【廃墟マニヤ File062】
O山公園(徳島県)
(その2)
かなりお気楽ごくらくな人生を送っている私ですが、さすがに学生時代のように思い立ったら即出発というわけにはいかず、結局四国に向かうことができたのは、年を越してだいぶ経った今年(2015年)の5月のことでした。
この「O山公園」、有名なつり橋の近くにあります。観光客の間を縫うように狭い道を進み、山の奥の方へ入っていくと、路肩のスペースに案内看板が現れました。左の赤い部分が現在地なのですが、実際の公園とこの看板がほぼ同じ大きさで描かれていますよ!?
※Web上に残る昔の写真を見ると、この横に「O山公園」の巨大な看板があったようです。とはいえ、そんなに大きく表示しなくてもいいと思うのですが……。
谷の向こう側に巨大な看板が見えてきました。「O山公園 地獄洞窟 天国動物 駐車無料」と書かれているんですけど、「天国動物」ってなんでしょう?
看板のついた建物の屋根が壊れているので、「閉園してから時間が経って傷んじゃったんだなぁ〜」と思ったら、荒川さんが訪問した2006年には既に壊れていたようです。
看板から少し進むと入口に辿り着きました。
人の気配はまったくなく、管理している人もいないようです。
受付の建物の前には、焼きものの像とこの公園の由来が書かれた碑が建っています。
一応このサイトは資料性を考えているので、全文を下に記しておきますが、まあ興味の無い方は飛ばしてください(もちろんカッコ内は私の追記で元の文には入っていません。また「O」は「お」ですね)。例によってスーパーダイジェストでお伝えすると「なんか古くからの謂われがあるこの場所に昭和51年(1976年)10月、山口健二氏が公園を造った」ということです。ちなみに山口健二氏は、地元出身の工務店を経営する人物だったようです。
【以下碑の文】
O山公園
今を去る約一二○○年前 恵伊羅御子と小野老嫗(※文字化けしてたらすみません)のお二人が 風雲の如くこの地に現れ原住民に対し優れた知能と知識をもって農耕や機織の技を教えた
住民は お二人を畏敬し祖谷開山の祖神として崇め この地一帯を「O山」さんと呼び 墓所に祠を祀り崇拝した ここに往昔の恵伊羅御子と小野老嫗の御遺徳を偲び永く後世に語り継ぐ一助にと 由緒深き「O山」を公園とし 奇橋かずら橋と平家の公達が遠く都を想い琵琶を奏でたという琵琶の滝を結び秘境祖谷を訪れた人々の心のふれあいの場として 昭和五十一年十月に開園した
平成元年十月吉日
祖谷拓き O山に眠る
恵伊羅御子
現代の姿を
何と見るらん
山口健二
こちらの像はどうやら福禄寿っぽい感じです。
受付の建物は、もう使われなくなってだいぶ経つ様子。看板を見ると、現役時代の入場料は大人600円、小人200円だったようです。
よく見たら上部の文字が右から左へ書かれています。念のためヤングメンたちに言っておくと、昭和51年には既に横書きは左から右が一般的ですからね。トラックの側面に書かれている文字のように、入口から園内という流れに合わせたのでしょうか。
トンネルのゲート前に掲げられていたウエルカム口上(?)ボード。サイズが小さくなってしまったので、これまた念のため全文を載せておきます(一部文字が欠落しているので補っています。文章&文字は一部「?」の箇所もありますが、看板に書かれているままにしておきました。もちろんこちらの「O」も「お」ですね)。
【以下看板の文】
歓 迎
本日はようこそO山公園にお越しいただき誠にありがとうございます。この洞窟は昭和51年に社長山口健二が還暦を記念して、私財を投じ建設し O山公園と名付け開園したのであります。更に平成5年に喜寿を迎え洞窟内に大佛坐像 不動明王を弘法大師立像も勧請祭祉し、地域の安寧と世界が平和でありますよう祈念すると共に天国の映像をご高配下れば幸いに存じます。
富士観光株式会社
各地に造られたコンクリート観音像建立の経緯などを見るとわかるように、人はある程度財を成すと「地域安寧」や「世界平和」を願って観音や大仏をつくりたくなるようです(観光の人集めが第一で、「世界平和」は後付けの理由だという気もしますが……)。
それよりこの看板で気になるのは、「天国の映像」なるものを上映していたようなことが書かれている点です。まあ、それについては後ほど検証してみることにしましょう。
ご存知かもしれませんが四国はタヌキの聖地となっていて、タヌキの妖怪など様々な伝説が残っているせいか、行く先々でこのようなタヌキの像に遭遇しました。
さて、入口周辺はだいたい確認したので、ちょっと内部の様子を見てみたい感じです。とはいうもののこちらのゲート、高さは3メートル近くあり、しっかり鍵も掛かっています。う〜ん、これは今流行のドローンを使うしかないですかね……。
(続く)
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