33、崇峻天皇・聖徳太子の出自(その2)

  
                
   
 (454)語り(伝承)の伝
      一方、忠臣蔵で「倉橋伝助」を出しています。「倉橋」は
         「崇峻天皇」の「倉椅(くらはし)〈古事記〉」の宮(脚注=奈良県桜井市倉橋。」
     があり、戦国では「池田勝三郎」「池田紀伊守」の登場する「倉橋」「椋橋」がだされ、忠臣蔵ではもっとも悩ましい
          「多門伝八郎・堀内伝右衛門」
    が初めと終わりに出てきます。この「伝」が戦国の
           「大津伝十郎」〈両書〉 (実名「長治」・・・・〈京都大学影写鹿王院文書〉」
     からくるものか、
            「津(つ)」=「城都(つ)本能寺」「京都(と)」=「戸(と)」    図(づ)=意図(と)
     で、「と」⇔「つ」ですが、索引では(都鹿=つか=塚)が前後になり
         〈信長公記〉索引では
        太田孫左衛門/大館伊豫守/大塚孫三/大塚又一郎/大津伝十郎/大戸丹後守
          〈甫庵〉は
        太田/大館岩石丸/大館治部大輔/(同)伊予守/大津伝十郎/大塚又一郎/大塚弥三/大戸丹後守
 
     となってて 
           戸 ⇔ 津
     が意外に意識されています。  津=(田)=戸  もありますが
                  太田=(伝十郎)=大津
     
ということでしょう。大津伝十郎の属性は第一に
                  「高槻」
      です「高」は「高山」の「高」で、「槻」は「槻(つき)の木」の「槻」で、これは「歴史の木」で最近の新聞でも
      出てネット記事では
          「奈良・飛鳥寺から石敷き大化改新「槻の木の広場裏付けーMNS産経」
       があり、
           「大化の改新(645年)の前に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣 鎌足
           (なかとみのかまたり)が出会った「槻(つき)の木の広場」の推定地とされる・・」

      となっています。「飛鳥寺」がでてるのでここのことかもと思えるところです。近くに「槻の木」もあったのだろうと
      推定されています。「つき」が何となく「いつき」に似ていますが、戦国文献では、姉川で

           「、、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森九兵衛・・・・勝どき・・・浅井雅楽助、舎弟斎助
             (ルビ=いつきのすけ)・・・討死してけり。中にも哀れを留めしは、浅井雅楽助兄弟ぞかし。
            ・・・・日来中(なか)を違(たが)つて有つるが、廿七日の亥の刻計りに、兄の雅楽助、斎助が
           陣所へ行きて 明日討死せん事は一定なるべし、今は遺恨もよしなし、名残(なごり)の盃呑む
           べし。父尊霊を見たくば、互の顔を見よやとて、目と目と見合せ、暫しが程は物をも云はざりけるが
           雅楽助酒を乞ひ出だし、久しき郎等共も出て呑めよやとて盃を廻(めぐ)らしたるは哀れにも覚え、
           勇士たらん者は、此くこそあらまほしけれと云はぬ人こそ無かりけれ。」〈甫庵信長記〉
  
     がでてきます。ここでさきほどの「斎宮」の「斎」が「いつき」として出ています。これはネット記事で
     
        「斎規の意味ー古文辞書ーWebliо古語辞典
        斎槻の意味。・名詞神が宿るという槻(つき)の木。神聖な槻の木。一説に、「五十槻( いつき)」で、
        枝葉の多く茂った槻の木の意とも。「い」は神聖・清浄の意の接頭語。」
     
      があります。これは垂仁天皇の「五十(い)」ですが当時の「石上神宮」を管掌した
          「五十(い)瓊(に)敷皇子」
      の「い」です。〈書紀〉完成720の3年前に
           「 717  左大臣「石上麻呂没(78)」
      があり3年後
           「藤原不比等没(62)」
     があって、二人の年差は22年で今でいう中大兄皇子②の夫人が「石上麻呂」
     ともとれるところです。
            中大兄皇子②
             ∥ーーーーーーーーーー藤原不比等
        
    石上麻呂
      というのが太田牛一にあったかのかどうか、これだと
         大友皇子②(王子)
     も身を隠し機会を狙うことになるのかも。十一皇女もあるのか、まあこれはないとしても、十市皇女は
               ・大友皇子の妃 
               ・高市皇子が歌を寄せた 
               ・阿閉皇女と伊勢神宮へ行った(年表では阿閇もある)
     が目だった関係者ですが、関連して鎌足も出てきた、また有馬皇子(孝徳天皇の娘)のときでてきた 蘇我
    赤兄が近江方にいる、天智7年、中臣鎌足が近江令を作成して(年表)、近江朝の基礎を固めた
    功労者で、藤原鎌足が天智8年亡くなります。雅楽助と斎助が父が同じの兄弟として出てるようで
      雅楽助のことを誉めてる感じです。もう一人の中大兄皇子が、ここで出されたかも。ペアの鎌足も
       孝徳天皇の条に
          「内大臣〇内臣の誤り大錦上中臣鎌子連・・・・一名鎌足・・・・」〈愚管抄〉
      があり、いまとなれば一人とはいいかねる、太田牛一には、これはもう一組の中大兄皇子と鎌足の
      組合せにも見えたものがこの一文なったかも。日本の国家としての夜明けのとき、二つの組み合わせが
      交錯したというのが考えられ、そのとき、欅(けやき)の木があった、というのは何故かよくわからないにしても
      槻の木広場の出会いがあったといいたいところでしょう。
      この「内大臣」には似た感じの〈信長公記〉索引があり
         内大臣→織田信長/内藤勝介/内藤信成三左衛門/内藤重成/内藤備前守/内藤備中/内府→織田信長
       
があり、織田信長は別人と解しました。索引〈甫庵信長記〉にはこの一文から出た
           浅井石見守/浅井雅楽助/(舎弟)斎助
      があります。
            「石見」
      はずっと引っ懸っている地名で、
           伊勢ー斎宮―十市皇女ー大津伝十郎ー倉梯(橋)ー深田(ふかだ)-高山右近ー倉橋、池田勝九郎
      など時代のチャンポンがあって、舞鶴市の倉梯も出てきます。丹後ー天橋立ー倉梯川で、このあたりにも
          「岩見重太郎」伝説も出てきて「岩見」もあるかも
      ということにもなります。柿本人麻呂最後の地といわれる「石見国」の鴨島の鴨山というのも所在も確認で
      きない状態です。要は、柿本人麻呂は小説的表記であって、社会活動も活発だったことが予想され
      これは、我が国、詩文の始めとされてる大津皇子が活動名ではないかといってきました。
      皇子大津と大津皇子との二人になるとして、その場合の終焉地ということで、みないといけないとこ
      ろでしょう。

      (455)挽歌二首
       推古の100年後が持統(10年)で
      大津皇子には「鴨」も「石川」もでてきます。身内を失った挽歌というのは地域的な広がりはあり
      えます。(四一四 は大伴家持の短歌)
 

          「          挽歌
                上宮聖徳皇子、竹原井(たかはらのい)に出遊しし時、竜田山(たつたやま)の死(みまか)れる人を
                  見て・・・作りませる歌一首小墾田宮に天の下知らしめし天皇の代
小墾田宮の御宇は豊御食炊屋姫
                  天皇なり諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古

               四一五 家にあれば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あはれ

                  大津皇子、被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にして
                  涕(なみだ)を流して作りませる歌一首 
               四一六 ももづたふ磐余の池に鳴く(かも)を 今日のみ見てや雲隠(がく)りなむ
                      右、藤原宮の朱鳥元年冬十月なり。      」〈万葉集〉

      の磐余の「鴨」があります。ここの「大津皇子・・・」以下の前書部分は〈書紀〉が出てから、編者とされる人が付け
      足して〈書紀〉の説明をしたと取れるところで、歌との相関は心情、情景ではあるかもしれないが事件の
      相関はないともいえます。大津皇子(朱鳥元年の)は、「皇子大津」であったはずであり、上の推古期に
      飛んでいることは、この接近でも、それは窺えるところです。脚注では歌意は

            「大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流してお作りになった歌
            416 磐余の池に鳴いてる鴨を、今日を限りに見て、私は死んで行くことであろうか。
            ◎左注に、右は持統天皇の朱鳥元年(686)十月のことである、という。
            “ももづたふ”は枕詞。イ(五十)・ヤソ(八十)にかかる。百につたい行く意。」

       となっています。「もも」は磐余だから「桃」もあるかも。
        「被死」を、このように解するところ、最後に雲隠が自分の死となりますが、今日のみ見てや、が作者とも
       とれないこともなく、明日になれば、今日と同一の鴨はいない、という感慨をのべてる、ともとれます。道行く
       人は明日は会わない存在です。また大津皇子というのなら朱鳥元年の賜死の記事は「皇子大津」で違ってる
       はずです。ただ大津皇子は細字であり、皇子大津を想定してることは言えると思われます。「時」というの
       もあり、「涕」は「弟」が入ってるというのもあります。「竜田」の注は
            「竜田 奈良県生駒郡三郷町立野の竜田本宮周辺のの地。
             ーー山  三郷町の西方、大阪府柏原市にまたがる山地。竜田山を称する山はない。
             --路  --の山 河内(大阪府)に行く竜田越えの道であるが古道ははっきりしない。」
        となっており、存在しない山を前書に入れてるが「竹原井」は
            「大阪府柏原市高井田の地」
        となっており、ひょっとして 橿原ーかしはらー柏原(「信長記」でよく出てくる)  を頭のなかで見てるか
       もしれないところです。〈持統紀〉で洪水のように出てくる、龍田の風神の「龍田」は「奈良県生駒郡斑鳩町」
       にあり、〈年表〉では
            601年 推古9年   聖徳太子 斑鳩宮を造営〈書紀〉 (592から豊浦宮にいた?)
            603年 推古11年  飛鳥小墾田の宮に移る〈書紀〉  (明日香、豊浦の近く?)
            605年 推古13年  聖徳太子斑鳩の宮に移る〈書紀〉 (建物完成)  
       となっていて
            斑鳩町ー斑鳩宮ー龍田 だから 持統天皇は、斑鳩(聖徳の代)をずっと祀ってたともいえます。
       

      (456)藤原宮
         〈万葉集〉持統天皇で「藤原宮」が出ていますが、持統
       は「藤原の宮」が属性で、「吉野の宮」と行ったり来たりしています。〈万葉集〉の地名注によれば

          「▲藤原(ふぢわら)  奈良県橿原市高殿町を中心とした一帯の地 1巻五〇
             --の京(みやこ)  持統・文武・元明天皇(和銅三年三月まで)の都城 1七九題
             --の宮 1二八標目・五〇題・五〇左・五一題・七八題・・・・
             --の大宮 1五三
             --の宮の御井  位置不明。1五二題 
           藤井が原 →  ▼藤原(ふぢわら) 1五二  」
      
      となっており、▲は▼から「藤井が原」も、一つありそうでこれは「青香具山」など大和三山のあるところで、
      「吉野の山は・・遠くありける。」の場所です。一方

        「     天皇の御製歌(脚注=「天武天皇」)
            二五 み吉野・・・・  二六 或る本の歌  み吉野の・・・・・・

              天皇、吉野の宮に幸しし時の御製歌
           二七 よき人のよしとよく見て  よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見(み) (「見」止まり)
        
         藤原宮に天の下知らしめしし天皇の代
                  高天原広野姫天皇、元年丁亥の十一年、位を軽太子に譲り給ふ。・・尊号太上天皇・・    
               天皇の御製歌(訳=持統天皇)
            二八 春過ぎて夏来るるらし 白たへの衣干したり 天の香具山  
        
               ・・都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
            二九・・・・・畝傍の山の 橿原の・・・・・・・・・・・            」〈万葉集〉

     があって、脚注ではこの藤原宮は▲の地が書かれています。脚注では
       「持統天皇の八年に造営された皇居。奈良遷都までの文武・元明天皇の皇居でもあった。奈良県
       橿原市高殿。」
     となっています。持統は引退の意思があったので、入部していないようです。「二八」の歌の脚注では   
       「天の香具山は天上の神の依代(よりしろ)になる神聖な山。そこに衣更えの衣が干されるわけがない。」
     となっています。それにしては香具山の表記が多すぎるわけで、持統の表記も同じひろがりを示しています。
     一神教だという神の主も内外ともに表記が
     多すぎて、長生きしすぎておかしいと思うのだが、そういうことをいわれてるのではなくて
       「みそぎの衣(小忌衣)が干されたのであろう。そこに季節の推移を実感したのだ」
      となっています。柿本人麻呂が持統に接近したのは「雷丘」(明日香村)もありました。〈書紀〉では

         「(持統八年) 一二月六日 藤原の宮に遷居した。
                  九日、百官が、●朝[天皇]拝した
         (持統九年)  春正月五日、浄広弐[従四位下]を皇子舎人(とねり)に授けた。・・・・
         (持統一〇年)・・・直広弐[従四位下]藤原不比等に・・・」〈日本書記〉

     などあります。●が誰やらよくわからないが新顔が出てきたかも。二七 の吉野は(よき野)の意味で
     南朝、楠木正行のあの吉野でなく、信長夫人の「吉野殿」の「吉野」になるのでしょう。明日香村のところに
     橿原市と書いてる地図もあり、「橿原」は「奈良県橿原市畝傍町の畝傍山東南麓一帯の地」です。
      一般に
     
        ①南方吉野の宮ーーー②飛鳥豊浦・小墾田宮・雷丘ーーー③橿原市香久山の西南、天香久山の西北
                           (  明日香村  )        藤原京跡とされる地、橿原市

      
 というのが大体南ー北にあります。雷丘は持統の属性です。「藤原京」は明治に入ってから橿原市の
       ここと固定されて、藤原の宮も藤原宮も含んでしまったということになるのでしょう。②は推古紀に
          「一一年、冬一〇月四日、★小墾田の宮に移った。」〈書紀〉
       があり、年表ではこれは「聖徳太子」のこととされています。推古天皇が移ったというよりも、聖徳皇子と
      いう方が合っていそうです。のちに持統天皇がこの地に愛着を以て宮を造ってそれが「藤原の宮」=「藤
      原宮②」となるのではないかと思われます。なにが問題かというのは〈古事記〉序文の終り頃、で

          「皇帝(仁徳)より以下、◆小治田の大宮より前を下つ巻とし」
      とあるので、天皇名は「武烈天皇以後九代」の最後
              「・・・・用明/崇峻/ ◆推古」
      となってるので、推古が◆であるとして、その前は 「崇峻」か「崇峻 /□□ 」の□□があり、これは〈年表〉
      の画面に出てきています。全権をまかされた、いわゆる聖徳太子ですが、六〇一年からもそれが続くにして
      も代表者、聖徳皇子(竜田山で出てきた)が出されたと取れるものです。★が聖徳皇子で、持統天皇は◆
     を完成させたので、小治田の大宮が出てきたと取ると
      持統がいわゆる高殿の藤原京とこれを完成させたということになりますが、持統一人ではこれは無理や
     ということに帰着しそうです。もう一人の、じとうが藤原京は完成させてると取ると、明日香村の宮はその
     統治範囲内にあり、藤原の宮としてやや特別な扱いを受けたということも考えられます。まあ
          717年  78歳没の人がおり、持統は
          702年  58歳没だから、ほぼ同い年の人がいることになります。これが持統②ともなると、
     大きくかわってきますが、あとはその感じで読むとどうかということで、藤原京というのは「藤原」関係なし
     とはいえないかも。

     (457)新益京  
       一方で、 持統
          「五年、一〇月・・・二〇日、 使者を遣わし、新益(しんやく)京([藤原京][の地]を鎮め祭った。」
                                                                〈書紀〉
        があり、ここで〈書紀〉本文ではないが(「藤原京」という)「注」で出てきました。
       これ以前に藤原の宮が出たのは
          「四年皇后が天皇位に即いた」
        という「四年」からで

          「四年 一〇月 高市皇子が藤原の宮の予定地を観た。
          「四年一二月  天皇が藤原に[行]幸して宮地を観た。」

        があり、新益京がでてからは、以後
          「五年一二月、詔して、右大臣[丹比嶋]に賜る[新益京での]宅地は四町。・・・
          「六年・・・・天皇が新益(しんやく)京の[大]路を見た。」
          「六年 四月 藤原の宮の地を鎮め、祭った。新しい[藤原の]宮のことを告げた。
           六年 六月  天皇が藤原の地を観た。」
          「七年 八月  藤原の宮の地に[行]幸した。」
          「八年 正月  藤原の宮の地に[行]幸した。その日に宮にもどった。」
          「八年一二月六日 ●藤原の宮に遷居した。」
          「九年 閏二月八日・吉野の宮に[行]幸した。一五日、車駕が[藤原の]宮にもどった。
 
      があります。●が「新益京」[藤原京]とすると、その上の一文は別の所のような感じですが、まあ天皇の行動が、
      ちぐはぐで、ここでは二人の行動があった、先ほどの〈万葉集〉注の藤原宮もあるので、場所も二つの藤原が考
      えられます。〈持統紀〉には
          「吉野の宮・・・葛原(ルビ=ふじわら)朝臣大嶋・・・吉野の宮・・」〈書紀〉
      があり、「ふじわら」だとすると甫庵の
           「葛原(かつらはら)帝王、的々の令孫平清盛・・・」〈甫庵信長記〉
      の葛原も、そうかとなってきます。ちょっと「藤原宮」が今言われている香久山の西南の地だけとは考えにくい
      ところです。
      
 また持統は「竜田」も属性で本文では、よく出てきます。

           「広瀬の大忌神と龍田の風神とを祭らせた。」「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」                  
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」 
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」 「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」 「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」   
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」 
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」「広瀬と龍田とを祀った。」」「広瀬と龍田とを祀った。

       があり、また、広瀬と離れて
           「五年  龍田の風神、信濃の須波(すわ)、水内(みぬち)の神を祭った。」
       もでています。四一五の推古の御代の前書

       上宮聖徳皇子、竹原井(たかはらのい)に出遊しし時、竜田山(たつたやま)の死(みまか)れる人を見て・・・作りませる歌
      一首小墾田宮に天の下知らしめし天皇の代小墾田宮の御宇は豊御食炊屋姫天皇なり
                       諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古
 
  
           四一五 家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あはれ
        がありますが、この
                   明日香村
      の竜田山の竜田と通じています。ここは「竹原」が「たかはら」と読まれているのも重要なところですが     
      「出遊(いでま)しし」もあります。〈万葉集〉「二三五」にこれが出ていて

          ★天皇の雷岳(いかづちのにをか)に出遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
         二三五  大王(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷の上に蘆(いほ)りせるかも
             右は・・・忍壁皇子に献るといへり。その歌に曰はく、大王(おほきみ)は神にしませば
                 ◆雲隠(くもがく)る雷山に宮敷きいます。

                                     
    があり、脚注では、★は「持統天皇」となっており、訳は
        「持統天皇が雷丘にお出ましになった時に柿本人麻呂が作った歌  
         二三五 天皇は神でいらっしゃるので、大空のあの雷の上に仮宮を造っておいでになることよ。
            右は・・・・「大君は神でいらっしゃるので、雲に隠れた雷山に仮宮を造っておいでになる」とある
              ・・・・ 雷丘を実際の雷のように見なしている・・・・
。」

    
 となっています。柿本人麻呂から「朝臣」がぬけており、仮宮となっています。仮宮がどこにもでていないのに
     なぜ出てきたかといえば、やはり、雷丘に出てきた、ここは仮宮を造っていた、お墾田宮は「藤原宮」と
     いうことができそうです。◆は大津皇子の「雲隠」の説明をしており、雷が雲に隠れた、といってるのに似てる
     というのかも。この二つの「出遊(いでま)しし」だけが 持統天皇ー推古天皇の時代をつないでいるといって
     もよく、一つ薄い線でつながってればそれでよいわけですが何と多くのことが次にでてきました、皇子大津ー
     持統の朱鳥ー推古の皇子大津=崇峻 に飛ぶということになります。

     (458)ついでに出てきた
      ここでもう一人、国語の大御所が出てきます。これは特異のもので、死人として登場といえるものです

               聖徳皇子・・竜田山(たつたやま)の死(みまか)れる人を見て・・作りませる歌一首小墾田宮に天の下知らしめし天皇の代小墾田宮の御宇は豊御食炊屋姫天皇なり
                       諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古

               四一五 家にあれば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あはれ
      
     がありました。歌に優れたものがあり、前書の説明は後世の人が、その歌の鑑賞の手引きとして付された
    ものがありますが、歴史の語りがある場合、必ずしも歌に合わない場合もいれることがあります。推古期か
    どうかは関係がないかも。ひょっとして、この四一五・四一六・二三五の語りの作者は、大伴一族のものとも
    いえるのかも。つまりこの
     「 死(みまか)れる人。」はいったい誰なんかというのがいうのがわからなければ歴史的、時代情景が出てきま
    せん。この人物は、大伴家持の父とされる「大伴旅人」でしょう。大伴家持は〈万葉集〉の編者とされており、
     父の作品を入れた
     と取れるところです。大伴宿禰旅人は、テキスト注では
       「天平三年(731)、67歳没、」、720年 筑紫に派遣されて、「不比等」の病で帰京して、「元明太上天皇」
       の陵墓の造営をやって、724に筑紫に帰って最後は都で亡くなっています。
         「筑紫歌壇の中核、種々の深刻な体験をし、そこから生まれた心情を自然のまま素直に表現した
         作がある。…神仙思想、老荘思想、仏教思想に基づく作がある。」
      となっていて、この歌も、そういう感じのものが出ていそうです。脚注の訳文は
   
         「上宮聖徳太子が竹原井にお出かけになった時に、竜田山の死人を見て悲しんでお作りになった歌
          四一五 家にいたならば妻の手を枕にすることであったろうにーーー。旅先で倒れておいでになる
         この旅人よ、ああ。
       
  “コヤス(「臥(こや)す」のこと)”は「コユ」(伏す)の敬語。死人に対して敬語を用いている。」
    となっています。敬語の意味はよくわからないが、この歌だけみると、いま臥している自分、旅人のことを、
    歌ってるともとれるところです。あはれー「ああわれ」の意味はないのかどうか、前書を入れると「旅人」個人
    は出てきませんが聖徳太子ー蘇我ー大伴は出てきます。臥は「臣・人」が出てくるのかどうか、臥龍の臥は
    亡くなってはいない感じです。旅の途中で亡くなったということも考えられますが、病臥ともかんがえられます。
    ここもたった一言が、効いてくるところです、大伴旅人は「竜」が属性ともいえそうです。
          「歌詞両首 太宰師大伴卿
           八〇六 竜(たつ)の馬(まを吾は求めむ あをによし奈良の都に来(こ)む人のため
                ・・・・・・・
           答ふる歌二首
           八〇八 竜(たつ)の馬(ま)も今を得てしか あをによし奈良の都に行きて来(こ)むため」
     があり、脚注では「竜の馬」は
           「漢籍にみえる名馬“竜馬”の翻訳語。」
      となっています。が〈書紀〉に「竜馬」があったかも。
           「書殿にして餞酒せし日の倭歌四首
          ・・・・・・・・
         八七七 人もね(人ミナの方言か)のうらぶれをるに 竜田山(たつたやま)御馬近づかば忘らしなむか」

      があります。〈古事記〉の序文に
          「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲しらしめしし★天皇の御世にオヨびて・・・・潜竜・・・虎・・
           ●牛を放ち馬を息(いこへ)・・・軒后・・周王・・六合を摠(す)べ・・・八荒・・二気・・五行・・・国を弘め
           たまひき。」〈古事記〉[古事記の企画]   (★の脚注=神武天皇)
      があり、竜・・・馬・・・が出ています。特に●は〈魏志倭人伝〉に「無牛馬」があり、それを受けたものかも
      知れません。この「大宮」は〈古事記〉序文の小治田の「大宮」に行くのでしょう・
       四一五の歌は旅人の作品に入るのかも。四一四の歌が大伴宿禰家持の歌で「家」「持」(持統
      の持)が出ています。

      「柿本朝臣人麻呂」と推古・持統、大伴旅人と、藤原不比等・元明天皇を出してきたのは意味深長とも
      いえます。

    ここで聖徳皇子(訳注ー聖徳太子)が出てきたのも重要で、聖徳皇子は推古②もありうることになります。
    ネット記事「倉梯陵と推坂陵―昆布が美味い」を借用すれば、十市皇女で出ていた「倉橋」が崇峻と繋がっ
    てきます 
       
          「・・神武天皇が南紀熊野から大和に入った時に使った道といわれている。 倉橋川(倉梯川) を下って
           くると、悲劇の崇峻天皇の御陵がある。 彼は欽明天皇の皇子で聖徳太子の 叔父にあたる。
           第32代天皇として倉梯(くらはし)の柴垣宮に皇居を設け・・・」

     があり崇峻天皇が聖徳太子の叔父というのと「倉梯」がでてきます。大友皇子=..弘文天皇の「文」は文学
     の「文」で「文武」天皇(草壁皇子の子)の「文」とも思われます。次に
              
              天武天皇(天智弟・大海人皇子)
               ∥―――――――――大津皇子②(「持統」についてきた)
              持統皇后          草壁皇子(持統の子)

     
 が考えられ、まあこれは
                             柿本人麻呂
             蘇我の入鹿 ーーーーー|
                             太安麻万呂
       といってきてるものにどこか似てる感じですが、これはちゃうかも。ただ 草加ー日下→日本(もと)
      で大きいのは「草壁(日下部)」です。
           くさー久さー久(こ)さー小(お)さー長(おさ)ー忍(天武天皇遁甲の術)
      がひっかかるところです。

      「高市皇子」が太政大臣で、持統期を宰領して43歳で亡くなりこれが持統10年で、これ
      を機会に持統天皇が文武天皇に譲位した形になっています。、高市皇子は「皇子高市」などの
      表記もあり、「大津皇子」の存在も反映していると思われます。「十市皇女」や「大津皇子」が出てくると、
         「大伯(来)(おほく)皇女」〈万葉集〉
       もあり注では
          「天武天皇の皇女。母は大田皇女。大津皇子の同母妹。斉明天皇7年(661)1月征西の途中、
          備前国(岡山県)大伯の海で誕生。天武天皇2年(673)4月伊勢斎宮に選任。3年10月伊勢下向
          天武天皇朱鳥元年(686)11月斎宮を解任・帰京。大宝元年(701)12月没41歳。・・・すべて弟
          大津皇子に関する歌で、姉としての情愛があふれていて哀切を極めている。」
      となっています。桜井氏の人名注では

            ①大伯皇女(おおくのみこ)(大来皇女)
            ②大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) →  仁徳天皇(にんとくてんのう)
            ③大津皇子(おおつのみこ)(★皇子)   天武天皇の第三皇子。母は大田皇女。大伯皇女の
                      同母弟。天武天皇8年(679)5月吉野宮
                        での天皇・皇后・六皇子の盟に参加。12年2月初めて朝政を聴く。伊勢神宮に
                        大伯皇女をひそかに訪う。天武天皇崩後、謀反が発覚、●天武天皇朱鳥元年
                         (686)10月3日死を賜る。24歳。葛城の二上山に葬られる。風貌たくましく音
                        吐朗々として才学があり、とりわけ文筆を愛し、詩賦はこの皇子から興った
                        という。…単純な内容の中に親しみの情が深くあり、歌詞が快い。
            ④大伴郎女(おおとものいらつめ) → 大伴坂上郎女

      となっており、多くの人の人名注を読んで、変わってるところを見るのも参考になるところで、桜井氏のは
      まあ知ってることを書かれていますが、ちょっと変わってるのもあるようです。★がわからない付記で
       「大津皇子(皇子)」 となっていて、例えば 「忍壁皇子」などの場合はそうなっていません。

           「忍壁皇子(おさかべのみこ)(忍坂部皇子) 
            「 天武天皇の第九皇子・・・・
            ・・・・・◆天武天皇10年(681)3月川島皇子・広瀬王ら9人と帝紀及び上古諸事を記定。14年
            ・・・浄三位。。天武天皇朱鳥元年686八月封百戸を加増。・・・・。」〈万葉集〉
                 (681の年は7月改元? 682もある?、682にしたい? )
                                        桜井〈万葉集〉
      となっています。さきほど「雷丘」持統天皇・柿本人麻呂のところででてきました。「草壁皇子」の人名注は
           「草壁皇子(くさかべのみこ) → 日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」
      となってて振ってあるだけです。が 皇子≠皇子尊 はありえます。★は「皇子大津」が〈書紀〉にあるのが
      読まれているかも。「皇子」単独なら人が変わって出てくることも考えられます。

       ひょっとして「草壁」は「忍壁」を出すための「壁」をつかってるといえるのかも。忍壁から〈古事記〉に関わ
      った人で広瀬・龍田の「広瀬王」も出ました。〈古事記〉よりだと、聖徳皇子の方に寄っていきます。この索引の
      注には
        「広瀬王(ひろせのおほきみ)(小治田広瀬王=をはりだのひろせのおほぎみ)
            系譜不明。・・・ ◆◆天武天皇10年(682)川嶋皇子とともに、帝紀及び上古諸事を記定。
            13年2月都造営予定地を視察。・・・・持統天皇六年(692) 2月伊勢行幸の留守官。・・・・
            養老6年(722)没・・・」〈万葉集〉
       
        (ここは桜井氏は682にしてる、◆と違う。戦後だから検閲を恐れるというのではないだろう。旺文社
        のミス?。)
        (天武紀にも「広瀬・龍田」が出てくる)。(◆は〈書紀〉脚注では「〈書紀〉編纂の開始」となっている。)

     
  がでており、通常「小治田」というのは明日香村の方、豊浦・雷丘の方を指すので、持統の「広瀬」は
       この地をみてるといえます。(692)は持統紀
               「神宝書4巻を献上」
       があるが何かは解説はないようです。川島皇子没は691年(〈桜井万葉集〉)
       ここで
       ②がなぜ姉弟の間に挟まれたのかというのが最大の謎として出てきます。④も「大伴」=「大友」でないとは
       言えないのではないかとも思います。筆者の頭はおかしくなるときもある(多い)ので、ここの解釈では
       合ってるとは思わないが持統に「鵜野讃良」という表記もあるので、仁徳と似てるところがあるのかも。
        ここの
            ●天武天皇朱鳥元年=(686年)=持統天皇朱鳥元年
       は合ってるかどうか、は疑問です。(685は乙酉・この年は初めて伊勢神宮の式年遷宮の制が定められた。)

        『 巻29 
          天武紀下  天武天皇14年12月   天皇は生きている
                  ●朱鳥元年  正月から7月まで、そのまま行ってる(普通の状態)、
                  19日「、詔して・・百姓の・借りたもの・・乙酉(天武10)12月30日以前は・・免除する
                  といった。」(朱鳥元年7月20日)「改元して朱鳥元年といった」
                   「(この年朱鳥元年9月)9日、 天皇は正宮で崩じた。
                                           24日   大津皇子が皇太子に謀反」
                  持統(三年)? 朱鳥元年「9月9日  アマノヌナハラオキノマヒト[天武]天皇崩。皇后
                            天皇の代わりに政務
                            9月24日 大津皇子が皇太子(草壁皇子)に謀反  』
            
       があって乙酉は天武10年の干支ではなく(ここでは日の干支と思われるが)天武14年(685)の干支で
       す。ここをどうとるかということと思いますが〈年表〉に
           「686 朱鳥1 9月 天武天皇没(56?)〈書紀〉」〈年表〉
       があり「?」は年表に書いてるものです。天武2回没ということですが持統紀は朱鳥元年の次に元年が
       出てきてて そこでは皇太子がでてきます。

        まあ単純にいけば
             草壁皇子=二八歳で消えた=稗田阿礼(脚注=男子説と女子説がある)
       というので、太安万侶を中心にみていけばよいのかも。ただ稗田阿礼に古い伝承の存在が窺われるの
       で稗田阿礼①の残したものがあるかも。

       ここで持統紀の文を表記で見て置きたいと思います。いま〈古事記〉のことを話してきて〈日本書紀〉の
       ことに行きたいが、
               〈古事記〉712年、〈日本書紀〉720年の完成
       は、肝心の〈日本書紀〉の枠外にあり
       ます。すなわち〈書紀〉は〈持統〉11年目、文武天皇即位(西暦697年)で、終わってるからで、例え持統
       天皇
       が720年まであと20年生存であっても、700年で切ろうとしてたから、これは出さないことになってた
       ことです。つまり〈古事記〉の完成さえ、〈書紀〉にでてないのだから、次の〈続日本紀〉にも、出てこない
       と見られるのは当然のことでいまそうなっています。28の稗田阿礼は〈古事記〉で出てきて28の草壁は
       持統紀に出てくる、〈書紀〉の記者は持統紀で記すのが最後のチャンスといえます。
        〈古事記〉のヒントが出てくるのかどうか。◆◆から692が出て 681から川島の死691が出てきて
        現在
            ①帝紀などーーーーーーーーー681詔勅が出たーーーーーーーーーーーー720〈書紀〉完成
             
            ② ーー620天皇記ーーーーー  ーーーーーーーーーーーーーー712〈古事記〉
                 国記・(焼失)                              私的なもの

      となっているが
             620 ーーーー 681-  (10年)ー   692-(20年)-ーーーーー→   720
            帝紀など     詔勅が出て            ■                  古事記   
            天皇記      取り掛かる          神宝書4巻   →            書紀完成

        とならないか、681の記定の開始、桜井氏の書きようが全部、「上定。」というのになっ
     てるので読みづらくて、■の時点ことをいってしまってる感じなので、10年飛ばしたともとれるので
     ■ー古事記ー書紀とオンラインにする■があったと取れます・・・、次いで持統期をみたいと思います。


    (459 )持統の時代
      一人で全部こなせるのかどうか、全般にわたってみておこうと思います。

          -----------ここで持統紀(巻30)になる------------------
          ほんまの持統紀は次の■からで前書の部分がある(これを「前紀」といっているようだ)、ここまで
          は〈天武紀〉に
           「天武10年 681  草壁皇子立太子    天武12年 683 大津皇子朝政に参画。」
          が、持統の重要関連事項として〈年表〉で出ていました。持統は687~697

         30巻                  〈書紀〉の記述
           持統・前紀     天皇は、重々しく度が大きかった。…[天智]の元年に、草壁皇子尊を
                       大津の宮で生んだ。・・・・[天武]天皇に従って東国に難を避け・・・とうとう[天武と]
                       ともに謀を定めた。・・・大友皇子を誅[指殺]し・・・・・・・(壬申の乱に勝利)
                       ・・・・・・・・・・・・・・・
                       二年、皇后に立った。皇后は始めから今にいたるまで・・天皇を補佐・・政の事に
                        言及し、補うところが多かった。

           朱鳥元年      「9月9日、[天武]天皇が崩じた。」
                       ★「9月9日 皇后は、朝廷に臨み天皇の代わりに政務をとつた。」
                        「10月 皇子大津は謀反が発覚・・・賜死した。年二四
                        皇子大津…皇子大津・・皇子大津・・皇子大津・・」
         ------------------------------------ 
     
    ■持統紀   元年  皇太子  皇太子  天皇の喪  皇太子  天皇  「天皇」天武 皇太子  
                   二年  皇太子  天皇の崩  皇太子 (以後 天皇は「天皇」、「天皇吉野」などある
                        のは吉野行幸)
   
                   三年  天皇  天皇吉野  天皇吉野   皇太子薨(草壁皇子尊) (天皇天武)
                        天皇天武  天皇孝徳  天皇天智 天皇吉野  天皇高安
 
                   四年 ★★皇后は天皇位に即いた  天皇池堤 天皇吉野  天皇吉野 天皇泊瀬 
                        皇子高市太政大臣 別に皇太子[草壁]  
                        天皇吉野  天皇紀伊 天皇紀伊  天皇吉野  高市皇子 天皇吉野
                        天皇吉野  天皇藤原 
                   五年  天皇吉野  天皇吉野  天皇     天皇天武
                        天皇     天皇吉野 天皇吉野  天皇吉野  天皇吉野  天皇吉野
                        天皇吉野
                   六年~一一年  天皇が多い、ただし主語のない行幸がある・吉野だけとるとこの期間
                              28回ぐらい 内天皇がある吉野は3回となっている
                    内八年  藤原の宮に遷居した。このときから新天皇出現か

       のようなことになっていますが、■以降は主語を気にして挙げています。実務も細かいことが満載されて
      いてそれは省略して、「吉野」と
        再掲
           「広瀬の大忌神と龍田の風神とを祭らせた。」「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」                  
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祭った。」               
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」   
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」                 
           「広瀬の大忌神と龍田の風神を祀った。」  「広瀬と龍田とを祀った。」
           「広瀬と龍田とを祀った。」 (この場所は「斑鳩駅」のところにある)(祭と祀があるから倍にもなる?)

