ヨハネの福音書の目次
はじめに |
ヨハネの福音書:第8章 各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。
A Woman Caught in Adultery 不義の現場で捕らえられた女性 1 Jesus returned to the Mount of Olives, 1 イエスはオリーブ山に戻りました。 2 but early the next morning he was back again at the Temple. A crowd soon gathered, and he sat down and taught them. 2 が、翌朝早くイエスはもう一度寺院へ戻りました。人々がすぐに集まってきました。イエスは座って教え始めました。 3 As he was speaking, the teachers of religious law and the Pharisees brought a woman who had been caught in the act of adultery. They put her in front of the crowd. 3 イエスが話していると、律法学者とファリサイ派の人たちが不義の現場で捕らえられた女性をひとり連れて来ました。彼らは女性を人々の前にすえました。 4 “Teacher,” they said to Jesus, “this woman was caught in the act of adultery. 4 彼らはイエスに言いました。「先生。この女は不義の現場で捕らえられたのです。 5 The law of Moses says to stone her. What do you say?” 5 モーゼは律法は、この女性を石打ちの刑に処せと言います。あなたは何と言われますか?」 6 They were trying to trap him into saying something they could use against him, but Jesus stooped down and wrote in the dust with his finger. 6 彼らはイエスを罠にかけて、後にイエスに対して使える言葉を言わせようとしていたのです。しかしさまイエスは身をかがめて指で砂に書きました。 7 They kept demanding an answer, so he stood up again and said, “All right, but let the one who has never sinned throw the first stone!” 7 彼らが答を求め続けるので、イエスは立ち上がって言いました。「いいでしょう。ですが、あなた方の中で罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい。」 8 Then he stooped down again and wrote in the dust. 8 それからイエスは、もう一度身をかがめて砂に書きました。 9 When the accusers heard this, they slipped away one by one, beginning with the oldest, until only Jesus was left in the middle of the crowd with the woman. 9 告発者たちはこれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり抜け出て行き、とうとう群衆の中にイエスだけが女性とともに残されました。 10 Then Jesus stood up again and said to the woman, “Where are your accusers? Didn’t even one of them condemn you?” 10 するとイエスはもう一度立ち上がり、女性に言いました。「あなたの告発者たちはどこですか。あなたを罪に定める者はひとりもいなかったのですか。」 11 “No, Lord,” she said. And Jesus said, “Neither do I. Go and sin no more.” 11 女性は言いました。「主よ、誰もいません。」イエスは言いました。「私もあなたを罪に定めません。行きなさい。もう罪を犯してはなりません。」 [解説] 1節の「Mount of Olives(オリーブ山)」はエルサレムの城壁のすぐ東側にある山でイエスと弟子たちはよくここに滞在しました。後にイエスが十字架刑の前に捕らえられるのもここです。仮庵の祭り最終日の翌日、イエスが再度寺院へと戻ると人々はすぐにイエスの周囲に集まって来ました。イエスは座って教え始めます。 3節、そこへ律法学者とファリサイ派の人たちが女性を連れて現れます。女性は不義の現場を捕らえられたとなっていますが、不義の罪を定めた律法はたとえばLeviticus 20:10(レビ記第20章10節)が「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」([新解訳])と定めています。律法は「男も女も必ず殺されなければならない」としているのにファリサイ派の人たちは女性の方だけを連れてきたわけです。 6節には「彼らはイエスを罠にかけて、後にイエスに対して使える言葉を言わせようとしていた」とありますが、たとえばもしイエスが「女性を解放してあげなさい」と言ったら律法違反として追及し、「女性を殺せ」と言ったらローマ帝国の属領としてのイスラエルは死刑の執行を認められていませんから言いがかりをつけてローマ政府へ告発しようとしていたのかも知れません。詰め寄るファリサイ派の人たちに対してイエスはしゃがんで砂の中に指で何かを書いています。何を書いているかは周囲の人にも見えたはずですがいったい何を書いていたのでしょうか。いろいろな憶測があります。「十戒」を書いていたのだろうとか、女性を告発しているファリサイ派の人々が犯した罪を見通して書き連ねていたのだろうとか。いずれも憶測ではありますが。 7節、イエスが立ち上がって言ったのは「いいでしょう。ですが、あなた方の中で罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい。」です。イエスは「石打ちの刑を執行せよ」と言いましたから律法を違反したことにはなりません。しかしイエスは「罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい」と言いました。律法学者やファリサイ派の律法解釈は「違反者は殺せ」です。ですがイエスの解釈は「なぜこの律法が存在するのか。制定者の意図はどこにあるのか」です。たとえば「スピード違反には罰金を科す」という交通法規はもともと罰金を集めることを目的とした法律ではないでしょう。交通安全を実現するためにはドライバーにスピード規則を守らせたい、だから「罰金を科す」と言えばドライバーはスピードを出さないのではないかというスピード違反の抑止が制定者の意図ではないでしょうか。「姦淫を犯した者を殺せ」という律法は同じように考えれば、殺人を目的とした法律ではないでしょう。「姦淫」という許されない「罪」に「死罪を科す」ことで人々は姦淫を犯さなくなるのではないかという姦淫の抑止が制定者である神さまの意図のはずです。この意図を思い計ることなく「殺せ」「殺せ」「どうする?」「どうする?」と迫るファリサイ派に対してイエスは「あなた方の中で罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい。」と言ったのです。姦淫の現場を捕らえられた女性は単に不運だったのでしょうか。女性を捕らえた自分たちはすべての律法に照らして潔白だと言えるのでしょうか。姦淫の罪を犯した女性への、哀れみ、同情、許しの気持ちは少しもないのでしょうか。 