ナチュラブ・日記    Part 13
 Part 1(その1〜9) ナチュラブ代表が観た逢坂さんの政治観 Part 2(その10〜22) 衆議院選挙
 Part 3(その23〜36) 選挙後雑感、永田町での逢坂議員   Part 4(その36〜48 靖国神社「遊就館」レポート
 Part 5(その49〜60 エリート教育             Part 6(その61〜69 負の連鎖・「元気の種コレクション」
  Part 7(その70〜77 真っ当な生き方のススメ         Part 8(その78〜83 風(全5回)、61年目の夏に
 Part 9(その84〜88  政治家と有権者             Part 10(その89〜101 風の盆。 宿題を抱えたままで
 Part 11(その102〜108  ともにアジアに生きる(姜尚中さんの講演記)
 Part 12(その109〜115  ともにアジアに生きる(姜尚中教授・上田札幌市長・逢坂ニセコ町長(当時)の鼎談)
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     ナチュラブ・日記 その135(2007年7月28日号)
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                      休筆のお知らせ


札幌は、まとまった雨が降らないままに七月下旬を迎え、ここ数日は夏日(25℃以上)になりました。
札幌だけではなく北海道内は似たり寄ったりの天候です。
例年にも増して乾燥していますし、朝夕は相当気温が下がるので、たいそう過ごしやすい夏になりました。

そんな中、東京から来た友人が爽やかな北海道の夏を満喫して帰って行ったのも、嬉しいことでした。
でも、そう思うのは私が、札幌と言う“都会”に生活するからでしょうか。
試しに、毎年メロンを友人知人に直送していただくニセコの農家さんに、
今年の生育状況を尋ねてみましたら
「メロンは最高の“デキ”で自信を持って出荷できますよ。
でも、ジャガイモやトウキビが雨不足のため十分に育っていないんです。」とのことでした。やっぱり・・
 
自然は決して人間の思い通りにはならないことは百も承知ですし、
あらゆるものを呑み込む自然現象への畏敬の念を忘れてはいません。
また私自身は、自然のもつそのような側面とは質が異なる自然環境の変化が生じているのを、
もう10年以上に渡って肌身に感じてきました。

それでも北海道では、まだまだ自然破壊や地球温暖化を
“恐怖”として捉えるまで行っていないような気がしますが、
地球規模では「不都合な真実」のように、過去のデータから地球温暖化の現実を科学的に実証し、
センセーショナルな方法で忠告を発するものが出てきています。

20世紀は、この地球とそれを取り巻く一部の宇宙環境を、
回復不能にまで痛め続けてきた初めての100年といわれたのを、
今、心から恐怖を込めて思い起こさずにいられません。

レイチェル・カーソンが著書「沈黙の春」で、科学を社会との関係で捉えるという考えを初めて提示して、
人類に自然環境の破壊の恐怖を伝えようとしたのは1962年でした。
でも当時の人々は、そして今でも多くの人々は、
彼女が伝えようとしたことの真意を理解していないように思われます。
想像力を持ってすれば、たとえ自分が直接体験しないことにも考えが及ぶはずなのに。
それどころか、20世紀の人類は、あらゆる自然環境を破壊してしまった。

そして今、環境の世紀といわれる21世紀では、人類の叡智を試されているかのように思われます。
ここで本来の自然環境を取り戻さなければ、もう二度と、この地球は生き返れない、
そこまで追い詰められている、そう思います。

自然環境には、人類や他の動植物など生命も含まれますが、
それを単に自然科学だけの眼ではなく、社会科学的な観点からの考察が必要であると、
レイチェル・カーソンは伝えたかったはずです。

いつの間にか人は、この地球の支配者のように驕り高ぶって、
自分で自分の首を絞めるような結果を招いてきましたが、
それは自然環境に関するだけではなく、人が営む社会現象すべてについても同じことが言えるでしょう。

驕り高ぶった人々の、なんと多いことか。
人間界でどんなに権力を持ったとしても、
例えば、自分の住む地球環境を正常に戻す力さえない人間に、驕る資格など、ない。

建前を崩して、利己的な本音でのみ生きる人の、なんと多いことか。
そういう生き方が許されるなら、人間界のルールなど最初から不要ではないか。

残念ながら多くがそういう人々である参議院選挙候補者が、
7月29日の投票日を前に声高に訴える“政策”や“支持依頼”を聞きながら、
私はもう一度自分自身の価値観を見直して、自分の内なる声を信じて、それに従わなければなりません。
今、私は、そう考えています。
 
そして、今後しばらくは夏休みを兼ねて、このナチュラブ日記を休筆する予定です。

その後は、連続シンポジウムの裏話を、今だから言える話という話を、
上田文雄・札幌市長、逢坂誠二・衆議院議員(シンポ開始当時はニセコ町長)はじめゲスト講師の方々、
そしてスタッフ&サブスタッフについても、綴ってみましょう。
シンポジウムそのものよりも、もっと面白い話があると言う意味ではなく、
今だからこそシンポジウムに参加下さった皆さま全員で笑いたいと言えるようなことや、
危機一髪で乗り切ったことや、宿題として残されたこと、
私一人が秘蔵(?)しているのはもったいないと思えること、
私一人では抱えきれないと思うことなどを、ぜひ皆さまにもお聞かせしたくなったのです。
しばらく、お待ちくださいませ。
 
では、ナチュラブ日記再開まで、どうぞお元気で。ごきげんよう。

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     ナチュラブ・日記 その134(2007年7月22日号)
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                      詐 欺


これは官民をあげての“詐欺”ではないか、と思われる出来事が続きます。
日記を更新する間が無いほどに、ひっきりなしに。
夜書いた原稿が翌朝には遠い過去のもののように色褪せてみえて、とても載せられない。
そういう日が続きました。

昨年7月に最終シンポを終えてからは、記録集作成準備をしてきましたが、
超多忙な講師の先生方から原稿校正をいただけなくて、督促させていただいたり、他の手段を考えたり、
ある意味気苦労が重なってもきました。

また、私的にも絶え間なく次々と非日常的なことが起こり、さすがに精神的に疲れました。
もう、ひと月もすれば正真正銘の60歳の誕生日を迎える身には、
精神面での緊張を体力で支えるのが辛くなりました。

そんなこんなで、気がつけば3週間近くも日記更新を怠ってしまいました。
なかには、そういう私を気遣って心配のメールを下さる方もいらして、有り難いやら申し訳ないやらでした。
そのような皆さまに、この場を借りてお礼を申し上げます。

ご存知のように私は、人は生まれたら生きてあることがすべて、と考えています。
そのために、生命を直接脅かす放射能(原子力発電)や戦争には、絶対反対の立場です。 
“戦争絶対反対”については、まずは我が国の憲法改悪阻止が必要と考えて、
そのような論点を先日まで日記に書いてきましたので、ここでは割愛します。

でも“戦争”について一つだけ。

つい先日、アメリカの原爆投下は“しょうがなかった”と思わず本音を口走った防衛大臣が、
それこそ参議院選挙に与える悪影響を慮って辞任したばかりですね。
彼が被爆地・長崎出身であるとか、政治家としての資質やモラル以前に、
人間としてのモラルや欠陥が暴露されたと思います。
そういう人間が、一国の防衛大臣に就任するなんて、国民への詐欺でしょう。

また、そういう彼
 (彼以前にも数人の問題大臣が数人発生していて、自殺した人もいましたね。もう“過去”になってしまいましたが)
を大臣に任命した総理大臣は、結果的には後れを取って彼を即罷免しようとはしなかった。
国民に対して詐欺を働いたようなものです。
国民の生命&財産を守ることを第一義の義務である政治家の詐欺。

もう一つの直接生命を脅かすものとして、私が考える“放射能”。
 (そういえば、原爆は、まさに“放射能”ですね。)
原発トラブルは、まさにこれに当たります。

東京電力柏崎刈羽原発の陸地直下に断層があるらしいことが、
今回の新潟県柏崎地震の余震分布の解析でわかった、という件。

悪事は結局露見する、もちろん犠牲を払って、というのが私の第一印象です。
これは、ちょうど先月露見(こちらは元従業員の告発だった)した、
牛肉と偽って豚肉を混ぜたミートホープ社の社長の正直な(!)弁明と構造が同じです。
しかも、これには行政のミスも重なった。道庁と国のそれぞれの担当部署が責任を押し付けあって。
「食の安全より、自分の会社の利益を優先してしまった」というミートホープ社長の言葉は、
そのまま、東京電力と行政の担当部署(当時の通産省だと思う)の弁明に重なります。
国民への詐欺と重なるでしょう。

私が最も問題にするのは 
「発生当日の火災、水漏れ」「排気筒フィルターから微量の放射能の検出」
「低レベル放射性廃棄物入りのドラム缶の転倒」などの原子炉7基で約50のトラブルではなく、
「運転再開に慎重な判断」が必要であるとか「原発耐震指針で十分かも議論しなければ」でもありません。

もっと根源的な問題です。
原発建設当時に、建設場のあらゆる検査をしなかったことです。
想定(M6.5程度)を超える地震を起こした断層が直下にあることを知らなかったという行政や東京電力の、
あまりにも杜撰な“安全意識”です。信じられない。

20世紀の科学の時代に、それくらいのことを調べようとも思いつかなかったという行政や会社。
その結果、今、断層の上に、世界最大の原発がある、この国内に。
また、断層があるのを知らないはずが無かった当時の地震関係の学者はどうだったのでしょう?
 (まさか、本当に知らなかった、とか、数十年前には知る術がなかったなんて、
 言い訳をする?としたら、学者を名乗るのはやめて。)

なぜ、断層上に原発を建設する危険を唱え、世界最大の原発建設に反対しなかったのでしょう?
御用学者ばかりだったはずは無いのに。
自分が住む場ではないから、自分の儲けにはならないから、自分には無関係だから・・・と言うのでしょうか。
科学知識の無い者が悪い、
原発が建つ近くに住む者が悪い、
そういう人々のために自分が責任を持つ必要はない、と言うことでしょうか。

私は、それは騙しだと思います
現代は、分業が確立していて、それぞれの専門分野の恩恵を分かち合って生きていく、それがルールでしょう。
それなのに、自分に関係ない、自分の利益にならない、という理由で、そのルールを勝手に破るのは、
信じている相手を騙すことになるでしょう?
結果的に“詐欺”でしょう。

この国に詐欺が横行しているような気がしませんか?
これでは、私たちはいったい誰を信じたらよいのでしょう。

「食の安全より、自分の会社の利益を優先してしまった」という“ミートホープ社の社長”が、なんと多いことか。

どのような仕事にも共通する人間としてのモラルが崩壊してしまって、
私利私欲ばかりで、あわよくば自分だけ儲けようとする人間ばかりがまかり通り、
自分より弱い立場の人々に対して、騙される者が悪いとばかりに
未必の故意的“詐欺行為”を働く人があらゆる業種に横行する。
そういう国、日本。

こういう状況下で、誰を信じて、例えば、選挙権を行使すればよいのでしょう?

