ナチュラブ・日記

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 選挙も終わりました。この日記はナチュラブ・日記 Part2としてページを改め続けます


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     ナチュラブ・日記 その9(平成17年9月12
日号)
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               「私は変わりませんよ」




9月11日20時30分過ぎに、ニコリともせずに逢坂さんは、当確の挨拶をされました。
それはそうでしょう。投票所出口調査で自民党圧勝&民主壊滅かという情報が入っていて、開票速報が出るや否や、それが現実になったのですから。

比例当選確実を受けての会見内容は、テレビ等ですでに皆さまもご存知でしょうから、ここでは繰り返しません。
でも、一つだけ、逢坂さんが強調したことを・・・

「小泉流の改革は、強いものがより強くなるという仕組みで、これでは北海道、とくに北海道の小さな自治体は崩壊してしまいます。今回私に課せられたのは、まさにそこです。これは、今まで私がニセコ町長として訴えてきたことと同じです。
今回の私の立候補に際して全国の町村長さんたちから、よく決断してくれた、地方のためにぜひ頑張ってくれという声が多く寄せられました。これから私が立ち向かう仕事の重さをずっしりと肩に感じます。経済ひとつとっても、マクロではなくミクロで考えるために、町長の経験を生かしていかなければと思います。」

逢坂さんの言葉は、他の候補者と明白に違います。
例えば、当選した候補者が使う言葉が、実態のない「皆さんのおかげです。」
でも逢坂さんは、そういう陳腐で空疎な決まり文句を使わない稀有な政治家です。当選した政治家に、全部責任を押し付ける“お任せ民主主義”を排するからでしょう。
本来ならば、有権者が、期待する政策実行を政治家に託する・お願いするのが筋で、反対に、政治家が有権者に投票をお願いするというのは、おかしい。
逢坂さんの言葉は、そういう本来あるべき有権者と政治家の関係を反映していると思います。

そうそう、終始にこりともせずに、インタビューに答えていた逢坂さんが一瞬見せた笑顔は「ニセコ町有志」から贈られた花束を受け取ったときでした。この花束は、ニセコの有志の皆さんから私がお預かりしたものでした。

12日間の選挙期間中も、わずか一回1時間足らずのニセコ入りしかしなかった逢坂さんに、ニセコ町の支持者は、逢坂さんの民主党の単独比例候補という立場を理解して決して苦情を言うこともなく、かえって「我らが町の逢坂、他の小さな自治体のためにも国政でがんばれ!」と、花束を私に託されたのです。(写真参照ください)

その大きな花束を抱いて、逢坂さんは私におっしゃった、「私は、変わりませんよ。」と。

逢坂さんは12日間の選挙期間中、公選法に沿って個人のホームページをクローズされていましたが、メールはチェックされていたし、また嬉しいことに、このナチュラブ・北海道のホームページもご覧くださっていたそうです。
私はたいそう単純な人間ですので、それならば、もう少しこのページを書き続けようと思います。今回の選挙結果をめぐって、思うところを書くことにします。
皆さまも大いに思うところがあるでしょう。ご一緒に考え続けましょう。お付き合いください

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     ナチュラブ・日記 その8(平成17年9月11
日号)
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               9月11日は、私たちの出番です!


9月11日は、私たちの出番です!

9月10日に、民主党比例区単独一位候補の逢坂誠二さんの選挙戦最終日の最後の演説を、小樽駅前で聴きました。民主党4区の小選挙区候補・鉢呂吉雄候補と街宣車に並んで立って逢坂さんは、締めくくりの演説をしました。

後15分で20時(街頭行動締め切り時刻)になるという時刻で、もうすっかり暗くなっていましたが、元気いっぱいに見えました。マイクを通した声は、さすがに少し嗄れていましたけれど。

「正直にいうと選挙戦当初は、各党の政策論争にはなりませんでした。でも我が民主党は、愚直に政策を繰り返し訴え続けて、途中から政策論争ができるようになりました。真面目で誠実で愚直であることが、やはりまだ十分に通用することを確認できました。そして、各地で民主党がもっともっと活躍してくれたら北海道は大丈夫だと声をかけてくれる人が増えました。私たち民主党に期待をかけてくれる人が、こんなにもいるんだ、それが広がっていくのだという思いに支えられて、12日間をすごしました。

