ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第6章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus Feeds Five Thousand

イエスが五千人に食べさせる


1 After this, Jesus crossed over to the far side of the Sea of Galilee, also known as the Sea of Tiberias.

1 その後イエスはガリラヤ湖(テベリヤ湖の名でも知られています)の奥の岸へ渡りました。

2 A huge crowd kept following him wherever he went, because they saw his miraculous signs as he healed the sick.

2 大ぜいの群衆がイエスの行くところには、どこへでもついて従っていました。彼らがイエスが病人を癒す奇跡のしるしを見たからです。

3 Then Jesus climbed a hill and sat down with his disciples around him.

3 イエスは丘に登り、自分のまわりに弟子たちを置いて座りました。

4 (It was nearly time for the Jewish Passover celebration.)

4 (それはそろそろユダヤ人の過越の祭の時期でした。)

5 Jesus soon saw a huge crowd of people coming to look for him. Turning to Philip, he asked, “Where can we buy bread to feed all these people?”

5 イエスは、すぐに大ぜいの群衆が自分を探して来るのに気づきました。イエスはピリポの方を向いてたずねました。「この人たち全員に食べさせるパンは、どこで買えるだろうか。」

6 He was testing Philip, for he already knew what he was going to do.

6 イエスはピリポをためしていたのです。イエスは、これから自分がしようとしていることを知っていたのです。

7 Philip replied, “Even if we worked for months, we wouldn’t have enough money to feed them!”

7 ピリポは答えました。「我々が何ヶ月もかけて働いても、これだけの人たちを食べさせるお金は得られないでしょう。」

8 Then Andrew, Simon Peter’s brother, spoke up.

8 するとシモン・ペテロの兄のアンデレが言いました。

9 “There’s a young boy here with five barley loaves and two fish. But what good is that with this huge crowd?”

9 「ここに大麦のパンを五つと魚を二匹持っている少年がいます。しかしこれだけ大ぜいの群衆人々では、それが何になりましょう。」

10 “Tell everyone to sit down,” Jesus said. So they all sat down on the grassy slopes. (The men alone numbered about 5,000.)

10 「みなに座るように言いなさい。」イエスが言いました。そこで人々はみな草の茂る斜面に座りました。(男だけでも約五千人いました。)

11 Then Jesus took the loaves, gave thanks to God, and distributed them to the people. Afterward he did the same with the fish. And they all ate as much as they wanted.

11 それからイエスはパンを取り、神さまに感謝を捧げ、人々に分け与えました。続いて、魚も同じようにして分け与えました。そしてすべての人々が欲しいだけ食べました。

12 After everyone was full, Jesus told his disciples, “Now gather the leftovers, so that nothing is wasted.”

12 みなが満腹した後で、イエスは弟子たちに言いました。「余った食べ物を集めなさい。無駄を捨てるようなことがないように。」

13 So they picked up the pieces and filled twelve baskets with scraps left by the people who had eaten from the five barley loaves.

13 そこで弟子たちは断片を集めてみました。すると人々が大麦のパン五つから残したパンくずで、十二の籠が一杯になりました。

14 When the people saw him do this miraculous sign, they exclaimed, “Surely, he is the Prophet we have been expecting!”

14 人々はイエスが行ったこの奇跡のしるしを見て言いました。「本当に、この方こそが我々が待ち望んできた預言者です。」

15 When Jesus saw that they were ready to force him to be their king, he slipped away into the hills by himself.

15 イエスは、人々が自分を王にするために無理矢理に連れて行こうとしているのを知ると、一人で抜け出して山の方へ入っていきました。



[解説]

前章までの話はエルサレムで起こった出来事でした。6章ではイエスはイスラエル北部のガリラヤ地方へ戻っています。イエスがガリラヤ地方での活動拠点としているカペナウムはガリラヤ湖の北岸で、北部から湖に流れ込む川の西側にありますが、今回の出来事はやはりガリラヤ湖の北岸で川の東側のベツサイダ近郊と想定されています。

この頃にはイエスが歩く後ろをたくさんの群衆が追いかけるようになっています。これらの人々はイエスの行う奇跡を自分の目で見た人たちです。人々はイエスが病人を癒したのを見たと書かれていますが、イエスが病人を癒す様子は福音書にたくさん登場します。ほとんどの記述でイエスは自分のところに来た「すべての」人を「完全に」癒したと書かれています。

5節、イエスは十二使徒のひとりのピリポに群衆に食べさせる食べ物の入手先について「どこで買えるだろうか」とききます。イエスがピリポにきいたのはピリポがベツサイダの出身だからでしょうか。ピリポの答は大変現実的です。10節によると集まっていた群衆の数は男だけで五千人とありますから女性や子供を含めれば少なくとも1万人、多ければ2万人ほどの人がいた可能性があります。ピリポはそれだけの食べ物を買うお金がないと言います。それだけの食べ物を売っている場所だってないのではないでしょうか。

6節には「イエスはピリポをためしていた」と書かれています。私たちは自分の考えていることと自分の口から出ることの違いに驚くことがあります。「どうして自分はこんな事を言ってしまうのだろうか」のように。イエスはピリポに自分の考えを口に出させて周囲の者にも聞かせ、これからイエスが行う奇跡の意味を際だたせようとしているのだと思います。一万人を越える人間、ベツサイダの近郊、食物を買うための資金、条件を並べたら食料が手に入る可能性はゼロです。可能性がゼロだから奇跡なのです。神さまに出来ることを人間の枠で限定してはいけないのです。

8節と9節。ペテロの兄のアンデレが、パンを五つと魚を二匹持っている少年のことを告げます。この二人もやはり十二使徒です。一万人を越える人たちの中には食べ物を持っている人はきっと他にもいたのでしょうが、この少年は自分のパンと魚を差し出したのでしょうか。あるいはアンデレに見つかってしまったのか。アンデレは群衆の中に全員の腹を満たす食料があるとでも思っていたのでしょうか。

