ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第16章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

1 “I have told you these things so that you won’t abandon your faith.

1 私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方が信仰を捨てることのないようにです。

2 For you will be expelled from the synagogues, and the time is coming when those who kill you will think they are doing a holy service for God.

2 なぜならあなた方はやがて会堂から追放されるでしょうし、あなた方を殺す者たちが、自分たちは神さまのために聖なる仕事をしているのだと思う時が来るからです。

3 This is because they have never known the Father or me.

3 それは彼らが父も私も知ることがなかったからです。

4 Yes, I’m telling you these things now, so that when they happen, you will remember my warning. I didn’t tell you earlier because I was going to be with you for a while longer.

4 そうです。私いまこれらのことをあなた方に話しているのは、そういうことが起こる時に、私の警告を思い出すようにです。私がもっと早く話さなかったのは、私がまだしばらくあなた方と一緒にいる予定だったからです。



The Work of the Holy Spirit

聖霊の働き


5 “But now I am going away to the One who sent me, and not one of you is asking where I am going.

5 ですが私は今、私を遣わした方のもとに行こうとしています。そしてあなた方の中には誰も私がどこに行くかとたずねる者はありません。

6 Instead, you grieve because of what I’ve told you.

6 それよりも、私が話したことによって、あなた方は嘆き悲しんでいます。

7 But in fact, it is best for you that I go away, because if I don’t, the Advocate won’t come. If I do go away, then I will send him to you.

7 しかし実際のところ、私が去って行くことはあなた方にとって最良のことなのです。なぜなら、もし私が去らなければ助け主が来ないからです。もし私が去れば、私は助け主をあなた方のところに送ります。

8 And when he comes, he will convict the world of its sin, and of God’s righteousness, and of the coming judgment.

8 そして聖霊が来ると、聖霊はこの世の罪について、神さまの正しさについて、やがて来る裁きについて、宣告を下します。

9 The world’s sin is that it refuses to believe in me.

9 この世の罪とは、世の中が私を信じるのを拒絶することです。

10 Righteousness is available because I go to the Father, and you will see me no more.

10 (神さまの)正しさが手に入るのは、私が父のもとに行き、あなた方が私を見なくなるからです。

11 Judgment will come because the ruler of this world has already been judged.

11 裁きが来るのは、この世の支配者がすでに裁かれたからです。

12 “There is so much more I want to tell you, but you can’t bear it now.

12 私にはあなた方に話したいことがまだたくさんありますが、今のあなた方はそれに耐えられません。

13 When the Spirit of truth comes, he will guide you into all truth. He will not speak on his own but will tell you what he has heard. He will tell you about the future.

13 真理の霊が来ると、その方があなた方をすべての真理へと導きます。真理の霊は自分のことを語るのではなく、真理の霊が聞いたことをあなた方に話します。真理の霊はあなた方に未来について話します。

14 He will bring me glory by telling you whatever he receives from me.

14 真理の霊は私から受けるものをすべてあなた方に話すことで私に栄光をもたらします。

15 All that belongs to the Father is mine; this is why I said, ‘The Spirit will tell you whatever he receives from me.’

15 父が持っているものはすべて私のものです。だから「聖霊が私から受けるものをすべてあなた方に話す」と言ったのです。



[解説]

最後の晩餐の後でユダが部屋を出て行って、残された使徒たちにイエスがすべての謎を解き明かすように語った話もいよいよ終盤です。1〜4節は警告です。2節には「あなた方はやがて会堂から追放される」と書かれていますが、ここで言う「会堂」はユダヤ教の礼拝や集会のためにあちらこちらに用意された建物です。ユダヤ人がこの建物に入れなくなるということは同じ神さまを信じる民族の一員として認められなくなるということです。ユダヤ民族にとってこれは社会から完全に切り離されることを指しています。まともに社会活動が営めなくなるばかりか、周囲のあらゆる人たちから指さされ非難されていじめられます。そんなことが起こっても「あなた方が信仰を捨てることのないように」イエスがあらかじめ警告しているのです。どうして人々がそういう迫害をするのかも書かれています。それは「あなた方を殺す者たちが、自分たちは神さまのために聖なる仕事をしているのだと思う」からです。人々にとってはイエスを信じる人を迫害することは神さまのための仕事、最優先にしなければならない仕事なのです。そして「それは彼らが父も私も知ることがなかったから」です。実は人々が信仰する神さま本人がイエスを地上へ送った方なのに、そしてイエスはそれを裏付ける奇跡のしるしや預言の実現を聖書に書かれているとおりに行ってきたのに、結局人々にはそれがわからなかったのです。そしてそうやってイエスが人々に理解されず拒絶されるということさえ聖書には預言されていたのです。

