ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第5章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus Heals a Lame Man

イエスが足の萎えた男を癒す


1 Afterward Jesus returned to Jerusalem for one of the Jewish holy days.

1 その後イエスは、ユダヤの祭りに、エルサレムへ戻りました。

2 Inside the city, near the Sheep Gate, was the pool of Bethesda, with five covered porches.

2 市内の羊の門の近くに、五つの回廊のあるベテスダの池がありました。

3 Crowds of sick people -- blind, lame, or paralyzed -- lay on the porches {waiting for a certain movement of the water,}

3 大ぜいの病人、つまり目の見えない人や足萎えた人、あるいは麻痺して動けない人たちが回廊に横になっていました。{水のある特別な動きを待っていたのです。}

{4 for an angel of the Lord came from time to time and stirred up the water. And the first person to step in after the water was stirred was healed of whatever disease he had.}

4 {と言うのも、主の天使が時々訪れて水をかき回すのです。そして水がかき回された後で、最初に水に入った者は、どのような病気でも癒されたのです。}

5 One of the men lying there had been sick for thirty-eight years.

5 そこで横になっている人たちの中に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。

6 When Jesus saw him and knew he had been ill for a long time, he asked him, “Would you like to get well -- ”

6 イエスはこの人を見て、彼が長い間病んでいるのを知り、その人に尋ねました。「よくなりたいのですか。」

7 “I can’t, sir,” the sick man said, “for I have no one to put me into the pool when the water bubbles up. Someone else always gets there ahead of me.”

7 その病人は答えました。「主よ。私にはそれができないのです。水がかき回されるときに、私を池に入れてくれる人がいませんから。誰か他の人がいつも私より先に行ってしまうのです。」

8 Jesus told him, “Stand up, pick up your mat, and walk!”

8 イエスはその人に言いました。「立ちなさい。床を取り上げて歩きなさい。」

9 Instantly, the man was healed! He rolled up his sleeping mat and began walking! But this miracle happened on the Sabbath,

9 その瞬間、その人は癒されました。彼は自分の床を巻き取って歩き出しました。ところがこの奇跡が起こったのは安息日でした。

10 so the Jewish leaders objected. They said to the man who was cured, “You can’t work on the Sabbath! The law doesn’t allow you to carry that sleeping mat!”

10 そこでユダヤの指導者たちが不服を唱えました。指導者たちは、その癒された人に言いました。「安息日に働いてはいけない。律法ではその床を運ぶのは許されません。」

11 But he replied, “The man who healed me told me, ‘Pick up your mat and walk.’”

11 しかしその人は答えました。「私を直してくださった方が私に言ったのです。床を取り上げて歩きなさい、と。」

12 “Who said such a thing as that -- ” they demanded.

12 彼らは尋ねました。「そんなことを言った人は誰か。」

13 The man didn’t know, for Jesus had disappeared into the crowd.

13 その人は知らないのでした。イエスは人混みの中に消えてしまっていたのです。

14 But afterward Jesus found him in the Temple and told him, “Now you are well; so stop sinning, or something even worse may happen to you.”

14 しかししばらくして、イエスは寺院の中でその人を見つけて言いました。「さぁ、あなたはよくなりました。だからもう罪を犯してはいけません。さもないと、もっと悪い事があなたの身に起こるかも知れません。」

15 Then the man went and told the Jewish leaders that it was Jesus who had healed him.

15 そこでその人は行って、ユダヤの指導者たちに、自分を癒してくれたのはイエスだと告げました。



[解説]

イエスはユダヤの祭りに参加するためエルサレムに戻りました。旧約聖書の律法書ではユダヤ人の成年男子は年に三回祭りに参加するためにエルサレムに上らなければなりませんでした。三つの祭りとはユダヤの暦で最初の月に行う「過越の祭り」(Festival of Passover)とそれに続く「種を入れないパンの祭り」(Festival of Unleavened Bread)、その50日後に行う「五旬節」(Festival of Pentecost)、ユダヤ歴の第7月に行う「仮庵の祭」(Festival of Shelters)です。

エルサレム市内の「羊の門」は寺院の北側の門でここから出たところに「ベテスダの池」がありました。これは石で作ったプールのような池で周囲に屋根付きの五つの回廊がありました。五角形をしていたのではなくて四角い池を囲む四つの回廊と、真ん中に池を左右に分けるもう一つの回廊がありました。この池は1888年に発掘されています。

