役徳川の意向が反映された行動をしています。この卯の花山は〈奥の細道〉が戦国時代を語っているという証拠になるものであるとともに戦国時代の重要なことを教えているもので記憶しておく必要があります。(次稿)
(カ)鹿之助
44の山中では戦国の雄、山中鹿之助が意識されていたかどうか、という疑問が残っていました。まあ有明=有馬温泉=播磨と、久米之助=鹿之助ぐらいの材料しかなく、それは考えすぎだ、ということでもよいのですが、芭蕉が他の句集で「山中十景、高瀬漁火」と前書きして、歌をを載せているのにも出くわします。これはどうしても尼子十勇士とその特異な表現を思い出すものです。「因幡白兎之介」「渕川鯰之介」「六方破之介」「井筒女之介」「破骨障子之介」・・・・・・・などあり、これと引っ掛かっていそうです。〈信長公記角川文庫版〉によれば「亀井鹿助幸盛」と署名されたものがあるようですから
「亀井」が本名で、「山中」というのは、父方かとも思われますが、二つ名乗ることはないと思いますので、「山中」は特異な名前に合わしたものではないかと思います。つまり鹿の介にあわせて「山の中の鹿」という意味の「山中」にしたと考えられます。格闘相手の品川狼助も品川半平を変えています。亀井と山中のあぶり出し、特異な名前は、色を出すための操作があったはずですが、戦国との関連の面では、結論は、ここ44の山中はあの山中鹿之助から戦国を見ているものです。
『鹿の助は疵のため有馬湯治望みおわしますゆえ、毛利殿へ披露し、天正の
初め上方さして旅行し、明智日向守を頼み、遊客の身と成りて有しが、丹波
一揆退治の折節比類なき働き両度有しなり。』〈甫庵太閤記〉
で「有明」の「有馬」が出てきます。また同書に『秀吉公有馬御湯治の事』もあります。明智も出てきましたので、ここは「有明」から、戦国を思っているということが確実となります。ここで山中鹿之助は遊客の身になっていますが、あともう一人因幡の守護山名禅高も同じ姿をしていて、意気投合し挽回策を講ずることになります。しかしこれが48の敦賀で出てくる「遊行の二世の上人」につながるのかどうかはわかりません。敦賀でまた大ものが出てくるので、誘導させたのかもしれません。
(ヨ)光秀・西坊・紹巴
22の末の松山も戦国の話を採り入れたものです。
『・・・・末の松山は寺を造りて末松山(まつしょうざん)という。松のあひあひ皆墓はら
にて、はねをかわし枝をつらぬる契(ちぎり)の末も、終(ついに)はかくのごときと、悲し
さもまさりて、塩がまの浦に入相(いりあい)のかねを聞く。五月雨(さみだれ)の空いさ
さかはれて、夕月夜、幽(かす)かに、籬(まがき)が嶋もほど近し。・・・・・・・・・』〈本文〉
ここは本能寺の前の明智光秀の有名な故事に関係します。
『発句 維任日向守
ときは今あめが下知る五月かな。 光秀
水上まさる庭のまつ山 西坊
花落つる流れの末を関とめて 紹巴 』〈信長公記〉
本文が〈信長公記〉のここにつながります。
光秀の「あめ・五月」が本文の「五月雨」、
西坊の「まつ山」(西坊の句は「夏山」もある。)が本文の二つの「松山」、
紹巴の「末」が本文の「末」二つ
に対応しています。本文の「松」三つと「夕月夜」の「夕」は「夕庵」を思わせますが、もうひとつ「入相のかね」の意味は、「夕暮れの鐘」のことで、間接的ですから、これは少し意図的で「夕」を隠したものかと勘ぐられます。夕庵とその相棒がここの情景にからんでいそうです。戦国と〈奥の細道〉をつなげると、お互いの文献の読み方が深められるというものが多いと思われます。
(7)二つの光
奥の細道では五月雨がキーワードになっています。これは先ほどの句
『ときは今あめが下知る五月かな』
があるためです。伊達の大木戸を過ぎて、18の蓑輪・笠嶋に入ったところで「蓑」「笠」に懸かって「五月雨」という語句が二つあります。そのあと先ほどの、22の末の松山で「夕」に挟まれて出てました。それから一つの山場である28の平泉で
『五月雨の降りのこしてや光堂』になり、
『五月雨をあつめて早し最上川』
