10、平手政秀

(1)謎の人物
 平手政秀は、信長の育ての親として、織田信長を語る場合は不可欠の人物です。最期は諌死をした
ことで特に有名です。しかるに、この人物の経歴はよくわからず、もとから尾張の豪族の領主であった
のだろうということしかわかっていません。したがって、比較的断片情報が多いのに、これをつない
でいく背骨がなく、その人物像はまとまったものとなってきていません。この人は太田和泉と知り合い
であるのに、これではお粗末なことです。

(2)系 図
政秀について、ネット記事の中から系図の出ているものを借用して、これをテキストとして検討してみ
たいと思います。系図を除いては、大体このあたりのことが知られている範囲のことかと思います。
ネット見出しで「武家家伝ー平手氏」となっている記事です。テキストは続いていますが途中で中断し
て説明を挟んで行きます。

   『尾張の平手氏は「尾張諸家系図」によれば清和源氏新田氏の一族・世良田有親(南北朝の
   頃の人)の子義英に始まるとされている。・・・(またこの義英に兄弟があり、それが徳川家に
   つながる)・・・さきの系図には義英を永享三年(1431)生まれと註している。そして、その曾
   孫に政秀が生まれている。・・・・・・・・』〈テキスト〉

 ここまでのことで、終わりに載せられている系図によれば(註の部分一部省略)

                                                       (徳川)
  『世良田有親 ー (松平氏)親氏 ー泰親ー信光ー親忠ー長親ー信忠ー清康ー広忠ー家康
        │
        │ー (平手氏)義英ー英秀ー経英ー 政秀ー久秀ー汎秀(味方が原で討死)
                    │ー秀定          │ 政利ー政知
                                    │ 季定ー季胤
        (政秀の生年、明応元年、久秀記入なし、汎秀天文二十二年生まれと注記あり)』

となっています。
〈テキスト〉によれば平手義英の生年は、永享三年、(1431=足利義教将軍のころ)のようですが、
太字の松平親忠も、(1431)の生まれとなるそうです。こういうのが、指摘されていて「後世に作ら
れたものと思われ、いまとなっては不明としかいえない」とされています。
 こういうおかしいところを見つけることも重要で、書いた物を全部信用してもらったら困るとか、操作
してあるというようなことをいっているかも知れないわけです。
 特に系図などをみると誰でも、昔の人だから仕方がないが、もっと調べてかけないのか、と歯がゆい
思いがします。が、書いた人は時間と労力をかけているので何かいいたいのかもしれないと思ってみる
ことがよい結果につながるということは今まで述べてきました。
 少しおかしいところがあっても、まずないよりあるほうがよっぽど有り難いものです。野史とか偽書な
どといわれて、今まで研究の対象とならず、頼りないとして無視されてきているものは、ほとんどが主
要文献のある断面の解説書といってよいものです。単なる断片情報のように見えるものでも、主要
文献とセットしょうとしておれば、必ず生きてくると思います。とくに日本の文献は、早くからネットワー
クが形づくられているいるといってよいと思います。
 義英に注記があり、「愛知郡平天城主」、「平手加賀守」となっており生年が書いてあります。これ
で平手政秀の苗字は地名からきていること、家は室町時代から続いた土地の豪族だろうということが
わかります。
政秀の父、経英は「経」ともいうようですので「政秀」の「秀」は父方、「政」が母方か、政秀の弟
(野口氏)も「政利」ですからそういえるかもしれません。平手政秀の本拠は志賀郡平手、志賀公園
(名古屋市北区)でそこに城址があるようです。
 家と家との結合で同性結婚ですから、ここでは、主となる方、子にとっては今でいう父のいる方を、
父方と呼ぶことにします。

(3)清秀と政秀
次の京都公卿の証言は客観性がある話だから事実としてとしてどのネット記事にも紹介されています。

    『戦国時代平手政秀は織田氏に仕えていた。天文二年(1533)、尾張を訪れた公家の山科
    言継は、政秀邸の造作に目をみはり、数寄の座敷の見事さに驚嘆している。また、政秀は
    言継と和歌会を行うなど文芸にも造詣が深かった。』〈テキスト〉

 ここは政秀の「数寄」と「和歌」が書かれてあり、接触した人物に公家の山科言継が出てきます。
和歌については、〈信長公記〉の記事があり、信長が坂井大膳らと和解したときに、政秀は相手に書
札を遣っていますが、このとき紀貫之の歌、
     袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風や解くらん、
というのが書の端書にあったと書いています。ここで〈信長公記〉は平手政秀を

      「か様に平手中務は借染(かりそめ)にも物事に花奢(きゃしゃ)なる仁にて候し。」

と描写しています。花奢(きゃしゃ)は華奢でもあり、妖しい記事になっているわけです。表記でも

    「中務始めは清秀と云いける故、諸書にはみな清秀と記したれども、後に政秀と改めけ
     る故諫死の後信長尾州名護屋に一寺を建てられ政秀寺と称し」〈常山紀談〉

 となっていて〈甫庵信長記〉では「清秀寺」となっている、こういう食い違いも、和歌や華奢の妖しさ
と連動しているものです。要は人の流れ、動き、媒体などで背景が示されているのです。
なお「政秀」という名が、大谷吉隆の「吉隆」のように、史家によってあとで付けられたらしいというこ
とがあるとすれば、この「政」も意味があるかもしれない、これも何かを表すために史家が付けたの
かも知れません。「政」は「清」とのあぶり出しの意味が一つありましたが、姻戚も一応視野に入れる
べきかもしれないわけです。

(4)あぶり出しの予感
山科言継がここで出ましたので余談になりますが、〈信長公記〉の永禄11年の記事で

   「(九月)廿四日、信長守山まで御働き。・・・・勢田・・・御逗留。」
   「(九月)廿六日、御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を懸けられ・・・・・」
   「廿七日、公方様御渡海候て、同三井寺光浄院御陣宿。」
   「廿八日、信長東福寺へ御陣を移され、柴田日向守・蜂屋兵庫頭・森三左衛門・坂井右近
   此四人に先陣仰せ付けられ、・・・・・・御敵城、岩成主税頭楯籠る▲正立寺表手遣い。・・・・
   公方様同日に清水御動座。」
   「廿九日、■青竜寺表御馬を寄せられ、・・・これに依って岩成主税頭降参仕り、」
   「晦日(みそか)、山崎御着陣。・・・・・・芥川の城、信長供奉なされ、公方様御座を移され、」

となっていますが、〈信長公記〉角川文庫版脚注では、
       「〈言継卿記〉には、二十三日三井寺に陣したとある。」
となっており、信長公記の廿六日とは違っているという指摘があり、また
       「(信長公記の)廿八日は二十六日の誤り〈言継卿記〉」
とされていて、
       「芥川入城を(信長公記は)晦日(三十日)とするが〈言継卿記〉や〈年代記抄節〉では
       二十九日である。このほうが正しい」
とされています。
どちらが合っているかの問題ですが、言継卿にも一貫した書き様があり、どちらもある目的をもって
書いているというのが大前提で読まねばならないと思います。
 ここでは太田牛一の二十八日の人名が作為的なので、また▲と■は同じなのに分りにくくしている
などの弱みがありますので〈信長公記〉には確実に操作がありそうで、言継卿のが合っていそうです。
 太田牛一は言継卿のものをベースにして、ここを書いたとはまず考えられないことでしょうから、
     太田牛一は自身の日記というものがあってそれにもとずいて書いているか、
     織田の公式文書によって書いているか、
     それに近い物をベースにしていることも確実で、
自分のが合っているといいたいところでしょう。
 要は日にちの炙りだしがあるわけで太田牛一の作った、この差異が二重目の世界を描くものです。
ただ、この言継卿のような記録が別にあることについては、予想の範囲内であった、後世比較して読む
人がいるだろうと思っていたのは確かなことと思います。
慈円は、〈愚管抄〉に聖徳太子の時代の故事を書いています。内容は、高麗より日本政府にカラス
の羽を送ってきた、誰もこれが何かわからなかった、辰爾という人がその中に組み込まれた文字を
火であぶり出して読んだというものです。炙ればもう一つの通信文が浮き出てきたのです。これは
〈日本書紀〉に書いてあるウソのような話しを慈円が取り出したわけですが、平成の今日ではこういう
仕掛けも物理的には可能です。当時では、そうはいかないかもしれないから、そういう高度の技術の
いるものにかわる他の技法を考えた、それを可能にするために、違わせる、ルビをいれる、カタカナ・
平かな・漢字を使い分ける、もう一書をつくる、他人のものと連携させる、などのことをして、いいたい
ことを仕込んだわけで、それを可能にするために記述の約束事が生まれるのです。絵のうらにもう一
つの絵が隠されていた、というのもこういう苦心の表れでしよう。
〈言継卿日記〉には同時代史の史書と照らし合わせて読む必要を感じさせるものがあります。

(5)信秀名代
テキスト続きです。

     『信長誕生とともに宿老となり、主に財政を担当した。(@)天文十二年五月には、信長の父
    信秀の名代
として上洛し、朝廷に御所の築地修理料千貫文を献上した。そのころ、(A)信秀
    は美濃に侵攻をする度に斎藤道三から撃退され続けていた。その窮地を救い織田・斎藤同盟
    
を成立させたのが、ほかならぬ政秀であった。そしてその証として、同十八年二月に信長は
    道三の娘を娶ったのである。
    この同盟と婚姻は、まさに政秀の政治的手腕に負うところが大きかったといえよう。』〈テキスト〉

 ここまでの記事でも、疑問のところがなくもなく平手を知るためにはそれを整理しておくことと便利で
す。番号は筆者の都合で入れましたが

@、平手政秀が天文十二年、信秀の名代となって朝廷と接しているというところも重要かと思われま
す。なわち、こういう重大な役目は通常、織田一族にあてられるのではないかという疑問で、よほど政
秀が買われていたにしても、普通は信秀近親の誰かが使者で、それのカバーとしてついて行くという
形になりそうです。

A織田・斎藤同盟は、もっと切迫した状態にあったときになされたのではないかと思います。信秀が
亡くなったのは天文二十一年(1552)年とされています(〈信長公記〉脚注)が、三年前天文十八年
だったと思われます。これは甫庵が
          「天文{己酉}(十八年)
と書いており、〈武功夜話〉は、それをはっきりいっていますから、まず確実なことでしょう。これは〈戦国〉
でも述べていることですが、このことを平手のサイドからもう一度ふりかえってみます。
〈甫庵信長記〉では、年次とそのときの信長の年齢が分るようにされています。

(6)事件の基準
〈甫庵信長記〉では
        「天文十五年吉法師殿十三の御年、」
古渡(ふるわたり)で元服し織田三郎信長となったと書かれています。これが基準です。例えばテキ
ストでは、天文十八年に結婚したとなっていますから、そうとすると、ここに書かれていることから信長
16歳のときのこととなります。約束があったのはもう少し前で、

   「山城守(道三)も向後のためをや思いけん、息女を三郎信長卿へまいらすべしと契約ありしかば、」
    〈甫庵信長記〉
 
 となっており、この契約にもとずいて、
         「頓(やが)て・・呼び取り給いぬ。」〈甫庵信長記〉
 となっているので、これが婚約の履行であるならば、結婚はこのころであるのは明らかです。備後守
信秀はこのとき生きていたと思われ、〈信長公記〉の次の記事が、織田備後守の死の記事の前にある
のでそういえると思います。首巻の記事で年代不詳
    
     『去(さ)て平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三婿に取り結び、道三が息女
      尾州へ呼び取り候キ。然る間いずかたも静謐なり。』〈信長公記〉

 肝心の〈甫庵信長記〉では、天文十五年から非常にわかりにくい反面細かい日時が書かれていま
す。これは煙に巻いているということで読まないといけないと思います。

   「翌年・・・(信長初陣)」「同九月三日・・・」「同廿ニ日・・・」「去ぬる九月廿二日・・・」、
   「同十七日・・・・」「去んぬる九月に・・・」「霜月廿日に・・・」「翌年の春互いに屈服して・・・」
   「然る間八月上旬・・・息女を三郎信長卿へまいらすべしと契約ありしかば・・・・」

となっているので、これを追っかけてみると天文十七年の契約(信長15歳)と思われます。信秀が
亡くなったのは、

    「天文{己酉}(十八年=脚注による)二月中旬の比より、備後守殿疫癘に冒され給いけるが
    、様々の治術ありけれども、遂に其の験(しるし)なく、三月三日に御歳四十二歳にて逝去し給
    う。」〈甫庵信長記〉

