ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第1章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Prologue: Christ, the Eternal Word

プロローグ:救世主、永遠のことば


1 In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God.

1 最初に「ことば」はすでに存在していました。「ことば」は神とともにあって、「ことば」は神でした。

2 He existed in the beginning with God.

2 この方(「ことば」)は、最初に神とともに存在していました。

3 God created everything through him, and nothing was created except through him.

3 神はすべてのものを、この方(「ことば」)を通じて造りました。造られたもので、この方を通じずにできたものは一つもありませんでした。

4 The Word gave life to everything that was created, and his life brought light to everyone.

4 「ことば」は造られたものすべてに命を与えました。そしてその命が人に光をもたらしました。

5 The light shines in the darkness, and the darkness can never extinguish it.

5 光は闇の中で輝きます。闇は光を打ち消すことはできません。

6 God sent a man, John the Baptist,

6 神は一人の男を送りました。洗礼者ヨハネです。

7 to tell about the light so that everyone might believe because of his testimony.

7 この人は光について伝えるために来ました。すべての人が彼の証言によって信じるためです。

8 John himself was not the light; he was simply a witness to tell about the light.

8 ヨハネ自身は光ではありませんでした。光について伝える、ただの証言者でした。

9 The one who is the true light, who gives light to everyone, was coming into the world.

9 すべての人に光を与える真の光である方が、世に来ようとしていました。

10 He came into the very world he created, but the world didn’t recognize him.

10 この方は、まさにご自身が造られた世に来られたのですが、世は、この方がわからなかったのです。

11 He came to his own people, and even they rejected him.

11 この方はご自分の人々のところへ来られたのに、人々はこの方を拒絶さえしたのです。

12 But to all who believed him and accepted him, he gave the right to become children of God.

12 しかし、この方を信じ、受け入れたすべての人々に対しては、この方は神の子供となる特権をお与えになりました。

13 They are reborn -- not with a physical birth resulting from human passion or plan, but a birth that comes from God.

13 その人々は生まれ変わるのです。それは人間の欲求や計画の結果生じる肉体的な誕生のことではなく、神から来る誕生です。

14 So the Word became human and made his home among us. He was full of unfailing love and faithfulness. And we have seen his glory, the glory of the Father’s one and only Son.

14 そこで「ことば」は人となり、私たちの間に住みました。この方は、絶えることのない愛と誠に満ちていました。そして私たちはこの方の栄光を見たのです。それは父の、ただ一人の子としての栄光です。



[解説]

とても有名な出だしです。[新改訳]では「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」となっています。

最初に読むと「ことば」?と疑問符が浮かびます。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。」・・・、「ことば」、何のことでしょう。この「ことば」がどうやらイエス・キリストを指していることは読み進むに連れてわかってきます。そして14節で「ことば」が人となり私たちの間に住んだ、と説明されてそうであることがはっきりわかります。でもどうして「ことば」なのでしょうか。

「Word(ことば)」という単語は当時のユダヤ人とギリシア人の神学者や哲学者によって使われていたのだそうです。たとえば旧約聖書の中では「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」([新改訳]Psalm 33:6/詩編33章6節)と「ことば」は神さまの手段(あるいは代理人のようにも受け取れます)のように書かれたり、あるいは神さまが人間に与えた預言や律法(法律)そのものを指したりします。ギリシア哲学では「ことば」は世界を支配する原理や心の中にある思想として取り扱われるそうですが、ユダヤ人は「ことば」を「神」を指すもう一つの言葉として扱ったのです。

ヨハネが「ことば」という表現にこめたのは、自分が接した一人の人としてのイエスであると同時に宇宙の創造者であり解き明かされた神さまの姿であり、地上に実在した正しく神聖な存在としてのイエスのことです。

1節には三つのことが書かれています。(1)イエスが最初からいたこと、(2)イエスが神さまと共にいたこと(ある意味イエスは神さまとは別ということです)、(3)イエス自身も神であったこと(神さまとは別にイエスという神がいたということになります)。これを読んだユダヤ人は神さま以外に別の神を説くことを冒涜と感じたでしょうし、ギリシア人には「ことばが人になる」などという奇想天外な発想は通じなかったでしょう。