10節と11節、イエスはそれを見ると群衆を斜面に座らせ、神さまに感謝を捧げてからパンと魚を群衆に配り始めます。

12節と13節、すべての人々は欲しいだけ食べました。さらにパンくずを集めてみると十二の籠が一杯になったと書かれています。イエスは少年が差し出した小さな持ち分を使ってそれを群衆全員の空腹を満たす食料に変えました。さらに少年は十二の籠に一杯になったパンを持って帰ったのかも知れません。これはLuke 6:38(ルカの福音書第6章38節)の実現です。[新改訳]で見てみましょう。

38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

つまり自分から与えれば、それに対する報酬は計量の量りからあふれるようになって返ってくると言っています。

14節で人々が「本当に、この方こそが我々が待ち望んできた預言者です」と言っているのは少し前で引用したモーゼが、Deuteronomy 18:15(申命記18章15節)で「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」と言った預言者です。旧約聖書の中にも神さまを信じる気持ちから差し出されたほんの少しの食料が際限なく増えていく奇跡が何度か登場します。イエスが五つのパンと二匹の魚を増やして一万人以上の空腹を満たした様子は旧約聖書に記された奇跡の再現です。人々は実際にこの奇跡を目にして「この方こそが我々が待ち望んできた預言者です」と言ったのでしょう。

この一万人を越える群衆は、2節によれば「病人を癒す奇跡のしるしを見たから」イエスに従って歩いていたのです。この「病人を癒す奇跡のしるし」が5章に書かれていたベテスダの池にいた38年間も病んでいた男のことを言っているのなら、この人たちは100kmも離れたエルサレムの都からはるばる来ていたことになります。この人たちはイエスの奇跡の実際の目撃者なのです。イエスの言動を記録した四つの福音書のうち、早いものはイエスの十字架死から30年ほど後から記述と流布が始まったようですが、このときには当然この一万人の人たちの大半が生きていたと思われます。イエスの十字架刑後、「イエスは神だ」「イエスは復活した」と主張する信者たちが福音書や書簡の流布を始めると、イエスと信者を弾圧してきたファリサイ派などの指導者層はなんとかこの活動をもみ消そうとしたはずですが、イスラエル全土にはイエスの奇跡を自分の目で見た人たちがそのときにはまだたくさんいたのです。

15節、イエスは「人々が自分を王にするために無理矢理に連れて行こうとしている」のを知って群衆を後にします。この後でも出てきますが、人々が求めているのは物質的に自分の腹を満たしてくれる人にすぎないのです。



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Jesus Walks on Water

イエスが水の上を歩く


16 That evening Jesus’ disciples went down to the shore to wait for him.

16 その日の夕方、弟子たちは岸に降りて行ってイエスを待ちました。

17 But as darkness fell and Jesus still hadn’t come back, they got into the boat and headed across the lake toward Capernaum.

17 しかしあたりが暗くなり、イエスが戻って来ないので、弟子たちは舟に乗り込み、湖を渡ってカペナウムの町へ向かいました。

18 Soon a gale swept down upon them, and the sea grew very rough.

18 すぐに弟子たちの上に強風が吹き下ろして来て、湖面は激しく荒れ始めました。

19 They had rowed three or four miles when suddenly they saw Jesus walking on the water toward the boat. They were terrified,

19 弟子たちが五キロか、六キロほど漕ぎ出した頃、イエスが船の方へ湖面を歩いて来るのが見えました。弟子たちは恐れました。

20 but he called out to them, “Don’t be afraid. I am here!”

20 しかしイエスは弟子たちに呼びかけました。「恐れることはありません。ここにいるのは私です。」

21 Then they were eager to let him in the boat, and immediately they arrived at their destination!

21 すると弟子たちはしきりにイエスを船に招き入れたがり、そしてすぐに彼らは目的地に着きました。



[解説]

イエスはパン五つと魚二匹から少なくとも一万人以上の空腹を満たす奇跡を行いましたが、この奇跡を見た人々が自分を王にするために無理矢理に連れて行こうとしているのを知り、一人で抜け出して山の方へ入って行ったのでした。弟子たちはガリラヤ湖の岸でイエスが戻るのを待ちましたが、やがてイエスを残して出立してしまいます。後の方を読むと船は一隻しかなかったそうですからここだけを読むと弟子たちの行動の理解に苦しみますが、同じ場面を記録したMatthew 14:22(マタイの福音書14章22節)には次のように書いてあります。[新解訳]です。

22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。

つまりイエス自身が無理矢理に弟子たちを船に乗り込ませ先に出立させたのです。弟子たちはひとりで後に残るイエスがどうするつもりなのか半信半疑で不安のままに船を出したのではないでしょうか。

すると18節、突然ガリラヤ湖の湖面が強風で荒れ始めます。ガリラヤ湖の水面は海面より二キロ以上も低く、さらに湖の周囲は切り立つ崖です。このため崖を吹き下ろす風によって湖面が突然荒れることがあります。十二使徒の中には地元ガリラヤ湖の漁師が何人か含まれています。ヤコブとヨハネの兄弟とアンデレとペテロの兄弟がそうです。この人たちは少なくともガリラヤ湖の突然の嵐には慣れていたはずですが嵐が恐ろしいことには変わりはないのでしょう。

19節、そこへイエスが湖面を歩いて近づいてきます。荒れ狂う波と風の中をイエスが歩いてくるのです。もしかするとイエスはこの奇跡を見せるために、弟子たちを先に出発させたのでしょうか。弟子たちはこれを見て恐れます。同じシーンはMatthew 14:26(マタイの福音書14章26節)では次のように書かれています。[新解訳]です。

26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

なるほど激しい波と風の中で沈没の恐怖と戦っているところへ今度は水面を歩いて来る人が見えれば、師を見て喜ぶよりも先に恐怖が出てくるのかも知れません。これに対してイエスは20節で「恐れることはありません。ここにいるのは私です」と呼びかけます。



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Jesus, the Bread of Life

イエスは命のパン


22 The next day the crowd that had stayed on the far shore saw that the disciples had taken the only boat, and they realized Jesus had not gone with them.

