横浜幻想     パリ幻想歩き
其の十二より Moulin de la Galette 阿井一矢

此処は酔芙蓉・横浜幻想のためのパリ幻想歩きのページです。
正太郎君が歩いた時代、其の1870年代からユトリロの1920年前後のパリ、特にセーヌの右岸と左岸周辺を幻想歩きします。
此処では昔の道なので今のように一方通行の無い時代でGoogle マップGoogle アースルートを検索するとだいぶ遠回りになる事になるようです、主に馬車もしくは歩きが多く時々馬車トラムを使用する予定だそうです。
通りの名前は其の当時のが判明していないものは現在時点でのものを使用しています。
アクサンは省略させていただきます。
パリへは行っていない教授にアイですが(行きたいとは思うのですが)此処では秘密部屋に教授が書いた横浜幻想フランス編のMoulin de la Galetteの解説を編集しました。アイ


北駅Gare du Nordと東駅Gare de l’Estストラスブルグ駅) 

モンマルトルの丘を下りムーラン・ルージュまで来たが、此処では正太郎が初めてパリへ入った北駅からの道を歩いてみたい。
オテル・モンパルナスは創作だがこの付近もホテルは多い。

北駅と東駅(ストラスブルグ駅)は同じ駅というほど近くにある。それでも行き先によって乗換えが必要で東京ほど楽では無い。

北駅の南西側セーヌへの道は駅の正面を行くと大きな通りに出る、其処が東駅(ストラスブルグ駅)との間にあるラファイエット通りで先へ行くとすぐ右手にEglise Saint-Vincent-de-Paul(サンバンサン・ド・ポール教会)が有る、正太郎が見ていた教会だ。

そのまま進むとオペラ・ガルニエに行き着く。

其処はサン・ドニ門から来るモンマルトル大通りの続きのオスマン大通りであり大小あわせると6つの道に分かれる拠点だ。
オペラ・ガルニエの手前のオスマン大通りを右へ曲がるとデパートのオ・プランタンが1865年から営業を続けている。

正太郎がMomoに約束したエメの服を買ったPassage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)はオスマン大通りを左手に曲がるとある。

場所はモンマルトル大通りとグランジバトゥリエール通りに通じる商店街で1847年に完成したパサージュとしては新しい?場所だ。

現在残るパサージュを列挙するとこうなる。

Galeries du Palais-Royal(ギャラリー・デュ・パレ=ロワイヤル) 、プチシャン通り/リヴォリ通り、完成/ボワ1788年/ドルレアン1830年。

Passage du Caire(パサージュ・デュ・ケール、カイロ広場/サンドニ通り、1799年完成)。

Passage du Grand-Cerfパサージュ・デュ・グランセール、サンドニ通り/デュスウー通り、1825年完成。

Passage du Ponceau(パサージュ・デュ・ポンソー、サンドニ通り/セバストポール大通り、1826年完成。

Galerie Vero-Dodat(ギャラリー・ヴェロドタ)、ブロワ通り/ジャンジャック・ルソー通り、完成/1826年。

Galerie Vivienne(ギャラリー・ヴィヴィエンヌ)、プチシャン通り/ヴィヴィエンヌ通り、1826年完成

Galerie Colbert(ギャルリー・コルベール)、プチシャン通り/ヴィヴィエンヌ通り、1826年完成。

Passage de Choiseaul(パサージュ・ド・ショワズール)、プチ・シャン通り/サン・オーガスティン通り、完成1827年。

Passage Vendome, 16, Rue Beranger/3, Place de la Republique(パサージュ・ヴァンドーム)、ベランジェール通り/リパブリック広場、1827年完成。

Passage Bourg-l'Abee(パサージュ・ブールラベ)、サンドニ通り/パレストロ通り、1828年完成。

Passage Brady(パサージュ・ブラディ)、フォブール・サンドニ通り/フォブール・サンマルタン通り、1828年完成)。

Passage du Prado(パサージュ・デュ・プラド)、フォブール・サンドニ通り/サンドニ大通り、1830年頃完成

Passage Puteaux (パサージュ・ピュトー)マドレーヌ広場に面した場所に、Galerie de la Madeleine の入り口、足元にはまっすぐに伸びた格子状のタイル、頭上には鉄道駅を想起させるガラス屋根が設けられている。
パサージュ・ピュトーの完成は1839年、ラルカド通り/パキエ通り。