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     ナチュラブ・日記 その133(2007年6月29日号)
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                  “嫌な感じ”を払いのけるために(10)


私は、本来なら動員のかかったような講演会やシンポジウムには出向かないのですが、
先日は三つの理由で、禁を破って(?)ある集会に参加しました。

6月23日(土)に、北海道厚生年金会館で開催された「北の国から9条を守ろう」です。
主催は「北の国から9条を守ろう」実行委員会ですが、その傘下には北海道の各地域の「9条を守ろう」会が。

先に挙げた参加理由の一つ目は、
講師の佐高 信さんの話をお聴きしたかったから。
理由の二つ目は、
憲法改悪阻止という大きな目的のために、今は、小異を捨てて大同団結しなければ、と考えているから。
理由の三つ目は、
この「“嫌な感じ”を払いのけるために」の日記原稿が書けない状況をなんとか打ち破る切っ掛けが欲しかったから。
 
さて当日は、2,300人も参加し、会場には立見の人々も見受けられ大変盛会でした。
各地域の「9条の会」の人々が各グループごとに独自の旗を持って壇上に並び「9条改悪反対」をアッピールしたり、
コント集団「ザ・ニュースペーパー」による政治家パロディーが演じられたりした後、
やっと、お目当ての佐高 信さんが登場しました。

佐高さんの演題は「城山三郎の遺言〜戦争で得たものは憲法だけだ〜」。
佐高さんは自他共に認める護憲派ですので、今回の講演内容は予見できました。
が、ご講演内容は、これまで多くの“護憲集会”で聞いてきた「9条を守ろう」だけではありませんでした。

佐高さんは本題に入るにあたって、
今年3月に79歳で亡くなった作家の城山三郎さんの口癖を引用されました。
それは「17歳で海軍に“志願”したが、実態は言論の自由が無い状況下で、志願せざるを得ないように仕組まれた。
戦争から得たものは憲法だけだった。」と。
 
佐高さんのお話の大切な部分は、次のようになります。

  「今、安倍首相初めとする改憲派は、
  “憲法9条なんて守らなくてもいい、9条なんていらない”というだけでなく
  憲法自体を間違って解釈しています。
  憲法は権力者を縛るものだと言うことを忘れていて、と言うか、
  初めから憲法の何たるかを理解していない。
  それだから、9条だけでなく自分たち権力者に都合よいように憲法を変えようとしていますが、
  これは改憲ならぬ“壊憲”ですよ。
  憲法を壊すんですからね。ひどいものです。

  でも、私たちは、そういう人々をどうやって説得して護憲に取り組むか。
  それが護憲派の課題でしょう。
  護憲派だけ集まって、盛り上がっていても始まらない。
  私たちと考えを異にする人々に届く言葉を持たなければなりません。
  そうやって改憲派を護憲派に変えていかなければならないのです。」
 
私が聴きたかったのは、こういうお話でした。
何につけても、同じ意見を持つもの同士だけが仲良しグループ的に群れて、
自分たちは正しい、私たちに反対するものは、間違っているのだから無視してもよい、
とばかりに内向きで蛸壺のような、外に広がって行かない運動が、多くの市民活動にも散見され、
私は、それに馴染めませんでしたし、今もそうです。
そして、それがこれまでの護憲運動の限界ではなかったか、と。
自己満足の護憲運動、とでも言えばいいのかしら。

そもそも“守ろう”という言葉自体、私には違和感があって・・・
なんというか、その受身の姿勢、金科玉条のように憲法9条を扱い、
それにしがみついてさえいれば万事OK、そこから出て行かない、
大切なもの(9条)を広めて賛同者を増やそうという発想ができず、
護憲派の同意見の人ばかり集まって、盛り上がってどうする!?

守ることに安住していたから、守るという受身から一歩も前に進めなかった。
それを、なんとか能動的な運動に変えなければとさえ思いつかなかったのでは?

そのように護憲派を批判していた私も、結局は同じ穴の狢(むじな)です。
能動的な運動を起こせなかったと言う点で。
だから、今のこの状況を招いた責任を負わなければならないのは同じ・・
でも・・良い知恵が出ず、どうやればよいのかという堂々巡りから抜け出せずに、
嫌な感じから抜け出せないでいる私。

そういう私には、佐高さんの言葉は久しぶりに元気がでそうな気がしました。

佐高さんは、“憲法9条なんていらない”と言う人々を
“やはり9条は必要だ”と思わせるよう説得する言葉を持て、とおっしゃいました。
そして、そのヒントを教えてくださいました。

  「小泉と竹中は、郵政民営化によって、地方の保守層を切り捨てたんですよ。
  自民党に裏切られた保守層を、
  憲法改正反対に考えを変えるように説得する言葉を尽くすことです。
  地方の保守層を護憲派に取り込むことです。
  言葉で勝負するときです。」と。

佐高さんは、自分にとっては護憲派はホームグランド、改憲派はアウェイ、と表現しましたが、
そういうセンスを真似て、改憲派を取り込む言葉を、探さなければなりませんね。

また、佐高さんは、“非武装”をめぐる根源的な問題にも触れられました。
それは、戦争やテロや大小さまざまな争いごとが耐えない現実の世界を生きている私たちにとって、
全く武器を持たないことから来る“不安”についてです。
そう、憲法9条をこそ武器に世界に平和を実現しようと期待している私たちの
心の奥深くにあるに違いない“不安”についてです。

佐高さんは、おっしゃった。

  「憲法9条の平和主義にのっとり、
  武器を持たないことを選ぶ場合に潜む危険(他から攻撃される危険性)と、
  9条を捨てて軍隊(武器)を持ち戦争をする国を選ぶ場合に生じる危険がありますが、
  どちらを選んでも、危険は決してゼロではなりません。」と。

佐高さんご自身は、沖縄戦の教訓からも明らかのように軍隊は国民を守らないし、
戦争になれば非戦闘員である国民も犠牲者になるから、
軍隊が無い方を選びたいとおっしゃいました。

そして、この根源的な問題は、私たちが何か選択を迫られるときに、
いずれを選ぶにしても、それに伴う危険を覚悟しなければいけないという点で、
普遍的な問題だと思いました。

以上、今回の集会は、私が参加理由として挙げた三点がすべてがクリアされ、
目的が叶った時間でした。

そうそう、もう一つおまけがありましてね、
城山三郎さんは勲章を拒否したことでも特筆される存在だったとか・・
とても、嬉しいことを聴きました。
  (その理由は、当日記Part3・その31・「“先生”という呼称(3)」を参照ください)

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     ナチュラブ・日記 その132(2007年6月23日号)
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                        閑話休題 


国中で、まるで競うように、嫌な感じの事件が続発するので、
どう努力してみても、私自身の“嫌な感じ”が抜けていきません。
書かなければならない「嫌な感じを払いのけるために」の日記原稿を書く気力が、
どうしても湧いてきません。
そういう自分をなんとか騙して・・・と、いろいろやってみるのですが、ダメです。
それで、気分転換をします。

閑話休題。
プライベートな日記を書きます。

札幌の今年の六月はまさに水無月、ここ3週間はほとんど雨が降りません。
そして最高気温が25℃前後、暑からず寒からずで過ごしやすいときです。
初夏から夏へ。
我が庭の花々も、初夏から夏へ移行中です。

バラが好き。
「バラは1本で完璧。全世界を表現している」といわれますが、まさに至言。
でも、そんな理由でなどどうでもよいことで、ただ、バラが好き。
つんと澄ましたバラが好き。

白バラが好き。
白雪のような真っ白なバラが好き。
ミルクに紅茶を1,2滴垂らしたような、象牙のような白バラが好き。

真っ赤なバラが好き。
ビロードのような真っ赤なバラが好き。
黒バラと見紛う濃紅のバラが好き。

薄紫色のバラが好き。
黄色いバラが好き。
薄紅色のバラが好き。
赤ぶどう酒色のバラが好き。
オレンジ色のバラが好き。
パーゴラに這う蔓バラが好き。

そういいながら、あれもこれもと集めた20種を超えるバラが次々と花開く、
今の季節が好き。

青い花が好き。
勿忘草や亜麻やラベンダーや紫陽花やブルーベルやデルフィニュームや青い小花が好き。

白い花が好き。
鈴蘭やカスミソウやマーガレットやクレマチスが好き。

ハーブが好き。
レモンバームやカモミールやミントやセージやバジルが好き。

ベリーが好き。
ハスカップやラズベリーやブラックベリーやブルーベリーやストローベリーやカリンズが好き。

好きな花々が風に揺れるのを眺めながら、
白樺や桜の木の下で、お茶をいただくのが好き。

そういえば・・・
連続シンポジウムの際に、講師の先生や上田市長や逢坂議員の各テーブルを、
我が庭のバラやミント類が飾ったこともありましたっけ。
昨年7月の最終シンポの時には、テーブルの茶菓に、
ミントの鮮やかな緑と爽やかな香が添えられていたのですが・・・


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     ナチュラブ・日記 その131(2007年6月15日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(9) 


今回は、国民保護法はジュネーブ条約追加議定書と相容れないどころか、
ある意味では危険でさえある例を挙げますが、
そのために、小池清彦・加茂市長と上原公子・前国立市長のお話の他に
「戦争をなくす!あなたの町から無防備地域宣言を(増補版)」(注)を参考にさせていただきます。