5〜6節、イエスは自分が父なる神さまのもとへ行く話をします。弟子たちには実際にイエスがどこへ行くのかがわかっていません。たとえば14章の最初のところでトマスは「いいえ主よ、私たちは知りません。あなたがどこへ行かれるのかわからないのです。どうして私たちに道がわかりましょうか」と泣きそうになりながら訴えました。イエスは繰り返し自分は自分を遣わした父なる神さまのもとへ帰ると話しています。ここでイエスが言っているのは「私が話したことによって、あなた方は嘆き悲しんでいます」のことです。イエスの話によれば自分たちの師イエスはどうやらこの後で逮捕されてしまうかどこかへ行ってしまうようだし、その後自分たちには会堂から追放されるほどの迫害が待っている、イエスがいなくなって自分たちだけが残されたら一体どうなるのだろう、と自分たちの行く末を心配している、そのようなことだと思います。改まった場所での深刻な話、すぐそこまで迫っているらしい危機、師が自分たちの前から消え去ろうとしている、残された自分たちには厳しい迫害が待っている、それがわかっていて動揺せずに安心していられる人などいないでしょう。

イエスはこれを受けて7節で「しかし実際のところ、私が去って行くことはあなた方にとって最良のことなのです」と言い、その理由は自分が去ればその代わりに聖霊を送ることができるからと説明します。この時点で使徒たちにはわかっていませんが、そもそもイエスが地上に現れた理由は神さまが愛する人間を自分の元へ呼び戻すために救済するためなのでした。神さまの期待を裏切る罪を重ねてきた結果、汚れにまみれて神聖な神さまと共にいることのできなくなった人間を、自分の息子であり汚れのまったくないイエスの死をもって購うためなのでした。こうやって神さまから一方的に無償で与えられた人類救済のプランが福音(良い知らせ)なのです。イエスの死によって人類の罪は洗い流され、使命を果たして一度は死んだイエスが三日後に復活したことで罪に対する罰として与えられた「死」さえ克服できることが証明されたのです。そして地上にいたイエスは一つの肉体を持つ一人の人間ですが、イエスが送る聖霊は「霊」としてイエスを信じる人の中に入って封印され、その人からひとときも離れずにその人を守り、励まし、神さまとの間を取り持ち、正しい方向へと導くのです。

8節によれば聖霊は「この世の罪について宣告を下す」と書かれています。つまり聖霊は世の中の人々に罪の存在を知らせ、神さまの目から見て自分がどれほど間違っていたかを悟らせ、神さまの元へ帰りたいという気持ちを喚起します。また「神さまの正しさについて宣告を下す」とは神さまの目から見て何が正しいか、善悪の基準がどこにあるのかを神さまを信じる人に知らせます。そして「やがて来る裁きについて宣告を下す」とはこの世の終わりに起こる神さまから追放されたサタンに対する裁きと神さまを信じなかった人たちに下される最後の裁きについての真実を伝えるのです。

9節、「この世の罪とは、世の中が私を信じるのを拒絶すること」とあります。人類救済のための唯一の方法として遣わされたイエスを信じないのは神さまの計画を、あるいは神さまそのものを否定することになります。イエスを拒絶することは神さまの期待を裏切り最高にガッカリさせることになります。聖書では神さまをガッカリさせることが罪なのですが神さまにとってこれほどのガッカリ感はないでしょう。だから人間にとってこれほどの罪はありません。

