YUKO MASUMITSU JAZZ DANCE STUDIO

 2005年 1月


1月3日(月)  明けましておめでとう!

皆様、明けましておめでとうございます!!
昨年中は、いろいろと有難う。今年もどうぞよろしくお願いします。

さて、昨年の(もう昨年になっちゃうのね・・・)大晦日は、何と21年ぶりの雪の大晦日ということで、びっ くりしましたが、ディズニーのカウントダウンは、無事行われたとの、報告メールがMちゃんから入り、しかも 本人的には上出来ということで、ホッとしました。
よかった、よかった・・・。(*^。^*)
しかし、寒かったでしょうね。(>_<)
そういえば、フランスのRISAから、クリスマスカードが来ていて、フランスは“何じゃこれは?!(-"-)”と いう位、寒いそうです。
フランスで、このHPを見ていてくれるそうで、何か不思議で、嬉しい。
インターネットってすごいね〜。

一転して、元日はとてもいいお天気。
我が家恒例、母親親孝行?映画大会ということで、今年も映画に行ってきました。
毎月1日は、映画デーで、1000円で見れる(知ってました?)ということで、元日も1000円です。
母の希望で、今年は、「ハウルの動く城」。
宮崎監督のジブリ作品で、結構おもしろかったけど、空中戦争シーンが多く、大音響と閃光で、ちょっと疲れた ・・・。
魔法で90歳のおばあさんに変えられてしまった娘の声を、倍賞千恵子がやっていて、その声の変化はさすがな ものがありました。
キムタクも、いつもの個性はあまり出ていなかったけど、正統派アニメの二枚目という感じで、よかったです。

帝国ホテルの隣にある、ブランドショップばかりが入っているビルでお茶したのですが、お正月値段か、いつも そうなのか?コーヒー1000円!!でした。
しかも、ブランドショップは、バーゲンで半額でも、10万のコートとか、ドレスばかりで、誰が買うんだろう ??

二日は、母は教会でオルガン弾きのお仕事ということで、私は、浅草に行ってきました。
浅草寺で、超満員電車状態のお賽銭箱付近で、いきなりしゃがんでいるおじさんがいて、将棋倒しになりそうで 焦っていたら、何と、床に落ちたお賽銭を拾っている浮浪者!!
“おじさん、危ないよ”と心配して損した・・・。(-"-)
警備員に怒られて行っちゃったけど、何とバチあたりな!!
しかし、お正月から、お金がそんなにないのかな・・・とちょっと寂しい感じもして、複雑でした。

あっという間にもうお正月も終わり。子供の頃の、あの妙な高揚感、お年玉ゲットに張り切ったイベント感はも うないけれど、それなりにやはり、心があらたまるものがあります。
今年も、私なりの思いをぼちぼちと綴って行きたいと思いますので、皆様、どうぞよろしくお願いします。(~o~)



1月4日(火)  “火を起こせない子供”の話 @

今日は、新年早々、ちょっぴり真面目な話です。
あまりに長くなったので、前編、後編で掲載します。

昨日の朝のTVに「バカの壁」の養老先生が出ていました。(私はあいにく、未読なのですが・・・(^^ゞ)
今の子供の学力低下について聞かれたら、こんな事を例に出して話していました。
例えば、火を起こすとして、普通、炊きつけの紙と、細い木、太い薪とあったら、紙に火をつけて、細い木、太 い薪と順に入れていくのを、今の子は、太い薪を一番上にして、“つかない〜”と言う、とこぼしたら、知人の ボーイスカウトの先生が、“そんなのいい方です”と言ったそうです。
“僕が全部火を起こして、薪を取ってくるから、「火が消えないように見ていて!」と言い残して行って帰って きたら、火が消えている。今の子は、消える火を本当にただ見ていて、消えそうな火に薪をくべる事も、思いつ かないんですよ!”

先生によれば、学力低下で、どうしたらいいか、と言われたら、物がボタン一つで動かなかった不便な時代に戻 す事だね、と答えるそうです。
確かに、たった?!数十年前、私が子供の頃と比べても、生活はどんどん便利になって、人間が自分の手で、自 分の頭で考えてしなければならない事は、どんどん少なくなってきています。
私の子供の頃は、まだ、ローラーの間に洗濯物をはさみ、手でハンドルを回して絞る、脱水機つきの洗濯機って ありました。
見るなり原理もわかるし、なぜ濡れたものがある程度乾いて出てくるかが、自然にわかる。
今は、ボタン一つ押しておけば、すべて終わってしまうから、例えば、脱水機が使えない状況になった時、端と 端をもって捻れば絞れる、とか思いつかない子供もいるでしょう。
創造力を働かせる機会をどんどん奪っておいて、今の子には、創造力がない、と言ってもダメなんだ、というよ うな事も言っていました。

私が子供なんかを教えていても、少し前の子供は、レッスン前もどこからかボールを見つけてきて、学年、学校 を超えて、勝手に遊び始めていたりしたものですが、今の子供は、個々に漫画を読んでいたり、持って来たゲー ムをやっていたり、おとなしく座ってぼおっと始まるのを待っていたり・・・。
漫画や、ゲーム、ある一定方向、与えられるだけのコミュニケーションしかとれない子供が増えているのかもし れません。
不便な生活の中で、いろんなアプローチを考えたり、横のコミュニケーションの中で解決策を発見したり、とい う事の中で、生まれる“創造性”が欠けて来ている、としたら、どこかでそれを補う方向性を考える時期に来て いる、に違いありません。(-_-;)
(“火を起こせない子供”Aに続く)



1月5日(水)  “火を起こせない子供”の話A

さて、昨日の続きです。
いったい何故こんな事態になったのでしょうか。
結局、合理性、速効性のみ、便利のみを求める過程で、あまりに「すぐ役に立ちそうにないもの」、「寄り道」を切り捨てすぎたんですよね。
ボタンを押せば、すぐ結果が出る生活の中で、子供を育てていく親も、目に見える早い結果を求める。
成績に関係しない、部活動や、習い事なんて「無駄」だから、と切り捨てる。
子供自身も、過程がまだらっこしい遊びや、人間関係よりも、刺激と一定方向のみの反応で楽しめる合理的なTVゲームなどの遊びに走る。
しかし、実は一見、旧時代の遺物のような、“部活動”の上下関係や、肉体トレーニングや、プロになるわけでもないなら“不必要”な、“お稽古事”などの中で、得られることはたくさんあるわけです。
がまんする事だったり、礼儀だったり、何かに打ち込んだ先に得られる喜びだったり、どんな事にも潜んでいる奥深さだったり・・・・。
そして、そういう事の有難さがわかるのは、大分時が経った大人になってからだったりする。

社会的にも、実はそういう事は、少し前から訴えられていて、皆きっとどこかで少しずつ、「あれっ?」と気付きだしているのですよね。
「スローフード」、「スローライフ」なんて言葉が、流行ったのもその一環でしょう。
効率、経済を第一に考えない、手間や一見寄り道、無駄を尊ぶ思考は、あまりに無味乾燥、効率主義になった便利な生活への警鐘でしょうけれど、「流行のライフスタイル」と流してしまってはいけない、本当に危険な状況まで実は来ているのだと思います。
そして、大人の在り方を直接的に反映し、“火を起こせない子供”はどんどん育っています。
“詰め込み教育”がよくない、じゃあ、“ゆとり教育”だ!と方向転換したはいいけれど、学力低下の結果にあせっている現在・・・。
学校教育はもちろんですが、一人ひとりの親、そして大人が、信念を持って、子供に接していかない限り、“ゆとり教育”で生まれた時間が、結局は塾通いへと費やされるという矛盾は解消されません。