       がでてるのがこの■の部分だということです。これは確実に本来の持統の部分、大津皇子(皇子大津)
      を殺して、崇峻ー聖徳の時代へ話を飛ばした(戻した)持統の働きのあるところです。

     ★で朱鳥1年間の途中9月9日から    
        皇后持統は天皇②として朱の画面に名前だけ出てきたと思われ、天皇①は
       草壁皇子尊(皇子高市)が、天武10年(天武在世中)に皇太子になってるので、、元年~三年までは、
       天皇①の政務をしたと思われ、行幸は天皇②の行動となってると取れます。

       四年からが問題でしばらくは朱鳥の補足で備忘碌みたいなもので,(461)に飛んでもらっほうがよい
       ようです。10行下の(持統天皇)となると称制鸕野で男性かもわからないということになったりする
       から、ちょっと逃げといた方が気が楽です。大海人皇子が女子とすると、連合いの持統は変身する場合
      も考えられるし大海人皇子は天智天皇の舎弟やから強い人でもありえます。★★は
       年表では太政大臣「皇子太高市」が右大臣「多治比嶋」と政務を担当したことが出ていて、「太高市」
       が持統10年に持統が退位するまで続きます。ここ★★で、太皇市の皇后と称する人物が登場してくるのでは
      ないかと思われます。4年以後天皇②の
         吉野の宮行幸
      は止まず、延べ45回もありそうですが、日帰りできそうな所のようで、べたでカウントしとくのでよいと思い
      ますが、それとは別の動きも出てきます。
     前紀の分
        ★の上「二年」があり、〈年表〉では★を

         「685  天武14年 ・・・・」〈年表〉
        ★686  朱鳥1 9 皇后鸕野皇女称制(持統天皇)。 9 天武天皇没 10大津皇子没(24)。」〈年表〉
          687  持統1  9 天武天皇の国忌の斎を京師の諸寺に設ける。10 檜前大内陵を築造。」〈年表〉
  
      の(686朱鳥1の)所に入れていますが、二年 が効いてきて、687になるのではないかと思われます。
              ●朱鳥元年 「(9月)9日、 天皇の病は癒えず、正宮で崩じた。〈天武紀〉」
               朱鳥元年  「9月9日、[天武]天皇が崩じた。〈持統紀〉」 
      の二つは文が同じなので、一緒にするのは、当然とも思いますが、「紀」が変ってて、年月の経過は当然
     あり、二つを同じにするのは文が抜けてるからではないかと思われます。つまり●の下の文
         朱鳥元年  「9月9日、[天武]天皇が崩じた。(皇后が即位した)」 
      を入れてもよいかも。持統が天皇になったのは通説ですから内容は問題ないと思いますが、同文に、時間差
      をつけるのは、前半部分を、起こったことの繰り返しのべる、という形にすることが要ると思います。これで
      あとのことにどう影響があるかということになりますが、一応次でまた変な話になってしまうので、まあ
      云っとく方がよいかもということです。
      皇子大津=大津皇子 は違いますので、天武紀
              9月24日 大津皇子が皇太子(草壁皇子)に謀反」
      というのは謀反しただけですが、
         
   「★686、10大津皇子没(24)」〈年表〉の別欄
       と結ぶための「朱鳥元年」かもしれません。この持統のところ、〈書紀〉の最後だからに、悩ましい
      きわどいものが出てきて、書き泥むところですが、表記から、記述手法から、のことだから、
      そこそこ機械的に書いとくだけでよいのでしょう。あたらしい動きのことですが

     (460)天武と持統の境目
     
      〈持統期〉の始めの〈年表〉
                               記事
       685  天武14年 乙酉  政務6件・「初めて伊勢神宮の式年遷宮を定める」記事などがある。
           
       686  朱鳥元年  ・・・9月 皇后●鸕野皇女称制(持統天皇)      9月 天武天皇没(56?)〈紀〉
                     10月 大津皇子、謀叛を理由に捕えられ自害する。 10月 大津皇子没(24)

       687  持統1年   10月 檜隈大内陵を築造。
       688  持統2年   11月 天武天皇を大内陵に埋葬。
       689  持統3年                                     4 草壁皇子没(28)

      があり、ここまで「皇太子」の記事があり、皇太子草壁皇子尊がが亡くなったので皇太子の記事は消え
      ますが、あとはどうなるか、わからないようです。

      ●の記事は〈書紀〉になく、〈書紀〉には朱鳥のところで
                「・・・■〔天武〕天皇が崩じた。皇后は〔庭〕に臨み天皇の代わりに政務をとった。」
           となっています。これを称制といったのかもしれません。
     このときの■の表記は
           「朱鳥元年 九月九日、アマノヌナハラオキノマコト[天武]天皇が崩じた。」
     となっており前記の記事が引用され、これは始めに出てきました。朱鳥は私年号表では七年あったことに
     なり、この朱鳥の七年間は「朝」を称したのかも。まあ
           
                「683、天武12年 大津皇子朝政に参画。」〈年表〉
          という「朝」で近江朝の「朝」でもあるようです。■で天武天皇に朱鳥があり、
            天武十五年九月九日まで、天武の朱鳥元年で
            天武一五年九月一〇日から持統の朱鳥元年と
     とれそうですが
      持統の前の「天武下」という天皇は持統と同じで「広瀬と龍田の神を祭る」というのが属性で天武一四年
     までで、次の年を朱鳥元年と書いてあるが、七月二〇日改元して朱鳥元年といったといったので天武一五
     年はあった、そのあと朱鳥が七月二〇日からです。
      天武は、朱鳥九月九日に崩じましたが、その二四日
         「★大津皇子が皇太子に謀反した。」
     とあります。つまり天武は朱鳥元年九月三〇日までです。つぎの持統が問題で〈持統紀〉

        前書の部分  [斉明]三年   [天武]天皇妃
                  [天智元年]   ●草壁皇子尊を大津の宮で生んだ
                  [天智一〇年  [天武]に従って吉野入り
                  [天武元年]   [天武]と東国へ行く     [ ]は注でナガタラシイ・カタカナは省略
                      二年    皇后に立った
        朱鳥元年    九月九日[天武]天皇が崩じた。
                  一〇月二日  皇子大津は謀反・・・逮捕・・三日賜死。
                  閏一二月・・・・          
        元年       春正月一日 皇太子が・・・・発哭した。・・・誄(しのびごと)をした。皇太子が主体的
                  に政務を取り始めたが  三年四月 皇太子■草壁皇子尊が薨じた。・・」

      となっており、持統朱鳥元年は天武没後の三か月だけで朱鳥は天武が主体で、★は天武の大津皇子
      と取れるところで、持統は皇子大津に賜死した、ということになるのでしょう。
                    
       なお〈書紀〉持統紀(前書)の●は、■ではありますが、●が
                「〔天智〕天皇の元年に、草壁皇子尊を大津の宮で生んだ。」
       の大津の宮のというのも重なりはあると思われます。
          686 朱鳥1  大津皇子没(24)
          689 持統3  草壁皇子尊の没(28) 686のときは25歳
   であり、皇太子では重なるが、元年の皇太子は「大津皇子」もあったのかも。この続きで

               
 「二年、皇后に立った。皇后は始から今にいたるまで天皇を補〔佐〕して
                天下を〔安〕定した。いつも〔天皇に〕侍しているさい、政〔治〕の事に言及し、補(おぎな)う
                ところが多かった。                             ▼    ▲
                朱鳥元年・・・元年・・・二年・・三年・・四年・・五年・・六年・・七年・・八年・・九年・・・
                一〇年・・・一一年・・八月一日[乙丑]・・・」〈書紀〉        

       があります。「補[佐]」が二口(ふたくち)あるのかどうか。こういう太字にしてあるのは、年月日の位置が
      同じで、特別見にくいためであり、書き方の珍妙さを補っています。すなわち
            「  一一月七日                      
               一四日
               一九日
               二三日
               五年、(太くしてある)(ふとくしてなければわかりにくい)
               七日  天皇は・・・・・・・・・・・・・・・〔賞〕
              美したのである。
               九日 ・・・・               」〈書紀〉
      のような書き方で、特に年が埋没してしまうところから太字になってるようです。特に持統に限ったわけでは
      ないが、持統朱鳥元年の例では、(半年分しか書いてない)

               前紀   ・・[天智]一〇年・・[天武]天皇の元年六月・・・秋七月・・・大友皇子・・記
               二年 皇后に立った。・・・・・
               朱鳥(あかみどり)元年 九月九日 [天武]・・崩・・。
               冬一〇月二日  皇子大津・・皇子大津・・皇子大津・・ 
               三日、皇子大津・・・訳語田・・二四・・皇女山辺・・皇子大津
               二九日、・・皇子大津・・・皇子大津…皇子大津
               一一月一六日、・・・皇女大来(おおく)・・
               一七日、地震。
               一二月一九日、・・・・・・
               二六日 ・・・・
               閏一二月、・・・
               元年、春正月一日、皇太子が・・・

      となっていて下の元年(持統元年のこと)も太くしてあります。脚注では
        「持統紀は後漢書の一部をまね、皇子大津・皇女山辺と書く。しかし称制前紀に草壁皇子尊と書き
        アンバランスだ。」
     
 となっています。判ってる人がヒントで出してる部分でしょう。前紀というのも当代天皇の前書(元年のまえ)
      の部分のところで、単なるくり返し、確認・補足の部分ではないようです。 ここは別として
      閏の意味わからないが、この
         皇后持統の流れ   二年ーー朱鳥元年(2年と3年を含むものかわからない)ーーー
         皇后②の流れ    元年ーーー2年ー-ー3年ーー――4年ーー5年ーーー
      というものを表す、皇后の流れを区分するものが半年の朱鳥元年の意味かとも取れるところですが、これ
     は結果を踏まえての話でやや頼りないものです。〈万葉集〉をみると
          五〇 の 「藤原宮の役民の作る歌」の前書がついている長歌
          に細字の、注があり
            右日本紀に曰はく、朱鳥▼七年癸巳秋八月、藤原宮の地に幸す。▲八年甲午春正月、藤原宮に
            幸す。
            冬十二月庚戌朔(つきたちの)乙卯、藤原宮に遷居るといへり。(〈書紀〉では十二月六日)
     
      この▼▲の干支は朱鳥と書いてるが、〈年表〉は686を朱鳥元年、687持統元年、以下を持統として
      ので〈万葉集〉と合っていないことになります。朱鳥元年は単なる記号(天武の朱鳥と関係させた)として
          朱鳥元年(半年)-  朱鳥2年ー  朱鳥3年ーーー朱鳥7年
                    →  持統1年ー  持統2年ーー持統3年・・・・持統11年(年表は持統10年)
                                                (本文は持統11年8日1日までがある)
    のように、放射状に走ることになってる、本文の内容吟味して、分けて捉えることになってるということかも
    しれません。〈万葉集〉 の 五〇番 の歌の前後は、この時期の持統太上天皇周辺記事満載となっていますが
     それも〈古事記〉のことを出すのが目的となっていると思われます。

    持統前紀(はじめの朱鳥元年まえの二年)
        「二年  皇后は★皇后に立った。・・・・天皇を補うところが多かった。
        朱鳥元年・・・・・」
     があり、これは天武の二年目と解されます。


    (461)表記がおかしかった   
      ここで四年でえらいことがおこります。
         「4年(690) 皇后は天皇位に即いた。」〈書紀〉
      というのです。これは先ほどの
        「686  朱鳥元年  ・・・9月 皇后●鸕野皇女称制(持統天皇)。・・天武天皇没(56)」〈年表〉
      がありこれで持統天皇となってるはずですが、これとは違うようです。(持統天皇)と入れたのは〈年表〉の
      編著者で、この記事は★の記事に続くもので
        「朱鳥元年 9月9日、アマノヌナハラオキノマヒト[天武]天皇が崩じた。皇后は朝[廷]に臨み天皇
         の代りに政務をとった。」
      この皇后 の記事に幼名の●を付加して(嵌め込んで)、作ったものです。幼名はストーリを離れて別人に
      なっていきます。(持統天皇)を入れたのは良心的ではありますが、●自体がが原文になく、これが編著者
      の創作であったわけです。この●名前は天武 上 で出てくる名前でそこでは

           「   天武 上
           アマノヌナハラオキノマコト[天武]天皇は、アマミコトヒラカスワケ[天智]天皇の同母弟である。
           幼いときは大海人(おおあま)皇子といった。・・・天文、遁甲(・・・人目をくらます隠身の術)を能(よ)
           くした。
           アマミコトヒラカスワケ[天智は入ってない]天皇の娘、■菟野(うの)皇女を王妃に入れた。アマミコ
           トヒラカスワケ[天智は入ってない]天皇の元年に東宮となった。
           四年 冬一〇月一七日 (カタカナは入っていない)[天智]天皇は病臥して、(苦)痛がはなはだ
           しかった・・・東宮を召し・・・・一二月、アマミコトヒラカスワケ[天智]天皇が崩じた。
           元年・・壬申の乱など20頁ほどの後・・・一二月四日・・・この月、大紫[正三位]韋那公高見が薨じた。」
 
               天武 下
           二年、春正月七日、群臣に酒宴を賜った。
           二月二七日、・・・帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子尊を生んだ。先に
           皇后の姉の大田皇女を納れて妃とした。(妃)は大来皇女と大津皇子とを生んだ。・・・。」

      があり「菟野」となっています。鸕野讃良皇女は菟野讃良皇女と同じに扱われ天智天皇の第二皇女という
      ことになっています。この。「鸕野」は男性表記でどこかでみたものですが、慈円でみれば 神武の前
          「ウノハフキアワセズ(ルビ=鸕鷀羽葺不合)ノ尊(神武の父)」
      の「ウ」がありました。戦国では「片岡鵜左衛門」の「鵜」、「上京驢庵」の「驢」、「盧舎那仏」の「盧」をベースに
      したもので「長沢蘆雪」「芦雪」にも変形する「慮」です。


      (462)4年の皇后持統
       三年まで皇太子が表に出てて、
         「4年(690) 皇后は天皇位についた。」
      というのは持統天皇と取れます。この長いカタカナ表記は、気分的にネックになるものですが、大海人と
      天武天皇はどちらもいた、ということでしょう。 4年の皇后は★の
      人物でしょう。まあ「皇后①②」がいたということです。
      朱鳥から色を変えて移ってくるというのは●というのかどうか。瞬間でコロッとかわれるのは天武天皇で
       天武上(「四年」だけがある一節)の前紀で
            「天文、遁甲(とんこう)(方術の一、人目をくらます隠身の術)を能くした。」
        
      があり、この天文は太田和泉守の桶狭間のインチキに使われてて〈古事記〉のここも念頭にありそうです。
      天武 上 のここで「大海人皇子」は
         「▲菟野皇女を王妃に入れた。」
     が出ておりこれは、「兎」が出ており、まあ、これは、かぐや姫の帰るところにいます。ただ艸が入ると
    ちょっと身構えるというものはあるのでしょう。「草(早)加・茄(茄子)」の「兎」ですが、「兔」という当て字まで
    いかないのかも。・・という字を入れてきて、天武 下で
         天智の皇女 正妃を立てて皇后とした(持統)と思われるーーー草壁皇子尊
                  先に▼大田皇女ーーーー大来皇子・大津皇子
                  (十市皇女は「額田の姫王」との子) 
    があり ネットで「大田皇女・太田皇女」と入力しても同じ結果が出てくる、また「大田皇女」は八角の墓のとこ
    ろにでてきたということもあって、また「太田和泉守」と太田和泉」は違うおとなどもあって、しわよせを「太田皇女」
    に押し付けると
            天武                   天武
            ∥ーーーーーー大来皇女       ∥
            大田皇女・                持統ーーーー草壁皇子尊
    ということになり、、この持統が、四年に皇后から即位したことになるのでしょう。一般に言われてるのと真逆
    で持統は大津皇子の不世出の才を見抜きこれを引き立てようとして即位したとも取れるところです。大津を殺し
    ては、いない草壁皇子も死んでいないその位置確認のため皇子大津の死亡が出されたととれます。

    (463) 同母弟
     この▼のとき、最も大きい難問のひとつに出くわしていました。古代と云えば、天智(中大兄皇子)・天武の
     時代(645~685)が決定的ですが、あのとき(461)、再掲

           「   天武 上
           アマノヌナハラオキノマコト[天武]天皇は、アマミコトヒラカスワケ[天智]天皇の同母弟である。
           幼いときは大海人(おおあま)皇子といった。・・ 」

     があり、これが、判り難さの原点になっています。[天武]は天武だけではないかもしれんといっている、天智
     も同じというのもありそうで、それを含みとした兄弟で出してきて、天智の弟は大海人皇子だといっています。
     よくみると大海人皇子は幼名で 天武上 のなかでは
         「東宮」「大皇弟(大海人皇子)」「大皇帝」
     があり、「弟」はいまでいう「弟」が一般的ですが「連合い」が出てきてたら局面ががらっと変わってしまいます。
     要は大海人とみられる表記が表す、相手、地域、その局面で現われる相貌などで読み取ることが要りそうです。
     まあ、よく地位が人を作るという例で歴史上の人物を引き合いに出したりして論じられますが、たいてい、
     極端でものいう歴史の虚構に引っ掛かってる場合が多いものです。優しい大海人皇子も男性もあり女性も
     ある、中大兄皇子も①②がある、中大兄の②の方の子が、藤原不比等ととすると、これは持ち上げねばならない
     という苦心が史家において生ずる場合があります。
      ネット記事によっても、結婚は、例えば同母の兄妹は不可だった、異母兄妹ならいいのだいうのが出ていま
     す。これは結論だしてるから有難いのですが、いまでいう父親が同じと判ってる場合はそんなことはない
   だろうと思いますが、教えてくれてないわけです。細菌にやられたりするので雑種の方がよいという経験則は一族の
   長老によって伝えられてきてると思われます。が〈書紀〉で
         木梨軽皇子×妹名形大娘皇女
   間の近親相姦の例が出てるから、こういうときにキチットみないと出てこないと思います。允恭天皇(〈古事記〉
   で前後もっともわけのわからない数字が出てきた天皇)のときにこれがでてきました。これでガタガタやってると
   やはり、清寧天皇の同母の弟というのがでてきます。これは慈円に出てなかったので、見落としになってて補足
   せないかんというようになってきます。
   允恭天皇の妻后(皇后の同母妹)に衣通姫(そとおりひめ)という絶世の美女がいてかぐや姫の場合は竹が光っ
   てました、この人の場合は
        「その艶色は衣を通して輝いた。」
    そうです。天皇は河内の茅渟(ちぬ)[大阪府和泉地方]に宮室を建造して姫を置いていたので、天皇は
        「日根野[大阪府泉佐野市日根野]にしばしば遊猟しています。
   この衣通姫に乗ろかということで、たくさん
        「日根(禰)野六郎左衛門」「日根野備中」「日禰野五右衛門(人名注は「日根野五右衛門」)〈信長公記〉
   などを出してきたのが太田和泉守で、ここで「同母」の兄弟のことなどややこしいことは、ふっと乗り出すというとこ
   ろはありそうです。人名索引は六人の日根野が載っててそれで統一されていますがそれでいいのかということ
   にもなります。允恭の「允」は
      穴山玄蕃允/□穴山梅雪       松宮玄蕃(允)/(同)左馬允、   篠原右京亮/篠原玄蕃允
      松平左近将監/□松平左近/松平玄蕃允/松永弾正少弼久秀/□松永弾正少弼/□久秀/(子息)右衛門佐

   などあって「玄蕃」で一応男性表記とみてきましたが、段下がり穴山梅雪は本文では区別できず、これで「允」の
   影響を受けるかも。「松宮玄蕃」は「松宮玄蕃所」という単独、と「松宮玄蕃、同左馬允」の二つの表記があって
   こうなっていますが、後者の場合は周囲と影響をあたえ合っている場合の使い方のようです。
    わかりにくい允恭について
      倭の五王時代   400年代の〈書紀〉の数字において
    履中6+反正6+允恭42+安康3/+雄略22+清寧5+顕宗3+仁賢11=98
    で
    安康までの数字が57になります。突然安康が崩年干支がない56が出てきて浮いてることになるのは
    57(257)年の重みがあって、457を見てることによる数字ととれます。允恭42の内容が問題で
          1年~木梨軽の皇子が出てくる24年目まで(23年軽皇子皇太子 24近親相姦で流される)
          24年 ~ 41年 完全空白    17年
          最後の1年                1 天皇崩 新羅の記事
           計                   42年
     ということになっています。  この17が何かということになると  倭の五王の「興」が〈年表〉で
     460遣使~477興王没 の17年間に該当します。これは新羅王「慈悲麻立干458~479」に
     該当しそうです。天武は天智の同母弟というのが出ていました。弟に男女がここで同母妹が出て違いが
     まだよくわかりません。衣通姫からわかってくるのかもしれません。
          
     (464)皇后即位以後
    持統四年以後に戻りますと、

       690  持統4年   1月  皇后即位。  7 太政大臣高市皇子以下を任命。〈年表〉
       -----------------以下〈書紀〉------------------
       690  持統4年   1月  皇后は天皇位に即いた。・・7月 皇子高市を太政大臣とした。
                         丹比嶋真人・・右大臣・・。・・9月 高市皇子が、藤原の宮の地を観た。」〈書紀〉

       691  持統5年   9月  皇子川嶋が薨じた。
       692     6年   正月 皇子高市 加増。 2月、三輪朝臣、天皇の伊勢行幸を諫言。
       692     6年   3月3日、広瀬王…中納言大三輪朝臣高市麻呂冠を脱いで、朝(みかど)〔天皇〕に捧げ
                     天皇は・・・伊勢に行幸。
                     5月  大唐の大使が、近江の大津の宮で〔天下を〕御した天皇〔天智〕のために
                          造った阿弥陀仏を送り上(たてまつ)れ、といった。
       692     6年    九月日  ・・・・畿内・・
               6年    四日  神祇官が奏して●神宝の書四巻、鍵箇、木印箇を[献]上した。
       693     7年    〔正四位下〕を皇子高市に授け・・・

       694     8年    12月6日 藤原の宮に遷都した。
     
  694     8年        9日 百官が、朝〔天皇〕を拝した。
       695     9年    正月 〔従四位下〕を、皇子舎人に授けた。
       696     10年    後皇子尊(のちのみこのみこと)〔高市皇子〕が薨じた。
                      8月1日〔乙丑〕天皇は、宮中で策をきめ、皇太子〔文武天皇〕に天皇位を
                      譲った。(これは〈書紀〉の終りの文。)          
    
     があります。●は
       〈古事記〉上中下三巻+一巻=計四巻 
     を表していると取ってみたいところです。これで
         (推古即位)592-〈帝紀〉620---ー682・692---ー〈古事記〉712-〈書紀〉720
                                 天武10持統6
     の中間に、川嶋・忍壁らの史書が入った(下一桁の「2」)という構図です。

     ここで朝(みかど)がでてきました慈円では
         天武の条
           「・・・・叉大津皇子御門の御子成り。世のまつりごとをしたまふといえり。」
      があり「みかど②」でもあり、まつりごともあり(朝政)」もありましたので一応あててはどうかと思われます。
      柿本人麻呂が天皇になったというのはおかしいというかもしれないが、柿本人麻呂(人丸)も一代、一人
      では説明しにくいというのがあれば読み不足でしかないところからくるのかもしれないものです。
      崇峻天皇も大津①というのは珍妙ですが、大津の流れが「文」の芯を作るということになってる、語りの技
      法といえるものでしょう。●もあり、〈古事記〉も
      大津御門・川嶋→712太朝臣安万呂ー714紀清人らに国史を撰ばせる(続日本紀とは限らない?)
      ー718 藤原不比等律令各10巻の撰上ー720日本紀30巻と系図1巻撰上

      という間断のない流れにあるということになりそうです。
        (720年には〈年表〉では
             「舎人親王」「大伴旅人」「多治比県守」と「藤原不比等」が登場。)
       大伴旅人は 大伴安麻呂ー大伴長徳と遡っていきます。


   (465) 〈日本紀〉の表記
    〈日本紀〉?の編纂を命じた(〈序文〉に出ている)天武天皇は中国・朝鮮半島の史書の読み方を知っていて,
    〈天皇記国記〉(帝紀)を読んでいて
             ●●「日本紀(日本書紀)30巻系図1巻」〈年表〉
    の編纂を命じたといえます。このうち系図は系統図と今日流で読まれて、行方不明となっています。
    「系図」の「図」は「事(ず)」があり、この読みは〈漢語辞典〉にあり、機械でも「ず」と打てば「事」が出ます。
    〈国語辞典〉では  好事(こうず)(好事家)/構図  の並びになってて
              事=(ず)=図
    はあります。「系図」の「系」は
       (「系」-けいー京―きょうー香ーこうー「乞(こう)」)=「古」
     であり、併せて「古事(ふるごと)」となります。〈書紀〉雄略紀に
         「日本旧記(くき)」
     という文献が出ており、ルビで「旧」が「く」となっています。くが=(久我)=こが で「旧事」=「古事」「古記」
    となり今の〈古事記〉も系図が作れる人名の羅列が特徴となっています。●●は
         「・・・日本紀を[編]修し・・。・・奏上した。紀三〇巻、系図一巻。」〈テキスト〉
    となっており、〈年表〉では、続いているが、テキストでは「、」(点)があって切断されている。つまり、一巻に
    1巻と一式がありえます。巻に区切りの「巻」と巻物の巻もあるので、これは書き方が本来おかしいものです。
    水行十日、陸行一月は距離が出てるからわかりやすく、それより劣ります。また三十・一となるとくり返しの
     (+1)、30・30もあるかも。年表には、「紀30巻・系図巻」と書いてほしいところです。
    〈書紀〉は確かに、30巻あって、
                  神代上1巻、神代下2巻、天皇記・神武から持統28巻、の計30巻
    になります。一方、〈古事記〉は
                       ■上巻并せたり
                   、   中巻天皇記、神武1+綏靖~応神14=15巻
                       下巻天皇記、仁徳~崇峻17+推古1=18巻
     
    があり、〈古事記〉の■のしたの「中巻下巻を〈帝紀〉とする学説」があってこれが合ってるとすると、
       〈書紀〉は    ■+計30巻=合計31巻(30+1)
   となり
       〈古事記〉は  14+17=31巻  (神武と推古は前後の繋ぎで、帝紀100年後太安万侶しか書けない部分
                           となってる。神武137歳と推古在位37年は〈書紀を意識した差10・1といえる)

     また〈天皇紀〉だけでいえば、〈書紀〉28巻+新〈古事記〉33=61巻   30巻と31巻
    もあり 上下だけで捉えれば 
                   〈書紀〉        〈古事記〉
                              ■上巻(「神代」とは書いてなくて〈甫庵〉では「上代」がある)
               -------------
                巻第一神代上
                巻第二神代下       中巻  (神武)と綏靖~応神
                巻第三神武         
                巻第四綏靖         下巻       仁徳~崇峻 (推古)

     で〈古事記〉上は  神代と上手(流)の意味を含んだものとなっていると思われる。テキストには
          『「三〇巻、系図一巻。」としている。系図一巻は、ざんねんなことに残っていない・・・・
           続日本紀は古事記の成立についてはなにひとつふれていない。』
    と書かれていますが、それが位相の違う「一巻」に含まれているのが見落とされているだけのことに
    なるのでしょう。この太字の箇所はなぜ漢字が入っていないのかが疑問です。「系図一巻」と「わく」外の
    系図一巻 はちがうようです。上=并=序 だから、序(じょう)巻という意味もあるはずです。 


    (466)多治比嶋と石上麻呂
     ここの「川嶋は「皇子川嶋」となってて、皇子大津と同じ書き方です。 朝天皇には後見がいたとみるのが
     よいようです。    
     丹比嶋真人は700年、文武4年、左大臣になっており、重要人物
     であり、二年後、78歳
      で没となっている。〈年表〉では(「多治比嶋」)ででているものです。取っ付きは年齢しか頼るものが、ない
     ときもあるので一応みとくと、
         「671 天智10年 1月 大友皇子を太政大臣とし、五人の重臣(蘇我赤兄や中臣金)を大臣・・に
                         任命する。 
                     12月 天智天皇没(46)〈紀)〉」〈年表〉
     があり、年齢的には、これと二つ違いです。この二年前、
          「669 4 法隆寺が全焼する。10 藤原鎌足没(56)〈紀〉」〈年表〉
     がありこのとき、
          「一六日、天皇藤原内大臣が薨じた(〈日本世紀〉はいう・・・内大臣は年50で私第の薨じた・・・。
           ・・・・・碑文はいう五六歳で薨じた。)」〈書紀〉
     があり、もし50でやると、二年前は48だ、さあさあとなってしまいますが、669が、50で、671は46だから、
     満・数え考慮しても関係がないことになります。往々にして逆にしてまうこともありますが、まあ、まあやって
     しまうのもあるかもしれません。〈年表〉では
         「679 7月 葛城王没(?)〈紀〉」〈年表〉
      がありますが慈円は

         「天智  十年 元年壬戌 諱は葛城。舒明第一子。母皇極天皇。近江国大津宮・・・・男女御子十四人
             太政大臣大友皇子{天皇第一皇子。・・・}
              内大臣大織冠藤原鎌子{天皇八年十月・・内大臣。・・同十六日薨。年五十六.・・}」

      と書いており、この葛城王は天智天皇とも思われます。
         671(46)→679葛城王(?)→丹比嶋真人 
     かこの「葛城王」はオフラインか、671ー46の人物と丹比嶋と結ぶのは間違いか、ということになります。
     「真人」の字が入っているのは天武天皇で
           702年   78歳没
           686年   56歳?没     
        ------------
         差  16      22       でアウトですが〈万葉集〉注では歿年686で65歳(一説に56歳)
    となっています。22が13になりますので駄目ですが、三つ違いならあと一つで、686が朱鳥元年だから、
    二つか、三つほどおかしいかもしれないとなると、大海人皇子がこのときまで、皇位は子息譲ったとしても脇役
    でいたということもあるかもしれないというのも出てきます。こういうようにやってると漏刻の天智天皇と天武天皇
    との年齢差が出てきたりします。要は〈年表〉で
          「701 大宝1年 7月  多治比嶋没(78)〈続紀〉」
          「702    2年 12月 持統太上天皇没58)」
    というので20違いになってるので、これをどうみるかとなってきます。
          「 703年阿部御主人、69(68もある)没」もあります。

             多治比嶋701没 78   石上麻呂717没 78  藤原不比等  720年没  62
             720-62=658   717-658=59  78-59=19    59+19=78  58≒59
             720-701=19    720-717=3+78-62=19
     で19ばっかりでてきて喜んだが
          「658 斉明4 11、有間皇子、粛清される〈書紀〉・・・有間皇子没(19)〈書紀〉」〈年表〉
     があります。16も出るので
                78-62=16  717-701=16
     まあ多治比は天智ではないかも。
          「141 有馬皇子  岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへり見む」〈万葉集〉
      の浜松が出ます。


    (467)万葉の持統天皇
    〈万葉集〉では
          「二年壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌(脚注=「大宝二年(702)持統太上天皇・・三河・・」)
               五七 引馬野(浜松もある)ににほふ棒原入り乱れ衣にほはせ 旅のしるしに
                 右一首 長忌寸奥麻呂
               五八 いづくにか船泊てすらむ●安礼(あれ)の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟
                 右一首 高市連黒人」〈万葉集〉
            (引馬野注=愛知県宝飯郡御津町御馬・下佐脇の地か一節に静岡県浜松市曳馬町付近)

      があって、この行幸が死亡する年にあたり無理だろうと思われますが、いま〈古事記を〉やってるので、
      702年持統というのが 582-592-702-712 というのが出てると思いますが●が余りない稗田阿礼
      のヒントになるのかということで出されたかも。
        四五   軽皇子(脚注=父が草壁皇子)の安騎(ルビ=あき)の野・・・柿本人麻呂の作る歌・・坂鳥朝
        ・・阿騎(ルビ=あき)・・・・
      があり、「阿」⇔「安」はと互換可と人麻呂がいってそうです。
      三河―稗田というのは愛知県高浜市稗田町が唯一の手がかりです。

        四四   石上大臣・・・日本紀に曰く、朱鳥六年・・広瀬王・・三輪朝臣高市麻呂・・・朝(あした)・・
        五〇   明日香宮・・・藤原宮・・・・志貴皇子(しきのみこ)の作りませる歌
        五九   誉謝女王・・・・・・寒き夜・・・ひとりか寝らむ
        六〇   長皇子の御歌・・・・朝(あした)面(おも)無み・・・
        六三   山上臣憶良・・作る歌   ・・・・・大伴の御津の浜松・・・
        六四   舎人娘子(とねりのをとめ)・・作る歌   ますらをの得物矢手ばさみ立ち向かひ射る 円方・・」
        六五   長皇子の御歌    ・・・あられ打つ安良礼松原・・・
        六六   太上天皇・・の歌    大伴の高師の浜の松が根 (高師の浜の「浜松」も古今集で有名)
        六七   大伴の御津の浜なる忘貝・・・実人部王
        七四   大行天皇(文武か元明天皇)・・・吉野・・・・寒けきに・・・わがひとり寝む  天皇の御製歌
        七五   宇治間山朝風寒し・・・・右1首長屋王
    
      などあり、持統を中心に動いています。六四は「高円山」の志貴皇子薨去(脚注=715)の二三〇の歌に、
      「得物矢手ばさみ立ち向かひ」で繋がります。高円山の志貴皇子は太安万侶とみてきました。「しき」は
      磯城・施基・志紀、音(おん)では史記もあって、多様です。
       715で年表では「穂積親王没」になりますが、これは一年違いもあります。
       705年、年表では刑部親王の没がありますが、この後引き継いだのが穂積親王のようです。   
      石上麻呂は不比等の母ですが、石上大臣というと不比等かもしれず、こうなると阿礼②が
      藤原不比等の暗示もあるととれます。藤原不比等は日本紀の内容に一番目を光らせ、記者を鼓舞し続け
       たとも考えられ
      死と同時に日本紀が出来たのも、功績を讃えるために二年ほど、死の前後があるかもしれないところです。
      718に舎人親王が日本紀編纂の総裁となってるので、このとき以後、成立が加速されたとも考えられます
      が、まあまあ全体から戻ってくれば結論がでるというのでしょう。この浜松が太田和和泉守に利用されてる
      から江戸期までの結論はそこで出てるとみればよいかも。「長屋王」が出てきてるので、「文武」という表記
      が大きいので文武②=長屋王と取れるのかも。七四脚注の文武とと元明は世代が違うので、文武で元明を
      カバーするというのならありえます。対立軸が出てきています。
     
    (468)新天皇の出現 (朝天皇)
       ここで
            朝([みかど)[天皇]
    が突然でてきました。〈書紀〉の持統紀のはじめから伏線は敷かれてて
    はじめに、昔をふり返る形で

     
 「〔斉明〕天皇の三年、〔天武〕天皇・・・妃となった。・・・〔天智〕天皇の元年に草壁皇子尊を大津の宮
      で生んだ。・・・〔天智〕十年・・・〔天武〕に従って、吉野に入り、朝〔天智〕の猜疑を避けた。・・大友皇子
      誅〔殺〕……二年皇后に立った。・・・・・ 」〈書紀〉

    があり、朝〔天智〕というものもでていました。「吉野」が四年以後よくでてきます。これは壬申の乱の
    近江と吉野が絡んでるからでしょう。このあと
    朱鳥元年 元年 と太字があり、四年へと続いてることになります。この「二年皇后」は過去のこともあり、こんごの
    持統に関わるということです。前天皇(天武)のとき
    
      「天武一〇年 天皇は、大極殿に出御して、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王・三野王・・・
      に詔して、帝紀および上古の諸事を記録し校訂した。」〈書紀〉
      (年表では「川嶋王子、忍壁皇子に命じ」となっている)

    がありますがテキストではこれが「〈日本書紀〉編纂の開始〉」となっています。「校訂」が入ってるから〈古事記〉
    のことで、〈書紀〉への繋ぎ作業のことではないか思いますが、712年、太安万侶が〈古事記〉を撰上しました。
   、〈書紀〉は720年だから、その前に〈古事記〉があるから、また、
        天武10年は修正682だから、持統6年の●が692 だから
    ●は、720に懸るよりも712に懸るほうが自然です。592推古天皇即位の100年後が692です。これは 
    692+20=712です。
   