その期待に応えたい、応えなければと思います。

また、私について言えば、広く北海道を回ることで、ニセコ町だけにいては知りえなかった地域の事情を知ることになり大変勉強になりました。今後、この経験を生かして活動しなければと思っています。

街頭行動は、あと数分で終了ですが、明日の投票終了時刻までは、まだ一日あります。まだ十分の時間があるのです。皆さんの今からの行動で、勝利を確実のものにできます。がんばりましょう!
そして最後になりましたが、12日間のご支援、ほんとうにありがとうございました。」
 

文字にすれば、普通の演説に聞こえてちょっと残念ですが、逢坂さんの演説はメリハリがあり、鉢呂候補の演説とともに誠実で気合がこもり、聴く人の琴線に触れるものでした。選挙戦第一声に勝るとも劣らない熱のこもった締めくくりでした。
逢坂さんは、アジテーターとしての才能もなかなか・・・・というのが、今回の収穫?!

20時過ぎからは、小樽駅近くの鉢呂候補の事務所で打ち上げ集会でした。
ここでは、各選挙事務所でも当然繰り広げられたと思われる光景・・・選対事務所関係者の挨拶、候補者からのマイクスタッフや支持者への感謝と挨拶など・・・・が。
逢坂さんは、ここの主人公は鉢呂候補であるとご遠慮され、あくまでも“客人”に徹されて、次のようにご挨拶されました。

「私がこの選挙に立候補を決断して、実はまだ20日も経っていないのです。まさかこんなことになろうとは自分でも信じられない思いです。これも鉢呂さんから声をかけていただいたお陰です。私を擁立したことで、その後鉢呂さんが、どれだけ内部調整等にご苦労されたか。申し訳ないという思いと、私が少しでも民主党に役立たなければという思いで、がんばってきました。鉢呂さんと私は、ともに愚直であることを良しとして、今日まで真面目に政策を訴えてきました。
皆さん、今日まで、支えてくださってほんとうにありがとうございました。
最後になりましたが、鉢呂さん、ほんとうにありがとうございました。」
 
2003年の北海道知事選の際に民主党からの出馬要請を“ドタキャン”した逢坂誠二さんを今回擁立することに民主党内部からも不満が漏れたことも確かといわれていますが、それを説得し逢坂さんを支えてきた鉢呂候補と逢坂さんは、お互いに万感こもった握手を交わされました。

さて、日焼で赤を通り越して黒くなったお顔は精悍で、いつもの“逢坂誠二”ですが、後ろ姿は少し痩せられたようですし、前髪の一部分だった白髪が全体に広がったようでした。ご自分でおっしゃるよりはるかに、周囲に気遣いをされ、また悩みもあった12日間でしたでしょう。

なにしろ、全国に名を馳せたニセコ町長としての知名度を駆使し1票でも多く獲得することを義務付けらた比例候補者として、「十字架を背負った」と自らを奮い立たせた12日間でしたものね。
逢坂さん、集まった人々の顔ぶれに合わせて少しずつ内容を変えたという演説はもちろんのこと、支持者や道行く人と積極的に笑顔で握手をされ、走り去る車にも丁寧に手を振り、あなたは立派にその任を果たされましたよ。ほんとうにお疲れさまでした。!ありがとうございました。

さあ、皆さま、これからは皆さまの出番です。皆さまが逢坂さんに応える番です。
それはいわずと知れたこと、投票所に行くことです。そして、皆さまご自身の判断で選んだ候補者の名前と政党名を書き込むことです。そのために、投票所に行きましょう!
 
あ、最後に一つご注意を!
皆さまが考え抜いた結果、今回は逢坂誠二さんに1票を託そうと決意なさっても、決して「逢坂誠二」とは記入しないでくださいね。

逢坂さんの所属する政党名を書かなければなりません。
「逢坂誠二」と書けば、無効票となりますので、くれぐれもご注意ください。

 それでは、皆さま、9月11日は、それぞれの投票所でお“逢”いしましょう!