 ということで、「三月三日」は〈信長公記〉に書いてあるのと同じです。なお〈信長公記〉には年は書い
ていません
。これは〈甫庵信長記〉に書いてあるから省いてあるとみてよいと思います。
したがって平手政秀が、婚約を取りまとめたのは信秀の死の六カ月前というきわどいところです。
 したがって引き取った〈甫庵信長記〉の「頓(やが)て」というのは、「すぐ」ということで、〈信長公記〉
の記事のように余り間がなかったような感じです。と
〈テキスト〉の
          「まさに政秀の政治的手腕に負うところが大きかったといえよう。」
というのは事実このとおりであろうと思われます。父の死は信長16歳のころですから、満ではもう少し
若年なので平手はそうしなければならなかったといえます。ただ〈信長公記〉は
     「平手中務才覚(ルビ=さいかく)にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、」
となっており、この件も才覚が発揮されたのですが、才覚者という意味も込めて書いているように思わ
れます。信秀の死が近いことを伏せるようなことも、娘婿でもなさそうなぼかした契約というようなことも
出来る人物といいたいともとれます。

(7)三年死を伏せる
武田信玄が三年間喪を伏せよといったことはよく知られています。死期は医者の証明が必要なかっ
たときですから身内の操作があったことは十分に予想されることです。対外発表となるとなおさらでし
ょう。あのひょうきんな秀吉も同じことがされています。
〈信長公記〉角川文庫版の脚注によれば、〈信長公記〉の信秀死亡日「三月三日」の年というのは

     「天文二十一年(1552)〈万松寺過去帳〉〈大雲禅師法話〉。」

となっていて補注では、

     「〈寛政重修諸家譜〉によると信秀は、天文十八年(1549)三月三日末盛城で死亡。この十
     八年は誤りだが、その間に末盛に移ったことになろう。〈尾張志〉や〈後鑑〉に引用する
     〈織田系図〉は十七年冬とする。」

とされています。信長公記に年が書いていませんのでこの問題が出てきます。寛政の家譜は甫庵と
同じなのに後年だから〈万松寺過去帳〉の方を取ることになってしまいますが、亡くなった年と葬儀の
年が違ったわけです。太字の意味は、末盛に信秀が遷った時期が引っ掛かるという意味かと思われ
ますがそれは天文十七年のことで問題ないようです。〈甫庵信長記〉を追って行くと年代がわかって
くるわけです。この三年の違いについてもう少し付言をしますと〈甫庵信長記〉の次の記事によって、
それとなくいわれていると思います。

    「天文{己酉}(十八年)二月中旬の比より、備後守殿疫癘に冒され給いけるが、様々の治
    術ありけれども、遂に其の験(しるし)なく、三月三日に御歳四十二歳にて逝去し給う。法名
    桃巖とぞ申しける。●兼ねて建立し給いつる万松寺にて、様々の御弔い残るところもなかりけ
    り。
     ★御葬礼に嫡子三郎信長卿{十六歳}には、林、平手、内藤、其の外俊士数多(あまた)
    御供申しけり。ニ男勘十郎殿には、柴田権六、佐久間大学大充、同次右衛門尉、長谷川宗
    兵衛尉、山田弥右衛門、属従(つきしたが)いけり。
    焼香に信長卿御出であるが、異体なる出立(いでたち)にて、仏前へ歩み寄って、抹香、
    括(くわ)つと掴んで投げ懸け帰らせ給う。勘十郎殿はあるべき式の装束にて、其の様言語道
    断の儀式なり。
     信長卿■其の比(ころ)は御年十六歳にならせ給う。惣じて幼少の時より、朝夕馬をせめ
    られ、・・・・・・只だ明けても暮れても武功の為を思召して、他慮は更に無かりけり。
    其の比猶古風残りし世なりければ、▲今先考の御前にて焼香せさせ給いし形勢(ありさま)、
    見まいらせて、例のおこの者よとぞ囁きける。僧俗男女多く見物したりし中に、筑紫の客層い
    かが思いけん、あれこそ国は持つ人よとぞ申しける。人相を見て申しつらん、不思議なりし事
    どもなり。
    末盛の城は勘十郎殿へ譲り給いける間、柴田権六、佐久間次右衛門尉、其の外宗徒(むね
    と)の侍相添い移り給う。信長卿は自ら受領し給いて、上総介とぞ名乗り玉いける。
     御乳母(めのと)で候ける平手中務大輔に子三人あり、嫡子五郎右衛門尉、ニ男監物、
    三男甚左衛門とぞ申しける。五郎右衛門尉名馬を持ちたりけるを乞わせ給う処に、某は武勇
    を心がけ候間、御免候へと憎体に申し上げ進(まいら)せざりけり。尾籠なりし事どもなり。」
    〈甫庵信長記〉

要は〈信長公記〉と記述はほとんど変わりませんが、〈甫庵信長記〉では、年とか年齢とかが書かれて
いることです。数字は甫庵というのは前著で述べてきました。公刊されたもので大久保彦左衛門など
の知識人が読んでいるものでいい加減なことは書けません。
 この文で十六歳が二つ出てきます。注(小字の)「{十六歳}」と文中の■の「十六歳」です。
■の其の比(ころ)というのはいつかということですが、これは信秀が亡くなったときです。下線★の
葬儀の話は、もう一回▲のところから出てきますから、下線部分は▲のところに移動させて読むべ
きです。もちろんこのままでも移動させたように読んでいることになりますが説明をわかりやすくする
ためです。つまり

    「天文{己酉}(十八年)二月中旬の比より、備後守殿疫癘に冒され給いけるが、様々の治
    術ありけれども、遂に其の験(しるし)なく、三月三日に御歳四十二歳にて逝去し給う。法名
    桃巖とぞ申しける。●兼ねて建立し給いつる万松寺にて、様々の御弔い残るところもなかり
    けり。
     信長卿■其の比(ころ)は御年十六歳にならせ給う。惣じて幼少の時より、朝夕馬をせめ
    られ、・・・・・・只だ明けても暮れても武功の為を思召して、他慮は更に無かりけり。其の比猶
    古風残りし世なりければ、▲★御葬礼に嫡子三郎信長卿{十六歳}には、林、平手、内藤、
    其の外俊士数多(あまた)御供申しけり。ニ男勘十郎殿には、柴田権六、佐久間大学大充、
    同次右衛門尉、長谷川宗兵衛尉、山田弥右衛門、属従(つきしたが)いけり。
    焼香に信長卿御出であるが、異体なる出立(いでたち)にて、仏前へ歩み寄って、抹香、括
    (くわ)つと掴んで投げ懸け帰らせ給う。勘十郎殿はあるべき式の装束にて、其の様言語道
    断の儀式なり。
     今先考の御前にて焼香せさせ給いし形勢(ありさま)、見まいらせて、例のおこの者よとぞ囁
    きける。僧俗男女多く見物したりし中に、筑紫の客僧いかが思いけん、あれこそ国は持つ人よ
    とぞ申しける。人相を見て申しつらん、不思議なりし事どもなり。
     末盛の城は勘十郎殿へ譲り給いける間、柴田権六、佐久間次右衛門尉、其の外宗徒(むね
    と)の侍相添い移り給う。信長卿は自ら受領し給いて、上総介とぞ名乗り玉いける。」
    〈甫庵信長記〉

となります。したがって天文十八年に十六歳ということをいっています。しかし信長が位牌に抹香を投
げつけたのは注の{十六歳}ですから変わり得るわけです。葬儀のあったのは三年後天文二十一
年ですから信長十九歳のときになります。前著で述べたように慈円の文では、{注}の「{元年辛酉
歳}」と本文中の「元年辛酉歳」は違うわけです。これは木村世粛の稿で、江戸の学者、現在の一部
の人が既に理解していることだ、ということを述べました。
〈武功夜話〉でもルビで西暦が書いたものがありますが、これは干支だけの年表記のときにされてい
ます。例えば
    「永禄申年(ルビ=三年、一五六〇年)三月十六日」や「永禄康申(ルビ=三年)」
のようになっていますが「申年」と書いてあるから当時の人でもこの西暦のルビは書けるわけです。
601、1201年は何故辛酉年か、どこかではじめを固定した人がいるからでしょう。〈書紀〉神武天皇
の条では、(〈ニュートンプレス訳本〉)

   「辛酉の年、春正月一日、天皇は・・・帝位についた。この年を天皇の元年とする。・・・初めて
   天皇が天基を草創した日に、大伴氏の遠祖・・・・密かな策をうけ奉り、諷(なぞら)え歌、倒(
   さか)さ語で妖気をまったくうちはらつた。倒さ語を用いるのは、始めてここに起ったのである。」

とあり、元年の意味が二つあると慈円が{注}と普通の文でいったのでしょう。天基も、「基礎」の意
味だろうと思ってしまいますが、基準という意味もあるかと思います。一方、大伴は太安万侶の家の
ことでしょうから、太安万侶が書き方を宣言したというべき大事なところです。
この時代は、国の草創のときにあたり、いろいろの思惑をもって読まれてきました。当時の史家に
対する一般的な評価は、古い時代のことだから未熟さは仕方がないというような感じのものでしょう
が、それは、当時のことは暈かしておこうとしているため、そういう印象を与えるように仕向けられて
いることによっています。引き継いできた書き方があってそれにもとずいて書いている、したがって
一定の読み方によって読むと本質的なことが浮かび出てくる、日本にはたいへんな書き手がいた
ものだ、世界的史家がたくさんいたということがわかるはずです。
 太安万侶時代の文献も、時代の経過によってわかりにくくなりかねない分が出てくるのは仕方が
ないことですが、これについては後世の人(とくに江戸期までの人)がくりかえし、手口をかえて解説
してきているのです。だから今も色あせずわかるようになっているはずです。戦国の文献には、それ
以前の文献の読み方を教えているという一面があります。
〈武功夜話〉では、信秀の死は

   「天文己酉(ルビ=十八年、一五四九年)三月日御逝去了(おわる)。桃巖禅定という。されども
   御葬儀は取り行わず、両三年の後これを行うなり。」

とはっきり書かれており、これは●の「兼ねて」という表現もあるから、これは「予ねて」という字をあて
てもよいでしょうから死後、寺を造りはじめたようです。信長公記も
      「去て一院御建立。万松寺と号す。」
となっており「去て」は甫庵に教えてもらうと「かねて」という意味で読むべきかと思いますが「去りて」
と読むと「以前に」、「はなれて」という表現ともなることから、天文二十一年の三年前が合っているよう
です。さきほど
「〈織田系図〉は十七年冬とする。」とありましたがこれに対応するものが〈武功夜話〉にあります。

     「備後様生前の御遺言あり、大人衆相謀り両三年相待ち御葬儀取り行われ候。天文辛亥
     (ルビ=二十年、一五五一年)三月日の事」

となっていて十七年冬ということになります。すなわち「天文己酉」「天文辛亥」と通説の「天文二十一
年」の三つあるわけです。
 桶狭間の戦いの叙述で、太田牛一は〈甫庵信長記〉には永禄三年と書きながら〈信長公記〉では
       「天文廿一年壬子五月十七日」を「今川義元沓懸参陣。」の日とし
       「天文廿一{壬子}五月十九日」を戦闘開始の日としています。
まず、上段によって「天文廿一年」は「壬子」であることがわかります。下段では、「年」を省き「壬子
は注になっています。まず桶狭間のここでは
        永禄三年をなぜ天文二十一年と書いたのか
        天文二十一年は壬子なのか
        この二つの日の、年・干支の表示の仕方はなぜ違うのか
ということを調べさせられることになります。天文二十一年が何か重要であるといっているのは間違い
ないところでしょう。永禄三年1560と、天文二十一年1552の間は8年、天文十八年1549の間は
11年で、ほぼ、十年で「十年一昔」という手法があるようです。森蘭丸のところで十年繰り上げまし
た。雄略天皇の死が〈日本書紀〉と〈古事記〉では10年違う、とか、前著で万葉の学者が説明のた
めに突然利用されているところものべましたが、そのようなものがありますので、それの適用が示唆
されていると取れます。
この注は、天文廿一の{壬子}には「己酉など」と入れてもよい、この十年前が信秀の死という感慨
もあり、その年を書かなかったことをここで補足したのかもしれません。そんなことはない、といわれる
場合でも天文廿一年をここに書いたということの説明はしなければならないことです。
思いおこしてほしいという意味のことならば天文廿一年は
     「三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。」
の年で、ここで上総介を思い出してほしいというのもあるかもしれません。ただこれは一般的に賛同
をえられないだろうから、著者もそこまではいっていないということで述べない方がよいということに
なるでしょう。答えは一つでしょうから手法のことを述べたと取るのがよいようです。
 この桶狭間戦の天文廿一年の記事をみて、実際天文廿一年に桶狭間戦があったというのは間違
いにしても、義元も信長も生きている時期ですから、案外これを否定するのがむつかしいわけです。
文献で否定されないと、専門の人以外はどうしょうもありません。〈甫庵信長記〉に永禄三年とチャン
と書いてあり、〈武功夜話〉でも同じです。〈信長公記〉は操作がある、首巻の日付けなどは、突然「四
月下旬の事に候。」「八月十五日に」「正月廿六日」「四月上旬」「去程に」・・・・などが出てきて、いら
いらさせられます。奥の細道によく似ていますが、年を書かないようにしています。
そうかといって突然
      「天文弐拾弐年{葵丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年・・」
というような、日付もネームもフル表示しているものが出てきます。これはあと桶狭間しかない表示
です。桶狭間は三つもあるのです。
       「天文廿一年壬子五月十七日」
       「天文廿一 {壬子}五月十九日」
       「天文廿一年{壬子}五月十九日」
この三つは全部表記が違います。二番目のものに「年」が抜けているからこうなります。操作を予告
しています。歴史を述べるにおいて連合艦隊を編成している、〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の二つは
その旗艦ということでやる、年代は甫庵の得意ですよ、ということを語ったと思われます。またこれは
信秀のことを信長で語る場合もあるということも含んでいそうです。信秀と信長が重ねられている系図
もあると〈武功夜話〉がいっているほどですから油断ができません。例えば