Passage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)。12, Boulevard Montmartreモンマルトル大通り/グランジバトゥリエール通り、1847年完成。

Passage Verdeau(パサージュ・ヴェルドー)。グランジバトゥリエール通り/フォブールモンマルトル通り、1847年完成。

Passage des Panoramas (パサージュ・パノラマ)11, Boulevard Montmartre。モンマルトル大通り、1800年完成。

Passage des Princes(パサージュ・デ・プランス)。イタリアン通り/リシュリュー通り、1860年完成。

と17ヵ所だがまだほかに残っているらしい。
追加

Passage du Havre(パサージュ・アーブル、サンラザール駅近く・調査中)

Galeries de Montpensier(ギャラリー・デ・モンパンシエ)
パレ・ロワイヤル
の庭園の内側に、庭よりも一回り小さなコの字型の建物をたて中庭側の一階を屋根つきの商店街に、上の階をアパルトマンにした。
仕立て屋、宝石店、装飾品店、時計屋などの高級モードの専門店、版画屋や書店、レストラン、カフェ、酒場といった飲食店、影絵芝居、人形劇、蝋人形館などの見世物売春宿や賭博場といった様々なテナントが軒を連ねることになった。
南北
100 メートル、東西275 メートルのパレ=ロワイヤルは、パリ市民の住居、商業施設、娯楽施設までも並存した空間になった。

北・東・西の回廊は、ギャラリー・ボジョレーGalerie Beaujolaisギャラリー・ド・モンパンシエGalerie de Montpensierギャラリー・ド・ヴァロワGalerie de Valois と名付けられ、これら石造りのコの字型の建物は、総じて〈ギャラリー・ド・ピエールGaleries de Pierreと呼ばれていた。
南に関しては、革命の勃発によりギャラリーの建設は基礎部分の打ち上げだけで頓挫してしまっていたが、木造の臨時の回廊がつくられ、
〈ギャラリー・ド・ボワ〉と名付けられた。

詳しくは此方で調べてください。
Paris  ショッピング 屋根つき商店街 パサージュ(パッサージュ) Passage
パサージュ年代記



さてオペラ・ガルニエだl'Opera(オペラハウス・オペラ座)というべきだろうか。

1989年にオペラ・バスティーユが完成ここでオペラ公演が行われ、バスティーユ・オペラ座もしくは新オペラ座とも呼ばれるのでオペラ・ガルニエがオペラ座と呼ばれることはなくなりつつある。

1875年に落成式が行われた此処は設計者の名前を取ってPalais Garnier(ガルニエ宮)といわれた。

正太郎がパリへ入ったときにはほぼ外見は出来上がっていて1874年12月に完成した。

正太郎がトロカデロ広場からオテル・モンパルナスへ歩いた道を反対にたどるならサンバンサン・ド・ポール教会からフォリー・ベルジェールへの道を辿らなければならないだろう。

1869年の開店のパリで一番古いミュージックホールといわれ正太郎の時代は出来てまだ時がたっていない割に有名であった。

Place Franz Liszt(フランツ・リスト公園)はサンバンサン・ド・ポール教会の道路向かいの小さな公園だ。

其の前からRue d’Hauteville(オートビル通り)が南へ伸びていてフォリー・ベルジェールの有るリシェル通りと行き会う、其の途中にはCafeRestaurantsalle a manger(サラマンジュ・食堂)が並んでいて話のカフェモンクもこの通りにあることにした。

もっとも其処はRue Petites Ecuries(プチ・エキュリ通り)のはずだ、角を右へ曲がり250メートルほど先にFolies Bergere(フォリー・ベルジェール)が有る。