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     ナチュラブ・日記 その7(平成17年9月10
日号)
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               逢坂誠二・20058月の決断 (2)
                〜逢坂誠二の政党論あるいは政党観〜


 逢坂さんの理想とする“政党”はたぶん市民起源とも言うべき市民から湧き出してくる政党でしょう。

 そこには、今の国の制度を変える力を持つ政党を創ろうという市民の強い意志が要る。選挙は勝たなければ意味がないけれど、だからと言ってこれまでの多くの既成政党のように、簡単に清濁併せ呑むのではなく、堂々と正論で自分たちの主張を広めていこうとする力を持ち、その方法を本気で考えられる政党であること。その前提として、互いに違った意見を認め合い時間をかけた議論を経て結論を出すという正しいプロセスを、組織内に内包する政党であること。またその議論の過程を有権者に見せる度量を有する政党であること。

 また、政党であるからには、政策が命であると自覚できること。その政策立過程には、矛盾しているように思われる二つの要素・側面がある。ひとつは、専門性が高く高度な知識に支えられ裏づけされた政策立案能力。ふたつ目は、その政策立案する際の視点・手法に一般市民の柔軟な知恵や勘が生かされて入っていること。

 つまりは、官僚のような専門家の持つ高度な知識や技術と、素人としての市民の普通・当たり前の目線や視点や手法。これらの一見相反した内容を橋渡しするのは、困難であろうけれど絶対に必要で、その役を引き受ける能力のある中立のシンクタンクが要る。そして、そういうシンクタンクを持つ力があること。

 これらの要件を満たしたものが、逢坂さんの考える“政党”であると、これまでの逢坂さんの発信から想像できます。

 そして、また、逢坂さんは次のように考えているでしょう。
政党であるからには、政策というメニューの内容が大変重要になる。お店に例えると、特別なものだけを扱う専門店ではなく、すべての生活必需品を扱うデパートでなければならない。なぜなら、人の生活は、思いつくままにあげても、経済・景気や雇用・労働条件・環境とエネルギー・子育て・教育・年金・福祉・医療から外交などまで、多岐にわたる。

 もちろん、根底は平和であること。平和にまさる価値などない。人命が失われては、政治など必要ないではないか。それらを網羅できる政策をもつ政党でなければ、有権者は選べないではないか。もちろん、すべての政党員や議員が、オールマイティに何でもできるということは不可能であるけれど、それぞれが得意分野で政策を作るという役割分担をすればよい。

 そして逢坂さんは、願っていたに違いないのです、そういう政党を市民の力で創りたいと。支持政党無しといういわゆる“無党派層”を結集して。無党派層は政治に無関心なのではなく、政治に期待してきてずっと裏切られてきた人々の集まりだから、そういう人々の連携で新しいネットワーク型の市民政党ができるかも知れない、と。

 無党派的な市民運動を担ってきた人の中から、首長になる人も出てきているのだから、市民運動も力をつけてきているのも確かである。それを育てて・・・そして実際に、逢坂さんは「もうひとつの日本を考える会」を仲間と立ちあげて研究を重ねて新しい政党の誕生を計ったのだと思うのですが、それに呼応する市民の力がまだまだ及ばず・・・。

 そのような中、ますます地方や国をめぐる状況や事態は悪化していく。今ここで食いとめなければ。自分が理想とする政党の誕生を待っていたのでは、間に合わない!気がついた自分が、まず始めなければ・・・・・今、立たないと後悔する。危機を目の前にして、それを救えるかもしれない処方箋を持っている自分が沈黙するのは、ある意味、罪である。と、逢坂さんなら考えたはずです。
 だから、逢坂誠二さんは、2005年8月に、数十時間で、国政に出ると決断したのだと、私は思います。

 では、今回、逢坂さんが選択したのが、なぜ民主党であったのか。
きっと、逢坂さんの考える“政党”に一番近い政党が、民主党であったのでしょう。
民主党のマニフェストが、一番逢坂さんの目指す政策に近かったのでしょう。既成政党の中で、一番自分の考えに近い政党を使って、自分は自分の得意分野で政策を作る。いわずと知れた“地方自治”の再生シナリオを描くために、逢坂さんは国政に出ると決断したに違いありません。

 以上、逢坂誠二の政党論を通しての、私の逢坂誠二論でした。

 ところで、皆さまに、私からお願いです。
 選挙に際しては、絶対にご自分で考えて決めてください、ということ。誰かに頼まれたからとか、誰でも同じだからとか、考えるのは面倒だからとか、そういうことは辞めてください。

 この稿の最後に、逢坂さんが、11年前に町長選に立候補したときのエピソードを一つご紹介しましょう・・・逢坂さんは、とにかく自分の考えを聞いて理解してもらおうと、連日小さな集会を開いたり戸別訪問をして、自説を説いて回ったそうです。そして決して「皆さん、よろしくお願いします」という選挙の常套文句を言わなかった。その代わりに「私と、もう1人の候補者の考えを比べてみて、良いと思う方に投票してください。」と頼んだそうです。

