ナチュラブ・日記    Part 7
 Part 1(その1~9) ナチュラブ代表が観た逢坂さんの政治観 Part 2(その10~22) 衆議院選挙
 Part 3(その23~36) 選挙後雑感、永田町での逢坂議員    Part 4(その36~48 靖国神社「遊就館」レポート
 Part 5(その49~60  エリート教育          Part 6(その61~69 負の連鎖「元気の種コレクション」
  =======================
     ナチュラブ・日記 その77(2006年6月15日号)
  =======================


             宮口侗迪先生、“自主参加”!

うれしいニュースをお届けします。

連続シンポジウム第7章「都会に暮らす・地方に生きる」(2005年11月13日に開催)の
ゲスト講師でいらした宮口侗迪(としみち)・早稲田大学教育学部教授から、
第9章「市場原理」に “自主参加”くださるとの連絡をいただきました。
第7章にご参加くださった皆さまは、
あのシンポの時の深い感動とともに、宮口先生を思い出していただけると思います。

「中央や都会と、地方や田舎の乖離が大きくなりすぎて、このままでは日本全体が立ち行かなくなる。
都会には都会の、地方には地方の特徴があり、よさがあるはず。それを今、もう一度考えてみなければ」
と、当時逢坂“ニセコ町長”は、おっしゃったのでした。
都会を代表する形の上田・札幌市長と地方を代表する形の逢坂“ニセコ町長”が選んだテーマに
相応しい講師としてお招きしたのが宮口とし迪先生でした。

宮口先生が、ご専門の地理学というお立場から、
このテーマに沿って「北海道社会への改めての期待―都市と農村それぞれの協働―」と題して、
いかに味わい深いお話をしてくださったか、この問題を考えるためどのようなご示唆をくださったか。(*注)

そのお話を聞いて、参加された皆さまから、
「目から鱗でした」
「悲観的にしか捉えられなかった北海道を新たな視点で考える切っ掛けになりました」
「北海道に期待を掛けてくださった先生から元気をいただきました」
「できることなら、宮口先生と議論をしたい」
というような感想をたくさんいただきました。

宮口先生は、学会をキャンセルされて、私どものシポジウムにご出席くださったのでした。
そして、私どものシンポの運営方針
 (行政はもとより、他のどこからも資金援助を受けず、参加費収入とスタッフや市民の皆さまのカンパのみで運営)
を高く評価くださり、また参加費を払ってまでも参加する人がいる北海道は素晴らしいと褒めてくださったのでした。
その上「第10章までには、一度自主参加させていただくよう考えたいと思います。」ともおっしゃってくださいまして、
私どもスタッフは感激いたしました。

宮口先生は「夜は友人知人と美味しいワインを飲むためにある」という洒脱な方でもありますから、
いつか参加者の皆さまとそういうお時間を共有できれば・・・と、思わず夢を描きましたが・・・・
そのお約束を忘れずに守って果たしてくださるとのことです。
皆さまにとって願ってもないチャンスとなりますね。
私どもにとっては、“主催者冥利”の一言に尽きます。

実は・・・特別編を途中に組みましたので11回連続になるシンポジウム運営は、さすがにキツイものがありまして、
緊張と集中力も切れかけ、気合を入れ直さなければと思っていたところでした。
そこへ宮口先生からの暖かいお心が届きまして、思わず涙ぐんでしまいました。
うれしさのあまり、私の不甲斐なさを漏らす日記になりましたが、お笑いくださいませ。
そして、来る6月25日には、連続シンポジウム第9章「市場原理」にご参加の上、
神野直彦先生・上田文雄札幌市長・逢坂誠二衆議院議員、
そして“特別・自主参加”の宮口侗迪先生の討論の輪に是非加わっていただきたく思います。

   (*注) 完成したばかりの「第7章の記録」をご参照ください。
        第9章開催時(6月25日)に会場で、一冊200円で販売させていただきます。



 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その76(2006年6月4日号)
  =======================


             連続シンポジウム第9章「市場原理」のご案内

幾人かの方から、ここしばらくナチュラブ日記が全然更新されないのは、私の体調不良のせいではないかとの
ご心配のメール等をいただきました。
私のようなものに、お心に掛けてくださる方がいるのはもったいないことですし、また申し訳なく思います。
それで、一言事情を書かせていただきますと・・・
めったに無いことですが、このひと月は次々とナチュラブ・北海道とは無関係な私的な用事が重なり、
ナチュラブ日記を書く余裕がありませんでした。