    〈書紀〉は舎人親王が携わり〈万葉集〉舎人皇子の注では
         「舎人皇子(とねりのみこ)(舎人親王) 天武天皇の第三皇子。・・・養老二年(718)一品を授けられ
          勅により〈日本書紀〉編纂の総裁となる。・・・・735 11月没、60歳。崇道盡敬皇帝と尊重・・」
    となっており、これは720年(養老4年)
         「舎人親王を知太政官事に任命する〈続紀〉、舎人親王ら「日本紀」(日本書紀30巻系図一巻)を撰上。
         藤原不比等歿(62)〈扶桑〉」〈年表〉
     があり、慈円は、文武紀で
         「知太政官事刑部(ヲサカベ)親王(天武第九子)(705没)」  
   で出しています。これは前に忍壁皇子で出てきた「天武第九皇子」があってこれを消したと取れます。

      草壁皇子・忍壁皇子(天武第九皇子)・長皇子(天武第四皇子)歌番号(60・65)
    先ほど持統、参河国行幸の〈万葉集〉57・58で
          「長忌寸奥麻呂(注=意吉麻呂(おきまろ)もある)」「高市連黒人」
     が出て、注では「系譜不明」で逃げ、となっています。索引(順番)では
       忌寸奥麻呂/中大兄(なかのおおえ)→天智天皇(てんちてんわう)/皇子/長屋王(高市皇子の子)
     となっています。一般的すぎる「長皇子(ながのみこ)」(天武第四皇子・天智孫大江氏)は、忍=おさ=長
     でもあり、忍壁(「忍坂部」もある)皇子は「長壁皇子」→「長皇子」と変化の可能性はあります。この長が
          忌寸奥麻呂/中大兄(なかのおおえ)
     の「長」だから、「大津・人麻呂」「藤原不比等」(天智違いの子)を表してるととれそうです。元明①元明②は
     対立軸が出ているといえそうです。高市黒人も「草壁皇子(尊)」=「高市皇子(太皇市)」の一方を表すの
     かもしれないというところです。
      「忍壁皇子は、持統天皇・柿本人麻呂と出てくるところがあります。

        「天皇の雷丘に御遊しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
          二三五 大王(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷の上に廬(いほ)りせるかも
            右は、或る本に曰はく 忍壁皇子に献るといへり。・・

    となっています。この歌の訳は「天皇」「大王」は持統天皇となっており、「仮宮を造っておいでになることよ。」
    となっています。とにかく人麻呂は忍壁皇子を持統の子というので歌を献呈したのかもしれません。天武天皇
    の第4皇子とも第9皇子とも言われています。
     細字の天皇と大王が、同一だろうというのなら、人の代わってる可能性もあります。持統天皇の「うの」は
     「菟野」もあり、「鵜野」もあり、●の「鸕野」もあり、これは「ロ」とも読むようですが、「ウノ」が一時ありそう
     です。
    
 皇太子が、草壁皇子尊の死(28)、で消えましたが、草壁は、忍壁で「人麻呂」「持統」との関係を出されたのかも
     しれません。これは年齢をあらわすための死とすると
     皇太子は天皇になったというのかもしれません。大津皇子もこのとき1年差でなくなり、二人がほぼ同時に
    亡くなったというのは大事件ではないのでしょうか。
     草壁皇子尊が皇太子となったのは、再掲

       「持統・前紀     天皇は、重々しく度が大きかった。…[天智]の元年に、草壁皇子尊を
                       大津の宮で生んだ。」

     の記事が元であって、草壁皇子尊は大津皇子と関係が深い、兄弟かもというのもでてきますが、草壁は
     日下部{日本部)で大きな存在で、大津などに重なる技術的な表記といえると取れます。
     
     このとき 
          天智天皇
          ∥ーーーーーー大津皇子
          大田皇女
    というのは確実にありましたが
           天智天皇
            ∥ーーーーーーー草壁皇子尊
           持統天皇
     というのも確実です。天武天皇(大海人)は蘇我入鹿係累の天智天皇を尊敬していて持統と再婚してもその
     連れ子は、天智天皇の子ではあるが帝位に付けようと考えていた、そのことの表れとして、このとき
         皇太子草壁皇子尊(大友オウジ)
           ∥
         天皇 大津皇子
     
とすることにした、こうなれば大津皇子が皇后となるはずです。実際は、皇子大津も24の没で出てきましたから
     、どちらともいえない
     というのが二人にあり、二人の間でやりとりしながら、持って行こうとする方向に纏め上げようというもの
     がありそうです。「高市皇子」は天武天皇の長男ですあら、草壁子も「皇子高市(たけち)」があります。
     持統天皇も「ジトウ」と「持統(じとう)」があり、
     二人でなく三人目があるとした方が説明しやすいというのならそれでもよいはずです。人の一生の間に局面が
     かわるので、場面によっても、名前が、代わることもありえます。公の行事の出席だったら、夫妻二人、親子
     二人の共同行為もあって、これは個性がないから、存在の確認ということになる程度のことです。
     多すぎてややこしいことはないのですが少なすぎてわかりにくいというのはあり、天智天皇というのには、
     今でいう子息が含まれていることなどはわかりにくいところです。いまでは、制度的に家族を括ってとらえるように
    なっていて、それで問題なくいけてるではないかというのがあるから、ややこしいはずのことに、すこし、鈍感
     になってることもあり、今やってるのは親子・夫妻・兄弟が同じ会社、役所に勤めてるということでの物語だか
     ら、よけいわかりにくいというものがあります。

     (469)丹比嶋真人は天智①か
     先ほどの丹比嶋真人、は突然登場の人物ですが
      持統期、4年 高市皇子が太政大臣に起用された年、同時に右大臣にされ、10年間、高市皇子の
    死(持統10年)以後も要職にあり、何と78歳の死(701)まで、勤め上げた人物ですが、これは
        天智10年(671)、天智天皇没(46)
    の年齢に近いわけで、それ以外見当が付かない人物です。似たようなもので
        朱鳥元年(686) 天武天皇没(56?)〈年表〉
    がありました。天武天皇上・下のタイトルは
           「天淳中原澟(に似た字)真人天皇」[天武]
    の「真人」があり、〈万葉集〉人名注には
          丹比県守(たぢひのあがたもり)(「島の子」)/ 丹比真人/ 丹比真人笠麻呂/ 丹比真人国人/
          丹比真人広成(大唐大使卿)/ 丹比真人屋主 国人
     がでています。
     これはその昔
         ▲天智天皇(671・46没)
          ∥ーーーーーーーー▼大友オウジ(672没、年不詳)ーーーーー大津皇子(686・24没)
         鵜野皇女(ジトウ)                            

     というのがあって、この「ジトウ」が大津皇子応援のために復帰してきた、というのが一応考えられるところ
    です。天武天皇は身内を特に起用するということはなくて、大臣はいないのですが、持統期になっての例外的
    な登用というものです。「真人」というのは天智(天武上にも前紀がある)・天武の名前に組み込まれています。
    ▲▼が同時?に死亡してる
    のでそれまでは天智の中に「大友(オオトモ)」が含まれていたとみるのがよいようです。


    (470 )天智・天武
 
    天智天皇のあとは「大友皇子(弘文天皇)」ですが、慈円では
        「天智十年  元年壬戌  (没年齢なし)
         諱は葛城。舒明第一子。母皇極天皇。近江国大津宮。后九人。男女御子一四人。
         太政大臣大友皇子{天皇第一御子・・・}」
      となっていて、天武天皇十五年  持統天皇十年 についても、いずれも没年齢が抜けています。    
     大友皇子はネット記事で二件 648~672があり 24歳没になっています。これで〈年表〉では持統紀に
     「686、朱鳥1 大津皇子、24歳没」というのが気になってきます。
       
 701-671=30  30+46=76≒78 多治比真人の年齢に近い、
        686-672=14  24-14=10 壬申の乱のときの大津皇子の年齢
    となると10歳違いがどうなるか。大津皇子24没は、「皇子大津」の年齢だったらどうなるか、があります。
    大友皇子の妃は十市皇女で〈年表〉では
        「678 十市皇女没(?)〈紀〉」
   があるのはどうなるかなどのことです。
     712、(今の〈古事記〉を書いた)太安万侶(男性)が、50歳だったとすると、662生まれとなります。
    まあ多治比嶋78没は天武天皇で、新天皇、大津(柿本人麻呂)を支えたというところかと思われます。
     686 56没ではなく、62没であれば 701  77・78歳になりますが 686が朱鳥であり7年まで
    続くのでそれを加味すれば、天武天皇にもなりそうです。「?}が入っていたのでこちらを取ってみよう
    ということです。わかりにくいのは、そのとおりですが、「56」が〈年表〉にまぶされ、関係線があるとみて、
   葛城王も離れたところで没となっています。〈年表〉から構成してみて
    
            骨子                           語りの布石
         --------------------------------------
          671年   天智天皇①  46没          次代●大友皇子(壬申の乱)
         (669年)   天智②     56没          藤原鎌足没 (56) 
          679 天智天皇①の「大皇弟(大海人皇子)」    ■679 葛城王没(?)  
         -----------------------------------------    
    朱鳥元年686年   天武天皇②  没(56?)        ★693年(朱鳥7年没)?    
                                                 
          701年   天武天皇①  没 (78) 
           ほんまの(大海人皇子)   ↓
                           多治比真人            701 大宝律令が完成
         ---------------------------------------
          702年   持統太上天皇没(58)
          703年   ▲阿倍御主人没  (69)
            704年 慶雲に改元  石上麻呂、藤原不比等の時代(文武の終り頃から元明にかけて)

    でやってみますと
     〇671年(天智10年)で天智時代が終わっていて、これは中大兄①の大天智の没で、天智時代の終了で
          大友皇子が継いだ。 
     〇天智②は中大兄②、称制天皇時代は661~668で終了(白村江の海戦は663年)、翌年669
      没。大化改新(645)以来、大天智が仕切ってきたが、天智②は藤原不比等の父なので、勢力図を逆さ
      にした。カウントはあれない
     〇大海人皇子が歴史書に関わる天武天皇で、「真人」から701年78歳没となると取れる
     〇人物欄の■は誰かわからないので、天智天皇①舎弟にしとくと、679に繋がる
     〇▲もわからないので「69」をとると ■の穴埋めにもなるかも。
     〇▲は69-46=23  23+671=694 で ★にも近づくがこれは偶然の一致としても、持統天皇の元主人
      (連合い)かもしれにというのが出てくる。

     これで見れば大宝律令の大宝3年間が大変大きく冒頭で〈書紀〉は
           紀元前660年から紀元後700年まで(1360年)
     としましたが、持統696年譲位となっているので、実際は7年ずらして、703で終りとして
           紀元前657年から、紀元後703年(大宝3年) (1360年)
     としてよいではないかとも取れます。三つずれたら大きいので、違いのある二つが流れてるというような考え
     がありそうです。〈古事記〉やっててそれでいけば
          紀元前        紀元後対象期間
           771    /600(隋への遣使)100(倭の五王)=700 /630(舒明即位・唐への遣使)
     があってこれは、    ⇒700/700対象期間/701 となります。
      771=220×3+37×3   となります。771/3=257  卑弥呼没年
     というようなことになります。          
            

    (471)元明天皇のもう一人
    元明天皇①=藤原不比等は一応既述ですが、新天皇として大津皇子が、元明天皇②になるのでしょう。
    大津皇子は慈円では天武天皇の所で出てきます。
        『天武  十五年  元年壬申  諱は大海人。舒明第三子。天智同母。・・(天智)崩御・・・位をうけとり
        給はず。さて后をも大友の皇子をもつけ給ふべきよし申されて…出家をして吉野山にいりこもり給へり。
        大友皇子いくさをおこして襲い奉らるべしと、御娘{大友皇子妃なり}ひそかに告げ給へりければ・・・
        近江にてたたかいて勝ちたまいて、御即位ありて世を治めたまへり。・・・」大津の皇子御門の御子也
        。世のまつりごとをしたまうといへ此王子からの文を好みて、はじめて詩賦を作りたまう人也。』〈愚管抄〉
   となっており 
        大友皇子の妃は天武の子  大津の皇子も天武の子 
   といっています。まあここで7年の差があって 天智治世は

           | 661称制 (中大兄)           |668 天智天皇  | 671 弘文天武天皇|
           |           年            |    年     |   1年         |

   となていてこの の10年の天智期間があり、これが慈円のいう10年で、称制7年というのは脇におく
   ということになるとも考えられます。天武と持統にあった7年の朱鳥も(頭の中で)脇に置く、ということも考えると
   持統紀の「皇子皇子」はあのとき686年
        24+7=31歳  686-671=15   31-15=16 =壬申の乱における大津皇子
   となり、     
           大友皇子①(天智息)=■皇子皇津
           ∥ーーーーーーーーーーーーーーーーーー●大津皇子(柿本人麻呂②)
           十市皇女(このときは女子)
   が成立し、持統4年に皇后が即位したときに朝天皇が出てきて、それが持統が賜死した■の子の●である
  という物語になってると思われます。●が丁度、〈書紀〉の編纂時期に出てきたというのが幸運の一つと
  いえそうで、これが元明天皇②取れます。
   慈円では「元明天皇」は

          「(頭注)元明天皇   四十三
                        元明  七年
                        クエンメイ
           諱阿。慶雲四年(707)六月十五日受禅。四十八。御年六十一.天智第四娘。文武御母。
           草壁太子女御。母宗我嬪。{蘇我山田大臣女}。大和国平城(ナラ)宮
               知太政官事穂積親王
               左大臣石上麻呂
               右大臣藤原不比等{和銅元年三月廿一日任}=(708、元明天皇即位の年とほぼ同じ)
                                              (707  文武天皇没)」
     と纏められています。
     阿閇皇女が元明天皇というのですが、天武天皇4年(675)阿皇女が十一皇女と伊勢神宮に参向したと
     いうのが出ている以外ほとんど事績がなく、一般には阿閉となってるから二人いるということでしょうが、よけい
    ぼやけることになります。阿閉は阿礼の「阿」かも。

     ●大津皇子の次代が元正天皇であろうと思われます。

     (472)元正天皇
    元正天皇も今の引き当ては、慈円でみれば  

         「 (頭注)元正天皇   四十四     元年ーー ((年表では霊亀元年・715即位)
                        元正女 九年
                        クエンセイ 
           諱氷高  卅五即位 東宮草壁太子御女。文武天皇之アネナリ。★母元明天皇。文武同母なり。
                知太政官事穂積親王 霊亀元年(715年)七月一三日薨。
                舎人親王 浄御原天皇第三子 養老四年(720)八月一日任
                左右大臣如前
                ・・・
            ・・・・不比等大臣は養老四年(720)八月三日薨。年六十二。・・・・」
        
      があり、文武天皇のアネで終りで、これで満足するとしても誰やらわからないのです。★が効いてきて
      ●の子であるといってるかもというのはあります。
      まあ、まあでやってみると新天皇というほどのものが出てきます。つまり、
          太安麻呂が、元正天皇②=崇道盡敬皇帝 
    となるのではにかというのがいいたいところのことです。太安万侶(古事記)の子息がこの皇帝となるのかも。
    芭蕉は聖武皇帝をだしています。
       柿本人麻呂はウイキによれば、
           「斉明天皇6年(660年)頃~養老4年(720年)頃」    (60歳くらい)
    となっていて他にイントロのところでは「千人万首(645)」の生まれもあります。筆者はもう決まりで
           686-24=662
    の生まれです。しかし人麻呂程の人物はやはり、人麻呂①人麻呂②があると考えるのが普通で、645があり
    えます。
    とくに人麻呂①がヒトマロの可能性もあるので大っぴらに議論ができるときがくれば考慮さるべきと思われま
    す。

    ここでいいたいことは、終りが
           720年 「日本紀(日本書紀含む)」撰上
    にピタリと照準があわされています。これこそ人麻呂・安麻呂の共同作業があってこそ打建てられた世界史の、
    偉業といえるものでしょう。舎人親王①②がこの二人の応援と云うのもありえます。
     
     持統朝は不思議な政体で、公には「持統(じとう)」として、実際は
         朝〔天皇〕=大津皇子②=柿本人麻呂②
     が、720年の、〈日本書紀〉の編纂を控えたまさにそのときに当たり天皇として即位して、それが、隠された
     からおかしいことになったと思いますが、
     日本史の複雑なところはこれで終わらず、
         「720年  5月 舎人親王ら〈日本紀〉(日本書紀)30巻・・・を撰上。
                8月 藤原不比等没(62)。」〈年表〉
     があり、翌年
         「721年  12月 元明太上天皇(61)没。」〈年表〉
     があり、推古天皇・蘇我馬子の没のときのようなものに出くわします。
         「702年 12月 持統太上天皇没(58)続紀」〈年表〉
     もありました。太安万侶が序文で
        「天皇」「皇帝陛下」
    
 といってるのはテキストでは「元明天皇」で脚注は
         「元明天皇、女帝。奈良時代の最初の天皇。」
     となっており、これは藤原不比等が〈書紀〉の成立に関わってるというのはあるので、不比等と重ねられるか
     もしれないが、一方で、ここでやはり「柿本人麻呂」が出てきてるというのが一つの救いでもあります。
     柿本人麻呂も藤原不比等に乗ってる場合もあるかもしれません。この対立と、あの死(24)があるのが、柿本
     人麻呂の、不可解な最後の物語となっていそうな感じです。
        本文見れは、
                天武14年のあとの
                朱鳥元年 8月  大津皇子が皇太子に謀反した。 9月 天皇が・・・崩じた。
                -----------------------
                持統の前書部分   美濃の将軍たちと倭の豪族とは、共に大友皇子を誅〔殺〕し、首を不破の
                宮に伝〔送〕してきた。 二年皇后にたった。・・・・・・          
                持統の朱鳥元年  9月〔天武〕天皇が崩じた。皇后は朝に臨み、代わりに政務・・
                            10月 皇子大津24歳が謀反した。・・・訳語田の家で賜死した。
     となっていて
     この二つの死があるので、物語が膨らんだのではないかとも思われます。(年表は持統の部分だけ書いて
     いる)。ストーリーで行くとそうなるが、ベタで行くと、この間、時間も立ってるので、違った人が動いたということ
     になると、別の局面が出てくることになります。この〔天武〕が持統になれば話が変わります。どちらも「9月9日」
     持統の朱鳥の12月が閏となっており、どういう意味があるのかわからないわけです。天武の朱鳥の大津皇子
     の謀反は死まで行っていませんが、大友皇子に天智時代の誅があり、これで暗示したというのもあるか
     どうかも出てきます。大友には大伴があるので、大津皇子も大伴(蘇我)の一族とすると〈万葉集〉もみえてきます。
     大友皇子は半年の出番しかなく、オウジとして天智の中に含まれていたとすれば、10年の蓄積が柿本人麻呂
     ①としてあったかどうかになります。
     つまり「弘文天皇」をつくれという人がでてきて、明治以後創ったわけですが、これは歴史理解の上では
      弘文天皇を入れるのは合ってるかも。十市皇女がついてたからそう解釈すれば問題ないかも。
          大友皇子672のところ  十市皇女が677没だから5年別枠で天武の中にあったかも
          そこに弘文天皇を脇に入れる
          持統天皇のところ  四年以後に元明天皇を入れる。そのあとの707からの元明は重ソとして扱う
      というようなものが要るかも。元正天皇のもう一人は後述。

      (473)富士山の歌
     
〈年表〉再掲 
                  「 養老4年   720   〈書紀〉撰上。藤原不比等没(62)
                    養老5年   ★721   元明太上天皇没(61)」(元明天皇は714迄)
 
     があり、これは有名な山部宿禰赤人の「不尽山」の歌の数字が引っ掛かってきます。

          三一七 (長歌)・・・・歌一首 ▲{短歌を并せたり}
                駿河なる・・・・・・天の原振り放けみれば・・・白雲も い行きはばかり・・・
                反歌
          三一八 田子の浦ゆうち出でて見れば 真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
   
          三一九 (長歌)・・・・歌一首 ▼{短歌を并せたり}
                なまよみの甲斐の国・・・・天雲も い行きはばかり・・雪もち消(け)ち・・火もち消(け)ちつつ・・・
                反歌
          三二〇  富士の嶺に降り置く雪は 六月の十五日(ルビ=「もち」)に消(け)ぬれば その夜降りけり
          三二一  富士の嶺を高み畏み 天雲もい行きはばかり たなびくものを
                  ◎右の一首は、高橋虫麻呂の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す。」
      
      があります。細字の▲▼が〈古事記〉の一番始めにある(目次における)文言です。「并」が入力しにくい
      字で手書き入力でやってますが、,大伴家持が前書を入れるときに使ったものだろうから無視できない
     ものです。桜井氏の脚注は◎を
          「この一首は、三二一だけで、三一九・三二〇は作者未詳とすべきか。」
      とされています。併せたり、だったら三二一の短歌をいうと解せられますが、「イ」がないから一躰で
          三二〇、「六月の十五日」
     の反歌も含むことになるのは明らかです。
       再掲
          「元明天皇  慶雲四年(707)六月十五日受禅。四十八。御年六十一 」〈愚管抄〉
      があり、
          「707 慶雲4年 阿閇皇女即位(元明天皇)。 
                  (段下がり)                   (文化・人物欄)文武天皇歿(25)」〈年表〉
     
      があって、〈年表〉では「707年」が、別欄にも及ぶことになってるのが気が付きにくいが、707年六月十五日
      没  というのは文武天皇のことで、元明が同時に即位したことになるといってることになります。六十一
      不比等のことと思われるから 61(慈円の61を使う)-48=13  720-13=707
      だから第一義的には不比等を指してるといえそうです。

      (474)柿本人麻呂
       一方、もう一人の方は合うかとなると
 
、                大津皇子     「686年」に「24歳」  〈年表〉
                 元明太上天皇  「★721年」に「61歳」 〈年表〉
        721-686=35   61-24=37     37≒35  でまあ同一人

        ★で、720で60歳となり、藤原不比等720と二つ違いとなり こちらも対象として捉えてる
       ことが考えられます。 元明太上天皇は、男子?、一応これは藤原不比等に重ねるために延ばされた
       ところで出されたと考えられ、元明太上天皇②の存在もありうることになります。大体同時に二人なくなる
       ことは考えにくく、715穂積親王没が一応、代りとなっているとも考えられます。
         積もった雪を 消して、消して、 十五日に消えてしまった、その日にまた降って結局、消しかねる
         だろうといってるものと取れます。

       686年、24歳で賜死以後、修史事業に専念し、715年、〈書紀〉の完成直前に、亡くなったので
        石上麻呂(藤原不比等夫人)に引き継がれたということも考えられるところです。
     
        どうしても柿本人麻呂が出てきて、〈日本書紀〉〈万葉集〉などの歴史文献の創成に関わっていた
       というものがないと、 「文」の国の古代史が完結しないことになります。
        三一九の長歌の本文には
          「日本(ひのもと)の大和(やまと)の国」

       
 が出ており 脚注では
           「日本」をヤマトと訓む例があるが、「ヒノモト」と訓むのはここだけ。」
       となっています。〈古事記〉序文の「日下(くさか)」が「日本②」のモトだと思いますが、「二本」も「日本」です。
      その上(かみ)にあるのでない一本が、「日下」にもなるのでしょう。大陸から島二つが出ている、その二本
      は、「二本→日の本(倭の感触がある)」=「日本①」でこれは、朝鮮国と今の日本国を併せて日本と呼ん
      でいたときがあるので、その原型というものになるのでしよう。その変化の過程にある(ひのもと)が高橋虫麻呂
      の苦心の表現といえるのかも。

      (475)甲斐からも見てる
      長歌の後の方、三一九に出てる
             「甲斐(かひ)の国」
      は、甲斐の側から富士山を詠んだ歌であるのは確かでしょうが、この「甲斐②」は今の国の区分では、
      他国の存在が打ち出されてるものです。「甲斐」(ルビなし)が〈古事記〉で出てるのは「弟橘比売(ひめ)」の
      櫛が海辺へ流れ着いて墓を浦賀市走水に作ったという記事のあと、白い鹿が出てきた阿豆麻の国へ行って、
        「すなはちその国より越えて甲斐に出でて・・」〈古事記〉
      というところの甲斐ででてきます。この山部赤人の富士の歌は、両方とも本文は「富士」になってて、前書
      が 「不尽」になってるから、前書
      は〈万葉集〉の編者が入れてたもので画面二つ三つは誘導されてると取れるところです。江戸期の人が
      「日本海」というと幕府関連の書にも「二本(ルビ=日本)」もあるから、両方を見ているととれる、歴史の語り
      もあるところです。しかし明治になって国家が出てきて 石川啄木の
          「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」(記憶による)
      の歌の「東海」はどこなんや、といっても日本の文献は答えをださないのです。啄木は、日本海の
      ことを東海といってる人もあることを知ってて詠んだというのが合ってると思います。芭蕉〈奥の細道)に
        「東」「海」「雄嶋が磯」「白砂」「吾」があり、〈古事記〉に「蟹」があり、〈奥の細道〉の「蜑」があります。
      俳句では
            「蜑(あま)の家や戸板を敷(しき)て夕涼(すずみ)★みのヽ国の商人(あきうど)低耳(ていじ)」
      がある、その「蜑(あま)」です。この句は〈芭蕉全句〉では省かれています。低耳(宮部弥三郎)の句だから
      当たり前だというだろうが、痛いところです。これもここだけではなくて同じ
            象潟(脚注=象潟は「蚶潟」ともかく・・・蚶は「赤貝」)
      の一節のなかに
            「蜑(あま)の笘(とま)(苫)屋に膝(ひざ)をいれて、雨の晴(はるる)を待(まつ)」 
     があって二つ目です。「蟹」は「かに」が解釈で、「かい」と読むので「海士(あま)」があとで出てるので
     (この場合は「海女(人)」になりそうですが)、「解」=(かい)=「海」が、(かに)を作っています。
       まあこれはもう、理屈をいわなくても、「蜑」は「蟹」に見えたというのでいいようです。「虫」がついてて、
      「日本」を出した「高橋連虫麻呂」もいて注では
        「高橋氏は景行天皇の東国巡幸に大蛤を奉った功により膳臣・・天武十二年(684)高橋朝臣姓を賜る。」
       があります。高橋朝臣に「安麻呂」がいるのも気になりますが
                「蛤(はまぐり)」がでます。
        蛤は象潟の「西施」の属性(ウイキにも出てる)でもありますが〈奥の細道〉ラスト大垣の一節の終りの句
          「露通・・・みのヽ国・・・越・・・蘇生(象潟に「蘇東坡」の引用がある)・・・
              蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」〈奥の細道〉
      が受け止めて終わっています。脚注では
          「の蓋と身がわかれるように親しい人々と別れて、・・今伊勢の二見の方へ行こうとしている。
          おりから節も秋の終り・・[わかれ行く]の行くはの行く秋にかかっている。[行く秋]は晩秋
          でこの句の語である。」
      となっており、一つだけ挙げれば「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す。」の「李」が出ててこれは司馬遷
      が李広将軍をほめてる一文ですがこれを取っ掛かりにして「李」二つが出ました。李世民(蘇我蝦夷と
      同時代)と朝鮮国李王朝の「李」が出てると考えられます。「露通」は脚注では
           「・・・美濃の人。乞食にまで零落したが芭蕉に拾われ門人となった。」
   、 となっており古事記がでています。美濃がここでもでましたが
           「濃州(ぢようしう)岐阜」〈信長公記〉
     がたくさんあり,、目につきますので、上州(上手かみて)であろうと取れるところですが、これが★のルビ
     から続いた読み方が強いられると(「夕」はルビが付いていない)
               「すずみみのの国」
     という国が出てきます。これは朝鮮国のことととれますので「低耳」は外国の商人の門人ということになる、
    あるいは通信使の随行員、陶工などのことが推察されるところです。つまり清寧天皇が海を越えた向の地の人
    というようなことがあり得ないことではないというのが出てるかも。また「竹+占」「草+占」が出てるのは、、
    藪⇔籔が互換になってるので草冠の「占」がでています。「草」は「日(くさ)下(か)」の「くさ」だから芭蕉が入れた
    「占」が太田和泉守を受けたものだということができます。〈信長公記〉の人名索引に
        日乗朝山(「朝山日乗/仁田/蜷川/二の江の坊主(「海部郡にある荷之江[二之江]の僧侶)/日本介
    があり、荷物の荷は「草冠+何(か)」で「日下」=「日本」となります。この二名ー蜷(にな)が太田和泉守の
    因幡・伯耆 山中鹿介のところで出てきます。悪き弓ー陰山(掃部助)ー大垣うしや寺内ー寺内正徳寺(聖徳寺)
    をみてるのかも。まあ出雲は芭蕉〈奥の細道〉に遠いのですが「山陰」がたくさんでてきます。弓→聖徳がありえ
    ます。

       
 柿本人麻呂の最後が、悲劇の物語なので、弘文天皇②として出てこず、日本文献に完結性がなくなって
        います。修復しないとこうならないところです。とりあえず持統4年からの持統の6年間は弘文天皇とし
        もどこまでか、というのもあります。
          620年 天皇記国記など    皇子大津
          720年 記紀諸家系図     大津皇子(柿本朝臣人麻呂)
       として、持統紀が700年で締められたと思われ、伝説の大歌人、日本史編纂の推進者として
       姿を現してほしいところです。教えてほしい邑の灯よ、というところですが藤原不比等の全盛期と
      ほぼ同時期なので隠される度合いも強かったかも。
     
     一五日(「もち」)=持(以)=餅=食+ が出てきて
        「爰に見悪き事あり・・・人目を御憚りなく、くり・柿・・瓜・・をまいり・・人の肩につらさがりてより
        外は御ありきなく候。」〈信長公記〉
      があり、餅は徳川家康に懸ることは〈戦国〉で既述ですが、不比等・〈太閤記〉で朝鮮の陣の秀吉公
      (瓜・柿などで)にも懸けてあります。
      
      「天の原振り放(さ)け見れば」というのも持統にからんでくると(高)天の原の天の原ととれます。放という
      と遠くを見はなつというのもありますが、放(さ)けとなってるからキツとなってることも考えられ日本のことでは
     、危惧をもちながら歌ってる感じがします。
 
      (476)元正天皇の太安麻呂
      慈円の結論では
        「舎人親王の時、清人と日本紀を猶つくられき。叉(清人は?)太朝臣安麿など云う説もありける。
       714年に
            「●紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰ばせる〈続紀〉」〈年表〉
          があり慈円は「清人」は〈日本紀〉といっており、国史は〈続日本紀〉とはいっていません。
        このことの詳細は
           「本朝にとりては入鹿が時。豊浦大臣の家にて文書みなやけにしかども。◆舎人親王の時清人と
           日本紀をなを(ルビ=猶)つくられき。叉太朝臣安麿など云説もありける。それより打つづき
           続日本紀五十巻をば、初め廿巻は、中納言石川名足。次十四巻は、右大臣継縄。残り十六巻は
            民部大輔菅野真道。これら本躰とはうけ給て作りけり。(あと9件の史書は「日本後記は左大臣緒嗣
            。」というようなわかりやすい書き方となっている。)」
      となっており、
     つまり責任者の名前は入っているが紀清人・三宅の名前は出てきません。紀清人の紹介には
         「和銅7年(714年)三宅藤麻呂とともに国史修の詔勅をうける。当時編纂されていた〈日本書紀〉
         に関連した人事とも考えられるが未詳。」〈ウイキ〉
      というように暈すようになっています。●の〈続紀〉の意味は「(続紀)に書いてある」という意味のもので
       この国史は撰になってるから〈日本紀〉ということで、
       712年から2年間で作った(若干加工したもの)を、714年に、●のメンバーに渡して720年の〈日本紀〉
     に組み入れたというもので、このプロジェクトチームは天武10年に発足しており、また2年違いは同じと
    もいえる712≒714なのではじめから太安万侶が単独作業をしてたとはいいかねるものです。
     一方〈日本書紀〉は上表文もなく、作成者の名前もないのに正式のものとしてみとめられているのは〈続紀〉
     に載ってるからであり、712のものは〈続紀〉に書いてない清人と三宅はは〈続紀〉の編纂を命じられたと誤解を
     受ける●の国書き方が●の〈続紀〉だったわけです。
     これは◆で慈円が〈日本紀〉といっています。太安万侶=◆ということもいってる(紀清人は関係ないとは
     いっていない、藤麻呂は書いていないから。)
     と思われます■の文は文中「臣安万侶」となっていて男子で出てる感じです。これは太安麻呂もあり、舎人親
     王は天武九年に「舎人王」〈年表〉という人物が死亡(年不明)で出てて、天武十年が〈日本紀〉のスター
     トだからその準備もあるものともいえそうです。〈年表〉に
         620年  推古28年  〈天皇記国記作る〉
         622年  推古30年   聖徳太子・・没する(49)  これは豊聡耳皇子のことと思われる
      がありこの聖徳太子は豊耳の皇子と思われるのは、620の事業から察せられるところで、10くらいの外国
     語がすぐわかるという人だった、当然推進の責任者完成の功績第一の人はこの人で、うまいこと622年に
    亡くなっているのでそれがわかったということになっています。完成時期は612だったというのが太安万侶の
    712(714≒グループ完成を示唆している)ということになると思われます。ここから二つの問題が派生してきます
    すが一つは〈古事記〉完成で同じことが起こったというものです。〈年表〉では

         720年  元正6年  舎人親王ら「日本紀」(日本書紀)30巻系図1巻撰上〈続紀〉
         723年     9年  7月 太安万侶没(没年齢?)〈銅板墓誌〉
                      12月 太安万侶の銅板墓誌を副葬〈同墓誌〉
         735    養老7年 11月 舎人親王没(60)

     となり、735-723=12年 違いだから、舎人親王ー太安万侶とは同一人として接近するだろうという
     思惑が外れとなっています。
     〈銅板墓誌〉では
           「癸亥年(養老七年のこと)七月六日卒養老7年12月25日乙巳」〈銅板墓誌〉
     となっていて〈続紀〉(続日本紀)では
         ★「(養老七年)秋七月庚午(七日)」〈続紀〉
    となってるようです。墓誌の方が、一日前なので、まあ干支読み間違っても60日ぐらいの差になって年が
    かわるという影響はでないというのでよいのでしょう。12月の方は銅板の
    副葬年月日ということを言ってそうですがここに副葬の「日」の干支が出ていることになります。七月六日の
    干支は「己巳」ですが、これは時計回り35、逆回り25になるにしても意味がないかも。まあ単純にいくと
       12/25  12/26 12/27 12/28 12/29 12/30 12/31 1/1(元旦)「
       乙巳    丙午   丁未   戊申   己酉   庚戌   辛亥   壬子
    となり、壬子というのが翌年になるが、翌年は養老八年になって〈書紀〉式(現代の年表式)の年代表示では
    養老八年は出てこないことになります。12/25日銅板を埋め込んだ連中の魂胆は、

      〈続紀〉は養老七年に太安万侶は亡くなったというが、★の表現がちょっとかわっている、〈書紀〉は日の
      干支の記入がない(〈信長記〉と同じ)のに、〈続紀〉では全部把握できる(〈吾妻鏡〉と同じことになって
     る)、これを使ってサワリの部分で史実を説明しようとする変人も出てくる、〈日本紀〉の序文を書いた日本の
     歴史の旗手、太安万侶のことがよくわかるということはまさにその場合といえるが、自分らも一つ参加して
     おく、後世銅板墓誌が発見されなくてもそれはしょうがない。

   というところでしょう。〈吾妻鏡〉は、日の干支とともに天候が殆ど入っておりこれは今でも大変役立っているよう
   です。芭蕉の「48、つるが」の一節、「十五日、・・・雨降(ふる)。
           「49、種の浜」の一節、「十六日、空霽(はれ)たれば・・・」〈奥の細道〉
   の「霽」などは〈吾妻鏡〉のまねをしています。「雨降。」も同じです。〈信長公記〉では天候のことはよくでてきます
   毎日の天候の記入はなくなっていますが、それに代わるほどといってよいくらい、〈当代記〉が天候を書いていて
    〈書紀〉にもよくあるような天変地異の記事が多くなっています。大村由己が伝統をしっかり受け止めたといえる 
   ところです。
   ★の記事は年表では出てなくて〈銅板墓誌〉の日が採用されています。地下から出てきたものが合うてると
   というのでしょう。★の周辺をみても「壬子」は出てこず、722の10年前(一部再掲)
     、和銅
      「712  5年 壬子  1 太安万侶が〈古事記〉を撰上〈同序〉」
      713  6年 癸丑  5 〈風土記〉編纂を諸国に命ずる。〈続紀〉
      714  7年 甲寅  2 紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰ばせる〈続紀〉