 そのとき、すでに逢坂さんの中には「お任せ民主主義からの脱却こそが健全な政治の鍵を握る」という考えがあったからでしょう。自分で考え自分で決めて、その責任を取る。強烈な個性や力を持っていそうな人に、自分の将来までも任せてしまう無責任な一票を投ずる行為とは対極にあるものです。それが、逢坂誠二という政治家がこれまで説いてきた真髄であると、私は思います。


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     ナチュラブ・日記 その6(平成17年9月9
日号)
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              逢坂誠二・20058月の決断 (1)

 
 2005年8月の逢坂誠二の決断は、たぶん、わずかな時間でされたものでしょう。
 私は、ナチュラブ・北海道代表として、2004年2月から連続シンポジウムで逢坂さんとご一緒していますし、また逢坂ニセコ町長(当時)と上田札幌市長を毎回メインにお招きする10回連続シンポジウムを計画したのですから、当然逢坂さんの政治観や行政手腕を知っていました。
 なぜって、2002年のニセコ町長選の際の逢坂さんの立候補演説を聴きましたし、その後の町政ウオッチングもしてきましたので。ですから、当然、逢坂さんの思考方法や思考回路も、他の人よりは少しは理解できると思っています。


 そういう私の勘が、逢坂さんの今回の決断は、わずかな時間でされたものだと教えてくれます。きっと、そうに違いないと今は確信を持って言えます。でも短時間で決断する、つまり一瞬にチャンスをものにするためには、日ごろから触覚を張り巡らせていなければなりません。チャンスの神様には、前髪しかなく後髪はないのですもの、その前髪を掴んで我がものにするためには、一瞬の判断が必要でしょう。まさに今回の逢坂さんには、短時間の決断が必要だったわけが、これでお分かりでしょう。

 でも、その短時間の決断が可能な背景には、継続的で緻密な分析と思考で培われた政治観がなければなりません。逢坂さんは、それをどうやって醸成してきたのか・・・

 逢坂さんも、きっと苦笑して許してくださるに違いないと思えるから、皆さまにも漏らしましょう。きっと、こうだったのだと思いますよ・・・・・・長くなりますが・・・

 逢坂さんは、前半の11年をニセコ役場の職員として、後半の11年をニセコ町長として、地方自治体の仕事に関ってきました。そして、ニセコ町長になってからは、自分たちの努力では如何ともしがたい限界があると気づかずにはいられない日々で、特にここ数年で絶望的になってきたと悲鳴を上げているように、私には見えました。

 逢坂さんほど国内外に出かけては地方自治を学びかつ語ってきた首長も珍しいですが、特に中央で、地方の問題をどんなに説かれたことか。でもその結果は残念なことに、中央では地方のことを分ってもらえないのだという結論だったのでしょう。地方にいて(地方自治体の首長として)地方のことを中央に向かって発信しても、そこには限界があるのだと肌身に沁みたに違いありません。国政で地方自治を論じなければ有効な力にならない、と。では、地方を知っている者が国政に出なければならないのか、と思って悩んでいたでしょう、逢坂さんならば。そして・・・国政に出るには、政党に属さなければ、これまた有効な力を発揮できないと、考えたでしょう、逢坂さんならば。国に有効な地方自治政策を実行させるためには、しかるべき政党でその政策を作らなければならないと。

 きっと、そうです。そう考えていたに違いないでしょう。

 ところで、このあたりで、ある誤解を解かなければなりません。2003年の知事選不出馬以来、逢坂さんが政党を否定していると誤解されている方もいらっしゃるはずですが、それこそ誤解です。町長や市長や知事のような地方自治体の首長は、特定政党の縛りをかけられては判断を誤る可能性があるから政党色をつけてはいけないというのが逢坂さんの持論ですが、決して政党そのものを否定してはいません。逆です。逢坂さんは、地方自治に関しても有効な政策を実行するには、政党が必要だと明言されています。
 次に、私が聴いた、逢坂さんの“あるべき政党論”をご紹介しましょう。

                                         ( 次回へ続く)

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    ナチュラブ・日記 その5(平成17年9月8
日号)
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逢坂誠二・20032月の決断

 「逢坂さんは、20034月の知事選に際し、ぎりぎりになって出馬断念をしました。出馬するにしても既成政党からは出馬しないと公言していたのに、新聞等に“民主党から出馬”と勝手に書かれて、それに抗議する形で出馬を断念しました。なぜだったのでしょうか?」

