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2014/02/16 08/28 更新

哥窯と名の付く窯は、やはり、なかった

かよう(哥窯)、またかかよう(哥哥窯)とは、かかきんよう(華夏鈞窯)の後の呼称でしょう。

哥はこんにちQuaと発音し、中国の発音記号ではGeと書きます。日本では千年変わらずKaそのまま。

華は後Fuaに変化したため、哥の字を当てたのでしょう。南宋期からと云われています。

ただしこれも、明代の資料からです。明で復古品を数多く作り、各地の寺社に奉納した窯の資料にあります。


下の黄ユウの壷は、残念ながら唐代に訂正致します。

U-tube用に、現在、写真を取り直していますが、その最中、唐米色哥窯、白哥窯と鉄線のつくり方が同一と判明。

また、底のゆうやくの掛かり具合から唐代の模様です。お確かめ下さい。

ご参考 こちらのサイトに米色、また下の黄ユウの底の拡大写真があります。



マーケットに見る哥窯

下はすべて黒哥窯(唐 玄宗期)の現代復古品です。型自体は左2つ、唐 則天武后期。中、玄宗期です。右2つは宋代の模様。

黒哥窯(唐 玄宗期)はこちらのU-tubeをご覧ください。



やはり鈞窯が主役

北宋 哥窯(か窯 可窯)のはじまりとは五代皇帝の末裔達の御用窯、柴氏鈞窯(仮称)だった。

あるとすればのお話です。

最近、柴窯の法を計り終えました。左、柴宗訓(柴栄の子)と推測、右、柴栄

北宋初期、柴氏の庇護を失い、都、開封から多くの柴の窯人は、中原の鈞に、移動した。

なぜ、窯人が旺の庇護を失ったのか?国も滅んだが、後周旺も暗殺された模様。

どうも、宋の石刻遺訓は、話半分に聞いた方が良いのか。


柴氏鈞窯(鈞の民窯期)

貫入磁器は見あたらない

当時、350窯あったそうです。一大磁窯産地だったのでしょう。この中に、恐らくひとつだけ、後周王朝の末裔専用の窯が残された。

唐代にならうなら、柴氏鈞窯とでも呼びましょうか。

いわゆる、陶家と呼ばれる、秘密保持、厳格な法を守る、型作りの磁器だけを、旺命で作る窯があった。

そう考えるのが自然でしょう。唐代にも、特段、貫入磁器の窯が、存在しなかったように。今回はこのご説明を載せました。

柴窯と柴窯のその後(謎の窯移動)は、こちらの柴窯をご参照。

柴氏鈞窯


左2つ 唐代周の終り いとく墓の華夏鈞窯 中 後周柴窯 雨過天晴壺と宋徽宗の鈞窯

 右端 現中国の倣宋汝磁柴窯   

耳をもつ磁器は実は特別なものです。それは皇太子、王が被葬者であるからです。詳しくは法の解説まで。



徽宗期、口伝にある月に3つだけ献上される鈞窯こそ、、柴氏鈞窯なのでしょう。

その中に、貫入磁器もあったのでしょう。



柴氏鈞窯

鈞窯で焼かれた、貫入磁器。 

宋代、哥窯と呼ばれる窯は存在しなかった。 

それが一番自然に思える。貫入磁器は、悲しみの磁器。通常のゆう以外のスペシャルバージョンと云うこと。

これだけ、作れば、食べていける、そんな訳ではないのです。他に市販できませんから。 

悲しみの貫入磁器。毎日、毎月、作り焼く物では、ないからです。

北宋 初期から徽宗まで    北宋 徽宗期  
最後の柴窯(鈞窯)  民間の鈞窯  柴氏鈞窯(郡官窯期) 鈞郡官窯  徽宗官窯 
           



    


   



形が、もう、ユニーク。ろくろじゃあ出来ないぞと、誇らしげです。

五代柴窯 のち 柴氏鈞窯の黄ゆう



 

詳しく見ましょう


徽宗さんの好みではない貫入磁器 これを北宋第一期としましょう 

これが実際のところ、ないのです。


柴も北宋哥窯も、はたまた徽宗官窯も、従来、優品を誰も目にした事はないのですから
まあ、自由な推論がゆるされる当HPですから、お許しください

宋代民窯期はどうも存在しなかったと長く考えておりました。
なにより厳格な型つくり 民窯ではこの点からまずなかったと思っておりました。


現在、同じ王朝の窯、南唐、呉越の秘色磁器との関連をもう一度、調べています。
すばらしい型つくり、支柱を使った目跡、角ばった姿などです。






月に3つの鈞窯は、誰のため?