3節は、すべての物は神さまがイエスを通じて造ったのだと言っています。宇宙も神さまが造られたのだし私たちひとりひとりも神さまに造られた、すべてが被創造物です。自分は神さまがいなければ存在しなかったのだし、自分が持っている肉体や能力もすべて神さまが与えた物です。神さまは特別な愛情を持ってわざわざ自分の姿を模して人間を創造しました。ですから自分に与えられた肉体や能力は、神さまの意図や計画に基づいているのです。だからもし自分の人生の意味や行く末に疑問や不安があるのなら、一人で悩むよりも自分を造った神さまにきくのが一番だと思います。

4〜5節、イエスが命の源であり、その命が光を与え、光は闇に負けることがないと書かれています。イエスが与える光は愛であり希望であり平和です。また真理へと至る道です。イエスの与える光を受け取りその光をたどろうとする人は、イエスと同様に闇に負けることがないというのです。

6節に書かれた「洗礼者ヨハネ」はヨハネの福音書を記述した「使徒のヨハネ」とは別人です。イエスが地上に現れる約400年前に記述された旧約聖書の最後の本「マラキ書」は次のように締めくくられています。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳] Malachi 4:5-6/マラキ書4章5〜6節)。この言葉の後、神さまからのメッセージは約400年の間沈黙します。その沈黙がどのように破られたのかは新約聖書の「ルカの福音書」の冒頭に、この洗礼者ヨハネの誕生として描かれています。洗礼者ヨハネが、実はマラキの預言した「預言者エリヤ」であったことは後から明らかになります。イエスの出現に先駆けて、洗礼者ヨハネは道を整え救世主としてのイエスを指し示すために現れたのです。

10〜11節、イエスが地上に現れると、それは旧約聖書に記述された救世主に関する預言をことごとく実現していたにも関わらず、ユダヤ人はイエスが救世主だとは気づかず、最後には拒絶して十字架にかけて殺してしまいました。ですがその間にイエスを信じ救世主として受け入れた人には、神さまの子として生まれ変わる特権が与えられたのです(12〜13節)。その生まれ変わり、誕生は、私たちが知っている肉体的な誕生ではなく神さまから来る誕生だと書かれています。私たちは肉体的な誕生を経て肉体的ないのちを得ますが、そのままでは誰もが間違いなくある日死んでしまいます。ですが神さまから来る誕生を経て神さまから来るいのちを得れば、その命は肉体が滅んだ後も永遠に生きると言うのです。

あぁなるほど宗教なのだな、天国に行くことを言っているのだな、そういう思いこみや迷信のことだろう、と思う方もいるかも知れません。が、聖書が他の宗教と異なるのはこの神さまから来る「いのち」は人が努力をして勝ち取る類のものではなく(つまり生きている間に行った努力や、善行と悪事のバランスで決まるのではなく)、そこに「いのち」を司る神さまがいて、その「いのち」は「ください」という人にはどんな人にでも一方的に与えるとしているところです。逆に言えば、たかだかちっぽけな被創造物に過ぎない人間が努力して勝ち取れるものは、つかの間の冨や名声、見せかけの幸福であってそれはある日失われてしまうものなのです。

それともう一つ、他の宗教と大きく違うのは約2000年前に書き終えられてから変わることのない書物としての「聖書」がいま私たちの目の前にあるということです。聖書は誰でもどこでも買うことができます。何が書いてあるのか気になる人は、いつでも自分で聖書を開けて確認できるのです。

14節、ことばは人となり私たちの間に住みました。救世主に関する預言を実現するために初めて神さまが肉体を持ち地上に立ったのです。それがイエス・キリストです。イエスのことは「Father’s one and only Son」と書かれていて、ここで強調されているのは「one and only」(ただ一人の)の部分です。また子供の部分には「Son」という単語をあてています。イエスを信じる人が神さまの子供になるという場合に使われるのは一般には「God's children」で、「Son」(Sは大文字)が使われるのはイエスについての場合です。