“効率”や、“目に見える結果”を芯とするのではなく、各自が自分の中の“感性”、“信念”を“芯”に持つ事。
大人自身も、“不必要“に目がとめられる人である事。
可能性をいっぱい持った一人ひとりの子供の可能性をつぶさないように、“寄り道”ができる大人、待てる大人になる時なのではないでしょうか・・・・。(-。-)y-゜゜゜



1月6日(木)  本能の神秘

インド洋大津波の時、タイで観光客を乗せていたゾウが、津波の起こる直前、近くの丘に向かって疾走し、背中に乗せていた観光客の命を救っていた、という記事が新聞に載っていました。
ナント・・・!!(~o~)
他にも、やはり地元で飼われていた牛が、津波の前に突然脱走し、それを追いかけた村民の命を救ったと言うニュースもありました。
やはり、自然の生き物の本能は素晴らしい。
人間だって生き物の一つ、おそらく文明がこんなに発達する前には、そういった本能を絶対に持っていたはずなのに、どこかでなくしちゃったんだねぇ・・・。
例えば、情報をインプットし、分析し、その可能性によってされる地震予知の分野。
最近は、かなり進んできたと言っても、たぶん動物の本能による予知にはかなわないのかもしれません。

現代社会で、毎日の生活に追われていると、地球上の一生き物として自分、ただの一人の人間というスタンスを見失いそうになります。
暖房、冷房など空調の完備された部屋ばかりにいると、季節の変化さえあまり実感しなくなる。
それでも、私などは、まだ比較的田舎に住んでいて、駅まで自転車で疾走?する中で、頬を切るような風や、満天とはいかないまでも、瞬く星や、雪が凍って(大晦日の雪が根雪?と化して、我が家の前の坂に残っているのです・・・(>_<))できた氷の山の踏み心地、雨の振る前の湿った匂いや、どこからともなく流れてくる花の匂いなどに接する機会がある方かもしれません。
1年中自分の部屋だけで暮らす“引きこもり”の青年なんかは、たぶん、自分が地球上に生きているというスタンスなんかは、思っても見ない、感じられないんだと思う。
本能を想いだす、までは行かなくても、他の生き物達と同じ、空や海や、山や野原を共有している(アスファルトがどんなに増えても)人間の中の一人だというスタンスを、せめて忘れないでいたい・・・。
ゾウや牛に尊敬の念?!を覚えつつ、ふとそんな事を考えました。(^ム^)



1月7日(金)  大草原の写真

年末のある日、帰宅して、何気なくついていたTVの映像にくぎづけになりました。
NHKスペシャルか何かで、大草原の中の野生の狼の映像でした。
それを追いかける、自然写真家“ジム・ブランデンバーグ”という人の特集のようでした。
それが、もう思わずお茶を飲む手がとまるくらい、惹きこまれるものでした。
どこまでも続く、北米のプレーリー(大草原)の中で、ジム自身が出す、狼の声。(それが、もう本当に狼としか思えない・・・)
その声に、反応してどこからともなく、本物の狼の返事が返ってくる・・・。
やがて、遠くに姿を現した二匹のツガイの狼。
その辺りのリーダーとリーダーの妻である狼は、堂々として、まさに草原の主として神々しいまでの威厳があり、その眼差しは、すべてを理解しているようでもあり、本当に美しかった。
そして、全くの野生の狼の写真を取るために、ジムは気配を消して、山小屋に潜むのです。

その他にも、ジムの撮った何枚もの写真は、一枚一枚が、命と自然の輝き、神への感謝や、地球への愛が感じられるような、芸術作品、絵画のようでした。
大草原に沈み行く夕日、露をたたえた野の花、見る人間の心を見透かすような野生動物の目・・・。
行った事のない北米の草原にいて、その風や、日差しや、空気、草の匂いを感じるような様々な写真・・・。
普段、そんなに写真などに興味のない私ですが、本当に感動してしまいました。

昔、私が子供の頃、NHKのTVドラマで「大草原の小さな家」というのがあって、(私は、その中に出てくる活発な次女ローラに似ていると言われていたのですが・・・)まさにかつて、開拓者がアメリカで希望に燃えて暮らしていた頃の、大草原(プレーリー)はこんなではなかったか・・・という自然。
しかし、実際、かつてアメリカのいたるところに広がっていた草原は、どんどんと開拓されつくし、農地へと変わり、今はそうした自然、そしてそこに暮らす野生動物は危機にさらされている、との事。
ジムが自分のルーツだと言う、大草原、そして野生の動物、植物、へと向ける愛、そして感謝は、見る私の心にスーッと沁みこんできたのでした。



1月9日(日)  “凛々しい子供“

新年早々、かなり寝不足で、心持ち?ぼーっとしていたレッスン前の時間。
朝もはよから、空手クラスの子供達が、元気120パーセントで狭い通路を駆け回る。
見ているだけで、目が回る・・・(@_@;)。
子供って、何であんなにエネルギッシュなんでしょう!!

さて、人がいったいいつ子供でなくなるのか、考えてみるとわからなくなります。
よく、言われることには、
「あの人は、大人だ!」とか、「子供っぽい人だ」とか、大人が大人であることが評価される場合と、「いつまでも子供の心を失わない人」など、大人が子供らしい部分を持っていて評価される場合もあります。
昨日も、友人の一人が、「自分は、いつまでも凛々しい子供でいたい」という言葉を言っていて、その場合の“子供”は、たぶんよい意味の、“純粋さ”、や“打算のなさ”や、“ものをまっすぐに見つめる視線”などをイメージしているのではないかと思います。
確かに、人生を数十年も生きてくると、その人なりにそれはそれはいろんな事があって、それを一つ一つ乗り越え、いろんなものを見ざるを得ない。
その中で、いつのまにか、自分が本当に求めていることや、持っていた感性が薄れ、擦り切れて、それをごまかして生きていたのでは、いくら、周りに「大人」として評価されても、哀しいことです。

もちろん、長年生きてくると、イヤでも周りのものが見えてきたり、たくさんのものを抱えれば抱えるほど、失いたくなくなるし、傷つけば、傷つくほど、人を傷つけることに恐れもでてくる。
しかし、それでも、胸をはって、夢や理想をまっすぐ見つめ続ける、そんな姿勢にはたぶんしなやかなエネルギー、いつまでもみずみずしい感性が、必要なのだろうと思います。

他人を理解したい、受け入れたい、うまくやらなきゃという気持ちと、自分がそのために“我慢”するという気持ちには微妙な差がある気がします。
いろんな子と友達になれる喜びや、新しい発見にわくわくした気持ち、今目の前の遊びに、全エネルギーで向かっていった集中力、そんなものをたまには思い出すのもなかなか悪くないな・・・と思いました。(*^。^*)



1月10日(月)  “インド洋大津波で・・・”