ところで5章3節の後半と4節全体は聖書によって収録されているものとされていないものがあります。日本語の聖書は収録されていないものがほとんどで、収録されていても脚注などに別記されています。これは各聖書が原典とする版が異なることによります。その4節によるとベテスダの池では池の水が特別な動きをした直後に最初に水に入った者はどんな病気でも癒されたそうで、その水の動きをたくさんの病人が待っていました。この人たちはどうやら池を左右に分ける中央の回廊にいたようです。

そうやって池の水の動きを待っている人のひとり、38年間も病に苦しむ人のとこへイエスがやってきて「よくなりたいのですか」とたずねます。男は38年間も苦しんでいるのだからよくなりたいに決まっていますが、それだけ長い間病に伏せっていたら希望も失せて悲観的になってしまうのも無理はありません。「はい。よくなりたいです。どうぞ癒してください」と言えばイエスはすぐに癒してくださったのかもしれません。が、38年間苦しみ続けた男の回答には疲れがにじみ出ていて「私にはそれができない」と答えます。その理由は自力では一番最初にプールに入れないからと言うのです。イエスは「立ちなさい。床を取り上げて歩きなさい」の言葉で男を癒してしまいます。男は大変驚いたことでしょう。

ファリサイ派は旧約聖書の律法書で完全に休まなければいけないとされる「安息日」について、「完全に休む」の部分を具体的に事細かく定めて守っていました。運んで良いものの重さや歩いて良い距離まで厳密に定めて守っていたのです。そのファリサイ派にとって床を持って歩くという行為は律法違反だったのです。ファリサイ派は男に対して「安息日に働いてはいけない。律法ではその床を運ぶのは許されません」と言います。これはあんまりだと思います。何しろ38年間病にかかって苦しんでいたのが治ったのですから、驚いたり、喜んであげたり、祝福の声をかけてあげたり、やはり神さまはすごいと熱狂したり、というのが普通のリアクションではないでしょうか。癒してもらった男ももう思い出せないくらい久しぶりの健康を満喫したくて得意げに床をかついで歩いただけなのではないかと思うのです。

ところがファリサイ派の人の目にはこの男は単なる法律違反者としか映らないのです。病人が癒されたことよりも奇跡が起こったことよりもつねに律法の表面上の遵守にこだわる、それがファリサイ派の人たちなのでした。安息日の法律がどうして与えられたのかという本質に迫ることもないのです。責め立てられた男のリアクションもよろしくありません。「私を直してくださった方が私に言ったのです。床を取り上げて歩きなさい、と」。つまり自分が法律違反をしたのは、歩けと言ったイエスが悪いからだと言います。人間はどこまでも素直になれません。

その場を逃れた男は寺院の中でイエスに出会います。イエスは「さぁ、あなたはよくなりました。だからもう罪を犯してはいけません」と言います。イエスのメッセージは「罪を犯すな」(「stop sinning」)です。「罪」とは「神さまの意図から外れること」を言います。38年の病が瞬時に治るという奇跡を自分の身体で体験したのです。この男は「これは神のわざだ」と思ったでしょうか。イエスはもしそうであれば神さまを褒め称え神さまに感謝して自分が神さまの目に正しく映るためにはどうすれば良いのか、神さまの意志を探し求め神さまの意図に沿って生きなさいと言うのです。

しかし男はそう告げたイエスを密告します。



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Jesus Claims to Be the Son of God

イエスが神さまの息子を名乗る


16 So the Jewish leaders began harassing Jesus for breaking the Sabbath rules.

16 このためユダヤの指導者たちは、イエスが安息日の掟を破ったとして、迫害を始めました。

17 But Jesus replied, “My Father is always working, and so am I.”

17 しかしイエスは答えました。「わたしの父はいつも働いています。だから私もそうします。」

18 So the Jewish leaders tried all the harder to find a way to kill him. For he not only broke the Sabbath, he called God his Father, thereby making himself equal with God.

18 そこでユダヤの指導者たちは、ますますイエスを殺す方法を探したのでした。なぜならイエスは安息日を破っただけでなく、神さまを自分の父と呼び、そうして自分を神さまと同等に扱っていたからです。

19 So Jesus explained, “I tell you the truth, the Son can do nothing by himself. He does only what he sees the Father doing. Whatever the Father does, the Son also does.

