横浜幻想 パリ幻想歩き | ||
其の十・十一より | Antelope ・ La maison de la cave du vin | 阿井一矢 |
此処は酔芙蓉・横浜幻想のためのパリ幻想歩きのページです。
正太郎君が歩いた時代、其の1870年代からユトリロの1920年前後のパリ、特にモンマルトル周辺を幻想歩きします。
通りの名前は其の当時のが判明していないものは現在時点でのものを使用しています。
アクサンは省略させていただきます。
パリへは行っていない教授にアイですが(行きたいとは思うのですが)此処では秘密部屋に教授が書いた横浜幻想フランス編のAntelope・La
maison de la cave du vinの解説を編集しました。アイ
ラメゾンドラカーブデュヴァン Montmartre Paris ソウル通り42番地を出ると左に登る狭い坂道の上右側にサンバンサン墓地がある。 此処にはモンマルトルを描き続けたユトリロの墓がある、其のユトリロのおかげで今100年前の往時のモンマルトルを垣間見られるのだ。 42番地をソウル通りに出て左へ行くとすぐコーランクール(Caulaincourt)通りに行き当たる、サンバンサン墓地の下だ。 Parisでは割合長く名前が続く通り(それでも2km位か)で右へ行けばモンマルトル墓地の先でブールヴァール(Boulevard)いわゆる大通りに吸収される。 此処はクリシー大通り(Boulevard de Clychy)でパリの主要道路につながっている。 左側はすぐに様々な道に名前が変わるが交差点を左へ行く道はテルトル広場から続く丘を下ってきたモンスニ通り(Rue du Mont Cenis)だ。 500mほど先でクリニャンクールの教会(Notre Dame de Clignancourt)此処は今蚤の市で有名で12のマルシェがあるそうだ。 大小さまざまな市場は人であふれるほどでここへいけば必ず日本人に会えるそうで、案内によるとメトロ最寄駅は地下鉄4号線の終点ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)、バスは歩くのが好きで無い方には中心部までいけるとあったが日曜日は運休と有る(サン・ミッシェル・モンマルトルから85番バス)。 此処のノミの市はflea market Pucesとして有名だが、俗称で本当はサン・トゥアンの市(St.Ouen、パリに近接している市)だと物知りが教えてくれた。 パリにはこのほかにも何箇所も有名な蚤の市があるしそれぞれに人が集まって繁盛しているがスリの被害は年々増えてきているそうだし昔ほど掘り出し物に巡り会う機会は減ったと聞いた。 正太郎君が歩いたころとは違い道路の整備は進んで高速道路も増えている。 コーランクール(Caulaincourt)通りを右側に進んでクリシー大通り(Boulevard de Clychy)さらにバチニョール大通り(Boulevard das Batignolles)さらにクルセール大通り(Boulevard das Courcelles)とつながり、道の右側に現れるワグラム大通り(Avenue de Wagram)とPlace des Temesで合流して右周りに進むとエトワール凱旋門に到着する。 当時馬車で進むならこの道が日本弁務使公館への最短距離でしたが、パレスガルニエに行くにはサンバンサン墓地付近で辻馬車なり拾ってルピック通りを進んだことだろう。 現在日本大使館のあるアッシュ7番(7 Avenue Hoche 75008 Paris)は正太郎君の時代のラ・レーヌ・オルタンス街で26番にあった日本弁務使公館(1871年8月開設、26.Avenue de La Reine Hortense今は26 Avenue Hoche 75008 Paris)の場所と僅か200mほどの差だ。 この日本弁務使公館は1872年11月に公使館となり鮫島も少弁務使(代理公使相当)から一階級上がった弁理公使(Minister Resident)となった。 此れは現在おかれていない職だがやっと公使として一国を代表する者として先進国に立場の重要性を認識してもらえることになった。 二つの間には公使館としてジョゼフィーヌ75番(75.Avenue Josephine)に明治6年9月に移っているここは今のマルソー75番(75.Avenue Marceau)で、すべて凱旋門周辺にあり鮫島の苦心が伺われる。 先ほどのクルセール大通りとワグラム大通りの交わる手前500mにモンソー公園(Parc Monceau)がこの時代からあったようだ。 其の公園の先を左に入ると其処がラ・レーヌ・オルタンス街(アッシュ大通り)です。 話はモンマルトルに戻りサンバンサン墓地と下から登ってきたソウル通りを挟む形でオ・ラパン・アジル(22 Rue des Saules)がある、前の道はブドウ畑の脇を上るサンバンサン通り(Rue Saint-Vincent)オ・ラパン・アジルは1860年にキャバレ・デ・ザササン(Cabaret des Assassins)が開店して1875年に常連の画家アンドレ・ジル(Andre Giles)が手鍋を飛び越すウサギの絵を描いて正面を飾った。オ・ラパン・ア・ジル(Au Lapin a Gillジルのウサギ)と店の名を変えるが、絵のウサギの様子からa Gillをもじったすばしこいウサギ(Au Lapin Agileオ・ラパン・アジル)としたそうだ。 殆どのサイトが1880年ごろと書いてあるがオ・ラパン・アジル(すばしこいウサギAu Lapin Agile)になったのは1898年だそうだ。 (出典シャンソン雑記帖85 シャンソン酒場(1)東谷貞夫) 看板は二代目で若き日のピカソたちが見ていたオリジナルの看板はモンマルトル博物館にある。 ユトリロの絵ではそれほど大きな酒場では無い様子が伺われ、今の店と殆ど変わりが無いようだ。 この1872年に撮られた店の写真はユトリロの描く店と左程変わりが無いので建て直していないのだろう。 |