そうこうしているうちに、日は過ぎて水無月の声を聞くころになりました。
そして3週間後には、連続シンポジウム第9章「市場原理」の開催日が迫っているではありませんか・・・
1ヶ月も日記を更新しなかったことに我ながら驚きつつ、また焦りながら、次回シンポジウム準備をしております。

そのシンポジウム・第9章について、HPでの詳細なお知らせは6月3日に載せたばかりですが、
既に多くの方から講師の神野直彦先生について、期待が寄せられております。

いわく「神野先生は、すごい先生です。ぜひ行きます。
先生の経済理論には、人の心の温もりが流れているのです。楽しみです。」
いわく「今回の特別ゲストが神野直彦教授とは、感激です。
4年前先生の岩波新書『人間性回復の経済学』の読み感動しました。
この10年間で最も私に影響を与えたくれた本です。」
 
財政学、地方財政・地方分権等の分野での第一人者であり、“ミスター・税源移譲”の異名をとる神野先生は、
地方分権推進の先頭に立たれている方でもありますが、
今回のご講演のテーマは「市場経済にイエス、市場社会にノー」です。
神野先生は、どのようなお話をお聞かせくださるのか。
また、神野先生と上田市長と逢坂議員の3人でどのような鼎談になるのか。
多くの皆さま同様、私どもも楽しみにしております


 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その75(2006年5月4日号)
  =======================


              「真っ当な生き方のススメ」 (3)

チェルノブイリ原発事故後遺症に苦しむ人々の医療支援や現地の医者育成に
ご自分の持てるものを惜しみなく使われて帰国されたあと、
田中康夫・長野県知事に請われて、県・衛生部医務課医監となり、その後、衛生部長を務められた菅谷さん。
「行政経験がないからこそ、官僚と違う目線で仕事に当たってほしい」
という田中知事の要請を受けて、長野県職員になられました。
「田中さんが知事にならなくて、私がベラルーシに行かなかったら、なかったことです。そこに運命を感じました」と。
そして「人生すべては勉強と思えば楽しくさえ感じ」た2年間で行政の組織を経験しました。
「百聞は一見にしかず」だったとおっしゃいます。

菅谷さんのここまでの生き方、
つまり日本人の甲状腺医療の専門家が、ロシアでその専門を生かすという選択や、
医師という肩書きで医務課医監や衛生部長という行政職を務められるということは、
私たちにとっても理解可能ですね。
でも、専門とは全く違う分野である行政の首長“松本市長”に新たに踏み出す勇気は、
どこから出てきたのでしょうか。

それは、「患者を県民、市民に置き換えればいいだけのこと」ということだったそうです。
医師としては「医者じゃなくて患者さんの視点で」を貫き通したように
「市政にあっては、主役は市民」を通して、
いわゆる役人の立場に立って物を考える職員さんには「それは違うんじゃないか」と疑問を呈してきたそうです。
行政職はパブリックサーバント=公僕。
この言葉は古い体質の召使のようなものを連想させるけれど、
市民の血税で養われている以上、市民の権利を体を張って守るのは行政職の当然の責務であるとの思い。
この至極真っ当な言葉は、田中知事の
「私を含めてあなた方はパブリックサーバントなんですよ。県民と同じ目線で行政をやらなければなりません」
にぴったり重なります。

また、菅谷さんは“権力の怖さ”をも、実感された、
それ故、最高権限を持つ人こそ、自分の判断だけでやってはいけないし、また長く続けてはいけない、
と自らを戒めていらっしゃいます。

ここまで聞いて、はっとしました。
私の中で、菅谷さんと上田さんと逢坂さんが、一直線に並んだのです。
上田さんは、「当たり前宣言」をスローガンのひとつに掲げて札幌市長になった方ですが、
その公約を「市役所改革」として実行されています。
公務員には「お役人体質からの脱却」を唱え、
札幌市民には「自分の住むまちを自治する意識をもってほしい」と呼びかけ、
そのようなまちづくりを着々と進められています。
そして、これらのことを、決してトップダウンではなく、
副市長以下多くの職員と時間をかけて協議を重ねながらやってこられました。