で酒田から日本海に流れ込み、あの『荒海や佐渡に横たふ天河』の句につながりました。この間、曾良日記では「越後」で{酒井左衛門尉}、途中でもう一つ庄内藩の酒井左衛門尉家も出てきたことを述べましたが、〈奥の細道〉の道筋に、日光=仙台伊達=庄内酒井=越後酒井という徳川の流れが走っているわけです。
よく読んでいる人にはこういう対立関係がみえるようです。平井照敏著〈奥の細道を読む=講談社文庫〉
『平泉のくだりの後半に、中尊寺の光堂を拝観した記事がある。数字が妙に多い、凝った
体の一節である。
「兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像ををのこし、光堂は
三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、占めん新たに囲み
て、甍を覆いて雨風を凌ぐ。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降りのこしてや光堂 」
この文章を眺めていると、私はごく自然に、このように数字の多い、もう一つのくだりを
連想するのである。日光のくだりである。
「卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基
の時、日光と改め給う。千歳未来をさとり給うにや、今此の御光一天にかかやきて
恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。猶、憚り多くて筆をさし置きぬ。
あらたうと青葉若葉の日の光 」
芭蕉は、敬虔な緊張した文体には、数字を多用して、荘重な味わいをくわえようとし
たようだが、この二つのくだりを見比べていて、不思議な発見をしたように、改めてお
どろくのは結びの二句がどちらも光という文字を含んでいることである。そしてその二
句の前文が何れも数字の多い美文荘重体なのだ。このことを発見したとき、私は急
に芭蕉の内面がのぞけた気がした。芭蕉は、この二つのくだりを意識して書きわけた
のではないかと思った。
連句では同じことばを出来るだけ避けようとする。やむを得ぬ場合には、遠くはなし
て使うのだ。その態度で連句を作る芭蕉が、五十句だけの自句の二つに同じ光を
作っているのだから。
「あらたうと青葉若葉の日の光」は、若々しい、未来あふれる日光である。だが
「五月雨の降りのこしてや光堂」の光は三代の棺を納め、三尊の仏を安置した堂の
光であり過去をつつむ光である。
明暗の対照はあまりにもあきらかではないか。そして前文の中に共通しあらわれる
「千歳」という語も、日光では「千歳 未来」と、平泉では「千歳 記念」と使われて
いるのである。
同じ光の語は日光では、まさしく徳川家の光、平泉では藤原氏の光であり全盛
の盛んな光と滅亡の名残の光とがくっきりと描きわけられているのだ。
「日の光」がやがて「光堂」の光になりかわると芭蕉が考えたものかどうかはわから
ないがこのように光を対照転調させるところに、徘諧師芭蕉の三十六歩、一歩もあと
もどりせず、前に進むこころと同時に、またすぐれたバランス感覚をも感じとれるので
はないかと思う。』
となっています。いわれる通りで「二つの光」が対照されているのです。ただ残ってきたものが、「若々しい、未来あふれる、」というものではないと言いたいだけです。
日光に大賛美作戦がとられていて、「憚り多くてやめとこう。」では困るのです。「二つの光」は明智と徳川が対峙されています。奥州の光は、古きよき社会の残すべき光であると捉えられています。すなわち、文中には「藤原」とは書いていません。「三代の栄耀」「秀衡」「康衡」、〈曾良日記〉では「秀平やしき」とされているだけです。訳では無造作に「藤原氏三代の栄華」のように、「藤原」が入れられますが、清衡・基衡・秀衡の三代までは奥州は別のまとまりをもっていました。