  これは20032月以来、繰り返し聞かれる質問です。それに対する逢坂さんの答えは、以下のように明快でした。

 「町長であれ知事であれ、首長は、その地域のすべての人のために存在する。いろいろな人の利害が絡みあうのは当然で、その中で選択をしなければならないときに、既成政党のしがらみにとらわれていては、公平な判断はできない。それゆえ首長は、特定の政党の政策に縛られてはいけない。だから、私がどんなに否定しても、周囲から勝手に民主党候補といわれては、今後自分の考えや意志だけで行動できない、つまりフリーハンドで動けないことになる。それでは、何のために知事になるのか。意味がないではないか。自分の信念に反するから出馬しない」

 実は、それでもやはり逢坂さんは北海道知事選に立候補しなかったことに「政党の色がつくと自分ではなくなるから嫌だ、と自分に忠実になりすぎた・・・」と、心情を吐露されたことがありました。

 それは、2003年の5月、東京でのあるシンポジウムの席でしたが、次のようにお話をされました。


 「私は、ニセコ役場の一係長としての経験から行政のあり方に違和感を持ち、それで自ら町長に立候補したのだから、地方自治については関心も意見も人より持つのは当たり前でした。町長として、ニセコという町を考えることは、当然、北海道・日本を考えることにつながりました。自分がニセコ町長として、一番良い選択は何かと判断に迷って眠れない夜があるほど悩むのに比べ、北海道も国も、その行政担当者には、北海道のあり方や国のあるべき姿について問う姿勢がないように思えました。
 当時3,300の地方自治体のほとんどが自治能力に欠け(やる気がない)、中央の政府にも国が自信を持って政策を発信しているようには見えなかったのです。
 中央政府の価値観を一方的に広めるだけではもうダメで、個別の自治体の方法を普遍的なものへと高める努力をしなければ、今のままでは、この国は沈没すると感じました。
 また、ニセコ町から出発して、北海道・国と政治のあり方を常に考えていたから、たとえば政治関係者やマスコミに問われたら、地方自治について、国の政治について、積極的にきちんと答えていたのです。それでいつの間にか、周りの人たちは、私が知事になりたがっていると勝手に考えるようになったようです。

 私は、決して、自分からは知事になりたいなどとは思ったことなどなく、そのことで能動的に動いたことはなかったのです。どういうわけか、逢坂は知事になりたいようだ、とかやがては国政を目指しているらしいとか、勝手な噂が早くから流れ、ほんとうに迷惑なことでした。地方自治や国政について考えていることを、聞かれたから誠実に答えているだけだったのに。

 ・・・でも、このままでは、日本自体が沈没する・・何とかしなければならない・・財政破綻が目に見えているときに、これまでの政治の手法ではやっていけない・・政策を作る高い専門性(官僚の能力)と普通の市民の素人の目線の両面が必要な時代になってきているが、それを橋渡しできる政治家が、北海道にいるだろうか・・自分なら、どうするだろうか・・これまでの経験でできることがあるだろうか・・そうだ、知事になるには“選挙戦”に勝たなければならない・・選挙には莫大な費用がかかるといわれているのに、自分にはそんな大金を調達できない・・それでは、自分を支持しようと言う政党に請われるままに出ていいものか・・いや政党の力を借りて知事に当選したら、お金と利権の関係でフリーな立場を貫けないだろう、それなら自由に自分が目指す政治を行えない、それでは本末転倒になる・・・・と、考えずにはいなれない堂々巡りの日々だった・・・。」

 それでは、今回、民主党から衆議院議員に立候補しようと決断した理由は何だったのでしょうか・・・。

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  ナチュラブ・日記 その4(平成17年9月6日号)
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           逢坂誠二・11年前の決断


逢坂さんが必ず問われる質問のひとつが、「なぜニセコ町役場の職員が、町長を目指したのですか?」 
もう何百回と訊かれた問い。

それに対する逢坂さんの答えは、当然11年前も今も変わらず、下記の通りです。


「私は町長になりたいと思っていたわけではないのです。はじめから政治志向もないし、この業界も好きではなかったし、地盤も看板もなかったし、そういう風土とはほとんど無縁で、古い言葉ですがノンポリでした。
 そういう私が、なぜ町長に立候補したかと訊かれれば、それは当時、このままの仕事の進め方でいいのかと疑問を持ちはじめたからです。私は当時財政係長でしたが、一係長だろうがヒラの職員であろうが自分の目指す町の姿とか自分の思う地域のあり方みたいなものに全体として向かっているのであれば、私はその一部分を担う職員で何も不足はなかったのです。でも、それが違ったわけです。