22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、弟子たちがたった一隻だけあった舟に乗って行ってしまっていて、イエスは弟子たちとは一緒に行かなかったと気づきました。

23 Several boats from Tiberias landed near the place where the Lord had blessed the bread and the people had eaten.

23 テベリヤの町から数隻の舟が来て、主イエスがパンに祝福を与え、人々が食べた場所の近くに着岸しました。

24 So when the crowd saw that neither Jesus nor his disciples were there, they got into the boats and went across to Capernaum to look for him.

24 群衆はそこにはイエスも弟子たちもいないことを知ると、その舟に乗り込んで、イエスを探そうとカペナウムへ来ました。

25 They found him on the other side of the lake and asked, “Rabbi, when did you get here?”

25 群衆は湖の反対側でイエスを見つけ、たずねました。「先生。いつここに来たのですか。」

26 Jesus replied, “I tell you the truth, you want to be with me because I fed you, not because you understood the miraculous signs.

26 イエスは答えて言いました。「本当のことを言いましょう。あなた方が私と一緒にいたいのは、私があなた方の腹を満たしたからで、奇跡のしるしの意味を理解したからではありません。

27 But don’t be so concerned about perishable things like food. Spend your energy seeking the eternal life that the Son of Man can give you. For God the Father has given me the seal of his approval.”

27 消えてなくなる食物のような物にそんなにこだわってはいけません。人の子があなた方に与えることのできる、永遠の命を求めるために労力を費やしなさい。なぜなら父なる神さまは、私に承認の印をくださったからです。」



[解説]

さてイエスに空腹を満たしてもらった群衆は一度はイエスに解散させられたものの、他の町から来た船に乗り込んでイエスを追いかけます。一万人を超える人たちが船に乗り込んだとは考えづらいので解散させられたがあきらめきれず、そうやって追跡をした人たちもいたということでしょう。

イエスはガリラヤ地方の活動拠点であるカペナウムの町にいました。人々は熱狂してイエスのところへ来ますがイエスは批判して言います。26節です。「本当のことを言いましょう。あなた方が私と一緒にいたいのは、私があなた方の腹を満たしたからで、奇跡のしるしの意味を理解したからではありません」。これはイエスからの挑戦です。「あなた方が私と一緒にいたいのは私があなた方の腹を満たしたからでしょう」と言われると否定できません。しかしイエスは自分はあなた方の空腹を満たすための存在ではない、それよりももっと根源的なことがあるのだから「奇跡のしるしの意味を正しく理解せよ」と言うのです。これは「旧約聖書には奇跡について何が書かれていますか。救世主が何をすると書かれていますか。よく思い出しなさい」という挑戦でしょう。

27節では、「消えてなくなる食物のような物にそんなにこだわってはいけません。人の子があなた方に与えることのできる、永遠の命を求めるために労力を費やしなさい。なぜなら父なる神さまは、私に承認の印をくださったからです」と言います。単に目の前にある空腹を満たすためではなく、一番大切な「永遠の命」を求めなさいと言うのです。この挑戦は現代に生きる私たちにもそのまま当てはまると思いました。「聖書」という本は一冊の完成した本としてすでに2,000年近い歴史を持っているのに関わらず、60億人を超える人間の中で聖書を読んでいる人というのは大変少ないと思います。クリスチャンだと言いながら読まない人も多いです。内容を理解している人と言うともっと少ないでしょう。

人々は「宗教が必要だ」「宗教はバカげている」と宗教を論じたり、「私は幸福だ」「私は不幸だ」と喜んだり悲しんだりして日々を生きていますが、イエスは「消えてなくなる食物のような物にそんなにこだわってはいけません。人の子があなた方に与えることのできる、永遠の命を求めるために労力を費やしなさい」と言います。この言葉はそのまま私たちにも当てはまるのです。日々を一喜一憂して、喜んだり悲しんだり、楽観したり心配したりしてグラグラと生きてはいけない。そんなことよりも「永遠の命を求めるために労力を費やしなさい」とイエスは言うのです。これがさっぱり何のことかわからないのなら聖書を読めば良いのです。すべての答はそこに書いてあります。これから後、終わりの日に何が起こるのかも書いてあります。聖書には「知りたければ求めなさい、求める人には必ず答が与えられる」とも書いてあります。



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28 They replied, “We want to perform God’s works, too. What should we do?”

28 彼らは答えて言いました。「私たちも神のわざを行ないたいのです。どうすれば良いでしょうか。」

29 Jesus told them, “This is the only work God wants from you: Believe in the one he has sent.”

29 イエスは人々に言いました。「神さまがあなた方に望むわざはひとつだけ、それは神さまが遣わした者を信じることです。」

30 They answered, “Show us a miraculous sign if you want us to believe in you. What can you do?

30 人々は答えて言いました。「あなたが私たちに信じて欲しいのなら、奇跡のしるしを見せてください。あなたには何ができるのですか。

31 After all, our ancestors ate manna while they journeyed through the wilderness! The Scriptures say, ‘Moses gave them bread from heaven to eat.’”

31 なぜなら私たちの先祖は荒野を旅する間にマナを食べたのです。聖書には『モーゼは彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあります。」

32 Jesus said, “I tell you the truth, Moses didn’t give you bread from heaven. My Father did. And now he offers you the true bread from heaven.

