ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第15章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus, the True Vine

イエスは本当のぶどうの木


1 “I am the true grapevine, and my Father is the gardener.

1 私は本当のぶどうの木です。そして私の父は庭師です。

2 He cuts off every branch of mine that doesn’t produce fruit, and he prunes the branches that do bear fruit so they will produce even more.

2 私の枝で実を結ばないものはすべて父が切り落とし、実を結ぶ枝は、もっと多くの実を結ぶように父が刈り込みをします。

3 You have already been pruned and purified by the message I have given you.

3 あなた方は、私があなた方に話した言葉によって、すでに刈り込まれ、清められているのです。

4 Remain in me, and I will remain in you. For a branch cannot produce fruit if it is severed from the vine, and you cannot be fruitful unless you remain in me.

4 私の中にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。なぜなら枝はぶどうの木から切り離されてしまったら、実を結ぶことができません。あなた方も私の中にとどまっていなければ実を結ぶことはできません。

5 “Yes, I am the vine; you are the branches. Those who remain in me, and I in them, will produce much fruit. For apart from me you can do nothing.

5 そうです。私はぶどうの木で、あなた方は枝です。私の中にとどまる人で、私がその人の中にいれば、そういう人は多くの実を結びます。なぜなら私から離れたら、あなた方は何もできないからです。

6 Anyone who does not remain in me is thrown away like a useless branch and withers. Such branches are gathered into a pile to be burned.

6 私の中にとどまらない人は役立たずの枝のように投げ捨てられて枯れます。そういう枝は寄せ集めて山にして燃やされるのです。

7 But if you remain in me and my words remain in you, you may ask for anything you want, and it will be granted!

7 ですがもしあなた方が私の中にとどまり、私の言葉があなた方の中にとどまるなら、あなた方は欲しいものを何でも求めて良いのです。それはきっとかなえられます。

8 When you produce much fruit, you are my true disciples. This brings great glory to my Father.

8 あなた方が多くの実を結べば、あなた方は私の真の弟子です。このことは、私の父に大きな栄光をもたらします。

9 “I have loved you even as the Father has loved me. Remain in my love.

9 父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。

10 When you obey my commandments, you remain in my love, just as I obey my Father’s commandments and remain in his love.

10 あなた方が私の命令に従うとき、あなた方は私の愛にとどまるのです。それは私が私の父の命令に従い、私が父の愛の中にとどまっているのと同じです。

11 I have told you these things so that you will be filled with my joy. Yes, your joy will overflow!

11 私がこれらのことをあなた方に話したのは、私の喜びであなた方が満たされるようにです。そうです。あなた方の喜びは溢れ出すのです。

12 This is my commandment: Love each other in the same way I have loved you.

12 これが私の命令です。私があなた方を愛したのと同じように、あなた方も互いに愛し合いなさい。

13 There is no greater love than to lay down one’s life for one’s friends.

13 人が友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はありません。

14 You are my friends if you do what I command.

14 私が命じることをあなた方が行なうなら、あなた方は私の友です。

15 I no longer call you slaves, because a master doesn’t confide in his slaves. Now you are my friends, since I have told you everything the Father told me.

15 私はもう、あなた方をしもべとは呼びません。なぜなら主人はしもべに秘密を打ち明けたりしないからです。いま、あなた方は私の友です。なぜなら私は父から聞いたことのすべてをあなた方に話したからです。

16 You didn’t choose me. I chose you. I appointed you to go and produce lasting fruit, so that the Father will give you whatever you ask for, using my name.

16 あなた方が私を選んだのではありません。私があなた方を選んだのです。私があなた方を任命し、行っていつまでも残る実を結ばせるのです。それは父が、私の名によって、あなた方が求めるものは何でも与えるようになるためです。

17 This is my command: Love each other.

17 これが私の命令です。互いに愛し合いなさい。



[解説]

前章の最後はイエスの「さぁ、行きましょう」で締めくくられていたので、場合によるとここから先はイエスが11人の使徒たちと歩きながら話したことかも知れません。1節、イエスは「私は本当のぶどうの木です。そして私の父は庭師です」と言いますが、実はぶどうの木は旧約聖書の中でも象徴的に扱われていました。たとえばPsalms 80:8-9(詩編第80章8〜9節)では記述者が神さまに対して「8 あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。9 あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。」([新解訳])と呼びかけており、神さまがエジプトから連れ出したのはユダヤ民族ですから「ぶどうの木」=「ユダヤ民族」ということになります。あるいはIsaiah 5:1-7(イザヤ書第5章1〜7節)では預言者イザヤがぶどうの木の収穫について甘いぶどうを期待していたのに酸っぱいぶどうができてしまったと嘆いています。だからぶどう園の主はぶどう畑を荒れるに任せ、雨も降らせないと宣言します。ここでも「ぶどうの木」=「ユダヤ民族」で、ぶどうの収穫は神さまの目に映るユダヤ民族の行いや考えの象徴なのです。だとすると「私は本当のぶどうの木です。そして私の父は庭師です」はイエスがユダヤの民に語る話がユダヤ民族が本来あるべき本当の姿を表していると言っていて、ぶどう畑を管理する庭師は神さまなのですからここでも神さまを父と呼んでいることになります。