其の前の斜めに入る道はRue Geoffroy Marie(ジェフロア-マリー通り)ここも今はホテルが立ち並ぶ通りになりましたがこの頃は居酒屋にカフェが多かったようだ。

その道は100メートルほど先でRue Faubourg Montmartre(ファーブル・モンマルトル通り)に出るが其の出口に三角に出会う道はRue de Montyonで其の角には道に合わせた三角のホテルがある。

この三叉路の角を北へ上がるとPassage Verdeau(パサージュ・ヴェルドー)が有り、セーヌへ向かう南側はモンマルトル大通りへ出る。

大通りを右へ曲がるとエメたちお気に入りのPassage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)が北側に南にPassage des Panoramas(パサージュ・パノラマ)が有る。

大通りをオペラ・ガルニエ方向へ進むとPassage des Princes(パサージュ・デ・プランス)がイタリアン通りとリシュリュー通りに挟まれて此処は1860年完成と上記リストの中では一番新しいパサージュだ。

オペラ・ガルニエに来て道を回りこむ形で南側にLe Grand Hotel Intercontinental Paris(インターコンチネンタル・ルグラン・2, rue Scribe 75009 Paris)が有りイギリスからMiss.Mac Horn(オウレリア・マック・ホーン)がジュディとグレン・ラムレイを引き連れ、正太郎の手助けをしようとパリへ来た時に泊まったホテルだ。

正太郎はガルニエの前と思ったようだがオペラ・ガルニエの正面左側にあるのだ。此処は1862年の創業でパリ万博の各国からの来賓のために国威発揚のために建てられた。

勿論巴里万博幕府代表の徳川昭武一行も此処へ泊まっている。

オペラ・ガルニエの正面の道はBl. des Capucines(キャプシーヌ大通り)其処を渡りAV de l'Opera(オペラ大通り)を南へ行くとルーブル宮(ルーブル美術館)へ行き着く。

Musee du Louvre(ルーブル美術館)は勿論正太郎の時代も美術館として市民に開かれていた。

其処へ行き着いて振り返ると右側にはComedie-Francaise(コメディ・フランセーズ)其の先には2区の国立図書館(旧図書館)北側のフランス郵船事務所は創作ですがコメディ・フランセーズのあるPalais Royal(パレ・ロワイヤル)は三銃士にも出てくるルイ13世の宰相のリシュリューの城館でした。

宰相リシュリューの死後、ルイ13世に贈られルイ13世が亡くなると1643年に5才のルイ14世がルーブル宮殿から移り住みパレ・ロワイヤル(王宮)と呼ばれるようになったものだ。

コメディ・フランセーズは1799年から此処を本拠地としていた、そしてこの話に出てくるサラ・ベルナールは1862年〜1866年と1872年〜1880年に在籍していた。

この話の当時は移籍問題でオデオン座と裁判が進んでいた時期に当たり、裁判の結果サラはオデオン座に6000フランの違約金を支払った。


Google マップでGare du Nord・オテル・モンパルナス(ホテルは創作です)からオペラ・ガルニエまでと其の先ルーブルとフランス郵船(事務所は創作です)までたどる地図を作りましたのでご覧くださいませ。  アイ

此方でも地図の下のほうからでも別ページが開きますので動かすことが出来ます。 大きな地図で見る

Sarah Bernhardt サラ・ベルナールについて
本名はSara Marie Henriette Bernhardt。(アンリエット・ロジーヌ・ベルナールとも)
父 M. Edouard Bernhardt (モレル・エドア−ル・ベルナール)
母 Judith Van Hard    (ジュディ・ファン・ハード)
1844年10月23日パリ生まれ・1923年3月23日パリにて亡くなる。
サラ・ベルナール
Britannicus Junie 1867
Theatre de l'Odeon, Paris


サラ・ベルナール
Britannicus Junie 1872
Comedie-Francaise, Paris


サラ・ベルナール



サラ・ベルナール
Britannicus Junie
Comedie-Francaise, Paris ?

