ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第12章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus Anointed at Bethany

イエスがベタニヤで聖別の印を受ける


1 Six days before the Passover celebration began, Jesus arrived in Bethany, the home of Lazarus -- the man he had raised from the dead.

1 過越の祭りが始まる六日前、イエスはにベタニヤのラザロの家に到着しました。ラザロはイエスが死人の中からよみがえらせた人です。

2 A dinner was prepared in Jesus’ honor. Martha served, and Lazarus was among those who ate with him.

2 イエスに敬意を表して晩餐が用意されました。マルタが給仕し、ラザロはイエスとともに食事をした人々の中にいました。

3 Then Mary took a twelve-ounce jar of expensive perfume made from essence of nard, and she anointed Jesus’ feet with it, wiping his feet with her hair. The house was filled with the fragrance.

3 するとマリヤが、ナルドのエッセンスから作った高価な香油300グラムほどの入った壺をとり、聖別の印としてイエスの足に塗り、それを自身の髪でぬぐいました。家は香油のかおりで一杯になりました。

4 But Judas Iscariot, the disciple who would soon betray him, said,

4 しかし、この後すぐイエスを裏切ることになる弟子の、イスカリオテのユダが言いました。

5 “That perfume was worth a year’s wages. It should have been sold and the money given to the poor.”

5 「あの香油は一年分の賃金に相当したのだ。売ってその代金を貧しい人々に与えるべきだった。」

6 Not that he cared for the poor -- he was a thief, and since he was in charge of the disciples’ money, he often stole some for himself.

6 ユダは貧しい人々を気にかけたのではなく、ユダは泥棒なのでした。弟子たちの金の管理を任されていましたが、ときどき自分のためにいくらかを盗んでいたのでした。

7 Jesus replied, “Leave her alone. She did this in preparation for my burial.

7 イエスが答えて言いました。「マリヤを放っておいてあげなさい。マリヤは私の埋葬の準備のためにしたのです。

8 You will always have the poor among you, but you will not always have me.”

8 貧しい人々はいつもあなた方の周囲にいます。ですが私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。」

9 When all the people heard of Jesus’ arrival, they flocked to see him and also to see Lazarus, the man Jesus had raised from the dead.

9 皆がイエスの到着を聞くと、人々はイエスに会うため、そしてイエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るために、群れを作ってやって来ました。

10 Then the leading priests decided to kill Lazarus, too,

10 そして祭司長たちはラザロをも殺そうと決断しました。

11 for it was because of him that many of the people had deserted them and believed in Jesus.

11 それはラザロのために、人々の多くが彼らの元を去って、イエスを信じるようになったからです。



[解説]

イエスが死んだラザロをよみがえらせた後の過越の祭です。ラザロたちの住むベタニヤの村はエルサレムから3キロほどの距離にありました。イエスはイスラエル南部のユダヤ地方で伝道活動を行うときには拠点をラザロの家に置いていたようです。ラザロを復活させたイエスを客に迎えて、ラザロ、マルタ、マリヤの家で晩餐が用意されます。テーブルに着く人々の中には一度は死んだはずのラザロが混じっていて、みなと共に食事をしています。食事をしているのはイエスが墓の中からラザロを呼び出したセンセーショナルな光景を目撃していた人たちばかりでしょう。テーブルはそのときの話で持ちきりだったのではないでしょうか。

3節でマリヤがイエスの足に注ぐナルドの香油はインドから輸入される芳香性の軟膏です。大変高価な香油でマリヤがイエスの足に注いだ量は一年分の収入に値したのでした。ここで「油を注ぐ」を表す単語は「anoint(「アノイント」と発音)」です。辞書を引くと「聖別のしるしとして、人・頭などに聖油を塗る;国王・司祭などを聖別する」「人を聖別して国王などに選ぶ」などと書かれています(研究社:新英和中辞典)。「聖別」は人を聖なるものとして他の俗な被造物から分けること区別することで、その区別のしるしとしてたとえば即位や任命の際などにその人の頭に油を注ぐ儀式を行いました。ここから「聖別を受けて選ばれた王」を「油注がれた者」と言ったりもします。

4節でイエスを裏切ったことで有名なユダが登場します。ユダはマリヤの行為にケチをつけて「高価な香油なのだから、売って、貧しい人々に施しをするべきだった」と言います。」これは正論のようですが、6節によるとユダは実は泥棒だったのです。ユダはイエスの弟子の中で会計係をしていてときどき管理しているお金の中から盗んでいたのです。イエスはこのことを知っていたと思われますがそれをわざわざ本人や周囲に言うことをしませんでした。神さまは人が罪悪の道を選択するときそれを見ているのでもちろんご存じですが、いちいちそのタイミングでとがめることはしません。これは許したり大目に見たりしているのではありません。神さまは神聖な存在ですからどのような些細な悪も容認できません。また罪悪を持つ人はそれがどんな些細な罪悪でも神聖な天国には入れません。さらに付け加えるとどんな些細な罪悪もその前や後に行う善行で埋め合わせることはできません。人が行う罪悪については必ずどこかでその結果を摘み取らされるようにできているようです。ですが私の個人的な経験では神さまを信じて受け入れた人に対しては、その刈り取りの作業さえその人を清め育てるための機会として用意してくださいます。神さまの計画の奥深さにはいつも感服です。刈り取りの試練を越える過程はいつも大変つらいですが、その後ろに愛に裏打ちされた計画や意図を感じることができます。それをどのようにとらえるかは個々の人の考え方次第だと思います。ユダの発言は正論のようでいて実は偽善です。ユダは自分の内面に対して嘘をついてこういう発言をしていることになります。こういう人はサタンの標的にされやすいのです。やがてユダはサタンの侵入を許しイエスを裏切る選択をすることになります。

