人間と機械

何事も競うのが好きなのが人間です。
比べるという表現もできますが、わざと必要の有無が不明確なスポーツや競技等を作るのは結果が判りやすいからでしょう。
古代ギリシャから既に存在していますから、人間の性格そのものといえるでしょう。
古代ギリシャの絵を見ると、ほとんど何も着ていないか簡単な服装で、如何にも人間が競うイメージがあります。
スポーツや芸術の賞や、頭脳競技の勝敗などが古くから存在します。
必ずしも競うのが目的でなくとも、順位つけや審査は人間持つ宿命とも思えます。

特に娯楽性の高い事は、沢山考え出され、いくつかは日本中、そして世界的にも普及しました。
娯楽性が目的だと、ルールや使用道具や施設も必要な物が多くしかも高価になる傾向があります。
それは自然に行える環境や地域や国が限定されることに繋がります。
シンプルで安価なものは制限無く世界に広がる可能性があります。

人が競うと言っても、道具等が関係するとまた練習等に多様な機械が導入されると、もう単純に人間のみが競うとは言いにくくなります。

一方で機械の性能という、殆ど実用な事があります。
例は多いですが、コンピュータの速度や自動車の燃費などがそれに当たります。
ただし、技術には性能の他に、実用的な費用対効果がついてまわります。
これはしばしば誤解されるのですが、技術力が存在して初めて実用的な費用対効果を考慮する事が可能になります。
何もない所で、費用対効果から技術開発の必要・不要の判断は非常に高い、予測ミスに繋がります。
似た事に、製品の小型化があります。
科学技術に疎い人や能力に劣るひとや興味がない人は、小型化を安易に否定し不要と結論付けします。
根底には、マンマシンインターフェイスのみに注目した短絡的な見方しか出来ない考える能力不足があり、創造力の欠如と言うべき内容です。
研究段階の小型化は、それ自体が目的ですが、そこから始まって効率よい生産方法の開発へ進み、次第に省資源・省エネルギーその他多数の優れた結果を生み出します。
その最大の成功例が、情報・電子・コンピューター・半導体産業です。
そこから派生した事は数えきれません。

さて、コンピュータの小型化高性能化はあらゆるジャンルに影響をあたえましたが、それは娯楽・スポーツ等の競技にも無縁でありません。
今やコンピュータと全く無縁の事は殆どないと言えます。
そこには程度の問題で、実際の競争でコンピュータ等の機械が参加するか、練習や情報収集や能力開発だけに使用するかの違いです。
後者は、人間の競争と見ても良いと思います。
そして、機械の能力競争は、当然に機械の競争です。
そして、そこに第三の「人間+機械」の競争が加わったのです。

「人間+機械」の競争はどれくらい受け入れられるのかが、今からの興味の中心です。
それが娯楽性のみなのか、機械の能力向上に関係する物なのか、あるいはダイレクトに「人間+機械」の関わりに進んで行くものなのかが、不明または推測の時期だからです。
一例として、F1をはじめとする高速自動車レースをあげておきます、まさに人間と機械(メカニック)が一体となって競っています。
人気の方も高く可能性を示すと言えるでしょう。
また、コンピュータが人間を越えた頭脳競技で人間の高い技能者が参加すると、より強くなるとチェス等で言われています。

そもそもコンピュータ時代は「人間+機械」の共生が目標としている人が多いです。
ならば、単純な競う娯楽で「人間+機械」が存在すれば、それば別の進歩・成果を期待させるもので有っても不思議ではありません。

(2013/10/06)

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