妄想幕末風雲録 − 2

話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。

2004年12月4日恵の掲示板より妄想幕末風雲録が移動してきました。
                                               アイ

幕末風雲録 ー 1 投稿者:kazuya 投稿日:2004/10/29(Fri) 19:40 No.221

写真は竜馬

この時代の徳川家の主要人物の系図の整理をしてみようか。

なぜ14代将軍(家茂いえもち)に一橋慶喜(よしのぶ)ではなく、紀州から慶福(よしとみ)が選ばれたかいえば、慶福が11代の家斉の孫であったためと、幼少のため老中たちにとっては扱いやすいという思惑があったためかもね。

幕末の水戸藩の家系は6代治保(はるもり)の三男で9代斉昭(なりあき)その子の一橋慶喜
 尾張藩は水戸治保の次男で高須家を継いでいた尾張義和(よしより)その子で高須家の尾張義達(よしたつ)その五男の尾張茂徳(もちなが)と水戸系が続いていたんだよ。
さらに幕末の京都で活躍した、二人の兄弟・会津の松平(保科)容保(かたもり)ー「義達の六男」と、桑名の松平(久松)定敬(さだあき)ー「義達の七男」がいます。

図表を作ってみればわかりやすいよ。  
水戸家の勤皇思想は当時の幕府から見れば宗家を危うくする危険思想とみなされていたが、幕府自体が勤皇の第一番としなければ、家の存亡にかかわることになって行きその収拾を図るために家茂の亡き後慶喜に15代を継がせざるを得なくなってしまったことが、徳川家の大政奉還につながっていったんだね。
しかしなぜ勤皇思想の水戸家の出身者があくまで朝敵とされ追討されたかといえば、竜馬と西郷の誤算が原因の一環だとkazuyaは考えました。

追加
保科松平はその先祖に秀忠の四男の保科正之がいるし、
久松松平は松平定信が養子に田安家より入ったことで有名になっているよね、当時は白河から桑名にお国替えになっているので知らない人が多いかも。

本日はここまで。



幕末を生き抜いた4人 kazuya - 2004/12/05(Sun) 20:07 No.363  

高須松平4兄弟
左から、松平定敬、松平容保、一橋茂栄、徳川慶勝
この人たちの行動が幕末の徳川家の明暗を決めたといえますね。
そうだ、よく出てくる下母澤ェさんのェは本当はウ冠ではなく上の点はないそうです。
でもそんな字は辞書に無いので使えないそうです。






Re: 幕末を生き抜いた4人 ai - 2004/12/05(Sun) 20:17 No.364  


パパTelサンキューでした〜〜。
早速使わせていただきました〜〜。
早業でっしょ〜〜ホメテ(^^)ホメテネ〜〜。
幕末風雲録ー1に入れてアップしました。
マキリンありがと〜〜う。
これからも編集して順番が入れ替わるかもしれませんが許してチョ〜〜。



Re: 幕末を生き抜いた4人 kazuya - 2004/12/05(Sun) 20:40 No.365  


ゴメンゴメン。

まだ全部入れて無かったよ、一橋茂栄について書こうとしたんだけど少し資料を見てからということで遅れてしまいました。
尾張徳川慶勝のあとを受けて十五代目の尾張家の当主になったりしたために名前がいろいろ変わっています。
美濃高須藩主松平(尾張)義建の五男
 初め美濃高須藩主松平義比(よしちか)となり、
 尾張宗家を継ぎ徳川(尾張)茂徳(もちなが)、
 隠居後さらに一橋家を継ぎ一橋茂栄(もちはる)となる。
( 2006,06、09追加記載 一橋玄同 という名乗りもあります。 )
なんという人生でしょうか、歴史の中に埋もれるには何か惜しい人のように思われます。

