ヨハネの福音書の目次
はじめに |
ヨハネの福音書:第9章 各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。
Jesus Heals a Man Born Blind イエスが生まれつき目の見えない人を癒す 1 As Jesus was walking along, he saw a man who had been blind from birth. 1 イエスが歩いていく途中で、生まれつき目の見えない人に会いました。 2 “Rabbi,” his disciples asked him, “why was this man born blind? Was it because of his own sins or his parents’ sins?” 2 弟子たちがイエスにたずねました。「先生、どうしてこの人は生まれつき目が見えないのですか? この人自身の罪のためでしょうか、あるいは両親の罪のためでしょうか。」 3 “It was not because of his sins or his parents’ sins,” Jesus answered. “This happened so the power of God could be seen in him. 3 イエスが答えました。「それはこの人の罪のせいでもでも、この人の両親の罪のせいでもありません。このことが起こったのは、神さまの力がこの人の中に見えるようにです。 4 We must quickly carry out the tasks assigned us by the one who sent us. The night is coming, and then no one can work. 4 私たちは、私たちを遣わした方によって命じられた仕事を急いで行わなければなりません。夜が来ます。すると誰も働くことができなくなります。 5 But while I am here in the world, I am the light of the world.” 5 ですが私がこの世にいる間は、私が世の光です。」 6 Then he spit on the ground, made mud with the saliva, and spread the mud over the blind man’s eyes. 6 それからイエスは地面につばを吐き、唾液で泥を作りました。そしてその泥を目の見えない人の目に塗りました。 7 He told him, “Go wash yourself in the pool of Siloam” (Siloam means “sent”). So the man went and washed and came back seeing! 7 イエスはその男の人に言いました。「行ってシロアムの池で洗いなさい(シロアムは「遣わされた」の意味)。」 そこでその男は行って洗いました。そして見えるようになって帰って来ました。 8 His neighbors and others who knew him as a blind beggar asked each other, “Isn’t this the man who used to sit and beg?” 8 近所の人たちや、他の人たちで、以前からこの男の人を目の見えない物乞いとして知っていた人たちが互いにたずね合いました。「これはよく座って物乞いをしていた人ではありませんか。」 9 Some said he was, and others said, “No, he just looks like him!” But the beggar kept saying, “Yes, I am the same one!” 9 ある人たちは、そのとおりだ」と言い、他の人たちは、「そうではない。その人に似ているだけだ」と言いました。ですが物乞は「私はその同じ人です」と言い続けました。 10 They asked, “Who healed you? What happened?” 10 人々はたずねました。「誰があなたを癒したのですか? 何が起こったのですか?」 11 He told them, “The man they call Jesus made mud and spread it over my eyes and told me, ‘Go to the pool of Siloam and wash yourself.’ So I went and washed, and now I can see!” 11 彼は人々に話しました。「人々がイエスと呼ぶ男の人が泥を作り、それを私の目に塗って、『行ってシロアムの池で洗いなさい』と私に言いました。そこで私は行って洗いました。そして私はいま見えるのです。」 12 “Where is he now?” they asked. “I don’t know,” he replied. 