     「・・・前野氏一門中に森氏あり。・・・・移り住するは弘治の頃とも、永禄とも相伝え居り候。・
     ・勢州河内の一向衆徒の・・・・この一揆蜂起に付き、系図書には織田備後(ルビ=信秀)
     と誌し、また信長公とも誌すところ、年月不詳に候。」

これは弘治には信秀がいませんから信長のことだろうというわけにはいかないようで、この後出てくる
       
       「大永戌春(ルビ=六年、一五二六年)八月二十五日

の移住がいいたいことかもしれない、こういう操作があると思っていなければならないわけです。
脱線しましたが、結果天文廿一年は信秀葬儀の年ですから、自分はその年の記入を省いたが、〈甫
庵信長記〉では「天文己酉」の年に信秀が死亡したと、はっきりとややわかりにくい形で書いてある
のでそれを使ほしいといっていっているようです。
「天文(十七年)辛亥」死亡説があるのは、廿一年よりも十八年に近いので、信秀の葬儀は「天文(二
十一年)壬子」であり、実際の死亡は「天文(十八年)己酉」であったといえます。
また「天文(十七年)辛亥」があるのは、聖徳太子の死亡年齢が、四十九歳と四十八歳とあり、明智
光秀も年が一つ食い違っているのと同じであぶり出しの意味があり、ここは操作があることの警告で
すから、こういう見方でいいと思います。
 強いていえば信秀は「巖公」なので「三月三日」はそれに合わせたと見てよく、実際は十七年
暮れかもしれない(〈武功夜話〉の「三月日」という表現もおかしい)と思いますが、それは織田の発
表でよいのかもしれません。〈武功夜話〉ははっきり〈甫庵〉と同じ「天文己酉三月日」と書いていま
す。一般に〈武功夜話〉の年代は正確ではないかと思われます。
 信長が位牌に抹香を投げつけたのは天文二十一年の葬儀のときであり、これは間の抜けた、儀式
であったわけです。筑紫の客僧がこれをほめたことは、先が読めるはずのないことですから不思議で
もなかっといえます。 なおこの葬儀のあとにはいっている記事は入れ替えたほうがわかりやすいと
思います。原文を再掲しますと

    「末盛の城は、勘十郎殿へ譲り給いける間、柴田権六、佐久間次右衛門尉、其の外宗徒(むね
    との侍相添い移り給う。信長卿は自ら受領し給いて、上総介とぞ名乗り玉いける。●」

の〈甫庵信長記〉の原文は入れ替えて

    「末盛の城は、信長卿は自ら受領し給いて、上総介とぞ名乗り玉いける。勘十郎殿へ譲り
    給いける間、柴田権六、佐久間次右衛門尉、其の外宗徒(むねと)の侍相添い移り給う」

のようになり、太字を前に持って行く、つまり、末盛の城は信秀が信行に譲ったのではなく、信長が受
領して信行に葬儀の年に譲ったということになると思います。上総介と名乗ったことは〈信長公記〉の
      「三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。」
となっていて自称であったということがわかります。勝手にするというのもよくあることのようです。
〈テキスト〉の注にある平手政秀の「長門守」というのは本物でしょうが、岩室長門守の「長門守」は、
木村長門守重成の「長門守」と同じで自称でしょう。この自称というのは臭いもので史家が連想させ
るために付けたものではないかとも思われます。信長が上総介とする根拠がよくわかりませんが、
あの上総介広常が突如変わったことと関係があると見てよいのではないかと思います。

(8)五郎右衛門
●のあと〈甫庵信長記〉では平手について重要な記事が入っています。子息のことです。

     「 御乳母(めのと)で候ける平手中務大輔に子三人あり、嫡子五郎右衛門尉、ニ男監物、
    三男甚左衛門とぞ申しける。五郎右衛門尉名馬を持ちたりけるを乞わせ給う処に、某は武勇
    を心がけ候間、御免候へと憎体に申し上げ進(まいら)せざりけり。尾籠なりし事どもなり。」
    〈甫庵信長記〉

甫庵ではこれは「織田備後守殿病死の事」の記事の一節の終わりの文ですが、これに続いて
    「平手中務大輔清秀極諌を致し自害せしむる事」
があり、この信長と平手嫡子(総領)との間の確執はかなりのウエイトがあるのかもしれません。
この記事は〈信長公記〉にもあり、政秀の諌死については謎とされていますが、これほど重要なことに
ついて謎のままでは困る、なんとかわかる方法がないのかということになるとき、わからないものは仕方
がない、新たな資料の発見を待つしかないということになってしまっていることが一番問題です。
 かりに平手の自筆日記が出てきても、それも吾妻鏡式に書かれているのですから読まないことには
いつまでもわからないことです。近くにいた太田牛一の主著が残っているのですから、それ以上にこの
事件を物語るものはないはずです。
 ここで最も大きい疑問点に突き当たります。
         平手政秀の嫡男は何故「五郎右衛門尉、」というのか、
ということです。
 冒頭の系図では味方ヶ原で戦死した人物は、一応政秀孫、「汎秀」とされています。〈信長公記〉
では「平手甚左衛門」が出陣していますので、主要文献からいえば戦死したとされる人物は三男
「平手甚左衛門」です。これは〈武功夜話〉で平手甚左衛門(ルビ=汎秀)となっているのでも明ら
かです。
二男とされる監物は、その後〈信長公記〉でも、信長陣営で出てきていて、嫡男のような行動をして
います。これは、嫡男が亡くなったためと思われますが、ここでは「五郎右衛門」が系図の「久秀」に
重なっているとみるしかありません。なぜ「五郎右衛門」という表記がなされたのかが問題です。まあ
単純にいえば五郎は五番目です。

(9)首巻冒頭
 ここで〈信長公記〉のはじめに戻らなければなりません。尾張国に八郡あり、上の四郡は岩倉城
織田伊勢守が治め、残り四郡は清洲城で●織田大和守(敏信)が、斯波氏を立てて統治していま
した。

    『(清洲)大和守内に三奉行これあり。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠(だんじょうの
    ちゅう=信長父信秀)、此の三人諸沙汰奉行人なり。弾正忠と申すは尾張国端勝幡(しょうば
    た)と云う所に居城なり)』〈信長公記〉

このあと信秀の身辺についての説明があります。

    『西巖(サイガン) 月巖(ケツガン)・今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右
    衛門尉とてこれあり。代々武篇の家なり。』〈信長公記〉

このうち「西巖 月巖」というのがわかりませんので甫庵をみますと、

    「信長卿の祖父月巖と申すに子息五人御座す。嫡男備後守、二男与次郎、三男孫三郎殿、
     四男四郎次郎殿、末子右衛門尉とぞ申しける。」

となっていて〈信長公記〉の、月巖は、
          今の備後守、以下の五人の人の父(信長の祖父)
ということがわかり、子息が羅列されているものであることがわかります。つまり併読しないとよくわから
ないわけです。
なお外の面でも〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉とは表現の仕方がちがいます。「二郎」と「次郎」が違う
のはすぐ気付くことですが、五人目の人物について〈信長公記〉では「五男」と書くべきを抜いており、
甫庵も同じです。甫庵は少し親切なのか「右衛門」は末子となっています。
つまり、
      五男五郎右衛門尉の、「五男」と「五郎」
 が省かれているであることがわかり、末子だからこの子息の表示は例示でないこともわかります。
 つまり、
             「五郎右衛門尉」
は平手の嫡男と同じ名前です。

(10)西 巖
「西巖(サイガン) 月巖(ケツガン)・今の備後守・・・・」という書き方(西巖と月巖の間が離れてい
る)がよくわかりませんし、「西巖」がよくわかりませんので〈武功夜話〉の系図をみると、信長にいた
るまで、

       「織田大和守(上の●の人物)ー信定(月巖)−信秀(桃巖)ー信長」

となっていますので西巖は信長の曽祖父であろうという結論が出てきます。
織田大和守系が戦国尾張の中心で、この織田大和守系統と織田伊勢守系統があって伊勢守系に
岩倉城主と小久地(小口)城主がいた、一方中心の大和守系に敏定が出て、清須(清洲)におり、
これに三人の子息があり、ニ男の系統(月巖信定)が織田信長に繋がっていきます。〈武功夜話〉の
系図を抜き書きしますと下の通りです。

  
  『・・・・伊勢守織田常松ーーー伊勢守敏広(岩倉城主)ー伊勢守寛広(岩倉城主)
    (下津在城)   ーー遠江守広近(於久地城主)・・・
             
   ・・・・大和守織田敏定ーーー伊勢守敏信(岩倉城主)ーー伊勢守信安(岩倉城主)ー伊勢守信賢(岩倉城主)
    (清洲在城)  Uーー 弾正忠月巖信定(勝幡築城)ーー信秀(勝幡城主)ーー信長
              ーーー大和守清須五郎ーー大和守清須五郎ーー大和守彦五郎広信 』
                  (清洲在城)       (清洲在城)     (清洲在城)

これでみると大和守系が他を圧倒して、信秀が盟主となり信長が清洲と岩倉を下して統一したという
ことになりますが本当は問題にしたいのは、清須(清州)の
     大和守清須五郎ーー大和守清須五郎
の部分で、表記が全く同じです。これは親子重なっているかどうか、というのを念頭におかなければな
らない、また五郎がなぜ跡目をつぐのか、清須五郎はなぜ彦五郎のように広信というような名前がない
のか、などが疑問として出なければ資料が頼りないと思ってしまいます。

(11)小豆坂の叙述(織田五兄弟)
小豆坂の戦いの叙述で「明智三兄弟」が出ましたが、実は織田「五兄弟」も述べられていました。
話を信秀の兄弟のことに戻しますが、再掲、

  「嫡男備後守、二男与次郎、三男孫三郎殿、四男四郎次郎殿、末子右衛門尉とぞ申しける。」
  〈甫庵信長記〉

  「今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。」〈信長公記〉

 となっています。
小豆坂の戦いでもう一回これが出てきます。〈甫庵信長記〉では

    「三州小豆坂へ推し寄する処に・・・・織田備後守殿・・・・・同国安城へ出向かい、●舎弟
    三郎
殿を武者大将として・・・・・▲造酒丞(さけのじょう)左右を下知して・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・★備後守殿、御舎弟織田与次郎殿、同四郎次郎殿、
    その外赤河彦右衛門、神部市左衛門など隙なく下知して戦いける。
    内藤勝介能き武者討ち捕りぬ。河尻与四郎も、・・・・由原が首を取つて・・・・その比(ころ)は
    十六歳・・・・・・。永田四郎右衛門尉、那古野弥五郎一足も引かず討ち死す。」〈甫庵信長記〉

となっています。ここで★の羅列をみると、三番目が抜けているから上の●が入ると埋まります。すると
            ▲織田造酒丞
という大将は、同四郎次郎殿にあたるのか、ということが問題になります。要は織田造酒丞という織田
を代表する有名な大将は織田一族かどうかわからないとされているほど不確かな存在となっています
が、そんなことはない、明らかにしているはずだという疑問が一つの取っ掛かりとなります。備後守、与
次郎、孫三郎というのは顛末(死のことなど)が記されていますから、この四郎次郎が何もわかってい
ないという前提から、そんなことはない明らかにしているはずだ、つまり造酒丞をあてはめてみてはど
うかというものが出てきます。
織田与郎は、〈武功夜話〉で織田信康という人物であることがわかりますが、信秀が斎藤道三に
大敗を喫した戦いのときに戦死しています。また孫三郎は殺された記事があります。
ここで〈信長公記〉の小豆坂の記事を転載してみます。

    「あづき坂にて、備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿初めとして既に一戦に取り結
    び相戦う。その時よき働きの衆、
    ■織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎二郎殿、織田造酒丞、これは
    鑓きず被(こうむ)られ、内藤勝介、是はよき武者討ち取り高名。

    那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討ち死に候なり。
    下方左近・佐々は隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎
    左衛門・山口左馬介、・・・・・各々手柄という事限りなし。・・・・・★爰にて那古屋弥五郎頸は
    由原討ち取るなり。」〈信長公記〉