 それから・・・すでにあの時代、あまり声高に言われてはいなかったけれど、いずれ財政難になるということはほぼ分っていたし、国の借金の残高というものを気にし始めた時期なのです。当時でも国・地方を合わせて420兆円ぐらいの借金がありました。
 このままでは、財政が相当に窮屈になるだろうと思っていました。そうなったときに、当時の町の仕事の進め方では、町民が耐えられないと思ったのです。それから仕事のやり甲斐を失って職員もだめになるだろう。だったらこのまま職員ではいられないということになったのです。仕事のスタイル、やり方を変えなければダメだということで、何かを作るとか、福祉センターを建設しなければならないというようなことが出発点ではなかった。

 そういうことが、非常に大きな決断のきっかけでした。
 そうは言うもののなかなか簡単にはいかず、 最終的に決断したのは田中秀征さんが「僕は選挙では勝ちすうより負け数の方が多いのです」という言葉でした。あの秀征さんでも選挙では負けるのだと、腹が据わったんです。」


 つまり、逢坂さんは、町長になることが目的ではなかったのです。 町長になって、しなければならないことがあったから、町長というポストを欲したのです。

 丸山真男という政治学者(故人)が名著「現代政治の思想と行動」で述べているのですが、“であること”と“すること”の違いを説いています。簡単に言えば「社長である、校長である、医者である、政治家であるなど、“であること”自体を価値であるとするか。そうではなくて、社長として何をするか、校長として何をするか、医者として何をするか、政治家として何をするか、“すること”に意味がある、つまり何かをするために“であること”を必要とするか。二つの立場、二つの価値がある。日本では、圧倒的に“であること”自体に価値を置き、“であること”で満足する人間が多い」というような論旨です。(今この本が手元に無いので、私の理解と記憶で書きましたから、文言は正確ではありませんが、ご容赦ください。)

 当然、丸山真男は「何かをするために“であること“、つまりポストを欲しい、という人間がたくさん出てこなければ・・・」という立場であることは明白で、逢坂さんが町長のポストを欲した理由が、まさにこれにあたります。

    今回立候補する人々は、異口同音に“すること”を目指しているといっているようですが、果たして・・・。

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     ナチュラブ・日記 その3(平成17年9月5
日号)
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              「まだ1週間もあります!」


 はじめにお断りしますが、この項はナチュラブ・北海道スタッフの一致した考えではなく、あくまでも私(上野伸子)の個人の考えですのでご了承下さい。

 「もう1週間しかない、ではなく、まだ1週間もあります!」と逢坂さんは、94日午後、札幌市大通りでの演説を、この言葉で始めました。

 「今日4日の朝刊によれば、どうもわが党は苦戦を強いられているとありました。しかし、皆さん、まだ間に合います。選挙運動期間は、もう1週間しか無いのではなく、まだ1週間もあるのです。今日ここに来ている皆さんが、本気で今回の選挙で政権選択について考え行動すれば間に合うのです。」と。


 830日から93日まで全道を回り、時には小選挙区候補者と、時には単独で演説を続けてきた疲れも見せず、いつもと違うのは日焼けで赤くなったお顔くらいでした。そして、第一声で語った内容を膨らませて、わかりやすく実に説得力のある語り口で熱心に話をされました。


  今回の選挙は、語弊を恐れずに私流に単純化して言えば、こうなります。

 7月末のニセコでのシンポジウムで、金子 勝先生が説かれたように、今の日本は、このままではあまりにも絶望的な状況で、すべてが2050年には立ち行かなくなってしまう。そのような状況を、これまでの選挙のたびに期待して裏切り続けられた国民が、たぶん理屈ではなく皮膚感覚で正しいと感じ取って、それこそ絶望のあまりの自棄で、考えることをやめてしまったように見える。自分の将来を責任を持って選択するという行為を投げ出して、何とかしてくれそうな見てくれの政治家に、安易になびこうとしている。そうすることで、自分だけは勝ち組(実体のない流行り言葉)に残れそうな錯覚に陥っている。そうせずには正気を保てないかのような雰囲気さえあって、とても危険な感じがする。この危険な流れを今から変えていく時間は、あるのかしら。」