13節、「真理の霊が来ると、その方があなた方をすべての真理へと導きます」。聖霊は私たちにイエスが誰かを教え善悪の区別を教えます。そして「真理の霊はあなた方に未来について話します」とありますが聖霊は人がこれから何をしなければいけないか、何が自分たちを待ち受けているか、自分たちが最後にどこへ行くかを教えてくれるのです。

14節には「真理の霊は私から受けるものをすべてあなた方に話すことで私に栄光をもたらします」とありますが、聖霊はイエスを信じる人にイエスについてのすべてを伝え、そうすることで栄光を神さまであるイエスへもたらすのです。イエスについて知らされた人は伝えてくれた聖霊ではなくイエスを褒め称え、イエスを遣わした神さまを賛美するからです。



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Sadness Will Be Turned to Joy

悲しみは喜びに変わる


16 “In a little while you won’t see me anymore. But a little while after that, you will see me again.”

16 しばらくの間、あなた方は私を見なくなります。しかしそれからしばらくするとあなた方は私を見ます。」

17 Some of the disciples asked each other, “What does he mean when he says, ‘In a little while you won’t see me, but then you will see me,’ and ‘I am going to the Father’?

17 弟子たちの中の何人かが互いにたずね合いました。「『しばらくの間、あなた方は私を見なくなります。しかしそれからしばらくするとあなた方は私を見ます』、そして『私は父のもとに行きます』とイエスが言うのは、どういう意味なのでしょう。

18 And what does he mean by ‘a little while’? We don’t understand.”

18 それから『しばらくの間』とイエスが言うのは、どういう意味なのでしょう。私たちにはわかりません。」

19 Jesus realized they wanted to ask him about it, so he said, “Are you asking yourselves what I meant? I said in a little while you won’t see me, but a little while after that you will see me again.

19 イエスは、弟子たちがそれについて質問したがっていることを知り、言いました。「私がどういう意味で言ったかをたずね合っているのですか? 私はしばらくの間、あなた方は私を見なくなり、でもそれからしばらくするとあなた方は私を見ます、と言ったのです。

20 I tell you the truth, you will weep and mourn over what is going to happen to me, but the world will rejoice. You will grieve, but your grief will suddenly turn to wonderful joy.

20 あなた方に本当のことを言いましょう。これから私に起こることについて、あなた方は泣いて嘆き悲しみますが、世の中は喜ぶのです。あなた方は深く悲しみますが、あなた方の悲しみは突然素晴らしい喜びに変わるのです。

21 It will be like a woman suffering the pains of labor. When her child is born, her anguish gives way to joy because she has brought a new baby into the world.

21 それはちょうど出産の痛みに苦しんでいる女性のようなものです。子供が生まれるとき、激しい苦痛が喜びに変わるのです。それはその女性が世の中に一人の新しい赤子をもたらしたからです。

22 So you have sorrow now, but I will see you again; then you will rejoice, and no one can rob you of that joy.

22 だからあなた方には今は悲しみがありますが、私はもう一度あなた方に会います。そのときにはあなた方は喜びます。そして誰もその喜びをあなた方から奪い去ることはできません。

23 At that time you won’t need to ask me for anything. I tell you the truth, you will ask the Father directly, and he will grant your request because you use my name.

23 そのときにはあなた方は私には何もたずねる必要がありません。本当のことを言いましょう。あなた方は父に直接頼むのです。そして父はあなた方の願いをかなえてくださいます。それはあなた方が私の名前を使うからです。



[解説]

16節でイエスが「しばらくの間、あなた方は私を見なくなります。しかしそれからしばらくするとあなた方は私を見ます」と言っているのは間もなくイエスが殺されてその後に復活することを言っています。イエスが殺されるのはこれを話している時点から数時間後、復活はその三日後です。弟子たちにはイエスが実際に何を言おうとしているのか具体的にはわかりません。

