港へ帰る |
||||
第弐回-寅吉妄想 | 根岸和津矢(阿井一矢) |
万延はわずか12ヶ月あまりで過ぎ去り、時は文久元年この年は確かアメリカで南北戦争がはじまる年だと気が付き先生に申し上げ北軍が勝ちを収めることをお話いたしました。 東禅寺事件などと言うイギリス公使館に切り込む事件など血なまぐさい時代に突入いたしましたが私たちの身辺は相変わらず平穏に過ぎていきました。 そして9月には先生が天守番之頭格、講武所砲術師範役に命じられ幕府の中枢へと進んでいく足がかりを得られました。 そして年末には和宮様が家茂公に興しいれのため江戸に到着なされました。 この悲劇の姫君には行く末を知っている私には悲しさが先にたち喜ぶ気持ちには成れませんでした。 先生にも、このことはお話してあったので先生が家茂公と和宮様へ尽くされる弱いものには肩入れする江戸っ子の気質が見え、私の先生への畏敬の念は増すばかりでした。 翌文久2年になり、この年の夏までの血なまぐさい事件の数の多い事といったら枚挙に暇がありませんでした。 海舟先生は7月4日に二の丸留守居格、軍艦操練所頭取、布衣を命じられました。 (500石) さらに先生は8月には軍艦奉行並となられなんと千石取りのお旗本に立身なされました。 こんなに短時日のうちに出世なされ海舟先生のご母堂様が手を付いて先生を拝む姿を目の当たりにして塾生一同までも感激で声も有りませんでした。 ある日、岩さんの家の2階で海舟先生が私に「寅さんのおかげでおいらもこんなに出世が出来たんだ、お前さんに報いるには侍になりたけりゃナンとでも力になるぜ」と手をとっていってくださったその言葉だけで私は報われた思いがいたしました。 「先生、ありがとうございます。しかし私はやはりジジがそうしてきたように先生の影となりよりよい日本の国のために尽くしたいと考えております」そう申し上げると先生は涙があふれんばかりの顔で「そうかい、おいら日本国のよい行く末をよ、必ず平和な国のために命がけでご奉公するから、おめえもその気持ちを忘れず、勉強しておいらたちを助けてくんな。おいらこの侍の世も長いことないと見ていたが、おめえに出合って垣間見ることが出来てさらに自分の考えに自信がわいたぜ、よろしくたのまぁ」とまるで友達のように言われ岩さんともどもお江戸の人のためひいては日本の民のために力のかぎり努力することを3人で誓うのでした。 この後しばらくして先生の後援者とも言うべき、大久保忠寛様が松平春嶽様に徳川だけではこの国難に立ち行きかねると言うことで大政奉還の儀を申したてたのです。 慶応3年の大政奉還以前に二人の開明派の幕閣の主要人物が意見を述べていますが、時期が早すぎて老中諸侯の反対のため日の目を見ることはありませんでした。 海舟先生は先走りすることは失敗の元と自分の出番が来るまで自重されておられました。 |
||||
文久2年10月8日(1862年11月29日) 松平春嶽公は開国論を主唱する一橋慶喜公に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上(大政奉還)する覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案しました。 |
||||
「おっかぁいまけえったぜ」 「イヤですよぅコタロウさんたらおっかぁだなんて」 「だってこんあいだ、勝先生と岩さんのめえで、おつねさんをこれからは母として孝養を尽くしますと誓ったじゃねえかよぉ、それにおいらはもうこたろうじゃなくて、寅吉だから、トラちゃんとでも呼んでくんねぇ」 「急には無理ですよう」 「ならなるった早めになれておくれよ」とやり取りもあり私はジジに完全に変身する決意をいたしました。 お琴にはまだ話しても無駄かも知れず大人になってからと心にひそかに決めておりました。 海舟先生が神奈川の横浜会所に出かけ鉄船のジンキー号を買い入れるための、下調べを命じられ横浜と神田の間を何度も往復して性能そのほかのことを逐一報告いたし、その縁で会所に近いところに店を開くことにいたしました。 10月のある日、先生が船を見てアメリカの船商から、即15万ドルラルで買い入れると決めたときにはアメリカ商人でさえその肝っ玉にぶっ魂消たもので、しばらく先生のうわさで会所中が持ちきりでした。 |
||||