〈甫庵信長記〉にあって〈信長公記〉にないのは「川尻与四郎」です。これは由原を討ち取っています
から、〈信長公記〉では★のところに入るべきものです。〈甫庵〉で川尻が入ったのは十六歳という年齢が、
このあとすぐに出てくる「弥三郎十六歳、孫介十七歳、中野又兵衛(そち)十七歳」という記事に結び
つけるためでしょうが(一族という意味もある)、「与四郎」を強調するためのものでもあります。
 また〈甫庵信長記〉の永田四郎左衛門は、後者では永田次郎左衛門になっています。これは
       「四郎」「次郎」
を注目させるものでしょう。
 また那古屋弥五郎は清洲衆と書かれているから前出の大和守清須五郎大和守清須五郎
一人かもしれませんが、なぜか「五郎」です。
問題は■の表示の仕方ですが織田四郎二郎殿のあとは「・」ではなく「、」で区切っています。また
前著で述べたように、「四郎二郎」は一人ではなく「四郎」と「二郎」の二人です。前が小さい数字だ
とあるいは一人ともいえますが逆になっていますから、こういってまず問題はないでしょう。
したがって■を書き直せば備後守の兄弟は

  「■織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田造酒丞殿、内藤勝介殿」
となります。
ここで大和守清須五郎ーー大和守清須五郎での例もあり、前述の平手政秀の〈信長公記〉・〈甫
庵信長記〉の記述、
       「平手中務大輔に子三人あり。嫡子五郎右衛門尉、」
は清須五郎と同じで、親子が重なっているのではないかというのが出てきます。つまりテキストの系図
、「久秀」という当て字のものは、もう一回「政秀」を指しているか、又は「政秀」が「五郎右衛門」とい
ってよいのかどちらかです。かくて
   織田備後守・織田与次郎・織田孫三郎・四郎二郎(織田造酒丞内藤勝介)・五郎右衛門尉(久秀)
が月巖の子息であったといえます。すなわち

     政秀は織田の五番目(末子)右衛門尉すなわち「五郎右衛門尉」を養子にしていた
     といえる、
と思います。
おそらく織田造酒丞内藤勝介は当時でいう夫婦ということでしょう。、内藤勝介は幼い信長の四人の家老
として知られています。
小豆坂の記事のあと〈信長公記〉では

   「吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御供申し古渡の御
   城にて御元服、織田三郎信長と進められ」

となっていますが、これは那古野の城を信秀が幼い信長に譲ったとき、

    「一、おとな林新五郎・二長(おとな)平手中務丞・三長青山与三右衛門・四長内藤勝介
       是等を相添え、・・・那古野の城吉法師殿へ御譲り候て、」

とあったのとメンバーは代わっていません。甫庵では家老として付けたと書いてあります。ただ甫庵
には重要な文言があり

        「御乳母人(めのと)で候ける平手中務大輔に子三人あり」

となっており、信長は生まれたばかりの赤ん坊だったので乳母を兼ねていたとみることができます。信
長はどの乳母にもなつかず池田勝三郎の母である、池田養徳院にはなついたという挿話があります。
この養徳院が内藤勝介でしょう。つまり、織田造酒丞は池田勝三郎の継父ということが出てきます。
内藤勝介は首巻で出てくるだけでその後どうなったのかわからないということですが、名前が一匹狼で
、活動名がほかにあったということです。
〈信長公記〉にわかりにくい次のトリオが出てきます。

      「その時上総介殿御手前には織田勝左衛門・織田造酒丞・森三左衛門、・・・」

となっている「織田勝左衛門」は一匹狼で孤立して誰か判らないことになっていますが、内藤勝介を表
すものと思われます。なおここで森三左衛門が出てきたことも、一つの問題となります。すなわち二人
の織田一族と接近して出てくるからです。
備後守の兄弟に、斎藤戦で戦死した「二郎」という人物が出てきて、信長の守役に「青山三右
衛門」がいます。さらに川尻四郎もでてきました。兄弟を二つにわけてみると

       @ 備後守・三郎・四郎(造酒丞)・(五郎)右衛門尉
       A 与二郎(織田)・二郎(四郎二郎のうちの)・
       B  与三右衛門・与三・与四郎

となり@は月巖(信定)の実子、Aは月巖の継子(夫人の実子)ということになるのではないか、
青山与三右衛門など「与」の付く人は男性の継子の、主(あるじ)となると思われます。森三左衛門はネット
でみると「与三」となっていますので、この織田子息ということになって、織田勝左衛門・織田造酒丞とは近
い親戚ということによる接近だったのでしょう。
 太田和泉は森和泉ですから、織田一門といえなくもないということになります。太田牛一より「川尻
四郎」の方がより直接的に織田に近かったことになると思います。なお、この守役の「青山与三右衛
門」は「二郎」と同じく、あの斎藤戦で戦死していますので、守役四人のことは一応完結されている
ことになります。養徳院は池田恒興(勝三郎)の母として顛末がよくわかっている人物です。
また、二郎(内藤勝介)はなぜ「二郎」かということですが、これも「与二郎」の「二郎」を意識して、実子
筋ではないというのでしょう。
@の「三郎」は「孫」というキーワードがあり、単純な三男でもなく、重要な役目を負って出てくることに
なると思います。
     ・
(12)平手政秀の断片
テキストの続きです。

   「政秀といえば、信長の言動をしばしば諌め、ついに諫死して果てたことはつとに知られている。
   そして主従間の美談として伝えられている。だが、真相はそのような奇麗事ではなかったよう
   だ
。〈信長公記〉にはあるとき信長が、政秀の長男が所有する駿馬を所望したが、その命を拒否
   された。それが因となり、主縦間が不和になったとある。さらに続けて、政秀は信長の不真面目な
   行状を悔やみ、守り立てる甲斐もなく、前途を悲観して切腹したと伝えられているのである。
    美談とされている政秀の自殺は、主君を思っての諫死であったのかどうか疑問の残ると
   ころである

    しかし信長はその死を悼み、沢彦宗恩を開山として政秀の春日井郡小木村に一寺を建立し、
    寺号は「政秀寺」と名付けられた。
    政秀の孫汎秀は、元亀三年(1572)武田信玄の上洛軍を迎え撃った徳川家康の援軍とし
    て出陣、十二月味方が原の戦いで、先陣をきって武田信玄の本陣に切り込み討死した。享
    年二十二歳であった。ここに平手氏の嫡流は断絶した。嫡流が断絶したあと平手一族で織田
    家臣として存続したのは政秀の甥にあたる大炊助季胤である。季胤は本能寺の変後に尾張
    に入国した織田信雄に仕え、六千貫文を知行うる有力家臣となり検地奉行などをつとめた。』
    〈テキスト〉

  平手汎秀の名前がここに出てきましたがテキスト系図では
            「政秀ー久秀ー汎秀」となっていて、主要文献では
            「(政秀)ー五郎右衛門、
                   監物、
                   甚左衛門」
となっています。この三人いるはずだのにテキストでは子としては「久秀」だけが表示されています。
これは主要文献をもとにしなければなりませんので後述します。また、汎秀が戦死したあとは織田家
に名前が残らず、織田信雄の家で辛うじて政秀のいとこの家が残ったという珍妙なことになっていま
す。織田信長の政秀の家に対してとった態度が全く解せないことになります。人材登用主義といった
もので説明されて終わりとなっています。
 ここで平手政秀の諫死はもっとドロドロとしたものであったかもしれないといわれており、切腹する
前にどういう記事があったかというのを見なければならないと思います。次の●から■の間、平手政
秀が核となっています。例えば三人の師匠の「平田三位」というのは、武功夜話に

       「尾州津島の住人、堀田道空と老職平手三位(ルビ政秀)」

という記述があるので平手かもしれない、ということが出てきます。平手政秀は朝廷から「三位」を贈
られていたのかもしれません(平田の「田」は堀田の「田」も含むのかもしれない)。すなわち織田家
では唯一の三位といってよいと思います。平手の死までの記述を追って見ます。
       「天文十五年吉法師殿十三の御歳」
が基準ですから、天文十八年の信秀死では信長は十六歳になります。
〈信長公記〉では
     「●信長十六・七・八までは別の御遊びは御座なく・・・・」
として、馬、水練、鑓の工夫、形儀(ぎょうぎ)、三人の師匠、鷹狩のことなどが書いてあります。この
あと
     「大うつけ」と呼ばれたことがあり、
     平手政秀の死、葬儀
     平手政秀の子息と信長の諍い
     平手政秀の切腹自殺、
     斎藤道三・信長会見(平手政秀の才覚の結果のもの)
があり、
    「(十一)■天文弐十弐年{癸丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年の事に候。」
に続きます。
信長はこの十九歳から桶狭間二十七歳までの間に大変な力を発揮して国内戦、今川戦を戦い抜き、
天下布武の道筋をつけるわけですが信長公記の首巻の、ここからは十九才以後の話であると思われ
ます。信長公記首巻は日付がないので読みにくいのですが十九以前と十九以後にははっきり分けら
れそうです。
 余談ですが、信長の年齢は、今まで基準を、「天文十五年=十三歳」に置いてきました。これによ
れば天文二十二年には二十歳になるはずで、の文「十九」と一つ合いません
おそらくこれは信長が四月十七日の生まれであることをいっていると思います。今でいう数え方では
このとき十九才であったということだと思います。このあとの記事は、この日と特定できないものであ
り、また山口九郎二郎の年が廿年というのが二回も出てくるので拘(こだわ)っていると思われます。
前後意味なしの四月十七日は特別な意味ありといってよいでしょう。前後の文を念のため掲出して
みます。
   
 ■の前の文、「(婿殿と会見のあとの道三の言葉)自今以後道三が前にてたわけと云う事申す人
          これなし。」
 ■の文    「天文弐十弐年{癸丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年の事に候。」
 ■の後の文、「鳴海の城主山口左馬助・子息九郎二郎、廿年(はたちのとし)、・・・謀反を企て・・。
          一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置き、  
          一、笠寺へ取出(とりで)・要害を構へ、・・・・・・
          一、中村の在所を拵(こしらえ)、父山口左馬助楯籠(たてこもる)。
          か様に候処、四月十七日
          一、▲織田上総介信長公十九の御年、人数八百ばかりにて発足、・・・・、
          一、御敵山口九郎二郎廿の年、・・・・・・・・・」
まとめてみますと

  ◎■の四月十七日は前後に及ぶ意味がない。
  ◎そのあともう一回出てくる四月十七日は「人数八百ばかりにて発足」の日といおうとすればいえ
    る。つまり前の四月十七日とあとの四月十七日の間の記事は、四月十七日の行動を示すもの
    ではない。
  ◎■と▲は同じ文章であるが似て非なるものである。しかるに
    前の■は「四月十七日、織田上総介信長公十九の御年」
    後の▲は「四月十七日
          一、▲織田上総介信長公十九の御年、」
    で、間に「一、」が入るという大きな違いとなっている。繰り返しによる意味の強調をするため、
    実際四月十七日の事件、行動を探してきてあとの方に入れたということになる。
  ◎山口の「廿年」と「廿の年」は年齢への拘(こだわ)りを示している。

といえると思います。これでいけば信長の生年は1534年の通説に落ち着きます。天文三年四月十
七日の生まれとなります。
 御敵「山口九郎二郎」という表記も「九郎」がおかしい、太郎という人も別にいるよ、ということかもし
れない、つまり、太郎が夫人(母方の)子息で、ここは二郎のことをいっている、後年奉行になった山
口太郎兵衛は、六人衆の山口太郎兵衛で、これは山口左馬助(介)の継子かも知れないというのが
ここだけみると出てくるような感じですが、これは、ともかく太田牛一は山口父子とは親しかったといえる
と思います。
桶狭間のとき織田信長二十六歳、太田和泉三十三歳、信長十九才のころ太田和泉は二十六歳、
太田和泉は、信長がこの難局を乗り越えたことに多大の貢献があったとみてよいでしょうが、牛一が
いつから織田に来たのかというのが知りたいところです。
 ●の前も平手の記事で、非常に重要なものです。

   「・・・・か様に平手中務は借染(かりそめ)にも物毎(ものごと)に花奢(きゃしや)なる仁(じん)
   にて候し。(ここまでは前節の締めくくり)
    去(さ)て平手中務才覚(さいかく)にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り、道三が息
   女尾州へ呼び取り候キ、然る間何方(いずかた)も静謐なり。」

このあと●の文ですから、道三娘を呼んだのはDにあるように天文十七年=十五歳のころでしょう。
ここから●と■の間の記事が始まるのですから、結局平手中務からのスタートです。すなわち
  
               ーうつけー信秀葬儀ー道三信長会見
   平手中務の記事 U                          平手の切腹自殺
               −平手政秀の子息と信長の諍い