9節。すると告発者たちは年長者からひとりずつ抜けていきます。イエスが砂の中に書き続けた何かに関係あるのかどうかは不明ですが少なくとも女性を告発した人々には罪の意識があったということです。おそらく年長者が敬われる慣習から、ここで最初に石を投げるとしたら自分だろう思った年長者から自分も律法と照らせば罪を犯したことはあると認めてひとりまたひとりと去っていったのでしょう。あるいは告発者たちはもちろん自分たちは律法に照らして潔白だと思っていたのかも知れません。しかしローマ帝国の許しを得ずに女性に石を投げればローマ政府に逮捕されてしまいます。イエスを陥れようとした罠が自分に戻ってきてしまったのです。 11節。取り残されたイエスは「私もあなたを罪に定めません。行きなさい。もう罪を犯してはなりません」と言います。女性を罪に定めずに許しますが女性に対する愛と哀れみの結果であることは「もう罪を犯してはなりません」と言っていることからわかります。つまり女性は許すが罪そのものは決して大目に見られるものではない、今回は死罪とされても当然だったところを死を免れて代わりの命を得たのだからこれからは罪を犯そうとする自分の気持ちと戦い、律法を制定した神さまの意図に沿って正しく生きなさいということでしょう。 聖書に書かれる「罪」とは「創造者である神さまの意図から外れること」を言います。もし自分が創造者である神さまを認めずに生きてきて、そうすることが神さまの意図から外れていたのだと知り、これを謝罪するのなら神さまの許しはどんな人にでも無償で与えられると聖書には書かれています。一方聖書では「罪」に対する「罰」は「死」です。罪を犯した人、つまり神さまの意図から外れた人は死ななければならない(これがすべての人に訪れる「死」の理由です)。ですが神さまに謝罪をして許してもらう人にはイエスを通じた「命」が与えられます。新たな命を与えられた人は必ず神さまの意図に沿ってひとりひとりに与えられた計画に基づく生き方を求めるようになります。 このページの先頭に戻るJesus, the Light of the World イエスは世の光 12 Jesus spoke to the people once more and said, “I am the light of the world. If you follow me, you won’t have to walk in darkness, because you will have the light that leads to life.” 12 イエスはもう一度人々に語って言いました。「私は世の光です。もし私に従うのなら、もう決して闇の中を歩む必要はありません。なぜならあなたは命に通じる光を持つからです。」 13 The Pharisees replied, “You are making those claims about yourself! Such testimony is not valid.” 13 ファリサイ派の人々が答えて言いました。「あなたは自分で自分のことを証言しています。そんな証言には効力はありません。」 14 Jesus told them, “These claims are valid even though I make them about myself. For I know where I came from and where I am going, but you don’t know this about me. 14 イエスは彼らに言いました。「たとえ私が私のことを証言するのだとしても、証言は有効です。なぜなら私は自分ががどこから来たか、自分がどこへ行くかを知っているからです。しかしあなた方は私について、こういうことを知りません。 15 You judge me by human standards, but I do not judge anyone. 15 あなた方は私を人間の基準で裁きますが、私は誰も裁きません。 16 And if I did, my judgment would be correct in every respect because I am not alone. The Father who sent me is with me. 16 もし私が裁くとしたら、私の裁きはあらゆる意味で正しいのです。なぜなら私はひとりではないからです。私を遣わした父が私と共にいます。 17 Your own law says that if two people agree about something, their witness is accepted as fact. 17 あなた方自身の律法には、何かについて二人の人の言い分が合致すれば、その証言は真実として受け入れられると書かれています。 18 I am one witness, and my Father who sent me is the other.” 18 私がひとりの証人であり、私を遣わした私の父が、もうひとりの承認です。」 19 “Where is your father?” they asked. Jesus answered, “Since you don’t know who I am, you don’t know who my Father is. If you knew me, you would also know my Father.” 19 彼らはたずねました。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスが答えました。「あなた方は私が誰だか知らないのだから、あなた方には私の父が誰なのかもわかりません。もしあなた方が私を知っていたなら、私の父についてもわかるでしょう。」 20 Jesus made these statements while he was teaching in the section of the Temple known as the Treasury. But he was not arrested, because his time had not yet come. 20 イエスがこれらのことを言ったのは、イエスが寺院の中で、宝庫として知られていた場所で教えていたときのことです。ですがイエスは捕らえられませんでした。それはイエスの時がまだ来ていなかったからです。 [解説] 12節、イエスは「I am the light of the world.(私は世の光です)」と言いました。ヨハネの福音書の冒頭、1章4〜5節に次のように書かれています。[NLT]と[拙訳]です。 4 The Word gave life to everything that was created, and his life brought light to everyone. 4 「ことば」は造られたものすべてに命を与えました。そしてその命が人に光をもたらしました。 5 The light shines in the darkness, and the darkness can never extinguish it. 5 光は闇の中で輝きます。闇は光を打ち消すことはできません。 「The Word(ことば)」はイエスのこと。イエスは人に命を与えその命が人に光をもたらす。光は闇の中に輝き闇は光に打ち勝つことはできないというくだりです。イエスが与える光とは愛であり、希望であり、平和です。また真理へと至る道です。イエスから光を受け取りその光に向かおうとする人はイエスと同様に闇に負けることがないというのです。 20節にはイエスが寺院の「Treasury(宝庫)」で話していたとありますがこの部屋は人々が捧げものを持って来る場所で、灯りとしてろうそくがともされていました。このろうそくはかつてユダヤの民がエジプトを脱出して砂漠を歩いたときに神さまが昼間は雲の柱を作って人々を日差しから守り、夜には火の柱を立てて闇と冷え込みから守った際の「火の柱」を象徴していたそうです。