ヨハネの福音書の目次

ホームページのTOPへ戻る

ヨハネの福音書

はじめに
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章
第19章
第20章
第21章





ヨハネの福音書:第14章

各章は、英文:[NLT]、和文:[拙訳]、[解説]によって構成されています。

Jesus, the Way to the Father

イエスは、父へ至る道


1 “Don’t let your hearts be troubled. Trust in God, and trust also in me.

1 「心を騒がしてはなりません。神さまを信じなさい。そして私を信じなさい。

2 There is more than enough room in my Father’s home. If this were not so, would I have told you that I am going to prepare a place for you?

2 私の父の家には、必要を上回るだけの部屋があるのです。もしそうでなかったとしたら、私があなた方のために場所を備えに行くと、言っておいたはずではありませんか。

3 When everything is ready, I will come and get you, so that you will always be with me where I am.

3 すべての準備が整ったら、私はあなた方を迎えに来ます。そうしてあなた方がいつも私のいる所で私と共にいられるようにです。

4 And you know the way to where I am going.”

4 そしてあなた方は私の行く場所への道を知っています。」

5 “No, we don’t know, Lord,” Thomas said. “We have no idea where you are going, so how can we know the way?”

5 トマスが言いました。「いいえ主よ、私たちは知りません。あなたがどこへ行かれるのかわからないのです。どうして私たちに道がわかりましょうか。」

6 Jesus told him, “I am the way, the truth, and the life. No one can come to the Father except through me.

6 イエスはトマスに言いました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰も父のところへ来ることはできません。

7 If you had really known me, you would know who my Father is. From now on, you do know him and have seen him!”

7 もしあなた方がすでに私を知っているのなら、私の父が誰なのかも知っていたはずです。今の時点から、あなた方は父を知っており、すでに父を見たのです。」

8 Philip said, “Lord, show us the Father, and we will be satisfied.”

8 ピリポが言いました。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

9 Jesus replied, “Have I been with you all this time, Philip, and yet you still don’t know who I am? Anyone who has seen me has seen the Father! So why are you asking me to show him to you?

9 イエスが答えました。「私はずっとあなたと一緒にいたのではなかったですか、ピリポ。それなのにあなたはまだ私が誰なのかわからないのですか。私を見た者は誰でも父を見たのです。だとしたら、どうしてあなたは私にあなたに父を見せるように頼むのですか。

10 Don’t you believe that I am in the Father and the Father is in me? The words I speak are not my own, but my Father who lives in me does his work through me.

10 あなたは私が父の中にいて、父が私の中にいることを信じないのですか。私が話す言葉は私自身のものでではなく、私の中にいる父が、私を通して父の技をしているのです。

11 Just believe that I am in the Father and the Father is in me. Or at least believe because of the work you have seen me do.

11 私が父の中におり、父が私の中にいるとただ信じなさい。あるいは少なくとも、あなた方が私がするのを見た技によって信じなさい。

12 “I tell you the truth, anyone who believes in me will do the same works I have done, and even greater works, because I am going to be with the Father.

12 本当のことを言います。私を信じる者は誰でも、私がしてきたのと同じ技、さらに大きな技さえ行ないます。それは私が父と共にいるようになるからです。

13 You can ask for anything in my name, and I will do it, so that the Son can bring glory to the Father.

13 あなた方は私の名によって何でも求めることができます。そうしたら私はそれをします。そうやって子が父に栄光をもたらすことができるようにです。

14 Yes, ask me for anything in my name, and I will do it!

14 そうです。私の名によって何でも私に求めなさい。私はそれをします。



[解説]

イエスが父なる神さまへの道を示し再び戻ってくることを約束する章です。1節〜3節、イエスは一度神さまのいる場所へ戻り準備を整えたらもう一度迎えに戻ってくる、そしてその後はいつも一緒にいると言います。これはイエスによる確かな約束です。

