YUKO MASUMITSU JAZZ DANCE STUDIO

 2004年 2月


2004-02-01 こわーい夢

「今は舞台の本番中。私の出番は、この次の曲。やたらに楽屋から舞台が遠いけど、やっと袖に着いたよ・・。ふー。・・・うわっ!衣装の手袋を楽屋に忘れて来ちゃった!走って取りにいけば、何とか間に合うか・・。遠いよー。走って走って・・。あっ!前の曲が終わっちゃう!どうしよう!わーっ!」

というこわーい夢をよくみました。実際にはそんな遠い楽屋なんてないだろうし、幸いな事に、手袋や小物を忘れた事はないんだけど、舞台の本番近くなるとよくみたものです。
あと、もうひとつ。

「舞台本番中。満席のお客。曲が鳴っていてステージの上に自分はいる。スポットが当たる人が、順に立ち上がってソロを踊りその他の人は、少し暗めの照明の中しゃがんだポーズで静止。どうやら、次が自分の番。・・・あれっ!私の振りってどういうのだっけ?!えーっ?知らない!忘れたとかじゃなくて知らないよー!振付けもらった覚えがない!えーっどうしよう!即興?!ムリー!わー!」

どうですか?こわいでしょう?

幼い頃の私の怖い夢の代表は、知らない街で迷子になっているものや、もっと怖いのは、絶対自分の家のある街なのに、自分の家には、知らない人が住んでいて、前の人がどこに引っ越したかなんか知らないよ、と言われてしまうもの。本気でわあわあ泣いて目を覚ましたりしました。
深層心理を分析したり(しなくていいよ)、夢占いだと何かが出てくるかもしれませんが、たぶん昔から今まで、かなり気が小さいのかもしれません。(--;)


2004-02-02 本当にあったこわーい失敗 1

さて、昨日はこわーい夢の話でしたが、
今日は、本当にあったこわーい失敗の事を書いてみます。
・・・といっても私は、振付けを忘れて一瞬棒立ちになったりするポピュラー?!な失敗はあまりないのです。
今までの中で、いちばんこわーい失敗は、衣装の事でしょう。

総タイツ(レオタードとタイツがつながっているぴったりしたもの)で、
右半身が黒、左半身が白、に2色に別れている衣装で踊る景がありました。
袖無しで、あとは、くっきり色分けされた衣装で、むろん背中の部分も2色でした。
それを・・・早替えで何と!!後ろ前に着てしまったのです。
全く気付かずに一曲踊りきった私でしたが、舞台もはねて大分たってから
見に来てくれた友人が、「あのさー、あの時言えなかったんだけど・・。
YUKO、あの総タイツ逆に着てたでしょう?!」 
・・・。「ひえ−ッ」
ビデオで確認すると・・・6人のダンサーが横一列に並んだそのありさまは、
上手からきれいに、黒白、黒白、白黒!(私です)、黒白、黒白、黒白でした。(>_<)
前と後ろの繰りが違うはずなのですが、幸いにも背中の繰りがわりと甘い(よかったー。ホッ!)デザインで、(でもさすがに胸出てたら気付いたかも?)気付かなかったのでした。
こわーい。

まだあります。
網素材の(もちろん下にはボディファンはつけてますが)ぴったりしたTシャツに、下は黒い短パン(オペコット素材の1分丈)、腰に鎖やら飾りがいっぱいついたハードロック調の飾りベルトがアクセントの衣装で、その上にマントを着ていて、踊りの途中で引き抜きされるというものでした。
踊り終わって楽屋に帰ってきたら、私の鏡前にポツンと残ったベルト・・・?
えっ?誰のこれ?と自分のお腹を見ると!
鉄腕アトムのようにツルンとしたシルエット!!という事もありました。
重くて苦しいから、ぎりぎりにつけようと思っていて忘れたのですね。
上にマントを着てスタンバイしているので、他の皆はわからない。(自分で気付けよ!)
鏡前で、私の帰りを待っていたベルトを見た時、血の気が引きました。
こわーい。

最近では、ふわっとしたオーガンジーの衣装で、スカートの下に透けないためにつけた薄い生地のペチコートが、踊っているうちにスカートとの縫い目が、ほつれて脱げてしまい!(幸い曲の最後の方だったのですが)足の所にひっかかっていたのが、大きくバットマンした拍子に、
ひらひらと宙に舞ってしまった・・というのもあります。(--;) 
それはそれは高く舞い上がりました。
いきなり宙を舞った布に、お客さまは、「何だ?あれは???」という状態だったと思います。
もちろん知らん顔して踊り終わり,
暗転で拾って,すごすご帰りました。(T_T)
こわーい。

まだあるので明日に続く。



2004-02-03 本当にあったこわ〜い失敗 2

舞台の失敗って忘れませんね。
舞台の上で、やった・・・と思った時の恐怖は口では言えない程ですが、私の場合その時は気付かず、あとで知ってぞ〜っというパターンもあるので油断できません。

自覚があったはずなのに、後でビデオで見るとかなり笑えるといのもあります。
このHPのトップページの写真の踊りの時の、煙草がそれです。
舞台上で火気を使う時は、たとえ煙草の火のようなものでも、消防署の許可が必要で、かなり面倒なのですが、あの時はどうしても本物の煙草がよくて、わざわざ許可をとったのです。
ところがです。 舞台は魔物!
本番ステージの上には微妙な風が流れていて、つけてもつけても、ライターの火がつかないではありませんか!
焦りましたね。せっかく許可をとったのに、悔しいし、何としてもつけたい!
けれど踊りにもカウントがあって、“ああーこれでは吸う暇が・・・!”
もうダメだと判断し,あきらめて『吸う振り』をする羽目になりました。
自分では、見ている人には分からない位の時間のはずが、
見に来てくれた人が口々に「ライター火がつかなかったね〜」というではありませんか。
あとでビデオを見たらムキになってる私が、5回も6回もカチカチやっていて、笑えました。
しかも次の日もライターを変えたのにつかなった・・・。
やはり魔物の仕業か、、、。

フィナーレで大失敗というのもあります(^^ゞ
ラストのラストでキャスト全員がカッコよくソフト帽を放ってポーズ!カットアウト!!・・・という時に、気持ちよく投げ過ぎた私のソフト帽は、何とドン帳ラインよりも前に落ちてしまったのです(ドン帳がおりてくる線)
「まっマズイ!」と思ったのも後の祭り、そのままお辞儀をしたまま幕は降りるという設定なので動けず「私の帽子ーーー!」という間にドン帳はおりて、私の帽子だけが、幕の前に・・・。
たまたま最前列に友人が座っていたので、終演アナウンス後スグに幕の中から大声で「私の帽子、楽屋に持って来てー」と叫び、無事手元に。
次の回もあるのに無くなったらどうしようと気が気ではありませんでした。

コマダンサーだった私の師匠の話しを聞くと、私の失敗なんて軽い軽いという
「つわ者」のスケールの違う失敗談が色々あります。

袖ギリまで客席に顔を売り続けて、袖にかかるコードに顔面をぶつけて流血、
“顔面ななめミミズ腫れ”とか・・
左右、色の違うヒール(しかもピンクと銀)を履いて出てしまい、ずっと5番に重ねてしのいだ?!とか・・
コマ劇場の袖って“ニセ袖”というか、行き止まりになってるくぼみのような場所があって、間違えてそこに、はけてしまうと袖に入れず、舞台にも戻れず、次の暗転まで隠れていなければならないとか、、
(後に私も立った時に、あーここがと思いおかしかった)

こわ〜〜い失敗も、時が経つと、こんなに楽しい!?
みなさんも、こわーい失敗を恐れず、めげないで、頑張って踊っていきましょうね!



