ヨハネの福音書の目次
はじめに |
ヨハネの福音書:第20章 各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。
The Resurrection 復活 1 Early on Sunday morning, while it was still dark, Mary Magdalene came to the tomb and found that the stone had been rolled away from the entrance. 1 日曜日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリヤが墓に来ると、入り口から石がどかしてあるのがわかりました。 2 She ran and found Simon Peter and the other disciple, the one whom Jesus loved. She said, “They have taken the Lord’s body out of the tomb, and we don’t know where they have put him!” 2 マリヤは走っていき、シモン・ペテロと、イエスが愛したもうひとりの弟子を見つけて言いました。「あの人たちが主の死体を墓から取り去りました。あの人たちが主の死体をどこに置いたのかがわかりません。」 3 ペテロともうひとりの弟子は墓の方へ飛び出して行きました。 4 They were both running, but the other disciple outran Peter and reached the tomb first. 4 二人とも走って行きましたが、もうひとりの弟子の方がペテロを追い抜かして、先に墓に着きました。 5 He stooped and looked in and saw the linen wrappings lying there, but he didn’t go in. 5 もうひとりの弟子は立ち止まり、のぞき込んで、そこに亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中へは入りませんでした。 6 Then Simon Peter arrived and went inside. He also noticed the linen wrappings lying there, 6 そこへシモン・ペテロが到着して中に入りました。ペテロもそこに亜麻布が置いてあるのに気づきました。 7 while the cloth that had covered Jesus’ head was folded up and lying apart from the other wrappings. 7 イエスの頭部に巻かれていた布切れは折りたたまれていて、他の亜麻布から離れたところに置かれていました。 8 Then the disciple who had reached the tomb first also went in, and he saw and believed -- 8 それから先に墓に着いたもうひとりの弟子も中に入りました。彼は見て、そして信じました。 9 for until then they still hadn’t understood the Scriptures that said Jesus must rise from the dead. 9 というのは、このときまで彼らは、聖書にはイエスが死人の中からよみがえらなければならないと書かれているのを、まだ理解していなかったのです。 10 Then they went home. 10 それから二人は家へ帰りました。 [解説] 私は2008年のイースターの翌日にこれを書いています。なんとも不思議で素敵な巡り合わせです。1節は「日曜日の朝早く」と書き始めています。最後の晩餐の後イエスが逮捕されたのが木曜日の夜。裁判を経てむちで打たれ十字架に掛けられたのが金曜日の正午頃、そしてイエスが死んだのがやはり金曜日の午後三時頃で、それからアリマタヤのヨセフがローマ総督のピラトに申し出てイエスの死体を引き取りニコデモと共に日没前にあわただしく墓に収めたのでした。翌日の土曜日は安息日です。人々は金曜日の日没から土曜日の日没までの間は何も活動できません。その翌日の日曜日の朝早くイエスの信者のひとりであるマグダラのマリヤはイエスの墓に来たのです。マグダラのマリヤはひとりで来たわけではなく、Matthew 28:1(マタイの福音書第28章1節)には「マグダラのマリヤと他のマリヤ」、Mark 16:1(マルコの福音書第16章1節には「マグダラのマリヤとサロメとヤコブの母のマリヤ」と書かれています。これらの女性たちは死者に対する愛と敬意を示す香料を持って墓に来たのでした。安息日は土曜日の日没までですので女性たちは香料を土曜日の日没を待ちその後で用意したものと思われます。そうすれば日曜日の朝早くに墓に行くことができるからです。実は女性たちは風習に従いイエスの死体に香料を塗りたかったのですが金曜日の時点で墓の入り口に大きな岩が転がしてあったのを知っていましたから、どうしようかと思いつつ、それでもとりあえず墓に来たのでした。ところがどうしたことか女性たちには「入り口から石がどかしてあるのがわかりました」。