「癌になった」というストレスはなかなかのもので、告知後一週間も経つと、
さすがに身体に症状が出るようになってきた。肩が重く、左の脇の下から胸に
かけて違和感があり、時々めまいもした。特にこの頃から鼠蹊部あたりが重苦
しくて、背中にもいつも固いものが張り付いているような感覚があった。それ
でも、食欲が無くなる、ということは無く、玄米、きのこを毎食、お肉とお砂
糖をやめて、野菜をたっぷり、という食事を、できる限りしっかり摂った。
e−クリニックから入会の資料が送られてきた。わたし宛の丁寧な解説とアド
ヴァイスと、自分でする生活の基本などが書かれていた。他にも読む本がたく
さんあったので、斜め読みしただけで放り出してあったのだが、数日後e−ク
リニックから電話があった。
「資料を送りましたが、お読み頂けましたでしょうか?」
スタッフのFさんだった。これにはとても驚いた。もう会費は払ってあるわけ
で、あとはこちらがどうやって必要な時にe−クリニックを利用するか、とい
うだけだ、と思っていたので、大阪から札幌まで、わざわざ電話がかかってく
るなんて、思ってもいなかったのだ。
「はい、大体・・」
今、集中して気持ちを前向きにし、するべきことをしっかりしてください、と
いうFさんの説得に圧倒されながら、そうか、とにかく行動することだ、と思
い、食事や健康食品について相談にのって頂いた。
重苦しい不安に包まれてはいるのだが、当面何をするべきか、と考えていると、
とりあえず前が見えてくる。本当にありがたかった。
2月5日、午後からKクリニックで検査があった。そろそろ入院中に必要なも
のを揃えなければならなかったので、娘につきあってもらって、午前中、デパ
ートで買い物をした。一緒にゆっくり買い物をするのは何年ぶりだろう。前開
きのパジャマを選ぶ時など、娘の方が勘とセンスがよくて、てきぱき選んでく
れた。東京で一人暮らしをしてから2年近く、ずいぶん頼りになる大人になっ
てくれた、と、とても安心した。
「検査は待ち時間が長いから、来なくてもいいよ」と言ったのだけれど
「病院までの行き方を覚えたいし、一緒に行く」と言ってくれた。
少しでもお母さんと一緒にいたい、という娘のまっすぐな気持ちが伝わってき
て、嬉しかった。
検査は、胸のレントゲンとサーモグラフィとエコーだった。乳癌は肝臓と肺と
骨に転移しやすい、ということで、その3箇所を調べ、転移が無ければ予定通
り16日に入院、ということが決まっていた。
「もしあちこちに転移していたら、どうなるんですか?」と訊ねたら
「その時はもう、乳房を全摘してもあまり意味がないので、見えるところだけ
切って、あとはS医大の方にお願いする、ということになります」と言われた。
丁寧に説明されると、そういう可能性も高いのか、という気持ちになって不安
が募った。
胸のレントゲンが終わり、サーモグラフィを撮った。癌が出来ていない右の乳
房の温度分布は、とてもきれいなブルー、乳輪がくっきりきれいに出た。左の
乳房は、癌のところは高温を示す赤、他の部分もグラデーションで色々な色が
あり、右と対照的だった。
10年以上前に、婦人科で乳癌の検診を受けた時に、両方とも何もないきれい
な色だったのを思い出し、「あの時まで時間を戻すことができたら・・」とい
う思いが、一瞬頭をよぎった。
胸と脇と鎖骨部のエコーの検査中、寝ながら顔を向けてモニターを見あげた。
癌の部分に赤い線が動いて、活発な血流があるのが見える。そして、左脇の下
を撮った時に、同じように活発な血流が見て取れた。
「あ、リンパ節転移は、あるんだ」
そうわかっても、何か他人ごとのようで特になんの心の動きもなかった。
前の週に受けた骨シンチの結果がわかっているので、この日に骨への転移があ
るかどうかを知らせる、ということだったのだけれど、検査が終わってからの
診察で
「結果は全部揃ってから、来週の水曜日に知らせます」と言われてしまった。
診察が終わって待合室に戻ると、娘が「どうだった?」と聞いてきた。
「リンパには行ってるみたい」
「え?・・・・・」
娘の不安を見て初めて、大変なことかもしれないんだ、という実感が湧いてきた。
暗くなった街並みを重い足をひきずって家に帰ると、夫が食事の支度をしていて
くれた。身体が重苦しくて、食べたいという気持ちにならないのに、3人で話し
ながら食卓についたら、いつも通りにおいしく食べられた。
夫にも、リンパ節転移があるらしい、と伝えると「そうか・・」と口が重くなっ
た。このあたりから、いてもたってもいられない、パニックのかすかな予兆が始
まった。鼠蹊部の違和感が募ると「もしかしたら、鼠蹊部のリンパも腫れている
のかもしれない」と思い、めまいがすると「脳に転移してるんじゃないだろうか」
と考え、「身体が重いのは、肝臓が機能していないからじゃないか」と心配にな
った。
そうなると、先へ先へと心配が募り、入院したら当分戻って来られないかもしれ
ないから、銀行の貸し金庫の暗証番号を夫に教えておかなければ、とか、在宅ホ
スピスで何をどの程度してもらえるのか、調べておこう、などと、最悪の状況を
考えて過ごした。
翌日はピアニストに担当を代わってもらった、カルチャーの一日講座だった。
顔を出そうか、やめておこうか、朝から迷いに迷って、とりあえず着替えをし、
午前中をひとりで過ごした。夫は仕事、娘はアルバイトだった。
ひとりでいるとどんどんマイナスの想いにとらわれて抜けられなくなってしまう。
これでは行かれない、と思い、鏡の前でその日みんなで歌うはずだった中島みゆ
きの「地上の星」を、本気でしっかり歌った。
自分でも驚くほどたっぷり声が出た。
想いはマイナスの方に囚われているけれど、身体は前向きになっているような、
或いは、不安の固まりになっているのに、その不安がエネルギー源になり声にな
って発散されているような、引き裂かれた状態だった。
「よし、行ける。行った方がいい」と思い、自宅からタクシーで行った。
最後の15分を見学し、受講生のみなさんに笑顔を見せて安心してもらうことが
できたが、2週間前、告知の翌日に一緒にお茶を飲んだ時にくらべると、不安や
悲観的な気持ちがとても強くなっているのが自分でよくわかった。この楽しいク
ラスで一緒に歌うことは、もう二度と無いのかもしれない・・・そんな思いが頭
から離れなくなって、みなさんと別れる時には笑顔が固まってしまった。
翌日の金曜日、2月7日のコーラスの練習で、すべての仕事が終わり、あとは入
院を待つだけ、ということになった。
この日も最後の15分顔を出すことになっていた。ちゃんと練習できるだろうか、
泣いてしまうんじゃないか、と心配だったが、久しぶりにメンバーの歌声を聴い
たら明るい気持ちになり、15分だったけれどほぼ普段どおりに練習出来た。わ
たしがとても大切に思っている曲、三善晃作曲、立原道造作詞の「或る風に寄せ
て」が、この合唱団の声で歌われるのを初めて聴いた時、不安がぎっしりつまっ
て硬くなっていた身体に、すーっと風が吹きぬけたように感じ、不安が消えて心
が軽くなった。
練習が終わった後、「手術前にニンジンジュースをたくさん飲むといいですよ」
と言いに来てくれたメンバーや、「頑張って!」と握手をしに来てくれたメンバ
ーがいた。
「ありがとう!」と明るく言いながら、大勢の人を相手にする指揮者という仕事
を持っていたことが、癌を告知されたわたしの大事な支えになっていたことを改
めて実感し、心からありがたいと思った。