11、織田信秀のこと


(1)信秀の逝去
織田信秀は、子息である織田信長の天下布武の路線を敷いた人物としてよく知られています。英傑
としての評価が定着していますが、それにしては〈信長公記〉では事跡がはっきり掴めません。
〈信長公記〉の記事が信長主体だから、その前段として述べている程度のことだからわからないのは
当たり前だということで簡単に読まれて過ぎているきらいがあると思います。信秀については他の書や、
野史に依存されているため〈信長公記〉の記事が簡潔になっていると思われますが、述べにくいことが
多いためかなり抑制された筆致になっているのではないかとも考えられます。その死の記録はもの悲し
く、太田牛一は

    『備後守殿疫癘(エキレイ)御悩みなされ、様々御祈祷・御療治候といえども御平癒なく、終に
    三月三日御年四十二と申すに御遷化(ごせんげ)。生死無常の世の習(ならい)、悲哉(かなし
    いかな)、
    颯々タル風来テハ万草之露ヲ散(サン)シ、漫々タル雲色ハ満月ノ光ヲ陰ス
    去て一院御建立(ごこんりう)万松寺と号す。・・・・・・・・』〈信長公記〉

 と書いています。この文は漢字とひらかなの表記となっていますが、改行したところ下線の部分はカタ
カナとなり、以後はまたひらかなに戻っています。
ルビは原則(ひらかな)ですが、二つだけ太字のところはカタカナです。ただ(サン)はカタカナ文
の中のルビですから、カタカナでよく、結局、疫癘のルビ(エキレイ)だけがカタカナです。
とにかく歴史上の人物ですから、その死因というものには一番関心が集まるはずですが、簡潔なのは
よいにしても、わかりにくい表現に頭をひねらされます。また、このようにこの部分は全般の表記が特異
なので、転写や判読をしてきた人はたいへん気を使って二三度は見直しさせられたものと思われます。
「疫癘」、これは腹の病と腫れ物を表し、まあ婦人病なのでカタカナのルビを打ったのではないかと、ま
ずは思ってしまいますが、本当の死因にしては関係のない部位の病の併発であったことになり表現が
おかしい上に、全体の表記は、怪しいと思わせようと工夫されたと思えるというのがいいたいことです。
つまり、すんなり読んでしまってよいものか、と惑うところがあります。
また年齢四十二歳も、今川義元の享年と合わせたのではないかという感じもあります。
信秀の死亡年が三つもあったことは前稿で紹介しましたし、三年間喪を伏せたのではないかという
ことにも触れましたが、ここの三月三日という日も、〈武功夜話〉がケチをつけています。

    「天文己酉(ルビ=十八年、一五四九年)三月日御逝去了(おわる)、桃巖禅定という。
     されども御葬儀は取り行わず、両三年の後これを行うなり。国中風聞の取り沙汰あれど
     も、某(それがし)どもその真意を知らぬなり。」

と、「日」もわからぬといいたげな書き様をしています。桶狭間戦は永禄三年でしたが、そこに葬儀
の年、天文二十一年を出してきたり何かいい足らないという感じがします。桶狭間に、熱田神宮、熱田
大宮司千秋四郎が出てきましたが、甫庵では「田島千秋」という人物も出てきました(〈桶狭間〉巻末
参照)ので、何かつなげてものをいいたかったと思われます。
信秀が語られる場合、抜けてはいけないきわめて重要な人物が洩れていると思います。

(2)織田孫三郎信光
 「孫」がキーワードといってきましたが殺されてしまうという予想外のことで出てくる「孫」がいます。
織田信秀の三番目の弟「孫三郎」です。〈信長公記〉の初めにはやくも出てきて既述の

   「今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。」

にこの「」がいます。この人物は小豆坂の合戦で七本鑓の一人として知られています。小豆坂
では

   「備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿初めとして既に一戦に取り結び相戦う」

と特別に三人取り上げて述べてあり、このあとまた

   「織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞、・・・・内藤勝
    介・・・・・・」〈信長公記〉

というように「織田」を付けて紹介されています。この文、織田造酒丞と内藤勝介には「殿」が付い
ていないので一つ前の四郎次郎の説明であろう、ということになりますが、首巻はこの織田兄弟の
列記から始まるといってもよいといえます。それぞれの人物の顛末が書かれているので完全に述
べられたということですが、孫三郎が殺されたことについてはあまり説明がされていません。
戦国の世だからそういうこともあるということで納得させられてしまいそうですが、信長が清洲城を
手に入れた時期の事件であり、またそれに関与した人物なので、意味が大きいのではないかと
考えられます。
事件性と影響の大きさ以外にも、名前に「孫」が付いているから何かあるのではないかという見方
もできます。要は三男ならば素直に三郎と付ければよいではないか、なぜ「孫」としたのかということ
です。
何か述べにくいことがあって、それを婉曲に語っているという面があると思われます。信長の苦肉の
策、「うつけ」の話とセットされているようなものが。

(3)孫三郎の断片
〈信長公記〉における孫三郎は上の三回を除いては十一回あります。

@、天文18年正月のころの記事、
       「備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段の武篇者(ぶへんもの)なり。
        是は守山と云う所に御居城なり。」

これは信秀の死の年であり、備後殿が犬山・がくでん衆を崩したときのことですが、その記事のあと
に、この記事があるので、実際は信秀ではなく、孫三郎の力で戦いに勝ったということだと思われます。
この「一段の武篇者」というのがそれを示しますが、この「一段」の語句が「段違い」というようなこと
でしょうから少し気になります。また「守山」が強調されています。三河の松平清康が尾張に攻め込んで
きて信秀も危うかったとき、清康が暗殺されたのが、この「守山」で〈武功夜話〉では「守山崩れ」という名
の事件として出ています。

A、信秀葬儀の翌年あたり、平手政秀の嫡子が反抗したときの記事

       「織田右衛門尉、・・・・・・御敵の色を立てられ候。・・・・・織田上総介信長御年十九
       の暮れ八月、・・・・(庄内川)川端まで御出勢。守山より織田孫三郎懸付けなされ・・
       上総介殿・孫三郎殿一手になり・・・・孫三郎殿手前にて・・・・赤瀬清六(討死)」
 
 信長の最も頼りとする味方という感じです。

B、正月24日、村木砦の戦いの記事

       「西搦め手の口は織田孫三郎攻め口。」

この戦いは信長の辛勝となりました。
ここまではやや散発的ですが次にまとまった記事がでます。
 信長の清洲城乗っ取りに孫三郎が一枚噛んでいる記事とその死の記事です。

(4)父親代わり
次はその記事ですが、すぐには理解できません。そのあとに訳を付けていますので、それを読んで
意味を掴んでいただく方がよく、ここは一通り目を通していただく程度でよいと思います。わからない
のは何故かが、おぼろげながらわかればよい、といえます。
 ただこうはいっても何回も読めば訳文のように読めることがわかります。

        「一、清洲の城守護代織田彦五郎殿とてこれあり。領在の坂井大膳は小守護代
        なり。
        坂井甚介・川尻左馬丞・織田三位、歴々討死候て、大膳一人としては抱え難き
        の間、此の上は織田孫三郎殿を頼み入るの間、力を御添え候て彦五郎殿と
        三郎殿両守護代に御成り候えと懇望申され候処、坂井大膳好みのごとくとて、
        表裏有間敷の旨、七枚起請(文)を大膳かたへつかわし、相調い候て
        一、四月十九日、守山の織田孫三郎殿清洲の城南矢蔵へ御移り、表向きはかく
        のごとくにて、ないしんは信長と仰談(おおせかた)らわれ、清洲宥取進(なだめと
        りまいらせ)らるべきの間、尾州下郡四郡の内に於多井川とて、大かたは此川を
        限りての事なり。此の孫三郎殿と申すは信長の伯父にて候。川西・川東と云うは
        、尾張半国の内下郡二郡二郡づつとの約束にて候なり。
        一、四月廿日、坂井大膳御礼に南やぐらへ御礼にまいり候はば、御生害をなさる
        べしと、人数伏せ置き相待たるるの処、城中迄参り、冷(すさま)じきけしきをみて、
        風をくり逃げ去り候て、直ぐに駿河へ罷り越し、今川義元を頼み在国なり。守護代
        彦五郎殿を推し寄せ腹をきらせ、清洲の城乗取り、上総介信長へ渡し進せられ
        孫三郎殿は那古野の城へ御移り。
        其の年の霜月廿六日、不慮の仕合出来して孫三郎御遷化。忽ち誓紙の御罰、
        天道恐哉と申しならし候キ。併(しかしながら)、上総介殿御果報の故なり。」

 次のが上の原文の訳文です。(〈ニュートンプレス全訳本〉より借用)

       「一、清洲城の守護代は織田彦五郎殿(信友)であった。領主の坂井大膳は小守
       護代である。(領主は領在なので領内にいた在国と意味にならないか)
       坂井甚介・川尻左馬丞・織田三位といった有力な人々が討ち死にして、大膳一人
       では守備し難いから、この上は、織田孫三郎殿(信光)をお頼みしようと考え、「ど
       うか力をお添えいただきたく、彦五郎殿と孫三郎殿ご両名が、ともに守護代にお成
       りください」と懇望申したところ、孫三郎殿から「坂井大膳の好きなようにせよ」と、
       二心のない旨を起請文にしてを大膳方へ遣わされたので、うまくことがととのった。
       一、弘治元年(一五五五年)四月十九日、守山の織田孫三郎殿は清洲城の南や
       へお移りになった。表向きはこのようなことであったが、実は孫三郎殿はひそかに
       信長公と相談し、「清洲をだまし取って差し上げるから、於多井川という川で川東と
       川西にほぼ両分されている尾州下の郡の四郡の半ばを私にお渡しください」という
       秘密の約束があってのことであった。。此の孫三郎殿と申す方はは信長公の伯父
       である。川西・川東というのは、尾張半国のうち下の郡の二郡づつを分け持つとの
       約束である。
       一、四月廿日、孫三郎殿は坂井大膳が南やぐらへお礼にまいったら、殺害しようと
       軍兵を隠して待っていた。大膳は城中まで来たが、異様な気配を察し、風をくらって
       去り、まっすぐ駿河へ行き今川義元を頼って在国することになった。孫三郎殿は守
       護代織田彦五郎殿を追いつめ、腹をきらせ、清洲の城を乗っ取って、上総介信長公
       へ進上、孫三郎殿は那古野の城へ移られた。
       その年の十一月二十六日、不慮の出来事によって孫三郎殿はご逝去、あの裏切
       りの起請文の罰は早くも下った。「まことに天道は恐しいものよ」と世間の人々は口
       々に申されたことだ。しかしながら、信長公にとっては正しい御政道のご果報であった
       。」

 以上が〈信長公記〉における織田孫三郎の記事です。(4)の記事がとくにわかりにくいので訳文の
お世話になりましたが、清洲彦五郎、坂井大膳、孫三郎の関係は訳文の通りでよいといえるの
は、〈甫庵信長記〉に同じ記事があり、それをみて納得できるものです。もしそれがなかったら、
かなり迷うところがあるといってよいと思います。以下は〈甫庵信長記〉の記事で大変わかりやす
い原文です。