32 イエスは言いました。「本当のことを言いましょう。モーゼはあなた方に天からパンを与えませんでした。私の父が与えたのです。そしていま、父はあなた方に天からまことのパンをお与えになります。

33 The true bread of God is the one who comes down from heaven and gives life to the world.”

33 神さまのまことのパンとは、天から下って来て、世に命を与える人のことです。」

34 “Sir,” they said, “give us that bread every day.”

34 人々は言いました。「主よ。私たちにそのパンを日々与えてください。」

35 Jesus replied, “I am the bread of life. Whoever comes to me will never be hungry again. Whoever believes in me will never be thirsty.

35 イエスは答えました。「私が命のパンです。私のところへ来る者は誰も決して再び飢えることがありません。私を信じる者は誰も決して渇くことがありません。

36 But you haven’t believed in me even though you have seen me.

36 しかしあなた方は私を見たのに信じませんでした。

37 However, those the Father has given me will come to me, and I will never reject them.

37 ですが、父が私にお与えになった者たちは、私のところに来るのです。そして私はその者たちを決して拒みません。

38 For I have come down from heaven to do the will of God who sent me, not to do my own will.

38 なぜなら私が天から下って来たのは、わたしを遣わした神さまの意志を実行するためで、私自身の意志を行うためではありません。

39 And this is the will of God, that I should not lose even one of all those he has given me, but that I should raise them up at the last day.

39 そしてその神さまの意志とは、神さまが私に与えてくださった者すべてを、私がただ一人として失わず、終わりの日に、その人たちをよみがえらせることです。

40 For it is my Father’s will that all who see his Son and believe in him should have eternal life. I will raise them up at the last day.”

40 なぜなら私の父の意志とは、その息子を見て信じる者が、みな永遠の命を持つことだからです。私はその人たちを終わりの日によみがえらせます。」



[解説]

一万人以上の人々の空腹を満たす奇跡を行ったイエスを追いかけて再び集まってきた人々に対し、イエスは「あなた方が私と一緒にいたいのは、私があなた方の腹を満たしたからで、奇跡のしるしの意味を理解したからではありません」と言いました。さらに「消えてなくなる食物のような物にそんなにこだわってはいけません。人の子があなた方に与えることのできる、永遠の命を求めるために労力を費やしなさい」と言います。「永遠の命を求めるために労力を費やせ」です。

これに対して人々の回答は28節、「私たちも神のわざを行ないたいがどうすればできるのか」です。つまり人々は自分で奇跡を行って空腹を満たしたいのです。人々が自分でやりたいと求めた「神のわざ」は英語で「God’s works」となっています。イエスはこれに対し「the only work God wants from you」(神さまがあなた方に望むわざはひとつだけ)として、それは「神さまが遣わした者を信じること」、つまり自分を神さまが使わした者であると信じなさいと言うのです。

イエスに「信じなさい」と言われた人々の典型的な反応がここでも見られます。30節の「あなたが私たちに信じて欲しいのなら、奇跡のしるしを見せてください」です。この人たちはイエスが病人を癒す奇跡のしるしを見たからはるばる遠方からイエスについて歩いてきて、さらに一万人の空腹を満たす奇跡の目撃者のはずなのに信じて欲しければ奇跡を見せろの一点張りです。

ところでイエスは自身が神さまなのですから「何とか信じて欲しい」立場ではありませんね。人々が信じようと信じまいとイエスは自身で天地を創造し、自身で人間を造ったのです。イエスの問いかけは「それを信じますか」だけです。

31節、人々はなぜ奇跡を求めるかを説明します。「なぜなら私たちの先祖は荒野を旅する間にマナを食べたのです。聖書には『モーゼは彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあります」。これは旧約聖書の「Exodus(出エジプト記)」に書かれている話です。エジプトで奴隷状態にあったユダヤの民が神さまに助けを求めると神さまは預言者モーゼを遣わし、モーゼがユダヤの神を引き連れてエジプトから脱出します。紅海が二つに割れたり神さまから「十戒」を授かったりと、聖書に親しんでいない人にもご存じの場面かも知れません。ところがその少し後でユダヤの民は神さまの怒りを買い、結果としてすぐには約束の地(パレスチナ)には入れてもらえません。代わりに40年間砂漠をさまようはめになるのです。

このとき人々が空腹に苦しむと神さまは天からマナと呼ばれるパンを降らして食べさせました。神さまはこれを40年間、毎日続けたのです。天からパンを降らせることは神さまがモーゼに告げ、モーゼが人々に告げる形で実現したので人々はあたかもモーゼがマナを降らしたかのように思っているのです。ということは人々がイエスに求めているのは、もしイエスがモーゼが言った「いつか現れる自分と同じような一人の預言者」なのならモーゼがやったのと同じように天からパンを降らしてくれ、そういう奇跡を見せてくれと言うのです。

これでは振り出しに戻ってしまいます。イエスが前回言った「あなた方が私と一緒にいたいのは、私があなた方の腹を満たしたからで、奇跡のしるしの意味を理解したからではありません」「消えてなくなる食物のような物にそんなにこだわってはいけません。人の子があなた方に与えることのできる永遠の命を求めるために労力を費やしなさい」、このメッセージは人々には伝わっていません。人々はイエスの指摘どおり、空腹を満たしてくれと願い続けているわけですが、考えてみれば奇跡を求めてイエスについて歩いている人たちはみな何かを求め何かに飢えているのですね。逆に言うと満たされている人々、自分は幸せだと思っている人たちはわざわざイエスについて歩こうとはしません。遠目に見て「物好きだな」と思っているのかも知れません。