8節、イエスは「貧しい人々はいつもあなた方の周囲にいます。ですが私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません」と言いました。この部分は誤解を招きやすいと思います。貧しい人々に施すこととイエスへの信仰を天秤にかけることになりかねません。たとえばイエスはMatthew 15:3-6(マタイの福音書第15章3〜6節)でファリサイ派を批判する際に、律法には「あなたの父と母を敬え」「父や母をののしる者は死刑に処せられる」と書いてあるのにファリサイ派は「神さまへの供え物にするのなら両親にはものをあげなくて良い」と言って律法を逆手にとって神さまの意図から外れてしまっていると言い、ファリサイ派を偽善者と呼びます。「貧しい人々に施すこと」は聖書の中に正しいとされています。ですがそれを根拠にして他の正しい行為を無にしてはいけないのです。主であり王であるイエスを前にして最上の油を注ぐという行為は紛れもない信仰と崇拝に裏付けられているからです。

10節、イエスの殺害を企てる一派はイエスが生き返らせたラザロをも殺そうと決めます。イエスを殺す理由は神さまに対する冒涜なのかも知れませんが、ラザロを殺す理由は果たして何なのでしょうか。彼らはイエスの神性を裏付ける奇跡のしるし、死者の復活の証拠であるラザロの存在が邪魔なのです。生き返ったラザロがイエスの奇跡を人々に伝えながら歩き回ること、これほど強力な証言はありません。そうやってイエスが賞賛を受けることが許せないのです。こうやっていつも罪は罪を呼び、ウソはウソを呼び、罪悪はどんどんエスカレートしていきます。私たちはたとえ小さなことでも罪に手を出してはいけません。罪はいつも「目で見て」「欲望を育て」「手を出して取り」「隠す」、この四つのステップで成立します。だから罪を避けるためにはまず「見ないこと」。そして「見てしまっても欲望を育てないこと」。欲望から逃げられなくとも「手を出さないこと」。もし罪を犯してしまったとしても「自分の罪を隠さないこと」です。聖書には罪とは戦うな、罪からは一目散に逃げなさいと教えています。自分の欲望をコントロールしようとか、少しだけなら大丈夫というのは無駄な抵抗です。逃げ出すステップは早い方が良いのです。罪に関われば関わるほどサタンの思うつぼになります。



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Jesus’ Triumphant Entry

イエスの勝利の入場


12 The next day, the news that Jesus was on the way to Jerusalem swept through the city. A large crowd of Passover visitors

12 翌日、イエスがエルサレムに向かっているという知らせが町中に広がりました。過越の祭にたくさんの人が訪れていました。

13 took palm branches and went down the road to meet him. They shouted, “Praise God! Blessings on the one who comes in the name of the Lord! Hail to the King of Israel!”

13 人々はシュロの木の枝を取り、イエスを迎えるために道を下って行きました。そして人々は叫びました。「神さまを褒め称えよ!主の名前によって来られる方に祝福あれ!イスラエルの王万歳!」

14 Jesus found a young donkey and rode on it, fulfilling the prophecy that said:

14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗りました。それは次の預言を実現しています。

15 “Don’t be afraid, people of Jerusalem. Look, your King is coming, riding on a donkey’s colt.”

15 「恐れるな、エルサレムの人々よ。見なさい、若き王が来られる、ろばの子に乗って。」

16 His disciples didn’t understand at the time that this was a fulfillment of prophecy. But after Jesus entered into his glory, they remembered what had happened and realized that these things had been written about him.

16 イエスの弟子たちは、このときには、これが預言の実現だとはわかりませんでした。しかしイエスが栄光を受けられて後に、弟子たちは起こった出来事を思い出し、これらの預言がイエスについて書かれたことだったと理解したのでした。

17 Many in the crowd had seen Jesus call Lazarus from the tomb, raising him from the dead, and they were telling others about it.

17 人々の中には、イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたのを目撃した人がたくさんいました。この人たちは他の人たちにそのこと話していました。

18 That was the reason so many went out to meet him -- because they had heard about this miraculous sign.

18 そのため、本当にたくさんの人々がイエスを迎えに出ました。人々はこの奇跡のしるしについて聞いていたからです。

19 Then the Pharisees said to each other, “There’s nothing we can do. Look, everyone has gone after him!”

19 それでファリサイ人たちは互いに言いました。「我々にできることは何もない。見なさい。人々はみな、あの人についていってしまった。」



[解説]

ここからイエスが十字架にかけられるまでの最後の一週間がスタートします。この期間を特に「Passion(キリストの苦難)」と呼ぶようです。イエスはろばの子に乗りエルサレムの都へと入っていきます。エルサレムの町は過越の祭を一週間後に控え、すでにイスラエル全土及び周辺諸国からたくさんのユダヤ人たちが集まっていました。人々は勝利または喜びの象徴であるシュロの枝を折って手に持って駆けつけ、イエスを王として讃えて入場を迎えます。

