ヨハネの福音書の目次

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ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第13章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus Washes His Disciples’ Feet

イエスが弟子たちの足を洗う


1 Before the Passover celebration, Jesus knew that his hour had come to leave this world and return to his Father. He had loved his disciples during his ministry on earth, and now he loved them to the very end.

1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のもとへ帰る、そのための自分の時間が来たことを知りました。イエスは地上での活動の間、弟子たちを愛して来ましたが、いまここに至り、イエスは弟子たちを最後の最後まで愛されたのでした。

2 It was time for supper, and the devil had already prompted Judas, son of Simon Iscariot, to betray Jesus.

2 それは夕食の時間で、悪魔はすでに、イスカリオテ・シモンの子のユダに対して、イエスを裏切るようにと仕向けていました。

3 Jesus knew that the Father had given him authority over everything and that he had come from God and would return to God.

3 イエスは、父がイエスにあらゆる物に対する権限を与え、自分が神から来て、神のもとへ帰る、ということを知っていました。

4 So he got up from the table, took off his robe, wrapped a towel around his waist,

4 そこでイエスはテーブルの席から立ち上がり、外衣を脱ぎ、腰にタオルを巻きました。

5 and poured water into a basin. Then he began to wash the disciples’ feet, drying them with the towel he had around him.

5 それから、たらいに水を入れました。そしてイエスは弟子たちの足を洗い、腰に巻いたタオルでふき始めました。

6 When Jesus came to Simon Peter, Peter said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”

6 イエスがシモン・ペテロのところへ来ると、ペテロがイエスに言いました。「主よ、私の足を洗ってくださるのですか。」

7 Jesus replied, “You don’t understand now what I am doing, but someday you will.”

7 イエスが答えました。「今は、あなたは、私がしていることが理解できません。ですが、いつかわかるときが来ます。」

8 “No,” Peter protested, “you will never ever wash my feet!” Jesus replied, “Unless I wash you, you won’t belong to me.”

8 ペテロが反論しました。「だめです。私の足を決して洗わないでください。」イエスは答えました。「もし私があなたを洗わないと、あなたは私のものではなくなります。」

9 Simon Peter exclaimed, “Then wash my hands and head as well, Lord, not just my feet!”

9 シモン・ペテロは声をあげました。「それなら私の手も頭も同じように洗ってください。主よ、私の足だけでなくて。」

10 Jesus replied, “A person who has bathed all over does not need to wash, except for the feet, to be entirely clean. And you disciples are clean, but not all of you.”

10 イエスは答えました。「完全に清くなるためには、全身を洗った者は、足以外は洗う必要がありません。あなた方弟子は清いのです。ただしあなた方全員ではありませんが。」

11 For Jesus knew who would betray him. That is what he meant when he said, “Not all of you are clean.”

11 それは、イエスは誰がイエスを裏切るのか知っていたからです。イエスが「あなた方全員が清いわけではない」と言ったときに意味したのはそのことです。

12 After washing their feet, he put on his robe again and sat down and asked, “Do you understand what I was doing?

12 弟子たちの足を洗い終えると、イエスは再び外衣を着て席に着き、たずねました。「私がしていることが理解できますか。

13 You call me ‘Teacher’ and ‘Lord,’ and you are right, because that’s what I am.

13 あなた方は私を『先生』や『主』と呼びます。それは正しいことです。なぜなら私はそのような者だからです。

14 And since I, your Lord and Teacher, have washed your feet, you ought to wash each other’s feet.

14 そして、主であり先生である私が、あなた方の足を洗ったのですから、あなた方も、互いに足を洗い合うべきです。

15 I have given you an example to follow. Do as I have done to you.

15 私はあなた方が真似するようにと例を示したのです。私があなた方にしたように、あなた方もしなさい。

16 I tell you the truth, slaves are not greater than their master. Nor is the messenger more important than the one who sends the message.