12 人々はたずねました。「その人はいまどこにいるのですか?」 彼は答えました。「わかりません。」 [解説] John 9(ヨハネの福音書9章)の冒頭の部分は私が個人的に何度も読み返してしまう部分です。それはイエスの弟子たちが確信を突いた質問、どうしてもイエスにきいて欲しかった質問をしてくれているからで、私は質問に対するイエスの答を確認したくて何度も読み返してしまいます。その質問とは2節にある「先生、どうしてこの人は生まれつき目が見えないのですか? この人自身の罪のためでしょうか、あるいは両親の罪のためでしょうか」です。私たちは日常の生活の中で納得できないことや理不尽だと思うことにたくさん出会います。できるなら理由や答を教えて欲しいと思う出来事です。神さまはどうしてこういうことをなさるのか理由が知りたいのです。この場面では弟子たちが生まれつき目の見えない人を指して「どうしてこの人は生まれつき目が見えないのか。その人自身の罪のためか。あるいは両親の罪のためか」とききます。当時のユダヤの人たちは、「災い」が罪の結果として因果関係を持って起こると信じていたようで、だとしたら生まれつき目が見えないというのはどのように説明されるのかそれが知りたかったのです。過去に何かをやったから何か悪いことが起こるのではないか、親や祖先の因果が子に報いているのではないか、こういう考え方は私たち日本人にも通じるものがあります。 3節のイエスの答は、まず「それはこの人の罪のせいでもでも、この人の両親の罪のせいでもありません」と罪による因果関係を完全に否定します。それから「このことが起こったのは、神さまの力がこの人の中に見えるようにです」とイエスは理由を答えています。つまりそこには明確な理由があるのです。ところがその理由「神さまの力がこの人の中に見えるように」というのは大変わかりにくいですね。[新解訳]では「神のわざがこの人に現われるためです」と書いています。こういう解釈に苦しむ句に出会ったときには英文で読んでみると意味がわかったりします。[NLT]では「This happened so the power of God could be seen in him.」、[KJV]では「but that the works of God should be made manifest in him.」とあります。文意は「神さまの力や神さまの働きがその人の「中に(in him)」明白に見えるように」という意味ですね。この人が生まれつき目が見えない理由は「神さまの力や神さまの働きが、その人の中に明白に見えるように」であるとはどういう意味でしょうか。「神さまの力」「神さまのわざ」「神さまの働き」は人の中にどのように現れるのでしょうか。「生まれつき目が見えない」のは、それが起こるための準備のようなものなのでしょうか。 私は今の時点で次のように解釈しています。うまく書けるかどうかわかりませんが書いてみます。イエスに関する福音は人に希望を与えます。どんな希望でしょうか。たとえば神さまは「永遠」を生きている存在ですから、神さまにとっての「時間」は私たちの考える「時間」とは異なるはずです。たとえば私たちは様々な「期限」を決めます。「明日までに」「来月には」「今年中に」「20才になるまでに」「結婚するまでに」「死ぬまでに」。そしてその期限までに達成しなければならない事柄に追われて生きていたりします。しかしもしも「永遠」を生きるとしたら果たして「期限」や「締め切り」はどうなるのでしょうか。またたとえば神さまは「全知全能」の存在です。「在れ」という言葉一つで宇宙を創造できるほどの力を持ち時空を超越してすべてを知っています。たとえば宇宙のすべての星には名前がつけられているようですし、すべての人間の頭髪の本数も知っているそうです。だとしたら神さまには自分の力を試したり誇示したり確認する必要さえないでしょう。 そんな神さまが特別な愛情をこめてわざわざ自分の姿を映して創造したのが人間です。ところがその人間は自分の意志で神さまを裏切り自分の良かれと思う道を求めて離れて行きました。人間は神さまから切り離されて神さまのもとへ戻れない状態に置かれたのです。それなのに神さまは人間が自分の元へ戻るための道をわざわざ用意してくださった。それがイエスに関する福音です。イエスに関する福音は人が神さまのいる時空を越えた場所へ行き永遠を生きるようになると約束しています。イエスに関する福音は人が神さまの子供となりイエスの名前で願うことがどんなことでも叶えられると約束しています。 私の家にはいま子猫がいます。長毛の猫です。長毛の猫は毎日ブラッシングしないと毛玉ができてしまうので、私は暇を見つけては猫を捕まえてブラッシングします。一日さぼるとあちこちにもう毛玉ができています。猫はチョコチョコと動く物に目を奪われます。すると何もかもを忘れて走っていきます。猫はよく網戸越しに外を見ていますが外には猫の目を奪うものがたくさんあって猫は外に出たくて仕方ないのです。ですがもし猫が外に出たらどうなるでしょう。