これは「Beatitude(山上の垂訓)」などとも呼ばれるMatthew 5(マタイの福音書第5章)に書かれている内容と重なります。[新改訳]で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」のように書かれるイエスの教えは、飢え、渇き、悲しみ、嘆く人々には答が見つかりますよと言っているのです。そしてイエスの答は「消えてなくなる食物のような物にこだわるのではなく、永遠の命を求めるために労力を費やせ」です。イエスの説明が続きます。

32節では、パンを与えたのはモーゼではなく私の父(つまり神さま)で、その父が今回は「まことのパン」を与える、そしてその「まことのパン」とは天から来て人々に命を与える「人」のことだと言います。人々は「それならば私たちにそのパンを与えてください」と言います。

35節、イエスは「私が命のパンです。私のところへ来る者は誰も決して再び飢えることがありません。私を信じる者は誰も決して渇くことがありません」と言います。いかがでしょうか。周囲の人々にしてみれば「この人がまことのパンだ」と言われてもどうして自分の空腹が満たされるのだろうと思ったことでしょう。あるいはこの人はユダヤの王になるべき人で、この人の統治のもと国民にはいつも食物が与えられるのだろうと考えたことでしょう。この人は預言者で自分の思いのままに食物を生み出す奇跡を行えるのだから、そうなれば自分たちは飢える心配はないと。しかしイエスの話は違う方向へと展開していきます。

38節では「なぜなら私が天から下って来たのは、わたしを遣わした神さまの意志を実行するためで、私自身の意志を行うためではありません」と言い、そして39節、「そしてその神さまの意志とは、神さまが私に与えてくださった者すべてを、私がただ一人として失わず、終わりの日に、その人たちをよみがえらせることです」と言います。人々は現実的な日々の糧や病気の治癒を求めてイエスについて歩いています。しかしイエスは「目先のことに心を奪われるな。永遠の命を求めよ。それを与えられるのは自分だけだ。だから自分を信じなさい」と言います。その理由は自分を使わした神さまの意志にあり、それは「終わりの日に、その人たち(つまりイエスを信じた人たち)をよみがえらせること」だと言います。イエスから「永遠の命」を得た人は「終わりの日」によみがえるというのです。



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41 Then the people began to murmur in disagreement because he had said, “I am the bread that came down from heaven.”

41 すると人々は納得できないとつぶやき始めました。それはイエスが「私は天から下って来たパンです」と言ったからです。

42 They said, “Isn’t this Jesus, the son of Joseph? We know his father and mother. How can he say, ‘I came down from heaven’?”

42 人々は言いました。「これはヨセフの息子のイエスではありませんか。我々は彼の父も母も知っています。それなのにどうして『私は天から下って来た』と言えるのでしょうか。」

43 But Jesus replied, “Stop complaining about what I said.

43 しかしイエスは答えて言いました。「私が言ったことについてつぶやくのはやめなさい。

44 For no one can come to me unless the Father who sent me draws them to me, and at the last day I will raise them up.

44 なぜなら私を遣わした父が私のところへ引き寄せなければ、誰一人として私のところに来ることはできません。そして終わりの日に私はその人たちをよみがえらせます。

45 As it is written in the Scriptures, ‘They will all be taught by God.’ Everyone who listens to the Father and learns from him comes to me.

45 聖書に『彼らは神によって教えられる』と書かれているように、父の話を聞き、父から学ぶ者はみな、私のところへ来ます。

46 (Not that anyone has ever seen the Father; only I, who was sent from God, have seen him.)

46 (誰も父を見た者はありません。私だけ、神さまから使わされた私だけが、父を見たのです。

47 “I tell you the truth, anyone who believes has eternal life.

47 本当のことを言いましょう。信じる者は誰でも永遠の命を持ちます。

48 Yes, I am the bread of life!

48 そうです。私は命のパンです。

49 Your ancestors ate manna in the wilderness, but they all died.

49 あなた方の祖先は荒野でマナを食べたが、みな死にました。

50 Anyone who eats the bread from heaven, however, will never die.

50 しかし、天からのパンを食べる者は、誰も決して死なないのです。



[解説]

イエスの話を聞いている人々の中にはイエスの出身を知っている人も含まれていて、「これはヨセフの息子のイエスではありませんか」と言い、それなのに「天から来た」と言うのはおかしいと言い始めます(42節)。たしかにイエスは戸籍上はヨセフとマリアの子ですが、マリアはヨセフと婚約しているときに聖霊によってイエスを授かったのでした。処女懐胎です。このことを知る人はイエスの話を聞いている人の中には誰もいません。イエスは「つぶやくのはやめなさい」と言って話を続けます。

44節、「なぜなら私を遣わした父が私のところへ引き寄せなければ、誰一人として私のところに来ることはできません」。つまりイエスの話を聞いて疑惑を持ち信じない者は信じなくても良い、信じる・信じないの選択は個々ひとりひとりに委ねられているのです。そして「信じよう」と思い信仰を表明する者とはすなわ、イエスを使わした父である神さまがイエスへと引き寄せた人だということです。これは神さまの領域のことなので、どのように行われているのかはわかりません。「引き寄せられた」者としても言葉で説明することは難しいのですが、イエスへの信仰へ導かれる人は誰もが何かしらの「呼びかけ」を感じています。神さまが人間には理解できない方法で人々の心を駆り立て促し、導くのです。また「偶然」では説明できないような出来事が続いて自分の下にレールが敷かれているように感じることもあります。神さまの領域でこれらの働きをするのはどうやら三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)の中の聖霊(Holy Spirit)のようです。

45節、 聖書に『彼らは神によって教えられる』と書かれているようにとあるのは、Isaiah 54:13(イザヤ書54章13節)に「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」([新解訳])とあるように、これは救世主がもたらす神さまの王国がイメージされていると解釈されそこでは人々が神さまの元で直接教えを受けることをほのめかしていると思われます。神さまの言葉、神さまの導きに耳を傾けそこから何かを学び取ろうと言う前向きな姿勢、魂の渇きに基づいて神さまを捜し求める人がイエスのところへ至る、そういう人には神さまから道が示されるということではないでしょうか。