提供 ヨッチン様

サラ・ベルナール オデオン座 1872
ユゴー作 『リュイ・ブラス』
Dona Maria de Neubourg
(スペイン王妃ドナ・マリア・ヌブール)

資料によって写真の年代に違いがあります。
右中も1867年かもしれませんね。
(アイ)
追加情報
左上の写真を1859年とする記事が
多く見られるのですが15歳時と言うのはまだ
俳優デビュー前なので(18歳という記事もあり)
ナダールの写真館の営業開始時との
訳し間違いであろうと教授が言うとりました。

エミリエンヌ・ブリュンティエール
Emilienne Brunnetiere
この人は創作ですが、
La Parisienne (La Dame en bleu), 1874
National Museum of Wales, Cardiff.
というルノワールの絵がモデルです。





エミリエンヌ・ブリュンティエール
Emilienne Brunnetiere
のもう一つのモデル画像。
Jules Joseph Lefebvre(ルフェーブル)
1870年(1872年)
マンドリンを持つ少女
(Jeune femme a la mandoline )
(Girl with a Mandolin)
Collection of Fred and Sherry Ross, USA


パリの住居表示「番地+通り名+郵便番号+Paris

パリの番地は、 セーヌ川と直交の通りでは川を背にして、左が奇数、右が偶数。 番地はセーヌ川から順番についています。 セーヌ川と平行の通りでは下流に向かって左が奇数、右が偶数になる。

ブールヴァール(Boulevard)大通り・アヴニュー(Avenue)街路樹のある大通り

フランス文化としての名前は、
名(プレノン)+母方の祖父(母)名+父方の祖父(母)名+姓
という形式が正式ですが、常にフルで使うわけではありません。

17 Rue de Crimee75019 パリquartier d’Amerique(アメリカ地区)に設定したサラ・ベルナール(住所は創作)の住まいを朝に出てきた正太郎とエメは近くの辻馬車の溜まり場(馬車屋)からArmand du vent fortこと疾風のアルマンに馬車を頼んだ。

此処はエメの話の禿山、Parc des Buttes Chaumont1 rue botzaris 75019・ビュット・ショーモン公園)が有る。

パリ郊外のこの場所は江戸や横浜と同じように処刑場がある郊外に当たり19区の巴里中心部に寄った場所だ。

パリの建物はモンマルトルのムーランギャレット付近と同じように採石場が有ってここで取れる石材で作られた。
此処で取れた石膏や珪石で建造されたパリと同じようにアメリカへ輸出されたためにquartier d’Amerique(アメリカ地区)と呼ばれた。

ワシントンのホワイトハウスの一部にも使われているそうだ。

ショウフーニエ通りrue des Chaufourniersは石灰製造工場にちなんだ名前だそうだし馬捨て場もあったそうだが石切場はこの時より前の1860年代に閉鎖されモンマルトルへ其の仕事場は移動していった。

パリ改造の立役者ナポレオン3世、Georges Eugene Haussmann(オスマン)シャンゼリゼ公園やブローニュの森を設計したJean-Charles Alphand(アルファンド)によって工事はダイナマイトで岩山を削り取り1000人以上の作業員が動員されて工事は行われた。

起伏に富んだ情緒ある公園としてパリ万博の行われた1867年4月1日に開園された。

ビュット・ショーモン公園のChaumontchauve(ショーヴ・ハゲ頭)とmont(モン・山)の合成語だ。

現代でも展望台からモンマルトルのサクレ・クール寺院が見えるそうだ。

二人が乗った馬車はLe Pont au Change(シャンジュ橋)からシテ島に入り Le Pont Saint-Michel (サン・ミシェル橋)で6区へ入った。

当時馬車トラムの線路が走っていたサンジェルマン大通りからRue du Fourからボン・マルシェのあるSevres-Babylone(セーブル・バビロン)でBoulevard Raspailへ曲がりエメのアパルトマンの正面へ出るRue de Fleurusを右に曲がると其処が12 Rue Notre Dame des Champs(ノートルダム・デ・シヤン街12番地)だ。