イエスは自分が神さまから与えられた地上での使命である十字架死のタイミングをすべてのユダヤ人がエルサレムに集結する過越の祭に置きました。これは自分が聖書に預言された救世主であることを揺るがない事実とするためでしょう。つまり救世主が果たす役割が聖書の中でどのように預言されて来たか、そしてそれが実際にどのように成就されるのか、次々と起こる出来事の目撃者をできるだけ多く用意されるようにしておいて後に使徒によって行われる福音の伝道活動の証拠を誰にも否定できないように整えたのだと思います。イエスに関わる出来事を時系列に並べればそれが数百年以上も前から預言されてきた救世主をそのまま指し示すことは誰の目にも明らかだからです。このイエスの入場の日は現在でも「Palm Sunday(シュロの主日)」と呼ばれ主にクリスチャンによって祝福されています。

イエスの入場のタイミングでは人々はこれから何が起こるかをまったく理解していません。「イスラエルの王万歳!」と叫ぶ民衆はイエスの役割をまったく取り違えています。人々はイエスがこの後ユダヤ民族のリーダーとして立ち上がりイスラエルという国家をローマ帝国の支配から切り離し、かつてのダビデ王の頃の栄光の日々が再来すると勝手に期待しているのです。熱狂する人々はたとえばイザヤ書に書かれている救世主の苦難には耳を貸しません。やがてイエスが自分たちの期待通りの王ではないとわかると逆にイエスを責め立てる側にまわるのです。

イエスがロバの子に乗って入場する様子はZechariah 9:9(ゼカリヤ書第9章9節)に次のように書かれています([新解訳])。

9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

この預言の実現は弟子たちが子ろばを見つけてくるエピソードを別にすればそれほどの驚きには値しないでしょう。一連の出来事の連続の中でイエスはザカリヤ書のこの部分を成就するために子ろばにまたがったのです。

16節によると弟子たちはこの時点でこれが聖書の預言の成就になっているとは気づいていませんでした。イエスが死から復活した後でイエスについて起こった出来事を順番に並べていくとすべてが忠実に聖書の預言を実現していることに気づくのです。複雑な出来事がどうしてそういう驚くべきタイミングで連なっていくのか、とても「偶然」という言葉では説明できない何か不思議な巡り合わせ、そしてそういう出来事の連続に次ぐ連続。偶然に偶然が重なり得る確率とはどれほどのものなのでしょうか。ありえない・・・という実感。それはいまからおよそ2000年前にその場に関わった人でなければわかりません。一方キリスト教の伝道は十字架の直後から始まり、イエスを描く新訳聖書の流布も部分部分がそれから20〜30年後あたりから始まっていたのです。これは実際に出来事の目撃者が生存していた時期です。いまを生きる私たちは自分たちの周囲で起こっている日々の出来事に意識を奪われ自分を包む大きな流れがどのようになっているかに気を配る余裕がありません。このときのイエスの弟子たちとまったく同じです。

私はイエスを救い主として受け入れて後、自分の人生を振り返ることが何度かありました。するとすべての節目節目の出来事が自分が神さまと出会うために順番にひとつずつ用意されていたことに気づくのです。それは本当に自分が小さかった頃にまでさかのぼることができます。薄気味悪くてちょっと怖くなり背中がぞっとします。それほど神さまの計画は深淵で絶妙だからです。すべての力を持ちすべてを知り、時間も空間も超越して過去と未来を同時に見ている方だからこそできることだと思います。そしてその神さまが、正しくて、善くて、人間を愛する方だというのはなんと素晴らしいことなのでしょう。あぁ神さまはいる、これは他の誰にもわからないかも知れないけど自分個人としてこれほど強く確証が持てることはないと思う瞬間です。

17〜18節、イエスを褒め称えて集まってくる人たちの中にはイエスがラザロを死からよみがえらせた出来事を見ていた人たちが多数含まれています。この人たちはイエスの入場を見ながらそのときのドラマチックな出来事の様子を周囲の人たちに熱く話します。結果として民衆はふくれあがりその歓迎はいよいよ熱を帯びていきます。しかしこの同じ人たちがほんの数日後にはイエスを十字架に掛けるようにと叫ぶのです。



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Jesus Predicts His Death

イエスが自分の死を予告する


20 Some Greeks who had come to Jerusalem for the Passover celebration

20 過越の祭にエルサレムへやって来た何人かのギリシヤ人がいました。

21 paid a visit to Philip, who was from Bethsaida in Galilee. They said, “Sir, we want to meet Jesus.”

21 この人たちがガリラヤのベツサイダ出身のピリポを訪ねて来ました。彼らは言いました。「どうか、イエスにお目にかかりたいのです。」

22 Philip told Andrew about it, and they went together to ask Jesus.

22 ピリポはこのことをアンデレに告げました。二人は一緒にイエスに頼みに行きました。

23 Jesus replied, “Now the time has come for the Son of Man to enter into his glory.

23 イエスは答えて言いました。「ついに人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24 I tell you the truth, unless a kernel of wheat is planted in the soil and dies, it remains alone. But its death will produce many new kernels -- a plentiful harvest of new lives.

24 あなた方に本当のことを言います。一粒の小麦も、もし地に蒔かれて死ななければ、それは一粒のまま残ります。ですがそれが死ねば、多くの新しい実を結ぶのです。新しい命の豊かな収穫です。

25 Those who love their life in this world will lose it. Those who care nothing for their life in this world will keep it for eternity.

25 この世で自分のいのちを愛する者はいのちを失います。この世で自分のいのちを気にかけない者はいのちを保ち、永遠のいのちに至るのです。

26 Anyone who wants to be my disciple must follow me, because my servants must be where I am. And the Father will honor anyone who serves me.

