村正というと、RPGなどでは最強クラスの剣として登場する剣である。事実、村正は戦国期頃に活躍した名刀工でその評価も高い。ただし、村正というのは一振りの剣を指すのではなく、3代にわたる刀工村正によって作られた剣や槍など、一連の作品の総称でであることにまず注意していただきたい。
さてこの村正、徳川家に祟る魔剣としても有名だ。まず、家康の祖父松平清康が1535年に今でいう名古屋市守山区に出陣した折、家臣の安部弥七郎が突如乱心し、脇差で広忠に斬りかかった。この事件を俗に「守山崩れ」という。このとき使われた脇差が村正。
次が家康の父松平広忠。1545年、織田家と戦いの折、信康の刺客岩松八弥に襲われた。このときの剣も村正。
次が家康の嫡子信康。1578年、信長に命じられて切腹を言い渡されたとき(築山殿事件)、介錯をつとめた天方通経の剣がこれまた村正。
最後が家康本人。関が原の戦いの後、首実検をしていると、織田有楽斎の息子の槍でうっかり指を切ってしまった。この槍がまた村正だった。
徳川嫡流をこれだけ傷つけられるとただことではない、ということで、家康は村正廃棄令を出した。
以上が史実として認められる村正の呪いの全容である。ここから魔剣村正伝説は独り歩きを始める。徳川に限らず、所持するものに不幸を招く魔剣として講談などで語られるようになったのである。
この魔剣がふたたび歴史の表舞台にたつ時期が来る。幕末である。村正は徳川にたたるから倒幕にうってつけの剣とされたのである。ところが、村正は家康の廃棄令によってすでにことごとく処分され、絶対数が少ない。そこで倒幕の志士の中には無銘の剣に自分で村正と彫るという笑ってしまう話もあったらしい。
しかし、史実として認められている「呪い」は実はすべて「偶然」でカタがつく。そもそも村正は伊勢で活躍する刀工であったから、徳川の本拠である岡崎から地理的に近い。また、見た目は地味でも村正の斬れ味は本物であったから、実用を重視する戦国武士に愛好者が多いのは当然であるし、まして質実剛健で知られる三河武士なら持っていて当然の逸物である。さらに村正は数多くの作品を世に出しているから当時絶対数も多かった。また、戦国期は謀反・下克上は当然のことで、謀反をしようという者が、できるだけ良い剣を使おうとするのは当然至極である。確率は決して高くないが、これらはただの偶然ですむのである。
だいたい、徳川四天王の一人に数えられ、家康を天下人にのし上げた最大功労者の一人である本多忠勝の「蜻蛉切り」と呼ばれる名槍は村正一派の「正重」の手によるものである。村正が徳川に祟るなどとはとんだお門違いだ。
だからといって、村正廃棄令を出した家康を神経過敏と非難することはできない。戦国期は誰でもそうであったが、常に命の危険にさらされており、寝るときも片目は開けておかねばならない、そういう時代であった。これが戦ともなれば、いつ死んでもおかしくない。桶狭間の例が示すように、例え圧倒的優位にあっても決して安心できないのである。
そのため、戦国大名たちはみな必要以上に慎重であり、また縁起を担いだ。例えば出陣の日取りは占いで決めたり、いざ出陣となれば縁起担ぎの儀式などを行った。武具の置き方や日頃の生活も縁起を担ぐものが多い。この縁起の担ぎ方は、ガチンコで命がかかっているだけに、現代ギャンブラーの縁起の担ぎ方など比べ物にならない。
そんな中でも家康は特に慎重な大名であり、そうであったからこそ時節を見極めることに卓越し、最後まで生き残ることができたのだ。