【廃墟マニヤ File058】

K岡鉱山O津山(岐阜県)

(その1)

O津寮防火壁

K岡鉱山は、2002年小柴昌俊のノーベル物理学賞受賞によって「スーパーカミオカンデ」があるところとして一般に認知されるようになりましたが、少し前まではイタイイタイ病という負のイメージで語られる場所でもありました。

この日本でも有数の規模を持つ神O鉱山ですが、発見はなんと西暦にして700年代の養老年間といわれ、天正末期から江戸時代にかけて政府(幕府ですね)直轄の鉱山として開発が進められました。

明治7年、経営が三井組に移って近代化が進められ、昭和25年(1950年)に三井鉱山金属部門が分離して独立、2年後には社名が三井金属鉱業株式会社になり、さらに昭和61年(1986年)にK岡鉱業所が独立して現在はK岡鉱業株式会社の所有となっています。

金、銀、銅、鉛、亜鉛を産出し、近年は亜鉛、鉛を中心とした事業展開を行っていました。次々に撤退していく国内の金属鉱山のなかでがんばっていましたが、平成13年(2001年)6月をもって亜鉛、鉛鉱石の採掘を中止。現在は主に海外から輸入した亜鉛、鉛の精錬、石灰石の採掘、鉱害防止、地下空間利用事業などを行っている模様です。

このK岡鉱山はT洞(T=栃)・M山(M=円)・M住(M=茂)という三つの鉱床群を持っており、選鉱施設や廃線跡、建物だけが残る無人の町、坑内探検などなど、見どころが非常に多いため、いくつかのブロックにわけて紹介することにしました。

今回紹介するのは、M住坑の上部にかつて存在した『O津山』の集落の跡と、そこからO津山通洞坑口までをつなぐ鉱山軌道跡です。

M住坑の上部、およそ標高1000メートルの位置には「大T山通洞」があり、かつてそこから運び出された鉱石は索道を使ってM住まで降ろされていました。O津山の鉱山住宅群は、O津山通洞坑口から少し離れたこの索道の起点周辺に広がっていました。

O津山の歴史は詳しく調べきれなかったのですが、大正時代には既に鉱山関係の施設などが存在していたようで、最盛期には1400人の人々が暮らし、小中学校や映画を上映できる大広間をもつ建物もあったようです。

しかし昭和50年(1975年)、O津山通洞の休止に伴って全戸が移転。完全に無人となった後で火災があり、ほとんどの建物が焼失してしまいました。その後訪れる人もほとんどなくなり、今では自然に還ろうとしています。


満足度:★★★★★

 


NEXT(K岡鉱山O津山その2)

12345678910

111213

この頁最初へ

廃墟マニヤMENUへ