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全体の目次

ようこそ
聖書とは
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新約聖書を読む
主な登場人物
時代背景と社会
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四つの福音書
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「ヨハネの福音書」を読む

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このページは2016年3月に移転しました。
移転先URLは、http://eigoseisho.blog.jp です。



主な登場人物

このページの目次
Jesus (イエス)
John the Baptist (洗礼者ヨハネ)
四人のマリア
十二使徒
Herode the Great (ヘロデ大王)
Pilate (ピラト)
Paul (パウロ)

このページには新約聖書の主な登場人物を掲載しています。最初にこのページ全部を熱心に読まなくても、ざっと目を通してどの人の説明が載っているかだけ覚えておいて、混乱したときや思い出したいことがあったときに参照すると良いと思います。


Jesus (イエス)

イエスの名前

イエスは旧約聖書が到来を預言し、その預言を成就する形でいまから約2000年前に地上に現れた救世主です。「救世主」は英語では、「Savior」(セイヴィヤーと発音)、「Messiah(メシヤ)」(メサイアと発音)と言います。

「イエス・キリスト」と言うとき「イエス」は名前を指し、「キリスト」は英語では「Christ」(クライストと発音)で意味は「救世主」なので、イエスにつけられた称号です。つまり「イエス・キリスト」と「救世主イエス」は同じ意味です。

イエスは英語では「Jesus」(ジーザスと発音)です。この名前は特に珍しい名前ではなく当時のユダヤではポピュラーな名前でした。新約聖書にも何名かの他の「Jesus」が登場します。また「Jesus」はギリシア語ですが、ヘブライ語では「Joshua」(日本語でヨシュア、英語で「ジョシュア」と発音)にあたります。よく知られたヨシュアは旧約聖書の中でモーゼを引き継いだユダヤ民族のリーダーとして登場します。

余談ですが1549年に日本に来たことで知られる宣教師フランシスコ・ザビエルは「イエズス会」に所属していたと小学校や中学校の社会科で習いますが、この「イエズス」も「Jesus」を読んだものです。


イエスは誰か

聖書によればイエスはナザレの町に住んでいた一人の女性マリアが処女の状態で妊娠する形(「処女懐胎」と言います)で地上に現れました(旧約聖書の預言のとおりです)。生まれたのは紀元前5年頃とされます。

30歳になった頃、洗礼者ヨハネの洗礼を受けたことを皮切りに「神の国」についての伝道活動を開始します。約三年に及ぶ伝道活動の後、エルサレムの郊外で逮捕され、裁判にかかり、十字架刑に処せられます。

十字架死の三日後、かねてから弟子たちに伝えていたとおり、死からよみがえります(旧約聖書の預言のとおりです)。そして地上に約40日とどまる間に弟子たちの前に何度か現れました。その後弟子たちの見守る中、天へ引き上げられて天へ戻りました。

「果たしてイエスは神か」が聖書を巡る最大の論点です。たとえば聖書研究の教義「三位一体(Trinity)」とは、「父なる神(God the Father)」「子なるイエス(Jesus the Son)」「聖霊(Holy Spirit)」の三つが一つの神であるという考えです。「三つ」と「一つ」の関係が一体どうなっているのかについてはいろいろなたとえ話が存在するようですが、あくまでも神さまの領域のことなので神秘に包まれたままです。が、どちらにしてもこの説は「子なるイエス」を神として含めています。つまりイエスは人間の姿をとって地上に降り立った神であるという考えです。神さまがわざわざ地上へ降りた目的は人間救済の計画を成就するためです。神さまを裏切り神さまの元を追われた人間を救済して、神さまと人間の調和を取り戻すのは、人間自身の力では不可能です。聖書は神さまがイエスを通じて人間を救済する計画の最初から最後までを記録した本です。

一方イエスが神であることを否定する人たちは、イエスはひとりの人間だった、何かしらの悟りを開いた宗教家だった、聖書や哲学の先生だったなどと主張します。


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John the Baptist (洗礼者ヨハネ)

聖書の中には同じ名前の人がたくさん登場します。ヨハネもそのひとりです。

よく知られたヨハネは二人います。ひとりは「John the Baptist (洗礼者ヨハネ)」、もうひとりは「ヨハネの福音書」を記述したとされるヨハネでこちらは十二使徒のひとりです。最初に聖書を読むとこの二人が別人だということがわからずに混乱します。


預言者エリヤの再来

「John the Baptist (洗礼者ヨハネ)」はイエスが救世主として現れる前に、その先駆けとして現れた人です。この先駆けが預言者エリヤとして世に現れることは旧約聖書の中であらかじめ預言されていました。

預言者エリヤは紀元前850年頃の人で、英語では「Elijah」で「イライジャ」と発音されます。最初のうちは耳だけで日本語表と結びつけるのが難しい登場人物のひとりです。ちなみにエリヤにはエリシャという弟子がいて、こちらの英語表記は「Elisha」、「エリシャ」と発音されますが、逆に発音が「エリヤ」と似ていることから混同してしまうことがあります。