インド洋大津波の被害の実際の映像が、最近またTVで流れ、その未曾有の被害の有様にあらためて震撼する思いです。

実は、年末、モダンの仲間の忘年会に出席予定の先輩から、急きょ電話が入り、
「ドタキャンで申し訳ないんだけど、ちょっと友達に不幸があって・・・今日は出られなくなっちゃたの。
」という事。
びっくりして、「そんなのはいいんだけど・・・?」
「それが、一人は確実にダメで、あと何人もダメそうなの・・・。ちょっと情報がわからないんだけど。」
と後は、涙声になってしまいました。
携帯で、電波も悪かったせいもあり、詳しくは聞けずに、とりあえず了解の意だけ示して電話を切ったのですが、後で、考えると、そんなに何人も友達がいっぺんに・・・という事は、えっ?!まさか?津波?
そうだったのです。
整体のグループのツアーで、仲間が20名、スマトラへ出かけ、そのうち助かったのは、先生を含めて4人だけ。
昨日、特に親しく、遺体がかろうじて見つかった一人の方の、お葬式に行かれたそうです。
見つかった遺体も損傷がひどく、1日に日本に帰国されたそうですが、日本で、ご遺体修復後、すぐに火葬にふされ、昨日のお葬式となったようです。
他のメンバーは未だに行方不明、状況から考えるとかなり絶望的だと言えましょう・・・・。
当然、その先輩はかなり意気消沈していましたが、じっくりと、かみしめるように、
「運命っていうか、助かる人は、まだ生きなくちゃいけない人なんだろうし・・・。もう、人間にはどうしようもないよね・・・。」
と言っていました。

他の先輩の話しによれば、インド洋の小さなある島では、昔から、「波が引いたら、一刻も早く山に登れ!」という言い伝えがあったそうで、(たぶん大昔にやはり、津波が来たんでしょうね)文明に毒されていない小さなその島では、島民がその言い伝え通りに、波が引いたのを見たとたん、山に上がり、被害にあったのは一人だけだったそうです。
やはり、先人の知恵を、迷信だとか言って、バカにしてはいけない。

忘れがちな自然の猛威を、思い知らされる事のやたらに多い昨今、思いがけず身近にその被害はあったのでした。(T_T)  



1月11日(火)  犬との出会い

私は、ずーっと長い間犬が苦手でした。
写真を見るとかわいいし、人が連れていて、抱っこしていてくれたりすればまだ大丈夫なのですが、散歩している犬とすれ違う時などは、私の方が迂回する位、“怖い”という気持ちがありました。
自分の家は、マンションで飼ったことがなかったし、さわったこともほとんどなかったのです。

それが、前に書いた、友人の家のピット(アメリカン・ピット・ブルテリア)以来、ちょっぴり変ってきたのです。
いったい何故だかわからないのですが、獰猛と言われる犬種ピットのその子と仲良くなって以来、散歩している犬を、自分から見れるようになったし、不思議とあんまり怖いという気持ちがなくなった気がします。
そうなってみると、いったい何であんなに怖かったのかわからないくらいです。

前は、散歩中の犬が、ちょっとリードを引っ張ってこちらに向かってこようものなら、じっとりと脂汗をかいてしまうくらいでした。
たまに一人で歩いている犬などがいると、(お願いだから、こっち来ないで〜!!)とお祈りし、目を合わせず、急に走りだすと、追っかけてくると誰かに言われたので、走って逃げ出したい気持ちを必死に抑え、そしらぬふりですれ違っていました。
“犬は、階段をのぼれないから、高いところに登れば平気だよ”と、子供の頃は誰かに言われたのを、ずっと信じていて、高いところは?と探したりしていたのに、普通に階段を登っている犬を見た時は、だまされた!!と力が抜けるくらいがっかりしました。
狭い道に、犬が寝そべっていた時は、通ることができなくて、回り道をしました。

今は、スーパーなどで飼い主を待っているお利口な犬などとは、わざわざ寄っていってそっとお話しをしたりします。
こちらが目を見ようとすると、ちょっと恥ずかしそうに目をそらし、知らん顔をしていると、ちゃんと私を探していたりします。
かわいい〜!!(^.^)
一応ペット禁止のマンションに住んでいるし、日中誰も家にいない事が多いので、今は飼えないけれど、そのうちいつかこの分なら、犬の飼い主になれちゃったりするかも・・・なんて思っています。(^ム^)

そして、友人の家のピットのあまりの愛らしさに、もう一人の友人はとうとう同じ母親から生まれた女の子を飼うことになりました。
昨日、とうとうその子がやってきたそうです。
あまり大きくなって、仲良くなれないと困るので、早いうちに一度挨拶したいなぁ〜・・・。(^.^)




1月13日(木)  音楽の公害

最近お友達になったKさん。
以前、子供に演劇を通しての情操教育のお仕事をしていたそうです。
その頃、そのプログラムに使ったり、BGMに使う音楽が、約2000曲!頭の中にインプットされていたそうです。
こんな曲ない?と言われたら、即座に当てはまる曲が取り出せる位!で、その能力を仕事にも、周りの人の役にもたてていたらしいのですが、そのうちに、音楽を楽しんで聞くことができなくなってしまったのだそうです。
家や、車の中での何気ないBGMや、街を歩いていてかかっている曲が、苦痛で仕方ない・・・。

そこまですごくはないけれど、その感じ、ちょっと私にもわかる!!
私も、ちょっと音楽を耳にすると、すぐ、これはこう振り付けられる、とか、クラスのコンビネーションに使える!とか脳が働いてしまうので、疲れてしまう。
TVのワイドショーなどのバックで使われている音楽なども、耳に入ると、あっ、この曲、前に使った!とか、(結構、ほんの一節だったりするけれど、映画のサントラなどから取ったりするらしく、私がコンビで使った曲なんかが、かかったりするんだ・・・これが・・・。)CMなんかでも、使った曲や、使いたい曲などがかかったりすると、つい脳がビビッと起きてしまう。
ですから、家などでリラックスしたい時は全く無音。
同じ曲の繰り返し、にも弱くて、街なんかに出ると、確かに音楽の氾濫に気持ち悪くなりそうになるのも、ちょっとわかるのです。
お店の売り子さんなんかは、その製品や、お店のテーマミュージックを1日ずっと聞いているわけで、心から同情するし、私にはできないな・・・と思います。

Kさんは、その後、そのお仕事をやめたら、いつのまにか、音楽を普通に楽しんで聞けるようになったそうです。
私は、もともとKさんほどではないので、他の事に神経が行っていれば(例えば、話しに夢中になったりしていれば)音楽を無視できるし、車のBGM位は流して聞けるので、日常、苦痛まではいかないけれど、街の中の音楽の氾濫、それも大音量の音楽の押し付けには、ちょぴり閉口したりするのであります。
本当に聞こう、と思って聞く、音楽の極上の喜びを楽しむためには、音楽の垂れ流しは敵なのではないか、と思うのでありました。



1月14日(金)  一枚の年賀状

毎年、毎年、年賀状の準備の季節になると、どうも気分が焦ります。
大人になっておつきあいも増えると、一枚、一枚、楽しんで、数限られた枚数を書いていた子供の頃とは違って、どうしても、半ば義務化して心を忘れがち・・・。
なるべく、負担を減らそうと印刷に頼る昨今、これでは、いけない、と相手の顔を思い出し、せめて一言くらいは心をこめて・・・と自戒します。
しかし、日頃お会いしている人と違って、年に一度、年賀状だけのおつきあいの方ともなると、いったい何を書こうか・・・本当に迷ってしまいます。
しかし、お正月の大きな楽しみの、一つである年賀状。
頂いた年賀状を読むのは、やはりわくわくします。

デザインや、イラストがとても洒落ているものや、手書きの達筆なもの、文章がとてもユニークなもの、に感心したり、友人の近況にびっくりしたり、お元気な事がわかり安心したり・・・。
このところ、かなり普及した、写真つきの年賀状では、友人の今の顔などがわかって楽しいのだけれど、かなり大きくなったお子さんの写真だけが載っているもの(これもやたら多い)などでは、これ、誰から?と思ってしまいますが、同じ年の友達がこんなに大きな子の親なのか・・・とびっくりもします。
そうした、楽しみな年賀状の中で、毎年、特に楽しみにしている一枚があります。
ジャズダンスのスタジオを主宰していらっしゃるある先生のものです。
昔、ウチの公演にご招待したらわざわざ足をお運び頂いたことがあり、それ以後は、ほとんど年賀状だけのおつきあいなのですが、その文章がとてもユーモアたっぷりで、毎年笑わせて頂いております。

ちなみに、今年頂いたのは、こんな数行です。
「昨年は、ダンス界のヨン様と騒がれ、大変でした。今年は、紀宮様の結婚式でお会いできますね。もちろん招待されているでしょう?」
さすが・・・・。
これを見習い、来年の年賀状に向けて、今から気の利いた一言を・・・なんて思っている私には到底及ばない、笑いの達人の、さりげない技なのでありました。



1月15日(土)  デルナちゃんとの出会い

わ〜い!!
友人の家に新しくやって来た犬、アメリカン・ピット・ブルテリアの“デルナちゃん”に会いに行ってきました! !