ユダヤの民は砂漠の真の闇を神さまの立てる火の柱を見て進んだのです。ユダヤの民にとって闇に輝く火の柱は神さまの存在の証であり、守りと導きの象徴でした。この場所で「私は世の光です」と言うイエスは自分はユダヤの民にとっての火の柱だと言っていたのかも知れません。 13節でファリサイ派は「あなたは自分で自分のことを証言しているに過ぎない。そんな証言には意味はない」と言います。実はこの質問は私自身が長く抱いてきた疑問とまったく同じです。「自分で自分を神だと言う人が、本当に神であることはどのように証明されるのか」。私がこの質問をクリスチャンの人にすると、クリスチャンはその証明をいつも「聖書からの引用」で行おうとしました。そこで私の次の疑問は「聖書に関する疑問を、聖書からの引用で答えても証明したことにならないのではないか」になりました。こちらの質問へのクリスチャンの答は「聖書は神さまの言葉だから間違いはない」です。「あぁ話にならない。聖書が神さまの言葉であることはどうやって証明されると言うのだろう・・・。まったく納得できない」と私は思いました。ここでファリサイ派が言っているのはまさしくこのことだと思います。ただ状況がちょっと違うのはユダヤの民は「聖書は神さまの言葉だから間違いはない」と信じて疑わなかったことです。イエスは「聖書は自分を指し示す」と説きましたがユダヤの民はそれを理解して受け入れた人とそうでない人に二分されました。特にイエスの十字架死〜復活が起こる前まではまだ救世主の受難に関する預言が実現しておらず信者たちに聖霊の力も与えられていませんでしたから、真の意味でイエスの存在の意味を理解していた人はいなかったのではないかと思います。 ファリサイ派は旧約聖書の中の最初の5冊、モーゼが記述した律法五書の専門家、法律家、先生を集めた政治結社でした。この人たちは律法と法解釈を重視してどれだけ律法を守って生きられるかを追求していた人たちです。イエスは表面だけを取り繕うファリサイ派を偽善者と批判しますがこのファリサイ派にはイエスの話す説教の意味が理解できないのでした(中にはニコデモのように何かに気づく人もいましたが)。ファリサイ派はイエスを妄想の強い精神異常者か、あるいは詐欺師か嘘つきかと思っているようです。 17節、イエスが「何かについて二人の人の言い分が合致すれば、その証言は真実として受け入れられる」と言いますが、これは、Deuteronomy 19:15(申命記第19章15節)に「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。 」と書かれていることを指しています([新解訳])。イエスは自分の証言の正しさを証明するのは自分と自分を送り出した神さまの二人だと言います。自分の父が神さまであるという証言に触れてファリサイ派の人々はイエスを捕らえようとしました。場所は寺院の内部の「Treasury(宝庫)」でしたからイエスは絶体絶命のピンチだったのではないでしょうか。イエスにはこういうピンチが何度も訪れます。例えば群衆に崖まで追い詰められたりと言うように。しかしイエスは捕まらなかったのです。それはまだ「捕まるとき」ではなかったからです。 さて私は自分の疑問への回答をどのように見つけたのでしょうか。まず私を助けたのは実際に聖書を読んだことです。Acts 17(使徒の働き第17章)に同じように聖書を調べた人たちのことが書いてあります。10節あたりからパウロが伝道に訪れたベレヤという町の人たちのことです。11節には「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」とあります([新解訳])。神さまのメッセージを伝えに来たパウロの言葉が本当に聖書に書かれているかどうか毎日聖書にあたって実際に調べたのです。私は「本当に聖書に書かれているかどうか」というよりも、どういう文脈で書かれているかにこだわりました。聖書の中のほんの一カ所を取り出して来られても周囲を読まなければ本当にそういうことを言っているのかわからないだろう、都合の良いように解釈しているだけなのかも知れないと思ったからです。 次に私を助けたのは聖書全般に関するバックグラウンド的な知識です。実は文脈を知ろうとした私の意図は容易に挫かれてしまったのです。なぜなら聖書は難解なのです。文脈を知るためには記述した人のことや歴史背景や本全体のテーマや、そういった様々なバックグラウンドを知る必要がありました。私はこれを学ぶ最良の機会に恵まれました。 そして私を一番助けたのは聖霊です。John 14:26(ヨハネの福音書第14章26節)にはこのように書いてあります。[新解訳]です。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・・」。これは本当でした。私は神さまの計画に沿えるように神さまの意図が知りたい、だから聖書を理解させて下さいと繰り返しお祈りしましたが、すると聖書を読んでいるうちに「不思議な気づき」が起こるようになりました。また聖書の理解を助ける本や先生、説教、機会との出会いが次々と続きました。これは今日も続いています。その結果私は「聖書の正しさ」を「信じる」と言うより「知る」ようになりました。他の人に上手に証明できないけど、そうであることを知っているということは誰にでもあると思います。私にとっての神さま、聖書はそういう存在なのです。 客観的でわかりやすい例をひとつだけ。旧約聖書にはユダヤ民族の周辺にたくさんの民族が登場しその成り立ちや滅亡が描かれているのですが、これについて歴史資料としての記述の正確さは学術的にも証明されているのだそうです。驚くべきはその中で唯一ユダヤ民族だけが今日も生存し続けていることです。これを聖書の正しさの証明として挙げるクリスチャンは結構います。私も同感です。ユダヤ民族は紀元前1500年頃にエジプトから200万人前後の規模で脱出しますが、エジプト王朝が奴隷として使っていた支配民族200万人が国外へ出ることを許したというのは普通なら理解しがたいです。この後ユダヤ民族はパレスチナで建国します。同じようなことはもう一度起こります。イスラエル王国はダビデ王の後ソロモン王の代で栄華を極め、その後で南北の王朝に分裂します。そして北朝のイスラエルはアッシリア帝国に南朝のユダヤはバビロン帝国に滅ぼされ、民族はそれぞれの帝国に連れ去られてイスラエルは失われてしまいます。ところが後にバビロン帝国を滅ぼしたペルシアは70年後にユダヤ民族が再びパレスチナに戻ることを許し、エルサレムの寺院と城壁を再建させます。これも普通なら理解しがたいことです。これは紀元前500年頃の話です。 イエスの時代にはイスラエルはローマ帝国の支配下にありイエスの十字架死〜復活が起こったのは西暦32年です。それから約40年後の西暦70年、エルサレムはローマ帝国に滅ぼされてまたもイスラエルは失われてしまうのです。ところが第二次世界大戦後の1948年にイスラエルはもう一度建国されました。周囲のアラブ民族国家はイスラエルを敵視して建国直後から何度も何度も繰り返し攻め込みますが、イスラエルがこれらの戦争に勝利を収め続けて来たことは私たちも報道を通じて知っていますし、これらの出来事は旧約聖書に書かれているユダヤ民族が周辺国家と争った様子とまったく同じです。これらの史実が実はみなそれが起こる前にあらかじめ聖書の中に預言されていたとしたらどうですか。どうしてイスラエルにだけそういうことが起こるのか、理由も書かれています。そして聖書にはユダヤ民族についてだけでなくこれから私たちの住む世界に起こることも預言されています。1948年のイスラエルの建国が成った以上、聖書に書かれた「終わり」が起こる時期がいよいよ近いと考えるクリスチャンがたくさんいます。 私たちは2000年も前の出来事の信憑性を時間をさかのぼって目撃することはできないし、神さまが実際に私たちの前に現れて存在を示してくれることもありません(聖書で預言された日が来るまでは)。結局与えられるのはたくさんの状況証拠だけです。ですがその状況証拠は質も量も十分なのです。