紀元前850年頃と言うことはつまりイエスの時代を850年さかのぼる過去のことで、預言者エリヤはこの時代に数々の奇跡を行ったことが旧約聖書に記録されています。ラクダの毛だらけのマントに革のベルトという出で立ちで北朝イスラエルが政治的にも経済的にも富んでいた時代に現れ、神さまの意志に反して邪悪を行う王に対して厳しく警告を行いました。たとえば邪悪で知られるイスラエル王アハブに対しては自分が呪いを解く言葉を発するまでイスラエルには一切雨が降らなくなると預言し、その後干ばつは三年に及びました。エリヤが干ばつを破る雨を呼ぶ場面のエピソードは大変有名でドラマチックです(1 Kings 17〜19/列第1王記17〜19章)。

洗礼者ヨハネはその預言者エリヤの再来の形を取り、救世主の先駆けとして世に現れたのです。


ヨハネの伝道活動

ルカの福音書によるとヨハネの母親のエリザベト(Elizabeth)とイエスの母親のマリアは血縁関係にある親戚でしたので、イエスとヨハネは親戚だったということになります。

ヨハネは伝道の活動に入るまで荒れ野に住み、西暦28〜29年頃イエスが伝道の活動を開始する少し前に自身の伝道活動を開始しました。ヨハネは「罪を悔い改めよ」「神に向き直れ」と強烈で荒々しいメッセージを説きましたが、それにも関わらずたくさんの人々がヨハネの話を聞くために集まって来ました。それはヨハネのメッセージが聖書の教えに裏付けられた宗教観、倫理観、道徳観、救世主への待望観に力強く訴えたからです。

ヨハネが行った洗礼は「水を使って洗い清めること」で、そうすることで自身が道徳的に生まれ変わることを象徴しました。ヨハネはひとりの人について一度だけ洗礼を授けました。当時のユダヤ社会では自分たちが父祖アブラハムの子孫であるから、神さまから選ばれたユダヤ民族の一員であるから、というそれだけの理由で自分たちは神さまと良好な関係を持てるとの信仰が支配的でした。これらの考えを持つ保守的なユダヤ人にとっては、ヨハネの洗礼はもともと清いものをわざわざ洗い清めるように映るので理解できませんでした。

伝道活動を始める前のイエスはヨハネの前に現れて洗礼を授かろうとします。ヨハネは立場が逆であると最初は拒みますが、イエスの言葉を受けて洗礼を施しました。するとそのときに天が開き聖霊が鳩のような形をしてイエスの上に下りました。同時に天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と神さまの声が聞こえました(Luke 3:21〜22/ルカの福音書3章21〜22節・Matthew 3:13〜17/マタイの福音書3章13〜17節)。

人々はヨハネこそが救世主なのではないかと考えますが、ヨハネはイエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言い、イエスこそが救世主であると告げます(John 1:29〜34/ヨハネの福音書1章29〜34節)。


ヨハネの処刑

ヨハネはヘロデ王が自分の兄の妻を自分の妻としたことを批判し、このことでヘロデに捕らえられます。王はヨハネを牢に捕らえながらもヨハネの話を聞くことを好み処刑できずにいたのですが、妻の策略にはまるかたちでヨハネの首をはねます。


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四人のマリア

聖書の中には同じ名前の人がたくさん登場します。マリアもそうです。ここでは新約聖書に登場する次の四人のマリアについて説明します。

  • Mary :マリア(イエスの母)
  • Mary of Bethany :マリア(ベタニアに住んでいたマリア)
  • Mary :マリア(十二使徒ヤコブとヨセフの母)
  • Mary Magdalene :マグダラのマリア

マリアは英語では「Mary」、発音は「メアリ」です。

ところで四人のマリアを初めとして新約聖書にはたくさんの女性が登場します。新約聖書は今から約2000年も前の出来事を記録しています。女性が社会的な地位、たとえば男性と対等の立場を確立できたのはいつだと思いますか。新約聖書の時代のユダヤ社会では女性の地位はいまとは比べものにならないくらい低かったのです。にもかかわらず新約聖書にたくさんの女性が登場し、ときにイエスから優しい言葉をかけられ、ときに重要な役割を果たしていく。これは当時ではありえない革命的なことだったのです。


Mary :マリア(イエスの母)

イエスを処女で受胎して生んだイエスの母親です。

マリアがどんな女性であったのか詳しくはわかりません。聖書に書かれているのはナザレの町に住み農業を営んでいたこと、おそらくユダ族でダビデ王の末裔であったこと、洗礼者ヨハネを生んだエリザベトがマリアの従姉妹であったこと程度です。

マリアが大工のヨセフと結婚の約束を交わしていたところへ天使ガブリエルが現れて「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます」と告げました。それからマリアを通じて救世主イエスが世に生まれることを告げられます。

ローマ帝国から住民登録の命令が出て(おそらく徴税のため)、夫婦は急遽ヨセフの出身地へ戻らなければならなくなりました。マリアは身重のまま100kmほどの旅をします。イエスをユダヤ地方のベツレヘムで出産するとマリアは細長い布でイエスを包み、飼い葉桶に寝かせました。

イエスの誕生を祝福するために羊飼いが訪れその後に三人の賢者が贈り物に訪れたとき、マリアはその場に居合わせそれらのことを自分の胸におさめました。誕生から八日めにユダヤのしきたり通りにイエスを連れてエルサレムの寺院へ参ったとき、シメオンという信仰深い男から「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と将来イエスのことで深い悲しみに会うことを告げられます。マリアとヨセフは救世主を抹殺しようとしたヘロデ大王の難を逃れるために一度エジプトに移り、その後ナザレに戻ります。

