製造業 工業ビル尽くし 香港暴動 |
製造業
香港は開港以来一貫して自由港だった。中国の物産を東南アジアや欧米に輸出する中継港だ。それは今も変らないが、一時中断したことがある。1949年の新中国成立後間もなく発生した朝鮮戦争のとき、中国は西側に対して禁輸政策を採った。香港を介する貿易はほとんどが西側と大陸を結ぶものだったので、香港経済は大打撃を被った。
香港製造業はそんな1950年代に発展した。中継貿易が衰退した分を地場製造業が香港を支えたのだ。国共内戦から共産党の中華人民共和国成立を経たこの時期、大陸からは大量の難民が香港に流入して工業労働者予備軍となっていた。難民アパートと同じように、多数の工場が入居する雑居ビルが香港各地に建てられた。製品はプラスチック加工品、玩具、繊維などだ。今では中環(セントラル)にひときわ高く聳える長江実業ビルの主、李嘉誠も裸一貫で香港に来て、20歳代でプラスチック造花製造の大当たりが成功のスタートだった。
工業ビル尽し
21世紀の香港経済は圧倒的に金融、流通、観光などサービス産業化している。でも、減ったとはいえ製造業が無くなった訳でもないし、工場労働者も労働組合もある。メードインホンコンは生きている。
香港のあちこちにある工業ビルが、ものづくりに邁進していた発展途上期香港の光景を感じさせる。啓徳空港跡地北側の新蒲崗(さんぽうごん)は工業ビルのメッカ。様々な形のビルが並び、すぐそばの大[石勘](だいはむ)村は20世紀末までバラック貧民街だった。67年香港暴動の発火点はここ新蒲崗の工場。少し東へ行って、觀塘は地下鉄駅から海までの間が工業ビルのラッシュ。更に東の油塘も落ち着いた(?)中に工業ビルが並ぶ。西は、葵涌から[全*]湾。巨大な箱のような工業ビルが連なる、いつもの香港とはまったく異なる風景が見られる。大埔など新界の北部や將軍澳などへ行くと、一企業が建物ひとつを使う日本と同じような新しい工業団地が広がる。
[全*:くさかんむりに全]
新蒲崗 | 觀塘 | 油塘 | 油塘 | 土瓜湾 |
香港暴動
1967年5月、新蒲崗のプラスチック造花工場の労働争議に警察(当時の英国香港政府)が介入し、衝突した。折しも大陸中国では文化大革命で紅衛兵が暴れていた。何でも英国優先の植民地そのものの状況だった当時の香港で、大陸の動きに呼応しての反英気分も高かったのだろう。これが一気に暴動に拡大した。中国銀行や大陸系デパートには紅い革命スローガンが掲げられ、街頭には警察や英軍が出、街路に置かれた爆弾が爆発した。さらに、ビクトリアハーバーには英米豪の軍艦・空母が浮かぶという、今日では想像もしがたい騒然とした香港があった。
日中の街路は人影も少なく静かな新蒲崗を歩いていると、ふと労働者と警察が対峙したモノクロームの映像が脳裏に浮かぶ。そのときも1949年と同じように、紅軍は境界を越えて救援には来なかった。97年以降、紅い旗を掲げるようになった香港で、青い旗に立ち向かった微かな記憶が工業ビル街区には留まっている。
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