【廃墟マニヤ File072】

T玉金山(福島県)

(その14)

川のようになった通路

建物を出て、反対側へ登っていくことにします。道はレンガ風のカラー舗装となっていますが、ご覧の通り最近は通る人もいない様子。しかも大量の水が川のように流れており、場所によってはくるぶしを超える深さで、もう足がずぶ濡れですよ!

 

入口

最初のほう(その4)に登場した白い建物の裏側2階部分に出ました。恐らく坑内観光後、この施設を通って外へ出るような動線となっていたのでしょう。当然のようにこちらも施錠されていました。

 

金山歴史の看板

藪の中に、この金山の歴史を説明する看板が埋もれていました。ここで、この鉱山の歴史を簡単に説明しておくので、興味のある方だけお読みください。

 

この金山は戦国時代の天正元年(1573年)、会津領主・芦名盛興(もりおき)によって拓かれました。慶長年間(1596〜1615年)には、既に金山として名を知られるようになっていましたが、その後しばらく採掘が中断されていた時期があったようです(理由はわかりませんが、人力で掘れる鉱脈を掘り尽くしたのかもしれません)。

1890年(明治23年)になると、肥田昭作という元官僚の実業家がこの鉱山を受け継ぎ、1903年(明治36年)に青化製錬を開始。近代的な鉱山としてのスタートを切ります。しかしわずか5年後の1908年(明治41年)、日立鉱山への売鉱に転じることになります。

1918年(大正7年)、日立鉱山を経営していた久原鉱業に買収され、1929年(昭和4年)には日本鉱業の経営となって、近代化が進められます。この鉱山のピークは1935〜36年頃で、年間の金生産は1トンを超えたそうです。

その後、太平洋戦争が始まると金鉱山整備令により一時閉鎖されますが、戦後操業を再開。1962年(昭和37年)、それまでの日本鉱業・T玉鉱業所は廃止され、T玉鉱山株式会社としてスタートします。しかし、この頃から国内の金属鉱山は衰退を始めており、このT玉金山も例外ではありませんでした。1976年(昭和51年)には生産を休止。閉山となってしまいます。

そうして最初に書いたとおり、1996年(平成8年)に観光鉱山として再出発しましたが、現在はご覧のような状態です。

 

青木葉

さて、看板のあったところから少し登ると、今度は先ほどの白い建物の最上階へ連絡する鉄の通路がありました。これまた施錠されたドアから中を覗いた印象では、こちらの「青木葉」というのは、飲食できる休憩所だったようです(駐車場にあった店と同じ名前ですね)。

 

水の流れる通路

さらに水の流れる坂道をザブザブ登っていくと……

 

坑口

坑口に出ました!

 

軌道

トロッコ電車の軌道です。それはさておき、やっぱりこの大量の水は坑口内から流れ出てきてるじゃないですか!

 

坑口

坑口上部には巨大な扁額が掛かっています。鉱山現役時代からのものでしょうか?

 

坑口

長靴はクルマの中に置いてきてしまったし、なにより穴の中には基本的に入らないことにしているので、坑道入口の扉に鍵が掛かっているかすら確認しませんでした。まあ、内部にあるという観音像などに興味が無かったというと嘘になるのですが……。

ということで、期待していた方には恐縮ですが、坑道内の写真はありません。


(続く)


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