   があります。つまり★死亡記事がここまで競り上がってくることになります。この二年後序文を書いた太安万侶は
   亡くなったということを言っています。よくみると、714の記事の年に当たり、これは補強、没後の新任を紀清人・三宅
   の二人に命じたということをいってそうです。そしたら、そんな大物なら714に亡くなったという記事がどこかに
   あるはずだ、というのが出てきます。これは既述のことでいえば、〈万葉集〉巻第二の終り

       「●霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王(しきのみこ)の薨りましし時の歌一首{短歌并せたり}

      230  梓弓、手に取り持ちて ますらをの 得物矢手(さつやた)ばさみ 立ち向ふ 高円山に 春野焼く
           野火と見るまで  もゆる火を  いかにと問えば・・・・・・・
           神の御子の  いでましの  手火の光ぞ   ここだ照りたる。
           短歌二首   高円の野辺の秋萩 いたずらに咲きか散るらむ見る人無しに 
           ・・・・・・・」
    という(葬送の歌)がありました。「或る本の歌二首もついてて、二重になってるといえますが●は、脚注に
       「霊亀元年(七一五)九月に・・・・」と書いてあって、
       「・・・・〈続日本紀〉には霊亀二年八月十一日薨去と伝える。」
    とも書いています。いま714といいたいので後ろへ行ったら困るのですが、どこでそんなことになったかというと
     太安万侶没年  再掲
        「癸亥年(養老七年のこと)七月六日卒養老7年12月25日乙巳」〈銅板墓誌〉
     となっていて年表では723年に当てていました。〈続紀〉=(続日本紀)では
         ★「(養老七年)秋七月庚午(七日)」〈続紀〉
    となっていますがこれは年表では使っていません。
     ●の「歳次(さいし)」の「次」は「つぎて」とよみ、ネクストの意味です。
       霊亀元年歳の次の年乙卯は715年なので霊亀元年は714になる理屈です。〈万葉集〉では●の記事の
     前、228・229の歌の前書は「寧楽宮」があって
         「和銅四年(脚注=711年)歳次辛亥・・・・・」
     があり、脚注に「同じ内容の題詞が434にある」と書いてあり、それをみると

  「和銅四年(脚注=711)年辛亥・・・・・・・・・」
     が出てきます。歳次が入ってるから同じ711ではないという意味であるのはあきらかです。
     したがって上の方が、和銅五年(712年=壬子)というのもでてきます。これは太安万侶の序文が出た年
     で、太田牛一の壬子(1552)も出てきました。これは年表で
          「715霊亀1年」「716霊亀2年」「722(養老6)」「★723(銅板)(養老7)」
     と全部の年が載っています。「716」と「★」は要らないかしれないもので、2年多いと思われま
     すが、前からくる部分の自動調整になってる場合も考えられます。
      先ほどの「寧楽宮」をたどると〈万葉集〉巻一の最後にも「志貴皇子」が出てきます。
    
    「寧楽宮(脚注=奈良市佐紀町。)
              長皇子、志貴皇子と佐紀宮に俱に宴する歌
           八四 秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山ぞ高野原の上   
               右一首 長皇子(天武皇子) 」〈万葉集〉

     があり、少し前の 六〇 で「長皇子」の歌があって 六一 が、これを受けた歌で
        「舎人娘子(をとめ)」
     が長皇子のお伴をして作ったもので、これは
           六一 ますらをの 得物矢手(さつやた)ばさみ 立ち向ひ射る
                  円方(まとかた)は見るにさやけし
     で出ており、この歌は●の230の歌の脚注に(1-六一)のことが出てるから見ないといけない部分と判ってる
     もので、史書の本文に於いて、時の流れにより生じた空隙を語句の類似(ますらを・・・)などによって結び付けら
     れますが、ここでは、●の志貴皇子と舎人と〈古事記〉の関係が出てきたといえますが「寧楽宮」や「長皇子」「和銅
    四(五)年」などの支援によって出てきます。したがって「高野原」というのは「高円山」の「高原」といえるし、和銅
    の銅は、銅板の銅というのもあり、佐紀の紀姓の「紀」も出てる、鹿が出てきて志貴皇子=鹿ー史家もあり、
    志貴皇子ー史記 もあるかもしれないところで、史記の志貴皇子だから●の「高円山」の前書の薨去した人物は
       志貴皇子①=太安万侶
       志貴皇子妃=多紀皇女(〈万葉集〉人名注)がある
    と取ってもいいだろうということになります。〈万葉集〉の巻一は柿本人麻呂の有名な歌も出てきて、太安万侶と
     人麻呂は関係が深いということは暗黙の裡でわかりますが予想外のこととしてあげれば
          志貴皇子と「難波宮」「大伴(地名らしい)」は関係が深い
     ということです。まあ、字数が少ないなかだから、覚えとくとどこかで出てきそうです。

       703 刑部親王知太政事任命
       705 刑部親王没(?)  忍壁皇子という表記が消えた。
       705 穂積親王任命
       712 太安侶〈古事記〉撰上
       714 紀清人・三宅藤麻呂に国史を選ばせる
       715 高円山志貴(紀)皇子葬送
       715 穂積親王没     ここまでで712の太安侶は没ととれる。紀清人が引き継ぐ。
       720 舎人親王ら〈日本紀〉日本書紀30巻・系図一巻撰上  舎人親王②は紀(貴)清人と取れる?
                                              舎人親王①は安麻呂(四位の人)
       720 藤原不比等歿(62)
       721 元明太上天皇没(61) 
      ●723 銅板墓誌で太安侶没(?)    舎人親王①は太安麻呂というサインとも取れる
           (銅板墓誌は四位の人)
       735 舎人親王没(60)      これは太安麻呂
       753 紀清人歿〈万葉集人名注〉
   で●がなければ 
           714・紀清人=(●太安萬侶)=735・舎人親王  
   と結びつきません。〈年表〉の●は712の「安万呂」にしていますから銅板は「萬」で最も肝心なところで違って
   います。
       1605  大伴宿禰家持の歌一首
          高円の野辺の秋萩 このころの暁露にさきにけるかも 巻8
  というような句が大伴家持にたくさんあり、既述の4195の句に行動がでています
    
        ◆天平勝宝五年(脚注=七五三年)八月十二日,二三の丈夫等、各々壺酒を提げて高円の野に登り、
        聊かに所心を述べて作る歌三首     
、    4195 高円の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな 直ならずとも
             右の一首は、左京少進大伴宿禰池主のなり
     4196 天雲・・雁・・高円の萩の下葉はもみちあへむかも
             左中弁中臣清麻呂朝臣のなり
     4297 女郎花秋萩しのぎ さ雄鹿の露分け鳴かむ 高円の野ぞ
             右の一首は少納言大伴宿禰家持のなり」巻20
  
   があって「さ雄鹿」は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮に俱に宴する歌
          84 秋さらば今も見るごと 妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上
             右一首、長皇子」
    があります。ここはあの715年の志貴皇子葬送の歌の「高円」「秋萩」などを受けています。◆の753は紀清
    人歿の年であり 714からの流れをここで止めています。紀清人の父は、29年年努力して倭国史を書き替え
    た(テキスト脚注による)「筑紫史(ふびと)益(まさる)」と同一と思われる
         「紀国益」(生没年不詳)
    と思われますが、この人物と重なっています。まあ太安麻呂はは紀氏と姻戚と思われるので
         太安麻呂
         ∥ーーーー紀清人
         紀国益(29年は28年稗田阿礼に及ぶかも)
    ともしとくと、●の銅板墓誌が清人①の死も表してると取れるかも。大伴家持は大伴安麻呂の孫で、716の誕生か
   、と書かれてて、753なら37歳ぐらいとなるので歴史の語りに埋め込んだ、これがこのときのことといえるので
    しょう。

     (477)湯気にやられた
        志貴皇子・舎人皇子に接近した「弓削皇子」があり
        歌番号
        1466   志貴皇子    1773  弓削皇子 「板」 (前の1772の歌は丈夫・・丈夫 筑紫国 秋萩)
        1467   弓削皇子    1774  舎人皇子

     また、弓削皇子,紀皇女を思はす歌四首
      があり紀氏との関係が暗示されています。太田牛一の〈古事記〉の系図の部分がどう出てるか、ということ
     が
         「弓削六郎左衛門」〈信長公記〉  注:「弓削家澄『弓削系図』」
     が出ています。索引では前が「湯川」で
         「湯川直春(「紀伊日高郡湯川荘から興った豪族〈紀伊続風土記〉」
      となってて、弓削ー紀伊の接近がみられます。日高=(元正天皇)=氷高 というのがあります。後は「遊佐
      美作同弟」でやっと「銅」が出たというと怒るだろうからこれはないのでしょう。
      「弓削六左衛門」ー「天武第六皇子」を出して注で「弓削系図」がでますが、本文では、天正7年

        「六月廿二日、羽柴筑前与力・・竹中半兵衛、播州御陣にて病死候。・・・・其名代・・・舎弟竹中久作
        播州へ遣はされ候。
         六月廿四日・・・先年惟住五郎左衛門・・周光茶碗・・かはりに鉋切(カンナキリ)の御腰物・・・作長光
        、一段の出来物、系図(ケイヅ)これある刀なり。・・武藤・・家康公・・坂井左衛門尉・・御馬・・奥平九八
        郎・坂井左衛門尉両人・・御馬進上」〈信長公記〉

    で系図が出てきます。鉋が効いてきて
        715年 高円山志貴(紀)皇子葬送
   「 230   梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて ますらをの 得物矢手(さつやた)ばさみ 立ち向ふ 
          高円山に 春野焼く・・・・・」
    の梓弓が弓削皇子のモトであろうといってるととれます。梓は〈漢語辞典〉では
       「楸(シュウ)・ひさぎの一種。きささげとも、あかめがしわともいい・・落葉高木で、中国では最もすぐれた
       良材として各、棺・版木などに用いられ・・・」
    となっていて、これを削って弓にするから弓削が出てきた、単なる枕詞というものでないといいたいところ、
     うそだろうというだろうから、太田牛一は、削る代表の道具を出してくれたといえます。
         梓ー鉋ー削るー弓 で、系図ー太安万侶ー弓削
     が出てきました。「鉋切」はネット記事にあり、「鉋切長光」(銘刀幻想辞典)によれば「堅田又五郎」なる人物が
     でています。琵琶湖堅田は明智の巣で、
         「堅田(脚注=大津市本堅田町。)へ中入(なかいり)仕候処・・・」〈信長公記〉
     があります。「中入」の脚注は 「な下文の[中入]は援。」(「堀」が出てるので「お」は「ほ」?)
     となっています。ここは「堀平右衛門」「原平兵衛」「丹羽五郎左衛門」も出てきますが「五郎」は惟住の
     「五郎」を受けるとともに「五」が出てくるのでしょう。いま弓削皇子は六に決まり、大津皇子は天武第四皇子
     もある(表向きは皇子の多くは第九皇子になっている)、中の「五」は「穂積皇子」とされています。
      弓削で「家澄」が出て「澄」→「すみ」→「住」で「積(ずみ)」がでます。
      
      二日違いで竹中半兵衛ー系図がでています。竹中半兵衛は三六歳没で、堀久太郎三八才
  没で、〈古事記〉の特徴は自分の述べられない推古朝の三七年を最後に付け加えており、これが三六年のはずなのに
  おかしいということです。神武天皇を一三七年としておりこの37をもってきてる、とすると100年後の太安万侶が
  神武天皇と推古天皇を原典があってそれに付け加えた、と取れるということです。
      竹中半兵衛36+1=(37)=-1+38堀久太郎
  は二人の関係も示しているともいえます。この1が系図一巻の1とするとはみ出しが重視されていそうです。
   麻生氏の
   芭蕉の〈奥の細道〉は、50の大垣で終わっています。49は聖徳太子49の没と関係ないのですが、+1で
   終わっています。50の初めに「露通(乞食)」がでて大垣の一節は一つは〈古事記〉の締めもあるかと思いますが
   みのの国が出てきて「如行が家に入集る」というのがあります。脚注では
      「近藤氏、大垣の藩士であったが病身のために致仕していた。」
   となっています。「近」は、金=きん=近 で、金森とか近松に磐金にも近づきますが、
        徳川家臣「近藤平右衛門」ここには、「堀平右衛門」〈信長公記〉
    があります。ここの「病身・致仕」が「竹中半兵衛」に該当しそうです。伏線があり
      45、全昌寺の脚注で
            「曹洞宗の寺。泉屋の菩提寺。」
     となっており、この菩提が、みのの菩提山城の
     竹中半兵衛、想起となります。関ヶ原、大垣・南宮山に竹中陣屋があります。
      図示左吉―石田佐吉ー関ヶ原・大垣ー大石田平右衛門・
   といってきましたが、図示左吉の本名は「近藤左吉」というのは曾良日記に出ています。

   近藤の「藤」は「内藤」「斎藤」の「藤」であろうというのも新しく出てきます。三宅藤麻呂もありそうです。弓削・湯
   の並び「由宇貴一」が出て、
           「明智左馬助(三宅)」=(由宇喜一)=(大村)「由己」(大村→木村・大林・森)
    とみるのでよく「由己」こそ戦国の太安万侶というのでよいのでしょう。登場場面

       「七月十八日(古事記は718の完成とも取れる)・・柴田権六・・あしがる衆・・・太田又助・木村源五・・
       ・・山田七郎五郎・・乞食村(脚注=安食村であろう。今の名古屋市北区味鋺にあたる)・・・誓願寺(脚注
        =成願寺・・・(じょうがんじ)・・・。太田叉助はここで成長し、壮年で還俗。〈尾張名所図絵〉)前にて
         答へ候へ共・・、大堀・・・武衛様の内由宇喜一・・・若年十七.八・・・織田三位殿頸を取る。・・・・・」
                                                              〈信長公記〉
    があって太田叉助は脚注にも出ているので、これが大村由己と思われます。還俗というのは太田和泉守では
    なさそうで「矢部善七郎」(光住)というのは活動名として今も変更の要はないかも。甫庵の三木城のくだり
         「中尾源太郎・・・・◆天正武記・・・」   (本能寺では「小倉松寿丸・・・・中尾源太郎」がある)
    の◆の脚注に、
         「天正軍記と伝えられる本のことであろう。」
    と書かれていますがこれを天正記と書いててくれたら大村由己がすぐ出てくるところでした。そうにはならず
   悩まされわけです。もう一つ漏れてて、〈天正記〉は別名〈秀吉事記〉というのでこうなれば(古)事記 もでてきます。
   大村由己を大村由古と書いてる人もあり、案外これが間違ってるともいえないのかも知れません。


    「如行」はよほど重要人物で別の話となりますが、「序」と
   いうのが+1で出てきた。「日本紀(日本書紀)系図一巻」というのは
                   「日本紀(日本書紀)(古事記・序)」
    の撰上があったという意味だったととれそうですが太田牛一は「弓削系図」を出してきてこれは巻数がわから
    ないものの実在は確認できるものです。「巻」を太田牛一は(水行十日(間)/陸行一閒)とみて「巻」(かん)を表
     そうとしたと取れますが、そうなると
              「日本紀(日本書紀)30巻・弓削系図付一巻」
    というのもありそうです。   
              系図=弓削=太安万侶ー〈古事記〉
    です。
              「道空御湯付(ゆづけ)上げ申候。・・・・」〈信長公記〉
     も出ています。お茶漬けのことですが「弓」が「付いています。「一巻」の問題は
              「門+巻」もしくは(門+明)=闘などは二字も含んでいる
    となると、単なる巻ではなくなり30巻①と、巻②のことやは著者の系譜を明らかにすることを頭に入れている
    ととれます。実際は
    弓削が大活躍してきまりそうでもありますので付き合わなしょうがないところです。芭蕉に
    「俳(言篇)諧三巻」があり、「脇・第三とつづけて三巻となしぬ。」(脚注=「歌仙三巻」)となっており、
    「わりなき一巻(須賀川)」もあります。「図示佐吉」の出てくるものは酒田のくだり
           「誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。」〈奥の細道〉
     があります。「図・巻」というのは引っ付いており〈古事記〉が意識にあります。芭蕉の三巻は連歌で本当に
     三巻になるのでほうが一巻は一本に巻数関係ない感じです。も     
     并 は「丼」があると思ったが似てるけど違っており「瓶」(びん)の左側の字で、結びつきは併より強いが
     切り離しも可能となるのでしょう。
     太安万侶の使ったものを使うのが学問的だと思うので、また「上巻序并せたり。」となっていて、
                  「日本紀(日本書紀30巻、序一巻)撰
    というので「上巻一巻」だけに序がついていて、持統六年、

         692年 (692=712-20))、神祇官「神宝書」4巻を献上。」
    があり 「  ・ 上巻・中巻・下巻」の4巻と取れます。(ここの「巻」というものが大きい)芭蕉では
            ⇓       ⇓
       「わりなき1巻・  歌仙3巻  」の4巻 に対応するものととれます。「序」を重視しており 「如行」が
    出ましたが「如」は
           「如水」の「如」でしょうが「如行」というと「宗寂」
    ではないかと思われます。


    (478)「ももか氏」は知っていた(寄進―小浜)
         49 種(いろ)の浜の一節
           をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪(たへ)たり
             しさや須磨にかちたる浜の
             浪の間や小貝にまじるの塵
     があり、脚注では
       「秋のけしき寂しく・・・昔から須磨の秋は寂しい・・・源氏物語・・・須磨の寂しさ・・この浜の寂しさは格別・・」
   という訳がでています。「小貝」は「貝野」=「見野」(信長公記)があり、小見の方も出てきます。
       「浜はわかなる海士(あま)の小家にて・・・」
   は小浜が出ており、宗宿の寂しさがここで表現されたのかも。源氏物語からは芭蕉の
       「蛸やはかなき夢を夏の月」
   があり「秋萩」は「秋萩」-酒壺」の高円の〈古事記〉もでるのでしょう。「纔かなる」は桶狭間の纔でもあり、「塵」
   は、「二三、塩(しほ)竈の明神」のくだり
       「かかる道の果て塵土の境(中央から離れた国境の地)まで・・・・吾国・・神前に宝燈有(あり)。かねの扉
       の面(おもて)に、文治三年、●和泉(いみの)三郎奇(寄)進と有(あり)。」〈奥の細道〉
   の「塵」があり、国境がでてきます。●は脚注では
       「藤原秀衡の第三子、泉忠衡のこと。兄泰衡の意に反し、義経の味方をしたために文治五年泰衡に殺された。」
   とあります。「泉」で「文治五年」となっていて太田の和泉となっています。ここに「宝燈」(「宝刀」かも)の寄進
   があって小浜のその時は、必ず武運長久をを祈って寄進してることが考えられます。
    
    小松で寄進が出てきました。
       「小松と云(いふ)所で
           「しほ(を)らしき名や小松吹(ふく)萩すすき」
       此所太田の神社に詣(まうづ)。真(実)が甲・錦の切(きれ)あり。往昔源氏・・・真(実)盛・・願状にそえて
       こめられ侍るよし」
      
    があり、これは脚注では「斎藤別当実盛」・・・謡曲「実盛」の「・・・斎藤別当」があります。別当はあとのことにして
     この真(実)盛は二人で、宗宿(源氏のところで出てきた)となると美濃の斎藤(内蔵助)となり、且つ塵土・塩を
    回ってここに来ています。太田の神社は脚注で
         「多田八幡。今も小松市本折町にある。」
    となっており、太・多氏
    太安万侶の氏がでています。「しほ(を)」「真(実)盛」があり画面が二つありそうです小松と小浜は似てない
    か、ここまできてネットで小浜が出てないかということで、エイと
         小浜・多田八幡神社
    で検索すると、・・ありました。初めの二つを借りますと、

         「ももかの趣味の写真日記 「福井県小浜市多田八幡神社」
    がありました。小松ではなく間違いなく小浜です。鳥居などの写真が出てい
    ますが本殿のあたりに古き宝燈があるはずです。これは和泉三郎の一節へ迂回して出てきたもので、幻の
    明智宗宿出席のもとに寄贈された、まさにそのものとなるのでしょう。信長公は「小見の方」②の子となりそう
    ですが両者の生存時期にあたっていたかも。
    宗宿の表記が「兵庫」だったので後の表記にも大きな影響が出てきます。
    もう一つ
         「多田神社(小浜市)-玄松子の記憶ー」
     がありました、「玄松子」というのは種(いろ)の浜の本文にある、     
         「天屋何某(てんやなにがし)と云(いふ)もの」
    の脚注に
         「■天屋五郎右衛門。俳号▲玄流子・敦賀の廻船問屋。」
    となってる「玄流子」です。小松の前の金沢のくだりで
          「★ある草庵招かれて
             秋涼し手毎にむけや瓜茄子」
    の、★に脚注があり
          「斎藤一泉の松庵(松幻庵)。」
     となっています。当世代ではこれと同一人物という感じです。とくに重要なのは▲が「小松多田神社」を
    検索しても出てくることで
          「多太神社ー(小松市)-▼玄流子の記憶」(多田岳=役行者の修行地のことも載ってる)
   がでてることです。小松―小浜を繋いだ以上のものが出てきます。小松の前は「加賀」のタイトルになっており、
   「庵」は一応「夕庵」想起で「夕庵」は斎藤家臣として紹介されますがこれは宗宿の斎藤との姻戚関係によって
   います。
   (松幻)が小浜にボンヤリ出現し、小浜(松)が、〈万葉〉などから遠州・三川の(浜松)が出ると同時に「松(永)」
    が
    ■を戦国の英雄へと誘うことになるのでしょう。丹羽五郎左衛門の「五郎衛門」でこの航海の雑務を取りし
   きっている人物、「兼松又四郎」の登場となるのでしょう。天屋→天谷→天国(キリスト教の世界における用法)
   を入れたと思われます。「屋」は〈信長記〉でも少なくて「菅屋」「賀須屋内膳(糟屋)」があります。
    「糟谷」は賤ケ嶽七本槍の一人にいますが「賀須」「須賀」で「加賀」がもありますが〈古事記〉の「須賀の宮」
    もあるのでしょう。索引では「糟屋」のでるところ越えがたい並(ならび)があり、

      春日河内守(織田信忠登場)/春日源八郎(二条御所)/●春日丹後(堀田道空と)/和仁王(若宮様)/
      上総介→織田信長/糟屋蔵人/賀須屋則/片岡/片岡鵜左衛門

    となってて「和仁王」は
     「のち周仁(かねひと)王。第一〇七代御陽成天皇(正親町天皇の孫)。・・陵墓は深草北陵。本文、若宮様。」
    となっており「若宮様」は本能寺で出てきました。上総介筆頭に男子の流れで「堀田道空」は武井夕庵と重なり
    そうですが、上総介に
          道家尾張守(武井夕庵)
           ∥
          安井の女房    がついていたことは既述ですが、安井の女房=堀田道空とも取れるところです。
     蜂須賀小六の母方が安井氏であり、「(鉢)須賀」がでてきます。「鉢」は小浜の玄流子の記事で「役行者
     =蜂子皇子=崇峻天皇第3皇子)も出ました。
       蜂須賀正勝(蜂須賀小六)/蜂伯耆/蜂屋般若介/蜂屋頼隆(「蜂屋」「蜂屋兵庫」「蜂屋兵庫頭(守)」)
    における武将、蜂屋兵庫などで表現されていますが、加賀小松で流子(松庵)の「玄」が流れの
    本で出てくるとすると、
        ■「玄以」〈信長公記〉(注=前田玄以(1540~1602)民部卿法印、善院。・・・)
    が出ててきます。●は正徳寺で道三ー信長が会見した時・
            「春日丹後・堀田道空さしむかひ・・・堀田道空さしより・・・道空湯付(ゆづけ)・・・」〈信長公記〉
     があり、この「道空」が索引もれで、堀田でみると
         堀田左内/堀田道空/堀田孫七/堀江/堀
     となっており、この「□道空」が「堀田道空」次くらいにはいると、かなり様相が違ってきます。「孫七」にあたる
    人物は徳川家康だと〈前著〉でいっていますがまだ状況は変わりません。信長が清洲城
     を手に入れるまでの尾張動乱における「千代夜叉丸」、上でいえば「蜂屋般若介」的な、特別大物が「□道空」
     を入れないと見失われるかもというのはあります。要は上の■は「前田玄以」とは違う、特別な人物という
     ことになりますが          
         春日丹後=道空=前田玄以
     は一つあり、若手の登場は見られたと取れます。「徳」=聖徳(時代)へ 
           「日向玄徳斎」〈信長公記〉(注:日向氏は信濃佐久郡日向邑から興った。)
    の「徳」へも、つまり三国時代へも行ってる、とくに「日向」というのが今では南九州だけに向かいがちですが、
    たとえば信濃からの日向もあると、大陸をみてるということもあります。ただ「興った」という「興」が新羅方面
    と取ってもよいというのはありそうです。

    (479)前田玄以(利家①)
    今、加賀小松に来ているので索引も見ると

      ①前田玄以(「玄以」)/前田利家/(「前田又左衛門」「前田」)/前田利信(秋田・大曲)/前田与十郎(林秀貞与力)・
      ②毛屋猪介(越前大野郡毛屋出身)/玄以→前田玄以/源五→織田長益す/源宰相中将→庭田重通

    があります。一匹狼の、おかしな表記で出てきますが
                蜂屋兵庫頭
                ∥ーーーーーーー玄以
                蜂屋般若介③
      ということもありえるのでしょう。とにかく夕庵の若いころの子だから、織田の貴公子で、美濃安八郡小松寺
     にいたようです。玄流子を小松へ持ってきた意味の大きさがでてきます。ここには越えにくい索引の流の
     代表の一つでもあるものに
        前田玄以/前田利家(利家の名前は「又四郎」「孫四郎」がある)
     があります。
      永禄12年(1569)信長公は前田当主利春(利昌もある)の跡目に利家を継がせることとし
      たといわれている事件があり、要は利久(としひさ)という後継ぎが領主として物足らぬということだったよう
     です。よくわからない話となっています。これは二つの事件が重なってて、先には玄以、あとにはあの前田
     利家(孫四郎)が前田に入ったということでしょう。要は前田は「松どの」が有名で、前田又左衛門はなぜ徳川と
    張り合えるほど
    の人物として登場してきたのかよくわからないわけです。この二人が中央からの人物ではっきり言えば玄以
    が押し付けられたということをいいたいようです。

     前田   玄以(叉左衛門)       海老名公(叉左衛門)
           ∥                ∥ーーーーーーーーーーー利長ーー――ーーーーー利常
           まつ殿① ーーーーーーー まつ殿②(安井氏?)
           村井氏(★考証名「貞勝」が代表)             

     というようなことになるのかも。本能寺で織田信忠の子が脱出して織田の後継と認められます(三法師)が、
     このときここまで持って行ったのが前田玄以です。玄流子が加賀で語られるのは普通にしても、徳善院玄以
    の「徳」が聖徳の「徳」が取りこまれていると芭蕉はいってるというのもここで出ています。民部というのも物部
     とか長谷部とかの分かり難い部ともいえそうです。物は
          物取新五〈信長公記〉(注=「斎藤新五か」)
    があり 物取新五⇒「物鳥新五」(「鳥取」は〈信長記〉では「取鳥」)となっています。
    利春は当然、前田利家の父とされてるから、「春」は前田のマ-クともなりますが、信長、斎藤道三、聖徳寺の
    会見で
      「春日丹後・堀田道空さし向かひ、はやく御出でなされ候といへども、知らぬかほにて・・・・」〈信長公記〉
    の春日丹後は●(索引の「春日丹後」)に利いてくることになると道家尾張守②(「道空/道家」に気づくから)
    になってきます。●の前に索引では
       「春日河内守」(本文では「春日丹後」は「堀田道空」とでてくる)
    が出ますが、これはやや〈古事記〉がかった表記(●の後は「和仁王」で、古代「和邇」を見ている)藤原の
     春日神社、太田和泉ー河内、大和境春日山などあります。

    
    (480)玄以の妻
     前田玄以は「前田」というのははじめからわかっていますが、「村井」も前田玄以の姻戚ということで、納まって
    いますが、そうすると村井長門守が、義理の弟ということになり、それでよいのかということになります。 
    一応そうしとくことですが、ほなら村井氏はどういう氏族かということになりますがまったくわからないので
   とまどうところでおったからしょうがない、といったところです。例えば
      「無双道家」〈甫庵信長記〉 は索引に入らないが、村井は〈信長公記〉索引では  武藤/無辺/村井
   となってて「無辺」が無理な挿入になっています。
      「無(武)□井」ーむらいー武井ー村井
    となってるから物語のための創氏ではないかとも考えられるところです。
     前田玄以はやはりこれは武井夕庵の流れで出たので(河内守ー楠木長安ー長雲ー兼松)がある一方
   、★の別表記で
       「村井春長軒」・「村井春長軒父子三人(索引漏れ)」(本能寺のときに戦死)
    があり、これが、感じでは「安井道家」と「長雲」との合成になってる、村井でいえば、講談の部類では

       「村井又兵衛(「長頼」とされる)」〈類書〉 (松どのの古くからの家臣とされてて、大坂の陣でも登場)

     が★と対応される表記で、「村井長門守」「村井民部」を説明するものですが、貞勝・長頼(菅屋)の合成と
     なって夕庵・和泉「并」(「井」に似てる)というものがでていそうです。村井貞勝は
          「玄以の妻は村井貞勝の娘」
    というのはいわれてて、娘は貞勝を包摂するから★のような関係になりますが「貞」は平手の姻戚「林秀貞」の
   「貞」でもあるかも。林は前田与十郎で出ていました。一方「勝」は玄以の名前が「孫十郎基勝」という「勝」でも
    あります、芭蕉の43「小松」で「玄以」「基」が出たとすると、44山中温泉は「其」「次」はやはり「基次]が出てい
    るととれるところで、それも、温泉(いでゆ)、「湯」もあるので政次の方の「(泉屋)又兵衛」(脚注)もありえます。
    「九谷」の後藤の碑もあるところで、「有明(海)」も出てるから、大村湾・いまり湾も想起され、古い方の九谷
    は出てくるところです。ここは「貞徳」「貞質」「貞門」が出てて貞勝は受けられています。つまり
     
      〈信長公記〉の索引で
            武藤11件/無辺1件/村井貞成(文中:村井作右衛門)/村井新四郎/村井新右衛門/村井清次/
            村井貞勝(文中5件の表記あり)/紫式部1件(「源氏物語の作者]/村瀬虎/村田因幡娘/村田吉五

       という並びがあり、ここで「紫式部」が出てくるので、緊張するわけです。直前は考証名「村井貞勝」で、
       この 文中表記5件が(「村井民部/村井民部丞/村井民部少輔/村井長門守/村井春長軒)
       です。村井貞勝を誰と見るのかによって紫式部に影響ありそうだとみると迂闊には引当できないという
      ことがあります。ただ山中の湯までたどり着いたので崇峻からの流れが紫式部に来たという関心の大きさ
      というのは出てると思われます。

    (481)戦国の武藤
       11件の中味は
        武藤五郎右衛門/武藤助/武藤舜秀「若狭小浜城将〈当代記〉」=「武藤宗(惣)右衛門」「武藤」/
        武藤義興「鶴岡市の大宝寺城(欠落)・・・・文中「出羽大宝寺」
        無辺 (本文「出羽の羽黒の僧」と申し上げ候。)
        村井貞成(村井作右衛門)/村井新四郎/村井新右衛門/・・・・・/村井貞勝/・・・・村井春長軒/
        紫式部

    となっており、無辺が邪魔をして越えがたい道ができています。
    芭蕉は小浜の武藤ー源氏物語の須磨―天屋五郎右衛門などをここ
    から取ってるともとれますが、武=ぶ=む=無 で,寛永御前試合の宮本は無三四、無辺は武篇にもなりうる
    ものです。「武篇」というのは蒲生で出されて「蒲生氏郷」の注では
        「(一五五六~九五) 天正十八年頃までは賦秀と称した。・・織田信長の娘婿。(「蒲生忠三郎」)」
    の「貝+武」の「武」は貝篇と同じ「武篇」ともいえますが、北海道、花火の鵡川の鵡は、武篇そのものということ
    で、これがでるのは
        「備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり。是は守山と云ふ所に御居城候なり。」〈信長公記〉
    があって、この織田孫三郎②が信秀の弟・太田和泉守となって、話が急激に進んで、清洲城落城のとき

        「信長の伯父・・・・清洲の城乗取り、上総介信長に渡し進ぜられ、孫三郎殿は那古野の城へ御移り。
         ▲其年の霜月廿六日、不慮の仕合出来(しゅつらい)して孫三郎殿御遷化。・・天道恐哉・・。併(しかし
         ながら)、上総介殿御果報(くわほう)の故なり。
          一、▼六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、・・・」〈信長公記〉

    があって、備後殿二人で、信長伯父は太田和泉守も(事実としても)合います。▲は脚注では
        「弘治元年。霜月は十一月。」、▼のは何と「天文二四年(補注二四)」
     になっててここで、補注をみると、
        「二四(三九頁) 守山城主の織田孫十郎信次の部下が、信長の弟秀孝を射殺した。・・・〈高野山
         悉地院過去帳〉の朱書で弘治元年(一五五五)はたしかである。」
     となっており、▲▼は1559だというのに時間・事案を懸けています。しかるに▲が▼より後なのに先に書いてる
    のがおかしい、つまり11月から改元したからこうなったということでしょうが織田孫十郎の記事を、織田孫三郎
     に」ころした。不慮のの、記事の前にもっていくと前田孫十郎基勝にも乗ってる乗ってる太田和泉守が出てきま
     譽なら引き受けることもないが不出来は引受けんなんわけで、この清洲落城のとき、一人見落としがあり
     不仕合が出来(しゅつらい)したことが隠れてたようです。一五五九・二四・三九・とかは〈書紀〉の年代の
     表記方法であって「三九頁ー二四=一五年離れた話が交錯する場合があり、秀孝①を射殺したのは洲賀
    才蔵、近づいてよくよく見ればほんまの秀孝(お市殿)にかわっていて、洲賀才蔵は霧隠才蔵・可児才蔵・
    雲霧仁左衛門のような男性で弓の名人だったといえそうです。


    (482)武藤ー武井(戦国の武王)
    索引に戻りますが
   
     武藤/無辺/村井    の流れは    武藤/武篇/無頼(来)  にもなり    武藤/無刀/武等(ら)井

   などとなりますが、戦国の中心氏族としての「武藤氏」を創ったということが一つあげられるところです。
     ●武藤五郎右衛門・武藤宗右衛門・武藤惣右衛門・武藤上野守・★武藤上野の母儀・武藤  〈信長公記〉
   があり、平手の一門で「牟藤(武藤)掃部助平任貞」が出ていました。これは天文二年(一五三三)7歳になる息子
   がいたことが言継卿に目撃されてる人物ですが、これら●の武藤の一連の人物は〈信長記〉解釈の鍵を握って
    ると思われます。しかし表記(武藤)が漠然としてて、藤原・中臣・物部・源などのように歴史的に知られたものでも
    ない、引き当てが出来ない表記となっています。つまり、再掲〈信長公記〉系図の一節
     天正八年
       「六月廿二日、羽柴筑前与力・・竹中半兵衛、播州御陣にて病死候。・・・・其名代・・・舎弟竹中久作
        播州へ遣はされ候。
         六月廿四日・・・先年惟住五郎左衛門・・周光茶碗・・かはりに鉋切(カンナキリ)の御腰物・・・作長光
        、一段の出来物、系図(ケイヅ)これある刀なり。
         七月三日、◆武藤宗右衛門伊丹御陣にて病死なり。
         七月十六日、家康公・・坂井左衛門尉・・御馬・・奥平九八郎・坂井左衛門尉両人・・御馬進上」〈信長公記〉