なお聖書の預言によれば、救世主はもう一度地上に戻ってくることになっています。旧約聖書の預言がことごとく実現してイエスが現れたのならば、イエスの再来も預言どおりに実現すると考えるのは普通なのではないかと思います。そのときの様子は本当に本当に悲惨なのですが、それはどこか別の機会に書ければと思います。



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15 John testified about him when he shouted to the crowds, “This is the one I was talking about when I said, ‘Someone is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’”

15 (洗礼者)ヨハネは、この方(イエス)について証言し、群衆に向かって叫んで言いました。「『私の後から来る方がいる。この方は私よりはるかにまさる方である。なぜならこの方は私よりずっと先におられたのだから』と私が言ったのは、まさにこの方のことです。」

16 From his abundance we have all received one gracious blessing after another.

16 この方の豊かさの中から、私たちはみな、恵み多き祝福を次々と受けたのです。

17 For the law was given through Moses, but God’s unfailing love and faithfulness came through Jesus Christ.

17 というのは、律法はモーゼを通して与えられましたが、神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れたのです。

18 No one has ever seen God. But the unique One, who is himself God, is near to the Father’s heart. He has revealed God to us.

18 いまだかつて神を見た者はいません。ですが、ご自身が神であるただひとりの方が、父(なる神)の心の近くにいるのです。この方が私たちに神を明らかにされたのです。



The Testimony of John the Baptist

洗礼者ヨハネの証言


19 This was John’s testimony when the Jewish leaders sent priests and Temple assistants from Jerusalem to ask John, “Who are you?”

19 ユダヤの指導者たちがエルサレムから祭司と寺院の者を送り、洗礼者ヨハネに「あなたは誰なのですか」とたずねさせたときのヨハネの証言はこうでした。

20 He came right out and said, “I am not the Messiah.”

20 ヨハネはまっすぐに出てきて言いました。「私は救世主ではありません。」

21 “Well then, who are you?” they asked. “Are you Elijah?” “No,” he replied. “Are you the Prophet we are expecting?” “No.”

21 彼らはたずねました。「では、いったいあなたは誰なのですか。あなたはエリヤですか。」よはねは答えました。「いいえ、違います。」「あなたは我々が待ち望むあの預言者なのですか。」「いいえ、違います。」

22 “Then who are you? We need an answer for those who sent us. What do you have to say about yourself?”

22 「だったらあなたは誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事を持ち帰らなければならないのです。あなたは自分自身を何だと言われるのですか。」

23 John replied in the words of the prophet Isaiah: “I am a voice shouting in the wilderness, ‘Clear the way for the Lord’s coming!’”

23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉をもって答えました。「私は、『道を整えよ、主が来られる』と荒野で叫ぶ声です。」



[解説]

17節、モーゼは旧約聖書の律法五書である「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Levitecus(レビ記)」「Nubmers(民数記)」「Derteronomy(申命記)」の記述者とされ、これらの本にはTen Commandments(十戒)に代表される神さまがユダヤの民に与えた律法(法律・規則)が書かれています。こう言うと「六法全書」のような法律書を想像される方が多いと思いますが、旧約聖書のこの部分は物語として書かれていますので印象はだいぶ異なります。私は「Derteronomy(申命記)」は聖書の中でも大好きな本のひとつです。

またここでは「神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れた」とありますが、他の場所でイエスは自分は律法を成就あるいは完成させるために来たというようなことを言っています。これはどういうことでしょうか。法律は条文を読むときに制定者の意図を考えないと適切な遵守ができません。たとえば法律は「これこれの手続きをとれば離婚が成立する」と定めますが、この法律が存在することと「離婚」そのものが法の制定者の意図であったかは別のことです。夫婦は本来最初から別れるために結びついたわけではありませんが、もし人がその結婚の意図や意味を理解できないのなら事が穏便に済むように、言うならば「仕方なく」離婚の手続きを定めたということなのかも知れません。

