港へ帰る

    
 第壱回-寅吉妄想     根岸和津矢(阿井一矢) 

 

「大正大震災誌」(報知新聞付録・大正129月)1923年

  大正12年、91日正午、源を伊豆大島付近の海中に発した地震は、東京湾、相模湾沿岸一帯の地方をゆりつぶして、安政2年(1855年)102日の夜に起こった、江戸大地震以来の惨害を加え、同時に各所に発した火のために、大東京の大半、横浜・横須賀の全部は焼き払われ、死傷算なく、沿海海底の地形に大変化を示し、その損害程度にいたっては、実に世界有史以来と伝えられる。ここにその顛末を記して、後世の記録に残すゆえんである。
 その日はちょうど210日の前日であった。東京地方は午前3時頃、やや激しい風雨を催したので、農家の厄日を気づかい始めたが、夜が明けてみるとカラリと晴れて、さわやかな初秋の朝日を見せた。人々、ホッと息をついた昼頃、どこでも午餐の支度を整え、あるいは食卓についている時分、不意にどこからともなく、異様の音響が起こったかと思うと、たちまち大地が波うちはじめて、振動は次第に激しく、やがて一大震動とともに、壁が崩れ、屋根が落ち、塀が倒れ、柱が折れ、家という家はことごとく大破し、あるいは倒れ、あるいは潰れた。土煙が八方から上がったと見ると、早くもその中から紅蓮の舌がよろよろと上がり始めた。2度目の強震がきたときは、ほとんど屋内にいる者はなかった。逃げ遅れた者は悲鳴を上げて助けを呼ぶ。阿鼻叫喚の大地獄は、至る所に現出された。


「エッ、アッシが二人の孫が行方不明でもそれほど悲しんでねぇですって、そりゃしんぺぇしていやすよ。だけどよ孫たちが無事だつぅこたぁ自信があるんでげすよ」

寅吉がそういうと記者がどうしてだと言うが寅吉はただでぇ丈夫だと言うばかりだった。

言葉が貿易商社の会長の割りにぞんざいなのは、江戸に育った彼の昔を知るものには親しみを覚えるようで80歳を越えた今も無理に直すことなく昔のままに使っていた。

寅吉は英語でしゃべっても横浜英語なのでやはりべらんめぃ口調は変わらないと皆が言うので最近は社員が通訳を買って出るのでもっぱら日本語で取引をしている。

その日東京から、泣きくれている孫たちの乳母の梅とともに、横浜に戻った彼はアメリカにいる息子夫婦に地震の顛末と彼の日記と手控えを送る荷作りを始めるのだった。

彼と彼の息子が経営する氷川商会はここ横浜では老舗に属する輸出入の貿易商だった。

サンフランシスコとシアトルに支店を持ち日本でも神戸と函館そして長崎に支店を置き横浜は今本店とは名ばかりの寅吉の住まいがあるばかりだった。

それは半年ばかり前突然に、寅吉から息子の了介に「会社の発展のために、これからの方針としてまずシアトルを本拠地にする、横浜はしばらく幹部社員の養成が済むまで、閉鎖の予定でいろ」と言い渡されあわただしく準備のために3ヶ月かけてそれぞれの支店に荷物の大半が移動し、二人がアメリカにわたったのはわずか20日前のことだった。

嫁の光子は子供たちを置いていくのを嫌がったが以前から乳母をつけて教育させていたため寅吉に「向こうが落ち着いたら一緒に連れて行く」と言われると仕方なく船に乗るのだった。


横浜では梅の連れ合いの哲三が留守の家を守っていたが無事の二人を見ても二人の幼子について何もいわなかった。

横浜まで同じ船で来た記者も、震災の詳細な記事を本国のアメリカに送りさらに報告のために本社から交代の記者が到着次第にシアトルに帰ることが決まっていた、帰りの船が出るまで奇跡的に横浜に残った寅吉の屋敷で3人の記者仲間と寝泊まりしているのだった。