16 本当のことを言います。奴隷は主人より偉大ではありません。使いの者は、使いの言葉を頼んだ人より偉大ではありません。

17 Now that you know these things, God will bless you for doing them.

17 いま、あなた方はこれらのことを知っているのですから、あなた方がそれを行えば、神さまはあなた方を祝福します。



[解説]

いよいよイエスの十字架が近づくとイエスは最後の最後に弟子たちに最大の愛を示します。それがイエスが弟子たちの足を洗う場面です。2節によるとこの時点で「悪魔はユダに対してイエスを裏切るようにと仕向けていた」とあります。悪魔は人に悪を行うようにつまり神さまをガッカリさせることを人間にさせようと実に巧妙に人を誘い、そのようにし向けるのです。その誘いに乗ってしまうか抵抗して拒絶するかはそれぞれの人の選択なのです。

聖書にはサタンが神さまの前に進み出てある人を誘惑することの許諾を得る場面がひとつと(これはイエスの時代を1500年もさかのぼる記述です)、イエス本人がそのこと(サタンが許諾を得たこと)について言及する場面がひとつあります。つまりサタンの誘惑さえ神さまの許諾の元に行われているということです。これに対し1 Corinthians 10:13(コリント人への手紙第1 第10章13節)には「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります([新解訳])。どのような試練でもそれはみな全知全能の神さまの管理下にあってその人に耐えられないほどの厳しさには作られていないし、脱出の道も同時に備えられているというのです。神さまはときにはサタンや悪魔さえ使って人に試練を与え人がそれをどのように受け止めるかを見ているということです。

イエスはひとりひとり弟子たちの足を洗っていきます。当時の習慣では外出の際にはサンダルを履いていて、このため外出から戻ると足は土埃で汚れます。来客が来たときにその人の足を洗って迎えるのはその家に仕える召使いの仕事でした。イエスは弟子たちの師でありながら最下層の奴隷のように振る舞って自ら腰にタオルを巻いて弟子たちの足を洗って濡れた足を拭っていきます。これでは立場がまったく逆です。天地と人間を創造した神さまが肉体を持って地上に降りたのがイエスです。そのイエスが自分から人間の足を洗うと言う手本を示したのだから、私たちイエスを信じる者も自分を召使いと考えて進んで人に仕えなければなりません。またそうやって人に仕える理由はその人に奉仕するためなのではなく、主である神さまを喜ばせ自分たちの奉仕する姿が神さまに栄光をもたらすためであるべきです。自分の奉仕する姿を客観的に観察してみて自分の動機がどこにあるのか、誰の目の中に正しく映るようにと考えているのか自問してみるのは良いと思います。聖書の中では人はいつも神さまの目に正しく映ることよりも自分の正しいと思う道を選んで神さまをガッカリさせてしまうからです。たとえば新約聖書に登場するユダヤの指導者たちは聖書の律法を忠実に守ることが神さまを喜ばせると信じていましたが、イエスからは表面だけを取り繕う偽善者と呼ばれました。

8節でペテロは師であるイエスに自分の足を洗わせることができずに抗いますが、イエスは「もし私があなたを洗わないと、あなたは私のものではなくなります」と言い、さらにならば全身を洗ってくれというペテロに「完全に清くなるためには、全身を洗った者は、足以外は洗う必要がありません。あなた方弟子は清いのです」と言います。「洗う」という行為は「汚れを落とす」行為です。たとえば洗礼者ヨハネはヨルダン川で改心を表明した人に洗礼を施しましたが、ユダヤの指導者がこれを見て怒ったのはユダヤ人はアブラハムの子孫である時点で神さまから選ばれた民族として清いのだからどうしてわざわざ洗い清める必要があるのかと怒ったのです。イエスが弟子たちに「あなた方弟子は清いのです」と言ったのは、自分の罪、汚れを認めて救世主であるイエスへの信仰を告白した時点で「清い」、神さまの前では「正しい」と評価されると言う意味です。だから形式的に水で洗うことなどには意味はないのです。