ジュネーブ条約追加議定書とは、正式には、
「ジュネーブ条約(1949年)の第一追加議定書
(1977年に、ジュネーブ諸条約に追加された国際武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書)」
といいます。
国際紛争下における文民の保護について定めた人道法です。

この第一追加議定書には、
第四部「文民たる住民」、第五部「諸条約及びこの議定書の実施」が追加付加され、
第四部・第一節「敵対行為の影響に対する一般的保護」の第五章「特別の保護を受ける地域並びに地帯」に
「非武装地帯」や「無防備地域」の規定があります。

国民保護法が、なぜ危険かといえば、国民保護法は住民を守るのではなく、
法の名に反して、戦争体制を住民に組み込むものであるからです。

例えば・・・
ジュネーブ条約追加議定書(以下、追加議定書と表記)第48条(基本原則)は、
  「紛争当事国は、文民たる住民及び民用物に対する尊重及び保護のため、
   文民たる住民と戦闘員とを、また民用物と軍事目標を区別しなければならず、
   従ってまた、その軍事行動を軍事目標に対してのみ向けなければならない。」
つまり、一般市民とその施設と、戦闘員(軍人)とその軍用施設をそれぞれ区別しなければならないという規定です。
「軍事行動は軍事目標だけ攻撃可」ということですね。

第58条(攻撃の影響に対する予防措置)には、
  「自国の支配の下にある文民たる住民、個々の文民及び民用物を
   軍事目標直近地域から移動させるように務めること」
  「自国の人口稠密地域の内部やその付近に軍事目標を設置することを避けること」
とあります。
ですから、住民の避難の際に自衛隊を使ってはいけないのですね。

第59条(無防備地域)は
  「いかなる手段によっても紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、禁止する。」
無防備地域の条件は、
すべての戦闘員・移動兵器・移動軍用設備が撤去されていること、
固定軍用施設・造営物が敵対的目的に使用されていないこと、
当局又は住民により敵対行為がおこなわれていないこと、
軍事行動を支援する活動が行われていないこと、です。
つまりは、“非戦の地域”のことです。

でも、翻って国民保護法の国民保護計画をみると
  「有事には自衛隊に住民避難を出動要請できる」
とあります。
ということは、一般市民も自衛隊と言う戦闘員(軍人)と一緒にいることになって、
当然“軍事行動の対象”になってしまうのですね!
これはどういうことでしょうか?

日本は、ジュネーブ条約追加議定書という国際法を締結し批准していますので、
それを誠実に遵守する義務を負っています。
つまり、その国際法に反する国内法をもつことは禁止されています。(憲法第98条)
となれは、ジュネーブ条約に反する条文をもつ国民保護法は明らかな国際法違反なのです。

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  (注) 「戦争をなくす!あなたの町から無防備都市宣言を(増補版)」について

     編  者: 無防備地域宣言運動全国ネットワーク
     発行所: 株式会社 耕文社
     価  格: 700円

     100ページ足らずで簡単に読めます。
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     ナチュラブ・日記 その130(2007年6月8日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(8) 


払いのけようにものけられないほど、日々“嫌な感じ”が増え続けます。
6月7日も朝刊各紙に「陸自、自衛隊イラク派遣反対市民ら調査」、「自衛隊が市民監視」などと載りました。
「やっぱりね」というのが私の第一声。
「とんでもない。許せない。」と正気に返ったのも束の間。
「国家権力の暴力機構だもの、そのくらいは当然というわけか。
“軍隊は国民を守らない”という軍隊の性質から来る必然の結果。」と、
もの知り顔に嘲笑してみる自分にぞっとしましたよ。

私を含めてこの国のほとんどの国民が、こういうあらゆる方面の“嫌な感じ”を知らずに放ってきたから、
あるいは知っても今朝の私のようにもの知り顔・したり顔で嘲笑してきたから、問題山積の“今”があると思います。
(今の子どもには、大人顔負けのしたり顔が多いですが、これは大人の責任で、又、別のテーマ)
その一つ、参議院選を控えて与党が躍起になって争点ぼかしを始めた年金制度も、然り。
でも、最終的には国民自らの責任です。

それで、まず私自身が嘲笑を引っ込めることから始めなければ。
そして、自衛隊の情報保全隊についての記事から考えて、
自衛隊が国民を守らないなんていうことは“あってはならない”と思いつつ、
でも現実には軍隊は国民を守らないことを、
元・防衛庁高官だった小池清彦・加茂市長なら、身に沁みてご存知だったのではないかしら、と思いました。
そう考えれば、小池市長が、加茂市民を守るために「無防備都市宣言をしよう」とおっしゃるのも頷けます。

実は私は、その無防備都市宣言について何から書けばよいのかと、資料を前に悩んでいました。
「ジュネーブ条約」とか、「追加議定書」とか聞いて、直ぐ内容を思い浮かべられる方が多いとは思えなし、
その知識が皆無なら、無防備都市宣言を理解しにくいでしょう。
でも、それらに関して皆さまにご理解いただくことが本稿の趣旨ではありませんし・・と。

詳細な説明はインターネット等で各自お調べいただくことして省きますが、
一言で要約すれば“ジュネーブ条約”とは、
戦争時における負傷者救済と人権保護を目的にした国際法(1977年作成・1978年発効)であり、
その追加議定書第58条の「攻撃の影響に対する予防措置」並びに第59条の「無防備地域」こそが、
小池市長が「無防備都市宣言」を考えた際に道具として使った条文です。

日本政府は、2004年にこの条約に加入し、2005年2月に正式に発効しています。
ジュネーブ条約追加議定書を根拠にした「無防備都市宣言」運動は、
実際には、地方自治法の直接請求制度を利用し、
『有権者の1/50の署名を集め首長に対して条例案を提出すると、首長は議会に意見書を上程しなければならない』
仕組みを利用します。
これまで、大阪府枚方市、東京都荒川区、神奈川県藤沢市、兵庫県西宮市などで取り組まれ、
特に東京都国立市は上原・前市長自らが市議会に提出するなどしましたが、残念ながらすべて否定されています。

私が聞いた小池・加茂市長と上原・前国立市長のお話から、下記のような結論が引き出されます。

ひとことで言えば
『自国が他国と交戦状態であっても、無防備地域宣言をした自治体(市町村)であれば、
交戦国から攻撃されることはない』ということです。

つまり無防備地域宣言をした自治体を武力攻撃することは、国際法違反になり、
攻撃した国家は戦争犯罪として処罰されるからです。

実際に第二次世界大戦時に国際人道法のハーグ陸戦法規の「無防守宣言」をしたフランス・パリ市へ、
ナチスドイツ軍は砲撃を中止した例があります。
逆に、住民と軍隊が混在する生活の場が戦場だった日本の沖縄戦では、住民の多くが犠牲になりました。
これは軍隊が住民を守らないと言う教訓でした。
また同じ沖縄でも日本軍の兵力が最小だった読谷村では、
戦闘行為が行われなかったため住民の被害も少なかったと言う事実があります。

以上から、住民の生命は、武装による防衛ではなく、非武装で守るというのが正しい選択と言えるのです。
日本国憲法が非武装による平和政策を選択したのも、これらの経験からあるべき現実を学んだ結果です。

でも、その憲法を変えて日本を戦争が出来る国にしようとする政権が、
その前提としていろいろな仕掛けをしていますが、
その一つ「国民保護法」が如何に危険であるか、次回に紹介しましょう。

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     ナチュラブ・日記 その129(2007年6月1日号)
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                    お知らせとお誘い
       〜パネルディスカッション「子どもたちと市長が語る、子どもの権利」〜 


ナチュラブ北海道の連続シンポジウムの常連参加者であった方から、標記のご案内と周知願いの文書が届きました。
「上田市長が再選されて嬉しい限りですが、子どもの権利条例をなんとしても可決すべく、
札幌市民に広めたいと思います。上野さんのお知り合いにも広めてください!」とのメモつきでした。
私も同感ですので、この場を借りて、下記に皆さまにお知らせするとともに、ご一緒に参加いたしたくお誘いいたします。

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                           記

        こどけん(注)2周年記念企画
        パネルディスカッション 「子どもたちと市長が語る、子どもの権利」 のご案内

        【 日   時 】  2007年6月19日(火) 18:30〜20:00

        【 会   場 】  札幌エルプラザ 4階 大研修室
                    ( 札幌市北区北8条西3  011−728-1222 )

        【 パネリスト 】  札幌市の子どもたち (5人前後)
                    上田文雄さん (札幌市長)
                    三澤惠子 (こどけん事務局)

        【 コーディネーター 】 坪井由実 (北海道大学大学院教育学研究科教授 こどけん共同代表)
 
        【 参 加 費 】  500円 (子どもは無料)

        【 主催者・問合せ先 】
                  札幌市子どもの権利条例制定市民会議(こどけん) 事務局
                  〒 060-0061 
                  札幌市中央区南1条西5丁目 愛生館ビル2階 NPO法人さっぽろ自由学校「遊」内

                  TEL  011-774-5671 / 090-2871-5425
                  FAX   011-774-5671  / 011-614-8501
                  E-mail   kodomonokenri2000@yahoo.co.jp
                  
        【 ホームページ 】  http://www.ne.jp/asahi/sapporo/kodomonokenrijyourei/

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 (注) 「こどけん」
      2004年に上田文雄・札幌市長が
      「札幌の子どもたちのために『子どもの権利条例』をつくりたい」と提案されました。
      そのときに「子どもたちにとってステキな子どもの権利条例が出来るように」一緒に考えていこうと、
      2005年4月に「こどけん」こと「子どもの権利条例制定市民会議」を立ち上げました。
      設立から今日まで、月1回の例会のほか委員会や市議会の傍聴をしたり、
      子どもたちによるパネルディスカッションを開いたりしています。(こどけんの案内文より)

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     ナチュラブ・日記 その128(2007年5月31日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(7) 

“五嶋みどり”を聴きました。
5月30日に札幌のキタラ・コンサートホールで、久しぶりに彼女の生演奏を聴きました。
それで今回こそ、「嫌な感じを払いのけるために」書けます。
150センチメートルくらいの背丈で40キログラムもなさそうな小柄な彼女が、
全身を左右に揺らし前後に折るようにして弾くヴァイオリン。
そのヴァイオリンの音の壮絶な美しさが、
ますます増殖する現実の嫌な感じを払拭してくれそうな気がしたのです。