このRue de Fleurusを左へ行くと大きなリュクサンプール庭園の端から宮殿を眺められる。

アンリ4世にイタリアのメジチ家から嫁いだ王妃マリが、王の死後、故郷のトスカナ風の宮殿を建てたのが正太郎がパリにいた時代より250年前、其の正太郎のいた1870年代には頃にはすでに国会として使われていた場所だ。

馬車はエメを降ろしたあとLe Pont Royal(ロワイヤル橋)へ出てBoulevard de Clychy(クリシー大通り)の西側からRue de Caulaincourtコーランクール通り)を廻ってLa maison de la cave du vinへ戻った。

 


そして其の馬車は
Momoを改めて乗せてモンマルトルの東回りで12.boulevard Montmartre(モンマルトル大通り12番地)のPassage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)へ向かった。

買い物を済ませた二人は歩いて市場通り(ue Montorgueil・モルグイユ通り)へ向かった。   

Rue Faubourg Montmartreboulevard Montmartre (モンマルトル大通り)を通り過ぎるとRue Montmartre(モンマルトル通り)とFaubourgの字が消える通りをさらにセーヌへ向かって進むと幾つかの道と交差しながらRue Etienne Marcelまで進んで左へ曲がれば50メートルも行かないうちに其処が市場通りStohrer(ストレー)の店がある51,rue Montorgueil (モントルグィユ通り51番地)と成る。

ストレーは今も同じようにラムの効いた菓子で有名で多くの人が訪れている。







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 Ile de la Cite(シテ島)
17 Rue de Crimee75019 パリquartier d’Amerique(アメリカ地区)から
Le Pont au Change
(シャンジュ橋)へ其の橋から
Ile de la Cite(シテ島)に入り
Le Pont Saint-Michel
(サン・ミシェル橋)で6区へ

Sevres-Babylone
(セーブル・バビロン)で

Boulevard Raspailへ入り

Rue de Fleurusを右に曲がる
正面にエメのアパルトマン
Rue Notre Dame des Champs
(ノートルダム・デ・シヤン街12番地)へ到着
Le Pont Royal
(ロワイヤル橋)へ出て
Boulevard de Clychy
(クリシー大通り)の西側から
Rue de Caulaincourt
コーランクール通り)を廻って

42, Rue Saules 18 eme
La maison de la cave du vinへ戻った。
此方でも地図の下のほうからでも別ページが開きますので動かすことが出来ます。
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Passage Jouffroy
42, Rue Saules 18 eme
La maison de la cave du vin
から
Passage Jouffroy(12.boulevard Montmartre)
そこから
Stohrer ストレー
51,rue Montorgueil (モントルグィユ通り)

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最近の話にサン・トノーレ街(Rue Saint honore )が多く出るので其の話。

サン・トノーレ(街)通りは番地がどこか見つけられなかったがRue Pont Neuf(ポン・ヌフ通り)がサン・トノーレ通りとぶつかって右へ曲がる其のあたりが始まりらしい、33番地が見つかった中では最小番地のようだ。

422番地が見つけた最大番地だった、番地から見ても長い通りでいろいろな話が多くありそうだ。

それでも約2300メートルでしかない、ぶらぶら歩いても1時間だ。

Rue Pont Neuf(ポン・ヌフ通り)東側

最小番地33番地から右手に逆順で奇数番地が増え51番地までで其の先63番地までがなく左側へ飛んでポン・ヌフ通りの向こう側へ続いている。

Google Earthには偶数番地で4番地がありレストランが載っているがクリックするとメキシコへ飛んでしまうこれは載せたものの間違いだろう此処の分では40番地のみがあるだけで48番地は同じようにポン・ヌフ通りの向こうへ続き42.44.46番地は欠番になっていた。

奇数の1から31番と偶数の2から38番は消えてしまったようだ。


Rue Pont Neuf(ポン・ヌフ通り)〜 Rue de l'arbre sec(乾いた木通り)