 という文の構成になり、「大うつけ」は葬式のときの「うつけ」の噂になり、「うつけ」を否定する筑紫
の僧侶がでてきます。
 道三が会見を考えたのも「うつけ」の噂であり、
 「大うつけ」は最後「道三」の褒め言葉で自己否定されてしまいますのでウソだったということです
が、桶狭間の戦いが考え抜かれた戦略によって勝利となったということでなければ、この「うつけ」の
原因などがわからないはずです。
 平手政秀の子息と馬のことで争い、不和になってしまったのは「うつけ」とみせるジェスチャーのた
めか、関係があるのかどうかですが、考え抜かれた「うつけ」ならば平手政秀が知っていたと思われ
ます。すなわち諫書の内容が「うつけ」領主を対象にするような内容になっていないようです。
ただ「うつけ」を装っていれば信秀の機嫌を損ねるとか、家臣の離反をまねくことがある、現に十九歳
になってすでに山口左馬介と戦を始めているような体たらくで、政治面のことももっとしっかりやれとい
いたかったと思われます。信長とすれば、斎藤との同盟のようなものは役に立たず今川の強勢に対
抗することを最優先に考えたかもしれない、現代から信長の心中を推し量ることはややむつかしいが
せめて太田牛一がどうみていたのかということを知ることしかできないのでそれが書かれているかど
うかです。
 とにかく平手政秀の自殺までには、
         うつけのこと。平手子息との不仲のこと。
が載っているわけです。
 〈信長公記〉では、備後守の死の記事のあとあと、例の有名な位牌に抹香を投げつけた記事があり
ます。この葬儀の記事は、その前の甫庵にも載っていない記事と相関があると思います。

  「・・・・平田三位不断召し寄せられ兵法御稽古、・・・爰に見悪きことあり。・・・・人目をも御憚(は
  ばか)りなく・・・人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候。・・」

という一文があり、これが「例の大うつけ」として葬儀に降りかかっていくわけです。
 これは天文二十一年の記事だから死後三年後、信長が泣いたという描写がないような葬儀ですか
ら、その気持ちはわかりますが、折り目正しい勘十郎と比べられてしまいます。決してプラスにはなら
ない行動とみられても仕方がないことです。現代でもここまでする人はいないでしょう。ただ、これは
「うつけ」を宣伝する絶好の場でもありますので信長が当時をどうみていたか、ということが絡んでき
ます。
信秀の死を隠して、三年後葬式をするということは平手の大博打であり、このことは諌書のポイントで
もありこの葬儀は無事に終わらせたかったというのが平手の考えであったと思います。
それに加えて平手政秀の子息五郎右衛門と信長との不和は戦うところまで行ってしまいました。次の
記事が大変な重みをもって迫ってきます。信長十九才の記事より以降のことですから、平手政秀は既
に故人です。内戦の一つ坂井大膳等との松葉の戦いのとき

    『★★松葉の並びに
      一、深田と云う所に織田右衛門尉居城。是又・・・・人質を執り堅(かた)め御敵の色を立
        てられ候。
      二、織田上総介信長、御年十九の暮れ八月、此の由きせられ八月十六日払暁に那古野を
        御立ちなされ・・・・・・・・・・』〈信長公記〉

という記事があり、この太字の人物は、あの織田五男の右衛門尉(信秀弟、信長の叔父)のことであ
るのは間違いなく、今そのように読まれています。したがって、今まで述べてきたことからこれが平手
政秀の嫡子とみざるをえません。しかしそれは筆者の読み方であって確実なものとはいえない、反乱
を起こしたのが信長の叔父というのはありうるが、平手の嫡子だということになると話は別で、すぐ
には受け入れられる話ではないといわれるかと思います。しかしここにも平手嫡子=織田五男である
というための伏線が敷かれていると思います。
織田信長のおじが刃向かったのですから重大事件でその顛末が書かれていなければならないはず
ですが今の読み方ではそれが出ておらず、この人物がどうなったかもわからない、太田牛一は、単に
思い出して書いてみただけだろうということになってしまいます。
実際はこの人物は信長に討たれるわけです。
先ほど〈武功夜話〉が平手三位は平手政秀だといっているということをいいましたが、〈信長公記〉は
               「織田三位」
というわけのわからない人物を織田右衛門尉の前に持ってきています。★★の前の記事です。

    『一、八月十五日(脚注では天文二十一年)に清洲より坂井大膳・坂井甚介・川尻与一・織田
      三位
申し談らい、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、★★松葉の並びに・・・』

と続きます。ここで今まで坂井大膳と行動してきた、坂井甚介が討ち死にで消えます。坂井大膳もあ
とで逃げて今川に身を寄せる記事が出ます。川尻与一は与四郎ではありません。

    『一、七月十二日(脚注では天文二十三年)、坂井大膳・川尻左馬丞・織田三位談合を究め・・』

でまた織田三位が出てきました。
    『一、七月十八日(脚注では天文二十三年)、川尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀殿切つて
     かかり・・・・・・・川尻左馬丞・織田三位・雑賀修理・原殿・・・・・歴々三十騎ばかり討ち死。武
     衛様の内、由宇(ゆう)喜一、未だ若年十七・八・・・・織田三位殿頸を取る。上総介信長御
     感斜めならず。』

この一節は太田又助登場のくだりですが、ここで織田三位と川尻左馬丞(これは与一と同じとみるし
かない)が消えました。念の入ったことで、織田三位は年齢の書かれた一匹狼由宇(ゆう)喜一
討ち取られ、信長が大変よろこんだことが書かれています。このあとまた繰り返しがあり

    『一、・・・・坂井大膳・川尻左馬丞・織田三位、歴々討ち死に候て、(坂井)大膳一人としては
    抱難(かかえがたき)の間・・・・・・風をくり逃げ去り候て、直ぐに駿河へ罷越(まかりこ)し、今川
    義元を頼み在国なり。』

このように織田三位と行動をともにした人は皆、顛末が書かれています。三位というのは後年三位中
将信忠が出てくるくらいですから、特にこの段階では目立つわけで、この時期の織田の三位は、一
人だけでしょう。この人(織田三位)を平手親子として重ねたと思われます。ここでは、五郎右衛門
=テキストの「久秀」としてみておくのもよいかと思われます。
要は、一年後こうなることですから当然政秀も予想はついていたと思うほどの不和です。

   『去る程に平手中務丞、上総介信長公実目(じちめ)に御座なき様体(ようだい)をくやみ、守立
   て候験(しるし)なく候えば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り相果て候。』〈信長公記〉

 これが信長公記の記事ですが、実目については、信長公記の脚注に「まじめ」という意味とされて
います。
信長公記が信頼性が高い資料とされているから、なおさらですが、これだけでは勘違いをしてしまう
のではないかと思います。諌書があったことは〈甫庵信長記〉で知っていますから、諌書を残して切腹
して、信長がそれをみて嘆き身を改め、清秀寺を創建するという筋書きをもってしまっています。
〈甫庵信長記〉を参考にしますと、ニュアンスが大きく違ってきます。諌言書のあとに続いていますの
で読み飛ばされてしまいそうな書きぶりですが、つぎのようになっています。

    「信長卿、清秀が諌めを忘れさせ給わず、昼夜天下の謀(はかりごと)をなし給うといえども、行
    年未だ廿(はたち)にも及ばせ給わねば、次第々々に御嗜みもうすらかに成り行き、弥(いよ
    いよ)我意を振舞わせ給えば、中務、頼もしげなく、実になき人を守立て、その験なからんには
    、命存(ながら)えても詮なしとて★諌書の時より期年余にして、忽に自害してぞ失せにける。」

となっています。★が重要で「期年」というのは「満一年」と脚注にあります。平手政秀は一年以上前
に諌書を出したと書いてあるのは確実なところです。すなわち平手は守役として云いたいことを、文書
にして出していて、一年以上も信長の様子を見ていたことになります。したがって「実目なき」という
のは、「まじめでない」という一般的なものではなく、実行しなかった、という意味になると思います。
平手が自殺したのは年表(東京堂出版)では天文二十二年(1553年)一月とされています。この一
年前は天文二十一年一月になります。葬儀のあったのは、この年三月三日でしょうから、葬儀の前
には確実に諌書が出ていた、親に孝というのも諌書(遺書ではない)にあります。

     「凡(およそ)見及び申す内、第一御身(みもち)我意にして、礼儀を知食(しろしめ)されず、
     先祖先孝に対し不幸に御座候。」

 というのは諌書にも述べられていることですから、葬儀でやったような行為を咎めていると取れます。
あとからみれば、七年後桶狭間までに国内を統一しているので信長にいわすともっとひどい状態であ
つた、「うつけ」を宣伝するいい機会ととらえたかもしれませんし、平手もそれは知っていたにしても、
この衝撃も大きかったといえます。信長は、

 「信長卿宣いけるは、平手かくなりし事も、予が無道を諌めたりしを、用いざるによってなり。」

ともいっていますが「無道」というのも少しきつい感じがします。子息との馬の取り合いはこれに該当
するのかもしれません。しかもこの平手の子息が叔父にあたるのです。自殺の前の記事です。

     「平手中務丞子息、一男五郎右衛門、ニ男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。
     総領の平手五郎右衛門能き駿馬(しゅんめ)を所持(しょじ)候。三郎信長公御所望の処、
     にくふり(憎体)を申し、某(それがし)は武者を仕候間、御免候えと申し候て進上申さず候。
     信長公遺恨浅からず。度々思食(おぼしめし)あたらせられ、主従不和となるなり。
     ●三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。」〈信長公記〉

●は自殺の記事の直前にある記事なので気になりますが、官位は朝廷から頂くものだ、自称しては
駄目だというものもあったと思います。平手は信秀の代理ということで上洛していますからこれはいけ
ないと思っていたのではないかと思います。テキストにあった平手政秀の「長門守」というのも正式の
ものではないかと思います。

(13)馬を巡る争い
平手嫡男との諍いはどう解釈すべきか問題です。

@、一つは「馬」をめぐる二人の争いということで、三郎信長公=馬=五郎左衛門で「馬」は最も重要
な性の属性となるものです。甫庵は平手政秀は「自殺」といっていますが、信長公記は「腹を切り
果て候」となっています。「自殺」も「切腹」も、属性語句です。

A、馬をめぐってここまでしつこく争うのは少し解せません。反旗を翻すというのも余ほどのことでしょう。
信長の軽率はいうまでもないのですが、これだけなら平手も打つ手もあったでしょう。

B「馬」は女性ではないかと思います。男社会で描かれた、女をめぐる争いを比喩したものととっても
よいのではないかと思います。信長は吉野のところへ度々出入りしていましたが、これは外に目的が
あり吉野家の男性のところに来ていたようです。甫庵では

   「御乳母人(めのと)で候ける平手中務大輔に子三人あり。嫡子五郎右衛門尉、ニ男監物、三
   男甚左衛門とぞ申しける。五郎左衛門尉名馬を持ちたりけるを乞わせ給う処に、某(それがし)
   は武勇を心がけ候間、御免候えと憎体(にくてい)に申しあげ進(まいら)せざりけり。尾籠なりし
   事どもなり。」

 平手を「めのと」(文中のルビ)といっていますから、普通でいえば平手は妖しいとなりますが、妻女が
「めのと」の場合もそう呼ぶのでしょうか。尾籠は「おこ」「をこ」の当て字です。おろかな、ばかげたこ
と、けがらわしい、とかの意味がある言葉で「信長卿は大嗚呼(をこ)の人」としても使われます。「た
わけ」とか「うつけ」という意味でしょうが、“嗚呼”という当て字が気になるところで、女のことという意
味もあるかと思います。
男は「「おとこ」「をとこ」もあり使い分けがどうなるのかいうことも気にはなるところです。
何となく男社会なら、女、女社会なら男をめぐる悶着の話となっていそうです。〈武功夜話〉で

    『上総介信長様、美濃斎藤道三入道の御息女、{この人胡蝶というなり。}御縁組以前に、郡
    邑(こおりむら)生駒蔵人の女吉野女、上総介様の御手付きあり。この生駒の後家殿、土田弥
    平治(次)討ち死に候てより雲球屋敷(ルビ生駒家長)に罷りあり候ところ、上総介様(ルビ信長)
    雲球屋敷へ御遊行、目を懸けなされ殊のほか御執心の揚げ句、上総介様の御たねを宿し罷
    り候なり。
    美濃との御縁組は、この一件秘事と成され候次第に候なり。しからば雲球一門中ともに相謀り
    世上の謗(そし)りを慮(おもんばか)り、丹羽郡井上庄の井の上屋敷へうつし隠し置き候なり。
    すなわち嫡子奇妙様(ルビ織田信忠)、茶筅様(織田信雄)この地において御生誕遊ばされ候。』

 となっていますが、これは吉野を娶取したというのとほぼ同様のことになります。実際はその後ろに男
性の存在があり生駒八右衛門の今でいう夫の男性、イコマハチウエモンであろうと思われます。思いを
かける、執心などというのは実際は男性に向かっているのですが、男性は女性の裏に隠れているので
それを直接いわず女性向けに発信された恰好で、目を懸けなされ殊のほか御執心というような女性
に向けていっているようなものになります。ここで信長は信忠と信雄という子を設けたいうことになる
と思います。
これは将来の夫人にいっておかないと、実子であろうと継子であろうと、同じ後継者の扱いになり、
もし実子で女子が生まれなかったら継子が相続するというようなことになるので、重大な問題でもあ
ると思われます。
 生駒八右衛門は森八右衛門でもあるようで、平手の本拠は近くにあり、(五郎)右衛門と(八)右衛
門が通じている、この生駒屋敷での確執があったのではないかと思われます。