4節〜6節、イエスは使徒たちに使徒たちはすでに神さまの場所へ至る道を知っているのだと言いますがトマスは「知らない」と反論します。トマスの反論はイエスの話を聞いている使徒たちの気持ちを代表していたと思います。これは「知らない」と反論しているのではなくて、イエスが「道は知っているはずだ」と言ったのが「もう道は知っているのだから、あとは自分たちでも来られるでしょう」と聞こえたのだと思います。まるで小さな子供と親が話しているような雰囲気です。「これからお父さんとお母さんは出かけてくるからね。道はもうわかっているだろうから大丈夫だよね。」と言われて突然不安になり、「どこへ行くの?道なんてわからないよ。どこに行くのかもわからないのに、一人じゃ行けないよ。」と泣きそうになっているのです。

これに対してイエスの答は「私が道であり、真理であり、いのちなのです」です。「イエス」=「道」というのは聞いている使徒たちにも読んでいる私たちにも理解しがたいです。その後に続く「イエス」=「真理」、「イエス」=「いのち」というのも同様にわかりません。少し考えてみましょう。「イエス」=「道」は神さまが人間との関係を取り戻すために用意した手段が救世主イエスの十字架死だったので「イエス」=「手段」と言っているのではないかと解釈できます。神さまを裏切り続けた人間の罪の代償としてイエスが十字架にかかって死ぬことで私たちの罪が許されて神さまの元へ戻れるようになる、イエスはそのための手段だということです。「イエス」=「手段」=「道」ということです。信じるかどうかは別にして論理的には筋道だっています。でもそう言うことなのだろうと理解したとしてもだから私たちがどうやって神さまの元へ至るのか、どうやったらイエスという道を通れるのか、それはわかりません。そこは神さまの領域、霊(Spirit)の領域なので私たちには理解不能です。ここに書かれた「イエスが道である」イエスの言葉だけを信じてイエスが私たちを神さまとイエスのいるところへ連れて行ってくれるのを待つだけです。

「イエス」=「真理」もおかしな等式です。「イエスの言うこと」=「真理」なのだとしたら何となくわからなくもありませんが・・・。私は「ことば」って一体何なのだろうとときどき考えます。私は誰かと話をするときに、わざわざ頭の中で作文を済ましてから口を開くことはありません。突然話し始めます。頭の中で思ったことがどのようなメカニズムで「ことば」になるのかはミステリーです。ときには自分では想像もしなかったことを口に出してしまうこともあります。地球上で人間のように「ことば」を操る生き物は他にいません。聖書によれば一番最初の人間は神さまの姿を映す特別な存在として造られたことになっています。私は「ことば」を紡ぎ出すメカニズムには霊(Spirit)が介在していると思えて仕方ありません。この「ヨハネの福音書」の冒頭でイエス自身が「ことば(Word)」と呼ばれています。新約聖書の最後の本の「ヨハネの黙示録」では地上に再来したイエスが口から鋭い両刃の剣を発して自分を信じない民を打つ場面があります。この「鋭い両刃の剣」はイエスが発する「ことば」だと書かれています。神さまは「ことば」を発しただけで天地を創造したのでしたし、この後で裏切り者のユダが兵を引き連れてイエスを逮捕しにくる場面ではイエスの発したことばで人々が押し倒されたりします。「ことば」というのは神さまの領域のもので人間はそれをうまく使えないということなのではないかと思うのです。そして神さまの領域のことなのでよくわかりませんが、とにかく「イエス」=「ことば」=「真理」なのです。