無神論者で聖書に対する疑問からスタートして調べていくうちにその正しさを認めざるを得なくなった、そういう人もたくさんいます。聖書は書店で売っています。みなさんもベレヤの町の人たちのように聖書を読んで、ぜひ自分の目で確かめてみて下さい。 このページの先頭に戻るThe Unbelieving People Warned 信じない人々への警告 21 Later Jesus said to them again, “I am going away. You will search for me but will die in your sin. You cannot come where I am going.” 21 後にイエスは再び彼らに言いました。「私は去って行きます。あなた方は私を捜すでしょうが、あなた方は自分の罪の中で死にます。私が行く場所へ、あなた方は来ることができません。」 22 The people asked, “Is he planning to commit suicide? What does he mean, ‘You cannot come where I am going’?” 22 人々はたずねて言いました。「あの人は自殺しようと計画しているのだろうか。『私が行く場所へ、あなた方は来ることができない』とは、何を意味しているのだろうか。」 23 Jesus continued, “You are from below; I am from above. You belong to this world; I do not. 23 イエスは続けて言いました。「あなた方は下から来ました。私は上から来ました。あなた方はこの世に属しており、私は属しません。 24 That is why I said that you will die in your sins; for unless you believe that I Am who I claim to be, you will die in your sins.” 24 それが私が、あなた方は自分の罪の中で死ぬ、と言った理由です。なぜなら、私が誰なのか、私がそうであると言う存在なのだと、あなた方が信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬのです。」 25 “Who are you?” they demanded. Jesus replied, “The one I have always claimed to be. 25 「あなたは誰なのですか。」彼らはイエスにたずねました。イエスは答えました。「それは私が誰であるか、私がずっと言い続けてきた存在です。 26 I have much to say about you and much to condemn, but I won’t. For I say only what I have heard from the one who sent me, and he is completely truthful.” 26 私には、あなた方について言うべきこと、罪に定めるべきことがたくさんあります。しかし私はあえてはしません。なぜなら私は私を遣わした方から聞いたことだけを言うからです。その方はまったく正しいのです。」 27 But they still didn’t understand that he was talking about his Father. 27 しかし彼らは、イエスが自身の父のことを語っているのだと、相変わらず理解しませんでした。 28 So Jesus said, “When you have lifted up the Son of Man on the cross, then you will understand that I Am he. I do nothing on my own but say only what the Father taught me. 28 そこでイエスは言いました。「あなた方が人の子を十字架の上へ上げてしまうと、その時、あなた方には私が誰であるかがわかります。私は自分自身のことは何もせず、ただ父が私に教えてくれたことを話すだけです。 29 And the one who sent me is with me -- he has not deserted me. For I always do what pleases him.” 29 そして私を遣わした方は私と共にいます。私をひとり取り残すことはありませんでした。なぜなら私はいつも、その方の喜ばれることを行なうからです。」 30 Then many who heard him say these things believed in him. 30 するとイエスが話すこれらのことを聞いていたたくさんの人がイエスを信じました。 [解説] 21節、イエスは「あなた方は自分の罪の中で死にます。私が行く場所へ、あなた方は来ることができません」と言います。イエスが「行く場所」とは天国です。そこへ「来ることができない」のは人が「自分の罪の中で死ぬ」からだとイエスは言います。 天国は神さまの国であり神聖な場所です。ここには汚れた存在は入れません。人が天国へ行くかどうかは、神さまがひとりひとりの人間を天秤ばかりにかけて良い行動と悪い行動の数や質を吟味して天秤が良い方向へ傾いたら天国へ入れるのだろう、そのように考える人は多いですが聖書に書かれているのはそういう決め方ではありません。この方法だとまったく汚れのない純白無垢の人と真っ黒に汚れた重罪人の間に、限りないグラデーションのグレー(灰色)の人間が存在してほとんど白に近ければまず問題ないし、ライトグレーの人でもおそらく天国に入れると言うようなことになりかねません。やや濃いグレーになると判定が微妙なので最後は神さま次第なのだとしたら、自分が一体どうなるのかわかりませんから不安で仕方ありません。聖書にはそのようには書いてありません。聖書では天国に入れるのは一点の汚れもない純白無垢の存在だけのようです。 一方聖書で人間を汚す側の「罪(sin)」については、人を殺したであるとか、物を盗んだであるとか、そういう表面的な「律法違反」のことを言っているのではありません(ただそのように解釈する人は聖書上でたくさん登場して来てイエスはその人たちを「偽善者」と非難攻撃します)。聖書での「罪」は「神さまの意図から外れること」全般を言います。神さまから見て「違う」「困る」「嘆かわしい」「残念だ」と思われることはすなわちすべて「罪」なのです。またそうやって人が一度犯してしまった罪はその後でどれほどの善行を積み重ねてもぬぐい去れないし、逆にどれほどたくさんの善行を積み重ねてきてもある日ひとつでも神さまから「残念だ」と思われてしまったらそれで「罪」は確定し、もはや純白無垢ではないのです。 聖書での「善行」はそもそも天国へ入るための切符や条件とはなっていません。善いことや正義を行えば神さまはもちろん喜ばれますが、善行を行うのは「あたりまえのこと」で、それを誇ったり威張ったり報償をあてにしたりするものではありません。逆に「善行」だけを天国への切符として重視することに対して繰り返し警告を与えています。 また聖書ではこの世の中に「罪」に汚れていない人間、つまり神さまから「困る」「嘆かわしい」「残念だ」と一度も思われたことのない人間はひとりもいないと言っています。ということはこれを言い換えればこの世の中には天国に入れる人はひとりもいない、ということです。「罪」には「罰」がつきものです。神さまの意図から外れた人間の「罪」に対する「罰」は「死」です。天国にいる存在には「死」はありません。すべての人間は罪に汚れた存在で天国に入ることはできません。罪に汚れその罰として死が与えられた存在なのです。これが21節の「あなた方は自分の罪の中で死にます。私が行く場所へあなた方は来ることができません」の意味です。 聞いている人々にはイエスが何を言っているのかわかりません。