戦国時代、最強を謳われた甲斐の武田家は、清和源氏の血をひく名門です。平安の末期から甲斐に土着してその力を維持してきました。戦国の世になり、名将武田信玄が当主となったときに、その勢力は最高潮に達し、天下人に最も近い大名となりました。
しかし、1573年信玄病没により状況は一変します。信玄の四男諏訪四郎勝頼が武田家を継ぐと、たちまち勢力は減退し、1575年の長篠の戦いで信長の三段構え鉄砲隊の前に惨敗し、名門武田家は崩壊してしまうのです。
教科書レベルの知識では、武田家に対する知識はこんなところではないかと思います。しかし、この話には誤解が混じっています。
確かに、勝頼は名門武田家を滅亡させてしまったため愚将の烙印を押され、今でも地元甲府における勝頼の評価は芳しくありません。
しかし、勝頼は決して弱い武将ではありませんでした。信長が上杉謙信にあてた手紙にも、「勝頼は若輩ながら戦のかけひきが上手く、油断はできません」と書いています。その強さを証明するのが、高天神城攻略です。この城は、甲斐の虎信玄の武威をもってしても攻略不可能であった天然の要害です。勝頼はわずか6日でその高天神城を見事攻略し、その才を証明して見せました。そして後の天下人家康が、高天神城を勝頼から奪回するのに榊原康政・本多忠勝ら四天王まで引っ張り出して、なお正味六年の大持久戦を要しています。
また、戦国期には大変珍しい事ですが、勝頼は民政にも厚い武将でした。あるとき、武田家とも血縁の深い桃井将監という武将を農民が訴える訴訟があり、その桃井は権力を傘に訴訟を妨害して憚りませんでした。当時、勝頼は休養のため湯治にきていましたが、農民の直訴を受けると即座に湯から上がり、裁判を開始して調査をもとに桃井全面敗訴の判決を下しています。
有力者全面敗訴を宣言する徳もさることながら、療養中の直訴を即座に受けるあたり、えひめ丸沈没事件の報告を受けたあとでもゴルフを継続して憚らなかった某首相とはずいぶん違います。
勝頼が長篠における無謀な突撃戦を下知した背後には、日頃勝頼を侮り今回も退却を薦める武功派の老臣と、功をあせり突撃を主張する新参の親勝頼派の確執があったといわれます。もっとも、何を言おうとこの長篠において名門の名を地に落とした勝頼の不明はどうにもなりません。
しかし、武田家は長篠で滅亡したわけではありません。凋落の途を辿りつつもしばらくは存続し、1582年に天目山において織田軍の猛攻と味方の裏切りによってついに勝頼と嫡子信勝自刃によってついに武田家は滅びたのです。
勝頼辞世
朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴れて行方の 西の山の端
・・・と、ここまでなら並みの歴史好きならば常識です。しかし、実は武田の血筋は天目山でも絶えていません。勝頼には信勝の他にもまだ元服していない遺児がいました。名を千徳丸といい、勝頼と北条氏政の娘との間の子でした。彼は秋山伯耆守長慶の手によって落ちのび、関東を転々とし最終的には岩槻城を頼って現在の埼玉県越谷市に潜居し武田家再興の夢をつなぎます。しかし、天正18年千徳丸は15歳で早世し、ここに戦国大名武田家は完全に滅亡します。奇しくもこの年は岩槻城とその本城である小田原城が陥落し、後北条氏が滅亡した年でもありました。
さらに武田家自体はそれでも滅亡していません
そもそも勝頼は信玄の四男であり、信玄長男の武田義信と三男の信之は既に亡くなっていましたが、次男の海野信親は盲目ゆえに出家しており、天目山の難を逃れています。
しかし信勝自刃を知り、子信道を逃すと自刃して果てています。
そして信道の子信正、その子信興が甲斐五百石を与えられ、現在にもその血脈を残しています。
五輪塔 | 五輪塔近影 御湯殿山の文字が見える |