徳川(尾張)慶勝(よしかつ)(慶恕)
生没年:1824-1883
父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の次男
義父:尾張名古屋藩十三代藩主 徳川慶臧
幼名:秀之助
徳川慶恕
1849-1850 尾張名古屋藩十四代藩主
1850 従三位権中納言
1862 従二位権大納言
1864 第一次長州征伐総督
1870-1883 尾張名古屋藩十七代藩主

徳川茂徳 (もちなが)
実は下記の資料では一橋時代の名前が違うので調べなおしていました。
一橋茂徳(もちなが)・尾張家と混同か?
徳川繁栄 ・この資料のサイトでは9代目の慶喜も記入が無かったし信頼できないっか?
一橋茂栄(もちはる)
オナジヒトナンダケドナァ、良くわからんです。
生没年:1831-1884
父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の5男
義父:尾張名古屋藩十四代、十七代藩主徳川慶勝
幼名:鎮三郎
1850-1858 美濃高須藩十一代藩主 松平義比
1850 従四位下権少将
1858-1863 尾張名古屋藩十五代藩主
1866-1884 一橋徳川家十代当主 徳川繁栄

正室:政姫(父:丹羽長富)
1858-1860 松平義端(美濃高須藩へ)
達道(一橋徳川家へ)
1858-1875 (養子)義宜

松平(保科)容保(かたもり)
生没年:1835-1893
父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の6男
義父:陸奥会津藩八代藩主 松平容敬
幼名:_之丞
1846 従四位下侍従
1852-1868 陸奥会津藩九代藩主
1862-1867 京都守護職
1864 禁門の変
1867 戊辰戦争
日光東照宮宮司
正室:(父:陸奥会津藩八代藩主 松平容敬)
1869- 容大
(養子)喜徳(守山松平家へ)

1877-1949 恒雄
1878-1944 保男

松平(久松)定敬(さだあき)
生没年:1846-1908
父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の七男
義父:伊勢桑名藩主 松平定猷
幼名:慎之助
1858-1868 伊勢桑名藩主
1864- 京都所司代
日光東照宮宮司
正室:初姫(父:伊勢桑名藩主 松平定猷
正室:(父:常陸水戸藩十代藩主 徳川慶篤)
定晴
(養子)定教

とまあこうなんだけどこんな資料もあるそうです。

尾張支藩「高須松平家」の兄弟
長男 夭折
次男 慶勝 尾張徳川家
三男 武成 石見松平家
四男 夭折
五男 茂栄 高須松平家→尾張徳川家→一橋大納言家
六男 夭折
七男 容保 会津松平家
八男 定敬 桑名松平家
九男 夭折
十男 義勇 高須松平家

義勇は容保の同腹の弟。よく定敬が容保の同腹とあるのは間違いで、定敬の母は宮崎と呼ばれた奥女中であった。

女子については省略した。(但し、容保と定敬の間に、妹「幸」がある。弘化2年生まれ。文久2年上杉茂憲に嫁す)。




Re: 幕末を生き抜いた4人 ai - 2004/12/05(Sun) 21:48 No.366  


添付は容保公

ウッヒャア(~_~;bR63少ないと思いました〜〜ァ
パパなんて資料を掘り出してきたの〜〜ぅ。
容保さん以下の生まれた順番がひとつずつずれてしまうのですね〜〜ぇ。
了解いたしました、早速webに追加いたします。
本当にパパが言うように水戸系の方々が最後の徳川家を動かしたのが良くわかりますね。
一橋系と書くと慶喜が思い浮かぶけどこの方も水戸系で本当の意味の一橋系(吉宗系)は、中枢から追いやられていったのが良くわかります。





Re: 幕末風雲録 ー 1 kazuya - 2004/10/29(Fri) 22:41 No.223  

沙織君のメールへの返事

タイムラグについてと進行の正確性については、kazuyaのフィクションです。
それというのも資料が旧暦と西暦とに整理されていないためです。
歴史事実は教科書を優先してくださいね。