2004-02-04 生まれ変わったらなりたいもの

子供の頃、よく、「大きくなったら何になりたい?」と聞かれる事がありませんでしたか?
時代によって、流行りの職業というのがあって、男の子だったら、昔は野球の選手、今ならサッカーの選手とか、女の子だと、幼稚園の先生とか、アイドルどか・・。

私は、あまり素直な子供ではなかったらしく、というか大人になるというビジョンが全くなく、大人の(親)の顔色を何となく見ながら、ピアノの先生とか答えていました。
その実、地道なピアノの先生の実体は、親を見て知っていましたから、本当は、全くなりたくなくて、まだピアニストの方がまし?!だけれど、どうやらそれは無理かな・・などとぼーっと考えていたように思います。

今は・・子供の頃には思い浮かびもしない(だいたいその頃にジャズダンスというものが、日本にあったのかも不明ですが)ジャズダンスの先生になっていてとても不思議です。
そして、今は、子供の頃よりかなりストレートな“子供らしい?”大人になっていて、テレビなどに出て来たり、本で読むとすぐその気になって、その職業についてみたくなります。

もしもう一度生まれ変わったらなりたいものは、
事件をばしばし解決してめちゃめちゃ強い女刑事、
国際的に活躍する女スパイ、
宝塚のトップ(これはトップじゃなくちゃダメ。でも、みんななれればトップがいいのか?!・・)
バレリーナのソリスト(これもみんな、そうなりたいのか!?・・)
バレエだったら、熊川哲哉みたいなテクニシャンの男性でもいいか・・
などなど。

まあ実際なってみたら、女刑事も、警察機構にしばられて大変だろうし、スパイなんて、私のようなとろい人は、あっという間に命を落とすだろうし、宝塚のトップにしたって、トップでいけるのは、ほんの数年だろうし、ソリストも決まった踊りを毎日踊っていたらあきるかもしれない・・などとなんとかあきらめています(--;)

結局のところ、もし生まれ変わっても、また気付かないうちにジャズダンスの先生になっているのかもしれません(--)



2004-02-05 子供の頃の本

子供の頃に読んでもらった本で、今でも名作だなと思うものは沢山あります。
たぶんこれは、同世代の人間は、わりと傾向が似ていて、「それ、知ってる」という本があるかもしれません。
おそらく、小学校入学以前に親に読んでもらったのか、クレヨンの悪戯書きがいっぱいの想い出の一冊は、「ぐりとぐら」です。
今でも、本屋さんに行くとあってとても懐かしく感じました。
大きな卵で、大きなホットケーキを焼いて食べるラストシーンの絵は、本当においしそうでした。
ホットケーキといえば、「ちびくろさんぼ」(差別用語だとかで、一時期、発禁処分になったらしいけれど、あんな楽しい話をどうして?という感じです。
トラが、ぐるぐる回ってバターになってしまうなんて、すごい感性だと思います。
他にも、「かばくん」、「アフリカの太鼓」、もう少し大きくなって自分で読んだ「エルマ−の冒険」、「エルマ−と16匹の竜」、「小さなモモちゃん」・・・。
断片的な記憶しかないけれど、良い本がたくさんありました。
本を読む楽しみを知らずに、ゲームに夢中になる今の子供も、パソコンなどに抵抗なくすっと入っていけてそれなりにすごいと思いますが、何となくかわいそうにも思います。

さて、その後は、シャーロック・ホームズのシリーズや、ルパンのシリーズで、ミステリーにはまる土台ができ、世界名作全集などで「モンテ・クリスト伯」や「レ・ミゼラブル」等名作にふれ、中学にあがると
お決まりの、「星 新一」、「筒井康隆」、へ、そして翻訳もののSFへはまり、本の虫へとひた走るのでした。

だいたい私の家は、親子共に本の虫で、亡くなった父も含め、一家三人の蔵書で、床が抜けないか心配なほどだったのですが、父が亡くなって(農水省に勤務していた父の専門書、「農業経済の明日」とか・・)を大分処分したので、大丈夫だと思います。
読書の楽しみを教えてくれたのは、皆子供の頃に、良い本に出会ったからだと感謝しています。



2004-02-06 乗り物酔いの話し

ご存知の方もいると思いますが、基本的に私は乗り物は苦手です。
赤ちゃんは酔わないといいますが、親の話しによると「赤ん坊の頃から具合わるそうに
してた」そうで,筋金入り?なのかもしれません。

何しろ小学校の林間学校は、あらかじめバスは無理だからと、電車で行って、
現地合流にしたにもかかわらず、現地のバス移動でやられてしまい、
学年中の有名人になり、あげく翌年の修学旅行(移動教室という形で5年生の時と同じ場所に行く簡易なものだったのですが、先生と親が相談の上)はおいてきぼり!!というハメになりました。

大人になったら大分よくなって荷物を持っての移動などで仕方ない時や短距離なら、
進んで車に乗せてもらうし電車も比較的大丈夫になりました。
「自分で運転すれば平気になるよ」と皆に言われますが,
私の場合 免許をとるのに試乗しても具合わるくなりそうだし、知り合いで自分で運転中酔って、途中で休んだ、、という話しを聞いた事があります(?o?)

ブランコやジェットコースターも苦手です(>_<)
ジェットコースターは恐いのでなく、酔ってしまうのです。

船でも一度ひどい目に・・・
数年前、伊豆の富戸という所で遊覧船に乗った時の事。
芦ノ湖(箱根)の遊覧船で楽しかったので平気平気..とタカをくくっていたら、
芦ノ湖は湖・・伊豆は大平洋!!というのをすっかり失念していました。

またその船が遊覧船というよりは、まさに漁船!!
いかにも漁師というおじさんが、案内のテープがかかっているその船を、
荒波へと無骨に黙って動かしているのです。
地獄の30分でした。
戻ってきて、まっ白な顔をしてフラフラと船から降りてくる私を見て、次の出航を待っていた観光客の中から、ひそひそと「どうする?やめる?」という声があがっていて、
完全に営業妨害でした、、。

車の移動はラクだろうと思う事もありますが、健康のためには歩くのが一番、、
そのわりに乗せてくれるというとスグに乗りたがる(ただし短距離に限る)私です。
ちなみに地元 柿生では私は自転車(ちゃりんこ)暴走族です。



2004-02-07 母と自転車と自転車屋さんのお婆さん

何だか落語の三題噺か、難しい映画のタイトルのできそこない?のような題ですが・・。

私の世代より下になると、自転車に乗れないという人は、あまりいないと思いますが、少し上になるとわりといますよね。
(私?雨の日も風の日も毎日駅まで乗っています。小さい頃に特訓してもらってよかった・・・)

我が家は、駅まで12、3分、特に遠くもないのですが、やはり荷物があると自転車は、ラクです。
そこで、我が家で、唯一自転車に乗れない母を、父と二人で特訓した事がありました。
その時既に60才近くなっていた母ですが、声楽をやっていて姿勢はいいし、
元気なのでいけると思ったのです。
(本人の希望で)人目の少ない夜、こそこそとマンションの前に一家が集合、大特訓が、はじまりました。
が、・・・転ぶ、転ぶ。
アザだらけで、頑張った母ですが、とうとう音を上げてしまいました。
乗れない人って、ハンドルのバランス感覚が難しいらしく、ひいて歩くのもできないのですね。
その辺りから、時間をゆっくりかければ、クリアできたのでしょうが、
本人が、もういいというので、それっきり。
いまだに、母は、テクテク歩いています。
まあその方が、健康にはいいのかもしれません。

さて、その自転車を駅のそばで預かってくれる、“もと自転車屋さん”があります。“もと”というのは、自転車屋さんとして自転車を売ったり修理していた、お爺さんが、亡くなって、奥さんのお婆さんが、預かり業をしているからです。
このお婆さんが、スゴイ!
30年近く前、私が引っ越しして来た頃、既に立派に?お婆さんで、70才近かったと思うので、今は100才近い。90才は、過ぎているはずです。
腰は、90度に曲がり、背も130センチ位しかない小さなお婆さんなのですが、
朝は、重そうな雨戸を一人で開けて、自転車をきちんと並べなおして、庭を掃除する姿をよく見かけました。
口調は、何故か、山の手の奥様風で、
「お嬢さん(私の事です。スミマセン)は、いつもお帰りが遅くていらっしゃるけれど大丈夫ですか?」などとやんわり皮肉を言われたりして、ずっと頭の上がらない人でした。

ところが、この間、預かり料を支払おうと、縁側のガラス戸越しに家の中をのぞいたら、お婆さんが、珍しくこたつでうたた寝をしていたのです。
その姿が、あまりに小さくて弱々しくて、ドキッとしてしまいました。
「!」「まさか、大往生?」
ドキドキしていたら、パチッと目を開けて、お金を受け取ってくれました。
あーよかった。
お婆さん、一日も元気で長生きして下さいね。



2004-02-08 “原付免許獲得”奮闘記 1

平成13年11月17日、これが、記念すべき私の原付免許獲得の日付けであります。
もともと、車の免許などには、全く興味のない私でしたが、身分証明のために、原付免許なら比較的簡単にとれると聞いて、一念発起、さっそく問題集を買ってきて、勉強を始めたのでした。

しかし、学生の時以来の、丸暗記!さびついた脳にカツを入れつつ、来る日も来る日もひたすら問題集にとりくみました。
最初は、訳わかんなくて、半分もとれなかった点数が、だんだんに合格点に達するようになり、とうとう二俣川試験場へ!