「イエス」=「いのち」はどうでしょうか。「イエス」=「いのち(を司る存在)」というのならわからなくもないですが・・・。イエスは何度か自分は神さまから宇宙の万物についての全権件を委ねられており自分の与えたい人にいのちを与えることができると言うようなことを言います。そうして実際に死者をよみがえらせたりもします。だとしたら「イエス」=「いのち(を司る存在)」と言えるかも知れませんが、私には「イエス」=「いのち」というのはそれ以上の意味を持っていると思えてなりません。「いのち」の反対にある概念が「死」なのだとすると、聖書に書かれている「死」は私たちが一般に考えている「終わり」というような意味の「死」ではありません。聖書の「死」は何かから「切り離されること」を指しています。たとえば「魂(Soul)」が「肉体(Flesh)」から切り離されることだったり人間が神さまから切り離されることだったり。だとしたら「いのち」って一体何なのでしょうか。一人の生きている人間がいたとしてその人が心臓発作を起こして突然死んでしまったとしたら、この人の死の直前の身体と死んだ直後の身体を比べてみたら心臓が動いているか止まっているかだけで他にはほとんど変わりはないでしょう。でも片方は生きていて片方は死んでいる。私たちの科学では死んだ人間を生き返らせることはできません。>何だかわからないけれど「イエス」=「ことば」そのもの(あるいは「正しいことば」)であるように、きっと「イエス」=「いのち」そのものなのです。「いのち」は「光」や「活力」や「エネルギー」のようなイメージなのかも知れません。そしてそれが失われるとき人は死んで切り離されてしまうのです。

6節ではイエスはさらに「私を通してでなければ誰も父のところへ来ることはできません」と言っています。つまり「イエス」=「唯一の道」と言うことです。人間が「父のところへ行く」ためには神さまと自分を切り離す原因となった「罪」を許していただく必要があります。聖書では「罪」に対する「罰」が「死」とあります。「死」は「切り離し」を意味しているので人間は罪を犯した結果、罰として神さまから切り離されていることになります。神さまとの関係を取り戻し神さまの元へ戻る唯一の方法がイエスです。そのとき人間は罪を許されて宣告されていた死が免除され「いのち」を得るのです。

7節からイエスは「私を見た者は父も見た」「私は父の中にいて父は私の中にいる」という話をします。今度はピリポが「私たちに父を見せてください」と言ってイエスから「何を今さらそんなことを言っているのか」と言われてしまいます。ここも解釈は難しいですね。「父」にあたる神さまは全知全能で時間も空間も超越した無限の存在なのですからこんな感じなのだろうかと頭に思い浮かべることさえできないはずです。形やイメージを与えてしまったらそれはもう無限ではないからです。聖書の中ではこの神さまの「声」が聞こえる場面はいくつかありますが神さまの「姿」が現れる場面というのはありません。いくつか「神さまの姿」と呼べるような何かたとえば「炎」としての姿が見える場面などがありますが、実はこれらはすべて肉体を持つ前のイエスの姿であったのではないかと考えられています。イエスは人間の姿を持って地上に立った神さまです。イエスが人々に聖書を語るときにはその部分を書いた人の意図の視点から語り、これが聞き手にそれまで聞いたことのないような権威や知を感じさせました。たくさんの人々の前で超自然的な奇跡を次々と行い、そうやって何百年も前から聖書に書かれてきた預言を次々と実現していきました。人々の不信仰を嘆き偽善や見せかけの信仰を叱りました。自分は神さまを疑うことを微塵もせず、いつも祈り自分の意志を捨てて神さまの意志を常に優先しました。そうやって神さまに対する愛と人間に対する愛を示しました。きっとこれらが表しているのが神さまの姿そのものなのです。イエスを知り理解した者は神さまを理解したに等しいのです。だから「私を見た者は父も見た」になるのだし、「父を見せて下さい」と言うピリポはイエスを理解していないということになります。