22節では「あの人は自殺しようと計画しているのだろうか」と考え、他の場所では「外国へ逃げるつもりだろうか」と考える人がいました。 24節でイエスは「なぜなら、私が誰なのか、私がそうであると言う存在なのだと、あなた方が信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬ」と言います。この部分を反対に言い換えると「イエスが誰なのか、イエスがそうだという存在なのだと、私たちが信じれば、私たちは自分の罪の中で死ぬことはない」になります。 そこで25節で人々がききます。「あなたは誰なのですか」です。良い質問です。もし「罪」が私が上で書いたように「神さまの意図から外れること」であり、神さまから「困る」「嘆かわしい」「残念だ」とたった一度も思われたことがない人など存在しないので、だからすべての人は罪の中で死ぬのだとしたらここでのイエスの発言はそれを覆して「〜したら死なない」と言っているのですから大変大きな注目に値します。つまり「イエスが誰なのかを知り信じること」が神さまの意図であり、それを行うことでその人の罪が帳消しになり死ななくなるということです。 「あなたは誰なのですか」の質問に対してイエスは「私がずっと言い続けてきた存在です」と言います。「また言わせるのですか」「もう何度も何度もずっと言い続けてきたでしょう」とのニュアンスでしょうか。イエスはときには遠回しにときには明確に、自分は神さまから遣わされて地上へ来た神さまの息子だと繰り返し言ってきました。そしてそれを裏付ける証拠として古くから聖書に書かれて来た預言の箇所を示して「聖書全体が自分を指し示している」と言い、聖書に書かれたメッセージを説く際には表面的な解釈ではなく著者の視点からその部分が書かれた意味や意図を語り伝え、さらには自分が神さまから使わされた証しとして人々の前で奇跡のわざを次々と行ってきました(これらの奇跡の内容さえも聖書の預言どおりです)。イエスに接した人々の反応は、信じる人、最終的に決められずに保留している人、勘違いしている人、「信じて欲しければもっと証拠を見せろ」と言う人、立ち去る人、「神への冒涜だ」と言う人、殺そうとする人、などに分かれました。 27節 「しかし彼らは、イエスが自身の父のことを語っているのだと、相変わらず理解しませんでした」とありますが、いまを生きる私たちをも含めて人々がイエスの言葉を理解できないのにも実は理由があって、それは聖書によると人々の目や耳は、見てもわからず聞いても理解できないようにと呪いがかけられているのです。ですがその呪いの底で「何か呼びかけのようなもの」を感じる人もいます。聖書は別の箇所で「探し求める人には答が与えられる」としています。 28節、イエスは「あなた方が人の子を十字架の上へ上げてしまうと、その時あなた方には私が誰であるかがわかります」と言います。これは聖書に書かれた十字架死周辺に関する預言が成就して聖書がイエスを指し示すことがいよいよ明確になるからでしょうか。信徒の中には十字架死の後で復活したイエスに出会ったことで確信を深め、その後イエスが天へ戻ってからしばらくしてイエスが約束したとおりに信徒ひとりひとりに与えられた「聖霊」の導きによって十字架死の意味や必要性を知った人が何人もいて、この人たちはその後大胆にイエスに関する救いの道を教え始めました。 このページの先頭に戻るJesus and Abraham イエスとアブラハム 31 Jesus said to the people who believed in him, “You are truly my disciples if you remain faithful to my teachings. 31 イエスは自分を信じた人たちに言いました。「あなた方が、私の教えに忠実であり続けるなら、あなた方は真に私の弟子です。 32 And you will know the truth, and the truth will set you free.” 32 そして、あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」 33 “But we are descendants of Abraham,” they said. “We have never been slaves to anyone. What do you mean, ‘You will be set free’?” 33 彼らは言いました。「ですが私たちはアブラハムの子孫です。私たちは誰かの奴隷になったことはありません。『あなた方は自由になる』とはどういう意味ですか。」 34 Jesus replied, “I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin. 34 イエスは答えて言いました。「本当のことを言いましょう。罪を行なっている者は、誰もが罪の奴隷なのです。 35 A slave is not a permanent member of the family, but a son is part of the family forever. 35 奴隷というのは家族の永続的なメンバーではありません。しかし息子は永遠に家族の一員です。 36 So if the Son sets you free, you are truly free. 36 ですから、もし子があなた方を自由にするのなら、あなた方は本当に自由なのです。 37 Yes, I realize that you are descendants of Abraham. And yet some of you are trying to kill me because there’s no room in your hearts for my message. 37 たしかに、あなた方がアブラハムの子孫であることは私は知っています。それなのに、あなた方の中には、私の言葉を受け入れる余地が自分の心の中にないから、それで私を殺そうとしている人がいます。 38 I am telling you what I saw when I was with my Father. But you are following the advice of your father.” 38 私は自分が私の父と共にいたときに、私が見たことを話しているのです。ところがあなた方は、あなた方の父の教えに従っています。」 39 “Our father is Abraham!” they declared. “No,” Jesus replied, “for if you were really the children of Abraham, you would follow his example. 39 彼らは言いました。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは答えて言いました。「それは違います。なぜならもしあなた方が本当にアブラハムの子どもなら、アブラハムの例にならうからです。 40 Instead, you are trying to kill me because I told you the truth, which I heard from God. Abraham never did such a thing. 40 ところがあなた方は、私が神さまから聞いた真理をあなた方に話していることで、私を殺そうとしています。アブラハムは決してそのようなことはしませんでした。 41 No, you are imitating your real father.” They replied, “We aren’t illegitimate children! God himself is our true Father.” 41 違います。あなた方は、あなた方自身の父を真似ているのです。」彼らは答えました。「私たちは私生児ではありません。神さまご自身が私たちの真の父です。」 