19 そこでイエスは説明して言いました。「本当のことを言いましょう。息子は自分では何も行なうことはできません。息子は父がしていることを見てそれを行なうのです。父がすることは何でも、息子も行なうのです。

20 For the Father loves the Son and shows him everything he is doing. In fact, the Father will show him how to do even greater works than healing this man. Then you will truly be astonished.

20 それは父が息子を愛していて、ご自分のしていることをすべて息子に見せるからです。実際には、父は、この男の人を癒すのよりも、もっとずっと偉大な働きのやり方を示します。そのときには、あなた方は本当に驚くことでしょう。

21 For just as the Father gives life to those he raises from the dead, so the Son gives life to anyone he wants.

21 父が、死から生き返らせようとする人たちに命を与えるように、息子もまた、与えたいと思う人にはどのような人にでも命を与えるのです。

22 In addition, the Father judges no one. Instead, he has given the Son absolute authority to judge,

22 さらに加えて言えば、父は誰も裁きません。その代わりに、父は絶対的な裁きの権限を息子に委ねたのです。

23 so that everyone will honor the Son, just as they honor the Father. Anyone who does not honor the Son is certainly not honoring the Father who sent him.

23 それはすべての者が、父を敬うのと同様に、息子をも敬うようにです。息子を敬わない者は、確かに息子を送り出した父をも敬っていないということです。

24 “I tell you the truth, those who listen to my message and believe in God who sent me have eternal life. They will never be condemned for their sins, but they have already passed from death into life.

24 本当のことを言いましょう。私の話を聞いて、私を遣わした神さまを信じる者は永遠の命を持ちます。その人たちは、自分たちの罪について有罪に定められることがないばかりか、すでに死から命へと移っているのです。

25 “And I assure you that the time is coming, indeed it’s here now, when the dead will hear my voice -- the voice of the Son of God. And those who listen will live.

25 本当のことを言いましょう。死人が私の声、つまり神の息子の声を聞く時が近づいています。実際には既にその時は来ているのです。そして聞く者は生きるのです。

26 The Father has life in himself, and he has granted that same life-giving power to his Son.

26 父はご自身の中に命を持っています。そしてそれと同じ命を与える力を息子に与えたのです。

27 And he has given him authority to judge everyone because he is the Son of Man.

27 そして父はすべての人を裁く権威も息子に与えました。それは息子が「人の子」だからです。

28 Don’t be so surprised! Indeed, the time is coming when all the dead in their graves will hear the voice of God’s Son,

28 そんなに驚いてはいけません。実際のところ、墓の中にいる死者がみな、神さまの息子の声を聞く時が近づいています。

29 and they will rise again. Those who have done good will rise to experience eternal life, and those who have continued in evil will rise to experience judgment.

29 そして彼らは生き返るのです。善を行なった者は生き返って永遠の命を受け、邪悪を続けた者は、生き返って裁きを受けるのです。

30 I can do nothing on my own. I judge as God tells me. Therefore, my judgment is just, because I carry out the will of the one who sent me, not my own will.

30 私は自分では何も行なうことはできません。私は神さまの言うとおりに裁くのです。だからこそ私の裁きは正しいのです。なぜなら私は私の意志ではなく、私を遣わした方の意志を遂行するからです。



[解説]

ベテスダの池でイエスから38年苦しんだ病を癒してもらった男はイエスのことを密告しました。16節、「このためユダヤの指導者たちは、イエスが安息日の掟を破ったとして、迫害を始めました。」 さらにイエスは公然と神さまを自分の父と呼んだため(実際にそうなのですが)、18節、「そこでユダヤの指導者たちは、ますますイエスを殺す方法を探したのでした。」 これは驚きです。旧約聖書の律法に「殺すな」と書いてあることは聖書を詳しく知らない人でも知っていたりするのに、安息日の解釈の細部にまでこだわるユダヤ指導者たちが律法を守らない人を殺そうと企み始めるのです。枠にとらわれてしまっているため自分たちの自己矛盾に気付かないのです。律法の中には死刑を求める罪がいくつか書かれていますから彼らはなんとかイエスの言動をそこへ結びつけようと画策します。