哲三は無口で普段も冗談も言わず懸命に寅吉に尽くすことだけが生きがいのようだった。

「おりゃ、ダンナに命を助けていただいたから」と聞かれると答えるくらいでどういう経緯かなど梅にも話していないようだ。

その哲三に寅吉が「梅がしんぺぇするからきちんと俺らのことを話しておけ」と言われ、早速に一日がかりで説得したが梅には何がなんだかわからないようだった。

電話で話しても心配のあまりに、先月神戸に戻ったばかりの寅吉の妹の琴が横浜に着いて梅に詳しい話をして漸くに納得したのだった。


その朝、横浜を出た虎太郎と幸の二人の兄弟は梅と寅吉に連れられて、東京駅から二重橋の前で震災に出会ったのだった、不思議な事に昔風な着物に着替えさせられおおはしゃぎで汽車の窓から街を見ていたときの気難しいジジの顔に何かただならぬものを虎太郎は感じていたのだった。

昔風のジジのひょうたんの水筒と幸の背中に風呂敷包み結わえその幸を背中にしょわされて「琴を頼むぞ」と言う言葉が二人の大人たちと別れ別れになる最後の言葉だった。

どこか遠くで梅が「ぼっちゃ〜ん、おこうちゃ〜ん」と泣き叫ぶ声が聞こえてきたようだが地面が揺れるのとあちこちで火の手が上がり、見たこともない屋敷町をただどこまでも逃げるのがやっとだった。

どのくらいの間逃げたのか、二人でひょうたんの水を飲み、握り飯を食べ寄り添うように眠り目が覚めるとなじみのない町とちょんまげ姿の道行く大人たちの姿におののく二人だった。

「オイオイどうしたんディ、おめえたちゃどこのがきだい」はっぴ姿の威勢よい声に目が覚めると其処は人の家の庭らしくぼろぼろの家の周りで多くの人が後片付けに忙しく立ち働いているのだった。

「おいらたちは、神奈川から来たんだ、ジジたちとはぐれてしまって帰れないんだ」と言い「おいらはこたろう、これゃおこうってんだ」いつもジジがしゃべるので身に付いた江戸の言葉が通じるようなのでやはりここは東京のどこかで、この人たちは昔風に過ごしているのかと安心したのだった。


「岩さんどうおしだえ」きりっとした奥様が声をかけると、岩さんと言われたいなせな兄さんが。「姉さんこのガキどもも親とはぐれたみたいですぜ。何でも神奈川から来たそうですぜ」「親が捜しているだろからしばらく面倒見ておやりよ、下駄屋のばあさんの家が残ってるから家主にかけあっておやりよ」「よろしんですかい」「こういうときゃお互い様さ、ここに来たのも何かの縁だから食い扶持くらい何とかなるさ」

「なんか身元の書きつけでも、持ってるのかい」風呂敷をさしていうので差し出すと、「こりゃ大変だ、なんと小粒で20両も持ってるよ、親は全部この子にしょわしていたのかも知れないね」「岩さん、こりゃたいそうな家の子かもね、身元は神奈川在・虎太郎・親の名が了介と光としか書いてないよ、これじゃ親元を捜すのに手間がかかるかもね、親の屋号はなんだい」

「苗字は根岸といいます、家は神奈川です」ジジがもし迷子になってもそれ以上言ってはいけないといつも言っていたのはこういうことかと思い虎太郎はお幸の書付も同じなんだと思ったのでした。

「苗字が有るなら案外簡単かもしれないから、安心おし」「はい」おこうも「はい」と答えると満足げに「杉さんちょっとこの子達の面倒を誰かに見てやっておくれなさいよ」「どういたしました」とお侍さんが出てきたので虎太郎はまたもびっくりしましたが、自分が驚いてはお幸が怖がると思い驚きを押し殺すのでした。