(14)生駒氏
生駒八右衛門は重要人物で武功夜話には多く出てきます。

   「備後守様卒去の後、上総介様亡き備後様の遺志の如く、上の郡へ遊行、生駒八右衛門御伴
   仕る。生駒の家、上の郡並ぶ者なき分限者に候。八右衛門尉才覚に勝れ、普段牢人衆、数多
   扶食(あまたふしょく)大事あるに備え懈怠相なし。弥平次後家殿男子御誕生に及び、上総介様
   の信望厚く八右衛門左右取り持ち候なり。」

信秀もこの地によくきていたようですが、その真似をしたようです。

   「尾州郡村生駒八右衛門の家は(前野と)親類に候。上総介様、備後様の跡を襲いなされ候い
   てより、上の郡しばしば御遊行あり。殊に生駒屋敷の弥平次の後家殿へ忍草足留(しのびぐさ
   あしとどめ)なされ候なり。弥平次の後家殿は吉野(きつの)女というなり。すでに吉野女御懐妊
   、この時に及び美濃より御輿入れ、某どもは頭を傾け種々談じ合い候も、向後六ツケ敷儀等これ
   あり候。」

こういう意味でも重要な生駒八右衛門の家系図は次のようになっています。
  
  『加賀守     蔵人     八右衛門
     豊政ーーー家宗ーーーーー家長ーーーー三人の子(右近善長・隼人利豊・女子)
                 U 
                 Uー久庵(吉野)
                 U     ‖ーーーーーー信忠 信雄 徳姫
                 U 織田信長
                 U
                  ー森氏室』

八右衛門には森氏室の姉と久庵という女子の兄弟があった。それ以外に男子があったかも知れませ
んが一応、八右衛門の男性ハチウエモンを対象にいてみるしかありません。
織田信長の子息のうち、久庵は再婚のため連れ子もあったかもしれませんが、信忠は嫡男扱いのた
め確実に信長の実子であろう。つまり父方の子ということになるのでしょう。信忠にとっては親として

    男性の父生駒氏
    実母
    継母(吉野)

の三人いることになります。関ケ原の戦いで破れた信忠の子、岐阜城主であった秀信は戦後しばらく
生駒に身を寄せています。
ここに出ている人物は女子だけで、この八右衛門の男系は蔵人家宗の子とその妻女の子もあり一人
とは限らないし、その人の夫人もひとかどの人物であることもある、ということになりますがそれは現実
の話しで史書で選択できるのは八右衛門一人です。この人に妻女がありハチウエモンという存在があ
った、五郎右衛門とハチ右衛門の関係があったとすると信長の介入で三角関係ができあがってしまい
ます。ここまでが主要文献によるものです。あとこれに引っ付くものがあって補強されたり、修正された
りする資料は出てくるはずで固まってくるとよいわけです。
教えてもらったところによれば、

  「最近の論文で平手政秀の妻は武蔵の国、足立郷(現足立区)の舎人城主の娘で、平手政秀の
  養女が埴原常安の妻となり、その次女が舎人八左衛門(総領は八左衛門を襲名)に嫁したという
  資料が残っているそうです。そこで興味深いのは、政秀寺の開基者となった「沢彦宗恩」の俗名
  が「舎人八左衛門」だということです。」

とあります。
平手政秀と最も親しい人物は、
     結婚をまとめた春日丹後守・堀田道空と、
     信長への諌言書を入手している太田牛一と、
     菩提寺を開基して弔った沢彦宗恩
などでしょう。俗名というと僧籍に入る前ということになりますが、これが「八右衛門」と「八左衛門」と
は同じことのあぶり出しですから、注目の人物といっているのは明らかです
宗恩と政秀が関係の深いものというと、
          平手五郎右衛門=八右(左)衛門=平手と親しい沢彦宗恩
となり、「ハチウ(サ)エモン」が介在します。
平手政秀のは舎人城主のということは、おそらく平手が埴原城主の娘の婿となったということ
で、平手政秀の養女も埴原常安のとなりとあるのは、平手政秀は養子をとった、相手は城主の一
族であったとみられる埴原常安である。
次女が舎人八左衛門に嫁したということは、次女は実子か継子かは不明だが、八左衛門は八右衛
門に通じハチウエモンと関係があつたということになりそうです。埴原常安はネットでは織田信雄に接
近しています。織田信雄の父がハチウエモンとすると埴原常安は八右衛門を表しているのかもしれま
せん。
この挿話も吾妻鏡式引っ掻き回しのものと思ってよく、キーとなる語句を頭に入れておけばよいという
ものだと思います。つまり「政秀の妻」「城主の娘」「政秀の養女」「城主らしい人の妻」「次女」「八左衛
門」を頭に入れておくと、主要文献から形作られる骨格からだけでは今ひとつ説得力がないといった
場合になにかと結びつくかもしれないわけです。とくに「妻」「養女」「次女」は役に立つかもしれず、す
でに養女は役にたちました。要は城主というのを織田とみれば話がわかりやすいということであれば
目的達成ということになります。
余談ですが沢彦宗恩から沢庵宗彭が連想されますから、これは沢庵と前野長康とのからみから、二
人は、この地域の人で親子であろうとみて問題なさそうです。いや、弟子か、兄弟もありうるではない
かということにすぐなりますが、弟子とか兄弟という文献があれば別ですが、なければ一応親子という
のを事実らしいとしておいて、それをもとにしておけば早く解決の目途がたつかもしれません。今の諸
通説が余りに推理想像によってされているのに受け入れられており、それからみると表記も通説への
根拠になりうるのではないかというのがいいたいことです。なお遣明使になった策彦周良は沢彦宗恩
の親でしょうか。〈甫庵信長記〉の南化和尚は沢彦宗恩ではないかということはすでに述べましたが
南化和尚が突然出てくるし、太田牛一が記事にしているので、誰かのことをいっているかもしれない
と探そうとしてみることがまずしなければならないことです。「武蔵」の「足立」や「埴原城主」などもその
部類入るかもしれないのです。太田牛一の安食に関してはネットで「山田次郎重忠」なる人物がでて
きましたが、これは畠山次郎重忠が頭に入っていることは想像がつきます。また太田牛一は、信長に
は畠山重忠の言葉(覆車の戒め)を引用させ、信長公、秀吉公には頼朝の卿の(天の与うるところ)
を使わせています。重ね方にも工夫が見られると思いますが、戦国の史書が吾妻鏡を引き継いでい
ることがいろいろのところでわかってきます。ここの「武蔵」は畠山、「足立」は重要人物、安達(足
立)景盛とセットで出てくる足立遠元を汲むのかもしれない、と思われますが、地名の一匹狼もありう
ることは念頭に入れておかねばならないのではないかと思います。
 今の鎌倉の大仏はあれほどのものなのに、記事が吾妻鏡に出ていないとされていますが、これは
ありえないことです。大仏の記事は深沢の里にある大仏が頻繁に登場しますから、今大仏がある地
を、別の場所と思われる「深沢」、「深沢里」で語ったのではないかということも出てきます。つまり地
名のあぶり出しです。
〈信長公記〉にも松尾という場所と小笠原という場所は同じ場所ではないかと思わせるような記事が
あります。これは普通に読んでも表記がどうもおかしいと感ずるものです。
     「信州松尾の城主小笠原掃部太輔」
     「松尾の城主小笠原掃部太輔」
     「松尾の城主小笠原掃部太輔」
     「松尾の城主小笠原掃部太輔」
なお脚注には「松尾は飯田市松尾町にあたる。」とあります。同時に
     「松尾掃部」
     「松尾掃部太輔」
     「松尾掃部太輔」
が登場し、これは地名が名字になるということをいっているのか、小笠原氏と松尾氏は同族だといいた
いのか、松尾を小笠原を重ねて妖しいといいたいのか、名字にあまりこだわるなといいたいのかよくわ
かりませんが、わざと重ねて地名でこういうこともあるといっていそうです。小笠原は「甲斐国中巨摩
郡小笠原」があり、小笠原氏発祥の地名でもあるようです。ここは足立遠元につながる加々美信濃
守遠光と関係が深い地ですが、小笠原の地というと松尾の地も連想してしかるべしといっているかも
しれない、松尾に大仏像があつたという場合、小笠原にあったといった、ということもあるのでしょう。
吾妻鏡では園城寺と三井寺、円隆寺と毛越寺は同じらしい、法隆寺と斑鳩寺が同じであるのと似てい
焼けたのはどちらとかいう紛らわしさがついてきます。吾妻鏡に「秋戸郷」・「阿岐戸郷」があり、現代
でも博多駅=福岡駅、大阪駅=梅田駅があり、同じの場所をややこしくいっている、亀山城は出雲に
ある、といっても間違いではないことは述べましたが、石見は山陰の石見とは限らないかもしれない
わけです。深沢の里も今の地名のところかどうかもわからない、宛てられている地名かもしれない、
などがいっぱい出てきます。
 話をもどして、要は、埴原城は武蔵国の足立になく信州の松本にあるようで、すこしおかしい、これ
は一匹狼の地名で他に宛てられる、埴原常安も同じく、誰かに宛て付けているのかもしれないわけ
です。根も葉もないと思われる挿話からでも、重要語句だけつまみ取りしておけばよい場合もあると
思います。
  八右衛門からハチウエモンが出てくることを述べましたが、これは誰かということになります。〈武功
夜話〉に蜂須賀小六の兄に八右衛門がいることが二箇所ほどに書かれています。一方〈武功夜話〉か
ら作ったとされる〈武功夜話〉所収の系図にはこの人は出てきません。この人物に宛てられるのではな
いかと思われます。蜂須賀小六は、織田・斎藤・明智などの一族で、実際は大変な影響力があったと
思われますが、隠され続けたようです。野武士の頭領などというのもその正体を隠すためのものだった
と思われます。

(15)平手政秀子息
ワードで打っていないと気がつきませんが〈信長公記〉では平手の子息の表示の仕方は「一男五郎
右衛門、ニ男監物、三男甚左衛門というように、「、」で区切られています。備後守の兄弟の場合は
「・」です。こういうのは原本と関係ないかもしれませんが、この「、」とか「・」が例えば江戸時代に複写
され打たれたものとすると、それによって読んでもよいわけです。この区切りは関係ないにしても、平
手子息の表記にまとまりや、連関といったものが希薄という感じがします。名前の表記も、簡潔すぎて、少し特異な操作がされているのかもしれません。
信長公記・甫庵信長記では
                      ー 五郎右衛門
             平手政秀ー│ー 監物
                      ー 甚左衛門
となっており、中部分の名前だけで
テキストでは
             平手政秀ー久秀ー汎秀

となっていて、後ろの部分の名前となっていて、親子関係とされ、違っています。
これをどう考えるかということですが、主要文献のものを取るのが第一で、他の説は、それを引っ掻
き回していると取るべきかと思います。説話的な資料は、あとで出来上がったもので(主に江戸時代)
、基幹文献を解説するためのヒントとして見るのがよいと思います。
平手三兄弟について一番の問題は、この三人についての顛末が述べられていないことです。そのた
めこれが宙に浮いた話となっているのです。わかっていることは武功夜話と信長公記により三男の甚
左衛門が汎秀で、味方ケ原で討ち死にしたことだけです。
わけがわからないので結論じみたことから先に申しますと、長男については、〈武功夜話〉の
       大和守清須五郎ー大和守清須五郎
となっていたものと同じ手法が使われている、すなわち、長男が五郎右衛門を踏襲したということでそ
れが平手政秀に及ぶということだと思われます。「五郎右衛門」は「長門守」というのを親子でつけるの
と同じ意味合いです。
〈信長公記〉角川文庫版ではこの子息の五郎右衛門について「平手長政」であるとして

   『実名長政(〈笠覆寺文書〉)、永禄二年(1559)には中務丞(〈言継卿記〉)。政秀の子』

とされています。さらに補注では

   『当時平手姓の者には林佐渡守秀貞と連署した、平手孫右衛門長政があり(〈笠覆寺文書〉)
    、〈悉地院願文帳抜書〉には「尾州那古屋★平手昨雲斎長政」がある。』

これで、監物についてネットの記事から一部補強して、この長政子息説によって一応決めてしまうと
次のようになります。
                  
  ▼平手(織田)五郎右衛門政秀ーー平手孫右衛門長政・・・・織田三位として討たれる。(既述)
       (三位)            U
                         平手監物    ・・・・・・天正二年長島で氏家ト全等と討死。
                        │
                         平手甚左衛門汎秀・・・・・味方ケ原で討死。