奇数番地は前述のように63番地から始まっているがGoogle Earthではポン・ヌフ通りの上に表示され75番地までが表示されないので77番地から始まるようだ。

Rue du Roule(ルール通り)との間は77と79番地のみで通りの向こうに81番地が続いている。

Google Earthでは道に番地が表示されるが109番地が此処の外れのようだ。

偶数番地は48番地から始まり細い路地のような道を進むとRue Sauvalの角にあるFontaine de la croix de Trahoir(トラオワール十字の泉)へ出るここは92番地らしい、Rue de l'arbre secが突き当たってくる場所だ。

周りは新しい建物だがこの泉跡は古い建物の下に18世紀に再建されて保存されている(スフロ作1775年)、Mr.ラムレイに説明させる予定だがサン・トノーレ街を案内するために簡単に書いておいた。

ダルタニャン物語1巻によると、この場所は当時身分の低い人を処刑する場所だったそうだ。


Rue de l'arbre sec(乾いた木通り)〜 Rue Louvre(ルーヴル通り)

 

其の先ルーヴル通りまで又道は狭くなるが通りを渡ると道は倍くらいの広さになる。

奇数番地

111番地から始まり129番地まで。

偶数番地

96番地には、劇作家のルニャールとモリエールが生まれたと言われる家が1802年まで建っていたそうですし、1839年ごろワグナーも住んでいました。

112番地でルーヴル通りへ出る。


Rue Louvre(ルーヴル通り)〜 Place Andre Malraux(アンドレ・マルロー広場)

奇数番地

131から135番地は無いので137番地から始まるようだ。

Rue Oratoire(オラトワール通り)という短い路地が左のリヴォリ通りからぶつかって来るがこれはメトロのルーヴル=リヴォリ駅(1900年開業)へ通じている。

143番地までのこの間は70メートルくらいだがほかの地図でもおなじように番地が込み合っていた。

此処にはホテルがありHOTEL LOUVRE SAINT HONORE141, Rue Saint Honore)という京都と同じようなわかりやすい名前のホテルだ。

Rue Oratoireを渡ると145はGoogle Earthにないのだが1 Rue de l'Oratoire(オラトワール通り1番地)がEglise Reformee de l'Oratoire du Louvre(オラトワール・デュ・ルーヴル教会)でホームページには両番地が記載されている。

147番地と149番地があって左手からRue Marengo(マレンゴ通り)があり短いが割合と広い道路で此処もリヴォリ通りと繋がり右手は食い違いでRue Croix des Petits Champsと名前が変わる。

151番地と153番地から150メートほど離れてComedie Francaise(コメディ・フランセーズ)の正面にある155番地と157番地だがこの間にパレ・ロワイヤル広場がある。

此処には正太郎の時代にはシャルトル通りがありカルーゼル広場を抜けてカルーゼル橋(完成時はル−ブル橋・1832年工事開始、1834年完成)に通じている、この橋は其の当時はサンペール橋ともよばれたようだ。

この151と153は2, Place Palais Royalと表示されるショッピングモールのようだ。

159番地からオペラ大通りの向こう側へ渡りそのさきの番号は又飛び飛びだ。

角にあるホテル・デュ・ルーブルはアンドレ・マルロー広場という住所表示になる。
此処は明治5年の正太郎が居たパリの時代より前1855年開業でその使節団の岩倉特命全権大使と大久保副使などが宿泊している。
木戸副使はセント・ヒアシンス街のオテル・ド・ジブラルタル(現オテル・ド・テュイルリー、)だそうだ。

偶数番地

この先暫く番地が不安定に続いていくようで前述の112番地の先は134番地で158番地そこで番地は切れて166番地と為り間は抜けている。

さらに168.170と続いた後いきなり182番地となるのだ、この間の2,4,6,8は見つからない。

182番地の隣は順調に続いて202番地まであるが、その先のパレ・ロワイヤルは25.Rue de ValoisGoogle Earthでは表示されるがPlace du Palais Royal  75001 パリで良いらしい、コメディ・フランセーズは2 Rue de Richelieu, 75001 パリとなりサン・トノーレ街とは表示されない。