その奥州と重ねられた明智氏と、藤原と重なった徳川氏の「二つの光」が取り上げられ、日光から賛美を抜いてみると話が逆になり、本来のものが、盛んな光を発し、変形したものを滅亡の名残の光ととりたい、こうあるべしという祈願する意味になるはずです。光秀の句は「とき」を二つの漢字に懸け
「時は今、藤原(=あめ)のような徳川の下にある。」
「土岐は今、天下を統べるべく立たねばならない。」
という二つの意味があり、紹巴の句も、「花が落ちるのをせき止めたい(決起を思い止まらせたい)」というものと「花が落ちるような流れの末を堰き止めたい」という、二つの気持ちを表したものではないかというのが〈前著〉で述べたことです。芭蕉ら後世の人がいろんな挿話を作って解説していることも参考にしないと判らないことが多々あるのではないかと思います。中国史書でも、前代の人が残した文書を後代の史家がまとめ、考証、解説してあとの時代にのこすようなことをやってきていますから、戦国期の著者も後代の人がそれをやってくれるという期待のもとに書いていることもあると思われます。
(8)奥の細道の背景
この奥の細道は「三」の洪水といってよいと思います。本文では
『三里に灸すゆるより』 『前途三千里のおもい』 『三関の一』 『脇・第三と
つづけて三巻』 『三月越し』 『横三尺』 『文治三年和泉三郎寄進』
『江の中三里』 『三重に畳みて』 『三代の栄耀』 『経堂は三将の像をのこし
、光堂は三代の缶を納め、三尊の仏を安置す。』
『三日風雨』 『三か月の羽黒山』 『月山・湯殿を合わせて三山とす。』
『三尺ばかり。』 『三山順礼』 『三年幽居』 『法皇三十三所の順礼』
『福井は三里計り』 『六月三日』
がありますが、隠れたものでは「弥三郎」があり、蓑輪は「三ノ輪」であり、卅里は「三十里」で那智・谷組というのは、那智は三十三所の初めせあり、谷組は三十三所の終わりですから「三十三の」の語句が省略されていることなど入れても意識されていることは明らかです。藤堂のことを「西国三十三国の旗頭」といいますが、誰がいいだしたかわかりそうな気がします。33×2=66というのが六十余州となるのかもしれませんが、この数字は意味がありそうです。
カントにも「三」があります。
『次の三通りの場合しかないことになる。(一)・・・(二)・・・・・(三)・・・・・、
この三通りの場合において純粋理性はかかる綜合の絶対的全体性ー換言
すれば、それ自身無条件的な条件だけを問題にする。また
三通りの先験的仮象もまたこの区別に基づくのである。そしてこの
三通りの仮象に因んで、弁証論の
三節が成立することになり、更にまた純粋理性の
三個のいわゆる学なるものー即ち先験的心理学、先験的宇宙論、および
先験的神学にそれぞれ理念が配せられるのである。』
まあこれほど「三」をいれなくても、また語句をくりかえさなくても趣旨を述べ得るとは思いますが、カントに文章が下手だとか、もう少しわかりやすく書けないか、とかいって批評する人はありません。カントには他に「二」も「十三」も「三」もありますが、そういう意味の「三」にしては、芭蕉のは異常なほどの「三」なので、その上にもう一つ特別の「三」を付加したのではないかと思います。すなわち明智三兄弟の「三」が余分に含まれていると思います。
明智三兄弟の存在が明らかになることは、戦国期の中でも特に重要な織田信長の時代の著書を読み取る鍵となるものといってよいことです。また戦国期を語る主著が、太田和泉の著書であるということは、渦中にある最も重要な人物が書いていることになり、諸葛孔明が三国志を書いた、というのと同じようなものです。日本史が恵まれている、史書群は信頼するに足る著者によって書かれるという伝統があったということもわかると思います。
三兄弟の存在を明らかにするには、その中で最も隠す操作がされてわかりにくい武井夕庵を浮かび上がらせねばなりません。前著でそれを述べましたが芭蕉によって証明することができました。次稿
「奥の細道と武井夕庵」で触れたいと思います。 以上
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