26 私の弟子になりたいと思う者は、みな私について来なければなりません。私に仕える者は、私のいる場所にいなければならないからです。そして父は私に仕えるすべての人をたたえます。



[解説]

20節から書かれているギリシア人はおそらくユダヤ民族が信仰する神さまを信じることに決めた外国人ではないでしょうか。この人たちはユダヤ人の祭である過越を祝うためにエルサレムへ巡礼してきたのです。この人たちはイエスに会いたいと望み、ピリポに声をかけます。「ピリポ」の名前はギリシア人にも馴染みのある名前だったのでピリポを選んだのかも知れません。ピリポはどうしたものかと行動派のアンデレに相談を持ちかけ、二人はイエスの元へ向かいます。

イエスは23〜24節で自分を一粒の小麦にたとえました。イエスは与えられた使命として私たち人間の罪を背負い人間の身代わりになって死ななければなりませんでした。しかしイエスひとりの死は私たち人間全体の罪を帳消しにして罪に汚れた私たちを罪のない純白の存在に変えてくれます。こうして罪に対する罰として死ぬはずだった私たちは永遠の命を得て神さまの元へ戻ることが許されるのです。たったひとつのイエスのいのちがイエスを信じる無数の人間のいのちを生むのです。

25節、イエスは「この世で自分のいのちを愛する者はいのちを失い」「この世で自分のいのちを気にかけない者はいのちを保つ」「それが永遠のいのちに至る」と謎かけのようなことを言います。自分のいのちを愛すれば失い、気にかけなければ保つ、イエスはいくつかの場面でこれと似たようなことを言いますがこれの本当の意味を理解するのは難しいと思います。「自分のいのちを愛するな」「自分のいのちを気にかけるな」と言うのはイエスが私たちに「死を待ち望め」と言っているのではありません。そもそも「いのち」とは何でしょう。私たちひとりひとりが持つ70〜80年くらいの寿命のことでしょうか。私たちは自分のいのちを使って何をしようとしているでしょうか。この限られた70〜80年の期間に何を達成しようとしているのでしょうか。私は「自分のいのちを愛するな」「自分のいのちを気にかけるな」と言うのは自分のいのちを自分だけの世俗的な利害や欲望のために使うなと言っているのだと思います。金や物や地位や名声や快楽を求める、そういうことをして自分のいのちを使う者は「いのちを失う」、つまり神さまに対する罪の中にとらわれたまま自分の人生を終えて罰としての死を迎えることになるということです。イエスは逆にそういうことをしなければ「いのちを保つ」「永遠のいのちに至る」と言います。つまり人には死を免れて永遠のいのちを得るための道もあるということです。人間は神さまが忌み嫌う罪を行ったことで罰として死を言い渡されました。逆に神さまの目に正しく映る人は罰としての死を免れて「永遠のいのちに至る」のです。

そして26節の「私の弟子になりたいと思う者は、みな私について来なければなりません。(中略)そして父は私に仕えるすべての人をたたえます」は、その「神さまの目に正しく映る方法」を書いています。神さまの目に正しく映るような人、つまり神さまである父が褒め称える人はイエスの弟子となってイエスに仕えついて行く人だということです。では私たちはどうしたらイエスの弟子となって仕え、ついて行くことができるのでしょうか。そのためには神さまによる救世主イエスを通じた人間救済の計画を知って理解し信じることです。聖書はそのプロセスの最初から最後までを記述した本なのです。だから言い換えれば聖書を理解し信じることということになります。聖書は確かに難解な書物ですが「求めるものには与えられる」と書かれているように、「理解したい」「神さまの意志を知りたい」と望む者には必ず理解や答が与えられます。ほとんどのケースで人の願いや祈りに対して神さまの答はすぐには来ません。ですが答はある日、予想外な形でもたらされます。そして「もしかするとこれが神さまからからの答なのだろうか」と気づき始めると自分の歩くべきレールが見えてきます。

それからイエスについて行くためには自分が罪を捨てる決断をして、自分個人の欲望を満たすためではなく神さまの意図に沿って生きる道を選ぶことが必要です。神さまの計画を理解し受け入れて行くことと神さまの意図に沿って生きることは前後しながら平行に進んでいくケースがほとんどのようです。この部分はイエスがピリポとアンデレがギリシア人のことをお願いしに言ったときに話していることですから、イエスの弟子となってついていく人はユダヤ人に限定されないということを陰にほのめかしているのかも知れません。ユダヤ人の弟子たちが福音が外国人にも開かれていることを知るのはしばらく後になります。



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27 “Now my soul is deeply troubled. Should I pray, ‘Father, save me from this hour’? But this is the very reason I came!

27 いま私の心は深く苦しんでいます。私は『父よ、この時から私をお救いください』と祈るべきでしょうか。ですがこれこそが私が来た理由なのです。

28 Father, bring glory to your name.” Then a voice spoke from heaven, saying, “I have already brought glory to my name, and I will do so again.”