    「弘治元年正月の比より、清洲の守護代坂井大膳、内々思いけるようは、坂井甚助、川尻
    左馬允、織田三位など討ち死の上は、我一人して織田彦五郎殿を守り立て奉らん事も叶
    いがたかるべし。織田孫三郎殿と和解し、北の櫓には我が身座り、南の櫓には孫三郎殿
    を居(す)え申し、両人して彦五郎殿を守り立て申すべしと評定し、互いに堅く誓約して、弘
    治元年四月十九日に孫三郎殿を城中へ呼び入れ、則ち南櫓に移ししかば、一礼のため、
    ▲坂井大炊助、▼同大膳大夫参りける処に、大炊助を忽ち討ち殺しければ、さては誑(たぶ)
    られけるよな、無念類なしとて、大膳は取り敢えず落ち去りにけり。彦五郎殿も、一度に落
    ちんとし給いしを取り廻し、中々落し申すまじきぞや、只是れにて御自害候えと申しけれども、
    夜に入り紛れ出でんとや思い給いけん、兎角して時を移されけるに、兼ねて信長卿相図を
    定められければ、狼烟の挙がると等しく、那古野より一刻に懸け付け、孫三郎殿と一手に
    成りて、彦五郎殿の籠り給いたる屋形を、七重八重に打ち囲み、只平責(ひらぜめ)に責め
    よとて下知し給いければ、なじかわ少しもためらうべき。吾先きに押し入らんとするを見給い
    て、屋上に上がり給いしを、森三左衛門尉隙間をあらせず、引き続いて、終に首をぞ給わり
    ける。かくて清洲の城には、信長卿御座しましける。かかりしかば当国大半、御手に随いけ
    り。
    是も備後守殿御逝去の時、舎弟孫三郎殿に、信長事は其の方へ任せ置くの条、諌争を尽く
    し守り立て給え、信長もまた父と思うべしとて、終わらせ給いしが、誠にその言を違えず、伯
    父の恩賞浅からずとて、那古野の城に河東を相添え、孫三郎殿へ参らせらる。げにも君々た
    り臣々たりとぞ見えたりける。」〈甫庵信長記〉

このあと先ほどの〈信長公記〉には間単に書かれていた(再掲)

    「その年の十一月二十六日、不慮の出来事によって孫三郎殿はご逝去

の死の原因の記事がありますが、ここからわかりやすい内容が、とたんに難しくなっていますので、
一旦打ち切りあとで取り上げたいと思います。ここまでで一応〈信長公記〉の記事のわかりにくか
った意味がわかってきます
 例えば、はじめの〈信長公記〉の文をわかりやすくするためには、次のように下線の部分に「   」を
つけ、●の語句を埋め合わせる必要が感ぜられます。 
       
        「一、清洲の城守護代織田彦五郎殿とてこれあり。領在の坂井大膳は小守護代
        なり
        坂井甚介・川尻左馬丞・織田三位、歴々討死候て、大膳一人としては抱え難き
        の間、此の上は織田孫三郎殿を頼み入るの間、
         「力を御添え候て彦五郎殿と孫三郎殿両守護代に御成り候え」
        と懇望申され候処、(●孫三郎殿は)
         坂井大膳好みのごとく」
        とて、表裏有間敷の旨、七枚起請(文)を大膳かたへつかわし、相調い候て 」 
  
すなわち「   」を発言内容にすればわかりやすい、そうしないと「力を御添え候て」が誘いの内容か、
、孫三郎が人肌脱いで大膳がそれを認めた結果守護代の案をを持ち出したのか、少しわかりにくいか
らです。また●を入れないと坂井大膳が主語で、坂井大膳が孫三郎の「好みのごとく」といったかもしれ
ないわけです。とにかく読みづらくしているのは窺えると思います。
また甫庵の「河東」というものの意味がわかりません。先の〈信長公記〉の記事に次のわかりにくい文が
あるので、於多井川(小田井川)をはさんで、川東二郡、川西二郡があり、名古屋のほう(西)を孫三郎
に与えたということがわかります。〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉は相互に補完されている関係ということ
もわかります。(再掲)
     
         「尾州下郡四郡の内に於多井川とて、大かたは此川を限りての事なり。此の孫三郎殿
         と申すは信長の伯父にて候。川西・川東と云うは、尾張半国の内下郡二郡二郡づつと
         の約束にて候なり。」〈信長公記〉

またここでの孫三郎の唐突な紹介は坂井大膳がらみなので、危険人物ということもあるのかと思えて
しまいます。また伯父というのは辞書では父の年上にあたる人(兄)となっているようですが、孫三郎は
信長父の弟なので今の解釈とは違う例が使われているのかもしれません。
ここまで〈信長公記〉は(再掲)

     「一、清洲の城守護代織田彦五郎殿とてこれあり。領在の坂井大膳は小守護代
        なり。(この下線の部分がない原本もある由)」

というものをはじめに出して、清洲城主、織田彦五郎、坂井大膳、織田孫三郎の清洲城をめぐる動向
と、孫三郎の死までを述べてきました。要は、孫三郎殿は、共同統治者である坂井大膳を追い出し、守
護代織田彦五郎殿を追いつめ、腹をきらせ、清洲の城を乗っ取って、上総介信長公へ進上した。
孫三郎殿は那古野の城へ移り二郡を与えられたということになります。下郡というのは、清洲のあると
ころで守護斯波氏がいて、織田信秀が台頭した地域ですがここを半分孫三郎が占めたということ
になります。これが四月二十日ごろです。
しかるに、その年の十一月二十六日、不慮の出来事によって孫三郎殿は亡くなったということになりま
したが、孫三郎の死が織田信長にとっては余りタイミングがよくて一連の事件に信長の陰謀説があるの
も頷けるものです。

(5)桶狭間の梁田登場
 すなわち坂井大膳らが武衛である斯波氏を殺し、孫三郎が坂井大膳を放逐し清洲城主彦五郎
を殺し、信長が不義を働いた孫三郎を討つ、という結末は、信長が一番得をしたといえます。孫三
郎が殺されたというのであれば、動機は織田信長にもあります。また守護の斯波氏の若殿を助け
ているのですから、大義名分もつくってあります。これを推察させるものに梁田政綱が絡んだ話が
〈信長公記〉にでています。これもまたわかりにくいもので、特別分りにくいのは何かあります。

    「一、去る程に、武衛様の臣下に梁田弥次右衛門とて一僕の人あり。面白き巧みにて知行
     過分に取り、大名になられ候。子細は清洲に那古野弥五郎とて、十六・七若年の人数三
     百ばかり持ちたる人あり。色々嘆き候て、若衆かたの知音(ちいん)を仕り、清洲を引わり、
     上総介殿の御身方候て御知行御取候えと、時々宥(なだめ)申し、家老の者共にも申しき
     かせ、欲に耽り尤と各同事候。
      然る間、弥次右衛門上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣内々申し上げるに付きて、
     御満足斜めならず。或る時、上総介殿御人数清洲へ引き入れ、町々焼き払い、生城(は
     だかしろ)に仕候。
     信長も御馬を寄せられ候えども、城中堅固に候間、御人数打ち納れられ、武衛様も城中
     に御座候間、透(すき)を御覧じ、乗っ取らるべき御巧みの由申すに付いて、清洲の城外
     輪より城中を大事と用心、迷惑せられ候。」〈信長公記〉

太字は脚注に「男色の関係をもつ。」と書かれております。梁田と弥五郎が特に親しく、弥五郎の愚痴
を梁田が聞いてやっていた、弥五郎は梁田に「清洲を分断し上総介に味方して立身したらどうか」と
勧めるので家老にも話しするとみな賛成したので梁田は信長にこの土産話しを持ち込み信長がそれに
乗ったということだと思われます。終わりの下線部分も入れ替えないとよくわからないようです。

     「信長も透(すき)を御覧じ御人数打ち納れられ、御馬を寄せられ候えども、武衛様も
      城中に御座候間、清洲の城外輪より城中を大事と用心、城中堅固に候間、乗っ
      取らるべき御巧みの由申すに付いて、迷惑せられ候。

信長が疑われて迷惑をしたというのではないかと思いますが、要は信長がこの一連のことに関与して
いたのではないかという疑問がこの梁田の話です。

(6)清洲彦五郎
 まずこの文の「那古野弥五郎」は先稿でも触れたように小豆坂で戦死している、それがここに出
てきたことがまずおかしいと感じなければならない点です。 この那古野弥五郎は、一応、小豆坂
で戦死した人物の子ではないかとみなければなりません。先稿で出しました〈武功夜話〉の系図で

   大和守                             大和守 彦五郎
    敏定 ーーーー 清須五郎ーーーー●清須五郎ーーーーーー■広信
   清須在城      清須在城      清須在城     清須在城     
              U
              U
               月巖信定ーーーー信秀ーーーーーー信長

となっていた清須五郎の例によれば
              清須五郎(月巖の兄)ーーー●清須五郎(信秀と同世代)
となっているのと同じ感じで、那古野弥五郎も
              ▼那古野弥五郎(小豆坂で戦死)ーーー那古野弥五郎(十六・七若年)
と見てよいと思います。結論的にいえば、
      梁田の相手で出てきた那古野弥五郎=清須五郎
となるではないかと思います。
弥五郎は若年ながら人数三百を持っているということになると、これは領主に近い有力な人物といえます。
一方、「清洲に那古野弥五郎とて、」という表現があり、「清洲」の「那古野弥五郎」ということであり、小
豆坂で戦死した誉れの「那古野弥五郎」が完全なる一匹狼になっていることもおかしい、ということか
ら考えると、これは、「五郎あわせ」がされているとみて、清洲五郎のことをいっているのではないか、
と思われます。すなわち、●と▼の人物を重ねているということになります。これは「清須五郎」も
一匹狼になっているから説明をしたということかと思います。
また〈信長公記〉〈甫庵信長記〉がいっている「織田彦五郎」というのは「彦五郎」とされている■の
人物であるのは間違いないところでしょう。
〈信長公記角川文庫版〉人名注によれば 「織田彦五郎」については

    『信友〈尾張名所図会〉〈名古屋市史〉。一説では広信〈愛知県史〉
    。しかしともに文書の裏附けはない。』

とされています。信友と広信は違いすぎるのでどうかと思われますが、あぶり出しでしょう。「一説」の
「広信」は〈武功夜話〉の系図の名でもあり、何か企みがあるかもしれません。●の清須五郎の方の
名前は、ここではまだわかりません。また人名注「織田達勝」の項では

    『〈円福寺文書〉大和守。天文十二年以後は★彦四郎が達勝に代わる。』

となっています。〈信長公記〉では「大和守内に三奉行あり」となっていて織田信秀も三奉行の一人
ですので、この「大和守内」の「大和守」は、敏定の子の清須五郎にあたるはずでこれが織田達勝と
なると思われます。斯波義達の一字を貰ったのでしょう。すなわち〈武功夜話〉の系図の名を埋めれば
敏定のあと
       清須五郎達勝ーー−清須五郎(?)ーーー清須彦五郎信友(広信)
となるのであろと思われます。ここで★のところがやはり気になります。総領だから四郎のはずで
これも
       清須四郎達勝ーー−清須四郎ーーー清須彦四郎信友(広信)
かもしれない。つまり「五郎」は他に影響を及ぼすための太田牛一の命名ではないかと思われます。
その一つが那古野弥五郎との「五郎」あわせではないかと思います。また梁田も那古野も「弥」が付き
ますので同心ではないか、と思えないこともないわけです。
なお「那古野弥五郎」については同じく人名注に

    『尾張郡那古野荘の荘官那古野氏の子孫であろう。ここでは尾張守護代織田達勝の家臣
     のち織田信秀に従軍し戦死した。弥五郎と称する人物は二人いるが、その一人の実名
     勝泰(〈円福寺文書〉)』〈人名注〉

となっています。
すなわち「弥五郎と称する人物は二人いるが」というのは〈信長公記〉のことをいっており(甫庵
信長記では小豆坂戦死のくだりで一回だけ登場)、戦死した人物と(十六・七若年)の人物の二人の
ことです。

    『また那古屋又七教久(〈言継卿記〉天文二年八月十九日条)や那古屋因幡守教順(続群書類
    従本織田系図)もいるが、これも勝泰の一族であろう。』〈人名注〉

とされています。この実在の人物からみると「那古野」というのは実在のものですから太田牛一は在
ったものから話をもってきていると思います。しかしこういう人物は「五郎」ではありませんし、特に「弥」
という字をもってきたことは物語に転用したということを示していると思われます。とくにこの因幡守は
三奉行が織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠(信秀)ですから、
       那古屋因幡守=織田系図の因幡守=織田因幡守
といえると思います。織田因幡守は〈武功夜話〉系図では「因幡守清須三奉行」として出ており名は
書かれていません。これからみても

      清須五郎ーーー清洲五郎ーーー清洲彦五郎
                  ‖
              那古野弥五郎ーー那古野弥五郎(ジュニア)