猫はどこまでも走っていき、藪を抜け、水たまりに突っ込み、土をいじり、砂の中に転がり、そうやって全身どろどろになります。そうなると毛玉どころか汚れてからまり合った長毛が病原菌の温床になって病気になってすぐに死んでしまうと思うのです。「羊」も同じような動物だと聞いたことがあります。人間が手入れしてあげないとやはり病気になって死んでしまうと。猫には悪気などひとつもなくてただ自分のやりたいようにしたいだけです。でもそうやって私の家の管理下から表に出たら猫にとっては死に直結です。自分がどうして死んでいくのかさえわからないでしょう。これは私が猫を飼った意図に反します。これが猫にとっての「自由」なのでしょうか。私には猫の愚かさがよくわかります。家を出て行った猫がトボトボと歩いているのを見つけたらすぐに抱き上げて連れ帰るでしょう。神さまから見た人間はこんな風かも知れないなと思います。 時空を超越し全知全能の神さまですが「イエスに関する素晴らしい知らせ」を他の人々に知らせることに関してはその役目をわざわざ下手くそな人間に委ねています。そして人間は日々様々な問題に直面して苦しみ、怯え、泣き、嘆き、怒ります。愛する人間のはずなのに神さまからの助けは来ないのでしょうか。たとえば小さな子供が何かを成し遂げようとして悩んでいるとします。大人から見ると解決はいとも簡単なのに子供だからどうしたら良いかがわからない。大人には子供が何に困っているか、どういう思考過程で壁にぶつかっているかが手に取るようにわかるのです。神さまから見た人間はそんな風なのだろうなと思います。私たちが日常の生活の中で出会う、納得できないこと、理不尽だと思うこと、理由や答を教えて欲しいと思う出来事、神さまには私たちがどういう思考過程で壁にぶつかっているかが手に取るようにわかるのです。小さな子供に解決法を教えることはできますが、必ずしも解決法を教えることが最善とは限りません。ときには子供に自分で答を見つけさせることが大切だからです。でも「自分で答を見つける」プロセスは直面する問題が深刻であるほど辛いものとなります。それが自分や家族や近しい人の不治の病だったり大きな事故だったり死であったりすればなおさらです。 1Corinthians 10:13(コリント人への手紙第1の第10章13節)には「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります([新解訳])。神さまはその人が耐えられないほどの試練を与えることはしないし、脱出の道さえ与えてくださると書いてあります。「神は真実な方ですから」とはその人を深く愛しておられるからその人のためになるようにその人について知っているすべての情報を最上の方法で使われるというような意味だと思います。「その人について知っているすべての情報」のレベルも何しろ「永遠」の時間軸の上で計画されていることで、神さまは過去も未来もすべてを見通してすべての情報を総合的に用いて私たちに一番良いことをアレンジしてくださるのです。神さまの計画は深遠すぎて理解できません。それが真実の愛に裏打ちされていることを信じるだけです。 こういうことを考えながら聖書を読み祈りを捧げているといろいろな束縛から自分が自由になっていくのを感じます。そして毎日が希望に満ちていきます。そして不当だ、理不尽だと思うことよりも自分に過去から今日まで与えられれてきたもの、準備されてきたもののほうがどれほど大きくて計り知れないかに気付きます。自分のようなつまらないものに与えられた神さまの元へと戻る道、神さまの存在を示してくれる自分だけにわかる不思議な出来事、越えられると信頼されたからこそ与えられた試練、自分一人でがんばることは求められておらず(猫のように迷い出てはいけない)、いつも開かれた神さまの腕の中に迎えていただける、神さまが一緒に歩んでくださるという安心感。もちろん相変わらず日々の問題には直面するのですがそれをはるかに超越する大きな守りを感じるのです。私はこれが「神さまの力や神さまの働きが、その人の中に明白に見える」状態なのかも知れないなと思います。それはきっと神さまには手に取るように見えるのでしょうし、人間にも「あの人は何か違う」「あの人は他の人と違う何かを持っている」と感じることがあります。 6〜7節、「イエスは地面につばを吐き、唾液で泥を作り」「その泥を目の見えない人の目に塗りました」。そしてイエスは「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言います。シロアムの池はかつてユダヤのヒゼキヤ王がエルサレム城壁外の泉から地下のトンネルを掘って水を市内へ引き入れた貯水池です。イエスの奇跡はこのようにその場で実現されない場合が多くあります。その場で目を開くのではなく、泥を塗り「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言うのです。目の見えない人が貯水池へ降りていって目を洗うのですから危険なリクエストです。