5節では「私はぶどうの木で、あなた方は枝です」と書かれていて、だから枝である私たちはぶどうの木であるイエスににつながっていなければ意味がないという展開になります。なぜならイエスにつながっていなければ「実を結ぶことはできません」し(4節)、さらには「あなた方は何もできない」とも書かれています(5節)。逆にイエスにつながらない枝は実を結ぶことができないし、それどころか良い枝の成長を妨げるような枝は切り離されて、切り離された枝は役に立たないからまとめて火に放り込まれると言っています(6節)。それを行うのは庭師である神さまですが、新約聖書の最後の本「Revelation(ヨハネの黙示録)」に描かれた最後の裁きの場面ではイエスに裁かれた人が火の池に投げ込まれる様子が書かれています。また福音書にはイエスが「聖霊」と「火」で人に洗礼を施すと書かれている部分が何カ所かありますが、最初の「聖霊による洗礼」はこの後に起こる助け主である聖霊の訪れを指し、次の「火の洗礼」はイエスの再来の時に起こる最後の裁きを指すと考えられます。

これと同じことはイエスの先駆けとして現れた洗礼者ヨハネも言っていました。Matthew 3:9-12(マタイの福音書第3章9〜12節)の部分で、ユダヤ人だからと言う理由だけで天国へ入れると思ったら大間違いだ、誰でも良い実を結ばなければ焼き尽くされると警告する言葉です。「9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新解訳])

書くまでもありませんがぶどうの木につながる枝とは「イエスを信じる人」、ぶどうの木につながらない枝とは「イエスを信じない人」です。同じ神さまがイエスにつながる枝については「もっと多くの実を結ぶように父が刈り込みをします」(2節)とあります。一般に果樹の枝を刈り込むと果物が大きく育ちます。ですが刈り込み作業そのものは木を傷つける作業です。果物を大きく育てるためにはときには木を傷つけるような刈り込みが必要なのです。これは神さまがときに信じる人の人物や信仰を育てるために与える試練のことを指しているのではないでしょうか。

では「実を結ぶ」とは具体的に何を指すのでしょうか。いったい人は何をしたら「実を結んだ」とみなされるのでしょう。7節では「あなた方は欲しいものを何でも求めて良いのです。それはきっとかなえられます」と書いてありますから、イエスにつながる枝である人はイエスにお願いをしてそれに対する答を受け取ります。願いに対する応え、これがひとつの結実です。11節には「あなた方の喜びは溢れ出すのです」と書かれていますから、イエスにつながる人には喜びがもたらされます。これもひとつの結実です。

そしてもう一つ、この章で再度登場した12節と17節の「互いに愛し合いなさい」です。「互いに愛し合いなさい」と言われても「はい。わかりました」と言える人は少ないのではないでしょうか。つまりどなたのまわりにも「愛したくても愛せない人」というのがいるのではないでしょうか。たとえばイエスは福音書の他の箇所で自分に好意を持ってくれる人を愛するのは誰にでもできる、それよりも自分の敵を愛しなさいと言いますが、これはとても難しい命令です。でも私は「イエスの命じるように他者を愛することができない」からと言ってだからイエスの弟子として失格者にされると言うことはないと思います。そうではなくてイエスを信じる人は神さまに整えられながら(ときには刈り込まれるような試練を経て)だんだんと「敵さえも愛せる人」に変えられていくのだと思います。

