演劇「鉄道員」を観る

しばしば言われることだが、演劇と映画と小説は表現できるものが異なります。

同じものを作る必要など無いのですから、分かっておれば問題はありません。

しかし、世間一般ではほとんど理解されておらず、しかもどれも商業的課題も抱えるために「小説の完全XX化」などの宣伝が度々行われます。

浅田次郎作「鉄道員(ぽっぽや)」は小説としても成功した作品ですが(直木賞の選考委員がなにを評価したのかは疑問ですが)、映画化もされました。

脚本家にも魅力的な作品だったらしく、いちはやく戯曲化されて、大阪新劇でも「きずかわ」で舞台化されました。

本作には「鉄道の廃線問題」「鉄道員のかたくなまでの職業意識」のテーマがあり、これだけで充分にどのメデイアでも成功する題材です。

一方、主人公が迎えた最後の夜の出来事の解釈は、非常に難しいものがあります。

通常の小説においては真実を書かない事で得るものの方が多いことが度々あります。

一方、ミステリーとして見ると、作者が真実を書かない事はルール違反です。

本作はミステリーとは言っていないので解釈が多数考えられます。

一番単純なのが「夢落ち」です。

小説の出来事は大部分が主人公の夢だったと言う解釈です、ミステリー的解釈とも言えます。

SF的には、「死者は死ぬ直前に一瞬に過去を思い出す」という考えがありいくつか作品もあります。

これは夢とは異なるものです、そして誰も確認できません。

ファンタジー的には、理由はなく不思議な事が起こったということになります。

夢ではなく実際に起きた所が異なります。

小説では書かない事で、読者に個人ごとに異なる解釈を与えることに成功しています。

一方、映画は小説と異なり視点がはっきりしない場合が多く、結局この部分からは逃げた感じがします。

演劇は映画と異なり、逃げ難い面があります。

脚本は2つのテーマを強く浮き彫りにして、最後の場面は「不思議な事が起こった」と素直に受け入れたように思います。

どうするのかなの興味も有りましたが、一番素直な解釈がほかのテーマを強くする事にもなりよかった様に思います。

舞台は、小説や映画よりも制約が多いですが、本作では主人公の乙松の比重が非常に高いため、充分に太刀打ちできる様に思いました。

イメージ通りの主人公が登場したように感じました。

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