マリアが再び記述されるのはイエスが12才のとき、過ぎ越しの祭りの場面です。それからマリアはイエスの最初の奇跡、水をぶどう酒に変える場面に居合わせました。

聖書を読むとマリアとヨセフの夫婦はイエスの後で四人の男子と複数の女子を持ったことがわかります。四人の男子の名は、ヤコブ(James)、ヨセフ(Joses)、ユダ(Judas)、シモン(Simon)でいずれもポピュラーな名前です。イエスが伝道の活動を始めた後マリアはこれらのイエスの兄弟を連れて会いに来ますが、イエスは家族の絆より弟子たちとの絆を優先します。マリアはこの後イエスの十字架の場面まで姿を現しません。イエスは十字架の上から、使徒のヨハネにマリアのその後の世話を頼みます。

マリアの生んだイエスの兄弟たちはイエスの弟子の中には登場しませんが、兄弟のうちヤコブとユダが後にイエスを信じたことは新約聖書に「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」の記述者として登場することからわかります。ヤコブはエルサレムの教会の牧師となりリーダーシップを発揮しました。

マリアが最後に描かれるのはActs 1:14(使徒言行録1章14節)で、他の弟子たちと共に聖霊の訪れを待つ場面です。


Mary of Bethany :マリア(ベタニアに住んでいたマリア)

このマリアはエルサレムの東方約3キロほどにあるベタニア(Bethany)の町に住み、マルタ(Martha)とラザロ(Lazarus)の姉(妹)です。おそらくマルタの方が姉です。

イエスが三人の家を訪れたときマリアはイエスの足元でイエスの話を聞きました。姉のマルタは客をもてなす家事に追われ「自分ばかりが働いている」と不満を言いますが、イエスはマリアの姿勢が正しいとマルタを諭します。

ラザロが病気で死んだときマリアの悲しみは大変深いものでした。最初はイエスが訪れても家の中にいましたが、マルタに呼ばれて出てくるとイエスの足元にひれ伏して泣き、もっと早く来てくれたらラザロは死ななくて済んだのにと嘆きます。

イエスによりラザロが生き返るとマリアは感謝の意をイエスの足に高価な香油を塗ることで表現し、これを自分の髪で拭うことで示します。後にイエスを裏切るユダはこのとき高価な香油が惜しいとマリアを責めますが、イエスはこれは自分の弔いのための香油であると諭し、このことにによってマリアは皆に記憶されると言います。


Mary :マリア(十二使徒ヤコブとヨセフの母)

このマリアは十二使徒のヤコブ(James)とヨセフ(Joses)の母親です。

このマリアはイエスの十字架死の場に居合わし、イエスが葬られるときにも居てイエス復活後に空になった墓を見ました。

ちなみにイエスの母親のマリアがイエスを世に生み出した後に夫ヨゼフとの間にもうけた四人の男子には、やはりヤコブ(James)とヨセフ(Joses)が含まれます。このため「ヤコブとヨセフの母マリア」とされたとき、どちらのマリアなのか混乱しやすいのです。


Mary Magdalene :マグダラのマリア

イエスはこのマリアから七つの悪霊を追い出したと聖書に記録されています。

Magdalene(マグダラ)はガリラヤ湖の南西の岸の町の名前ですので、この町の出身と思われます。

このマリアはイエスの足を洗った女性(Luke 7:37/ルカの福音書7章37節)や、姦淫の罪で石で打たれようとしていた女性(John 8:1-11/ヨハネの福音書8章1〜11節)と同一視されることが多いですが、聖書の中に特に結びつける根拠があるわけではありません。

マグダラのマリアはイエスの十字架の前後のほとんどの出来事を目撃しました。イエスの裁判や、ピラトの死刑宣告や、イエスがむち打たれて群衆に蔑まれる様を目撃しました。また十字架の上のイエスを慰めようとした女性のうちのひとりです。

マグダラのマリアは復活したイエスに最初に会った人で、他の人に復活について伝えるようにとイエスに言われます。


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十二使徒

「使徒」は英語で「Apostle」(「アパスル」と発音される)で、イエスに従う弟子(こちらは英語で「disciple」、「ディサイプル」と発音)の中からイエス本人によって特別に選ばれた十二人を指します。以下がその十二人です。

  • Simon Peter (「サイモン・ピーター」と発音) :シモン・ペトロ
  • Andrew (同「ェアンドリュー」) :アンデレ
  • John (同「ジョン」) :ヨハネ
  • James (同「ジェイムズ」) :ヤコブ
  • Philip (同「フィリップ」) :ピリポ
  • Nathanael Bartholomew (同「ナサニアル・バーサラミュー」) :ナタナエル・バルトロマイ
  • Matthew Levi (同「マシュー・リーヴァイ」) :マタイ・レビ
  • Thomas (同「タマス」) :トマス
  • Judas (同「ジューダス」) :ユダ /Jude(同「ジュード」) :ユダ /Thaddaeus (同「サディーアス」) :タダイ
  • James the Less (同「ジェイムズ」) :小さいヤコブ
  • Simon the Zealot (同「サイモン」) :熱心党のシモン
  • Judas Iscariot (同「ジューダス・イスカリアト」) :イスカリオテのユダ


Simon Peter (「サイモン・ピーター」) :シモン・ペトロ

文句なく一番有名な使徒でしょう。十二人の中ではリーダー的な存在です。新約聖書での登場回数も一番多いです。

聖書を読むといろいろなことを臆面もなくずけずけと言い、乱暴な性格がうかがえます。無遠慮にイエスに意見をする場面もあります。またペテロのことを他者が書く場面も多いです。

