― 在外被爆者に関するトピックスをいくつか抜粋して紹介します ―

2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2004年 9-10月 11月 12月
※(かっこ)内の日付はメディア等に報道・情報が公開された日です。
※情報は上から [日付の新しいもの→古いもの] の順で並んでいます。

2005年10月

(10月30日) 中国から若手の地方紙記者7名が広島を取材 外務省が招待
(10月30日) 日韓の若者が心境を語る 相互訪問の報告会
(10月28日) 米国に折り鶴記念碑設置を 広島、ミネアポリスの市民グループが計画
(10月28日) 在外公館を活用した被爆者手帳申請の実現を 韓国側が期待述べる 日韓外相会談
(10月26日) 手当申請を却下された在韓被爆者の逝去が判明 却下が取り消された矢先に
(10月23日) 埋もれた戦時秘話〜テニアン島で原爆投下を事前に聞いていた日本人
(10月20日) 長崎から医師団を派遣 韓国・大邱市で在韓被爆者の健康相談が実施される
(10月14日) 岩国駐在の現役米兵が被爆死米兵の遺影を登録 国立広島追悼祈念館
(10月 7日) ブラジルの署名3,500人分 長崎・高校生1万人署名活動実行委に手渡す
(10月 7日) 広島市も控訴取り下げ〜在米被爆者訴訟
崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟)での日本政府の上告断念を受け
(10月 7日) ・崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟) 日本政府と長崎市が上告を断念、判決が確定
・厚労省 近く政省令を改正、11月から35カ国の在外公館で
 @手当A葬祭料の申請受付を開始する方針を表明

(2005年10月30日)
【中国新聞】〔中国から若手の地方紙記者7名が広島を取材 外務省が招待

 10月30日付『中国新聞』によると、外務省の招きで訪日した中国の地方紙記者7人が29日、広島市を訪れ、原爆資料館や原爆ドームなどを見学しました。全員が初来日で、原爆の悲惨さに衝撃を受けた様子だったようです。

 記者は上海、香港、広州などの20〜30歳代。日本への理解を深めてもらうため国際フレンドシップ協会(東京)を通じて招かれ、24日から11月3日まで滞在するそうです。

 「再び訪れて、市民が被爆をどう受け止めているのかなど取材を深めたい」(香港紙記者、34)など、若い記者たちは真剣な表情で資料に見入ったり写真撮影していた、ということです。

 → 詳細は『中国新聞』10月30日付 をご覧ください。

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(2005年10月30日)
【長崎新聞】〔日韓の若者が心境を語る 相互訪問の報告会

 10月30日付『長崎新聞』によると、互いの国を訪問し、被爆者の体験談や歴史認識の違いなどを学んだ日本と韓国の若者たちが、訪問時の様子やその後の心境の変化などを語る報告会が29日、長崎市で行われました。

 この日韓の若者による相互訪問は、アジア青年平和交流事業として、長崎平和推進協会の主催により実施されたもの。報告会は国連軍縮週間(24〜30日)に合わせて、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のインターネットテレビ会議システムなどを使用して行われました。

 「日本人は自分たちの戦争…被害だけでなく、加害の事実にも目を向けなければならない」(長崎大1年)、「仲間の学生に原爆のことを話したが、ほとんどが知らず驚いていた」(釜山外大2年)などの、青年たちによる真剣な報告がなされたようです。

 → 詳細は『長崎新聞』10月30日付 をご覧ください。

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(2005年10月28日)
【中国新聞】〔米国に折り鶴記念碑設置を 広島、ミネアポリスの市民グループが計画

 10月28日付『中国新聞』によると、広島市と米国ミネアポリス市の市民グループが、ミネアポリス市にある「平和の庭」に、折り鶴をモチーフにした高さ4bの記念碑を造る計画を進めています。

 「平和の庭」は、同市のリンデール公園内にある日本庭園。園内には広島、長崎で被爆した石2基も設置してあるそうです。

 計画はミネアポリスの市民団体が発案。これに賛同した広島市民が「ミネアポリス・ピースガーデン・プロジェクト・ヒロシマ」を結成し、すでに約200万円の募金が集まっている、ということです。