これはまったく予期していなかったことです。 2節、「マリヤは走っていき」ます。その後のセリフを見るとマリヤが岩がどけられた墓の入り口から墓の中を見たことがわかります。マリヤが墓の中を見ると中にあるはずのイエスの死体はなかったのです。アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの死体を墓に入れた様子を十字架に立ち会った女性たちは見ています。Luke 23:55(ルカの福音書第23章55節)には「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた」([新解訳])と書かれていて、この女性たちが第19章で読んだ「イエスの母、母の姉妹でクロパの妻のマリヤ、マグダラのマリヤ」たちであろうことは容易に想像できます。だからマグダラのマリヤたちはイエスの墓も知っていたしその中にどのように死体が収められたかも見ていたのです。ところが墓へ行ってみると入り口の岩がどかされていて中には死体がありませんでした。マリヤの頭の中はクエスチョンマークで一杯のはずです。だからマリヤは走って使徒たちのもとへ急いだのでした。マリヤが見つけた使徒は「シモン・ペテロとイエスが愛したもうひとりの弟子」と書かれていますが「もうひとりの弟子」とはヨハネの福音書を書いたヨハネのことです。マリヤは誰かがイエスの死体を持ち去ったに違いない、さもなければ死体が消滅するはずがないと考えていますから「あの人たちが主の死体を墓から取り去りました。あの人たちが主の死体をどこに置いたのかがわかりません」と伝えます。 ペテロとヨハネにはマリヤが何を言っているのか意味がわからなかったことでしょう。ヨハネは女性たちと共に十字架に立ち会っていました。だから恐らく墓の場所も知っていたと思われます。また金曜日の夜からの安息日の間にもともとガリラヤ湖の漁師仲間で日頃からイエスの側近として親しかったヨハネ、ペテロ、ヤコブなどは自分たちの知っている情報を交換していたはずです。イエスが処刑されてからまだ三日です。マリヤが慌てた様子で走ってきてわけのわからないことを言っています。二人はマリヤの証言を自分の目で確かめるために墓へと走っていきました。走っている途中で4節、十二使徒の中で最年長と言われるペテロを最年少と言われるヨハネが追い抜きます。5節で先に到着したヨハネが墓の中をのぞくとなんと「そこに亜麻布が置いてあるのを見ました」。この亜麻布はイエスの死体をミイラ男のようにグルグルと包んであった包帯のような細長い布のことです。ヨハネの頭の中はクエスチョンマークで一杯です。確かにマリヤの言うとおり岩はどかしてあるし死体も見あたらない。そしてさらに亜麻布です。何者かはイエスの死体からわざわざ亜麻布をはぎ取ってどこかに持っていったというのでしょうか。 6節、ペテロが到着しペテロは墓の中へ足を踏み入れます。ペテロも亜麻布を見つけ、7節ではさらに「頭部に巻かれていた布切れは折りたたまれていて、他の亜麻布から離れたところに置かれて」いることに気づきます。実はペテロはとんでもないことに気づいたのでした。「頭部に巻かれていた布切れ」はイエスの身体をグルグルと巻いていた大量の亜麻布から少し離れてちょうどイエスの頭部があったあたりに置かれていたのです。「折りたたまれて」とあるのはイエスの頭に亜麻布が巻かれたままの状態であたかも中身だけが外へ抜け出たために、そのまま亜麻布だけがパサリと下に落ちたかのように折りたたまれていたのです。これに気づいてみると身体をグルグルと巻いていた側の大量の亜麻布の方もイエスの身体と同じ形で置かれています・・・。イエスは死からの復活に際して霊体として自分を巻いていた亜麻布からス〜っと抜け出たということなのでしょうが、そんなことを知らないペテロとヨハネの目には何者かがイエスの死体から亜麻布をはぎ取りそれをまるで死体に巻かれていたかのようにわざわざ配置し直したのだろうかと考えたでしょうか。そうではありません。 8節、ペテロに続いてヨハネも墓に入ります。そして「彼は見て、そして信じました」と書いてありますがヨハネは何を見て何を信じたのでしょう。ペテロが「おい、見てみろよ」と指し示す残された亜麻布の形は、まるでサナギの抜け殻のようにイエスの死体の形に残っています。そしてヨハネはイエスの復活を信じたのです。9節に書かれているようにヨハネの心の中にはイエスが繰り返し言っていた「自分は復活する」の言葉と、聖書に預言されている救世主の受難がこのとき始めて明確な意味とつながりを持って思い出されたのです。 このページの先頭に戻るJesus Appears to Mary Magdalene イエスがマグダラのマリヤに現れる 11 Mary was standing outside the tomb crying, and as she wept, she stooped and looked in. 11 マリヤは墓の外に泣きながら立っていました。マリヤは泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込みました。 12 She saw two white-robed angels, one sitting at the head and the other at the foot of the place where the body of Jesus had been lying. 