28 父よ、父の名に栄光をもたらしてください。」 そのとき天から次のような声が聞こえました。「私はすでに自分の名に栄光をもたらした。そしてもう一度栄光をもたらそう。」

29 When the crowd heard the voice, some thought it was thunder, while others declared an angel had spoken to him.

29 群衆がその声を耳にすると、ある者は雷だったと言い、ほかの人々は天使がイエスに話したのだと言いました。

30 Then Jesus told them, “The voice was for your benefit, not mine.

30 イエスが人々に言いました。「声が聞こえたのは、あなたがたのためにです。私のためにではありません。

31 The time for judging this world has come, when Satan, the ruler of this world, will be cast out.

31 この世の裁きのときが来ました。この世の支配者サタンは放り出されるのです。

32 And when I am lifted up from the earth, I will draw everyone to myself.”

32 そして私が地上から上げられるとき、私はすべての人を自分のところに引き寄せます。」

33 He said this to indicate how he was going to die.

33 イエスは自分がどのように死ぬかを示すために、このことを言ったのです。

34 The crowd responded, “We understood from Scripture that the Messiah would live forever. How can you say the Son of Man will die? Just who is this Son of Man, anyway?”

34 群衆が答えました。「私たちが聖書から知っているのは、救世主は永遠に生きるということです。どうして人の子が死ぬと言えるのですか。だいたいその人の子とはいったい誰なのですか。」

35 Jesus replied, “My light will shine for you just a little longer. Walk in the light while you can, so the darkness will not overtake you. Those who walk in the darkness cannot see where they are going.

35 イエスが答えて言いました。「私の光はもうしばらくの間、あなた方のために輝きます。闇があなた方に襲いかかることのないように、歩ける間に光の中を歩きなさい。闇の中を歩く者には、自分たちがどこに向かっているのか見えないのです。

36 Put your trust in the light while there is still time; then you will become children of the light.” After saying these things, Jesus went away and was hidden from them.

36 まだ時間がある間に光を信じなさい。そうすればあなた方は光の子どもとなります。」これらのことを話すと、イエスは立ち去り、人々から隠されました。



[解説]

過越の祭にエルサレムへやって来たギリシヤ人がイエスに会いたいと言いフィリポとアンデレはイエスの元へ連れて行きました。彼らを前にイエスは自分の死を予告する話を始めます。27節、イエスは「my soul is deeply troubled(私の心は深く苦しんでいます)」と告白します。これに続きイエスは次のように言いました。「私は『父よ、この時から私をお救いください』と祈るべきでしょうか。ですがこれこそが私が来た理由なのです」。イエスは自分の前にある十字架のことを知っていてできることならそれを避けて通りたいと思い悩み苦しんでいるのです。なぜならイエスは父なる神さまから遣わされて十字架の上で死ぬために地上へ来たからです。もし神さまに「私を助けて下さい」とお願いすれば自分が地上へ来た理由が成就されなくなってしまいます。

ローマ帝国の十字架刑は歴史上で最も残酷な死刑と言われているそうです。当時の習慣では死刑囚は十字架刑の前にムチで打たれました。これは石や金属片を編み込んだ革のムチで40回以上にわたって背中から下半身を打つ刑です。数回打ったあたりで背中の皮膚が破れ、回を重ねると筋肉や骨がむき出しになっていきます。ほとんどの死刑囚は十字架に至る前にショックや多量の出血で死んでしまったようです。

死刑囚を十字架に打ち付ける作業は地面の上で行います。まず死刑囚を十字架の上に仰向けに寝かせた状態で、交差させた足首と両手首の三点をを太い釘で打ちつけて固定します。釘は手首と足首の神経を貫くのですから想像を絶する激痛です。そして十字架を垂直に立てると死刑囚は打ちつけられた三点では自分の体重を支えきれず、上半身が前に倒れ込んで肩が脱臼したような状態で前にぶら下がる形になります。体重を支える両手首と上半身にものすごい激痛が走り全身が緊張して硬直します。この硬直状態では死刑囚は息が詰まって呼吸ができないのです。酸欠で息が苦しくなった死刑囚は打ちつけられた足首に全体重をかけて膝と腰を使ってなんとか身体を押し上げます。そうやってようやく上半身の緊張を解いてつかの間の呼吸を行います。が、あまりの激痛に絶えられずすぐに元の位置に戻ります。こうして身体の上下を繰り返していくうちに体力が衰弱し自分の身体を持ち上げられないときが来ると死刑囚は死ぬのですが、その死因は「窒息死」です。

ところがイエスが悩み苦しみ十字架を避けたいと考えている理由はこれほど激しい肉体の痛みや苦しみを恐れているからではないのです。イエスが恐れているのは肉体的な苦しみではなく霊的な断絶です。イエスは神さまのひとり息子でやはり神さまです。人間の身体を得て地上に立った後も神さまの意志を100%理解していてそれを忠実に遂行してきました。つまり生まれてからこのときまで一度も神さまをガッカリさせたことがない罪のない存在なのです。そんな人間はイエス以外に存在しません。イエスはそうやって常に神さまと完全につながった状態で神さまからの祝福を100%受けてきました。ところがイエスが地上に来た理由とは、神さまをガッカリさせ続ける人間の罪を全部背負って代わりに死ぬことです。罪の全くない汚れのないイエスだからこそ人間の罪に対する代償になれるのです。人間の罪を背負うとき十字架に掲げられたイエスの身体には過去から未来にわたり世界中のすべての人間の罪が流れ込んで行きます。このときはじめてイエスは罪を取り込んだ存在となり、神さまの怒りを買って霊的に神さまから切り離される状態を味わいます。そして私たち人間と同様、罪に対する罰として神さまのいのちからも切り離されて死に至るのです。つまりイエスはこれまで一度も味わったことのない神さまとの断絶を恐れているのです。