ペテロは常にイエスに付き従い、イエスに質問し、ときにはイエスにアドバイスを与えたり意見までしようとします。イエスは使徒のうち、ペテロと一番長くの時間を過ごしたと思われます。

ペテロほどイエスへの信仰を口にする弟子はいませんし、逆にペテロほどはっきりとイエスを否定した弟子もいません。ペテロほどイエスから褒められ祝福を受けた弟子もいないし、その一方でペテロはイエスから「サタン」とも呼ばれました(イエスはペテロを使って自分を誘惑するサタンに言ったのです)。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :父の名前はヨナ(Jonah/ Simon Bar-Jona)。十二使徒アンデレはペテロの弟で、アンデレがペテロをイエスに引き合わせました。聖書を読むとペテロが既婚者であることがわかります。

職業 :漁師。仕事仲間は弟のアンデレとやはり十二使徒のヤコブとヨハネのゼベダイ兄弟です。

聖書 :「1 Peter/ペテロの手紙一」「2 Peter/ペテロの手紙二」を記述しました。また「Mark/マルコの福音書」は記述者のマルコがペテロの伝えていた話をまとめて記述したとされます(つまり「マルコの福音書」は「ペテロの福音書」のようなものということ)。

名前 :元々の名前はシモン(意味は「聞く」)でしたが、後にイエスからペテロ(アラム語では「Cephas」。意味は「石」「岩」)と呼ばれました。

伝説 :言い伝えによると最後は上下逆さまに十字架にはりつけられたとされます。四世紀の歴史家エウセビウス(Eusebius)によるとペテロは最初に妻が十字架死に処せられるのを見せられ、その後自分が十字架にかけられるときに自分はイエスと同じように十字架にかかる価値はないと言って上下逆さにはりつけにされたと書かれているそうです。



Andrew (「ェアンドリュー」) :アンデレ

ペテロの弟です。

十二使徒のヨハネとはもともと仕事仲間で最初は二人とも洗礼者ヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネが救世主としてイエスを指し示すとイエスについて行き、兄のペテロをイエスに引き合わせます。

聖書を読むと表舞台には顔は出さないがいつも知人をイエスに引き合わせよううとする姿勢がうかがえます。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :父の名前はヨナ(Jonah/ Simon Bar-Jona)。十二使徒ペテロの弟。

職業 :漁師。仕事仲間は兄のペテロと、やはり使徒のヤコブとヨハネのゼベダイ兄弟。

伝説 :後にロシア、小アジア(黒海とアラビア間の地域)、トルコへ福音を伝えました。言い伝えによると西暦69年にむち打ちの刑に処されギリシアでX字型の十字架にはりつけられました。福音を伝え続けるなら十字架刑に処すと脅されたとき「自分が十字架を恐れるのなら最初から十字架による栄光について伝えるようなことはしない」と答えたそうです。さらに十字架の上で二日間苦しみ続け、その間も近くを通る人たちに福音を伝え続けたとされます。



John (「ジョン」) :ヨハネ

ペテロに次いで二番目に有名な使徒と言えるでしょう。最初は十二使徒でペテロの弟アンデレと共に洗礼者ヨハネの弟子でした。ヨハネはイエスとは特別に親密な関係にあり、最後の晩餐でイエスの胸にもたれかかって描かれているのはヨハネです。自分の記述した「ヨハネの福音書」では、自分のことを名前で言及せず、「イエスが愛した弟子」のように書き記します。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は「The inner circle」(側近者たち)と呼ばれ、いつもイエスと行動を共にしました。

「ヨハネの福音書」はクリスチャンに最も愛されてきた本で、この内容からヨハネは「愛の使徒」として知られるようになりましたがイエスの弟子になった最初の頃のヨハネの性格には、怒り、偏見、差別、自己中心的な行動が顕著に見られます。逆に言えばイエスを通じてどれほど人間が変わるかを示した使徒ということです。

ヨハネはイエスの十字架刑に居合わせた唯一の使徒でイエスは十字架の上から母マリアの面倒をヨハネに託します。またヨハネは復活後のイエスに最初に会った使徒でもあります。さらに言い伝えによれば十二使徒の中で処刑されずに自然史を遂げた唯一の使徒です。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :十二使徒ヤコブの弟。父のゼベダイは船や使用人を持っていたことから裕福な家だったと思われます。ヤコブと共にゼベダイの兄弟はイエスから「雷の息子たち」と呼ばれました(激しく怒るので)。母のサロメはイエスを処女懐胎したマリアの姉妹、つまりヤコブとヨハネはイエスの従兄弟と考えられています(これは聖書の記述にはありません)。

職業 :漁師。仕事仲間は兄のヤコブと、やはり十二使徒のペテロとアンデレの兄弟。

聖書 :「Gospel of John(ヨハネの福音書)」「1 John(ヨハネの手紙1)」「2 John(ヨハネの手紙2)」「3 John(ヨハネの手紙3)」「Revelation(黙示録)」の五冊を記述したとされます。