逢坂さんは、ニセコ町長でいらしたときには、
毎朝の職員向け“町長室日記”に「町民の目線で仕事をしてください」と書き続けられました。
また「ニセコのような小さな町であっても、町長は大きな権力を持っていることを忘れてはいけない」とご自分を戒め、
町長職は長くて3期までと決めていらしたそうです。
現在は「地方自治こそ我が本籍」と言い切り、
北海道だけでなく全国の地方自治体の代弁者・支援者として、町長時代の経験を大いに役立てて国会で活躍中です。

そして菅谷さんのお話を聞き進むうちにもうひとつ、菅谷さん、上田さん、逢坂さんの共通点を見つけました。
それは、「次世代に何を伝えるか」、言い換えれば、子どもたちへの思いが根底にあるということです。
しかも深く大きい期待として、です。

菅谷さんは、今後の少子高齢化のなかで生きる高齢者(つまり菅谷さん初め私たち)の面倒を見る子どもたちの
“いのちと健康を守る態度”を私たち大人が身をもって示さなければ、といいます。
では、どのようにして示すのか・・・詳細は、また「真っ当な生き方のススメ」をお読みいただくとして・・・
菅谷さんは、日本に比べはるかに物質的に貧しい環境にあるロシア人の生き方のほうが、
人間のあるべき姿ではないかとおっしゃいます。

そして、子どもたちには「自分で考えなければいけない」といいます。
ただ、考えるときのヒントを大人は示すべきであると。
今、日本では“フリーター”とか“ニート”とか呼ばれる若者が多いけれど、
彼らがすべて無自覚な怠け者ではなく、それは今の大人の世界の反映であり、
お手本とする大人がいなくなってきているのではないか、それは大人の責任ではないか、と。
彼らの多くは、きっかけがほしいのではないか、だったらそのヒントを大人が示そうではないか。
これは、“まわりに流されない自分”を持ち、しかも運命を受容されて、
いかなるステージでもご自分に恥じない生き方をされてきた菅谷さんだからこそのお言葉であり、その重みです。

では、そういう菅谷さんと上田さん、逢坂さんの共通点は何か。
それらについては、当ナチュラブ日記で随所に書いてきましたが、ここで改めて短く例を挙げれば・・・・・
上田さんは、菅谷さんと同様に“子どもへの思い”がとても強い方ですが、
それは市役所組織に「子ども未来局」を新設されたことからもお分かりいただけるでしょう。
子ども育成、子育て支援、児童福祉総合センター運営等を重点政策とされています。
そして上田さんの提唱で、札幌市は現在「(仮称)子どもの権利条例」制定に向けて、
市民(もちろん子どもも)と協働作業中です。
子どもが生きやすいまちをつくろう、そのまちは結局大人にも住みやすいまちであるから・・と。

逢坂さんは、ニセコの「自治基本条例」に、まちづくりに子どもの参加の権利を明記されました。
そして、もう一つ付け加えると、子どもへの視点は、
私どもナチュラブ・北海道の連続シンポジウムの最終章・10章のテーマでもあるのです。
「次世代への道標」です。
みんな繋がっていて、とても嬉しく思います。

以上3回に渡って、菅谷昭・松本市長の数奇な(?)軌跡をご紹介させていただきました。
菅谷さんいついては、もっともっとあれもこれも・・・
原発や低線量放射能に対するお考え、
ベラルーシの放射能汚染地で生きていかなければならない人々へのお気持ちなど、
お伝えしたいことばかりですが・・・・

「あせらず、気負わず、地道に、できることを」をモットーにされている菅谷さんについて、
最後に特筆すべきことを、ひとつだけ、ぜひ。
菅谷さんは、先日の札幌での講演会参加者の中にお子さんが数人いたことをとても喜ばれて、
特別に彼らに話かけられました。
「君たちね・・・」と、とても優しく、でも決して子ども扱いするのではなく、先輩として毅然とした態度で。
それは、ベラルーシでも斯くあったであろう菅谷さんのお姿そのものでした。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::                               
なお、菅谷さんのチェルノブイリでの活動の詳細を知りたい方は,
「チェルノブイリ診療記」、「チェルノブイリいのちの記録」(いずれも晶文社)、
「ぼくとチェルノブイリの子どもたちの5年間」(ポプラ社)
をご参照ください。

また、繰り返しますが、この3回連続の稿は「真っ当な生き方のススメ」((岳陽舎)から多くを引用させていただきました。
特に、講演会当日に参加した子どもさんへの特別な呼びかけは、
その第5章「次世代に何を伝えるか」の内容が基調だったことを申し添えます。」