49節、「あなた方の祖先は荒野でマナを食べたが、みな死にました」。人々がイエスに求める食べ物は神さまが砂漠でモーゼを通じて天から降らしたマナと同じ単なる物理的な食べ物です。それを食べれば空腹は満たされますがそれはその日限りのことで次の日にはまた空腹になります。毎日繰り返し空腹を満たす食料を探し求めることだけで頭が一杯でそうやってやがて人は死んでしまいます。マナはその日の空腹を満たしますがそれ以上は何も保証しないのです。

50節、「しかし、天からのパンを食べる者は、誰も決して死なないのです」。イエスの与える「命のパン」が与えるのは日々の空腹を満たす食べ物ではなく永遠の命です。イエスの与える命は人の中で泉のようになって命のエネルギーを生み続け魂の渇望を覚えることがなくなるとも書かれていました(John 4/ヨハネ4章)。人々はイエスを預言者かも知れないと考えていて何かとモーゼと比較します。しかしイエスは預言者ではなく、宇宙の全権を持ち命を司る神さまです。



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51 I am the living bread that came down from heaven. Anyone who eats this bread will live forever; and this bread, which I will offer so the world may live, is my flesh.”

51 私は、天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして私が、世の人々が生きるようにと差し出すこのパンとは、私の肉なのです。」

52 Then the people began arguing with each other about what he meant. “How can this man give us his flesh to eat?” they asked.

52 すると人々はイエスが言ったことについて互いに議論を始めました。「この人は、どうやって自分の肉を私たちに食べさせるために与えると言うのでしょうか。」と彼らはたずねました。

53 So Jesus said again, “I tell you the truth, unless you eat the flesh of the Son of Man and drink his blood, you cannot have eternal life within you.

53 そこでイエスは再び言いました。「本当のことを言いましょう。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方の中に、永遠の命を持つことはできません。

54 But anyone who eats my flesh and drinks my blood has eternal life, and I will raise that person at the last day.

54 ですが私の肉を食べ、私の血を飲む者は、誰でも永遠のいのちを持っています。そして私は終わりの日にその人をよみがえらせるのです。

55 For my flesh is true food, and my blood is true drink.

55 なぜなら私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物だからです。

56 Anyone who eats my flesh and drinks my blood remains in me, and I in him.

56 誰でも私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の中にとどまり、私もその人の中にとどまります。

57 I live because of the living Father who sent me; in the same way, anyone who feeds on me will live because of me.

57 私が生きるのが、私を遣わした父が生きているからであるように、私を食べる者は誰でも、私が生きるから生きるのです。

58 I am the true bread that came down from heaven. Anyone who eats this bread will not die as your ancestors did (even though they ate the manna) but will live forever.”

58 私天から下って来たまことのパンです。このパンを食べる者は、あなた方の父祖たちのように死ぬことはありません(父祖たちはマナを食べたというのに)。永遠に生きるのです。」

59 He said these things while he was teaching in the synagogue in Capernaum.

59 イエスはカペナウムの会堂で、これらのことを話しました。



[解説]

51節、ここから話がややこしくなって来ます。ここまでの話は言うなればいつもの流れに沿って進んできた感じですが、ここからイエスは「このパンとは、私の肉なのです」 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、永遠の命を持つことはできません」「私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物」「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の中にとどまり、私もその人の中にとどまります」と表現が具体的になりエスカレートして、まるで人肉を食らい生き血をすするようなおどろおどろしい雰囲気です。聞いている人々には、いよいよ受け入れがたい様相を呈してきました。実際、次回の部分には、ここの部分を聞いて、イエスの元を離れ去る弟子たちの様子が書かれています。

「イエスの肉を食べ、その血を飲む者が、永遠の命を持つ」とは、一体イエスは何を伝えようとしているのでしょうか。ここの解釈は難解ですが私には聖書の中のいくつかの箇所が思い浮かびます。まず「過ぎ越しの羊」(Passover Lamb)です。これは神さまが預言者モーゼを通じてエジプトで奴隷状態に苦しむユダヤ人たちを脱出させたときの出来事です。神さまは次々とエジプト全土に厄災を起こしユダヤ人をエジプトの中に留め置くと大変なことになることをエジプトの王ファラオに示すのですが、10番目の最後の厄災が「過ぎ越し」でした。

その夜神さまはエジプト上空を飛びあらゆる家の長男を殺します。人間だけでなく家畜の初子も死にます。エジプト全土に悲痛の叫びが起こりました。ところが神さまはユダヤの民にはあらかじめこの厄災をやり過ごす、つまり「過ぎ越し」のための方法を教えておきます。その方法とはいけにえの羊を用意して教えられた手順どおりに殺し、その血を自分の家の戸口に塗っておくという方法です。神さまはこの血の印を見てユダヤ人の家を過ぎ越しました。神さまはこのユダヤの各家の長男の身代わりになって死ぬいけにえの羊の肉を残さずに食べるように伝えています。

イエスは十字架で世の人々の代わりにすべての人間の罪を背負って死にます。最初の人間のアダムが神さまとの約束を破ったとき神さまはアダムに「死んで土に帰らなければならない」と言いました。神さまの考える「悪」を行った人間はその代償として死ななければならないのですが、イエスはすべての人の身代わりになったのです(だからイエスについての計画受け入れる人からは罰としての「死」が取り去られ永遠の命を得るのです)。イエスを救世主として指し示した預言者、洗礼者ヨハネはイエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました(John 1:29/ヨハネの福音書第1章29節)。イエスは「過ぎ越しの羊」だと言ったのです。逆に言えば「過ぎ越し」のイベントはイエスが後に行う人類救済の計画の前兆として示された型だったのです。つまりイエスは過ぎ越しの羊と同様に人間の罪の身代わりに死ぬのですから、イエスを信じ受け入れようという人はかつてユダヤの民がそうしたように過ぎ越しの羊の肉を残さずに食べてその血を自分に浴びせなければいけないと言っているのかも知れません。