ブリーダーさんからの所から来て、まだ3日、というのに、すっかりリラックスして、(というか、好奇心とエ ネルギーの塊)はしゃぎまくっていました。
“わんこ恐怖症?”だった私のために、なるべく早いうちに面通し?をしてくれたのですが、心配ご無用、恐い という気持ちは、全くなく、めまぐるしく駆け回る彼女の魅力にすっかりはまりました。

人間の年にしたら、まだ5歳ということで、全くの赤ちゃんなのですが、やる事なすこと、本当にかわいい〜!
今、骨を夢中でしゃぶっていたかと思うと、何かの音に反応し、いぶかしげに首をかしげる。
押すと音の鳴る、ぬいぐるみのおもちゃを投げると、取る気満々なのですが、まだ動体視力がそこまで追いつか ないのか?一瞬探してから、飛びかかる。
本当にひと時たりとも、じっとしていないのです。

飼い主のO子さんが、デルナちゃんを残して、仕事に出ようとして、寂しくて鳴いていないか、家の外で聞いて いたら、鍵をかけ忘れた横のドアをちゃっかり自分で開けて、外に出ていて、「なぁに?」と首をかしげていた そうで、危ない、危ない。



先に、もう一人の友人宅で飼っている同じピットの、“アビディ君”(私が生まれて初めて仲良くなれた犬)と はすでにデートしたそうです。
最初あまり丈夫ではなくて、少しおっとりしている彼も、すっかりデルナちゃんペースに持っていかれ、早くも ちょっぴり“過保護モード”に入りそうだったO子さんの相方、F君は、心配のあまり、二匹を分けに入ったと の事・・・・。
しかし、次のデートでは、デルナちゃんはすっかりアビディ君を従えて、アビディ君はデルナちゃんの前でお腹 を見せていたそうです。
寂しがりやで、テーブルの下でいつも誰かの足にさわっているようなアビディ君に、やんちゃなお友達ができて 本当によかった、よかった・・・・。

あんなにかわいいと、本当に、つい過保護、甘甘モードになりそう。
そこは心を鬼にして、しっかりとダメなものはダメ、と躾けるのが大変そうです・・・。
F君、O子さん、頑張って、デルナちゃんをステキな犬に育てて下さいね〜!
(ごめんなさい、プ・レ・ッ・シャー!!か・・・??!)



1月16日(日)  「やればできる!」

雨の日曜日。
週末は、雪という予報は、雨になって、まぁよかったのでしょうが、寒い季節の冷たい雨というのは、どうも気 分が滅入りますねぇ・・・。
だいたい、昔から私は雨がキライで、小学生の頃、何でバレエのおけいこを辞めたかといえば、雨の日に一人で レッスンに行くのがイヤだったから!?という位です。
そうは言っても、今となれば、雨が降ろうが槍が降ろうが、踊りとなれば、黙々とどこへでも出かけていく自分 が少し不思議です。

さて、新聞に“早起きのすすめ”という記事が載っていて、早起きも早起き、五時起床が理想的だそうだから、 これはなかなかムリとしても、「起きるというのは、意志の力であり、早起きを成し遂げ、充実したサイクルを 繰り返すうちに、意志が強くなり、失敗や逆境にへこたれないほど性格も強く変化する・・・。」といったこと が書いてありました。
なるほど・・・。
私は、特に早起きというわけではないですが、朝の仕事だろうが、朝の自分のレッスンだろうが、オフだろうが 、起きる時間はわりと一定していて、それはその方が自分がラクだからなのですが、起きると思ったら、何時で も起きてやる、みたいな変な闘志みたいなものがあるのです。
そんな所で闘ってどうするんだ?!(~_~;)ということなのですが、そんな小さな事でも、自分にとっては、“や れば、できるんだ!”というちょっとした自信につながる、という感覚は無意識のうちにもあって、ちょっとこ の記事には納得・・・(^.^)といった感じでした。

自分でも、“いちいち闘ってどうする?”と思いながら、でも、自分と闘うことは他にもあって、それは、「乗 ると思った電車に何が何でも乗る!!」という事です。
他の事はさておき(さておくな!という意見もあるのですが・・・(^^ゞ)、時間にはかなり几帳面な私なので、 余裕を持てる場合は、早すぎるくらいに駅に到着しているのですが、レッスンとレッスンの間の時間の余裕が全 くない場合、移動の時間が本当にぎりぎりの場合、というのが週に何度かあって、その時こそが、私の「自分と の闘いの場」になるわけです。
重いリュックを背負って走るのは、かなりキツクて、途中で、あきらめそうになりながら、
「今気を抜いたら、電車が行ってしまうが、それでもおまえはいいのか!!」
と自分にカツを入れながら、よたよた(たぶん・・・(@_@;)走る。
間に合った時の充実感が、すがすがしい?!
傍から見たら、単なるバカ、全く意味のない行動のようですが、自分に何かを課してそれを成し遂げる快感とい うのは、どこか踊りにも通じる??(そのわりに、私は家で筋トレなんかは、全くしないんだけどね・・・)

かなり精神的なマゾ的な気もしますが、やればできる、やらなければ何も始まらない、そして、逆境にめげない 強い自分をめざして?今日も私は、闘う??のでありました・・・。(~_~;)



1月17日(月)  「やっぱり、やればできる!」

やればできる、というのは昨日のダイアリィのお題だったのですが、もちろんそれは確実に一つの真理、そして 、その影には“やってもすぐにはできない事”というのが確実に存在するわけです。
そして、この“やってもすぐにはできない事”にしつこくしがみつき、それがいつか、できた時に、実は初めて “やればできる”が重みを持ってくる事は言うまでもありません。
早起きや、電車に間に合うことなんかは、ごく短期間、短いスパンでのできごと、いわば、「集中力」の範疇で あります。
ポジティブなパワーを持って集中すれば、かなりの事は乗り越えられるし、そういう意志力が大切であることは もちろんですし、その積み重ねが、逆境においても強くなれる前向きなあり方に結びつくというのも然りであり ます。