12 マリヤは白いローブを着た天使が二人、イエスの死体が置かれていた場所に、ひとりが頭のところに、ひとりが足のところに座っているのを見ました。 13 “Dear woman, why are you crying?” the angels asked her. “Because they have taken away my Lord,” she replied, “and I don’t know where they have put him.” 13 天使たちがマリヤにたずねました。「女性よ、なぜ泣いているのですか。」マリヤは答えました。「あの人たちが私の主を取り去ったからです。彼らが主をどこに置いたのか、私にはわからないのです。」 14 She turned to leave and saw someone standing there. It was Jesus, but she didn’t recognize him. 14 マリヤは帰ろうとして振り向きました。するとそこに誰かが立っていました。それはイエスでしたが、マリヤには誰だかわかりませんでした。 15 “Dear woman, why are you crying?” Jesus asked her. “Who are you looking for?” She thought he was the gardener. “Sir,” she said, “if you have taken him away, tell me where you have put him, and I will go and get him.” 15 イエスがマリヤにたずねました。「女性よ、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」マリアはその人が庭師だと思い、言いました。「すみません。もしあなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか教えてください。そうしたら必ず私が行って引き取ります。」 16 “Mary!” Jesus said. She turned to him and cried out, “Rabboni!” (which is Hebrew for “Teacher”). 16 「マリヤ!」イエスが言いました。マリヤはその人に向き直って叫びました。「ラボニ!」(これはヘブル語で「先生」です)。 17 “Don’t cling to me,” Jesus said, “for I haven’t yet ascended to the Father. But go find my brothers and tell them, ‘I am ascending to my Father and your Father, to my God and your God.’” 17 イエスは言いました。「私にすがりついていてはいけません。私はまだ父のもとに上っていないからです。ですが私の兄弟たちのところに行って告げてください。『私は、私の父であり、あなた方の父のところへ、私の神であり、あなた方の神のところへ上る』と。」 18 Mary Magdalene found the disciples and told them, “I have seen the Lord!” Then she gave them his message. 18 マグダラのマリヤは弟子たちを見つけて告げました。「私は主に会いました!」そして弟子たちにイエスのメッセージを伝えました。 [解説] ペテロとヨハネは家へと帰ってしまい墓にはマグダラのマリヤだけが残されたのでしょうか、11節でマリヤは泣きながら墓の外に立ち墓の中をのぞき込みます。すると墓の中には二人の天使が立っていて、「女性よ、なぜ泣いているのですか」と声をかけてきます。悲しみに包まれたマリヤは「あの人たちが私の主を取り去ったからです。彼らが主をどこに置いたのか、私にはわからないのです」と言って墓を後にしようと振り返ります。 14節、するとマリヤにはそこに誰かが立っているのが見えました。それはイエスなのですが、どうやらマリヤの心は深い悲しみで閉じられていてそれがイエスであることに気づきません。マリヤはイエスが十字架の上で残酷な死を遂げた後、兵士のひとりが槍で脇腹を突き刺すところまでを見ています。さらに死体が消失してしまったのです。生きたイエスがそこに立っていようとは思いもよらないでしょう。イエスが死ぬ前の姿で立っていたとしても何だかイエスに似た人だなと思うだけでそれがイエス本人だとは思わないでしょう。私たちにも同じ事が起こると考えられます。つまりイエスを目の前にしていてもイエスの実在を信じなければそれがイエスであることに気づかないかも知れません。たとえば思い悩んでいること答えが欲しいと思うことがあって、それについてずっとお祈りをして答を求めている。それに対して神さまからの答えは明確に自分の前に示されているのに、それが実は神さまからの答えであったと気づくのがずっと後のことになる。そういうことがよくあります。それが神さまからの答だったと気づくまで、お祈りに対する答えは必ず得られると知るまでに、それぞれの人に霊的な成長のステップが用意されているのです。神さまと歩んでいるとそういうことがたくさんあります。 16節でイエスが「マリヤ!」