11節では、どうしても信じられないのなら自分の目で目撃した超自然的な奇跡の技を見て信じなさいと言います。

12節でイエスが言う、自分の弟子たちがやるようになるさらに大きな技とはイエスの福音を世界の人々へ伝えていくことなのではないかと思います。

13〜14節、イエスは弟子たちが「イエスの名によって」求めることは何でも行うと言います。クリスチャンがお祈りを捧げるときにお祈りの最後を「主イエスの名によってお祈りします」とか、英語では「I pray in the name of Jesus Christ」などと締めくくりますがその理由はこのイエスの約束にあります。全知全能の神さまが願い事は「何でもする」と言うのですからこれは強力です。「お金が欲しい」「あの人を殺したい」など魔法のように何でも実現するかのように聞こえます。この点について「神さまはクリスチャンの願いのうち、神さまの意図に合致することだけを行う」と教える人は多いですが私の解釈は少し違います。それだと「聞き届けられる願い」と「聞き届けられない願い」が出てきてしまいます。「お祈りに対する答が来ないなぁ。私の願いは神さまの意図に沿っていなかったのだろうか」と悩むことになります。私はすべての願いは神さまによって聞き届けられている(それが神さまの目に善と映っても悪と映っても)と思っています。そして神さまはそれらの願いすべてに「応えて」いると思います。そして神さまの「応え」はその結果がそのクリスチャンにとって最善の結果につながるようにいつも周到に練られ組み立てられているのです。

たとえば「お金が欲しい」と願う人には「自分がお金を得る」ことよりも「人にお金を与える」ことを教え、その人が「与える」ことを学んだときには本当に信じられないほどの富を与えたりとか。「人を殺したい」と願う人には「人を殺す」ことよりも「人を愛する」ことの意味を教え、その人が「愛する」ことを学んだときに「殺したい」と思っていた人と自分との間に思ってもいなかった何かが起こるとか。そうやってイエスはクリスチャンが願うことを「何でも行っている」のだと思います。祈っている人には実はそれが「応え」になっていると気づかないかも知れません。でもある日「もしかして」と気づくとき、自分の想像や期待を完全に超越するような神さまの「応え」に触れるとき、クリスチャンは打ちのめされ、自分の小ささを知り、心の底から神さまを褒め称え、イエスを褒め称えます。これが「そうやって子が父に栄光をもたらすことができるように」の意味だと思います。



このページの先頭に戻る



Jesus Promises the Holy Spirit

イエスが聖霊を約束する


15 “If you love me, obey my commandments.

15 もしあなた方が私を愛するのなら、私の命令を守りなさい。

16 And I will ask the Father, and he will give you another Advocate, who will never leave you.

16 そして私は父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなた方に与えます。その助け主は決してあなた方から離れません。

17 He is the Holy Spirit, who leads into all truth. The world cannot receive him, because it isn’t looking for him and doesn’t recognize him. But you know him, because he lives with you now and later will be in you.

17 その方は聖霊です。聖霊はすべての真理に至るのです。世の中は聖霊を受け入れることができません。世の中は聖霊を求めておらず、聖霊を知らないからです。しかしあなた方は聖霊を知っています。なぜなら聖霊はあなた方と共に住み、後にはあなた方の中にいるからです。

18 No, I will not abandon you as orphans -- I will come to you.

18 違います。私はあなた方を孤児にして捨てるのではありません。私はあなた方のところに来ます。

19 Soon the world will no longer see me, but you will see me. Since I live, you also will live.

19 すぐに世の中は私を見なくなりますが、あなた方は私を見ます。私が生きるので、あなた方も生きるのです。

20 When I am raised to life again, you will know that I am in my Father, and you are in me, and I am in you.

20 私が再びいのちへと生き返されるとき、あなた方には私が父の中にいて、あなた方が私の中におり、私があなた方の中にいることがわかります。

21 Those who accept my commandments and obey them are the ones who love me. And because they love me, my Father will love them. And I will love them and reveal myself to each of them.”

21 私の命令を受け入れ、それに従う人は、私を愛する人です。そしてその人が私を愛するので、私の父もその人を愛します。私もその人を愛し、私自身をその人たちひとりひとりに明らかにします。」

22 Judas (not Judas Iscariot, but the other disciple with that name) said to him, “Lord, why are you going to reveal yourself only to us and not to the world at large?”