 → 募金の連絡先など、詳細は『中国新聞』10月28日付 をご覧ください。

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(2005年10月28日)
【外務省ホームページ】〔在外公館を活用した被爆者手帳申請の実現を 韓国側が期待述べる 日韓外相会談

 28日更新の『外務省ホームページ』によると、27日の日韓外相会談で、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商部長官は町村信孝外相に対し、在韓被爆者支援について
 @ 健康管理手当の申請制度が改善される(=在外公館での申請が可能になる)ことへの謝意と、
 A 被爆者健康手帳の在外公館での発給申請が可能になるようにとの期待
を述べられたそうです。

 「日韓間の過去に起因する諸問題」の一つとして、在韓被爆者支援が取り上げられた模様です。

 → 日韓外相会談(概要)の内容はこちら(クリック!)をご覧ください。

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(2005年10月26日)
【中国新聞】〔手当申請を却下された在韓被爆者の逝去が判明 却下が取り消された矢先に

 26日付『中国新聞』によると、被爆者援護法に基づく健康管理手当の申請を広島市に却下された韓国在住の朱昌輪(チュチャンユン)さん(82)が今夏、亡くなっていたことが25日、支援者の話でわかりました。朱さんは市の却下処分を不服として、広島地裁に提訴していました。

 一連の在外被爆者訴訟で行政敗訴が続いたことを受け、市は20日に却下処分を取り消して申請の実質審査を始めていた矢先のことでした。

 朱さんの逝去は、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の市場淳子会長(49)が今月、韓国を訪問した時にわかったそうです。市場会長は「在韓被爆者の苦しみを知りながら訴訟を引き延ばす日本政府の被爆者に対する冷酷さが表れている。被爆者健康手帳の海外交付を認めるなどの制度改善を一刻も早く進めるべきだ」と『中国』紙で語っておられます。

 → 詳細は『中国新聞』10月26日付 をご覧ください。

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(2005年10月23日)
【中国新聞】〔埋もれた戦時秘話〜テニアン島で原爆投下を事前に聞いていた日本人

 「父はテニアンで原爆を広島に落とすと聞いたそうです」――。ブラジル戦後移民の男性から寄せられた1本の電話をもとに、テニアン島で原爆投下を事前に聞いていた日本人の存在を追った…。
 23日付『中国新聞』は、そんな戦時中の埋もれた秘話を紹介しました。西本雅実編集委員が執筆しています。

 記事によれば、その日本人(電話した男性の父)は岡山県在住の有元盛男さん(80)。海外雄飛を志した有元さんは高校卒業後、当時委任統治領だった南洋群島で製糖業などを経営する国策会社・南洋興発株式会社に入社し、1942(昭和17)年テニアンに赴任しました。しかし44年、米軍の攻撃により日本軍の守備隊は「玉砕」し、民間人も掃討作戦で3000人を超える犠牲者を出しました。
 有元さんは密林へ逃げていましたが、同年11月に投降し収容所へ。英語が少し分かったので病院で洗濯の仕事に従事していたそうです。
 有元さんが原爆投下計画を聞かされたのは45年8月4日。いつも通り病院に出勤した日のことでした。――

  「涙が噴き出てやまん。テニアンは私にとって死の島であり拝む島です」。
 同紙で有元さんは、そう語っておられます。 

 → 詳細は『中国新聞』10月23日付 をご覧ください。

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(2005年10月20日)
【長崎新聞】〔長崎から医師団を派遣 韓国・大邱市で在韓被爆者の健康相談が実施される

 9月23日付、10月20日付『長崎新聞』によると、長崎の医師団による在韓被爆者の健康相談が10月4日から8日まで韓国・大邱市の大邱赤十字病院で実施され、362人が相談を受けました。

 韓国での健康相談は、国の在外被爆者支援事業の一環として昨年7月(陜川)にスタート。同10月(大田・平澤)、今年6月(ソウル)での実施に続き今回で4回目となります。
 医師団は長崎県と市が共同で、医師8人と理学療法士1人、保健師1人など計12人が派遣されました。