名前 :ヨハネの名前の意味は「神の恵み」です。

伝説 :後に小アジア(黒海とアラビア間の地域)で牧師をつとめました。言い伝えによると煮えた油の中に入れられるという迫害の刑を受けましたがこれを生き延び、その後恐らくロシアの皇帝によりパトモス島に追放され後に解放されました。十二使徒の中では最も長く生きた使徒で自然死を遂げた唯一の使徒でもあります。最後にはエペソの土地で死んだとされます。



James (「ジェイムズ」) :ヤコブ

十二使徒ヨハネの兄です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、いつもイエスと行動を共にしていました。またヤコブはヨハネ、アンデレと共に最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。

ヤコブは大胆で活動的で生まれついてのリーダー格だったようです。イエスの弟子となった当初は感情を爆発させ、偏見を持ち、自分のプライドを追求する面がありました。

ヤコブは最初に殉教した使徒です。最初の殉教者として目を付けられたのは、ヤコブの説教が効果的でエネルギーに満ち人々の注目を集めやすかったからではないでしょうか。民衆に与える影響力の大きさが警戒され、最も危険な存在として認知されたからではないかと思われます。

なお十二使徒のヤコブは新約聖書の「ヤコブの手紙(James)」を書いたヤコブではありません。「ヤコブの手紙(James)」を書いたのはイエスの弟で、エルサレムの教会の牧師を務めたヤコブです。ヤコブは多数登場するので混乱します。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

家族 :十二使徒ヨハネの兄。父はゼベダイ。

職業 :漁師。仕事仲間は弟のヨハネと、やはり使徒のペテロとアンデレの兄弟。

名前 :ヤコブの英語「James」は旧約聖書の「Jacob」(「ジェイコブ」と発音され日本語表記はやはり「ヤコブ」)と同じ名前です。意味は「かかとをつかむ者」「強引に取って代わる者」です。

伝説 :最初に殉教した使徒でヘロデ王により剣で首をはねられました。使徒の中で聖書に死が記述されているのはヤコブだけです(Acts 12:1-2/使徒言行録12章1〜2節)。つまりヤコブの死だけは伝説ではありません。



Philip (「フィリップ」) :ピリポ

使徒ヨハネと親しく、最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。イエスが一番最初に「ついてきなさい」と声をかけた使徒で、イエスを知ると即座にもうひとりの使徒ナタナエルに伝えました。

聖書に記述されたピリポの受け答えの様子を読むと、ピリポが信心深いユダヤ人で旧約聖書をよく研究し、救世主を心から待ち望んでいたことがうかがえます。

ピリポはまた現実的な使徒だったとも言えます。たとえばイエスがどうやってたくさんの群衆に食べるものを与えようかと問うたとき、ピリポはどれくらいの食料がいるか、どれくらいのお金が掛かるかを冷静に計算して解答しました。ピリポはイエスの行う奇跡を目にしても常識にこだわる傾向から抜け出せなかったようで、イエスの伝道が終わる頃にもイエスに「お父さんの姿を見せてください」と頼み、イエスは「これだけ長い間あなたと共にいたのにまだ私のことがわからなかったのですか。私を見た者は父をも見たのです」と答えました。

一方でピリポは人から声をかけられやすい使徒だったのかも知れません。ギリシア人から「イエスに会いたい」と声をかけられますが一人でイエスのところへ行くのが決まりが悪かったのか、まずその人たちをアンデレのもとへ連れて行き、それからそろってイエスのところへ行きました。

なおこのピリポは「Acts(使徒言行録)」で七人の教会助手に選ばれ、精力的に伝道活動を行ったピリポとは別人です。

生まれ :北部のガリラヤ地方。ガリラヤ湖の北東岸の町ベツサイダ(Bethsaida)出身。

職業 :恐らく漁師ですが定かではありません。

名前 :ピリポの名前の意味は「馬を愛する者」です。

伝説 :後にフリジアと小アジア(黒海とアラビア間の地域)に福音を伝えました。言い伝えによるとフリジアの町で石打ちの刑に処された後、十字架に逆さにはりつけられました。裸にされた上で足から吊され、できるだけ苦しませるようにとくるぶしと太ももを先の尖った棒で貫かれ、出血がゆっくりとした死をもたらすようにされたそうです。自分には救い主イエスと同じ方法で葬られる価値はないから死体を包む白い布で自分が包まれることを拒絶したとされます。



Nathanael Bartholomew (「ナサニアル・バーサラミュー」) :ナタナエル・バルトロマイ

ナタナエルはイチジクの木の下で、使徒で親しい友人のピリポからイエスのことを聞かされますが、最初は「果たしてナザレから救世主が来るだろうか」と疑いました。しかしイエスはナタナエルを「偽りのない、本当のイスラエル人」と称しました。つまりナタナエルは率直で正直、裏表なく偽善的な面もないまっすぐな人のようです。するとナタナエルは最初にイエスを神さまの息子、イスラエルの王と呼びました。

生まれ :ガリラヤ地方の町カナ(Cana)の出身。ナザレの北方6kmほどにある町。

名前 :ナタナエルの意味は「神さまの贈り物」。バルトロマイの意味は「トロマイ(Tholomai)」の息子。

伝説 :言い伝えによると後にピリポと共にフリジアに福音を伝えました。ピリポの横で十字架に打ち付けられましたが死を前にして十字架から降ろされました。それからインド、アルメニアへ伝道しましたがそこで生きたまま煮えた油の中へ入れられて死んだとされます。