22 ユダ(イスカリオテではなく、同じ名前の別の弟子の方)がイエスに言いました。「主よ、どうしてあなたは私たちだけにご自身を現わそうとして、世の中全体には現わさないのですか。」

23 Jesus replied, “All who love me will do what I say. My Father will love them, and we will come and make our home with each of them.

23 イエスは答えて言いました。「私を愛する人はみな、私の言うことを行います。私の父はその人を愛し、私たちはやって来て、その人たちひとりひとりと共に住みます。

24 Anyone who doesn’t love me will not obey me. And remember, my words are not my own. What I am telling you is from the Father who sent me.

24 私を愛さない人は私に従いません。そして覚えておきなさい、私の言葉は私のものではありません。私があなた方に話しているのは、私を遣わした父からの言葉なのです。

25 I am telling you these things now while I am still with you.

25 いま私がまだあなた方と共にいる間に、これらのことをあなた方に話しました。

26 But when the Father sends the Advocate as my representative -- that is, the Holy Spirit -- he will teach you everything and will remind you of everything I have told you.

26 しかし父が私の代理として助け主の聖霊を送るとき、聖霊があなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したことすべてを思い起こさせてくれます。

27 “I am leaving you with a gift -- peace of mind and heart. And the peace I give is a gift the world cannot give. So don’t be troubled or afraid.

27 私はあなた方に贈り物を置いていきます。それは心の平安です。私が与える平安は、世の中には与えることのできないものです。だから心を騒がしたり、恐れてはいけません。

28 Remember what I told you: I am going away, but I will come back to you again. If you really loved me, you would be happy that I am going to the Father, who is greater than I am.

28 私が話したことを覚えておきなさい。私は去って行きますが、再びあなた方のところに戻って来ます。あなた方が本当に私を愛しているのなら、私が、私よりも偉大な父のもとに行くことを喜ぶはずです。

29 I have told you these things before they happen so that when they do happen, you will believe.

29 私はこれらのことを、それが起こる前にあなた方に話したのは、それが起こるときに、あなた方が信じるようにです。

30 “I don’t have much more time to talk to you, because the ruler of this world approaches. He has no power over me,

30 私にはあなた方に話している時間がもうあまりありません。この世の支配者が来るからです。彼は私に対しては何もすることはできません。

31 but I will do what the Father requires of me, so that the world will know that I love the Father. Come, let’s be going.

31 ですが私は父が私に求めることをします。そうすることで私が父を愛していると世の中が知るようにです。来なさい。さぁ、行きましょう。



[解説]

15節は強力です。「私を愛するのなら、私の命令を守りなさい」です。そしてイエスの命令とはたとえば前章の34節に書いてありましたが「私はあなた方に新しい命令を与えます。互いに愛し合いなさい。ちょうど私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うのです」もその一つでした。「互いに愛し合う」の具体的な意味も解釈が難しいところですが、私はそれは聖書全体を貫いて書かれている神さまの愛と等しい愛で人を愛することと考えています。また基本的に人間にはそれはできないと思います。でもだからそれをあきらめるのではなくて、できない自分については謝りながら少しでも神さまに近づけるように助けていただく、その目的で与えられる機会に感謝するということだと思います。

16節からイエスはそうやってイエスの意図に沿うために努力することを何も弟子たちに一人でやらせようと言うのではなく、自分が神さまにお願いして自分に代わる「助け主」を送ると言います。その「助け主(Advocate)」とは「聖霊(Holy Spirit)」で、「その助け主は決してあなた方から離れません」と言うのですから一度与えられた聖霊はずっと共にいるのです。「聖霊」は、「父なる神」「子なるイエス」と合わさって三位一体を形成します。神さまは三つの存在を持つが実は一つであるという考えです。無限の神から独立して一人のイエスが地上に立ち、今度は神さまを信じるひとりひとりの人に別々に聖霊が送られてその聖霊はひとりひとりにとどまるのです。ところがその三つは実は一つだと言う・・・。これは神さまのことなので人間には理解不能です。