 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その74(2006年5月3号)
  =======================


              「真っ当な生き方のススメ」 (2)

菅谷さんは、科学者(医者)としての理性と普通の人としての情がバランスよく同居していらっしゃって、
素敵な笑顔を惜しまない方ですが、
チェルノブイリでの活動を周囲か素晴らしいボランティアと賞賛されることには、
厳しい表情で「それは違います」と、はっきり異を唱えられます。
そうおっしゃる根幹には、“死”と運命の受容”があるとか。
詳細を知りたい方には、「真っ当な生き方のススメ」をお読みいただくことにして・・・・

「私の甲状腺医療の専門知識と技術が、ひょっとすると少しは役立つかもしれない。
これまでの人生はとてもハッピーだった。今度はお返しができるかもしれない。」
と思われたそうです。
なぜなら、自分は当時国立だった信州大学で医学を学んだ、
つまりは“血税”で医者になれた(国立大学の授業料は安く、その分、税金が使われた)から、
その恩恵を社会にお返しするのは当然で、
日本で受けた恩恵をロシアで返すというのも何かの縁、とお考えになったから。

菅谷さんは、代々医者の家系に生まれ当然のように医者になられた方ですが、
「何をおいてもまず患者」をモットーにされてきた家系の価値観をも引き継がれました。
その結果、患者に選ばれる医者、診てもらってよかったといわれる医者になりたいと思い、
そのために心・技・体を磨かかれたのでした。
それがベラルーシの劣悪な医療環境で750例の甲状腺手術をする際に役立つことになりました。

どういうことかといえば・・・
 旧ソ連時代の官僚組織に慣れてしまった医療機関の悪弊で、
 患者本位の医療が出来ないことがしばしばあったけれど、
 自分のような外国人が文句を言う筋合いではないと割りきって、
 自分に出来る範囲で患者本位の医療を心がけることだった。

 また、日本のような民主主義的な人権思想などほとんどなかった国で
 「患者の人権」などの考えは何の役にも立たないのと同じこと。
 自分は一生ベラルーシで医療行為に携わるわけではない、
 基本スタンスは現地の医師の自立自助を手伝うことだから、
 郷に入ったら郷に従えを第一義にし、
 その条件下で診療施設運営や若い医者育成に最善を尽くした。
 それまで磨いた心と技が役に立った。

「あなた、それは運命かもしれないわよ」と節目ごとに言われたお連れ合いの効果的な一言に、
あのときも背中をポンと押されて、ベラルーシに飛んだ結果、
今は「大学を辞めてベラルーシに行ったのは、私自身の人生のリストラ(再構築)だった」と明言されています。

 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その73(2006年5月1号)
  =======================


              「真っ当な生き方のススメ」 (1)

風薫る皐月。うるわしの五月。
春の遅い北国でも、やっと桜の開花が話題に登り始めました。
桜や梅が、辛夷(辛夷)や木蓮が、そして連翹(れんぎょう)やチュウリップが
次々に咲き出す皐月の到来です。

自然界の美しい皐月に相応しい話題を、偶然にも人間界でも見聞しましたので、
さっそく皆さまにもお分けいたします。
皆さまは、菅谷 昭さんをご存知でしょうか。
“菅谷”と書いて“スゲノヤ”というお読みするのですが、この読みみ方は珍しいとのこと、
ご本人から直接、お聞きしました。
「菅谷 昭」というお名前はご存じなくても、
その経歴を聞いたら「ああ、あの方ですか」と、すぐ思い出されるはずです。
 
菅谷さんは、1943年に、長野県更埴市(千曲市)の、明治20年以来代々続く医者の家に生まれました。
甲状腺専門の信州大学医学部助教授であった1991年、たまたまテレビニュースで、
チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)被災者のその後の様子を見て甲状腺障害が発生していると直感し、
即日支援グループに連絡。
その3ヵ月後には、ベラルーシ共和国の放射能汚染地において小児甲状腺検診はじめ様々な医療支援活動参加。
1995年に大学を退官し、1996年から本格的にベラルーシ共和国に渡り、
ゴメリやモーズリで、原発事故の後遺症に苦悩する人々の診療の傍ら、
現地で診療所開設や若い医師たちの育成指導に力を注ぎました。その期間、5年半でした。
2001年に帰国後、また偶々、田中康夫・長野県知事に請われて、県・衛生部医務課医監となり、
その後衛生部長を務めました。
そして2004年に、またまた松本市民に請われて、松本市長選挙に立候補し当選されました。