と呼びかけるとマリヤの目は開かれてそれがイエス本人なのだとわかります。そしてその時点からはマリヤはそれがイエス本人であることに何も疑いを持ちません。だからこそマリヤは18節でイエスの言いつけ通りに弟子の元へと駆けつけて「私は主に会いました!」と告げます。こうしてマリヤは復活したイエスに会った最初の人になりました。 17節、イエスは「私にすがりついていてはいけません。私はまだ父のもとに上っていないからです」と言いますがこれは私には意味がわかりません。[NLT]では「Don’t cling to me」、[KJV]では「Touch me not」(私に触れてはいけません)となっています。この後イエスは弟子たちの前に現れてたとえばトマスには自分の傷跡に触れさせたりしていますから復活したイエスに触れてはいけないということではないでしょう。だとするとこのときだけは触れてはいけない理由があったということでしょうか。「私はまだ父のもとに上っていないから」がヒントかも知れません。イエスは復活後約40日地上に滞在して天へ戻りますが最終的に天へ戻る前に復活の直後に一度「父のもとに上って」来たのでしょうか。旧約聖書に沿ってユダヤの民族の間で地上で行われることは、実は天に用意されている本当の物事の「影」なのだと言われます。だとするとエルサレムの寺院で毎年一回行われてきた罪の購(あがな)いのために羊の血を捧げる儀式は救世主イエスの十字架死の「影」なのかも知れません。つまりイエスは復活後に一度天に戻り、天にある本当の寺院で真の聖なる箱の上に自分自身の血を振りかけたのかも知れません。イエスがマリヤに会ったのはその前の時点だったので罪人であるマリヤに触れてしまうと天で自分の血を捧げられなくなったのかも知れません。 このページの先頭に戻るJesus Appears to His Disciples イエスが弟子たちに現れる 19 That Sunday evening the disciples were meeting behind locked doors because they were afraid of the Jewish leaders. Suddenly, Jesus was standing there among them! “Peace be with you,” he said. 19 その日曜日の夜、弟子たちはユダヤの指導者たちを恐れて、戸に鍵を掛けて集まっていました。すると突然イエスが弟子たちの中に立っていました。「平安があなた方にあるように。」 イエスは言いました。 20 As he spoke, he showed them the wounds in his hands and his side. They were filled with joy when they saw the Lord! 20 イエスは話しながら、弟子たちに手とわき腹の傷を見せました。弟子たちは主を見て喜びに満たされました。 21 Again he said, “Peace be with you. As the Father has sent me, so I am sending you.” 21 もう一度イエスは言いました。「平安があなた方にあるように。父が私を送り出したように、私もあなた方を送り出します。」 22 Then he breathed on them and said, “Receive the Holy Spirit. 22 それからイエスは弟子たちに息を吹きかけて言いました。「聖霊を受け取りなさい。 23 If you forgive anyone’s sins, they are forgiven. If you do not forgive them, they are not forgiven.” 23 あなた方が誰かの罪を許せば、その罪は許されます。あなた方が許さなければ、その罪は許されません。」 Jesus Appears to Thomas イエスがトマスに現れる 24 One of the twelve disciples, Thomas (nicknamed the Twin), was not with the others when Jesus came. 24 十二弟子のひとり、トマス(双子のニックネームを持つ)はイエスが来られたときに弟子たちと一緒にいませんでした。 25 They told him, “We have seen the Lord!” But he replied, “I won’t believe it unless I see the nail wounds in his hands, put my fingers into them, and place my hand into the wound in his side.” 25 弟子たちはトマスに言いました。「私たちは主を見ました!」しかしトマスは答えました。「私はイエスの手に釘の傷を見て、そこに私の指を差し入れ、私の手をイエスの脇腹の傷に差し入れてみなければ、それを信じようとは思いません。」 26 Eight days later the disciples were together again, and this time Thomas was with them. The doors were locked; but suddenly, as before, Jesus was standing among them. “Peace be with you,” he said. 26 八日後、弟子たちは再び集まっていました。