聖霊に関する説明は続きます。17節の「世の中は聖霊を受け入れることができません」の「世の中」は神さまを信じず俗を好む世の中の人たちのことでしょう。同じく17節には「聖霊はあなた方と共に住み、後にはあなた方の中にいる」とあり、これは悪霊が人間に取り憑くのと同様に聖霊が人間に宿るのだと思います。イエスや弟子は人間から悪霊を追い出しますが聖霊は人間を決して離れないのです。

18節からは「私はあなた方のところに来ます」「私が生きるので、あなた方も生きる」「あなた方には私が父の中にいて、あなた方が私の中におり、私があなた方の中にいることがわかります」と書かれています。イエスはこの後十字架に掛けられて死にますがその三日後に復活しました。「私が生きるので、あなた方も生きる」はイエスが一度失ったいのちを取り戻すのと同じことがイエスを信じる人にも起こるという意味だと思います。そしてイエスが三日後によみがえって再びいのちを得たことが弟子たちには「わかります」と言うのです。

21節には「私自身をその人たちひとりひとりに明らかにします」とありますが明らかにされる「イエス自身」は、イエスが存在することが明らかにされるとも取れますし、「神さまとしてのイエス」とか「イエスがその人について計画されていること」のようにも解釈できます。

22節、十二使徒のユダ(イエスを裏切ったのとは別のユダ)が「どうして世界全体に自分を示さないのか」と問います。使徒たちはイエスが聖書の中から指し示す「救世主」が理解できないのです。相変わらずイエスがイスラエルの王となりローマ帝国からの独立を勝ち取ると信じているのです。だとすればイエスの存在は使徒たちだけではなく世の中すべての人に表されなければならないはずです。イエスの答は「私を愛する人はみな、私の言うことを行います。」「私を愛さない人は私に従いません。」です。イエスに関する福音はイエスの十字架死〜復活の後、エルサレムからスタートして広く世の中へ伝えられていきます。聖書はあらゆる言語に翻訳されて福音は広く世の中に述べ伝えられてきています。そして福音を聞いた人がもしイエスを愛するのならその人はイエスの命令に従おうとするしそうでない人はイエスにはついて行きません。

25節では、イエスはとりあえず使徒たちと共にいる間にこれから起こることを話したのですが使徒たちから出てくる質問を聞けばイエスのことばが正しく受け止められていないことは明らかです。でも心配がいらないのは「父が私の代理として助け主の聖霊を送るとき、聖霊があなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したことすべてを思い起こさせてくれ」るからです。聖霊が実際に訪れる様子は「Acts(使徒の働き)」の第2章に書かれています。聖霊を受けた弟子たちは福音の何たるかを初めて理解し迫害にひるむことなく大胆にイエスについての証言を行います。迫害にあった弟子たちは次々と投獄され処刑されていくのですが、福音の伝わりはとどまることがありませんでした。それは27節にあるようにクリスチャンにはイエスの贈り物として残した聖霊による「心の平安」があるからです。決して世の中で生えることのできない類の「心の平安」なのです。

30節の「この世の支配者」はサタンのことです。いまサタンは裏切り者のユダに宿っていてまもなく兵を引き連れてイエスを逮捕しにやって来ます。サタンは神さまを裏切って地上に落とされましたが結果としていまの地上はサタンの支配する場所となっています。30節にあるようにサタンは神さまであるイエスに手出しをすることはできないのですがイエスは父である神さまの意志に沿って自ら十字架に掛かろうとしています。それが、神さまの用意した人間救済のための愛する人間との関係を修復し人間を自分の元へ連れてこられるようにする手段だからです。

31節は「さぁ、行きましょう」で締めくくられています。イエスの話は17章まで続きますが(17章は「お祈り」)、場合によるとここから先はイエスが歩きながら話した事柄かも知れません。



このページの先頭に戻る





前の章へ戻る | 次の章へ進む

Presented by Koji Tanaka. All Rights Reserved.