次のヒントは20節の「これから私に起こることについて、あなた方は泣いて嘆き悲しみますが、世の中は喜ぶのです」の部分です。イエスの死に際して弟子たちは嘆き悲しみ、その一方でイエスを十字架に掛けた世の中は喜びます。ですがこれに続いて「あなた方は深く悲しみますが、あなた方の悲しみは突然素晴らしい喜びに変わる」とあります。つまり死んでしまったと思っていたイエスが復活したと知り、そのときには悲しみが突然大きな喜びに変わるのです。

23節、イエスは「そのときにはあなた方は私には何もたずねる必要がありません」と言います。「そのとき」と言うのはイエスが復活した後のことです。イエスの弟子たちは復活したイエスに会い、そのとき初めてイエスの話していた救世主の苦難と復活についての話のつじつまがすべて合うことになります。

そしてイエスは「あなた方は父に直接頼むのです。そして父はあなた方の願いをかなえてくださいます。それはあなた方が私の名前を使うからです」と言います。イエスを信じる人がイエスの名前で神さまに願うことはすべてかなえられます。イエスが復活して救世主としてのイエスが地上に現れたことの真の意味を知った弟子たちは本当の意味でイエスを信じ、イエスの名前で神さまに願うようになります。当時のユダヤ社会には「祭司」がいて祭司が人と神さまの間に介在していました。一般の人たちが自分の口で神さまと直接話すなどと言うのはありえないことだったのです。祭司職になれるのはレビ族の中の特定の家系に限定され、世の中の人々から別にされて特別な儀式(神さまがモーゼを通じて与えたもの)を経て清められた人たちです。その人たちだけがやはり神さまの定めた特別なプロセスに沿って神さまに関わる儀式を執り行うことができたのです。さらに祭司職の中にただ一人、大祭司という人がいてエルサレムの寺院の中の聖域のさらに最深部での年に一度の儀式を執り行うことができるのはこの人だけです。

どうしてそんな回りくどいことをしなければならないのかと言うとそれは私たち人間が汚れているからに他ならず、神さまは世の中の人々を愛していながらそれと同時に汚れのない神聖な存在なので私たち人間とは直接コミュニケーションすることはできないのです。ところがイエスが十字架に掛かって死ぬことですべてが変わりました。救世主としてのイエスは人間のすべての罪を背負いました。「罪」とは神さまの期待を裏切ること、神さまをガッカリさせることの総称でこれが神さまにとっては「汚れ」にあたります。どんな人間でも神聖な神さまを一度もガッカリさせないように生きることはできません。すべての人間が汚れているのです。しかしイエスは神聖なる神さまの元から来て聖なるいけにえとして人間の代わりになって死にました。このイエスの死によってイエスを信じる人は神さまの目から見たときには汚れなく清く映るのです。だから十字架死〜復活の以降、イエスを信じる人は神さまと直接話ができるようになるのです。



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24 You haven’t done this before. Ask, using my name, and you will receive, and you will have abundant joy.

24 あなた方はこれまでやったことがありません。私の名前を使ってたのみなさい。そうすればあなた方は受け取るのです。そしてあなた方はあり余るほどの喜びを得るのです。

25 “I have spoken of these matters in figures of speech, but soon I will stop speaking figuratively and will tell you plainly all about the Father.

25 私はこれらのことをずっと、たとえ話で話して来ました。ですが間もなく私は比喩で話すことは止めて、父についてあなた方にはっきりと話します。

26 Then you will ask in my name. I’m not saying I will ask the Father on your behalf,

26 そうしたらあなた方は私の名によって求めるのです。私が言っているのは、私があなた方に代わって父に求めると言うことではありません。

27 for the Father himself loves you dearly because you love me and believe that I came from God.

27 なぜなら、あなた方が私を愛し、私が神さまのもとから来たと信じていることで、父自身があなた方を心から愛しているからです。

28 Yes, I came from the Father into the world, and now I will leave the world and return to the Father.”

28 そうです。私は父から世の中に来ました。これから私は世の中を去って父のもとへ戻るのです。」

29 Then his disciples said, “At last you are speaking plainly and not figuratively.

29 すると弟子たちが言いました。「とうとうあなたははっきりとお話しになっています。たとえ話ではありません。

30 Now we understand that you know everything, and there’s no need to question you. From this we believe that you came from God.”