イエスはモーゼが神さまから預かってユダヤの民に伝えた律法について、その後ろにある神さまの意図を具現化した人として地上に現れました。神さまは最初に「ことば」としての律法をモーゼを通じて人々に示し、今度はその「ことば」を人格化して具体的なひとりの人として人々に示したのです。つまり「ことば」が人となったのです。当時のエルサレムで政治的に大きな力を持っていたファリサイ派は律法の拡大解釈をたてにこの後イエスを追いつめようとするのですが、神さまが定めた律法の意図である、慈悲、愛、誠、許しの視点から発言するイエスの言葉には周囲の聞き手を十分に納得させる権威があり、人々は「こんな話はきいたことがない」とイエスへの支持を強めていきます。

18節、イエスの権威はイエス自身が神であり律法を定めた神さまのもとから来たからこそ備わっているものなのです。

19節、エルサレムから洗礼者ヨハネのもとへ派遣されたのがそのファリサイ派から出ていたことは24節に書かれています。この出来事の場所は28節にベタニヤだと書かれています。このベタニヤはエルサレム郊外のベタニヤとは別の場所のようで、エルサレムから東へ15kmほど行きヨルダン川が死海へ注ぎ込む少し北を東へわたったあたりです。ファリサイ派から派遣されたのは祭司と寺院で働く人たちですが、これはユダヤの部族の中ではレビ人に属する人たちになります。レビ人は律法五書の中で神さまが自分ための仕事をする部族として特別に選んだ部族で、エルサレムでは宗教上の指導者として尊敬を集めていました。恐らくヨルダン川の東に何やら人を集めてバプテスマを与えている者がいるという噂を聞いて、いったい何が言われ何が行われているのかをチェックしに来たのでしょう。

20〜23節のやりとりは、次のような旧約聖書の預言に基づいています。Deuteronomy 18:15(申命記18章15節)で、モーゼは「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」([新改訳])と言っています。これが「あの預言者」です。Malachi 4:5-6(マラキ書4章5〜6節には「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])と書かれており、これが「あなたはエリヤですか」の問いの意味です(洗礼者ヨハネの外観や服装は旧約聖書に描かれた預言者エリヤに酷似していました)。そして救世主(メシア)です。イスラエルに救世主が現れることは旧約聖書の何カ所かで預言されています。この三つの可能性を検証しに使節団はエルサレムから来たのでした。

これに対するヨハネの答は、私は『道を整えよ、主が来られる』と荒野で叫ぶ声ですでした。これはIsaiah 40:3-5(イザヤ書40章3〜5節)に書かれている言葉です。やはり[新改訳]で見てみましょう。

3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」

ヨハネは自分が誰なのかを問われてそれには答えず、ただ自分が来た目的を旧約聖書から引用して答えました。つまり救世主の先駆者として道を整える自分の到来も旧約聖書に預言されているのですよと告げたのです。



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24 Then the Pharisees who had been sent

24 彼らはファリサイ派の人たちから遣わされたのでした。

25 asked him, “If you aren’t the Messiah or Elijah or the Prophet, what right do you have to baptize?”

25 彼らはたずねました。「あなたが救世主でもなく、エリヤでも、あの預言者でもないのなら、何の権限であなたはバプテスマ(洗礼)を授けているのですか。」

26 John told them, “I baptize with water, but right here in the crowd is someone you do not recognize.

26 ヨハネは言いました。「私は水でバプテスマを授けますが、ちょうどあなた方群衆の中に、あなた方の知らない方がおられます。

27 Though his ministry follows mine, I’m not even worthy to be his slave and untie the straps of his sandal.”

27 その方の活動は、私の活動に続くことになるのですが、私はその方の召使いとなる価値もないし、その方のサンダルの紐を解く価値もないのです。」

28 This encounter took place in Bethany, an area east of the Jordan River, where John was baptizing.

28 この出会いは、ヨルダン川の東岸川のベタニヤでの出来事です。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのです。