だいたい、原付免許を取りに来るのは、ほとんどが高校生なのですね・・。
若いパワーに圧倒されながら、一人ドキドキ・・。いざ試験会場へ!
力づくでも、うるさい高校生諸君を押さえ込もうと係の警察の人は必要以上?に強い口調で
「紙が配られたら、絶対にしゃべらないで!もし携帯が鳴ったら、その場でカンニングとみなして、不合格、退場してもらいます!」
私も慌てて、電源を確認。
「始め!」
カリカリ、サラサラ・・・。

絶対に一発合格するつもりだったのに、掲示板に自分の番号がなかった時、それは、それはがっかりしました。
ひっかけ問題に、まんまとひっかかった私は、あと1点で、不合格!
(T_T)
あまりの悔しさに、スケジュールを無理矢理あけて、三日後に、再チャレンジ。
今度は、余裕もでき、めでたく合格組に入れました。(^-^)v

昔は原付は実技講習はなかったそうですが、今は実技講習が、義務になっているため、実際にはバイクもないし、乗るつもりもない私も、参加しなくてはなりません。
やれやれ、あと一息だ!

さて、集合した受講者に向かって、教官は、開口一番、
「ハイ、では、(原付に)乗れる人はこっち、乗れない人はこっち、に並んで!」
一同、「?」
教官は、口の端に苦笑いをうかべつつ、
「訳は聞かないから、乗れる人はこっちに。」
(怒らないから、言ってごらん?!みたいに)
(何だそりゃ?)と思いながら、皆が、指示に従うと、全体の3分の1が、乗れる人の列におさまりました。
乗れる人は、カーブの練習にすぐ入るらしくコースの方へ、一方乗れない人、私を含む30人ぐらいは、10台ほどのバイクが止めてある広場の方へ、ぞろぞろと移動。
さあいよいよだ!と、乗るつもりはない私もぺちゃくちゃ喋り続ける高校生と共にちょっとわくわく・・。
次回へつづく。

2004-02-09 ”原付免許獲得”奮闘記 2

まずは、原付がどんなに危ないものか、先週免許をとったその日の帰り道、事故で亡くなった高校生の話(>_<)などを、ひとしきり聞いて、(わかったよ、だから乗らないってば・・)などと私は秘かに思いつつ、スタンドのかけ方から懇切丁寧な、指導が始まりました。

30人が10人ずつのグループに分けられて、(女子チームが2つ、男子チームが1つで、おそらく大部分の男子は、乗れる人だったようです)実際にバイクを使っての練習です。
スタンドをかけたまま、またがってエンジンをかける練習。
「はい。始めて下さい!」
一斉にエンジン音が、響きわたります。
「ウイーン」
私も何となくわくわく・・。あれっ、待てよ。このウイーン音は、私のバイクじゃない?!私のバイクだけ音がなってないぞ?
「はいあなた、スロットルは、向こうに押すんじゃなくて、手前に弾いて下さい!」
へっ?「ウイーン」あっ鳴った!よかった、パチパチ・・・

次は30メートル程向こうに、婦警さんが立っていて、そこまで進んで止まる練習。
名付けて「ここまでおいで、練習」
私も必死で、遠くに仁王立ちしている婦警さんに向かってウイーン。
そろそろスピードをゆるめて・・と・・あっ !婦警さんに突進、止ま
らない、婦警さんをひいちゃうよーー
婦警さんも額に汗!で、仁王立ちのまま、じりじりさがりつつ、
「こっ、ここまで!ハイ止まって!!」
うわーっ!
止まった・・・。
免許獲得の日に、危うく、人身事故になるところでした。ひやひや・・
婦警さんもちょっと、ひやひや・・。(--;)

そんなこんなしているうちに、あたりは、既に夕暮れ。
何しろ30人に10台しかないから、待ち時間も長い。
遥か遠くの、コースでは、レースのようにカーブを曲がりつつ、走リ回る乗れる人グループの姿が・・・。

・・と時計を見て何やら婦警さん、いきなり焦り出した模様です。
「時間がなくなってきましたので、カーブの練習はできなくなりました。カーブは、無理矢理曲がろうしないで、重心をかけて、曲がります。私がやってみますから、皆さん見て下さい。ハイ、このように。それでは、皆さんお疲れ様でした。」
何と、乗れない組30人は、カーブの練習までたどりつけずに・・・ぽかんとしたまま・・・講習は、終了したのでありました。

あの講習だけで、公道に出るのは、自殺行為という事は、乗れない組全員が理解したと思います。

あたりが、とっぷり暮れた頃、わたしはついに、入念のメイクで、目をめいっぱい見開いて撮った写真付きの、念願の免許証を手に入れたのでした。やった!!(^-^)v

その免許証も、今年の7月で書き換えです。もし更新を忘れてしまったら、また地獄のぺ−パテストからやり直しと思うととんでもありません。1回も乗っていないから、無事故無違反、大切に守っていこうとあらためて、にんまりと免許証をながめる私です。



2004-02-10 幼児の大脱走

最初にKIDSのクラスを持ってから、もう15年近く、幼児で教えていた子が高校生になっていて、上から見おろされたりすると、本当に月日の経つのは早いと実感します。

カルチャーで、前の先生から幼児のクラスを引き継いだ時、何とそのクラスは3才の幼児がただ一人。
踊りを習うなんていう状態ではなく、それは苦労しました。
下に弟が出来たばかりで不安定になっているその子は、母親と赤ちゃんが気になって仕方なく、イライラして泣いてばかりいました。
親ごさんの方も嫌がるその子を、なだめすかして、クラスの前にはオモチャを買い与え、終ったらご褒美にアイスクリームと物でつろうとするのですが・・・いやなものはいやで、大泣き大暴れして、その子は何度なく教室からの脱走!を計るのです。
私もこうなったら託児所と思って、その子と仲良くなって遊んでやろうと努力するのですが、教室に入ったとたん、いやなのですね・・・ 。
ドアノブにかけた私の手をガブリ!とかんで!!??
カルチャーの外、デパートの売場へと大脱走。
私も慌てて稽古着のまま売場へと追っかけて大活劇の末、やっとつかまえた!なんて事もありました。
結局、親ごさんも連れてくるのに疲れたのか、
「もう少し大人になって本人がやりたくなったら、、」という私の言葉に納得してくれました。 やれやれ・・・

始まりがそんな最悪な状態だったわりに、その後のKID'Sクラスは、そこまでの試練もなく、KID'Sを卒業して大人のクラスへと踊りの楽しさに、ハマッてくれる子もいて嬉しく思っています。

小さな子供は反応がストレートで、楽しいと目がキラキラしてホッペがまっ赤になるし、できなかったり悔しかったりすると、あっという間に顔が翳ります。
しかし、あたり前のようですが、子供にも既に人格があって、わからない時に「わかんな〜い」とアウトに口に出せる子もいれば、じっと考えようとする子、すぐイヤになってしまう子、といろいろです。
十把ひとからげに「子供」とはいえない「人間」の集まりなわけで、かなり子供に近い大人である私よりも成熟した人間もいたりする..。
ですから私はKID'Sクラスでも、大人のクラスでも、ほとんど変わらない自分のままを出していて(もちろんプログラムの内容は違うけど)
できるだけ、いろんな人間、様々な反応を受け取められるニュートラルな状態でいられればいいなと思っています。

幼児になればなる程、根源的な生命のパワーのようなものは強いようで、私の手をかんで脱走したあの子も、今はすかした高校生になっているのかな・・と思うと、ちょっとおかしくなったりする今日この頃です。



2004-02-11 父の想い出の料理とポテトフライ事件

私の父は、大正14年生まれの「昔の人」で、時代的には「男子厨房に入らず」の世代の人でしたが、母の教育か?もともとの性格か、あまり封建的ではなく、母が仕事でいない時などは、すすんで料理を作ってくれました。ただ、できるものは、3品くらい。
目玉焼きと、蕎麦と、「焼きめし」です。

蕎麦は、まず干し椎茸でだしをとってツユをつくり、その椎茸を煮直したものを、おかずにするというもの。
特においしいというわけではないのですが、まあこだわりの「父の味」と申せましょう。

「焼きめし」は、もっと不思議な「父の味」です。
白飯を、焦げるくらいまで炒めて、具は全くなし、味付けは、醤油と塩と激しい?胡椒です。色はかなり真っ黒で、美味しそうではないのですが、郷愁の味です。

その父が、まだ私が幼い頃、母の留守中、何を思ったか、(まあ自分が食べたかったのだと思いますが)
「ポテトフライ作ってやる」
と言い出したことがありました。
揚げ物なんて、たぶんやったことがなかったのでしょうが、じゃがいもを大きめに切って、揚げはじめたのです。
ところが、何と油に火が入ってしまい、台所の天井まで、火が燃え上がってしまいました。
幼かった私は、大パニック。
「火事だー」
なぜか、お気に入りの枕だけをかかえて、一人で走って玄関から外へ避難。(父は、おいてきぼり、結構ヒドイかな?)