言われた本人が「泥を洗って目が見えるようになるわけがない」と思うか、そのままイエスの言葉に従うかを見ているのです。もちろん目を開くのは「魔法の泥」などではなくその人の示す信仰を見て神さまが開くのです。この男の人はイエスの言葉に従ってシロアムの池へ行って泥を洗い流し、そして目が見えるようになったのです。 このページの先頭に戻る13 Then they took the man who had been blind to the Pharisees, 13 人々は、以前は目が見えなかったその男の人を、ファリサイ派の人たちのところに連れて行きました。 14 because it was on the Sabbath that Jesus had made the mud and healed him. 14 と言うのは、イエスが泥を作って彼の目を癒したのが安息日だったからです。 15 The Pharisees asked the man all about it. So he told them, “He put the mud over my eyes, and when I washed it away, I could see!” 15 ファリサイ派の人々は男の人に一部始終をたずねました。そこで彼はファリサイ派の人々に話しました。「その人が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い流すと、私は目が見えたのです。」 16 Some of the Pharisees said, “This man Jesus is not from God, for he is working on the Sabbath.” Others said, “But how could an ordinary sinner do such miraculous signs?” So there was a deep division of opinion among them. 16 ファリサイ派の中のある人々が、「このイエスという男は神から来たのではありません。安息日に働いているのですから」と言いました。他の人たちは「だが普通の罪人である者が、どうしてこのような奇跡のしるしを行なうことができるのだろうか。」 こうしてファリサイ派の間で、深い意見の食い違いが起こりました。 17 Then the Pharisees again questioned the man who had been blind and demanded, “What’s your opinion about this man who healed you?” The man replied, “I think he must be a prophet.” 17 そこでファリサイ派の人たちはもう一度、以前目が見えなかった人にたずねて、答を求めました。「あなたを癒したこの男について、あなたの意見はどうなのですか?」 彼は答えました。「私はあの人は預言者だと思います。」 18 The Jewish leaders still refused to believe the man had been blind and could now see, so they called in his parents. 18 ユダヤの指導者たちは、その男の人の目が以前は見えなくて、いまは見えるようになったということを信じることを相変わらず拒みました。そこで彼らは男の両親を呼び出しました。 19 They asked them, “Is this your son? Was he born blind? If so, how can he now see?” 19 指導者たちは両親にたずねました。「これはあなた方の息子ですか? 彼は生まれつき目が見えなかったのですか? だとしたら、どうしていまは見えるのですか?」 20 His parents replied, “We know this is our son and that he was born blind, 20 両親は答えました。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき目が見えなかったことを知っています。 21 but we don’t know how he can see or who healed him. Ask him. He is old enough to speak for himself.” 21 しかし、どのようにしていま見えるのか、あるいは誰が息子を癒したのかは知りません。息子にきいてください。息子は大人ですから、自分のことは自分で話します。」 22 His parents said this because they were afraid of the Jewish leaders, who had announced that anyone saying Jesus was the Messiah would be expelled from the synagogue. 