Jesus, the Lamb of God

イエス、神さまの子羊


29 The next day John saw Jesus coming toward him and said, “Look! The Lamb of God who takes away the sin of the world!

29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方へ来られるのを見て言いました。「見なさい。世の中の罪を取り除く神さまの小羊です。

30 He is the one I was talking about when I said, ‘A man is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’

30 この方こそ、私が、私の後から来る人がいる、その方は私よりはるかにまさる方である、なぜならその方は私より先におられたからだ、と言った人です。

31 I did not recognize him as the Messiah, but I have been baptizing with water so that he might be revealed to Israel.”

31 私はこの方が救世主とは知りませんでした。しかし私が水でバプテスマを授けていたのは、この方がイスラエルに明らかにされるためだったのです。」

32 Then John testified, “I saw the Holy Spirit descending like a dove from heaven and resting upon him.

32 ヨハネは証言して言いました。「私は聖霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまるのを見ました。

33 I didn’t know he was the one, but when God sent me to baptize with water, he told me, ‘The one on whom you see the Spirit descend and rest is the one who will baptize with the Holy Spirit.’

33 私にはこの方がそうだとは知りませんでしたが、神さまが水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされたとき、次のように私に言われました。『ある人の上に聖霊が降りてきて、とどまるのが見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』

34 I saw this happen to Jesus, so I testify that he is the Chosen One of God.”

34 私はそれがイエスに起こるのを見たのです。だから私は証言します。この方こそが、神さまに選ばれた方であると。」



[解説]

洗礼者ヨハネはその名の通り人々に洗礼(バプテスマ)を授けていたのでした。バプテスマを受けたいという人と共にヨルダン川に入っていきその人を一度水の中に水没させる、そんな儀式です。当時エッセネ派と呼ばれる人たちがいて、ユダヤ主義の中でも特に厳格で禁欲的な派として知られていました。このエッセネ派は「浄化」「清め」の目的でバプテスマの儀式を行っていました。が、バプテスマを授ける対象は普通はユダヤ人でない人で、もし異国人がユダヤ主義に改宗したいと表明したときに汚れた存在である異国人を清めるためにバプテスマを授けていたのでした。

25節でファリサイ派から派遣された人たちがたずねたのは、どうして清める必要のない、つまり生まれつき清いユダヤ人にわざわざバプテスマを授けるのかという意図です。さらに言えば、神さまから選ばれた清い民であるユダヤ人にバプテスマを授けるなどという畏れ多い儀式を行うとは、そんな権威をいったい誰から得たのかと批判しているのです。

26〜27節、ヨハネの答は「私は水でバプテスマを授けているが、私の後からもっと偉大な人が現れる」という内容でした。自分は水でバプテスマを授けるという象徴的な儀式をして、ただ後に備えて準備をしているにすぎず、真の意味で罪を清める権威を持った救世主は自分の後から来ると言うのです。

27節でヨハネは自分はイエスのサンダルの紐を解く価値もないと言っていますが、一方のイエスが洗礼者ヨハネのことを評価した箇所がLuke 7:28(ルカの福音書7章28節)にあります。ここには「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」([新改訳])と書かれていて、ヨハネはこれまでに生まれた人間の中で誰よりも一番優れているというのです。なんというほめ言葉でしょうか。でもイエスの言葉にはさらに続きがあって、そこには「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と書かれています。これは地上にいる人間は神さまから見ればどの人も等しく汚れた存在であり、その意味ではそれほど優れたヨハネさえそのままでは神聖な神の国(天国)には入れないと言うことです。ではどうしたら人は天国に入れていただけるのでしょうか。その方法はヨハネの福音書を読んでいくうちにたびたび登場しまし、それを伝えるのがヨハネの福音書の目的なのです。

28節、以前書いたようにこのベタニヤはエルサレム郊外でマリヤとマルタの姉妹が住んでいたベタニヤとは別の場所で、エルサレムから東へ15kmほど行ってヨルダン川を東へわたったあたりです。