聖書の中で「血」は命の源として書かれています。たとえばLeviticus 17:10〜11(レビ記第17章10〜11節)には次のように書かれています([新解訳]):

10 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

「肉のいのちは血の中にあるから」血は食べてはいけないというのが聖書の教えです。ですからイエスの言った「私の血を飲む者が永遠の命を持つ」という表現を聞いたユダヤ人には聖書を知らない私たち以上にショッキングに響いたはずです。一方で救世主イエスは命を与える命の源です。人が永遠の命を得るために救世主としてのイエスを受け入れるというのはイエスと一体となることを言いますから、命の源であるイエスの血を受けずしてイエスへの信仰は成立しないことになります。

この11節で「いのちとして贖いをするのは血である」の部分についてはこれに先立つLeviticus 16(レビ記第16章)全体にわたって記述されています。寺院内の神殿の最深部、厚い垂れ幕の内側にある最も聖なる部屋に入ることが許されるのはユダヤ民族の中でただ一人「大祭司」だけです。最初の大祭司はモーゼの兄のアロンでした。Leviticus 16(レビ記第16章)に書かれているのはこの大祭司が年に一度、この最も聖なる部屋に入る儀式についてです。大祭司は最も聖なる部屋に入るに先立ちイスラエルの民のために罪の代償として捧げられるいけにえのやぎを殺し、その血を最も神殿内の聖なる部屋の中へ持ち込んでそこに安置された聖なる箱を覆う「贖(あがな)いのふた」の上に血を振りかけます。これはイスラエル人の汚れとそむき、すべての罪のために聖所で行う贖いであると書かれています。聖書ではいけにえの血には人間の罪の汚れを清める代償の意味があるのです。

もうひとつ私には聖書の中から思い浮かべるのは、イエスが弟子たちにいつも実行するようにと最後の晩餐の席で命じたキリスト教で「聖餐(せいさん)」(Communion)と呼ばれる儀式です。Luke 22:19〜20(ルカの福音書第22章19〜20節)から引用します。[新解訳]です。

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

イエスの説明を受けて最後の晩餐に同席した使徒たちはこれは「わたしのからだです」と言われたパンを食べ、「この杯はわたしの血による新しい契約です」と言われたぶどう酒を飲んでいます。イエスは自分が天に戻った後も自分と十字架の意味を思い出すためにこの儀式を繰り返し行いなさいと命じているのです。いかがでしょう。イエスのこのショッキングな発言はイエスを救世主として受け入れるということが、つまりはイエスの肉を食べ血を飲むことであり、それがイエスと一体になるための方法であり、それはユダヤ人の知る聖書にも裏付けられたことなのだと私には読めます。



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Many Disciples Desert Jesus

多くの弟子がイエスから去る


60 Many of his disciples said, “This is very hard to understand. How can anyone accept it?”

60 弟子たちの多くが言いました。「これはとても理解しがたい話です。こんな話をだれが受け入れると言うのでしょう。」

61 Jesus was aware that his disciples were complaining, so he said to them, “Does this offend you?

61 イエスは、弟子たちが不満を言っているのに気づいていたので、彼らに言いました。「このことで腹を立てているのですか?

62 Then what will you think if you see the Son of Man ascend to heaven again?

62 それならば、もし人の子がもう一度天へ昇るところを見たら、どう考えるのですか。

63 The Spirit alone gives eternal life. Human effort accomplishes nothing. And the very words I have spoken to you are spirit and life.

63 霊だけが永遠の命を与えるのです。人間の努力は何も達成しません。そして私があなた方に話した言葉は、霊であり命なのです。

64 But some of you do not believe me.” (For Jesus knew from the beginning which ones didn’t believe, and he knew who would betray him.)

64 しかし、あなた方の中には信じない者がいます。」(イエスは初めから、誰が信じておらず、誰が裏切るかを知っていたのです。)

65 Then he said, “That is why I said that people can’t come to me unless the Father gives them to me.”

65 それからイエスは言いました。「だからこそ私は言ったのです。『父が私に与えてくださらないかぎり、人々は私のところに来ることはできない』と。」

66 At this point many of his disciples turned away and deserted him.

66 この時点で弟子たちの多く背を向けてイエスから去っていきました。

67 Then Jesus turned to the Twelve and asked, “Are you also going to leave?”

67 それからイエスは十二使徒に向き直ってたずねました。「あなた方もまた去ろうとしているのですか。」

68 Simon Peter replied, “Lord, to whom would we go? You have the words that give eternal life.

68 シモン・ペテロが答えて言いました。「主よ、私たちが誰のところへ行くというのですか。あなたは永遠の命を与える言葉を持っているのです。

69 We believe, and we know you are the Holy One of God.”

69 私たちは信じます。そして私たちは、あなたが神の聖なる者であると知っています。」

70 Then Jesus said, “I chose the twelve of you, but one is a devil.”

70 イエスは言いました。「私があなた方、十二人を選んだのです。ですが、一人は悪魔です。」

71 He was speaking of Judas, son of Simon Iscariot, one of the Twelve, who would later betray him.

71 イエスは、シモン・イスカリオテの息子、ユダのことを言っていました。ユダは十二使徒のひとりで、後にイエスを裏切るのです。



[解説]