しばらく外で泣いていたのだけれど、少したって、枕をかかえて戻ってみると、悪戦苦闘の末、火は、鎮火しており、あたりは油だらけ、天井には、焦げあとが・・・。
「ママにはないしょね。」と父はいいふくめ、私も共犯者になって黙っていようと思ったのですが、帰ってきた母は、台所を見るなり、
「何これー!?」
そりゃバレますよね。
以後、父の揚げ物は、絶対禁止となりました。

その後年月がたち、老人の域に入って、父は、男子厨房の会のようなカルチャーの講座に出かけて、習ったばかりの料理を作ったりしたこともありましたが、お世辞にもおいしいとはいえず、自分もそれを実感したのか、レパートリーは増えないままでした。

父が亡くなって、そろそろ4年ですが、たまにあの「焼きめし」を食べたくなったりするのです。



2004-02-12 そこつ者

私はかなりのそこつ者であります。
これは絶対忘れては困ると言う事や、人から頼まれた事など、自分で意識したことは、手のひらに書いたりしても(小学生といっしょです・・)絶対に忘れないのですが、意識していないと、本当に空、無の状態らしく・・手袋は、いくつか片方になっちゃったし、傘も気に入ったものに限ってどこかへ忘れてきてしまう・・・。
(実は、昨日も1つポカをやって、ちょっと落ち込んでいるのですが・・)
この忘れ性のために、今までもかなりいろいろとピンチになっています。

レッスンの稽古着を、上に着るTシャツを2枚持ってきて、下にはくものを忘れたり、(生徒さんに借りました・・)
レッスンで使うテープを家に忘れ、仕方なくもう1枚同じCDを買ったり、(事前に気付いたからまだよかったけれど)
振付けするのに、悩みに悩んで決めた位置表を家に置いてきて、電話で母に伝達してもらった事も・・・。

ディズニーのカウントダウンパレードのバイトで、衣装の手袋がどこかへいってしまった時はホント大ピンチでした。
衣装をなくしたなんてとても言えず、本番は明日、これは自分で何とかするしかない・・。
その手袋は、肌色に近く、ふつうに売っているようなものではない・・。
さんざん探して、デパートにあった礼装用の手袋が、材質と形はそっくりで、ただ色だけが、白でネックでした。
そうだ!染めよう!と思い、とりあえず染め粉を何種類か買って帰宅。
やってみたのですが、どうも色が違う。あげくのはては、絵の具で塗ったり(それは、ムリだろう・・)グチャグチャ努力するうちに、天の声が、「紅茶染め」とささやいたのです。
家にたまたまあったのは、フォーションのアップルティー。もったいないけど、背に腹は変えられぬ。たっぷり入れて煮出す事、数十分。
できたのです!そっくりな「肌色手袋」が!
すまして本番それをして、すまして返却してきました。
(皆さんは、絶対にマネをしないように?!)

あの大ピンチ以来、注意深く、落とし物忘れ物のない人になろうと思ってはいるのですが、余裕がなくなったり、時間がなくて慌てたりすると、“魔の瞬間”、“空の時間”が訪れてポカをやってしまうらしいのです。ハアー・・・(>_<)



2004-02-13 レッスン着の事

私がダンスを始めた約20年前、世の中はジャズダンスブームだったらしく、カルチャースクールなども人がいっぱいでした。
私が習いだしたクラスも30人前後で、引き込もり(前日記参照)回復後まもないリハビリ状態で、世の中の流れにもウトくボーっとしていた私は、すぐには友達もできず、クラスの中でも浮いていたように思います。

レッスン着にしても、チャコットやサンエイ、ダンスキンなどのメーカーがこぞってジャズダンス用のファッションを売り出す中で、最初は何を買って着たらよいかわからず、バレエ用のスカート(フリル)が腰についたレオタードに黒いタイツ一丁。(キャー!!)
バレエシューズに、ウェストには何故か空色のサッシュベルトをしめてニコニコしていた私でした(ダ、ダサすぎる・・汗;)

やっとクラスの雰囲気にも慣れ回りを見渡すと、ハイレグのレオタード(今からすればかなりローレグ)に、シャイニングタイツ(光沢のあるタイツ)、Tシャツは襟ぐりを切って大きく開けたものや、裾の部分を斜めに切ったり、それを結んだり、レッグウォーマーをつけて、ジャズシューズ(今のようなハイカットではなかった)、といったファッションが主流でした。
やがてダンスにのめり込み、レッスンに燃え出した私は、その頃皆が履きだした、塩化ビニール製のサウナパンツや、Tシャツに、さらに襟ぐりを大きく切ったトレーナーを重ねて着たり、レッスン着も何となく、その頃のジャズダンサーになっていったのでした。

しかし今思うと、トレーナーは襟ぐりが開き過ぎて肩からズリ落ち、手の先もよく見えないし、邪魔だし、体のラインは見えないし、決してレッスンに適したファッションではなかったのですが・・。(若気の至りか)

その後、私は踊りを続けてるうち若気の至りも卒業し、最も自分が落ち着いて踊れるファッション、まずはシンプルなものへと変わっていきました。
今は特に防寒(?!)腰を冷やさないように、そして重くないもの、着心地のよいものと、実用重視。
そしてバンダナ(これは昔たくさん集めたものです。昔はハチマキ状に絞めてましたが今はかぶってますね・・。海賊巻)
バンダナはきりっとしめると何となくシャキっとして、さぁやるか!という気がするので、自分が稽古を受ける時(クラシックもモダンも)もしています。
いわばレッスン着もひとつの自己表現。
皆さんもブランドや周りにとらわれず、好きなものを好きなように身につけてくださいね。



2004-02-14 痛い話@

今日は、私が今まで生きてきた中でいろいろと“痛かった”話を書こうと思います。

大分昔、中学2年の時、体育のハードルの授業で、後ろ足が上がりきらず見事にハードルに引っかかって転び、脛の骨を折った事がありました。まあそれ自体もかなり痛かったし、そのまま病院へ行ってギブスという事になったのですが、問題はその後・・・。2ヶ月程経って骨もついたようだし、ギブスがはずれる事になった時のことです。

看護婦さんが、電気のこぎりをもってきて、ギブスを切りはじめました。
「キーン。ガリガリ」
「あっ!痛い!」思わず痛みに叫び声をあげた私に、看護婦さんは、
「あー音がすごいからねえ、痛い気がしちゃうよね。大丈夫ですよ。音だけだからね。」
気のせい?いやちがう。絶対痛いってば!いてて・・・

やがてギブスが下まで切れて、カパッと2つに割れて現れた私のすねには、たてに1本赤い筋・・血がタラタラ・・・。
「あらごめんなさい。切れちゃったわね。消毒しときますね」
って・・・だから痛いって言ったじゃない!!!

高校生の時、母とけんかして、頭にきながら、自分の部屋との境の木製の引き戸を力任せに閉めたとき・・・
「ウオー」
見事に自分の薬指をはさみ、骨にひびが入りました。
足の先とか指の先とかの先の方ってホンと痛いですよー。
一晩、全く寝られず苦しみました。
すべて自分が悪いので恨み言も言えず、右手だったためその後字を書くのも苦労し、テストもさんざんでした。痛い・・・。

踊りをやり始めた頃、バイトの帰り、殺人的ラッシュの小田急線に乗っていた時のことです。
「ドアに手をつきますと、戸袋に手を引き込まれるなどして危険ですのでご注意ください」等のアナウンスを聞いたことありますよね。
あれってあまりのラッシュだとムリなときがあるのです。
つきたくなくても、押されて顔がつぶれるーという時、人は自然に手で支えてしまう。
「あれーっ」
折りしも、電車は、向ヶ丘遊園駅へ到着。ドアがあくー。
「うわーっ」
私の右手(また右手だよ)はドアといっしょに戸袋の中へ“ぐりっ”
「痛ーい」
慌てて自分で引きぬいたもののあまりの痛さにしばしベンチに座り込んで呆然。そこへ異変を感じた駅員さんが、
「どうかなさいましたか?」
「いや実は、戸袋の中に手が・・」
「ええっ!」
皆まで聞かず、駅の事務室に引っ張っていかれ、病院に連絡してくれて、診てもらいましたが、幸い、捻挫のみ。しかししばらくは、包帯でぐるぐる巻きの手のまま踊っていました。次回へ



2004-02-15 痛い話A 日焼け編

包帯といえば、私が、たかが日焼けで、包帯ぐるぐる巻きになったのは、数年後のことです。

ある夏、踊りの仲間と10人くらいで、三浦海岸の方へ泳ぎに行きました。
そこは、海水浴場だったのですが、かなり岩場のところで、わりとすぐ深くなる海岸で、泳ぎがあまり得意ではない私は、岩の上に座って、皆が泳ぐのを見ていたのです。日焼け止めもあまり塗らず、数時間が経過。
帰る頃には、全身が真っ赤に日焼けしていました。
家に着くと、寒気がして、具合が悪くなってしまい、完全に熱射病の症状でした。
次の日起きると、具合はよくなっていましたが、今度は体中がぴりぴり、Tシャツが、ちょっと動いて肌に触れただけでも痛いのなんの・・・。いわば“イナバの白兎”状態です。
しかもその日は、屋外仮設舞台での、踊りのイベントがあって、背中を床について転がる振りなどの応酬に、いつしか顔色も痛さで真っ青になっていました。