22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤの指導者たちが、イエスを救世主だと言う者は誰であろうと会堂から追放すると言っていたので、彼らを恐れていたからです。 23 That’s why they said, “He is old enough. Ask him.” 23 そのために彼の両親は「息子は大人ですから、自分のことは自分で話します」と言ったのです。 [解説] イエスによって目を開かれた生まれつき目が見えなかった男がファリサイ派の人々の元へ連れて行かれます。ファリサイ派については何度か説明していますが、彼らは当時のユダヤの最高議決機関(つまり国会)に議席を持つ政治結社です。主要なメンバは律法学者で支持基盤は一般民衆です。この人たちはモーゼの律法五書ばかりでなく、古くからのしきたりや律法の解釈にも律法と同等の価値を与えてそのすべてを間違いなく守ることが正しいこととして実践していました。人々は「律法の実践者」=「ファリサイ派」としてファリサイ派の人々を尊敬し支持していたのです。 人々が目の見えなかった人をファリサイ派の元へ連れて行った理由は14節によると「イエスが泥を作って彼の目を癒したのが安息日だったから」とあります。安息日(the Sabbath)は毎週土曜日でこの日は律法によって安息しなければならない日、何も仕事をしてはならない日に定められていました。さらに律法学者たちは何が「仕事」「労働」にあたるかについて細々とした規則を持っていました。それによればおそらくイエスが目を癒すために唾液で土をこねた行為と視力を癒した行為の2つが安息日違反にあたると思われます。ところで男の視力を回復させた力は「魔法の泥」にあるのではなく男が示した信仰の行動に応えた神さまの力なのですからイエスはこのとき特に泥を使う必要はなかったはずです(何か他の方法でも良かったはずです)。が、もしかするとイエスはわざわざ泥をこねて「労働して」見せてファリサイ派の律法解釈の間違いを際だたせようとしたのかも知れません。 ファリサイ派の人たちは目が見えるようになった男を尋問しますがイエスが奇跡を行ったということを素直に受け入れることができません。その理由は16節「このイエスという男は神から来たのではありません。安息日に働いているのですから」です。奇跡を行うこと、特に「視力を回復する」奇跡は神さまの元から来た預言者でなければできないはずなのですが(旧約聖書にそのように預言されています)、神さまのところから来たその人がまさか安息日にその奇跡を行うはずがないというのがファリサイ派の考えです。安息日に奇跡を行えば神さまがモーゼを通じて与えた律法に違反してしまうから矛盾が生じると言うのです。目の見えなかった男の視力が回復したのは事実なのに律法や慣例を何よりも重視して拠り所とするファリサイ派はその事実が起きたことを公然と認めることができないのです。 ファリサイ派は男への質問を繰り返し、17節の確信を突く質問「あなたを癒したこの男について、あなたはどう思うのか?」 をします。これに対し男は「私はあの人は預言者だと思います」と言いました。実はこの発言をしたことでこの男の人はユダヤのあらゆる共同体から追放され普通の社会生活が営めなくなるリスクを冒していることになるはずなのです。ユダヤの律法に違反する者としてファリサイ派が否定するイエスを公然と「預言者」と呼んだのですから。ファリサイ派は男の決意がそれほどまでに固いのを見て取ると次には男の両親を呼び出します。両親は息子の目が生まれつき見えなかったこと、いまは見えることを証言しますが、どうして見えるようになったのかはわからないと言います。両親は「息子を癒した人が預言者だったからだと思う」とは言えませんでした。共同体から追放されることを恐れたのです。 22節にはそのことについて「会堂から追放する(would be expelled from the synagogue)」と書かれています。会堂(synagogue)はユダヤの集会所で上座にはいつもファリサイ派の先生が座り、人々は毎週ここに集まって聖書の読み聞かせや律法の解釈を聞いていたのです。ちなみに「会堂」は「寺院」ではありません。ユダヤの寺院はエルサレムにある1カ所だけです。 ところでファリサイ派からは一言も「視力が回復して本当に良かったですね」「神さまはすばらしい。この奇跡について神さまを褒め称えましょう」というような言葉は聞かれません。彼らには男の視力が回復したことよりもイエスが律法違反をしたことの方が重大事なのです。自分たちは律法を禁欲的に遵守して民衆の圧倒的な支持を集めてきたというのに、突然イエスという人物が現れて公然と奇跡を行い、集まった人々に対して執筆者の意図に沿った聖書の解釈をいままでに聞いたことのないような威厳のある言葉で語って民衆の支持を奪い、逆に自分たちを偽善者として批判するので嫉妬と怒りに燃えていたのでしょう。 