と解釈しても問題なさそうだというのが出てきます。したがって先ほどの清須五郎(?)は
       清須五郎勝泰
となると思います。これで〈武功夜話〉のややわかりにくい、もとの系図

   大和守                               大和守 彦五郎
    敏定 ーーーー 清須五郎ーーーー●清須五郎ーーーー■広信
    清須在城      清須在城      清須在城     清須在城 

は次の

   大和守                               大和守 彦四郎
    敏定 ーーーー織田四郎勝達ーー●織田四郎勝泰ーーー■信友(広信)
    清須在城      清須在城      清須在城        清須在城 

として完成されました。
ここでいいたかったのは梁田のきわめて親しい人(那古野弥五郎で表記)が清須彦四郎という当
主であったということでその当主がすでに織田に随身の意向をもっていたということです。父は織田
信秀に協力して小豆坂で戦死しているくらいですから本来反信長ではなかったといえるかもしれま
せん。
一連の事件経過の発端は孫三郎と大膳の接近です。なぜ大膳が相棒に孫三郎を選んだかという
のが第一の疑問ですが、当主が大膳を推薦したことが考えられます。孫三郎と信長が示し合わせて
梁田にそのようにさせたということが考えられます。

(7)坂井大膳
これまでの経過を追えば坂井大膳が重要な役割を果たしています。結果的に大膳は今川に身を寄せ
ていますので今川の織田騒乱策の片棒を担いだというのもあたっていそうです。〈武功夜話〉では大膳
を悪人あつかいにしています。次の文ははじめからまとめて書かれています。

   「清洲騒乱記   
    一、ここに尾州清須と申す所、斯波(しば)武衛様重代の御居城に候。しかるところ応仁この方
    足利公方家衰亡、したがって守護職家その名流を相留むるといえども、往年の勢威地に墜ち
    、武門棟梁たる謗(そしり)まぬがれず候。国の境目、美濃、三州蚕食甚だし、守護代織田備後
    様戦奉行たれば、上の郡、下の郡御一門衆頼勢(たのみぜい)なされ、所々人数差し向け出
    入りにいとまあらず候。為に備後様の武名は国中はもとより、隣国に聞こえ高く候。しから
    ばその高名を妬み、武衛家中色々と備後様異心あるが如く讒言(ざんげん)申し立つる佞人の
    輩あり。
     御屋形様(これは守護武衛)は武辺等閑(なおざり)にされ、日夜歌舞、能楽好み給い酒色に
    明け暮れ、さては己の不遇をかこち佞人の甘言に耳を傾け冥々たり。去る程に、備後様不意の
    卒去の後騒乱の兆しあり。
     守護代織田彦五郎(ルビ=広信)、この人清洲大和守の跡なり。さほどの武辺も相無きに、家
    長坂井大膳なる者の甘言に唆され、武衛様を弑し奉り清須御城取か抱えんと大逆あり。
     夜中に乗じ武衛様の御屋形を取り巻き火を放ち上下騒動す。
    彦五郎御一門衆同心の下の郡織田伊賀守、同織田孫三郎(信光)等清須に懸け付け、古
    川筋辰巳方縄手に陣を張り、事成り行きを見合わせ候如くに候も、悪心のほど明白に候なり。
    上総介様、清須表の危急の出来に手兵七百ばかり引具、那古野より懸け付け逆心ども御取り
    鎮めなされ候。
    すでに武衛様は火中に御自害なされ、御嫡子を那古野の城へ御庇護なされ候。・・・・・・
    右は弘治元乙卯歳の覚えに候。大逆坂井大膳を御退治。同夏越方上総介信長様清須に
    御入城の初めに候。」〈武功夜話〉

織田信秀が頭角を表したのは斯波武衛のもとでの度重なる戦において功績があったからだというこ
とであったことがわかります。
下線部分は坂井大膳が武衛(斯波氏)の御殿を取り巻いて攻めるという事件のなかの一こまですが
ここでは、織田孫三郎と織田伊賀守とは清須彦五郎同心のようで、織田孫三郎は成り行きをみていて
どちら側についたのかよくわかりません。が、悪心のほど明白というのは坂井大膳はもちろんですが
この二人も含めていっていると思われます。つまり孫三郎もワルといっているようです。
 天文二十一年、坂井甚介、川尻、織田三位などが叛旗をひるがえしたときは信長、孫三郎が手を組
んでいます。
大膳は、川尻、織田三位などがやられてしまつて不利になった段階で、孫三郎と組むようになったようで
す。
少しこの一連の動きがわかりにくいのは〈信長公記〉首巻の書き方の「年度」の省略にあります。月日は
書いてあるが年度がわからないという珍妙なことになっているのは〈奥の細道〉、幕末のアーネスト・サト
ウのものでも見受けられます。サジを投げたくなるような書き方ですがそれも意識的なものです。
もう一回、時系列で整理してみますと、

      @信長十五歳くらいのとき、平手政秀、坂井大膳らとの和解を喜ぶ。

      A信長十九歳ころの八月十五日、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位らが談合して
       信長に反抗、信長は孫三郎と協力し坂井甚介を討つ。これから清洲の「取り合い初まる。」

      B「去る程」(天文二十一年ころ?)梁田、那古野弥五郎と図り、信長を引き入れ信長は清州
       へ押し寄せる。城を落とすに至らず。 信長十九歳?

      C七月十二日、脚注によれば、天文二十二年(1553年)又は天文二十三年(1554)、
      坂井大膳らは武衛の御殿に押し寄せ御一門数十人歴々を討つ。ただ武衛はどうなったか
      わからないが、題目が「武衛様御生害の事」となっているのでわかるだけで実際死亡したの
      か、その死を間接に述べたのかよくわからない。 
  
      D七月十八日、柴田権六が清洲勢を攻める。川尻左馬丞・織田三位討ち取られる。脚注で
      は天文二十三年のこと。孫三郎も信長も参加していない。あしがる衆として、太田又助・木村
      源五が顔を出しているが、これは後年に木村次郎左衛門・木村源五のセットが出てくるので
      木村源五を介して、太田又助=木村次郎左衛門を暗示したと思われる。この戦いは敵方
      の立場から述べている。

      E坂井大膳、孫三郎を頼る。彦五郎と孫三郎を守護代とする案を出し、四月十九日、孫三郎
      が清州の城の矢倉に入る。このとき信長と領国分割の約束が出来ていた。脚注によれば
      翌年弘治元年(1555年)のころ、

      F四月二十日、孫三郎、坂井大膳追放、信長に清州城進上。自分は那古野へ移った。
 
      Gその年の十一月二十六日、孫三郎遷化。

 この一連の動きのなかでBの梁田の記事が全体に効果をおよぼしており信長の陰謀があったと
いっていると思います。太田牛一も登場してくるのであやしいものです。
 E坂井大膳が孫三郎と手を組んだことが成功のもとですが、これは清須五郎が希望または支持した
ということであれば大膳がそうしたことに無理がなかったと思われます。すなわち梁田の親しい那古
野弥五郎を清須五郎と解するとスタートが見えてきます。 
 Gは甫庵では孫三郎が男女関係のもつれから殺されたということですがそれも梁田の係わりがある
のではないかと思われます。梁田が出世したのは桶狭間の活躍といわれていますが清洲城の叙述の
ところで出世に触れているのでその功績を信長が買っていたからと思われます。したがって相当のことを
やったということで陰謀を梁田で象徴的に述べたということだと思います。
あとで坂井大膳(坂井氏)のうらみが梁田に及んだのかもしれません。

(8)孫三郎の死    
次は孫三郎の死について甫庵の記事ですがわかりにくい話を書いています。甫庵の前掲の文の続き
です。

     「()かかる処に、孫三郎殿は不慮に同十一月廿六日の夜に入りて、近習の坂井孫八郎
     と云う者殺しけり。其を如何にと尋ぬるに、彼の北の方、内々孫八郎と心を通はしける
     に、其の事漏れ聞こえしかば、彼の妻と心を合わせて殺しけるとぞ聞こえし。
      坂井大膳と約変あるべからざる旨、堅く契約せしが、その甲斐もなく、清洲の城を方
     便(たばかり)取られければ、起請文の罰と云いならわしける。●又一家の総領を情けな
     く討ち玉える罰にて候べきと申す人も多かりけり。
     () 孫八郎は翌日熱田の田島肥後守と云う者の所へ落ちたりしを方便(たばか)り呼び
     寄せ、佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門、赤川三郎右衛門尉、土肥孫左衛門
     尉、矢島四郎右衛門尉、彼ら六人して討つべきとの事なりしに、彼の者用心きびしうし
     てければ、方便(たばか)つて討つべしとて、矢島と孫助は、空喧嘩を仕出して、矢島
     、彼の孫八郎をぞ討つたりける。其の比は、したりや矢島六人衆とぞ、片言いうなる
     嬰児までも、口号(くちずさみ)にぞしたりける。」〈甫庵信長記〉

この記事は()()の二つの部分から成り立っていますが、()で孫三郎は坂井孫八郎に殺された
ことがわかります。それは孫三郎夫人をめぐっての男女関係のもつれのようです。

 A、殺害者は坂井孫八郎で、加害者、被害者、両方とも「孫」です。

 B、北の方をめぐってということですが、北の方は内々坂井と心を通わせていた

ということを書いています。これは、結論から言えば、
        孫三郎(男性)−−ー北の方(女性)ーーー坂井孫八(男性)
の三角関係があったようです。
織田信秀と信秀夫人(土田氏)が結婚したときに、織田側が立てた男性は孫三郎であろうと思わ
れます。そうなれば孫三郎と信秀夫人の子が二男勘十郎信行で、孫三郎は信長のいまでいう義
父となります。再掲〈甫庵信長記〉の記事

    「是も備後守殿御逝去の時、舎弟孫三郎殿に、信長事は其の方へ任せ置くの条、諌争を尽く
    し守り立て給え、信長もまた父と思うべしとて、終わらせ給いしが、誠にその言を違えず、伯
    父の恩賞浅からずとて、那古野の城に河東を相添え、孫三郎殿へ参らせらる。げにも君々た
    り臣々たりとぞ見えたりける。(ここまで再掲) 」

 織田信秀がここまで孫三郎を重要視していたのはなぜかということに疑問が出てきます。織田信秀4
の興隆に、この人物が果たした多大の貢献はいうまでもないことですが、信長の継父(そういう呼び方
があるのかわからないが継母のいまでいう夫)であったので、とくに勘十郎とのことを心配していったの
ではないかと思われます。「げにも君々たり臣々たりとぞ見えたりける。」という文句は皮肉らしいのです
が意味不明です。四郡の内、河東二郡と那古野城を与えたのでどちらが君で、どちらが臣かよくわから
ないといっているのか、どちらも策謀家で似たものどうしだといってるのか、そのあたりだと思いますが、
この大判振る舞い特別な思いがありそうです。太田牛一にとってもこの孫三郎対策が焦眉の急だった
と思われます。
信長は信秀の実子ですが信長の今でいう父は、信秀も信長と同じようなところへよく来ていたようなの
で(〈武功夜話〉)おそらく土田氏(夫人の実家)周辺の男性と思われます。
坂井大膳が孫三郎に近づいたことは、信秀亡きのち大きな影響力をもっている信秀夫人(信長継
母)と近づくことになり、ひいては自然と勘十郎のバックが築かれていきます。太田牛一や甫庵は
信秀夫人をよいように書いていますが、一方で夫人には、信長に冷たく当たるとか、男があったとか
の挿話もあったかと思います。
       @孫三郎ーーーーA北の方(信秀夫人)−−−−Bサカイタイゼン
の三角関係を暗示した、といえますが、これはまず@Aの関係が今でいう夫婦であったということを
示唆したものと思われます。ABの関係はまあよくわからないといったところでしょう。これは別のこと
をいっているようです。
孫三郎も信長の領地の半分を所有し隠然たる勢力を占めるにいたり、これは将来の布石でしたが
坂井のうらみを買って暗殺されたと思われます。坂井が孫三郎を殺すのは自然の流れだと思われ
ます。すなわち上の文に下線●の文があり、