さて痛さが少しひいた数日後、代講の仕事で、大宮でのクラスを終えた後・・・
「ギャアーッ」
極度の日焼けの後に汗をかいたため、私の体は、肩から背中,腿などみたこともない大きな水ぶくれでおおわれていたのです。(直径15センチくらい)
「すぐ病院に行った方がいい」と皆が言うし、自分でもあまりの気味の悪さに、仕方なく自宅からはやたら遠い、大宮の地で、皮膚科に飛び込みました。
診断は、ずばりヤケド。
あまりの水ぶくれのひどさに、先生の、「ちょっと見てごらん」の一言。看護婦さんから、助手の人やらが勢ぞろいして囲まれてしまいました。
「まー。ひどい。痕が残らないといいわねぇー。」
しかし、もし化膿したら、命!にかかわるという事で、すぐ注射を打たれ、全身に塗り薬、特にひどい肩から背中にかけては、包帯でぐるぐる巻きに・・・。
“ミイラ女”の出来上がりです。
しかも、自宅から1時間半もかかる大宮の病院に、毎日通うように言い渡され、なおげんなり。
(誰が悪いんじゃ・・涙。)

まあその治療のおかげで、心配された痕にもならず完治しましたが、私はしばらくの間、星スタ(私が通っていたスタジオの略称)のコンスタンチンちゃん(当時、ヤケドの治療のため、ロシアから日本に搬送されて話題だった子供の名前)
と呼ばれたのでした。

たかが、日焼けとあなどるなかれ、痛い思いをしてやっとわかった私でした。   続く



2004-02-16 痛い話Bレッスン中の名誉の負傷?!

さて、こうやって書いてくると、私は、踊り以外のことで変な怪我ばかりしているようですが、踊りを教えているがための名誉?の負傷、労災?というのもあります。

上体を反らしながらスライディングする振りを教えていて、
「皆は、首をドロップしてしまっていて、形がきれいじゃないし、それは首を痛めやすいから、引っ張って反ってね。」
と言って、
「ハイ、悪い見本、こんな風になってると首を痛めるよ」とやったとたん、
「あ゛!」
ほら痛まった・・・。とムチ打ちになった事もあります。あれは、結構長引きました。何をやってるんだか・・・?

レッスン中の怪我といえば、はずせない事件があります。
まあこの話は、古くからいる方は、現場にいたという方もいるでしょうし、その話は聞いたと言う方もいるでしょうが、やはり“痛い”というくくりからは、はずす訳にはいきません。

日曜日のカルチャークラスでの出来事です。
カルチャーの教室は、前が鏡で、部屋の中ほどに、なぜか柱が出っ張っていてその柱にも鏡がはってあるのです。
そんなに狭いと言うわけではないのですが、奥行きがあまりないので、コンビネーションの時などは、私がなるべく前の方につめるようにしています。そのコンビを曲でやっていた時のこと・・・。
私はかなり柱に接近して踊っていました。
もともと私は近視で、左右の視力がかなり違い、どうやら遠近感がない方なのですが、そのせいか、いけると思った目測を誤り、柱の角、鏡と鏡の境目に、手が当たってしまい・・。
「痛っ」
とっさに痛いほうの手(今回は、左手)を右手でつつみこんだら、両手が、血で真っ赤・・・。
「キャー」(生徒たちの声、私ではなく。)
「大丈夫ですかー」
「わあ血だらけ。気持ち悪いー」(確かに聞こえた!誰だぁ!怒)
血だまりの中で、手を押さえてうずくまる私を遠巻きに、後ずさる皆・・・。(ちょっと大げさ?)
一瞬のパニック」が収まると、中の一人、現役の看護婦だった生徒さんが、応急手当、他の数人が、カルチャーの受付に日曜診療をしてくれる病院を探す電話をかけにいってくれました。(ありがとう!)
あっという間に、止血され、肩から三角巾で手を吊った私は、申し訳ないけれど、とレッスンを終わりにしてもらい、近くのK病院に車で連れて行ってもらったのでありました。
が・・・本当に“痛い”のはこの後なのでした・・・。
Cに続く



2004-02-17 痛い話C もしも・・シリーズのK病院

日曜日のレッスンで手をけがした私は、日曜診療をしてくれるというK病院へとやってきました。

「どうしました」
診療室へ入ってきた先生は、、、何と・・。;
車イスに乗っていたのです。
みるからにご高齢。
着ている白衣はうす汚れ・・(作ってないヨ。本当の話なんだから)
“だ、、大丈夫か?この先生!!”
昔懐かしいドリフターズの名コント「もしも、、こんな医者がいたら」じゃないんだから。やめてくれ〜。

「どれどれ、、、」
と応急手当で巻いてあった包帯をほどくその手は、心なしかふるえているではありませんか。
「あーこれはパックリ割れちゃっているから閉じなきゃダメだな。今はいいのがあるんだ。ホッチキス。ちょっと痛いけどね」

(ホッチキス〜?)
後から聞いたら縫うよりも簡単で本当にある治療らしいのですが、もう私にはその医者はもしもシリーズ≠フ危ない医者にしか見えないので、心の中は大パニックです。
(助けて〜〜!)

「ちょっと、あれ持って来て」
「ハイ、院長」

(院長? この人が院長先生なの?うそ〜?)

「我慢してね〜〜ハイ」ガチャン!ガチャン!ガチャン!

(うっわーーっ!い゛た゛い゛よ゛〜)
傷はまだうずいているのに金具がそこにガチャンと喰い込み痛いの痛くないのって・・・。
気が遠くなるかと思いました。

「じゃあ明日また来てください」

ふー生きて帰れた、、。
大袈裟じゃなくもしも≠フ院長に何をされるのかと気が気ではなかった私は、そう思いました。

しかしこの話には後日談があるのです。
次の日、同じ病院に行った私を診てくれてのはテキパキした女医さんでした。
私の傷口を見ると、看護婦さんを振り返ってヒソヒソ声で、、
「この傷の縫合は誰が?」
するとその看護婦さんは声をひそめ
「院長です、、、。」

女医さんの顔がくもり「あーそう、、、。」(じゃあ仕方ないかというニュアンス)

(えー何かまずいのー?院長だとまずいの?)

何日かして
「傷がふさがったら、このホッチキスの針を抜くのですが、その時ちょっと痛いかもしれませんが、我慢してね」

ふー。つくづく“痛い”話でした。(ー_ー)!!



2004-02-18 ことわざ、格言オンパレード

先日、外を歩いていたら、ちょっと変わった社員募集の広告を見つけました。
町工場(たぶん)の入り口の壁に、「社員募集」そしてその下に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と書いてあるのです。大きなところに所属してビリに甘んじるよりも、小さなところでのトップを目指しなさいという事ですよね。
自分で言うとおり、本当に小さなひなびた町工場だったけれど、何だか頑固親父の負けん気のようなものを感じて、ニヤリとしてしまいました。

私の父は、昔の人で、私は、古いことわざや、格言をわりと日常的に聞いて育ちました。
そのせいか、何かの時、たとえば、ピンチにたった時などは、「人事を尽くして天命を待つ」など父に言われた事がふっと浮かんだりします。
この「鶏口・・」も子供の頃に、父から聞いた気がします。
期せずして、踊りの上では、わりあいと小団体に属してきた私にとっては、何だか親近感のある言葉であります。
大きな団体にも行ってみて、やはり自分の好きな振付をする先生を選んで踊ってきた事で、その後の自分にとってプラスに働いたことがいろいろあるからです。

様々な作品を躍らせてもらった事で、自分の引き出しも増えたし、先生に近いところでいろいろと勉強させてもらった事もあるし、自分のスタジオを持つことや、公演を主催する上で重要なことも学ばせてもらったと思っています。
「虎の威を借る狐」で、楽をできなかった分、一人で立った時に必要な力をつけてもらったと思います。

ただスタジオを開き、ある意味、鶏口≠ニなった今、「お山の大将」になって努力を怠ったとき、「井の中の蛙」という落とし穴が待っているのでしょうから、せいぜい自戒して・・・。
あっ!「不言実行」、口はいいから努力しろという事ですね・・。爺クサクて、失礼シマシタ・・・。



2004-02-19 メイクアップ(舞台化粧)の話

今は、高校生が、すでにしっかりメイクして歩いていたり(つけまつげまでつけていたり)、大学生ともなれば大抵の子が、きちんとメイクしているのが普通ですが、私は田舎の?しかも規則の厳しいミッションスクールでしたし、私本人が、洒落っ気のほとんどない方で、メイクを始めてしたのが、踊りを始めてから、なんと舞台化粧だったのです。