28節、イエスが「父の名に栄光をもたらしてください」と言うと神さまの声が聞こえます。「私はすでに自分の名に栄光をもたらした。そしてもう一度栄光をもたらそう」。「父の名に栄光をもたらす」の「父の名」は「神さまの名前」のことです。神さまは全知全能で時間も空間も超越した無限の大きな大きな存在で、その内側に天国があり、さらにその内側に宇宙があるのです。地球に住む私たち人間には神さまの正確な姿を頭に思い浮かべることはできません。そこで何だかとんでもなく大きい存在に「神さま」と名前をつけて呼んでいるのですが、そういう意味で私たちが「神さま」と言っているのは「神さま」そのものであると同時に「神さまの名前」なのです。だからそういう意味もふまえて「神さまの名前」=「神さま」なのです。「栄光をもたらす(bring glory to)」は英語のそのままの直訳ですが、「名誉」「栄え」「輝き」を「もたらす」「与えられる」という意味です。「神さまの名前」=「神さま」なのですから「神さまに栄光をもたらす」は「神さまに名誉が与えられる」「神さまに輝きがあたえられる」の意味です。

神さまが最初にわざわざ自分の姿を映して創造した人間はサタンにそそのかされたとは言うものの、自分の意志で神さまとの約束を破り神さまをガッカリさせてエデンの園を追われて神さまとの関係を絶たれました。神さまとの関係を修復する手段は人間の努力では達成できません。罪を洗い流せるのは捧げられたいけにえの血だけです。聖書によれば生き物の命は血の中にあり、だから神さまとの関係を絶たれて死を宣告された人間の罪を洗い流す代償はやはり命としての血なのです。神さまはその代償としての汚れのない血をわざわざ自分の側から提供しようとしています。神さまを一方的に裏切った人間を許すための代償を自分のひとり息子であるイエスの血で支払おうとしています。これが神さまの人間に対する一方的な愛です。イエスは「父の名に栄光をもたらしてください」という言葉で自分は可能なら十字架を避けたいのだが、それよりも父なる神さまの意志を尊重する、神さまの崇高な人類救済の計画を成就して神さまの名前に名誉と輝きを与えて下さいと言っているのです。そのイエスの言葉に応えて神さまの声が聞こえます。これは異例なことです。「私はすでに自分の名に栄光をもたらした。そしてもう一度栄光をもたらそう」。神さまはこのときまでに数々の奇跡を行って神さまの名前に栄光をもたらして来ています。そしてイエスの十字架によってもう一度栄光をもたらそうという言葉です。

29節によると、その声はある人には雷のように聞こえ、ある人には天使の声に聞こえたようですが、30節でイエスはそうやってわざわざ神さまが異例にも声を発してくださったのは自分のためではなく十字架の前後の出来事を目撃する人々のためなのだと言います。

31節、イエスは「この世の裁きのときが来ました。この世の支配者サタンは放り出されるのです」と言います。聖書の解釈によるとサタンは以前は位の高い天使だったのですが神さまに反抗して天を追われ地上に落とされたのです。サタンに味方した全天使の1/3もサタンと共に天を追われ悪魔/悪霊となりました。天を追われたサタンは神さまが愛する人間をそそのかし、人間にも神さまを裏切らせて人間を含む世の中に「死」をもたらしました。それ以降人間は「死」に怯え、世の中はサタンが支配して来たのです。しかしイエスの十字架によりサタンの計画は挫折することになります。イエスが流す清い血によっていまの世の中の王であるサタンは裁かれ、支配者サタンの計画は無になるのです。

34節、イエスの話を聞いている人々にはイエスの話の意味がわかりません。どうやらイエスは自分の死を予告しているらしいがどうして救世主が死ぬのか、その意味が理解できないのです。シュロの枝を持ち寄って盛大に王としてのイエスの入場を迎えたばかりなのに、そのイエスが自分は死ぬと言っているのです。聖書を読めば救世主が受けなければならない苦難がわかるはずなのに、人々はその部分には目もくれずあるいはその部分との関係を理解せず救世主が不滅であるという箇所だけを読んでいるのです。聖書に書かれているとおり、救世主は栄光を受ける前に苦しみ、死ななければならないのです。その後復活した救世主が永遠の王国を打ち立てるのです。

35節、イエスは「私の光はもうしばらくの間、あなた方のために輝きます。闇があなた方に襲いかかることのないように、歩ける間に光の中を歩きなさい」と言います。これも解釈が難しいです。「私の光」が輝く「しばらくの間」が終わると「闇」が容赦なく襲いかかって来るようになるのです。私はイエスの光が輝く「しばらくの間」と言うのはイエスが地上にいる間ではなく、この世の終わりまでの期間だと思います。イエスが十字架死の三日後に復活して40日ほど地上に滞在した後で天に戻ると、それからしばらくしてイエスの予告どおりイエスを信じる人ひとりひとりに天から聖霊が下って宿ります。聖霊はいまでもイエスを信じる人ひとりひとりに宿ります。聖霊を宿した人、つまりイエスを信じるクリスチャンは身体に宿る聖霊の助けを得て段階的に世の中の罪悪から遠ざかり、イエスをお手本として神さまの意志を実行するようになります。つまりクリスチャンが地上にいる間はイエスの光が地上で輝くのです。