また彼らは目の前で起こった神さまの奇跡にも目が行きません。その日まで38年間病んで伏せっていた人がピンピンして床を持って目の前を歩いているのにです。自分たちは神さまがモーゼを通じて自分たちに与えた律法を忠実に守ることで神さまの目に良く映りたい神さまの子供としてふさわしく振る舞っていたいと願っているはずなのに、その神さまが行う奇跡に目が行かないのです。たとえばこの場面に私たちが介入して「ちょっと待ってください。これって奇跡じゃないですか?」と言ってもこの人たちはきっと「そんなはずはない。きっと何かのトリックだ。奇跡だというなら証明して見せろ。もう一度我々の目の前でやってみせろ」と言うでしょう。つまり奇跡を奇跡として受け入れる状態にないのです。これは現代人にも同じように当てはまると思います。でも神さまには私たちに「奇跡を証明する」必要はないのです。神さまは宇宙と世界の創造者であり支配者であって私たちはその中に住むちっぽけな被創造物なのですから。どうして私たちの要求にいちいち神さまが応える必要があるのでしょう。神さまからすれば「自分が存在することの証拠は既にもう十分すぎるほど示している。信じるか信じないかはあなた次第だ」なのだと思います。

19節からはイエスの独演です。イエスによればイエスは「与えたいと思う人にはどのような人にでも命を与える」ことができます(21節)。これは「死んだ人を生き返らせる」に等しい表現ですが、聖書によるとイエスにとっての「死んだ人」は私たちの考える「死んだ人」とは異なります。私たちの考える「死」は事故や病気で死ぬとか老衰を迎えて死ぬとか、ある日命を失うことです。この出来事がどのような人にも訪れることは聖書にも書いてあります。ただこの出来事は聖書によればひとりひとりの肉体に宿る魂(Soul)が肉体から離れることを言っていて、肉体は滅びますが魂そのものは不滅です。

肉体を離れた魂が最終的にたどり着く先は聖書によれば二つ。神さまのもとへ戻るか、火の池で焼かれるかです。魂は不滅なので永遠に神さまのもとにいるか、永遠に火の池で焼かれるかです。私たちひとりひとりの行き先を定めるのはイエスです。それが書かれているのが22節の「父は絶対的な裁きの権限を息子に委ねたのです」になります。ご存じのとおりイエスはこの後で十字架刑で処刑されて殺されてしまいますが、三日後に復活して天に戻りました。そのときに自分の「再来(Second Coming)」を約束しています。次にイエスが来るときにはこの「裁き」の目的で来るのです。裁きの様子は「Revelation(ヨハネの黙示録)」他に詳しく書かれています。

25節、「死人が私の声、つまり神の息子の声を聞く時が近づいています。実際には既にその時は来ているのです。そして聞く者は生きるのです」に書かれている「死人」とは実は私たちのことです。私たちはイエスから見れば「死人」なのです。ひとりひとりの人間は最初の人間アダムが犯した裏切りの罪を受け継いで、神さまから切り離されてしまっています。この神さまから「切り離された状態」がイエスから見た「死」にあたります。自分が神さまから切り離されていることを自覚しなんとか神さまのとの関係を取り戻したい、それを願いそれを選択をする人にイエスは「命を与える」のです。

28節から書かれている「墓の中にいる死者」は肉体的に死んだ人たちを指すのかも知れません。神さまのもとへ帰るか火の池に投げ込まれるか、その裁きが起こるのはただ一度聖書によればイエスの再来の後です。もし魂が不滅なら、それまでの間肉体的に死んだ人はどこかでこの裁きまでの間を待っていることになります。いまから約2000年前、救世主イエスが地上に現れる前までに肉体的に死んだ人たちは救世主のことを知らなかったわけですから、その人たちは初めて「墓の中にいる死者がみな、神さまの息子の声を聞く」のです。

29節には「そして彼らは生き返るのです。善を行なった者は生き返って永遠の命を受け、邪悪を続けた者は、生き返って裁きを受ける」とあります。その人たちも生き返って(つまり肉体的に?)どちらの場所に行くかが決められるのです。「善を行なった者」は命を受け「邪悪を続けた者」は裁きを受けるとあります。自分はどうなのだろう、どちらに裁かれるのだろうとドキドキする必要はありません。神さまはひとりひとりが生涯の間に行った善と悪を天秤ばかりにかけて、あなたは善だ、あなたは悪だと決めるわけではないからです。