ただしイエスはそれでも足だけは互いに洗えと言います。ここの解釈は難しいですが、サタンの支配する地上に生きる以上イエスを信じて「清い」「正しい」と言われた人でさえ世の中と関わる間に汚れてしまう、油断をすれば心の隙をついてくるサタンの罠に落ちてしまう、だから世の中と接して汚れる足を互いに洗えと言っているのではないかと解釈します。具体的には信じる者たちが会って励まし合い、共に祈り、聖書を読んで神さまを褒め称えなさいということです。

他の弟子たちは困惑しながらもイエスに足を洗わせているのにペテロはこうしてわざわざ口に出して場面を作ります。ペテロは何度も自分の口と身体で試行錯誤を繰り返してイエスに近づいていく人のお手本だと思います。ペテロはすごい使徒と考えがちですが、ペテロの登場するシーンを順番に見ていくとこれで良いのだなと納得させられます。



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Jesus Predicts His Betrayal

イエスが裏切りを予告する


18 “I am not saying these things to all of you; I know the ones I have chosen. But this fulfills the Scripture that says, ‘The one who eats my food has turned against me.’

18 私はこれらのことを、あなた方全員に言っているのではありません。私は自分が選んだ者たちを知っています。しかしこのことが、聖書に『私の食べ物を食べる者が、私にそむいた』と書かれている部分を成就させるのです。

19 I tell you this beforehand, so that when it happens you will believe that I Am the Messiah.

19 私はこのことをあらかじめあなた方に言っておきます。そうすれば、それが起こるとき、あなた方は私が救世主だと信じるでしょう。

20 I tell you the truth, anyone who welcomes my messenger is welcoming me, and anyone who welcomes me is welcoming the Father who sent me.”

20 本当のことを言います。私の遣わす者を歓迎する者は、私を歓迎しているのです。そして私を歓迎する者は、私を遣わした父を歓迎しているのです。」

21 Now Jesus was deeply troubled, and he exclaimed, “I tell you the truth, one of you will betray me!”

21 それからイエスは深く苦しんで、声を大きくしました。「本当のことを言います。あなた方の一人が、私を裏切ります。」

22 The disciples looked at each other, wondering whom he could mean.

22 弟子たちは、イエスが誰のことを言ったのかと思いめぐらして、互いに顔を見合わせました。

23 The disciple Jesus loved was sitting next to Jesus at the table.

23 イエスが愛していた弟子が、テーブルでイエスの隣に座っていました。

24 Simon Peter motioned to him to ask, “Who’s he talking about?”

24 シモン・ペテロがその弟子に、「イエスが誰のことを言っているのか」、たずねるようにと合図を送りました。

25 So that disciple leaned over to Jesus and asked, “Lord, who is it?”

25 そこでその弟子は、イエスの方へもたれかかり、たずねました。「主よ、それは誰ですか。」

26 Jesus responded, “It is the one to whom I give the bread I dip in the bowl.” And when he had dipped it, he gave it to Judas, son of Simon Iscariot.

26 イエスは答えました。「それは、私がパンを鉢に浸して与える者です。」 それからイエスはパンを浸し、イスカリオテ・シモンの子ユダに与えました。

27 When Judas had eaten the bread, Satan entered into him. Then Jesus told him, “Hurry and do what you’re going to do.”

27 ユダがそのパンを食べると、サタンが彼に入りました。そこでイエスはユダに言いました。「急ぎなさい。あなたがしようとしていることをしなさい。」

28 None of the others at the table knew what Jesus meant.

28 テーブルに着いている他の者たちは、イエスが何を言っているのか、わかりませんでした。

29 Since Judas was their treasurer, some thought Jesus was telling him to go and pay for the food or to give some money to the poor.