      「又一家の総領を情けなく討ち玉える罰にて候べきと申す人も多かりけり。

となっています。これが坂井大膳の総領ならば、坂井の孫三郎闇討ちの気持ちも伝わってきます。
次の文の▲に関係すると思います。これは甫庵の再掲のもので()の前にある文です。

   「弘治元年正月の比より、清洲の守護代坂井大膳、内々思いけるようは、坂井甚助、川尻
    左馬允、織田三位など討ち死の上は、我一人して織田彦五郎殿を守り立て奉らん事も叶
    いがたかるべし。織田孫三郎殿と和解し、北の櫓には我が身座り、南の櫓には孫三郎殿
    を居(す)え申し、両人して彦五郎殿を守り立て申すべしと評定し、互いに堅く誓約して、弘
    治元年四月十九日に孫三郎殿を城中へ呼び入れ、則ち南櫓に移ししかば、一礼のため、
    ▲坂井大炊助、▼同大膳大夫参りける処に、大炊助を忽ち討ち殺しければ、さては誑(たぶ)
    られけるよな、無念類なしとて、大膳は取り敢えず落ち去りにけり。」
        
孫三郎が殺した総領というのはここの▲坂井大炊助と見るのが妥当でしょうから(今もこれで読まれ
ているはず、または甫庵は頼りなさそうだから読むに値しないとみられているかもしれない=しかし
〈甫庵信長記〉は禁制に遭いながらも江戸期では市販されていた。読む感覚が違っていたはずだか
らこの一文は重要。)坂井大膳の一族のようである坂井孫八郎が怒って孫三郎を討ったことは十分
考えられることです。理由を三角関係のもつれにしたというのは、孫三郎と坂井孫八郎を男性と思わ
せる意味があると思いますが、他愛さも出そうとしている、これを討つのが矢島六人衆という得体の
知れない連中ですから、そういえると思います。
〈武功夜話〉では家康祖父の徳川清康が殺された「守山崩れ」は阿倍弥八郎というものが下手人だ
とされたことが書かれたいますが、「弥」も思わせぶりな字であり、坂井孫八郎と重ねようとしたものも
あります。
〈武功夜話〉などによると、当世代のことと、次の世代のことが重なって述べられていることが多々あり
ます。信秀のことか、信長のことかと迷うこともあります。この挿話は、もう一つ後代の話を述べるのが
主眼となっている、そのために坂井を出して来ていると思います。
     マゴサブロウ(世代の違う孫三郎)ーーー北の方(信長夫人)ーーーー坂井サエモンノジョウ
の関係も表しているようです。
信長夫人(胡蝶)のパトロンはサカイサエモンノジョウでしたので、ここで「坂井孫八郎」をもってきた
ことが考えられます。すなわち坂井孫八郎は、あの六人衆堀田の「孫七」の、続きの孫八となり坂井
左衛門尉と宛てることができます。
こうなると信長夫人の本来の相手も孫三郎に関係するかと思われます。勘十郎の男性の兄弟とする
とこれはマゴサブロウとなります。
サカイサエモンノジョウは信長夫人と関係があったことは確実なので、示し合わせて亭主(信長)と
テイシュを排除しようとした、そして成功したといいたいことは考えられます。要は戦国最大の事件、
織田信長すりかわりのことへのあてつけがこの甫庵の記事だと思われます。

)の話もよくわからないところがあります。再掲

     「孫八郎は翌日熱田の田島肥後守と云う者の所へ落ちたりしを方便(たばか)り呼び
     寄せ、佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門、赤川三郎右衛門尉、土肥孫左衛門
     尉、矢島四郎右衛門尉、彼ら六人して討つべきとの事なりしに、彼の者用心きびしうし
     てければ、方便(たばか)つて討つべしとて、矢島孫助と、空喧嘩を仕出して、矢島
     、彼の孫八郎をぞ討つたりける。其の比は、したりや矢島六人衆とぞ、片言いうなる
     嬰児までも、口号(くちずさみ)にぞしたりける。」〈甫庵信長記〉

 この坂井孫八郎が逃げた場所が 「熱田の田島肥後守と云う者の所へ落ちたりし」となってい
てここに庇護を求めたということでしょう。田島肥後守は信長が桶狭間の凱旋にあたって熱田大明
神に立ち寄り、戦勝の御礼に宮の総修理をしようとしてその奉行を
        「田島千秋などに仰せられて、」〈甫庵信長記〉
というところで出てきます。
また信長公も武田戦の凱旋に熱田へ寄ったときに
        「神官の田島丹後守、惣検校千秋喜七郎、」
が神酒捧げて出てくるというところで紹介されています。(〈甫庵信長記〉)
要はこの坂井孫八郎という人物を使って熱田神宮へ注目させようとしていると思われます。
次に()の判らない矢島六人衆ですが坂井孫八郎を討って快哉を叫んでいます。

   「佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門、赤川三郎右衛門尉、土肥孫左衛門尉、
    矢島四郎右衛門尉、」

で矢島が坂井を討っています。六人衆の心当たりはあの信長の六人衆しかありませんが、
ここは小豆坂七本鑓の孫三郎を除いた六人が列記された六人衆が該当すると思います。

   「・・・大将孫三郎殿引き返しけるに・・・・返し合わせたる人々には、織田造酒丞・下方左近
   (其の時は弥三郎とて十六歳)、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其の弟孫助十七歳、中野
   又兵衛十七歳、其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。・・・・」

これから年齢とか余分なものを除去し、孫三郎が引き返してしまったので除きますと、小豆坂は六人
となりこれは、
   「織田造酒丞、下方左近、、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、佐々孫助中野又兵衛
となり矢島六人は
   「佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門、赤川三郎右衛門尉、土肥孫左衛門尉、矢島四郎」
ですからこの二つの対比となります。また、佐々孫助と矢島四郎右衛門尉とが、空喧嘩をしたようなの
で重点を「佐々と矢島」に置けばよく
           佐々孫助、        中野又兵衛
           佐々孫助         矢島四郎右衛門尉
となり、矢島が坂井を討ったということは自分(太田和泉=中野・矢島)が坂井を倒したといいたか
ったと思われます。矢島は八嶋、八島に通ずるものでしょうし四郎右衛門尉は四郎・右衛門尉と分
わけられないか、と考えてみるのもよいのかもしれません。
まあこの二つの六人衆の対比となっているということは、小豆坂の記事で

     「後まで小豆坂の七本鑓とて、児童の口まで、止まりけるこそ勇々しけれ。」

と囃している、これが、矢島六人衆の

     「したりや矢島六人衆とぞ、片言いうなる嬰児までも、口号(くちずさみ)にぞしたりける。」

といいまわしが似ているからそういってもよいのではないかと思います。
まあ本当にいたいことは
   信長六人衆は本当は七人で   堀田孫七は除外でこれは特別
   矢島六人衆は本当は七人で   織田孫三郎除外でこれは特別
ということをいおうとしたのであろうということです。

(9 )太田和泉と清洲
  矢島・中野が太田和泉を表しているように清洲の重要局面で牛一が登場します。さきほどの甫庵
の文(再掲) 
 
   「 彦五郎殿も、一度に落ちんとし給いしを取り廻し、中々落し申すまじきぞや、只是れにて
   御自害候えと申しけれども、夜に入り紛れ出でんとや思い給いけん、兎角して時を移されける
  に、
     兼ねて信長卿相図を定められければ、狼烟の挙がると等しく、那古野より一刻に懸け付
    け、孫三郎殿と一手に成りて、彦五郎殿の籠り給いたる屋形を、七重八重に打ち囲み、只
    平責(ひらぜめ)に責めよとて下知し給いければ、なじかわ少しもためらうべき。吾先きに押し
    入らんとするを見給いて、屋上に上がり給いしを、■森三左衛門尉隙間をあらせず、引き続い
    て、終に首をぞ給わりける。
    かくて清洲の城には、信長卿御座しましける。かかりしかば当国大半、御手に随いけり。」

 ここで先ほどの甫庵の記事が〈信長公記〉と違っています。冒頭の〈信長公記〉の記事では、孫三郎が
坂井大膳を殺そうとして待ち伏せていたのでその気配を感じて坂井大膳が逃げたことになっています。
そのあと、守護代織田彦五郎殿を押し寄せて腹を切らせ、清洲の城を乗っ取り、信長に進上したことに
なっていました。
この甫庵の記事では下線の部分で彦五郎の所作が間延びしており、脱出する積もりもなく自害する積
もりもないように見受けます。
 〈信長公記〉では孫三郎に殺されたことになっているのに、ここでは織田信長が侵入後殺されたことに
なっています。内容が違うことや、この■が太田牛一でもありこれも考えあわせると彦五郎はここでは死
ななかったのではないかと思われます。
 それが那古野弥五郎をもってきた意味と考えられます。那古野弥五郎は梁田の知り合い、織田信長
に敵対しなかった協力的人物です。つまり織田彦五郎は殺したが那古野弥五郎は殺したわけではない
ということでこのややこしい人物を造形したといえます。この「五郎」がのちに生きていることの証に役立
つのではないかと思います。
〈信長公記〉清洲のくだりに「太田又助」が登場してきた、この〈甫庵信長記〉の清洲落城の瞬間に「森三
左衛門」が出てきた、清洲城を手に入れたということについて最も策動を廻らしたのは太田弥三郎牛
一・梁田弥次右衛門の「弥」のコンビであったといいたかったといえます。これがそっくり桶狭間で出てき
たわけで、このころ太田和泉は織田信長の覇権確立に東奔西走、謀略の限りを尽くしていたということ
が窺い知ることができると思います。孫三郎について主筋の人なのでとくに苦心したと思いますが孫三
郎に借りがほかにあったのではないかとも考えられます。

(10)織田五兄弟
〈信長公記〉の初めに

     「今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。」

というのが出てきました。これは「今の備後守」は「先の備後守」があるのかと思わせます。備後守
と備後殿も出てきたりしますので、本来生まれた順にしますと順番が違うのではないかと思われます。
 
    「孫三郎・舎弟与二郎殿・今の備後守・四郎二郎・右衛門尉」

であったのではないかと思います。
備後守は、月巖の実子で、三番目であった、二番目の与二郎は月巖夫人の実子とみる、一番目の
孫三郎は男性であったので三番目に書かれたのではないかということです。これは直感的には信長が
三郎信長とされているから感じられるものです。(辞書の意味であれば伯父であることもおかしい)
また
    
      「織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かわりの舎兄なり。」〈信長公記〉

という記事があるので、信長に一人兄が居る、それなのに三郎ですからこれも引っ掛かってきます。
孫三郎は月巖の長子であったが、これが(マゴサブロウ)であったと考えると、月巖の地位を相続すること
できません。しかし武勇と才覚があって、古渡織田の興隆には多大の貢献があったとすると三男の
備後守との関係もやや複雑になると思われます。織田信秀ほどの名将が、新興の斎藤道三に無謀
な戦をいどみ完膚なきまでに叩かれてしまうということも少し考えにくいことで、軍に違う意見があつた
のではないかと勘ぐられますが、ここで先の甫庵の●の記事が問題となります。
記事を再掲しますと、

     「坂井大膳と約変あるべからざる旨、堅く契約せしが、その甲斐もなく、清洲の城を方
     便(たばかり)取られければ、起請文のと云いならわしける。●又一家の総領を情
     けなく討ち玉えるにて候べきと申す人も多かりけり。」

となっています。一家の総領を討つというのは穏やかではありませんが、これは常識的には坂井大炊
助を討ったことをいうこと(これが総領かどうかはわかりませんが)だろうと決めて納得してしまいますが
それなら総領と書く必要がなく筆者も何のことかわからずしばし保留にしていました。名手にしては書き
方が少し変です。

   「弘治元年四月十九日に孫三郎殿を城中へ呼び入れ、則ち南櫓に移ししかば、一礼のため、
    坂井大炊助、▼同大膳大夫参りける処に、大炊助を忽ち討ち殺しければ、さては誑(たぶ)ら
    れけるよな、無念類なしとて、大膳は取り敢えず落ち去りにけり。」

