死ぬときは畳の上で…


 

 江戸っ子気質で思い出しましたが、「日本人なら死ぬときは畳の上で。なぜなら畳は日本人の心だから」と思っている人は年配の方には多いんじゃないでしょうか。
 でもこれも別に江戸っ子とか日本人の心とかそういうのは無関係の話です。もっと言ってしまえば、現代の地球人には無関係の話です。

 戦国時代から江戸時代にかけて各地の刑罰は厳罰主義を極め、現代では軽微な罪でも簡単に死刑とされていました。
 たとえば「今川仮名目録」「甲州法度之次第」などに見られるいわゆる「喧嘩両成敗」は有名ですが、「長宗我部元親百箇条」では窃盗について、金額の多寡は問題とせず有罪であれば即打ち首とされています。博打についても「結城氏新法度」では現場を見つけたらその場で全員斬り捨ててよいとされていました。また、刑の執行方法も戦国期は凄惨を極め、火あぶり・串刺し・釜茹では言うに及ばず、牛裂や鋸挽なども平然と行われていました。

 なお、余談ですが、串刺しというのは、磔にされて槍で突き殺すという処刑法ですが、そう簡単に死ねるわけではなく、処刑人はわざと急所を避けて突くため、臓物が体からぷるぷるとこぼれ落ちても絶命できず、天をも突くような悲鳴を上げながら最低でも数分間地獄の苦しみを味わわせるという凄惨なものでした。メトセラは一度だけ磔刑の写真を見たことがあります(明治の初期までは実際に行われていた)が、それはそれは凄惨なものでした。
 また、鋸挽というのも、鉄の鋸ですっぱりと首を切り落とすというものではなく、首だけ残して地中に埋め、切れ味の悪い竹の鋸でゆっくりと時間をかけて殺すというもので、記録では家康の近臣で大賀弥四郎が謀反の罪で鋸挽になり絶命まで実に七日間を要したという壮絶なものでした。
 一方、釜茹でで有名なエピソードとしては、なんといっても石川五右衛門ですが、もうひとつ、家康の家臣である本田作左衛門重次の話があります。あるとき、家康が甲州(旧武田領で今の山梨県のあたり)にあった釜茹で用の釜を家臣に命じて居城に運ばせようとしたところ、たまたま通りかかった重次がこれを散々に打ち壊してしまいました。怒った家康重次を呼び出したところ、重次は平然としてこう答えたそうです。「天下を望む身で人を煮殺すとは何事か。領地から煮殺さねばならぬような大罪人を出すようではとても天下は望めぬと知れ」この言葉に家康は逆にその非を詫びたそうです。

 このような厳罰主義が採られたのは、乱世においては領地の治安維持が絶対条件であった点が挙げられます。また、平和な時代と違って、ちんたら裁判をやっている暇がない、というのも理由に挙げられます。裁判をやって情状酌量とかそんな悠長なことをいっている場合ではなかったのです。そしてなんといっても見せしめの意味合いが大きく、「面倒を起こすとこうなるぞ」と民衆を脅しておいて、出兵時の後顧の憂いを消しておきたかったのです。

 また、江戸時代に入っても、「生類憐みの令」によって虫一匹殺しても獄門刑となってしまうなど、いつどんな罪で捕らえられるか分かりませんでした。しかも、いわゆる「斬捨て御免」が認められるなど、戦国〜江戸時代の人々の多くは獄中死か憤死をすることになり、自宅で平安な死を迎えられる人はわずかでした。そこで「死ぬときはせめてうちの畳の上で(平穏に)死にたい」となったのです。