そんなときです坂本さんが先生のところに訪ねておいでになったのは、千葉さんと言ういかついお方と一緒に春嶽様の添え状を持っておいででした。 私は前からこの日が来るのを心待ちにして何時なのかと待っておりました。 その日は朝から晴れ渡った空に雲のない日で、廊下の陽だまりで帳簿をつけていますところにお糸さんがお二人を案内してまいりました。 廊下に腰のものを両刀ともに置いてお二人が部屋にはいるや否や先生が大きい声で「オイオイお仲間の腰のものを置いてきぼりはかわいそうじゃねえか」とお二人はもそもそと言い訳しながら恥ずかしそうに刀をそっと持って部屋に入りました。 しばらく先生の独壇場でしたが坂本さんが「先生幕府は本腰を入れて攘夷をされる気がおありですか」と聞かれ「ばかぁ言っちゃいけねえよ、今の幕府にそんな腰の座った御老中がいるもんか、ここは諸藩の力を結集して外国にあたらにゃ仕方あるけぇ」といつもの諸藩連合論をとうとうと述べるのでした。 「攘夷をして戦争になっても刀と大砲じゃ太刀打ちできゃしないぜ」 先生はさらに突っ込んだ話を振りました。 「それに相手は蒸気船で海から来るんだ、陸から迎え撃ったって外海に逃げられたらどうする、追いかけるにゃ船が要るぜ、その船を操る人間はどうする、徳川(とくせん)のお家にゃ金がないよ」 勢いが止まりません。 「諸藩それぞれない金と人員を出し合って始めてまとまった戦いができると言うもんじゃねえのかい」 「先生、先生は砲台を築く指揮をなさったじゃありませんか」と突っ込まれて目を白黒している様子が障子越しに伺えてあっしは可笑しくて仕方ありやせんでしたね。 二人は先生の話に圧倒されたまま辞去いたしました。 先生のハッタリはお父上の喧嘩剣法、本所深川あたりの人気(じんき)そのままでやしたねぇ。 二人が帰った後部屋に呼ばれ「本当にあいつが使い物になるのかい、気ばかりあせって考えが浅いぞ」と言われるので「受けあいますよ、動き出すまで時間がかかりますが馬力はありますし人使いもうまいから先生さえうまく使ってやれば本当の革命児になります」と請け合ったものでした。 「それにしりが軽い分あちこち出歩いて先生に出来ない情報集めもしてくれやすよ、それと情報を撒くにはいい人間でやす」 竜馬さんが近藤長次郎さん門田為之助さんと先生を再度訪ねてこられ正式に門人となられたのは12月9日でやした。 この頃には片言の英語を喋っても怪しまれることもなく、あまり流暢に喋らないようにさえ気をつけていれば取引が有利に運ぶこつさえつかむことが出来ました。 幕府も焼きが回ったか先生にこんなお役目まで押し付けてまいりました。 12月1日 陸軍奉行、歩兵奉行、同頭を命ず。 この頃から先生は京師との往復が続き家に居れない事が多くなりだし坂本さんが弟子になったことで色々と便利なことも増えたのは確かでございました。 12月17日には三国合従の策を建白したり、神戸の海軍伝習所の開設のための準備などさらに忙しい身になられました。 |
||||
文久3年には将軍様も京師においでになるため、先生は何度も船で往復されるので今どこにいるのかなど坂本さんが居なけりゃ連絡も付かない有様でした。 先生との秘密の連絡はもっぱら坂本さんのお仲間にお頼みすることに先生から指図もあり、だめもとでも遣るだけのことはしておこうぜと言うお言葉もあり、逐一私の記憶から振り絞って情報をお知らせいたしました。 安政6年に日本に来られていたヘボン博士がこの年、文久3年に居留地39番にて英語塾(ヘボン塾)開設(クララ夫人が授業担当)いたされ、のちに明治学院に発展いたしました。この学校からフェリスも別れ私の居た時代には有名校になっておりました。 5月には春嶽様に五千両と言う大金をお借りしたりして神戸に海軍塾を開くことになりました、10月をめどに開いて翌年には幕府の操練所も開きたいと言うお話でした。 長州が下関沖の船に砲撃をかけたり、薩摩と英国が戦争したり、御老中にはそれを喜ぶ方も居たりして「屋台骨が腐っていやがる」と言う先生の言葉が聞こえるように思うのでした。 坂本さんや近藤長次郎さんに聞くと「そうだそうだ、その通りに船の上で物に当たっているぞ」と手をたたいて笑い転げるのでした。 横浜に外人のための家を建てたり、自分の家にいろんな方が来ても困らぬような布団部屋らしき部屋を建てもしたりして私も情報商売に励むのでしたが、けして表立って目立たぬようにそのつど誰か人を立てましたのも先生のお指図でした。このときの経験が坂本さんたちのお役に立ったのは私の自慢してもよいところのひとつでございます。 この年の先生の忙しかった事といったらもう人事ながら心配するほどでございました。 前年の文久2年から3年にかけてもコレラが蔓延し、外国からの持ち込みと言ううわさに、人の心も外人悪しと言う方も多くなり非常に難しい時代でございます。 この両年のコレラ・ころりはこんな名前でも呼ばれていました。 |
||||