29節、ヨハネが群衆の前でイエスを指さして「神の羊」と言います。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人にとっての羊は「いけにえ」に捧げられる動物です。毎朝、毎夕、エルサレムの寺院では羊がいけにえとして捧げれます(儀式に沿って殺し燃やし尽くします)。これはモーゼの律法書に定められた法律で神聖な神さまに対する自分の「汚れ」については、その代償を支払うために繰り返し羊の「命」が捧げられなければならないと定めています。

旧約聖書はイエス・キリストを指し示す、と言われますが、旧約聖書に書かれた律法や預言はことごとく救世主としてのイエスが成就する事柄の「型」(英語では「antitype」と言います)になっています。光としての救世主イエスの「影」が旧約聖書に書かれていると言う人もいます。旧約聖書の中にイエスが地上に現れる700年近く前に記述された「イザヤ書」という預言書があり、その中に救世主について記述した箇所があります。53章は全体が救世主についての記述なのですが、その中でIsaiah 53:7(イザヤ書53章7節)には「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」([新改訳])と書かれています。神さまが用意した人間救済の計画は、最後の完璧ないけにえとして神さまであるイエスを人として地上に立たせ、このイエスの命を奪うことで人の汚れを完全にぬぐい去る、罪に対する支払いを完了させる、というものでした。だからイエスは「神の羊」と呼ばれるのです。

イエスは洗礼者ヨハネのバプテスマを受けました。たとえばMatthew 3:13(マタイの福音書3章13節)からそのときの様子が詳しく書かれていますが、ヨハネは最初は立場が逆である(自分こそイエスのバプテスマを受けなければいけない存在なのに)と拒絶します。しかしイエスが「正しいことをすることがふさわしい」と言うのでヨハネはイエスにバプテスマを授けました。するとそのとき天が開いて神さまの霊が鳩のように下ってきてイエスの上にとどまり、さらに天からは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言う声が聞こえたのです。32節から書かれているのはこのときのことです。

33節、ヨハネが告げられていた言葉の中ではイエスのことを「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方」と言っています。Matthew 3:11-12(マタイの福音書3章11節)ではやはりヨハネが「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新改訳])と言っています。ヨハネは「水」でバプテスマを授け(これは救世主のために道を整えていた象徴的な儀式ですが)、イエスは「聖霊」と「火」のバプテスマを授けるのです。「聖霊のバプテスマ」はActs 2(使徒の働き2章)に書かれています。イエスが十字架死の三日後に復活し天に戻ってから七週間後、イエスを信じる人たちのところに聖霊が現れひとひとりの信者に宿りました。イエスが現れて後はこうしてイエスを信じる人ひとりひとりに聖霊が与えられるのです。これが聖霊のバプテスマです。「火のバプテスマ」はイエスの再来のときに起こります。つまりまだ実現しておらず、これからこの世の中に起こることで、聖書の中でいくつかの場所にそのときの様子が預言されています。マタイから引用したようにそのときのイエスは福音書に書かれたイエスの印象とはまったく異なります。王として戻るイエスは麦と殻を分けて(何かの基準で人を選り分けて)麦は大切に蔵に納め、殻を消えることのない火で焼き尽くすのです。



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The First Disciples

最初の弟子


35 The following day John was again standing with two of his disciples.

35 その翌日、(洗礼者)ヨハネは、再び二人の弟子とともに立っていました。

36 As Jesus walked by, John looked at him and declared, “Look! There is the Lamb of God!”

36 イエスが歩いて通りかかると、ヨハネはそれを見て言いました。「見なさい。神さまの小羊です」。

37 When John’s two disciples heard this, they followed Jesus.

37 二人の弟子はこれを聞いて、イエスについて行きました。

38 Jesus looked around and saw them following. “What do you want?” he asked them. They replied, “Rabbi” (which means “Teacher”), “where are you staying?”

38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言いました。「何を求めているのですか。」彼らは言いました。「ラビ("先生"の意味)、どちらにお泊まりですか。」

39 “Come and see,” he said. It was about four o’clock in the afternoon when they went with him to the place where he was staying, and they remained with him the rest of the day.