神さまの視点での「善」の基準は明白に繰り返し繰り返し聖書に記されています。神さまを信じ、神さまを褒め称え、自分の罪を認め、神さまに許しを乞い、神さまとの関係を取り戻そうとする人、それが神さまの視点での「善」です。たとえたくさんの「善い行い」を重ねてももし神さまの存在を認めていないのなら、神さまの裁きがくだるのかも知れません。自分の「善い行い」がもし自分の努力で命を勝ち取るために行われているのならそこにはまったく意味はなく、大切なのはまず神さまとの関係を取り戻すことです。自分を愛して許してくださる神さまへの感謝の気持ちを示すために、その時点から善い行いを始めるかどうかそれはその次の話なのです。

神さまでありながら人間の肉体を持って地上に立ったイエスは私たちのお手本です。30節には「私は私の意志ではなく、私を遣わした方の意志を遂行する」とあります。自分が個人的に好きだから、嫌いだから、したいから、したくないから、何かをするとかしないではなく、そこにいつも神さまの意志を追い求める、神さまは自分にどうして欲しいのだろうか、どうしたら神さまの期待に応えられるのだろうか、という誠実な気持ちが求められているのです。結果として間違いをしてしまっても良いのです。それは神さまの目には「悪」には映らないはずです。神さまの期待に応えたいといつも神さまの意志を追い求める誠実な気持ちが求められているのです。



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Witnesses to Jesus

イエスに関する証言


31 “If I were to testify on my own behalf, my testimony would not be valid.

31 もし私が自分自身のために証言するのなら、私の証言には意義がありません。

32 But someone else is also testifying about me, and I assure you that everything he says about me is true.

32 ですが私について証言する方がほかにもいるのです。そしてその方が私について言うことが真実であることは、私が保証します。

33 In fact, you sent investigators to listen to John the Baptist, and his testimony about me was true.

33 実のところ、あなた方は、洗礼者ヨハネのところへ調査のための人を送りましたが、ヨハネの私についての証言は真実でした。

34 Of course, I have no need of human witnesses, but I say these things so you might be saved.

34 もちろんのこと、私には人間の証言は必要ありません。私がこれを言うのは、あなた方が救われるかも知れないと思ってのことです。

35 John was like a burning and shining lamp, and you were excited for a while about his message.

35 ヨハネは燃えて輝く明かりのような存在で、あなた方はしばらくの間、ヨハネの話を聞いて喜んだのです。

36 But I have a greater witness than John -- my teachings and my miracles. The Father gave me these works to accomplish, and they prove that he sent me.

36 しかし私にはヨハネよりもはるかに優れた証言があります。それは私の教えの言葉と、私の行う奇跡です。これらのわざは父が私にに成し遂げさせようと与えてくれたもので、それらのわざが、父が私を遣わしたことを証明するのです。

37 And the Father who sent me has testified about me himself. You have never heard his voice or seen him face to face,

37 そして私を遣わした父ご自身が私について証言しています。あなた方は一度も父の声を聞いたこともなく、父の顔を見たこともありません。

38 and you do not have his message in your hearts, because you do not believe me -- the one he sent to you.

38 また父の言葉をあなた方の心の中にとどめてもいません。それは父があなた方に遣わした私を、あなた方が信じないからです。

39 “You search the Scriptures because you think they give you eternal life. But the Scriptures point to me!

39 あなた方は聖書が永遠の命を与えると考えて聖書を調べています。ですがその聖書が私を指し示しているのです。

40 Yet you refuse to come to me to receive this life.

40 それなのに、あなた方は、この命を得ようと私のもとへ来ることを拒みます。

41 “Your approval means nothing to me,

41 あなた方が認めるかどうかなど、私には何の意味もありません。

42 because I know you don’t have God’s love within you.

42 なぜなら、あなた方の中に神の愛がないのは、私にはわかっているからです。

43 For I have come to you in my Father’s name, and you have rejected me. Yet if others come in their own name, you gladly welcome them.

43 私が私の父の名によって来たのに、あなた方は私を拒絶しました。他の人たちが、その人たちの名によって来れば、あなた方は喜んでその人たちを受け入れるのです。

44 No wonder you can’t believe! For you gladly honor each other, but you don’t care about the honor that comes from the one who alone is God.