今回の演奏プログラムの中で私にとって秀逸だったのが、
J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調」。
その第5章のシャコンヌは、日に何度も聴いていた時期があるくらいのお気に入りですが、
今回も本当に素晴らしかった。
この一曲だけで、もう充分といえるほどの感動的な演奏でした。

私は、文学も絵画も音楽もおよそすべてに渡って、
自分の好きなものだけしか読まないし観ないし聴きません。
若いころから、本は文学賞や評論家の評価などには無関係で好きなものにしか目が行かなかったし、
大きな美術展でも好きな絵以外には目もくれないことが多いし、
音楽は狭いジャンルの中の好きな曲しか聴きません。
また押しなべて何でも、自分から進んで開拓するということがありません。

でも、不思議なんですが、向こうから私にやってくる場合があるのです。
例えば美術展に行って、お目当ての絵を探す私の目に向こうから飛び込んできた絵があったし、
是非にこれを読んでと友人から勧めら感動した本があったし、
無防備な私の耳に他の音をかき分けて入ってくる特別な音がありました。
そして、その特別な音が、偶々CDで聴いた“五嶋みどりのヴァイオリン”でした。
その後、彼女の生演奏を初めて聴いたのは1998年12月で、
そのときも会場も確か開館1年目のキタラ・コンサートホールだったのを、
あの時一緒に聴いた友人のことと共に懐かしく思い出します。

五嶋みどりは、1982年に11歳でニューヨーク・フィルとの共演で衝撃のデビュー
(指揮者はレナード・バーンスタイン)をして以来、
クラシック音楽界を代表する指揮者・器楽奏者・オーケストラとの共演を重ね、
もちろん独奏者としても、世界各地で幅広い演奏活動を続けています。
ヴァイオリン奏者としての実力は、私が言及するまでも無いでしょう。

でも、私が彼女に惹かれるのは、彼女の音だけではありません。
年間約70回を超える演奏活動の傍ら、社会活動にも積極的に取り組み、
ニューヨークや東京でNPO法人を設立し、
子どもたちにクラシック音楽を聴く機会をつくるような活動を15年以上続けている点です。
好みといえばそうですが、私は、彼女のような生き方が好きです。

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昨日までは、現実界の“醜”の部分が多すぎて、嫌な感じを払いのけられなかった。

政治の世界で、愚かな殿の愚行のため、お家断絶の危機に陥った藩を、
愚かな殿の身代わりに切腹させられた家来
(現実界の身代わりは、彼自身が愚行の片棒を担いではいたけれど)の不運さ、
そんな時代錯誤の芝居を見せられているみたいな・・・

尤も勧善懲悪の時代劇の定番ならまだ最後は正しいものが勝つのだけれど、
現実の政治の世界は巨悪がほくそ笑む・・

日本には、自らの命を賭して自分に掛けられた汚名を晴らすと言う“美風”があるようで・・

でも国民の税金で雇われている政治家は、汚職の疑いや様々な疑惑を招いた責任を追及されたら、
それを国民に説明することでしか責任の取りようがない、
つまり説明責任を果たすことこそが汚名を晴らす唯一の手段だし、
死ぬくらいなら、自分の名誉や恥など捨てて、
国民に疑惑の真相を説明すればよいものを、そうせずに・・

おまけに「死んだら誰でも仏、死者に鞭打つな」という声が出てくるのは、
この国に民主主義が根付かなかった証拠・・・
たかだか“権力”のために“命”がこんなに粗末に扱われる国では、
案の定、死をさえ与野党の政争の具にしてしまった・・
これで、政治家の汚職や疑惑がまた解明されない・・・
自殺した夫を「全力で走ってきたから満足だったと思う」と葬儀で挨拶したという妻がいて、
国会は国会で、与党と野党の駆け引き合戦で、国民不在の茶番の一言。

まったく嫌な感じを払いのけられないどころか、嫌な感じが増すばかりだった。

でも、そういう時に聴いた五嶋みどりの秀逸な演奏で私は「美は醜に勝る」と思いました。
だから、人は、嫌な感じのする現実の辛さにも耐え、気を取り直して生きていけるのじゃないかしら、と。

そう言うわけで、今回は、やっと嫌な感じを抜け出せそうな予感です。
実際には、そう簡単には行かないけれど、でも、と気を取り直せそうな“音”を、私は聴きました。
次回から、“嫌な感じ”を払いのけるために、現実の世界の希望らしきことの報告を続けます。

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     ナチュラブ・日記 その127(2007年5月25日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(6) 

小池清彦・加茂市長は、自民党新憲法草案を、的を絞って明確に批判をした後、以下のように話されました。

  「安倍晋三首相は、現憲法第9条を改正したいと考えて、
  滅茶苦茶で間違った憲法観を振り回して、憲法改正を政争の具とすることに成功しました。
  初めのころはもしかしたら改正できるかもしれないと、彼特有に軽く考えていたようですが、
  時間とともに簡単には行きそうもなくなってきた。
  さすがに今の国民感情では、現憲法第9条に関しては自民党草案が通るとは思えなくなってきたのでしょう。
  それで、憲法改正が出来ないときに備えて、
  解釈改憲によって集団的自衛権を認めさせようと準備を始めました。
  そのための露骨な人選で構成された審議会を開いています。

  彼の目的は、アメリカ・ブッシュ政権の求めに応じて自衛隊を海外派兵できるように、
  現憲法下でも集団的自衛権をさえ認められればよいことですから。
  これなら、憲法改正するよりすっとラクですね。
  結局、このまま行けば、安倍晋三総理大臣と彼が率いる内閣の下では、
  たとえ憲法“改正”を阻止できても、日本が戦争が出来る国になってしまうのは明らかですね。

  では、そうなってしまったとき、私たちには戦争に巻き込まれない方法は残されていないのか。
  私は、今は新潟県加茂市長ですから、首長として、加茂市民の生命を守らなければならない義務があります。
  それで、考えました。戦争に市民が巻き込まれない方法を。
  そして見つけました。それは、ジュネーブ条約の追加議定書の条文でした。」

ジュネーブ条約追加議定書の条文を使って、
たとえ国が戦争に巻き込まれても、せめて自分の住むまちは他国からの攻撃を受けないように守る方法は
“無防備都市宣言”でした。

小池市長のお話は、
小池市長のお話を聞いた直後の「無防備地域運動と自治体からの非戦のまちづくり」講演会(札幌市)で、
前・国立市長・上原公子(ひろこ)さんが話された内容とほとんど同じでしたので、
お二人のお話を総合して、次回に皆さまにお伝えします。

皆さまも聞いたことがあるでしょう。
ジュネーブ条約の追加議定書や、それを利用して非戦のまちを作ろうという運動が、
このところ急速に大きくなってきていることを。
そういう運動が広まりを見せるのも頷ける世相ですが・・・。

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     ナチュラブ・日記 その126(2007年5月21日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(5) 

小池清彦・加茂市長は、自民党・新憲法草案の第12条と第13条も、下記のように問題視されました。

現憲法の第12条は、

  「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
  国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
  又、国民は、これを濫用してはならないのであって、
  常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」

となっているが、
自民党憲法草案では、12条は、(国民の責務)となり、

  「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
  国民の不断の努力によって、保持しなければならない。
  国民は、これを濫用してはならないのであって、
  自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、
  常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。」

となる。

また、現憲法の第13条は、

  「すべて国民は、個人として尊重される。
  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
  立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

となっているが、
自民党憲法草案では13条は、(個人の尊重等)となり、

  「すべて国民は、個人として尊重される。
  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、
  立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

となる。

自民党草案では、その12条と13条に、まさに基本的人権の制限条項が加筆されていて、
安倍晋三の憲法観が色濃く出ている。
つまり彼は、憲法とは国のあり方を決めたものと考え、そのように公言しているが、
その憲法観をこの草案条文に反映させている。

安倍晋三の憲法観は、私が言うまでも無く完全に間違っている。
憲法とは、国の権力者に、国民の自由と権利を約束させたものである。
現憲法の第99条でも、憲法尊重義務を負うのは
「天皇・摂政・国務大臣・国会議員・裁判官、その他の公務員」としている。

それなのに、安倍晋三は、権力者にとって都合よい「国民の義務」を憲法に条文化しようとしている。
こんな憲法に“改正“させたら、またその前提として自民党の国民投票法案が通るなら、
日本国に民主主義が根付かなかった証となり、世界に恥を曝すことになる。
何とか、それを避けなければならない。


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     ナチュラブ・日記 その125(2007年5月15日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(4) 

元・防衛庁(当時)高官であった小池清彦・加茂市長は、
自民党新憲法草案について、下記のように述べられました。

(1) 自民党新憲法草案前文の中の、
  「日本国民は帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら支える責務を共有し、
  自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り・・・」
  の部分は、国防の義務、つまり徴兵制の義務の布石である。

(2) 新憲法草案では、現憲法第九条の二を削除して、つまり、
  「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。」
  という条項を削除して、九条の二として(自衛軍)を新設する。

  条文は次のとおり。
  ・九条の二の1項は
  「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、
  内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛群を保持する。」

  ・九条の二の2項は
  「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、
  法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」

  ・九条の二の4項は
  「前二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。」

これら1項・2項・4項は現状をそのまま認めたもので問題はない。

問題は、3項。

  ・自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、
  国際社会の平和と安全を確保するため国際的に協力して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、
  又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」

これこそが、自衛隊の海外派兵に他ならない。

現憲法の九条の二
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権はこれを認めない。」
のなかの『前項の目的を達するため』という部分こそが肝心で、
「これがなければ自衛隊をもてなかった。
これは、集団的自衛権を否定し自衛権による自衛軍を認めるために、
芦田 均大臣が特別に加筆したものであり、
この条項により、自衛のための戦力を持てるという立場に立って、
現憲法下で自衛隊を持ち、その軍事力を補強してきた。
それゆえ、現憲法を変える必要はない。

それなのに、わざわざこれを変えて、何が何でも集団的自衛権を持ち、
アメリカの要請に従って海外派兵できる軍隊にしたいと、小泉純一郎や安倍晋三が考えたのは、
その政治的価値観に問題があるからであろう。