29 ユダは弟子たちの会計係だったので、イエスが食べ物の支払いに行くように、あるいは、貧しい人々にいくらかのお金を与えるように、言ったと考えた者もいました。

30 So Judas left at once, going out into the night.

30 そこでユダはすぐに、夜の中へ出て行きました。



[解説]

18節、ここでイエスは自分が手本を示した話はテーブルに着いている全員に対して話しているのではないのだと言います。実は弟子たちの中には「例外」の人物が含まれていて、さらにその人がテーブルに着いているのにも理由があり、それは旧約聖書に書かれている『私の食べ物を食べる者が、私にそむいた』を預言として成就させるためだと言います。これはPsalms 41:9(詩編第41章9節)でダビデ王が自分の敵について読んだ歌の中で「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」([新解訳])と書かれている部分のことです。

19〜20節と話は続きますがイエスの話は何だか遠回りで何を言おうとしているのかはっきりとしません。ですがイエスはいつもこうやってたとえ話を用いるので弟子たちは何のことなのだろうといつものように思案していたのではないでしょうか。

ところが21節でイエスははっきりと「あなた方の一人が、私を裏切ります」とショッキングなことを言います。弟子たちはイエスが何を言い出すのか、それは誰のことなのかと互いの顔を見合わせます。

23節、「イエスが愛していた弟子が、テーブルでイエスの隣に座っていました」と書かれている「イエスが愛していた弟子」とはヨハネの福音書を書いたヨハネのことです。ヨハネはイエスの隣に座っていたのです。

24節、席が離れているペテロはヨハネに(恐らくこっそりと)合図を送って「誰のことを言われているのか、イエスから聞き出せ」と指令を出します。使徒たちの中では恐らくペテロが年長でリーダ的役割を果たしてきていて、ペテロとアンデレの兄弟とヨハネとヤコブの兄弟はガリラヤ湖畔の同じ町の漁師仲間だったので兄貴格のペテロが若いヨハネに指令を送ったのです。

そこで25節、ヨハネはイエスにたずねます。「主よ、それは誰ですか」。

26節で、イエスは「それは私がパンを鉢に浸して与える者です」と答えます。イエスは言うまでもなく弟子たちの師としてこのテーブルの主役です。テーブルの主役格の人が自分のパンを裂いて鉢に浸し客たちのひとりにそれを与える、この行為は当時の習慣では客の中から特別に選ばれる光栄な場面なのでした。そしてイエスは自分のパンを浸し、それをイスカリオテのユダに与えました。少なくともヨハネにはイエスが言った「裏切り者」がユダであることがわかりました。ヨハネがすぐにその場で何かの合図を送ってペテロに伝えたのか、それが食事の後になってしまったのかここには書かれていません。

27節、「ユダがそのパンを食べると、サタンが彼に入りました」とあります。つまりサタンは「人に入れる」のです。何度か説明していますがサタンはもともとは位の高い天使で神さまの地位へ昇ろうとする野望を持って神さまによって点から地上へ落とされました。このときにサタンに味方した天使がすべての天使の1/3いてこの天使たちもサタンと共に地上に落とされて悪魔/悪霊となりました。神さまや天使は私たち人間のような肉体を持ちません。「霊(spirit)」と呼ばれる存在です。人間は「肉体(flesh)」に「魂(soul)」が宿った存在で、「霊」であるサタンや悪魔は人間の肉体に入り憑依して人間に様々な影響を及ぼすことができます。聖書の中にも悪霊に取り憑かれる人間がたくさん登場します。

一方イエスが十字架で死にその三日後に復活し約40日程地上に滞在してから天に戻ると、イエスがかねてから約束していたとおりイエスの代わりに「聖霊(Holy Spirit)」が信者の元へ降りてきます。「聖霊」はイエスを信じる者ひとりひとりに宿りますが、これもやはり聖なる霊が人間に憑依しているのです。父なる神さま、子なるイエス、そして聖霊の三つは三位一体(Trinity)と言って三つの格を持ちながら一つの神さまということなので、聖霊を宿す信者は身体の中に神さまを持っていることになります。