39 イエスは言いました。「一緒に来て見ればよい。」 それは午後四時頃のことで、彼らはイエスが泊まっているところまで行ったのでした。そして彼らはその日をイエスと共に過ごしました。

40 Andrew, Simon Peter’s brother, was one of these men who heard what John said and then followed Jesus.

40 シモン・ペテロの兄弟アンデレがこの二人のうちの一人で、ヨハネから聞いてイエスにについて行きました。

41 Andrew went to find his brother, Simon, and told him, “We have found the Messiah” (which means “Christ”).

41 アンデレはシモンを探しに行って告げました。「私たちはメシヤ("救世主"の意味)を見つけた。」

42 Then Andrew brought Simon to meet Jesus. Looking intently at Simon, Jesus said, “Your name is Simon, son of John -- but you will be called Cephas” (which means “Peter”).

42 アンデレはシモンをイエスに会わせるために連れて来ました。イエスはシモンを熱心に見て言いました。「あなたの名前はヨハネの子シモンですが、ケパ("ペテロ"の意味)と呼ぶことにします。」

43 The next day Jesus decided to go to Galilee. He found Philip and said to him, “Come, follow me.”

43 翌日、イエスはガリラヤに行くことを決めました。ピリポを見つけると言いました。「私に着いて来なさい。」

44 Philip was from Bethsaida, Andrew and Peter’s hometown.

44 ピリポはベツサイダの出身で、アンデレとペテロと同じ町の出身でした。

45 Philip went to look for Nathanael and told him, “We have found the very person Moses and the prophets wrote about! His name is Jesus, the son of Joseph from Nazareth.”

45 ピリポはナタナエルを探しに行き、彼に告げました。「私たちは、モーゼや預言者が記述した、まさしくその人物を見つけました。名前はイエス、ナザレの人で、ヨセフの子です。」

46 “Nazareth!” exclaimed Nathanael. “Can anything good come from Nazareth?” “Come and see for yourself,” Philip replied.

46 「ナザレだって?」ナタナエルは声を上げました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」ピリポは答えて言いました。「来て、自分の目で見なさい。」

47 As they approached, Jesus said, “Now here is a genuine son of Israel -- a man of complete integrity.”

47 二人が近づいてくると、イエスは言いました。「さぁ、真のイスラエルの息子が来ました。完全な誠実さを持った人です。」

48 “How do you know about me?” Nathanael asked. Jesus replied, “I could see you under the fig tree before Philip found you.”

48 ナタナエルはたずねました。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えました。「ピリポがあなたを見つける前に、私にはあなたがいちじくの木の下にいるのが見えましたから。」

49 Then Nathanael exclaimed, “Rabbi, you are the Son of God -- the King of Israel!”

49 ナタナエルは声を上げました。「先生、あなたは神の子、イスラエルの王です。」

50 Jesus asked him, “Do you believe this just because I told you I had seen you under the fig tree? You will see greater things than this.”

50 イエスがたずねました。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、と私が言ったから、あなたは信じるのですか? あなたはこれから、もっと大きなことを見ることになります。」

51 Then he said, “I tell you the truth, you will all see heaven open and the angels of God going up and down on the Son of Man, the one who is the stairway between heaven and earth.”

51 そしてイエスは言いました。「あなた方に真実を告げましょう。あなた方は、天が開き、神さまの天使たちが人の子の上を上り下りするのを見ることになります。人の子は、天と地をつなぐ階段なのです。」



[解説]