で・・・最初はそれはスゴイ事になっていました。
先輩には、「YUKOのは、メイクアップじゃない、メイクダウンだ、メイクしないほうがよっぽどかわいい。」と言われてしまうし、自分でも顔を見ると、かなりの不気味さに、呆然とするほど、何がいけないのかさえ判らなかったほどでした。

顔を見ると、直して来いと言われると思い、(直しようもなかったので)なるべく本番までは、顔をふせて逃げるようにしていたのですが、(今考えれば、そんな顔で舞台にのってしまうとは・・・)まあそれも回数で、すこしづづ先輩や先生に直してもらったものをやってみたり、慣れで手際がよくなったりして、まともなメイクができるようになりました。

だいたい踊りが上手になるにつれて、普通メイクの腕も上がるようで(ただキャリアの問題かもしれないけれど)
先輩のダンサーの中には、素顔を見て誰かわからないほどの実力の持ち主もいました。
(えーっ!舞台であんな美女なのに、ホンとはこんな糸目なの〜!)
お醤油顔のほうが、変わるんだよねー。

これは、余談ですが、メイクの時のファンデーションって濡れたまましまわない方がいいですよ。
私のジャズの先生は、生徒にメイクを教えようと、講習会で、見本になる子の顔にファンデーションを塗ろうと、ふたをあけたら・・・・
その表面には、一面真っ白な3センチもある綿のような、カビが!
「せ・・・先生・・私のを使ってください〜〜」
うわっー!
皆さんも気をつけて下さいね。
(って、今自分のメイク道具確かめに行ってるでしょう?)



2004-02-20 なり切りモード

長いこと踊っていると、自分の踊った作品のビデオというのも増えてきます。
が、私はジャズダンスの発表会での初舞台の時は、ビデオデッキをもっていなかったので、(昔の事ですから・・;)ビデオがないのですが、その数年後のものというのを、たまに引っ張り出して見ると、それはもう怪奇以外の何ものでもありません。
「ひっこめ〜ヘタくそ〜何考えてるんだ!恥を知れー!」
と、ひとしきり狂乱した後、冷静になってくると、何となくあんなに下手くそなのに、楽しく踊っている自分がいとおしく?なるのです。

形はかなりメチャクチャ、体の癖も山ほど、思いっきり引き下がっているのに気分だけは一人前、というのが昔の私で、それは発表会などの舞台に乗った時に限らず、レッスンのコンビでも気分はいつも何かになり切っていて、曲に入り込んで踊っていたように思います。
ある時自分でさずがに、どこか違う・・・
どうやら、体を作り直さないと本当にカッコよくはなれないらしいと気がついて、クラシックやモダンで基礎を学び、よい先生にめぐり合い、ジャズを踊る時も少し冷静に、ラインを研究したり、正しい体のポジションに入ろうと欠点に気を付けたりするようになったのです。

ですから、正直を言って最初教え始めた頃は、感情が入らない人なり切りモード≠ノ入らない人が不思議でたまりませんでした。
「この曲で、こういう振りだったら、自然とこういう顔にならないのかな〜?」
しかし、世の中はいろんな人がいて、たとえば本人は入り込んでいても、外から見ると入り込んで見えない人もいるし、その前に恥ずかしさや(これが私にはなかった・・・)、形やカウントが気になって、自分が出せない人とか、いるんですよね。
また、私が基礎的な体の使い方を、後になってから苦労して覚えたので、みんなには苦労しないようにと、最初から細かく言い過ぎるのかもしれないし・・・。
何かがキッカケで、ガラッと踊りが変わってくる事もあります。
ほんの一瞬でも
「今この人は気持ち良く自分を出しているな」という瞬間があったりすると、皆の踊りを見ながら、私は内心(しめた!)とニンマリしているのです。



2004-02-21 なり切りモード∞A

なり切る≠ニいったら、私の所属するスタジオの仲間たちは、得意中の得意で、おーい戻って来い!といった入り込みやすい$lがたくさんいました。
私のジャズの先生は、細かい体の使い方や、注意はあまりしなかったけれど、のびのびと自分を解放して踊らせてくれるという意味ではピカ一だったような気がします。
(或いは、のりやすい、入り込みやすい人ばかりが集まったのかもしれませんが・・・)

入り込む≠ニいったら思い出す、ある作品があります、舞台の中央においた一脚の椅子を一人の男性に見立て、その椅子にからむ十一人の女達といった設定で、最後には主人公の一人の女性が男性をとられてしまい、失意のあまり狂ってしまうというストーリーでした。
ちなみに私は、彼女から直接的に男性を奪う悪女の役でした。
曲の最後には、椅子の周りに主人公の彼女を除くほかの十人がはべり、そのままセリで奈落へと消え、舞台上に一人残った彼女が、泣き笑いをするといった振付でした。

リハーサルを重ね、ある時、曲の終わりで、椅子を囲んでうじゃうじゃいる私たちが、ふっと彼女を見ると、踊りながら本当に泣いているではありませんか。
(うわっ!Nちゃん(主人公をやった子)ホンとに泣いてるよ〜)
皆一瞬ドキッとしてしまいました。
先生もちょっと困ってか、「では、休憩」という事になりました。何となく、声もかけずらい雰囲気・・。彼女も気分をひきずってか、暗〜い。
大分たってから、Nちゃんは、日常に戻ってきたのでありました。

・・・という事があったりして、いよいよゲネ。
ラストの部分は、セリが降りるので舞台上には、穴が開くわけです。
曲でのリハーサル、ラストの部分になると、先生が、マイクで、
「N、穴があいてるよ。気をつけて!大丈夫?」
とかなり心配そうです。
後で、Nちゃんは、「別に本当に狂ってるわけじゃないんだから、その位見えてるよ。」
と笑っていましたが、リハーサルで大泣きしていたNちゃんを見た先生は、気が気ではなかったのだと思います。

しかし、実は危険だったのは、残ったNちゃんより、セリにのった私たちの方でした。
セリといっても、乗ったのは小ゼリで、奥行きは、約1間位(1.8メートルくらい)で、それはそれは、狭いのです。
そこに、椅子に絡んでのポーズで、十人が組み合わさっているのですから、自主練習で、私たちが何を練習したかってこの位置取りです?!
場ミリテープでしきって、枠の中で、誰の足の間に誰の足を置いて、ここに重なって・・・とそれは大変でした。人口密度高すぎ・・といった感じです。
私は、椅子の背中側に後ろ向きに立って、椅子を後ろ手にさわりながらそるポーズでしたが、本番(練習通りの位置に入ったのに)セリが降り始めると、鼻のすぐ先を壁が移動していき、
「鼻がそげるよー!」
といった状態でした。こわかった・・・。

まあいろいろと想い出のある作品です。



2004-02-22 重い荷物

毎朝家を出る時、ため息が出るのは、リュックの重さです。
何でこんなに重いの〜?
漬物石か米俵、といった重さです。
入っているのは、カセットテープにCD、稽古着、ウオームアップの衣類、それとあと何がこの重さの原因なのかしら?
キャリーバッグなども試してみましたが、バッグ自体が重いし,かさばるので、二の足を踏んでしまいます。
結局、重ーいリュック。
私って本当に肉体労働者だと思います。

遠い昔、中学生になった時、やはり学生カバンがあまりに重くて泣きそうでした。
最初、私はまじめにすべての教科書、辞書、ノート、お弁当まですべて学生カバンに詰め込んでいたため、その重量は、ある時計ったら、7キロ以上もありました。

そのうちに要領をつかみ、教科書は、学校におきっぱなし、ノートはバインダーにして使う分だけ・・と劇的にカバンの重量は軽くなったのですが、初めの頃にあまりに詰め込みすぎた私のカバンは、なんと底のマチが伸びてしまって、まっすぐ立たないカバンへと変貌していました。
洒落っ気のある人は、みんなカバンに熱湯をかけてマチをつぶすのが流行った時代(皆さんもやってました?)・・・
私のカバンはある意味有名でした。^^;

中・高校一貫教育のミッションスクールで規則が厳しかった私の学校では、校門に先生が、ものさしを持って立っていて、カバンをつぶしていないか、スカートを長くしていないか(長いのが流行りでした)教科書を学校に置いて行っていないか、などチェックが入るのでした。
私は、見た目、ダサダサで、まじめ優等生(その実は、ただやる気のない、事なかれ主義?!)だったのでチェックも入らず、通してもらっていたのです。
特に、カバンは、つぶした薄いカバンの対極、何も入っていなくても、ふくれて丸いカバンだったので、大抵の先生は、開けてみろとも言わず、ノーチェックでした。
ところが、ある時妙に勘の鋭い先生がいて、開けるように言われてしまいました。
中に入っていたのは、薄っぺらい音楽の教科書っきり。
「今日の時間割を言ってごらんなさい」
「えっと、音楽と、体育と、美術と・・」ってそんなわけないか・・。(^^ゞ

教科書を置いていく事に関しては、懲りずにこのあともピンチに陥りました。
試験の前は、カンニング防止のためか、私物一斉持ち帰りというのがあったのですが、運悪くその日に、私は学校をお休みしてしまったのです。
次の日の朝、案の定「職員室へいらっしゃい!」
や、やば・・・
私の私物すべては、先生の手によって大きな紙袋の中につめられ、先生の机を占領していました。
置いていった教科書、ノート、プリント類、そしてごみも・・。
先生は、怒る気力もないようで、ため息をついて、
「あなたこれでいったいどうやって家で勉強してるの?」
それにも懲りずに空のカバンをかかえて、通学していた私・・それ位重い≠フが嫌いだった私ですが、今となっては、踊りのためならエンヤコラと、重いリュックをひっかつぎ、今日も出かけていくのです。



2004-02-23 ピアノの先生の家

私の母は、前にも書きましたが、ピアノ教師で、家でピアノを教えていました。
「いいわねぇ、家の中でピアノの音がするのって。」
そんなこと思っているそこのあなた・・・
「大間違いなのだよ。明智君、フフフ・・・」(・・っていつ、怪人二十面相に?)