Matthew Levi (「マシュー・リーヴァイ」) :マタイ・レビ

イエスに従う前のマタイは収税吏として支配国であるローマ帝国のためにユダヤ人から税金を集める徴税人の仕事をしていました。徴税人は支配国の手先として働き、不当に高い手数料を集めて裕福に暮らし、いつも権力を振りかざしていたので仲間のユダヤ人たちからは大変嫌われていました。

イエスを信じて30年が経ってもマタイは相変わらず自身を徴税人と呼びます。これは自分が罪深くまったく価値のない存在であったものを、イエスの慈悲により救われたことを忘れないためだと思われます。

マタイは私心なく自分の富を後にしてイエスと共に貧困の人生を歩むことを決心しました。謙虚で自分を徴税人と呼び続けただけでなく、自分の記述した福音書の中でも自分のことを書こうとはしません。自分については十二人の使徒の名前を列挙する部分を除いては、自分がどのようにイエスについて行ったか、その部分だけを書きました。

マタイは自分がイエスと出会う前に関わっていた仲間の徴税人たちにイエスに関する福音を伝えようとしています。ユダヤ人に嫌われる仲間たちと相変わらず交わることを恥じず、自分の伝えられる人たちに福音を伝えることを大切に思いました。

またマタイは自身のユダヤ人としての血筋を大事にし、旧約聖書をよく勉強し、他の福音書よりも多くの引用を行っています。祖国のユダヤ民族に呼びかけるための福音書を書きました。

生まれ :ガリラヤ地方、ガリラヤ湖の北岸にある町カペルナウム(Capernaum)。

家族 :アルパヨ(Alphaeus)の息子。十二使徒の小さいヤコブ(James the Less)は兄弟かも知れないそうです。

職業 :収税吏(ローマ帝国のために税金を集める徴税人の仕事)。

聖書 :「Gospel of Matthew」(マタイの福音書)。

名前 :マタイの意味は「神さまの贈り物」。レビの意味は「加わる者、あるいは指物師、建具屋」

伝説 :言い伝えによると15年間ユダヤ人に対して福音を伝えた後に、エジプト、エチオピア、ペルシャ、アラビア、マケドニア、シリアに福音を伝えました。マケドニアで火あぶりまたは首をはねられて殺されたそうです。



Thomas (「タマス」) :トマス

イエスの復活を知らされたときに信じなかったこと、イエスに復活の証拠を求めたことから「疑り深いトマス」(Doubting Thomas)として知られます。が、後にイエスの神性を語り、強い信念を貫きました。信じずに疑ったエピソードが必要以上に悪意をもって語られている使徒です。

トマスは自分が信仰のためなら死を恐れないことを公言しています。イエスが自分は地上を去るが、使徒たちはどうすればイエスのもとへ来られるかを知っていると告げたときには、「意味が理解できない」と訴えました。これも悪意をもって語られますが、つまりトマスは誰よりもイエスのもとへ行きたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。

復活したイエスが最初に信徒たちの前に現れたときトマスだけがその場に居合わせず、そのこともまた悪く言われますが、イエスの死の落胆があまりにも大きくて、事態が好転しても素直に受け入れられない、そういうことだったのかも知れません。イエスはトマスに、イエスを見ることなしに信じられたならずっと良かったですね、と言いました。

生まれ :ガリラヤ地方。

名前 :トマスは「デドモ」(Didymus)とも呼ばれます。どちらも「双子」の意味です。

伝説 :言い伝えによるとパルティアで福音を伝え、インドに教会を建て、東洋の宗教を信じていた人たちを多数イエスへと導きましたが、インドで祈りを捧げている間に槍で殺されたそうです。



Judas (「ジューダス」) :ユダ /Jude(「ジュード」) :ユダ /Thaddaeus (「サディーアス」) :タダイ

裏切り者のユダとは別のもうひとりのユダです。タダイの名前でも登場します。

聖書の中では一度だけ発言しただけで他のことはほとんどわかりません。最後の晩餐の席でイエスが自分は自分を愛し自分に従う者だけに自分を明かすと言うと、タダイは「どうして私たちにだけ明かして世の中には明かされないのですか?」とたずねます。タダイは多くのユダヤ人と同様に救世主が地上の王国で、地上の王として君臨することを考えていたのです。これに対するイエスの答えは「私を愛する人は私の言葉を守ります。そして私の父もその人を愛し、私たちはその人のところへ来てその人と一緒に住みます」です。

生まれ :ガリラヤ地方。

家族 :Luke 6:16(ルカの福音書6章16節)にはタダイがヤコブと共に住んでいると書かれています。イエスの兄弟にもユダとヤコブがいたことから混同されますが、この二組は別人です。またタダイが一緒に住んでいたヤコブは、もうひとりの使徒のヤコブとも別人とされます。

名前 :タダイは「勇気がある」「胸の子供」(たぶん末っ子のこと)の意味です。ユダは「賞賛」「主に従う者」の意味です。

伝説 :言い伝えによるとシリア、アッシリア、アルメニア、ペルシアで福音を伝え、癒しの力を授かっていたとされます。シリアの王を癒しイエスへと導いたとされています。シリアの王の従弟により矢で殺されたか、あるいは棍棒で殴り殺されて殉教したとのことです。