憲法第九条について言えば、絶対平和主義こそ人類の理想であるが、
残念ながら現実との乖離がある。
それを埋めるために必要最小限の措置としての自衛軍を認めるが、
海外派兵はしないと考えるか否かによって、政治の方向が変わる。
内閣総理大臣は、そのくらいの覚悟を強いられるポストであるが、
小泉や安倍は、そういうポストに見合う見識さえ持ち合わせていないようだ。

自分が防衛省に在職していた当時、湾岸戦争が起きて、自衛隊の海外派兵をアメリカ側が要請してきたが、
当時の石川防衛長官は、「集団的自衛権は憲法で禁じられているから自衛隊の海外派兵はできない」と言った。
あの時代の防衛庁には、そういう見識を持った人材がいた。


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     ナチュラブ・日記 その124(2007年5月9日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(3) 

この稿(1)でご案内した「講演とトーク」
 (憲法施行60年を前にした5月2日に、札幌弁護士会が開催)
についてのご報告です。

会場は、札幌市中央区の“かでる2・7”の大ホールでしたが、
主催者発表で700人の参加者が入りきれず別室も用意されたそうです。
こういう催し物としては大入りですが、
ただ、私を含めてほとんどが中高年歳層だったことが、残念といえば残念。
なぜなら、憲法問題は、特に“改正”の主眼とされる9条は、
若い層にこそより関わりが大きいのですから。

第一部は、
「イラクへの自衛隊派遣は違憲だ」と反対を表明した元防衛庁教育訓練局長の小池清彦・新潟県加茂市長と
作家の辻井 蕎(堤 清二)憲法再生フォーラム代表のお二人がそれぞれご講演されました。
私は初めてこの二人の講演を聴きました。

小池市長は、現憲法と自民党新憲法草案を対比させながら、次のように明快に語られました。
「改憲の結果、海外派兵が自由にできるようになれば、徴兵制が現実のものとなる」と。
なぜなら、アメリカに追随して世界で最も熾烈な戦場・イラクに派兵させられる。
そして、アメリカ軍兵士と同様に、“日本軍兵士”が死ぬ。
しかも一人や二人ではなく、何人も、何十人も死ぬ。
これまでの日本では、海外派兵はしないから
国外の戦場で死ぬことはないという理由で自衛隊に志願する若者がいたが、
今後は誰も志願などしなくなる。
そうすると、“兵士”が不足するので、徴兵制導入になる、と。
また、「安倍政権は日本が集団的自衛権を行使できるように憲法解釈を変えようとしているが、
これは改憲そのものだ」とも批判されました。

元・防衛庁高官ゆえの、憲法9条堅持の理由、そのあまりの明快さに、
なんというか・・・くらくらしました。
私は、専守防衛目的であれ“軍隊”を持つこと自体に反対ですので、
小池市長とは根幹で考えが違うのですが、
でも、小池市長のお説には「理想的な現実主義」というような感想をいだきました。

例えば・・・
憲法9条があったが故に、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争に巻き込まれずに済んだ。
今さら集団的自衛権を認めて同盟国・アメリカの真似をして、世界の警察になってどうする!?
歴史を持ち出すまでも無く、アテネ、ローマ帝国から大英帝国まで、
世界の警察になった国は一年中戦争ばっかりしてきた。
それが普通の国と言うなら、今さら日本は普通の国にならなくてもいいじゃないか。

日本は、憲法9条のおかげで、平和国家として世界中から尊敬されているのに、
なぜそれを捨てなければならないのか。
国連安保理の常任理事国になりたがっているが、
平和憲法を改悪して戦争をできる国になろうとしている日本を、どこの国が進んで支援してくれるというのか。
9条に縛られ戦争のできない平和国家としてこそ、
常任理事国になりたいと言うなら、アジアの国だって支援してくれるだろうに。

また、加茂市長という首長の立場からも、民主主義観を披露されました。
それらも含めて、小池市長、辻井 蕎さん、水島朝穂弁護士のやり取りなど、
もっと詳細にお伝えしなければ、いやお伝えしたい、と思います。

この稿の次回以降、メモを整理しながら、あの日の「講演とトーク」を再現する努力を試みることにします。


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     ナチュラブ・日記 その123(2007年5月2日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(2) 

映画か小説の題名かと思われますが、
「君のためにこそ死に行く」というセリフが、もてはやされています。
映画や小説に責任はないと思いつつ、“嫌な感じ”です。
言葉だけ見れば、あるいは聞けば、美しく、涙を誘い、愛の本質みたいですが、
その使われ方や背景を知れば、ぞっとしますよ、全く。
そうです、まさにその言葉の意図的と感じられる使い方が、“嫌な感じ”なんですね。

今、お手軽な恋愛さえ出来ないといわれる若者が、
それゆえにこそ無いものねだりのように憧れる言葉なのでしょうが、
でも彼ら自身は決して“誰のためにも死に行く”気などありはしない。
誰かが、自分に向かってそう言ってくれるシーンに憧れている、その程度でしょう。

また、戦争経験者(過去の戦争で兵士と戦闘行為に参加した人々ばかりではなく、戦争を指揮した人々)が、
過去を回顧して自分の責任と愚かさから目をそらすために、使う言葉かもしれません。
まあ、それくらいは無責任な庶民枠として、許されるかもしれません。

でも、こんな場合は、どうでしょう?

戦後生まれで戦争を経験したことがなく、おまけに想像力も乏しい政治家たちや評論家たちや、
単に戦後の価値観についていけない懐古趣味のトシヨリたちが、
決して自分だけは“誰のためにも死に行く気などないし、そのような事態にならないことは暗黙の了解で、
自分だけは高みに居る権力者やその取り巻きとして、
“君のために死に行く”ものたちを創り出そうとして、この言葉を利用しようとしているなら。

冗談じゃありません。

“愛するもののために死ね”と、そのような卑劣な輩(やから)に言われるなんて。
言われるだけでなく、法律でそのように決められようとしているなんて。
その前提として、憲法が変えられようとしているなんて。

“君のために死に行く”と、自分の死を自分に納得させなければ、死に行けなかった若者の無念さ。
62年前の1945年(昭和20年)までに、無念さを秘めて死んでいった、
いや、自分の意に反して殺し殺されていった人々と、彼らが生きた時代を私たちは忘れがちです。
そういう私たちの忘れっぽさのツケが今こんなにも大きくなって、
私たちを呑み込もうとしているように思われます。

62年前までは、時代がそうさせた。
選挙権も無く、自分の考えを政治に反映させるどころか、日常的に政治的な話題を語る場もなく、
時の政治権力の言うままにならなければならなかった時代の青年
(先の戦争の後半には、戦士が不足して、中年も戦士として駆り出された)の、
戦争で自分が死ぬこと・殺されることを納得させるための真摯な若者の言葉“君のために死に行く”。

そのことばを、時代背景が全く違う現在に生きる私たちの前にポンと投げ出す輩の無神経さ。
いや、そうではなく、利用しようとしているだけかもしれない。多分、そうだと思う。
そして、その意図を見破れずに
“君のために死に行く”という言葉自体の甘い感傷性に傾きそうな多くの若者層が居るのだと思う。

再び、冗談じゃありません。

今、私たちは・・・いや、若い君たちは、62年前までの彼らとは180度違った政治制度の下に生きている。
自分の意見を堂々と発表し、行動できる現在に生きている。
死ぬためではなく、殺すためではなく、生きるための憲法の下で生きている。
そして、そのような君たちには、62年前までの若者には無かった責任がある。
“君のために死に行く”などと言うセリフを言わないように、言わせないように、
そういう状況になるのは嫌だと、意思表示をする義務がある。
 
私たち世代はかつて、
62年前に終わった戦争に結果的には“協力せざるを得なかった”祖父・祖母・父・母に、
「なぜ戦争に反対しなかったのか」と、責めたことがあります。
でも、それは傲慢且つ一方的な非難でした。
なぜなら、何度も書くように、彼らの生きた時代は、一般庶民には政治的権限は何も無かったのだから。
男性にさえ選挙権はなく、また治安維持法などで政治的組織や集会の自由など一切認められず、
逆に簡単に疑いをかけられて逮捕され拷問を受ける危険だけが存在した時代だったのだから。

そういう時代に生きた人々を、
今の日本国憲法でさまざまな権利を付与されていることさえ意識することなく当然視している私たちが、
自分たちと同等の扱いをするのは、傲慢以外の何ものでもないでしょう。

若い世代の人々も含めた私たちが、今、しなければなら無いことは、たったひとつ、
“君のためにこそ死に行く”人々を、今後は一人も出さないこと。
“君のためにこそ死に行く”と言うセリフを決して、若者に吐かせないこと。
それしかありません。

それこそが、
“君のためにこそ死に行く”といって死んでいった戦争犠牲者(戦士も、もちろん戦争犠牲者)に報いる唯一の方法です。
唯一の鎮魂です。

私たちが、うかうかと、若者に“君のために死に行く”と言わせるような状況を生むとしたら、
そのときには、後生の理解や同情は得られません。
そうであるばかりではなく、責められる。権利の上に眠っていた責任を追及されます。
それを避けなければ。
そのために、今、私たちの“嫌な感じ”と感じることを払いのけなければ。


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     ナチュラブ・日記 その122(2007年4月28日号)
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                 “嫌な感じ”を払いのけるために(1) 

私の内で、“嫌な感じ”が、ますます大きくなっていきます。
鬱々とした毎日が続き、ほんとうにやりきれなくなってきました。
それを払いのけるために、やはり、自分を励まさなければ。
それで、私らしく(?)私にできることから、始めます。
それでまず、シンポジウムのご案内です。

札幌弁護士会は、昨年11月から連続市民講座「憲法を考える180日」を主催されてきましたが、
その最終回のシンポジウムのご案内です。
憲法“改正”が政治日程に上り始めた数年前から、
全国の各弁護士会が憲法を考えるイベントを開催してきましたが、
その札幌弁護士会版が、この連続市民講座です。