202番地からオペラ大通りの先の248番地までの間が欠番のようだ。

アンドレ・マルロー広場はこの時代にはフランス座広場(Place du Theater Francais )と言われていた。

アンドレ・マルロー広場の右手はオペラ大通りでオペラ・ガルニエに通じていて、左手はカルーゼル広場を通り抜け、セーヌをカルーゼル橋(現在の橋は1939年架橋)で渡り7区へ入る。


Place Andre Malraux(アンドレ・マルロー広場)〜 Rue 29 Juillet(7月29日通り)

奇数番地

159番地にはCafe RucHaagen Dazsがある。

161、163、165、167と続き此処には二人シェフで南西フランス料理が楽しめるLe Dauphin(ル・ドーファン)がある。

Rue Echelle(エシェル通り)をはさんで角は5, Rue Echelle、レストランのようだが3番地にはLe Medovaがあるがここには何も書かれて居ない、だが通りには赤いパラソルらしきものがGoogle Earthには写っている。

169番地と続き187番地まで特別変わりが無い。

Rue des Pyramides(ピラミッド通り)が左は細く右手は広い道になって横切っている。

其の先189番地から195番地でRue Saint-Roch(サン・ロック通り)を渡り213番地まで行くとRue 29 Juillet(7月29日通り)なぜこの名前か調べたが、エトワール凱旋門ができた日(1836年7月29日)というくらいしか判らなかった。

偶数番地

248番地はアンドレ・マルロー広場とエシェル通りにはさまれ254番地はエシェル通りの向側7, Rue Echelle NORMANDY HOTELノルマンディ・ホテル、此処はイギリスからの滞在客を迎える為、1877年に創業したホテル)に続いている。

此処もまた250、252は消えたようだ。

このあたりも通りの向こうと此方では番地がだいぶ離れている。

282番地まではとび番もなく続いてピラミッド通りの先の284番地になる。

其の先番地が飛んでサン・ロック教会が296番地となる。

教会の手前の路地はパサージュ・サン・ロックだそうで向こう側がサン・ロック通りとなっている。

教会はルイ14世〜15世時代の1653年ごろから中断もあったが1754年に資金不足などの影響もあって内部は変形し直方体のような形で完成した。

奥行き125メートルと細長くまた場所の問題があって、内部も規則破りの配置で竣工した。

サン・ロック通りの角は13, Rue Saint-Rochと為っていてホテル・ロンドレ・サントノーレがある、検索をかけると2つ星で割合良いホテルのようだ。

298、300、302304、306番地と続き308番地との間にRue de la Sourdiereという落ち着いた雰囲気の小路がある。

308番地の先は326番地までで328がなく7月29日通りの続きのRue Marche St Honoreがある。

其の奥にはPassage des Jacobins(パサージュ・ジャコバン党)が有り道はパサージュを回ってオペラ大通りへ繋がっている。
この路地に入って右の場所が木戸副使が泊まったセント・ヒアシンス街のオテル・ド・ジブラルタル(現オテル・ド・テュイルリー)がある場所だ。


Rue 29 Juillet(7月29日通り)〜 Rue Cambon(カンボン通り)

奇数番地

215番地から17.19と行くと左からRue d’Alger(アルジェ通り)が来る。

このRue d’Alger の13番地はHotel Royal Saint-Honoreで221番地はこのホテルに続いている。

221番地から235番地まで続きRue Castiglione(カスティリオーネ通り)という広い道と交差するが、左右400メートルくらいしかない。

右手にはPlace Vendome(ヴァンドーム広場)があるので道の名前が変わるのだ。

237番地にはGodiva France(ゴディバ・ベルギーのチョコレートメーカー)があり其処から261番地まで順調に続いてRue Cambon(カンボン通り)と交わる。 