「親とはぐれて困っているから当分岩さんに預けようと思うんだけど、お金は十分あるから食い扶持は大丈夫だし、とりあえず奇麗にしておくんなさいな」「かしこまりました」

「二人ともこっちに来てとりあえず行水をして食事をしなさい」と言われ裏についていきました。

裏には子供たちが井戸から水を汲んでお風呂に入れてくれて、火をたいてくれてその間に温かい味噌汁で暖かいご飯をいただかせてくれました。

お幸は若い女の人が一緒に入って洗ってくださり「古着だけどがまんしなさいね」と乾いた着物に着替えさせてくれました。

この家には自分より大きい子が居ないのに小さい女の子も台所で何か仕事をしているのを見て感心するのでした。

自分は何が出来るのかと考えるとジジとやった薪割りぐらいしか出来ないと思い、家に戻ったら必ず役に立つ人間になろうと誓いを立てたのでした。


岩さんが迎えに来てくれて「家が決まったから連れて行くぜ」というので「お世話なりました」と挨拶もそこそこに新しい家に連れて行かれました。

下駄屋と聞いていたのに普通の仕舞屋なので聞くと「前に住んでいたのが下駄屋の隠居だったのさ」と言われ納得いたしました。

「俺のうちはこん裏側だから」と言われ、付いていってお上さんに挨拶いたしました。

大家にも挨拶しておこうぜと言われ、「根岸虎太郎とお幸です、よろしくお頼みいたします」と言うと「オゥオゥ、律儀なこった親が見つかるまで安心してすみねぇ」とジジそっくりな口調で言われてつい涙が浮かんだのですが、きづかぬ振りをしてくださっているうちに袖で拭いてしまいました。

「勝先生のおうちは、もう片付いたのかい」「エエ、お弟子さんたちが総出で屋根を葺いてつっかい棒をしなすったので、わっちの出番がないくらいで参りやした」「あそこのお弟子さんは何でもしなさるので、奥様はたすかりなさる」と世間話をした後、家に入りますと岩さんのお上さんが家の中のイロイロな品物をそろえてくださっておられました。

「食事はうちで支度するから心配要らないよ、それと自分で何もかもしなくていいように一人居候に地震で家がつぶれたばあさんをおいてやっておくれな、そうすりゃなれない掃除や洗濯の心配もないからね」ジジがいつも言うように江戸の人間は何事も助け合いが大事だと言うことが身にしみて実感いたしました。

「よろしくお願いいたします」と言うと、すぐにばあさんと言うほどでもない粋なおばさんが風呂敷と三味線を抱えて来ました。

「家のない同士なかよくやっておくれ」お上さんと岩さんに言われ「あっちはツネというんだよ」といい私たちも「寅太郎です」「幸です」と二人そろって挨拶すると「お幸ちゃんかい、よろしくたのむよ」とお幸を抱いて「仲良くしようね」と家に入りました。

だれと話しても今が大正でここが東京ということが通じませんので虎太郎は困ってしまいますが「今は安政でここはお江戸サァ」「地震で頭がおかしくなったかい」と言われるばかりです。

お幸に話しても通じるはずもなく、困って寅太郎は一生懸命に考えました。

「そうか前にジジが読んでくれた、文明奇談 八十万年後の社会、と言うウエルズという人の書いた話のことが地震の影響でおいらたちに起きてしまったのか」と考えるのでした。

今年から中等学校に入り勉強が好きで、英語も習い覚え、将来は帝大ですなぁなどと皆に言われてもジジが言葉を濁していたのはこの事を知っていたのかと思ったりもして一人悩むのでしたが、こうなると普段からジジに習っていたことが少しずつでは有りますが思い出してきて、生活をどうするか考えをめぐらすのでした。

そうするとやはりジジが話してくれた歴史が頭の中に浮かんできます。

それでは、勝先生とはあの海舟先生という人で今は安政の大地震のあったということはもう直にころりの騒動もあるのかということに思い当たりました。

虎太郎は杉先生に頼んで塾に入門して勉強を始めこの時代のことをさらに学ぶことにしたのでした。

「20両でどのくらい生活ができますか」と言うと「そんな心配しなくても直に親が見つかるさ」と岩さんも取り合っては下さりませんでしたが、勝先生の奥様たみ様というそうですが、奥様は何か察したのか「兄弟で生きてゆく気が有るなら、お幸ちゃんを養女にほしがってる人がいるのでかんがえておきなさい」と言われどのような人か教えていただきました。

「この間の地震でお琴ちゃんというお幸ちゃんと同じくらいの子をなくした人がいるのさぁ」とお旗本の奥様とは思えない砕けたお話でした。

薬屋のお店で地味だけどしっかりした人たちだよと言われ、「あのいつも幸を遊んでくださるおかみさんでしょうか」「そうだよここであんたが勉強してたりするときにはあやしてくださってるあのひとさ」虎太郎は「しばらく考えさせて下さい」と奥様にいい、真剣に考えるのでした。