柴氏鈞窯 その郡官窯期をみる

このときから、前述 柴氏鈞窯にも変化が起きた。税収アップのための、各地産業、産品の、中央管理。つまり窯の統制。

財政的には、徽宗帝の時期は、国と、各地保守豪族との綱引きで、財政は、盛期に比し、ボロボロ。徽宗帝の道楽は、明代の捏造。

北宋は、もう財政的に破綻していた。徽宗さんが政治嫌いとか、戦略ミスで金に攻められたとか、後世の作文かもしれない。

汝が語るように、親、兄弟のともに皇帝が暗殺されるようでは、もう完全に国として終わっています。



では、誰が、誰の為に、下の磁器を焼いたのか?

五代後周の末裔。彼ら一族はあくまで旺。宋は、やむなく、国の運営を預かるというスタンスでした。たてまえとして。

徽宗帝の時代、鈞窯は郡官窯期を迎える。郡官窯とは、地方に、その運営主体があったということ。王権は非常に弱かった事も、汝は教える。

口伝に郡官窯では、宋の徽宗帝でさえ、月に3つしか、鈞窯に製作を命じることができなかった。


さて、徽宗期、口伝にある月に3つだけ献上される鈞窯こそ、、柴氏鈞窯なのでしょう。

なぜかというと、他では、これだけの旺品を作るの能力がないから。法と型作りは汝も上手ですが、黄色、赤色はない。

赤色は、宋では長く焼かれませんでした。皇帝の色なんでしょうね。徽宗さんが、初めて、焼かせます。


口の所のゆうは、薄くなり、試作品の雰囲気。十の文字は、郡官窯期に、見られるが、貫入は、初めて見る。

いずれ、多く焼かれる物では、ない。又、口に濃い茶のゆうを掛ける、徽宗さんの好みとも、思えない。

郡官窯初期には、まだ柴氏鈞窯は、鈞窯で貫入磁器を焼いたと思われる。

物証が、とぼしいといえばとぼしい。風変わりな焼き物が、また多いのです。

他の窯と、器形が普通リンクしない。土は鈞民窯期の悪いものから、精製の良いものまである。ゆうも透けがなくなる。変化も大きい。

なにより、その製法自体の着色、また底に飾りのゆう自体掛けたものもあり、土の判別が、まず難しい。

現在 Fudal Guan Kiln Ge Yao 郡官窯 哥窯と呼ばれています Ge、Yaoともに哥、窯の中国現代 表音です


第二期 北宋 郡官窯期 徽宗好み貫入磁器 汝に登場

しかし、このあとの貫入磁器は、ゆうの雰囲気がグッと変わります。べっとりとして、うえも、ゆうの透けがなくなる。

ぽかんと大きく口をあけた貫入磁器。これは徽宗さんの汝の窯ですね。

貫入磁器は、このころ、汝で、わずかに作られた。そう考えます。


 第三期  徽宗官窯 盛期の貫入磁器
 


徽宗官窯の初めと終り 楽しい貫入磁器は、やがて、つらい寂しい、単貫入磁器に移ります。

徽宗官窯に見る貫入磁器



徽宗期 末期の貫入磁器



南宋 修内司窯   
皇宋元年正月十六臨安府督造 

やわらかい白磁 瀬戸の志野焼きのような肌合いに極細い薄い赤の貫入が入ります
国を興す祝いの気持ち きさきの帰らぬ悲しみ 貫入は悲しみの磁器です




黄柚の謎

唐代の貫入磁器。 一番出来が良い。

黄ゆう(右端)は南宋 修内司窯に移動します。

修内司窯をまとめました。

 唐代 か夏鈞窯 米色と黄ゆう   南宋 修内司窯


郊壇下官窯



龍泉窯

この窯が貫入磁器の始まりとは、よく言ったものです。


金、元




2013/06/09

テレビ番組の種明かしをしましょう

哥窯の謎 歴代官品 旺品の類は清朝末期まで、その多くが、磁器庫に深くしまわれました。
ましてや、それら各時代のいわれ等、当サイトのお客様なら、もうご存知のはず。
外には、めったに出ない。ちょうど医者のカルテに相当します。