   の◆が武藤の本家の人と思われるのにこれが誰やらわからないわけです。半兵衛=(病死)=武藤で竹中半兵衛
   の説明をしてる、伊丹兵庫頭(惟任)を想起してるというのがあると思いますが、表記的には竹=武で、武中が
   出てきた、またこれが武藤の最後で、今までの武藤を消去した、それが病死で、一瞬衝撃を与えたということでしょう。
   惟住・惟任が出たら、●は「武井」かもというのが出てきます。
        「平手五郎右衛門」「一男五郎右衛門〈信長公記〉
   もあるので「武井」とみてよいのでしょう「夕庵」なら、「藤」は「斎藤」が出てきます。「武井」は〈信長公記〉にはなく
        「夕庵」「二位法印」〈信長公記〉(考証名=「武井爾云」)
   となっています。「夕庵」はどうしたことか始めから老人風で、芭蕉も〈奥の細道〉小松でで
        斎藤実盛(脚注=白髪を染めて奮闘した)⇒清寧天皇(白髪天皇)⇒夕庵(小松ーしほーすすき)
   を出したのもうなずけるところです。ついでに特別な大物といってるのは清寧が自然に割り込んでくるからですが
   戦国の寧々は年齢が多様で太田和泉守が乗ってることもあります。(浅野系図に「朝日」が出てるのがある)
        「武田左吉」「武田佐吉」〈信長公記〉(本文では「左吉」は「村井作右衛門」、「佐吉」は「林高兵衛」と登場)
    があり、「武藤」への架け橋は用意されています。
   、
    つまり戦国で
          武王+武井+新藤原=武藤氏
    を創ったということが考えられるところです。藤原は衣更え、新しい藤は
      「斎藤・安藤・後藤・大藤・藤堂・藤田・藤岡・藤井・伊藤・賀藤・加藤・佐藤・神藤・進藤・藤吉郎・
      藤九郎・藤孝・藤左衛門・藤宰相・藤中納言・藤八・・・近藤・藤江・尾藤・内藤
   が出てきて、前の藤原は「藤原北家・・・流」ということで引き出せる程度のものにした、斎藤利仁流も同じでしょう。
   これで「斎藤」の内儀、「内藤」が出てきて★①が宗宿かもいうのが出てきます。ここで
     弓削系図〈古事記〉が出てきて、武藤ー徳川の姻戚関係が仄めかされそのヒントの玄以①までが出てきて
   宗宿も登場しましたのでこのあたりで本稿のテーマにせまれるものかどうか。〈奥の細道〉を主体にしますが、
   これは多くの人が読んでるので、やりやすいということによります。多く脚注によって話してるというのだけが
   取り柄といえばその通りのものです。
   
   、
   (483)崇峻天皇は誰だろうー湯気にやられた(2)
        武藤/無辺/村井    
    の並び、特に「無辺」に芭蕉が着目したのは間違いないところで、こういうとりとめない大きなものが好きなようです。
    太田牛一は、無辺には、「出羽の羽黒の者」(甫庵では「出羽の羽黒山の者」)といわせています。「廻国の客僧」
    と書いています。長い文で出ており、
         「奇特(きどく)・・丑・・厩・・唐・・天竺・・三国・・術物・・弘法(ぐほう)・・奇特・・惣別奇特・・和人・・能々
          ・・丑・・御分国四方・・国主・・栄螺(サザイ)坊・・■徒(イタヅラ)者・・石場寺・・勧進・・・」〈信長公記〉
    があります。野ウいっています。■の脚注は「無頼者。」
    となっていますが、これは戦国無頼というのもありますが、無頼=村井 でもよいのでしょう。「奇特」覚えとこ
    というところですが、三国など出てくるように広大無辺の話に付き合されることになります。〈奥の細道〉の一節
       「        三四 羽黒山
       六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云ふ者を尋ねて・・・
       五日、権現(脚注=「羽黒権現、羽黒神社」)に詣。当山開闢(かいびやく)●「能除大師」(のうぢよだいし)
      は、いづれの代の人と云ふ事を知らず。延喜式(醍醐帝の勅によって藤原時平と忠平の撰した書)・・・
      ・・・・風土記・・・月山・湯殿を合て三山となす。当寺◎武江東叡にして・・・」〈奥の細道〉

     があります。●の脚注が
        「崇峻天皇第三皇子、蜂子皇子のことで、羽黒山で修験道を開いたという」。
    となっていて待望の崇峻天皇が出てきました。◎にも脚注があって、「天海僧正」が出てきます。これは黒衣
    の宰相といわれているのは知られていますが、もう一人「以心崇伝」がいて黒衣の宰相としてはこちらの方が
    有名かも知れません。家康がなくなると天海は権現、崇伝は明神で争ったようですが、方広寺の鐘銘問題も
    崇伝が関与しています。〈信長公記〉索引で
        「一色藤長」(文中=「一色式部少輔」) 注=「その子が黒衣宰相といわれた南禅寺金地院崇伝以心」
    があり、 斎藤喜平次/一色満信/一色藤長  と来ています。斎藤喜平次/斎藤五八/斎藤新五 もあります。
    これは「崇峻」を戦国で捉えようとしたものということができます。崇伝を徳川家康が起用したのは武藤の出と
    いうことかも。安国寺恵瓊も崇伝も南禅寺にいました。武藤に「舜秀(小浜城主)」がありました。明智秀満も
    春=(しゅん)=俊 が創られています。

    無辺は、信長公に誅殺されますが、武藤に並ぶ無藤(辺)という大きな表記でこれは、頓馬な役割を引き受けて
    おり太田和泉守引当でよいと思いますが、上手く立ち回って誉められた相棒に
       「栄螺(さざえ)坊」〈信長公記〉 (注=)「石馬寺(滋賀県神崎郡五個荘町)栄螺坊の坊主」
   が出てきます。これは誰かという大問題があり、本当に大問題ですが、「虫の累(かさなり」)ということで
      「藻斎梅庵由己=法橋」
   とうことになりそうです。大村由己は森可成の長男、森可隆といってきたのでそれにここで乗ると
      「武藤刑部丞」(考証名「武藤氏定」)「■森刑部丞兄弟」〈信長公記〉
    があって、■は武衛斯波氏が坂井大膳等に御殿を攻め落とされた場面に出てきて

      「十二日、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位談合を談合を究め…今社(こそ)能き折節なりと、・・・
      御殿を取り巻く。面(おもて)広間の口にて何あみと申す同朋、是は謡を能く仕候仁にて候。切て出で働く
      事、比類なし。叉はざまの森刑部丞兄弟切てまはり、余多に手を負わせ討死。頸は柴田角内二つとるなり。
      うらの口にては◆柘植(つげ)宗花と申す仁、切て出切て出比類なき働きなり。・・・」 〈信長公記〉
                                                        
    があって、(712年は〈古事記〉の年)桶狭間でも
         「是時、信長・・・螺(かひ)ふけ(脚注では「法螺貝を吹き」)、具足よこせと仰せられ・・・」〈信長公記〉
    があって「栄螺」の「螺」がでています。「栄」は狩野永徳の父「松栄」などに使われています。大村由己は
    能作者として有名で、ここの「何あみ」-世阿弥ー能と絡んでくるので、〈信長記〉には能役者など多く登場
    してきて、ちょっと知識不足で苦手の部分なので避けてしまうことになってますが、切り口がたくさんあるの
    で途切れなく話が進む一助になっているものです。大村由己に『柴田討』という作品があるから、ここの
    「柴田」もそれに関係あるのかという迷いも出てくるかも。◆も誰やらわからないが、大村由己とみとくと間違い
    ではなさそうです。「うらの口」覚えとこということです。補注によれば「狩野永徳」(1543~90)が安土城の
    仕事を始めるのは「三十四歳」の時ですが
                「永徳は家督を弟の宗秀に譲り(父松栄、五十八歳、)」
    となっています。何となく毛色の違いがあって、「宗秀」て誰ですか、と誰でも聞き返したいところで、補注だか
    らそういうのは期待するのが普通です。秀吉・秀長の例によれば秀宗(伊達秀宗の例がある)の存在が前提
   となると考えられますが、天正6年
        「廿三人撰相撲人数
        ・・・・日野長光・・・・・・・宗永・木村いこ助・周永・・・・」〈信長公記〉
    が出ており 「宗秀」=(そうしゅう)=「宗周」  とネット記事もあり
         宗永
         周永   ともなると、宗=武藤の宗 というわけではないが、永徳周辺の宗秀のチビ公二人が出てきて
   るともとれるところです。いずれ引き当てせんなんので見当つけとく方がよいともいえます。大村由己は

     「賀須屋内膳(「武則)」〈信長公記〉(注=播磨[兵庫県]別所氏の与力で加古川市の住人〈図説三木戦記〉)、
                            三木・嘉古川の「内膳」
     「平手内膳」〈信長公記〉 →  (これは武藤内膳に変わりうる)
     「大膳」〈信長公記〉 (索引漏れ) (「坂井大膳」は別にある)

   があり、「内膳」(「大膳」の内というような)と思われますが、狩野に
       「狩野叉九郎」〈信長記〉 (注=「本寺で討死。」)
   があって、またもやこれが誰やらわかりません。「狩野内膳」という、絵がを現に残ってるので、有名な人がいま
   すが、「能」が効いてきて、これがその人ではないかいいたいところです。内膳は、ウイキでは
       1570~1616 「松栄」の弟子、岩佐又兵衛の師?、荒木村重家中の出身、名は「九(久)蔵」・「重郷」
   があります。岩佐又兵衛の「叉」、九蔵の「九」は「叉九」に懸るから、まあ狩野叉九郎は狩野内膳をみてる、大村
   由己が仲介して出てきたといえます。大村由己から出てくるものは多くて本能寺の一節
     「藤八・・・岩・・・狩野叉九郎・・亀・・・鍋丸・・亀・・・針阿弥・・・・大海の一滴、九牛が一毛なれば・・・・・・。
      ①小倉松寿丸、②湯浅甚助、③中尾源太郎(三木・天正武記で出てきた)、敵に交り本能寺に懸け入り、
      、忽ちに義死をぞ遂げける。・・・」〈甫庵信長記〉
   があって、「湯」―「由宇喜一」などの索引の並びでも②③は密接な繋がりがみられますが、湯浅≒岩佐でも
        叉=甚(平手)  (「湯浅甚助(介)]は「直宗」)
   が見えてきます。①の「松寿丸」は荒木村重、黒田官兵衛幽閉事件で、黒田長政とされています。が平手に
   平手長政があり、これは、武藤の圏内にあります。
         ①小倉松寿丸=(平手)長政=後藤叉兵衛
   の登場となります。黒田官兵衛に疑いをもった織田信長は松寿丸の処罰を命じ竹中半兵衛がよきには計らって
   助けたという話は松寿丸違いともいえますが、そもそもこの話はなかったものです。
   これらも三木城、中尾源太郎大村由己を経ないと出てきにくいものとなっています。
   
    ここでは栄螺坊は
      「石馬寺」「石場寺」
   で出てきましたが、・これは聖徳太子の伝承があるところで、〈古事記〉の大村由己も出てるところです。


   (484)〈奥の細道〉 全昌寺
   前田利久は利昌でもあり、〈奥の細道〉の終盤、「山中温泉」のあと、「全昌寺」の一節が立ちはだかっていて
   ここも〈古事記〉でも締める〈奥の細道〉の通過点のところです。先ほど「三国」はじめ大きなものが出ていました。
    「奇特」もありましたがこれは〈当代記〉が大村由己の著ということを示すものの一つで豊臣秀吉の最後を
   り返し語ってるのが〈当代記〉で、びっくり仰天という意味かどうか、「奇特々々」を連発しているのも目立っていて
   これは既述のことです。
   系図の刀がでたところで
        「奥平九八郎」〈信長公記〉  (考証名ー「奥平信昌」)  
      索引は    奥平信昌/奥田三川(「松永久秀の家来」)/小倉松千代(「小倉松寿」)/「小栗吉忠」

   が出ました。この「信昌」の四男が〈当代記〉の著者とされる「三河作手藩」「伊勢亀山藩」などの藩主であった
   「松平忠明」です。全昌寺(脚注=「泉屋の菩提寺」)の一節は

      「・・曾良・・行(ゆく)・・行(ゆき)行(ゆき)・・の原・・書置・・行(ゆく)ものの、残る・・わかれ・・雲・・書付
      
           四五、全昌寺
      大聖持・・●全昌寺・・寺・・猶加賀・・終宵(よもすがら)(汐越の松に繋がる)秋風聞(きく)やうらの山・・衆
      尞(脚注=寺で修行僧を宿泊させる尞)に臥せば・・・鐘板(脚注=「雲板・・合図・・)鳴て食堂に入る
      ・・越前・・早・・下・・下・・硯・・◆階(きざはし)・・来る・・折節庭中の柳散れば
        庭掃(はい)て出ばや寺に散柳(ちるやなぎ)・・とりあへぬ・・・草鞋(わらじ)ながら書捨つ・・・」

   があり、前節「山中温泉」から「松永貞徳」「久米の父・武矩」「貞室」「又兵衛」・・など流れてきて終盤では、
   「如行」の「行」、遊行(由己もある)の砂持につながる「行」、書・書・書、は羽黒の書写、雲岩寺の書付を
   引きずってきています。大聖持は脚注では「今は大聖寺とく。」となっていて「聖徳」・「書」がでており、692
   年の持統期の神宝書4巻は川嶋皇子歿の翌年だから気になるところです。●は
   桶狭間の
       「善(禅もある?)照寺」 (「佐久間右衛門・舎弟左京助をかせられ」「善照寺佐久間居陣の取出」)
   もみています。湯浅常山は蒲生氏郷の士大将として佐久間兄弟を出していますが、弟の方を「同内膳(ないぜん)」
   としています。善照寺のところで「たんけ」(脚注=丹下)「取出」の大将の一人で
     「・・・山口ゑびの丞・柘植(つげ)玄番頭・・・」〈信長公記〉
    が出てきてこれは誰やらわからないが、蒲生,佐久間で膳が出てくれたので、大村由己に説明させてると
    とれるところで、太田牛一が大村由己の桶狭間戦臨場を述べてるとも取れるところです。まあ丹下膳と覚え
    とけば「(堀田)左内」も出てきます。この取出は甫庵では
    「丹家」(たんけ) となっています。「丹家」=丹羽家ととれ、

       庭ー(庭田中納言)ー丹羽五郎左衛門ー平手五郎左衛門(平手政秀)(「平手五郎右衛門」は政秀の子)
       ー武藤五郎右衛門ー武藤掃部助(平任貞)(子息の武井夕庵=孫介が7歳で言継卿に目撃された)

   という「掃」が「柳」(ここでは「萩」で高円山に繋がってるはずのもの)を「掃く」ことにされています。
 
      「萩・・秋風・・鐘板鳴る」は大伴家持の高円山の「銅板」「鳴」をみており、「◆は塩竈の
      「石の▲階(きざはし)▼九仞(きうじん)に重なり、朝日・・塵土・・かねの戸びらの面・・和泉の三郎奇(寄)進・・」
   の▲に来て、▼の脚注は
       「仞はひとひろ。手をのばしたほどの長さ。曲尺で五尺余。九は数の多い意。」
   となっています。一応ここで「五尺」がでてきて、雲岸寺でこれは出ました。柳と萩のすり替えの問題は、柳の
   拡大を図ったととれるところで
        柳=りゅう=龍・竜=隆=笠(りゅうと読む)=流=立(建立の「りゅう」)=粒(これは〈南蛮寺興廃紀〉
        で使われた)
    で、「龍」は全昌寺の次、  四六「汐越の松・天龍寺・永平寺」の一節の「汐松龍道・終り」に懸り、

        終宵(よもすがら)に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松  西行

    が出ました。これは 全昌寺の
        終宵(よもすがら)秋風聞(きく)やうらの山
    に逆流しますが〈柘植〉の出た所「うらの口」があり「山口」もあって「口」を「山」にかえてると取れるところ
    です。「峠」は、口+上/下となるような。この「嵐」は、日本の人なら、かなりの人が文屋の康秀
        吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ  〈古今集〉秋下・ 小倉百人一首
    を思い浮かべるもので、ここから「無辺」も出てくるのかもと思いますが、
        夕―松(小松の実盛)ー西行
   と出てきて「如行」を宗宿とすると「如水」がでてきて森可成の父とされる「可行」もいて、その延長の「西行」が
   出てきました。「信行」(勘十郎)も「行」ですが、大物で竜泉寺の城が属性で、柴田勝家②としてきました。
   柴田権六と行動を共にしてて、「御袋様并に柴田権六が異見を申すについて」、信長を見舞に行って殺されて
   しまったという話ですが、弘治四年霜月というのがない年月なので助かったのでしょう。
      「津々木蔵人」〈信長公記〉(「津々木藏」が索引漏れ)  (甫庵では「都築蔵人(頭)」)
    が「柴田権六・津々木蔵人大将として、」というほど信行に買われていて
      「(勘十郎が?)、勝(かつ)に乗て奢(ヲゴリ)、柴田権六を蔑如(べつじよ)の持扱・・・御兄弟・・」
    をしたので上総介殿へ「謀叛の由・・・申し上げられ候。」となっています。索引は
         筒井順慶(藤四郎藤政)/筒井/都築蔵人(頭)/角田三件
     が出ており「筒」は竹同ー同竹井、で、「篠木三郷」が津々木で出るので「篠」は索引で、
         しのぎ藤四郎/篠川兵庫(頭)/篠原
   が出ており、これは前田の姻戚の「篠」で「前田が」で浮き出てきます。「つづき」はラストで「綴喜」が出てきて
       「然して徳川家康公・・・・取物も取敢へず、■宇治田原越えにて退(ノカセられ候・・・」〈信長公記〉
   が出てきて■は脚注では
       京都府綴喜郡宇治田原町。ここから家康の一行は伊賀越えの危機を突破することになる。」
   となっており、泡食うて迯げに迯げましたが、この段階では明智は殺そうと思っていなかったから危機の突破も
   なかったものといえそうです。つまり、、勘十郎信行(勝)と、玄以とは異母兄弟という関係もあり、
      柴田修理亮①は、狼藉禁止の制札を立てた太田和泉守(兼松又四郎)
      柴田修理亮②・柴田勝家①は 徳川家康公 柴田勝家②は織田信行(勝)
   というものがあるある、同一表記で対立軸がある、同一表記で男女がある、同一表記で親子がある、などの
   ことを確認しないと古代もでてこないことになります。

   (485)崇峻天皇は物部守屋連
   ここで
    全昌寺で「とりあへぬ」がでて雲岩寺の終りにもこれがでます。雲岩(岸)寺は▲▼のところの、五尺もありま
   した。ここを拾ってみると、
             「    九、雲岩寺(九仞の「九」)
        当国雲岸寺・・頂和尚・・山居・・五尺・・草の庵・・・雨・・松・・書付・・杖・・道・・梺・・山・・谷道
        松・・黒・・天猶・・橋・・入(いる)・・山・・石上・・小菴・・妙禅師・・法雲法師・・石室をみる
           ●木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち)
         と、とりあへぬ一句(脚注=「とりあへず作りし一句」)を残し侍(はべ)りし。」〈奥の細道〉

   があって、「杖」は栗―西木ー基ー成願寺-乞食で西行にいくのでしょう。全昌寺の昌は真田昌幸=武藤喜
   兵衛のような広がりがここにもあり石庵もあるところです。武藤一族に「林秀貞」がおり、「通」「貞」「秀」で松永
   で、、高円の円ー松永昌三=五尺―尺五→物頂和尚のようなことになりますが●の解釈は脚注では

      『木啄に「寺つつき」の異名がある。物部守屋(もののべもりや)の怨霊(おんりょう)が木啄になって寺を
      つつき破ったからという。寺つつきといわれる啄木もさすがにこの頂和尚の庵には遠慮して、つつき
      らずにある。「夏木立」は樹木のうっそうと茂ったその場の情景をいう。』

   となっています 「啄(つつき)」が四つもあって一応「津々木」「続木」「綴喜」を回ってきましたが、これは廻って
   来ないと空気がつかめないところです。木啄は啄木の反対で、ここでは「弟桃翠」「翠桃」が出るところです。
    木立は  「八、黒羽 」につながって「羽黒」の反対が出てきます。ここは

      「・・犬・・・篠原(脚注=「篠原・・篠・・禄の頃は面影・・残っていたらしい。篠原・・」)・・正八まん・・
      修験(脚注=修験道の寺。役(えん)の行者を祖とする)光明寺・・・行者堂・・・山に足駄を拝む首途哉   」 
   があります。
      役の行者―蜂子皇子―崇峻天皇物部守屋
   となりそうです。
      「弓削系図は、ネット記事(butsu-yuge)によれば

           「 始祖 弓削朝臣牛養
             世系 弓削氏は物部守屋の後裔なり。」
    となっています。崇峻=守屋となると、慈円によれば(一部)

        用明  在位二年  元年丙午  大臣同前(蘇我馬子宿禰)
                            ★大連守屋(被「ゝ」[返り点]殺オワンヌ)
             天皇四月崩給。五月、守屋聖徳太子と合戦。蘇我馬子大臣太子両人御同心。・・・守屋・・・
             ほろぼしつ。
        崇峻  在位五年 ・・・・・此天皇は馬子大臣にころされ給ひにけり。」

  となっているので、大連守屋≠「守屋」=此天皇 という読みになるということに変わりえます。あの言語の天才、
  豊耳の聖徳皇子は、用明天皇の子というのだけが語られており
        崇峻天皇(物部守屋②)
        ∥ーーーーーーーーーーーーーー聖徳豊聡耳皇子
        橘豊日の王②[用明天皇]
  が考えられます、戦国で用命・用明が作られるので「用明」は二代が考えられます。
       欽明天皇                     橘豊日の命①
        ∥――――――――――ーーーーー兄弟|
       岐多斯比売(稲目宿禰大臣の女)      豊御気炊屋比売の命(推古天皇界隈の人物)=推古②
               
  が予想されます。欽明天皇の子息が多い(兄弟が多い)のがわかりにくさに繋がっていますが、これは近い
  兄弟といえます。もう一つ
       ●「蘇我大臣の妻は、物部守屋大連の妹である。」〈書紀〉
  があって、妻は女性だといってそうです。大連は★の人で、用明の前の敏達天皇(欽明第二子)の政権中枢の
  二人として
   、   大臣蘇我馬子宿禰
       大連物部弓削守屋連      」〈愚管抄〉
  がでています。蘇我稲目は、この夫妻?か、あの兄弟(馬子宿禰と用明①)に後見を託したといえそうです。
  つまり、推古天皇が誰だかわからないわけで、こういう話になります。
   ●の表現は前田玄以の場合に
       「妻は・・・村井貞勝の娘。」(例・ネット記事「コトバンク」から引用)
  の表現に似ています。玄以は、津田与八など両三人と、井戸才助を生害したというので、一回出てきただけで
  主体としては行動していませんが、女が出てきてる村井では述べられることになります。村井表記10件のうち
      「村井春長」〈信長公記〉  (本能寺のとき山場で登場の「村井春長軒父子三人」もある)
  があり、これは玄以と考えられます。「武藤」の中心にいる、玄以があのとき作戦持って指揮したと考えると本能
  寺の様相がまた変わってきます。


   (486) 崇の系譜
   崇峻天皇の登場は大きなインパクトを与えますが、「崇」でみるのも要るのでしょう。守屋の「怨霊」がでたので
   なんとなくぼやっとしたものが形をなしてくることもあります。こだけから行くと
         崇神天皇ーーーー崇峻天皇(守屋怨霊)ーーーーー◎崇道天皇ーーーーー崇徳上皇(怨霊で有名)
  があって、◎は元正天皇(母元明天皇・〈書紀〉完成時養老4年・720年のときの天皇)のとき

       「 知太政官事舎人親王{浄御原天皇第三子。養老4年8月1日任。}
        ・・・・
       (聖武天皇のとき)知太政官事舎人親王{天平7年・・・薨。六十。・・贈太政大臣。・・追崇盡敬天皇。・・」
                                   (返り点は臣から贈、皇から追へ行ってる)   〈愚管抄〉

  が出ています。◎は舎人親王といえますが、これを元正①としてみてきました。


   (487)元正天皇②は光明皇后
  元正天皇もう一人誰かというときに、「黒羽」
  の一節、「元」-「正」-「光明」がでて「光明皇后」がでてきます。光明寺から「役の行者」がでて「崇峻天皇」にも
   かかります。光明皇后は歴史を語れる人物として、◎と重なってもよいはずですが、ただ歿の記事がなくて
        「760年「光明子没(60)」  (聖武天皇は「756年歿(56)」となっている。)
  をもって没年とされています。いま、元正②が出てきたので、局面が大きく変わります。
        「748 天平20年 丁亥20  元正太上天皇没(69) 」〈年表〉
   が出ており、この年の翌年749、聖武天皇が孝謙天皇に譲位し、孝謙天皇は光明皇后の子とされています。
   孝謙天皇は9年で淳仁天皇(舎人親王の7男・淡路廃帝・怨霊)に譲り、淳仁は6年ほどでしたが、孝謙がまた
   上皇として出てきて「称徳天皇」となります(いまとなれば「」-「聖徳」をみている)。淳仁と孝謙上皇のときに
         弓削の道鏡(「大臣道鏡禅師」、太政大臣・法王にもなった)
   が出てきました。道鏡の名前は今でも広く知られています。聖武天皇が没する(756年)ときに(孝謙8年)
         「道祖王」
   を皇太子にしており、これが淳仁で、聖武の子だったといえそうです。これは道鏡の顔見世だろうととれますが
    その必要性は、光明皇后は
       大野果安(壬申の乱に登場)ー(子)大野東人〈奥の細道〉
   の筋の人であるといいたいところから出てると思われます。光明皇后は藤原不比等の直系の人で勢力拡大の
   ため宮中に送り込んだ切り札ととられてるからこれを覆すのは相当の無理がいりますが、無理のない筋が用意
  されているのではないか、それが「733没(?)」の
       「橘(県犬養)三千代(光明皇后の生母)」〈年表〉    (「県犬養宿禰大侶」〈書紀〉もある)
  であろうと思われます。藤原不比等と再婚しましたが、前夫が三野王(美濃王)で、これは、川島子・忍壁皇子
  ・竹田王らと帝紀および上の諸を記定した人物です。世代のことは後で見るとしても、ヒントは
    
        橘美千代                       橘三千代
         ∥ーーーー宮子(光明皇后)           ∥ーーーーーー宮子(光明子)男子
        美努(東人身内?)               藤原不比等

    ということででてきます。光明皇后
                    ∥
                    光明子 
  となると血縁もあるから三千代が微妙に違っていることも考えられます。
   ここまできてしまいましたが、〈古事記〉に関わる崇ー道がでたからやってみると

   (488)某書は
     乞食の一節
       「七月十八日、柴田権六清洲へ・・木村又助・・三王口(山王口)・・乞食村(脚注=▲安食村であろう。今の
       名古屋市北区味鋺(金篇)にあたる)・・・誓願寺前(脚注=今の名古屋市北区成願寺町にあたる。・・太田
       又助。・・還俗・・」)・歴々・・由宇喜一・・・歴・・天・・」〈信長公記〉
     虵池の一節 首巻(廿七)
      ・・正月中旬・・▼安食村福徳の郷(脚注=名古屋市司北区福徳町)・・叉左衛門・・・堤×5・・・同躰(脚注
      =「同躰」は「胴体」の宛て字)・・ 音・・・・・かへ・・・比良より大野木・・・由・・池×6
        正月下旬、彼又左衛門・・・虵がへ・・
          比良の郷・大野木村・●高田五郷(脚注=未詳)・安食村・味鏡(アヂマ)村百姓共・・・釣瓶(つるべ)・・ 
       ・・同篇・・由・・鵜左衛門・・・信長清洲へ帰り給ふ。」〈信長公記〉
    があり、
        ▲は一応宛てただけで安食村ではなく「味椀(アヂキ)」(木を宛てる)村でこれは北区での話だから
    こうなり▼も北区で、福徳郷を出したのはここに聖徳寺があるので出したと思われます。
    正月下旬の方は
    太田牛一の本拠で「春日井郡志賀郷(平手の城のあるところ)の、東方、山田郡安食村」〈武功夜話〉で
    脚注では
         「比良は、名古屋市西区山田町比良、大野木は名古屋市西区山田町大野木」
    になっています。
、     五郷というのは「味鋺村」「福徳郷」「比良の郷」「大野木村」「安食村」の5つで
                  ⇓
                「味鏡」で鏡、を出したと思われます。堤ー(前田)叉左衛門から索引

       筒井順慶(「還俗」)/筒井/津々木蔵人/伊予/堤源介/角田新五 

   に渡されており、同=銅板もあり、筒井(竹+同)がでてきて高田の意味を「高山田」-「小山田」もでるかもしれないが
   高田⇒「竹田」にしようとしたと考えられます。ここの高田五郷は全体像という感じがあり、位置をかへて引き上
   げる必要があると思われますが、まあ乞食村と入れ替えて、下でも、「乞食村(味鏡)」を作るという感じのものに
    なると思われます。「つつき」ー「つつみ」というのは、ここで繋がったといえますが首巻(廿五)、信長による
    織田勘十郎信行、★★誘殺の一節

      「家康は・・・翌年四月(脚注=永禄四年)上旬・・・信長・・・勘十郎殿・・・竜泉寺・・・・★篠木三郷・・・
      ・・津々木蔵人・・・津々木・・柴田権六・・柴田・・。御袋様并柴田権六・・・勘十郎殿・・清洲・・・
          ■弘治四年(戊午)霜月二日(脚注=「弘治三年(一五五七)・・・立証される」)
      河尻・青貝に仰付けられ、御生害なされ候。」〈信長公記〉

    ▼・●の一節、(廿七)には上旬がないので、(廿五)から上旬が来てると取れます。武井の(前田)玄以が
    出てきてて、勘十郎は■で殺されています。年代対比ではこれは永禄元年のことです〈年表〉。〈年表〉では
        弘治三年、1557 11月 織田信行歿
   となっています。「木つつき作戦」は永禄4年、川中島の武田・上杉戦での出来事で、妻女山の上杉陣に
   武田信玄が大軍で仕掛けた戦いで、ツツカレテ山を飛び出したところを、本隊で叩くという狙いでやりました。
   これが太田牛一は永禄4年ではなくて、永禄元年だと,、
          つつき(津々木)-啄木(きつつき)
    で語ったといえます
    ★もどこかわかりませんが、中旬・下旬と進むとわかるということになりそうで、郷三つ
         高田五郷・福徳の郷・比良の郷
    ということになるのでしょう。
         「玄以」は一回だけ出てきて「井戸才介」を殺しますが、罪状は、単身赴任で好き放題
    やってたということと、
          謀書致し(脚注=文書を偽造すること。)深尾和泉を支えた
    ということです。前者は
     妻女山と同じ、妻子の話をするためのダシになった、ということですが、謀→言+某書としたいのかも。謀書は
    鉋切ー「系図これある刀」の一節でてきてるので、
          「某書」は〈古事記〉
    で、深尾和泉がこれを語る謀書に手を貸したのが井戸才介、というのではない)かと思われます。
        「織田孫十郎殿(前田玄以)・・・竜泉寺・・・勘十郎殿・・・孫十郎殿・・・勘十郎殿・・犬飼(いぬかひ)内蔵
         ・・・・孫十郎・・・勘十郎殿・・信長清洲へ・・・」〈信長公記〉
    があり前田利家は犬千代で、犬飼もでています。津々木蔵人ー犬飼内蔵は親子父子とも取れそうです。
     井戸才介は筒井で出て、井戸茶碗もあります。「味椀」がでたので「道鏡」の「味鏡」がでました。
        「深尾和泉」〈信長公記〉 ( 注:和泉守。岐阜県山郡太郎丸城主〈美濃明細記〉)
    は、索引では
           武衛/深尾和泉/深尾久兵衛/深尾又次郎/深尾長介/福嶋本目助/福田/・・・
    となってて「深」は、「ふか」-「ふく」ー「福」、であり「吹(ふく)」、、吹田ー高槻ー高山 となって高山右近の
    陣したところが「深田」で、桶狭間で「武衛・・深田足入れ・・深田へ迯入る・・」がでてきます。「尾」は長尾ー
    中尾―平尾などがあります。「武衛・・・・由宇喜一」もあります。深尾和泉で大村由己が出てきてると取れる
    ところです。ここで
         「県」「犬飼(養)」ーーー「県犬犬養橘三千代」→光明皇后→大野氏ー(崇道天皇)
    ということで〈古事記〉を語るというものがあったところ深尾がでたということです。犬飼内蔵は誰かというときに
    言篇が効いてくるのかも。芭蕉の俳諧が悩みの種で誹諧ともなれば誹謗の誹になります。
     謀=某+言で、「某書」がでてこないと〈古事記〉という書が出てきません。よく出てくる「一言主」は
          「一言主=ひとことぬし=一事主」
     というのもあり、「謀書」=「某書」+「書」(書)と二つになってしかるべきものです。高田五郷で「未詳」が
     出て、未は味に懸るから、「口+羊」も「ネ+羊」も作れます。井戸才介が出たところ、
        「 回禄(くわいろく)」(脚注=「火事」)
      が出てきて、中国の「火の神」からきてるので「火事」のことをいう、というので、よくわかりますが,俸禄(祿)を
     召し上げる話もでてたので「ネ」を使った取れます。一方記録の(碌・録)は記録(某書)(書き立て)も出て
    います。「回」は何かが初めの問題としてでてきました。


    (489)誘殺の記憶(大ー津ー田
     ★★誘殺が弘治四年でありました。
     深尾和泉に加担した「井戸才介」を殺したのは「津田与八・玄以・●赤座七郎右衛門」ですが「津田」はなぜ
     出てきたかが問題となるのでしょう。●はどうかということにもなります。
          織田信行ーー子・織田信勝ーーー明智光秀の婿
     は有名で信長公が明智光秀に縁談をもち懸けた二つの内の一つです。

        「日向守三番目の息女十六歳に成候を・・・与一郎忠興②に嫁し弥々たがひに入魂(じゆつこん)いたす
         べしと上意を申し渡されければ・・・・・さて叉、惟任に信長公宣ひけるは、某甥織田七兵衛信澄、・・・
         今程は器量人に勝れ・・城主となし、・・・汝が四番目の娘十四に成るを信澄に妻あはせ・・」〈明智軍記〉

     にありました。これが飛んで、天正十年、五月廿一日
        「家康公御上洛・・・・・京都・大坂・奈良・堺・・・御見物・・・御案内者として長谷川竹相添えられ
         織田七兵衛信澄・惟任五郎左衛門両人は、大坂にて家康公の御振舞申し付け候へと仰せ付けられ
         両人大坂へ参着。」〈信長公記〉
      となっていて、本能寺事件発生のとき、織田信澄は大坂城に集まっていた味方の、召集に応じ殺されて
     しまった。頼りない奴だということになっていますが計画通り物事が進んでいるということになると、家康公
     が人質の立場に成りうる状態といえるかと思われます。索引では
           津田七兵衛→津田信澄/津田左馬丞/津田宗及/津田太郎左衛門→織田信張
     となってて津田宗及(考証名)は
           「和泉堺(堺市)の豪商で茶人。信長及び秀吉の茶頭。〈津田宗及茶湯日記〉の記録主。
            (文中表記)「天王寺屋宗及」  「宗及」 」
      となっています。●は「赤座永兼」といい織田系図にも出てくる人物ですが、注では
            「津田宗及自会記」(天正三年五月十三日条) 
      にでてくるので宗及をのべようと出して来たと取れるところです。
         津田宗及関連の索引が他にあって
            天王寺屋宗及→津田宗及/天王寺了雲(注:津田宗達の一族)(文中=「天王寺屋竜雲」)/
            転法輪三条実綱(「三条西実枝の男。・・・・)文中(「三条殿」「三条侍従」「転法輪三条中納言」
            など

      があります。「宗達」の絵に竜雲あり、転法輪というのは仏の教え(法輪)を人に伝えることをいうよう
      ですが、伝法(院)というのもありこれなら伝えるとなるのかも。法輪が人に伝わるには「法具」が要って
      法輪も法具の一つというのも考えられるところです。風神雷神図をネットでみても、風神がもっているフラ
      フープのような輪の呼び方を教えてくれていないのです。宗達と転法輪の索引の並びはこういう意味です
      といえないことになります。法輪寺は斑鳩にあり、山背大兄皇子ゆかりの寺のよう
     ですが、〈古事記〉序文には、竜・虎・風・神・雷・雲 が出てて、それが宗達の絵に反映されたかもとみれる
     ところですが、それもいいにくくなります。これがいえれば、太田和泉守はあのときの壮挙を高く評価してた
     ということにもなります。聖徳皇子ー宗達の絵ー法輪ー三条殿にまがう女性を見逃さないように解釈がをひろ
     げないけないということにもなるところです。竜・虎のうらに隠された絵がありうるかもと語れるかも
     しれないわけです。戦国の二人の三条殿は有名です。武田信玄夫人と「とら殿」(蒲生氏)がいます。また
           「竜(りよう)の子」〈信長公記〉
     があって、これは脚注では
           「竜馬と同じ。馬の美称。」
    となっています。これは辞書にもありません。「良馬」は甫庵にあります。これは「竜子」といって「松の丸殿(武田)」
    がいます。竜と虎が出てきました。二人を夕庵・牛一というならば美人画を書いて送れといったはずやという
    のが隠れた物語かもしれません。この「武田氏は(小浜の城主)として出てきます。    
    