京都の大叔母様はお琴で生薬屋だしもしかするとジジが自分で大叔母様がお幸なのかと考えるとさらに訳がわからず悩むのでした。


ジジが自分だとすると、おいらたちの将来は心配ないが、周りの人たちとジジが話してくれたことがどう繋がるのかと、毎日暇になるとそればかりを考えてしまう虎太郎でした。

「おいらに出来ることはナンだろう」ジジが歴史は何をしてもかわりゃしないさと、言っていた事も思い出し出来ることは限られているのだろうか、何か変えることが出来るのだろうか、変えても明治時代は来るのだろうか、ジジはおいらたちの本当のおじいさまでなく、お父様がジジの養子だということは知っていたので、ありえることなのかと納得する日もありますが、またふしぎに思う日もあり、なぜジジが危険な震災の真っ只中に二人を投げ出したのか、なぜこんなことになるのか堂々巡りが続くのでした。

唯アメリカの言葉がわかるということは、迷子になったときにわかってはいけないと教えられていたのでひた隠しにして、誰も居ないときには忘れないように勉強のため砂地に書いて遊ぶのでした。


横浜を8月11日に出港して16日目の大正12年8月27日、了介と光子は旅で仲良くなった同船者たちと上陸の用意をした。午後4時20分にゴールデンゲートを過ぎ、夕方サンフランシスコに着くという話だ。目の前に広がる風光は限りなく夕日に照らされて3度目の了介でさえ見とれてしまうくらいだった。
ゴールデンゲートを入り、迂回してサンフランシスコに到達。


Golden Gate Strait ゴールデンゲート海峡
 ゴールデンゲートブリッジGolden Gate Bridge 全長2,825メートル。
金門橋(キンモンキョウ)とも呼ぶ。
 
1937. 5.27(昭和12)完成
 

船は岸へと進み、橋を過ぎて何度来ても好きになれない最も不潔な税関を通る。

税関から外に出る門があるが、一人ずつ出ることはできないのだった。

夫婦はこの夜、着替えだけを持って、その他の荷物を船に残してコスモポリタンホテルに着いた。

寅吉に言われていた通りにこの日封蝋されていた包みを開けると2通の手紙とともに古ぼけたお守りが入っていた。

「あなたこのお守り何か見覚えがありません?」「そうだねこの間子供たちに買ったお守りと同じもののようだ」厳重に防水されていた中の手紙を開けると見慣れた父の字で、父上様母上様と書かれた手紙と、叔母の琴の手で書かれた同じ父上様母上様と書かれた手紙が入っていた。

訳がわからずともただ事ではないと感じながらも二人で別々にその2通の手紙をあけて読むうちに、二人は涙でその手紙を読むことが出来なくなってしまったのでした、声もなく泣く二人は交互に手紙を交換しながら夜のふけるのも忘れ、流れる涙で二人のわが子が書いた手紙を読み続けるのでした。

「父上様、母上様、孝養も尽くせずこのような形でご連絡申し上げることをお許しください。実は私寅吉はあなた方の息子の虎太郎です、信じられないこととは存じますが、この手紙が真実だと言うことはまもなく届くであろう大震災のニュースでその真実であろうということがお分かりいただけると存じます。9月1日に私たち兄妹はジジに(実は私の後の姿ですが)連れられて、東京に出かけ大震災に遭い何ゆへか存じませぬが、江戸の安政の大地震の真っ只中へ放り出されてしまいました。今考えると私が自分自身をこのような試練の中に放り出すのは歴史を変えることがこの世界に与える影響を海舟先生から硬く戒められていたためと、自分の歴史は自分で作り変えることは出来ないと覚悟いたしたからです。そして岩さんと海舟先生の奥様おたみ夫人にお助けいただきご両親様の知る私たちへと人生を歩んでまいりました。」