 これで抜けているのが監物の名前で、これがテキストの宙に浮いた名前「久秀」を入れる、平手監物
久秀となるではないかと思います。テキストでは、平手嫡男が隠れ
       平手政秀ー(平手五郎右衛門)−久秀(監物)ー汎秀(甚左衛門)
といいたかったと思われます。あとは兄弟の横がなぜ縦の親子にされたのかが問題ともなります。
 これでの問題は、★の昨雲斎ともなれば年配の人であることが前提となりそうで、林佐渡守秀貞と
の連署ともなれば年齢が一世代違いそうです。信長元服のとき、四家老の筆頭、林は既に佐渡守で
す。
また、笠覆文書が「右衛門」となっていて「五郎右衛門」ではなく、「」は重要語句であることは
すでに述べてきました。たとえば、武功夜話では「孫右衛門」は、「孫右衛門(ルビ=太田牛一)」とし
て出てきますし、前野の当主、「小坂九郎」は「小坂井九郎」ですから、あの「坂井久蔵」につな
がる名前です。六人衆で出てきたのは「七」ですから「六」の枠外の人物で重要なものだというもので
した。すなわちこの「孫右衛門」は平手政秀自身を指しているとも取れます。
要は▼の平手政秀がこういう凝った表示になりますというために、平手孫右衛門長政というものを持
ってきたといえます。
これでいえば長男の名前はわかりませんので「長政」を借用して、上の図が
     
    平手孫右衛門政秀ーー(嫡男)平手五郎右衛門長政・・・・・織田三位として討たれる

となるのではないかと思います。つまり平手政秀には実子がなく、織田の末子(五番目)右衛門尉を
養子にしたということです。なかなか思いつきにくいことだからこういうまわりくどいヒントを与えたとい
うことだと思います。
もう一つ「笠覆文書」の「尉」というのも気になります。反抗の記事では、

        「深田と云う所に織田右衛門尉居城。」〈信長公記〉

となっていました。はじめの織田兄弟の表示では「・・・・四郎二郎・右衛門尉」〈信長公記〉

となっていたので、国内戦で信長に刃向かったのは、この信長の伯父であったのは間違いないとこ
ろです。
」というのは〈吾妻鏡〉でも使われているもので、〈甫庵信長記〉は全て「尉」を使っていて、「右衛
門尉」となっています。子息名の羅列でも、〈甫庵信長記〉は五郎右衛門となっている。
          「五郎右衛門 ・監物・甚左衛門」〈信長公記〉
          「五郎右衛門尉、監物、甚左衛門」〈甫庵信長記〉
〈信長公記〉では「五郎右衛門」としていて「尉」がなく、違いを意識していると思われます。つまり

  平手政秀=五郎右衛門尉の父、=(〈笠覆寺文書〉の「林佐渡守秀貞と連署した、」)
            平手孫右衛門長政
であり、「尉」があるので、あとで〈甫庵信長記〉などをみて操作された物のようにもののように思われ
ます。気になっているのは、文書に「尉」は入れるのかどうか、それを考えると、後年に平手と五郎右
衛門の関係を類推させるために出来たのが笠覆文書ではないかというのが結論です。
すなわちこの平手孫右衛門長政は長男の五郎右衛門ではなく、これは平手政秀のことで、根拠は
         孫右衛門

の「孫」というキーワードがあり、且つ「政」という史書を書くために設けた名と思われる「政」の字があ
るためです。要は主要文献は操作されているから、また頼りないから、、それ以外の実態をあらわす
と思われる手紙とかが合っていると見るべきではなく、実体資料も写しなどが作られて操作されてい
る可能性が高いのです。  
 平手監物久秀と平手甚左衛門汎秀は夫人の実子であろう、といえると思いますが、平手甚左衛門
は三男です。テキストや多くの逸文では孫ということですからこれがどうなっているか考えねばなら
ないところです。
ネットで平手長政の載っているものをみますと 「戦国浪漫・武将編(ひ)network,comから発信の文」
があります。独断と偏見でやったといわれていますが一歩踏み込んであるので、根拠があるとして使
ってもよいものです。これによれば
     
      『平手政秀(ひらてまさひで) 1492〜1553
           ・・・・・・・・・・
       
       平手宗政(ひらてむねまさ) ★1525〜1574
      平手政秀の長男で、名は宗政(長利・政利とも)。駿馬を所持していたことから信長に所望
      されるがこれを断ったため信長から恨まれたという。父政秀の切腹は諌死とされるが、この
      件も一因にはなったと思われる。天正二年八月、長島一向一揆掃討戦の際に討ち死。』
     
       平手汎秀(ひらてひろひで)▲1553〜1572)
      織田信長家臣。平手政秀の孫で、通称監物。武田信玄西上時に浜松城の徳川家康の下
      に援軍として派遣され、味方ケ原において徳川勢の先鋒の一翼として武田軍と激突、討死
      した。』

となっています。
宗政は政利ともなっていて、政利はテキスト系図では二男(政秀の弟)となっています。これは野口氏
とテキストではありますので、長政とは切り離してもよいのではないかと思います。政秀は経英(経秀)
の実子(父方)、それと政利は夫人の実子(母方)となっていそうです。政利、長利と「利」がついている
ので経英夫人(平手の継母)は前田氏と関係がある人かもしれません。前田は仲利、利春、利家、
利長などがいて「利」を使う家です。
これで

    平手孫右衛門政秀ーー(養子)平手(織田)五郎右衛門長政・・織田三位として討たれる。(既述)
            ‖           │
    平手夫人             平手監物    ・・・・・・・・天正二年長島で氏家ト全等と討死。
                        │
                        平手甚左衛門汎秀・・・・・味方ケ原で討死。

となると思います。そのなかで、先のネット文書のように 平手監物と甚左衛門は同一人としている
ものもあります。
外の書物では明智軍記が味方ケ原で戦死したのは平手監物としていて、先ほどのネット記事と同じ
です。
浜松に「監物坂」というのがあるそうで、これは監物の戦死した地をいうのでしょう。ただ監物が出て
くる記事に大垣ト全が出てくるものがあります。ト全は長嶋で陣没していますので、監物の死を、元
亀二年の長島陣と出来るのではないかと思います。
甚左衛門三男ーー味方ケ原戦死の線は信長公記、武功夜話で動かせないことです。
ここまで来たので、他の信頼される文書との整合性も考えねばならないものです。
信長公記角川版補注によれば

   『天文二年(1533)七月、尾張国に下向した飛鳥井雅綱・山科言継らは、二十日、平手政秀を訪
   問。この時、●七歳の次男は太鼓を、牟藤(武藤)掃部助平任貞■七歳になる息子は大つ
   づみを打つたが政秀の長男のことは〈言継卿記〉に見えない。
    そして天文二年七月二十三日、
    平手助次郎勝秀は飛鳥井雅綱の門弟になっている(〈言継卿記〉)。★この勝秀は政秀の嫡
   子のようである。 』

 となっています。これだけで完結させようとすると、四人の登場人物(次男、任貞・息子・勝秀)の関
係を無理にでもつなげなければなりません。
        「政秀の長男のことは〈言継卿記〉に見えない。」
というのは三人居るはずだということが頭にあって読んでいるので、五郎右衛門がいないということ
でしょう。五郎右衛門は備後守より年下でしょうから、見当をつけてみると天文二年では二十歳くらい
になるのでここの七歳は年齢が低すぎます。
●が平手監物であろう、夫人の実子としてもよいと思いますが、■の人物がどうしてここで述べられ
たかということです。
 この■の人は平手の友人の子息と思われる、といってしまってよいかということですが、吾妻鏡式
ではそれは考えられず、これは意味があるのではないかと思います。考えられる範囲のことでは、平
手政秀に男性の子がありその夫人が武藤任貞であったのではないかということです。これがこのと
き弟子入りした人の名前で平手助次郎勝秀でしょう。要は平手監物が「次郎(二郎)」で「次郎」と
いうのは織田兄弟の「与次郎」などと同じように傍系になるのではないかと思います。
したがって甚左衛門は平手政秀にとっては孫にあたりますが、この人を養子としたと思われます。監
物が亡くなったあとはこの人が跡目を継ぐことになるという関係かもしれません。
すなわち五郎右衛門は、40歳くらいで織田三位として戦死し、平手監物と平手甚左衛門は同年で
(あのときの七歳二人、★の1525の生まれ、となると見られる。)監物は長嶋陣で戦死、元亀元年
1571年では45歳くらい。
 甚左衛門は家老にあたりますから(〈信長公記〉)かなり年配で、元亀三年1572、46歳で戦死と
いうのは年齢的には合っているのではないかと思われます。テキストや先ほどのネット記事の汎秀
が、天文二十二年1553生まれだと、19歳の戦死となりますが、これも合っており、甚左衛門親子
の参戦となったということだと思われます。
ネット記事をみても監物と甚左衛門を混同しているものや、二人とみているものもあり混乱しています。
これは元が確実である上の後世の混乱ですから混乱しているようで、結論がきまっているからひや
かしであるわけです。
平手政秀の享年は、日本史年表に書いていませんから、享年はわからないということだと思いますが、
これは信長公記に書かれていないからだと思います。こういう場合は他によればよく、テキストに生年
が出ていますからそれによって矛盾がなければよいようです。1492の生まれです。死のときの年齢は
61くらいになります。

(16)もう一件の誤解
今までのものを甫庵信長記だけから順を追ってまとめますと

 @  「天文十五年吉法師殿十三の御年、」古渡(ふるわたり)で元服し織田三郎信長となった。
 A  「翌年・・・(信長初陣)」(これは天文十六年
 B   「翌年の春互いに屈服して・・・」(これは天文十七年
 C  「然る間八月上旬・・・息女を三郎信長卿へまいらすべしと契約あり」(これは天文十七年
 D  「頓(やが)て・・呼び取り給いぬ。」
 E  「かくて備後守・・・末盛に・・移り給う。」
 F  「天文{己酉}(十八年=脚注による)二月中旬の比より、備後守殿疫癘に冒され・・・三月三
     日に御歳四十二歳にて逝去し給う。」

となります。Fの前に末盛が出てきますから、信秀は末盛城で亡くなったのでしょう。
Dのところ、甫庵では(信長公記も)年月はありませんが、〈テキスト〉では、「同十八年二月に信長
は道三の娘を娶った」と書かれています。信長公記にも記載がないから、〈テキスト〉の元となった文
書も相当なもので、年表もこうなっています。ただCからFは一年しかないから、これは年は合ってい
ると思いますが内容に少し疑問があります。
天文十八年は一五四九年です、Dに関し、武功夜話の次の注が気になるところです。
   「御輿入れは、弘治乙卯年(ルビ=元年、一五五五年)吉日の事。」
と書かれています。
この太字の年だと、年表では一五五五年にあたり、婚約の七年後、輿入れした、桶狭間の五年まえ
信長二十二歳、斉藤道三が義龍と戦い死亡する一年前となります。
この武功夜話の「弘治乙卯年」とルビの年は重要で、この弘治元年はこれで合っているのではない
かと思われます。これが取られるべきとすると、約束と、実行の年との間に、その約束を証する行為
というのが入るのではないかと思います。「呼び取り給う」という表現で紛らせたといえますが、
       天文十七年 1548      信長十五歳のときの契約
       天文十八年 1549      息女の呼び取り(結婚)
       弘治元年   1555     (胡蝶の輿入れ)〈武功夜話〉の間違い
いうのでは、すこし雑ではないかと気になります。中身も補充して、つぎのような解釈になるのでは
ないかと思います。。
       天文十七年 1548      信長十五歳のときの契約
       天文十八年 1549      息女(道三の息女)の呼び取り
       弘治元年   1555      息女(道三の息女)の子、胡蝶の輿入れ

 平手政秀の織田家安泰策は、斎藤・織田婚姻による和平であった、「平手政秀才覚にて」とされて
いて、有名なものですが、この婚姻政策の実態の述べ方に誤解をよぶようなあいまいさがあるので
はないかと思われます。〈信長公記〉では

   @契約の叙述として
    『去(さ)て平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三入道に取り結び、
    道三が息女尾州へ呼び取り候キ。然る間何方(いずかた)も静謐なり。』
があり、このあと信秀が亡くなり平手が自殺の記事が続きそのあとよく知られた会見の記事がありま
す。何のために道三が出てきたかというのは