人は人生の過程で悩み苦しみ、いろいろな方法でそれを克服しようとします。それが人生だとさえ言えるかも知れません。ところがそういう試練を自分の方法で克服しようと必死に努力するする人間の姿は実は聖書の中では神さまの目には好ましい姿には映らないのです。なぜなら全知全能の神さまを無視してそれよりも自分の力を信じるのは神さまに頼ろうとしない無神論者に等しいとされるからです。聖書に書かれている神さまとはどんな方なのでしょうか。神さまは裏切りや失敗を繰り返す、そんなどうしようもない人間をそのままの姿で無条件に受け入れて愛する神さまです。その神さまが自分のところへ来なさいと手を差し伸べておられそのための道を示しています。その道はただひとつイエスだけです。だからイエス自身も自分につながっていなさいと言っているのです。悩みや苦しみを持つ人はまずは神さまのところへ行って、どうか助けて下さいと頼まなければいけません。全宇宙を瞬時に創造できる全知全能の神さまには不可能はありません。人間ひとりひとりを愛し、髪の毛の本数さえ数えておられる神さまはどんな小さな願いにでも耳を傾けてくださいます。だから「私はイエスの命じるように他者を愛せない」「どうすれば愛せるようになるのだろう」と自分を責めて頑張るのではなくて、何でもできる全知全能の神さまに「私を変えて下さい。他者を愛して神さまの期待に応えられるようなそんな人にしてください。私はそうなりたいのです」とお願いすれば良いのです。神さまの与えて下さる試練を神さまと共に越えていき、いままでと違う視点で他者を見ることができるようになり、やがて愛することさえできるようになる、それがもうひとつの結実です。そうやって神さまを信じる人の願いがかない、喜びに溢れ、他者を愛するような実を結ぶとき人々は神さまに感謝し神さまを賛美します。そうやって神さまに栄光がもたらされるのです(8節)。すべてのは神さまの栄光のためにあるのです。

15節、イエスは「私は父から聞いたことのすべてをあなた方に話した」、だから使徒たちはもはや「しもべ(slave)」ではなく「友」だと言います。イエスは神さまであり、創造者であり、支配者なのですから、そして私たちは何度も繰り返し神さまの期待を裏切って来たのですから「しもべ」として従うのが当然な、あるいは「しもべ」としていただけることでさえありがたい、そんなちっぽけな存在です。ですがイエスは私たちが「しもべ」だから従うのではなく、私たちがイエスを好きだから、イエスを愛しているから、それを理由にして従いなさいと言うのです。それがイエスの「友」となる条件です。9節でイエスは「 父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました」だから「私(イエス)の愛の中にとどまりなさい」と言いました。つまりイエスと同じスタイルでイエスを愛しイエスを愛するからこそイエスの命令に従って人を愛するようになる、そういう過程をたどりなさいと言うのです。

16節にはそうする理由が書かれています。「あなた方が私を選んだのではありません。私があなた方を選んだのです」と。これはなんと心強い言葉でしょう。神さまからの呼びかけを感じる人は神さまの側から選ばれているのです。だから何も恐れずに、不安を捨てて素直にイエスを信じ、自分に足りないと感じるものはイエスの名前によって神さまにおねだりすればよいのです。そうすればそれは必ず与えられるとイエス自身が言っているのですから。



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The World’s Hatred

世の中からの憎しみ


18 “If the world hates you, remember that it hated me first.

18 もし世の中があなた方を嫌うなら、世の中はまず私を嫌ったのだと覚えておきなさい。

19 The world would love you as one of its own if you belonged to it, but you are no longer part of the world. I chose you to come out of the world, so it hates you.

19 もしあなた方が世の中に属していたのなら、世の中はあなた方を自分のものとして愛したでしょう。しかしあなた方はもう世の中のものではないのです。世の中から出て来るようにと、私があなた方を選んだのです。だから世の中はあなた方を憎むのです。

20 Do you remember what I told you? ‘A slave is not greater than the master.’ Since they persecuted me, naturally they will persecute you. And if they had listened to me, they would listen to you.

20 私があなた方に言ったことを覚えていますか? 『しもべは主人には及ばない』と。彼らは私を迫害したのですから、当然あなた方をも迫害します。もし彼らが私の話に耳を傾けていたなら、あなた方の話も聞くでしょう。

21 They will do all this to you because of me, for they have rejected the One who sent me.

21 彼らがこれらのことすべてをするのは、私が理由なのです。それは彼らが私を遣わした方を拒絶したからです。

22 They would not be guilty if I had not come and spoken to them. But now they have no excuse for their sin.

22 もし私が来て彼らに話さなかったら、彼らには罪はありません。しかし今となっては、彼らは自分たちの罪について弁解の余地はありません。

23 Anyone who hates me also hates my Father.

23 私を憎む者は、誰でも私の父をも憎んでいるのです。

24 If I hadn’t done such miraculous signs among them that no one else could do, they would not be guilty. But as it is, they have seen everything I did, yet they still hate me and my Father.