44 あなた方が私を信じないのも不思議はありません。あなた方はお互いについては褒め称え合うのに、ただ一人神である者から来る栄誉については気にとめないのですから。

45 “Yet it isn’t I who will accuse you before the Father. Moses will accuse you! Yes, Moses, in whom you put your hopes.

45 ですが父の前であなた方を責め立てるのは私ではありません。モーゼがあなた方を告発します。あなた方が望みを置くモーゼです。

46 If you really believed Moses, you would believe me, because he wrote about me.

46 もしあなたがたが真にモーゼを信じているのなら、私を信じたはずです。なぜならモーゼは私について書いたのです。

47 But since you don’t believe what he wrote, how will you believe what I say -- ”

47 しかしあなた方がモーゼの書いた言葉を信じないのなら、どうして私の言葉を信じられるのでしょう。」



[解説]

引き続きイエスの独演です。31節、イエスは自分の言っていることが独りよがりの思いこみなら意味はないと言い、ここから自分の証言の正しさを裏付けていきます。

33節、まずファリサイ派が洗礼者ヨハネのもとへ使者を送りヨハネについて調べさせたことを挙げます。このときの様子は、John 1:19(ヨハネの福音書1章19節)から書かれています。このときヨハネはヨルダン川のほとりにたくさんの人を集めてメッセージを伝え、悔い改めを表明する人たちにバプテスマ(洗礼)を授けていたのでした。使者から「いったいあなたは何者か。旧約聖書で預言された預言者エリヤの再来か、やはり旧約聖書に預言された例の預言者なのか」と問われ、どちらも違う、自分は預言者イザヤが言った『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声だと言います。そして自分は道を整えているにすぎず、自分の後から来る偉大な方がいるとも言い、後日イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。

イエスは、まずこのヨハネの証言は真実だと言います。だが同時にイエスは自分には人間の証言は必要なく、このことをわざわざ持ち出したのは「あなた方が救われるかも知れないと思って」だと言います。前にも書きましたが人間が「死」から「生」へ移るためにはイエスを介在にしなければ他に道はありません。イエスは聞いている人々のうちの誰かがそれに気づくきっかけの一つとしてヨハネの話を取り上げたのです。

36節、イエスは「しかし私にはヨハネよりもはるかに優れた証言があります。それは私の教えの言葉と、私の行う奇跡です。これらのわざは父が私にに成し遂げさせようと与えてくれたもので、それらのわざが、父が私を遣わしたことを証明するのです。」と言います。イエスが自分の証言の正しさの裏付けの第一として取り上げたのは「教えの言葉」です。これは新約聖書の福音書の中に書かれているイエスの言葉として、私たちも今日触れることができます。今回読んでいるイエスの独演もその一つです。旧約聖書を読んでいる人にはイエスの話がどれほど包括的に旧約聖書の著者の意図をとらえているかがわかります。旧約聖書はどうして書かれたのか、どうして人間の手の中に残されたのか、イエスはその秘密、その理由、著者の意図を語っているのです。

たとえばモーゼが神さまから預かる形でユダヤの民に与えた律法の書。これは法律集です。「これをしてはいけない」「これをしなければいけない」とたくさんのルールが書かれていますがたとえば法律の中に「人を殺したものは死刑に処す」と書かれていたとして、この法律を制定した人の意図はどこにあったのでしょうか。その人は殺人者を処刑したかったのでしょうか。それとも殺人という犯罪を未然に食い止めたかったのでしょうか。イエスは主に旧約聖書の中の律法書と預言書について、あたかも自分が書いたかのように著者の意図を話していきます。福音書の中にも実際にイエスの話を聞いた人たちがこれまでかつてこのような形で旧約聖書を語った人がいなかったから驚いた、と書かれている箇所が何カ所かあります。イエスの話には旧約聖書への精通、権威、意図が含まれていたからです。イエスは自分の教えの言葉を聞けば、自分が旧約聖書の著者である神さまのもとから来たことはすぐにわかるでしょうと言うのです。

続いてイエスが取り上げたのが「奇跡」です。Luke 7:22-23(ルカの福音書7章22〜23節)に洗礼書ヨハネが使わした使者にイエスが伝えている言葉が書かれています。[新解訳]です。