       それはとにかく津田信澄は織田七兵衛・
     津田七兵衛の二つの表記がある重要人物ですが、持統天皇が、朱鳥686で 大津皇子を死に至らしめ、、
     遡って崇峻のあとの「文」の軌跡を明らかにしたと同様に、弘治の信行の死1558から天正10年1582の
     偉大なる記録主の誕生を語りました。飛ばして語る手法を試み日本史の語りの幅、奥行を表出したという
     ことになりました。
      井戸才介は一方で筒井でもありこれも不明な部分を出してきます。
 

    (490)高山右近の父ーー朦朧の等伯
     高田の未詳は、「言+羊」で
         「宮部善坊」(考証名=宮部継潤)(「近江東浅井虎姫町」「湯次神社」「因幡鳥取城主(本文は
                  「取鳥」) 「秀吉に信任された」)     (坊=某・牟・房がある)
    が出て来てるとも取れるところです。言との違いは説明されているので問題ないようです。
    玄以から何となく宮部善祥坊・田中吉政・小西行長が出てきますが、高山右近の父は
 
       高山飛弾守〈信長公記〉 (「重友の父」「高槻城内で会堂建築した」「松永久秀に味方」「大和沢城」
               「ダリオ」「友照」)     ネット記事028(「順慶の母は山田道安妹。順慶は陽舜坊」)
 
    となってて、これが玄以のいまでいう弟であれば決まりですが、とにかくわからないので保留してきました。
    しかし〈古事記〉が出てきたら、ほっとくわけにはいかず、既述の通り
         、本文「青木鶴」-「青木所右衛門」ー(青木又兵衛〈類書〉)ー「島田所之助」(考証名=島田秀
     となるのでしょうから  索引
       ○ 斯波義統(▲武衛様)/島田秀順(「信長奉行〈兼松文書〉・・勝幡・・島田臣の子孫」)/嶋本左衛門大夫)
       ○ ▼武衛様(兵衛督の唐官制による呼称〈下学集〉)→斯波義統/深尾和泉(「謀書」)/深尾3件/福嶋
         本目助/福田三河(川)/福田与一/福地/福富秀勝(福富平左衛門=「大和薬師寺文書」)

    があり、▲▼は形を変えて二回出てきています。唐官制というのが芭蕉で出てきて「全昌寺」の「柳散る」へ
    つながる「柳」とともに出されます。 〈奥の細道、〉一一、蘆野の一節(一〇、殺生石に続く一節)
        「叉、●清水流るるの柳は・・田・・此の郡守◆、戸部の、此柳・・今日此柳のかげ・・立(たち)より侍つれ。
             田一枚植(うゑ)て立(たち)去る柳かな」〈奥の細道〉
    となってて「植」は柘植が出ていて
        「清水又十郎・柘植宗十郎」〈信長公記〉
     があります。◆に脚注があって
        「芦野資俊は通称芦野民部といった。民部の唐名が戸部(こぶ)であるから戸部某といったのである。」
     となっています。「井戸」が出てきた必然がありました。●に脚注があって
       「西行・・西行・・西行・・」が出ており、
     これが(りゅう)ー(流)ー(立)ー(柳)を、出して、小松の一節の「竜頭」(たつがしら)にもいきます。

       ①「小松(前田孫十郎基勝)・・所…所・・吹・・萩・・・・平・・目庇(兜の鉢の前に庇のように出て
         隠すもの)・・菊・・金(こがね)・・吹・・竜頭に形打ち・・真(実)盛・・木曽・・侍(はべる)よし」〈奥の細道〉
    があり、「虵池」の一節
       ②「・・・・叉左衛門・・堤・・同躰(脚注=同躰は胴躰の宛て字)・・つら(脚注=)・つら・・・光・・・・光
         叉左衛門・・・安食村・・・かへつるべ・・・・・釣瓶(つるべ)・・同篇・・正躰・・・」〈信長公記〉

     があって、つるべが懐かしく、前田の①②の二節、、
         「朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらい水」加賀千代女
    で覚えとこ。①②は別枠の物ではないか、というかもしれないが、学問的にはそれが合ってるかもしれないが
    多くの個体の動きにやられてこうなってしまったのでしょうがないことです。。
     象潟の一節
         「・・西行法師・・・海北・・堤・・・堤・・築・・汐越・・・」〈奥の細道〉・
    があって「海北」は★と組み合わせると「海北友」が出ます。これを夕庵かもといってきましたが、玄以の
    弟もあるかも。足利将軍に、
           足利義輝〈甫庵信長記〉ー足利義照〈信長公記〉ー足利義昭〈甫庵信長記〉
    があって、義照が左右どっちの人物を指しているかよくわからないわけですが、「友照」が順昭の「友昭」にも
    なりうる元材料であるのは確実なようです。義輝も生存、順昭もそうかもというのも、この「照」が効いていそう
    です。横綱に「てるくに」という人がいて「昭国」だったかもとみてみると今は全部「照国」になってるから勘違い
    ですが、足利将軍も舎弟の問題がついてまわります。
    
         斯波(しば)ー司馬ー志摩ー島ー嶋ー柴(しば)・・・武衛ー由宇喜一
    は含みとして、
         筒井の「順」(順昭ー順慶の二代)ー「島左近―筒井重臣」ー「友照-重友」ー「所・所ー基督」
    も考慮し、
         高山飛守=島田所之助=筒井順昭 (筒井順慶の父、「元の木阿弥」で有名)
     となると思われます。木阿弥が出てくると、わかってくることがあるのでしょう。安土城に
         「京のたい阿弥かなくなり。」〈信長公記〉
     があります。脚注では
         躰阿弥永勝 その名は〈松木文書〉に見える。吉左衛門尉。宮廷関係の金工。(文中)「たい阿弥」
    となっていて、「永」「松」も松永が出て「木」は木阿弥の「木」「永」、「吉」は村井が「吉兵衛」で、「又兵衛」も
    あります。宮廷の宮は戦国では夕庵の宮内卿法印があります。「係(けい)」は「人+糸」で「系」⇔「糸」と
    みてるところがあります。高山右近の弟が本阿弥光悦ではないかといってきたわけですが、まあどうやら
     本=もと=元 、「阿弥」が出て、釣瓶の句②には光があって①には金も出て金細工の「甲」がでていると
    なると合ってたような感じもします。
    また、これは
        実盛が討死の後・・・義が願状そえて、此社にこめられ、使いは樋口の次郎で●「縁紀(起)」にみえ
        たり。(〈奥の細道〉)
     となっています。堀・樋口があるから使いの「次郎」は(山口)飛守が考えられてこれは木村又蔵、義仲は
     太田和泉守と考えられ、本阿弥光悦の作品だったというのも出てるかもしれません。由縁のわかる宝(方)
     物に小松で出くわしたというのが
       「行脚の一徳、存命の(よろこ)び、羈旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。」〈奥の細道〉
    という一文に現われたと取れるところです。●の「起」は「走」+「己」で高山飛弾守の「走入り」からきてる
    のは何となくすぐわかるところです。個体の動・意が及ぶというのがあるかも。
       高山ウコン=南坊等伯=松林図の等伯②
     というのでよいかも。

   (491)太田牛一の「系図一巻」
     「吹=福」ともなると、大和もでてきて、「悦」は「二一、壺碑」にあって
      「大野朝臣東人・・聖武皇帝・・石・・若木・・・念・・古人・・閲・・悦・・(脚注=・・気がする)・・」〈奥の細道〉
    があり 大野も出てきて〈古事記〉の「記」もでてきます。これは●があるからそうともいえそうです。「謀書」の
    「記録」のときに「記縁」のような字もでてきました。●に至るにー高山飛弾守―小松・阿弥ーとなりましたが
    「巻物」が高山飛弾守についてきて●
       「・・御家人上下・・縮羅(しじら)・巻物(まきもの)・板物(いたもの)(脚注=板をいれて巻いた織物)千端
       に余り積み積み、・・諸奉人に下さる。…頂戴候なり。十二月五日、高山飛弾守(脚注=飛騨守)去年
        (こぞ)伊丹へ走入り、不忠者たるにより青木鶴御使にて北国へつかはされ柴田に御預けなされ候なり。」

    があります。ここに「鶴」も出てきます。
    〈奥の細道〉に
         「 四八、敦賀」の一節、(芭蕉は「つるが」を使っており麻生氏は〈信長公記〉が「敦賀」なので題に
                        使ったと思われる。)
        「けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。」
    があり、脚注では
       「気比神宮。土地の古老は〔けいさん〕と呼ぶという。・・日本武尊、仲哀天皇・・武内宿祢を合祀して
       いる。武門武将の敬社で、多数の末社がある。」
    となってて「武」が出てるのと「崇」・・「けい」が出ています。「敬」は「伊能忠敬(たか)」の「たか」で「高」に通ずる
    ものです。「崇」の系譜を辿り、崇峻ー聖徳皇子ー崇道で大成されたというのが出ました。崇徳でさえ「徳」は
    聖徳の徳とみられるというのも「崇」の威力でそれをいうのがここの崇敬です。「けい」さんは〈古事記〉さん
    というものとも取れるところです。太田牛一ははじめから系図というのは縦横線の入ったあの系図とはみて
    いません。「謀」書 を使い「言」+「某」「書」としており
           「系図」の 「図」=(はかる)=「謀る」=圖(ず・と・はかる)はの中を拡大すると 
                    口
                    ⊥
                    回   となっていて回禄の「回」を含んでいるものです。
     すなわち                                          
         公 記=古事記一巻
   とみてるわけです。いままで言ってきたのは 「系図」が失われたというのがあるから 「好事(ず)」があるので
   そこから「系図」が変形しないかということでした。芭蕉に「年旧」(としふり)があるので「旧図」→「旧事」(ふるこ
   と)→「古事」となりうるが、これは古事記自体の語源の話になります。
    「経(けい)」が「経(ふ)る」と読めればよいが、麻生氏の訳は「年旧」は年を経てとなっていて近いことは近い
   といえます。太田和泉守のは「記」を二つに割り、(「謀」を二つに割った)

         系     図    一巻
        ------------
        公(こ) (こと) (一巻)       言+己=記
         古     事     己(キ)       一巻の「巻」の構成部分が=己 で
                                 「一巻」(マイナス)「己」=0 とすればよい 
                                 (「一券」-「刀」=0 でも同じ)

    としたものです。敦賀で「けい」が出て「系」は「敬」になったが
       「気比」
   を使わなければ脚注の趣旨に沿わない、つまり 比=「い」であり 一巻は
       「ひとまき」=「いとまき」(糸巻)
    と読まれました。索引〈信長公記〉で
      伊藤11件
      伊徳高安 (本文「徳」) 注=「懿徳高安。楽師(能勢朝次氏〈能楽源流考〉」 (伊能が出てる)
      井戸将元 (本文「井戸才介」) 注=「美濃(岐阜県)賀茂郡麻生城の井戸氏であろうか〈姓氏家大辞典〉。
                             才介。」   (「系図」「刀」「謀書」「深尾和泉」の所で出てきた)・
      若    信長の小人(こびと)   本文では「御小人六人、御太刀持、糸若。」となっている
  
     があり、ここで一つだけ言えば、系==糸 が出されてて似てるということでいいわけですが、糸が
     「けい」とも頭のなかでは読めると見た人もいたということで〈漢語辞典大修館〉によれば

        『「己」(こ・き・おのれ)』は
      「象形。人のひざまずく形に似た三本の横の平行線を持ち、その両端に糸を巻き中の横線を支点とする
      糸巻きの象形。・・・己を音符に含む形声文字に忌・紀・記・起・などがありこれらの漢字は{糸すじを整える}
      の意味を共有している。」

     となっています。竹状のものに直接糸をまくのもあるが、固定された二本の棒にまき渡すというのもあり
     2×2・四角筒に巻く場合あるのでしょう。要は
         己 = 糸巻   ←「一巻(ひとまき)(いとまき)」
     となります。つまり七二〇年には日本書紀と古事記が出来て、どこへ行ったか行方不明の系図などはない
     ということです。いつまで探すつもりなんや、探す積りはないはずや。系図は〈古事記〉のなかに内包されて
     います。太田和泉守はいっていた
       桶狭間の戦場は
                    天文21年  壬子 1552      〈信長公記〉 これはインチキ
                    永禄三年、  庚申1560       〈甫庵信長記〉
       とした、と。これは次の干支のことを見ていたととれます。
       ①〈記紀〉の撰上は
           和銅5年  壬子 712  「月 太安万侶が〈古事記〉を撰上[同序] 」 〈年表〉
           養老4年  庚申 720  「5月 舎人親王ら〈日本紀〉(日本書紀30巻系図一巻を撰上)」〈年表〉
        で、インチキは壬子のもので、この撰上は本文にない。月とも書いてなくて「」(5)でした。年代は
        〈甫庵〉が合ってるともいっています。重要なのは、
       ②あの八年間の難問は
            崇峻5   壬子  592     11月崇峻没・12月推古即位」〈年表〉
            推古8   庚申  600     2月 初めての遣隋使〈隋倭〉
      この干支から持ち出したことで、8年間で揉めたのは〈古事記〉=系図一巻で〈古事記〉序文が〈日本紀〉
      の序文を構成するということに(〈記紀〉の編者は)繰り下げを(も)した、といってると思われます。

          再掲、「巻物」と高山飛弾守」の
       「・・御家人上下・・縮羅(しじら)・巻物(まきもの)・板物(いたもの)(脚注=板をいれて巻いた織物)千端
       に余り積み置かせ、・・諸奉人に下さる。…頂戴候なり。十二月五日、高山飛弾守(脚注=飛騨守)去年
        (こぞ)伊丹へ走入り、不忠者たるにより青木鶴御使にて北国へつかはされ柴田に御預けなされ候なり
    
    がありました。「伊」が出て「忠」があり、麻生氏は「崇敬」を出しました。測量(はかる)=謀る=図る=地図
    として伊能忠敬を出して説明したと考えられます。柴田がなぜ出てきたか問題です。芭蕉は「全昌寺」の「柳」
    のあと
       「四六、汐越の松・天龍寺・永平寺・・吉・舟・・汐越の松・・嵐・・波・・汐越の松・・西行・・一弁・・無・・立る・
        ●丸岡天龍寺・・古・・叉金沢の北枝・・処・・所々・・物書・・余波・・道元禅師・・・」
     を出してて、●は松岡と間違っています。松岡も「松永」「兼松」に近づきますが、●は丸岡城(ヶ城)があり
     ます。ここは
 
       「柴田伊賀守」〈信長公記〉  考証名「柴田勝豊」   注:伊介。柴田勝家の養子。近江長浜城将。

     が築城したといわれており、「伊賀守」は筒井が伊賀守です。柴田に預けられたということですが、筒井を 
     台頭させた人物ですから、戦上手でもあります。柴田家中で勢力を扶植し、賎ケ嶽の合戦前に羽柴秀吉に
     帰属したことで知られています。高山右近①ということであるので、いろんな面で大きな影響がでてきます。
     高山右近を南坊等伯というのもあり、「坊」となればこちらの方になります。元の木阿弥というのも名前は
     表示されない(武井夕庵の子・高山右近の父)ということであれば、小細工しても同じことかもしれません。
     つまり武井夕庵の子は高山右近というのは合っていたことになります。斎藤内蔵助の子はお福殿といっても
     合っていますが離れすぎてることになるのでしょう。
      九谷焼の方はどうなるか、
       「石黒左近」〈信長公記〉 「石黒成親 左近蔵人成親〈中越史料綜覧稿〉〈越中★旧事記〉。越中木舟(富山県
                       西砺波郡福岡町木舟)城主。・・・」 「石黒彦二郎」「石黒与左衛門」もある
     があって、石黒左近②が出たかも。石黒は「こくこく」で「古九谷」もありえます。★は古事記ともいえそうです。
      一時、同時的に

        武井夕庵               土田御前                青山与三右衛門
         ∥ーーーーー玄以         ∥ーーーーーーー信行(勝家)   ∥ーーーーーーー勝蔵・源三 
        家康公                 家康公(柴田)             家康公

    も、ありえたので、あとから追っかけて出てくることも多くなってきます。


    (492)〈古事記〉の上中下
     全昌寺の 「寺」-「泊」で「武藤」の昌ー竹も加わって等伯が出てると思いますが、七尾の等伯/霞の等伯
    が併存したのでしょう。サインは違ってるのがありますが画風はどうか。松林図はぼやっとしてるとも見えます。
     「昌」は日が積み重なっておりこれが日本の日として、語られることになります。
  筒井順慶の洞ヶ峠は有名ですが、(つるが)の一節に
   「湯尾峠・・燧(ひうち)が城(脚注=「山上」にある)、かへるやま(脚注=(呼び名が多く「山・・山・・山・・山・・霞・・」)
  があり湯尾峠の脚注では
      「湯尾駅と今庄駅とのにある峠。柚尾峠ともかく。(ここまでくれば湯毛峠が抜けてる感じ)」
   となっていて「松の木(こ)ののもり入りたる・・白・・」に到っています。桶狭間で
      「沓懸(沓掛)の到下の松の本に・・楠の木・・・」〈信長公記〉 
           「到下」の脚注=峠。〈易林本〉 到下(タウゲ)」
    があり、日・月で日・日がでています。「本は「木」の変形で「ノ」の落書きで変わりえます。先ほど
     「上下・・鶴・・高山・・」もあって、全昌寺で 「うらの山・・下・・下・・国・・」もあって、
         峠は、「山/口(あき)」であり「口」に「上/下」が引っ付いたものです。
       (国)上/下 という峠の変形が見込まれ、「梺(ふもと」)も 〈奥の細道〉では要所に出てきます。
 
    元正天皇は諱は「日高」ですが「氷高」もあります。 つれて  「日本(ひのもと)」の説明として
    昌=日+日が利用されて、半分に割られて 上・下は上手(山の手)・下手(浜の手)で

                     日                     日上(中国)朝鮮国=(日本①)  
      全 昌 寺 →  全 ーーー 司  → 大倭(日域)=   ーーーーーーーーー =  
                     日                     日下(日本②)        
    すなわち初めの段階は

              日の本 「日上」(氷上)      
                ---海ーーー        
                    「日下」(草加)      とみていたが太田牛一の段階では
     
        上   大倭(中国)
        中   (倭王)朝鮮半島
        下   (倭・和)日本列島    というように整理をしてたと考えられます。
  
    、ここに大倭があって、朝鮮国内の強国からとは限らないが、倭王を兼ねてたと思われます。百済あたりの
     地が中国に近い(歴史的にも)ので、本部が置かれたと考えられるところです。、
 

    地名索引で   能州七尾/のうみ川/野瀬郡/野田/野田/野田・福島/能登/・・・野間/野村の郷
    があって   やす川/野洲川/屋瀬
    があり、「野」は大半が田野と化し住地となって生存を支えており、野田・田野と福島はよい組み合わせかも。
    大陸から二つの島が出ていて「複」島ー福島というのが日本にあります。朝鮮半島も福島ではありますが、地名
    として残ってるかは別として、日本では二島、「福嶋」と「福島」があるので前者が「山+鳥(取)」で上手(山)
    付で大陸的となるので、二本ー日本となって両方を「日本」と呼んでいた名残りを伝えるのによいと思ったという
    ことでしょう。〈日本紀〉が720年に出来上がり暫く経ってから日本が日本だけとなったとないかと取れそうです。
    日本に上野・(中野)・下野があり、太田牛一が「中野」を入れたともとれます。〈古事記〉も上・中・下の構成で
    私の始めの住所は大阪市福島区中一丁目55番地ですが、近くに阪神電車の野田福島駅があったと思いま
    すが大阪市福島区は「上福島」「下福島」の二つで、中福島はなかったと思います。「中」は上福島に「中一丁
    目」が作ってあって、中二階という感じで入っています。この場合は「上(中)」「下」の二つになっています。
    「下」から見れば「上」にチャンと注が入ってるという上手さがあって野田福島を作った説明になってるものです。
     この上難波・下難波ー(聖徳太子)が出てきた〈信長公記〉の一節は、三つ目の天満が森のなかの
     「野村越中」の討死で終わっています。
     人名は
       「天満が森・・一番・・二番・・中筋・・叉・・中野又兵衛・・野村越中・・毛利(森)河内・金松又四郎・・毛利河内と
       金松又四郎両人・・毛利河内、金松・・其時金松・・某(某書)は手伝・・河内・・一・・野村越中討死なり。」
                                                               〈信長公記〉
      があって、大坂の天満宮が大村由己で「己」が全体に及ぶ、ここの森=金松の関係が戦国の人の動きの核と
    なるものですが、金松の考証名
       兼松吉(文中表記「金松」「兼松又四郎」(「尾張葉栗郡村(一宮市島村)に住した」)
   がここで出たことは、聖徳太子に関わり「士磐」(新羅に渡海)と懸ってきます。中野と野村の「野」が
   「野田」を受けてて

        野①   野村越中        →               越①(会稽の所に呉越同舟の越がある)
        野②   中野又兵衛(股)   → 一兵衛          越②(高志があり北越となってるが越水[海])
        野③   叉野中         →  一(市)兵衛       越③(越前越中越後)
  
   という形にみえてきそうです。西宮は上にあって「西宮か越水」〈信長公記〉があり、「水」=み=「鳴海の海」が
   あるのでしょう。「腰越」もあります。芭蕉で「野」が那須の黒羽で集中的に出て
       「野越(のごえ)・直道・・一村・・叉野中(またのなか)・・・野飼(のがひ)・・野夫(やぶ)・・・此(この)野・・」
    が出てきます。この「野越」は「野村越中」にかかり、「中野・野中」は「叉野中行(ゆく)」となっています。
    前田は利久が利昌でした
     利昌ーー全昌寺ー大聖寺ー大徳寺ー聖徳
  、  利昌ーー松永昌三ーー仏頂和尚ーー啄木ーー崇峻天皇

    となります。
                 
 
    (493)天皇紀国記を書いた時代
    〈古事記〉は系図を内包してます。いま、崇峻ー聖徳皇子のことはいってきましたが、聖徳太子(タイシ)の
    方が残っています。これが抜けたら、何をやってきたかがわからないことになります。〈古事記〉によれば

  (1)欽明天皇             一番目 「▲橘の豊日の命」      (これは用明①と思われる)
     ∥ーーーーーーーーーーーー三番目 「▼豊御食炊飯屋比売の命」(推古のことー敏達皇后)
    岐多斯(きたし)比売
 ーー ------------------------------------

  (2)敏達天皇(14年)(物部弓削守屋大連?)
     ∥ーーーーーーーーーーーー■静貝の王、またの名は貝蛸(魚篇)の王、竹田の王、またの名は★小貝の王
    ◆庶妹豊御食炊飯屋比売の命
       ■に脚注があって「敏達紀五年、東宮聖徳に嫁すとある。」となってて、★は「いろの浜」のますほの「小貝」
       に使われている。「竹」とセットになってるから「武」が背景にある。◆が蘇我馬子宿禰と取れるところで
       そうなれば■は蘇我蝦夷と呼ばれる人物でもあることになる。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  (3)用明天皇(丁未の年587崩)     (二年だから顔見世)
    ∥ーーーーーーーーーーー「●上の宮の厩戸の豊聡耳の命〈古事記〉」
    庶妹間人の穴太部(あなほべ)の王(物部守屋②=用明②=王辰爾?)

       ▲の用命①が587崩ではなく生存とすると●は用命①と崇峻(物部守屋)の子となる
 ------------------------------------
  苦し紛れですがこうしとくと、次の
    崇峻天皇(壬子の年、592年崩)は   
        「弟、長谷部の若雀の天皇、倉椅(くらはし)(脚注=桜井市倉橋)の柴垣の宮・・」
     となっています。要は●は物部守屋①の継子となるのかも。

    まあとりあえずこうしとこといったところですが、記事の多い「王辰爾」を入れたのは
       賀藤辰〈信長公記〉 賀藤辰丸〈甫庵信長記〉
    があって前者が男性とれますが、後者の分、本文が
          犬飼・・・石黒・・越智・・同九蔵・・井上又蔵/賀藤丸/竹中彦八郎
     索引が
          犬飼孫三/井上才介(本文は「井戸才介」)/井上七郎次郎/井上又蔵
    となってて、竹中も系図の所で出ました。聖徳皇子のところで天才が生かされるのではない
    かとみたいところです。 
   
   (494)その時代
     この 壬子が太田和泉守の桶狭間の誤記の「壬子」で、天文廿一年「壬子」で壬子が全部書き方が違って
   いました。また「712 壬子五年 太安万侶 〈古事記〉撰上」もありました。
   崇峻天皇が592年で終わっていて、これが〈古事記〉の終りで、初めてこの史書を作ったのは、次の
   推古天皇で、次の史書〈日本書紀〉は700年で終り、これは推古天皇600年スタートとしたいというの内容
   になっています。 〈年表〉で
             「A、592年(壬子5年)12 敏達皇后(推古天皇)豊浦宮に即位。
              B、593年  推古1  4 厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とし、摂政とする〈書紀〉」
   の記事があり600年・601年に

    ●①600年  推古8  倭王、隋都大興(長安)使を派遣(初めての遣隋使)〈隋倭=隋書倭国伝〉
       ------------------------
      ②601年  推古9  1 聖徳太子、斑鳩宮造営〈書紀〉。
   
   がありこれでみると①②は601・602にふさわしい内容というのはわかりまます。●を〈書紀〉編者が〈隋倭〉から
   持ってきたことは、601年を推古元年にしたいというのがあるから、ということは容易に察せられるところです。
   独立というのを念頭に入れてるということですが独立ということでは、アメリカの独立戦争がうまくいった例として
   有名ですがはじめ13州で事を起こして戦はやっと勝てたという程度のもので、独立の宣言で支持を得たという
   がどうか、結局、外国の承認を得ることとセットになっています。各国の承認が大きくて批准を得て実効が出て
   きて、自国もまとめられた・・と思いますが、、この場合は中国の承認となりますが六〇〇年の先方の記録に
   もう倭王から使いが来たと書いています。だからこの倭王はいまの日本在住の王で,これは表向きは推古天皇
   で六〇〇年は推古八年目にあたります。推古天皇は誰やというと揉めるわけで、ちょっと飛ばしてAを
    ①に入れてくれば、敏達皇后の推古天皇が倭王ということができるのでしょう。が敏達皇后の面から推古を見て
    これで納得されてしまっています。さきほど
    、    敏達ー用明(2年)ー崇峻(5年)ー推古(敏達皇后)(36年)(西暦628)
    という流れに於いて、聖徳太子の父とされる在位の短い用明・蘇我馬子に殺されてしまった崇峻が間に入って
    るのは一応生きもあるというややこしい話をしました。ここで、叉年表に記載されてる項目も一部取消し、修正
   もせないかんということも出てきます。置き石を伝って多くを飛ばしていくので納得いくかどうかですが600年
   倭王の隋遣使はどうしても蘇我馬子宿禰大臣で越えとかないかんので、600年前後の〈年表〉を中心に見ていき
   たいと思います(何べんもでてくる)
   〈年表〉では

         572敏達1 蘇我馬子宿禰大臣登場
         576敏達5 額田部皇女(のちの推古天皇)の立后    585 敏達天皇没(ここまで敏達紀)
         587     崇峻天皇即位          591 敏達天皇を皇后陵に合葬
         ----------------------------
         592年   蘇我馬子、東漢直駒に天皇(崇峻)を殺させ・・・馬子、東漢直駒を殺す。(ここまで崇峻紀)
                   ここから
                   ( ◆〈書紀〉「豊御食炊屋姫天皇[推古]」の記事)
                 12 敏達皇后(■推古天皇)豊浦宮に即位〈紀〉
         593     ▲厩戸豊聡耳皇子(▼聖徳太子)を皇太子とし、摂政とする〈紀〉
         ---------(ここから国際情勢が入ってくる。)ーーー
         596     聖徳太子・・・伊予温泉・・・釈紀・・碑文
         597     4月 百済王・・王子・・朝貢・ 。11月、吉士磐金新羅派遣
         598     4月 難波吉士磐金・・・鵲二羽
         600     倭王、隋都大興(長安)・・・・遣隋使〈隋倭〉
  
         601年 推古9年 聖徳太子斑鳩宮造営〈書紀〉)。   」〈年表〉    626蘇我馬子没
                 
   があり、ここに出てる、592~600までが■の期間で592即位したということになります。これが誰かということ
   ですが、◆のスタートの部分(前の崇峻紀を振り返って述べられたという形になっています。つまり
    敏達5、の立と、■の前の人物が同じと誰でも読んでしまいます。▲▼にしても〈年表〉は親切だ、ということで
   納得してますが、太田牛一をみたあとでは
         いわゆる聖徳太子  ①聖徳皇子  皇太子
                       ②聖徳太子  摂政
    をいってる、ととれるところでしょう。■が書いてあるのは本文の◆の部分によっており、その文は
  、下の推古紀の元年までの前書きの部分(全文)です。その内容が〈年表〉に反映されてるということです。


    (495) ◆の本文のはじめ(前書の記事)

        「 トヨミケカシキ天皇は、アマクニオシハラキヒロニワ[欽明]天皇の次女である。タチバナノトヨヒ[用明]
       天皇の同母妹である。幼いときは額田部(ぬかたべ)皇女といった。容姿が端麗で、立居振舞は規範
       にかなっていた。
       一八歳、ヌナクラノフトタマシキ[敏達]天皇の皇后となった。三四(二)歳、ヌナクラノフトタマシキ天皇が
       崩じた。
       三九歳、ハツセべ[崇峻]天皇五年一一月に当り 、天皇は大臣馬子宿禰に殺された。皇位はまったく
       空[位]。
       群臣はヌナクラノフトタマシキ天皇の皇后ヌカタベ皇女[推古の幼名]に請うて、践させようとした。
       皇后は辞退した。
        百尞(官))は上表してすすめた。三[度]にして従ったので[群臣は]天皇の璽印を奉った。
       冬一二月八日、★皇后は豊浦[明日香村豊浦]の宮で天皇位に即いた。(ここまで全文)

       元年・・正月・・・仏舎利・・・・法興寺・・・・
       夏四月一〇日、▲① 厩戸豊聡耳皇子[聖徳]が皇太子に立ち、政治をすべて代行した。万機をことごとく
       委ねた。
、             (以下聖徳の経歴などの説明)・・・・」〈書紀〉(ニュートンプレス訳本)

   があってこのカタカナ表記の読み書きのわずらわしさが全体に及ぶわけですから、とにかく次に進むエネルギー
   の消耗をきたすほどのものになっています。額田部 一八歳、は上の〈年表〉の敏達5年に出てて
     本文では敏達年冬11月
           「皇后 ▼姫が薨じた。」〈書紀〉
    があるのに前書の部分と〈年表〉両方に漏れています。まあ何のことやらわからないので、ここでは物部モリヤ
     が薨じて物部守屋が出てきたとしとくことにします。つまり
        572 敏達元年     天皇欄 敏達天皇 
                    有力家臣欄 臣蘇我馬子 連物部守屋
      の同時スタートとなってるのでちょっと考えにくく、臣蘇我馬子が二年前出てきて(区切りの線が入ってる)、
      物部守屋が一年前に出てきてたとみるのがよいかも、という見方もできそうということです。(これは後ろで出た
      でた結論からあとでここへ入れた(守屋が代わっていた)
   敏達年の本文には
     、「豊御食炊屋姫〔推古天皇〕を立てて皇后とした。二男五女・・・。
      その一は「菟道貝蛸(魚篇)皇女という。(更の名は、菟道磯津貝皇女である。)これは東宮聖徳に嫁いだ。
      その二は竹田皇子という。・・・その六は田眼皇女という。これは息長足額天皇[舒明]に嫁いだ。・・」
    となっています。ストーリではこれで再婚があったというのがわかりますが、推古に庶妹が付いてたようにここ
    でも「尊」があり、手法を考慮すると、突然登場の▼が、生存もありうるとやられたら、49歳没の広額舒明の
    「広」を睨んでる表記だということになりまず。敏達5年に18歳であれば、敏達14年には27歳だから、幼名
     ヌカタベは「三四歳」「三二歳」の人とは別人というになるのでしょう.。これから変なことをいわんといかんこと
     になります。慈円は
               在位
         30代  欽明  32年 継躰嫡子(或三子)
           ・・・・                第一子(書いてない)
         31代  敏達  14年 欽明第二子
                              第三子(書いてない)
         32代  用明   2年 欽明第四子    
         33代  崇峻   5年 欽明第十五子   間人穴太売の王  崇峻は一般に第十二子とされる
         34代  推古女 26年 欽明中女{敏達天皇の妻后}母用明に同。

      としており、蘇我稲目時代に当たる欽明のあと、敏達が継いだが、抜けた人がおりこれを勘で、(ヒントは
      戦国にもある)
           第一子 蘇我馬子宿禰大臣     第三子 用明(命)天皇②
      とすると、崇峻が世代が同じとはいえない中ブラリンとなってます。推古は36年といわれているから
      10年が男とすると、「中二階」のような推古は女といえそうだともなります。まあいいたいことから持ちだしてる
      きてるから、取っ掛かりにすぎないものですが。
       これでいけば敏達が一回しか使ってないので天皇の子は天皇となっておかしくないから、崇峻は敏達
      の子といってるような感じです、崇峻=物部守屋といってきたから、敏達は(物部守屋+α)となるのでは、
      ないかととれます。ここまできて、推古がわかりにくいからで、(全文出した)長い前書が出されたと
      みてとれます。ここで重要と思うのは、幼名の推古と、後の推古は、同一ではなくて、別人です。ベタで読
      まないと歴史家の云いたい時代を動かした個人、団体の真の相貌は出てこなということになるのでしょう。
      例を言うとすぐ怒り出すからこまるのですが、肝腎の敏達がわかりにくいのです。太田和泉守は「敏」は
          「 鷲津山には織田玄番(脚注=織田秀)・飯尾近江守父子入れをかせられ候。」
      を出してきて「・」の有無によって、主家の人を大将に頂いたというのもありますが、ここの二人が父子と
      いうのも考えられることです。「秀敏」の脚注は
          「七郎。玄蕃頭。信定の子。信長の家中の不統一を斎藤道三に慨嘆している〈浅井文書〉
      があり、信定の父、清洲、出雲守家「大和守」織田定が出て、勝幡の、信定・信秀・信長と続きますが、
      この筋で、清洲城にいた、人名索引で出てる索引、
         考証名「織田達」〈信長公記〉(文中表記=「大和守」)/織田達順(織田右衛門尉)
      が誰やらわからないわけですが、平手の長男に「平手助次郎勝秀」もいて、平手清秀兄弟(野口氏政利)
      が敏定のあとここで役割を担ってたといえそうです。順があるから筒井・松永、守護代の坂井もいて武藤勢力
      清洲に絡んでいて、乞食順礼―三山順礼―大和三山―大和守、となって敏達は太田和泉守の意識に
      あったと思われます。宇喜多の大将、戸川肥後守達安(逵安)も作られてこれは「肥後守」の武井です。
     
      この「」が〈記紀〉を表すかがまだわかりませんが敏達のわかりにくさは解消されそうです。
      一応、兄妹の政権というのでちょっとややこしいと思いますが、

                  敏達(馬子宿禰妹)物部守屋大連(推古①)(崇峻0)
                  ∥王辰爾ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー崇峻①
                  (用明天皇②)                         崇峻②

                  崇峻天皇(崇峻①)(物部守屋)
                  ∥ーーーーーーーーーーーー聖徳皇子
                  用明天皇①(間人の穴太王)      崇峻②(12子)は穴穂部皇子として生きかも          

                  ■広姫推古(18歳物部守屋大連姉=蘇我馬子宿禰)          
                  ∥ーーーーーーーーーーーー聖徳太子         
           、      用明天皇②(第三子)(橘豊日王)             

    とやってみましたがでいいたいところは■で

           敏達14-用明2-崇峻5|-推古8年|ー推古28年   ( 推古36年になる)
                          592      600
   ということで、いまなっていますが
                        、この|ー推古8年
   の部分は、重祚 崇峻0の再登場、なので、前の崇峻はそのままだから空白でもよい、ここに蘇我宿禰大臣が
   入るので重祚でカバーしたと取れます。推古36年のうち推古8年を繰り上げた形になってるのは慈円の云う通り
    男女の推古があるので、男子の推古を埋めたに過ぎないことになります。表記が推古だからわかりにくいことに
    なっただけでしょう。つまり、推古8年は 崇峻天皇0
                              蘇我馬子宿禰
   と2重に捉えるとよいことになります。