42 Jesus told them, “If God were your Father, you would love me, because I have come to you from God. I am not here on my own, but he sent me. 42 イエスが彼らに言いました。「もし神さまがあなた方の父なら、あなた方は私を愛するはずです。なぜなら私は神さまからあなた方のところへ来たからです。私は自分自身で来たのではありません。神さまが私を遣わしたのです。 [解説] 32節に「and the truth will set you free」(真理はあなた方を自由にします)と書かれています。31節からの流れを受けて人がイエスの教えに忠実であり続ければ人はイエスの真の弟子となり、やがて「真理」を知るようになりその「真理」が人を自由にするという下りです。 ここに書かれた人を自由にする「truth(真理)」とは何のことでしょうか。特段の疑問はない「truth」とはつまり「本当のこと」だろう、あるいは「うそ/偽り」の逆だろうと考える人は多いと思います。たとえば「地球は丸い」が「本当のこと」だと言うのは我々はみな知っています。「私は男だ」「A=B」というような定義や陳述について「それは本当だ」というのが「truth(真理)」の普通の使い方だと思います。つまり何か「本当のこと」に値する情報(たとえば何かの秘密とか奥義とか)を知ることで人が自由になると言っているのだろうという解釈です。 ところがこの後イエスはJohn 14:6(ヨハネの福音書第14章6節)で「I am the way, the truth, and the life(わたしが道であり、真理であり、いのちなのです)」と言います([NLT][新解訳])。「I am the truth」なので「イエスの言うこと」のような情報のことではなくて「イエス」=「truth(真理)」です。これは理解の難しい、不思議な言い方です。「本当のこと」とは情報や秘密や奥義のことではなく「イエス」そのものが「本当のこと」なのです。 「わたしは道」というのも難しいです。「道」というのは「どこかからどこかへ至る経路」のことですが、イエスを通るというのはどういうことなのでしょう。「わたしはいのち」というのもわかりにくい。「いのち」はひとりひとりの人間があるいは動物や植物が持つものではないのか・・・。読者の誤解を招きやすいのはこれが禅問答のような、とらえどころのない説法なのではないか、イエスという人物はわけのわからないことを言う哲学者か宗教家なのではないかというところです。が、それは違います。聖書はそういう神秘本の類ではなくて、そのまま「文字通り」に解釈できる本です。つまりイエスは文字通り「イエス=道」であり、「イエス=命」なのだと言っているのです。このあたりの話は先に送るとして、今回の部分「わたしは真理です」を文字通りにとらえると、そこには何か「人を自由にする」ものがありそれは定義や陳述のような情報ではなくイエスだということになります。 ところでヨハネの福音書の一番最初、冒頭のところで出てきたのですがイエスは「the Word(ことば)」として書かれていました。John 1:1(ヨハネの福音書第1章1節)を見てみましょう。版は[NLT]と[新解訳]です。 1 In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God. 1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 第1章をこのまま読み進めていくとわかるのですが実は「the Word(ことば)」=「イエス」なのでした。また「Word」は神さまのことばとして「God's Word」「the Word of God」などと書かれるとそれは「聖書」の別名であったりもします。聖書を記述したのは数十人の人間ですが、その人たちはみな神さまからの言葉を預かった預言者です。聖書はその一字一句が神さまからの「Inspiration(霊感)」によって与えられたとされています。そして創造主としての神さまは天地の創造にあたって、たとえば「光があれ」と言うように「ことば」を発することで創造の活動を次々と行っていきます。つまり「ことば」は聖書の中では大切なキーワードなのです。「ことば」というのは不思議な存在です。「ことば」は脳の中でどのように作られていくのか。「ことばにするとうまく伝えられない」こともたくさんありますが、一方でことばは人に情報を伝えるための手段としては今も昔も大きな位置を占めています。 これらを全部つなげると「聖書=ことば=神さまの手段=イエス=真理(本当のこと)」ということになります。ますますわからない? そういえばイエスはあるとき「聖書全体は私を指し示している」と言いました。このときにイエスが言った聖書とは旧約聖書のことですが、新約聖書はイエスの十字架死〜復活のあとでそのことについて記述した本なので、だとすると旧約から新約まで聖書全体がイエスを指し示すことになります。 さてイエスが「あなた方を自由にします」と言ったのを受けて人々は33節で「私たちは誰かの奴隷になったことはありません」「『あなた方は自由になる』とはどういう意味ですか」と自分たちはそもそも自由だ、だから「自由にする」ということばの意味がわからないと疑問を投げかけます。 これに対するイエスの答は34節、「罪を行なっている者は、誰もが罪の奴隷なのです」です。少し前に「罪」とは「神さまの意図から外れること」全般を言い、神さまから見て「違う」「困る」「嘆かわしい」「残念だ」と思われることはすべて「罪」であり、神さまから一度もそのように思われたことがない人はひとりもいないと聖書には書かれていると書きました。イエスは「罪を行なっている者は、誰もが罪の奴隷」と言っていますから言い換えれば「人はすべて罪の奴隷」ということになります。「奴隷」というのは誰かに所有されている存在で、所有者の側から解放しない限り自由になれません。ところが「あなたは罪の奴隷です」と言われても人々がピンと来ないのはそもそも人々が「罪」が何かを理解せず、結果として自分が罪を働いた罪人であるという自覚に結びつかないからです。 またたとえ「罪」とは「神さまの意図から外れること」全般を言うらしいと知ったとしても「神さまの意図」がわからない以上、神さまがいつ「違う」「困る」「嘆かわしい」「残念だ」と思うのかがわかりません。たとえば「私はお参りをしてお賽銭を投げた。きっと神さまは私を守ってくれるだろう」などと神さまについての「自分の解釈」をあてはめがちです。本当は神さまはどう思っているのか、神さまの意志や意図を確認すること、探し求めることをしません。だから人々には「あなたは罪の奴隷です」と言われても自分たちが罪人だという認識も自分たちが奴隷だという認識もないのです。 話をわかりやすくつなげるとイエスはここで「自分はあなた方を罪の奴隷状態から解放して自由にする」と言っているのです。「罪から自由になる」。いまこれを書いている私自身には「自分はイエスによって鎖から解き放たれた」あるいは「計画に沿って段階的に自由になっていくプロセスに乗った」という確かな実感と経験があるのですが、これを他の人に説明するのは大変難しいです。だからイエスと人々の問答が平行線をたどるのはよくわかります。私もかつては理解不能の側にいたわけですから。 39節、人々が自分たちは自由だという反論の論拠は「私たちの父はアブラハムです」にあります。アブラハムは神さまの言葉を預かる民族として選ばれたユダヤ民族の最初の人で神さまはアブラハム個人と契約を結びました。その様子は旧約聖書の「Genesis(創世記)」に書かれています。ユダヤ民族の最初の人なのですからすべてのユダヤ人の家系図はアブラハムへとさかのぼることができます。聖書の中でのアブラハムは「信仰の父」として描かれています。神さまを信じ、神さまに従い、神さまを全力で愛した人です。