今回はトマスも彼らと一緒にいました。戸には鍵が掛けられていましたが、突然、前回と同様にイエスが彼らの中に立っていました。イエスは「平安があなた方にあるように」と言いました。 27 Then he said to Thomas, “Put your finger here, and look at my hands. Put your hand into the wound in my side. Don’t be faithless any longer. Believe!” 27 それからイエスはトマスに言いました。「あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。あなたの手を私の脇腹の傷に差し入れなさい。もう信仰を持たないのはやめなさい。信じなさい。」 28 “My Lord and my God!” Thomas exclaimed. 28 トマスは叫びました。「私の主よ。私の神よ。」 29 Then Jesus told him, “You believe because you have seen me. Blessed are those who believe without seeing me.” 29 イエスはトマスに言いました。「あなたは私を見たから信じたのですね。私を見ることなく信じる人は幸いです。」 Purpose of the Book この本の目的 30 The disciples saw Jesus do many other miraculous signs in addition to the ones recorded in this book. 30 この本に書かれている奇跡のしるしに加えて、弟子たちは他にもたくさんの奇跡のしるしをイエスが行うのを見ました。 31 But these are written so that you may continue to believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing in him you will have life by the power of his name. 31 ですが、これらのことが書かれたのは、あなた方がイエスが神の子、救世主であることを信じ続けられるようにです。そしてイエスを信じることで、イエスの名前の力による、いのちを得られるようにです。 [解説] 19節に「その日曜日の夜」と書いてあるのは復活したイエスがマグダラのマリヤに現れた、その日の夜のことです。つまりイエスが十字架に掛けられた金曜日の次の次の日、数えて三日目の夜です。「弟子たちはユダヤの指導者たちを恐れて戸に鍵を掛けて集まって」いたのでした。金曜日の夜にイエスが逮捕されたとき弟子たちは散り散りになって逃げてしまいました。逮捕されたイエスはむち打ちを経て残酷な十字架刑で殺されましたから弟子たちは同じような迫害が自分たちにも及ぶのではないかと気が気でなかったのです。そこで弟子たちは一カ所に集まり戸に鍵を掛けて話をしていたのでした。場所はエルサレム市内にある「マルコの福音書」を書いたマルコの家の二階ではないかと考えられています。弟子たちは何を話していたのでしょうか。「自分たちにも迫害はあるだろうか」「これからいったいどうしようか」という話もあったでしょうがマグダラのマリヤがもたらしたイエスの死体消失とさらには復活したイエスに会ったという話。ペテロやヨハネが見た不思議なサナギの殻のような亜麻布の話もしていたことでしょう。ちなみにこうやって弟子たちが「日曜日」に集まっていたことが今日キリスト教会が礼拝を日曜日に行うことの始まりになっているようです。 「すると突然イエスが弟子たちの中に立っていました」。戸には鍵がかかっていたのに弟子たちの中にイエスが立っていたのです。推理小説で言えば密室トリックです。そしてイエスは「平安があなた方にあるように(Peace be with you)」と言いました。心が安心していて何の不安も疑問も恐れもない状態、そういう「平安」がいつも弟子たちの心にあるようにと言ったのです。これはイエスが常に弟子たちについて思い願うことですし、そういう平安はイエスを信じることで得られるのです。20節、「イエスは話しながら、弟子たちに手とわき腹の傷を見せました」とありますが、たとえば[NLT]で「傷」にあてられた英単語は「wound」です。「wound」は刃物や銃による傷のことですが大切なのはこれが「傷跡(scar)」ではなくて「wound」であることです。「wound」はまだ治癒していない血のしみ出してきそうな生傷のことです。三日前に太い釘で貫かれた手首と槍で突き刺された脇腹の傷はまだ開いたままで血がしみ出ていたのです。それを見せるイエスの様子から「弟子たちは主を見て喜びに満たされ」たのでした。つまり弟子たちはそれが紛れもなくイエス本人であり自分たちの目の前に死から復活して存在していることを確認できたから「喜びに満たされ」たのです。 21節、「父が私を送り出したように、私もあなた方を送り出します」の言葉はイエスが父なる神さまから来たことを再度繰り返し自分も神さまとして弟子たちを送り出すと言っているのです。