24 もし私が、他の誰にも行うことのできなかった奇跡のわざを、彼らの前で行なわなかったのなら、彼らには罪はありません。しかし今、彼らは私がしたことをすべて見たのです。それなのに彼らは相変わらず私と私の父を嫌うのです。

25 This fulfills what is written in their Scriptures: ‘They hated me without cause.’

25 これは聖書に書かれた言葉を成就します。『彼らは理由もなく私を憎んだ。』

26 “But I will send you the Advocate -- the Spirit of truth. He will come to you from the Father and will testify all about me.

26 ですが私はあなた方に助け主を送ります。それは真理の霊です。その霊は父から来て、私についてすべてのことを証言します。

27 And you must also testify about me because you have been with me from the beginning of my ministry.

27 そしてあなた方も私について証言しなければなりません。なぜならあなた方は私の伝道活動の初めから私と共にいたからです。



[解説]

イエスを信じる人がどうして嫌われるかという話です。イエスはイエスを信じる人を嫌う人はその人を嫌う以前にイエス自身を嫌っていると言います(18節)。イエスの教えたことを実践しようと努める人たちが嫌われるのはイエス自身が嫌われているからだと言うのです。イエスの教えは俗な世の中とは一線を画し、正しく神聖なそしてそれは神さまが人間を創造したときに「こうあって欲しい」と期待した姿をいつも指向しなさいと教えます。そのお手本として示されたのが人間の姿をとったイエスです。俗な世の中では誰もが心の中に闇を持ち、イエスのもたらす光よりも闇を愛し、お互いに隠し事をしてそれを暗黙のうちに認め合いながら表面だけを装って生きています。イエスを信じる人はそういう世の中の中にありながら俗で汚れた自分と決別し、神さまを信じて神さまの期待に沿って生きられるようにそうやって生きていくようにと選び出されたのです(19節)。そう言う人を世の中は嫌うのです。イエスを信じる人を拒絶する人はイエス自身を拒絶する人、イエスを拒絶する人はイエスを地上へ遣わした神さまを拒絶する人です(21節)。

22節では、イエスは「もし私が来て彼らに話さなかったら、彼らには罪はありません。しかし今となっては、彼らは自分たちの罪について弁解の余地はありません」と言い、24節では「もし私が、他の誰にも行うことのできなかった奇跡のわざを、彼らの前で行なわなかったのなら、彼らには罪はありません。しかし今、彼らは私がしたことをすべて見たのです」と言います。イエスが伝道活動を行った間、ユダヤの各町にある会堂や街角であるいはエルサレムの寺院であるいはガリラヤ湖の湖畔や丘の上で、イエスの話を聞いた人はたくさんいました。イエスはあたかも聖書の著者であるかのように聖書の書かれた意図の視点から神の国の話をして、その話ぶりはいままでに聞いたことのないような権威に満ちていたと書かれています。またイエスはたくさんの人々の前で数々の奇跡を行っています。病気を治して欲しいと集まってきた人を残らず完全に治癒させ、何年も歩けなかった人を立ち上がらせ、目の見えなかった人の目を開き、耳の聞こえなかった人の耳を開き、死者をよみがえらせました。救世主がこういう奇跡を行うことは聖書の中で預言されていたのです。イエスはもし人々がイエスの話を一度も聞いたことがなかったのなら、もし人々がイエスの奇跡を一度も自分の目で見たことがなかったのなら、「信じない」と言うことはできたでしょうが、話を聞いて奇跡を目撃した以上、それでもイエスを否定し憎むことには罪があると言うのです。

26節、イエスは再度聖霊の話をします。イエスは聖霊を「助け主(Advocate)」と「真理の霊(Spirit of truth)」の二つの名前で呼んでいます。前者は[NLT]の前の版では「相談相手、カウンセラー(Counselor)」という単語が使われていました。[KJV]では「慰める人(Comforter)」と書かれています。これらは言語のギリシア語の持つニュアンスにふさわしい単語を選ぼうとしているわけですが、つまり聖霊とは「助け主、擁護する人(Advocate)」であり「相談相手」であり「慰める人」である、そういう心強い存在なのです。しかも聖霊は後者「真理の霊(Spirit of truth)」なので「正しい」のです。その正しさは人間の考える「正しさ」ではなく神さまの視点での「正しさ」です。聖霊は三位一体のひとつを成す神さまであり、イエスが自分の代わりにイエスを信じる人ひとりひとりに宿らせるために送り、一度宿ったら決して離れないと書かれています。つまりクリスチャンの中には神さまが宿り、その人を決して離れず、その人を守り、その人を慰め、その人を正しい方向へと導くのです。



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