イエスと問答を続ける人たちはユダヤ人なのですから血筋をアブラハムまでさかのぼることができ「だから自分たちはアブラハムの子供だ」と主張しますが、イエスは39〜40節で「もしあなた方が本当にアブラハムの子どもならアブラハムの例にならう」はず、「ところがあなた方は私が神さまから聞いた真理をあなた方に話していることで私を殺そうとしています」と言います。自分は神さまの元から遣わされた存在なのだから、アブラハムの子孫ならアブラハムが神さまを愛したのと同じように自分をも愛するはずだと言います。 このページの先頭に戻る43 Why can’t you understand what I am saying? It’s because you can’t even hear me! 43 どうしてあなた方は私の話していることが理解できないのですか。それは、あなた方には私の話を聞くことさえできないからです。 44 For you are the children of your father the devil, and you love to do the evil things he does. He was a murderer from the beginning. He has always hated the truth, because there is no truth in him. When he lies, it is consistent with his character; for he is a liar and the father of lies. 44 あなた方は、あなた方の父である悪魔の子供であって、あなた方は、あなた方の父が行う邪悪な事柄をするのを好みます。悪魔は初めから人殺しでした。悪魔は常に真理を嫌ってきました。それは悪魔のうちには真理がないからです。悪魔が嘘をつくとき、その嘘は悪魔の性格そのものです。なぜなら悪魔は嘘つきであり、偽りの父だからです。 45 So when I tell the truth, you just naturally don’t believe me! 45 だから私が真理を話すとき、あなた方が私を信じないのは自然なことなのです。 46 Which of you can truthfully accuse me of sin? And since I am telling you the truth, why don’t you believe me? 46 あなた方のうちの誰か、私に罪があると本当に責められる者がいますか。そして私が真理を話しているのに、どうして私を信じないのですか。 47 Anyone who belongs to God listens gladly to the words of God. But you don’t listen because you don’t belong to God.” 47 神さまに帰属する者は、喜んで神さまの言葉に耳を傾けます。ですがあなた方は神さまに帰属しないから、耳を傾けないのです。」 48 The people retorted, “You Samaritan devil! Didn’t we say all along that you were possessed by a demon?” 48 人々は言い返しました。「サマリヤの悪魔め。我々はあなたが悪魔に取り憑かれていると、ずっと言ってこなかったですか。」 49 “No,” Jesus said, “I have no demon in me. For I honor my Father -- and you dishonor me. 49 イエスは言いました。「違います。私の内に悪魔はいません。なぜなら私は私の父を褒め称えるからです。あなた方は私に恥辱を与えています。 50 And though I have no wish to glorify myself, God is going to glorify me. He is the true judge. 50 そして、私は私自身を褒め称えようとは思いませんが、神さまは私を褒めてくださいます。神さまは真理の裁判官です。 51 I tell you the truth, anyone who obeys my teaching will never die!” 51 本当のことを言いましょう。誰でも私の教えに従う者は死ぬことがありません。」 52 The people said, “Now we know you are possessed by a demon. Even Abraham and the prophets died, but you say, ‘Anyone who obeys my teaching will never die!’ 52 人々は言いました。「あなたに悪魔が憑いていることが今こそわかりました。アブラハムや預言者でさえ死んだのです。しかしあなたは『誰でも私の教えに従う者は死なない』と言うのです。 53 Are you greater than our father Abraham? He died, and so did the prophets. Who do you think you are?” 53 あなたは私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。アブラハムは死んだのです。預言者たちも死にました。あなたは自分自身を誰だと言うのですか。」 54 Jesus answered, “If I want glory for myself, it doesn’t count. But it is my Father who will glorify me. You say, ‘He is our God,’ 54 イエスは答えました。「もし私が自分自身のために栄光を欲するなら、それには何の価値もありません。ですが私に栄光を与えるのは私の父なのです。あなた方は『彼は私たちの神だ』と言います。 55 but you don’t even know him. I know him. If I said otherwise, I would be as great a liar as you! But I do know him and obey him. 55 ですがあなた方は神さまを知ってさえいません。私は知っています。もし私が知らないと言えば、私はあなた方と同様にたいそうな嘘つきになるでしょう。しかし私は神さまを知っており、神さまに従っています。 56 Your father Abraham rejoiced as he looked forward to my coming. He saw it and was glad.” 56 あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだのです。」 57 The people said, “You aren’t even fifty years old. How can you say you have seen Abraham?” 57 人々は言いました。「あなたはまだ五十歳にさえなっていません。それなのにどうしてあなたはアブラハムを見たと言えるのですか。」 58 Jesus answered, “I tell you the truth, before Abraham was even born, I Am!” 58 イエスは答えました。「本当のことを言いましょう。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」 59 At that point they picked up stones to throw at him. But Jesus was hidden from them and left the Temple. 59 ここまで来て、人々は石を拾い上げてイエスに投げつけようとしました。しかしイエスの姿は人々から隠され、イエスは寺院を後にしました。 [解説] 43節、イエスはあなた方は「私の話していることが理解できない」「私の話を聞くことさえできない」と言います。