このページの先頭に戻る24 So for the second time they called in the man who had been blind and told him, “God should get the glory for this, because we know this man Jesus is a sinner.” 24 そこで彼らは、再び以前目が見えなかった人を呼び出して言いました。「このことについて栄光を受けるべきなのは神さまです。なぜなら我々はこのイエスという男が罪人であると知っているからです。」 25 “I don’t know whether he is a sinner,” the man replied. “But I know this: I was blind, and now I can see!” 25 男は答えて言いました。「あの人が罪人かどうか、私は知りません。私が知っているのはこれだけです。私は目が見えなかったが、今は見えます。」 26 “But what did he do?” they asked. “How did he heal you?” 26 彼らはたずねました。「だが彼は何をしたのか。彼はどうやってあなたを癒したのか。」 27 “Look!” the man exclaimed. “I told you once. Didn’t you listen? Why do you want to hear it again? Do you want to become his disciples, too?” 27 彼は大きな声を出しました。「いいですか。私は一度お話ししました。聞いていなかったのですか。どうしてもう一度聞きたいのですか。あなた方も、あの人の弟子になりたいのですか。」 28 Then they cursed him and said, “You are his disciple, but we are disciples of Moses! 28 すると彼らは男をののしって言いました。「おまえはあの男の弟子だ。しかし私たちはモーゼの弟子だ。 29 We know God spoke to Moses, but we don’t even know where this man comes from.” 29 我々は、神さまがモーゼにお話しになったことは知っている。しかし我々はこの男がどこから来たのか知らないのだ。」 30 “Why, that’s very strange!” the man replied. “He healed my eyes, and yet you don’t know where he comes from? 30 男は答えて言いました。「どうしたことでしょう。おかしなことです。あの人は私の目を癒したのです。なのにあなた方は、あの人がどこから来たのか、知らないのですか。 31 We know that God doesn’t listen to sinners, but he is ready to hear those who worship him and do his will. 31 私たちは、神さまは罪人の言うことは聞かないが、神さまを敬い、神さまの意志を行なう人の言うことはいつでも聞いてくださると、知っています。 32 Ever since the world began, no one has been able to open the eyes of someone born blind. 32 世界が始まってからかつて、生まれつき目の見えなかった者の目を開けることができた人などいません。 33 If this man were not from God, he couldn’t have done it.” 33 もしこの方が神さまから来られたのでなければ、そんなことはできなかったはずです。」 34 “You were born a total sinner!” they answered. “Are you trying to teach us?” And they threw him out of the synagogue. 34 彼らは答えて言いました。「おまえは完全に罪人として生まれたのだ。なのに私たちに教えようと言うのか。」そして彼を会堂の外へ追い出しました。 Spiritual Blindness 霊的な盲目 35 When Jesus heard what had happened, he found the man and asked, “Do you believe in the Son of Man?” 35 イエスが、何が起こったかを聞くと、その男を見つけ出して言いました。「あなたは人の子を信じますか。」 36 The man answered, “Who is he, sir? I want to believe in him.” 36 その男は答えました。