James the Less (「ジェイムズ」) :小さいヤコブ

詳しいことの知られていない使徒のひとりです。「小さいヤコブ」(James the Less)の呼び名も、身長のことなのか年齢のことなのか定かではありません。

生まれ :ガリラヤ地方。

家族 :もうひとりの使徒マタイと同じアルパヨ(Alphaeus)の息子と呼ばれることから二人は兄弟だという人もいますが、明確に聖書にそのように書かれているわけではありません。

名前 :「James(「ジェイムズ」と発音)」(ヤコブ)は、旧約聖書の「Jacob(「ジェイコブ」)」(ヤコブ)が新約聖書で変化した形。意味は「かかとをつかむ者」「強引に取って代わる者」です。

伝説 :言い伝えによるとパレスチナ、スペイン、イギリス、アイルランド、エジプトで福音を伝えエジプトで十字架刑に処されたそうです。



Simon the Zealot (「サイモン」) :熱心党のシモン

詳しいことの知られていない使徒のひとりです。当時ローマ帝国の軍国主義に反対する狂信的な政治結社として知られる「熱心党」の党員でした。

反ローマの熱心党員であったということは強く急進的な情熱の持ち主で、信念と行動力のある人物と想像できます。そういう人物が自分の政治活動を捨ててイエスに従ったと言うことです。

生まれ :ガリラヤ地方。

名前 :シモンは「聞くこと」を意味します。

伝説 :言い伝えによると、パルティア、ペルシア、バビロン、エジプト、アフリカ、イギリスで福音を伝えました。十字架刑による死とノコギリで二つに裂かれて殺されたとの二つの言い伝えがあるそうです。



Judas Iscariot (ジューダス・イスカリアト」) :イスカリオテのユダ

イエスを裏切ったことから人間の中で最も邪悪で恥ずべき人と考えられています。使徒の中で会計係をしていましたが、そうしながらお金を盗んでいました。それなのに金銭を惜しみ、また周囲の弟子たちに彼を疑う者がいませんでしたから表面的には善人を装っていたようです。

イエスはイスカリオテのユダを最初の頃から悪魔と呼び、ユダは三十枚の銀でイエスを売り、口づけの合図でイエスを裏切りました。

生まれ :十二使徒の中でただひとりユダヤ地方の出身者で、エルサレムの南40kmほどにあるカリオテ(Kerioth)の出身です。

名前 :ユダは「賞賛」「主に従う者」の意味です。イスカリオテは「カリオテの人」の意味です。

伝説 :ユダはイエスが死刑に処されることを知ると自分のしたことを悔いましたが、神さまに向き直ることはせず自殺しました。


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Herode the Great (ヘロデ大王)

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ローマ帝国は紀元前63年に将軍ポンペイ(Pompey)がパレスチナ地域の侵略に成功し、パレスチナは属領シリアの一部としてローマ帝国の支配下に入りました。ポンペイはその後ユリウス・カエサルとの権力争いに敗れて殺害されます(紀元前47年)。

ローマ帝国は属領の支配を総督(Governor)に委ねる直轄領とするケースと、支配地に王を置いて王にローマへの忠誠を誓わせるケースに分けて管理していたようで、ヘロデ(Herod the Great)はローマ帝国に制圧されたパレスチナの王です。在位は紀元前37〜西暦4年。息子たちと区別して「ヘロデ大王」、あるいは「大ヘロデ」と呼ばれます。

紀元前47年にヘロデは最初にパレスチナ北部のガリラヤ地方の総督に任命されましたが(つまり「直轄領」タイプ)、その後政治情勢をうまく読みながら紀元前37年には南部のエルサレムにまで勢力範囲を拡大して自ら「ユダヤ王」を名乗りました(この時点でパレスチナは直轄領ではなくなり「王支配」タイプへ移ったということです)。ローマ帝国の権威を背景に自ら名乗った王ですので旧約聖書の時代の王とは異なります。

建築マニアとして知られ、エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残しました。猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したことでも有名です。この中には自分に対して敵対的であったユダヤの最高議会(サンヘドリン)の指導的なメンバーたちも含まれます。このためヘロデとサンヘドリンは対立関係にありました。

ヘロデが西暦4年に没すると遺言に従って息子のアルケラオ、ヘロデ・アンティパス、フィリポスの三人の兄弟が後を継ぎました。このときユダヤ人はローマ帝国に使者を派遣してヘロデ王家の支配を廃してくれるよう要請しましたが聞き入れられませんでした。しかし一方でアルケラオが引き続き王を名乗ることもローマ帝国は許さず、後にアルケラオが失政を重ねたため住民によってローマ帝国へ訴えられ、アルケラオは解任されてガリアへ追放されました。その後でユダヤは再びローマ帝国の直轄領となります。

他の兄弟たちも王を名乗ることは許されなかったものの分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認めらましれた。西暦41〜43年の間だけヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤ王の称号を得ています。


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Pilate (ピラト)

出典・参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポンテオ・ピラト(Pontius Pilate)はローマ帝国の第五代ユダヤ総督です。在位は西暦26年〜36年。生没年や出身地などは不詳。ヘロデ大王の没後ユダヤはやがてローマ帝国の直轄領に戻りましたが、ピラトはローマ帝国から派遣された総督の五代目です。

ピラトはユダヤ人に対して常に強圧的・挑戦的な態度で臨み、エルサレム神殿での伝統的なユダヤ教の祭祀を挑発することもしばしばで、ユダヤの反ローマ感情を悪化させました。最後には住民の直訴によって罷免されています(ローマ帝国では非支配住民にも総督のリコール権があったことによります)。