ある方のお話に哥窯の名が、宋代にも出ず、その焼き物も出土していない。

そうなんです。出る訳がないのです。
各王朝の秘話をはらんだ磁器は、通常、次の王朝により、旺墓、主要墓、すべてがあばかれます。
そして、分類、整理されます。外に、情報は、漏れ出ません。

では、なぜ、明代の書物にあると言うのでしょうか?
本当でしょうか? 不思議に思っておりました。


鄭和大航海を知らない明代皇帝

なんらかの事情により、つまり、大きくは唐代五代宋代の歴史歪曲、いんぺいが必要だった。

永楽帝の鄭和の世界大航海の皇帝へのいんぺい。この時期と思います。



左中 唐代 則天武后期  右 明代  従来元型不明でした


清代 復古

左から宋汝 中と右 清雍正帝復古 元型 宋と唐 太宗期 華宝きん窯


現代復古品   金糸鉄線の復古品



お疲れ様でし



詳しくはこちら


唐代の確認 北宋まで

唐代 米色哥窯
 

左 南宋 右 唐代 とてもつややかに光ます

唐代がいかにダイナミックかつ野性味あふれるか分かります
又、これらの磁器の多くが愛らしいのはこの法の義と官が多い為です。



貫入の色々  金糸鉄線

 



21世紀、知りうる貫入磁器を時代別に並べました。

唐代 宋代 貫入磁器で有名な哥窯という名のつく窯はなかった。

もちろん、南宋期、龍泉窯のご兄弟のお話は、最近の中国観光協会のPR、宣伝とお考えください。



南宋とすると、唐代(上左の2つ)の説明が出来ないし、南宋(右端龍泉窯)の貫入磁器とは、およそ異質のものが、多くある。

つまり、北宋(中2つ)の雰囲気、硬い、冷たい、法を厳守した物の、説明もつかない。

更に書くと、単色貫入磁器の徽宗官窯。その前後の変化も、説明できない。


隠された唐 喧伝される宋

推理としては明代中期、哥窯なる窯が創作された。東西交易はなやかなりし唐の隠蔽も目的。

明代、唐 五代 宋の多くの焼き物は、磁器庫に深くしまわれ、また、明末に、多くが、結果流出したと考える。

このとき、磁器の歴史は大きくゆがめられる。20世紀、前世紀までの、常識は、このとき作られた。

五代の幻の柴窯、宋代の定 汝 官 哥 鈞の五名窯のお話もこのとき、作られた。

宋、特に北宋は、磁器に関しても、そんな立派なものを作りません。なぜ?宋は王朝では、ないからです。

     

磁窯史再考 21世紀の発見

 まず唐代 貫入磁器は、か夏鈞窯と呼ばれた。  (則天武后の子 中宗期)


世に名高い哥窯 金糸鉄線も、実は当時主力の窯、か夏鈞窯で、焼かれ、銘も入れられた。

唐代、素晴らしい貫入着色磁器も、副葬された。それら一群の磁器は後世、哥窯と呼ばれた。

金糸鉄線のほか、水割りの白哥窯、米色哥窯、玄宗期の黒哥窯と、貫入磁器オンパレードであった。

唐代 金糸鉄線はこちらのU-tubeをご覧下さい。

貫入磁器は、か夏鈞窯で焼かれた  (玄宗期) 
 星神鈞磁   か夏鈞窯 中 金糸鉄線 右  米色 華芸鈞窯( 黒哥窯) 
       


唐代鈞窯
五代の名窯

鈞窯からみる徽宗期の磁器
 可民窯可郡官窯 きん郡官窯  徽宗表の官窯 裏の官窯

汝窯から見る宋の磁磁
  神宗期の汝宣仁太后の汝 (哲宗8歳) 哲宗(16歳から25歳)の汝 徽宗(20歳から26歳)の汝

Southern Song Dynasty Guan ware
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