うまいピアノがさらさら聞こえるまどろみの午後≠ネんかを想像してもらっては、困るのです。
つっかえたり、間違えたり、同じ所を何度もさらうのが、レッスンというもの、まして生徒さんは、子供がほとんど、聞こえる曲は、バイエルやチェルニー、どんなにきれいな曲だってあまりに何度も聞かされればキライになります。
現実は、そう甘くありません。
しかも近所の子供、同級生なんかが来ていたりすると、私もその子も意識するから、顔を合わせられない。
コソコソと隠れるように2階の自分の部屋へ引っ込むか、カバンを置いたとたん家を飛び出すしかない。
ピアノの先生の家の子供も、結構ラクじゃないのです。

さて、私もピアノをやっていたわけですが、親にピアノを習うと、甘えがでるし、けんかになるからと、小学校に入るとすぐに、別のえらい?先生に習いに行かされていました。
夫婦ともにピアニストというその家は、門から玄関までが遠いような豪邸で、家にはピアノが7台、夫婦別々のレッスン室、もちろん防音。
先生のピアノもグランドピアノ、生徒のピアノもグランドピアノ。
地方からコンクールを受けるようなお姉さんが新幹線でレッスンを受けに来たりしていました。
相手が子供だからといって、特に優しく接するというわけではなく、淡々とクールに教える女の先生でした。

ある時、広い玄関にさっと横切った黒い影が・・・。
「あっ、ゴキブリだ!」思わず口走った私に、先生は、照れくさかったのか、にこにこしながら、
「あらごめんなさいね」と、それはそれは、素早い動きで、ごきぶりをとらえるとスリッパでむぎゅっと踏んづけたのです!
つ・・強い、さすがでした。

その先生の生徒さんは、大部分が、音大受験の学生で、弾く曲も難曲ぞろい。
防音もしてあって、その頃の我が家のようにつつぬけというわけではなかったけれど、コンクールの時期などは、二階の、だんな様の先生のところでも、下の先生のところでも、同じ曲をやっていたりしました。
それが一日中ともなれば、やはりまどろみの午後≠ニいうわけにはいかないでしょう?!

やはりピアノは、コンサートかCDで聞くものだといえましょう。



2004-02-24 学級会・生徒会

私は人の前でしゃべるのが大好きな子供でした。
小学校の授業などでは「先生、あてて!あてて!一生のお願い!」を連発していたし、何よりも好きな時間は学級会。
しかし学級委員になることが多かった私は議長か副議長。
人をあてる役で、自分の意見が言えなくてかなりの欲求不満。
どうしても しゃべりたい時は、副議長の男の子に「あてて!あてて!」とやっていました。

ところが中学に入ると、ガラリと環境も変わり、何しろまわり中が女の子ばかり。
先生も年季の入った?!女の先生が多く、調子が狂った私は、若干“無気力モード”に入っていました。
友人も最初にできたグループと、深く狭く付き合うといったタイプで、特に人の前でしゃべにることもなく“学級会好き”もなりをひそめていました。

4年生(高1)になった時、担任が男の先生に変わり、たぶんその先生と波長があったのか、急にまた私はのびのびとし始めました。
ホームルームでも「あてて!」病が再発し演説をぶったりしていました。
そんな私を買ってくれた先生のすすめで、生徒会役員の正議長なるものに立候補となったのです。
ちなみにこれは生徒会長ではなく、生徒総会の議事進行をする係でした。

講堂での選挙演説会があったり、昼休みには1年から6年までの教室を選挙演説して回り「清き一票をお願いします」とか言って、いわば“選挙ごっこ”です。
対立候補は実はかなり手ごわく、純粋の内部進学組(幼稚園からずっとうちの学校)で、おとなしいお嬢様タイプでした。

そしていよいよ選挙・・・。
みごと落選しました・・・(ToT)/~~~

結局立候補したような生徒は、生徒会活動にやる気があるとみなされ、生徒会役員、庶務部長というのを任される事になりました。
が、その頃私はダンス部に燃えていたし、縁の下の力持ち系の事務職は性に合わず、最低限ギリギリの仕事しかしなかった気がします。
全校に配るプリントの印刷とか、それもガリ版の時代で、印刷室のガチャコンうるさい印刷機のそばについて、紙づまりを直したり、生徒会の書記をやったりする仕事だったと思うのですが、あまり覚えていません。

そんなわけで人の前でマイクを使ってしゃべるという機会を失った私ですが、何となくアナウンサ−や司会者(今でいうキャスター)になってもいいかなと秘かに思ったりしていました。
実は大学に進学する際、実際に入学したA学院大学の他に、N大の放送学科にも受かっていたので、そちらにしていれば、もしかしたら、中退もせず、踊りもやらず、アナウンサーかキャスタ−に転進していた、、かどうかは・・・
わかりませんね〜〜(*^_^*)



2004-02-25 “ダンサー”という生き方

私くらいの年、あるいは、それ以上になってもレッスンを続けているダンサーは、みな一様に大変勤勉です。
雨が降ろうが、槍が降ろうが(それは、イタイでしょ)めったな事では、レッスンを休みません。
よく踊りを始めたばかりの人は、「えっ!先生になってもまだレッスンするんですか?」とか言うけれど、これは全く的はずれな発言で、踊りを含む“肉体鍛錬系”のものは、“知識系”のものと違って一度習得したからと言ってO.Kというわけにはいかないのです。
身体というのは、結構バカで、一度ついた筋肉もやらなければすぐ落ちてしまう。
結局は、踊れる身体を維持するには、絶え間ざる努力が必要なわけです。

で、レッスンに行くわけです。
むろんいくつになっても、発見もあるし、向上もある。
ただ、若い頃と違って、みんなそれぞれ腰や、膝や、様々な故障をかかえ、満身創痍、生まれつきの恵まれた身体で故障の全くない人でも、加齢によって衰えていく肉体との闘いなわけで、その様は端から見れば、一種“壮絶”でさえあるかもしれません。
でも、やめることはしない。(むろん好きだから、なのですが)やめてしまうことは、そのダンサーにとって自分を捨てることだからです。


そんな事を考えていたら、前に読んだ「雪蛍」という大沢在昌のハードボイルドを思い出しました。

主人公佐久間は、妻を亡くし、死というものの恐怖を始めて実感し、探偵という職業を捨てました。
それが、ひょんな事から巻き込まれた事件で、ヤクザからの妨害にあい、痛めつけられて、あらためて逃げていた「自分」というものを見つめなおすのです。
ここで引いてしまうことは、自分というものを認められなくなることだと。
探偵というのは、自分にとって「職業」では、なく、他と関わりその中で、自分の存在意義を確かめる、「生き方」なのだと。

「職業」ではなく、「生き方」である。
これこそが、ダンサーがいつになっても踊り続ける由縁なのではないでしょうか。
大部分のダンサーにとって、自分の身体とむき合うことは、「生き方」であり、人生のエネルギーそのものなのです。
自分を信じる事、自分にとっての誇り、それこそが、ダンサー(私も含めて)が、いつまでも自分のレッスンに励む理由なのです。



2004-02-26 バレエのレッスンピアニスト

私が通っている、クラッシックバレエのレッスン、朝のクラスは、毎回生のピアノ演奏で行われます。
スタジオによっては、テープでやったり、一人の決まった専属ピアニストでやったりするのでしょうが、そこのレッスンは、曜日によって毎回違う人が来ています。
当然ですが、人によって全く違っておもしろい。

まず、選曲からして全然違います。
アレンジができるベテランさんだと、ジャズのスタンダードナンバー(A列車で行こう、とかテイクファイブとか・・)を3拍子にアレンジしたり、映画音楽(スターウオーズで、バットマンをやったりとか、千と千尋の曲や、シカゴのナンバーとか)やそれはバラエティに富んでいて楽しいし、かと思えば、いわゆるバレエのレッスン用のきれいな曲を、淡々と弾き続ける人もいます。