その長い手紙はマダマダ続きがあるのですが、二人はその先を中々読み続けることが出来ませんでした。

もうひとつの小さな封筒には、新しい小さな手形と、古ぼけた手形そして寅吉と琴の手形の3通と念書と書かれ立会人杉純道の名で封がして有る文書そして二人連名の遺書が入っていました。

其処には「もし大震災で二人が無事向こうの世界に行きつけない時には海舟先生に言われたように現在の寅吉と琴が居ない歴史になるであろうから、この手紙もないことになっているかも知れず、わが人生の終焉が来るであろう」と書かれていました。

そのようなことがあろうとは信じられない二人でしたが、父と叔母が普段から常人とは違う考え方と危機を回避するすべを身に着けていることを考えるとありえないことではないとも思えて、ただただ呆然と一夜をすごすのでした。


「アッ」と虎太郎は思い出したのだった。

あの時ジジは確かに「琴をたのむぞ」と言ったのだ、動転していたしその後の混乱で今まで記憶の底に沈んでいたそのときの言葉を虎太郎は思い出したのだった。

「そうかジジはやはりおいらだったのだ、とすればお幸はやはり大叔母様だったのだ」と気づくと虎太郎は奥様に「お幸のことはお任せいたします、ただ自分と兄弟の縁は切らせないでいただきたいのです」「そうかい、それじゃ早速連絡を取っておくよ、で条件はそれだけかい」「実はおつね叔母さんもお幸が気に入っているのでお乳母さんにしていただけるか会いに行ける様にして頂けると喜びます、もしだめでもお預けいたしますので、記念に手形を採って奥様に但し書きを書いていただけないでしょうか」「いいとも万事お任せなよ」奥様が請け合ってくださって次の日には杉先生が立ち会って双方の念書を書いて交換して下さいました。

其処には次のように書かれていました、難しい字で厳しく書かれていたのでわかりやすく教えていていただいたものです。

神奈川住人根岸虎太郎妹幸儀改め琴は本日安政3年丙辰正月吉日神田生薬商養繧堂吉兵衛養女と為し杉純道これを証す。

双方これからは親戚づきあいと為し、双方の訪問を妨げないものとし、養繧堂は根岸虎太郎の後見人と為し、同居人つねに小店を開かせその店請け人となす。

虎太郎はまだ訳のわからない小さいお幸でよかったと思いながらも寂しい気持ちを押し殺しお幸改め琴を吉兵衛さんとお初さんに預けるのでした「お幸よく聞いておくれこれからはお初叔母さんではなくおっかさんというんだよ、お前の名前もお琴という名になるけど安心しておかみさんに甘えていいんだよ、そして新しいおとっさんとおっかさんとして孝養を尽くしておくれ」小さく事の理非もわからぬ乍もお幸は「あんちゃんも達者でいとくれな」と回らぬ口で言うさまは、おたみ様も涙で瞳を曇らせるほどでしたが、杉先生の「新しい家族の誕生のお祝いだから岩さんに景気をつけてもらおう」と言う明るい一言で集まった皆で手拍子も賑やかにお琴たち3人を送り出したのです。

おつねさんも小店のことが決まるまでは昼間は養繧堂さんに手伝いに出かけて、お琴が寂しがらぬ様に相手が出来ることになり安心した様子でした。

日本に最初にコレラが流行したのは文政5年(1822年)で、この病気の予防措置を取ることは全くできませんでした。

安政5年(1858年)コレラが再び流行した。前年米艦ミシシッピー号がシナから日本に持ち込んだものである。

長崎から江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて蔓延し、葬列の棺が昼夜絶えることなく、大通りや路地につらね、どこの寺院も列をなしたという。

江戸だけでも死者10万〜26万人と言われています。

次のコレラ流行は文久2年(1862年)で、江戸だけで7万3千人の死者が出たといわれる。

 

安政5年3月長崎からの便りでコレラのことを聞いた虎太郎は、養繧堂を訪ねコレラの対策について話しをするのだった、どお対処してよいか誰も知らないので困りますと言う吉兵衛さんの話なので15歳になった虎太郎は書いてきた書付を渡し必ずお江戸にまで来るでしょうから今からどんなに暑い日でも生水と生ものは口にしないように火を通すことを言い置くのでした、そしてそのためにも消化薬と清涼剤を多く用意するように勧めるのでした。