そしてそのために最初に起こらなければならないのが22節の「聖霊を受け取りなさい」です。実際に聖霊がやってくる様子は「Acts 2(使徒の働き第2章)」に書かれています。この言葉の前にイエスは「弟子たちに息を吹きかけて」いますがこれもイエスと神さまを同に一視させます。神さまは天地の創造の際に土から作った最初の人間アダムに息を吹き込みました。神さまの息にはいのちがあるのです。「聖霊を受けること」はいのちを得ることと深い関係があるのです。 23節の「あなた方が誰かの罪を許せば、その罪は許されます。あなた方が許さなければ、その罪は許されません」は議論を呼ぶ節かも知れません。ここは読み方によっては弟子たちが人間の罪を許すことができるようにも読めるからです。聖書は一貫して人の罪を許すことができるのは神さまだけとしています。そもそも聖書に言う「罪」とは人間が神さまの期待を裏切って神さまをガッカリさせることの総称なのですから、それを許すとか許さないとかはすべて神さまの視点でのことです。ここでイエスが言っているのは弟子たちには人の罪の身代わりになったイエスについての秘密がすべて明かされ、こうして復活したイエスと会うこともできたのですから、神さまが用意した救世主イエスを通じた人類の救済に関わる良い知らせ(福音)を世の中の人々に堂々と大胆に知らしめなさい、つまり「福音」という世の中で最も大切な知らせを世の中に運ぶ特別な使命を弟子たちに授けますという意味だと思います。 24〜29節はトマスの話です。このエピソードからトマスは「doubting Thomas(ダウティング・トマス:疑り深いトマス)」などと揶揄されます。26節、トマスを含む弟子たちが再度集まっていたのは最初の日曜日から「八日後」、やはり日曜日でした。月曜日から金曜日にはみなが仕事をしているし、土曜日は安息日なのであらゆる作業がユダヤの法律で禁じられています。必然的に仲間と集まって何かをしようと思えば日曜日になったのでしょうが今回もやはり弟子たちが集まっていたのが日曜日でそこへ二週に渡って連続してイエスが現れたことからキリスト教会の礼拝を日曜日とする慣習の始まりにつながります。 29節でイエスがトマスに言います。「私を見ることなく信じる人は幸いです」。イエスが十字架に掛けられる前、自分は神さまだと称するイエスに対し人々は「そうであれば奇跡のしるしを見せなさい」と言います。それまでにイエスは数々の奇跡をすでに行ってきているのにそれでは不十分だと言うのです。こういう人たちはどれだけ奇跡を見ても「トリックだ」「もう一度やってみろ」と言うはずです。現代でもイエスを信じない人に福音の話をするとどこにそれが事実であるという証拠があるのか証拠を示して欲しいと言う方がいます。しかし神さまはそういう方々のためにわざわざ奇跡を示すことはしません。神さまが全知全能の創造者であることはご自身がご存じなのですからその方々が信じようと信じまいとその事実は変わりません。神さまには自分の存在を信じてもらうためにわざわざ何かをする必要はありません。神さまが人を創造したのです。どちらが偉いのでしょうか。どうして創造主が被造物に対して媚びる必要があるのでしょうか。イエスに関する出来事が真実であると証明する材料は必要かつ十分な量が私たちの前に示されています。30節に書かれているようにイエスは聖書に書かれていることの他にもたくさんの奇跡を行ったのですがその中から必要かつ十分な量のエピソードがこうして選ばれたのには目的があって、それは31節に書かれているように「あなた方がイエスが神の子、救世主であることを信じ続けられるように」「そしてイエスを信じることで、イエスの名前の力による、いのちを得られるように」です。 たとえ聖書を読まなくとも自分の周りを見渡せばこの世の中は「偶然の産物」では説明できないことだらけです。きっとデザイナーがいたのだろうなと感じます。私は議論の焦点はデザイナーとしての神さまがいるかどうかではなくて、デザイナーはどう考えてもいたはずで、そのデザイナーが聖書に書かれている神さまと同一なのかだと思います。聖書を読んでイエスに関わる出来事を文字通りに信じるかどうかは受け手の判断に委ねられています。イエスは「私を見ることなく信じる人は幸いです」と言っています。ひとつだけ付け加えると神さまは自分を信じようとしない人たちのためにわざわざ奇跡を起こすことはしませんが、自分を信じる人に対しては次々と奇跡を起こして神さまの実在を示してくださいます。「神さまはすごい。すごすぎる」と何度も何度も繰り返し実感させられます。これは私だけでなくクリスチャンであれば誰でも体験することです。 そう言えばトマスは最初の日曜日に弟子たちと一緒にいなかったからこうやって「「doubting Thomas」と呼ばれてしまう羽目になったのだ、自分もトマスと同じ運命に陥らないように教会に一度通い始めたなら毎週の礼拝に休まず出席しましょうなどと教会で参列者の出席を促すメッセージで使われたりもするのですが、このときのトマスはイエスが弟子たちに「私を見ることなく信じる人は幸いです」のメッセージを伝えるために用いられたのですから、それではこのエピソードの意図を取り違えてしまうのではないかと感じます。 このページの先頭に戻る前の章へ戻る | 次の章へ進むPresented by Koji Tanaka. 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