下線の▲が総領と読めるか、▲が夫人で▼が長男かもしれないわけです。坂井大膳大夫ということです
から、一応夫人とみてもよいかもしれませんが、この人物は連れて逃げたと思われます。大膳のいまで
いう夫、▲のという存在サカイダイゼンが存在すると暗示したのかしれませんが、とにかく何も係累が書
いてないから一族かもしれないので想像して、逆にここから総領と読ませたのではないかと取れたといえ
ます。
罰が二つあって、坂井大炊助を討ったこと、これは起請文の罰で孫三郎殿が坂井大膳との約束を反古
にしたという面はこの起請文の罰にに含まれるといってもよいかと思います。
●のことはいいにくいことですが、
         孫三郎が信秀を何らかの方法で討った
といっていると思います。
それらしい記事が一件だけあります。〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉ですが〈信長公記〉のものがとくに
わかりにくいので、わかりにくく書いていることが分ればよく、意味は甫庵の方で掴んで下さい。
 〈信長公記〉首巻の見出しに

  「四、みのゝ国へ乱入し五千討死の事」
  「五、景清あざ丸刀お事」
  「六、大垣の城へ後巻の事」

がありますが、四は信秀が美濃に攻め込み道三を稲葉山城に追い詰めた戦いです。

  「四、去て備後殿は国中頼勢なされ・・・・或時九月三日、尾張国中の人数を御頼みなされ美濃国へ
  御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推し詰め焼き払い、
  町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引き取り候所へ、山
  城道三ドッと南へ切ってかかり・・・・歴々五千ばかり討ち死になり。」

夕暮れになって退こうとして半分ぐらいが引き取ったときに逆襲をくらい大敗五千が討ち死にしたという
記事が載っています。このあと、五の記事があり、これが読み込まれていないようです。意味がよくわか
りませんのであとの甫庵の記事で補うとよいようです。

   「五、先年尾張国より濃州大柿の城へ織田播磨守入置かれ侯キ。
   去る九月廿二日、山城道三大合戦に打ち勝ちて申す様に、尾張の者はあしも腰も立つまじく候
   間、大柿(大垣)取り詰め、この時攻め干すべきの由にて近江のくにより加勢を頼み、霜月上旬、
   大柿の城近々と取り寄せ候キ。
    爰に希異の事あり。去る九月廿二日大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後に
   さされたり。此の刀、陰山掃部助求め、さし候て、西美濃大柿の並びうしやの寺内とてこれあり。
   成敗に参陣候て、床机(几)に腰をかけ居陣の処、■さんさんの悪しき弓にて、木ほうをもって
   城中より虚空(そら)に人数備えの中へくり懸け候えば、
陰山掃部助左のまなこにあたる。
   其の矢を抜き候えば、又二の矢に右の眼を射つぶす。
    其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻りに相煩う。此の刀
   所持の人は必ず目を煩うの由風聞(ほのきき)候。熱田へまいらせられ然るべしと、皆人毎に異
   見候。
   これに依つて熱田大明神へ進納候てより即時に目もよくまかりなり候なり。」
 変な挿話が入った後つぎの記事は道三が仰天する記事です。 

   「六、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄るの由注進切々なり。其の儀
   においては打ち立つべきの由候て、霜月十七日、織田備後守殿後ろ巻きとして、又頼み勢
   させられ・・・・・美濃国へ御乱入・・・道三仰天を致し井の口居城へ引き入るなり。
   か様に程なく備後守殿軽々と御発足、御手柄申すばかりなき次第なり。
    霜月廿日、此の留守に尾州の内清洲衆、備後殿古渡新城へ人数を出し、町口放火候て、御敵
   の色を立てられ候。かくのごとく候間、備後殿御帰陣なり。是より鉾楯(むじゅん)に及び候キ。」

 となっていて清洲勢坂井大膳などが叛旗を翻し、平手が講和して喜ぶ先稿の記事につながることに
なります次はこの間の甫庵の記事です。

   「(天文十六年信長14歳の年)同九月三日に美濃国へ打ち越え在々所々を焼き払い、同
   廿二日に斎藤山城入道道三が楯籠もりし稲葉山の山下の近辺に推し寄せ放火し、既に彼の
   町口まで推し詰めしが、日、暮山(ぼざん)に及びければ、明日こそ寄せめとて、勢を引き取らん
   としける所に、山城守打ち出でて、時をドッと作りかけ、切つて懸かりける。・・・・・侍大将十余人、
   其の外雑兵五千余人討たれにけり。・・・・・かくて道三大利得しかば、此の競(きおい)に先年
   尾張国より、当国大柿城に入れ置きたる織田播磨守を攻め討たんとて、近江国より加勢を乞い
   同霜月の始つかた、大柿城へ押し寄せ、二重三重に取り巻き、持楯掻楯を、突き寄せ突き寄せ
   攻めける間、敵味方の時の声、矢叫びの声、鉄砲の音、山河を動かす計りなり。爰に陰山掃部助
   という者、勢を分けて牛屋の寺内を、焼き払わんとて向いけるが、床几に腰を懸け、諸卒を下知し
   て居たる処に、寺内より流れ矢来たつて、陰山が左の眼(まなこ)へ二寸計り射込みける。其の
   矢を抜いたるに、又矢一つ来て右の眼を射つぶす間、起たんとす起ち得ず、行かんとすれども行
   けずして、只茫然としてぞ居たりける。俄かに両眼射つぶされける事、唯事に非ざれば、其の故を
   何にと尋ぬるに、皆平家の侍大将悪七兵衛景清が、差したりしあさ丸と云う太刀を、去んぬる九月
   廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守が最後に注したりけるを、此の陰山求めて差したりしが、幾程
   なくて盲目に成りし事こそ不思議なれ。其の後丹羽五郎左衛門尉長秀が手へ廻りしに、長秀も眼
   もっての外煩いしかば、さては此の刀所持の人は必ず目に祟りありと云う沙汰しければ、所詮熱田
   大明神へ進(まいら)せよとて、宝殿に納めしかば、即時に眼病平癒しけるとかや。」

となっていて〈信長公記〉のわかりにくいところを補っていると思います。たとえば織田勢が稲葉山の手
前なぜ引きあげたのかわかりませんでしたが、明日こそ攻め寄せようとしたようですし、■のややこしい
表現は結局、陰山掃部助は流れ矢に当たったと意味と取ったということがわかります。

(11)陰山掃部助
ここで〈信長公記〉の文を再掲し語句を中心にあたって見たいと思います。要は陰山掃部助が一匹狼
であろうということです。
信秀美濃の出陣の次第が次の4〜6でした、

   「四、去て@備後殿は国中頼勢なされ・・・・或時九月三日、尾張国中の人数を御頼みなされ美濃
   国へ御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推し詰め焼
   き払い町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引き取り候
   所へ、山城道三ドッと南へ切ってかかり・・・・歴々五千ばかり討ち死になり。」

    五、先年尾張国より濃州大柿の城へ★織田播磨守入置かれ侯キ。
   去る九月廿二日、山城道三大合戦に打ち勝ちて申す様に、尾張の者はあしも腰も立つまじく候
   間、大柿(大垣)取り詰め、この時攻め干すべきの由にて近江のくにより加勢を頼み、霜月上旬
   大柿の城近々と取り寄せ候キ
    爰に希異の事あり。去る九月廿二日大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後に
   さされたり。此の刀、陰山掃部助求め、さし候て、西美濃大柿の並びうしやの寺内とてこれあり。
   成敗に参陣候て、床机(几)に腰をかけ居陣の処、さんさんの悪しき弓にて、木ほうをもって
   城中より虚空(そら)に人数備えの中へくり懸け候えば陰山掃部助左のまなこにあたる。
   其の矢を抜き候えば、又二の矢に右の眼を射つぶす。
    其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻りに相煩う。此の刀
   所持の人は必ず目を煩うの由風聞(ほのきき)候。熱田へまいらせられ然るべしと、皆人毎に異
   見候。これに依つて熱田大明神へ進納候てより即時に目もよくまかりなり候なり。」
   
   六、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄るの由注進切々なり。其の儀
   においては打ち立つべきの由候て、霜月十七日、A織田備後守殿後ろ巻きとして、又頼み勢
   させられ・・・・・美濃国へ御乱入・・・道三仰天を致し井の口居城へ引き入るなり。
   か様に程なくB備後守殿軽々と御発足、御手柄申すばかりなき次第なり。
    霜月廿日、此の留守に尾州の内清洲衆、C備後殿古渡新城へ人数を出し、町口放火候て、御
   敵の色を立てられ候。かくのごとく候間、D備後殿御帰陣なり。是より鉾楯(むじゅん)に及び候
   キ。」

四は九月廿二日の敗北の記事ですが@備後殿は織田信秀です。
五は霜月上旬の大垣攻城戦の記事です。ここに★の人物が出てきましたがこれは完全なる一匹
狼の人物で、これが先年大垣に配属されたと書かれています。また五の前の方、「去る九月廿二日、」
という語句は、4に九月廿二日があるから、合戦してに勝った日という意味なら要らないものです。合戦
の日をさすなら、その後にも「去る九月廿二日大合戦の時、」という表現がありますから、よけいに不要
なことがわかるというものです。
この二つに挟まれた「九月廿二日、」は必然的に「申す様に」に懸かると取られてしまいます。つまり大
垣の食料攻めは、あの大合戦の継続手となります。これは★の人物が城主であることが前提の作戦だっ
た、もうあの日に次の手を語っていたのでそれがわかるといえます。
この★の人物が織田孫三郎ではないかと思われます。
 次の陰山掃部助が問題です。すなわちこれがどちら側の人物かがわからないのです。
一つは、これが守る方の側(大垣城)の人物と読めます。「成敗(せいばい)に参陣」「床机に腰掛け」で
すから一方の大将であるのは間違いないところです。うしやの寺内(牛屋山大日寺)にいて、これは「大
垣の並び」ですから大垣城内とはいえないが、近いところ、陰山は勢を分けて牛屋の寺内を焼き払おう
と向ったが寺内からやられた(〈甫庵〉)ようです。まあ干し攻めですから、封鎖拠点を焼こうとしたと取れ
ます。もちろん斎藤の将が、攻め方として牛屋の攻略中にやられたともとれます。この場合、陰山が一
武将とすると単なる状況報告になりますが、この刀は国宝級のものですので、かつ熱田に奉納されたほ
どのものですから陰山は織田の総大将信秀を宛てているととるのが無難です。すなわち孫三郎の救
援に、織田信秀が駆けつけたという設定になります。救援に来て、うしやの寺内というところで作戦中、
城中からやられたわけです(〈信長公記〉)流れ矢ということもありますが、「さんさんの悪しき弓」、
左の眼に射込まれて、抜いたととたんに右をつぶされる、まあ狙われたとみるしかなく、身方に射られた
といいたかったようです。
 熱田へこの刀を進納すると眼もよくなったという記事もありますから、これは眼をやられたのではなく重
傷を負って、結果的には熱田で病気を癒そうとしたと思われます。
@の備後殿と、六のCDの備後殿とは同じで、これが織田信秀で、六のABの備後守殿は織田孫三
郎でしょう。

    「B備後守殿軽々と御発足、御手柄申すばかりなき次第なり。」

となっていてこれがおかしいという記事です。あれほど信秀が打撃を蒙ったではないか、それが軽々
と出てきた、道三が逃げてしまったのもおかしいようです。手柄などない、斎藤道三とつるんでいたので
はないかというのがいいたいところでしょう。結んだ相手はサイトウドウサンかもしれません。

(12)坂井左衛門尉
陰山掃部助は攻め方としても理解できて、攻め方としてうしやの寺内に出張って指揮していたときに城
内から弓で射られてやられたということで自然ですが、これも正解、この場合、眼を射られたのが坂井
左衛門尉といいたいと思います。熱田、田島千秋を頼って落ちて矢島に討たれたということになります。
丹羽五郎左衛門はあざ丸の刀を入手したのは信長から貰ったのか、信長でなかたらどこから、ご褒美
としていただいたものか、という皮肉もあるでしょう。徳川サカイサエモンノジョウへの攻撃は当時の史
書の共通したテーマです。それらしいところ抜粋して字句だけ追ってみます。