以上の経歴は、「結局こういう運命だったのかと受け入れた」とご本人はおっしゃいますが、
「どうしてそんな思い切ったことができたのですか?」と必ず講演会等で問われるのも頷けるほど!
その問いに答えることを目的の一つとして菅谷さんが書かれた本の題名が「真っ当な生き方のススメ」です。

その菅谷さんは、4月29日札幌市で開催された
「チェルノブイリ  いのちの記録」と題する講演会でお話されるために来札されました。
機会があれば是非お話をお聞きしたいと思っていましたが、
その上、今回は懇親会でも少しだけですが、直お話することもできました。
その結果、菅谷さんの政治センスと行政手法が上田市長、逢坂議員のそれと驚くほど似たところが多く、
そのわけを知るべく、ご著書「真っ当な生き方のススメ」を一気に読みました。
一気に読めたのは、政治センスや行政手腕だけでなく基本的な価値観が、
上田さんや逢坂さんと同じであったから、違和感なくすうっと頭に入ったからでしょう。
 
講演会でのお話を皆さまにお伝えしたいとメモを取りましたが、
「真っ当な生き方のススメ」と同じ内容でしたので、
その本に沿って、菅谷さんの人となりを数回に分けてご紹介させていただきます。
 
 * 「真っ当な生き方のススメ」 メモ *
        2005年1月31日発行    
        発行所 岳陽舎


 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その72(2006年4月21号)
  =======================


              「ナチュラブ・北海道」の講師の方々

お久しぶりです。
またまた、「ナチュラブ日記」をずるずるとサボっていましたが・・・
いかなることであれ、またいかなる理由であれ、一度サボり癖がつくとなかなか社会復帰(!)出来ないものですね。
でも、「これは書きたい!」と素直に書く意欲を掻き立ててくれる“こと”がありましたので、
さっそく“それ”にて社会復帰をいたします。

(1) 神野直彦先生と大森彌先生のツーショット!

4月20日(木)付け朝日新聞夕刊のフロントページに、神野先生と大森先生のツーショットが載りました。
お二人のにこやかな表情を眺めながら、つい「まあ、なんてタイミングが良いのかしら!」と、
勝手に舞いあがってしまいました。
ご存知のように、私どもの連続シンポジウム第9章「市場原理」は来る6月25日(日)に開催されますが、
その講師は、まさに神野直彦・東京大学教授(大学院経済学研究科・経済学部)です。
また、大森彌・元東大教授は、2004年11月に開催した第3章「地域の自立(前編)」で、
宮脇淳・北大教授と一緒に講師を務めてくださった方です。

さて、お二人のツーショットが載った記事は、朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」の「分権のあしたへ ⑨」です。
そして、「ささやかな使命」道半ば、という大きなキャプションがついています。
この言葉は、記事の中の神野先生の
「歴史の中で果たすべきささやかな使命を、僕はまだ果たしていない」というお言葉から取られたものです。
 (注・記事自体は下記に掲載)

このキャプションを見て、いかにも神野先生らしいと思いました。
というのは、4月13日に、次回シンポジウムの打ち合わせのため、東大に初めて神野先生をお訪ねしましたが、
そのときの先生の印象と、このキャプションと記事内容がぴったりと重なったのです。
神野先生はたいへん気さくな方です。初対面で素性も確かではない(?)私を相手に、
率直にいろいろお話くださいましたが、そのなかで強く印象に残ったのは・・・・
ご自分は、サルトルに影響された実存主義者であり、“知識人”になろうと努力中であるとおっしゃったこと。
また“知識人としての義務を果たす”ために必要であれば、どこへでも出かけて行き話をしていると言われたこと。
とても熱心で俗気が無く、どこか子どものように純粋で、しかも暖かい感じで、
そう、「大森先生と同じタイプの学者さん!」と思ったのですよ。