60節、イエスの肉を食べ血を飲むという話について弟子たちの間でも議論が起こります。弟子たちはイエスを宗教上の霊的な師と考えているので話があまりに難解でショッキングなことから、「これはとても理解しがたい話です。こんな話をだれが受け入れると言うのでしょう」と議論します。イエスは「そんなことで腹を立てるのか。ならば自分が天へ昇るところを見たらどうするのか」と切り返し、63節「霊だけが永遠の命を与えるのです。人間の努力は何も達成しません。そして私があなた方に話した言葉は、霊であり命なのです」と言います。つまりもしこのときイエスが空中へ舞い上がり自分が天へ昇る姿を奇跡として見せたとしたら、人々は「難解だ」「受け入れられない」などとは議論などせず自分を素直に神の子として受け入れるのではないかと言うのです。イエスの話は人間の視点では到底理解できない「霊(Spirit)」の話なのであって、それを人間の視点で評価して議論など始めるな、そういうレベルでの話ではないと言うのです。

64節「しかし、あなた方の中には信じない者がいます」、65節「父が私に与えてくださらないかぎり、人々は私のところに来ることはできない」は、66節で「もう限界だ、自分はこの人には、ついて行けない」とイエスの元を去る弟子たちを指していると思います。イエスの元を去っていった弟子たちは自分の目の前で行われた五つのパンと二匹の魚から一万人以上の人々の空腹を満たす奇跡をどのように思ったのでしょうか。何かのトリックだと思ったのでしょうか。あるいは自分の考える理想的な師の像とイエスのアプローチが異なっていることに落胆したのかも知れません。このような弟子たちはイエスが一万人の空腹を満たしたりあらゆる病気を癒すような奇跡が行えるのなら次々と奇跡を起こしてローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してイスラエルの王となり、弟子の自分たちを要職に取り立てて欲しいなどと考えていたのかも知れません。イエスの言動がいつまでたってもそれを感じさせず常に非現実的な永遠の命や霊の話に終始するし、ときには人々に挑戦的な投げかけまでするのでいよいよ我慢の限界に達したのかも知れません。

67節、多くの弟子たちが去るとイエスは十二使徒にたずねます。「あなた方もまた去ろうとしているのですか」。イエスは「ついて来るか」「去るか」、「信じるか」「拒絶するか」、いつも二つに一つしか問いません。イエスは真実を話しているので中間的な選択はないのです。聞き手の反応は二つに分かれます。真実を求めてついていくか、気に入らないから離れるかです。これに答えるのはペテロです。ペテロは十二使徒の中ではリーダ的な立場のようです。「主よ、私たちが誰のところへ行くというのですか」。この答はキリスト教の信仰そのものです。人間にはイエス以外を選択する道はありません。創造主の神さまから人間に示された道はイエスを通じて永遠の命を得るか、イエスを拒絶してすべてを失うかたった二つの道だけです。

イエスの回答は「私があなた方、十二人を選んだのです」です。これは大変な言葉だと思います。イエスは他の人々に対しては「自分を選ぶか」「拒絶するか」とたずねるのに、十二使徒に対しては「自分があなた方を選んだのです」と告げます。これは今回の65節や他の場所にもある「父が私に与えてくださらないかぎり、人々は私のところに来ることはできない」も想起させます。父なる神さまはいつどのようにしてイエスに人々を与えているのでしょうか。

さらにイエスは自分を裏切るユダについて十二人のうちの「一人は悪魔です」と言及します。「悪魔(devil)」は「堕天使(fallen angel)」とも呼ばれます。天には無数の天使がいます(聖書に登場する天使は私たちがよく目にする羽を持つ子供とは姿形が異なります)。聖書に実名で登場する天使は三人います。そのうちのひとりが「サタン(Satan)」です。天使には階級があるようでサタンはその中で高位にいました。聖書の解釈によるとサタンは神さまと同じ立場に上ろうとの野望を持ち、そのことで神さまによって天から落とされました(これは神さまが人間を創造する前に起きた出来事と考えられています)。このとき天使の三分の一がサタンに味方してやはり天から追放されました。これが「悪魔」です(だから「堕天使」なのですね)。サタンと悪魔が天から落とされた先は私たちの住む地上です(と言うよりもサタンは先に地上に落とされていて、神さまはそこに創造した人間を置いたのです)。地上に落とされたサタンが最後にどのようにして神さまに敗れるかは「Revelation(ヨハネの黙示録)」などに詳しく書かれています(これはこれから起こることの「予言」の部分ですが、歴史と世界情勢を見て実現の時期が近いと考えるクリスチャンは多いようです)。つまり私たちの住む地上はサタンが最終的に裁かれるまでの間、サタンによって仮に支配される世界ということです。言い換えると地上はサタンと悪魔が支配する牢獄のようなところです。

地上を支配するサタンのもっぱらの動機は神さまの姿を映し特別な愛を注がれて創造された人間を誘惑し、だまし、自分の滅亡の道連れにしようとすることのようです。天使は人間よりも知力も体力もはるかに優れた存在として書かれますからサタンは人間の知力をはるかに超越してあの手この手で人間の目を神さまからそらそうとします。私たち人間は肉体に「魂(soul)」が宿った存在ですが、神さまや天使は「霊(spirit)」的な存在なのでやはり肉体に宿ることができます。悪魔も同様です。聖書にはそのような記述がたくさんあります。神さまの目に悪として映る邪悪な言動を好む人は悪魔の餌食となって肉体を支配され、悪魔に宿られて操られてしまうこともあるようです。イエスがユダを称して「悪魔」と言ったのはユダには悪魔が宿っていると言っているのだと思われます。

聖書の中には、私の知る限り神さまの側に立つ善い天使が人間に宿る話は登場しません。神さまの側でこの役目を果たすのは「聖霊(Holy Spirit)」です。イエスの言うとおり人間に示された道が二つしかないのなら、イエスを選ばない人間の行く先はサタンが最後に落とされることになっている「火の池(Lake of Fire)」です。



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