坂本さんのことが出ましたので忘れないうちに書いておきますと寺田屋のときになくしたピストルは、スミス&ウエッソン(32口径)高杉晋作さんの上海土産でして、慶応元年に初めて持った短銃で、同年秋、薩長同盟締結に向けて長州入国の際譲り受けたものです。 もうひとつイヤ二梃でやしたね、こいつは護身用に氷川商会からイヤ違いやした当時は横浜物産会社でしたそこで売った品物の代金の代わりに受け取らされた、護身用の小型拳銃で坂本さんとお竜さんがそれぞれお持ちでした、スミス&ウエッソン(22口径)お竜さんのは大正2年の釧路大火で消失してしまいやした、この後のは坂本さんが遭難したときに持っていたものです。 |
||||
10月の末に兵庫からの帰りに横浜の私の店にフイと先生が坂本さんたちとお寄りになられました。 聞けば一橋慶喜公が浦賀で汐待をされていたので順動丸(ジンキー号)にお載せさせ申したという事でした。 若い方々は番頭をつけて遊郭まで遊びに行かせ私と先生そしていい機会だからと坂本さんに私の秘密についてお聞きいただきました。 最初は目を飛び出させるばかりに驚いた坂本さんも理外の理ということがあるのかと納得されたようでした。それで私の世界で伝わる歴史を、と言っても私が12歳頃までに記憶したものですから順序がばらばららしいと言うことは、先生とも最近の各藩の動きから確認していますがね。 それで大きな幕府の方針と家茂様の御世が長くは続かず、幕府が行き詰まると言う事をお話いたしました、どうしても先生と坂本さんにはお話できないのは坂本さんの遭難についてですが、くれぐれも身辺にはお気をつけ下さるようお二人に念を押したのでございます。 私も安政2年にこの世界に来てからこの文久3年10月で早くも八年という年月がたち20歳になっていました。 この年の動きで私が覚えているのは暮れに将軍さまが海路上洛されるはずなので、天候にご注意するよう申し上げたのですが、果たして暮れの28日に家茂公が再度上洛のため先生もまたも京師に上がられました。 このときは翔鶴丸でお出かけでした。 |
||||
このとき参加された艦艇は蒸気船だけでも 幕府艦隊 司令長官勝麟太郎 翔鶴丸(蒸気) 将軍家茂公の座乗船 艦長 肥田浜五郎。 朝陽丸(蒸気) 艦長 伴鉄太郎。 太平洋横断の咸臨丸の姉妹艦 蟠竜丸(蒸気) 第一長崎丸(蒸気) 各藩艦隊 黒竜丸(蒸気) 越前 安行丸(蒸気) 薩摩 船将大山彦介、後の大洲藩船いろは丸 観光丸(蒸気) 佐賀 幕府貸与、日本最初の蒸気船 錫懐丸(蒸気)
加賀 前年(文久2年)12月に購入する 発機丸(発起丸)と改名される 大鵬丸(蒸気) 筑前 第一八雲丸(蒸気) 松江 前年(文久2年)12月に購入する。 そのほか帆船も何艘か参加したそうですがメモを残し忘れてしまいやした。 |
||||
先生たちが京に行っておられる間に、こちらでは文久4年のお正月が来て奥様にご挨拶がてら異国の珍奇な品物など携えて氷川町まで参りました。 供に手代番頭など何人も連れてのお江戸なのでおつね母さんなど「寅さんのダンナなんて立派に」とついこの間あったばかりなのにまた涙など流され照れてしまいやした。 おつね母さんのところも隣も借り受けて雑貨小物も豊富におき京、長崎どころかロンドン、パリの品物まで置くので引きもきらぬ盛況でございました。 こちらには帳簿のつけ方を教え込んだ若者を二人会計責任者としておき母さんの負担も減り「やれやれ大きなお金の上で寝なくて済んでほっとするよ」など言いますので「金蔵でも作るかい」と冷やかしますと「何言ってんだい、店に金を必要以上に置くなったのはおめえさんだよ」と威勢の良いことは昔どおりでございます。 シナの香炉に外国の香水においの良いシャボン、スカーフなどお子様にも喜ばれる品物も多く取り揃えました。 最近外人用に開いたパン屋で(アメリカからフランス人の職人を月30両と言う破格の給与で来て貰いました、壱年間働いたら帰国費用と報奨金を百両と言うので少し悩みましたが仕事を教えるという約束なので何とかなるでしょう)パンとビスケットを焼いて、それもバターの香りのないやつと有る物を持参いたしました。 何の心配する必要もなくバター入りのほうがおいしいと評判でやした。 このバターも国内で調達したものだからでやしょうか、私が食べても元の時代のものと遜色が有りませんでした、お琴にも持っていきましたら幼いながら味に記憶があるらしく涙を流しながら食べてくれました。 少しあの当時の事情を少しずつ話し始めているので記憶がよみがえってきているのかもしれません、今年12歳になり頭の回転の良い子でご両親様にもかわいがられて育っており、ほかにお子が出来ない寂しさなど考えることなどない様子でした。 「寅ちゃんコリャいいや、時々届けておくれよ」と、おたみさんというほうが似合う口調で奥様に言われ月に2度は手代がお届けする約束をいたしましたが、年賀に来ていた岩さんと杉先生は煎餅のほうがよろしいですなんていっては、お子様たちに「文明に乗り遅れますよ」などいわれ困っておいででした。 この年1864年文久4年には先生のお子さんは、お夢さん18歳(19)、お孝さん15歳(16)、小鹿さん12歳(13)、四郎さん10歳(11)お逸さん4歳(5)の2男3女でまだ梅太郎さんは生まれておりませんでした。 |