しかし、この“やっても、すぐにはできない事”を持続してやり続けるパワーというのが、実はなかなかくせも の、かつ、ステキな事であります。
実の所、私は、踊りに出会う前は、“ちょっとやればできる事”、或いは、“最初からできる事”ばかりを選ぶ 人だった気がします。
受験にしても、今のセンター試験、共通一次導入が決まったとたん、苦手な理数系をやるくらいなら、もう最初 から“私立文系一本”だったし、そのもっと前、“バレエ”か“ピアノ”を選ぶ時も、わりと難なくできる?ピ アノを選んでいたし、(それなのに、あっさり辞めた!(~_~;))・・・・。
成績にしても、特にガチガチやらなくてもできる範疇で満足だったし、たとえちょっと努力するとしても、それ をあからさまに出すのはスマートとは言えない、くらいに思っていました。
そんな私が、踊りにはまったのは、たぶん、あまりに自分が下手くそ、全然できない事に気がついてからであり ます。
踊りは、(本当は何でもそうなのでしょうが・・・)ちょっとやったくらいでは、全くできないし、おそらく、 私の体のつくりなどを考えても、そう向いているとは思えないし、集中力で力んでみたって、今できない事はす ぐできるわけがない。
しかし、実は、そこが魅力なわけで、そういった持続力を使う、“自分との闘い”というのは、死ぬ気で頑張る 短距離走とは違い、緩急、ペース配分に十分気を配って進むマラソンにも似ています。
しかも、マラソンと違うのは、たぶんゴールはどうでもいい、という事です。
自分の走り方、自体が、重要なわけで、その長い走りの中で、一つずつさまざまな通過点をクリアしていく。
そうなると、この“できる”という意味も深くなってきて、或いは、“やると、楽しい”とか、“やらせてもら って、幸せ”みたいな意味に変化さえするかもしれない。

実際、できようができまいが、やっても無駄!とか、できない、と思ったときに、その事は終わってしまうわけ で、トライし、努力している間は道は続いている。
集中力に持続力、そして、根気に、“いつかできる”の、のん気・・・。
そして、あとは、たった一つの魔法の呪文?!「やれば、できる」。\(^o^)/



1月18日(火)  アリババの記号

「そういえばさぁ・・・気持ち悪いのよ。」
とウチの母親が突然言い出しました。
話しによれば、我が家の玄関の扉の横に、変な記号の落書きがしてあったというのです。
子供のいたずらかと思ったのですが、最近ウチのマンションには、あまり小さな子供はいないし、特にウチのある階ではあまり子供の姿も見かけません。
「“アリババと40人の盗賊”を思い出しちゃってさぁ。」
(??それってどんな話しだっけ?)

というわけで、昔懐かしいアリババの話しをちょっと調べてみたら、わかりました。
あれって、アラビアンナイトの中の話で、わりと残酷なんですね。(主人公のアリババも特にいい人ってわけじゃなくて、召使が頭がいい。)
要は、復讐に燃えた盗賊たちが、アリババの家を探しあてて、その目印に家の扉の横に、記号を書いておくんですね。
それで、その利口な召使が、撹乱するために、近所の他の家全部に同じ記号を書いておく、というくだりです。

“この家に入るぞ!”という目印だとしたら、確かに気味が悪い。
それと、何か前にTVで家に記号を書いておく、というのをやっていた気がします。
リフォームの営業だったか何か?(そこを覚えていない・・・。(~_~;)で、その家の家族構成とかを、後から来るセールスの人のために、メモしておく、というのだったと思う。
いずれにしろ、何かイヤ〜な感じ・・・。
ウチの母は、その記号をベンジンで消そうとして、全部は消えきらないうちにベンジンがなくなってしまって途中だったのですが、やはり、これは、アリババ方式で、近所の家全部に同じ印を書いちゃった方が、効果的なのでは・・・?(できないけど・・・(^^ゞ)
どなたか、こういった記号の落書きについて、詳しい情報をお持ちの方、教えて頂けませんか?



1月19日(水)  “流し目研究会”

“山の上から尾根を降りてくるように下げて、フッと送る”
これって何の事だかわかりますか?
「流し目の極意」ですって!!
TVで私お気に入り?の元宝塚トップスター、真矢みきさんが言っていました。
先輩からそう教わって、舞台でやった時に、間違えて、下から視線を上げちゃった・・・とかなんとかボケてま したけど・・・。
そして、実際、その場で視線を斜め上から物憂げに下げていって、伏し目になったら、フッと送ったその視線! !
パタパタパタ・・・。(カッコよすぎて人が倒れる音?!)

その後、その番組に出ていた他の人も、さぁやってみようと、真似してやっていましたが、もちろん?!全然ダ メでした。(えなり君のは、とぼけすぎてて可笑しかった・・・)
Kinkikidsの剛君は、時代劇でおぼえた流し目というのを披露していて、それは、刀を鞘にしまった後 、すうっと目を細めて、ゆっくりと大きく見開くというのだったけど、まぁなるほどね、という感じ・・・。

結局どっちも、つまりは私のよくレッスンで言う、「見ない、見る」だなぁ、と思ったりしました。
もちろん、直接的なキャッチは、「見る」なわけで、「見ない」はつまり抜きの部分で、伏し目だったり、細目 だったりで、その後の「見る」にその人の真髄が出る。
しかし、逆に言えば、その前の「見ない」でいかに人を引きつけて、引っ張ってくるか・・・。
自分が見られているのを意識しながら、引っ張って引っ張って、ふっと抜いた後の、「ドキッ!」(って自分が ドキッとするんじゃないよ。(~_~;))・・・。
「眼力(めぢから)」です。

実力が伴わないのに、流し目ばっかりしてても気持ち悪いだけ(@_@;)っていうのもたまにはあるけど、本当の 芸達者の人は皆、眼に力があるんですよね。



1月20日(木)  取扱い説明書

昨日、昔読んだ、清水義範さんの「取扱い説明書」、いわゆる“マニュアル”というもののパロディ小説を読み返していて、あらためて笑ってしまいました。
ホント、取扱い説明書って何であんなにわかりにくいんでしょう?!
それは、架空の機械、立体造影機のマニュアルということで書いてあるのですが、
@電源を入れてください。
Aスイッチをオンにして下さい。
から始まり、(作品中にも、ツッコミが入っているのですが、私も思わず、“それ位は、誰でもできるんじゃ!!”)
肝心の難しい所に来ると、
Dミューティレーター??をフォートラン???して下さい。“それで終わりかい?(-"-)・・で、ミューティレーターってどこにあるのよ!”
本当にそういう感じです。

パロディ小説なので、もちろんギャグ満載で、笑えるのですが、結構本気で、そうだ!そうだ!と思ってしまう箇所もたくさんありました。
小説中にも書いてあるのですが、例えば、
「蝶結びの結び方を文章で説明しろ」と言われたら、これはなかなか難しい。
私は、前から、あのマニュアルというのは、機械オタクの、日本語下手の人が書いているに違いないと思っていたのですが、よーくわかっている事でも、全くわからない人がわかるように説明する事自体、難しい事なのかもしれません。(この文章わかります?(^^ゞ)
それにしてもねぇ・・・。(-_-;)

携帯電話なんかでも、最近のものは、できる事がいっぱいあって、そうなるとマニュアルの厚さも半端じゃない。
新しいものを買ったりすると、電話自体はものすごく軽量なのに、何冊もののマニュアルで、大荷物!
しかし、あの本を完全読破している人ってあんまりいないだろうな〜。
だから、最近宣伝している、お年寄りにも使える、「説明書のない携帯電話」なんていうのが、逆に“売り”になったりするのですね。

機械が高性能になればなるほど、説明書は、複雑にわかりにくくなる。
これからは、機械を作って売る方も、日本語表現のスペシャリストを雇って、いかにわかりやすいマニュアルを書けるか検討した方がいいんじゃないかしら・・・。(~_~;)



1月21日(金)  “空”[くう]になる瞬間

なくしたくないものに限ってどっかになくなる・・・ってことはありませんか?
傘なんかでも、この傘は気に入っている、というのに限って、どこかへ忘れてきたり、気に入っている手袋に限って片っぽどこかへいっちゃったり・・・。
惜しげのない、あんまり気に入っていないようなものは、絶対なくらないのに。
これって私だけでしょうか?