   A契約のフォローとして
    『斎藤山城道三、・・・・対面ありたきの趣申し越し候。此の仔細は此の比(ころ)上総介を偏執
    (へんしゅう)候て、聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申し候キ、さ様に人人申し候
    時は、たわけにてはなく候よと山城連々申し候キ、見参候て善悪を見候わんためと聞こえ候。・・
    ・・・・・・・』
があります。@のあとは信長16.7.8歳の記事、Aのあと19歳の記事になります。
この(婿)にするというのは、娘の婿にするとは書いていません。会見も婿に会いに来たわけで、
娘の婿に会いにきたわけではありません。この会見には信長夫人が姿を見せそうですがそういうこと
はないようです。なぜこういう表現の仕方をしたのかいささか疑問です。もう一つ〈甫庵信長記〉の解
説によると、〈老人雑話〉の記事では
   「信長、美濃齋藤が所へ婿入の時、・・・・・此の時山城嘆じて云、我国は婿引出物に仕たりと。」
となっていて、これは信長の「婿入り」となって、そのため国境まで出向いたことが記されています。
この挿話や表現は、まず、当時の結婚は、今の結婚のようなものではない、ということを理解させよ
とするものがあると思います。まあ家と家の結婚で、信長と道三が契約し、具体的なことやら、対象は
あとのことにしたというものではないかと思われます。
 結果的に嫁いだのは「胡蝶」です。つまり
         大和守清須五郎ーー大和守清須五郎
のようなものがここに出ていないか、道三が道三の息女と重なっているか、息女と胡蝶がかさなって
いるか、といったことが重要ではないかと思います。道三ー道三(息女)であるか、息女を引き取った
ということは、輿入れした人とは別の、とりあえず約束を固める人質として送ったということが考えられ
ます。
 婿入りか嫁取りかもよくわからない、というようなものが一人歩きしたような、ぼんやり孫娘が意
識の底にあるような、この婚約が成立したのは、信秀が生きていたときであり、信秀が美濃三人衆な
どと組んで土岐氏追放の非を鳴らして道三を窮地に追い詰めたときですから、道三方にも、そういう
必要があったと思われます。

      『ここに目出度く道三入道(ルビ=斎藤利政)の息女、帰蝶と上総介様の縁組み相調い候。
      御輿入れは、弘治乙卯年(ルビ=元年一五五五年)の事。』〈武功夜話〉

がありますが、もう一つ

      『上総介信長様、美濃斉藤道三入道の御息女、{この人、胡蝶というなり。}』〈武功夜話〉

ともなっています。この胡蝶が信長夫人ですが、「婿に取り結び」という段階ではまだ幼い(満でいえ
ば十歳)ので当事者たりえないし、またこれは道三の孫としないと無理です。だからここは

        息女(帰蝶おそらく小見の方)ー孫女、胡蝶

の母娘が織田にやってきたということになると思います。 契約成立の証として、人質を送った、表では
胡蝶(道三孫)と信長の結婚は含みとなつていたが、裏では、道三息女帰蝶(母娘)が人質となったと
いうことになると思います。
 挿話では齋藤氏の人物像が二つに分かれていることが、話を進める前に前提となっていなければ
ならないと思います。
          齋藤道三ーー義龍・・・・・・・龍興
                  │
                   龍興
となっているのにも、義龍と龍興が重なったり、兄弟だったり、親子であったりしています。
小見の方も、道三の妾であるというのが一般的ですが、義龍の妻ともされ(ということは道三親子が
重なっている)、胡蝶も道三の子、義龍の子というように分かれている、というようなことになっ
ています。
 道三は信長の「舅」と〈信長公記〉はいっていますが、道三が子息義龍の子を養子にして嫁がせた
という挿話もあり、これなら孫でも息女となるから舅でもあっていることになります。名将言行録は「斎
藤山城守秀龍入道」という紛らわしい名前を道三に冠しています。「秀龍入道の女」が信長妻として
います。まあ義龍の夫人か妾を小見の方(帰蝶)とするとこれは息女ということになります。
一方、小見の方は、道三の若い親子ほどの側室であって、その子が胡蝶であったということが一応
確定的な話として伝えられています。これは道三が女性ならばありえないことですから、道三は男
性であったということが前提となります。齋藤にはとくにややこしいことが多く

      ◎ 道三は英明なはずだが「前代未聞の無道者」と攻撃されている
      ◎ 道三は義龍を嫌い、龍興を愛した。
      ◎ 主要人物の関係が子であったり、孫であったり統一されていない。
      ◎ 義竜は道三の他の息子を殺したという話がある。それなら弟竜興を殺したことになるが
        竜興が息子として相続したとすると余りに話が極端すぎる
      ◎ また人物が重なっている、明智城を攻めたのは義龍になっていたり龍興になっていた
         りする
      ◎ 道三が一代の間に義龍に攻め滅ぼされた、家人が義龍に味方している     
      ◎ 明智が美濃旧記で義龍方になっている、明智とは道三と小見の方の関係があるはず
      ◎ 龍興は信長夫人と兄弟のはずだが織田は長嶋まで追い詰めて殺している 

などを説明できるものがなかなか見つからず、そのままとなっています。
 齋藤を論ずる場合、〈信長公記〉で「一色」氏が出てきますので、明智で出てきた「一色」〈前著〉と
同じで、男性女性の観点で述べなければ話しがまとまらない、当時の社会制度・慣習といったものに
立脚しないとこれは解けないことになります。

1、道三と胡蝶との関係@
道三には、残酷な面と信頼された領主としての二面的な話が伝えられていますが、齋藤利政道
三とサイトウヨシタツドウサンの二人三脚となっていたとすると、すこし説明をしやすくなります。史書
は道三、二人としていて述べていると見てよいと思います。
 今は道三と若い妾(小見の方)の間に生まれた息女が胡蝶とされているから、道三と胡蝶の間の
年齢差を考えてみるとどうにもなりません。ドウサンとその妾の間の息女が胡蝶だということでは考
えられないこともないのですが、、しかし、道三がいる以上、ドウサンにも、小見の方にも制約があり
、かつ小見の方は明智宗宿の妹ですから腕ずくでというわけにはいかないはずで、とにかく胡蝶の
息女説は無理でしょう。

2、道三と胡蝶との関係A
道三は義龍の子胡蝶を自分の子として信長に嫁がせたという挿話があります。これはいい加減な
話として無視されがちですが、これが妥当なものかもしれません。道三の孫が胡蝶で、自分が引き
取り娘として嫁がせたというものですがなぜそんなことをしたのかの説明が要ります。

3、小見の方と胡蝶は母・娘の関係であることは間違いないところです。

結果、道三二人、男女のこと、これらが拡張されて親子・兄弟・子の重なり、から見ていかなければ
ならずややこしいようですが、結論は一つですから、説明できるはずです。
 結論的にいえば 胡蝶は平手の三男の場合のように、道三の子か孫かの紛らわしさがついてま
わります。平手の場合のように考えると、
       道三の男性の子、ヨシタツの今でいう妻女が小見の方(義龍の夫人)とする
と、一応合ってくるのではないかと思われます。
 義竜は道三の子ではなく、深芳野という人の子とされていますが、これは道三の実子ではなく、妻
女の実子ということをいっているととれます。すなわち道三の継子ですが、ドウサンの横槍などがあっ
て長男として、義龍が相続したということかと思います。この義龍は親を殺したことで出家して「新九
郎はんか」と書かれていますが、たしか腫れ物の挿話がありやさしい人だったと思われます。
この義龍の妻女が小見の方で、義龍の夫、ヨシタツが道三の男性の実子ということとなる、したがっ
て道三は義龍とは血縁がないが胡蝶は義龍の子となり、かつ道三の実の孫ということになります。
また義龍の子とされる龍興も血の繋がった実の孫になるということになり、孫が子よりかわいいとな
ったと思います。これを相続させるために子として対外的に糊塗した(養子にしたといってもよい)、と
にかく義龍の跡を継がせようとしたと思われます。
  孫相続というのが律令時代からいわれていますがこれは男系社会なら、世継に恵まれやすく、
例外的に子が、親に先立って亡くなった場合にしか問題とならないが、女系社会の場合は子に恵ま
れないケースも普通であり且つ、男子だけの場合もかなりの確立で発生します。したがって孫に期
待をかけるというようなことが出てきます。「孫」というのがキーワードになっているのも故なしとはい
いきれないものがあります。
 齋藤最後の領主龍興も、義龍の子と弟という両説がありますが、こういうことではないかと思いま
す。
したがって、道三はドウサンの無茶苦茶のあおりを食らって、土岐の血を引いていると思われる義龍
を擁して挙兵した、明智一族挙げて義龍の味方をしている(美濃旧記)の記事は合っていると思わ
れます。このあと義龍は父である道三を攻め殺したことをなげきいて出家したほどですから龍興の
相続を邪魔したことはなかったと思われます。のち龍興は義龍派の明智宗宿などを攻めて、覇権を
確立したようですが、そういうものも半兵衛の反乱に結びついたと思われます。
信長夫人は、義龍の継子、小見の方の実子、道三の孫なので斎藤の相続権はあったというでしょ
う。斎藤新五はその弟かもしれません。
想像の域をこえない話となりましたが、これは斎藤から下ってきていないためです。織田側から斎藤
を素描しただけのもので、断片情報も今まで小説などを読んでいて記憶に残っているものだけを呼
び起こしている程度のものに過ぎないものです。しかし骨格だけでも作っておくと斎藤を取り上げたと
き役に立つかもしれません。ここまでの斎藤の叙述では早計ですが、太田牛一が織田に仕官した時
期の見当がつきそうです。
太田牛一は、この明智一族の息女(帰蝶)が織田に呼び取られたとき、信長16・7・8歳の頃の叙
述の直前の時期(20歳すぎ)に、小見の方、胡蝶に随って織田にやってきたのではないかと思い
ます。もちろんそれまでにも尾張・美濃のあたりは自由往来をして知人も多かったと思われます。
 したがって胡蝶が尾張にはじめて来たのは、天文17年、信長15歳のときで胡蝶は12歳のころで
あろうと思われます。結婚(輿入れ)は信長22歳、胡蝶19歳となります、
 一方、平手の死は、天文22年、信長20歳、胡蝶は17歳(満15歳)、のときですから、平手と胡
蝶の接点は、織田領では少ししかなく、かつ胡蝶が幼い時期なので、信長・胡蝶二人の性格の違い
による将来の心配という面ではまだ意識していないと思われます。
むしろ当時の社会からいえば信秀なきあと、信秀夫人土田氏の権力は強大になっても不思議では
なかった、信長と信行が同母の兄弟ではなかった、となるとやはり緊張関係は信長、政秀とも大き
いものがあつた、平手の諌言書も、信長が「たわけ」ぶったのも、同じ懸念を抱いていた表われだっ
たのではないかと思われます。、
〈信長公記〉首巻の記事は、織田信長の表記が、「信長」と表敬された「信長公」の二つありますが、
あの信長について書いてあると思います。弟信行にも、「勘十郎」と「勘十郎公」の、二つがあるのと
同じで、これも同一人でしょう。しかしこの首巻で二人を意識して読まねばならないということは暗示
していると思います。「うつけ」も同じではないかと思います。
信長が「たわけ」かもしれないということによって、山口の離反、酒井大膳の暗躍などで暗示されてい
るように、今川は織田が内紛や謀略で自滅すればそれにこしたことはないと、織田国内の乱れを
煽っていたと思われます。平手にいわせると世間を欺くため「うつけ」を装う必要はない、そのため
の斎藤との縁組だったといいたいところと思われます。
しかしこれによって今川の姿勢が様子見になって、義元自身の織田介入を多少遅らせてしまったと
いうことであれば「うつけ」などで猶予期間をつくったことは結果的にうまくいったと思われます。
 しかしこの「たわけ」も後年の、もう一つの上総介広常から連想される「うつけ」が降りかかってきた
ことも暗示していると思います。
 「うつけ」という言葉は前著で紹介したように
      「・・・・人により懸り、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候、其の比(ころ)は
      世間公道(こうどう)なる折節にて候間、大うつけとより外に申さず候。」〈信長公記〉
で出てきます。このあと
      「三郎信長公を例の大うつけよと執執(とりどり)評判候なり」〈信長公記〉
があります。しかるに道三が婿について聞いた話は〈信長公記〉にあり
      「(周囲の言葉)聟殿は大だわけにて候と・・・・(道三の言葉)たわけにてはなく候よ・
      ・・・・(道三の言葉)たわけが門外に馬をつなぐ・・・・たわけと云う事申す人これなし。」
で 「たわけ」という評判です。「たわけ」と「うつけ」は感じがちがうということで区別されていたと
思われます。だから当時は「たわけ」ぶっていて、「うつけ」は或る比(ころ)にいわれたといってい
るのでしょう。
弐心の歴史書ということでみないと年表を作れる程度のことしか歴史を読み取れないと思います。
 平手を締めくくれば、 1、清秀ともいい、織田の一族で、明応元年生まれ、享年61歳
               2、平手政秀は信長の乳母人であった
               3、実子はあったがあとを継ぐべき実子に恵まれなかったようである
               4、織田月巖の五男(右衛門尉)を養子にした、
               5、信長が駿馬をめぐって諍いをしたのはこの織田五男
                 三角関係があったのではないか
               6、実目なきとはかねて出されていた諌書が実際に効き目がなかった
                 ということ
               7、三人の子息は戦死した
               8、イメージは乳母人のそれであり、和歌に堪能、言継卿ともつきあい、
                 華奢な人であった
などとなり謎だらけの人物にも骨格の部分はわかるように書かれていたといえると思います。ただ
これ(とくに2とか5、6)でも、切腹して信長をいさめるという切羽詰ったものが出てこないように思われ
ます。次稿のような四面楚歌のような状態であったことが、急がなければという焦りのようなものをうんだ
ものと思われます。次稿は本稿以上にわかりにくい話となりますが平手政秀を述べる場合に避けられ
ないことです。

                                             以上
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