   
   (496) 国の固めと方向転換
     ・ここで600年がおわり601年はどうなったかみると、先ほどの重要な転調があったところ

     600年  推古8 隋への遣使。(記紀に出てない、中国の史料のみによる)
     601年  推古9 2 聖徳太子斑鳩宮を造営。3 高句麗・・・・百済・・・・任那・・・新羅・・・。

    において   ①601以後国内がこのあと舒明天皇即位までどうなったか
             ②600年の大事業の意味影響、記紀に直接出てないのもおかしい
    の二つのことに絞って見ます。と
    
     ①の面は 601年から推古②元年となって聖徳皇子が推古②になるということでしょう。〈年表〉では全部
     「聖徳太子」となっていますので事績を分けるのは必要でもありますが、とりあえず別のこととして、、
    舒明天皇( 629年即位)が狙いとなっています。これははっきり言えば
         聖徳皇子
         ∥ーーーーーーーーーーーーーー子・田村皇子=舒明天皇(蘇我馬子の孫)
         聖徳太子
     という人物だからといえます。舒明は〈古事記〉に出てて、620年完成の〈天皇紀国記〉=〈古事記〉の原本
     というには矛盾してるというのは武田博士の脚注にも出ています。これは後世712年の太安万侶しか書け
     ない部分です。通説では推古天皇の没の8年前に、620年に〈天皇記・国記など〉の記者は筆を折ったこと
     になっています。
          聖徳皇子は622歿(49)   (〈年表〉では聖徳太子と書いてある)
    と考えられますので601年から622までは決まりとなるはずです。ところが実際は

、       「622年 ●推古30 聖徳太子、斑鳩宮に没する(49)。〈法隆寺金堂釈迦如来像光背銘〉」〈年表〉

     となっており、〈書紀〉には載ってないことが書いてあります。〈書紀〉本文では

        「二八年・・この年皇太子、嶋大臣が共議して、天皇記および国記…本記を[記]録した。
        二九年、春二月五日、夜半、ウマヤトノトヨサトミミ皇子命[聖徳太子]が斑鳩の宮で薨じた。
        ・・・慧慈(えじ)・・・★上宮豊聡耳皇子・・・・我は来年の二月五日にかならず死のう。・・・慧慈は期日
         に当って死んだ。・・恵慈もまた聖であった。・・・」〈書紀〉

     となっているだけです。どっちがどっちやわからないというのだけは確かです。ただ死亡記事、再掲
       「二九年…二九年…ウマヤトノトヨトミミ皇子命[聖徳太子]が斑鳩宮で薨じた。が斑鳩宮で薨じた。」〈書紀〉
     の[聖徳太子は]●の人とは違ってそうです。また、この二八年(620)に天皇記、国記など
      をまとめ上げた嶋大臣がでていますが、これは通常蘇我馬子とされていますが、「嶋」という表記になって
      るからこの場合、薨くなった
         二九年…ウマヤトノトヨトミミ皇子命[聖徳太子]
      を指してると取れます、蘇我馬子宿禰大臣と重ねてるととれますので「大臣」となっています。
      つまり一つ飛んで「622推古30年」に没の聖徳太子は、聖徳皇子ととれます。なお622=推古30年
     などという西暦と推古というような和暦干支の照合は
         618年=推古26年
     により確定されており、これは
        「(推古)二六年(ルビ=618)、秋八月一日、高麗が遣使して方物を貢じた。・・煬帝は三〇万・・
        [撃]破された・・・・国産品、駱駝を献上。」〈書紀〉
      の記事で決まっています。このとき〈年表〉では
        「高句麗の使者、隋の滅亡を伝え、武器・土産物・駱駝を献上〈紀〉。」
      となっており、トーンが違っています。〈書紀〉は「高麗」となってて、 [撃]が効いてきて、煬帝が戦闘で
     大敗したといっています。しかし国産品とあるので高句麗を指していると思われます。一方〈年表〉は
     隋の滅亡とかいってしまっていて見方がシビアといえます。駱駝はなんで両方に出てるのかというのも問題
     です。これは蘇我ウマコを意識しているということがいえると思われます。600年、隋へ使いを出したのは
     蘇我馬子宿禰大臣だったというのもわかります。
      622年に聖徳が49歳で歿となり、政治体制に変化が生じたはずですが〈年表〉では

                 政治社会経済(欄)          文化人物欄            世界欄

     626 推古34   蘇我蝦夷大臣となる          ▲蘇我馬子没(76)      唐 李世民の即位
     628 推古36  推古天皇田村・■山背大兄皇子遺言  ▼推古天皇没(75)     唐中国を統一
     629 舒明1   田村皇子が即位
     630    2   第一回遣唐使
,
  となってて、蘇我馬子没、蘇我蝦夷が登場した、■が出てきたということで舒明が出てくることになります。
  大変化といえば、そうですが,天皇名は舒明までそのままです。

    「トヨミケカシキヤヒメ[推古]天皇の二九年に皇太子トヨトミミ尊〔聖徳〕が薨じた。しかしまだ皇太子を
     たてなかった。三六年三月に[推古]天皇が崩じた。」〈書紀〉

   があり、聖徳タイシ薨去のとき、皇太子を立てなかったということですが舒明をたてればよかったのにそう
   しなかったということでしょうか。

     厩戸の聖徳(622没)
     ∥ーーーーーーーーーーーー山背大兄皇子・田村皇子(兄弟)
     聖徳タイシ(押坂彦人大兄皇子)(624没)
        
  となるかも。 押坂(忍坂)彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子で、母は広姫というのだから

          ①敏達天皇                            敏達天皇(崇峻)) 
          ∥ーーーーーーーーー子聖徳タイシ(押坂)         ∥ーーーーーーーー聖徳皇子
           ② 広姫(カシキヤヒメ尊)(スイコ)=蘇我ウマコ     用明天皇(豊

  となるいうのでよいのかもしれないが、①②の兄弟が血縁関係にあれば成立しないから、「押坂彦人大兄皇子」
  「忍坂子人太子」のようなものがそれを語るようなものとして入ってくるとも思われます。「」は用明の「日」
  もあるので用明を咬ませてみたということです。ここで「大兄」が出ましたので聖徳(推古)天皇はよく知られた
   ■の人のことが念頭にあったのと思われ、これは必ずいれると決めてて、推古をそのまま4年間延長して、
   626まで繋ぎ、蘇我蝦夷を3年入れて、629舒明天皇に持って行ったと思われます。

       600   隋遣使                   
       601   聖徳皇子即位  斑鳩宮造営        斑鳩宮に移ったのは605
       622   聖徳皇子没49  山背大兄代行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・推古のまま
       626              山背大兄蘇我蝦夷に譲る(唐・李世民即位)・・・・推古のまま
       628              蘇我蝦夷                         ほんまの推古没(75)
       629   舒明即位     蘇我蝦夷舒明に譲る   新時代スタート
 
   となると思いますが、▲▼ があり、これはウマコと、推古は三つ違いで、あることを示すために出された
   と取れます。つまり蘇我馬子は〈書紀〉に記述がなくが、ウマコ推古天皇75没だけが〈書紀〉にあります
   75の長寿というのはあり得るので、592崇峻没から、628まで、36年間だから、推古36年というのが
   通説となって、この間を、いま推古天皇と云う枠の中となっています。
     そうすると聖徳皇子22年間が問題で、弓削の道鏡があとでなった法王にふさわしい人と捉えることも
  できないこともないが稀代の政治家、聖徳タイシもついているので名前ぐらいは貸せるはずとも思われます。
  また山背大兄皇子の4年は崇峻②(穴穂部皇女)がカバーできるはずであり、カリスマ天皇推古時代は瓦解
  するのではないかとも取れるところです。すなわち、現在の理解・推古天皇一本の 592628 の36年に
  おいて
                                                馬子没?   (推古没)
                  |  592~600     |601~622|  ~ 626|   ~628|  舒明
  
      第一段階      | 崇峻0(弓削守屋)  |  崇峻① |崇峻②   | 蘇我蝦夷 |   舒明
      個性でたもの   | 蘇我馬子宿禰     |  聖徳夫妻|山背大兄 | 蘇我蝦夷 |   舒明
    
  と段階を踏んで「個」が出たものとなってきます。次代の舒明(629即位)は、聖徳夫妻の子、蘇我馬子の孫で、
  これも49歳没ですから、蘇我入鹿の元祖登場といってもよいほどですが、この即位のことが〈古事記〉敏達紀に
  出てるので、天皇記国記をベースにすれば後世の太安万侶 しか書けない部分なのでおかしいのですが
  それも無視して出てきて、〈古事記〉脚注では

    「舒明天皇。・・古事記編纂に天武天皇・・・父の舒明天皇をここに記していることは重要な意味がある。」

  となっています。蘇我馬子を蘇我蝦夷で繋いで推古に至っておりこの蘇我馬子は蘇我宿禰大臣のことと取れま
  すが〈年表〉では蘇我馬子は626没(舒明(629即位)となっていて、この没は間違いであろうと思われます。
        618年=推古26年〈年表〉 (本文「二六年(ルビ=618)」
   がありこれを逆用して
             ■618年蘇我馬子大臣が没
   と考えられます。
      「576 敏達五年 3月  額田部皇女(のちの推古天皇)の立后。」〈年表〉
    があり、これは18歳の蘇我馬子宿禰大臣といってきましたから626の8年前が没年ということになります。
         618-576+18=60歳(±2)
  が蘇我ウマコの没年齢といえそうです。出仕したのが572年敏達即位のとき14歳であり60-14=46年
  が活動期間であり、576-18=558 生まれ 618-558=60歳 ということになります。すると、ほんまの
  推古は、敏達皇后など云うのも出てたから、敏達天皇は、敏達14年(584)に没となってるはずだ、おかしいという
   のがすぐ出てきます。しかし、これは兄ー妹で成立しなかったかもといってきました。鍵は
      一八歳  幼名  ヌカタベ皇女
   があり、幼名=ようめい=用明  だから用明でみたらどうやというのもある、そらないというのに決まってるが
   〈古事記〉で用明天皇をみると
       「この天皇、丁未の年(脚注=五八七年)四月十五日崩りたまひき。御陵は一寸(いはれ)の掖上にあり
       しを、後に科長の中の陵(脚注=大阪府南河内郡太子町春日)に遷しまつりき。」
    があり、推古天皇をみると
       「戊子の年(脚注=六二八年)三月十五日癸丑の日崩りたまひき。御陵は大野の岡の上にありしを
        後に科長の大陵(脚注=大阪府南河内郡太子町山田)に遷しまつりき。」
    となっており 628に、用明から推古に近づけています。蘇我ウマコの姉妹に、生没年、始祖未詳
       「用明二年・・・母は堅塩媛(きたしひめ)・・」〈愚管抄〉
       「崇峻五年・・・母は小姉君娘(おあねのきみ)・・」〈同上〉
    などが出てきますが、この二人は姉妹ということでもあります。これが用明①用明②という面もあるということ
    も考えられます。要するに泣き笑いしそうな人物として顔を出してるともいえます。
       蘇我堅塩媛は用明・推古などの母、蘇我小姉君は穴穂部間人、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻)などの母
    となっており天皇と縦横の繋がりが出き上がっています。天皇名が、
        継躰25年・安閑2・宣化4・欽明32・敏達14・用明2・崇峻5・推古36と続きますが、敏達紀にも
             「石姫皇女{宣化御娘}」
     がでてきます。慈円で敏達紀の人名をあげると
      「欽明第二子・・・欽明・・・●母皇太后石姫皇女{宣化御娘}・・大臣蘇我馬子宿禰 大臣物部弓削守屋連・・
      守屋大臣・・・蘇我大臣・・・船史祖王辰爾・・・。」〈愚管抄〉
   が出てて、●の人は子供の多い欽明(蘇我稲目の時代)の皇后だから義理の子も子に入り
     敏達天皇・橘の豊日の命(脚注=用明天皇)・豊御炊屋比売の命・間人の穴太売(あなほべ)の王(脚注=
     用明天皇の皇后)・穴太部(あなほべ)の王・長谷部の若雀の命(脚注=崇峻天皇)
   などが子になります。ここでは敏達天皇だけが実子のようで、「穴太」二人の母は「小兄比売」で脚注では
        「欽明紀でも小姉君とあり、キタシヒメと同母妹。」
    となっててこういうので血縁関係を探っていくようです。
 
 
   ( 497) 雷鳴・霹靂に咆哮す、618年
   ■のこと、
  ここで蘇我大臣で船が出てきました。618=推古26年 の本文の記事は
     再掲
        「(推古)二六年(ルビ=618)、秋八月一日、高麗が遣使して方物を貢じた。・・煬帝は三〇万・・
        [撃]破された・・・・国産品、駱駝を献上。★・・・・」〈書紀〉

      の記事で、推古26年=618で決まっていることをいいました。このとき〈年表〉では

        「618 推古26年 高句麗の使者、隋の滅亡を伝え、武器・土産物・駱駝を献上〈紀〉。」

      となっています。内容が微妙に違っています。★のところの以後の記事に「船」がでてきます。

        「河辺臣(名を欠く)・・安芸・・・・・[船]舶・・材・・好い材・・伐・・・・霹靂[急激な雷鳴]の木で、伐っては
        いけませんといった。・・河辺臣は雷神であっても・・・皇命に逆らうだろうか、といい・・・幣帛を祭り、
        人夫をやって伐らせた。たちまち大雨がふり、雷電がとどろいた、河辺臣は、剣の柄に手をかけ、
           “雷神よ人夫を犯すな。わが身を傷つけるがよい”
       といい仰いで待った。十余回、霹靂したけれども、河辺臣を犯しえなかった。・・小・・魚・・化・・木・・枝・・
       とうとうそのを造成した。」〈書紀〉

      伐ってはならない木を、命と引き換えにしてもよい、といって、伐って船を完成したということで、一応ここを
      死の年とみてもよいと取れます。西暦600年に身を引を退いていてそれとも引っ掛かってるのかも。
      記事の駱駝は「馬」「馬」であり一応、「馬子」の馬が出てると見ときます。この駱駝
       推古七年、599(600年遣使の一年前)年にも百済から送られています。これは 遣使600年の一年
      前です。
   
      618年、「高麗」が「煬帝」の戦闘の大敗をいっています。一方〈年表〉は「高句麗」が
      「 隋の滅」とかいってしまっています。駱駝はなんで両方に出てるのかというのも問題
     です。これは蘇我ウマコを意識しているということがいえると思われます。600年、隋へ使いを出したのは
     蘇我馬子宿禰大臣だったというのもわかります。ここで599の駱駝が出ましたから、遣使の前に軸足を
    置いてきました。つまり★の全体を599の駱駝のところにもっていけばよい、皇命というのは後年いうところ
    の推古朝(馬・馬)をいってるととれそうです。 翌600年次の「名を欠く」が出てきます。
 
       国の方向転換の契機である、
          「598年  [隋]高句麗遠征を実施。〈年表〉」
          があり、「589 [隋]陳を滅ぼし中国を統一〈年表〉(煬帝の父・楊堅[文帝]による)」
      があり統一9年目の初遠征ですが、これを受けた行動が600年に出ました。
      600年の本文記事 (推古8年)

       「八年 春二月、新羅と任那とが攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。
       この歳、■境部臣に命じて大将軍とした。穂積臣を副将軍とした。(どちらも名を欠く
       万余のへいをひきい、任那のために新羅を撃った。このとき真っ直ぐ新羅をめざして、海路を行った。
       新羅に到[着]して、五つの城(きし)を攻めて落とした。ここに新羅王は、・・・白旗をかかげ、かかげ将軍の
       靡下にきて立った。多多羅、素奈羅、弗知鬼、委陀、南迦羅、阿羅羅[安羅]の六城を割いて[降](伏)
       を請うた。そこで将軍は共議して・・・撃つのはよくない・・・奏上した。
       天皇はさらに▲難波吉士神(みわ)を新羅に遣わし、叉▼難波吉士木蓮子を任那に遣わした。・・新羅、
       任那の二国は、遣使して調(みつぎ)を貢[]した・・
       ・・・・今から以後は攻め合うこともなく、また船(かじ)を乾かさずに、毎年必ず朝[貢]しますといった。
       そこですぐ使を遣わして将軍を召還した。将軍らが新羅からひきあげるやいなや新羅はまた任那に侵[
       (このあとに、隋への使節派遣が入るはずだが〈書紀〉では出ていない。)
       九年、春二月、皇太子は、はじめて斑鳩に宮室を建てた。・・(これは601年のことなので推古元年に
           したいところ、だらだらと続けている、年表では頁が代わってる。)」〈書紀〉

     があります。この八年の記事は〈年表〉では
        「600  8年 2 新羅、那と戦う。日本出兵し、新羅を降伏させる〈紀〉。この年
              倭王、隋都大興(長安)・・・・遣隋使〈隋倭〉」

     の二行だけに集約されており、この文の上段の部分、一般の人がみれば日本は昔からかなりの力があったと
     誤解してしまうところです。本文では天皇が出てきてるから、各国に知られた首長と取られてしまいます。倭王
     と書いてあるのは中国では統治代行としての大倭王しか認識がなかったと見れます。
     今の日本が新羅を撃てるはずがないことを前提としなければならず、新羅がなぜか日本の
     顔を立てていてこの戦は、戯戦ではなく、想像上の戦いというべきものです。[]は上手中国(当時「隋」)を
     みており
     [攻]は新羅は任那を圧迫してたというのはあるようです。当時の人の「注」は、両用に働いてると、取れる
      ところです。■が駱駝、名を欠く などから蘇我馬子宿禰、副将軍は聖徳タイシ(蘇我蝦夷としとけば間違い
      なさそう)として、新羅の地を通過して600年に隋へ使いが行ったというイメージが出てるととれるところです。
      ここでも▲▼がでました。▲は美和・三和、三輪、▼木蓮子は、ルビは(いたび)、物部伊久佛ー物部目連
     父子など出たので物部氏と見受けられます。

 
    (498)ここまでの動き
    〈年表〉では
      572 敏達元年、蘇我馬子宿禰大臣 連物部守屋初登場
      573 あの聖徳太子誕生の年        622-49=573  
      576 額田部(のちの推古)立后
      588 崇峻一年
      
      592 12月、 敏達皇后(推古天皇)豊浦宮に即位
       ---592 (蘇我馬子宿禰大臣登場)   ▲ 蘇我馬子東漢直駒に天皇を殺させ、東漢直駒を殺す。
                                   本文(「或本・・・東漢直駒は東漢直磐井の子である」)
      593 推古元年 ●厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とし、摂政とする。  ▼崇峻天皇没。
      593        四天王寺を難波の荒陵に建立   (593)
      594 二年 三宝興隆の詔を発する  (594)
      595 三年 高句麗慧慈、帰化して聖徳太子の師となる 
      596 四年 聖徳太子、恵総・葛城臣と伊予温泉に浴し碑を建立するき(〈書紀〉にはでていない) 
             (世界欄に法興寺落成、蘇我馬子の子善徳を寺司とする。慧慈・慧聡法興寺に住む。)
      597 五年 ■①吉士磐金(きしのいわかね)を新羅に派遣する (年表ではここも■②の表記になってる)
      598 六年  ■②難波吉士磐金、新羅より帰り、二羽を献上。難波の社で飼わせた。 ・枝に巣(追記)・・
      599 七年  4月 地震のため舎屋倒壊する。各地に地震神を祀らせる。〈紀〉・・駱駝(追記)・・
      600 八年 新羅、任那と戦う。日本出兵して新羅を降伏させる。(この「日本」は本文では「天皇」)
          この年倭王隋都大興(長安)に使を派遣(初めての遣隋使)〈隋倭〉

   のようになってて、---のところ592ころ蘇我ウマコ登場を入れてみました。歿が618年(推古26)(河辺
   臣ー霹靂の場面)となってここからいえば     618-592=26年間
   となります。いま▲▼など崇峻天皇をはじめ人を殺してる場面が重なり悪役になっています。親しさを表すためか
  どうかわからないが生存説というような言葉があるから実際は殺していないととるのがよいのでしょう。ここで夫人が
  代表になって子息●が皇太子になって、聖徳タイシが「摂政」となったというようにも取れます。難波に四
  天王寺(593)、三宝(594)は政府の事業とみてもよいが後(うしろ)の聖徳太子は上(上宮)の聖徳太子ということ
  かも。
   ■が渡海しており、600年節目の遣使の正使は■と見るのが妥当というのものようです。これで立ち消えに
   なるので有名にもならず、終わっています。これが大伴家持によって598のカササギが捕捉され

       「鵲(かささぎ)の渡せる橋にお(置)く霜の白きをみれば夜ぞ更けにける。」〈新古今集〉巻6冬620番)

  は有名です。「白き=新羅」でもあり、
         「かささぎ」は「ちょうせんがらす」〈漢語辞典〉  であり日本では北九州にしか
  いない鳥で橋というのは下に海を想定していますが、これは七夕の歌として知られていて天の河に橋を渡し、渡る
  というのもあります。620というのはネットにあったもので確認はしてませんが〈天皇記国記〉の出来た年です。この
   七夕で思い出すのが〈銅板墓誌〉の「和銅七年七月七日」で、太安万侶没の年月日です。芭蕉は45の全昌寺で
     「鐘板(しようばん)鳴(なつ)て食堂(じきどう)に入(いる)。」(脚注=雲板。食堂に入る合図としてたたくもの)
  をだしています。これは「堂」から「金+童(どう)」板 ということで銅板を意識してたようです。また「図」が
   出てきて、芭蕉は
       「神尾図書」「浄法寺図書(秋+「牙鳥」(しゆうあ))」「図司左吉」(俳諧一巻・・・左吉」)
   など「図」を出してきました。高山右近の「絵図]での説明が〈信長公記〉にありました。これは因幡国での出来事
   です。出雲屋の主が出た、つるが(敦賀)の一節 (つるがは、石川県「鶴来」も見てる)
      「けいの明神」があり脚注では
       「土地の古老は〔けいさん〕と呼ぶという。・・・・日本武尊、仲哀・・・神功・・応神・・豊姫命・・武内宿弥を
       合祀している。武門武将の崇敬社で多数の末社がある。(武がたくさん出てきてる)・・」
     
   が出てきて、ここには本文「遊行二世の上人」、脚注「他阿上人・・一遍上人の遊行二世の地位・・」「二世遊行
   上人」が出ており、遊行は「由己」も引きこんでいますが、「けいさん」というのは「同系さん」ととると「系」「糸」も該当し
   ます。つまり「系図一巻」というのは
      「書置」「書付」「書捨」ーーー「(乞)食」
   がでており、三関(さんかん)の一 俳諧一巻有。左吉・・・  三巻となしぬ(脚注=歌仙三巻ができた。)
   があり、「古事記一巻」の意味になりえます。人名もコロッとかわる場合があって、上の〈年表〉の
      597、■、難波吉士磐金を新羅に派遣した  
    というのは表記は「難波」は付いておらず、「吉士磐金(きしのいわかね)」となっており
      598 ■②難波吉士磐金、新羅より帰り、鵲二羽を献上。
   の■②表記が違うのです。行ったものが帰ったというのは、一人ですが、ベタでも見ないといけないもので
   二人としてのカウントになると思います。遣隋使として派遣されたのは誰かというときに 伊予の湯に行った
      、「聖徳太子」「恵総」「葛城臣」
    と■と■②の五人から宛てられると思いますが(〈年表〉ではこれしかないから)、
  これは誰かというときに、
         聖徳太子= ●厩戸豊聡耳皇子(聖徳たいし)
   と取れる所でもあります。通訳としても、これ以上の人はなく、隋の皇帝が「文帝」となってるのでこれに合わさな
   いかんと思いますが、この理由は、誰もなにもいわないはずだから、1000年間の通説となるのは仕方がないかも。
    太田牛一は     坂井甚介(「清須の織田達勝老臣」)
                 坂井文介(考証名=「坂井利貞」)
    を用意しており「甚」は、「湯浅甚介」があり、大谷吉隆の側に、剛勇の寡黙な大将、湯浅五介もいました。
    坂井は境もあるかもしれません。が、ということです。名前もそうですから物体も
   そうで、45の一節「萩」が散るというのが「柳」が散るとなってないかというのは既述ですが、これなら物体もコロッと
   とかわっています。「古事記」を「乞食」とかえるよりも〈古事記〉は系図が多いから、系図を〈古事記〉にかえる
  方が自然であり、〈年表〉は天皇の表記を、日本にかえています。このとき天皇はまだ大倭の王で本拠は
   今の日本にはなく、712〈古事記〉成立の段階でも「日本」は出ていません。索引にもなく、「大八島国」で済ませて
   あります。〈書紀〉の段階で天皇がでてきましたがテキストによれば

      「〈日本書紀〉には(もとの)本(テクスト)がある。もとの本をもっと具体的に言いあらわすと、倭国史である。
       …私の見るところ、倭国形成史は、巻一(神代上)から巻九(神功紀)にかけ分散して吸収、変形されて
       いる。もとの本を復元するのはほぼ可能である。巻一(神代上)から巻九は・・・疑似日本史である。」

   となってて巻三(神武一人、巻四(5人)に開化を最後として大日本(日本)天皇が終わっています。蘇我馬子の
   600年という時代は、「天皇」は、712年〈古事記〉で出てきた名称によっており、まあ史家の決めた枠であり、
   ここに史家の決めた人物が入っていくわけで在位36年の天皇も怪しい、2年の天皇が大きく語るというのも  
   あり、二人いれば一系はないし、思い思いにやってて神授はどっちや、天皇権神授説もおかしい、もとの著者に
   その考えがなかったといえるのです。
   
 
   (499)新羅のルート
   600年の前には新羅が出てきています。 
   難波によって難波吉士磐金が戦国に結び付きましたが元へ戻って、あのとき〈年表〉では

        588  法興寺の建立をはじめる 
        589  隋、中国を統一(隋の楊堅=煬帝の父)
        591  新羅、真平王、南山新城を造る。              
        593年 10 法興寺仏堂・・作る。
              法興寺…仏舎利を安置する。難波の荒陵に四天王寺建立   本文ルビ=荒陵(あらはか) 
        594   [新羅]王金真平、隋より上開府楽浪郡公新羅王を授かる。
        595   高句麗僧慧慈、帰化して、聖徳太子の師となる
        596年 聖徳太子・恵総・葛城臣、●伊予温泉に浴し、碑を建立。〈釈紀所引碑文〉
              法興寺竣工、蘇我馬子の子息善徳・・・寺司とする。恵慈・恵聡、法興寺に住む
        597年 吉士磐金を「新羅」に派遣。、翌年難波吉士磐金帰国カササギ二羽を献上
        598   隋、高句麗遠征を実施
        599    地震の神をを祀らせる。
        600年 ★日本(本文は天皇)出兵して新羅を降伏させる(境部臣・穂積臣・難波吉士神・難波吉士木
              蓮子)。この年、倭王、隋都大興(長安)国遣使。(遣隋使のはじめ)

   があって国際情勢を抜きとってみても、数少ない記事のなか法興寺が5つ出ています。この前の頃の新羅王は
       法興王(514~540) 真興王(540~576) 真平王(579~632) 次が善徳女王
  となっており、この(法・興)が、「寺」に反映して新羅への傾斜を表してると取れるところです。隋が中国を統一して
  新羅をバックアップして今の日本に働きかけた、というのがありえます。日本の地勢が、高句麗の朝鮮全土の統御
  に貢献していて、南北間で事が起こった時を想定しても、真空地帯を通過した高句麗の軍隊が突如南から攻撃
  してくることになります。列島の北岸に倉が張り付けてあり、一大率以来の司令官の駐留も考えられるところです。
  朝鮮全土の7か国ほどの国にとって目障りでしょうがないということになります。★の降伏が偽りの降伏で、任那
  と新羅の戦いで任那を応援したことになっています。★に出てきた
  大将軍は「境部臣・穂積臣」(どちらも名を欠く)、派遣されたのは難波吉士神(きしみわ)・難波吉士木蓮
   子(いたび)]です。これは599年の記事の中に入っていて、〈年表〉では、地震に隠れて出てきていません。
   ★の降伏は 
        「将軍らが新羅からひきあげるやいなや新羅はまた任那に侵[攻]した。」〈書紀〉
   というようなものです。
  600年遣使は新羅の助言によって出されたととれるところです。つまり「大興」の「」まで「興」
  で一本筋が通ってるからということになります。法も聖徳皇子の法王も気になるところです。


   (500)野越え
   芭蕉の「野」は「七、那須野」の一節
     「是より野越(のごえ)にかかりて、直道(すぐみち)を行かんとす,遥かに一村を見かけて行くに・・・農夫の
     家に一夜をかりて、明(あく)れば叉野中(またのなか)を行(ゆく)。そこに野飼(のがひ)の馬あり。」〈奥の細道〉
  があり脚注では
     「野越」は野を横切っていくこと。「かかりて」は取りかかる意。
   となっており、これは野村越中の「野越」=野中(野)を行く、を表し野②を越えていくという意になり「直道」は 
     「遠回りをしないでまっすぐに行く道。近道をまっすぐに行くこと。」
   となっています。新羅の名がでてるから、この強国を迂回しないでまっすぐということでしょう。まっすぐが二つも
   出てるので「真興王」・「金真平」(王)の「真」を出したのでしょう、。真平王、真っ平御免なすってと蘇我馬子
   宿禰が挨拶文をを持たせたのかも。このー近道ーの「近」が重要で金真平・金松・金森長近・近松・近藤などの
   「近」に通じます。このあと663に百済、668に高句麗が滅び太安万侶が〈古事記〉をまとめたころは新羅の時代
  となっています。この●は、〈奥の細道〉四四、山中温泉のくだり

       「▲温泉(いでゆ)に浴す。其功(そのこう)(効)▼有明に次(つぐ)と云(いふ)。
               山中や菊はたおらぬ湯の匂い     
        あるじとする物は久米之助とて、いまだ小童なり。
        ・・父・・洛・・貞室・・・むかし・・洛・・貞徳・・一村・・むかし語(がたり)とはなりぬ。
        曾良・・伊勢・・長嶋・・先立て行(ゆく)・・
               行(ゆき)行(ゆき)てたふれ伏(ふす)とも萩の原  曾良
        と書置きたり。行(ゆく)ものの悲しみ、残るもののうらみ、
        ・・雙鳧(せきふ)のわかれ・・・雲にまよふ・・予・・叉、
               今日よりや書付消さん笠の露(つゆ)
                    四五、っ全昌寺(へ続く)・・・」
 
  がある、▲で受けられています。つまり意味が額面通りではないわけです。この「山中・・・」の句も脚注では
      「・・という意味をかけている。」
  となっています。▲の「功」は功績の意味でしょう。温泉に浴した、とは合わない感じです。▼は脚注に
    「有馬温泉の誤り。」
   となっていて温泉の「効き」だけのことをいっていますが「功」はなにかをいいたいところです。その場合の「有明」
   の意味が出てこないと何がなにやらわかりません。はじめに    
   山中温泉の「功」の部分、 「温泉(いでゆ)」から、「出泉(ゆ)」となり、和泉が出てきますが
      「あるじとする物」、
      「久米之助(くめのすけ)」(脚注=山中の温泉宿、泉屋又兵衛。姓は長谷部氏。幼名久米之助。・・・)
   が主役で「又兵衛」で後藤・中野がでます。「其」「次」もあり、出泉=出海、ともなると後藤又兵衛②もありますが
   「久米ー之助」(くめ ゆきすけ)もありえます。久(く・こ)米=来目で、来目皇子ともう一人もでてそうです。

     有明ー(ほんまは)有馬ー大村湾ー佐賀ー後藤政(基)次ー郷(江)戸(ど)川ー――又蔵
                     (木村) (賀加)   二(次)郎)ー朽(口)木山中ー湯の山中=山中太郎(大郎)
   などのことにも利用されてそうですが、それは別として
    〈年表〉の法興寺がでたところ人物は
         聖徳太子、恵総・葛城臣・(年表の別欄ー蘇我馬子の子の善徳・慧慈・恵聡)
         5年吉士磐金・6年難波吉士磐金 (年表にはないー吉士磐金神、難波吉士木蓮子、境部臣。穂積臣)
    があり〈年表〉で隠れていたものが(    )内のものです。
      600年 隋への遣使〈中国文献〉〈年表〉
   がここまでを締切り、ここで転調があり国内画面に移りますが外交・軍事色の残るものを出したものがつぎのも
     のです。


    (501)日本の皇子や、小野妹子の行動がおかしい。
      以下〈年表〉による 山中で「久米」がでましたが倒れ伏すとも行くというようなものが出ていました。

      601 推古9  2 聖徳太子、斑鳩宮を造営〈紀〉。(605年参照)
               (〈書紀〉本文は「春二月、皇太子ははじめて斑鳩(いかるが)に宮室を建てた。」となってる)
      601 辛酉 11月新羅征討計画を立てる(任那復興のため)
      602 来目皇子(〈年表〉=聖徳太子弟)を撃新羅将軍に任じ国造、伴造らの2万5000を動員〈紀〉
          6月皇子筑紫で病み征討中止。〈紀〉
      603 2月、来目皇子、筑紫で歿する
      603 「当麻皇子」(〈年表〉=聖徳太子の庶兄) 征新羅将軍に任ずる。7、当麻皇子、妻の死亡を
          理由に帰京し新羅征討を中止する〈紀〉。(没の記事はなし)
      605 推古13  聖徳太子、斑鳩宮に移る〈紀〉。
   があり、
     ●607年 15年  7月小野妹子らを隋に派遣する。(本文は「大唐」)
   ●①608年 4月 小野妹子 隋使裴世清らを伴い帰国する〈紀〉
      608年 9月 妹子ら再び裴世清を送り再び隋に行く(本文は「唐」)、◆高向玄理・旻・南淵請安ら8人
     留学のため同行。〈紀〉
      609年 9月 遣隋使、小野妹子ら帰国する。〈紀〉
   となって
      614 6月 犬上御田鍬・矢田部造をに派遣する〈紀〉。
      615 9月 犬上御田鍬ら帰国〈紀〉 (犬上らも前にあった(名を欠く)となっている)

      618 推古26 高句麗の使者、隋の滅亡を伝え・・・駱駝を献上〈紀〉( ★蘇我馬子宿禰没年ではないか)

   となってて、よくわからない話が残ってきています。遣隋使は〈年表〉ではここで終わっており、
      合計600・608・615の3回ですが、3回~6回迄それぞれ全部、説があって決まっていません。7年
   に一回と決められた行動をしており、3回でよいのでしょう。●と●①は
       600年に渡海した小野妹子の行動にせり上げる
   べきではないかというのがいいたいところのことです。、表現の工夫で隋の応答使を迎えに行ったという動作を
   同時にやってるのは、
       ①聖徳皇子、恵総、蘇我ウマコの帰国を表してるととれるところです。裴世清も一人とは限りません。
       ②裴世清などの高官は7・8年も滞在することはなく皇帝に安着の報告がまず必要で、最低の滞在2年
        ぐらいしたと考えられます。

    来目皇子は、推古5年に渡海した吉士磐金で、、602年に裴世清を送っていく役目があったが、病没ということで、
    当麻皇子は、推古6年に渡海した難波吉士磐金で これが代わって送って行った ★★
  ことが考えられます。〈年表〉は600年以前には「磐金」統一表記で記入され、〈書紀〉はそれを分解できるが
  600年以降も「盤金」・・・の表記は続いてる、〈年表〉は磐金表記は600年以降消えています。

    ともに597に渡海経験のある提督で、裴世清の帰国を円滑ならしめたととれるところです。◆が出されたのは
    留学生は長期間という比較もあると思います。高向・南淵は608出国、帰国640、僧旻は632帰国となって
     います。当時の平均寿命からいえば32年間(二世代)の滞在は、長すぎる感じで各々が生没年未詳となってる
    いるかに見受けられます。8年ごとに遣使をだすのは、8年ごとにはいつでも帰れるということは保障していた
    感じですが、623年、唐との国交がまだ開始されておらず(李世民の即位は623年、この年蘇我馬子76没)
       「623、留学生恵日ら帰国し唐との国交回始の建言〈紀〉」〈年表〉
   の段階で、大きな動きはなかったはずですがこの年に、また