22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

23 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

イエスは目の見えない人の視力を回復し、歩けなかった人を立たせ、不治の皮膚病を癒し、耳の聞こえない人の聴力を回復し、死者を蘇生します。またイエスは自分のところへ来た人たちを例外なくことごとく癒したと記述されています。これだけの奇跡が自分によって行われているのですよ、これは神さまから来るしるしではありませんかと言っているのです。イエスが行うこれらの奇跡は旧約聖書で預言されているのです。つまり人々はどういう種類の奇跡が行われればそれが神さまのわざかという情報さえ事前に持っていたのです。Isaiah 29:18-19(イザヤ書29章18〜19節)を引用します。やはり[新解訳]です。

18 その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。

19 へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。

そしてIsaiah 35:5-6(イザヤ書35章5〜6節)です。

5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。

37節、イエスは「 そして私を遣わした父ご自身が私について証言しています。」と神さま自身が自分について証言していると言います。「あなた方は一度も父の声を聞いたこともなく、父の顔を見たこともありません」。これはユダヤの民には当然のことで人々は神聖なる神さまの姿を見たら生きては済まされないと信じています。

続いて38節、「また父の言葉をあなた方の心の中にとどめてもいません」。「父の言葉」とはすなわち旧約聖書に記述された事柄のことです。人々の心の中には神さまの言葉である旧約聖書がとどまっていないではないかと言います。もしとどまっていればイエスの言葉を聞きイエスの奇跡を見てそれが神さまから来たものであることはすぐに気づいたはずだろうと言うのです。イエスを責め立てているファリサイ派は民衆の尊敬を集める聖書の先生の集団で旧約聖書のことを知り抜いている専門家です。ですが彼らは表面的にモーゼの律法に従うことが神さまの目にかないそれが天国への道を保証する術だと思いこんでいるため救世主に関する記述をイエスに当てはめることができないのです。

42節、「なぜなら、あなた方の中に神の愛がないのは、私にはわかっているからです。」は先ほどの例ならファリサイ派たちは殺人を犯した人を処刑することにだけ熱心で法律の制定者の意図は実は殺人の抑止にあり、どうすれば人々が殺人を企てないようなそういう世の中を作れるかを意図していた、そこには制定者の愛があったとはまったく思いもよらないのです。

45節、「ですが父の前であなた方を責め立てるのは私ではありません。モーゼがあなた方を告発します。あなた方が望みを置くモーゼです」。モーゼはファリサイ派のヒーローです。自分たちこそが真のモーゼの後継者だ、神さまから預かった律法のすべてを正しく実践しているのは自分たちだけだと信じ、自負し、誇りにしているのです。

46節、「もしあなたがたが真にモーゼを信じているのなら、私を信じたはずです。なぜならモーゼは私について書いたのです」。モーゼが書いたイエスについて記述した部分とはモーゼの預言の部分で、次のような記述です。[新解訳]です。Genesis 3:15(創世記3章15節)には次のように書かれています。

15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

これは神さまがエデンの園でアダムとイブをそそのかしたヘビに告げた言葉です。「彼はおまえの頭を踏み砕き」は、イエスがサタンに勝利することを指しています。続いてNumbers 21:9(民数記21章9節)です。

9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

以前も一度引用しましたが、砂漠をさまよい歩くユダヤ人のもとへ神さまは懲らしめのために毒蛇を送りましたが、モーゼが神さまの指示どおり旗竿の上に青銅の蛇を掲げ、それが毒を癒すと言うモーゼの言葉を信じて蛇を仰ぎ見た者だけが命を得ました。これが記述されたのは紀元前1,500年頃、世界で一番残虐な処刑方法と言われる十字架刑を考え出したローマ帝国が姿を現すはるか昔のことです。Numbers 24:17(民数記24章17節)には次のように書かれています。 これは救世主出現の預言です。

17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

Deuteronomy 18:15(申命記18章15節)には次のように書かれています。

15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

これがファリサイ派が洗礼者ヨハネにたずねた「例の預言者」の記述箇所です。モーゼがある日、自分のような預言者がひとり現れると言っています。神さまの意図を知りながら律法を伝えるひとりの預言者がイエスでなくて果たして誰なのでしょうか。



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