身に着けているものを落としてしまって気がつかないのは、不思議すぎる、と身内の者には呆れられるのですが、私としては、いつもぼおっとしているつもりはなくて、何かの瞬間に、ふっと“空”になっちゃうんだよね〜。
腰に巻いてたジャケットをどこかで落としてきたり、さっきまでしていたマフラーがどこかへ行っちゃったり、思い出せば、結構ある。
でも、私みたいな人も世の中には、結構いるらしく、道路に片っぽだけ落ちて、真っ黒になっているかわいそうな手袋とかを見ると、“同病、相憐れむ”といった感じです。
私が落とした片方も、どこかでこうなっているんだろうな・・・。(>_<)
不思議と、かなり意識して載せるからか、網棚に載せたものとかは忘れたことがないのです。
でも、出かけた際に、一瞬も気を抜かずに、身の回りのものをチェックし続けるなんて、できないし〜。(-_-)

・・・というわけで、今している手袋も、実はこの冬、二個目。
最初のものは、何と今年おろして、一週間の命で、片っぽになってしまいました・・・。(T_T)
母に買ってもらい、かなり気に入っていたので、恐縮して、涙ながらに??告白すると、慣れているのか、平然として、“バーゲンで安くなってた”と、もう一組同じものを買ってきてくれました。m(__)m
今度こそ、絶対になくさない!と決意に燃えて、はずした時は、3分ごと?にチェックを入れている今の私であります。



1月23日(日)  150人の発表会

昨日、知人のジャズダンスの先生の発表会を見に行ってきました。
もう1人別の先生(キッズ中心のスタジオ、大人も合わせて30人くらい)とのジョイントだったのですが、な 、なんと、出演者総勢150名!!
全員が舞台に乗ると、それはもう圧巻!でした。
作品の傾向は、ジャズといっても私とは全く違って、ヒップホップ或いはクラブジャズ系?が入った動き中心で 、若い子もいるのですが、ミセスパワーも全開で、それはもう皆さんすごく元気。
何よりも、あれだけの人数を引っ張る先生のエネルギーは、本当にすごいと思いました。
ちなみに、その先生は、(私よりも7,8歳は年上のはずですが)小柄、ダイナマイトボディ?!の言うならば 、関東の“綾戸智絵”といった感じ。
「細かい事ごちゃごちゃ悩まないで、体動かさんかい!」
(そうおっしゃるかどうか知りませんが、そんな感じがします。)

舞台の上の方は、一人ひとりが、活き活きとしてとても楽しそうでした。
正直を言えば、私とは、選曲の好みも、音のとり方も、振り付けの感じ、世界が全く違うし、休憩なしの一時間 40分以上、パワーとエネルギーの連続は、見るほうとしては、少しばかりくたびれました(~_~;)。
しかし、あれだけの人に、“舞台”という夢、生きがいを与えるという意味、本当にシンプル、かつ純粋なとこ ろで、“踊るのは楽しい”という熱い思いは、とてもよく伝わりました。

そして、舞台の後は、恒例?“ここだけの話”辛口批評大会?!(これがなくっちゃ・・・!)
たまたま、昔お世話になっていたジャズの先生が見えていて、その先生とご一緒でき、3人で“あぁだ、こうだ ”と盛り上がりました。
やっぱり舞台はいい、そう思います。
私は、私の言葉=踊りで、私の世界を表現し、夢を創りたい。
そして、その感性に合うアンテナを持った人が私の周りに集まってくれ、いっしょに歩いているんだなとあらためて思いました。
これからも、自分のこだわり、感覚を大切に、一歩ずつ進んで行きたいな。



1月24日(月)  チューリップの絵

街を歩いていたら、花屋さんに色とりどりのチューリップの花が出ていました。
もうすぐ春か・・・などとその美しさを何となく眺めていました。
そこで、ふと思ったのですが、幼児の頃私は、(たぶん大抵の女の子はそうじゃないか?と思うのですが)“お絵かき”というと、お花、それもチューリップの絵をよく書いていました。
チューリップを図案化したら、まず誰もが書くような、楕円で上の方が三つに割れているような形の花(卵の殻にも似ている?)に、細い三日月のような葉っぱ・・・。
あれって、別に特にチューリップを置いて、写生したわけでもないのに、何でだったんでしょう?
しかも、あの画一化した図案化された形!?
そして、○に放射線状の線がついた、“お日様”が空に・・・。
太陽なんて、見たわけないし、たとえまぶしさをこらえて見たとしても、あんな風には見えないよねぇ。(白っぽい○?)
はっきり言って、美術の才能は全くない私、絵を描くという事に、特に何のこだわりもなかったと思います。
何となく、絵を描くといえば、お日様にチューリップ、そして髪の長いお姫様、(ふくらんだ裾のドレスを着ている)、指のような細い塔がいくつもあるお城、などを書いていました。
お城なんて見たわけないのに、なぜ西洋の中世にあったような、塔のあるお城だったんだろう?

皆さんは、どうだったか覚えていますか?
いや、私はそんなものは描いていなかった?
それとも、やっぱり、チューリップとお日様?
何かの絵本とかで見て、それがどこかに残っていて、描いたのでしょうか?
それとも、誰か大人が教えたのでしょうか?

急に不思議になりました・・・・。(@_@;)



1月25日(火)  Y先生の大事件

バレエでいっしょの、Y先生、このダイアリィにも何度か登場されている(って私が勝手に登場させているのですが・・・(~_~;))スペシャル元気な大先輩ですが、
「実はねぇ、嫌な話し聞かせて申し訳ないんだけど、私大変だったのよ。」
とおっしゃるのです。
「えっ?どうされたんですか?」
「この前の土曜日、主人が救急車に乗ることになっちゃったの!」

Y先生の旦那様は、たぶんもう70代、でも、先生と同じくお元気でいっらっしゃたはずなのに、脳?心臓?とびっくりして話しを聞くと、
「それが、ずっと腰と坐骨が痛いって言ってたんだけど、急に朝起きたら、足から腰が痛いって真っ青になっちゃってね〜。近くの老人病院に電話したら、すぐ救急で病院に運んだ方がいい、って言われてね。」
「じゃぁ、発作みたいな?」
「そうなの、脂汗流しちゃって、全然歩けないの。」

先生の話しによれば、近くの大病院に救急で運んで検査をした結果、内臓には何の問題もないので、とりあえず、今日は帰宅して下さいと言われたそうです。
帰宅って言ったって、歩けないですけど〜と訴えると、
「その辺に車椅子があるから、乗っけて、タクシーで帰って。車椅子は使い終わったら、戻しておいてね。」
とそっけない返事。
ひ、ひどい!!
それで、先生は、えっちらほっちら1人で、車椅子を探して、ご主人を乗せ、タクシーを必死でつかまえ、ご主人を寝かせ、また車椅子を返しに行って、やっとの思いで帰宅されたそうです。
土曜日で検査もできないし、入院しても・・ということだったらしいのですが、それは、本当大変だったことでしょう・・・。(T_T)

結局、しばらく自宅で療養し、あらためて検査ということになったらしい(お話しによれば、たぶん、ヘルニアの発作かもしれませんね・・・)のですが、現在、ご主人はほぼ寝たきり、
「あれっ?じゃあ、今日は、どうされているんですか?」
「ヘルパーさんを頼んでるの。だって、私がずっと居たって、ストレスたまって私がダメになっちゃうでしょ。
出かけて帰れば、申し訳ないという気持ちも出てくるから、優しくできるしさ。」
ほぉ〜、さすが、Y先生!!
「悪く考えても仕方ないし、たぶん、長丁場になるだろうから。私が元気じゃないとね!生徒の発表会もあるし、頑張らなきゃ。いい出会いがあって知り合ったヘルパーさんに頼むことができたんで、安心だし・・・。」
なるほど・・。
やはり、どんな事があっても、Y先生は明るく、前向きです。
人生の大先輩の正念場、どうか、頑張って下さい、と心から思ったのでした。



1月26日(水)  受験!!