虎太郎のもといた時代にはコレラは細菌感染と言う事は知られていましたが、清潔な水をたくさん飲む以外の治療方法はジジにもわからなかったので虎太郎にも多くの犠牲者を助ける手段などありえようもないのでした。

杉先生を通じあちこちにも同じように書付を配る事を勧め少しでも犠牲を食い止めようと努力しましたが、蟷螂の斧と言うべきか15才の少年にはその力はなく多くの犠牲が出ましたが幸いにも周りの人々は早くから用心して居たためか犠牲者は最小に食い止められました。ころり騒ぎにまぎれて安政の大獄といわれる進歩人たちの取締が厳しくなり、勝塾の塾生たちも気が休まらない毎日が続くことになりました。

よく間違えるのでございますが安政の大獄が始まった後で十四代さまがお決まりなられたのが正しいのでございます。 

十三代様がなくなったのが7月で発喪は翌8月、徳川家茂公将軍宣下は10月25日でそのおよそ一月前から安政の大獄と言う騒ぎが始まったのでした。

お刺身の食べられない夏はつらい夏だったとジジが昔語りに語ったその安政5年も過ぎ去りいつかお江戸もころり騒ぎを忘れるともなく過ぎて行くのでした。

 

安政6年の年が明けると海舟先生も長崎から帰り先生のお屋敷も賑やかになりました。

虎太郎も始めて先生にお目にかかり改めて畏敬の念を強くするのでした。

軍艦操練所教師方頭取というお役に付かれた海舟先生は忙しく毎日を送られていました。

1859年7月1日(安政6年6月6日)には、神奈川(横浜)長崎、箱館(函館)開港がありますので、通貨の事に付いて、杉先生に報告をいたしましたが、幕府の腰を動かすまでにいたりませんでした。

このことは杉先生に春先から小判での流通を止められるように進言をいたしておりましたが果たして金の流失をとめることは出来ず漸くに翌年になり通貨の価格の改変が行われ小判の値打ちも下がりました。

外国に流れた金は国力を損なうに十分な量でした。

もちろん杉先生も私も尻馬に乗り儲けることなど思いもしませんでしたが、銀での取引か信用での買い物にして少しでも金の蓄積が出来るようにつとめました。

7月になり海舟先生のお屋敷は氷川神社裏の赤坂元氷川へ引っ越しすることになり、塾生も岩さんの家のかたがたも総出でお手伝いするのでした。

いよいよアメリカ行きの事が決定してその準備に忙しい先生に意を決した私、虎太郎は奥様と岩さんを含めた3人だけに身に起こった不思議を、話すことにしたのでした。

そして先生はご無事で任務を成し遂げることと自分が英語を少しだけでもお手伝いできることを告げ、日常の挨拶程度の言葉を書いた書付を差し出したのでした。


  Good morning. 
 Hello. 
 Good evening. 
 I wish you sweet dreams!
 I haven't seen you for a long time. 
 I will must be going. 
 Night in daytime in morning. 
 Rain, clear weather, and cloudy weather.
 おはようございます。
こんにちは。
今晩は。
おやすみなさい。
お久しぶりです。
失礼いたします。
朝、昼、夜。
雨、晴れ、そして曇り。
  I'll be back. 
 It returned just now. 
 We will wait. 
 It came well. 
 Moreover, please come
 行ってきます。
ただいま帰りました。
お待ちしています。
良くいらっしゃいました。
またお出でください。
 

岩さんとおく様は呆れたように自分を見ていましたが先生はそうかといって自分を見つめ、そのような不可思議な事も世の中にはあるものだと言って、すぐさま信じてくださいました、そして「このことは誰にも喋っちゃいけないよ」と細かくいろいろなことについても注意してくださいました。

「二人もこのことは必ず内緒だぜ」と岩さんや奥様にも告げそれからは虎太郎が教授となり英語の勉強にも熱が入るのでした。

先生のお出かけには付き添いに呼ばれては、行き帰りには発音の練習をしましたが、オランダ語と英語の混じった会話は不思議な感覚でした。

しかし私虎太郎が未来の世界から来た等と言うことも、英語が喋れるということも時期が来るまでは4人だけの秘密となりましたので授業はもっぱら岩さんの家の二階で行われました、おかしなことに岩さんまでがグッモニン・グッナイなどと片言で喋るさまはどれだけ先生を笑わしたことでしょう、アメリカでどこまで通じるかわからない私の片言の英語でも当時の日本では貴重な情報なのでした。