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Au Lapin a Gill・ジルのウサギ |
キャバレ・デ・ザササン (Cabaret des Assassins) Au Lapin Agileとして紹介されています。 |
Au Lapin Agileオ・ラパン・アジル (1872年?) |
Au Lapin Agile オ・ラパン・アジル 2007年 |
モーリス・ユトリロ( Maurice Utrillo ) 1883年〜1955年 |
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Au Lapin Agileオ・ラパン・アジル ユトリロ |
Au Lapin Agileオ・ラパン・アジル ユトリロ 1912年 |
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Notre Dame de Clignancourt | Clignancourt ユトリロ 1914年 |
四ツ辻を左へぶどう園に沿って登るとモンスニ通りの階段下へ出ます。 テルトル広場そばのサン・ピエール・ドゥ・モンマルトル教会前とサクレ・クール寺院から続くこの道は様々に名が変わりながら北へ延びて郊外のサン・ドニの大聖堂(Saint Denis Cathedral)へ通じる道です。 その途中に有るのが前に出たクリニャンクールの教会です。 サンバンサン墓地からソウル通りをそのまま先へ進むとコルト通りが上のモンスニ通りから降りてきます。 コルト通りの12番地にユトリロ母子が住んでいた家がありました、かってルノアールも住んでいたという話なのでどこかで顔を出させる予定です。 ルノアールがここに住みだしたのは1875年4月の事で、この家の庭でぶらんこ(La balancoire)という題の作品を1876年に仕上げています、オルセー美術館が所蔵しています。 モンスニ通りへ出たら右へ出て其の先左側へ上がる道はシュバリエ通り一番上がサクレ・クール寺院、其の前西側にはサンピエール教会(Saint-Pierre de Montmartre 2 Rue du Mont Cenis 75018)があります。 モンスニはサン・テルテール通り(Rue St Eleuthere)とつながっていてさらに右手に進めば丘を降りていく道でフォワイャティーの石段、其の先にサクレ・クール寺院への中央階段の下のテラスがありパリの街を見渡せる絶好の場所です。 フォワイャティーの石段を上がるのが大変な人にお勧めなのはビガール広場からのプチトラン(Petit Train・トラム)かフニクレール(Funiculaire・ケーブルカー)がお勧め。 モンスニ通りを曲がらずに進めばテルトル広場、其処では画家が自分の絵を並べ似顔絵描きもいっぱいいます。 |
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Saint-Pierre de Montmartre1863 |
Montmartre 1878 |
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12Cortot La balancoire1876 |
St-Pierre de Montmartre |
St-Pierre de Montmartre ユトリロ 1914年 |
写真と絵は同じ構図でサンピエール教会の 後ろにはサクレ・クール寺院が見えています。 |
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Rue du Mont Cenis ユトリロ 1914年 |
レストランカフェA La Bonne Franquette(18, Rue Saint-Rustiqueア・ラ・ボンヌ・フランケット)の看板が現れてきます、此処はピカソが住んでいました。 ソウル通りへ出ると鍵の手にノルヴァン通り(Rue Norvins)が現れる。 この角にブラッスリーLe Consulat(18, Rue Norvins・ル・コンスラ)という名のピカソやゴッホやロートレックにモネなどが集まったレストランがありここら当たりもユトリロの「ノルヴァン通り」そのままです。 ユトリロの描いた「Le Consulat」はポンピドゥーセンターに収蔵されていると教えてもらいました。 進むとジュノー大通り(Avenue Junot)と名前が変わります。 ジラルドン通り(Rue Girardon)との四つ角手前にはマルセル・エイメ広場(Place Marcel Ayme)がありマルセル・エイメはこの広場に面する26番地の建物に住み、ここで息を引き取っています。 Le passe-muraille (壁抜け男)1943年 短編集 Les contes du chat perche (おにごっこ物語) など読んだ事やミュージカルなどを見に行かれた方もあるのではないでしょうか。 そのジラルドン通り(Rue Girardon)へ左折するとルピック通り(Rue Lepic)に交差します、其の右手にラデ風車があります、ムーラン・ラデ(Moulin Radet)とムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット(Moulin de la Galette)ですが、ルノワールの「Le bal du Moulin de la Galette」は1876年当時の経営者だったムッシュー・ドブレは彼のために大仮面舞踏会を催して作品の完成を見ました。 