 この健康相談は、在韓被爆者が事前に韓国内の医療機関で健康診断を受診し、その結果を基に長崎の医師が健康相談、指導を行う、という形で行われました。
 同紙によれば、大邱市など近郊に在住する被爆者468人のうち、事前健診受診者は414人、健康相談を受けたのは362人(男性162人、女性200人)。平均年齢は67.9歳(最高齢86歳、最若齢59歳)でした(県原爆被爆者対策課)。 

 同事業は、在外被爆者の半数以上が暮らす韓国内を一巡する計画で、来年度も継続する予定、ということです。

 → 詳細は『長崎新聞』9月23日付、10月20日付 をご覧ください。

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(2005年10月14日)
【中国新聞】〔岩国駐在の現役米兵が被爆死米兵の遺影を登録 国立広島追悼祈念館

 14日付『中国新聞』によると、第二次大戦中、広島市で捕虜として収容中に被爆死した米兵の遺影が13日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されました。遺影の登録を行ったのは米海兵隊岩国基地(岩国市)駐在の米兵2人で、現役米兵による遺影登録は初めてということです。

 被爆死した米兵はチャールズ・バウムガートナー軍曹(当時29)。1945年7月28日、搭乗していた爆撃機が広島県上空で撃墜されて捕虜になり、中国憲兵隊司令部(現在の中区基町)で収容中に被爆死しました。

 登録には広島市在住の歴史研究家・森重昭さん(68)が同行しました。登録したのは米空軍のクリストファー・バルガードソン3等軍曹(42)とチャッド・スミス軍曹(28)。岩国基地で9月、森さんの講演を聞いたのがきっかけだったそうです。

 なお森さんによれば、確認されている被爆米兵12人のうち、遺影登録は9人目、名簿登録は10人目、ということです。

 → 詳細は『中国新聞』10月14日付 をご覧ください。

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(2005年10月7日)
【長崎新聞】〔ブラジルの署名3,500人分 長崎・高校生1万人署名活動実行委に手渡す

 私たち在ブラジル原爆被爆者協会は6日、ブラジル国内で集めた「核兵器廃絶」を求める3,500人分の署名を、長崎の高校生1万人署名活動実行委員会に手渡しました。
 10月7日付『長崎新聞』が報じてくださいました。

 長崎に署名を持参したのは、当協会・森田隆会長の長女で訪日中の斉藤綏子(やすこ)さん(58)。7月にブラジルを訪問・署名活動を行ってくださった松尾美咲さん(18、長崎女子高3年)ら同校の実行委メンバー5人に面会し、署名を手渡しました。

 『長崎』紙によれば、松尾さんは「ブラジルの人たちが協力してくれたことは大きく意味がある。うれしい」と語ってくださったようです。
 私たち協会も、微力ながらも署名活動実行委の皆さんのお役に立てたことに、とても喜んでいます。

 → 詳細は『長崎新聞』10月7日付 をご覧ください。

 → 松尾さんのブラジルでの活動については7月27日付
   「集まった署名は8,500人分 長崎・高校生1万人署名活動の松尾さん ブラジル訪問の帰国報告」
   もあわせてご覧ください。

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(2005年10月7日〜14日)
【中国新聞】【長崎新聞】【共同】【時事】
広島市も控訴取り下げ〜在米被爆者訴訟 崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟)での日本政府の上告断念を受け

※10月7日〜20日付 〔崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟) 日本政府と長崎市が上告を断念、判決が確定〕の続報

※5月12日付〔在米被爆者訴訟、日本国外からの申請認める判決 広島地裁
  5月17日付〔在米被爆者訴訟 国と広島市が協議 市の全面敗訴を受け
  6月 9日付〔
在米被爆者訴訟 広島市が控訴 厚労省の要請受け〕 ― の続報

 朗報が続きました!7〜14日付『中国新聞』『長崎新聞』、『共同』『時事』配信、ほか主要各紙が一斉に報じたニュースです。
 崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟)で日本政府と長崎市が7日上告断念を明らかにしたことを受け、広島市は同日、広島高裁で係争中の在米被爆者訴訟を取り下げる方針を固めました。
 市は13日、南野知恵子法相あての控訴取り下げ依頼書を広島法務局に提出。これを受け、同法務局は広島高裁に控訴取下書を出し、在米被爆者ら原告4人が全面勝訴した5月10日広島地裁の1審判決が確定しました!

 在米被爆者訴訟は、崔さん訴訟と同じく、日本国外からの@健康管理手当、保健手当とA葬祭料の申請の是非が争点となっていました。
 つまり今回の訴訟取り下げも、日本国外からの@健康管理手当など各種手当とA葬祭料の申請を、国がようやく認めてくれた結果です!

 日本政府が崔さん訴訟への上告断念と、在外公館での手当と葬祭料申請を認める方針を正式表明した7日。広島市の秋葉忠利市長は記者会見で「長崎市とともに援護充実について国に要望を続けた結果だと思う。海外に住む被爆者の長年の思いが届いた」(8日付『中国新聞』)と歓迎の気持ちを語っていました。 

 以下、裁判のこれまでの経緯をまとめてみました。

〜 在米被爆者訴訟のこれまでの経緯 〜
参考:ホームページ在外被爆者にも被爆者援護法の適用を!(韓国の原爆被害者・在外被爆者に関する情報のページ)
    『長崎新聞』『中国新聞』「共同通信社ホームページ」「時事通信社ホームページ」2005年10月7日付〜14日付
在米被爆者 原告4名(倉本さん、森中さん、Aさん、Bさん) 行政側の対応
1945 倉本篤三さん、
広島市で被爆(1.3km)
森中照子さん、
広島市で入市被爆
Aさん、
広島市で入市被爆
1949. 倉本さん、米国に移住
1950. 森中さん、米国に移住
1959. Aさん、米国に移住
1969. Bさん、広島市で
被爆者健康手帳を取得
1976. 森中さん、広島市で
被爆者健康手帳を取得
1980. Aさん、東京都で
被爆者健康手帳を取得
2000. 5. 倉本さん、広島市で
被爆者健康手帳を取得
2002. 5. 森中さん、広島市で
被爆者健康手帳を再取得
7. 倉本さん、逝去
2003. 3. 日本政府、
在外被爆者への手当支給を開始
(本人の訪日が条件)
7. 倉本さんの遺族、広島市に
葬祭料支給を申請
9. 森中さん、広島市に
健康管理手当支給を申請
広島市、倉本さんの遺族の
葬祭料支給申請を却下
10. 広島市、森中さんの
健康管理手当支給申請を却下
11. Aさん、広島市に
健康管理手当支給を申請
12. 倉本さんの遺族と森中さん、
葬祭料支給申請と手当支給申請を
却下した処分の取り消しを求め、
広島地裁に対し、広島市を提訴。
広島市、Aさんの
健康管理手当支給申請を却下
2004. 3 Bさん、広島市に
保険手当支給を申請
Aさん、手当支給申請を
却下した処分の取り消しを求め、
広島地裁に対し、広島市を提訴。
広島市、Bさんの
健康管理手当支給申請を却下
Bさん、手当支給申請を
却下した処分の取り消しを求め、
広島地裁に対し、広島市を提訴。
2005. 5 手当、葬祭料→福岡高裁が原告4人勝訴の判決
手当、葬祭料→被告・広島市、広島高裁に控訴
9.26 長崎在外被爆者訴訟、
福岡高裁が日本国外からの
手当、葬祭料の申請を認める判決
10. 7 長崎在外被爆者訴訟、
厚労省と長崎市が上告断念を正式表明
日本政府、政省令を改正し
11月から35カ国の在外公館で
手当と葬祭料申請の受け付けを開始する
方針を表明
長崎在外被爆者訴訟の判決を受け、
広島市も在米被爆者訴訟への
控訴取り下げを決める
10.13 広島市、法相あての控訴取り下げ書を
広島法務局に提出
(判決が確定)

 → 詳細は『中国新聞』『長崎新聞』7日〜14日付、ほか主要各紙 をご覧ください。

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(2005年10月7日〜20日)
【長崎新聞】【中国新聞】【共同】【時事】【厚生労働省ホームページ】【外務省ホームページ】
崔さん訴訟(長崎在外被爆者訴訟) 日本政府と長崎市が上告を断念、判決が確定
厚労省 近く政省令を改正、11月から35カ国の在外公館で@手当A葬祭料の申請受付を開始する方針を表明

2004年10月10日付(@「健康管理手当」長崎地裁判決)、
  2005年3月15日付同3月17日付(A「葬祭料」長崎地裁判決)
 
2005年9月26日〜29日付(@A福岡高裁判決)          ― の続報

 私たち在外被爆者の大きな願いのひとつが、ようやくかなう日が来ました!以下、7〜20日付『長崎新聞』『中国新聞』、『共同』『時事』配信、ほか主要各紙が一斉に報じたニュースです。

◆ 韓国在住で昨年7月に亡くなられた被爆者・崔季Kさん(享年78)と遺族が、日本国外からの@健康管理手当とA葬祭料の申請の是非をめぐり長崎市を提訴、2審福岡高裁判決で勝訴した裁判(「長崎在外被爆者訴訟」)について ―。
 7日、実質的な被告である日本政府と、直接の被告である長崎市はそれぞれ、最高裁への上告をしないことを明らかにしました。これにより上告期限の11日、判決は確定しました。
 つまり、日本国外からの@健康管理手当とA葬祭料の申請を、国がようやく認めてくれたのです!

◆ これに伴い同日、厚労省は、近く政省令を改正し、今11月から35カ国の在外公館で@手当A葬祭料の申請受け付けを開始すると明言しました!

尾辻秀久厚労相の9月27日〜10月7日の談話(「厚生労働省ホームページ」より):
  (9月27日)  「国側にとりましては、大変厳しい判断が示されたというふうに考えます」。
 (上告の判断は)「1週間くらいで結論を出したい、とは思っております」。
  (9月30日)  「長崎市から助役がお見えになって、上告はしたくないと、避けたいというお話がございました」。
  (10月7日)  「在外被爆者の方々の高齢化に思いを致す必要があること(等を)総合的に勘案致しまして、
国の意見として長崎市に上訴を促すことはしないということに決めました」。
 「健康管理手当等の国外からの申請を可能とする、ということにいたしました」。
 「(葬祭料も)含めて検討します」。
 「高齢化しておられる、そして日本で今は海外にお住まいですけれども、
被爆なさったという極めて重い事実もあります。
 そうした中で“何ができるんだろう”“どうすればいいんだろう”ということを
ずっと思ってまいりました、考え続けてまいりました。
 そうした中で…今回政治決断をしたとご理解を下さい」。
     → 尾辻厚労相の閣議後記者会見(概要・抜粋)、厚労省報道発表資料の内容はこちら(クリック!)
 
町村信孝外相の9月27日、10月7日の談話(「外務省ホームページより):
  (9月27日)  「在外被爆者の問題については、かねてより、外務省も、特に人数の多い韓国との関係において、
日韓外相会談等でも我が方からむしろ積極的に取り上げるような形でやってきております。
 健康管理手当の支給申請にあたって在外公館の活用を検討するということを
既に何度も述べてきています。
 今、厚生労働省とも連絡をとりながら、
実務的にどうやればそれが可能なのか前向きに検討しているところで、
一定の方向性は出ていると思っています。
 更にこの検討を急ぎ、できるだけ早く、判決の趣旨も踏まえて、
実現に向けて努力していこうと思っています」。
  (10月7日)  「外務省も在外公館の窓口で申請を受け付けるようにするということで方向が一致しましたので、
いつとは言えませんが出来るだけ早くそれをできるように準備体制を整えていこうと思っております」。
     → 谷内外務事務次官、町村外相の記者会見(概要・抜粋)の内容はこちら(クリック!)
 