その開催目的は下記の通りです。
  「日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。
  札幌弁護士会は、日本国憲法の公布・施行60年を迎えるにあたって、
  それぞれの前日である2006年11月2日から2007年5月2日までの180日間に、
  日本国憲法について、みなさんとともに考える連続市民講座を開催します。
  入場はいずれも無料です。」
 
また、開催次第は下記の通りです。

      ◎ 日   時   2007年5月2日(水)18:00〜
      ◎ 場   所   かでる2・7 大ホール (札幌市中央区来た2条西7丁目)
      ◎ テ ー マ   「日本国憲法とアジアの平和」
      ◎ 講演&討論  水島 朝穂 (早稲田大学法学部教授)
                  辻井 喬  (作家)
                  小池 清彦 (新潟県加茂市長)

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なお私は、
第4回(テーマ「靖国の戦後史」:講師・田中伸尚)と
第5回(テーマ「中・高校生のための憲法講座〜考えよう、憲法は、誰のために、何のためにあるの?
      〜:講師・ダグラス・ラミス、講演後、中・高校生たちと質疑応答)
に参加しました。
それらの感想を含めて、私が今考えていることを次回から書きます。

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     ナチュラブ・日記 その121(2007年4月14日号)
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                 底深い不快感あるいは“嫌な感じ”


4月8日に統一地方選前半が終了して、一言で感想を書けば、嫌な感じ、です。

ただ、北海道に限って言えば、北海道知事選挙&札幌市長選挙は想定通りの結果で、
上田文雄さんが札幌市長として再選されたことは嬉しいことでした。安心しました。
また、道議選&市議選に於いても野党側が少しだけでも議席数を伸ばしたのは、
議会の緊張のためにも望ましいことで、これまた嬉しいことでした。
来たる7月の参議院議員選挙に備えて、
民主党が痩せ我慢をしても首長選挙相乗り禁止令を出し、票を掘り出した結果とも言われていますが。

でも、全体の選挙結果に私の気分は晴れません。
“嫌な感じ”がぬぐいきれず、
ちょうど4月に入ってから今日までの札幌の天気が雨催いで気温が低いことと相まって
鬱々とした時間の中にいます。
例によって選挙前後は、メディアが、選挙に関する肝心の本質的なことよりも、
その周辺事情をより多く書きたて、しゃべりまくって大騒ぎでした。
げんなりするほどに。

それは、私も札幌市議会議員候補者応援のため、
マイクスタッフとして選挙カーで候補者の名前の連呼をせざるを得なかったように、
嫌々ながらも日本型の選挙活動を必要悪として認めて、
騒ぎの一端を担いだことから来る自己嫌悪とも連動して、
ほんとうに心身が疲れました。
 
でも、“鬱々とした時間”と書いたのは、
例えば東京都知事選挙結果に対する私個人の気分の問題などではなく、
選挙全体をめぐって渦巻いていた、選挙権者の無関心や不誠実さ(投票率の全国平均が6割にも満たないという現実)が、
単に彼ら自身の日々の生活の不便さを生むのみならず、
まもなくやってくるに違いない日本国憲法改正を必要以上に簡単に呼び寄せるような気がしてならない、
そういう深い無念感に打ちのめされているからです。

逢坂さんも、ここのところ毎日ご自分のHPの“徒然日記”に怒りを隠さず、
メディアが書けない国会内部の雰囲気をそのままに記されています。
要約させていただけば・・・・・

  「憲法改正国民投票法案の与党修正案が4月12日、
  衆院憲法調査特別委員会で強行的に採決された。
  私は、憲法96条に規定する投票法は、改憲の是非に関係なく、必要なものだと考えている。
 
  しかし、今回の決定は拙速だ。
  なぜ安倍総理はこんなに急ぐのか、理解できない。

  公聴会でも提示された様々な論点に対しても明確な方向が出されていない部分もある。
  議論が尽くされたと思われる部分でも、国民への説明が不十分なものもある。
  つまり国会の議論と国民の認識に相当なズレがある。
  国民だけじゃなく、マスコミと国家議論の認識に間にもズレがある雰囲気を感ずる。
  このズレは完全に埋まるものではないが、国民認識との乖離が大きすぎる。
  最低投票率議論がその代表格で、自公も民主も最低投票率を定めない理由が報じられることはない。
  さらに公務員の地位利用に関しては、その内容が不透明で曖昧だ。
  もっと議論が必要だ。

  他にも懸念事項があるのに関わらず、充分に議論したとして強行的に採決された。
  さらに今日の新聞、あるいはテレビニュースでは、このことが、必ずしもトップニュースではないことだ。
  この法案に対する認識は、そんなものなのか。
  本当に情けなくなる。
  重ね重ね悲しい気持ちだ。日本の民主主義は、大きな危機を迎えている。」

全くその通りです。
今始まったことではないのですが、逢坂さんが書く国会の実情
 (国民との乖離など知ったことかとばかりに絶対多数を誇る与党の奢りや、
 残念ながら党利党略でウロウロする野党の様子など)
も、メディアの役割放棄ともいえる無責任な軽さも、
主権者たる国民の無関心と不誠実さから生み出されたものだと私は思います。

世界中、政治の現場は似たり寄ったりの様相でしょうが、
日本人には独特な受身のDNAがあるような気がします。
長いものに巻かれろ、とか、寄らば大樹の陰とか言われるものです。
 (その中でも特に北海道は、開発が国の支援のもとで始まった歴史から抜けられない、
 おもらい根性があるようです。
 それを、何とかしようと上田札幌市長は、札幌発の産業を援助して、
 時間をかけてでも、地元にお金が落ちるような仕組みを作ろうと提唱されています。)

また、日本人は不幸とか不運でなければ、政治に関心を示さないでしょう。
だから東京は、浅野史郎都知事候補が苦戦どころか大敗したわけだと私には思えました。
イシハラのような傲慢な小心者が、なぜ東京都知事でいられるのか不思議ですが、
でも東京は他の自治体に比べはるかに裕福な自治体ですから、
東京住民はその分、行政の恩恵を享受しています。

今の自分の生活がなんとか維持でき現状に不満がなければ
、政治に関心を持てない人が多いでしょう。だから政治に無関心。

そうは言いながら、東京都民をも真綿のように包んでいる日本全体に漂う閉塞感は、
彼らを内向き思考に誘います。
そういう状態では、大切なのは自分とその関係者であり、
そのささやかな安泰を脅かすものには、牙を剥くのでしょうね。
そしてまた、自分より下のものを苛めて自分の方がまだましと安心したいというさもしい欲望を持ち易く、
アジア諸国を見下して空威張りをするイシハラに、簡単に乗ってしまう・・・。

嫌な世の中ですよ、まったく。嫌な感じです。

そんなことを日ごろから感じていた私は、今回の札幌市議選で握ったマイクを通じて、
最終日には次のようにアナウンスせずにいられませんでした。
 「明日の投票日には必ず投票にお出かけください。選挙権を行使してください。
 今は、大切なことは私たち市民が自ら考えて決める時代です。
 その一歩として、明日は、皆さまがご自分で考えた1票を投じてください。」

今回の統一地方選では、“憲法改正”が争点にはなりませんでしたが、問題はすべてリンクしています。

国民投票法の内容の多くが国民に知らされていないように、
“憲法が保障する権利は主権者たる国民に与えられ、義務は統治者である政府に負わされている”
ということも、案外知られていないでしょう。
そうです、憲法は私たち国民を守り、統治者を縛るものです。

「でも」と、今回の選挙にあたって、私は考えました。
まず、自分たちの目の前にある知事選&道議選&市長選&市議選に真剣に取り組むことは、
国民の権利であると同時に義務であると。
では何に対する、誰に対する義務であるか。
それは、私たちの次の世代への義務に他ならないと。

私は、自分が生きてきた60年間のこの平和を次代へも必ず引き継ぎたいと思うから、
その思いにつながるように、1票を行使する。
私と考え方を異にする人も、その考えを表明するべく1票を必ずや投じて欲しい。
そうして次世代への責任を持って欲しい。
そういう思いを込めて、私は、選挙権行使を呼びかけずにいられなかったのです。

これから参議院選挙に向けて与党から争点として憲法改正が取り上げられるのは必至です。
取り上げること自体に異論はなくても、国民投票法案同様、
その取り扱い方に問題が多くあることが簡単に予想されるので、私は憂慮しています。

そして、そういうこと全般に相変わらず無関心で不誠実な態度を取るであろう多くの国民(メディアも含まれます)に、
私は不快感・嫌な感じをますます深めていくのだろうと、珍しく後ろ向きな気分に埋没したままです。

姜尚中さんのおっしゃる “ばらばらの個人同士の横の連携”を作り、
この嫌な感じを払拭すべく、何かを仕掛けなければと思うのですが、
どうしてよいのか解らないのです。

あの1960年の日米安保条約改正反対闘争(いわゆる“60年安保”)のような
大きな運動が生み出されるだろうか・・・
あの時の熱意が、戦争はもう絶対に嫌だという厭戦感で思わず体が動いたと言えるような、
国民の熱意によるうねりが再び出てくるだろうか。
いや、受身ではなく、私自身も積極的に何かをしなければ。
でも・・・何をどうすればよいのか、という堂々巡りの中に埋没しているのです。

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     ナチュラブ・日記 その120(2007年3月24日号)
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                 「ニッポン・サバイバル」の薦め  (4)


自由で生きやすい社会とはどういう社会でしょうか。
姜さんの言葉によれば
 「サラリーマンであろうが主婦であろうが、
 自分の持っている多様な潜在的な可能性に開かれていると感じられる社会。
 年齢や男女差や学歴等でその可能性が閉じられることのない社会」
です。

日本が潜在能力の少ない社会になってしまった原因の一つが、
実体のない曖昧な“世間”という拘束力。
潜在能力を発揮できる可能性が制度として比較的整っているヨーロッパやアメリカとは違って、
目に見えない束縛としての“世間”が大きな力を持つ日本で、
ヨーロッパやアメリカのような自己責任に基づく自由競争を強いられた結果、
不幸にも敗者になればもう絶望的になり、自殺者が増える・・・