昔のラデ風車はムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット(83, Rue Lepic, 75018 Paris・1.Rue Girardon)というレストランになり、ギャレット風車は19世紀後半にルノアールやユトリロの描いたムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット(Moulin de la Galette)でトロゼ通り(Rue Tholoze)の入り口側に有りモンマルトルの丘に残るただ二つの風車となりました。 パリの小道にはPassage(小路)やImpasse(袋小路)にVilla(別荘地の私道)が付いています。 |
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Rue Norvins ユトリロ 1910年 |
Rue Norvins Le Consulat 2007年 |
Rue Saint Rustique ユトリロ ボストン美術館所蔵 |
Rue Saint Rustique ユトリロ 1926年 |
Moulin de la Galette (Radet) Utrillo1908年 |
Moulin de la Galette(Radet) Utrillo |
ユトリロの描いたこのMoulin de la Galetteはラデ風車側でジラルドン通りとルピック通りの四つ角です。 1.Rue Girardonと83, Rue Lepic, 75018 Parisに当たります |
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Rue Tholoze et Moulin de la Galette 2006年 |
Montmartre Moulin Radet 1850年頃 |
Le bal du Moulin de la Galette Renoir 1876年 |
View of Montmartre with Windmills Paris Autumn 1886 Van Gogh |
Moulin 3基の風車位置 |
Moulin
de la Galette Vincent van Gogh 1886年 |
Moulin
de la Galette (Radet) Vincent van Gogh 1886年 |
ルピック通りがアベス通りにつながりますが、其の手前坂道がカーブしている途中54番地はゴッホが弟のテオと共に1886年3月から2年間住んでいたアパルトマンがあります。 ルピック通りはアベス通りとの角で右に折れてさらに下へ続きます、ルピック通りの1番地はクリシー大通り際になります。 漸く道はクリシー大通りまで来ました、此処にはムーラン・ルージュ(1889年に開店)があります、大通りへ出て右側、赤い風車が世界の男を招いています。 Bal du Moulin Rouge Montmartre 82 boulevard de Clichy 75018 Paris France この二つのルピック通りの上と下のお店はあまりにも有名過ぎる存在になっています、クリシー大通り出たら左へ進むとビガール広場が見えてきます。 此処まで歩いて下りましたが車は一方通行のため反対にたどるようになります。 ムーラン・ルージュの其の先にはライヴハウスのラ・ロコモーティブなどこの通りは昔から歓楽街として芸術家が集まるカフェが多くの人を惹きつけました。 フォーリーベルジュールのあるリシェル通り32番地(32, Rue Richer)まで一方通行の多いパリでも割合道は簡単で車で7分ほど歩いても40分くらいです。 この当時一方通行がされていたかどうか定かでは無いので独断で交互通行が可能であるかのように話を進めていますので実際と違うと言うのはご勘弁。 クリシー大通りにバチニョール街という通りがありましたが其処にあったカフェ・ゲルボワは多くの画家が集まり店の住所からバチニョール派もしくはゲルボア派といわれていました。 印象派と言われる人々が多くマネにドガ、ルノアール、ピサロ、モネ、セザンヌもここに集まる常連でした。 この1870年代から1920年代へかけて多くのカフェ・コンセールが開かれています。 話は此処で一度お休みAntelope・La maison de la cave du vinをお楽しみください。 |
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London Courtauld Institute of Art Gallery所蔵 Le Bar aux Folies-Bergere Edouard Manet |
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其の七 弗屋 | ||
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其の九 安愚楽鍋 | ||
其の十 Antelope | ||
其の十一 La maison de la cave du vin | ||
其の十二 Moulin de la Galette |
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横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |