主要人名事典

 アウグストゥス Augustus ローマ B.C.63〜A.D.14
 オクタヴィアヌスを参照

 明智 光秀 日 1528?〜1582
 信長四天王の一人。有名な本能寺の変信長を討つが、その11日後秀吉に破れ小栗栖で土民に襲われ死亡した…というのが定説ではあるが、英雄なれば御多分に漏れず、多くの生存説がある。もっとも有名なのは家康の参謀南光坊天海=光秀というもの。これは光秀の位牌のある京都府北桑名郡周山村の慈眼寺の名と、天海の諡名である慈眼大師の奇妙な一致、また天海の前半生が不明な点、さらに天海ゆかりの延暦寺には1615年に光秀が寄進したと伝えられる石灯篭があることなどがその根拠となっている。
 天海説以外にも、「荒深小五郎」を名乗り、今で言う岐阜県美山町に隠れ住んでいたという伝説もあり、その墓所も伝えられている。この説の場合、光秀は関ヶ原に向かう途中、川に流されて死亡したことになっている。
時は今 あめが下しる 五月かな

北畠信雄の項も参照

 足利 義昭 日 1537〜1597
 室町幕府第15代将軍。信長に擁立され征夷大将軍となるも、後に信長と反目し兵を挙げるが敗北。追放され流浪するが、最後は秀吉に捨扶持を与えられ出家する。
 この義昭を時代を読めない暗愚の将と見る向きもあるが、必ずしもそうとは言い切れない。将軍となった以上、地に落ちた幕府の再建に尽力するのは当然であるし、そのために無きに等しい幕府の力に頼るのではなく、最強クラスの大名を利用するというのは間違っていない。利用する大名も拮抗する複数の有力大名を同時に利用し、権力の寡占を防ぐというのも悪くない発想といえる。信長に追放された後も西国の雄毛利家を利用しようとしたことだって正しい。結局彼は何一つ間違ったことはしていない。それでも彼が成功しなかった理由は二つ、歴代将軍の怠慢のツケを一身に背負わされたこと、そして何より、信長の神懸り的な強運の前には如何なる神算鬼謀も及ばなかったことである。
 なお、義昭は京を追放されたとはいえ、将軍職を解任されたわけではない。その後も征夷大将軍であり続けた。秀吉が将軍になれなかった決定的な理由は源氏の血をひいていなかったからではない。まだ将軍義昭が健在であったからだ。義昭は最後まで秀吉に将軍職を譲ることを拒んだ。足利将軍最後の意地であった。

 井伊 直政 日 1561〜1602
 徳川四天王中最年少でありしかも唯一の新参者であるが、最高禄の上野箕輪12万石を与えられた。
 武田家滅亡後、旧武田軍団を受け継ぎ、「井伊の赤備え」と恐れられた。関ヶ原でも一番槍をつけるなど戦功めざましく、筆頭家老酒井忠次引退後は実質四天王の長であった。

徳川家光の項も参照

 石川 五右衛門 日 ?〜1594?
 室町時代の泥棒。彼の人生についてはほとんど分かっておらず、はっきり分かっているのは彼が泥棒で、1594年頃に京都三条河原で釜茹刑に処せられたことぐらいである。しかし、たかが盗人に釜茹刑とは当時としても非常に異例であったことから噂が噂を呼び、歌舞伎や浄瑠璃などの演目で秀吉の命を狙ったとか天下を覆す大泥棒にまつりあげられてしまった。しかも、五右衛門を扱った最初のものでも五右衛門の死後100年近く経った1680年頃の松本治太夫による「石川五右衛門」である。
 辞世 石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ

・参照 死ぬときは畳の上で…

 一休 宗純 日 1394〜1481
 臨済宗の禅僧。大徳寺47世住職。とんちの一休さんとして日本仏教史上もっとも有名かつ親しまれた僧。彼が機知に富んだ人物であったことは確かであるが、とんち話はほとんどが江戸時代以後に書かれたものである。しかし、彼が諸国を漫遊し、俗化した僧や寺院を批判しながら教化運動をしたことは確かで、多くの伝承が残っている。
 なお、1月9日は「いっきゅう」ということで、とんちの日である。

村田 珠光の項も参照

 犬養 毅 日 1855〜1932
 政治家。第29代内閣総理大臣。戦前最後の政党内閣である政友会内閣を組織した。憲政の神様と呼ばれる。幼名は犬飼当毅(イヌカイ・マサキ)。後に姓を犬養に変え、その後名も毅に改めた。彼の名は“イヌカイ・ツヨシ”と呼ぶのが普通だが、中年期は犬養はこの字で“ツヨキ”と読ませていた。“ツヨシ”と呼ぶのは晩年である。号は木堂。文筆家としても優れ、白眼道人の名で「海運料」などの政治小説を出している。
 潔癖主義者で厳格な性格であったが、泣き所は孫の道子。バラの造花を嗜み、家人が作品に触れることすら許さなかったが、道子にだけは自ら切り与えていた。あるとき甥っ子が勝手に造花を切っているところを見つけ、叱ろうとしたが「道子に頼まれた」と言ったら許されたという。これほど溺愛していたから、マスコミ関係者は組閣人事など知りたいことがあったらまず道子のところへ行ったという。
 首相とはいえ政友会は万年野党の貧乏政党である。毅の妻千代は倹約家で、客用の饅頭などは客が手を付けなければ懐紙が破れるまで繰り返し出した。そのままで出せなくなると練り込んで出したという。あるとき、道子がキューピー人形で遊んでいるのを見て思いつき、三越の玩具部長を呼び出した。翌年から犬養家の鏡餅はセルロイド製になった。
 五・一五事件で海軍の凶弾に斃れたとき、“話せば分かる”といったと伝えられるが、これでは事実の本質を捉えていない。事件のとき、道子ら家族も現場にいた(千代はいなかった)。犬養は将校らを家族から離すため“とりあえずこっちで話を聞こう”と言って、わざと家族から離れた居間まで案内したのだ。十分離れたところで、“話を聞こうか。とりあえず靴を脱いだらどうだ”といったところ、“話すことは何もない”と殺されたのである。いわば家族のために囮になったのである。

 井上 円了 日 1858〜1919
 明治時代の仏教哲学者。東大在学中に国粋主義に傾倒し、“政教社”を創立し明治時代の思想界をリードした。1887年、哲学館(現・東洋大学)を設立。迷信の類を否定し、“不思議研究会”を設立して妖怪学を提唱し全国で講演を行ったため、“妖怪博士”と呼ばれた。

 今井 宗久 日 1520〜1593
 茶人。武野紹鴎の女婿で堺の豪商。信長秀吉に使え、「天下三宗匠」の一人に数えられる。著書「今井宗久茶湯日記書抜」は当時の茶を知る貴重な資料となっている。

千 利休の項も参照

 聖ヴァレンタイン St.Valentinus 伊 ?〜269頃
 聖ヴァレンタイン(ヴァレンティヌス)は2人いる。一人はローマの司祭であり、医者でもあった人物で、信仰のために投獄された信者に奉仕活動を行ったため自らも269年頃フラミーニオ街道で斬首された。もう一人はテルニの司教で、同年・同じ場所で斬首されている。両者を同一人物と見るかなり有力な説もある。いずれにせよ、男女の愛の告白とは何の関係もない

・参照 ヴァレンタイン

 上杉 謙信 日 1530〜1578
 戦国武将。彼の指揮した越後軍団は戦国最強を謳われる。強さと義侠心を兼ね備えていたため現在でも歴史ファンの絶大な人気を誇る。しかし、謙信が武将として優れていたことについては文句はないが、名将乃至賢将であったかについては甚だ疑問である。少なくとも統治者としてはとても及第とはいえる人物ではない
 それを証明する事実はいくらでもある。まずは、彼が領土的野心を持たなかったということである。謙信ファンに言わせれば無欲で純粋な姿がいいと言うのだろうが、戦国にあって野心のない武将に価値はない。戦に勝っても領土が増えないならば、兵を疲弊させるだけである。せいぜいいいように利用されるだけである。
 第二が中世的権威から脱却できなかった点である。謙信が関東管領の大義名分で動いていたことは有名である。これもファンに言わせれば謙信の軍は正義の軍であるということになるのだろうが、こんなのは単なるアナクロニズムにすぎない。戦国という歴史の大変革期において失墜した室町幕府の権威に執着するようでは長期的展望に欠けていると断ぜざるをえないのだ。
 そして統治者失格の決定的証拠は1556年の遁世事件である。日々繰り返される領土争いに辟易した謙信は、国主の責任を放棄し突如として引退を宣言し越後を出奔してしまう。遁世の宣言書を要約すると“私は越後安定のために一生懸命やってきたのに家臣たちは派閥争いばかりで全然いう事を聞いてくれない。これでは私の立場がないから引退する。あとは勝手にやってくれ”である。要するに“めんどくさいからやーめた”ということである。大馬鹿者と言わざるをえない。
 また義侠心についても疑わしい。謙信が山之内上杉のためたびたび兵を出したのは前述の通り単なるアナクロにすぎないし、有名な“塩送りの美談”も単なる講談で史実ではない。これは信玄が今川・北条を裏切ったことで塩の輸送ルートが断絶したのに対し、甲斐の民のために謙信が越後ルートで塩を送ったというものであるが、信玄ほどの男が今川・北条を敵に回せば塩止めされることを予測できないはずがない信玄の裏切りは、塩の備蓄や北陸からの塩輸送ルートの確保も十分にした上での行動である。そして史実は謙信が北陸ルートの塩止めをしなかっただけである。わざわざ塩を送ったわけではない。また、信玄を終生の好敵手として、信玄病没に際してははらはらと涙を流し喪に服したというが、一方では小躍りして喜び西上の兵を進めている。 
 謙信という人物、決して正義のヒーローといえる男ではない。

武田信玄の項も参照

 凡河内 躬恒 日 生没年不詳
 古今和歌集の撰者の一人。詩歌に優れ三六歌仙に数えられる。921年淡路権掾。
 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

・参照 上弦の月・下弦の月

 岡崎 信康 日 1559〜1579
 家康長男。武勇に優れ将来を嘱望されたが、あまりの優秀さに父家康の同盟者信長に恐れられ、切腹を命じられる(築山殿事件)。…というのが従来の説であったが、近時これに疑問を投げかける説が多い。
 というのも、当時四面楚歌で絶体絶命に近かった信長が、唯一の同盟者である家康の機嫌を損ねるような愚を冒すだろうか、ということである。まして、家康率いる三河軍団は、常勝無敗の上杉越後軍団、対抗の武田騎馬軍団に次ぐ、戦国期第3位の実力を持つとされ、その気になれば貧相な織田軍団などひとひねりの精兵ぞろいであったのだ。
 そこで近時では、この頃家康を中心とする浜松派と、信康を中心とする岡崎派で抗争があり、その粛清のため、家康自身の意志で切腹させたという説が有力になってきている。

・参照 村正

 織田 有楽斎 日 1547〜1621
 信長の弟。関ヶ原での武勲が最初で最後のものといえる。武将としてより茶人として有名で、利休七哲の一人に数えられ、現在の有楽流の祖となる。現在の東京有楽町の名と、数奇屋橋の名は彼に由来する。

・参照 村正

 オクタヴィアヌス Gaius Julius Caesar Ocravianus ローマ B.C.63〜A.D.14
 ローマ帝国初代皇帝。下級貴族の出であるが、妻がカエサルの姪という関係から、カエサルの死後その遺産を相続した。その財力を持って政治の中枢を握り、アントニウスらとともに三頭政治を行った。後に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられる。

 織田 信長 日 1534〜1582
 「尾張の大うつけ」と呼ばれた戦国の革命児。骨肉の家督争いを制し、桶狭間の勝利で天下取りに名乗りを上げた。
 断っておくが、織田軍は決して常勝無敗といった精強軍団ではない。いってしまえばよく負けた。それでもあれほどの勢力を持ちえたのは彼のすっぽんのようなしつこさと神憑り的な強運によるところが大きい。
 その強運が尽きるのが本能寺の変であるが、その原因については謎が多い。しかし、彼の嗜虐趣味・傍若無人ぶりからすれば、いつ何があっても謎ではないようにも思える。憎まれっ子世にはばかるを地でいった人物である。

神戸 信孝北畠 信雄佐久間 信盛柴田 勝家千 利休滝川 一益徳川 家光徳川 忠長豊臣 秀吉丹羽 長秀結城 秀康の項も参照

 オリオン  Orion ギリシア神話
 ギリシア神話における巨人族の一人。ポセイドンの子。狩の名手であったが、アルテミスに懸想したためアポロンの謀略により殺されてしまう。

 春日局 日 1579〜1643
 家光の乳母。ただの乳母で収まる人物ではなく、家光を将軍の座に就けた大立役者である。また、江戸城の大奥を完成させたのもこの人物であり、自らその頂点に立った。女性としての最高位まで昇り詰めたといってよい。しかし、質実剛健を旨とした彼女が引退し、お万の方が大奥に君臨するようになると、大奥は華美と愛憎の坩堝と化し、その力は将軍すら容易には手を出せないほどになり、幕府窮乏の最大要因となっていく。

 片桐 且元 日 1556〜1615
 賤ヶ岳七本槍の一人。知名度のわりには器の小さな人物で、方広寺鐘銘事件の弁明を仰せつかった際、老獪な家康を相手に口先三寸の言い訳で引き伸ばし外交をはかったところなど、現代の三流小役人を見ているようだ。大坂の陣のときは秀吉恩顧でありながら東軍につき、かつて自分を取立ててくれた大恩人である秀吉の遺児で、しかもほんの数日前までおのれが後見をしていた秀頼の隠れ場所を家康に密告し、自殺に追い込んだことは、いかに生き馬の目を抜く戦国の世であっても、およそ武士らしからぬ行為であった。
 最後は持病が悪化し、自刃して果てた。

 神戸 信孝 日 1558〜1583
 信長の三男。父信長の命で伊勢神戸家を継ぐ。丹羽長秀を配下に四国平定を命じられるが、本能寺の変で中止。その後秀吉に対抗しようとして失敗。切腹を命ぜられる。
 伝辞世 昔より 主をば内海の野間なれば 恨みをみよや 羽柴筑前

丹羽 長秀の項も参照

 北畠 信雄 日 1558〜1630
 信長の次男。父信長の命により伊勢の名門北畠家を継ぐ。しかし、この男、戦国屈指の愚将で、舞は天才的であったが、武将の器としては信長の爪の先ほどもない愚物秀吉にこきおろされている。優・良・可・不可で評価するともちろん不可だが、それ以前に試験会場を間違えて不受験といったところか。
 例えば、天下人になったら何をしたいのかと聞かれ、公卿連中に舞を見せてやろうと答え、バカ殿ぶりに家臣を呆れさせている。また本能寺の変のときは、織田家後継者候補bPでありながら、戦闘に参加せず日和見をきめこみ、光秀敗死を確認してから無人の安土城に入るというていたらくで、入城の際にも父の遺産とも言うべき安土城を焼失させている。さらに小牧・長久手の役では、家康の力で圧倒的優位に立ちながら、秀吉に籠絡され実質降伏ともいえる和睦をしてしまう。
 しかし、これほどの愚か者であったからこそ、秀吉からも、家康からも警戒されることなく、現代まで子孫を残すことができたのかもしれない。

滝川 一益徳川 忠長徳川 秀忠の項も参照

 恵帝 中 259〜306
 中国西晋の二代皇帝。中国の誇る愚帝。飢饉や北方民族の脅威など、内憂外患の危機にあって、強引な皇后親政を行い、国政を乱れさせた。

・参照 女帝学

 コナン・ドイル  sir Arthur Conan Doyle 英 1857〜1930
 探偵作家。彼の代表作「シャーロック・ホームズ」には実在のモデルがいる。彼の卒業したエジンバラ大学の外科医ジョゼフ・ベル博士である。また、シャーロック・ホームズの名は、クリケット仲間の名と法学者オリバー・ホームズに由来する。
 探偵もの以外にも著作があり、「The Great Boer War(南阿戦争従軍記)」でナイトに叙せられた。

・参照 探偵のイロハ

 酒井 忠次 日 1527〜1596
 徳川四天王の一人。しかし、彼が本多忠勝井伊直政榊原康政と同格と考えるのは大間違いである。彼は忠勝らがまだ少年の頃すでに徳川家臣団(当時はまだ松平姓)の頂点にあり、その采配を振るっていたのである。つまり、忠次は他の四天王の先輩であり、長老格なのである。
 しかし、築山殿事件で家康の不信を買ったため、他の四天王が10万石以上を与えられる中、家督を譲った家次にはわずか下総臼井3万石しか与えられなかった。

 榊原 康政 日 1548〜1606
 徳川四天王の一人ではあるが他の四天王に比べていささか影の薄い感がある。しかし、姉川の戦いの勲一等は康政であるといってよい。小牧・長久手の役でも秀吉批判の檄文を掲げるなどの活躍をしている。
 関ヶ原の後、25万石を与えられたがこれを固辞し上州館林10万石を安堵された。

・参照 武田家滅亡
井伊直政酒井忠次本多忠勝徳川秀忠の項も参照

 佐久間 信盛 日 ?〜1581
 信長にもっとも古くから使えた老臣の一人で、桶狭間に功があった。しかし、戦功はあまり芳しくなく、本願寺攻めに失敗したため信長の勘気を被り、身包み剥がれた上、高野山に追放された。

豊臣秀吉の項も参照

 柴田 勝家 日 1522〜1583
 「鬼柴田」「瓶割柴田」と呼ばれた猛将で、信長軍団の屋台骨を支えた一人。信長四天王の一人。かつて織田家の相続争いでは信長と敵対したが、その優れた戦略手腕を買われ信長旗下に入った。加賀・越前の一向一揆などに実績を挙げ、越前上杉軍団の押さえに置かれるなど、信長の寵を受け、信長軍団不動のbPであった。
 しかし、本能寺で信長が斃れた後は秀吉に遅れをとり、起死回生を謀り秀吉と賤ヶ岳で対立するが、これに敗れ自害する。
 辞世 夏の世の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山ほととぎす

滝川一益丹羽長秀の項も参照

 ジャン・ジャック・ルソー Jean Jacques Rousseau 仏 1712〜1778
 フランスの思想家。政府やキリスト教などの権力に対して攻撃的で、逮捕令が出されたためヨーロッパ各地を漂泊し孤独な晩年を送る。後のフランス革命の思想的原動力となった。
 主著は政治論文「社会契約論」や教育論「エミール」など。

・参照 女帝学

 ジュリアス・シーザー  Gaius Julius Caesar ローマ B.C.100〜B.C.44
 ユリウス・カエサルを参照

 ジョージ・ワシントン George Washington 米 1732〜1799
 アメリカ初代大統領。アメリカ建国の父。独立戦争のときは革命軍総司令官。
 兵を酷使し、規律違反者に対して厳罰をもって対処したが、その一方で公正さと思いやりがあり、絶対的な支持を得る。こんなエピソードがある。
 彼が大統領になった頃、要職に着きたいと彼を頼ってきた男が二人いた。一人は彼の親友で、もう一人は彼の政敵であった。ワシントンは政敵の方を採用した。その理由を尋ねたところ、「本当は僕だって親友の方を選びたかった。でも彼は要職につける器じゃない。才能の面では政敵の方が上だ。国のためを考えるなら私情に溺れるわけにはいかない」と答えたという。
 おのれの政権安定のための組閣しかできない現代政治家に聞かせてやりたい言葉である。

・参照 ワシントンと桜の樹

 菅原 道真 日 845〜903
 学者・政治家。862年文章生に及第、870年正六位上任官、玄蕃助小内記、文章博士、讃岐守を歴任、899年正三位右大臣。順風満帆であったが、901年、讒訴により太宰権帥に左遷され、大宰府で没する。文学・詩歌に優れ、892年勅命で編撰した類聚国史のほか、菅家文集など。
 また、道真は怪異譚でも有名である。英雄奇譚の一種であろう。非業の死を遂げた道真が、鬼神となって讒訴にかかわった者達を呪うというものである。なお、現在でも災厄除けのまじないとして“くわばら、くわばら”と言うことがあるが、これは道真の土地であった桑原には一度も落雷がなかったことに由来する。
 鬼神道真の名は多く、日本太政威徳天、火雷天神など。これを恐れた朝廷は、923年左遷を解き、右大臣に復官させた。993年、正一位太政大臣を贈られた。
 北野天満宮太宰府天満宮湯島天神の祭神。
 東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

醍醐天皇平将門の項も参照

 ゼウス  Zeus ギリシア神話
 ギリシア神話における天界の主神。英名はジュピター。クロノスとレアの子で、誕生にあたって“父を超える存在になる”と予言されたため父と不和になり対立する。長い戦いの末、父クロノスを倒し二人の兄ポセイドン・ハデスと天界の支配権を得る。さらに祖母ガイアとの戦いにも勝利し、最高神としての地位を確固たるものにした。
 ギリシア神話きっての好色な神で、美しければ神・人・男女の区別なくさらってはモノにしている。ある意味最も“人間らしい”神様である。しかし、その統治は正義を基としており、最強の武器である雷霆と、その雷霆をもってしても破れない最強の盾“アイギス”を持つ。

 千 利休 日 1522〜1591
 茶人。侘び茶の大成者。堺の豪商の生まれで本名は田中与四郎。武野紹鴎に茶の湯を学んだのち、信長秀吉に仕え、「天下一の茶頭」と呼ばれる。
 秀吉が茶の湯を政治に利用したことにより、次第に政治にも強い力を持つようになったが、大徳寺山門事件秀吉の勘気に触れ切腹を命じられた。しかし、実際は秀吉が利休の娘に横恋慕したことが切腹の遠因であったという。
 村田珠光武野紹鴎とならび茶道三祖に数えられるとともに、今井宗久津田宗及らとあわせ天下三宗匠ともいう。
 辞世 ひつさぐる 我がえ具足の一つ太刀 今この時ぞ 天に投げうつ

 醍醐天皇 日 885〜930
 第60代天皇。13歳のとき即位する。政治・文化に積極的で、延喜格式・荘園整理令などの親政を行う一方で、古今和歌集・日本三代実録などを編纂させた。
 また、「扶桑略記」には無実の道真を左遷し憤死させた罪で死後地獄に落ち、日本太政威徳天に苦しめられる醍醐天皇の話がある。

・参照 上弦の月・下弦の月

 ダイダロス  Daedlus ギリシア神話
 ギリシア神話に登場する名工・芸術家・発明家。神話では、斧や水準器などは枯れの発明とされる。作例としてはパシパエのために作った木牛・ミノタウロス幽閉のためのラビュリントスなどがある。童謡「勇気ひとつを共にして」で、イカロスが持つ翼も彼の作である。ダイダロスも簡単に溶けるような翼ではなく、もっと軽くて丈夫な翼を持たせてやればいいのにと思う。

 平 将門 日 ?〜940
 平安期の武将。桓武平氏の裔。939年、関東独立を謀り挙兵、新皇を称すが失敗、京都七条河原に晒首される。しかし、具体的な政治構想があったかは不明である。むしろ、将門の与り知らぬところでいつの間にか話が大きくなってしまった感がある。この点、挙兵は道真の託宣に基づくとする書もあるが、講談用に脚色されたものと思われる。
 しかし、将門は史実より怪異譚の方が有名である。一種の英雄奇譚であるが、全国各地に将門伝説は残っている。中でも最も有名なのが東京大手町の将門首塚であるが、この将門を神格化したのが神田明神であり、その神田明神を現在の場所に移転したのが天海である。
 また、御伽草子には、将門の姿について「その有様殊に世の常ならず。身長は七尺に余りて、五体は悉く鉄なり。左の御眼に瞳二つあり」とあり、6人の影武者がいたと伝えるが、これは北斗七星に由来する七星信仰による脚色とみられている。

・参照 シャア大佐シャア中佐…

 田河 水泡 日 1899〜1989
 漫画家。本名高見沢仲太郎。長谷川町子の師匠。紫綬褒章・勲四等旭日小綬章受賞。代表作は「のらくろ二等卒」「蛸の八ちゃん」など。

 滝川 一益 日 1525〜1586
 かつては「先駆けは一益、殿も一益」ともてはやされ、軍功めざましかった信長四天王の一人。しかし、本能寺以後は凋落の一途をたどり、賤ヶ岳の際は勝家と結託するが、勝家自刃により降伏。小牧・長久手の役では秀吉に付くが、家康信雄に包囲されたため、城主の首と引き換えに自身は死罪を免れた。しかし、己一人のため味方を裏切った一益にもはや武将としての資格はなかった。僧となって流浪し、丹羽長秀の庇護を受け晩年をすごした。

丹羽長秀の項も参照

 武田 勝頼 日 1546〜1582
 戦国武将。信玄の第4子で母は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘である。そのため、勝頼の家督継承に伴なって旧諏訪家臣が取り立てられたため普代との確執が生じた。その結果が本編にも紹介した長篠の大敗である。
 このように勝頼周辺に不穏な空気があったため、勝頼をその子信勝の後見役とし、成長した信勝を跡目とする信玄の遺言状が伝えられるが、これは後世に作られた偽文書である。現に信玄は元亀元年に将軍義昭に対し、勝頼のために官位の叙任や義昭の偏諱下賜まで求めている。勝頼の名門武田家継承にふさわしい外観作りのために信玄が奔走していたことが分かる。先述の不穏な空気を払拭するためであろう。
 また、長篠後は確かに武田家は衰退の一途を辿ったが勝頼とてそれを指をくわえて見ていたわけではない。新軍法の制定・兵制の刷新をする一方、長篠の役で戦死した者の遺族に対する扶助などをして結束をはかっていたことが武田家文書に見える。さらにすでに和睦していた北条氏との結束を深めるため、氏政の娘を娶るなど、防衛力の強化にも余念がなかった。武将としても、また政治家としても優れた力量を持った人物であったと言える。
 しかし、上杉家家督相介入(御館の乱)のとき、北条と対立し手切れとなってしまう。この乱は勝頼側の勝利となるが、後に織田・徳川連合軍の最後の侵攻を受けたとき北条の侵攻も受け、武田は滅亡へと向かうのである。

・参照 武田家滅亡

 武田 信玄 日 1521〜1573
 戦国武将。清和源氏の支流である甲斐源氏の裔。戦国時代において、家康秀吉のように系図を買ったりごまかしたりということは、家格を上げるためにごく当たり前に行なわれていたが、武田家は数少ない“本物の名門”である。そして名門の名に恥じない強さも持っていた。一説に主要合戦の生涯戦績“72戦49勝3敗20引分”という数字がその強さを物語っている。最強上杉軍団に対抗しうるのは全国を探しても信玄をおいて他にない。
 しかし、武田軍団自体の戦闘能力はそれほど高くはなかったと思われる。彼が負けなかったのは徹底して“勝てない勝負はしない”という姿勢を崩さなかったからである。かつて謙信が11万の兵で、籠城する小田原城を囲んだが、北条氏康はこれに耐え切り、1ヶ月後謙信は疲弊した兵を這々の体で退却せざるをえなかった。後に信玄が小田原を囲んだときは、力攻めは無理と見てわずか四日で囲いをといてさっさと退却させてしまった。これを見た氏康は、臨終にあたって嫡子氏政に、謙信とは手を切り信玄と結べと遺言したという。名実兼ね備えた名門と言ってよい。
 また、信玄は内政や人心収攬にも余念がなかった。甲州金山、信玄堤甲州法度次第などは特に有名である。また甲斐は決して肥沃とはいえない土地柄のため、農業の繁忙期には決して徴兵はしなかったといわれる。
 なお、信玄は生涯城を築かなかったと言われるがこれは誤りである。信玄の戦いは常に攻めの戦いであり、隣国に侮られ領国内に攻め込まれるようなことはないので、守りの拠点である城は不要というものであるが、武田領内には白山城や勝山城などをはじめ多くの城があったし、信玄自信もその修築を何度もしている。また居館の躑躅ヶ崎館も堅固な城砦機能を持っており、城と銘打っていないだけで実質的には城と変わりない。そもそも我々が城と聞いてイメージするような多聞櫓と呼ばれる構造は、信玄より後の時代に考案されたものである。また、信玄ほどの男が下らない自尊心のために防衛を怠るなどという愚を冒すわけがない。もっとも城の堅牢さよりもそれを守る人を重視したのは確かであって、武田節に唄われる「人は生垣、人は城、情けは味方、仇は敵」というのは信玄の防衛感を的確に示しているといっていい。

 武野 紹鴎 日 1502〜1555
 茶人。もと、堺の豪商であったが、31歳のとき剃髪し茶の湯の世界に入る。千利休の師匠で、茶道三祖の一人。また、天下三宗匠は彼の門人。

 近松 門左衛門 日 1653〜1724
 浄瑠璃・歌舞伎・狂言作家。幼名は杉森信盛。90以上の浄瑠璃と30以上の歌舞伎を著した元禄期を代表する作家。中でも代表作“国性爺合戦”は3年越し17ヶ月連続の大ロングランになった。
 辞世
 それぞ辞世 去程に扨も そののちに 残る桜が花し 匂はば

 津田 宗及 日 ?〜1591
 茶人。武野紹鴎の門人で堺の豪商。
 あるとき、秀吉が「天下一の宗匠」を決めようと利休と宗及に茶を点てさせた。しかし、いずれも見事な点前で甲乙つけがたい。しかし、宗及は湯を一滴だけこぼした利休は一滴もこぼさなかった。ここに天下一の宗匠が決定した。

 テセウス  Theseus ギリシア神話
 ギリシア神話の英雄。アテナイ王の息子。勧善懲悪の正義の人。悪人を誅するときは、必ずその悪人の流儀で殺した。もっとも有名なのはクレタ島のミノタウロス退治である。彼にとってミノタウロス自体は敵ではない。問題なのは一度入ると抜けられない迷宮ラビュリントスである。しかし、アリアドネが彼に一目惚れし、結婚を条件に彼に助言をしたことにより、テセウスは帰還に成功する。
 しかし、ここからがギリシア神話の面白いところで、テセウスはアリアドネをアテナイに帰る途中のナクソス島に捨てていってしまう。さらに、父王に生還のときは舟に白い帆を張ると約束したことを失念していたため、テセウスが死んでしまったと勘違いした父王を死なせてしまう。結局彼が結婚したのはアマゾン族からひっさらってきたアンティオペである。さらにテセウスは怒ったアマゾン族を返り討ちにしてしまう。アンティオペは短命で亡くなったため、テセウスは友人ペイリトオスとともに妃をさらいにいく。こいつ本当に英雄か?狙いはゼウスの娘ヘレネである。彼女は後にトロイア戦争の原因となる。そしてペイリトオスの妃として白羽の矢が立ったのがハデスの妻ペルセポネである。さすがのテセウスもハデスにはかなわず、後にヘラクレスに救出されるまで冥界に幽閉されてしまう。そして帰還後、彼は謀反により王座を追われ、崖から突き落とされ死んでしまう。

 手塚 治虫 日 1928〜1989
 漫画家・アニメーション作家・医学博士。日本漫画界の第一人者にして神様。彼の漫画は戦後の疲弊した日本に夢と希望を与え続けた。また、彼の漫画に一貫して流れる生命賛歌は、少年たちの人格形成に大きな影響を与えた。デビュー作「マァチャンの日記帳」
 代表作「鉄腕アトム」・「火の鳥」・「ブラックジャック」など多数

 デメテル  Demter ギリシア神話
 ギリシア神話における大地母神。ゼウスの姉でオリュンポス12神の一人。娘ペルセポネとともに豊穣の女神でもある。

 徳川 家光 日 1604〜1651
 秀忠長男。江戸幕府3代将軍。弟忠長と正嫡を争うが、乳母である春日局の助力を得て将軍となる。愚将ではないが賢将でもない。幕政安定の政策はしているがそのほとんどが優秀な側近たちの手によるものだ。まぁ、優れた人材に相応の地位を与えることも政策であるからこれはこれで問題はないのだが、日光廟造営に大金を使い財政難を招いている。とはいえ人間的な器はなかなかのものであり、逸話も多い。優・良・可・不可で評価するなら、可ぐらいが相当だろう。
 家光というと、よく男色の変態将軍と言われるが、これは半分は正しく半分は誤った認識と言える。彼が男色であったのは多くの文献からも確認できるが、それをもって変態とすることはできないのだ。
 なぜなら戦国時代の武家では男色は禁忌ではなく、男らしいものと考えられ、男色であることは武士のたしなみとしてむしろ推奨されていた。例えば、家康井伊直政信長と森蘭丸のように一流の武将はほとんど寵童などと呼ばれる美少年と性交渉をしている。信玄に至っては、他の少年との浮気を弁解するラブレターまで残っている。
 この男色の意義は、単に戦場における武将の性欲処理に止まるものではない。武将にとっては男色という強烈な関係を持つことにより、寵童はいざという時には命をかけて自分を守る最後の盾となった。本能寺の変のときの森蘭丸がその好例である。
 一方寵童にしてみると、寵を受けることで出世の道が開け、さらには昼夜を問わず一流の武将の傍に伺候することで一流の采配を学び武将として成長していくのである。
 ただし家光の場合、単に男色であっただけでなく女装癖や男性偏愛の傾向もあったため、性同一性障害であった可能性は否定できないことを付言しておく。

 徳川 家康 日 1542〜1616
 言わずと知れた江戸幕府初代将軍。最後の天下人。よくぶくぶくに太ったタヌキ親父というイメージで語られるが実はけっこうな体力オヤジであった。「東海一の弓取り」と謳われていたのは伊達ではない。
 いろいろ書きたいがこの人を語り出したらきりがないのでやめておく。
 神号は東照大権現

 徳川 忠長 日 1606〜1633
 秀忠次男。生母崇徳院の偏寵により次男でありながら家光と将軍継嗣を争うも敗れる。崇徳院の姉淀君もそうであるが、織田の血に連なる者は、信雄筆頭にともかく愚物が多い信長とその父信秀を除けば織田一族の中で辛うじて見られるのは信忠ぐらいである。多分信長の天才は単なる突然変異であったのだろう。
 とはいえ、将軍継嗣を争い敗れたわりには、最盛期には駿河55万石を領し従二位権大納言を叙任するなど、しばらくは厚遇されている
 「愚兄の家光、賢弟の忠長」という図式で見る向きは多い。しかし、これは単に家光と忠長との比較という視点でしか正しくない。織田の血を引くだけあって、やはり忠長も忠長で一般論としては愚将であった。
 確かに忠長は政治手腕という点ではそれなりに光るものがあったかもしれない。しかし彼には家光と比較して、その政治手腕を打ち消して余りある致命的な欠点があった。すなわち彼は主従の列、すなわち権力というものをまるで理解していなかったということである。幕府に無断で交通網や城下町の整備をして、その才をひけらかすようなマネをすれば、それが仲険悪な兄将軍にとって不快に映るのは当然である。また、上記55万石を給されたときも、家臣の参賀に対して「将軍の弟であれば当然のこと。何がめでたい」などと言い放ち、さらには大坂城を所望するなど我儘三昧である。
 権力確立をめざす幕府にとって、このように幕府や将軍の権威をないがしろにしていれば、いずれは幕府権力のスケープゴートにされることぐらい分からなければならない。“将軍や幕府をないがしろにすれば、いかなる名家であっても許さぬぞ。例え将軍家に連なる者であってもだ”幕府のそういう強固な意志を示すスケープゴートとしては、仲の悪い弟忠長はうってつけであった。最初忠長を厚遇したのも、このデモンストレーションを鮮烈にするための伏線であったのだろう。その程度のことも分からなかったのが忠長が愚物である証拠である。気に入らない“モノ”を意のままに切り捨てることができる力、それこそが権力である。
 結局忠長は、兄の命で切腹して果てた。

 徳川 秀忠 日 1579〜1632
 家康三男。江戸幕府2代将軍。彼にははっきり言って武勲といえるような経歴はない。というより武将としては失格の人物である。優・良・可・不可でいったら不可以外の何者でもない。あと20年早く生まれていたら、ひょっとすると北畠信雄に匹敵する愚将として名を残していたかもしれない。乱世における彼の存在は、家康の天下取りの大障害となることは明らかだ。
 にもかかわらず、武勇の誉れ高い兄秀康を差し置いて2代将軍になれたのは、ひとえにそのクソまじめな性格にあった。戦国の世であれば武勇こそ大事であるが、太平の世ではまじめさと人徳こそが大事との判断である。また、駿府から将軍を傀儡とする大御所政治を実現するには、イキがよく政治手腕にも優れた秀康よりも従順でバカ正直で、父の敷いたレールの上を歩くことしかできない2代目ボンボン丸出しの秀忠の方が御しやすかったのである。
 しかし、彼のそのまじめさが徳川家を滅ぼしかねない失敗を招いたことがある。関ヶ原遅参である。彼の率いた3万余の軍は徳川軍の半数近くを占める上に榊原康政本多正信といった一騎当千・百戦錬磨の猛将・智将ぞろいである。これがまとめて戦に参加できなかったのは家康の命で真田家を攻めあぐねたためである。怒り狂った家康は秀忠に3日間対面を許さなかった。これに恥じ入った秀忠は大坂の陣には遅れまじと、出陣の指示が出る前に江戸を出立し、武具も持たずにわずかな近習とともに大坂入りするというていたらくであった。
 もっとも、15年も優れた父の操り人形をしているとさすがに多少は知恵がつくと見えて、父の死後は多少の混乱はあったものの、三代家光を傀儡としながら幕政安定に尽力している。

 豊臣 秀吉 日 1536〜1598
 戦国の覇者。もと、今川家の松下嘉兵衛之綱に仕えるが、同僚に出世を妬まれたため出奔し信長の家臣となる。農民の出でありながら「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」と謳われるほど万事に役立つ男であり、めきめきと頭角を現した。なお、五郎左とは丹羽長秀のことであり、米のように一日でも欠かしてはならないもの、掛かれ柴田とは勇猛な柴田勝家は先陣を切らせるのに良い、退却戦では冷静沈着な佐久間信盛に殿軍を任せれば安心である、という意味である。そして木綿藤吉とは、藤吉(秀吉)は木綿のように見た目はぱっとしないが、あると色々役に立って便利なもの、という意味である。
 名乗った姓は木下(主家“松下”をもじったといわれる)、羽柴、平(信長が平氏を名乗っていたためその後継者という意味)、藤原(関白は藤原家しかなれなかったため)、豊臣となっている。なお、豊臣姓を名乗る前に将軍職を得るため、足利義昭の猶子になろうとして失敗している。
 秀吉といえば信長に「猿」と呼ばれていたことが有名であるが、信長には「禿げ鼠」と呼ばれていた。
 神号は豊国大明神
 伝辞世 露と落ち 露と消えにし我が身かな なにわのことも 夢のまた夢

 豊臣 秀頼 日 1593〜1615
 秀吉の次男。幼名の拾は、一度捨て子を拾って育てると丈夫に育つといわれたところから来ている。これは長男の「捨」も同じである。
 小柄な秀吉の子とは思えないほど大柄な人物であったため、母淀君の浮気相手の子ではないかとの噂も根強い。
 また彼は愚将であるとの評価が強いがそれは誤った認識である。例えば彼はろくに城外に出たことがないため運動不足の箱入り息子と言われるが、彼の家を我々の住んでいる犬小屋と一緒にしてはいけない。秀頼の住んでいた大坂城は現代のものとは比べ物にならない壮大な城で、例えば現代の皇居よりも広かったのである。現代人は健康のためとか言って皇居の周りを走る人もいるが、秀頼はそれを家から出なくてもできたのだ。その敷地に多層構造の城である。歩き回るだけでも相当な労力であったはずだ。
 そして、彼のまわりにいたのは、プライドばかりが高くヒステリックな母淀君、その淀君に横恋慕する大野治長、家康に頭の上がらない後見人片桐且元など、見事なまでの無能ぞろいである。わずか23歳の若輩にもかかわらず、このカオスのような家中を分裂させなかっただけでもその政治手腕は高く評価されていい
 対する家康には天海をはじめ本田正信など、家康に絶対忠誠を誓った謀将智将がそろっており、家康自身も生涯のうち約60年間辛酸を舐め続け、死線をかいくぐり、また文部両道に通じ、戦や人生のかけひきにも熟達した老獪な戦国の妖怪である。家中に憂いを抱えたたかが23歳の若武者一人でいったい何ができるというのか。

 南光坊天海 日 1536?〜1643
 天台宗の僧。生年には多説あり、最短でも1554年生まれの享年90歳説。いずれにせよかなりの長寿である。謎だらけの人物であり、家康の知己となった時機や経緯すらはっきりしない。しかし、政治手腕は高く、「黒衣の宰相」と言われ初期の幕政には必ず関わっている。

 丹羽 長秀 日 1535〜1585
 信長軍団の宿老の一人。信長四天王の一人。温厚篤実な性格で、信長股肱の臣を以て任ずる人徳者。しかし、秀吉の旧姓「羽柴」の由来にいわれるように、丹羽・柴田信長家臣団の両巨頭といえるかについてはいささか疑問がある。実は、長秀は大きな戦の指揮官をしたことがない。功績のあった伊勢長島の一向一揆制圧のとき、総大将は滝川一益であったし、本能寺の変のときに四国平定にとりかかっていたが、この総大将は信長の三男神戸信孝である。勝家が戦働きでのし上がったのなら、長秀は政治手腕でのし上がったといってよい。
 この政治手腕は秀吉にも大いに買われ、120万石の大大名に取り立てられている。しかし、長秀自身は秀吉の専横が不満であったらしく、その死に際して自ら腹を割って内臓を秀吉に送りつけている。また、その子長重は凡庸であったらしく、せっかくの所領を取り上げられ、結局4万石の小大名にまで落ちぶれている。

 ネロ Nero ローマ A.D.37〜68
 ローマ皇帝。暴帝の噂ばかりが有名であるが、治世の最初の数年間は善政をしく賢帝であった。しかし、実母がネロ廃立を謀ったあたりから彼の人格は崩壊していく。政敵となった実母を相手に母子相姦、そしてその実母の殺害、愛人を正妻とするため妻も殺した。錯綜した淫靡に耽り、政治を顧みなくなったため、ついに反乱がおき、郊外の農家に隠れたがそこで自害した。

 長谷川 町子 日 1920〜1992
 漫画家。デビュー作「狸のお面」。手塚治虫と並び戦後の漫画界を支えた一人。田河水泡に師事する。82年紫綬褒章、90年勲四等宝冠賞、さらに死後国民栄誉賞を贈られた。代表作「サザエさん」「意地悪ばあさん」「エプロンおばさん」など。

 ハデス  Hades ギリシア神話
 ギリシア神話における冥界の神。プルートーンとも言う。クロノスとレアの子でゼウスの兄。冥界の神ということで、邪悪な存在と思われがちであるが、彼の支配は正義を基調とした。
 オリュンポス12神の一人であるが、遠い冥界の支配者であるため、めったに地上に現れる神ではない。

 フランクリン・ルーズベルト  Franklin Delano Roosevelt 米 1882〜1945
 アメリカ32代大統領。民主党。世界恐慌の際、ニューディール政策やワグナー法(日本の労働組合法にあたる)などを実施し、経済の建て直しをはかる。歴代大統領で唯一の四期当選を果たす。
 切手蒐集家としても有名であるが、金にあかせて集めるのではなく、値段交渉もずいぶんやっていたらしい。また、切手以外にも画集を集めるなど、ともかく蒐集が好きであったようだ。

 ヘラクレス  Hercules ギリシア神話
 ギリシア神話最大の英雄。ゼウスの子であったため不死の肉体を持つ。しかし、そのことに腹を立てたヘーラーに呪いをかけられ、妻子を殺してしまった。妻子殺しの罪を清めるため、神託によりかつてヘーラーの陰謀によってヘラクレスからアルゴリスの王位を奪ったエウリュステウスに12年間奴隷として使え、彼の命ずる10の難題を達成することになった。ここにギリシア神話最大級の冒険譚である“ヘラクレス12の功業”が始まる。
 彼の功業は順に以下の通りである。@ネメアに住む不死身のライオン退治A水蛇ヒュドラ退治B黄金の角を持つ鹿の捕獲Cエリュマントスの猪狩りD厩舎の掃除Eステュンパロス湖の害鳥駆除Fクレタ島の牛の捕獲Gディオメデス王の持つ人食い馬の捕獲Hアマゾン女王ヒュッポリュテの帯を持ち帰ることI西の海の果てに住む怪物ゲリュオンが持っている牡牛の捕獲…である。神託ではこれで終わりのはずが、性格の悪いエウリュステウスは、Aに協力者がいたこと、Dのときは報酬の約束をしたことについて物言いをつけ、ふたつやり直しになった。Jヘスペリスと百頭の竜ラドンが守る黄金の林檎を持ってくることK地獄の番犬ケルベロスをつれてくること…以上である。
 彼の死は悲惨である。彼の妻デイアネイラがヘラクレスの愛が冷めてしまったと勘違いをして、媚薬と思って彼に毒を盛ってしまうのである。しかもこの毒はケンタウルスの特殊な毒で、死ぬまで永劫の苦しみを与え続ける。ゼウスの血を引く不死身のヘラクレスは、苦しみから逃れることもできずに、自らの体を業火で焼き払い、やっと苦しみから解放されたのである。

 ヘーラー  Hera ギリシア神話
 ゼウスの姉で妻。オリュンポス12神の一人。ゼウスはともかく色恋沙汰が絶えなかったが、、正妻はあとにも先にも彼女だけである。結婚後もゼウスは色事が治まらなかったため、ヘーラーはさんざん苦労することになる。嫉妬の神とも思われがちだが、実際は一夫一婦制・夫婦守護の神。自分のことも碌にできてないのに…。

 北条 氏政 日 1538〜1590
 戦国武将。愚将、凡将、七光り。名門北条家の第四世としては大変に評判が悪い。講談ではあるが、こんな話がある。
 あるとき、父氏康が氏政と食事をしているとき突然“北条はわしの代で終わるだろう”と落涙した。家臣らがそのわけを聞くと、氏政が飯に二度も汁をかけたからだという。飯にかける汁の量も見積もれぬ者に一皮うちにある人間の心底を見積もることなどできはしない、というわけである。家臣の大事を説く意味では、「人は城、人は生垣」と唄う隣国甲斐の武田節とは好対照といえる。
 現に氏政は上杉家督相続介入の際には勝頼の裏切りにより敗北しているし、小田原の役では重臣らの相次ぐ裏切りにあっている。まさに氏政には人の心底を見切る能力が欠落していたと言える。
 とはいえ、北条滅亡の責を氏政一人に負わせるのは酷である。父氏康の時代はまだ群雄割拠の乱世であり、最大勢力を誇る信長ですら一諸大名にすぎなかったのに対し、氏政の時代における秀吉はすでに天下人であり、全国の諸大名を統括する地位にあった。関東の一大名にすぎない北条には、もともと勝ち目はなかったのである。確かに氏政は名門北条氏を継ぐには凡庸な男であった。しかし関東制圧にしか目を向けてこなかった名将の誉れ高い父祖らにも滅亡の責を負わせるべきであろう。

 北条 氏康 日 1515〜1571
 戦国武将。後北条氏の第3世。文武兼備の名将。関東旧勢力を殲滅し、北条氏の黄金時代を作った。中でも日本三大合戦に数えられる河越夜戦では、奇策により八千の兵で八万の兵を一蹴した。

 ポセイドン  Poseidon ギリシア神話
 ギリシア神話における海の主神。ネプトゥーヌスとも言う。クロノスとレアの子でゼウスの兄。オリュンポス12神の一人。彼の持つ三叉の戟は水を自在に操る。

 本多 重次 日 1530〜1596
 家康の重臣の一人。歯に衣を着せぬ性格であったらしく、たびたび家康に諫言をしている。また作左衛門を名乗ったことから鬼作左の異名を持ち、布告に「悪いことをすると作左が叱る」と入れただけで領内はぴたりと治まったという。

 本多 忠勝 日 1548〜1610
 家康に 過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八
と謳われた徳川軍団の誇る猛将。酒井忠次榊原康政井伊直政とならび、徳川四天王の一人に数えられる。その四天王の中でも忠勝の猛将ぶりはすさまじく、生涯に69度戦い、その中に負け戦はただの一つもなく、さらにかすり傷一つ負ったことはないというウソのような実話を持つ怪物。晩年は伊勢桑名10万石を給された。
 なお、彼の愛槍「蜻蛉切り」は「日本号」「御手杵」と並び、天下三名槍に数えられている。

 本多 正信 日 1538〜1616
 家康の智将。智将というより陰湿な謀略家といった方がいいかもしれない。方広寺鐘銘事件など、彼の陰険な策謀は数え上げるときりがない。
 中でも最も陰険であったのは、政敵を蹴落とした「浸潤之譖」と呼ばれるものである。まず、政敵を呼び出し、「お前は何か思い当たるとはないか」と聞く。政敵の男はもちろん何もやましいことはない。「ならばよい」と思わせぶりな態度を見せておき、しばらくしてまた同じことを言う。気になった政敵が詳しく聞くと、「最近、家康公が貴殿のことを気にしているようだ。いや、気にするほどのことはないのだが一応しばらく距離を置いてはどうか」と答える。一方、家康には最近あの男姿を見せないが何か企んでいるのでは、と疑惑の目を向けさせる。こうしてふたりの間に亀裂を生じさせ、ついに一点の咎のない男を失脚に追い込んだのである。

 マッカーサー・ダグラス MacArthur Douglas 米 1884〜1964
 大戦中は極東軍事司令官としてレイテ島上陸作戦などを指揮。1944年元帥。大戦終結後はGHQ最高司令官として日本の非軍事化・民主化に尽力した。
 朝鮮戦争の際、中国戦線拡大を主張したため解任された。
老兵は死なず。ただ消え去るのみ

 松下 之綱 日 1536〜1598
 秀吉の最初の主君。今川家の臣。早くから秀吉の才を見出すが、これが家臣の妬みを招いたため秀吉に路銀を与え生国に帰れるようとりはかってやった。その後、今川家が没落すると、家康に拾われ30貫文を給されるが、天下人への階段を登り始めた秀吉に招かれ1万6千石の大扶持を与えられる。
 没落大名の家臣としては相当に恵まれた余生を送った。

 松田 聖子 日 1962〜
 歌手。本名は神田典子。昭和55年、ミスセブンティーンの九州代表を機に芸能界入りした。デビュー曲「裸足の季節」。同年、「青い珊瑚礁」の大ヒットを皮切りに爆発的な人気を博し、日本歌謡大賞放送音楽新人賞、ゴールデンアロー賞新人賞、日本レコード大賞新人賞など、新人賞を総なめにした。80年代の代表的な歌手で、日本歌謡大賞音楽賞2回、日本レコード大賞金賞は3年連続で受賞した。オリコンシングルチャート24作連続一位の大記録を持つ。
代表作 「赤いスイートピー」「旅立ちはフリージア」など多数

 マリー・アントワネット Marie Antoinette 仏 1755〜1793
 美貌にして快活な王女で、当初は民衆の人気を得ていた。しかし、その奔放な性格が儀礼と格式を重んずる宮廷と合わず、次第に孤立していった。また、軽はずみで傲慢な態度、また華美な生活が段々と民衆の不満を買い、フランス革命によってギロチンの露と消えた。

 丸山 応挙 日 1733〜1795
 画家。農家の子で幼名は岩次郎。狩野派の石田幽汀に師事する。中国の眼鏡絵の製作に携わったため、透視遠近法・陰影法を学ぶ。徹底して写実主義にこだわり、晩年に3つを融合させた独自の技法を得る。代表作は雪松図屏風(三井文庫蔵・国宝)、保津川図屏風(個人蔵)など

 村田 珠光 日 1423〜1502
 茶人。もとは奈良称名寺に入ったが、闘茶に耽ってばかりであったため寺を追い出された。放浪の後、大徳寺の住職一休宗純に禅を学び、大いに悟るところあり、侘び茶を創始した。
 茶道三祖の一人

 結城 秀康 日 1574〜1607
 家康次男。剛勇豪快な性格であったが、出生に問題があったことと見目が悪かったため、家康に疎んじられ、本多重次に育てられた。のち、和議の証として秀吉の養子となるが、秀吉もその性格を危ぶみ、結城家を継がせてしまう。
 彼はその荒々しい性格ゆえ、突進型の猪武者と思われがちだがそうではない。関ヶ原の戦いの折、会津から反転する家康は上杉の押さえとして秀康を置いた。万が一にも突破されれば家康は西軍との挟撃を受け全滅必至の大役である。単に突進主義の武将であれば、最強上杉軍団の押さえなど務まらない。また、関ヶ原後も外様大名との境に秀康を置き、最前線である越前北の庄75万石をを与えられるなど家康の寄せる信頼は絶大であった。しかもこの地はかつて信長が重臣柴田勝家をして上杉軍団の警戒にあたらせた要衝である。家康は秀康を嫌ってはいたものの、その天賦の才と家康に対する敬慕の情はよく知っていたのである。
 なお、秀忠の項で秀忠を三男としているが、厳密にはこれは誤りである。正史ではあらわれていないが、秀康は双生児である。しかし、その一方は生後まもなく死亡し、また双子は不吉であるという当時の慣習から、正史から除外され名前も残っていない。まして、家康は生き残った秀康ですら何年も認知していない。歴史から削除されたのも仕方がない。秀康以上に不幸な人物である。

 ユリウス・カエサル  Gaius Julius Caesar ローマ B.C.100〜B.C.44
 ローマの将軍・政治家。文筆家。ポンペイウスらと第一回三頭政治をするが後に袂を分かち、タプトスの会戦でポンペイウス派の残党を制した後、終生独裁官に就任する。貧民救済・新暦の採用などを推し進めるが、カエサルへの権力の集中が君主制を目指すものとされ、共和党のブルトゥスらに暗殺される。暗殺の前夜、側近にどのような死が望ましいか聞かれ“思いがけない死、突然の死こそ望ましい”と答えたという。また暗殺の直前“お前もか、ブルート”と叫んだことはつとに有名。
 その他、カエサル語録で有名なものとしては“さぁ進もう。神の示し、卑劣な政敵の住んでいる方へ。賽は投げられた”(ポンペイウスらを討つため、ローマ国境のルビコン河を渡るときの言葉)や“来た、見た、勝った”(ポントス王ファルナケスを破ったとき、元老院に宛てた戦勝報告)などがある。このようにカエサルの言葉は、簡潔にして明快であり、文筆家としての評価も高い。著書には“ガリア戦記”などがある。 
 なお、“ジュリアス・シーザー”というのは英語読みでユリウス・カエサルが正しい。

 ワイアット・アープ  Wyatt Berry Stapp Earp 米 1848〜1929
 西部開拓時代の伝説的なガンマン。映画「荒野の決斗」「OK牧場の決斗」はアープを題材にしたもの。カンザス州ドッジシティなどの保安官として活躍した。
 ただし、アープが西部劇で語られるような正義の味方であったかについては疑問がある。後に彼は、弟を殺した犯人をことごとく殺したため、逆にお尋ね者になっているし、酒場や賭博場の経営もやっていた。
 しかし、晩年はカリフォルニアで恵まれた人生を終えている。