ここはIsaiah 6:9(イザヤ書第6章9節)を思い起こさせます。[NLT]と[新解訳]です。 9 And he said, “Yes, go, and say to this people, ‘Listen carefully, but do not understand. Watch closely, but learn nothing.’ 9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 これは預言者イザヤが見た幻の中で神さまがイザヤに対して「民に言え」と伝えた言葉です。神さまの民に対する怒りから発した、もう聞いても理解するな、見ても知るな、という呪いの部分です。今回イエスはそうでなくとも「聞いても理解できない」ように呪いをかけられている人たちに「聞くことさえしない」と言っているのです。 44節は強烈です。「あなた方は悪魔の子供であって、あなた方の父が行う邪悪な事柄を好む・・・」。前回人々は自分たちはアブラハムの子供でありすなわち神さまの子供であると主張しました。これは血筋や家柄に基づいた発言です。イエスはそれは違うと頭から否定し、今回は「「あなた方は悪魔の子供だ」と言い放ちます。人々がイエスに対する態度は、真理の否定、表面を飾り立てるための嘘、殺意を感じさせる怒りなどから出てきていてこれらはサタンのキャラクターそのものです。イエスはどれほど人々の心が悪魔にコントロールされているかを指摘して言っているのですが、人々はそのように言われてもいよいよ頑固に態度を硬化させてイエスと対立していきます。 46節、「あなた方のうちの誰か、私に罪があると本当に責められる者がいますか」とイエスが挑戦します。イエスは幾度かこうやって周囲の人々に挑戦しますが、ほとんどの場合人々の反応は「挑戦を受けない」か「挑戦の結果得られた答を素直に受け入れない」のどちらかです。これは現代に生きる人々とまったく同じです。イエスや聖書の存在を無視する、あるいは関心を払わないか、説明を受けても受け入れようとしない人がほとんどです。聖書によれば最初の創造主の神さまが作った世界は神聖で完璧だったのですが、その中に置かれた最初の人間のアダムとイブは自らの意志で神さまを裏切る行動を取ったのでした。つまり人々が神さまの元を追われたのは自己責任です。ところが神さまにとっての人間は他にはない特別な愛情を注いで創造した存在で、たとえそうやって自分勝手に飛び出して行った人間でも見捨ててはおくことはぜず、人間の犯した裏切りの罪の代償としてわざわざ自分の子供のイエスを犠牲に差し出したのです。神さまの側からそういう一方的な救済策を用意したというのが聖書に示された「良い知らせ」「福音」の意味です。人間がこの救済策を受け入れるか否かはひとりひとりの選択に委ねられています。救済策は一方的なものなので「受け入れる」と表明する人には無条件で無償で与えられるのです。ですが世の中の人々の大半はこの計画を無視するか、受け入れないかのどちらかです。神さまの側からこれ以上はない和解の提案が行われているのに人々は聞かないし理解しようとしないのです。 48節、人々はついに怒り始め「サマリヤの悪魔め」と悪魔はイエスの側だ、イエスには悪魔が取り憑いていると言い始めます。サマリヤは以前イスラエルが南北の王朝に割れたときの北朝の首都で、北朝の初代の王ヤロブアムは聖書が禁じていた偶像崇拝を公にスタートしこれをきっかけとして最終的には王朝を壊滅に追い込みました。アッシリア帝国に滅ぼされた北朝からは下層民を除くユダヤ人が国外へ連れ去られ、代わりに植民された異民族と下層ユダヤ人と間で混血が始まりました。このためサマリヤは神聖と純血を尊ぶエルサレムの指導者層から嫌悪される存在なのです。 51節、「本当のことを言いましょう。誰でも私の教えに従う者は死ぬことがありません」は先にも書いた神さまの救済策のことを言っています。ひとりの人間が自分は神さまの期待を裏切る罪人であると認め、イエスを信じ(と言うのはイエスが神さまから地上へ遣わされた人間の肉体を持つやはり神さまであり、イエスの十字架死が人々の罪を洗い流し、役目を終えたイエスが死から復活したということを信じるの意味)、これまでの自分の生き方を悔い改めて神さまの意志を求めるのなら、その人は「罪」に対する「罰」としての「死」から解放される、つまり死ぬことはないということです。自分で「信じる」「選択する」と宣言することでイエスを通じた神さまとの和解の道が開かれるということです。 ところが52節、人々には「死なない」の意味がわかりません。当然だと思います。特にこのときはイエスの十字架死の前ですからイエスが何を言っているのかわかっている人はいません。 56節、「あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだ」と言います。イエスの時代から2500年も過去に存在したアブラハムが喜んだ様子をあたかも自分の目で見たような言い方なので57節で人々は「見たのか?」と聞きます。 58節、これに対するイエスの答は「本当のことを言いましょう。アブラハムが生まれる前から、私はいる」です。そして59節、人々の怒りは頂点に達してイエスに向かって石を投げつけようとしますが、石はイエスに当たりませんでした。[NLT]には「But Jesus was hidden from them and left the Temple.(しかしイエスの姿は人々から隠され、イエスは寺院を後にしました)」とありますが、下にある[KJV]ではこの部分に興味深い記述があります。同じ箇所ですが「but Jesus hid himself, and went out of the temple, going through the midst of them, and so passed by.(しかしイエスは自身の姿を隠し、人々の真ん中を通り、すり抜けて寺院から出て行きました)」と書かれています。イエスは自分の姿を隠して人々から気づかれずに「真ん中を通り抜ける」ことができたのです。 実は人々が石を投げつけるにまで至った理由はイエスの言った言葉の「before Abraham was even born, I Am!」の中の最後の部分、「I Am」のところにあります。「Am」の「A」が大文字で書かれていますがこの「I Am」は「私はいる」「私である」とも訳せますが、これは実は神さまが聖書の中で自分自身を呼んだ呼称なのです。Exodus 3:14(出エジプト記第3章14節)でモーゼが神さまに名前をたずねる場面がありますが、そのとき「神はモーセに仰せられた。わたしは、『わたしはある』という者である。」([新解訳])と答えました。つまりイエスはここで自分が「I Am」だ「自分は神だ」と言っているので人々は我慢ができなくなったのです。 聖書を読んでいくと天地を創造した神さまを含めて聖書に登場する神さまが実はイエスだったことがわかります。神さまのことなのでよくわかりませんが、私個人の中のイメージは神さまという何か大きな存在というか背景の中で「手段」や「媒体」として世界や人々と接してきたのがイエスのようです。アブラハムに現れた神さまも実はイエスであり、ここの記述「あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだ」によれば、そのときにイエスはアブラハムに自分が地上に降りる日の幻を見せたのではないでしょうか。旧約聖書の中にはそのときの様子は見あたりませんがおそらく息子のイサクを捧げようとしたときではないかと想像できます。そしてイエスはいまから2000年前、自分の役目を全うするために肉体を持って地上に降りたのです。三位一体なので「父なる神」「子なるイエス」「聖霊」の三者はバラバラのようでひとつです。聖書の中でもこの三つは別々の「格」を持つ存在として描かれ、同時に三者が登場したり会話を交わしたりもします。
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