ローマ帝国での総督の主要な役目は財務です。つまり土地や建物の管理、徴税、ローマ兵への俸給の支払いです。ピラトの時代には総督は公的には「長官(Prefect)」と呼ばれていて、西暦53年以降は「Procurator」と呼ばれました。新約聖書にはこれらタイトルで、ペリクス(Felix)やフェスト(Festus)が登場します。この頃には総督は財務を行うばかりでなく予備軍の部隊も保持していました。

ちなみにピラトの時代にはヘロデ大王は没していますからピラトと共に登場するヘロデ王は息子の代です。


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Paul (パウロ)

パウロは使徒ですが上に説明した十二使徒とは使徒となった経緯が異なります。

パウロは西暦10年頃にキリキア州タルソで生まれました。小アジアと呼ばれる地域、現代のトルコ南部の地中海沿岸の町です。当時のタルソは商業と学問の中心地として栄え、ギリシア文化とローマ帝国支配の影響を強く受けていました。パウロの家は敬虔にユダヤ律法を守るファリサイ派に属します。パウロは最初はサウロ(Saul)と呼ばれていました。サウロはユダヤ名(同じベニヤミン族出身の初代イスラエル王の名前)、パウロはローマ名と思われます。パウロの職業はテント職人でした。タルソは羊毛を使ったテント、船の帆、天幕、外套などの名産地として知られていました。

パウロはタルソ出身ですが育ったのはエルサレムで、ここで著名なファリサイ派の宗教学者ガマリエルから厳格な教育を受けています。当時の宗教学者の教育は教師と生徒のマンツーマンで14歳頃から40歳頃まで密室で行われていました。パウロが使徒となるのはこの教育プログラムの進行途上にあたり、パウロは最初は熱狂的なユダヤ律法の守護者でした。

イエスの十字架死と復活、その数日後に起こった聖霊の訪れ以降、エルサレムでは実際に復活したイエスに会った弟子たちが救世主イエスを通じた人間救済の計画についての伝道活動を活発に行い、初期の教会が形成されて次々と信者を増やしていきます。これに対抗してエルサレムや地方にあるユダヤ会堂はモーゼの律法を厳格に守ることを説いてイエスを認めずイエス信者の教会弾圧を開始します。ここにはパウロの出身地キリキア州の会堂も含まれていました。そんな中、教会のリーダーのひとりとして選ばれていたステパノは神さまを冒涜したとして最高議会に訴えられ、市外へ連れ出されて石打ちの刑で殺されます。パウロもステパノを告発した側に参加していました。

この後パウロは教会弾圧の急先鋒と化します。殺意に燃えてイエスの信者を脅し次々と各地の教会を襲撃しては信者を捕らえて牢に送りました。ところがあるとき大祭司の令状を持ってやはり教会を襲って信者をエルサレムへ連行する目的でダマスコ(現シリアのダマスカス)へ向かう途中、パウロの一行は天からのまばゆい光に包まれます。そして一行の中でただひとりパウロだけが「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞きます。「イエスは死んだ」として教会を迫害してきたパウロが実際にそのイエスに出会ってしまったのです。パウロはイエスに視力を奪われ、仲間に手を引かれてダマスコの町へ入ります。

イエスは次にダマスコの町に住む信者アナニヤに現れてパウロの元を訪れるように告げます。アナニヤは悪名高いパウロの評判を聞き知っていましたので最初は恐れますが、イエスはパウロがイエスについての知らせを外国人や異国の王たち、イスラエルの子孫へと運ぶためにイエス自身が選んだ器なのだと告げます。アナニヤがパウロの上に手を置くとサウロの目が開きます。ここからサウロはイエスを信仰し、教会に加わり、福音を伝える道を選びます。

パウロは他の信者たちと共に三度にわたって小アジア(いまのトルコ)やギリシア、ローマなど地中海北岸の町を旅して数え切れないほどの苦難を経ながらイエスに関する福音を伝えていきます。信者が得られるとその地に教会を設立してリーダー(牧師)を選び次の町へと移りました。ところがパウロが次の町へ去ってしまうと教会の中で内紛が生じたり、誤った信仰を伝える別の一団が現れて信仰をねじ曲げたりと設立されたばかりの教会をいろいろな危機が襲います。これらの噂がパウロの耳に届くとパウロは自分がその町にいたときに伝えた話の内容を思い返させるために何度も手紙をしたためます。これらの手紙が新約聖書の後半に収められている「〜への手紙」と題された書簡集です。

パウロが五旬節の祭りでエルサレムにいるときにアジアから訪れていた狂信的なユダヤ人がパウロを見つけて暴動を扇動しますが、パウロは鎮圧に駆けつけたローマ軍に保護される形で難を逃れます。カイザリヤへ送られたパウロは当時の総督のペリクスと後任の総督フェスト、さらにはアグリッパ王による審問を受けその途中でローマ皇帝への上告が認められます。

苦難の旅を経てローマにたどり着いたパウロは何年か皇帝ネロによる裁判を待ちます。ここまでのパウロの足取りは新約聖書の「Acts(使徒の働き)」やパウロ自身の書簡の中で明確にたどることができるのですが、この後は書簡の内容を手がかりにして推察するしかありません。パウロは最後にはおそらく死刑の判決を下され、言い伝えによるとローマ市外で首を切って処刑されたとされます。

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