新書版のご著書も数冊いただき破格なおもてなしを受けて呆然としてお暇をしようとしましたら、
優しくお気を遣って「少し東大を案内しましょう」とおっしゃり、ご一緒に三四郎池などの東大構内を散歩いたしました。
そして赤門まで送ってくださったのですが、
独立行政法人として“商売”を始めた東大の、東大製商品を販売している赤門横の売店で、
“University of Tokyo” という名入りボールペンを求めてお土産にくださったのです。
「とても書きやすいんですよ」とおっしゃって。
東大と同じく独立行政法人になった北大が、“商売”で販売している「札幌農学校」という名のクッキーを
お持ちしたお返しということでしょうか。
赤門横のこの売店の“商品”は、すべて“UとT”を組み合わせたおっしゃれなロゴ入りですが、
「ルイ・ヴィトンを真似て作らせたんです」と無邪気に笑っていらっしゃいました。
素敵な皮張りの手帳は「エルメスが使うのと同じ皮を、銀座の和光で作らせたんですよ」と、これまた楽しそうに・・・・・
お話が沸いてくるのですね、汲めど尽きせぬ知識の泉・・・いつまでもお聞きしていたいと思いました。

「こういう役得があるから、ナチュラブ・北海道代表は辞められない!」と単純に喜んでいていいのかしらと思いながら、
“代表の仕事”を終え帰札しましたが、
このような神野直彦先生が「市場原理」についてどのようなお考えをご披露してくださるか、
皆さまとともに拝聴する日がとても楽しみです。

ところで、新聞で“お目にかかった”大森先生はお元気でしょうか・・・
そういえば大森先生は、シンポジウムご出席のための来札の折
「これは羽田空港でしか手に入らないんですよ」とニコニコとおっしゃって「ごまたまご」というお菓子をお土産にくださいましたっけ・・・
お返しに北の幸を少しお送りしていますが、「それを肴に晩酌するのが楽しみで、論文の筆が進みます」と、おっしゃってくださり、
それも望外の喜びです。
大森先生に、久しぶりにお便りを差し上げたくなりました。


(2) 金子 勝先生の近況
   
2005年7月30日にニセコで開催された連続シンポジウム第7章「北海道を斬る~持続可能性こそ改革のキーワード~」の講師は、
金子勝・慶應大学経済学部教授でした。
たいへんお元気で、まさにあの勢いで、北海道のみならず日本中が斬られっ放しでしたねぇ!
ところで、その金子先生がHBC記者・武田明子さん(先日まで『テレポート・2000』のキャスターでした)と組んで、
「週間金曜日」という雑誌で「あかるい農村」という名の新連載を始められました。
第一話は、4月7日号の北海道和寒町の越冬キャベツの話題です。
武田さんから、その旨、メールでお知らせを受けました。
武田さんはお勉強のためとおっしゃってご都合がつく限りこれまでも、
ナチュラブ・北海道主催のシンポジウムにはご参加くださっていますが、
ニセコでのシンポの際に、金子先生にHBCキャスターであった武田さんをご紹介したのが切っ掛けだったそうです。
「ですから、出会いのきっかけは『ナチュラブ・北海道』です!本当にありがとうございました。
週刊誌の原稿自体はテレビ原稿とは書き方など違うことだらけで大変苦労しましたが、
これからより良いものが書けるよう勉強していきたいと思います。」というメールでした。
金子先生も、武田明子さんに目をつけるなんて、なかなか隅に置けませんね!

いずれにしましても、こういう形で「ナチュラブ・北海道」が発展的に利用されるのは、とても嬉しいことです。
このニュースもまた皆さまとご一緒に歓びたく、ご披露方々お知らせいたしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  注 : 以下、2006年4月20日付け 朝日新聞夕刊フロントページより抜粋