伊藤一長長崎市長の10月7日の談話(市役所での記者会見にて、8日付『長崎新聞』より)
    「在外被爆者の高齢化などを考え、上告しない方向で考えてほしいとの思いを
   判決直後から国に強く申し入れてきた。
    国の判断は、在外被爆者の実情に即した援護を要望してきた市にとって、
   非常に喜ばしいことだ」。
    「今後も、内外を問わず被爆者が安心して生活できるよう、
   国の責任で援護の強化、推進を図ってほしい」。

 …私たち在外被爆者は、この日が来るのを待ちわびていました。
 このたびの勝訴判決は、これまで闘ってこられたすべての在外被爆者の皆さんと、支援してくださった日本の皆さん、冷静な判決を下してくださった裁判官の皆さんのおかげです。厚くお礼を申し上げます。
 ならびに今回、政治決断を下された尾辻厚労相、伊藤長崎市長をはじめとする行政担当者の方々に、改めてお礼を申し上げます。
 そして、苦闘の末に亡くなられた崔さんのご冥福を、ここに心からお祈りしたします。…

崔季Kさんが生前、家族に託した言葉(19日付『長崎新聞』より)
    「原爆のせいでこんな体になったが、同じような被爆者のために裁判を続けてほしい」。
    「原爆や戦争で苦しんでいる人が救われることを祈りながら、この世を去る」。
 
崔さんの遺族の談話(8日付、12日付『長崎新聞』より)
   6女の崔美淑さん(40)  「父が生きているときの苦労を思えば感無量」。
 「父のように苦しむ被爆者が生まれないよう願う」。
   妻の白楽任さん(77) 「訴訟のことを思うたびに苦しんでいた夫を思い出し、一度はやめようかとも思った。
でも、夫と同じような人を生んではいけないと思い、続けてきてよかった」。

 以下、裁判のこれまでの経緯をまとめてみました。

〜 崔さん裁判(長崎在外被爆者訴訟)のこれまでの経緯 〜
参考:『長崎新聞』『中国新聞』「共同通信社ホームページ」「時事通信社ホームページ」2005年9月25日付〜10月20日付
崔さん 行政側の対応
1945. 8. 崔さん、長崎市で入市被爆
終戦後 崔さん、韓国に帰国
1976. 崔さん、長崎市で被爆者健康手帳を取得
2003. 3. 日本政府、
在外被爆者への手当支給を開始
(本人の訪日が条件)
2004. 1. 崔さん、寝たきり状態で訪日できないため、
代理人を通じ、長崎市に手当支給を申請
長崎市、
崔さんの手当支給申請を却下
2. 崔さん、手当支給申請を却下した処分の
取り消しを求め、
長崎地裁に対し、長崎市を提訴。
7. 崔さん、逝去(享年78)
8. 崔さんの遺族、
長崎市に葬祭料支給を申請
長崎市、
崔さんの遺族の葬祭料支給申請を却下
9. 崔さんの遺族、
葬祭料支給申請を却下した処分の
取り消しを求め、
長崎地裁に対し、長崎市を提訴。
手当→長崎地裁が原告勝訴の判決
10. 手当→被告・長崎市、福岡高裁に控訴
2005. 3. 葬祭料→長崎地裁が原告勝訴の判決
葬祭料→被告・長崎市、福岡高裁に控訴
9.26 手当、葬祭料→福岡高裁が原告勝訴の判決
官房長官、福岡高裁判決を受け、
日本国外からの手当と葬祭料の申請を
認める方向で、
在外被爆者援護制度を見直す意向を表明
長崎市、福岡高裁判決に
上告しない方針を表明
9.27. 実質的な被告の厚労省、福岡高裁判決に
上告を断念する方針を固める
10. 7 厚労省と長崎市、上告断念を正式表明
日本政府、政省令を改正し
11月から35カ国の在外公館で
手当と葬祭料申請の受け付けを開始する
方針を表明
10.11. 判決が確定

 → 詳細は『長崎新聞』『中国新聞』7日〜20日付、ほか主要各紙 をご覧ください。

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