30 いま私たちには、あなたがすべてのことをご存じだと知りました。あなたにたずねる必要はありません。これで私たちはあなたが神さまから来られたと信じます。」

31 Jesus asked, “Do you finally believe?

31 イエスはたずねました。「あなた方はやっと信じるのですか。

32 But the time is coming -- indeed it’s here now -- when you will be scattered, each one going his own way, leaving me alone. Yet I am not alone because the Father is with me.

32 ですがそのときが来ます。それは実は今なのです。それはあなた方が散り散りにされるときです。ひとりひとりが自分だけの道をたどり、私ひとりを後に残します。でも私はひとりではありません。なぜなら父が私といっしょにおられるからです。

33 I have told you all this so that you may have peace in me. Here on earth you will have many trials and sorrows. But take heart, because I have overcome the world.”

33 私がこれらのことすべてをあなた方に話したのは、あなた方が私の中にあって平安を持つためです。この地上では、あなた方にはたくさんの試練と悲しみがあります。しかし勇気を出しなさい。なぜなら私はすでに世の中に勝ったのですから。」



[解説]

24節で、イエスが弟子たちに「あなた方はこれまでやったことがありません。私の名前を使ってたのみなさい」と言ったのは、イエスの十字架死までは祭司職でない普通の人々は神さまに直接自分の口で願いを伝えることはできなかったからです。さらに「イエスの名前で頼む」というのもまったく初めてのことです。

25節、イエスは「私はこれらのことをずっと、たとえ話で話して来ました。ですが間もなく私は比喩で話すことは止めて、父についてあなた方にはっきりと話します」と言います。もう比喩を用いた回りくどいたとえ話はやめてはっきりとわかりやすく説明すると言うのです。

26節の「そうしたらあなた方は私の名によって求めるのです。私が言っているのは、私があなた方に代わって父に求めると言うことではありません」は、自分の口で直接神さまに頼むことを再度説明していて、「誤解してはいけないよ。イエスが代わりに頼むのではないのだよ」と念を押します。弟子たちにはイエスが神さまにとても近い人に感じられていたでしょうからイエスがあたかも祭司のように振る舞って自分たちの願いを代わりに神さまに伝えてくれるのではないかと考えたかも知れません。イエスはそうではなくてイエスの名前を使って自分の口で求めるのだと念を押します。新約聖書の「Hebrews(ヘブル人への手紙)」を読むとイエスは十字架死〜復活を経て天へ戻り、神さまの右の座に座ってそこで大祭司の役目を果たすと書かれています。大祭司は祭司職の頂点に立つ人でユダヤ民族の中に一人しかおらず、エルサレムの寺院の中で聖域の最深部にまで入れるのは大祭司だけでした(しかも年に一度だけ)。「Hebrews(ヘブル人への手紙)」に書かれているのは十字架死を経たイエスは天に戻っ大祭司の役割を果たすと言うことです。つまり人間の中から祭司職を選ぶのは終わりで(と言うよりもそうしていたのは最終的にイエスが大祭司に就くことのモデルだっただけで)、イエスの名前を使って届けられる信者の祈りを天国で神さまに取り次ぐのはただ一人の大祭司イエスその人だけなのです。

27節、神さまがイエスの名前で頼まれたことすべてに応えるのは「あなた方が私(イエス)を愛し、私(イエス)が神さまのもとから来たと信じていることで、父自身があなた方を心から愛しているから」とあります。つまり神さまにお願いをしてかなえられる人とはイエスを愛している人でイエスが神さまの元から来たと信じている人ということになります。