  でも、逢坂さんの4日の演説は、私自身が諦めかけ投げやりになっていたことを気づかせるものでした。逢坂さんの演説には、聴くものに強く訴えかける力があると再確認したのです。

 この演説のあと逢坂さんは、政策宣伝カーの上から降り、大通り公園の芝生に若者と輪になって座り、問われるままに語り始めました。なぜ
11年前にニセコ町長に立候補したのか、逢坂さんが目指した町政はどういうものか、そして今回、既成政党から国政に打って出たのはなぜか・・・・。

 いつの間にか逢坂さんの傍らには、公務(日曜日なのに)の合間を縫って駆けつけてきた上田札幌市長が座り込み、うんうんと頷きながら加わっていました。


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   ナチュラブ・日記 その2(平成17年8月30
日号)
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              第44回衆議院選挙公示日に


 「札幌市民の皆さん、おはようございます。民主党比例区候補者の逢坂です。というより、昨日まではニセコ町長だった逢坂です。」との言葉で始まった逢坂誠二さんの第一声。

 830午前9時前、札幌駅前通りにて。

 「なぜ、ニセコ町長が札幌市民の皆さんに、こうして訴えるのか。その理由は、日本が今大きな病気に罹っていて、それを治したいからです。そのためにはニセコという地方ではなく、国政の場で無ければならないからです。日本の病気を根源で治さなければ、地方の病気も治らないと実感しているからです。
 すでに多くの皆さんが気がついているほど、日本の病気は大きく深い現状です。年金、子育て、地方財政、イラクへの自衛隊派遣、海外特にアジアとの外交問題、それに食糧自給の心配。ほんとうにどれをとっても大変な問題ばかりです。
 それに対して、現政権は、郵政民営化という“黒い薬”さえ服用すれば、それらの問題が全部解決すると言っているだけです。郵政民営化だけが改革で、それ以外には何も療法がない。まるで間違った対処療法を進めるヤブ医者です。ちょっと見かけが良さそうなコイズミというヤブ医者に任せて、このまま病気を悪化させるわけには行きません。ヤブ医者にかかり続けて、病気の原因を先送りするわけには行かないのです。
 今回の選挙は、政策選択の選挙だと言われています。政策選択とはどういうことか。それは、私たちの病気を本気で治したいなら、主治医を選び直せということです。コイズミというヤブ医者から民主党という名医に選び直せということです。
 日本の病気を治すために、なぜ私は、民主党から立候補をしたのか。それは今回の選挙用に各政党が作成したマニフェストのうち、一番まともだったのが民主党のマニフェストだと私は判断したからです。二十一世紀臨調なども、民主党のマニフェストに一番高い評価を与えています。

 そして、この民主党のマニフェストには、私の専門分野の地方自治についてもきちんと書かれています。病が深い地方自治の現状も、名医による治療を施すことで救われる、この北海道の窮状も救われると私は判断したのです。 そう考えて、私は民主党から国政へ立候補しました。
 皆さん、一緒に日本を、大きな病気から救いましょう。主治医を、ヤブ医者から名医に変えましょう。つまり、現政権から、民主党主体の政権へ、政権交代をしましょう!」



 逢坂さんは、明快に自分の言葉で政治を語りました。
 「国家船体を構想する力と地方の支店を兼備した政治家」を目指して、前・ニセコ町長逢坂誠二さんは、大きく手を振って、“北海道”へ出発しました。

 上田文雄・札幌市長もいらっしゃいましたが、お二人が並んだ図は、さながら「ナチュラブ・北海道の番外編シンポジウム」と錯覚しそうになりました。


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ナチュラブ・日記 その1(平成17年8月29
日号)
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逢坂誠二氏のニセコ町長退職申出書承認の日に

私ども「ナチュラブ・北海道」は、私たちの北海道が産んだ政治家である上田文雄・札幌市長と逢坂誠二・前ニセコ町長を毎回メインに迎え、さまざまな課題を10回に分けて、それぞれのテーマに沿ってパネリストをお招きしながら連続シンポジウムを続けて参りました。