いよいよ、受験シーズン到来!ということで、昨日も、初級クラスのYが高校受験を数日後に控えているという ことでした。
頑張れ!Y!

さて、私は、中・高一貫教育の私立だったもので、受験をしたのは、小6の時と、後は、大学受験の高3の時だ けです。
どっちがより勉強したか、と言えば、たぶん小学校の時です。
“教育ママ”と化した母親が、歴史の年表を食卓のそばの洋服ダンスの扉に貼り付け、
「蒸し米(645年)で祝う大化の改新」とか、「鳴くよ(794年)うぐいす平城京」とか、「いい国(11 92年)創ろう鎌倉幕府」とか、(出てくる、出てくる・・・。三つ子の魂百まで??)
とかブツブツ言いながら、ご飯食べてました。(消化に悪そう・・・(-_-))

ただ、当時、クラスで、私立中学に行こうとしている子は皆塾に通っていたのに、私は、たまに模試を受けに行 く程度で、塾に行った事はありませんでした。
6年ともなると、周りの友達が塾に行くことが多くなり、遊ぶ子がいなくなって寂しかった覚えがあります。
(かなり、のん気な・・・(^^ゞ)
その中学の受験では、両親同伴の面接試験があり、
「お宅の教育方針は?」
と急に聞かれた父親が、答えを考えていなかったのか、あせってしどろもどろに、
「のびのびと育って欲しいという事です。」
“あれで、よく入ったこと・・・”と後で、母親は笑っていましたが、父親の希望通り?確かに私は、のびのび とは、育ちました!?(^.^)

大学受験の時も、特にやりたい事も、目標もなかったので、なんとなくぼおっとしていた私は、塾にも予備校に も行かず、だらだらとしていました。
周りには、授業中も他の参考書を陰で広げたり、ガリガリと単語を覚える人がいましたが、完璧に傍観者となt って、感心していました。

社会に出ると、“受験”というものの緊張感、自分を試す、試される、そしてこれはちょっぴり邪道な考えかも しれませんが、“ヤマがあたった、はずれた”というギャンブル的なスリルを味わうことも少なくなります。
今になって、もうちょっと真剣に行きたい学校を考え、自分のギリギリまで頑張って、目標を持って、違う大学 に進学したらどうだったろう?と思ったりしますが、そうであったら、たぶん踊りと出会うこともなかったかも しれません。
真っ只中にいると、自分のいる場所が見えないということはよくあるのですが、いつであれ、どんな形であれ、 何であれ、頑張った事は必ず自分の身になる、これは確かだと思います。
必死で頑張っている受験生、そして、今自分の目の前の事に頑張っている全ての人に、心からエールを送ります !!\(^o^)/



1月27日(木)  映画「ダンス with me!」

TSUTAYAで借りた一本のビデオ。
「ダンス with me!」と題名だけ見ると、ちょっとどうなの?という感じ・・・。(原題は、“One  Last Dance”)
(ちなみに、ダンス・ウイズ・ミー という映画もあるから間違えないように・・)
ところが、これが意外に、掘り出し物でした。
ダンスシーン満載で、その質もかなり高く、踊りのシーンだけでも、かなり満足できる映画です。
踊りの系統的に言えば、映画“バレエ・カンパニー”と似た、いわゆるコンテンポラリー系です。
ストーリーは、7年前に確執があって別れ、踊りから離れてしまっていた3人の男女が、指導者の死後、カンパ ニーを立て直すため、再びその作品を踊るために再会し、自分、踊り、そして愛を取り戻すという流れですが、 やはり中心は踊り。

そして、詳細を調べてみてびっくり。
どっかで見た事ある人だなぁ、と思っていた監督・主演の男性は、映画「ゴースト ニューヨークの幻」の主役 の人、パトリック・スウェイジ!
私は、彼を俳優さんだ、としか知らなかったのですが(映画「ダーティ・ダンシング」とかもやっていて、こっ ちもかなりメジャーみたい。)どうみても中年、かなりのおじさん(~_~;)なのに、踊れる、踊れる!!
しかも、相手役のリタ・ネイミとは、夫婦だそうで、こちらもかなりのおばさん(~_~;)なのに、踊れる、踊れる !!
夫婦合作、渾身のダンス映画なのに、日本未公開で(わりと新しい映画、新作ビデオのコーナーにあったんだけ ど)、ダンスにあまり興味のない人の批評は、かなり辛口。
しかも、“リタは、おばさんを通り越しておばあさん!の域に入ってて、ラブシーンは辛かった”との事ですが 、踊りが若く、美しく、私は、全く問題ないと思います。(-"-)

確かに、演出としては、セリフから唐突にダンスシーンに入って、いきなり照明が変わっちゃったり、(セリフ 喋ってて、急に歌いだすオペラのよう・・・)ストーリー的にも、少しばかり無理がある部分があったりはする のですが、踊りに興味のある人だったら、全体に散りばめられたダンスシーンだけでも満足できると思う。
私は、“踊ること”で自分を取り戻していく3人の心模様や、二人の愛の葛藤、エンディングにも結構共感して しまいました。
もし、気が向いたら、「ダンス with me !」、見てみて下さい。\(^o^)/



1月28日(金)  ドクハラ

「ドクハラ」という言葉を聞きました。
ドクター・ハラスメントの略だそうで、そういえば、前にもどっかで聞いたかもしれません。
医師による、言葉の暴力や、理不尽な扱いなどを指す言葉で、最近話題になっています。
例として出された中では、44歳の女性で、子宮筋腫で病院に行った所、
「あなたは、もう40過ぎてるんだから、子宮はいらないでしょう。」
と言われたとか!!(-"-)
他にも、「このくらいの痛み我慢して下さい。」とか。
「そんな性格だから、病気になるんだ。」とか。

そういえば、私もドクハラ医師に出会っていました。
1年くらい前、一度、腰のレントゲンを撮ってもらおうと近所の総合病院の整形外科に行った時のことです。
山のようなお爺さん、お婆さんの間に混じって、長〜い順番を待って、やっと呼ばれ、撮ってもらったレントゲン写真を持って診療室に入った私。
私の説明もよく聞かず、写真をみた医師は、
「特に異常はないですね。しいて言えば、関節が磨り減っている、まぁ加齢のせいでしょう。」
加齢??年のせいってこと??私が???(@_@;)
あまりの事に、何も言えないでいる私に追い討ちをかけるように、医師は、
「ストレッチとか、軽い運動をするといいです。」
はぁ?(-"-)
・・・っていうか、毎日、ストレッチ(下手すれば1日3回)、軽い、どころかかなり激しい運動してますけど〜?
そして、「そこに横になって」
と指示し、私が横たわったとたん、いきなりぐぎっと腰をツイスト!
「イタッ!!」
頭から湯気が出そうな私は、それでも冷静に、自分の仕事をもう一度(最初に言ったのに、聞いてなかったんだ!)説明し、
「今から、加齢っていうんじゃ、60歳とか70歳になったらどうなっちゃうんですか?」
と尋ねると、
「まぁ、ですから、なるべく進行を遅くするっていうか、痛みがあるようなら、湿布を出しておきますから」
「いえ、結構です。(-"-)」
ダメだ、こりゃ〜。(-_-;)