ここに書かれているのはイエスに最初に着いていった弟子たちの様子です。イエスは洗礼者ヨハネの洗礼を受けヨハネから「神さまの子羊」と呼ばれた後に最初の弟子を持ちました。ここに登場するアンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルは、後に弟子たちの中から特に12人の使徒(apostle)として選ばれる人たちです。ピリポ、アンデレ、ペテロはベツサイダ出身と書かれています。ヨハネが洗礼を授けていたのは死海の北岸の少し上のあたりでしたが、ベツサイダはそこから100kmほど北へヨルダン川を遡ったところにあるガリラヤ湖の北岸の港町です。40節を読むとアンデレともう一人は洗礼者ヨハネの弟子だったと書かれていますから、つまり彼らはわざわざ100km以上も離れた町から死海の辺りまで来て洗礼者ヨハネと共にいたことになります。イスラエルの都エルサレムは緯度的には死海の北岸とほぼ同じ位置にありますから100km北にある田舎町から南の都へ上ってきて、洗礼者ヨハネのメッセージを聞きヨハネの弟子になっていたというところでしょうか。

この頃やはりイエスの弟子として加わったのがヨハネの福音書を記述したヨハネとその兄弟のヤコブですがその様子はここには書かれていません。ですのでアンデレと一緒にいたもう一人はヨハネではないかと思われます。この二人は洗礼者ヨハネが「神さまの子羊に着いて行きなさい」と指し示す形で自分の師を洗礼者ヨハネからイエスに変えたのでした。ところがイエスが最初に二人にかけた言葉は「What do you want?」です。端的に訳すと「何の用だ?」で、英会話ではどちらかと言うと「あっちへ行け」に近いニュアンスに聞こえます。興味深いです。きちんと理由を言えないような人はやたら着いてきても困ると言うのでしょうか。それに対して二人は明確には答えず、「どちらにお泊まりですか」と食い下がります。イエスになんとか着いていきたいという一心なのでしょうか。

40節、アンデレが兄弟のペテロを探しに行き「メシアを見つけた!」と告げます。アンデレは短期間でイエスが救世主だと確信しそれをペテロに告げたのです。ペテロはこの後、聖書の中で大変重要な役割を果たしますが、そのペテロをイエスに引き合わせたのは兄弟のアンデレだったということです。

42節、イエスはペテロと出会い新しい名前を授けました(ペテロは、イエスに呼ばれるまではシモンだったのです)。「ペテロ」はギリシア語、「ケパ」はアラム語で「石」の意味です。イエスはアラム語を話していたようです。聖書に登場する人名や地名には必ずこういう「意味」があり、物語の展開と少なからぬ関係を持ちます。また人名や地名をつけたり、つけ直したりする場面も多数存在します。ペテロはイエスが十字架死を遂げるまでは決して「石」のような存在ではないのですが、イエスが復活して天に戻った後で最初の教会の中で「石」のような確固たる存在となって行きます。神さまは「時間」という軸に縛られないと言われますが、イエスはこの時点でそのときのペテロをすでに見ているのです。

ピリポは知り合いのナタナエルを連れてきます。ナタナエルが最初に言った言葉「ナザレだって? ナザレから何か良いものが出るとでも言うのか?」の理由は、まずナザレがエルサレムから北へ100kmも離れた田舎にあること、当時は恐らく人口数百人程度の小さな村であったこと、さらには憎き統治国であるローマ帝国の部隊が駐屯していたことなどから来ていると思われます。それにしてもそれをわざわざ口に出して言うかという問題は残ります。つまりナタナエルはズケズケとこういう発言をする人で、イエスも「完全な誠実さを持った人」と言っていますから正しいと思うことを臆面なくズバリ言う人だったはずで、もしかすると周囲の人からは煙たがられるようなそんな人だったのかなと思います。その正直で率直なナタナエルに対してイエスは「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」「真のイスラエルの息子」と理解を示す言葉をかけました。ナタナエルはようやく自分を理解してくれる師に巡り会えた、そんな気持ちになったのかも知れません。

51節、イエスがもっとすごいことを見るとして挙げたのが「あなた方は、天が開き、神さまの天使たちが人の子の上を上り下りするのを見る」です。実はこの一節はGenesis(創世記)の中でアブラハムの孫ヤコブが見た夢として登場します(Genesis 28:12/創世記28章12節)。イエスは本当に自分の頭の上に天使が物理的に現れると言っているのでなくて、自分はやがて神さまと人をつなぐ階段の役目を果たすことになると聖書の一節を引用しながら告げていると思われます。



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