この場面でユダの中に入ったのはサタンと共に天を追われた悪魔や悪霊の一人ではなくサタン本人です。ユダは人間ですから自分にサタンが憑依したことには気づいていないでしょう。ユダは使徒たちの中でお金を管理する会計係をしながらその中から自分のための金を盗んでいたと聖書に書かれています。ユダがイエスに対してどのような気持ちを抱いていたのかそれはわかりませんが、ユダにはサタンの侵入を許す心の隙があったのです。聖書には「誘惑と戦うな。誘惑からは逃げなさい」と書いてあります。自分には自分の欲望や感情をコントロールできる、そう考えて誘惑と戦おうとする人は最後には負けてしまう、だから誘惑とは戦わないで逃げなさいと教えています。ユダは自分の心の中のお金に対する欲望を捨てずに育て上げ、仲間の金に手を出して隠していたのでした。サタンはそういう人間の心の闇につけ込むのです。また聖書には「世の中に光が現れたとき、人々は光よりも闇を愛した」とも書かれています。どんな人にも心の闇はあります。自分の前に光が現れたとき闇と決別して光に向かうか、光よりも闇を愛するか、それを選ぶのは人間です。ユダはイエスと出会った後も光に向かうことよりも闇の中にとどまることを選んでやはりサタンにつけいる隙を与えたのです。

27節の続きで、イエスがユダに「急ぎなさい。あなたがしようとしていることをしなさい」と告げるとユダは夜の闇の中へ出ていきます。



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Jesus Predicts Peter’s Denial

イエスがペテロの拒絶を予告する


31 As soon as Judas left the room, Jesus said, “The time has come for the Son of Man to enter into his glory, and God will be glorified because of him.

31 ユダが部屋を出て行くとすぐに、イエスは言いました。「人の子が栄光へ入り、神さまが人の子によって栄光を受ける、そのときが来ました。

32 And since God receives glory because of the Son, he will soon give glory to the Son.

32 神さまは人の子によって栄光を受けるので、神さまも、すぐに人の子に栄光を与えるのです。

33 Dear children, I will be with you only a little longer. And as I told the Jewish leaders, you will search for me, but you can’t come where I am going.

33 愛する子どもたち、私があなた方と共にいるのは、もうほんのしばらくの間だけです。ユダヤの指導者たちに私が言ったように、あなた方は私を捜すでしょうが、あなた方は私が行くところへ来ることができません。

34 So now I am giving you a new commandment: Love each other. Just as I have loved you, you should love each other.

34 ですので、私はあなた方に新しい命令を与えます。互いに愛し合いなさい。ちょうど私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うのです。

35 Your love for one another will prove to the world that you are my disciples.”

35 あなた方が互いに示す愛が、世の中に対して、あなた方が私の弟子であることを証明するのです。」

36 Simon Peter asked, “Lord, where are you going?” And Jesus replied, “You can’t go with me now, but you will follow me later.”

36 シモン・ペテロがたずねました。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスは答えました。「あなたは、いまは、私と共には行けません。ですが、後には私について来ます。」

37 “But why can’t I come now, Lord?” he asked. “I’m ready to die for you.”

37 ペテロはたずねました。「なぜいまは行けないのですか、主よ。私はあなたのためなら死ぬ準備があります。」

38 Jesus answered, “Die for me? I tell you the truth, Peter -- before the rooster crows tomorrow morning, you will deny three times that you even know me.