 このたび、逢坂誠二・前ニセコ町長が、衆議院議員選挙に、民主党の比例区単独一位候補者として立たれることになりました。

 正直に申して、私どもナチュラブ・北海道のスタッフは、ほんとうに驚きました。信じられない思いでした。なぜなら、逢坂さんが、民主党からの出馬要請に応じて立候補を表明されたのは825日でしたが、その直前の819日のシンポジウム特別編にご出席されたときには、まったくその話題も出ませんでしたし、また逢坂さんをめぐる選挙といえば、それは国会議員選挙ではなく知事選挙であるという暗黙の了解が、広く私たちの中にあったからです。そのわけは、これまでの逢坂さんご自身の関心は国政ではなく地方政治・地方自治にあると思えるような言動が多かったようにも感じていたからです。

 また、逢坂さんは決して既成政党からは出馬しないという思い込みが、皆さまにのなかにあったのも事実ではないでしょうか。

 以上、すべては推測の域を出ませんので、830日の公示日の第一声では、なぜ今回急遽国政に打って出られる決断をされたのか、また、なぜ特定の政党からの出馬されるのか、その理由がわかるものと思います。

 さて、いずれにしましても、私どもナチュラブ・北海道として、今回の事態にどのように対処するべきか、逡巡いたしましたことを正直に申し上げなければなりません。
 そこで、今回の選挙と、連続シンポジウムの今後について以下のように決めましたので、ご報告いたします。


(1) 今回の選挙にあたって

 私どもは、逢坂さんの政治観・行政手腕に共鳴して、連続シンポジウムに毎回ご出席をいただくことを申し出て、ご承諾いただいた経緯にかんがみ、今回の逢坂さんのご決断を尊重いたします。「逢坂さんは逢坂さん。」これが私どもの変わらぬ逢坂観です。

 ただし選挙に当たって、私どもナチュラブ・北海道は、逢坂誠二さんを推薦するとか特別な選挙運動をするということとは一切無縁です。なぜなら、ナチュラブ・北海道は、政治団体ではなく単なる任意の市民団体ですので、この点は当然であります。

(2) 連続シンポジウムの今後の開催について
 
 当連続シンポジウムの逢坂さんのパートナーである上田文雄・札幌市長のご意向と、「逢坂さんは逢坂さん」という私どもの変わらぬ逢坂観の当然の帰結として、今後も予定通りにシンポジウムを続けてまいります。

 その理由は、私どもがなぜ、ナチュラブ・北海道を立ち上げたのか、またなぜ上田&逢坂の両氏をメインに据えたのか、に行き当たります。それらについては、当HPの「ナチュラブ・北海道について」を今一度、ご参照いただきたく思います。

(3) 逢坂誠二の「最後の町長室からの手紙」


 826日に、逢坂さんがニセコ町長として最後に書かれた「町長室からの手紙」を、下記に掲載させていただきます。逢坂さんには無断引用となりますが、私どもがここに載せたい理由をきっとご了解いただけると信じております。

  以下、「最後の町長室からの手紙」です。


824日、25日、青空のもと狩太神社と元町諏訪神社の例大祭が開催されました。私も例年同様、両神社に参拝し手を合わせてきました。本祭当日は、商工会女性部の踊りの列に加わり、私のぎこちない踊りも楽しませていただきました。2時間だけの参加でしたが、秋の爽やかな風の中でニセコの空気を堪能しました。その後、役場で御御輿を出迎え、祭の賑わいも最高潮です。

 そして今、私は町長室にいます。
 祭の列も役場を離れ、寂しくなるほどの静けさが戻りました。私の心も落ち着いてきました。


 このたび、私は町長を辞職する決意をしました。


 職員として11年間、町長として11年間、ニセコ町役場での仕事を通して、数多くのにお世話になりました。社会の右も左も分からない私の手を取って、指導してくれた先輩のみなさん。仕事の出来ない私に根気強くお付き合いいただいた町民のみなさん。多方面で私を支援してくれた町内外のみなさん。私をここまで育ててくれた全てのみなさんに心から感謝します。

 私は、次の仕事を開始することになります。しかし、その仕事は、今のニセコでの仕事と無縁ではありません。私の本籍は地方自治です。北海道、市町村、そしてニセコが私の原点です。別の視点から、ニセコを、市町村を、そして北海道を良くするために、町長を辞職する決断をしたのです。

 どんな状況になっても、私はニセコの、そして市町村の、さらに北海道の応援団です。私の生きる道はここです。

 遠くの祭囃子を聞きながら、今、改めてニセコの将来を考えています。
 町民のみなさん、本当にありがとうございます。そして、これからもさらにお世話になります。



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