「主よ、その方はどなたですか。私はその方を信じたいのです。」 37 “You have seen him,” Jesus said, “and he is speaking to you!” 37 イエスは言いました。「あなたはその方を見たのです。その方はいまあなたと話しています。」 38 “Yes, Lord, I believe!” the man said. And he worshiped Jesus. 38 その男は言いました。「はい。主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを敬愛しました。 39 Then Jesus told him, “I entered this world to render judgment -- to give sight to the blind and to show those who think they see that they are blind.” 39 それからイエスは彼に言いました。「私は裁きを下すためにこの世に来ました。つまりそれは目の見えない者たちには視界を与え、自分たちには見えると思っている者たちには、実は目が見えていないことを示すためです。」 40 Some Pharisees who were standing nearby heard him and asked, “Are you saying we’re blind?” 40 近くに立っていたファリサイ派の人々の幾人かが、このことを耳にしてイエスにたずねました。「あなたは、私たちの目が見えないと言っているのですか?」 41 “If you were blind, you wouldn’t be guilty,” Jesus replied. “But you remain guilty because you claim you can see. 41 イエスは答えて言いました。「もしあなた方の目が見えなかったのだとしたら、あなた方には罪はありませんでした。しかしあなた方は『見える』と言うのですから、あなた方の罪は残るのです。」 [解説] ファリサイ派は再度男の人を呼び出して同じ質問を繰り返しました。これに対して男が27節で「どうしてもう一度聞きたいのですか。あなた方も、あの人の弟子になりたいのですか」と言うとファリサイ派は「おまえはあの男の弟子だ。しかし私たちはモーゼの弟子だ」と言いイエスの一派と自分たちを明確に区別します。イエスを褒め称える者は誰でも共同体から追放するぞという脅しです。ところがこの男の人はひるみません。生まれつき見えなかった自分の目が開き自分の人生がまったく違うものになったことを知ったからでしょうか。男の人の発言には確信があります。30節、「どうしたことでしょう。おかしなことです。あの人は私の目を癒したのです。なのにあなた方は、あの人がどこから来たのか、知らないのですか」と逆に質問します。神さまのことなら何でも知っているはずの律法学者のファリサイ派のはずなのにイエスがどこから来たのかわからないのかと。 31節では、「私たちは、神さまは罪人の言うことは聞かないが、神さまを敬い、神さまの意志を行なう人の言うことはいつでも聞いてくださると、知っています」と言い、自分の意志よりも神さまの意志を尊重しそうやって願い探し求める人には必ず答があるのだと言います。これは旧約聖書に書かれている神さまとユダヤ民族の歴史に表されています。ユダヤ民族が独自の判断で自分たちの好き勝手なことを始めると神さまの怒りを買い、その神さまの怒りを真摯に受け入れて謝罪して助けを求める民を神さまはいつも助けてきたのです。つまりこの男の人はイエスから目に泥を塗られて「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われたとき、「私は言われたとおりシロアムの池で自分の目を洗います。もしもそれが神さまの意志であるならばどうぞ私の目を開いて下さい。私は見えるようになりたいのです」と願ったのではないでしょうか。そして32〜33節で「世界が始まってからかつて、生まれつき目の見えなかった者の目を開けることができた人などいません。もしこの方が神さまから来られたのでなければ、そんなことはできなかったはずです」と言います。 たとえばIsaiah 29:18(イザヤ書第29章18節)には「その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る」、Isaiah 29:18(イザヤ書第35章5〜6節)には「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」と神さまが目の見えない者に視力を与える様子が預言されています(ともに[新解訳])。「目の見えない者の目を開く」「耳の聞こえない者の耳を開く」「足の萎えた者が飛び跳ねる」「口のきけない者が話し始める」という奇跡は旧約聖書にあらかじめ預言された神さまの力の現れ方なのです。