「医は仁術」と言ったのは、古き良き時代の事。
技術だけ勉強しても、人の心を持たない医師は、“お医者様”と呼ばれる資格がありません。
患者の方も、ダメ医者には、きっぱりと“NO”を出せるように、不安がある時は、必ずセカンドオピニオンとして別の医師にも見てもらうこと、など自衛していく必要があるようです。



1月29日(土)  青森の猿

青森県の下北半島、日本最北の猿として有名な野生の猿が、人里でする悪さのために、とうとう駆除されるというニュース。
このニュースが報道されるやいなや、日本各地から、“かわいそう、ひどい!”という意見が殺到し、TVなどでもこの話題が放映されましたが、ご覧になりましたか?
村人のインタビューなどでは、猿の被害にほとほと困り果てているらしく、“そんな事言うなら、おたくでひきとって・・・ということですよ!(-"-)”などのコメントが出ていました。
結局、駆除に対する県の許可が下りて、群れを離れて悪さをする数匹などが、捕獲され、薬殺された、という事。(T_T)

私が、映像で見た猿は、民家の玄関をふつうに開けて!!(@_@;)、家の中に置いてあったジャガイモの袋をずるずるとひきずっていったり、畑の作物をあっちでむしゃむしゃ、こっちでむしゃむしゃ、やりたい放題、暴れていました。
パチンコやロケット花火、大勢で囲んで、威嚇する方法も、すぐに猿の方で、“これは決定的なダメージはないんだ”ということを学習してしまい、あまり効果がないらしい。
仲間の猿が捕獲される事に対しても、結構へっちゃらで、かえって人間の方が威嚇されてしまう始末・・・。

詳しい原因はわかりませんが、どうやら、人間の方に原因があって、過去に“日本最北の猿”を有名にするために、餌付けに加わったことがあるという女性は、“こんなことになるとは・・・。”とちょっぴり後悔している風でした。
やはり、人間こそが、自然界の中で最も勝手な生き物であることは確かのようですが、実際被害に苦しむ村人の訴えを無視するわけにもいかず、とてもツライ話題でした。

もし、リーダーの猿とコミュニケーションがとれるなら、
「本当に食べ物に困っているなら、ちゃんと分けるから、あちこちを荒らすのはやめてくれないか?」
と交渉して、共存していけるのに・・・。
動物の中でも、最も人間に近い猿とでさえ、うまくやっていけない人間っていったい・・・と哀しくなる話題でした。(:_;)



1月30日(日)  “毎日が夏休み”

今日は、日曜クラスのちょっと?遅い新年会でした。
お寿司やさんで、豪華寿司ランチ。
今年も、一人もかけることなく?!頑張っていこうということで、なごやかな午後のひと時でありました。

さて、その場の話題で、お子さんを持つ何人かの生徒さんの中で、真剣に話されていたのは、子供の塾の話題。
つい数日前のダイアリィにも書いたところですが、私は今まで、塾にも、予備校にも行ったことがないのですが、今はほとんどの子が、学校だけではやっていけないとの事・・・。
(中には、ウチの子は行っていない、という人もいたのですが)
しかも、Fさんによれば、学校の、しかも学年主任という立場の先生が、
「学校は、勉強を教えるところではなく、生活を指導するところですから、勉強は家庭の方で責任を持ってください」とおっしゃるそうです!!(指導じゃなくて、管理って言いたいんでは??)
つまり、勉強ができないなら、塾へ行かせて下さい、という論理。
そこで、一同、ええっ??
学校は勉強を教えるんじゃないの?
昔は、勉強は学校で、しつけは家庭で、と言われたもんですが・・・。
現実問題、テストでは授業でやらない、教科書に載っていないところが出るそうで、その結果でどんどん順位が決まる。
ゆとり教育で、こうして塾への依存が高まり、しかも学力自体は低下し、“どうなるんだ?日本の教育?!”

私の大好きな少女マンガ(・・・そういうジャンルになるのかな?)に、大島弓子さんが描いた「毎日が夏休み」という作品があります。
登校拒否の主人公と、登社拒否の義父が、便利屋を開業し、本当に大切なこと、心を得る話しです。
深刻なテーマをさらりと、明るく描いてあります。
主人公は、様々な知識、教養は朝のティータイムに、父から、全部茶のみ話でワクワクしながら習った。
夏休みの子供のように、ワクワクしながら、新しいことを知る喜びや興味に満ちて・・・。(大島弓子の漫画には、心にビンとくるものがたくさんあります)
私は、本当は、学校はもちろん勉強、そして、様々なジャンルへの興味の扉を開く役割をしてほしいと思うのです。
でも、もし、今の学校が管理だけに気を配っているんなら、何のために行くんだろう?

さて、余談になるのですが、この「毎日が日曜日」の中に、私の大好きな、泣かせるセリフがあるのです。
主人公のスギナが、義父に言う言葉。
「お義父さん、夏の日差しって濃くて深いよね。人生も濃くて深い影もあればその裏にはかがやくまぶしい光がぜったいにある、絶対にあるんだよ、お義父さん。」
そう信じていきたいです。



1月31日(月)  「不言実行」と「有言実行」

私の父親は、いわゆる古い世代の人で、ことわざ、格言の類が好きで、私も知らず知らずのうちに幼い頃から、そういったものを聞かされて育ちました。
先日のダイアリィにも書いた、中学受験の際も、「人事を尽くして天命を待つ」というのと、「不言実行」という言葉を半紙に書いたものが、早速私の部屋に貼られました。

「人事を・・・」の方は、つまり、やる事やって、後は神様の言うとおり、という事で、比較的私の心にもすうっと入ってくる言葉でした。
今に至っても、わりと好きな言葉で、ごちゃごちゃ考えないで、できる努力をした後は、結果は気にせず、すがすがしくいる、という事ができたらいいなぁと思います。
さて、もう一つの、「不言実行」。
これは、その時分から、「なんで、言っちゃいけないの?」と疑問はあり、父親にも尋ねた気がします。
要は、口ばかりで内容が伴わないことを諌める言葉なのでしょうが、現代っ子にとっては、ちょっぴり納得いかない部分もある気がします。

「有言不実行」、「不言不実行」、「有言実行」、そして「不言実行」と4つのパターンがあるとしたら、たぶん、昔は、一番咎められるのが、「有言不実行」(口ばっかりで、やらない)、そして、「不言不実行」(出来そうもないし、と言って本当にやらない)、「有言実行」(やると、言っておいて、やる)そして、「不言実行」(黙ってやることをやる)の順だったのでしょうが、現代においては、この最後の2つの順は微妙に変わってきているのかもしれません。
他に対する自己アピールがしっかりと求められる、欧米化した社会の中で、古い日本の美徳は、理解されづらいとも言えましょう。

言霊という言葉があります。
言葉には魂が宿るから、慎重に選んで使った方がいいと言われたりします。
そういう観点から言えば、有言実行は、例えば、「できる」、「やる」という言葉のプラスパワーの効果に期待した、そして、不言実行は、不用意に言葉にする事で、そこにかえって「魔」のつけ入る隙をあたえない、という考えかたなのかも・・・?
何となくのイメージで言えば、目標を大きく掲げてしまい本当に力を発揮する、新庄選手、寡黙で黙々とやるべき事をこなす、高倉健さんみたいなタイプ、かもしれません。
目標を堂々と口にしてしまう事は、言霊とか言わなくても、現実問題、周りに叩かれたり、かなりのリスクを負うことかもしれませんが、それをもはねのけて、実現させる精神力というのは、少しだけ憧れでもあったりするのです。(*^。^*)



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