話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。
2004年12月4日恵の掲示板より妄想幕末風雲録が移動してきました。
アイ
幕末風雲録 ー 1 投稿者:kazuya 投稿日:2004/10/29(Fri) 19:40 No.221 |
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Re: 幕末を生き抜いた4人 ai - 2004/12/05(Sun) 20:17 No.364 |
パパTelサンキューでした〜〜。 早速使わせていただきました〜〜。 早業でっしょ〜〜ホメテ(^^)ホメテネ〜〜。 幕末風雲録ー1に入れてアップしました。 マキリンありがと〜〜う。 これからも編集して順番が入れ替わるかもしれませんが許してチョ〜〜。 |
Re: 幕末を生き抜いた4人 kazuya - 2004/12/05(Sun) 20:40 No.365 |
ゴメンゴメン。 まだ全部入れて無かったよ、一橋茂栄について書こうとしたんだけど少し資料を見てからということで遅れてしまいました。 尾張徳川慶勝のあとを受けて十五代目の尾張家の当主になったりしたために名前がいろいろ変わっています。 美濃高須藩主松平(尾張)義建の五男 初め美濃高須藩主松平義比(よしちか)となり、 尾張宗家を継ぎ徳川(尾張)茂徳(もちなが)、 隠居後さらに一橋家を継ぎ一橋茂栄(もちはる)となる。 ( 2006,06、09追加記載 一橋玄同 という名乗りもあります。 ) なんという人生でしょうか、歴史の中に埋もれるには何か惜しい人のように思われます。 徳川(尾張)慶勝(よしかつ)(慶恕) 生没年:1824-1883 父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の次男 義父:尾張名古屋藩十三代藩主 徳川慶臧 幼名:秀之助 徳川慶恕 1849-1850 尾張名古屋藩十四代藩主 1850 従三位権中納言 1862 従二位権大納言 1864 第一次長州征伐総督 1870-1883 尾張名古屋藩十七代藩主 徳川茂徳 (もちなが) 実は下記の資料では一橋時代の名前が違うので調べなおしていました。 一橋茂徳(もちなが)・尾張家と混同か? 徳川繁栄 ・この資料のサイトでは9代目の慶喜も記入が無かったし信頼できないっか? 一橋茂栄(もちはる) オナジヒトナンダケドナァ、良くわからんです。 生没年:1831-1884 父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の5男 義父:尾張名古屋藩十四代、十七代藩主徳川慶勝 幼名:鎮三郎 1850-1858 美濃高須藩十一代藩主 松平義比 1850 従四位下権少将 1858-1863 尾張名古屋藩十五代藩主 1866-1884 一橋徳川家十代当主 徳川繁栄 正室:政姫(父:丹羽長富) 1858-1860 松平義端(美濃高須藩へ) 達道(一橋徳川家へ) 1858-1875 (養子)義宜 松平(保科)容保(かたもり) 生没年:1835-1893 父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の6男 義父:陸奥会津藩八代藩主 松平容敬 幼名:_之丞 1846 従四位下侍従 1852-1868 陸奥会津藩九代藩主 1862-1867 京都守護職 1864 禁門の変 1867 戊辰戦争 日光東照宮宮司 正室:(父:陸奥会津藩八代藩主 松平容敬) 1869- 容大 (養子)喜徳(守山松平家へ) 男 1877-1949 恒雄 1878-1944 保男 松平(久松)定敬(さだあき) 生没年:1846-1908 父:美濃高須藩十代藩主 松平義建 の七男 義父:伊勢桑名藩主 松平定猷 幼名:慎之助 1858-1868 伊勢桑名藩主 1864- 京都所司代 日光東照宮宮司 正室:初姫(父:伊勢桑名藩主 松平定猷 正室:(父:常陸水戸藩十代藩主 徳川慶篤) 定晴 (養子)定教 とまあこうなんだけどこんな資料もあるそうです。 尾張支藩「高須松平家」の兄弟 長男 夭折 次男 慶勝 尾張徳川家 三男 武成 石見松平家 四男 夭折 五男 茂栄 高須松平家→尾張徳川家→一橋大納言家 六男 夭折 七男 容保 会津松平家 八男 定敬 桑名松平家 九男 夭折 十男 義勇 高須松平家 義勇は容保の同腹の弟。よく定敬が容保の同腹とあるのは間違いで、定敬の母は宮崎と呼ばれた奥女中であった。 女子については省略した。(但し、容保と定敬の間に、妹「幸」がある。弘化2年生まれ。文久2年上杉茂憲に嫁す)。 |
Re: 幕末を生き抜いた4人 ai - 2004/12/05(Sun) 21:48 No.366 |
添付は容保公 |
Re: 幕末風雲録 ー 1 kazuya - 2004/10/29(Fri) 22:41 No.223 |
Re: 幕末風雲録 ー 1 kazuya - 2004/10/30(Sat) 08:59 No.224 |
大政奉還について14日というのは旧暦慶応3年10月14日の奏上で15日(1867年11月10日)に奏上を裁可されました。 慶応3年11月15日(1867年12月10日)の竜馬の死後(大政奉還が土佐藩の画策であり幕府から統治権を奪った、とくに竜馬を標的とした京都見廻組・今井信郎などの襲撃というのが正しいかもしれません、 12月9日(1968年1月3日)に王政復古の大号令という時間進行が西暦に基づいた時間の流れだと思います。 竜馬は正しくは龍馬だそうですがまその辺は適当なkazuyaです。 彼の誤算は天皇親政のもとで、政治を行うことでなく広く有志を結集して国づくりの基本政策を作るという現代に通じる民主主義の基本理念が当時の攘夷派の指導者たちに理解できずじまいに終わったことですね。 これはアイがメモしてあるだろう与太話をいつか公開しますね。 慶喜の将軍宣下後わずか20日後になんということか、孝明天皇が崩御なされなければまた違った展開もありえたかもしれませんね。 岩倉具視を中心とする反幕府公家集団にとっては孝明天皇が、政治実権を天皇が握ることに消極的であることが、ネックとなり倒幕の大号令が出せずにいたことと、天皇の崩御が関連ずけられる妄想はいろいろの方も書かれていて、だいぶ前にアイ達に話したように面白い話題です。 崩御・慶応2年12月25日(1967年1月30日)(36歳) 孝明天皇と、ともに国難に立ち向かう徳川家茂は、すでに慶応2年9月6日死去(1866年10月14日)(21才)していて、これより薩摩とくに西郷も幕府を完全に見限ることになった。 |
Re: 横浜・ザキ kazuya - 2004/11/02(Tue) 21:49 No.238 |
龍馬の新婚旅行の話って案外と知ってる人が多いものだと思ってました。 (@_@;) 彼が幕府からお尋ねものみたいに追われていたとき、西郷の勧めでお竜さんと(慶応2年1月23日に寺田屋で襲われたときの危急をすくった話は有名だよ)薩摩にかくまわれて(慶応2年4月ごろ)いたときに、領内を二人で彼方此方旅したりしたときの逸話が残っているんだよ。 たとえば天の逆矛を見に山に登ったり、指宿に出かけて温泉に二人で入ったりと今なら珍しくないことでも、当時の人々にとってはナンセ男女7歳にして席を同じ有うせず、という時代しかも薩摩という昔かたぎの融通の聞かない田舎でのことだからね。 相当にビックリされたんだろうさ。 アイに面白おかしく話を聞くともっとびっくりの逸話も教えてくれるよ。楽しみに取っておいてくださいね。 試験早く終わるといいね。 |
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風雲録ー2 |