||||
摂海警備、及び神戸操練所経営の命が先生に2月に入り下りました。 短い間の操練所になることは先生も承知なのですが、坂本さんを交えて話したときに、危険人物の入所を控えて長く経営できないでしょうかと坂本さんが言うと、「ばかぁ言うなよ、危険人物の第一人者はおめえじゃ無いかよ」これには3人ともに大笑いで涙が出るほどたまらない可笑しさでした。 「エこのときですか、もちろん先年に横浜へ先生たちが浦賀から徒歩でおいでになったときですよ、私たちも先に遊びに行かれている方たちに合流して、遊郭が大喜びするくらい豪遊いたしましたよ、なじみの子も居て皆さんに冷やかされながら遊ぶのも楽しいものでございます」 坂本さんは藩からの帰国命令を無視して盛んに各藩の間を飛び回り行方を捜すだけでも皆さん苦労されていましたね。 2月に文久から元治と元号が変わり、私の記憶もこのあたりの歴史の流れを把握しきれない時代になり油断できない情勢は緊迫感を増すばかりでした。 5月には海軍操練所が完成しましたこれを受けて、各藩の優秀な人材がここと先生の海軍塾に集結して来ました。 安房守任官は正式には5月14日に大阪城にて,軍艦奉行、作事奉行格,且つ諸太夫を命じられまして安房守を名乗ることになりました。
神戸繰練所取立,摂海警備の事を委任される。(2千石、役金250両) 2年前に五百石、千石と倍に上がった先生の石高もついに御大身といわれるご身分におなりになられました。 |
||||
7月11日に佐久間象山先生が京都で、暗殺されるという事件が起きました。 同じ7月の19日には禁門の変が起こり長州の勢力が京都から追い払われることになりました、このことが良いこととは思えない人も居たことは事実です。 8月には西郷さんに坂本さんが会いに行き意気投合されました。 先生と坂本さんのお二人のこの時期のことを書き出したひにゃいくら枚数が合っても足りるもんじゃございやせん。 元治元年8月5日には英、米、仏、蘭の四国連合艦隊が、長州藩に対して本格的な攻撃を開始しました。 後の祭りと言いますが先生の「貧乏くじを引かされるのはいやんなるぜ」という言付けが来たのは、私が下関に4カ国の連合艦隊が近づいているということを知った翌日の8月16日早朝でした。 8月12日 英・仏・蘭の軍艦,豊後姫島に滞伯,長州と事を起こしそうなので,先生に止めに行く様に命じられる。 しかしながら、長州藩はこの戦いによって攘夷の不可能を知りました。 このことは後に直接先生から聞き、私の歴史への記憶が薄いことを改めて認識しましたが、先生はもしかすると後の時代の俺が詳しい歴史を教えないように指図デモしたかもしれないと言われ、実際に子供の時の私虎太郎に大きな流れ以外教えてはいけないと何度も念押しされました。 |
||||
2008年4月7日初出 ・ 2024年1月28日改定 |
幕末風雲録・酔芙蓉 |
|||||
寅吉妄想・港へ帰る | 酔芙蓉 第一巻 神田川 | ||||
港に帰るー1 | 第一部-1 神田川 | ||||
港に帰るー2 | 第一部-2 元旦 | ||||
港に帰るー3 | 第一部-3 吉原 | ||||
港に帰るー4 | |||||
妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編 | |||||
幕末の銃器 | 横浜幻想 | ||||
幻想明治 | |||||
習志野決戦 | |||||
第一部目次 |
第二部目次 |
第三部目次 |
第四部目次 |
第五部目次 |
目次のための目次-1 |
第六部目次 |
第七部目次 |
第八部目次 |
第九部目次 |
第十部目次 |
目次のための目次-2 |
第十一部目次 |
第十二部目次 |
目次のための目次-3 |
1 | 習志野決戦 − 横浜戦 | |
2 | 習志野決戦 − 下野牧戦 | |
3 | 習志野決戦 − 新政府 | |
4 | 習志野決戦 − 明治元年 |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
|||
横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
|||
改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |