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聖書とは

このページの目次
聖書に書かれていること
聖書を知るとは
文脈を知りたいと思いませんか

聖書に書かれていること

簡単に言うと

聖書には何が書かれているのでしょう。

聖書は英語では「Bible(バイブル)」と言いますが、これはギリシア語の「ビブロス」から来ていて、「ビブロス」は「本」のことです。「本」を「ビブロス」と呼ぶようになったのは、当時地中海でパピルス(紙)を輸入していたフェニキアの港町が「ビブロス」と呼ばれたことに発しているようです。つまり「Bible」=「本」なのです。神聖なる神さまのことに関わる本だから、英語では「Holy(ホーリー:神聖な)」を冠して「Holy Bible」と呼び、日本語では「聖」の文字を冠して「聖書」としたのでしょう。どちらにしても「聖書」のタイトルの意味はただの「本」です。

聖書の中は大きく、旧約聖書と新約聖書に分かれます。実際には聖書の中には66冊の独立した本があり、これが大きく旧約聖書の39冊と新約聖書の27冊にまとめられています。単に「本」を意味する「聖書」という言葉の前に、ここで「旧約」と「新約」の二つの言葉がつきました。これらの意味は何でしょう。

「旧約」と「新約」、それぞれに含まれる「約」の文字は、契約・約束の「約」です。つまり「旧約」と「新約」は「古い約束」と「新しい約束」になります。旧約聖書は新約聖書よりも前に書かれた本の集まりなので、最初に結ばれた約束と後から結ばれた約束をそれぞれ「古い約束」「新しい約束」と呼んだのです。なるほどなるほど。だとすると次の質問は「それはどんな約束なのですか」ですね。

大まかに言うと旧約聖書は「救世主の訪れ」を約束し、新約聖書は「救世主の再来(もう一度来ること)」を約束しています。まず最初に旧約聖書が「救世主が来ます」と約束し、新約聖書の最初のところで、その約束どおりに救世主イエスが訪れます。新約聖書の中ではその救世主イエスが「自分はもう一度来る」と約束しています。簡単に言うと聖書はそういう本です。

こう書くといかにもシンプルに聞こえますが実際に本を開いてみるとどうも理解に苦しむ。そんな単純な本には見えない。そもそも「救世主」、英語では「Savior」「Messiah(メシア)」)と呼ばれる存在の意味がわからない・・・、というようなことになります。その救世主とやらはいったい誰を何から救うのか・・・。実はその意味を知ることが聖書の書かれた理由、究極の課題だったりするのです・・・。

このセクションでは聖書の理解を難しくしている、その理由についていくつか書いてみようと思います。

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聖書を知るとは

どうしたら「聖書を知った」ことになるのか

私が最初に切実に「聖書について知りたい!」と思ったのは英語の教会の礼拝に通い始めた頃です。牧師さんが説教の途中で、たとえば「Luke chapter 2, verse 11(ルカの福音書2章11節)を開いて」と言うと、まわりの人がみんな一斉にパラパラと聖書のページをめくって言われたページをほぼ同時にサクっと開くのを見たときです。「おお〜、カッコイイ!」「自分もあんな風になりたい!」というのが正直な気持ちでした。

何回か教会に通って説教を聞いていると、どうやらまわりのみんなは聖書に収録された「Gospel of Luke(ルカの福音書)」などの各本が聖書の中のどのあたりにあるか、の他にも「暗黙のうちに知っているはずの事柄」があるらしいことに気づきました。はっきり言って「聖書の各本が聖書のどのあたりにあるか」は、他の人より時間がかかったとしても「目次」を見れば見つかるわけです。そうではなくて長い間聖書や教会と親しんできたことで身に付いている何か、特別な知識があるようなのです。

それはだいたい次のようなカテゴリに整理できると思います:

聖書の構成 :聖書に収められた各本の名前と、そこに書かれている主な内容。
主な登場人物 :旧約聖書なら、アブラハム、モーゼ、ダビデ、ソロモンを初めとする登場人物、新約聖書なら、イエス、洗礼者ヨハネ、マリア、ペテロ、パウロを初めとする登場人物。実際はもっともっとたくさんの登場人物を知っています。
地理や歴史背景 :聖書は地中海の一番奥の東の海岸のあたり、中東地域、いまのイスラエルの国周辺で起こる物語です。この地域の地理と歴史背景がある程度頭に入っています。
世界観 :聖書は世界の「始まり」から「終わり」までを記録しているのですが、その「始まり」から「終わり」までの間に、どんな出来事がどのような順番で起こるかについて。このとき「始まり」から「今日」まではすでに起こった事柄ですが、「今日」から「終わり」まではこれから起こる未来の出来事です。
教義 :「神とは何か」「罪(sin)とは何か」「救いとは何か」と言った聖書の「解釈」にあたる部分。言い換えると「聖書を読むと神とはこういう存在らしい」「聖書を読むと罪(sin)はこういうことを指すらしい」「聖書を読むと救いとはこういうことを指すらしい」というもの。「教義」は英語では「doctrine(ドクトリン)」と言います。

私は無性にこれらについて知りたくて知りたくて仕方なくなりました。しかも手っ取り早く(笑)。そこで書店で本を買って読みあさりました。「すぐわかる聖書」とか「世界の宗教」などの入門書的なものからある程度専門的なものも少し。結論は、入門書的なものはどうも嘘臭く(本当にわかって書いてるの?)、専門的なものは難解なものが多く意味不明でした。

中にはバランス良く書かれた本もあることはあるのです、そういう本は日本語の意味はわかるのですが、本質的に何を言っているかがわかりませんでした。たとえば「人は救われるためには生まれ変わらなければならない」と書かれていたら、日本語として平易ですから文章の意味は理解できますが、「救われる」(何から?)とか「生まれ変わる」(どうやって?)がわかりませんよね。そんな感じです。また本の探し方も悪いのでなかなか良い本に巡り会えませんでした。

結局私は聖書とは何かを追い求め勉強したのです。そして教えていただいたのです。時間がかかりました。「手っ取り早く」なかったですがようやくおおまかなところがわかりました。それをこのホームページに書きます。

聖書の構成は別出しにして「聖書の構成」のセクションを設けていますので何度でも見てください。主な登場人物は「新約聖書を読む」と「旧約聖書を読む」の中で説明します。地理や歴史背景は「最初に読む基本情報」セクションに書きます。世界観はあちらこちらに分散して載ります。「聖書の構成」の中や「聖書の興味深い話」の中のコラムのいくつかの中で、後には「聖書研究」の中で「終末論」を聖書の中から抜き出したいと思っています。教義の中には上にも書いたとおりいろいろなトピックがありますから(「神」「罪(sin)」「救い」、・・・)、このホームページ全体でカバーされるイメージです。


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文脈を知りたいと思いませんか

聖書は辞書ではない

教会の礼拝に通ったり聖書を何度か開く機会があると、どうやら聖書が辞書や格言集のような書物ではないことに気づきます。つまりそもそも特定の目的に応じてこういうときにはここを読むというような、いちいちニーズに合わせた答を提供する目的で作られた本ではないということです。どうやら聖書は一冊の全体に意味があり、ある種物語のように流れているようなのです。

たとえば新約聖書に次の一節があります:

Romans 10:9 [NLT]/ ローマ人への手紙10章9節 [新改訳]

If you confess with your mouth that Jesus is Lord and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved.

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

どうでしょうか。英語も日本語も文章の意味はわかります。自分の口で「イエスは主です」と言い、自分が「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じるなら自分は「救われる」と言っていますね。それはわかります。でも、だから告白するか、だから信じられるかと言うと、それはそれ別の話です。事はそう簡単ではありません。あるいは「イエスは主です」と自分の口で告白し「神はイエスを死からよみがえらせた」と信じます!と言ったところで、それで本当に自分が「救われた」のか確信が持てません(「主」ってどういうこと? イエスはよみがえったの? だいたい何から救われたの?)。

こうやって聖書の一部が引用されるときには、私はいつもまず文脈が知りたいと思いました。著者はどういうことを伝えようとしてこの一節を書いたのか、それを知るためにこの部分の前後のつながりが読んでみたい、と。前後を少し読んでもわからなければもう少し前からもう少し前からと範囲を広げていって、とにかく何か自分で判断を下す前に著者の言い分について論理的に納得したいと思いました。

これって自然だしフェアだと思います。同意ですか? でもひとつだけ。「本能」とか「直感」てありますよね。論理的には説明できないけど「好き」とか。言葉ではうまく説明できないけど「ヤバい」気がするとか。そういう心にガツンと来る何かは大切にした方が良いと思います。その「ガツン」と来る気持ちを大切にしながら、調べていくのが一番良いと思うのです。

何しろ「神さま」のことを書いた本なのですから最後まで論理で割り切れるはずがありません。でも聖書の中で神さま自身が預言者を通じて次のように呼びかけています:

Isaiah 1:18 [KJV]/ イザヤ書1章18節 [新改訳]

Come now, and let us reason together, saith the LORD: though your sins be as scarlet, they shall be as white as snow; though they be red like crimson, they shall be as wool.

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

この部分私は「Come now, and let us reason together」の響きが好きなので、ちょっと難解ですが[KJV]で引用してみました。「reason」は名詞で「理由、わけ、動機」などを意味しますが、動詞になると「(論理的に)論じる」です。つまり[新改訳]にあるように「さぁ、来なさい。一緒に論じ合おうではないか。」と神さま自身が人間に呼びかけているのです。だから「ガツン」と来る直感・霊感を大切にしながら納得するまで調べて行きましょう。




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