29〜30節、聞いていた弟子たちはこれではっきりわかった、「これで私たちはあなたが神さまから来られたと信じます」と告白します。31節、これに対するイエスの言葉は「やっと信じるのですか」です。でも弟子たちには実はわかっていなかったのです。こうやって説明を受けてイエスが神さまの元から来た方であるとおぼろげに感じることはできてもそれが彼らの行動原理となるところまでは到達しませんでした。だから弟子たちはイエスの逮捕の場面ではイエスを一人残して散り散りに逃げてしまいます。そのことを言っているのが32節です。「それはあなた方が散り散りにされるときです。ひとりひとりが自分だけの道をたどり、私ひとりを後に残します」。イエスには弟子たちがどこまで何を理解していたかがわかっていたのです。そしてそれは旧約聖書に書かれていた預言のとおりなのです。

33節の「私がこれらのことすべてをあなた方に話したのは、あなた方が私の中にあって平安を持つためです。この地上では、あなた方にはたくさんの試練と悲しみがあります。しかし勇気を出しなさい。なぜなら私はすでに世の中に勝ったのですから」の言葉は大変心強く、勇気づける言葉です。私自身も「イエスを信じる」と告白してから自分の信仰について迷うことが何度もありました。また自分が本当にイエスの救済を受けているのか、つまり自分が本当に救われているのかについて確信を持てない時期がしばらく続きました。それはちょうどこのときの弟子たちと同じことだと思います。「これで私たちはあなたが神さまから来られたと信じます」と告白したのに私のイエスに対する信仰は私の行動原理とはなっていなかったのです。私はたくさん心配をして答を求めて聖書を読みたくさんお祈りをしました。ですが実は心配する必要はなかったのです。なぜならイエスがこの話をしてくれたのは33節に書かれているとおり心の「平安」を得るためであり思い悩むためではありません。イエスは福音書の他の箇所でも「思い煩うな」と命じています。天地を創造した全知全能の神さまを信じ、寄り頼みながら、相変わらず目先のことに思い悩むというのは矛盾しています。たとえば福音書で心強いのはこの後散り散りになって逃げてしまう弟子たちの元へ復活したイエスが帰ってくるということです。弟子たちはこの場面ばかりではなく何度も何度も失敗を繰り返し聖書の言葉で言うとイエスに「つまずく」のですが、そのたびに必ずイエスの側から手が差し伸べられます。神さまをガッカリさせてしまったことを後悔して申し訳ない気持ちになり本来なら自分には救われる資格などないと自覚する人には「必ず」手が差し伸べられるのです。それをどれだけあたりまえに期待できるかが「信仰」の強さなのですが弱くても若くても信仰は信仰なのです。私たちを助ける手は「必ず」差し伸べられますが、その時期や形は神さまの深遠な計画に基づくので、私たちの期待通りには行きません。ですが神さまから来る祈りに対する答えはいつも必ず想像をはるか超越しているのです。それがわかり始めるとだんだんと信仰が強められました。もちろんまだまだですが。

散り散りになって逃げてしまう弟子たちの元へ帰ってくるイエスは弟子たちに何をするでしょうか。なんとイエスは人間に福音を知らせる仕事を弟子たちに任せるのです。神さまが愛してやまない人間を自分の元へ連れ戻す唯一の道がイエスです。そのイエスに関する素晴らしい知らせ(=福音)を人間に知らせる仕事は何よりも一番大切な仕事のはずです。神さまはその一番大切な仕事を人間に委ねるのです。イエスは自分の意志よりも神さまの意志を尊重して十字架に掛かりました。つまり一番大切な「自分」を捨てて「神さまの意志」である十字架を背負ったのです。私たちには福音を伝える仕事が委ねられました。自分の罪を自覚し自分には救われる価値などないと知り、そんな自分に救いの手を無償で差し伸べてくださる神さまに感謝し、だからこそこれからは神さまの目に正しく映りたいと願うなら私たちもイエスにならって一番大切な「自分」を捨てて神さまの意志である「十字架」を背負わなければなりません。どのような十字架を背負うかはひとりひとりに神さまから計画が用意されています。聖書を読みお祈りをして、神さまご自身にきいてみるのが良いと思います。それを教えることは神さまの意志にそっていますから答は必ず教えていただけます。



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