偶数番地

前に出したように328番地はなくて330番地から始まり338番地のところでアルジェ通りが左から来るが此処で家にふさがれてT字路になっている。

此処は正太郎の時代にショーメがあった場所に推測した。

現在はベンドーム広場に移っている。

CHAUMET12, PLACE VENDOME

1780年、マリー・エティエンヌ・ニトが宝石店をサン・トノーレ街に創立。

1802年、ショーメはナポレオン御用達のジュエラーと為った。

1804年12月2日にナポレオンは、即位式を行いショーメは戴冠式の冠や宝剣を手掛けて有名になった。

1815年フランソワ・レニョ・ニトからアトリエ主任フォッサン親子に経営が移る。

1848年ロンドン支店開設、ジュール・フォッサンはヴィクトリア女王御用達ジュエラーに為る。

其の頃アトリエ主任ジャン・ヴァランタン・モレルがパリの経営を引き継ぐ。

1862年プロスペール・モレルが店を引き継ぐ。

1885年にプロスペール・モレルの娘婿のジョゼフ・ショーメが後継者となる。

1907年には店舗をヴァンドーム広場12番地へ移転。

と言う歴史と古地図には此処に家があるのが確認できたので此処と推定した。

356番地まで順調に増えてカスティリオーネ通りを右へ入ればヴァンドーム広場に行き当たる。

此処にある1898年にホテル王セザール・リッツによって開業されたオテル・リッツは有名で名前を知らない人は居ないと言っても過言ではあるまい。

此処で修行し宮内庁の司厨長を長年務めた秋山徳蔵のことは30年ほど前のドラマ正章主演の天皇の料理番があり、壇ふみも出ていた。

ヴァンドーム広場はRue de la Paix(平和通りの意味だそうだ)此処から先、高級ブランド店が並ぶことで有名になっている。

この先378番地まで番地に切れはなくカンボン通りが左から右手へ交差している。


Rue Cambon(カンボン通り)〜 Rue Royale(ロワイヤル通り)

奇数番地

263番地と265番地はeglise de l'Assomptionラソンプション教会)が有る。

諸説があるようだが1716年以降の地図には表示されている。

テュルゴーの地図(1739年に刊行)京都大学電子図書館にも載っていたのでこれは保障できる。

地図は1870年頃のパリ地図もあって正確なのだが精密画像が手に入らなかった。

271番地でRue Saint Florentinサンフロランタン通り)この通りには10番地に羊羹で有名な和菓子の虎屋パリ支店がある、1980年に開いた店だ

先へ進むと283番地でRue Royaleロワイヤル通り)でサン・トノーレ通りは終わりになる、ロワイヤル通りはコンコルド広場からマドレーヌ寺院までのびる通りで大通りと言えるくらい広いこの先はRue du Faubourg Saint Honore(ファヴル・サン・トノーレ通り)に名前が変わりPlace Ternes(テルヌ広場)まで続いている。  

偶数番地

前述の378番地に後80と82は無いようで386番地になっている

カンボン通りとRue Duphot(デュフォ通り)の間は19 Rue Cambonと前期の80.82が同じ建物に表示されるようで384番地の先がデュフォ通りで良いらしい。

386番地は横浜幻想でシブーストをここであろうと設定した場所です。

Rue du Chevalier de Saint-Georges(シュバリエ・ド・サン・ジョルジュ通り)までは番地が飛ばずに404番地まで進みそこで406が飛んで408番地は通りの向こう側になる、406はシュバリエ・ド・サン・ジョルジュ通り4番地のようで2番地は見つからない。

この長い名前の通りの12番地に有るジャカード・フランセは、フランスの北東部ジェラールメで1871年以来、世界でも第一級品の美しいジャカード織のテーブルリネンを生産しています。

14番地にはBest Western Premier Hotel Opera Richepanseという通りにふさわしい長い名前のホテルが有り下はPizza Nellyが入っている。

408番にはMax Mara St Honore SASという店があり、422番地の番地がRue Saint honore の最高番地になり其処はLaduree Royaleの本店がある16, Rue Royale(ロワイヤル通り16番地)でもある。

奇数番地は283番地其の向は422番地という不思議な並びの古い時代からある通りは不思議な郷愁を感じさせてくれる。


1739年刊行 テュルゴーの地図
1867年刊行 パリ地図

幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一 La maison de la cave du vin
 其の十二 Moulin de la Galette
 其の十三 Special Express Bordeaux
 其の十四  La Reine Hortense

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明治4年1871年
 
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カズパパの測定日記