写真は勝海舟

1867年6月、坂本竜馬の「舟中八策」の構想を受けた後藤正二郎が上洛、薩土同盟を結んで薩摩藩の協力を取りつけ、大政奉還運動を推進したんだ。
これを受け、10月14日徳川慶喜が大政奉還の許可を求め翌15日朝廷はこれを許可。
慶喜は自己の優位を画策したがね、しかしながら慶喜を信頼できなかった、西郷と大久保は、薩摩藩として再度長州と協力しての武力討幕を決意することになった。
11月15日の竜馬の死後、諸侯の多くは上洛せず、政局は混迷し12月9日(1968年1月3日)の王政復古の政変の日を迎えてしまった。
竜馬があと少し生きていればもう少し違う展開もあろうかと思えるのですが。

舟中八策

1. 大政奉還
天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事

2. 上下議政局
上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事

3. 有材の人物登用
有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事

4. 外国との交際
外国との交際広く公議に採り、新に至当の規約を立つべき事

5. 無窮の大典(憲法)撰定
古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事

6. 海軍拡張
海軍宜しく拡張すべき事

7. 御親兵帝都守衛
御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事

8. 金銀物貨外国と平等(対等条約)
金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事


当時の進歩人としての竜馬の面目躍如たる建策だね。




Re: 幕末風雲録 ー 1 kazuya - 2004/10/30(Sat) 08:59 No.224  

大政奉還について14日というのは旧暦慶応3年10月14日の奏上で15日(1867年11月10日)に奏上を裁可されました。

慶応3年11月15日(1867年12月10日)の竜馬の死後(大政奉還が土佐藩の画策であり幕府から統治権を奪った、とくに竜馬を標的とした京都見廻組・今井信郎などの襲撃というのが正しいかもしれません、
12月9日(1968年1月3日)に王政復古の大号令という時間進行が西暦に基づいた時間の流れだと思います。

竜馬は正しくは龍馬だそうですがまその辺は適当なkazuyaです。
彼の誤算は天皇親政のもとで、政治を行うことでなく広く有志を結集して国づくりの基本政策を作るという現代に通じる民主主義の基本理念が当時の攘夷派の指導者たちに理解できずじまいに終わったことですね。
これはアイがメモしてあるだろう与太話をいつか公開しますね。
慶喜の将軍宣下後わずか20日後になんということか、孝明天皇が崩御なされなければまた違った展開もありえたかもしれませんね。
岩倉具視を中心とする反幕府公家集団にとっては孝明天皇が、政治実権を天皇が握ることに消極的であることが、ネックとなり倒幕の大号令が出せずにいたことと、天皇の崩御が関連ずけられる妄想はいろいろの方も書かれていて、だいぶ前にアイ達に話したように面白い話題です。
崩御・慶応2年12月25日(1967年1月30日)(36歳)
孝明天皇と、ともに国難に立ち向かう徳川家茂は、すでに慶応2年9月6日死去(1866年10月14日)(21才)していて、これより薩摩とくに西郷も幕府を完全に見限ることになった。
Re: 横浜・ザキ kazuya - 2004/11/02(Tue) 21:49 No.238  

龍馬の新婚旅行の話って案外と知ってる人が多いものだと思ってました。
(@_@;)
彼が幕府からお尋ねものみたいに追われていたとき、西郷の勧めでお竜さんと(慶応2年1月23日に寺田屋で襲われたときの危急をすくった話は有名だよ)薩摩にかくまわれて(慶応2年4月ごろ)いたときに、領内を二人で彼方此方旅したりしたときの逸話が残っているんだよ。
たとえば天の逆矛を見に山に登ったり、指宿に出かけて温泉に二人で入ったりと今なら珍しくないことでも、当時の人々にとってはナンセ男女7歳にして席を同じ有うせず、という時代しかも薩摩という昔かたぎの融通の聞かない田舎でのことだからね。
相当にビックリされたんだろうさ。
アイに面白おかしく話を聞くともっとびっくりの逸話も教えてくれるよ。楽しみに取っておいてくださいね。
試験早く終わるといいね。


入り口に戻る  
風雲録ー2