先生の吸収する様子は私の想像をはるかに超えてすさまじいものでした。

 

単語はともかく文法など先生のほうが、理解力にすぐれており、英語で書かれた本を入手してこられては読み進み、私の勉強不足を先生に教わるほどになりました。

先生はあくまでそれを隠して英語はわかりませんという顔をして、フフンといつもの皮肉な顔をしておられたようです。

 

安政の大獄のことはジジが口をすっぱくして教え込んでくれていたので怖さもあり、来年になって海舟先生が帰りお土産の英語の授業が始まるまで内緒と言うことになりました。

伊井大老の暗殺については口を閉ざしておりましたが先生は先を見通す目が鋭くこの先10年いやその先を見ているようでした。

私がおつねさんにやって頂いているお店も今では後家さんたち5人で切り盛りするほど忙しく私はお金に不自由しなくなっていたのです、後家さんだけのお店とはいえ岩さんの顔も聞くので地回りにいじめられることもありませんでした。それに養繧堂さんからもアドバイスで儲かったお礼に日常の品や着る物が季節ごとに替えを含めて何着も届くのでお金を使うことは少ないのでした。

当時16歳の私には使いきれるものでは有りませんでした。

それでシスコで英語の辞書を何冊も買えるだけのお金を先生に預けて輸入していただくことにいたしました、もちろん福沢先生のことも話してすべて内緒で執り行うことにいたしましたし勝塾へのご恩返しもありました。

それと余分に余った分は絵本、子供向けの教材用に簡単な本を選んで買っていただきました。。

岩さんも見送りにいけないまま先生はいつの間にか船上の人となり、もう降りてはこられませんでした。

先生は船酔いの振り(本当は出帆前の無理がたたり、風邪がひどくとても船に乗られる状態ではありませんでした)少しは本当の船酔いもしたそうですがね。

ジョン万次郎さんをたびたび内緒で呼んで発音の練習をしたり、アメリカ士官の方々とも会話を内緒で練習して、サンフランシスコではある程度あちらの方の言うことも理解できていたようですが、やはり知らん顔をしていたほうが便利ということで、万次郎さんにも内緒にさせていたようです。

安政7年の年になり先生が1月13日に出帆して、お帰りの前に大老が暗殺され年号も万延となりました、先生は閏3月19日 サンフランシスコを出航

4月3日 ハワイ諸島到着

4月6日 ハワイ,ホノルル出航

5月5日 浦賀到着

5月6日 品川湾へ投錨

6月1日 一行は帰朝謁見。

6月24日 天守番之頭、蕃書調所頭取助を命じられる(400石)

と言う中で8月にはお逸さんがお生まれになりました、奥様の子ではなく増田糸さんのお子さんです。

このお糸さんは後にお生まれになる八重さんの母親のいとさんとは違うお人です。

海舟先生はおもてになるので奥様は苦労なさることを知っている私はつらい立場でしたが、それらのことは知らぬ振りを子供ながらに続けていました。

    

2008407日初出 ・ 2024127日改定


幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
 幕末の銃器      横浜幻想    
       幻想明治    
       習志野決戦    
           


 第一部目次
 第二部目次
 第三部目次
 第四部目次
 第五部目次
 目次のための目次-1
  第六部目次
 第七部目次
 第八部目次
 第九部目次
 第十部目次
 目次のための目次-2
 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

       酔芙蓉−ジオラマ・地図
 神奈川宿    酔芙蓉-関内    長崎居留地  
 横浜地図    横浜
万延元年1860年
   御開港横濱之全圖
慶応2年1866年
 
 横浜明細全図再版
慶応4年1868年
   新鐫横浜全図
明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
   最新横浜市全図
大正2年1913年
   横浜真景一覧図絵
明治2471891
 



カズパパの測定日記




Torakiti-02.htmlへのリンク