38 イエスが答えました。「私のために死ぬのですか? ペテロよ、本当のことを言います。明日の朝、鶏が鳴くまでに、あなたは私を知っていたことを、三度否定するのです。」



[解説]

ここからはユダがイエスを裏切るために夜の闇の中へ出ていった後の場面です。イエスを取り囲んでテーブルに着いているのは十二使徒からユダが抜けた11人ということになります。イエスが11人へ伝える話はここから17章までまるまる4章以上も続きます(17章は「お祈り」)。私はこの部分こそがヨハネが一番書きたかったこと世の中に伝えたかったことなのではないかと思います。この部分はイエス本人の言葉による「本当の話」と「約束」にあたる部分で、私個人はこの部分は何度でも読み返したくなる場所で、読めば必ず勇気と希望が得られます。

31節にあるようにイエスは「ユダが部屋を出て行くとすぐに」話し始めます。サタンは神さまと異なり全知全能ではありませんからここから先はサタンにもユダにも聞かせたくない話ということになるのではないでしょうか。ここから先を読んでいくとイエスはこれから自分に起こることをすべて知っているかのように話します。十字架についてもユダの裏切りについてもペテロによる否定についてもです。また使徒たちはイエスが話す「本当の話」や「約束」についてこの時点では真に理解していたわけではないこともわかります。使徒たちはイエスが捕らえられると散り散りになって逃げ去り、イエスが十字架で処刑されて死んでしまうと嘆き悲しみすっかり落胆してしまいます。しかし後に復活したイエスに会ってイエスが話していたことを順番に思い出してみてイエスが伝えようとしていたことのすべてを理解し納得するのです。

ここはその長い話の導入部です。イエスはいよいよそのときが来た、使徒たちと共にいられるのももうしばらくの間だけ、その後で自分がいくところへは使徒たちは着いてこられないと話し始めます。

34節、イエスは「私はあなた方に新しい命令を与えます」と言いました。その命令とは「互いに愛し合いなさい。ちょうど私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うのです。あなた方が互いに示す愛が、世の中に対して、あなた方が私の弟子であることを証明するのです」です。これは注目です。イエスが使徒たちに直接与えた命令ですからイエスを信じる者はみなこの命令に従わなければならないでしょう。イエスを信じる者たちが互いに愛し合うこと、これはイエスの命令です。「人を愛しなさい」という命令そのものは新しい命令ではなく旧約聖書の時代から律法の中でも伝えられてきました。ですが「イエスが弟子たちを愛したように」愛し合いなさいという命令は新しいものです。イエスの愛は見返りを求めない一方的で包み込む愛であり、正しさや清さと妥協しない厳格でその人への誠意に溢れる愛だからです。そのように愛し合う姿がクリスチャンをイエスの弟子として証明するのだと言います。これを実践することは大変難しい。でもこれがイエスの命令なのです。

36節、ペテロは「主よ、どこへ行かれるのですか」とたずね、イエスが「あなたは、いまは、私と共には行けません。ですが、後には私について来ます」と言うと、37節でペテロは続けて「なぜいまは行けないのですか」とたずねます。心に思ったことをそのまま口に出すペテロらしい発言です。ペテロはイエスが死ぬ覚悟を固めている、イエスは死んでしまうのだから自分たちは「死の先」へは行けない、イエスはそう言っているのだと解釈しているのです。そしてペテロは「主よ。私はあなたのためなら死ぬ準備があります」と大胆に決意を表明します。ですがイエスはこの時点でペテロがその場になると弱気になって逃げ出し、追い詰められると自分を繰り返し否定することさえ知っていたのです。イエスはペテロが自分を否定することを知っていても、ペテロが言った「私はあなたのためなら死ぬ準備があります」がどれほど実現性に乏しいかを知っていても、それを声高に咎めたり非難したりしません。ペテロは嘘をついて言っているのではなくてペテロはイエスが大好きでこのときには心の底からそう思っているのです。ただその場になると行動が伴わない、そういう人なのです。イエスはすべてを知った上で弟子としてのペテロを心の底から愛しているのです。

私たちがお祈りをして神さまに何かを約束するとき、その約束にどれほどの実現性があるか神さまはその時点で知っています。ですが神さまはそれを咎めることはありません。私たちの祈りが誠意に基づいている限り神さまは大きな愛で包み込んでくれるのです。



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