このように考えれば、自由は、社会的裏づけがあって初めて叶えられるものだから、
個人的内面に関ると同時に社会的問題でもある。
その社会的裏づけとは、経済的危機に陥ったとき安全を保障する社会的制度=セーフティネットではないかと、
姜さんは主張されます。
フリーターが生き方を変えようとするとき、
あるいはサラリーマンが年金や医療保障が失われる事態に陥ったとき、
セーフティネットが無ければ過酷で悲惨でしょう、と。

そこで、自由に生きるために、どうやって社会的裏づけ=セーフティネットを創ればよいのか。
結局は、ばらばらの個人同士の横の連携を、どうやって作っていくか、です。
姜さんの言葉をまたまた勝手に乱暴に要約すれば、次のようになります。

 政治的自由は民主主義によって支えられているが、今の日本では民主主義が機能しにくくなっている。
 その理由は、労働組合や地域の縁故関係などのしがらみで政治に関ることが少なくなって、
 その代わりに個々人がIT情報を通じて、特定の人気政治家と自分が
 “直接結びついている”意識を強く持つようになったからだと思われる。
 が、実際には個々人が孤立していて横の連帯がない状態なので、
 権力側のメディア戦略で簡単に操作され易くなった。
 本来、自立した個人として政治に参加することは民主主義では理想だが、
 個の結びつきが無ければ、民主主義が大衆的に広がれば広がるほど、
 皮肉にも画一的になって行く惧れがある。
 民主主義の行き着くところが全体主義とは!
 それを避けるために、個の横の連帯をどう創るか、真剣に考えよ。

反論の余地がありますか?
私には反論できません。それならば、個の横の連帯をどう創るか、考えなければ。

そして、最後に、私にとっては自由の問題の最難関である「自由と安全」についても、
姜さんは下記のように言及されています。

 自由と安全は、二律背反です。
 その一番解り易い例は、犯罪やテロが多発する社会に生きる人々にとっては、
 多少自由が束縛制限されても安全が優先されてしかるべき、となることでしょう。
 自由を守るための安全強化は、自由の否定ですが、安全神話は、いったん作動すると止まらない。
 人の行動から思考に至るまで管理されます。
 現に自民党は、殺人や物の破壊を実行しなくても、
 それを計画しただけで犯罪にしようという共謀罪法案の成立を目論んでいるでしょう。
 これは、自由の否定に止まらず、社会の免疫力をなくすることになります。
 本来、自由な社会は、その内に予測不可能なノイズが入り込み、
 それを取り込むことで社会はより強くしなやかになっていくのです。
 逆に、ノイズを許さない社会にしてしまったら、純粋でも狭量な社会になって行くだけです。
 結局、自由な社会が常にリスクを内包した激しい社会である以上、
 生命を侵す危険を承知で、それでも自由を選ぶと言う開き直り・決断が求められているのではないでしょうか。

生命を賭ける価値のある“自由”。
本来、“自由”とはそういうもの。
その自由を獲得するために戦い、血が流されてきた歴史があるし、
今もまさにそういう状態の国もある。
日本は、少なくても表面上は自由であるから、それについて真面目に考えることはないらしい。
失ってみて初めてその価値がわかるというものにならないように、“自由”について考えるべきでしょう。
姜さんは、そのように示唆されているのだと私は思いました。

以上、ほんとうに難しい“自由”論議でした。

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さて、「ニッポン・サバイバルの薦め」シリーズは今回で一度中断します。
その理由は、下記の通りです。

姜尚中さんは、問題ある現状打破のための有効な手段は、
遠回りでも個人が孤立せずに連帯して、政治や社会について話し合い、
そこから行動を起こすことではないかと、おっしゃいます。
どう行動を起こすか、それは自分で考えよ、と。

姜さんのこの言葉は、上田文雄・札幌市長や逢坂誠二・衆議院議員が、
常に主張されている「お任せ民主主義からの脱却」に他ならないと思います。

そして、3月25日に告示日を迎える札幌市長選挙に、上田市長は二期目を目指して立候補を予定されていますが、
それはまさに「お任せ民主主義からの脱却のために“どう行動を起こすか”」に呼応されるためと思います。

2005年8月に、「ナチュラブ・北海道」主催の連続シンポジウムに
毎回メインで出席された“逢坂誠二・ニセコ町長”が衆議院議員選挙に立候補されたとき、
私どもは、肩書きが変わろうとも「逢坂さんは逢坂さん」という合言葉のもと、逢坂さんを応援しました。
そこで今回は、上田さんに、ぜひ札幌市長に再選して欲しいとの願いを込めて、
私は上田さんの選挙の応援をいたします。
例えば、選挙カーに随行し、上田さんの街頭演説場所の近辺でチラシ配布。
毎日、演説場所が変わります。
あるいは、昔のウグイス嬢、今のマイクスタッフ。つまり、選挙カーから“上田文雄”をPRする役目。
あるいは、食事の差し入れ。あるいは選対事務所で、有権者の皆さんに上田文雄支援呼びかけの電話がけ。等々。

皆さまも“札幌市長候補・上田文雄”像に共感されたなら、
それを表明する積極的な“行動”に移してくださいませ。
まず何よりも、上田さんの選挙カーが、皆さまのお住まいの近くに行かれたら、どうぞお声を掛けてください。
皆さまのお声かけが、上田さんを一番、勇気付けますから!特に街頭演説の際にはぜひ!

「上田文雄さんを応援する勝手にボランティアの会」から
以下のメニューにご協力がいただければうれしいという連絡をいただいておりますので、ご紹介します。

 ・選挙カー随行チラシ配布
 ・電話がけ・法定ビラ配布
   (お近くにマンションや家のポストに配布)
 ・ポスター看板掲示
   (A1サイズのポスターを板に貼ったものを敷地内で道路に向けて設置させていただける方は、ご連絡ください。)
 ・ポスター店内掲示
   (お店などを営まれている方で、A2サイズのポスターを掲示していただける方は、ご連絡ください。) 
 ・これらのボランティアにご協力していただける方をご紹介してくだされば、さらに、ありがたい。

連絡・問い合わせ先は下記です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 上田文雄さんを応援する勝手にボランティアの会 
   札幌市中央区北1条西3丁目 ばらと北一条ビル5階
   FAX 011-281-2556 (勝ボラの事務所)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

なお、3月24日と3月25日の予定は下記の通りです。

(1) 3月24日(土)の予定
   13時から札幌全日空ホテル3階で出陣総決起集会があります。
   お時間のご都合がつく方は、ぜひご参加ください。

(2)3月25日(日)の街頭演説予定(変更になる場合はご容赦ください)
  8時30分 時計台前で第一声(みんなで元気に送り出そう!)
  9時15分 光星団地前(北11東12)
  9時30分 環状通東駅前(北11東15)
 10時15分 ジャスコ元町店前(北32東15)
 11時30分 あいの里東急ストア前
 13時15分 ラッキー篠路店前(篠路3条4丁目)
 17時30分 ダイエー琴似店前
 18時30分 澄川生協前(澄川6条4丁目)
 19時00分 自衛隊駅前(澄川3条6丁目)
 19時30分 真駒内ラルズ店前

3月26日〜4月7日までの遊説&街頭演説予定は、
「上田文雄さんを応援する勝手にボランティアの会」にお問い合わせください。

では、皆さま、勝手に上田文雄さんを応援して、4月8日には、それぞれの投票会場でお逢いしましょう!


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     ナチュラブ・日記 その119(2007年3月18日号)
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                 「ニッポン・サバイバル」の薦め  (3)


「ニッポン・サバイバル」の第二章は、“自由”についての考察です。

実は私には「“自由”は大変難しい概念」という思いがあり、
そのコンプレックスのためか、この稿が進まず焦っていたのですが、
北海道新聞(16日付け夕刊)に「ニッポン・サバイバル」について姜さんのインタビュー記事が載りました。

チャーミングな笑顔の姜さんの写真を眺め、ため息をつきながら
「なんと言う偶然!私へのエール」と勝手に捉えることにしました。
なんという調子のよさ!?
そうですとも、私は、占いも自分に都合の良いものしか信じないという身勝手なヒトだし・・と、
自分で自分を励まして、これを期に、エイヤッ!と“自由”について、考察を・・

“自由”は空気や水と同じで初めから人類に与えられたもので、あって当たり前。
“自由”を獲得するために人類は現在までどれだけの血が流してきたかというようなことについては、
今の日本人は改めて真面目に考えたことはないのではないかと、姜さんはおっしゃいます。

まさしく私もその一般的な日本人の一人です。
その上、前述したコンプレックスのせいで、無意識に“自由”を考えることを避ける傾向にあります。

が、例えば、日の丸・君が代を強制されるのは苦痛で、
息子の小学校や中学校卒業式などの“君が代”斉唱時、私は抗議の意思を示して起立しませんでした。
そのように「これは憲法に保障された精神的自由に反する」と抗議をするような場合に
“自由”を思い出すのです。
そして「こうやって、いちいち抗議行動をするわが身こそが、この国が自由でない証拠だわ」と自嘲。
と、つい不真面目な反応をしてしまいましたが・・・

それで姜さんの言葉をお借りすると・・・

実は、西洋の、特にキリスト教文化においては、絶対的自由は神だけのもので、
人間は禁断の果実を食べて善と悪を区別する能力を得た、
つまり善と悪のいずれも選べる自由を得た代わりに、楽園追放と言う罰を与えられたのだから、
“自由”はイコール幸福であると手放しに喜べるものではなく、扱い方に注意を要する概念である、と。

現在の日本で分りやすい例を挙げると、フリーター。
たしかに自分のために自由な時間を持てるけれど、それは自分の経済的条件からも自由、
つまりは経済的保障を失うということです。
この概念というか表現は、私は日本では馴染まないような気がします。
何の疑いも無く、自由は良いものと思われがちな日本では、
経済的条件からの自由 = 経済的保障を失う = 貧乏という式が、
理解しにくいのではないかと思うのです。
いかがでしょう?皆さまは、「経済的条件からの自由」と言う表現を、すんなりと受け入れられるでしょうか?