     
孫三郎殿は不慮に同十一月廿六日の夜に入りて、近習の坂井孫八郎
     と云う者殺しけり。其を如何にと尋ぬるに、彼の北の方、内々孫八郎と心を通はしける
     に、其の事漏れ聞こえしかば、彼の妻と心を合わせて殺しけるとぞ聞こえし。」

     「孫八郎は翌日熱田田島肥後守と云う者の所へ落ちたりし・・・・・・・・矢島、彼の
     孫八郎をぞ討つたりける。」

     信長、熱田にきて 「田島千秋などに仰せられて、」〈甫庵信長記〉

     信長公、「神官の田島丹後守、惣検校千秋喜七郎、」に会う
   
     「に希異の事あり。去る九月廿二日大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を
      最後にさされたり。此の刀、陰山掃部助求め、さし候て、・・・・・(矢が)陰山掃部助
      のまなこにあたる。其の矢を抜き候えば、又二の矢に右の眼を射つぶす。」

     「其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻りに相煩う。
     此の刀所持の人は必ず目を煩うの由風聞(ほのきき)候。熱田へまいらせられ然るべしと、
     皆人毎に異見候。これに依つて熱田大明神へ進納候てより即時に目もよくまかりなり候なり。」
   
     「酒井忠次(1528〜1596) 左衛門尉、左衛門督。西三河衆の組頭。晩年は盲目であった。
     (桑田忠親氏「酒井忠次伝」) 」〈信長公記人名注〉 
    
     「坂井大膳・・・・・逃げ去り候て、直(すぐ)駿河へ罷り越し、今川義元を頼り在国なり。」

坂井孫八郎は田島丹後守のところへ落ちました。あざ丸という刀は
あざ丸ーー千秋紀伊守ーー陰山(信秀)ーー熱田神宮ーー田島丹後守ーー丹羽長秀
となり、北の方がキーワードで
坂井孫八郎ーー熱田田島ーー北の方ーー信長公ーー検校千秋ーー丹羽長秀眼病ーー坂井左衛門尉
というような連がりとなるのでしょう。
徳川攻撃の話がよく出てきていますが、見方が偏ってはいけないということで、触れずにおこうというわ
けにはいかないものです。サリンテロなどの大殺傷事件も、現在は法治国家の中の、犯罪として糾弾し
ていますが、過去は、臆面もなくそういうテロ活動した方が政権を作れたし正当化できたわけです。
後世の人からみれば、流れて来たものを受容して(せざるを得ない面もあって)、結果、一方的に悪い
というわけにはいかない、どんな政権でも、功罪はあるよという、一見公平らしい評価ですべてを総括
してしまいがちです。
当時の現実はどうで、人がどう考えていたかをみることが要ります。立場立場を超えたような
普遍的な価値基準を模索しつつ、選択し行動しているのは、今も当時も同じですから、その渦中
にある人が下した判断結果を一旦とらえようとしなければ、今後に積み上がっていきません。
 信秀は孫三郎によってやられて信長によって復讐されたというのが事実だったと思います。勘十郎
の謀殺もこの流れの上にあったと思われますが、そのときはもう孫三郎はいなかったので危機とい
うほどでもなかった、柴田らが勘十郎を担いだため起こっ悲劇だったと思われます。勘十郎子息、
織田七兵衛信澄は明智光秀息女の夫であり、明智が引き立てていますので特別ここの清洲城、孫
三郎事件は太田和泉の心に残ったものであったと思われます。

(12)織田三郎五郎
先ほど、坂井とマゴサブロウの関係から、信長夫人もあてつけられっているということを話ましたが
、その相手であるマゴサブロウにあたる人は誰かが問題となってきます。信長には庶兄がいる、それ
が織田三郎五郎であることを〈信長公記〉が述べています。
この人物がなぜ「三郎」というのかというのがどうしても引っ掛かる問題です。信長も三郎信長で、三郎
が重要なようです。
織田月巖の長子織田孫三郎は正式の後継とみなされず、正統とされた備後守が跡目を継ぎ、その子
信長に宗主権が継がれた、孫三郎の子が三郎五郎であったが、こういう事情で、この三郎は庶兄という
位置づけになっていると思われます。ヘマをやって信秀が能無しとしてサジを投げたといわれているよう
ですがそんなことは作り事でしょう。
胡蝶が織田家に嫁いだときにその相手はこのサブロウ五郎ではないかというのが、今までの話から
類推できることです。この五郎はあの那古野弥五郎の名前が広信でしたので、三郎五郎が信広なので
なんとなく書き手が誘導した名前のようで、それに乗れば那古野弥五郎とサブロウが夫婦ではないか
と思われます。
北の方と坂井の間がバレてしまったので、テイシュを殺してしまったという挿話をつくったことが
、後年の坂井サエモンノジョウと信長夫人のことを皮肉った、あるいはヒントを与えたというので
あればこのサブロウも命を奪われたということになりますが、この人は戦死しているようなので、
それが原因かとかいうきわどい話になってきます。
この三郎はのち織田大隈守として敬語をいれて語られている人物で、津田大隈守になったら敬語
が取れた人物で、問題の多い長嶋陣で戦死したようです。信長公記人名注索引によれば

    「織田信広( 〜1574)三郎五郎。信長の別腹の兄。津田を称した。大隈守。美濃の
    斎藤義竜とはかり、清州城を奪取しようとしたが未遂。
天正二年七月伊勢長島で戦死。
    (〈言継卿記〉永禄十二年七月十五日条)」

となっています。これは太字の部分が、あの孫三郎と映しになっているのではないかと思われます。
道三と組んだのが孫三郎であり、清洲城を奪取しようとしたのも孫三郎ですから、似ているのではな
いか、三郎五郎は孫三郎ジュニアであろう思わせようとして出た語りでであろうとも思われます。
信長が清洲城へ入った後敵対したのは尾張半国の主、岩倉の織田伊勢守で、三郎五郎ではないよう
です。
    「尾張国半国の主織田伊勢守、濃州の義竜と申し合わせ御敵の色を立て、信長の舘清洲
    の近所下の郷と云う村放火の由」〈信長公記〉

とあるのによりますがこれは伊勢守で別人であり、義竜も通常いう義竜である「新九郎はんか」(この時
点では出家している)ではない「今の新九郎義竜」で「ヨシタツ」ともいえる人物と思います。これは次の
長い文で三郎五郎の反抗が述べられている、読みづらい、わけのわかりにくい文ですから、あとで抑揚
をつけてみますが、一見して察せられるものでは織田三郎五郎もこれほどのことを企てる人物である、
もし成功すれば信長もあぶないと思います。しかし一方でこれは作り事と思わせるものもある、あぶなっ
かしいと思わせるものがこの文の晦渋なところです。

    「一、上総介殿別腹の御舎兄三郎五郎殿、既に御謀叛思食立(ごむほんおぼしめしたち)、
       美濃国と仰せ合され候様子は、何時も御敵罷り出で候へば、軽々と信長懸けわせられ候。
       左様に候時、彼の三郎五郎御出陣候へば、清洲町通りを御通りなされ候。必ず城に留守に
       置かれ候佐脇藤右衛門罷り出で馳走(ちそう)申し候。定めて何(いつ)ものごとく罷り出づべ
       く候。其の時佐脇を生害させ付け入りに城を乗つ取り、相合の煙を揚ぐべく候。即ち、美濃
       衆川をこし近々と懸け向うべく候。三郎五郎殿も人数出され、御身方の様にして、合戦に及
       び候わば後ろ切りなさるべしと御巧(たくみ)候て、仰せ合わせられ候。美濃衆、何々(いつ
       いつ)よりうきうきと渡りいたりへ人数を詰め候と注進これあり。
       爰にて信長御諚には、去(さ)ては家中に謀叛これありと思食され、佐脇城を一切出る
       べからず。町人も惣構えをよく城戸(きど)をさし堅め、信長御帰陣候迄人を入るべからず、
       と仰せられ候て懸け出させられ、御人数出で候を、三郎五郎殿きかせられ、人数打ち
       ふるい清洲へ御出陣なり。三郎五郎殿御出と申し候えども入れ立て候わず。謀叛聞こえ
       候かと御不審に思し食し、急ぎ早々御帰り。美濃衆も引き取り候キ。信長も御帰陣候なり。
     一、三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、御取り合い半に候。御迷惑なる時見次(つ)ぐ
       者は稀なり。
       か様に攻一人(せめいちにん)に御成るり候えども、究竟の度々(たびたび)の覚えの侍
       衆七・八百甍を並べ御座候の間、御合戦に及び一度も不覚(ふかく)これなし。」

これを少しでもわかりやすくするように色合いをつけて調整してみます。重要なことは広く一般に知られ
るようにされた〈甫庵信長記〉にこの記事はないということで〈信長公記〉にのみあるということです。

    「一、(1)上総介殿別腹の御舎兄三郎五郎殿、既に御謀叛思食立(ごむほんおぼしめしたち)、
       美濃国と仰せ合され候様子(内容)は、
        何時も御敵罷り出で候へば、軽々と信長懸けわせられ候。左様に候時、
       彼の三郎五郎御出陣候へば、清洲町通りを御通りなされ候。必ず城に留守に置かれ候
       佐脇藤右衛門罷り出で馳走(ちそう)申し候。定めて何(いつ)ものごとく罷り出づべく候。
       其の時佐脇を生害させ付け入りに城を乗つ取り、相図の煙を揚ぐべく候。
       即ち、美濃衆川をこし近々と懸け向うべく候。三郎五郎殿も人数出され、御身方の様にし
       て、合戦に及び候わば後ろ切りなさるべしと御巧(たくみ)候て、仰せ合わせられ候

       (2)「美濃衆、何々(いついつ)よりうきうきと渡りいたりへ人数を詰め候」と注進これあり。
       
       (3)爰にて信長御諚には、
        去(さ)ては家中に謀叛これありと思食され、佐脇城を一切出るべからず。町人も惣構え
       をよく城戸(きど)をさし堅め、信長御帰陣候迄人を入るべからず、
       と仰せられ候て懸け出させられ、御人数出で候を、
       三郎五郎殿きかせられ、人数打ちふるい清洲へ御出陣なり。三郎五郎殿御出と申し候え
       ども入れ立て候わず。
                 謀叛聞こえ候か
       と御不審に思し食し、急ぎ早々御帰り。美濃衆も引き取り候キ。信長も御帰陣候なり。
     
     一、(4)三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、御取り合い半に候。▲御迷惑なる時見次(つ)
       ぐ
者は稀なり

        (5)、か様に攻一人(せめいちにん)に御成るり候えども、究竟の度々(たびたび)の覚えの
       侍衆七・八百甍を並べ御座候の間、御合戦に及び一度も不覚(ふかく)これなし。」

便宜上(1)〜(5)の番号をつけました。
(1)の下線の部分が美濃と打ち合わせた謀叛の内容です。この話は信長が清洲城を奪取したあとの
ことで、城の城代が佐脇藤右衛門だったのでしょう。桶狭間で信長と清洲城を飛び出した利家弟佐脇
藤八の養父(〈武功夜話〉系図藤左衛門)といえます。三郎五郎にしてみれば、自分は佐脇の主筋の
人間で、味方の軍だから、佐脇に疑われることはないはずで、いつもの通りの振る舞いをすれば、迎え
入れてくれるはずだから、それに付け入ろうとしたわけでここだけみれば成功の確率がかなり高いもの
です。
(2)で情報の内容を「  」で括りましたが、これは戦をしようとするものに齎らされるものではないよう
です。「うきうき」という主観的なものもそうですが、「いたり」という到着地点の表記がこれを表してい
ると思います。まあ文面からは川を渡ったあたりということでしょう。
(3)で信長が出陣し清洲をあけたのちこの「いたり」へきた美濃衆に対するものでしょうが、このあたりで
信長の背後を襲い挟み打ちをしようとしたことがはじめてわかります。
 信長も「三郎」で文全体も「三郎」色です。信長は信秀の三男から三郎ではないか、三郎五郎は孫三
郎の「三郎」であろうということを述べてきました。
この一節のポイントは信長が三郎五郎の謀略を見抜いた点にあります。なぜ見抜けたかというのが
書かれていません。信長は先例があったから見抜けたわけです。
下線の部分の次の■●のところが決定打となりました。