その神さまの力が現れる理由は「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」とありますが、この部分は人々に命を与えるイエスがそれを飲めば二度と渇くことのない「生きた水」を与える様子を想起させます。この男の人は目が見えなかったにも関わらず聞かされた聖書のことばを胸に刻んで救世主の訪れを待ち望んでいたのではないでしょうか。 これに対してファリサイ派は「おまえは完全に罪人として生まれたのだ。なのに私たちに教えようと言うのか」と言って男を会堂から追い出します。これで男の処遇は決定的になりました。男はこれからまともな社会生活が営めなくなるのです。ファリサイ派の言った「おまえは完全に罪人として生まれた」はこの奇跡が起こる前に弟子たちがイエスに質問した「先生、どうしてこの人は生まれつき目が見えないのですか。この人自身の罪のためでしょうか、あるいは両親の罪のためでしょうか」に対するファリサイ派の答です。男が生まれつき目が見えないのは「完全に罪人として生まれた」からだと言うのです。さらに言えばファリサイ派の人たちが「なのに私たちに教えようと言うのか」の部分で言いたいのは、自分たちファリサイ派は律法をことごとく遵守し神さまの元へ行くことが約束された人間なのだ、おまえたち罪人とは立場も身分も違うのだと言っているのです。イエスの答は違いました。イエスは3節で「「それはこの人の罪のせいでもでも、この人の両親の罪のせいでもありません。このことが起こったのは、神さまの力がこの人の中に見えるようにです」と答えています。またイエスはファリサイ派については別の場面で表面だけをきれいに見せている偽善者で内面は汚れに満ちており神さまの怒りが下ると公然と批判しています。 35節、男が会堂から追放された(=ユダヤ社会から断絶された)ことを知ってイエスが男の前に現れます。イエスは「あなたは人の子(the Son of Man)を信じますか」とききます。「人の子(the Son of Man)」はイエスが好んで用いた自分を呼ぶ際の呼称です。実は「人の子」は旧約聖書のDaniel(ダニエル書)に登場する「救世主の呼称」なのです。Daniel 7:13-14(ダニエル書7章13〜14節)には「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」と人の子の到来の様子が描かれています([新解訳])。この場面は救世主の再来、つまり再度イエスが地上に姿を現す場面に関する預言として解釈されています。 36節、男が「人の子」について「主よ、その方はどなたですか。私はその方を信じたいのです」とたずねると、37節でイエスはそれは自分のことであると答え、男は38節で「はい。主よ。私は信じます」と告白しイエスを信じました。この男の人はイエスについて自分の体験に基づく証言を重ねるにつれてイエスについての信仰を強めてきたように読めます。自分を癒し視力を回復してくれたイエスを敬愛し探し求め、イエスを信じる証言を重ねてきて信仰が強められていったのです。 39節でイエスが言います。「私は裁きを下すためにこの世に来ました。つまりそれは目の見えない者たちには視界を与え、自分たちには見えると思っている者たちには、実は目が見えていないことを示すためです」。「自分には見える」と思っている者には実は何も見えておらず「自分には見えない。できることなら真実が見たい。見せて欲しい」と探し求める者にはイエスがイエスを通じた視力を授けるのです。1 Corinthians 1((コリント人への手紙第1の第1章)には次のように書いてあります。イエスに関する信仰や創造主としての神さまに対する賛美は他の人が聞けば愚かに聞こえるかも知れない。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(27節)。神さまは神さまの存在を否定したりあるいは無関心を決め込んで人間の知恵や栄光を絶対的なものと信じ、神さまへの帰依や信仰を愚弄する人たちを「はずかしめるために」わざわざ愚かな者を選んで福音を伝えさせていると言うのです。「あなたは神さまを信じますか」と問われて「バカじゃないの?」と答える人はいつの日かはずかしめを受けることになるということです。しかも39節によると、イエスは「自分たちには見える」とそうやって自負している人たちに「裁きを下す」ためにこの世に来たと言うのです。 40節で近くに立って聞いていたファリサイ派の人が、「あなたは、私たちの目が見えないと言っているのですか?」とたずねます。イエスはこれに対し、もし『見えない』と言うのなら話は別だが、「あなた方は『見える』と言うのですから、あなた方の罪は残る」と言います。 このページの先頭に戻る前の章へ戻る | 次の章へ進むPresented by Koji Tanaka. 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