でも、姜さんが「ニッポン・サバイバル」第2章のテーマとして
『「自由」なのに息苦しいのはなぜですか?』を取り上げたのは、
まさに、この西洋キリスト教文化の中の“自由”です。

宗教的束縛も身分制度もなく物質的にも豊かな日本ほど自由な社会はないように見えるけれど、
そこに暮らす人々が、どこかに束縛感や息苦しさを覚えているのも事実で、
それはなぜか、という社会科学者の視点が、姜さんにはあるからでしょう。

姜さんは「本当に自由な社会とは敗者復活戦が可能な社会」とおっしゃいます。
いまそこにあるものだけでなく、潜在能力がある社会こそが真の意味での自由な社会。
今は、Aを選択しているけれど、将来の潜在的可能性としてBやCやD・・・など
いくつかの選択肢を自由に選べると確信を持てる社会。

でも、現在の日本で生きているのが息苦しいのは、
人生の選択の複数化が困難で、一度失敗したら敗者復活などありえないからで、
そのために自殺者が増加している日本は、ほんとうは自由ではないのだろう、と。

また、一度“主婦”を選んだ女性が、
自分の潜在的可能性を生かして別の道を選ぼうとしても就職が困難であるというのも、
自由とはいえないだろう、と。

なぜ日本がそういう潜在能力のない社会になってしまったか。
ほんとうに自由で生きやすい社会を作るためには、どうすべきか。
次回をお待ちください。

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     ナチュラブ・日記 その118(2007年3月12日号)
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                     お知らせ

菅谷 昭(すげのや あきら)・松本市長が来札され、上田文雄・札幌市長とこれからのまちづくりについて対談されます。
主催は「まちづくり対談実行委員会」
詳細は下記の通りです。

               〜〜〜 菅谷 昭・松本市長と上田文雄・札幌市長の対談会 〜〜〜

          日 時 : 2007年3月18日(日) 19:00〜20:00
          会 場 : 北海道クリスチャンセンター ホール(札幌市北区北7条西6丁目)
          参加費 : 無料
          進 行 : 19:00   講 演  菅谷 昭・松本市長
                       「すげのや昭の“まちづくり”」(仮題)
                 19:20   対 談 菅谷 昭・松本市長&上田文雄・札幌市長
                 20:00   終 了
                 20:00  上田市長との懇親をできる場を設けます。

          主 催 : まちづくり対談実行委員会 (札幌市)
          問い合せ先: ワーカーズコレクティブえこふりい
                       TEL&FAX 011-866-1113 (10:00〜17:00)

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菅谷 昭・松本市長を覚えておいででしょうか。
菅谷 昭・松本市長は、昨年4月29日札幌市で開催された
「チェルノブイリ  いのちの記録」と題する講演会でお話されましたが、
私はその内容に感動して、ナチュラブ日記・Part7「真っ当な生き方のススメ」で3回に渡ってご紹介しました。
そのご縁で、菅谷市長とは季節の挨拶を交わしたり、菅谷市長の講演録をいただいたり、
ナチュラブ・北海道発行のシンポジウムの記録や資料を差し上げたりしております。
また、ナチュラブ・北海道のシンポジウムをご紹介したことで、菅谷市長が上田市長に関心を持たれ、
そこから市長同士のお付き合いも始まったと伺っており、今回の対談が実現したとか。
お忙しいお二人ですので僅かなお時間の対談ですが、ご一緒にお聴きできればと、
お知らせかたがたお誘いいたします。
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なお、次回から「ニッポン・サバイバル」の薦めを再開します。

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     ナチュラブ・日記 その117(2007年3月5日号)
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               「ニッポン・サバイバル」の薦め  (2)

お金に対する姜さんの個人的な考えは、
「『六者協議が成功した』というニュースの方が、高価なものを買うより嬉しい。お金で買えないものだから。」
に尽きます。この言葉は、姜尚中さんの人格そのままだと思います。

でも、現実の人の生活は
「清貧の思想だけでは生きていけない。人生は金、でもない。その中間にお金のあり方がある」
と考えていらっしゃる。物と心を分けて考えるのはまやかし,人間をトータルに見ていない、と否定されます。
それぞれの個人の考える豊かさについての感性をむしろ大切にすべきことだから、
豊かさをめぐる“物”か“心”かという議論は意味のあることではないと、おっしゃいます。
同感です。
 
他方、社会的一般的なお金を、姜さんはどのように考えていられるのか。
「ニッポン・サバイバル」の中で、お金についての姜さんの考えを“乱暴に”要約すると下記のようになります。

バブル時代に、質素倹約から大量消費へと、日本人のお金に対する意識が変わり、
今は過剰富裕化社会になってしまった。
その結果、何かを生み出す歓びより消費行動で自分の存在を確かめようとしているように見える。
そして今の日本の格差現象は、地方交付税や補助金と言う形で富の再配分がなされたバブルの時代とは次元が違う。
このままでは、アメリカ型の富裕層と低所得者層に二極分解していく。
そうすると犯罪の増える不安定な社会になり、富裕層にとっても生きづらいことになる。

こうした状況に直面したとき、人はどのような行動を起こすかといえば、ニ通りある。
一つは、自分と自分の家族だけはせめて負け組みにならないようにお金儲けに必死になる、個人的自己救済型。
もう一つは、「こういう世の中は変だ」と考える仲間と知恵を出し合い社会を変えていこうとする連帯型。
今の日本は、人と人の結び方が弱いので自己救済型に走りがちであるが、それでは前述の不安定な社会になり、
みんなにとって生きづらいだけになり、富裕層も個人の幸せの中に逃げ込んでも無駄。
そこを避けるために、勝ち組と負け組みという分断から、連帯へと絆を深めるしかないだろう。

また、今のグローバル時代のお金は、ストック(備蓄)ではなく、流動する性格が大きいから、
勝ち組も実は浮き沈みが激しく、絶えず不安に駆られ精神的に安定せず幸せとはいえないのではないか。
分を超えて勝ち組になろうとするより、身の丈にあったお金を稼いで、身の丈にあった使い方をするほうが、
安心できるのではないか。
 
それと・・・近頃「備蓄の思想」を考えているそうですが、それについては割愛します。
その部分は、皆さまがご自分でぜひ、お読みくださいな。

姜さんも書かれていますが「日本でお金の話をすると下品だと見られるふしがあるけれど、それは間違い」ですね。
お金は、今の私たちの生活とは切っても切れないものです。
お金こそ人間社会で、とても重要な部分を占める“道具”でしょう。
今の社会では、お金が無くては一日も暮らせない、一日も社会が動かない。

また、お金の話=下品と言う発想は、お金は汚いという意識があるからでしょうか。
でも、お金が汚いというのも間違いです。お金にはキレイもキタナイもない。
なぜ、そういう不名誉な属性を、お金は負わせられるのか。
それは、お金を汚く使う人や自分のためにだけお金を使う人が多く、マイナスのイメージが大きいからでしょう。
例えば、政治資金規正法違反の政治資金。例えば、銀行の不正融資。
例えば、社会保険料負担を嫌って従業員の正規雇用を避ける事業主。
つまりお金自体には、何の責任もなく、お金を使う人の側に責任があるのです。
姜さんは「そのあたりを正面からもう一度考え直してみることが必要なのだと思う」と、
お金の話を締めくくっています。

では、私はというと、「お金はたくさんあったほうがよい」と考えるタイプです。
だって、お金が何千万円、何億円もあれば・・・・
政党の選挙資金(つまり政党に縛られて)で選挙に当選しても、
自分と政党の考えが異なった場合に自分の考えを通せないかも知れず、
それは嫌だから選挙には出ないという有能な人材を、政党の紐つきではなく“無党派”で出せるじゃないですか!

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     ナチュラブ・日記 その116(2007年2月28日号)
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               「ニッポン・サバイバル」の薦め  (1)


本来なら一番冬らしい寒さが続く北海道の二月なのですが、今年は一月に引き続いて暖冬です。
雪はそこそこに降っても、気温が例年に比べかなり高いのでこの時期には似つかわしくない湿り雪で、
また融けやすいので、厳寒と言う引き締まった冬日がないのが特徴です。
多分、このまま二月も終わり、間もなく弥生三月になるでしょう。

さて、ちょっとお休みと思ったのですが、ついつい、いつものサボり癖が出てしました。
ただ、長い間の“積読”を反省して、2,3冊に手をつけました。
以前に書いたことがありますが、私は、何か一つのことに集中することはめったになく、
本さえ1冊を精読することはほとんどありません。
数冊同時平行、時には途中で投げ出すこともあり・・なのですが、
今回は一気に読み終えた新書があって、皆さまにお知らせしようと思い立ちました。

既にお読みになった方もいらっしゃるでしょうが、そうです、姜尚中さんの集英社新書版著書です。
『2005年9月から2006年9月にかけて、集英社女性誌ポータルサイト<s−woman.net>に掲載した
「another door〜もうひとつの世界へ」を、章立ても変えながら全面的に加筆訂正したもの』だそうです。
サブタイトルに「不確かな時代を生き抜く10のヒント」とあるように、
また、姜さんの直筆で「自由なのに息苦しいこの国で、まともに生き残る道を考えました。」と書かれた帯が示すように、
「幅広い世代から寄せられた声に誠実に向き合い、この国でしたたかに、しなやかに生き抜くための方法論が提示」されています。
 
“政治学者・姜尚中”が書き下ろした論文ではない証拠(?)に、章立てが次のようになっています。
   第一章 「お金」を持っている人が勝ちですか?
   第二章 「自由」なのに息苦しいのはなぜですか?
   第三章 「仕事」は私たちを幸せにしてくれますか?
   第四章  どうしたらいい友人関係が作れますか?
   第五章  激変する「メディア」にどう対応したらいいの?
   第六章  どうしたら「知性」を磨けますか?
   第七章  なぜ今「反日」感情が高まっているの?
   第八章  今なぜ世界中で「紛争」が起こっているの?
   第九章  どうしたら「平和」を守れますか?
   第十章  どうしたら「幸せ」になれますか?

一見、あの姜さんの表現には思えない違和感があるような、そんな章立てですが、
いえいえ、それは違います。中味は間違いなく、あの姜尚中さんの文章です。
読み進む私には「そうそう、そうなのよね」、「これは、そういうことだったのね」と、
しきりに頷く自分を発見する時間でした。それで、珍しく一気に読めたのですが。
そういうわけで、次回から「ニッポン・サバイバル」の簡単な紹介を兼ねて、ご一緒にいろいろと考えたいと思います。
お付き合いください。


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