       三郎五郎殿も人数出され、■御身方の様にして、合戦に及び候わば
        後ろ切りなさるべしと御巧(たくみ)候て、仰せ合わせられ候

すなわち、あのときの孫三郎が信秀を討つという行動を、三郎五郎が作戦として再現して語ったのが
この一節です。味方のようにして後ろからやったようです。太田牛一は、信秀暗殺と、その次第をここで
述べたわけですが■も匂うものです。
後ろの一の(4)と(5)が本当の話です。「取り合い半に候。」と出ていますから両勢力互角であった
ことがわかります。太字▲はテキストでは改行の具合で、(4)の後ろについていますが(5)の後ろに
つくものかも知れません。両方困った状態にあったのでしょうが、▲を(5)の前に付けて理解すると(5)
が生きてきます。両者の違いはこの統制のとれた強力なる七・八百にあり、太田和泉はまとめやくのよ
うな存在であったと思われます。後ろの一、(4)(5)の記述は一歩引いて現実的になっており、前の一、
(1)(2)(3)の記述が別の目的で書かれたと思わせるものがあります。
 またここで佐脇が出てきたこと、■もあることはあの三方原の戦いが絡んでいます。

(13)身方が原(三方原)
〈信長公記〉の身方が原の一節、これは重要なところだということで度々引用してきましたが忘れて
しまっていますので、キーワードだけ追っておきます。内容はまあどうでもよいところですから。

   「       身方が原合戦の事
    霜月下旬
    武田信玄・・・・二俣の城・・・・信長公御家老の衆、佐久間右衛門尉・平手甚左衛門・水野下野
    守・・・・遠州浜松・・・・家康・・・・浜松の城・・・・身方が原・・・・佐久間・平手・・
    ・・つぶて・・・・・一番合戦に平手甚左衛門・・・・家康公・・・・・成瀬藤蔵、
    十二月廿二日
    身方が原・・・・信長公・・・・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公
    ・・・・家康公・・・・・一番合戦・・・・具足屋玉越三十郎・・・・年比(としごろ)廿四・五・・・・・
    家康公・・・・弓の手柄・・・」

三方原は、この字が合っており〈武功夜話〉でも「三方原」です。これが〈信長公記〉では、ここの■の
「身方」が使われ「身方が原」となっています。甫庵でも「身方」の意味の「味方が原」です。身方は
佐脇が誘導してきた字句です。
すなわちあの三方原は織田が味方(徳川)にやられたという意味のこともいっているようです。
織田の損害が大きかったようですが、さらに輪をかけて佐久間信盛追放まで行ってしまいました。
〈信長公記〉角川文庫版補注では

     「この合戦(三方原合戦)の信長方の援軍を〈原本信長記〉では佐久間信盛・平手汎秀とす
      るが、〈信長公記〉では信元も林秀貞も来援したとある。」

となっています。信元は殺され、林秀貞も追放されましたから、これも徳川の横車によるものである
ことがいいたいために三方原に結び付けられています。
 佐久間の追放について〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に譴責書が載っていますが、両者違っています。
共通している文言は、信長公は、佐久間に「平手を捨殺し」したといっていることです。いわなくても
よいことが出てしまいましたから、本心は過去をよく知っている平手を追放したかった、戦死したから
そうしなかったということを語っています。
 〈甫庵信長記〉ではこの折檻状の条文は、13項目あり、日付が「天正八年八月十三日」ときちんと
書かれ、「信長」名で発信されています。
一方〈信長公記〉のは19条になっており、

   「を以って当末二ケ条を致すべし。」(ここをもってこの条項の終わりの二ケ条を実行せよ)

とあるので最後の二ケ条は実行内容として付記されたもので、折檻の意味はありませんので
19マイナス2=17条にした、と思われます。また、日付も「天正八年八月 日」となっており、署名も
されていないので、まず甫庵のものありき、でそれを焼き直して、いいたいことを述べようと細工した
ことがわかります。甫庵のものは自筆ということですが、大変難しい流れるような、こまかいところに眼が
行き届いた長文なので読書に趣味のないあの信長の自筆とは考えにくい文章と思われますがこれは
主観的なことだということになるでしょう。 しかし芭蕉に教えてもらった 「」の字が生きてきます。
〈信長公記〉の文の折檻状の締めくくりの部分です。

        「抑(そもそも)天下を申し付くる信長に口答え申す輩前代に始まり候状
        を以て当末二ケ条を致すべし。」

が結論ですが、この終わり二ケ条の内容は

      「一、此の上はいづかたの敵をたいらげ、会稽を雪(そそぎ)、一度帰参し
         又は討ち死にするものかの事。
       一、父子かしらをこそげ(剃り)、高野の栖(すまい)を遂げ、★連々を以って
         赦免然るべき哉の事。」

となっています。これは「一度帰参し」の部分を★のところに移動させて読むとすんなりいくと思いま
す。
      「一、此の上はいづかたの敵をたいらげ、会稽を雪(そそぎ)、
         又は討ち死にするものかの事。
       一、父子かしらをこそげ(剃り)、高野の栖(すまい)を遂げ、一度帰参し、連々を以って
         赦免然るべき哉の事。」

といっています。こうしなくても読めるかもしれませんが少し読みが難渋します。
 敵をたいらげる機会をを与えるわけではないので、討ち死にか、高野へ隠棲をさせたいわけですが、
とりあえずそうして一旦帰って、あとはそれからのことということでしょう。
項目が違った中でも語句の移動はありうるようです。〈吾妻鏡〉では次のようなものが出ています。
    
      「  (細目次)              (本 文)
      
      由比の浦に     一日・・・天晴る。南風悪し。今夕、由比の浦において、風伯の祭・・・・
      伯祭を行う       二日・・・天晴る。風甚し。ただし夜に入りて。(ルビ=以下脱カ
 
      三島社遷宮      三日・・・天霽る。風少し。今夕、雪下に三嶋新宮・・・・」

 「て。」のところ、尻切れトンボで、「て。」にルビ(小字)が入っています。三日の記事は風伯祭の記
事のことはではなく「風少し。」は「。」のあとに移動させて読むということになるのでしょう。
日付けが変わったなかでも移動ができる。もしくは三日の文はそのままにして、単に「風少し」を二日に
補充できるという意味ともなります。先の「一度帰参し」は両方にあってもよい、ということにも取れま
す。つまり 
       「一、此の上はいづかたの敵をたいらげ、会稽を雪(そそぎ)、一度帰参し
         又は討ち死にするものかの事。
       一、父子かしらをこそげ(剃り)、高野の栖(すまい)を遂げ、一度帰参し、連々を以って
         赦免然るべき哉の事。」
とするのも可能です。いやに一度帰参しが目立ちます。
いいたいところは、信長公の胸の内は早い機会に帰参させたいということにあります。次に
 「爰を以って」という文言がこの〈信長公記〉十七条の中に、二つにあります。その一つは

      「一、丹波国日向守の働き、・・・羽柴藤吉郎、・・・・・池田勝三郎・・・・是又天下の覚を取る。
        を以て我が心を発し、一廉(ひとかど)の働きこれあるべき事。」

であり、もう一つが、先ほどの「平手捨てころし」のある条にあります。

      「一、・・・・先年遠江・・・・家康使・・・おくれ(失敗)・・・兄弟を討ち死にさせ・・・然るべき
         内者(うちのもの)打死させれば・・・・一人も殺さず。あまつさえ、平手を捨てころし、
         世にありげなる面をむけ候(平気な顔をしている)儀、を以て条々分別なきの通り
         紛れあるべからざる事。」

この二つ、羽柴と池田に比べて働きのわるいことと平手のことが、当末二か条の実行を迫った内容
です。徳川への申し開きのため、二か条の実行をしたわけです。甫庵では前者には羽柴秀吉と池田
勝三郎を乗せ丹波国日向守はありません。これは明智光秀のことではなくて丹波国で明智日向という
人物が後方撹乱を行い光秀の足を引っ張っていますが〈戦国〉、その人物で、〈武功夜話〉でも明智日
向・明智日向守の二つの表記などをして、暗示しています。それが姓なしの「日向守」というようになって
いる理由でしょう。つまり荒木のあとの池田、秀吉、細川をほめ、平手をけなした徳川向けのゼスチュア
というのが太田牛一の変造の意図でしょう。
 〈武功夜話〉では一陣、佐久間、平手で、二陣が滝川一益となっています。なぜ資料が違うのか
とうことですが、〈信長公記〉が滝川を隠したというわけではなく、〈信長公記〉の三方原の記事が
漫画的に目的直結的に記述されているためのものです。すなわち十二月廿二日の文はすべて
三方原のことについて語っていないわけです。信長公家康公のことだけです。桶狭間の四人は
癒着を証言するあの四人の影のようなものです。身方が原の記事は

霜月下旬

@家康と家康公を出しています。
   家康公と家康の二つの表記を使っています。これは二人家康(こういうのはもう早くにそのものズバ
  リの本が出ています。学界が乗ってこず議論が発展しなかっただけのこと。)の叙述を暗示しています。
  (イ)初期では松平広忠の子の家康とイエヤス公の子の家康
  (ロ)ここでは戦のうまい家康公と戦の下手な家康
  (ハ)後期では家康とサドノカミイエヤス
  など意図的にされています。

十二月廿二日で

A徳川家康公(弓の堀田孫七)と織田信長公(玉越三十郎)を登場させています。

B桶狭間の信長小姓衆、長谷川矯介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎四人をここで死なせ、あの
信長をもそうしたという暗示をしています。この四人は実際は長谷川・佐脇・山口・加藤姓の信長の
若武者でしょうが一見では加藤助丞の「弥三郎」は太田牛一も連想させるものがあるのが重要かと思
われます。これでいけばあの桶狭間の疾駆は、ここの四人とは別になっている筆頭の「岩室長門守」
は「岩室」「石室」で信長夫人、「長門守」は平手長門守、木村長門守との連想から太田牛一となり、
この二つの合成かもしれないというものが出てきます。表記が「岩室長門守」の「岩室」だけに「いは
むろ」のルビが付されているので二人に分けてもよいと思わます。つまり実際の話は

        信長・岩室(胡蝶)・長門守(太田和泉)・長谷川・佐脇・山口・加藤(助丞)

 となり、これが、主従五・六騎、馬上六騎の内容といえるかと思います。
 ここ身方が原でこの四人を出してきたのはこの内容についても答えを出そうとしたものと思います。
四人にセットして信長公を出してきたのでこういう見方ができるのかもしれません。ただこれが事実
関係以外のことも表しているといえるのは十二月廿二日の条に出てくることがあります。またこれは、
ここで四人をもって来て殺したというのが、三方原の一節の重要さを認識させるための衝撃としてあり
、別の解釈も用意するために細工があると思います。

    桶狭間表記  信長の小姓衆 岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨藤弥三郎
    身方原表記  信長公の小姓衆 □□□  長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨 ・藤弥三郎

となっており、後ろ二人は表記が違っているし、飛騨守とか弥三郎という作為的な人名が用いられて
いますので、実際に身方が原で戦死した人物は、これらの人ではないのかもしれません。対徳川に明智
衆らしい人名を動員させた、また□□□のところに道具屋が入り信長夫人も呼び出したといえるかも
しれない、そういうイメージです。長谷川橋介も長谷川埃介という表記があり、これは長谷川丹波守(長谷川
丹波)で、この子息が本能寺のときなどで徳川と行動した長谷川竹であろうとも思われます。
長谷川の徳川イメージも付け加えて、ここでは桶狭間とは五六人が別のイメージとして、

           信長・信長夫人・明智(牛一)・長谷川(徳川)・佐脇・明智・明智 
          
という対立・結合縮図を出したと思われます。長谷川と佐脇には特別な役割を与えているのかもしれません。
佐脇は「又」という字がついてまわります。
とにかく「長門守」とか「飛騨守」、「弥三郎」という表記はおかしい、著者が付けた名前というのもあるというのが読解の場合に考慮しておかねばならないことだと思われます。
    