ですが聖書の解釈によると、ある日この人たちが地上から突然いなくなる日が来ます。これはこの世の終わりの前に起こるとされる出来事で(起こる時期に関しては諸説がありますが)、イエスが上空に現れて地上の信者を天へ引き上げます。英語では「Rapture」と呼ばれています。これが起こると地上には悪を抑止する力がまったくなくなりサタンの支配力が圧倒的に強まることになります。やがて人を欺く偽のリーダーが出現して世の中は本当の終わりへ進んでいくことになります。だから時間が許している間にイエスを信じてイエスの光を宿し、神さまの子供、光の子供になりなさいと言っているのだと思います。

36節、イエスは「was hidden from them」、つまり「人々から隠された」と書かれています。何か不思議な力によってどれだけ探してもイエスは見つからないようにされたのです。



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The Unbelief of the People

人々の不信仰


37 But despite all the miraculous signs Jesus had done, most of the people still did not believe in him.

37 イエスが行ったすべての奇跡のしるしにも関わらず、ほとんどの人々は相変わらずイエスを信じませんでした。

38 This is exactly what Isaiah the prophet had predicted: “Lord, who has believed our message? To whom has the Lord revealed his powerful arm?”

38 これはまさしく預言者イザヤが次のように予告したことなのでした。「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。誰に主の力強い腕が示されましたか。」

39 But the people couldn’t believe, for as Isaiah also said,

39 ですが人々は信じることができませんでした。それはイザヤがまた次のように言ったからです。

40 “The Lord has blinded their eyes and hardened their hearts -- so that their eyes cannot see, and their hearts cannot understand, and they cannot turn to me and have me heal them.”

40 「主は、彼らの目を見えないようにし、彼らの心をかたくなにされた。それは彼らの目が見えないように、彼らの心が理解できないように、そして彼らが私の方を向き、私が彼らを癒すことのないように、である。」

41 Isaiah was referring to Jesus when he said this, because he saw the future and spoke of the Messiah’s glory.

41 イザヤがこれを言ったとき、イザヤはイエスのことを言っていたのです。それはイザヤが未来を見て、救世主の栄光について話したのです。

42 Many people did believe in him, however, including some of the Jewish leaders. But they wouldn’t admit it for fear that the Pharisees would expel them from the synagogue.

42 しかし、たくさんの人はイエスを信じたのでした。信じた人に中にはユダヤ人の指導者たちも含まれていました。ですがファリサイ派の人たちが会堂から追い出すことを恐れて、彼らは信じたと認めようとはしませんでした。

43 For they loved human praise more than the praise of God.

43 それは彼らが、神から受ける賞賛よりも、人からの賞賛を愛したからです。

44 Jesus shouted to the crowds, “If you trust me, you are trusting not only me, but also God who sent me.

44 イエスは群衆に向かって叫びました。「もし私を信じるのなら、私ばかりではなく、私を遣わした神さまをも信じているのです。

45 For when you see me, you are seeing the one who sent me.

45 なぜならあなた方が私を見るとき、あなた方は私を遣わした方を見ているのです。

46 I have come as a light to shine in this dark world, so that all who put their trust in me will no longer remain in the dark.

46 私はこの暗い世の中で輝く光として来ました。それは私を信じる者すべてが、闇の中にとどまることのないようにです。

47 I will not judge those who hear me but don’t obey me, for I have come to save the world and not to judge it.

47 私の言うことを聞いても、私に従わない者を私は裁くことはしません。私は世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たからです。

48 But all who reject me and my message will be judged on the day of judgment by the truth I have spoken.

48 ですが、私と私の知らせを拒む者はすべて、私の話した真実によって、裁きの日に裁かれます。

49 I don’t speak on my own authority. The Father who sent me has commanded me what to say and how to say it.

49 私は自分自身の権威で話しているのではありません。私を遣わした父が、私が言うべきことと、それをどのように言うべきかを命じました。

50 And I know his commands lead to eternal life; so I say whatever the Father tells me to say.”

50 私は父の命令が永遠のいのちにつながることを知っています。だから私は父が言うようにと命じたことを、すべて話しているのです。」



[解説]

新約聖書にはイエスの行ったたくさんの奇跡が記録されています。たとえば病気や怪我を癒してもらおうと集まってきた人々を癒す様子が描かれています。代表的な病気として登場する「Leprosy(ハンセン病)」は現代の先進国ではほとんど見かけることがなくなりましたが、当時のイスラエルでは最も恐れられていた伝染性の病気でした。症状が進むと皮膚に斑紋が現れ毛が抜けて肉が崩れます。鼻や耳や指先などの突起部分は次々と崩れ落ちてしまいます。末端の神経が麻痺して痛みも感じなくなるようです。この病人が癒される様はどのようだったのでしょうか。崩れ落ちていた部分がみるみる元通りになり、欠損していた指や鼻や耳が元の形によみがえり、皮膚の斑紋が消えて健康的なピンクがかった肌色の皮膚が戻ってくる、それはまるでフィルムを逆戻しで見ているような信じられない光景だったことでしょう。

イエスは病を癒してもらうために集まった人々を「ことごとく」癒したと書かれている場面がたくさんあります。つまり集まってきた人の病や怪我は、例外なく「全員が」「完治した」のです。他にも生まれつき目が見えなかった人が視力を回復したり、何十年も歩けなかった人がその場で立ち上がって歩き出したり、死んで何日も経った人がイエスの呼びかけで墓の中から出てきたり、これらの奇跡を衆人の見守る中で何度も行ったのです。にもかかわらず、37節によると「ほとんどの人々は相変わらずイエスを信じませんでした」とあります。どうでしょう。想像できまるでしょうか。もしいま私たちの目の前で同じことが起こったとしても事態は同じなのではないでしょうか。これほど明確な証拠を突きつけられても世の中には素直に信じる人ばかりではないのではないでしょうか。「何かおかしい」「トリックがあるはずだ」「偶然にすぎない」などと言って信じない人は少なからずいるのではないでしょうか