それからテンポのとり方で、もちろん基本的なテンポを崩さないのは当然ですが、先生の要求「少し早く」とか、「もう少しゆっくり」とかの指示にすぐ答えられる人、なかなか気づかない人?!・・。
あと、すごいのは、自分から踊りの振りに応じてねばったり、アクセントをつけたりするのです。
音が、ダンサーをリードするというか、無言の圧力で、
“もっと長く、高く立たんかい?!”とか言われてる気がします。
(バレエをやった事があるか、よく知っている人なのでしょうね)
ここまでくると、キャリアのあるダンサーは、何とか踊りの方が、音を引っ張ろうと、
“まだ立てるから、ちょっと待ってな!”といわんばかり。
そんなシビアな「女の闘い」が繰り広げられたりしています。

私は、このベテランさんが、面白くて好きなのですが、仲間バレリーナの中には、運動会みたいな曲を弾くからイヤとか、気にならないように、淡々と弾いてほしいという人もあり、なるほど、好みは人それぞれだなと思います。

私がモダンを習っている先生は、私が昔ピアノを弾いていたのを知っていて、
「YUKOさん、レッスンピアノ弾いてよ」
などと冗談で言ったりするのですが、アレンジなんかできないし、だいたいもう20年くらい弾いてないから弾けないし、もちろん踊っている方がいい!
バレリーナたちが、結構影で、「今日のピアノは・・・」
とかピーチクパーチク言ってるのを聞くと、レッスンピアニストも大変だーと思います。
バレエの先生の中には、ピアニストを、「君が、そんなつまんないピアノを弾くから、皆が踊れないんだ」
と叱りとばす人もいるそうで、ますます大変です。

私としては、踊りがうまくできようが、できなかろうが、やはり生の演奏は良いもので、一種の癒し効果は、抜群です。
そういう意味でも、様々の勝手な感想にも負けず、今日もピアノを弾いてくださるピアニストさんたち、お仕事とはいえ、本当にありがとうございます。m(__)m



2004-02-27 こわいもの

小さい頃って“こわいもの”がいっぱいあった気がします。
私がまずこわかったのは雷です。
「地震・雷・火事・親父」といいますが、もちろん地震もこわいのですが、そうしょっちゅうは起こらないし、親父はぜ〜んぜんこわくなかったし、やはり雷です。
音もこわいし、光もこわい。
入道雲が発達すると夕立になって雷になると知ってからは、入道雲もこわかった。
今?いまもキライはキライだし、こわいけれど、昔に比べたら全然大丈夫になりました。

それは、あるキッカケがあります。
中学3年の、ダンス部の合宿で下級生をつれて夕食の買出しに出た時のことです。
急にあたりは真っ暗。かなり激しい雷雨になってしまったのです。
買出し部隊の中で上級生は私一人。
下級生はこわがって、何と泣きべそをかいてる子も・・・。
ここは私がしっかりしなくちゃ・・・と、皆を軒下に避難させ、全然こわくない振りをしてがんばったのです。
それ以来、何となく少し平気になりました。
危機の時に一人だったらパニックになる人が、教師だったり看護士だったり母親だったりすると、思わぬ力が出るという、心理学でいう“役割人格”ってやつですかね・・・。

もう一つこわかったのは“点々”です。
小さい頃、熱を出すと空中に小さな点々が見えてこわいと泣いていました。
どういう現象なのかわからないのですが、自分でもおぼえています。
それで細かい点々の集まりが今でもキライです。
衝撃を和らげるためによく包装に入ってる空気の入ったブツブツがたくさんあるビニールってあるでしょう?
あれのブツブツがキライ!
(ブツブツをつぶすのが好きな人がよくいるけれど・・・。)
同じ感覚かわからないけれど、友人に水玉模様がこわいという人がいました。(私は水玉模様はまだ大丈夫)
TVの天童よしみが出ている「のどあめ」のCMで、細かい天童よしみが画面いっぱいになるのがあったでしょう?あれイヤです!
こわいし、気持ちわるい(天童よしみが、というわけではないです)うっかり見ちゃって後悔したりします。

考えてみると昔は“こわい”という感覚だったのが、今はキライだったりイヤだという感覚になっていますね。
人に怒られて“こわい”思いをする事もあまりなくなったし、地震や雷もあったら“イヤだ”けれど“こわい”というのとはちょっと違ってきている。
昔の人は天変地異や自然を恐れてうやまう気持ちを持っていたのに、今は科学で解明して、一つずつそういった存在がなくなってきている、というのといっしょかもしれません。
世の中こわいものなしの“おばさん”にならないように、謙虚な気持ちを忘れないようにしなくちゃ、と思います。

ところで、私は“こわい”先生なのでしょうか?(ー_ー)!!
前に「動物に例えたら何?」と生徒に聞いたら、
「ウサギ、、、とか、小動物かなぁ?!」と言われてちょっぴりがっかり・・・。
本人的には、トラ!とか龍とか、もう少し恐い動物を想像してたんですが・・・そんなわけないか。
ウサギはウサギなりに、これからもガンバるので、よろしくお願いしますm(__)m



2004-02-28 風邪

風邪をひいています。水曜日に病院に行って、抗生剤をもらったのに、どんどんひどくなるってどうして?
寝ていないからですね・・・。風邪は寝るのが一番なのに、寝ているどころか、踊っているんだもんねぇ・・・。

私の場合、いつもわりとすぐに咳が深く入って、げほっ、ごほっと胸が痛くなります。
私は、首が太くて気管が太いので、奥へ入りやすいんじゃないのとは、母の意見。
(ちなみに、私は錠剤なら10個はいっぺんに飲めます!
だから何なの?・・・)
マジに体も痛いし、結構参っているので今日はこの辺で。

P.S.風邪でボロボロの私に、栄養ドリンク、きんかん湯、を頂き、有難うございます。早く良くなりたいです。(T_T)



2004-02-29 呼吸のこと

風邪少しよくなってきました。まだちょっと具合悪いけど・・。

さて今日は、呼吸の話。
日常生活で、特に呼吸を意識する事って少ないですよね。
山登りで景色の良いところへ行って、深呼吸するとか、逆に具合が悪くて息苦しいとかいう場合の他は、いちいち今吸ってるとか、はいてるとか思いません。

踊りを踊っている時も、基本的には、今吸ってとか別に意識していません。普通に呼吸していればよいのです。
が、その普通が結構できていなかったりします。
ストレッチなどでイタイと、思わず息を止めてしまいがちですが、これはダメ。筋肉は、息を止めると固くなるしはくと
もう一つ柔らかく伸びやすいからです。
同様に、バットマンしたりする時も、ウッと息をとめるよりハッとはいた方が、固まって見えないでよいと思います。
水泳といっしょで息をはけば絶対吸うからキツイ時は、はくのを意識すればいい。
しかし、ジャズダンスには、いわゆる瞬発系の動きもあって、“息を止めてもなんでもいいから、ここ一発で止まらなければならないポーズ”とか、“う〜んと早い回転”とかは、やはり息が止まっていることもありますね・・。

音の流れに乗って、心の中で歌うように踊っていると、自然と呼吸も動きと一致してラクに踊れるというのもあると思います。
そういう踊りは、見ていてもラクに心地よく呼吸できる。
その逆で、踊る方が、息を止めて、これでもか、これでもかと踊られると、見ているほうも思わず一緒に息を止めて、息苦しくなったりします。

同じ息を止めるのでも、踊りのあまりのすばらしさに思わず観客が、「息をのむ」とか、「呼吸するのも忘れるくらい」感動的な踊りというんならいいけれどね・・・?!

群舞なんかを合わせる時、「息を合わせる」という言葉じゃないけれど、掛け声をかける事がありますね。あれは、大きな声をだすと、カツも入るし、息をはくから、次に同じタイミングで吸うから、そろっていいのでしょうね。

掛け声といえば、前に代講でいらっしゃった先生が、ステップ練習に入る時に、列の先頭に立って、ついてらっしゃいという意味で、
「5.6.7.うりゃー!」と雄たけびを上げたことがあってびっくりしました。
あまりの大声と、思いもかけないまさに、雄たけびだったので、後からついていくべき生徒の私たちは、一瞬唖然としてしまい、出遅れてしまい、その先生は一人で進んでいってしまいました。

うりゃーは、周りがびっくりするけれど、力が入って息が止まって踊りがぶち切れになるタイプの人は、心の中で、私がレッスンの時に時々カウント代わりに言うみたいに、ツートントンとかラーとか言ってみると(声をだしてもいいよ)少し流れて息が入るかもしれませんね。よかったらやってみて
下さい?!(^^♪



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