        「蝦夷」「忌寸奥麻呂」「義顕」「上総介」・・・・

なども同じで自分が名乗ったものではなさそうです。

Cこの佐脇藤八から、織田三郎五郎の作戦内容を述べた作文の条を想起させ、佐脇と身方が原との
連結から織田信長公(信長夫人)を登場させた、これがいまでいう夫婦として考えられるということで
しょう。また身方が原の
            「霜月下旬」「廿二日」
のセットは大垣の城の陰山掃部助の負傷の条、
            「霜月上旬」「廿二日」
のセットを想起させここで
            「後ろから味方にやられる、」
という孫三郎と信秀と夫人と坂井の関係を思い起こさせる、ものとなります。あわせて織田・徳川の珍妙
な関係、佐久間などの重臣を追放し織田を弱めるという動きを読み取ることが可能となるよう、その
設定の場が味方が原の一節といえます。
戦国の英雄、家康公と信長公の特別な関係など考えられない、そんなの嘘だろうといわれたいのは
わかりますが、太田牛一の記述がおかしいのです。
 身方が原の戦いこそ家康の真価が発揮された戦い、武田の領国通過を見過ごすことができないと
不利を承知で武田に立ち向っって信頼を勝ち得た戦い、失敗を生かすという貴重な例として語られ
る戦いといわれますが、それならば「十二月廿二日」のような、うそのような詰まらない話をなぜ入
れたのかの説明が要ります。実際は、武田二万、織田四千で徳川一万位は、浜松、豊橋から動か
せるでしょうから負けるはずのない戦いといいたいと思われます。石つぶての話は〈武功夜話〉にもあり
少し古い型の戦いであったのかもしれません。石は白といいたかったのかも知れません。
       
(14)折檻状
これは佐脇から必然として出てきたものですが、佐久間と平手は江州表から、遠州表に派遣されたよう
なので組みあわせ自体は偶然かもしれませんがこのセットを太田牛一が積極的に利用して読解のヒン
トを作ったと思います。それがこの譴責書の一つ意味と思われます。例えばこの文中に甫庵では突然
「右衛門尉・・・」というのが出る、、〈信長公記〉では「右衛門」が出てくる、一見佐久間の右衛門尉の
ことだと思いますが、それで合っています。平手の子息紹介のとき

       「・・・・佐久間大学大允、同次右衛門尉、・・・・・佐久間次右衛門尉・・・・・嫡子
       五郎右衛門尉・・・・五郎右衛門尉・・・」

というように佐久間と平手が右衛門尉で出てくるわけです。両者、右衛門尉で接近しているから、織田
右衛門尉を平手息子と取ってもよい、もしそうとったのならそれで合っているということを示したもの
と思います。
 もう一つ佐久間に繋がる重要な語句があります。
先ほどの締めくくりの部分です 「を以て当末二ケ条を致すべし。」の前の文に
       「抑(そもそも)天下を申し付くる信長に口答え申す輩●前代に始まり候条」
というのがあります。
この●は信秀のこととするとこの意味はまったくわかりません。信長公の前の人物、あの信長が
前代です。
佐久間の口答えは、信長に対するものです。朝倉戦、秀吉など有力大将が、信長の進撃について行
けず信長に遅れをとったときの話です。普通はこれだと皆の首が飛んでしまうはずだのに結果何もな
かったという珍妙な場面です。
これは前々から「をのがし候わぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三(さいおうさいさん)仰せ遣わ
され、とあり、をというのは「必定ひつじょう、今夜朝倉左京大夫退散すべく候」のことです。敵将が
退散すると読んで、皆に再三伝えているのに、いらだって夜中に先駆けします。

   「其の上御いらでなされ、十三日夜中に、越前衆陣所へ信長又御先縣なされ、縣け付けられ候。」

となってり局面を優勢と認識しているのにこういう状態だったのです。いらだって戦をしかけるというのも
どうかしています。皆は「油断候て」「御跡へ参られ候」「見合わせ候段」という有様で、信長が戦で猪突
猛進するので皆が付いてゆけず、これはいつもこの調子だったから別段のこともなかったといえます。
これで信長が「比興曲事(ひきょうくせごと)の由御諚」、と怒ったわけです。

    「(十三) 信長へこ(越)され申し、面目も御座なきの旨滝川・柴田・丹羽・蜂谷・羽柴・稲葉初め
    として謹んで★申し上げられ候。佐久間右衛門涙を流し、さ様に仰せられ候共、我々程の内の
    者はもたれ間敷、と自讃を申され候。
    信長御腹立ち斜めならず。其の方はの器用を自慢にて候か。何を以ての事、片腹痛き申し
    様哉、と仰せられ、御機嫌悪く候。」

 下線部分は云った文の内容で、始めの「信長へ」は★のところへ移動させ、信長へ申し上げたとなる
のでしょう。信長へ申し上げたというのが重要と思われます。この二年後、信長が信忠に家督を譲り、
 
   「・・・信長御茶の湯道具ばかり召し置かせられ、佐久間右衛門私宅へ御座を移させられ、・・
   ・御果報大慶珍重々々。」

の記事があり、佐久間は信長の世話役をずっと引き受けてきたと思われますので、この場合も代表して
述べる立場にあり、信長の命を全うさせたことに、汲々としたあと発せられた言葉だから咎めることもな
いはずですが、側で信長公が聞いていたのでしょう。佐久間の言葉に織田だけでやっていけるという
意味が含まれていたら、痛いところを突かれたという感じですが、表向き万事、信長を立てているので
特別に解読がややこしいことなったという場面でしょう。
信長の発言がすこしおかしいようです。腹を立て、片腹いたいといった信長が佐久間に男を自慢し
したいのか、なぜだと怒っていますから信長が女子の応援をした、信長が女性的だったといわれても文句
はいえません。その佐久間も涙を流した、ということになると、ここの「男」がひっぱられて「女」に近づき
はしないか心配です。
まあこんないろいろなところへ話をと飛ばそうとしたのが折檻状の内容です。脚注では

    「信盛・信栄の伝では明智光秀の告げ口によるとする(〈寛政重修諸家譜〉五三一)
     しかし裏付ける資料はない。」

とされていますが、これは佐久間を貶(おとし)めたのは太田牛一であるといっているのでしょう。
身方が原や折檻、などの一節は 細部事実より本質的事実(真実)を語るための例であるといえると
思います。
 いろいろ表記をおって想定してきましたが、こういうストーリを組んでおいて巷説・伝承・記録などの
断片情報を吸収して成るものが事実をあらわし、真実に近づくものです。例えば幕末(安政)から明治
二年にかけ岡崎繁実という人が大著〈名将言行録〉を16年かけて書きました(岩波文庫八冊)。戦国
のときのことを300年もあとで書かれたので史料価値がないと断定されてしまいますが、参考にした
書物は1251部です。今日読まれないものも含まれているでしょう。江戸期までのものは過去の古典
の解説として書かれたものが多く読み方を教えているものだという観点に立つて書かれているという
ものが圧倒的に多いものです。これは「伊藤公」にも出版元から送られた、「伊藤公が日夕本書を
愛読せられたる」と秋元子爵が書いており、この書と伊藤博文の関係は、吾妻鏡の家康のそれのよう
なものといえます。
まあこの書は片言隻語の集積みたいなものですが、こんなものもあります。

     「信長安土に城を築きし時、光秀の意見を問う。光秀里見義弘大内義興等の天守
      の事を申し、当御城の義は、天下を知召(しろしめ)すべき御城なれば、五常五行を
      表し、五重の天守を建てられ然るべしと古実共委細に申しければ、信長大いに喜び、
      光秀をして奉行となし、天守を建てられたり。・」

 安土城天守は光秀が奉行となって建てられたという挿話があるわけです。
        「御普請奉行、木村二郎左衛門」〈信長公記〉
とかいてあるものに合致するのです。名前を共用しているし、光秀=弥三郎=太田和泉ですから、
〈信長公記〉を読む場合の解説書となっているわけで、岡崎繁実がこの話を作ったものでないと推
定してもよいが、岡崎は〈信長公記〉をこう読んだというのも否定できないものです。
「天守閣」についてネットで教わると「織田信長が日本で最初に作った」ものとされているようで、それ
が安土城の天守ということのようです。す。
〈信長公記〉前後安土城の出てくる記事に挟まれた記事のなかに「七五三兵衛」という珍妙な名前の
人物が出てきてすぐ戦死してしまいますが、「七五三兵衛」らが討ち死にした記事のあと、やや突然に

   「    安土山御天主の次第
   石くらの高さ十二間余なり。石くらの内を一重土蔵に用い、是より七重なり。」

 が出てきます。この七五三に悪乗りして言えば城の重層のことをいっていると思います。しかし通説
とされるものでは、七重が無から一変に出てくることになり、ややおかしい、余りに唐突にすぎると思い
ますが、織田信長の偉大さをあらわすものだといわれるとそうかもしれないとなってしまいます。
この説の不自然さをを裏付けるような記事がこの幕末の他愛ない記事です。
 ここで光秀は、里見(関東)と大内(中国)のものを参考にして五重のものを建てるといっているようで
すから、二人の建造したのは三重の天守(主)であったといっていると思われます。それが研究されて
いて、それを越えて五重にしようとしたと思います。
「安土城」の七重の天守については太田牛一の記事がありますので、実際七重が作られたのは間違い
ないのですが、光秀はなぜ、七重といわずに五重といったのでしょうか。さしもの太田牛一も、一変に
三重から七重は危険でもあり、避けるべきと思ったかもしれません。
 したがってここの記事は安土といいながら、光秀がいっていますので、坂本城のことを重ねていってい
るのではないか、つまり坂本城は五重だったといいたいのではないかと思われます。坂本を五重で建て
た太田牛一に七重の天守建設を信長が期待したということではないかと思います。
江戸期では触れてはいけない坂本城について誰かが仕組んだ話と取れないか、ということですが、別に
ハズレでもよいわけです。すなわち、このように文献から網をはっておけば、いろんな挿話が見つかった
ときに吸収できるいうことが重要と思います。この〈言行録〉の記事は木村二郎左衛門が太田牛一だと
いうことも表していると思いますから、安土城の財宝を光秀が家臣に恩賞として山分けしたという話は、
そのあと明智光春が坂本城の財宝を寄せ手に引き渡しているから、財宝保護の観点からなされた話と
取られるべきというように繋がっていくことになるというようなものです。苦労して作った者は特にその価
値について知っていて、大切に扱ったはずだ、というように説明ができてきます。
 
 平手政秀はこういう状況下で信長の将来を案じていたといえます。信秀死後、信長の地位が不安、
とくに信行には信秀夫人という大きなバックがあり、信秀葬儀のときの二人の様子を描いた〈信長公記〉
の記事も頷けるものがあります。
 織田信秀や平手政秀のことを〈信長公記〉や〈甫庵信長記〉で述べようとすると、本論の前の序の部分
だろうからそれほど多くを語っていないはずだとはじめに思ってしまいますが、そうではないと思います。
むしろあとの方への伏線が敷かれている、またあとの方から、前が読めるように細工されていると思います
ので出来るだけキッチリと読む必要があると思います。例えば
 「信行」暗殺にくだりに、桶狭間、身方原の小姓衆「山口飛騨守」「長谷川橋介」や「長門守」が出て
きます。
 また「五郎」が重要な役割を果たしていました。平手五郎右衛門尉の「右衛門尉」と佐久間右衛門尉
の「右衛門尉」と関係があるのかどうか、平手と佐久間が、徳川という相手のところで接近している、
  また「五郎右衛門」というのは「五郎左衛門」と同じですから、あざ丸の刀で目がわるくなったという信秀
の死にからむ重要なところで出てくる「(惟住)五郎左衛門」は、安土城の普請奉行の 「五郎左衛門」
は同じかどうか、この信秀や平手のところでは出てこない、あの丹羽長秀と読んでよいのか、というような
疑問が出てきます。表記で語るということは多くを表面化させてきたきたことをもう一度確認をしてみる
ことが次へのステップとなります。
 本稿は原文引用が多く読みづらいものだったと思いますが、原文が多いほど信用ある話が出来てい
るのかもしれません。                以上
    
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