   東大教授の神野直彦(60)は「ミスター税源移譲」である。
   「分権を進めるために自治体に税源を渡そう」と唱え続ける。
   テレビを見ない。パソコンも使わない。42歳で網膜剥離になり、失明の危機に陥ったからだ。
   でも「時代に置いて行かれて、価値観が変わらないのがいい」と笑う。
   東大闘争で大学院の入試がなくなり、6年間、日産自動車に勤めて労務管理の現場を踏んだ。
   財政学者の神野が忘れられない光景がある。
   10年前、地方分権推進委員会の作業中だった。
   委員長の諸井虔(77)が頭を下げた。
    「先生、今回は泣いてください」
    神野の取り組む「税源移譲」より、もうひとつの懸案の「機関委任事務の廃止」を優先する。そう決めたときだった。
   政府が自治体に仕事を命じる機関委任事務をなくし、まず国と地方の関係を「主従」から「対等」にする。
   4年後、地方分権一括法で実現した。
   「税源移譲」は取り残される。神野は政府の別の会議で何度も繰り返すが、日の目を見ない。
   小泉内閣の三位一体改革で、ようやく一部が実現したに過ぎない。
   だから、神野は言う。「歴史の中で果たすべきささやかな使命を、僕はまだ果たしていない」
   そんな思いで、全国知事会などが1月に設けた新地方分権構想検討委員会の委員長を引き受けた。
   作家の堺屋太一(70)や前三重県知事の北川正恭(61)らと、三位一体改革の次の展開を描く。
   神野は委員会に、元東大教授の大森彌(66)に入ってもらった。諸井の分権推進委での作業仲間だ。
   大森は83年、中曽根行革、土光臨調路線に異を唱える論文に携わった。
   大型地方税の新設などを求め、分権への道を開いた。

        以下、略。


 上へ戻る    トップページ へ

  =======================
     ナチュラブ・日記 その71(2006年4月4日号)
  =======================


              少しの間、休筆させていただきます

3月28日に「北部九州の旅」連載のお知らせをしましたが、その後体調を崩しました。
北海道はまだまだ寒くて、旅行後、風邪をこじらせてしまったのです。
また、思いつくままに書ける日記とは違い、
旅行記は、資料を読んだり調べものをしたりして見たり聞いたりしてきたことを正確に再現し、
それに対して自分の考えや感想を書かなければなりませんので、気力体力が必要です。
今、それが私には欠けています。

そしてまた正直に言えば、友人たちと一年前から計画していた沖縄旅行が目前にせまり、
それに備えて体調を回復させ維持しなければなりません。
もちろん、その旅行記もいずれ書く予定ですが、今は沖縄の地図を眺めながら、元気復活を目指しています。

そういうわけで、4月20日ころまで、休筆させていただきます。


 上へ戻る    トップページ へ


  =======================
     ナチュラブ・日記 その70(2006年3月28日号)
  =======================


               北部九州の旅 (1)

3月17日から21日まで、4泊5日の北部九州の旅をしました。

福岡在住のナチュラブ・北海道のサブスタッフ、Mさんに誘われました。
「連続シンポジウムも9章と最終章・10章を残すだけになりましたね。
あと一息ですが、ここでちょっと気分転換をして英気を養い、心身をリフレッシュされてはいかがでしょうか。
北部九州を中心にお付き合いしますよ。」と。

そんな大それたことをしているわけではなく、
それ故“転地療養(?)”するほど心身が疲れているわけではないと思っていますが、
でも、飽きっぽく追い詰められなければ動かない怠け者の私が、よくぞここまで続けてきたと
自分自身にちょっと違和感(!)を持っていた矢先でしたので、
迷いなく、そのお誘いに応じることにしたのです。
と、ちょっと気取ったことを書きましたが、なに、単に遊びたかっただけです。

九州は思ったより寒く、大宰府はじめ各地でまだ梅が残っていましたし、
菜の花、椿、れんぎょう、もくれんなどが咲いていましたが、
同じ花でも北海道で見るのと感じが違って、なぜか長閑(のどか)でした。
観るものの心のありようのせいでしょうか。

古くから大陸との交流が深い土地柄で、北海道と全く違う歴史の重みを感じました。
大宰府では、昨年開館した九州国立博物館で日本・韓国・中国の宝物を山ほど観ました。
江戸時代の天領だった大分県日田市(湯布院の近く)では、当時の豪商が集めた京都の雛人形を観てきました。
唐津・伊万里・有田では、陶磁器をじっくり観ました。美術館や窯元で。
美しいものは、観るものの心を豊かにしますね。慰めにもなりますし。

もちろん“ふぐ”とか、呼子の“イカ”とか、“あら”という玄界灘の逸品も、いただきました。
ひとつ残念だったのは、大好きな柑橘類などの果物を食べられなかったこと。
北海道では見られない、夏みかんのような大きな黄色い実がなった木が、あちこちにあったのに!
毎日、早朝から夜まで出歩き、買い物をする時間もなかったためです。
とにかくそれくらい集中的に楽しみました。
よい案内人に恵まれたおかげです。何事も先達はあらま欲しきかな!

ということで、私の「北部九州の旅日記」を次回から書かせていただきます。

 上へ戻る    トップページ へ