。人々が奇跡を見てもイエスの話を聞いても信じないことは700年も前に預言者イザヤによって記録されていたのでした。最初に引用されている部分はIsaiah 53:1(イザヤ書第53章1節)です。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか」([新解訳])。これは救世主の受難を書いた53章の最初の部分で、ここからイエスの十字架死の苦難が預言されています。次の部分はIsaiah 6:9-10(イザヤ書第6章9〜10節)です。

9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。

10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。

これはイザヤが神さまを見てしまった場面からの引用です。イザヤは自分がどれほど汚れた存在かを考えて、それにも関わらず神聖な神さまを見てしまった自分は生きて済まされない、確実に死ぬと思うのですが神さまはイザヤの汚れを清めて下さいます。感謝の念に絶えないイザヤは神さまのメッセージを伝える使者に名乗りを上げてそのときに授かるメッセージがこれです。行って民に伝えなさい。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。それは民が「立ち返っていやされることのないように」、つまり自分の非や罪を認めて神さまに立ち返り神さまから自分の罪を癒される、清められることのないようにというメッセージです。

41節にはこのときイザヤが未来を見てつまり神さまから700年後のある日救世主イエスが世に現れる様子を見せられていたと書かれています。 だからつまり聖書に書かれた救世主に関する記述を読んでもイエスの言葉を聞いても理解するな、目の前に起こる預言の実現や救世主の訪れを見てもその意味を理解するな。それは人々が自分の汚れや非を認めてイエスに救済されることがないようにという意味です。人間があまりにも頑固に利己的に神さまの期待を裏切り続けるので神さまは激しく怒りこのメッセージをイザヤに届けさせたのです。この神さまの言葉は預言となって実現します。つまり人間はそうなるようにこの時点で定められていたのです。

42節によると信じた者もたくさんいてその中には指導者層さえ含まれていたと書かれています。指導者層はこれからイエスを逮捕して十字架死にかけるために民衆を扇動していく側です。その指導者層の中にイエスを信じた人がいたのにユダヤ社会からの追放の形で行われる迫害を恐れてそれを公然と言わなかったとあります。

43節、「それは彼らが、神から受ける賞賛よりも、人からの賞賛を愛したからです」と言うのは神さまからの使者であるイエスを信じると公然と宣言することで神さまから褒められるよりも指導者層としての権威ある立場にしがみついて民衆や同僚からの賞賛を得ていたいと思ったからの意味です。

47節、「私は世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たからです」は、48節の「ですが、私と私の知らせを拒む者はすべて、私の話した真実によって、裁きの日に裁かれます」に続きます。聖書によるとイエスは二度、地上に現れることになっています。いまこうして読んでいる部分が一度目で、二度目はまだ起こっていません。この部分は「私は(一度目の今回は)世を裁くために来たのではなく、世を救うために来た」「ですが、私と私の知らせを拒む者はすべて、私の話した真実によって、(私が二度目に来るとき、つまり)裁きの日に裁かれます」となります。聖書によれば神さまによるイエスを通じた人類救済の計画を信じるか否かはそれぞれの人の選択に委ねられています。アダムとエバは自分の意志で神さまを裏切り神さまの元を追われたのでした。ですから神さまの元へ戻るという選択も各自が自分の意志で選択しなければなりません。救世主に関する証拠は十分に示されました。信じるか信じないかはそれぞれの人の自由。ただし神さまの計画を信じない人には裁きが下されるというのが聖書の教えです。

神さまは万物の創造主です。無から地球を含む宇宙と、宇宙を含む天を作り、その中にいろいろなものを配置しました。その方がわざわざ特別な愛情を込めて造り地球に置いたのが人間です。その方がもし自分の計画に従わないのなら裁きを下すと言っているということです。私たちひとりひとりは神さまが作り出した被創造物です。神さまが陶芸家なら私たちはただの一つの壺にすぎません。ちっぽけな存在ですからすべてを司る神さまと議論するような立場にはありません。遠い昔こちらから勝手に神さまの元を飛び出して怒りを買い、庇護を失って苦しんだり悩んだりしてときどき差し向けられた預言者の言葉を無視してやりたい放題やって来ました。そんなに悪くはないよ、俺は幸せだよ、俺の人生は充実しているよなどと言いながら、でも挙げ句の果てにはみんな死んで行くというのが人間が置かれた状況です。創造主の神さまのことなどほんの少しも考えず自分で自分の幸せを追求しています。こういう私たちの姿は私たちを創造した神さまの意図からは逸脱しているのです。神さまの意図からの逸脱が「罪」なのです。

神さまはそういう人間に対してわざわざご自身の息子を犠牲に捧げて神さまの庇護の元へ戻れる救済策を用意しました。人間のやりたい放題の罪をすべて帳消しにする一方的な救済計画です。これを受け取るための資格や条件は何もありません。ただ「ごめんなさい」「信じます」「だから助けて下さい」「これからはちゃんと神さまの目に叶うように生きていきます」と言えばよいと言うのです。そうすれば裁かない。永遠の命を授けて神さまのいる天国へ行けるようにしてあげると言うのです。つまり私たちの側には失うものは何もないのです。



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