       「623、新羅に貢献問題で使者を派遣する。一方で■蘇我馬子征新羅軍を派遣する〈紀〉」〈年表〉

   があり、「一方で」というのは〈年表〉にある文言で、ちょっとぐずぐずしてる感じです。
   ここは來目皇子・当麻皇子の新羅征伐を出してきてると取る以外ないところです。(磐金の表記は〈年表〉は
    止めにしてるから)。つまり、大津皇子やら、津田宗及で年代が遡る、繰り下がるなどやってきてるから
   ここでもそれがあるかとみると、推古固有の8年前詰め(692~600の8年、推古終りが628・636の二通りある
   8年)で、600年以降ある項目の8年繰り上げもあるかも。★★の繰り上げというような。
   ピントはずれの■の文の意味はなにかということになりますが主が代わっても、窓口はそのままやということ
   です。隋の文帝の画策は、唐の太祖、李世民に引き継がれて蘇我うまこは同じことを繰り返したということです。
    竹中半兵衛が羽柴秀吉に「遠交近攻策」を
   説いたことは知られていますが、これは中国、孫子の36計の23計に当たり、33が反間の計、34が苦肉策の
   ようです。
   この計が日本の歴史で 語られるにふさわしい局面はやはり国の浮沈のとき、隋の初代高祖の、このころの
   念頭にあったことと関係がありそうです。高句麗を攻めようと決めたとき、その向こうにある今の日本と親交を
   結ぶ、新羅というもう一方の勢力による接近という予想外の手を打ってきた、熱意とおどかしのまぜこぜですが
   日本としては日常の付き合いほぼ100%現行政権なので、新羅を征討する意思を同時に表明していました。
    600年までに新羅へ行った人とは別の表記で(使者に名がない)601年以後、蘇我うまこが
   新羅征伐をうちだしたということです。
   これらは将来日本書紀が読まれることを前提としたものでしょうが、隋・唐、新羅(高句麗)の史家、官僚
   がこれを見ても問題にしなかった、高麗・百済側に挨拶してるのだろうと意にも解しないことを知っていたという
   ことで書いといた方が得ということを知ってたといえそうです。平手の「屈睦」につながる大人の政権の動きをし
   ていたともいえます。ここで★が問題でこの■がコロッと変わって新しく
   出てきたということになるが合ってるかということもでてきます。

     第一回遣使は630犬上御田鍬・薬師恵日ら派遣していますが〈年表〉、632に唐使高表仁を伴って帰国
    しました。
    唐が送ってきたということですが 633に唐使高表仁は帰国しています。送ったのは対馬までです。要は
    高官は、二年くらいいるようです。この遣唐使の犬上御田鍬は別人で本文では犬上君三田耜となっています。
    つまり〈年表〉では難波吉士磐金が行って、戻ってきたのが同じ表記になっていて、本文は違っていました。これは
    はベタで二人と読んで書きだせということです。ここの犬上御田鍬もそれぞれ引き当てが要るということです。

      ★の八年後   「626 推古34  蘇我馬子没(76)〈紀〉」〈年表〉 (本文は「大臣が薨じた。・・・」)
                「628  推古36  推古天皇没(75)〈紀〉」〈年表〉
      がありこの二人は三つ違いで、馬子が上です(蘇我馬子が628まで生存であれば78になる。)
      馬子没2年後に推古が没というのが通説ですが筆者の云うのは、ウマコ没8年後、推古没という
      ことです。ウマコは67没だから8年後は67+8=75で推古没ということでしょう。
       蘇我ウマコは三年はやく生まれて、推古天皇は8年間、ウマコより長生きして、要は寿命が5年長かった
      ということです。この5年が関係するのが蘇我蝦夷であろうと考えられます。信長が軽々ともっと早く出てき
      というのと同じです。出自のわからない小野妹子を8年繰り上げたわけで、出自(系図)のわからない蘇我
      蝦夷も大臣蘇我馬子にいま三年+五年食い込む(繰り上げ)がみえてきてる、という共通はヒントになってる
      かも。というのがあります。      
                 
   
     (502)いま人物の引当は自信がないが

    ここで600年以前の人名の引き当ては、

            〈年表〉党
      596 聖徳太子・恵総・葛城臣 伊予温泉      聖徳皇子・聖徳太子・蘇我馬子宿禰 (伊予がどこか)
      597 吉士磐金 新羅                  来目皇子
      597 難波吉士磐金 新羅               当麻皇子
      599 (吉士磐金神・新羅)               小野妹子・(恵総)
      599 (難波吉士木蓮子・任那)            犬上御田鍬(614年の遣隋使)
      600 隋に遣使                      小野妹子(聖徳太子)

  となると取れます。繰り上げてきた小野妹子はまだよくわかりません。599に行ってないと、600には勤まらない
  と思うので〈年表〉で隠れた人物を宛ててみたということです。これは通説通り男性の小野妹子でしょう。
  600年、1回目となるとすると遣隋使は3回となるのではないかと思われます。
  諸説紛々頼りないの代表の遣隋使のことまでに行いってしまったのは先の山中の後半部分の句の
   脚注がわからないのでこうなりました。すなわち、再掲、

       「温泉(いでゆ)に浴す。其功(そのこう)(効)有明に次(つぐ)と云(いふ)。
               山中や菊はたおらぬ湯の匂い      あるじとする物は久米之助とて、いまだ小童なり。
        ・・父・・洛・・貞室・・・むかし・・洛・・貞徳・・一村・・むかし語(がたり)とはなりぬ。
        曾良・・伊勢・・長嶋・・先立て行(ゆく)・・
               ▲行(ゆき)行(ゆき)てたふれ伏(ふす)とも萩の原  曾良
        ・・ と書置きたり。行(ゆく)ものの悲しみ、残るもののうらみ、雙鳧(せきふ)のわかれ・・・雲にまよふ
        ・・予・・叉、
               ▼今日よりや書付消さん笠の露(つゆ)
                    四五、全昌寺(へ続く)・・・」〈奥の頬道〉

   において、▲▼の この二つの句の解釈ですが、久米、全昌寺などによって、▲の脚注は

    「師とお別れして、一人で旅をつづけるのだが病身のことではもあるし歩き歩いた末に野たれ死にをするかもしれ
    ない。しかし倒れ伏しても、おりから咲いている萩の野に死んで行くのなら本望だという意。」

  となっていて、ちょっと強すぎる覚悟が表明されています。、病身、野たれ死に、倒れ伏す、萩の野に死ぬ、などと
   いうのは、来目皇子、当麻皇子が、遠征を中止した理由になっていて、、異郷(萩の野)でのこと
   も念頭にある、「行(ゆく)ものの悲しみ、残るもののうらみ」というのは渡海のような行事のときに起こりえます。
   脚注の表現がつよいのでなぜかな、いうことです。また▼脚注は

     「巡礼者は、笠に“乾坤無住、同行二人”とかきつける。今日からは一人ぼっちの旅になるのだから、同行二人
     という文字を折から笠に置いた露で消してしまおう。さてさて会者定離は人生の常で、笠の上に置く露のようにはか
     かないものである、という意。」

   となっています。脚注では、「鳧」は「けり」と読む異字があるようで表現出来ません。「蒙求」に
      「雙鳧ともに北に飛び、一鳧独り南に翔(かけ)」
    という矛盾した感じのものが出てる詩があるようです。心が身から離れて別の所に飛ぶのかも。
   蒙求は小瀬甫庵に著述があり、太田又助は蒙求について
   西笑に質問しています。このころ明国からの使節の接待役や城の城の普請もやっていますが63ぐらいの時期で
   す。〈奥の細道〉の物部守屋や「書付」がでたところにあった「小菴」というのは小瀬甫庵②を指してるというのが
   わかるのがこの蒙求です。曾良と芭蕉が別れたように、ここは600年を境に、吉士磐金①②ら
   と来目皇子・当麻皇子などが別れています。ここは心が垣根を越えて飛んできてる、この二つは同行二人でみない
    といけないということを今、云っとく。今日よりは、書付を消してもよい、ということになるのでしょう。
    巡礼と順礼はちがうのかも。「乞食順礼」もあるので〈古事記〉もでています。「笠」は柳ー本隆寺、露は「露通
    (乞食)」がでてきて最終につないであります。
       「萩(草+秋)の野」-全昌寺の「秋」「秋」-いろの浜の「秋・萩」大垣の
         蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ
    で日本の方向に転換があり、それがわかれゆくという表現になったのでしょう。そのときが600年ということ
    でした。〈古事記〉も〈書紀〉もこの600年隋への遣使の記事がなくこれが〈古事記〉の締切を曖昧にしている
    ようですが、そうではないようです。一部再掲
          本文                          訳文
       用明天皇   参歳  脚注587年           用明天皇  三年   
       崇峻天皇   肆歳     592年           崇峻天皇  四年      
       推古天皇 ●妹豊御食炊屋比売・お治田の宮    推古天皇   (題字だけ)
                参拾漆歳(37)天下         ----古事記がここで終わっているのは、その材料と
                戊子・・崩 628年          した帝紀がここで終わっていたことによるであろうーーーーー
                                   ●豊御食炊屋比売
                                   (推古天皇)・大和の小治田の宮 三十七年天下・戊子・・崩

   となっていて 本文のものはダラダラと続いてるから、592+37=629で 最後629で終わります。これは
   舒明天皇の即位の年だからかなりおかしい、聖徳皇子622没の治世などとの相関も問題です。右側は
   592+題字(推古)+37で ペンディングですが、推古が姿を見せたことは確実で帝紀との関連でみれば
        592+推古/
   で一旦締まることになります。712年の太安万侶は帝紀の部分は手のつけようがないが、それ以後のことは
   付け加えられます。前者の修正がはいったというのが武田博士の訳文における操作ととれるところです。
    あとの文●二つは、実は間違っており、太字の部分が間違っており、前者は
     「小治田の宮に
      ましまして三十七年天下をお治めなさいました」
   といういいかたになっていて
         推古十一年目(603年)小墾田宮に移ってるわけです〈書紀〉〈年表〉。
        592+11=603+37-11=629となります。603+26(慈円の推古の在位)=629+8年=637
     とかやってみてもうまく説明できません。基本的には592崇峻没(退位)
                                    小墾田
        593                601       603   605     622     629   637年
                         斑鳩造営    推古11年 斑鳩移る           舒明    37年
        聖徳皇子即位ーーーーーーーー|ーーーーーー|ーーーーーーーーー没ーー没ーー即位ーーーーーーー
        蘇我馬子・宿禰大臣(後見)                           |蘇我626 |   推古没+1
                                                      うまこ
     とすると、聖徳皇子が推古①在来の推古が推古②となり併せて36年となります。持統天皇がしょっちゅう
     行ってたのが小治田で飛鳥吉野の藤原の宮といえそうです。(あとで601・605も8年前倒しする)


    (503)天皇枠の確認
       慈円の頭注をみると
                 頭注          天皇   在位
                   崇峻天皇    33代崇峻  5年
                   推古天皇    34代推古 26年
               ●十七条の憲法    ・・・用明の御子・・・聖徳太子・・
                   舒明天皇    35代舒明 13年

        となってるのは、推古に、●を合体させる、具体性のある聖徳で全体を一つにすることを示すかも。
      他の例、
              天智天皇         39代 天智 10年
             太政大臣の始め      大友太政大臣
              漏刻をつくる       ・・・七年とあるは天智の御即位・・・
              天武天皇         40代 天武 15年 諱大海人。
           大津皇子初めて         此王子  
           詩賦をつくり給ふ          はじめて詩賦・・・  中臣金連
             大納言の始め      蘇我果安  大野果安?(東人の父)
              持統天皇         41代 持統 10年 諱菟野 天武妻皇
            中納言の始め       高市皇子  大津皇子謀反
              文武天皇 

      のようなことになってて三倍の時と違って位置よりも名前のヒントが出てるかも。
      大津皇子とか大野の枠がでてきています。とにかく推古の8年の前詰めの問題は、前詰めもよいが、空位に
      しとくのもわかりやすいというならば、両方を統一的に処理できる方法を考えなければならないのではないか
      。これは聖徳皇子を推古として立てることによって解消することになると思われます。これははじめからいい
      たかった
      ものでしたが 長くなってしまったということです。期間の問題に限らず、大きな事業が二つあり、両方一遍
      に語るという試みで
      文の方をたてるにはこうする方がよかったといえるのではないか。ここでこの8年の問題に結論を出した
      のであとがまた違ってきます。遣使の8年移行だけでなく項目(事件)を撰んで移行することが要ります。

          「601 推古9年  春二月 ●皇太子ははじめて斑鳩(いかるが)に宮室を建てた。
           605 推古13年 皇太子は斑鳩宮に居[住]した。」〈書紀〉
       は
          「593 推古1年  春二月  皇太子ははじめて斑鳩(いかるが)に宮室を建てた。
           597 推古5年  皇太子は斑鳩宮に居[住]した。」〈書紀〉

       に、変わるというような。今、〈年表〉では、●は
          「601年 推古9年 聖徳太子、斑鳩宮を造営〈紀〉」
       となっていて、主語やら「はじめて」などをかえてしまっています。その下の「居[住]」の一文は、無視して
       出ていません。法隆寺再建問題にも影響があるかもというほどの大きな移行をせんなんところです。
        あとでもう一つ移行例を出してみます。
     
     (504)〈万葉集〉の第一の難読歌の読みのこと
        次の の太字の部分の読みがわからないというものです。
 
        「八 熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
             {天皇の七年辛酉・・・・御征西して始めて海路に就く。・・・哀傷したまえり。・・天皇の御製なり
              ただし、額田王の歌は別に◆四首あり。}
             
   
          紀の温泉(ゆ)湯に幸(いでま)しし時・・・額田王の作る歌
         莫囂円隣之大相七兄爪謁気 わが背子(せこ)がい立たせりけむ厳橿(いつかし)がもと」

      があり、脚注での訳は、前の部分はそのままで
         「莫囂円隣之大相七兄爪謁 わが君がお立ちになったという神聖なかしの木のもとよ。」
      となっています。「厳橿(いつかし)」にも注があり
         「イツはユツと同じで、イ・ユは斎み清めた。神聖なの意。神聖なものに冠せられる。」
      となって厳島が想起されるところですが、「かし」は「かしの木」と訳されています。あの「橿原神宮」の「橿」
      がでてるのは確実ですが、この「かし」は「樫の木」の「樫」ということでよいのでしょう。
      この「樫」は船を造る場合の良材とされたというのが「八」で出船があるので感ぜられるところです。
       これは「河辺臣(名を欠く)=蘇我馬子宿禰大臣が伐ってはいけない木に対峙した時のことを謳ったもの
       でこれは大伴家持が歴史を語った特別な歌でいま壮挙のスタートの場にいるというところでしょう。
       (出航は勇壮なものですが白村江へ出たのもありそうです。哀傷というのもあるから)
 
       歌の「囂」(ごう)=「かまびすしい、頭から熱気があがるほどさわぐ」も何事かと
      構えてしまいますが、おかしいことに「しずかなさま」「静かに落ち着いているさま」という意味もあるようで
      す(漢語辞典)。この字があるからウンザリして難読歌に入ってしまったといってもよさそうです。
      「莫」は「なし」「なかれ」がすぐ出てくるもので砂漠の「漠」は水のない状態を表してると取れるので
       確認すると
         「形声。シ(水)+莫。音符の莫バク はないの意味。水のない原、さばくの意味を表す。」
      となっています。これも8通りに分類される意味があって「⑦しげる、さかんにしげる。」という    
      のもあり例えば国名や郡名などに使われていたとすればこの意味も、「広い」もあったことにもなります。
      同様に「莫」も11通りの意味があって
        、①なし・なかれ③しずか、さみしい ④ひろい大きい=漠 ⑩はかる=謨(ボ)  ⑪ひきまく=幕
      などがありますが、③の意味は「莫囂」を「さみしい」「しずか」に変えうるものとなっています。囂は読み方
     を 知らなかったので、哭に似てるから手入力で漢字をよびだしていくと
         「口口一・・」
     の辺りで全体が出てきました。囂は虫めがねでみると 「口口頁口口」で構成されていそうです。つまり
                 頁 頁
                  頁
                 頁 頁    ならどこかで見たかも。それが618年に出されたのか。「頁」なら
     〈信長公記〉「人名注索引」の冒頭の「凡例」の1頁に
        「頁(数)」という字が六個、「項目」という「頁」が八個、出てきます。この意図ははっきりわかりません
    が、日本語の語りとしては、多すぎる嫌いがあります。多分意味はないがまあ書いてみたといったところ
    です。が項目でいえば、人名注。考証名というべき人名総数
        1818名で、    600年紀元前
                    600年紀元後外国
                    600+18  紀元後蘇我大臣没まで
    というのかもしれません。残念ながら擦り切れ、破損などで、欠落部分があり、619、620かもしれないのが
    残念ですが。
    それにしても、618年蘇我ウマコ大臣没、620年天皇記国記完成というのは、タッチの差で口惜しいところ
    ですが二つ違いで合いということもあるのでしょう。
   
      桜井〈万葉集〉の補注はこの歌について、
        『集中第一の難訓歌で・・・九十ほどの説があるという。・・・・(読解例)
           ① 「吹飯(ふけひ)の浦西詰に立つ わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと」  宮嶋弘
           ② 「静まりし雷(かみ)な鳴りそね わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと」   土橋利彦
           ③ 「夕月の影踏みて立つ(行け) わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと」 伊丹末雄
           ④ 「静まりし浦浪さわぐ  わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと」 沢潟久孝
         ・・・・ 』
    が出ています。
       ①は「浦」「西」は八の歌との関連を見てる、「詰」は「九」の「爪」を見ているととれる
       ②は 莫囂円隣之 の読みがあってそう、といえるが、どこにも出てない雷が突然出てきてる
       ③は「八」をみているが、イツカシが脚注の「斎みきよめた、神聖なの意。」というのを踏まえている
       ④は「静まりし」「さわぐ」があり「浦浪―海―船」を見てる
   ととりますと、やはり何かをみてるが、それは何かはいわないでおこう、となってる感じです。再掲
      618年の記事
       「河辺臣(名を欠く)・・安芸・・・船・・[船]舶・・材・・材・・伐・・伐・・霹靂[急激な雷鳴]の木・・伐・・河辺臣・・
        幣帛・・祭・・雷神・・伐・・大雨・・雷電・・・河辺臣は、剣の柄に手をかけ
            雷神よ、(命によって木を伐った)人夫を犯すな、わが身を傷つけるがよい
        といい仰いで待った。十余回靂霹したけれども、河辺臣を犯しえなかった。・・小・・魚・・化・・樹・・枝・・
        魚・・取…焼・・・。とうとうその船を造成した。」〈書紀〉    (「音」が出てこない雷鳴が霹靂)

    において、蘇我馬子宿禰大臣は天を仰いで霹靂ともいうべき雷鳴を鎮めてしまい造船を完成しました。
    このとき伐ってはいけないと諫言もされてて、あえてその木を伐った、わが身と引き換えにと祈ったのが
    やはり死に至ることになったのでしよう。このときが死亡年
     とする以外に考えられず、そうとすれば〈年表〉にある没年「626(推古24年)」より八年前のことになります。
     公式発表の626は李世民即位の年で、蘇我蝦夷が大臣を継ぎました。えみしは刀自古郎女かも。
      蘇我馬子は、皇位簒奪を目論んだ専横極まりない人物とされてるから、この歌の解釈も遠慮がちになって
    いて、天皇制を離れて、みればどうなるか。六〇〇年では蘇我ウマコ大臣のときの天皇は推古で、これは
    大臣のいまでいう妹で、物部弓削守屋という人になるのでしょう。日本をまとめで、国語を一本化し、史書を
    作り、先進国に肩を並べるべくこのとき手を打った人物で、いまも慕われている優れた後継者が出ています。
    、今の日本の人がアメリカの施政下にあって、まあよかったと思っているかもしれないように、江戸までの
    人は先駆のこの政権をそれなりに高く評価していた、太田和泉守を尊崇してるからそういえると思われます。
    長い間、力の差は懸絶してたのに独自性はかわらずにきています。
    
     この難読の歌に江戸の人なら90通りの以上の解釈は出てこないと思われます。まあ大伴家持は古代
    の歴史の解説をしている人でもあり、難しいことは言ってない場合も多いと思うので、問題提起というのでは
    なく、この歌の解は

                 安芸に詰めし、河辺大臣の歌
             鎮めりし 船もかなひぬ わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと
                   ( 七 音 ) 

    としたいと思うところです。以下、蛇足ですが。
      「安芸」は秋津島の「秋」で今の日本を踏まえた話となり、「謁」を「あ」と読んだ人はいる(ネット記事
      「245回・・・倭の五王の時代」)
      「爪謁気」=「安芸に詰め」=前書の「紀の湯」
      「大相七兄妻」=「七(中)大兄・宰相・妻(謁気まで七文字)」=妹カシキヤヒメ=前書の「額田王」
    となりそうです。

    前書きと本歌とは関係がないとはいえないが、本来時空が違うもので、そこでひそかに事実が語られてる
    というものになっています。◆の歌の四っ目、(一三)の歌の前書に「中大兄」「相」が出てきます。
      「静りし」→「しずりし」  は 爪=妻 で 「ま」⇔「め」で、強烈な意思が本文にでていたので「め」。
      「船もかなひぬ」は  「相」=「合」 要は適合で、わかりにくさも「囂(ごう)」からきている。太田和泉守の
                    「叶う」は「間叶」を多用していて後世は渡海で利用している。「叶崎」。
      「わが背子」=河辺臣  「へき」の「辺」  「臣」は大臣の「大」を欠いていることもいってる
                  「河辺」は「飛鳥」の地名説もあり、後世「河辺朝臣東人」「河辺宮人」も出ている。
      「厳橿」=霹靂の木  霹靂の「へき」は「謁気」、後世、弓の「日置(へき)」〈信長記〉にも利用されたかも。
                    霹靂の「れき」は「雨+歴」で「歴史」と無縁ではない。「謁気」の謁は「言+葛城」で
         600年の4年前出てきた「葛城臣」の「葛」がでている、。草加≒早加でクサの有無は問題はない
         ・・・・          
    としてみました。

       
    (505)外交の小野妹子
     繰り上がった小野妹子は
        「近江国(滋賀県小野村(現在の大津市)の豪族で春日氏の一族、小野氏の出身」〈ウイキ〉
     とされており、一般に敏達天皇の皇子であるとされていますが、例によってこれも怪しいとされ
     てるようです。蘇我馬子宿禰大臣の嫡男、結婚前の子で、である連れ子として王朝に入った、聖徳タイシの義兄
      にあたる人物というのが 直感的に感じられ、600年のは、蘇我蝦夷と重なっていそうです。 
      推古紀に重要な一文があって(集約され尽してるので全部重要ですが)
 、
        「三四年、春正月、桃、季(すもも)が花ひらいた。・・・夏五月二〇日、大臣が薨じた。桃原の墓に葬った。
         大臣は稲目宿禰の子である。性[]は武略があり、また明察の才[]があった。三宝[仏教]を、恭敬
         し、飛鳥川のかたわらに家[]した。庭の中に小さな池を開(ひら)き、池の中に小嶋をつくった。
         それで時の人は嶋大臣(しまのおおきみ)といった。」〈書紀〉

      があります。この大臣は、〈年表〉では「蘇我馬子没(76)」となってるものですが、太字のような語句の注
    があり、極端にいえばもう一つの一文があるのを省略してあるという意味を持っています。仏教は「八幡」も
   あるかもしれないし、「居」は戦国まで続いて安居の意味などを変えてしまってるようです。推古34(626)の没
   は稲目宿禰②(蘇我馬子宿禰)か、その子かわからないものです。が取りあえずやってきたのものがあるので、
   蘇我ウマコ618没、、蝦夷大臣①(600年の小野イモコ)がこのとき(626)に亡くなったとすると、そのあと

     「614 遣隋使   犬上御田鍬(小野イモコの再登場?)・矢田部造(名を欠く)(小野いもこ②)
      630 第一回遣唐使 犬上御田鍬(本文=三田耜)(小野妹子②)」〈年表〉

  が考えられます。春日氏かどうかあやふやだったら困るのでやってみると
     蘇我稲目宿禰の子は蘇我馬子宿禰大臣という書き方がややこしく、欽明天皇の子は敏達天皇というのは
    一般の系図見ただけでわかりますが、蘇我稲目宿禰の子が敏達天皇かどうかが分かりにくいわけです。春日
    の周辺だけとりあげてみると(古事記から)

         欽明天皇                  (敏達と同世代)
         ∥ーーーーーーーーーーーーーーーー▲春日の山田の郎女
         春日の日爪の臣が女糠子の郎女   麻呂古の王

         欽明天皇
         ∥――――――――――庶妹豊御食炊屋
         きたし比売          ∥ーーーーーーーーーーーーーーーー静貝の王(聖徳に嫁す)・貝蛸の王・・
         (稲目の娘)         敏達天皇
                          ∥ーーーーーーーーーーーーーーーー忍坂の日子人の太子(舒明父)
                          広呂比売(脚注=広姫11月薨)    麻呂古の王

                          敏達天皇
                          ∥――――――――――――――――▼春日の王
                          春日の中つ若子が子女子の郎女

    となってて春日は名門で、まあ麻呂古の位置から見て、▲の子が▼ということになるかも。この「山田」が
    利いてきそうです。二人の春日は一応クリアできたとしてあとは太田牛一に聞いた方がよく
        遠里小野(脚注=「大阪市住吉区遠里小野(おりおの)町)
     があり
       「(9)南方・・陣・・比良かたの寺内・・野田・福嶋・・上難波・下難波・・兵庫辺・・異国・本朝・・天満が森
        ・・野田・福嶋・・十町・・北・・ゑび江(脚注=海老江。大阪市福島区海老江上・海老江中・海老江下)
        と申す在所候(「海老」は「蝦(えび))」)・・・詰の陣・・・根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡・・・・・遠里小野
      
(ウリウノ)(脚注=「大阪市住吉区遠里小野(おりおの)町」)・・・かすがゐ堤(脚注=淀川の堤)・・合・・
        中・・前田叉左衛門・・弓・・中野又兵衛・・野村越中・・毛利河内・金松又四郎・・下間丹後(しもつま
        たんご)内の長末(ながすえ)新七郎をつき臥せ、・・・・金松・・野村越中討死なり。」〈信長公記〉

     ででています。 春日井が出ました。
      「南方・・八幡・・若江・・若江・・・遠里小野(をりうの)近辺陣取・・毛・・上下・・●都鄙(トヒ)の貴賤(キセン)
       皆耳目(じもく)を(ヲドロカス)ばかりなり。」
     も出ます。●は
      「多賀・山田山中の材木・・佐和山松原勢利川(芹川)・通り引き下し・・御大工岡部又右衛門棟梁にて舟
      の長さ三十間、横七間、櫓百挺立てさせ・・・艫舳(トモヘ)に矢蔵を上げ・・大船上下耳目を驚かす。・・」

      の大船の建造の一節にきました。多賀の脚注は
        「滋賀県犬上郡多賀町のうち。多賀神社が鎮座している。山田は未詳。」
      となっています。山田は安食山田ー乞食村もありますが春日もあるかも。河辺大臣の「船」と結びついてい
      ます。
          「弓徳左近兵衛」〈信長公記〉 (注=「弓徳(きゅうとくは滋賀県犬上多賀町のうち。久徳氏は
                                  多賀山中の城主[淡島温故録」)
      となっており索引は「木村」(渡海)のあとに出てきます。弓・聖徳も出て弓削系図もありえます。
      「下間丹後」は「妻」がでおり、下間=(丹後)=春日 で「春日」も出ており、長「末」は「妹」がでるのでしょう。
       「遠里小野・・陣取。近辺作・・」は「犬上君三田」の「耒」をだすつもりだったかも。

       蘇我馬子宿禰大臣は造船に全力投球ということになると遣使随行はなし。
      ●600年遣使の小野妹子は聖徳皇子、(男性)の小野妹子は聖徳タイシ(蘇我蝦夷①か②)=(舒明の父)
       となりこのときだけの小野妹子であろうと思われます。蘇我入鹿は小野妹子かも、といってきた大物が
       小野妹子①であって吾妹子もありました。これは第一次だから特別です。8年くりあげるのだから、特別
       の布石があった、ものです。そのあとの小野妹子は多分▼の人物であろうと思われますが、ほぼ同時に
             犬上御田鍬 〈書紀〉〈年表〉
       が登場しますので、〈信長公記〉の人名・地名・脚注からの犬上がどっとここに懸ってきています。一般の
       人にはこういうのが分かるように、
            小野妹子公園(滋賀県大津市小野)
       があり 小野妹子神社と唐臼山遺跡とが引っ付いています。太田和泉守でも、古墳を利用する形で保護
      するというのはあり、この遺跡の遺物は小野妹子とは関係がなさそうですが、太田牛一が弓徳左近、
      多賀・山田山中、小野の最寄駅(和邇・堅田)など出さなければ小野妹子神社・六角堂なども建ちにくい
      と思われます。臼というのは〈古事記〉〈書紀〉とも「国主(樔)(くず)歌」で出てきます。〈書紀〉の方のは
      既述です。ここで
            「横臼」
      が出てきており、〈古事記〉は「吉野」がでています。「唐臼」は臼・杵の「臼」とは違うようで、現地の石群は
     すざましいものだそうで「唐臼」も問うてみようというのがないとはいえないものです。無辺の出た近江の石場
     で唐人が出てきます。
      もう一つ、ここで「唐」が問題となってきています。
                                                                                     
     
再掲 ●の600年遣使の記事、                                                                                     「この年、倭王、隋都大興(長安)に使を派遣。(初めての遣隋使)〈隋倭〉」〈年表〉
         は〈書紀〉になく 〈年表〉だけにでていました。
       これは実際は別の所で出ていました。
                                                                                   
       
「(推古)一五年(607)(607はルビとして〈書紀〉に入ってる) 
         ・・・・・・・・・・                                       
        秋七月三日、大礼(らい)[一二位階の第五、正六位]小野臣妹子(ルビ=いもこ)を
        ◆大唐(六一八~九〇七)に遣わした。鞍作福利(ふくり)を通訳とした。」〈書紀〉

     がありました。◆に脚注があり、「唐との交流は11年後、推古26年以後にならないと不可能。」
     となっていました。この記事は〈年表〉にもあり
          「607 推古15年 7、小野妹子らを隋に派遣する〈紀〉」〈年表〉
      があり数ある記事の一つだよといった短いものとなっています。これが先ほどの
          「601 推古9年、聖徳太子、斑鳩宮を造営。」〈年表〉
      と同じ593に繰り上げる必要のあるものとなります。このための8年・8年ということでした。8年くりあげると
      599年になって、これで〈年表〉つくると、ベタでは
             小野妹子 ら   →   小野臣妹子・鞍作福利・ 通訳  
      が画面に登場ということになります。鞍作は入鹿連想になるのでしょう。 
        ところがたいへんなことが起りました。

     ①翌年   一六年(608)  夏四月、小野臣妹子が大唐からかえってきた。唐国は妹子臣を名づけて
            蘇因高(そいんこう)といった。・・・・裴世清・・・妹子臣に
           従いて、筑紫にきた。・・・六月一五日・・・・妹子臣は奏して・・・唐の帝が書[簡]・・・百済人
           が探して掠め取りました。・・[天皇に]さし上げられません。・・・流刑に処した。・・・天皇が勅
           して・・赦して罪しなかった。・・・
           九月一一日、・・・裴世清が帰国した。また小野妹子臣を大使とし、吉士雄成(おなり)を小使とし
           、福利を▲通訳として唐客に副えて遣わした。・・・
  
     ②翌々年   一七年(ルビ=609)       
             秋九月、小野臣妹子らが大唐から到着した。ただ▼通訳の福利はかえってこなかった
       
      という二つのことです。「掠め取らる、大国の書を失った」「福利がかえってこなかった、どうなったのか」
     の問題です。まあこれはいままでと状況がかわっているのですから、それでやったらどうなるか、という
     ことになるだけです。いま、②のことはそう問題にはされていません。
      ①の方は、主役は二人だけで、聖徳皇子(推古天皇①)と、聖徳太子(小野臣妹子)の二人で、通訳は
      聖徳皇子がやれます。つまり天皇が首席使者で、掠め取られた(責任は負わねばならない)ので、
      小野臣妹子は奏しただけです。「書」というのは「書簡」とは限らず、百済人がよい感情をもっていなかった
      こともでています。第一、607年ことではないのでこの挿話の根底が揺らいでいます。
      ②については、▼の人物は、▲の人物ではなく◆の文中にある、「通訳」です。鞍作福利が通訳もやったの
     で ▼は、姿が見えなくてもよいのでしょう。また609年の帰国はなかったといえるのかも。

   ということに解しました。
      「唐国は妹子臣を名づけて蘇因高(そいんこう)といった」〈書紀〉
   ということです。この意味がよくわからなかったのですが、〈古事記〉まで入ってきた段階では、一つは蘇我の子
   という意味をもってたともとれるところです。「蘇」というのは魏志倭人伝の
        「姐奴(ソナ))国」「対蘇国」「蘇奴(ソナ)国」「華奴蘇奴国」の「蘇」
   ですが、「江蘇」の「」で「日下+(禾=のぎ)」であり、始皇帝の人気のある長子の「蘇」の「蘇」でも
   あります。「扶桑」「扶余」の扶は芭蕉に出ています。倭国の と繋がってる「蘇」が呼び名に入ってるから、
   これは当時の日本代表、聖徳太子夫妻の渡海だろう、史上名高い隋の文帝との交流があったと
   とれるところです。日本では在日二世の聖徳を今に至って非常に尊敬し遺跡・遺物・物語を守り伝えてきています。
   唐臼山遺跡の命名などもその延長で中国の古跡の紹介をしたというのもあるのでしょう。日田市小鹿田の焼物
   の里に唐臼祭がありますが、300年の伝統はあるそうです。陶土をこねる唐臼ですが「鹿」をちょっと借用すると
   江戸期の人の頭の中に妹子=鹿があったともとれないこともないといえそうです。ちょうど唐の魏徴の中原
   鹿を追う、の時期ですが、〈古事記〉でみると、白髪の命の条に、
     「御諸(みもろ)の厳白檮(いつかし)がもと」「日下江の入江」「猪鹿(しし)」「猪鹿(しし)」「吉野」
   があり先ほどの「いつかし」が出ていて鹿が引っ付いています。檮は「かし」ではなく楚の歴史書の「悪木の名」
   のようですが、難読歌は〈古事記〉を見ないと解釈できないようです。「唐古遺跡」もあって、

        「奈良盆地のほぼ中央に位置する…環濠が何重にもめぐる近畿地方最大の遺跡・・・。稲作などの新しい
        技術を持った人々が大和川をさかのぼってこの地にたどりついたと考えられ・・・。いまから2000年
        前に繁栄し、紀元後三世紀まで続きました。・・・平成4年には楼閣を描いた絵画土器が発見され・・
        これまでに発掘された絵画土器の画題は建物や、人物・鹿・魚など特定のものが対象となっています。」
                                                     〈歴史読本〉4月号
      などもあり、ここにも鹿が出ています。唐とついてるから中国の人がきてるのでしょう。紀元元年ごろ
      稲作を伝えられています。これは有難いことで、これが政治の中心地のできごとでした。

      つまり何が知りたいかというと、このとき(西暦元年)、記録では神武天皇のときで〈古事記〉では
          「神倭伊波礼(田比)古(かむやまといはれびこ)の命」  〈書紀〉は「大日本(二本)・・天皇」
     となってて、「倭」の王と違うのか、元年のころは「倭」ができてるはずで、神武天皇に倭王の意識があった
     とすると、やってきた王の相貌がやはり大きく変わってきます。例えば現地の王の要請によって
     飢えてきそうやから助けたろという来方(屯田のような)もあります。また記録では現地の国主も馬鹿じゃ
     なくて機嫌をとって攻めてこんように、また、いざのとき助けてもらお、として貢物をしたいと申し出ています。
     また強者の方も、女子の力が今より強いというソフトなイメージもあるので
     倭というのとセットになって、まあまあではなかったかと思いますが、倭すら何もわからない状況で、それで
     ええじゃないかとなっている感じです。〈古事記〉の序文を書いた太安万侶は倭の歴史を書いた人(或いは
     子息)とも思われますがそれだけにこの時代を肯定的に書いてそうです。大倭を考え出した人は、偉いし、
     昔は日本はわりかし賢くて、その名を引き継いでいて、和を以て貴しとせよといった人もいました。今でいえば
     国連中心でそれに添っていこうというわけでしょうが、聖徳大子のはそれが明言されてたといえます。
                   
                                 本稿以上。   
     もう一つの史話へもどる